志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

社会時評

新聞の見出しは豪雨被害だが

 新聞には豪雨被害の記事が大見出しで出ているのだが、台風の過ぎた空からは薄日がさしている。自民党の二階幹事長が、「まずまずに収まった」と発言したのは、実感ではあったのだろうが、現実に死者が出ているのだから、政治家としては、まずかったのだろう。折から開かれいた国会では、安倍首相がわざわざ釈明する事態になったようだ。ふだんの直感による言動が、すぐ話題になってしまうのだから、政治家とは不自由な商売ではある。
 ただし家の中ではそんなことは話題にもならず、昨夜は次女が熱心に見ているバレーボールの中継があったから、私もつきあって夜おそくまで見ていた。サッカーなどに比べて、あまり変化のない単調な競技のように見えるが、解説を聞いていれば試合の要点はわかってくる。それなりに楽しみながら見ていられた。
 このところカゼ気味で、医者からもらった薬を飲み尽くしても、全快したという爽快感がない。病人ではないのだが、健康体とも言い切れないような、あいまいな状況が続いている。喉のガラガラが治らないから、昔ながらの「浅田飴」の錠剤を舐めたりしているところだ。
 家の仕事は長女が、食事の世話は次女が引き受けてくれているから、日常の暮らしには何の不安もない。妻が築いてくれた安全保障の仕組みが、その没後にも回っていてくれるのを実感している。 
 ひまな時間に、自分のブログの過去記事などを読んでいた。東北の大震災後を取材して歩いたころの記事が懐かしい。いま大学の4年で、来年の就職も内定している孫と、秋になったら一泊で三陸鉄道に乗りにいこうという話になっていた。今度の雨で、一部に損傷があったようだがどうなるか。多少のトラブルはあっても、現地へ行けば何とかはなるものだ。被災地の今がどうなっているか、ぜひ行ってみたいと思っている。
 

台風を待つ夜が更けてゆく

 大型の台風が近づいているようで、雨音がだんだん大きくなってきた。私のビルでも、地下室の物置の奥から浸水が始まった。ふだんあまり使わない場所なのだが、捨てるにはちょっと惜しい古い家具などが押し込んである。その床が濡れてきたので、収納物を全部取り出して状況を調べる騒ぎになった。婿殿まで出動して、水が出てくる隅の割れ目を確認することができた。
 水が浸みてくる間は手をつけられないから、出てきた水を雑巾に吸わせて、バケツで捨てる対症療法になる。本格的な対策は、雨が止んでコンクリートが乾いてから、プロのリフォーム屋さんと相談して決めることになるだろう。
 地上3階、地下1階の「志村ビル」を建ててから、もう34年たっている。長女に言わせると、「地下室は、あまり好きじゃない」のだそうだ。建ててから間もない時期に、排水ポンプの故障で地下水位が上がり、水が地下室の床板すれすれにまで上がってきたことがあった。それに最初に気づいたのが、当時まだ学生だった長女だったから、そのときの衝撃が、トラウマになっているのではないかと、私は思っている。なにしろよく気がついて、人に先んじて心配りする長女なのだ。
 ただし私としては、事務室を地下にしたのは成功だったと思っている。防音が完全に出来て、録音の仕事が安心してできるのが良かった。夏は涼しく、冬は暖かいという長所もある。ドライエリアを作って外光を入れているから、地下にいる圧迫感もない。かなり気に入っているのだが、長女はいつか、「私が建てるときには、地下室は作らないよ」と言っていた。
 彼女の言うことにも一理はある。地下室の維持には、地下水の管理が欠かせない。自動ポンプで排水するとともに、故障に備えて水位の警報装置もつけてある。長期の停電には、バケツで汲み上げて排水するしかあるまい。非常用の、ガソリンエンジンのポンプも用意してある。でもそれらは、考えようによっては、すべて「不自然な」対策なのだ。自然のままで安心なら、それが一番いいに決まっている。
 もちろん、私の時代のあとには、彼女の時代がくる。というよりも、すでに「私の時代」は終っている。私は立派すぎる家を建ててしまったのかもしれない。彼女が早く自分で好きだと思える家を建てられるように、私は協力すべきだろう。その新しい家を、私は生きているうちに見られたらいいと思う。
 

持続不可能な末路ではないのか

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 きょうの朝日新聞によると、福島第一原発の汚染水は、あと3年で場内にタンク増設の余地がなくなるそうだ。破たんした原子炉の冷却水は、流入する地下水も含めると、毎日150トン以上のペースで増えている。大半の放射性物質は除去できるが、トリチウムは残るので、タンクに貯めて置くしかないのだそうだ。そのタンクの増設スペースが、3年後の夏には満杯になってしまうという。国の方針では、タンクの水もいずれは薄めて海に流すつもりだったが、漁業関係者には風評被害への懸念が強くて、未だに実行できずにいる。
 一口に「風評被害」と言うのだが、これが本当の「風評」だけかどうかは、誰にもわからない。トリチウムは無害だと言われても、何世代にもわたって摂取した例は今までに存在しないのだし、後になってから「やっぱり良くなかった」とわかっても、もう手遅れになってしまう。わけのわからないものは体に入れたくないという気持を、「風評」で片づけていいものだろうか。
 現代から未来に向けての人類の課題は、「持続可能なサイクルの中に生きる」ことだと思う。きょうの新聞の第3面には、「原発の共同事業化」という見出しもあった。東電・中部電・日立・東芝の4者が、共同で原発事業に乗り出すというのだ。どれを見ても、日本を代表するような大企業だが、こんな優良企業でも、単独ではリスクが大きすぎると考えているとしたら、それは原発事業の難しさを、逆に告白しているのではないかと思った。そしてまた、「たかが発電の仕事に、なぜ原子力を持ち込む必要があるのか」という、素朴な疑問に立ち返らざるをえないのだ。
 太陽光でも風力でも、電気を作ることはできる。わが家の屋上も候補地になったぐらいで、つい先日も、太陽光パネルの設置を勧誘されたところだ。発電効率は、今後もますます改善するということだった。どこからどう見ても、原子力が発電の主役になることは、将来に向けて考えられない。日本は事故という形で、原発の弱点を知ることができた。「小難」のおかげで「大難」を免れたと言ってもいいのかも知れない。

脅迫犯人の逮捕は朗報だが

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 今回の「表現の不自由展」について、脅迫ファクスを送った男が逮捕されたとのことだ。愛知県警の機敏な対応で一安心だが、テロ予告も含めて、抗議の電話やファクスは他にも相次いだということだ。犯罪にならない範囲でのいやがらせも多かったようだ。警察が乗り出すためには、「威力業務妨害」といった犯罪要件を満たす必要がある。今回はファクスという、足のつきやすい道具を使ったことで逮捕できたわけだが、一罰百戒的な「見せしめ」としての効果を期待している面もありそうだ。
 展覧会というのは、一つの「意見表明の場」と見ることができる。意見にはいろいろあるから、自分の気には入らなくても、それは一つの意見だ。見て不愉快を感じるとしても、すべての人間の感性が同じではない。いろんな意見が交錯するとしても、気に入らなければ見なければいいので、その意見が大事だと思っている人の邪魔をしてはいけない。それが言論・表現の自由というものだ。
 考えてみると、この「表現の不自由」問題は、現代日本における時代思潮の変わり目を示す、かなり大事な問題のような気がする。だから私も興味があったので、結論を早く言えば、「たてまえとしての自由・平和・平等」が「飽きられてきた」ような気がするのだ。自分でものを考える人たちが、くたびれて来たのかもしれない。「自分が為すべきことを、誰か他人に決めてもらいたがっている」人が多くなっているのではないか。選挙での投票率の低下も、その現象の一つの指標なのかもしれない。
 そう思うと、とても不気味なのだが、「命令されて、一億一心で突撃することに喜びを感じてしまう日本人」のイメージが、亡霊のように立ち上がってくる。折から原爆忌があり、終戦記念日が来るのだが、それが「あやまちを繰り返さない」ための誓いだった筈だが、みんなが一斉に同じことをする「一億一心」に見えてしまう瞬間があるのだ。
 そんなのはたぶん私の妄想だと思うが、この暑さの中でも、熱に浮かされない冷静な心を取り戻したいと思っている。きょうは立秋だそうだが、秋の気配はまだ感じられない。昭和20年の8月も暑かった。天皇の放送があって、「戦争は天災ではなくて、誰かが止めると言えば終る」ものであることを知って驚いた。
 いろいろなことを見てきた86年間である。一億には一億の心があっていい。それぞれの人生を抱えて、味わい深く生きて行こう。ただし私については、戦争につながるものは、もう何も要らない。あれはもう充分だ。

   

町かどのオアシス

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 中野駅の北に当る、早稲田通りの「新井町」交差点から西方向に少し行ったところの北側に、このベンチは置いてある。洋品店の前の歩道に常時あるのだが、公的な施設ではなくて、店が出しておいたものらしい。私の知る限り、付近の歩道に腰かけられる椅子の類を置いてあるのは、これしかない。いつから置かれているのかも知らないのだが、私たち夫婦が買い物帰りに一休みするために利用しはじめたのは、二年ほど前からだったように思う。買い物の袋を横に置いて、二人でとりとめのない会話をしながら、目の前を通り過ぎる人たちを眺めていた。ベンチの全体が、やや後ろへ傾くように置かれているので、座ると背中にも重さがかかって、深くゆったり座ったような、立ち上がるのがおっくうになるような感覚があるのだった。
 このベンチ、自分が一人になってからは、一度も座ったことがない。一人だけでは、なんとなく侘しくてサマにならないような気がするのだ。
 このベンチと、ほかに一休みによく入ったのは、サーティーワンアイスクリームの店だった。この店には二階に椅子とテーブルの席があって、アイスを食べながら休憩することができる。妻が好きだった「チョコミント」のスモールを一つだけ買って、二人で階段を上がるのを、若い女店員さんは笑顔で見送ってくれた。
 今年も夏がやや近づいた気候になって、数日前に久しぶりにサーティーワンアイスに入り、同じ注文をして二階へ上がった。窓際の席からは、下の歩道を見下ろすことができる。アイスを一人だけで全部食べるのは、時間がかかる。あとに残るコーンの下の端まで食べるのは、いつも自分の番だったことを思い出した。
 こんな小さな幸せを楽しむことができたのは、世の中がずっと平和だったからだ。空襲の火の中を逃げ回った記憶を持っている妻だった。そんな話のできる相手が、もういなくなった。
 昨夜は、私の誕生日祝いということで、「くら寿司」という、面白い回転寿司の店に行った。その前には、長女の案内でゴルフ練習場に行っていた。私はいま申し分のない老年生活を送っている。誰に感謝すべきなのだろう。

あっと驚いた後日談

 この場所に本日(22日)行ってみたら、ベンチはなんと天地を逆に、脚を上にして置かれており、そこに貼り紙をしてあった。そして店はシャッターを固く閉め切っていた。その話をしたら、何事にも明るく前向きな長女は、「あんまり儲かっていないみたいだったから、閉店じゃないの」と、事も無げに言って、「ちょうどブログに間に合って、良かったじゃないの」と付け加えた。そうなのだ、彼女はいつもそんなふうに前向きで、私たちを助けてくれる人だったのだ。
 この店も、やがて何かの新しい店に生まれ変わるのかもしれない。こうして中野の町も、少しずつ更新しながら生きて行く。生物学ではこれを「動的平衡」と言う。私の家族も、それと同じように続いて行くのだろう。これは地球上の全人類がやっていることと同じなのだ。しっかりした娘たちがいてくれたおかげで、私の人生も円満に終結が出来そうである。 

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認知症と向き合う

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 認知症は、これからだんだん大きくなってくる社会的な問題だろう。私の妻は、死去のほぼ2年前から、認知症との認定を受けて治療を始めていた。「お薬手帖」によると、2016年の夏から「抗認知症」の手当てを始めている。最初は「リバスタッチ」という経皮式の薬を使っていたのだが、皮膚がかぶれるということで、間もなく「レミニール」という内服薬に変えてもらった。ただし、認知症には基本的に治療薬はなくて、「進行を遅らせる」効果を期待する薬だと説明された。それよりもむしろ、妻がこの担当医を頼りにしたのは、浜松出身で郷里に近い静岡県人だったことと、精神安定のためのエチゾラム(薬品名は「デパス)を、必要なだけ処方してくれていたためだった。
 この医師に、頭部のCTを撮って貰ったこともあった。私もつきあって、脳の変化の有無を調べたのだった。二人とも、それなりに経年による脳の縮小は起きていたのだが、私の方が程度は軽かった。年を取れば脳だって、他の筋肉と同じように劣化するのは当り前なのだ。認知能力もそれなりに低下してくるのは、止むをえない。身体能力の一部分として、脳の力も低下すると知るべきなのだろう。
 妻に正式な認知症の判定が出て、担当のケアマネージャーが決まり、介護保険を使っての対策が講じられた。それが、週一回の「リハビリ施設への半日通所」だった。そして私の自費参加による同伴が、ちょうど一年間続いたのだった。その最後は12月10日の月曜日で、その二日後の12月12日が妻の命日となった。
 妻の死因は急性心不全だから、認知症とは無関係だった。時期も年末だったから、何となく年末の自然退会のようになり、施設のお仲間や職員さんへの別れのあいさつをする間もなしに終った。最後の事務処理確認の、本部への郵便に、私は初めて一年間お世話になったことへの謝辞を書いたのだった。
 認知症状は、もちろん私にも出ている。妻がどうなって行ったかを、私は目の前で見届けた。この経験は、たぶん私の今後に役立つことだろう。政府は認知症対策に数値目標を持ち出したらしいが、家庭の中ではそれは個人の問題としてやってくる。わが家の娘たちも、母親の変化を見届けた。次に私の番になったら、今までの経験が少しは役に立つに違いない。
 ほかのすべての病気と同じように、認知症にも診断と治療の処方と、そして予防のための健康管理がある。認知症の進行を少しでも遅らせるために、精神の活性を保つ努力は、たぶん効果があるだろう。それでもどうしても発症を免れない事態になったら、そのときは、妻のように「可愛く」なって行けばいいだけのことである。


四方山の 話咲かせる 楽隠居

(熊さん)天皇さんの代替わりも、無事に済みましたね。
(ご隠居)ああ、そうだね。新天皇の評判もいいようで、万事めでたく納まったようだ。2016年に退位への希望をにじませた「お言葉」を出したのが、ようやく実ったことになるね。いまの世界にも伝統のある王室はいくつか残ってるが、こういうスマートな生前退位というのは、あまり例がないんじゃないかな。参考にするところが出てくるかもしれないと思うよ。
(熊)名誉職だって、というか名誉職だからこそ、かっこうの良さが必要ですよね。言い出すのは勇気が要ったでしょうけど。
(隠)私はどうも、美智子皇后の知恵が入っているような気がするよ。結婚するときから、「私を支えてほしい」という気持があったことは確かだし、仲のよい夫婦として60年間もいっしょに過ごして来たんだ。近くで見ていれば、「あなた、そろそろ次をお考えになったら」ぐらいの助言はできたろうさ。帝王というのは、本来は実力があって支配者になるんだが、日本の天皇は、ちょっと成り立ちが違うんだ。神話伝説に起源を持つ権威という形で、時の実力者の上に「ふんわりと乗っかる」存在だったんだね。つまり「国の象徴」だから、今の憲法と近いところにあったんだよ。だからこそ政争に巻き込まれずに今まで続いて来られたんだな。
(熊)なーるほどね。だから昨日の儀式も、なんとなく「ふんわり」やってたんだ。「われこそは天皇であるぞ」なんて、威張ってないもんね。
(隠)そうだよ。だがね、戦時中の天皇を知ってるかい。「大元帥」として、軍装して白馬に乗っていたんだよ。あんな危ないことは、二度とさせちゃいけない。日本の天皇制は、平和の象徴であってこそ、これからも長く続くことができるんだ。上皇のご夫婦は、「いろんなことがあったね」と、楽しい語らいで老後を過ごされることだろう。

円滑だった天皇家の相続

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 連休中の曇天で、ほかに予定もないので、天皇の退位と新天皇の即位にいたる次第を、おもにテレビで眺めていた。3年前の、生前退位を希望する「お言葉」の発表を受けてから、特例法の制定を始めとする綿密な準備が進められて、憲法の制約をもクリアした「国事行為」としての退位と即位が、とどこおりなく行われたようだ。
 5月1日の午前零時が法的な退・即位の時刻となり、年号の変更が明確に行われたのも、良かったと思う。渋谷の町では、真夜中に秒読みのコールまで起こったというのだから、「行く時代、来る時代」を種にした年越しのような雰囲気だったらしい。
 それともう一つ、私たちはふつう「天皇陛下」という言葉を、固有名詞として使っているのに気がついた。「明仁」という名を知っていても、その名で呼ぶことは決してない。だから、今までと違う顔が「天皇陛下」と呼ばれると、まだ一種の違和感があるようなのだ。だがこれは時間の問題で、なじんで行くのだろう。
 高校時代に、歴史の増井経夫先生から、日本の天皇制が長く続いている理由を、「政治的な実権力を持たない名誉職だったから政争と無縁でいられた」という説明をされて納得したことを思い出す。国民の統合の象徴であるという新憲法の規定は、その本質に適合していると言えるだろう。
 民主主義の日本の中で、皇族だけは「国民としての権利・義務」を持っていない。お気の毒とまでは思わないが、ご苦労さまではある。かつて「殿下」として近くにおられた上皇「陛下」の老後が、安らかならんことを念じよう。

きょうは昭和の日

 きょうは10連休の3日目だが、何の日だから休みなのかを意識している人は、あまり多くはないのではなかろうか。正解は「昭和の日」であって、昭和天皇の誕生日、つまり昭和時代の天長節(昭和23年まで)であったのだ。本来なら、天皇の代替わりとともに、天皇誕生日も移動する(そうでないと祭日が限りなく増えてしまう)筈なのだが、昭和の日は、昭和という劇的な時代を記憶するためと、初夏の「ゴールデンウイーク」を保存する意図を含めて制定されたと思われる。
 ちなみに、今年は天皇の交代により、現天皇の誕生日である12月23日は祝日でなくなり、新天皇の誕生日は2月23日でもう過ぎてしまっているので、一年を通して祝日としての天皇誕生日が存在しないという、珍しい年になるとのことだ。
 それは余談だが、私の国民学校時代の天長節は、なかなかいい日だった。祝日で授業はないが朝は学校へ行って、講堂で校長先生の話を聞き、「お供物」と呼ばれていた紅白の打ち菓子を貰って家に帰るのだった。物資が乏しくなってからも続いていたから、甘いお菓子が貰えるのは、確かに「祝日」に違いなかった。
 天長節の歌は、今でもよく覚えている。

きょうのよき日は 大君の
生れ給いし よき日なり
きょうのよき日は み光の
さし出たまいし よき日なり

光あまねき 君が代を
祝えもろびと もろともに
恵みあまねき 君が代を 
祝えもろびと もろともに

 法律によれば、昭和の日とは、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」日だということになっている。ただし新聞でもテレビでも、そんなことをしている人がいる様子はない。
 私の意識の中からも、昭和は遠くなっている。私は昭和8年に生まれたと思ってきたが、今は1933年に生まれたと思うことにしている。その方が死んだときに、何年生きたかを計るにも都合がよい。
 

 

10連休に入ったが

(熊さん)ご隠居、ついに10連休に突入しちまいましたよ。
(ご隠居)なに?10連休がどうした。こっちはとっくに現役をやめてるから、100連休だろうが1000連休だろうが、なんも驚くこたぁないや。せっかくの連休を邪魔しちゃ悪いから、どっこも行かないで家にいるよ。出かけるとしたら、今しか休めない孫に合わせて、車を走らせて田舎の親戚へ行ってみるぐらいのところかな。
(熊)そうですか、それもご隠居らしくていいかもしれないけど、この連休の間には、いろんな新しいことがあるそうじゃないですか。まず、「平成最後の」っていうのが決まり文句みたいになって、平成はどんな時代だったかなんてのを、きのうのテレビで盛んにやってましたよ。戦争がなくて、平和な時代だからよかったんだって。逆にいうと、その前の昭和は、戦争に明け暮れた大変な時代だったんですよね。 
(隠)ああ、それはそうだが、昭和も20年からあとは、平和憲法の下で40年以上も平和に過ごして、世界の奇跡と言われるほどの経済成長をなしとげたんだよ。平和国家としての基礎を作ったとも言えるんじゃないかな。
(熊)そして、この4月いっぱいで今の天皇さんが退位して、今の皇太子さんが天皇になる。これも珍しいことみたいですね。
(隠)うん、天皇の生前退位というんだが、老齢で公務が難しくなるという「お言葉」があったんで、特例の法律を作って、とりあえず今回限りで退位を認めましょう、ということになったんだ。日本の近代史で200年ぶりのことだそうだよ。今の退位した天皇は、「上皇」と呼ばれるようになるらしい。歴史上の人物みたいだな。
(熊)ここのご隠居も現役を引退してるから、「社長上皇」みたいなもんかね。
(隠)私ははっきり権限の委譲を済ませてるから、すっきりしてるさ。いずれにしても、御年85歳に現役続行は荷が重いさね。天皇の交代も順当なところじゃないのかな。あまり大騒ぎにしないで見送ればいいと思うよ。2019年には日本の天皇の交代もありましたと、歴史にはそれだけ書いておけばいいさ。

 

SNS(ネット)は保守化する?

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 きょうの朝日新聞に、目立たないがちょっと気になる記事が出ていた。情報を得るメディアを、テレビや新聞でなく、もっぱらインターネットのニュースサイトやSNS(ツイッターやフェイスブックなどのソーシャル・ネットワーキング・サービス)に頼っている人たち(ネット限定層)には、特徴的な傾向があって、それは内閣や自民党への支持率の高さ、憲法改定への意欲など、いわゆる「保守化」であるというのだ。この「ネット限定層」は、全体の5%に過ぎないのだが、何となしにSNSを多用しているのは「進んだ人たち」だろういう思い込みとは正反対なので、「おや」と思って考えてみた。
 私の場合で言えば、ブログは毎日のように書いているし、SNSの使い手と言われてもいいだろうが、新聞はよく読む方だと思うし、テレビの定時ニュースも欠かさずに見ている。だから決して「ネット限定層」でないことは確かだが、ネット情報を、絶えず自分の立場を補強するために利用していることは確かだと思う。だからこそ、SNSを「進歩的な思潮を普及するツール」のように思っていたのだろう。ところが実際には、SNSは思想内容の如何にかかわらず、単に伝えたいことを数量的に拡散する「現代の拡声器」に過ぎなかったのだろう。
 すると上に掲げた新聞切り抜きの後段は、一般的な世論調査と同じナマの世論がそのまま出たというだけのことではないだろうか。では前半の朝日新聞の世論調査とは何だろう。新聞社の世論調査は、調査主体の新聞社によって、結果に偏りの出ることが知られている。朝日新聞と読売新聞の世論調査には、微妙な違いが出てくるのだ。朝日新聞とNHKは、ウヨクの人たちからはサヨクのメディアだと思われているらしい。私はそうは思わないが、私はウヨクからサヨクと言われることはある。
 ウヨクに見えるかサヨクに見えるかは、見る人の立ち位置によって決まるものだ。私はいつも、自分のいたいところにいる。自分の仲間だと思える人の近くにいる。愛する人の傍らにいる。
 

新年号の始まりと10連休

 間もなく天皇が交代して年号も更新されるということで、テレビなどでも「平成時代の総まとめ」的なものが多くなってきた。落ち着いて考えれば、これまで日本式年号を常用していた人以外には関係のない話で、今年が2019年であることには変りはないのだが、何か異様な盛り上がりになりそうな気配もある。
 平成が年号になったのは、1989年のことだった。1月7日の早朝に昭和天皇が崩じたので、その翌日の1月8日から平成元年になったのだった。だから昭和64年というのは、1月の1日から7日までの一週間しかない。そして当時は次の年号はまだ国民には知らされてはおらず、「平成」の年号が発表されたのは、その日午後のテレビ放送においてだった。
 ところが今回は天皇の生前退位という、現代史では異例の展開になっている。そして次の年号である「令和」は、早々と、この4月1日に発表されたのだった。新天皇の即位は5月1日に予定されている。そこでこの日を特例の祝日にすると、休日に挟まれた平日は休日にするという、オセロゲーム的な法則で「10連休」が出来上がってしまった。どこまでが事前に計算されていたのかは知らないが、かなり効果的な仕掛けのように思われる。
 新天皇の即位が「崩御」の喪から切り離され、晴れやかに祝われるのはよいのだが、そこだけに目を奪われていたら、見落とすものもありそうだ。スーパーで働いている次女は、「私の所は全然関係ないよ」と言っていた。今の日本は、今の世界の中でどこへ向かっているのだろう。本当は、浮かれている場合ではなさそうだ。この夏の衆参同時選挙などという怪音も聞こえてくる。安倍自民党も、何かを待っているのだ。
 

第126代までの天皇の名が決まった

この5月1日から採用される新しい年号が「令和」に決まったということだ。この決定の根拠は「元号法」にあるのだが、この法律は非常に短いもので、
第1項:元号は、政令で定める。
第2項:元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。
とだけ規定している。つまり、決定権は時の政権にあり、天皇の代替わりの場合にだけ行うとしているわけだ。
 この法律は昭和54年(1979年)に制定された。それ以前はどうしていたかというと、皇室典範の中に規定されていて、そこで決められたことは法治を超越した天皇の意思として伝えられたので問題がなかったわけだ。しかし天皇の地位が新憲法に規定された以後は、政府の決定として位置づけなければならないので、この元号法の制定に至ったという経緯がある。
 そういうわけで、明治から昭和までの3代は、国民とは無縁のところで決められた年号だった。ところがここで、年号は天皇の一代につき一つを固定する、その年号を、退位後の諡(おくりな)とするという原則ができて、明治、大正、昭和を通しての慣例となった。近代日本の天皇制は、この3代で完成形になったと言えるだろう。ただし、現職の天皇には名付けをせず、単に「天皇陛下」とのみ呼ぶのが慣例になっている。今回のように生前退位の場合は、「上皇(陛下)」と呼ぶことになりそうだ。
 これは法律に明文化されてはいないが、今後も伝統として引き継がれることになると思われる。なにしろ神話伝説の時代から数えれば、神武天皇を初代として第125代目の現天皇である。歴史の学説上に多少の問題があっても、単一の王朝が神話から現代まで継続しているのは世界にもほかに例があるまい。
 これで第124代、昭和天皇に続いて、第125代、平成天皇、第126代、令和天皇までが、ほぼ確実になった。私はたぶん見届けられないが、日本は面白い国だとは思っている。

新元号には興味ない

 今日の夕刊によると、新元号が4月1日の午前11時半に発表されるということだ。どんな元号になるか、それはどうでもいいのだが、菅官房長官の談話として日経新聞に載っていた「新元号が広く国民に受け入れられ、日本人の生活の中に深く根ざすものになるのが重要だ」という物言いが気になった。本気でそう思っているのだろうか。日本の中だけでしか通用しない年号を生活の中に根づかせたら、不便になる一方ではないのか。今の世界に、ほかにそんな国があるだろうか。
 天皇家の中で代替わりごとに年号を変えるのなら意味があるかもしれないが、世界との交流が不可欠になっている現代の日本で、国内でしか通用しない年号を一般に普及したら、害はあっても益はない。最低でも西暦との併記を採用すべきだろう。幸いにして年号表記を強制している法律はないそうだから、運用の面で西暦との併用を推進して行って、行く行くは西暦に一本化するのがいいと思う。
 平成の30年間を通して、私は書式で強制されないかぎりは平成の年号を使わずに過ごしてきた。だから新年号が何に決まろうと気にはしていない。年号はやがて、天皇の死後の呼び名としてだけ記憶されるようになるだろう。それでいいのだ。
 
 
 

年号はどうでもいいが使わない

 きょうの新聞でも、4月1日に発表されるという「新年号」を予想する話題などが記事になっていた。安倍の世を記念する「安久」なども出ていたが、特定の人物を連想する文字は使わないだろうということだった。それでもとにかく何らかの「新年号」が決められることは確実なのだろう。
 ところで年数の表記に、日本式の年号を使うのはどんな場合なのか、きちんと決めた法律は存在しないのだそうだ。それでも日本銀行が発行する硬貨には、日本の年号だけが、しかも漢数字で書いてある。そして肝心の価格は算用数字で大きく100とか10とか表示しているのだが、不思議なことに「円」の字はついていない。思うに小さな漢数字で百円とか十円とか書いてあるのが正式な表記なのだろう。
 本筋の暦の話にもどるが、天皇が代替わりするたびに年号が替って「元年」から始めるというのは、明治から始まった比較的に新しい制度なのだ。江戸時代には元禄だの宝永だの、有名な年号があるが、元禄天皇や宝永天皇がいたわけではない。江戸幕府の将軍が、縁起をかついで任意に年号を決めていた。
 だから国際化している現代では、世界で共通化している年号に、早く統一するのが便利に決まっている。みずほ銀行の通帳は、昨年の12月26日のところに「これ以降のお取引の日付は西暦で印字いたします」という表示が出て、翌日からその通りになった。出来るところから、どんどんやって行けばいいのだ。
 読者はご存知だが、私はブログで日本式年号を使うことは全くない。昭和のある時期のことで、あまりにも記憶に強く残っているものは例外だが、それも順次に西暦に換算して覚えるようにしようと思っている。私は1933年に生まれ、1958年に結婚し、2018年に妻を亡くした。今年は2019年である。天皇が代替わりしようとも、暦に変りがあろう筈がない。「平成」の後が何になろうと、それは私の知ったことではない。
 
 

持続不能を残してはならぬ

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 福島原発の汚染水は、今でも毎日100トンのペースで増えているということだ。国費を投じて地中に「凍土壁」を作るなどしたが、地下水の流入を完全に止めることは不可能だった。容量1000トンのタンクに貯めているが、これが10日で満杯になる。あと2年足らずで、原発の敷地は一杯になるというのだ。
 誰が考えても、これは健全な産業の姿ではない。持続可能どころか、危険な汚染水を限りなく抱え込む構図になっている。汚染水タンクは、年月が古くなれば劣化するだろう。新しいタンクに移し替えて永久に保存するのだろうか。
 はっきり言って、原発はすでに「失敗した技術」だと思う。他の方法でもできる発電を、扱いの難しい原子力に頼らなければならない理由は何もない。それでもなお国の方針として脱原発を承認していないのは、「一流国としての核技術を手放したくない」動機があるからに違いない。
 その核技術は、必然的に兵器としての核に結びつく。唯一の核被爆国でありながら、国連の核兵器禁止条約に賛同しなかった日本政府の態度に通じている。

あれは8年前のことだった

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 3月11日前後には、東日本大震災関係の、「あれから8年」ものの話題が多かった。中には「黒い水の恐怖」だったか、津波が巻き上げた海底のヘドロが海水にまじり、比重の重い濁水となって破壊力を増し、かつ、溺れた人たちにとっては致命的な毒性の水になったという、すぐれた研究も発表されていた。
 あのとき、私は77歳で、まだ現役として動ける体力を保持していた。労働団体「連合」の集会に行ったとき、近くにいた会長に「私の労力はボランティアで無料にして、連合の救援活動の記録を撮影しておきませんか」と話しかけたら、「それはいい、ぜひやって下さい」ということになった。それで実現したのが、福島県と岩手県と宮城県と、三次にわたる復興支援活動記録の取材旅行だった。
 それは2011年5月の福島行きから始まった。連合本部前からバスで出発する救援隊に同行したのだった。私の、このブログでの報告は、この月の末から始まっている。撮影の趣旨は、「連合の救援活動を記録する」ことだから、終始、隊員と起居を共にすることになった。どういう手順で、現地ではどのようにして機材が用意されているのか、連合としても、試行錯誤で効率的な行動のパターンが、ようやく確立してきた時期の活動だった。
 隊員は3日働いたら1日は休み、洗濯と入浴をする。そして後半の3日間を働いて、夜行バスで帰るというサイクルを繰り返しているのだった。そして受け入れ側には社会福祉協議会というものがあって、ここが機材の手配とか、現地の要望とかを隊員に伝える、橋渡しの役目をしているのだった。そういう骨格が出来上がって、初めてボランティア活動も有効に効果をあげられるのだった。だから、隊員の労働も、事前に予想したよりも、ずっと無理の少ない形のように思われた。
 それでも、悲惨な現地の状況は、強烈な記憶を残している。その中でも、人が助け合うことの暖かさが流れていた。この仕事をしていた間中、私がかなり人間の「性善説」に傾いていたことは事実だと思う。
 

間尺に合わない保釈劇

 話題のゴーン氏が保釈で拘置所から出てくるというので、中継ヘリも出動する大騒ぎになった。くだらないと思いながらも見てしまったから文句を言える資格もないのだが、10億円の保釈金を積んで塀の外へ出られたのだから、弁護団としてはそれなりの成果があったということなのだろう。それにしては、やっている中身がマンガ的で面白かった。
 拘置所の前に黒塗りの車を並べ、いかにも大親分の出所を出迎えるようにしておいて、いざ本人が出てきたときは、ヘルメットにマスクを着けた作業員姿で現れた。そして梯子を屋根に乗せた軽ワゴン車に乗って、一台だけで走り出したのだった。そして行った先は、弁護士事務所なのだから、何であんな下手な芝居をして見せたのか、わけがわからなかった。思うに拘置所の門の中には余計な人間は入れないから、門前だけでは十分な偽装工作が出来なかったのだろう。
 それに、門前にマスコミの高性能カメラが並んでいる前で、本人の姿を偽装できるわけがない。本人は「無罪だ」と言っているのだから、むしろ堂々とした服装で、ゆったりと高級車に乗り込んで見せればよかったのではないか。
 誰が考えたのかは知らないが、弁護団が知らずにいたということはあるまい。マンガチックな偽装工作を、ゴーン氏も快くは思っていなかったのではあるまいか。100日を超える拘置所暮らしで疲労もたまっていただろう。せめてゆったりと、高級車で立ち去るのが似合っていたろうと思う。
 

元号どうでもいいけれど

(ご隠居)私は「平成」の年号も、自発的には一度も使ったことがないから、どうでもいいんだが、次の天皇の代替わりで新しい年号がどうなるか、論じてる人もいるみたいだね。
(熊さん)ああそうか、天皇が変わると、年号も変るんだ。
(隠)それが、いまネットで調べたら、なんと今月一杯で「平成」が終って、4月1日から新年号になるんだとさ。
(熊)え、そうなんですか。そりゃ驚いた。
(隠)去年のうちに、この3月末での天皇退位と、4月1日の新天皇の即位が決まってたんだとさ。まだ先のことだと思ってたが、話が進んでたんだね。
(熊)4月1日ですか。まさかエイプリルフールじゃあるまいね。
(隠)そんなことはなさそうだよ。それで、新年号の候補というのが出てるんだ。最初に出てた「ソニー生命」の予想というのだと、
「平和」
「和平」
「安久」
の順だとさ。3番目の「安久」は、安倍政権は永久にって、誰かが「忖度」して考えたのかな。それから中嶋寛さんのブログを見たら、もっと面白いのがいっぱい出てたよ。
安雲 あんうん  暗雲がたちこめそう
安化 あんか   安っぽい
安晋 あんしん  安普請みたい
安正 あんしょう 暗礁に乗り上げそう
安寿 あんじゅ  安寿恋しやほーやれほ
安万 あんまん  ほかほか美味しそうではあるが
安加計 あんかけ 腹心の友と飯食ってる感じ
安がじゅままん  なんじゃそれ?長すぎる!
だとさ。安三「あんざん・あんぞう」なんてのも、いいと思うけどね。
(熊)そいで、ご隠居の推薦てのは、ないんですか。
(隠)ないね。あるとすれば、年号は宮中行事に限定して、一般には西暦を常用にすることだね。私は今までと同じだよ。

2.26事件の朝だが

 2月26日、「2.26事件」の朝だが、これに触れた新聞記事は見当たらないようだった。2.26事件は、日本の政治潮流を変えた大事件だった。腐敗した政権が国を危うくしていると考えた一部の「青年将校」たちが、昭和11年(1936年)のこの日、指揮下の軍隊を動かして政府の要人を暗殺し、天皇を擁して「昭和維新」を断行するという、今の言葉で言えばクーデターを企てたのだ。
 これに参加した兵員は1588名という大部隊であり、重機関銃以下の兵器も備えていた。この「蹶起部隊」は、岡田啓介(海軍大将)首相以下の政府要人を襲撃し、4名の要人と護衛の警官5名を殺したのだが、殺したつもりだった首相は、実際は、たまたま居合わせた秘書官が身代わりになったのだった。
 蹶起部隊は当初の計画には成功して、あとは天皇に直訴して「昭和維新」への移行をはかるつもりだったのだが、ここで強硬な態度を見せたのが(昭和)天皇だった。朕の信頼する重臣を殺しておいて「維新」とは何ごとかと、直ちに治安回復を命じたのだった。それによって、蹶起部隊に同情的だった一部の軍幹部も立場がなくなり、蹶起部隊を「反乱軍」として鎮圧する方針が固まることになった。
 このとき、元から陸軍の青年将校たちに批判的だった海軍は、艦隊を東京湾に出動させて、戦艦の主砲の照準を、国会議事堂に合わせたと伝えられる。また、陸軍も、信頼できる地方の連隊を武装で上京させた。
 結局、このクーデター騒ぎで犠牲になった死者は、初日の9名に限られ、国軍が起こしたクーデターとしては小規模で収まったと言える。
 しかしこの事件の影響は後に尾を引いた。何かきっかけがあれば、陸軍の過激派は何をしでかすかわからないという恐怖心を生んだのだ。さらにこの事件を教訓として採用された陸海軍大臣の現役制は、陸海軍が同意しないと内閣が倒されるという、逆の効果を生じてしまった。
 やがて軍部が政治を引き回す政治が横行して、日本の国は戦争へと近づいて行くことになる。その大きな一歩を踏み出したのが、この2・26事件だった。
(追記・この事件の裁判による判決で、17名に死刑(銃殺)が執行された。ただし当時の雰囲気から、「熱血の志士たち」として、世間の同情を集めたと記録されている。)
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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

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e-mail:
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