昨日の昼まで、姉の一家とともに箱根にいました。夏は終りに近くても、木々の緑は、まだ全盛期のままです。最近の東京では聞かれなくなったひぐらしの声が、遠くから聞こえていました。姉家族の帰り支度を待つ間に、ベランダの椅子で休んでいた私は、知らぬ間に居眠りをしていたようです。
 一瞬、私は自分がどこにいるのか、わからなくなりました。ただ、懐かしいような安心感がありました。私は夏の箱根にいる。まだ高校生なのかもしれません。緑の中にいて、風に吹かれているのが好きでした。近くには父親がいて、剪定した枝で焚火をしていたに違いありません。もちろん暖をとるためではありません、ゴミを減らして灰を肥料にするためです。山育ちの父は、箱根に山小屋を購入してからも、毎日のように山仕事をしていました。それは楽しみのためというよりも、自分に課した仕事のように見えました。安楽椅子に深く腰を下ろして休んでいるような父を、見たことがありません。「俺は山猿だ」というのが、死ぬまで変わらなかった口ぐせでした。
 この父のおかげで、私も箱根の山を、自分の第二の故郷のように感じるようになりました。ただしそこには何の生産性もなくて、ただ気の向くままに山歩きするのが好きになった、というだけのことなのですが。
 その箱根から帰ったきょう、頭の中が、少しすっきりしているような気がします。あるべきものが、あるべきように見える、ということでしょうか。個々の人間は、所詮は本人の大きさに応じてものを考えるしかないのでしょう。それらすべてを統括した外側に、緑の風が吹いているのです。余計な心配は、要らないのでした。