志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

読書・評論

「三国志」特別展に行ってきた

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 昨日は、東京国立博物館で開催中の「三国志・特別展」に行ってきた。敷地内の「平成館」の全体を使った大規模な展示だった。
 「三国志」については、高校時代に「吉川英治の三国志」の全巻を夢中になって読んだ経験があるので、非常に身近に感じている。劉備玄徳が、諸葛孔明を軍師として、漢王朝の復活をめざす「天下三分の計」を立て、成都を都とする「蜀漢」の王となるのだが、天下統一の志を遂げることなく病没するまでの悲劇を描いたものだった。劉備と関羽と張飛の3人が「義兄弟」の誓いを交わし、孔明の知略を借りながら理想の国づくりを進めて行くという筋立てだが、これは「三国志演義」という小説が原形となっている。当時の私は年代的な知識もなく、素直に感情移入して、自分を劉備玄徳になぞらえていたのだった。
 今回の展示では、チラシにも「いざリアル三国志へ」と書いてあった通りに、三国の実在した時代の実像を、発掘物などを活用しながら再現しようとしていた。たとえば戦いは弓矢の時代だから、空を覆うような矢の大群が襲ってくるのを再現した部屋があったりした。孔明が夜間の計略で空船を並べ、一夜にして大量の矢を調達したという話を思い出した。
 また、魏の曹操の墓が新たに発掘されたとのことで、その実物大の展示もあった。地下に広がるとてつもない大きさで、それでも「簡素な墓」だという説明だから、国が大きいだけに、墓の作り方も「前方後円」などとは規模が違うことを実感した。 
 ただし今回の展示では孔明も関羽も張飛も登場しない。歴史の資料としては何が残っているかを展示しているのだった。リアルの三国時代は、西暦紀元で220年から280年に当るのだそうだ。そのころの日本は、奈良時代にも飛鳥時代にもならない「古墳時代」だったとされている。改めて、中国の文化の奥深さを思い知らされた感慨がある。

佐藤愛子の「冥界からの電話」を読んだ

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 書店でこの本を見かけたら、「冥界からの電話」という題名に引かれて手にとった。著者の佐藤愛子は、サトウハチローさんの異母妹だから、なんとなく親しみがある。以前にこの人の「九十歳。何がめでたい」を読んで、記事にしたことがある。
http://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/archives/55760539.html
 その人が95歳になって、しかも冥界からの電話を「これは本当にあった話です」と書いているのだから気になった。買ってきて半日ほどで読んでしまった。
 つい先日、「地下鉄(メトロ)に乗って」(浅田次郎)を読んだばかりで、電話線の両端にいる二人が、時間がずれたままで話をするという設定に興味を持ったところだ。ところが読んでみたら、死んでしまった人と電話で会話したという話を聞いた人がいて、それを「先生」が聞き、さらに「筆者」はその先生から聞いたという、複雑な構成になっていた。だからこそ「これは本当の話です」と断言できるのだった。
 「死人に口なし」とは古くから言われていることだが、死人に口を与えて自由に語らせたら、ずいぶんいろいろな真実が明らかになるだろう。それが電話という現代の利器を利用して実現したら、ずいぶん便利に違いない。この本では、死んだ妹が、兄の体に依憑して語るという形をとっていた。
 死者がそれぞれに語り尽くせぬほどの「思い残し」を抱いているだろうことは想像するまでもない。でもそれらは、信頼できて霊能にもすぐれた人を探し当てなければ表現する方法は得られないのだ。それはまさに真剣勝負と言ってもよい。
 死者から信頼されて選ばれた人は幸せなのだろうか。私は必ずしもそうとは思えないのだ。なぜかと言えば、私は愛妻の来訪を夢にさえ感じたことがないからだ。彼女の関心が、死ぬ瞬間まで私に向いていたことは疑いない。それでも今は安んじて安住の地にいると信じている。便りがないのは無事の知らせなのだ。
 「人は死なない、宇宙の中で循環する」と悟ったのが私の哲学である。私もいずれは姿を変えてその流れに合流する。生とか死とかは、ある一瞬の生命現象の一部でしかなかったのだ。ただし、便利な電話が通じるのなら、それもいいかと思っている。冥界からの電話で話ができた人がいるのなら、それは祝福してあげよう。

「地下鉄(メトロ)に乗って」を読んだ

 何の拍子だったか、長女が昔に読んだという、浅田次郎の「地下鉄(メトロ)に乗って」(文庫版)を貸してもらって読んだが面白かった。かなり部厚かったが、昨日のほぼ一日をかけて読んでいた。昔からよくなじんでいる地下鉄で、丸ノ内線の方南町の車両基地なども出てくるから親しみを感じられた。私が大学生の時代に、それまでは浅草から上野経由で渋谷まで行く銀座線だけだったのが、池袋からお茶の水へ通じる新しい地下鉄が出来て話題になっていた。ただし地下鉄なのに地上を走る部分が多くて、予算がないから本格的な地下鉄の新設は、まだ無理なのだろうと思っていた。「丸ノ内線」という名称はなくて、私たちは単に「新しい地下鉄」と呼んでいた。
 銀座線の開通は、浅草・上野間が最初で、それは昭和2年という早い時期だった。そして昭和14年には路線は上野から銀座・新橋そして渋谷へと延伸して、直通運転を始めている。そしてそのあと新しい地下鉄路線が出来たのが上述の昭和30年代なのだから、私が育った時代の地下鉄と言えば、今の銀座線に決まっていた。
 私は地下鉄が好きで、それを知っている母は、私を連れた「お出かけ」のときは、地下鉄の先頭車両に乗って、前面のガラス越しに、トンネルの先を見せてくれるのだった。信号灯の色が鮮やかで、次の駅が遠くに明るく見えて、それがだんだん近づいて来る。それは、わくわくする風景だった。当時の運転士は、左端の狭い区画の中に入っているのだった。
 ただし、きょう書きたいのは、この本の書評ではない。この作品に出てくる、電話で話している二人の間に、何年もの時間差が生まれているという設定が、意表を突いて新鮮だったのだ。そうか、電話線で時間を越えられたらいいなと思った。
 死んでしまった妻に、ぜひ聞いておきたいことがある。「あなたの心臓が止まる前に、一瞬でもいいから、温かい湯に入って『ああ、いい気持ち』と思ったんだよね」と確かめて置きたいのだ。彼女が「ええ、そうよ」と、やさしく答えてくれたらそれでいい。「あんたは、そっちにいていいよ。いずれ、そっちへ行くから。」
 浅田次郎は、この本を書いて新人賞を取ったということだ。小説家でなくても、故人と電話で話すことは、できるのかも知れない。妻のすぐ近くには、母もいそうな気がする。時間を越える電話を、また掛けてみよう。

「昭和からの遺言」という奇書

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 朝の新聞を眺めながら長女と雑談している間に、退位する今の天皇が「殿下」と呼ばれていたときに、ピンポン球を拾ってもらった話が出てきた。「それだけのことだよ」と言ったのだが、「だって、ふつうの人にはあり得ないすごいことだよ。」と長女は言いつづける。たしかに学習院の英文科という、思いがけない大学に入ったからこそのハプニングだった。彼女は頭の回転の早いしっかり者だが、私よりは軽い「ミーハー」的な一面も持っている。そのおかげで、私が卓球で後ろへそらした球を、ワンバウンドで受けてスマートに投げ返してくれた制服姿の男子がいて、顔を見たら皇太子さんだったという情景を、久しぶりに思い出した。
 この話を、私は自分の著書の「昭和からの遺言」の冒頭に使わせて頂いた。この本を書いた動機は、自分が経験した昭和という時代のありようを、自分が報告者となって後世に伝えたいと思ったからだった。そしてその視点として、同年生まれの皇太子の立場を借りようと発想したのだった。その原稿は、私のブログへの連載という形で、2015年の4月から11月にかけて書いている。その原型を下敷きとして、加筆・訂正を加えて2016年の2月に社会批評社から出版した(定価1500円+税)。
 この本は、今は書店の店頭ではあまり見かけないかもしれないが、現役の新刊として流通しているから、全国の書店で注文すれば取り寄せができる。また、メールで直接に私に注文して頂いても対応している。
 この本の最後には、架空の天皇の架空の「お言葉」も出てきて全体の締めとなっている。私のイメージで予言的に書いているのだが、本物の「お言葉」と比べてみるのも面白いかも知れない。
 

「なぜ必敗の戦争を始めたのか」を読んだ

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 「なぜ必敗の戦争を始めたのか〜陸軍エリート将校反省会議」(半藤一利・編と解説・文春新書)を読んだ。あの戦争の時代を知っている世代が書き残す、最後の方に属する本になりそうな気がした。半藤氏は私より3年先輩で1930年(昭和5年)生まれ、文芸春秋の編集長を経て、昭和史研究の第一人者になった人だ。この本の基礎資料になったのは、陸軍将校の集会所だった「偕行社」の機関誌「偕行」で、戦後の昭和50年代に連載された反省座談会の記録だった。半藤氏はこの資料を著作活動に利用しながらも、この座談記録そのものを世に出すことをしなかった。そのことが気にかかっていて、最後の機会と思い文献の形にしたということだ。なお、座談に参加した人たちは、全員がすでに故人になっている。
 書かれている内容は陸軍関係者の座談なのだが、海軍の動向も公平に語られている。むしろ陸軍から見ていた海軍ということで、従来の「陸軍悪玉・海軍善玉」論では片付かない複雑な力学の働き方を知らされて興味深いものがあった。戦争というのは、まさに国の大事だから、いいかげんに考えている人はいない。それでも微妙な人間関係で政治的な決定が下って行くのだから劇的で面白いのだ。
 この本の最後には、「余話と雑談〜あとがきに代えて」という、およそ「あとがき」らしくない長い一章がついている。そしてこれが、「なぜ必敗の戦争を始めたのか」の、納得できる裏面史の説明になっているのだから面白い。半藤氏も、ライフワークとしてきた昭和史をこれで完結できるという、明るい気分になったのではあるまいか。そしてその最後は次のように結ばれている。
(以下引用)
 読書にはどんな種類の愉しみがあるのでしょうか……もし共通の愉しみがあるとすれば、おそらくおのれの知的好奇心の満足ということになるのではないか。老躯となった自分の体験でいえば、人生は忙しく短し、そして面白そうな本はいっぱいある、と。であるから、本書を手にとった読者の好奇心を100パーセント満足させる、そうであるようにとできるだけ頑張るのは、まさしく歴史探偵の仕事なのです。老齢なんか関係ありません。それで長い長い「あとがき」になりました。
(引用終り。ブログ主より…)
 半藤一利さまが、「歴史探偵」だったとは、今まで知らずにおりました。おつかれさまでした。ありがとうございました。

直木賞の「宝島」を読む

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 直木賞の受賞作で話題になっている「宝島」(講談社・真藤順丈著・1850円)を読んでみた。書店では品切れということで、アマゾンに発注しておいたら、案外に早く届いた。包みを開いてみて、その分厚さに、まず辟易した。新しい本は一日で読んで、その日のうちか翌日のブログに書いて「一丁あがり」でやってきた私のスタイルには納まりそうもない。直木賞というのは、どういう賞なのかと改めて検索してみたら、芥川賞が純文学作品を対象とするのに対して、直木賞は大衆娯楽作品という大まかな住みわけがあるようだ。本を買ってしまってからでは遅いのだが。ただ、沖縄を舞台にした作品というので、読んでみる気になったのだ。
 決して読みにくい本ではない。ウチナーグチというのだろうか、独特の沖縄方言を基調にして書かれてはいるのだが、読んでいると意味は自然にわかってくる。沖縄の人が、本土の人を相手にして話してくれている雰囲気になっている。ただし私にも一日で読むのは無理だった。くたびれて途中でやめたら、そこからペースが乱れて、私はこの数日間、ブログを書く気にもなれずにいた。
 「宝島」のタイトルには、サブタイトルとしてHERO‘s ISLANDという英語を添えてある。沖縄を宝の島だと言って自慢しているわけではない。反米(そして反日本政府も含む)の闘士の物語なのだ。それも、正面切った高潔な英雄などではない、米軍基地から物資を盗み出す、最高に評価しても「義賊」と呼べるかな、という程度の人たちなのだ。そして語り部になる主役は、沖縄警察の捜査官という設定になっている。これも、アメリカ軍に対しては抵抗する方法がなく、日本政府からも期待されない迷子のような存在になっている。
 この本の帯紙に書いてある宣伝文では「基地から持ち出された”予定外の戦果と英雄の行方”、奪われた沖縄(ふるさと)を取り戻すため、少年少女は立ち上がる。」としているのだが、それほど単純な構造ではない。最後に「コザ暴動」の場面が出て終るのだが、「それでどうなったのさ」という思いが残る。
 私が思うには、この「宝島」というタイトルは反語なのだ。戦後日本の、あらゆる矛盾を押し付けられた「ゴミ処理場」のように、今の沖縄はなっている。でもそれは本来の沖縄の姿ではない。美しい海に囲まれた楽園であることは、奪うことのできない事実なのだ。それでも便利なゴミ処理場の役割を、日本政府は押し付けずにはいられない。本土から切り離して独立させるなどは、夢にも考えてはならないのだ。
 それでは沖縄は、どんな未来を描いて進んで行けばいいのだろうか。沖縄の人たちが、「正当な日本人」として待遇される日は、来るのだろうか。そんな根の深い問題を背景にしながらも、あくまでも「大衆娯楽小説」として読めるというのが、今回の受賞理由になったのだろう。沖縄ではいま県民投票の準備が進んでいる。政治的な問題には、政治的な意思表示が必要になる。そんな「時ネタ」の材料としても、この本が広く読まれることを期待したいと思った。

小説「光の人」を読む

 紹介してくれた人があって、「光の人」(今井彰著・文藝春秋)を読んでみた。青少年福祉センターの創立者である長谷場夏雄先生(私たちは「先生」と呼ばないと落ち着かない)をモデルとして書き下ろした小説ということだった。中身を見ると、この本では主人公は「門馬幸太郎」となっている。そして通称は「パパ」と呼ばれることになっており、冒頭に出て来る洋服店のテーラーセブンは「テーラーザファイブ」となっていた。小説だから実名を使わないのはわかるが、それに見合う自由な発展があって、より魅力的な人物像が描かれるのなら納得できるところだ。ところが今回は、読み進めても、実話のようでも実話ではない違和感が、いつまでも消えなかった。
 長谷場氏は、日本における青少年福祉の先駆者であり、巨人と言っていいと思う。その言行は、これまでも数次にわたって記録文献としてまとめられて来た。私もその一端を担って、記録ビデオを制作したり、記録集の編集にもかかわってきた。だからその実際を知り過ぎているので、小説としての創作に違和感を抱くということは、あり得るかもしれない。それにしても、創作された人物像が充分に魅力的であってくれたら、つまり現実の長谷場氏を超えて昇華されていたら、新しい感動を得られたのではないかと思うのだ。あえて小説として書き下ろすのであれば、そこまで徹底して欲しかったと思う。実録なのか創作なのか、その制作意図の両にらみが、私を混乱させると言ってもいいかもしれない。
 でもこれを、長谷場夏雄氏を全く知らない人が読んだら、それはそれとして意味のあることと言えるだろう。戦後の日本に、たった一人の情熱で1000人の孤児たちを救う奇跡を起こした男がいたのだ。その名を長谷場夏雄という。その人はたぶん、今年90歳を迎える。カナダでも活躍した経歴から、日本の厚生年金による保護を充分に受けられないとも聞いている。その人の老後が、生涯のご苦労に報いる安らかなものであることを、私は心から願っている。
 

トランプは武器シンゾウは国を売り

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 この正月に大木晴子さんから送っていただいた「反戦川柳句集〜『戦争したくない』を贈ります」の、冒頭にあった「乱鬼龍」さんの句を、本日の表題に使わせていただいた。この句集は、編集・発行が「レイバーネット日本川柳班」となっている。発行元は「レイバーネット日本」で、2018年12月の発行(頒価700円)と表示されている。「まえがき」によると、この集団による句集の発行は、1回目が2010年の「がつんと一句〜ワーキングプア川柳」、2回目が2013年の「原発川柳句集〜五七五に込めた時代の記録」で、今回が3冊目になるとのことだ。
 川柳は五・七・五の俳句と同じ形だが、俳句が「発句」から発展したのに対して、逆に「前句付け」から独立したということだ。季語の縛りもなく、自由な機知で森羅万象あらゆるものを笑いのめすことが出来る。表題の句などは、寸言をもって現代世界の病根を刺し貫く迫力をもっていると思う。
 句集の中には、思わず唸るような名作が多いのだが、あまり紹介してしまうと営業妨害になりかねないので、とりあえず3句だけにとどめておく。

  この道しかなかった道の先は崖  斗周
  反戦と護憲を危険思想とす  笑い茸
  ミサイルが原発止めず電車止め  おおとり

 この句集の後半には、すぐれた論説や報告の文章が並んでいて、これだけでも優秀な機関誌になっていると思った。正月早々に、良いものを読ませて頂いたことに、心から感謝したい。

 
 

私は岩波新書文化人?

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 岩波新書が創刊から80周年になるそうで、きょうの朝日新聞に特集記事が出ていた。私も岩波新書には、古くからたいへんお世話になった。かなり長い時期、新刊が出るたびにチェックしては買っていたこともあった。書棚を調べたら、現在903冊が確認できた。古いと思われる方では、「漢の武帝・吉川幸次郎著」の第4刷、昭和29年(1954年)発行(定価100円)がある。学生時代に、もぐりで聴講した国文科の授業で推薦があり、買った記憶がある。
 新書だと、集中すれば一日で読めて、新しい一つの知見が得られるのが快感だった。そんな中で島崎敏樹氏の「生きるとは何か」(1974年第3刷)にも出会った。島崎氏は、島崎藤村の遠縁に当る人で、温厚な精神医学者だった。私の人生観に一つの指針を与えてくれた本であり、その著者である先生に、後にNHK「われら10代」のディレクターとして、直接に教えていただく機会を得た。
 シリーズの中にあった大河内一男氏の「黎明期の日本労働運動」「暗い谷間の労働運動」「戦後日本の労働運動」の3部作からは、日本の労働運動についての概観を知ることができて、これがその後、労働組合の視聴覚教材を制作するときに、非常に役に立った実感がある。
 その他、背文字を見ていると、その時々に受けた感銘を思い出すこともある。しかし圧倒的多数は、中身を覚えてはいない。読み直してみたら、また面白いと思って読めることだろう。事実、面白そうだと思って買って読んだあとで、よく見たら家の書棚に同じ本が入っていたという珍事が、複数回あるのだ。
 昔は、いつか自分の本を一冊、岩波新書にしてみたいと思っていたが、今はその気はない。自分に合った出し方をすればいいと思っている。もしかすると90歳のときに、最後の一冊を出すかもしれない。どうぞご期待を。

「原民喜〜死と愛と孤独の肖像」を読んだ(2)

 この本を読んだことで、私は一編の原爆詩だけではない原民喜という一人の「作家」の生涯について、およその知識を得ることができた。生年は1905年(明治38年)だから、私の父より10年ほど若いだけで、むしろ親世代に近い。しかし東京で大学生活を送ったインテリであり、中学時代から小説や詩を書き始めた早熟の文学青年だった。そして人づきあいが下手で無口で、周囲の人と円滑な会話を成り立たせることが、ほとんど出来なかったと言われている。
 そんな原民喜を支えたのが、28歳のときに見合い結婚した妻の貞恵だった。「あなたは良いものを書けます」と励まし、世情にうとい民喜の代弁者となって、編集者や文学仲間との交流をはかって行った。民喜も順調に作品を増やした時期があったのだが、惜しむらくは妻の貞恵は健康には恵まれず、子供を授かる前に結核を発病してしまった。闘病の時期は戦時中と重なり、1944年(昭和19年)に死去した。
 民喜は東京を引き払って故郷の広島に帰ることにしたのだが、ここで8月6日の原爆投下に遭遇することになる。直接の被害は奇跡的に軽く済んだが、被爆直後の町を歩き回り、親族の住む近郊へ避難するために、悲惨な市街地を横断して放射能を浴びる結果になった。結局、民喜にとっては、妻と過ごした短い幸福な日々と、すべてを壊滅させた原爆の悲惨だけが「意味のある現実」になったのだと思う。
 人が後に残すものの中で、長く多くの人々に受け継がれる記憶というものは、決して多くはない。また必要でもない。その人の生きた証(あかし)が、一つでも記憶に留まればいいのだ。
 「原民喜さんの詩碑は、ごらんになりましたか。」

 

「原民喜〜死と愛と孤独の肖像」を読んだ(1)

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 この話は長くなりそうだ。たぶん40年ぐらい前に、私は広島にいた。何で広島へ行ったのか、どこへ泊ったのかなど、前後のことは全く記憶にない。たぶん夏で、私は朝日が昇ってくる反対側から、逆光で原爆ドームを撮影しようとしていた。しかし撮影に集中していたわけでもなく、まだ人気(ひとけ)もなく静かな雰囲気に浸って、何となく荘厳な気分に満たされていた。
 そこへたまたま、地元の人らしい中年の婦人が通りかかった。素朴な服装から、観光客でないことは明らかだった。近くへ来たとき、私は軽く目礼したと思う。その人は、歩みを止めて、少し恥ずかしそうに「あのー」と声を出した。「原民喜さんの詩碑は、ごらんになりましたか。」
 私は何も知らなかったから「いいえ」と答えた。その人は先に立って詩碑のところまで行き、私がその物置台のような素朴な碑の文面に目を落すのを確かめてから、「あなたのような方に、見て頂きたいと思ったものですから」と言葉を残し、一礼して立ち去って行った。盤面には
 遠き日の石に刻み
 砂に影落ち
 崩れ墜つ 天地のまなか
 一輪の花の幻
の詩句があった。私はその場で、この詩句を深く記憶に刻んで今に至っている。帰宅してから、作者の原民喜という人のことを、一通りは調べてみた。中野の自宅にも近い中央線の線路で自死した人だということもわかった。
 それ以来、原民喜の名は、「あなたのような方に見ていただきたい……」という、ほんのり甘い記憶と結びついている。そして昨日、久しぶりに入ってみた書店で、岩波新書の新刊として「原民喜〜死と愛と孤独の肖像」(著・梯(かけはし)久美子)を見かけた。「あなたのような方」としては、これを見過ごすことはできない。すぐに購入し、一日かけて読んでみた。

「捨てる技術」を捨てる決断

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 昨夜のNHKテレビ「ファミリーヒストリー・さだまさしの原点」は迫力があった。NHKならではの取材力で、遠縁の親族や知人からも資料を集め、奇想天外と言えるほどの先祖の活躍を掘り起こしていた。ノモンハン事件の時期には、日本人が誰も行ったことのないモンゴルの奥地にまで入った情報将校がいたというのだから驚いた。さだまさしは、かつて「長江(揚子江)の最初の一滴が始まるところを見たい」と言って、「長江」というドキュメンタリーの制作に乗り出し、巨額の借金を築いて有名になったが、あの騒ぎも、先祖の血の中にその原点があったのかと思ったら、納得した。
 そのことと、きょうのブログのテーマがどうして結びつくかというと、死蔵されていた古い資料が、時が来て発掘されると、じつに貴重な資料になるということを実感したからなのだ。私の家族は、本来は身一つで家出したのが原点だから何もなかったのだが、時を経て落ち着くとともに、家の資料がおもに姉を通して私のところへ追いかけてくるようになった。その典型例が、父母が若い頃に交わした恋文の集積だった。律儀に保存していた母は、その始末を、長女である姉に託したのだ。そしてそれらは、かなり早い時期に末弟である私のところに回ってきた。私は従順の習慣がついているから、すべて素直に受け入れて今に至っている。
 だから私の家には、わけのわからない古い資料が倉庫に積み上がっている。何とかしなければと思っていたから買ったのが上記の本だった。書いてあることはよくわかったが、要は「自分にとって不要なもの」は捨てる思想なのだ。常識ならそれでよい。しかし、もし自分の家が「古墳」だったらどうか。すべてが貴重な資料になるかもしれないではないか。
 結論を言うと、私は「捨てる技術」を用いないことにした。私が一代で書いたものも、全部そのまま残しておくことにする。私のいなくなったときに、邪魔だと思ったら処分してくれればいいのである。後代の人が、何を面白いと思うかは、私にはわからない。宝の山だと思うかどうかは、その人の器量によるだろう。

「死を見つめる心」を読む(2)

 この本の紹介をもう少し続けると、著者は一時的に陥った「生命飢餓状態」から脱した状況でこの本を書いている。手術の結果、がんを忘れていられるほど安定したと思った時期もあったのだが、悪性の進行は止められなかった。やはりだめかと落ち込んだ底からの救いになったのは、「別れ」という考え方だった。永遠に続く人間関係というものはあり得ない。どんなに親しい人との間にも、必ず別れはくる。そう思えば、自分と現世との別れにも耐えられるのではないか。
 そもそも「生」と「死」を、対等な対立関係と思うのが間違っている。「生」には、さまざまな実体があるが、「死」はその不在に過ぎないではないか。「死」を、「生」と対立する実体のように、重く考える必要はなかったのだ。
 著者は人の生死観を、次の四つに分類している
1.肉体的生命の存続を希求するもの
2.死後における生命の永続を信ずるもの
3.自己の生命を、それに代る限りなき生命に托するもの
4.現実の生活の中に永遠の生命を感得するもの
 上記の1は、昔の帝王も試みたが不老不死は無理だった。2は、仏教の輪廻に近いかもしれない。3は、現代人にも、ある程度は共感できる。4は、2とともに宗教的だが、4の方がキリスト教的に感じられる。
 この本は、人の生き方についての「悟り」を語った本ではない。著者が宗教学者として文字通りに「死を見つめた」結果のレポートを集成したものである。そしてこれが一番大切なのだが、死を見つめることで人は誠実になるのだ。
 私は若い頃に、夏目漱石のどれかの本で、死を考えることの大切さを説いている部分に感銘を受けたことがある。世の中のあれかこれかを選ぶのは喜劇だが、生か死かを考えるのは悲劇になる。そして悲劇にだけ価値があるというのだった。具体的には、死を考えるときは、人は必ず真面目になる。
 そしてもちろん、死をよく考えるのは、よりよく生きるためなのだ。いま自分が生きているということを、奇跡のように有難いと感じることができるなら、世事にかかわる悩みごとの9割方は、たちどころに消えて失せるだろう。
 
 

「死を見つめる心」を読む(1)

 「死を見つめる心〜ガンとたたかった十年間」(岸本英夫・講談社文庫)を読んだ。ちょうどよい時に、よい本を読んだと思っている。この本のことを、どういう経路で知って書店で探し出したのか、例によってその記憶は残っていない。ネットのどこかで見たのには違いないのだが。
 著者は宗教学者で、アメリカ在住のときにガンを発症した。最初に告げられたのは、余命は半年間ぐらいはありそうだということだった。直ちに手術を受け、そこから一進一退の闘病生活が始まった。著者はこの闘病を、宗教学者としての考察を残す絶好の機会ととらえたように思われる。その時々の経験を、活発に叙述して各種のメディアに発表するようになった。それらの文章を、集大成したものが本書である。
 しかし内容は時系列的にまとめられてはいない。たとえば最初に置かれている「わが生死観」は、「生命飢餓状態」に置かれたガン発症後に書かれている。余談だが、私は「生死観」という言葉に好感を持った。一般的には「死生観」と言う人が多いのだが、「生」が先の生死観であるべきだと、私はずっと思ってきたからだ。
 誰でも知っているが、人間は必ず死ぬ。例外は絶対にない。だから見つめるも何も、生きている先には必ず死がついてくる。だが、たとえば、刑の執行を待っている確定死刑囚はどうだろう。人間には生存への強い本能があるから、生命飢餓状態に陥ると言われている。それはガンを宣告された患者の立場とも似ているに違いない。つまり、「いつか死ぬ」のは仕方がないから我慢できるが、具体的に「期限」が切られてしまうのは耐え難い恐怖になるということだ。
 それでは自分はどうなのかと、私はここから思わぬ方向に踏み込んだ。私はブライス先生の弟子として、死に臨んでも乱れない心を確立していると思い込んでいた。それはどこまで確かなことなのか、検証しておきたくなったのだ。 

永六輔の「大往生」

 永六輔の「大往生」(岩波新書)を読んでみた。ご本人は、この本を1994年に書いて話題のベストセラーとなり、しこたま印税を稼いだ上で、2016年つまり一昨年の7月7日に83歳で永眠した。この年には、この本は第100刷に達していたのである。
 永さんは寺の住職の息子だったから、仏教の素養があった。交流のあったいろいろな人の死に方を、軽妙に記録している。テレビ「夢で会いましょう」の構成もしていたから、私とも多少の縁はあった。人が死ぬ話を語っているのに、からっとしていて楽しく読める本だった。その最後にあった「自分のための弔辞」が秀逸だったので紹介したい。最良の自己紹介になっている。(以下引用)

 弔辞
永六輔さん。
あなたは「大往生」という本をまとめて、タイミングよく、あの世へ行きました。
あなたはいつも無駄のない人でした。
そして、本当に運の良い人でした。
高校生のときにNHKに投書して採用されて以来、上手に立ちまわって放送文化賞まで、すべて他人の褌で仕事を展開し、自分の都合が悪そうになると、喧嘩を売ってでも仕事を乗り換えてきました。
(中間部省略)
80冊目という出版の中で、書きおろしたものは一冊もないという鮮やかさ。やっぱり最後は座談会や父上の文章を借りなければならないという力のなさ。そんな時は放送の人間と言い、放送の現場では出版文化人という替り身の早さは、「マスコミの寄生虫」というニックネームにふさわしいものでした。
 そんな寄生虫の永さんが、人間らしく過ごしたのは御家族に囲まれていた時だけではないでしょうか。
 旅暮らしの中で、一番好きな旅はと聞かれて「我家への帰り道」と答えた永さんです。その永さんがあの世へ往ったら先に往っていた皆さんに、またあることないことしゃべりまくることでしょう。
 そうかといって、またこの世に帰って来られるのも迷惑です。
 三途の川に流されて、あの世にも、この世にもいないというのが、永さんらしい「大往生」だと思います。
 読者を代表してこの弔辞を……(引用終り)

私は自分のための弔辞を書くほど図々しくはない。でも、死んだときに、誰かが、いい弔辞を書いてくれたらいいなと思ってはいる。
 

足踏み式大型洗濯機の再現

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 冬の間ずっと居間の座机に掛けて、置炬燵のように使っていた毛布を、風呂場で洗濯しました。適当に洗剤を入れ、足で踏んで汚れを落としてから、水を入れ替えてすすぎ1回、すべて人力足踏みで完了です。ブログ上の記録によると、最初に試みたのは2013年であったようです。洗いは風呂場で済ませて、最後の脱水だけは、上手に洗濯機に入れると、無事に回転してくれました。これもブログ記録に基づいたノウハウの蓄積です。
 良い天気の土曜日です。今年は長女がのぞきに来て、写真を撮ってくれました。カメラを向けて、「笑わなくちゃダメだよ」という注文でした。この風呂には、なぜか今でも、3家族の合計8人が順番に入るのです。長女の家族は3階から、次女はすぐ近くのマンションからやってきます。毎日の掃除当番は私です。たまに忘れていると、次女が黙って洗って、一番湯に入ったりしています。時間配分としては、志村家の2名は、9時から10時半までが割り当てられています。

「陸軍中野学校と沖縄戦」を読んだ

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 三上智恵監督の新作映画「沖縄スパイ戦史」(本年7月28日より一般公開予定)が話題になっているが、このテーマを日本軍の謀略戦略の面から解明した本が新刊として出たので読んでみた(「陸軍中野学校と沖縄戦〜知られざる少年兵『護郷隊』」・川満彰・吉川弘文館・単行本1700円)。偶然のようで偶然でない出会いなのかもしれない。
 陸軍中野学校の跡地は、戦後は警察学校の用地となり、今は私が散歩コースとして日常に親しんでいる「四季の森」公園となっている。ここに日本軍の唯一の謀略専門学校があったのだ。この学校に「兵隊」はいなかった。特殊任務につく士官を養成していたのである。卒業者は参謀本部の直属として各部隊に配置され、その任務は占領地の保安と現地人支配だった。そして日本軍としては異例の、「捕虜になっても死ぬな」との命令を受けていた。
 そして沖縄戦では、離島などに偽名を使い教師や行政職員を装って配置されていた「残留諜者」が、地元民を指導して「敵軍の後方攪乱」に当らせる実例が出たのだった。この後方攪乱を忠実に実行したのが、後に有名になるルバング島の小野田少尉だった。場所は沖縄ではないが、日本軍の敗戦を知りながらも、友軍の反攻を信じて、現地人を「占領地の敵対勢力」と見なし、30人も射殺したのだった。この思想が、沖縄では複数の離島で島民虐殺事件を引き起こし、それは日本の降伏で戦争が終ってからも継続して犠牲者を出していた。
 もしこれが日本の「内地」であったなら、同じ日本人を殺すことをためらったかも知れない。しかし沖縄に本土から派遣された日本軍には、沖縄出身者は一人もいなかった。沖縄県は、日本で唯一、地元民で編成される「連隊」を、昭和20年まで持っていなかったのだ。
 戦争の継続に特化した教育は、謀略という異端児をも生み出していた。平和な海と空の恵みの下で暮らしていた島人にとっては、それは迷惑以外の何物でもなかったろう。
 今の「四季の森公園」には、なごやかな家族の風景があって、子供たちが元気に走り回っている。この平和の大切さを、ひっそりと一隅に設けられている銘板は、どこまで今の人たちに伝えてくれるだろうか。

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「神津式労働問題のレッスン」を読む

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 現職の(労働組合)「連合」の会長である神津里季生(りきお)氏が、新刊(毎日新聞出版・1000円)を出した。歴代の連合会長の中で、現職中に著書、それも回顧録でない同時代的なものを出した人は、私の記憶では、いなかったと思う。
 内容は、第一章が書名と同じ「神津式労働問題のレッスン」で、本文のほぼ半分を占め、プロローグとエピローグがついている。後半の第二章は「暮らしの底上げ」で、この部分は同じ題名でサンデー毎日に連載したものを基礎にしている。連載が終ったら本にする予定であったということだ。
 神津家には犬3匹と猫2匹が同居しているが、いずれも趣味で買い集めたのではない。犬猫のシェルターになる習慣がついてしまった結果だという。そんな暮らしの中から、「なんじゃこりゃ?から始めよう」と言って、世の中とのつながりを考えて行く筆の運びは滑らかである。そして身近な例から話を引き出しながら、あるべき世の中の姿を描いて見せるのだ。
 しかし迫力があるのは、第一章の方だった。昨年秋の、民進党と「希望の党」との合併話をめぐる混乱は、連合にとっても一大事であったのだ。小池百合子の「選別します」発言で、選挙を控えていた多くの連合組織内候補も、立場に不安を感じる事態になった。定期大会を控えていた連合会長としての苦悩も、今にしてよくわかる。結局は立憲民主党の創立で新しい流れになるのだが、連合としたら、政権交代可能な野党の結集は至上の命題だったわけだ。この問題は、今も未解決のままで尾を引いている。
 なお、原発・エネルギー政策については、電力労働者の組織を下部に抱えているので脱原発に舵を切れないと言われる俗説を否定した上で、以下の政策協定書(案)を公式の見解としている。
 「原子力エネルギーに代わるエネルギー源の確保、再生可能エネルギーの積極推進および省エネの推進を前提として、中長期的に原子力エネルギーに対する依存度を低減していき、最終的には原子力エネルギーに依存しない社会をめざしていく」
 

内田康夫氏の死去と「靖国への帰還」

靖国への帰還

 新聞を見ていたら、内田康夫氏死去の記事が出ていた。内田氏は(北区)滝野川国民学校で、私より1年下の学年だった。沼津への集団疎開を経験した者たちの「沼津会」のメンバーでもあったのだが、在学中には何も接点がなく、名前も知らずにいた。
 私が、長く敬遠していた沼津会に顔を出すようになった10年あまり前から、一度か二度はそこで会ったことがある。経緯は忘れたのだが、私の出したばかりの「おじいちゃんの書き置き」を激賞してくれて、一度に20冊も注文してくれたので驚いた。そのときの手紙に「愚にもつかない駄文ばかり書き散らしている自分は恥じ入るばかり……」との文言があったのを覚えている。上級生への敬意を示してくれたのかもしれないが、謙虚な人だと思った。
 私は彼の書いたものを読んだことがなかったのだが、その頃に出た「靖国からの帰還」は、書店で「これは私の代表作になるかもしれない」という帯文が目に入って、立ち読みしたら止まらなくなった。この作品のことは、当ブログの記事にしてある。
http://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/archives/55592842.html
 この作品には、海軍の夜間戦闘機「月光」が登場する。B29の夜間焼夷弾爆撃に立ち向かったのが、この戦闘機だった。夜の空中戦では、B29は探照灯に照らされてよく見えるが、迎撃する戦闘機は見えない。B29から発射される曳光弾によって、日本の戦闘機が近くにいることがわかるのだった。あの戦闘機に乗っていたのは、こういう人たちだったのかと、私は夢中になって読んだ。ミステリーの味わいも加味した名作だと私は思っている。
 新聞の解説によると、内田康夫氏の書いた書籍の冊数は163点で、累計販売部数は1億1千500万部に及ぶということだ。半端な興味でこれほどの読者が獲得できるわけがない。偉大なる小説家であったと評価すべきだろう。稀代の流行作家として名を成した彼は、安住の地として、どこへ昇って行ったのだろう。尽きることのない夜の高みへと向かって、永遠の上昇を続けているのだろうか。
 

「原子力戦争の犬たち」を読んだ

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 お恥ずかしい話なのだが、この本のことを、どのように知って注文したのかを思い出せないのだ。とにかく数日前にアマゾンから届いたので読んでみた。釣崎清隆著の「原子力戦争の犬たち〜福島第一原発戦記」(東京キララ社・2017年3月初版・本体1700円)である。後知恵でネット検索したら、「小説」に分類している解説もあった。著者は世界の紛争地帯に出かけて取材する「死体写真家」だということだ。しかしこの本の本文には、一枚の写真も使われていない。
 著者はフクイチ(福島第一原発)に、一作業員として一年以上も働いてこの本を書いた。もちろん東電に直接雇われたのではなく、下請けか孫請けか孫々請けか、とにかく最低のブラック企業の手配で働くことにした。東電は放射線量の高い場所で働かせる危険手当として、日当3万円を払っている筈だが、実際に受け取るのは6千円だったりした。それでも労務者は全国から福島へと集まってくる。国や東電の原子力政策にかかわる「雲の上」の人たちと、現場で働く労務者とは、それぞれ縁のない別な世界に住んでいる。
 そうした「労働現場から見たフクイチの今」なのだが、原発の、しかも破綻した炉の後始末というのは、誰も経験したことのない作業の連続になる。たとえば最近の作業は、炉心の現状を探るためのロボットの送り込みだったりする。線量の高いギリギリの限界まで行ってロボットをセットしスタートさせなければならない。そういう作業は「特攻」と呼ばれるのだそうだ。過去のものになっていた「特攻」が、現代の原発事故現場で復活しているとは思わなかった。
 そしてまた、原発の作業現場では、毎日大量のゴミが出る。三枚重ねている手袋も、一回ごとに捨てるのだが、ただは捨てられない。低レベル廃棄物として管理しなければならないのだ。さらに被曝線量は、作業員であろうと厳密に管理しなければならない。現場への出入りには、行きにも帰りにも、厳しいサーベイが行われる。そこには人間の職場という感覚が感じられない。よく言っても奴隷の使役か、悪く言えば家畜の管理に近くなってくる。
 この本の題名にもなっているように、フクイチは平和産業ではなくて今も戦場なのだ。そこに投入される兵力の大多数は、全国から集められた日雇い労働者から成っている。累積線量が一杯になるまで使われる消耗品だから「犬たち」なのだ。そのおかげで日本は今のところ「無事」でいられるのだが。
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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
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昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
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