志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

自然・旅・地理

台風一過の晴天

 台風一過の晴天になった。風ではたいした被害もなく、木の葉が駐車場に散らばった程度だった。地下室の水漏れも拡大することなく、雨量も多くはなかったので、夜になっても心配はなかった。
 台風のあとは、どうしてこんなに良い天気になるのだろう。夏日が復活しそうな日差しである。洗濯物が、目いっぱいに干してある。吹き抜ける風が心地よい。
 このところ、気分は穏やかである。不満の種は、非常に少ない。私の家族の今と未来については、すべてが順調に回っている。その余のことは、どうでもよい外周に過ぎなくなった。あるべきものが、あるべきように納まればそれでよい。
 私の親友の釜石の実家には、ゴッドマザーと呼ぶべき実力者の母上がいた。その人のヒューマン・ドキュメンタリーを制作したとき、その人が残した遺言書の話を聞いたことがある。どんなことが書いてあるのかと、顧問の弁護士を含めてうやうやしく開封したところが、そこに書いてあったのは、「みんな仲良く」の一言だったというのだ。それを見た三姉妹は、その言葉の通りに、互いに譲り合って遺産分割の話し合いを進め、何の不平不満も残さなかったということだ。
 家族というものは、そうありたいと思う。今の暮らしの延長として未来があるのなら、あるいは遺言そのものが不要なのかもしれない。「あとはよろしく頼む」だけで、いいのではあるまいか。一応は用意した遺言書はあるのだが、本当は何も要らないのかもしれない。
 

箱根の緑の中で

 昨日の昼まで、姉の一家とともに箱根にいました。夏は終りに近くても、木々の緑は、まだ全盛期のままです。最近の東京では聞かれなくなったひぐらしの声が、遠くから聞こえていました。姉家族の帰り支度を待つ間に、ベランダの椅子で休んでいた私は、知らぬ間に居眠りをしていたようです。
 一瞬、私は自分がどこにいるのか、わからなくなりました。ただ、懐かしいような安心感がありました。私は夏の箱根にいる。まだ高校生なのかもしれません。緑の中にいて、風に吹かれているのが好きでした。近くには父親がいて、剪定した枝で焚火をしていたに違いありません。もちろん暖をとるためではありません、ゴミを減らして灰を肥料にするためです。山育ちの父は、箱根に山小屋を購入してからも、毎日のように山仕事をしていました。それは楽しみのためというよりも、自分に課した仕事のように見えました。安楽椅子に深く腰を下ろして休んでいるような父を、見たことがありません。「俺は山猿だ」というのが、死ぬまで変わらなかった口ぐせでした。
 この父のおかげで、私も箱根の山を、自分の第二の故郷のように感じるようになりました。ただしそこには何の生産性もなくて、ただ気の向くままに山歩きするのが好きになった、というだけのことなのですが。
 その箱根から帰ったきょう、頭の中が、少しすっきりしているような気がします。あるべきものが、あるべきように見える、ということでしょうか。個々の人間は、所詮は本人の大きさに応じてものを考えるしかないのでしょう。それらすべてを統括した外側に、緑の風が吹いているのです。余計な心配は、要らないのでした。
 

なんという夕焼けだ

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 昨日の夕方、西空の夕焼けがみごとだった。すぐに連想したのは、母が見送った最後の年末に、箱根の山荘の居間で綴っていた日記帳の言葉だった。それは私の知らない母の、祖父母や父母へ向けた感謝と愛の告白であり、大自然に託して「この世に生きたこと」への、尽きることのない喜びを述べたものだった。
 西方浄土に、今は亡き父母や、もろもろの会いたい人たちがいるのかどうか、私は知らない。私がこれまで考えてきた「思想」に従えば、それらはむしろ幻想だろうと思う。にもかかわらず、こういう夕焼けに対面すると、私でも心がさわぐのは、なぜだろう。
 こういう空を見ていると、私でも「あっちへ行って母に会ったら、何を話そうか、と思ってしまうのだ。
 ただし、私の妻は、まだ「あっち」にはいない。祭壇の骨壺の中にいて、今でも毎日、ほとんど一日中、私と会話している。

夏水仙が2輪になった

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 夏水仙(じつは「タマスダレ」)の花が、二輪になった。つづいてあと三つぐらいは、すぐにも咲きそうな花芽がある。このプランターの花の咲き方をレポートしていると、当分はブログのネタに困らずに済むかもしれない。
 私の父は、子供たちに日記を書かせることに熱心だった。自分が青年期に日記を書き続けていて、それが精神的な支柱になっていた記憶があったらしい。私の日記の習慣もそこから始まっていて、今のブログにもつながっているのだが、子供にもいろいろな個性がある。私の下の姉は、日記を書くのがきらいというか、不得意だった。それでも父は日記を書くことを強制していたから、女学生時代の姉はつらかったろうと思う。さらにいけないのは、時々書いた日記を見せろと言って検閲までしていたのだから気の毒だった。
 そこである時期、姉は、当時家の庭で飼っていた鶏が生んだ卵の数を、日記に記録するようになった。それなら書くのが楽で、長く続けられると思ったのだろう。他に書くことがなくても、日記帳が空白にならなくて済む。ところがその日記の書き方が、安易だと言って責められる事態になった。父はそれを見たら、子供にも得意なことと不得意なことがあるのを悟るべきだったと、今の私は思う。でも父は結局、死ぬまで頑固者としての性格を変えることはなかった。
 下の姉は、のちに友人のつてでスペイン大使館に手伝いとして入ったのだが、そこで短期間のうちにスペイン語の会話に上達して私たちを驚かせた。教科書的な学習ではなく、コミュニケーションとしての外国語習得には、すぐれた能力を発揮したのだった。自信をつけた彼女は、やがて私に「英語を教えて」と言ってきた。少しだけつきあってあげたら、次は「生まれて初めて試験で100点取った」と、私に笑顔を見せてくれたのだった。
 その姉は、やや高齢になってから理解ある夫を得たのだが、子供は授からなかった。数年前に、「もう私のことは心配しないで」と、さびしいような電話をかけてきたのだが、その声は明るかった。寡婦となって住んでいた家は、行ってみたら整地されて分譲地になっていた。
 

「夏水仙」が一輪

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 ベランダに置いてある夏水仙が、一輪だけ咲いた。植物に疎い私は、ウィキペディアで確かめようと思ったのだが、そこに「夏水仙」の名で出てくる画像は、どうもこの花とは違っている。しかも水仙の仲間ではなくて、彼岸花の属だと書いてあった。するとこの花は、いったい何なのだろう。
 この花とのつきあいは長い。草加団地に住んでいたときに、家に入る戸別の玄関前通路の両側に、この花が植えてあったのだ。植えたのは妻で、「夏水仙、きれいでしょ」と自慢していた。まだ幼児だった長女は、白い花が並んでいる、「きれいな玄関前を通ってお家に帰るのが楽しかった」と言っている。それからずっと、私たちは、これが「夏水仙」だと思ってきた。
 長女はそれを覚えていて、最近になって近所を歩いていたときに、「夏水仙」を見つけて、種をもらってきたのだと言う。それが数年かかって増えて、プランターに一杯になってきた。
 妻が最初にこれを植えたときは、たぶん誰かに分けてもらったのだろうと思う。そのときに、これは「夏水仙」と呼ばれていたのだろう。この画像から、正しい名前を教えてくださる方がおられたら有り難い。画像から正しい名前を知るというのは、ウィキペディアでは、なかなか難しいのだ。
 ものの名前というのは、何だろう。その原点は、「会話する仲間同士の共通認識」であればいいのだ。たとえば「おじいちゃん」は、家庭の中では固有名詞として通用している。「父さん」「かあさん」も同じことだ。そしてその呼称は、「その家庭内の、最小年齢者を基準として決まる」という一般法則がある。
 話がやや脱線しそうだが、本日のテーマは、「この花の名前をご存知でしたら、教えて頂けませんか」ということだ。ただし家庭内の会話では、「夏水仙」のままでも一向に差し支えはないのだが。

帯広へ行ってきました

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 13日(火)から15日(木)まで、長女夫妻とその長男と私の4人で、2泊3日で帯広にある婿殿の実家へ行ってきました。天候は台風がらみでやや不安定でしたが、雨にも会わず、無事に帰ってきました。中日には、孫の運転する、ゆったりしたレンタカーに乗り、180キロ走って道南の名所を訪ねて回りました。冬の北海道の気候は、本当に快適です。窓を少し開ければ涼風が入り、冷房を使うこともない汗知らずの旅でした。
 写真は上から、着陸する寸前の帯広空港の周辺です。広い農地と牧草地の連続は、2013年に「そりゃないよ獣医さん」を訪ねた道東中標津とよく似ていると思いました。降り立ってからの、大平原を貫く直線道路の風景も似ています。
 ただし訪ねたお宅は、帯広の中心街から少し離れた住宅街の中です。長女は静岡に似ていると言っていましたが、総じて宅地が東京よりは広く、そして個別に塀で囲う習慣がないのです。
 そんなことよりも、今回は婿殿のルーツにつながる「家族の物語」を聞けたことが収穫でした。婿殿の母上は、私の妻と同年(同学年)なのです。そして帯広から遠くない芽室という町の出身で、9人きょうだいという大家族で育ったとのことです。結婚の縁は、教育者の家系から結ばれたようですが、夫は長命ではありませんでした。早くから母一人、子一人となり、息子が高校を出たあとは、東京へ送り出して自立を促し、自分も自立しようと覚悟を決めたとのことです。
 家はしっかりした作りの二階屋で、書棚には世界文学全集などの教養書が詰まり、ピアノも高度なステレオセットも備えてあり、クラシックのレコードも揃っていました。この家から学齢期の一人息子が去ったあとの、母親一人だけの暮らしは、どんなものだったのでしょうか。朝に目覚めて起きるまでの床の中で、こんな歌ができました。
(ふと思う)
この家を ひとり守りて過ごしたる
その年月(としつき)の長かりしこと 
 朝の食卓の席で、この歌の贈呈式をしようと思ったのですが、読もうとした瞬間に、不覚にも涙腺がゆるんで涙声になってしまいました。それでも母上は、一応の書式は整えた私のメモ用紙を、大事そうに箪笥の最上段の小引き出しに仕舞って下さいました。
 一組の男女が結ばれると、そこから一つの家族が生まれます。その血縁は、子の世代に引き継がれて、また新しい縁を結びます。その連鎖は、おそらく考えられる限りの永遠に続いて行くのでしょう。生きていて良かったと、本当にそう思います。

お盆休みで15日まで北海道・帯広へ

 暑い夏が続いていますが、明日から15日まで、長女の一家と帯広へ行ってきます。婿殿の母上に会い、孫息子はレンタカーで北海道の大地を走りたいのだそうです。
 私としては、たぶん飛行機に乗る最後だろうと思っています。
 私が初めて北海道へ行ったときは、まだ学生だったと思います。版画家の河野薫さんに案内されて、竹久夢二の相続者のいる道南の様似まで、冬の時期に行ったのでした。父の「野ばら社」で、「竹久夢二詩歌集」を出版するためでした。河野さんには登別温泉にまで案内していただいて、帰りに連絡船で青森まで着いたとき、河野さんに宛てて「ホクカイノ ユキアタタカク ワカレケリ」という電報を送ったのでした。
 成人してからは、ただ「宗谷岬から樺太を見てみたい」一心で、正月休みに一人で出かけたこともありました。このとき、「冬の北海道の戸外には、液体の水は存在しない」ことを知りました。
 そのあとは、ゼンセン同盟の「返せ!北方領土」の運動にかかわり、若い組合員グループの「トレーニングツアー」に同行して、記録をスライド作品として制作したこともありました。夏の北海道は、本当に快適です。仕事のおかげで、私も長期にわたって、活発に各地を歩き回ることができました。
 今になってようやく、「年相応に、楽にしているのが一番いい」と思えるようになりました。朝夕に見かける亡妻の遺骨も、「それがいいよ」と言っているような気がします。私よりも若い妻が、私より先に逝くとは思いませんでした。
 今回の旅が、遠くまで出かける最終回になるのかどうか、あまり固く考えないで、まずは楽に行ってきましょう。
 
 

梅雨前線豪雨という新災害

 九州・鹿児島地方の豪雨についてのテレビ・ニュースを見ていると、「梅雨前線豪雨」という、新しいタイプの災害が出てきたような気がする。梅雨の季節は昔からあって、その終り近くに時として大雨が降ることは経験してきたが、今回の豪雨の解説を聞いていると、梅雨前線の特定の位置に大雨が集中し、しかも同じ位置に滞留するというのは、構造的にあり得る現象のようだ。
 世界的に見ても、大洪水とか、その反対に深刻な干ばつとか、気象が極端に振れやすくなっていて、それはたぶん地球規模の気象温暖化に原因があるという説を読んだことがある。それによると、日本列島は、やがて温帯ではなくて熱帯の気候に近づいて行き、北極海は氷が減って、国際航路として使いやすくなるということだった。
 人間の文明が地球規模の気候の変動を引き起こしても、人間はその新しい気候に適応しようとするだろう。それは深刻化すれば、世界にとっての大問題となり、もしかすると戦争を忘れさせるほどの緊急課題になるかもしれない。あるいは反対に、生存競争をかけた国際紛争を多発させるのだろうか。人類は、それほど愚かではないと思いたいのだが。
 欝々と雨に降り込められていると、どうも考えることが陰気になってくる。天気予報の週間予報には、太陽マークが一つも出ていなかった。梅雨明けについての予報はまだ聞こえてこない。ちょうど夕飯時が近づいて、次女が「晩ごはん、チャーハンでもいい?」と聞きに来た。「ああ、いいね」と答えたが、本当にありがたいことである。こういう家と娘たちを、妻が残して行ってくれたのだ。
 

青梅が 大きくなって 六月に

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 6月になって、今年も梅の実が大きくなってきた。とりあえず、午前中にここまで書いた。このあとはどうするか、昼飯のあとで考えよう。
 

箱根は新緑と鳥の声

 週末の1泊2日、箱根へ行ってきました。姉の家族が「別荘」と呼んで愛用していた仙石原の小田急箱根ハイランドホテルで、申し分のない設備と環境の中で、朝の露天風呂で鳥の声を聞いていました。箱根の鶯は、この季節から秋の終りまで、ずぅーと「ホー・ホーホケキョ」と、優等生のような声を聞かせてくれるのです。
 上の姉は、私よりも5歳年上で、私が一年生のときに六年生で、「紀元二千六百年」(昭和15年)の行事のとき、「浦安の舞」というのを講堂の舞台の上で演じていました。扇を顔の横にかざして静々と登場してきたとき、最前列の床に並んで座らされて見ていた私は、その姿を、わが姉ながら美しいと思って眺めていました。この日のことを、姉もまた覚えていると言っていました。この姉と私は、5人のきょうだいの中でも、母親のDNAを多めに受け継いだ、温和な気質だったように思います。私が大学の受験で失敗したとき、やさしく慰めて立ち直らせてくれたのも、この姉でした。
 その姉も、この5月中に91歳になります。うちのきょうだいは、5月生まれが多いのです。姉も介護保険のサービスを受ける身の上にはなっています。しっかり話を聞いておこうと思いました。夫は2年半ほど前に亡くなっています。一男一女がいますから、今のところは身辺も不安なく過ごしています。
 その娘に言わせると、「食っちゃ寝、食っちゃ寝だよ」と笑うのですが、穏やかに遠くを眺めているような時間の多くなった横顔を眺めていると、晩年の母親の顔が、ふっと浮かぶような気もします。夫の遺言は、「墓は作らなくていい、遺灰はセーヌ河に流してくれ」だったそうで、姉も「同じにして」と言っているそうです。 
 それらしい話は、思ったほどには出来なかったのですが、なるべく近くにいて、指一本でも触れているようにして過ごしました。人生は、言葉で語り尽くせるようなものではありません。ただ、共通の基盤を持つもの同士は、わずかな接点でも「つながり」を持つことはできるのです。
 箱根の自然の中に身を置くことで、少年期の私は成長しました。その同じ環境の中で、姉を身近に感じながら過ごした一泊二日は、幸福な時間でした。 

春雷を聞いた

 先ほど急に雨が降って、雷鳴がとどろいた。これを「春雷」と言うのだそうだ。寒冷前線の通過と共に起きる現象だという。夕暮れの空が一気に暗くなり、気温も下がったように感じる。カゼ気味の私は、居室のエアコンで「暖房」を入れた。
 つい先ほどまで、春の旅プランを考えていた。老人党護憲プラスの同人だった小淵沢のペンション「風路」の経営者ご夫妻から、宿のパンフレットが送られて来ていたのだ。八ケ岳山麓への入り口に近い場所にあるらしい。今年大学の4年生になる孫が、早くも就職へのエントリーシートを出すとかで、案外早く「内定」が出ることもあるようだ。夏になったら車で行ってみたいなどと言っている。
 八ケ岳高原は、私たちが結婚して最初に旅行した場所だった。朝日新聞の旅特集で見た、小海線の列車が走って行く場面が印象的だった。昭和33年のことだから、蒸気機関車だったような気がする。まだ貧乏で、旅をするような余裕もなかったのだが、何がなんでも行きたかった。松原湖の近くで一泊し、白駒池を経由して、奥蓼科に抜けて茅野から帰ってきたと思う。足はただのズック靴、リュックサックもなくて、ボストンバッグの取っ手に皮バンドを通して背に負った。この山歩きが、その後のどんな山登りよりも楽しかったことは言うまでもない。
 ここまで書いてきて、何を書くつもりだったのかがわからなくなった。きょうも私の頭の中は、こんなことばかりを思い出している。
 

神田川の桜満開紀行

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 暖かい土曜日、早稲田通りを下って行って、小滝橋で神田川に出会いました。そこからしばらく、桜が満開の川岸を散策しました。中央線の電車は、東中野を少し過ぎぎたところで神田川の鉄橋を渡ります。短い橋ですが、注意していれば、一瞬だけ桜に覆われた神田川を見下ろすことができるでしょう。
 ここでは、上流側に新宿の高層ビル街を、下流側に「日本閣」の高層マンションを見ることができます。
 今の神田川は、無数の桜の花ビラを浮かべています。それが川底の一部を覆っていました。百人一首に

山川に風のかけたるしがらみは 流れもあえぬもみじなりけり

というのがありましたが、桜の花びらが、ここでは滞留して積もる紅葉のような景色を作り出しているのでした。しがらみとは、川の水をやわらげる柵だそうです。

神田川 春のさかりに 訪れて
 桜の花の しがらみを見る


春らんまんの中野通り〜1年後

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 昨年の花盛りに、「春らんまんの中野通り」とブログを書いたのは、3月25日のことだった。
http://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/archives/55772674.html
昨年は、今年よりも一週間ほど早く満開になっていたらしい。桜色の提灯が、道の両側に並んでいるのも、今年と同じだった。中野通りの桜に合わせて「さくら祭」を催すのは、中野区の例年の行事だと思う。
 昨年には妻と二人で見に行った。ゆっくり歩いて薬師公園に渡る歩道橋の上まで行き、公園側には降りないで、橋の上から引き返して帰ってきたのだった。妻はもう、長く歩くことも、人混みの中に入って行くことも喜ばなくなっていた。あのときに、こんな桜を二人で見られるのは、あと何回だろうと思った。もしかしたら、もう来年はないかもしれない、とも思った。
 その予感が当って、今年は自分が一人だけになった。だから橋の中央まで行って、そこで帰ってきた。

年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず

という句がある。「白頭を悲しむ翁に代る」という、中国の劉希夷の作で、七言二十五行の長詩で人の世のはかなさを歌っている中にこの句がある。私はこの詩が好きで、漢文の内田泉之助先生にねだって朗詠をお願いした記憶がある。
 妻はたぶん、昨年の桜は覚えていたと思う。去年いっしょに見た桜を覚えていてくれたらそれでいい。妻は二人のやさしい娘を残してくれた。それは妻の最大のやさしさだったと私は思っている。

かわいい梅の赤ちゃん

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 梅の花が散ったあとに、小さな梅の実がふくらんできた。例年のことなのだが、何年か前に、「かわいい梅の赤ちゃん」と亡妻が話題にしていたように思う。この「赤ちゃん」たちが、これから育って、かなり大きな実になるのだ。過去記事を探ってみたら、総重量で20キロ近くも採れたと書いてあるので驚いた。
梅の実の収穫で木に登った猿の気持
 それが5年前のことなのだ。私は80歳にはなっていたが、まだ元気で、平気で木登りをしていたのだ。今年はどうかと言えば、ベランダから手を伸ばして取れる範囲だけにするか、あるいは梯子を立ててみるか、まだ決めていない。下から声を出してコーチしてくれた妻はもういないが、娘が代行してくれるだろうか。その前に、そもそも去年はどうしていたのか、その前の年はどうだったのか、何も覚えていないのは、どうしたことだろう。今年は孫息子に話してみたらどうなるだろう。案外、面白がって、やってくれるかも知れない。
 世の中は新元号がどうとかで新聞の大見出しになっている。復古調がこれで勢いづくのか、あるいは一過性で終るのか、今のところ見通しはつかない。私は今まで通りでやって行くだけである。

新宿御苑の桜

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 昨日の昼過ぎ、長女夫妻に誘われて、自転車で新宿御苑へ花見に行きました。天気もよくて駅に近い新宿門の前は、長蛇の列の人で埋まっていました。自転車の置き場など見つかりそうもありません。恐れをなして新宿三丁目に近い大木戸門まで行ってみると、こちらはかなり落ち着いていて、所定の自転車置き場も無事に利用できました。それでも列に並んで、入場までに30分近くはかかったでしょうか。
 中に入ると、さすがに園内は広々としています。園内の桜は、それほど本数が多くはありませんが、堂々としたソメイヨシノの巨木もあります。私の実家は駒込駅の近くで、染井墓地の周辺などは、私の気に入りの「自転車散歩」の範囲でした。父親から、「ソメイヨシノは、あの染井からできた桜なんだよ」と教えられたことを覚えています。私の実家にも、門の近くに大きな桜が植えてありました。その桜の下で、一年生になったばかりの私が立っている写真が、私のアルバムの最初に貼ってあったのを、よく覚えています。このブログにも、載せたことがあると思います。
 桜は、枯れたような枝から、いきなり花が咲きそろってしまう派手な花です。あの日に、母親が並んで撮ってくれた写真もありました。近ごろになって、ますます母親を身近に感じることが多くなりました。そしてなぜか、その母親が、妻と近いところにいるのです。
 中野通りの桜も、きょうあたりは、まだ見ごろでいるでしょう。あの歩道橋まで、やはり見に行ってみるといいでしょうね。

桜が満開のままフリーズしている

 東京の桜は、全国でもいちばん早く満開宣言が出たのだが、その後は「花冷え」に見舞われて、満開のまま散りもせずにフリーズ状態になっている。こんな桜は、今までに見たことがない。暖かい風の中で、舞い散る花びらの中での花見という場面は、今年は見られるのだろうか。見られるとしても、まだ数日は先のような気がする。
 今年の4月1日には、新しい年号が発表されるとか、例年にない新しいことが用意されているらしい。もしかすると、ふだん嘘ばっかり言っている人が、本当のことをしゃべる日になるのかも知れない。
 「君なき里にも 春は忍びよりぬ」という歌があったのを、何の脈絡もなく思い出した。親しかった人を失っても、季節は確実に時を刻んで行く。
 東京の空は曇っているが、少し薄日もさしてきた。天気予報を確かめたら、「晴れ」を予想している。長女が、午後から自転車で新宿御苑へ行ってみようと誘ってくれた。ありがたいことである。その通りにしてみよう。
 

満開の夜桜

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 中野・四季の森公園の満開の夜桜です。今夜は次女がつきあってくれて、久しぶりに夕食も外食にしました。花はみごとに咲き揃ったところで、まだ花びらの一つも散ってはきません。こんな景色を見るのは、初めてのような気がします。去年もその前も、夜桜を見に外出するという発想はありませんでした。
 葉になる若芽も出ないうちに、いきなり花が咲いて満開になってしまう、ソメイヨシノは、本当に派手なサクラです。散りぎわのいさぎよさが、命を惜しまぬ兵隊の勇ましさとして讃えられたこともありました。
 でも、人のいのちは、花のいのちと同じではない。サクラの花は、もはや子孫を残すための働きをしていないと聞きました。見てくれだけの、文字通りの仇花と化しているのかも知れません。
 生前の妻と、夜桜を見た思い出は、ほとんどありません。春の光の中で、すくい取った桜の花びらを、可愛い盛りの孫の頭上から振りまいて、キャッキャと笑い声を響かせていた姿だけが、今も残っています。
 

一陽来復の光

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 正月も一週間が過ぎようとしている。冬至の日から起算すると、二週間に近くなっている。東京で太陽が南中する11時40分ごろの光は、わが家の食堂でも、かなり広い帯になってきた。
 年賀状にも使われる「一陽来復」の語は、本来は冬至を指していたものが、季節的に近い正月にも使われるようになったらしい。陰が極まれば陽の気が始まる道理で、「もうこれ以上は悪くならない」という安心感もある。
 私たちは一日の明け暮れでも、人の命の生死でも、繰り返す循環の中で生きている。冬がどんなに寒くても、やがて温かい春が来ることを知っているから、耐えられるというところがある。人の命が消えて行くことも、新しい子供の誕生を喜ぶことの裏側にある現象と思えば、納得するほかはない。
 そうは思いながらも、今まで身近にいた人がいなくなるというのは勝手の悪いものである。今でもしょっちゅう、「おはよう」から「おやすみ」に至るまで、事あるごとに亡妻に声をかけてしまう自分がいる。娘たちは、その後母親の夢を見たと言うのだが、私の夢にはいまだに亡妻は一度も姿を見せたことがない。もっとも、生前にも、夢に妻が出てきたという経験は、たぶん一度も記憶にないのだが。
 妻について思い出すことの第一は、やはり、二人の協力で新しい経験を手に入れた初体験の夜のことになる。いろいろな障害があって結婚が難しいと思われていた時期の、合意の上の実験だった。苦心惨憺の上でこれに成功したことが、私にも彼女にも、まっしぐらに突進する馬鹿力を生み出したのだった。この直後に、食の細かった私に、猛烈な食欲が出てきたことを、今でもありありと思い出す。
 いろいろなことがあった末の、妻との別れだった。生き返らせる方法は、もうない。あの世での再会は、たぶん虚構である。彼女が頼りにしたのは、手紙の中に私が一度だけ書いた「愛する」という言葉だったそうだ。それでいい。その一言を裏切らなかったことは、誇りをもって言える。

もみじの枯れ葉が一枚

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もみじの枯れ葉が一枚 2階ベランダの手すり部分に乗っていた
何の手も加えず そのまま写真に撮った
親木は狭い境界地から伸びて ここまで来てくれた
なんとなく 母親が近くにいるような気がした

昼の太陽が丸く撮れた

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 うすら寒い日だ。曇った空に薄い太陽が見え隠れしているが、温かさは降ってこない。午後も3時になってしまっては、冬の日差に期待はできない。
 隣家の屋根に近づいてきた太陽だが、これから冬至に向けて、ますます低くなる。やがて当家の2階ベランダは、下の方から順に日陰に入ってくる。そして冬至の日、食堂の窓の上部に、数センチの幅の日当りを残したころでその進行は止まるのだ。それが今年は12月22日になるそうだ。それからは、季節は寒くても、太陽は確実に春に向かって帰ってくるのだ。今年は暖冬の気配だが、実際はどうなるのだろう。例年にも増して、私の老体は冬の寒さに身構えている。
 日本ならば「冬がない」と言われる沖縄か、海外ならマーシャルの島へでも行けたら、身体的には楽だろうと思う。しかしもう、そんな気力はない。連れ合いのケアもしなければならないし、老々がいたわり合って過ごす日常も悪くはないと思うことにした。もし、ガンが再発しても、もう戦うつもりはない。苦痛の除去だけをして貰えれば、それで結構である。
 仕事はもう若い世代に任せた。その次の世代がどうなるかは、私の責任範囲ではない。
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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
→著作などの紹介と販売について
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