志村建世のブログ

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言語について

改竄(ざん)の原点を調べてみた

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 改竄(ざん)とはどういうことなのか、にわかに話題になってきたので調べてみた。わが家には、父親から押し付け的に与えられた大修館・諸橋徹次著の「大漢和辞典」13巻が揃っている。その第8巻、「穴部」13画の最初に「竄」の字は出ていた。字の読みはサンとサイが本則で、ザンは慣例読みであるらしい。
 字は穴冠(あなかんむり)に鼠だから、これ一字で「かくれる」「のがれる」「かくす」の意味になる。そして後の方に「変える」という意味も出てきて、そこに悪い方に変える意味で使われることが多いと説明されていた。ちなみに「広辞苑」では、「改竄」の説明は「字句などを改めなおすこと。多く不当に改める場合に用いられる。」と、簡潔明瞭である。
 これに対して「書き換え」という中立の言葉もある。財務省の決裁文書について、NHKなどは最初は「書き換え」と言っていたものが、途中から他と歩調を合わせて「改ざん」と言うようになった。本人たちの立場からすれば、止むを得ない事情があっての書き換えかもしれないが、社会的には不当な目的での改ざんに当るのだから、これは仕方がない。
 それにしても、漢字というのは面白い。穴の下の鼠という、マンガの1コマのような情景が文字になっているのだ。穴にこもった鼠は、そのままじっとしているわけではあるまい。逃げも隠れもするだろうし、放っておけばさらに悪事を働くかもしれない。早く捕まえたいのだが、猫だってマンガの世界では、たいてい鼠に負けることになっている。人間の知恵だって、勝てるかどうかはわからないのだ。
 そんな鼠を見逃してやりたい気もしないではないが、この鼠は何やら現内閣を倒しかねない深いトンネルに通じているらしい。一時の情で見逃して、安倍政治の延命を許したら取り返しのつかないことになる。ここは根性を据えて、追及の手を緩めずに取り組まねばなるまい。 

「ら抜き」言葉と、やまとことばの復権

 今朝の日経新聞のコラムで読んだのだが、「見ることができる」という意味での「見れる」が、使用頻度で「見られる」を上回ったということだ。これを「ら抜き」と言うのだが、「見られる」が正しいというという認識があるからだろう。文法書では「れる」と「られる」の助動詞は、受身、可能、尊敬、自発の4つの機能を持つと説明されている。そして、見る、着る、知る、来る、出る、取る、など2音の短い動詞には「られる」がつく場合が多い。思う、壊す、動かすなど3音以上の動詞になると、「れる」が多くなる。
 ただしこれは傾向としてそうなるので、絶対の区分とは言えない。だから「見れる」も、間違いとは断定できなくて、そう言わない人が多いから耳障りだというに過ぎなかったのだと思う。私が子供のころにも、この言い方はあった。田舎っぽくて上品とは思えなかったが、意味はもちろんわかった。今にして思うと、「見れる」は「見える」と同じで、用法としては「可能」を明示しているから、意味がはっきりする機能もあったわけだ。服を「着れる」も簡潔明瞭で、むしろ快い。
 用語用字は一種の民主主義の世界だから、使う人が多くなると辞書でも無視できなくなる。最初は「○○の誤用」と紹介され、やがて「○○ともいう」と市民権を得てしまう場合もある。「見れる」も多数派になったのなら、堂々と使えるというわけだ。ただし今後は「見れる」のが正しくて「見られる」は間違った古い言葉だなどと言ってはいけない。文法は法律ではないのだから。
 人々が日常に使う言葉に注意を向けるというのは、基本的に良いことだと思う。それは常用の日本語を豊かにすることにつながる。同じコラムに、やまとことばの復権をテーマにした本が好評だと紹介されていた。明治以後に漢語の洪水に押されて、今は輸入のカタカナ言葉とその乱暴な和製略語が入り乱れている現代日本語の中で、耳から聞くだけで意味のわかりやすい「やまとことば」を活用する試みは好ましい。これは文書の言葉と日常会話の言葉を近づける効果も持つだろう。
 たとえば「通達を回覧して周知します」は「お知らせを回して皆さんに知らせます」で意味は通じる。話し言葉なら、後者の方がずっと素直に耳に入るだろう。この例のように、少し工夫するだけで、漢語をやまとことば(本来の日本語)に置き換えられる場合は少なくない。これを一歩進めて、話すような言葉をそのまま文書にすればいいのだ。漢字の多い文書を立派だと思ってはいけない。漢語に頼らない文書こそが、日本人にとっては意味のわかりやすい情報になる。辞書のことを「字引」と呼んできたのは、漢字という「元は外国語」を理解するために、漢字の意味を知る必要があったからなのだ。
 やまとことばの復権については、一つだけ注意しておきたいことがある。それは意味を深めるために漢字に頼るなということだ。例えば「思う」と「想う」を使い分けても日本語を深めたことにはならない。軽く「おもいつく」のか、それとも深く「おもいをいたす」のか、かなで書いて意味のわかるのが本当の日本語なのだから。

算用数字の訓読みはおかしくないか

 昨日の「麦の歌」の歌詞で、「いつか信じる日を経て 一本の麦になる」のところを、NHKの字幕は「1本の麦」と表記していた。横書きだからそうなったのか、中島みゆきの作詞の原本からそうなのか確認はできないのだが、私は歌詞としては漢数字だろうと思って自然にそのように書いた。
 横書き文の中での数字は、算用数字の方が読みやすい。年号や時間なども2015年3月19日9時25分で問題はないと思う。ところが最近は「1つの例」「2人で来た」「3つの条件」といった書き方も見かけるようになった。読めないことはないのだが、算用数字は漢字ではないから、訓読みしてもいいのかという問題になる。たとえば「山本五十六」が「山本56」では、クイズにしかならないだろう。
 算用数字は「記号」であって、それ自体に意味のある「漢字」とは成り立ちが違っている。だから人名の「一郎」や「三吉」を「1郎」や「3吉」に、地名の「十日町」を「10日町」に書き換えたら、読み方の音訓にかかわらず本来の意味を失ってしまう。そのあたりまでの混乱は、今のところなさそうだ。
 しかし「憲法九条の会」は、固有名詞だが「9条の会」でも抵抗感はなくなってきた。もともと条文の番号だからいいのかもしれないが、使われる頻度によって抵抗感がなくなる例になる。ただし「第9条」という数字の感覚があるからいいので、これが「九重」のような訓読みだったら変化しなかったろう。
 総合して考えると、やはり算用数字を訓読みするのは「変だ」と私は思う。漢数字は音訓表で訓読みが認められている「漢字」だからいいという役所感覚ばかりではなく、算用数字の読み方までが規律を失ってぼやけて行くことに、日本語表記の「締まりのなさ」を感じてしまうからだ。この締まりのなさは、日本語を外国語として学ぶ人たちには、底なしの難しさに感じられることだろう。
 ワープロでばかり作文するようになってはいるが、日本語の今と未来のことを、少しばかり人並よりは真剣に考えている、私はそんな中の「一人」である。

「国民無視の民主主義」と「危険な安全保障」

 いま「言葉と歩く日記」(多和田葉子・岩波新書)を読みはじめている。不思議な本で、目次がなくていきなり一月一日の日記からはじまり、それが四月十四日まで続くらしい。著者はドイツ在住で、日本語とドイツ語で小説を書き、両方の国で文学賞を得ているということだ。この人の言語感覚が、日常の暮らしを通して語られるのが、なんとも面白い。
 暗い話題に疲れてネット漂流していたら、立ち読みでこの本の魅力に取り付かれたという人の記事があったので取り寄せてみた。読み始めてすぐ、一月五日のところにスイスの温泉に行った話があり、「熱い湯」とか「冷たい湯」とか、いろいろな種類の湯があると説明しながら、日本語では「冷たい水」と言わなければならないことに気づく。日本語では温度によって「水」は「湯」という別物になるのだ。
 ここで著者は「ほぐすことのできない単語に矛盾する形容詞を付けてみると、脳の一部がほぐれる感覚がある。」と書いている。そして入浴中の遊びとして類語を探してみたというのだが、その羅列がとても面白い。以下にその部分を引用してみよう。(以下引用)

 閉鎖的開国、国民無視の民主主義、病的健康、敗け組みの勝利、窮屈な自由、できるダメ人間、年とった若者、無駄なお金のかかる節約、贅沢な貧しさ、手間のかかる即席、安物の高級品、危険な安全保障。こうして集めてみると、これは単なる遊びではなく、社会を透かして見るのに必要不可欠なレトリックだという気さえしてくる。(引用終り)

 この著者の政治的な立場がどうなのかは知らないが、今の日本を見通していたように感じられた。発行は2013年の12月になっている。「脳の一部がほぐれる感覚」とは何だったのだろう。民主主義とか健康とかは、ふつうは「ほぐすことのできない」確定したもののように思われている。しかし使われ方によっては、本来の意味内容を裏切る場合があるのではないか。
 自信満々げに断定的な言辞を連発する安倍首相は、意欲が充実して健康そのもののように見える。だが、もしかしたらあれは一時的で病的な興奮状態なのではないかと考えると、とたんにそれが大きな不安の材料になってくる。反省を忘れて冷静な判断力を失った指導者ほど危険なものはない。
 同じように「民主主義」も「安全保障」も、その言葉で呼ばれるものが必ず本来の性質を保っているとは限らない場合があることを知っている必要がありそうだ。たかが言葉だが、政治は言葉の力を借りて国民の上に降りてくる。そして政治家とは、言葉を自分で都合のいいように言いくるめる術に長じた人たちなのだ。彼らの言葉を、本来の意味で「ほぐして」みる努力が欠かせない。

言うまいと思えど今日の寒さかな

 寒くなると思い出す中学生時代のクイズがある。英語を習いたての中学生が思いつくめちゃくちゃな遊びなのだが、こんなのがあった。
 You might think today's some fish.
という英文らしいものを見せて、これをどう読むかと聞いてくる友人がいた。変な文だなと考えていると「言うまいと思えど今日の寒さかな」だよと教えてくれた。ただしその友人の創作かどうかはわからない。もしかすると、当時は他校も含めて流布していたのかもしれない。昭和23年ごろのことである。
 それだけの座興なのだが、その後日本語と漢字との関係などを考えるうちに、借用語の音と訓の問題だということに気がついた。つまり You might までは「言うまいと」の音だけを借りているから意味は問題にならない。think で「思えど」と強引に意味を持ってくるのだが、前の might が何となく仮定形のような雰囲気をかもしている。today's で「今日の」の意味を使って、次の some は「さむ」の音だけを使う。そして 最後の fish を「さかな」と訓読みするところが奇想天外で、このクイズのハイライトになっているわけだ。
 これは中学生レベルの言葉遊びなのだが、日本人が中国から漢字を輸入したときは、国をあげて大まじめに同じような作業をしなければならなかった。なにしろ独自の文字を持っていなかったのだから、あらゆる言葉を漢字で書き表さなければならない。もし隣国がアメリカだったら、どんなにか楽だったろうと思う。苦もなく「やまとことば」をアルファベットで表記することを覚えて、その後も順調に発展させたに違いないのだ。
 漢字には、どう読むかの「音」とともに、その字が表す「意味」があったので複雑になった。それで中国での読み方である「音」のほかに、その意味に当る「訓」でも読んでしまう習慣が始まった。しかし使う感覚には「音・訓」の区別がないから、同じ文字が状況によって複数の音で読み分けられることになった。こんな芸当は、本場の中国人にも思い及ばないことだろう。この複雑さは、日本文学の初期からすでに始まっている。
 国語の授業で万葉仮名に「陰毛」という言葉が出てきたのでぎょっとしたことがある。ふりがなを見たら何のことはない「かげも」と読むのだった。「陰」は訓で「かげ」と読み、「毛」は音で「も」と読むのだ。表音文字の「かな」を独自に開発するまで、この不便さはずっと続いていた。
 今の英和辞典の fish のところに、「フィッシュ」と並んで「さかな」という発音が書いてないのは、私たちにとって幸運と言うべきかもしれない。それにしても、きょうは寒い日だ。

あんころもちありやなきや

 珍妙なタイトルだが、高校の国語の授業のとき、三木先生から教えてもらったので覚えている。昨夜の信濃毎日新聞の記事「岡谷に人道はありや、なしや」で思い出した。峠の茶屋の、のぼり旗だというのだ。「あんころもちあり 柳屋」と読める。これを「あんころもち ありや なきや」と読むと、間違いだよという教えだった。
 正しくは「あんころもち ありや なしや」または「あんころもち あるか なきか」でなければならない。助詞の「や」は終止形につき、「か」は連体形につくからだ。信濃毎日の記事は、もちろん正しい。ところが「行くか 帰るか」「行くや 帰るや」などでは、どちらを使っても支障がない。これは連体形と終止形が同じである動詞が多いからなので、区別があいまいになるという話だったと思う。
 誰でも文法を習ってから話したり書いたりするわけではない。使われている言葉を研究して、わかった法則が文法になる。法律の出来る過程と似ているところもあるかもしれない。文法の誤用が多ければ慣用として辞書にものるし、赤信号も、みんなで渡れば怖くなくなる。
 ここでは、あまり深入りするつもりはなかった。ついでに思い出した、少しエッチな「国語の問題」がある。文章の書き方や校正の講座で、前座に使うと、場をほぐすのに使える。「点の打ち方が大事ですよ」というお話。

 問題。次の文章に、点を二つ入れて、読みやすくしなさい。

「期待していただきたい女性映画の決定版」

(「正解」は、最初の「た」と、「女」のあと)

「跳ぶ」ジャンプと「飛ぶ」ジャンプ

 浅田真央は3回転ジャンプを「飛んだ」のか「跳んだ」のか、どちらが正解だろうというのをテレビでやっていた。一応は「跳んだ」が正解なのだが、漢字を外来の借用語だと知っていれば、「とんだ」と発音さえすれば、日本語としてはどちらも正解になる。日本語の「とぶ」には「はねる」意味も含まれるからだ。ただし足の力で飛び上がる動作には別に「はねる」という言葉がある。だから「3回転ジャンプ」を伝統的日本語で厳密に表現すると「はねあがり みたびまわり」が正しいことになる。
 地を離れて空中に上がるときに、鳥のように継続的に滞空することを「とぶ」と言う。漢字では「飛」の字を当てる。これに対して脚力などで一時的に浮くのは「はねる」であって、漢字では「跳」の字になる。ところが日本語の「とぶ」は、「飛」よりも少し広い意味で使われるようだ。父の郷里、静岡県の山梨に近い山地では、急ぐことを「とんで」と言っていた。鳥のように早くという気持だろう。
 スキーのジャンプは風に乗って遠くまで行くのを競うのだから、「飛ぶ」で抵抗はないだろう。では、ハーフパイプやモーグルで空中に上がって演技をするのは、「飛んで」いるのだろうか「跳んで」いるのだろうか。私の感覚では「飛」に近いような気がする。勢いあまって空中に浮くので、「跳」の感じとは違うのだ。英語で「エアー」と言うことからも、自然的無重力状態は「飛」がふさわしいように思われる。
 こういう理屈を考えるのはヒマつぶしにはいいのだが、じつはあまり生産的な作業ではない。日本語では「真央がとんだ」ことがすべてであって、漢字に当てはめて「跳」がいいか「飛」がいいかは、本来は中国人が考えればいいことだからだ。足の力で飛んだ姿が美しいから鳥のように見えたのなら、「飛んだ」でも一向にかまわないと思うのだ。
 一時は日本語を簡素にするために、「当用漢字」と「音訓表」を制定したことがあった。この思想だと「飛ぶ」と読む漢字は「飛」に統一して「跳」の字の訓は「はねる」だけになる。漢字の読み方を有限の数に限定すれば、国語の表記が統一され、読むにも書くにも覚えやすく使いやすくなると期待されたのだ。この考え方は間違っていなかったと思っている。
 しかし文や字が「手で書く」ものではなく「パソコンで打つ」ものになってから、日本語表記の複雑化に歯止めがなくなってしまった。奇想天外な漢字の読み方がクイズになり、そんな雑知識をたくさん知っていることが自慢になるような風潮は好ましくないと私は思っている。それは日本語を豊かにすることとは無関係で、おそらく有害でもあるからだ。
(追記・訂正です。「当用漢字音訓表」によると、「跳」の字の読み方は、音の「チョウ」しかありません。「はねる」は漢字を使わないのが原則でした。「とぶ」と読む漢字は「飛」だけです。)
(追記2・「音訓表」を適用すると、冒頭クイズの「跳んだ」は不正解で、「飛んだ」または「とんだ」と仮名書きしなさい、が正解になります。)

「あきらめる」ということ

 先日紹介したDr.鼻メガネさんのブログ記事に、医療でできることとできないことを「明らめる」という記述がありました。もうだめだと諦めるのではなくて、できることを知った上で最善の判断をするという、医師の良心が込められていると思いました。
 「あきらむ」は、漢字が輸入される以前から存在した日本の古い言葉です。夜明けの「あく」や、開いた状態を意味する「あき」「あかるい」なども、すべて同類の言葉でしょう。「あきらむ」も、心を開いた明るい状態が原義だったものに、ものの本体がよく見えてわかることも意味するようになりました。そこから発展して、もうわかったからそれ以上は考えない「諦める」になったのでしょう。
 「呆れる」は、ずっと後からできた言葉のようですが、諦めるの極端な場合に、江戸っ子が使い始めたのかもしれません。ここでは広辞苑をめくった程度にしか調べてないのですが、話にならんから見放すよという語感が伝わってきます。
 さて、呆れることの多い昨今ですが、諦めるを通り越したニュースがいくつも続きました。民主党のマニフェストから原発・エネルギー問題の展開、放射能対策、果ては小沢裁判に至るまで、立場によって何に呆れるのかが微妙に違うところはありますが、想定外のことが起こる世の中です。
 その中で、「諦める」のではなくて、少しでも「明らめる」努力をしようというのが、本エントリーの趣旨です。呆れたら川柳の一つも作って皮肉るのもいいのですが、この日本の国に自分も乗っているのですから、沈没しては元も子もありません。
 世界中で指導者が交代する変動の年になるのだそうです。指導者の交代だったら日本はすでに先進国ですから出遅れる心配はありません。誰の話が信用できるのか、聞きわけるためには諦めたらだめでしょう。「あきらめる」という日本語を大事にしようというお話でした。

「トラブる」という日本語

 trouble(トラブル)という言葉は、発音の仕方によって英語にも日本語にもなる。日本語として使う場合は、五段活用の自動詞になる。「トラブらない」「トラブります」「トラブる時」「トラブれば」「トラブろう(とする)」などと活用できるからだ。広辞苑を引いたら、ちゃんと見出しが立っていて、「支障を生ずる。故障する。また、その結果もたもたする。」と説明してあった。いつから採用されたか調べたかったが、1991年発行の第4版には、すでに掲載されていた。それ以前のボロボロになった旧版を捨ててしまったのが残念だ。
 トラブルと発音する最後が「る」音になることから、「走る」「滑る」などと同類の動詞としての活用もしたくなったのだろう。ちなみに英語のtroubleもよく似ていて、名詞として「心配、苦労」などの意味を持つほかに、「心配する」「苦労する」などの自動詞にもなる。ただし英語は「乱す」「苦しめる」などの他動詞にもなるのだが、日本語では「トラブルを起こす」「トラブルを負わせる」など名詞としてしか使えないところが少し違っている。
 これは、いわゆるカタカナ語を日本語化した成功例と言えるのではないだろうか。これだったら中国から漢語を輸入したのと同じことで、文字が漢字とカタカナで違っているだけのことになる。漢字ももとは外国語なのだから、troubleの文字をそのまま使ってもいいのだが、カタカナという表音文字を発明済みなので、それを使うのは理にかなっている。
 「トラブる」が完全に日本語化したら、他動詞にまで発展する可能性もある。「あの発言が会議をトラブった。」という言い方は、今は抵抗があるかもしれないが意味はよくわかるだろう。短い言葉で状況がわかると好意的に感じる人が多くなれば、使う人も増えて、やがて市民権を得ることになる。言語の世界は、常に多数決なのだから。
 このように、外来語を取り入れるということは、日本語を変えて行くことなのだ。英語が優勢な今の世界で、日本にも英語系のカタカナ語が増えてくるのは避けられないだろう。しかしそれは日本語を豊かにする方向であってほしい。なぜなら、私たちは言葉を使って物を考える生き物だからだ。
 いいかげんな薄っぺらな言葉を氾濫させたら、考え方も薄っぺらにならないか。それよりも日本には、ちょっと工夫すれば世界に輸出できるほど豊かな内容を持つ言葉がふんだんにあるではないか。昨日紹介した講座で井上ひさしさんが伝えたかったのは、そんなメッセージではなかったかと、一夜明けて考えました。

「ふくろうの会・お国ことばで語る民話」を聞く

 花てぼさんが参加している入間市市民グループの朗読発表会を、昨日聞いてきました。以前にも聞いたことがありますが、レベルの高さは、なかなかのものです。今回は福島、石川、福岡、広島の民話が聞けましたが、民話の内容には深刻で残酷なものが少なくありません。しかしそれが語り継ぎのお国ことばで語られると、時に笑いを誘うような面白話になり、教訓にもなるのです。日本語の豊かさということも感じます。
 途中で手まり唄が実演つきで入ったり、飽きさせない構成も見事でしたが、圧巻はやはり東京、京都、長崎、秋田、埼玉の5つの方言で演じた落語の「たらちね」でした。これはもともと言葉の違いをネタにした落語ですが、これを5人に振り分けて演じるのですから迫力が違って、抱腹絶倒の効果になるのです。
 3年前に、この方式で「桃太郎」を聞いたときにも書いたのですが、これは埼玉の入間市だから出来ることではないかと思います。東京圏のベッドタウンで古い団地もあり、全国各地から人が集まって言語のるつぼになっていた筈です。嫁に来て子育ても終った世代が、覚えている幼時からの言葉に郷愁を感じるのも自然なことです。それをまとめる埼玉の言葉というのが、これまた首都圏の隣りで何でもありの、いいかげんで乱暴な言葉だということに、ナレーション役の語りを聞きながら気がつきました。まさに「ダサイタマ」の真骨頂と言うべきでしょう。
 こうしてみると「ふくろうの会」のやっていることは、ご当人たちが思っている以上に、日本の言語資料としても面白い試みのように思えます。来年は10回目になるそうですから、この路線での名作を期待したいところです。
 ただしあまりプレッシャーがかかっては、やりにくいかもしれません。楽しくわいわいやっているうちに、台本が固まって行くような雰囲気がいいのでしょう。とにかく文句なしに楽しませていただいた2時間でした。

「日本語と時間」を読む(3)

 日本語の大きな特徴は、子音と母音を分離せず、組み合わせたものを「1音」とする感覚です。これを平坦に並べた「等時拍」が日本語の基礎リズムで、ハワイ語マオリ語など太平洋の諸言語と共通です。これを単調でない表現にするには、音の数で分節する「音数律」が有効であり、5音や7音を基本とする詩形式が生まれました。
 大野晋氏の研究で日本語の祖語とされているタミル語には、57577という日本の短歌と全く同じ構造の詩形式があるとのことです。私はここで連想するのですが、英語系の詩でも、リズムを作る強拍の数は、1行につき4個と3個の行を交互に置いて、2行目の最後で脚韻を踏む場合が多いのです。2行を1単位とすれば、やはり7つの音でリズムを取っていることになります。
 さらにこれが歌の楽譜になると、4拍子の7小節を歌って、8小節目を休符にすると歌いやすい歌になり、普及している民謡や唱歌では、この形式のものが非常に多いのです。もちろん英語の1拍と日本語の1音がそのまま対応するわけではありませんが、7つの音が人間にとって快いリズムを作るというのは、世界共通なのではないでしょうか。
 しかし短歌と英語詩には決定的な違いがあります。短歌は行わけを必要とせず、全部を1行にして読み下してもリズム感が得られますが、英詩は行わけし韻を踏むことで詩の表現になるのです。明治になって英語系の詩を日本語に訳した文人たちは、行わけの技術は身につけましたが、日本語で脚韻を踏むのは無理でした。しかし行わけによって日本語の現代詩も成立できたのです。
 形だけ見ると日本語の1字は英語系の1音節に対応します。これを歌の訳詞に当てはめると、困ったことが起こります。林光氏の「日本オペラの夢」でも論じていましたが、「野ばら」の歌の出だしの「わらべはみたり」の7音は、原詩のドイツ語をカタカナ表記すれば24字分に当ります。日本語では半分の内容も伝えられないのです。
 しかし、だから日本語は貧しい言語だということにはならないでしょう。日本語にだって英語圏に負けないような早口言葉もあります。音楽に乗せる日本語としては、若い人たちが次々に新しい表現を作り出しています。私たちの年代には聞き取りにくい歌も多くなりましたが、言葉が時代とともに変って行くのは、むしろ自然なことなのでしょう。
 古文の文法を知ることは、学習上の「検閲」ではない、より深く文章を味わうための道しるべであると著者は述べています。
(追記・中国にも7音5音の漢詩があります。)

「日本語と時間」を読む(2)

 日本語の過去表現が、かつては8種類もあって豊かだったということですが、それが急に全滅する筈がない、どこかに痕跡が残っているのではないかと夜の間に考えました。すると、今も残っている伝統的過去表現のいくつかに思い当りました。
 「まず結論ありきの議論では意味がない」と言う場合の「き」は、文語の生き残りで、まさに過去の一点で確定した事実を表しています。時間経過の「けり」は、現代語の「けりがつく」の「けり」と同じだろうと思って調べたら、その通りでした。「あと白波となりにけり」(白波と知らないとの掛け言葉)は、完全に事が終ったことを表しています。だから、一度終ったと思った紛争が再燃したりすると、「けりがついた筈なのにだめだった」となるわけです。「つ」はマラソン中継などで「抜きつ抜かれつの大接戦」などと使われます。終ったばかりだが確定せず、すぐに逆転もする「まだ固まっていない過去」の表現です。
 このように今も残っている「日本語の時間表現の繊細さ」は、大事にしたいものだと思いました。もちろん他の言葉で置き換えることは可能ですが、説明的な長い言葉にならざるを得ません。短い表現で奥深い内容を表現できるところが魅力なのです。その意味で、過去表現の「ぬ」の適当な現代例を見つけられなかったのは残念でした。「彼はさびしげに笑いぬ」と言うと、笑った余韻が残っているような顔が浮かぶのですが。
 ところで「けりがつく」の「けり」の発音は後高で、アクセントが逆転します。この本のおかげで日本語のアクセントについても多くを教えられました。その驚きの最大のものは、「日本語は本来、無アクセント」ということでした。言われてみれば、宮中歌会始めの和歌朗詠は、極端に引き伸ばされてはいますが、完全な一本調子です。お坊さんの読経も、日本では漢字の棒読みになってしまいました。中国では四声があるので、もっと会話に近く、意味がわかるように読まれていた筈なのですが。
 日本語のアクセントは、波のように国土を覆って変動するのだそうです。要するに単語が聞き取りやすい「ご都合主義」で、どのようにも変るのです。そうでなければ関東と関西で多くの単語のアクセントが逆になり、それでも日本語として通用するなどという現象が起こるわけがありません。若者言葉や、一定の職域での独得のアクセントなども同じことでしょう。
 放送のアナウンスは東京地方の標準的アクセントで行われますが、アクセント辞典でも、多くの言葉に複数の発音を表記しています。時代によっても変るので、あまり固定して考える必要はなさそうです。

「日本語と時間」を読む(1)

 「日本語と時間・〈時の文法〉をたどる」(藤井貞和・岩波新書)を読みました。学術書に近い高度な内容で、全部を理解するのは難しかったのですが、日本語の成り立ちと現状との関係がわかり、詩歌の音律の問題にまで及んでいて、示唆の多い本でした。
 著者の中心テーマは、日本語における「時」の表現方法です。古代の日本語には「過ぎてしまったこと」を表す豊かな表現があり、それは英語系の「過去形」よりも、はるかに奥行きの深いものでした。それらは基本形として「き(過去の一点)」「けり(時間経過)」「ぬ(緊迫)」「つ(近時)」「たり」「り」の6種があり、さらに「けむ(過去の推量)」と「あり(たり・けり等の構成要素)」を加えた8種が使い分けられていたというのです。
 なぜ英語系(インド・ヨーロッパ語族)のように過去・現在・未来の明快な3時称にならなかったかは、人間にとって時間とは何かという根本にかかわってきます。人が過去を語るとき、過去の出来事は確かに済んでしまったことですが、語っている本人は現在に生きています。もし過去の人の言葉を現在の人が語るとすると、時間は重層的に重なって、単純な3時称などでは表現できないのは、むしろ自然なことかもしれません。それを見事に表現しているのが日本の古典文学なのです。
 物語りの中では、時間は登場人物とともに移動します。そこには物語の舞台という時間枠がありながら、登場人物にとっては時間は常に現在なのです。その複雑な時間移動を表現するために、時間を表す助動詞(著者は助辞と呼びたいそうです)が発達しました。動詞の形を変えて時間を表現した英語系とは、そもそもの成り立ちが違うのです。ですから著者は現在でない時間表現を「非過去」と呼んでいます。過去は表現者によって切れ目なく現在とつながっているのです。
 ところが近代になって英語系の言語と接するようになると、日本語にも時間表現の「合理化」が起こりました。日本語でも口語では時間表現は単純化して使われていたのですが、それが促進されたのです。そして結果として残った日本語の過去表現は、「た」の一つだけになってしまいました。
 英語では過去形の文章がいくら長く続いても違和感がありませんが、それを直訳した日本語は「…た」の連続になってしまいます。伝統的な時間表現の豊かさは失われてしまいました。ですから時に現在形を混用してリアル感を出したり、過去を強調したいときには「…したのだった」と「た」を重ねてみたり、私も苦心しているところです。小説を書く人は、もっと苦労していることでしょう。
 このように、ふだん忘れていた日本語の深層を考えさせてくれた本でした。英語系との育ちの違いは、詩歌の世界にも大きな影響を与えますが、その話題は次回とします。

「正しい行いをする」って、どういうこと?

 なにか社会時評的なテーマと思われるかもしれませんが、純粋に言葉の問題です。さぽうと21のボランティアで日本語を教えている、ミャンマー難民の成人女性からの質問でした。子供たちは学校で勉強しますが、親世代の人たちの方が、かえって日本語の習得に苦労している場合が少なくないのです。
 この人に漢字の初歩を教える途中で、「正しいおこないをする」という例文が出てきました。ここでは「正」という字を書ければいいのです。しかし研究熱心な彼女(仮名をケノさんとしましょう)は「おこない」って何ですかと質問してきました。この答えは、なかなか難しいのです。片言の日本語しか知りませんから、「すべて行為の総称」などと説明しても、わかるわけがありません。私も少なからず困りました。
 幸いにして、ケノさんは「正しい」と「間違い」は、わかると言います。「良い人」と「悪い人」もわかります。すると「いつも間違いをしない良い人は、わかりますね」「はい、わかります」とケノさん。「では、間違いをしない良い人は、正しい行いをする人です。これは、わかりますか」「はい、わかります」「だから、正しい行いというのは、正しい人がすること全部です。『おこない』というのは、すること何でも全部なんです。」ケノさんは「わかりました」と言ってくれましたが、これで完全に理解できたとは思えません。翌日になって「悪い行い」もあるのを教えなかったことに気がつきました。 
 基本的な抽象語は、教えにくいものです。ケノさんは少し英語がわかるので助けられることもあるのですが、behavior は知りませんでした。ミャンマーには「おこない」に相当する言葉があるでしょうが、私は知りません。ミャンマーの人に、ミャンマーの言葉を知らずに日本語を教えるというのは、本当は無理なのです。その無理を承知でボランティアをしている現状を、改めて認識させられました。
 ケノさんは、私が教えて理解できたことがあると、何でもすぐに母国語でノートに記入しています。その熱心さがあれば、日本語の壁も少しずつ破って行けるでしょう。副教材として、私の詩集も一冊ケノさんに贈呈しておきました。漢字の少ない作品を説明しながら読み、合わせて朗読の練習をしています。成人への日本語教育なら、内容のあるものを読んだ方が、興味が続くだろうと思ったのです。
 手さぐりで進めているボランティアですが、教えることで自分が教えられ、日本語とは何だろう、言葉とは何だろうと考えています。

日本語も漢字離れできる

 昨日のエントリーに「ろるる」さんから頂いたコメントがヒントになって、漢字に頼らずに日本語を書くことを、かなり真剣に考えてみました。コメントの趣旨は、「中国人が字を忘れた場合は、かな文字で書くことを知らないから何も書けない」ということでした。日本語は柔軟性があっていいという文脈でしたが、これは逆ではないかと思いました。
 たとえば英米人が submarine(潜水艦)という言葉を忘れたとしたらお手あげですが、言葉は覚えているが字が書けないという場面は、あり得ないでしょう。言葉は知っている(読める)が、字として書けないことの方が、よほど異常で大きな問題なのです。
 表意文字の漢字は、発達につれて限りなく複雑化し数を増やしてきました。その漢字を輸入した日本語には、結果として多くの同音異義語が発生してしまいました。たとえば広辞苑を引くと「こうしょう」という見出しの下に49の項目が並んでいます。「交渉・高笑・口承・校章・公称」などなど、きりがありません。だから漢字をやめることは不可能だと感じられます。しかし、本当にそうでしょうか。会話では、なんとか音声だけで用を足しているではありませんか。
 もしも漢字をやめたらどうなるか。おそらく「交渉」の意味が多用されて、ほかの語は「高笑い」「口伝え」「学校の徽章」「公には」といった言葉に置き換えられて行くことでしょう。それは本来の日本語である「やまとことば」を健全に発達させることに他なりません。この方向へ進めば、日本語は確実に、学びやすく使いやすい言語へと進化するでしょう。それは外国人にとって学びやすいばかりでなく、将来の日本人にとっても福音であるに違いないのです。
 今になって私は、加藤周一氏の、比較的初期の論説を思い出しています。単行本であったか雑誌への寄稿であったかも定かではないのですが、日本語の将来を論じた最後が「すべての道は、ローマ字に通じる」と結ばれていました。それを、もう一度真剣に考えてみる気になったのです。
 日本語をローマ字表記する場合は、LQVXは使いませんから22字で足ります。加藤周一氏の部分を書いてみると、こうなります。
Ima ni natte watashi wa, Katou Shuuichi-shi no, hikakuteki shoki no ronsetsu wo omoidashi-te imasu. Tanko-bon de atta ka zasshi eno kikou de atta ka mo sadaka dewa nai nodesu ga, nihon-go no shourai wo ronjita saigo ga "subete no michi wa roumaji ni tsuujiru" to musubare-te imashita. Sore wo, mou ichido shinken ni kangae-te miru ki ni natta nodesu.
 どうでしょう。慣れさえすれば、案外すらすらと読めそうな気がしませんか。そして同時に、日本語の文法というものが、自然に頭に入ってきたのではないでしょうか。 


日本語試験の難しさ

 インドネシアやフィリピンから、日本での就職をめざして来ている看護・介護師研修生たちの、国家試験合格率が非常に低いことが問題になっています。知識や経験があっても、試験問題の日本語の難しさが壁になっているので、単語に英語併記などの対策を考えるということです。
 外国語として学ぶ日本語の難しさの大半は、漢字の使い方の複雑さから来ていることは、在日外国人に日本語を教えるようになったこの1年近くのボランティアを通して痛感しているところです。3年目の優秀な高校生で、日本語の読書がほぼ自由にできるようになると、あとは自力で語彙を増やして行けるのですが、その段階になるまでが大変なのです。
 ひらがな、カタカナ各50字と漢字が約2000字あり、その漢字は、それぞれが複数の読み方(音・訓)を持っていて、使われ方によって意味も変化します。事前の6ヶ月の日本語研修で身につけるのは、至難の業に違いありません。来日してからも、寝る間も惜しんで勉強しているのに間に合わないというのも、無理ないと思ってしまいます。
 日本を舞台にして半生以上は活躍したいという強い意志があれば耐えられるでしょうが、10年ぐらいも出稼ぎに行ってみようか程度の感覚では、日本語の学習は「引き合わない」だろうと私は思います。そもそも、日本における看護師不足は、万難を排して海外から応援を受けなければならないほど深刻なのでしょうか。それならば医療現場を、英語でも意思疎通ができるようにバイリンガル化した方が早道かもしれません。
 海に囲まれた日本の国は、中国から適度の距離を保っていたおかげで、独自の文化を発展させることができました。この国で使われる言語も、同じように和語と漢語の混合によって、独自の言語として成長してきました。日本語の「島国性」は、地理的な島国性よりも、はるかに徹底していると私は思っています。
 この日本語を、今よりもさらに難しくしてはならないと私は思います。安易な漢字の多用は避け、「耳から聞いただけでわかる日本語」に近づけるように、不断の努力を続けるべきだと思うのです。

漢字と日本語と外国人受け入れと

(熊さん)昨日は珍しくブログがお休みでしたね。その前の日に、えらく張り切ってたから、知恵熱でも出して寝込んだかと思いましたよ。
(ご隠居)この年で知恵熱はないだろう。土曜日ってのは、週のうちでいちばん忙しいんだよ。さぽうと21で、午前と午後と、在日外国人の高校生に日本語を教えてるんだ。日本語たって、大部分は漢字を覚えさせることだけどね。中学生ぐらいで親の都合で日本へ連れてこられて、日本の学校へ通うんだから、その苦労ったら、並たいていじゃないさ。
(熊)日本人の大人だって、漢字でけっこう苦労するもんね。
(隠)彼らの漢字の覚え方を見てると、面白いことに気がつくんだよ。わしらは漢字の変な訓読みが苦手で、よくテレビでクイズになったりしてるけど、彼らは漢字を訓つまり「その文字の意味」で覚えていることが多い。だから「暖冬」は「あたたかふゆ」と読みたがるんだ。これを「ダントウ」と読むのに苦労してる。もちろん音と訓の区別なんか意識してないが、素直に読んだら、むしろ「あたたかふゆ」の方が日本語としては正しい。直すのがもったいないと思ったりするわけさ。
(熊)たしかに「あたたかふゆ」なら、子供にだってわかりますね。
(隠)日本語は専門の高度な学問になるほど漢語が増えてくる。そのおかげで表現が短くなるなどのメリットはあるんだが、なにしろ明治時代からの伝統だから、古い漢籍の知識で作られたものも多いんだ。看護師の試験で話題になった「褥瘡」(じょくそう)は、「床ずれ」のことなんだが、どちらの字も常用漢字には入っていない。日本人の看護学生だって、説明されなきゃわからんだろう。わかりやすい日本語にした方が、長い目で見たら、日本人のためにもなるだろうね。
(熊)インドネシアから来た看護師さんが、知識も技術もあるのに、日本語の難しさが壁で、試験に合格できないそうですね。
(隠)だから可哀そうってことじゃなくて、外国人にそれだけ難しいってことは、日本の子供にも知らぬ間に重い負担をかけているってことだ。日本の文化としての日本語をどうして行くか。ワープロで変換できるから漢字を増やせばいいっていう簡単な話じゃないんだ。わしは最近、漢字が書けなくなっていて、毎回、教えるのに冷や冷やしてるんだよ。
(熊)ご隠居がそれじゃ、おいらが書けないのは当り前だね。


漢字の難しさと面白さ

 私が「さぽうと21」で定住外国人を支援しているのは、漢字の学習が大半です。とにかく教科書に書かれている日本語の意味がわからなければ、あらゆる教科の勉強が成り立ちません。そして日本語学習の最大の難しさは、言うまでもなく漢字の読み書きを覚えることです。
 外国人といっしょに日本語を読んでいると、私たちがいかに多くの漢字を知っていて、なおかつ、いかにそれらを複雑な読み方で使っているかを、改めて意識させられます。時々は冗談まじりに「済まないねぇ、日本人の先祖が中国から漢字を借りてきて、こんな勝手な使い方を始めてしまったものだから」と言い訳をしています。
 しかし、漢字にはもちろん長所も魅力もあります。先日は漢字の成り立ちについて、雑談的に話して興味を持って貰うようにしてみました。ネタは、高校時代に歴史の増井経夫先生から教えられたものです。話題にしたのは「偉・違・囲(圍)・緯」に共通する発音と意味についてです。
 この4つの字に共通するのは「韋」で、これは「い」という音を持ち、形としては、中央に四角い家があって、上下に足跡の形があり、上は左に、下は右に歩いているところです。つまり家の外を複数の人が歩いていることを示しています。これに人を表す「にんべん」がつくと、護衛がついている「偉い人」になります。周囲を大きな四角で囲うと、文字通りに「圍んだ」ことになります。さらに「しんにょう」をつけて連続させると、上下の人は互いに反対に歩きますから「違(たが)う」ことになります。そして「いとへん」では、上も下も左右に向いていますから「経緯の緯で織物の横糸」の意味になるのです。
 このように形声文字ではあっても、音符の「韋」には象形文字としての意味が残っています。一見無意味に複雑なようでも、それなりの成り立ちがわかってみれば、多少の親しみが感じられるのではないでしょうか。だから漢字は面白いと思ってくれたらいいのですが、新しい字を覚えるのに追われている立場としては、余計に大変だと思われたかもしれません。でも面白そうに笑ってはくれました。
 あなたは世界で一番難しい言葉を習っている。だから日本語をマスターしたら、世界のどこへ行っても大丈夫だよと励ましながら、私は土曜日の4時間を過ごしています。でも、漢字の使用を無制限に増やすことに対しては、私は今でも絶対に反対です。

漢検ブームを疑う

 日本漢字能力検定協会が、公益の財団法人でありながら不明朗な会計をしていると批判されています。なぜ漢字能力の検定が公益なのか疑問を感じて財団の寄付行為(会社の定款に当る基本文書)を見たら、「日本人の日常生活に欠くことのできない漢字の能力を高め、広く漢字に対する尊重の念と認識を高めるため……」と謳(うた)ってありました。
 漢字は日本語の一部分ですから、漢字能力の向上は公益だという理屈なのでしょう。しかし漢字ブームの受験者増で過大な利益が積み上がったのが問題になるくらいなら、公益として保護する必要はなさそうです。認可を取り消し一般の事業者として、利益に課税すればいいだけの話に思えるのですが、財団をつぶしては困る事情があるのでしょうか。
 漢検に疑問を感じるのはその経営だけでなく、今の漢字ブームの内容が、日本の国語教育にとって手放しで喜べるものではないからです。過度な漢字の横行は、日本語の読み書きをさらに複雑にして、学びにくく使いにくいものにする危険をはらんでいます。最近のテレビのクイズ番組などを見ていると、漢字を使って自由競争による知識の差別化をはかり、知らない人を笑って楽しんでいるような傾向が見られます。しかし、これは日本語を豊かにする道ではありません。
 たとえば和語を漢字で、「さながら」を「宛ら」、「さよう」を「左様」、「さほど」を「然程」と書いてみても、これは漢字を正しく理解することとは無関係です。むしろ「そのように」を意味する「さ」の語感を失わせて、本来の日本語の表現力を衰弱させる危険をはらんでいるのです。こう考えれば、漢検がやっていることは、日本語文化の向上をはかる「公益法人」ではなくて、正反対の「公害法人」ということになります。
 無理な漢字の「当て込み」は、漢文だけが正式な文章と思い込んでいた明治の文人たちの遺物でした。常用の漢字総数を2000字程度に抑制し、音訓の使用範囲にも一定の規範を設ける努力は、日本語を私たちの共通理解のツールとして使いつづけるために、これからも必要なことなのです。漢字の「えせ(似而非)知識」で、日常の言葉の中にまで差別を持ち込むのは愚かなことです。

「日本語が亡びるとき」を読んで(4)

日本語の長所として、私が日ごろ感じているのは「速読性」です。文章の中に散らばる漢語が目印になって、要点を掴むのが非常に早くできるのです。「ななめ読み」という言葉がありますが、資料探しなどで飛ばし読みをするとき、文面を数秒間見回すだけで、書かれていることの見当がつきます。これは英語はもちろん、漢字だけが並ぶ中国語でもできないことです。また、パソコンの単語登録機能を使っての作文では、漢字が多くても苦にならず、書く速度も見劣りしません。日本語は実用性にもすぐれた言語だと思います。
 しかし、日本語の真価が発揮されるのは文学の分野です。科学技術の文献は、正確な普遍語で書かれていればいいのですが、人間の発想は母語から生まれます。日本人は日本語で考えるのです。古代中世の日本文学が、独特の価値を持っていることに異論はないでしょう。同じように近代以降の日本文学にも、文化的な価値があります。それらは英語に翻訳されてもいますが、たとえば日本近代文学を象徴する夏目漱石は、英語訳では、あまり評価されないそうです。しかし本格的に日本語を学んだ研究者には、その魅力が理解されるということです。つまり、人間の真実を表現する言語は、一種類の普遍語だけで済ますわけには行かないのです。 
 世界に多くの言語が存在しているのは、それぞれの意味があるので、それは植物界や動物界の多様性と同じことです。コミュニケーションの道具という、言語の機能の一面だけを考えて、世界に一種類だけあればいい、強いものが世界を統一すればいいというのは、人類の文化を貧しくするのではないでしょうか。
 この本に、そこまで書いてあるわけではありませんが、著者は最後に、日本の国語教育について重要な提言をしています。日本語を、放っておいても自然に覚えるものだと安易に考えてはいけない。まして日本語は、英語よりも難しい言語です。樋口一葉や夏目漱石が、そのまま読める程度の読解力は、義務教育の間に全員に身につけさせてほしい。そして日本語の表現力を高めて行く力も持たせてほしいというのです。
 カタカナまじり、英語まじりの日本語は、歌謡ポップスの歌詞では、もう当り前になりました。日本語は英語とも融合しながら、新世代の言語へと変身するのでしょうか。そして将来の日本語は、貧弱な「現地語」の一つに落ちるのか、それとも世界文化の一翼を担う主要な言語であり続けるのか。私は、そんなことも考えました。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
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