志村建世のブログ

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兄・志村文世の葬儀

 本日、上野谷中霊園に隣接する天台宗(護国山)天王寺において、兄・志村文世(野ばら社社長)の葬儀に列席してきました。棺の中の本人とも対面してきましたが、昔とあまり変わらない、彫の深い端正な顔立ちをしておりました。先日も紹介しましたが、かつての学歴エリートコースを登り詰め、旧制最後の東京大学文学部インド哲学科を卒業した人でした。
 性格的には、やや剛直なところがあって、父親からは信頼されながらも、時として激しく議論し合うようなところがありました。野ばら社の出版業を引き継ぐについても、一筋縄では行かず、兄弟間で派手な訴訟騒ぎを繰り広げるような仕儀となりました。これには、父親の判断のあいまいさが、大きく関係していたと私は思っています。創業者が、自分の仕事を上手に子孫に伝えるには、相手のことを考える、ある種の謙虚さが必要だということを、私はこの経験から学びました。
 私には、兄に野ばら社の二代目をやらせてしまったのは、気の毒だったという思いがあります。少なくとも学生時代までの兄には、仏教哲学の世界で新しい分野を開くという、使命感のようなものがあったと思うのです。決して小さな出版社の社長になって満足するような人ではなかった。あるいは、学者から教育者となって高い位置まで行くのが似合っていたかもしれません。私の家庭教師になったときの、あの教える力の確かさは、まさに本物でした。人は、自分の適性ということを、あまりよく知らないのかもしれません。
 きょうの会場で、私はずっと喪主の文枝夫人の近くにいました。社長夫人の苦労を、私は兄との出会いの最初から、近くで見てきました。気難しかった父から、「息子の嫁」として認めてもらうまでの間は、長くつらい時間の連続だったと思うのです。にもかかわらず、終生の夫婦として添い遂げたことは、それだけでも賞賛に価いします。
 本当に、一人の人には一回の人生しかないのです。生きているうちに何ができて何ができなかったかは、死んでみてはじめてわかるのでしょう。この人を、私は面と向かって「兄さん」と呼んだことが一度もありません。考えてみると、兄も私を呼ぶときは「おい」だけでした。

兄が死にました

 私の実家の「野ばら社」で、社長を勤めていた兄の志村文世(ふみよ)が、昨16日の朝に没しました。93歳でした。老衰および肺がんの進行もあったとのことです。会社の関係者の方から、ご好意の第一報が入り、その後、母方の親戚を経由して、会社からの「訃報」を転送していただきました。
 通夜は21日(水)午後6時〜7時
 告別式22日(木)午前10時〜11時
 式場は上野・谷中の天王寺(日暮里駅東口すぐ)
とのことです。
 志村家のきょうだいは五人おり、長兄は早くに亡くなり、文世が次兄で、その下に姉が二人で、私は末子でした。下の姉は今は消息が知れず、残っているのは、森脇姓の上の姉だけになりました。
 兄は昔の典型的なエリートコースをストレートに上った人で、府立四中から一高に入り、東大では旧制大学の最後の学年としてインド哲学科を卒業しました。ただしその専門を生かす就職をすることはなく、実生活では頭の良さを生かして税理士として信頼され暮らしていたようです。
 そして父親が亡くなったときの相続をめぐる壮烈な裁判劇を経て、結局は兄が野ばら社の経営権を引き継ぐことになったのでした。このとき私は、亡父の意思が、死後に至るまで私たちを拘束して、きょうだいを争わせているような、不気味にも不思議な感覚を味わったことを覚えています。そしてその争いの中から、私はいち早く逃げ出して「自分の城」を築くことに専念したのでした。ですから私の中には、「野ばら社を兄に押し付けて自分は自由になった」という、後ろめたさに似た感覚が、今も残っているのです。
 そのほかに、私には絶対に忘れられない貴重な思い出があります。それは国民学校を卒業し武蔵高校尋常科に入学するまでの春休み(敗戦翌年の混乱期で、非常に長かった)のことで、中学になれば絶対必要だからといって、英語と漢文の個人授業をしてくれたのでした。毎日、前日に習ったことを覚えているかどうかを確かめる試験を最初にする、じつに厳しい教え方でした。しかし、英語の発音をカタカナで書くことを厳禁され、発音記号を覚えたことは、私の生涯の財産になりました。教材は四中時代の教科書だったと思います。私は入学してから半年の間、英語と漢文のテストで100点以外の点数を取ることは決してなく、空襲続きで勉強できなかった心配も、完全に吹き飛ばすことができたのでした。
 そんな兄が、もう帰らない人になってしまいました。兄は子供を残すことができませんでした。昔、ペスという犬を、子供のように可愛いがっていたことを覚えています。
 冥福を祈るとは、いったいどういうことなのでしょうか。あなたの人生は幸福でしたか。兄は、きっとこう言うと思うのです。「ああ、俺かい、俺はこれでいいんだよ。余計な心配するな。」
(兄と私の力関係がどんなものだったか、一つの印象的な場面を以下のブログに書いたことがあります。)
http://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/archives/55593394.html
 

今年の梅は12キロ

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 久しぶりに好天に恵まれた朝のうち、大学4年生の孫にも参加してもらって、梅の実の収穫をした。日当りのよいところでは、ほんのりと色づいて、いい感じにふくらんでいた。二階の窓からと、ベランダからも、手の届く範囲にも生っている。軽くねじるようにすると、素直に枝から離れるのだ。梯子をかけたり、塀の上や枝に登れば、もっと取れるのはわかっているが、きょうは学校へ行く時間もあって10時半までで打ち切りとした。あとは貸駐車場にしているスペースが空いているときに取れる部分もあって、ざっと3割ぐらいは残っているようだ。この写真の一箱で、重量は12キロになった。
 例年この梅は、婿殿の母上のいる帯広に送ると、やがて「梅ジュース」となって帰ってくるのだ。夏は水割り、冬はお湯割りで、風呂上がりの至福の一杯となって一年中楽しめる。この梅は、中野に住んだ最初のときに庭木として据えたもので、そのときからすでに古木だった。だから少なくとも50年以上はたっていることになる。家の改築のときは、工事会社を通して埼玉の農園に預かってもらって、今のビルの入り口の横に植えてもらった。梅の木の寿命がどれほどのものかは知らないが、花の咲き方も実の生り方も、まだまだ力強いように思われる。
 庭と呼べるような余裕もない敷地なのだが、妻と相談して植木を残したのは正解だった。この家では、春には梅が、秋には柿が実る。柿の苗は妻が買ってきて狭い角地に植えた。「棒を買ってきたのかい」と冗談を言っていたが、いつの間にか堂々たる姿になった。根の大半は隣家の地下に入っているような気がするが、今のところ苦情はない。民法では、境界を越えて侵入した根は、無断で切っていいことになっている。空中で越境した枝は、「申し入れて切除させる」のが原則である。


ベンチが新しくなっていた!

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 週末の土曜日、雨あがりの早稲田通りを歩いてみたら、先日「町かどのオアシス」として紹介した歩道のベンチが新しくなっていた。作りは以前と少し違ってはいるが、ほぼ同じ大きさで、真新しい木と鉄骨で出来ている。新作登場を紹介する口上の貼り紙などはないが、古いベンチの鉄材は、まとめて後ろに置いてあった。
 このベンチのスポンサーさんと思われる向かいの洋品店は、平常通りに開店していて、中には人の気配もあった。ちょっと中に入って挨拶してみたらと思わぬでもなかったが、それも仰々しいかという気がして、写真だけ撮って帰ってきた。だからまだ座っていないので、ベンチとしての座り心地がどうなのかは、わからない。自分が一人で座るとしたら、少し勇気が要るかもしれない。長女か次女を誘ってみたら、何と言うだろうか。
 それでも、町かどにベンチが置いてあるのは、良いことだと思う。年寄りは町歩きで疲れるし、子供づれで買い物に来た主婦も同じだろう。歩道の幅に余裕があるところでは、公設の椅子があってもいいように思うがどうだろう。
 でも、今はちょっとしたことがネットに乗って、あっという間に拡散する時代である。私がここに一人で座っていたら、見知らぬ人が横に来て話しかけて来る、といったことがあるかも知れないと思うのだ。以前に国会一周の散歩をしていたころは、ブログを見て参加してくれた人がいたことを思い出す。あのときは心強くて嬉しい気分だったが、いつもあれと同じとは言えないかもしれない。
 私的領域を守るのは、やはり自分の責任でしなければならないことだと思うのだ。複合家族で暮らしている身としては、私につながる人たちの安全を守ることも、私の大事な責任としなければならない。
 
 

黒い礼服の出番はあるか

 夏の気候になってきたので、しばらく使わない冬物衣料のクリーニングや収納を進めた。衣料の中には、黒の礼服もある。数年前には、盛夏に義兄の葬儀があって、夏用の薄地の黒服を買ったことを思い出した。そこで考えたのは、次に黒い礼服を着るのは、いつだろうということだった。
 慶弔の慶の方で考えると、孫が3人いるから、結婚式があるかもしれない。見通しはあまり明快ではないのだが、誰かが従来型の挙式をする可能性はある。その一方で、事実婚先行で、何となくおさまってしまいそうな予感もある。私たち夫婦の結婚は、親の反対に抵抗した実力行使だったから、法的な手続きは万全だったが、黒服に白いネクタイどころか、背広を着るだけで精いっぱいだった。
 というわけで、「次に黒服を着る機会」というのが、どうもうまく想像できないのだった。次の慶弔ごとを想像すれば、それは順当なら私の葬式ということになる。だからつい、「自分の葬式のときは、本人は黒服を着なくていいんだよね」と、通りかかった長女に言ってしまった。長女はいつも前向きで明るいので助かる。「うん、そうだよね。それでいいんじゃないの。」と、笑顔で通り過ぎた。
 
 

神田川へ自転車散歩

 天気のよい休日の午前、長女に誘われて「自転車で散歩」に行きました。神田川に沿って行ってみようということになり、早稲田通りを下って小滝橋で川と出会い、川沿いを遡って「神田川」の歌碑のある小公園の位置を確かめました。

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 この歌碑は、大久保通りにかかる末広橋の上流側の左岸にありました。ちなみに、川岸の左右は、川下に向かって立ったときの左右で決めるのです。
 この碑は中野区が立てたもので、碑面には歌詞の一番だけが彫られていました。ただし私の実感としては、「窓の下には神田川」として流れる川は、高田馬場よりも下流の住宅密集地帯だと思います。なにしろ「三畳一間の小さな下宿」なのですから。映画の「神田川」のラストシーンも、たしかそうだったと思います。窓から小さなゴミを捨てる女性は、主人公のあとに入居した見知らぬ人に変っていました。

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 再び川下へと向かい、東中野に近づくと、川の向うに新宿の高層ビル群がよく見えます。このあたりは桜が両岸に植えてありますから、春には絵になる風景でしょう。ただし、ここでは川の水は、画面の奥から手前へ向かって流れています。

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 落合に近い「水再生センター」の続き地には、「せせらぎの里」と名づけられた、ゆったりした公園がありました。ちょうど紅白の梅が花盛りです。通りががりの子連れの若いお母さんにシャッターをお願いして、お母さんと子供さんの写真も、花の前で撮りました。
 帰り道は、中野へ向かって少し上がり坂になります。昔なら全然気にもしなかったでしょうが、今の私の自転車は遅くなります。娘から労わられながら、ゆっくりと帰ってきました。亡妻がいたら、たぶん「良かったね」と言ってくれたでしょう。

 

2月は逃げ月

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(ご隠居)2月は「逃げ月」と言うが、あっという間に終ってしまったな。
(熊さん)ご隠居はひさ江さんを亡くして環境が激変して、落ち着かなかったでしょう。
(隠)そりゃそうだ。なにしろ60年もいっしょにいた相棒が、いなくなっちまったんだ。激変もいいとこだよ。「おはよう」から始まって「おやすみ」に終るまで、いちいち反応する相手がいないってのは、座りの悪いものだな。祭壇はそのまま置いてあるから話しかけるんだが、一向に返事をしないんだよ。
(熊)そりゃ当り前ですよ。気軽に返事をするようじゃ、幽霊が迷ってることになるじゃないですか。ご隠居もブライス先生の弟子なんだから、形は変っても輪廻してることに納得しなくちゃだめですよ。あっちへ行ったら、どうせまた会えるんでしょ。
(隠)それはちょっと違うな。私は「来世」なんてものが、あるわけないと思ってる。あっちへなんか行かないよ。私という人間が、元素に分解して循環するだけの話だ。生命現象というものは、私が死んだときに終ってる。ひさ江さんだって同じことだ。祭壇に飾ってある遺骨の中に今もいる、なんてことはないんだよ。それでも遺骨に話しかけるってのは、考えてみれば矛盾だがな。これは大人の人間の、ままごとみたいなものじゃないのかな。
(熊)理屈はどうでもいいけど、大事な人の遺骨を大事に扱うってのは、いいことだと思いますよ。
(隠)そりゃそうだね。残ってるものは、写真一枚だって尊いと思うよ。まして本人を焼いた遺骨を粗略に扱うなんてことはないね。約束の通りに、死産だった子の骨も、もう一緒にしてあげたんだよ。一度だけ抱かせて貰った、長女になるはずの女の子だった。
(熊)やっとママに抱っこしてもらったわけだ。
(隠)ところで、新聞やテレビは米朝会談で持ちきりだね。
(熊)あっちはあっちで、みんなご苦労さまだ。
(隠)こっちはこっちで……端唄で行こうか……
梅は咲いたか 桜はまだかいな
柳ャなよなよ風次第
山吹や浮気で 色ばっかり
しょんがいな

北海道の「そりゃないよ獣医さん」に再会

(ご隠居)北海道の「そりゃないよ獣医さん」こと岡井健さんが、学会があるとかで東京に来られて、朝のうち中野の家まで来ていただいて、しばらくお話ししたよ。
(熊さん)そりゃ良かったですね、酪農地帯の獣医師をしてる人でしょ。アニマル・ウェルフェアだっけ、動物の福祉を考える獣医さんなんですよね。ご隠居が「ポンと来てください」と言われたので、本当に「ポン」と行って会ってきたんでしたね。
http://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/archives/55595391.html
(隠)そうだよ、あれは2013年の夏のことだから、今から5年半も前のことになるんだね。4泊5日の旅をして、その経験をマイペース酪農と地球の大きさという6回のブログ記事にしたんだっけ。そのおかげで、今でも道東の酪農の話は、「マイペース通信」というメール配信で、続けて読んでいるんだよ。マイペース酪農というのは、持続可能な、環境への負荷の少ない酪農のことなんだ。鶏や牛を密集させて工場のように生産するという考え方はとらない。動物も生命体として尊重しながら、人間にもストレスの少ない酪農を広げて行こうという運動なんだね。人間の未来にとって、どちらが好ましいかは、議論の余地もないほどはっきりしてると私は思ってるよ。
(熊)良いことだとは思うけど、今の世の中で通用するんですかね。
(隠)うん、それが心配なところだ。でも、「マイペース通信」を読んでいて心強いのは、その思想と実践が、決して先細りではなくて、むしろ若い人たちにも魅力的な働き方として受け入れられているらしい記事が出ていることなんだよ。大手の乳業会社だけが万能ってことはないんだ。地元へ行けば、いろんな工夫をして、本物志向の人たちを引き付けるような、すぐれた製品を作り出す生産者がいるんだよ。
(熊)獣医さんは、ご隠居よりは、ずっと若いんでしょ。
(隠)うん、ちょうど10歳違うんだそうだ。だから戦争体験なんかも、ずいぶん違ってる。それで、思い出話なんかに時間を使ってしまったが、本当はもっと、マイペース酪農の話を、よく聞いておけば良かったかな。マイペース酪農は、人間は本来どう生きるべきかという未来志向の思想なんだよね。マイペースを守ることは、人間本来の自然を取り戻すことだ。人間が幸せに生きるための基本的な法則なんだよ。


永の別れかと思った

(熊さん)無断で一週間行方不明ってのは、初めてじゃないかな。「それじゃ行くよと別れたが、永の別れになったのか」なんて思い出してましたよ。
(ご隠居)お前さんも古いね。そりゃ軍歌「戦友」の歌詞じゃないか。「ここはお国を何百里 離れて遠き満洲の 赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下」で始まるんだよ。軍歌と言うには珍しい、戦友が死んだのを悲しむ歌なんだな。この歌が出来たのは明治38年で、まだ日露戦争が終ってない時期だったそうだ。勇ましい軍歌が流行る一方で、国民の間では広く好まれて普及していた歌なんだよ。
(熊)メロディーも、思いっきり悲しそうな歌ですよね。
(隠)日本人の短調好みは有名だからね。勇ましそうな軍歌だって、ゆっくり歌うとお葬式の歌みたいになってしまうのが、結構多いんだよ。それで、この「戦友」の歌なんだが、太平洋戦争中には、好ましくない歌として圧力がかかっていた時代があるんだよ。一般には知られてないけど、私の実家の「野ばら社」では、「標準軍歌集」なんてベストセラーを出してたから覚えてるんだ。当時は内閣情報局というのがあって、言論や出版を規制してたから、この歌も削除を要求されたんだね。私の父親は頑固者だったから、「バカな役人が威張って」なんて怒ってたけど、情報局が許可しないと用紙の割り当てが貰えないから、どうしようもなかったらしい。
(熊)ふーん、情報の統制って、そんな形でやられるのか。時の政府ってのは、勝手なことをやるもんだね。
(隠)当時はまだ、言論の自由なんていう考え方はなかったけど、父としたら、元新聞記者の反骨精神は持ってたと思うんだよ。歌ひとつを取ってみても、お上があれこれ口出しするようになったら用心しなくちゃいけないな。ただし今なら目をつけられるのはテレビだろうね。それも、直接の介入じゃなくて、目立たないように、圧力団体なんかを使って、じわじわとやってくるんじゃないのかな。

雪が降りそで降らない曇天

(熊さん)ご隠居、大丈夫ですか。朝からなんかボーッとしてませんか。
(ご隠居)あいあい、大丈夫だよ。だがな、降るんだか降らないんだか、わけのわからない空を眺めてると、眠くなるもんだな。部屋を温かくしてるから、居心地は悪くないんだよ。だが出かける気もないからボーッとなるんだろうな。一人になって、話し相手がいないからヒマ過ぎるってのも、ありそうだよ。
(熊)そりゃわかりますけどね。ブログのファンからは、「ブログは止めないで下さい」なんてコメントも来てますよ。
(隠)それも見たから知ってるよ。ブログをやめる気はないさ。今だって、いろんなニュースもちゃんと見てるよ。安倍政権に、このままやってて欲しいなんて、間違っても思うわけないだろ。野党の再編は、どこが中心になって行くのか、そこにも興味があるし、どうなってほしいという要望だってある。見たい映画も、読みたい本も、新聞見てるだけで次々に出てくるさ。でもね、昔みたいな勤勉さは、さすがになくなってきたのは、しょうがないかな。
(熊)でもさ、そこで踏みとどまってがんばらなくちゃ、ご隠居らしくないでしょうが。ひさ江さんがいなくなって一人の時間が増えたんなら、「毎日ブログ」を復活したっていいわけじゃないですか。ちょいと元気を出して、やってみたらどうです? ひさ江さんだって、その方が喜びますよ。
(隠)うーん、そうだな。ひさ江さんを、お目付け役にしてみるか。「ボク、どうしたの、しっかりしなさいよ」なんて言ってくれるかな。最後のころの、おとなしくなってしまったひさ江じゃなくて、本来の元気なひさ江だったら、黙ってるわけがないよな。チコちゃんに叱られるよりも、ずっとコタえるのは確かだ。 
(熊)そうでしょ。ご隠居には、いつまでもひさ江さんが必要なんですよ。お化けにならなくたって、夢に出て来なくたって、ひさ江さんは、ちゃんといるんでしょ。
(隠)そうさ。人は死なないよ。宇宙の一部として循環するだけだ。私が生きてる限りは、私の記憶の中にもいる。人は死なない、変わるだけだと、ブライスさんも教えてくれたっけ。
(熊)そうでなくちゃ、ご隠居じゃないや。勉強してきたのは、こういう時のためでしょうが。
(隠)そうだったな。般若心経は、唱えてればいいってものじゃなかった。実践しなくちゃ意味がないね。同行二人で、これからもやって行くよ。

85歳にしてゴルフコースに立つ

 快晴の日曜日、長女に誘われて、川口市の荒川河川敷にあるゴルフコースに行ってきました。打ち放しの練習場へは最近になって何度か行ってみましたが、ショートコースとは言え、コースに出ることが再びあろうとは、思いもかけませんでした。人に勧められてその気になり、中古ながら道具をそろえて練習し、たった一度でしたがコースにまで出てみたのは、たしか50代のことだったと思います。名も忘れた千葉のゴルフ場へ行き、たっぷり一日かけて回ったのですから、18ホールまでつきあったのでしょう。スコアも何も覚えていないのですが、「初めてにしては上出来」と、たぶんお世辞つきで、だいぶ褒められたのを覚えています。それから30年以上、時たま出先の観光地で打ち放しをやってみた以外には、すっかり忘れたまま過ごしていました。
 そこへ長女の登場です。友人に勧められたとかで、いつの間にかゴルフ道具一式を買い揃えていました。妻を亡くした私をボケさせないために、これもいいかと思ったのでしょう。このところ数回は練習場にも通うようになっていました。ただし、私が見ても、決して上手ではありません。それが早くも、ショートコースへ行くと言うのです。パターゴルフに毛の生えた程度の場所を想像していたのですが、行ってみると、ホールは100メートル以上も彼方に旗を立ててありました。使い慣れている5番アイアンでは届きそうもありませんが、長いクラブでは当たらないのが目に見えています。2オンでいいつもりで取り組みました。元気いいだけが取り柄の長女は、早々にボールを2個、連続して池に沈没させました。彼女の友人の先達のおかげで、なんとか格好のついたチームでした。
 もちろん最初から、スコアを云々するようなゴルフではないのです。でも青空の下で、風に吹かれながら歩き回る時間ができるからいいのです。遠くには、くっきりと富士山の姿も見えていました。もし妻が無事でいたら、たぶんこんな機会はなかったでしょう。もしどこかで見てくれていたら、「私がいなくなっても、悪いことばっかしじゃなくて良かったわね」と言ってくれるのではないか、そんな気がしました。
 

ママ去って娘を残す

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 妻が亡くなって1か月と10日が過ぎようとしている。亡妻は、生前は家の中で「おばあちゃん」と呼ばれていた。家の中での各人の呼び方は、その家族の最年少者を基準にして決まるというのが、通則であるらしい。だから、最近の10年間以上は、妻は「おばあちゃん」、そして私は「おじいちゃん」と呼ばれるようになっていた。しかしそれ以前の、娘たちが小さい頃は、当然ながら「ママ」が絶対的な名前だった。ただし、私は「ひさ江さん」と呼ぶのを常にして、面と向かって話しかけるときは、別な愛称で呼びかけることにしていた。だから今も毎朝、その呼び名で祭壇に「おはよう」のあいさつをしている。
 家の中から妻は消えたが、幸いにして二人の娘が残った。二人とも結婚したから、本来は別な家族になるところだが、長女は今も同じビルの3階に、次女もすぐ近くのマンションに住んで、生活時間の半分ぐらいは、ここの2階で暮らすような形になっている。生前の妻が、「こういう家を作っておけば、あの子たち、きっと遠くへは行かないわよ」と予言した、まさにその通りになった。
 長女は大学の卒業とともに東芝に入ったのだが、数年経過したところで、「パパの仕事、面白そう」と言って、あっさり退職してしまった。私の仕事は、個人の責任で行う制作の業務と、市販用教材の制作販売の 二本立てだったのだが、彼女は自分の才覚で新しい教材を作り出す仕事に魅力を感じたらしい。それも、自分の得意分野を生かすというよりも、「わからない子に、わかるように教えるのが楽しい」と言うのだから、これは本物だと思った。「つぶさないで継続してくれたら充分」と思って任せたのは、どうも過小評価だったらしい。ひまになったのでチラシ折りの手伝いをしながら読んでみたら、「ひらがな」「漢字」「九九」などの「おぼえちゃおう!」シリーズが17点、「英語」のシリーズが5点、「ことわざ」「百人一首」など「知ってる?」シリーズが12点、「天体」「日本の産業」など「わかるよ!」シリーズが11点と、合計45点が揃っているのだった。 
 いろいろなことを思いつくが、あまりねばらない私では、これだけ継続的な仕事を積み上げることはできなかったのではないかと思う。だが、教材の世界も、時代の流れとともに流動している。参考資料も、市販品のDVDを購入する時代から、インターネットでダウンロードする時代に移っていくのではないかということだ。でも、人が新しいことを覚えるのは楽しいという原点は変らない。学ぶのが苦痛だとしたら、それは教え方が下手というだけのことなのだ。
(NiKK(にっく)映像のホームページは、以下からアクセスできます。)
https://www.nikk-eizo.com/

深大寺の神代植物公園へ

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 正月の2日の午後、長女の家族4人に誘われて、三鷹の深大寺にある神代植物公園へ行ってきました。その前にお参りした深大寺の本殿。国宝の仏像を安置しているのを知って、列に並んで、お賽銭も二人前を投じて一礼してきました。

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 植物公園には、冬景色ながら、思ったより多くの花の色どりがありました。さらに、大きな温室があって、その中は別世界の温かさと、熱帯・温帯植物の花盛りでした。かつてインドネシアへ旧友の山本荘二氏(故人)を訪ねたとき、現地の植物園で見かけた植物のいくつかとも、再会することができました。植物園には温室があって、冬に訪ねるのにも適しているというのは、新しい発見でした。
 駐車場も完備していて、私たちはたまたま運がよかったのかも知れませんが、往復にほとんど渋滞にも会わず、驚くほど早く帰ってきました。
 植物園内の広場での影法師です。中央が私、右が長女で、左はその長男です。亡妻が幼児のときから背負って、中野駅に近い線路まで電車を見せに行ったりして、楽しい時間を過ごしていました。そのせいかどうか、長じてからも無類の鉄道好きになって、その知識の豊富なことは、私も遠く及びません。この3月の休みに、三陸鉄道に乗りに行く約束をしています。私が東日本大震災の記録取材で歩いた跡を、確かめてみたいのです。途中で旧友の実家のある釜石で一泊してみようと思っています。釜石の名家のゴッドマザーと言われた人の一代記を、ドキュメントビデオに作ったことがあるのです。


2019年の初詣り

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 いつものように年が明けて、長女の家族と5人で正月の膳を囲みました。朝からずっと、雲一つない晴天です。近所にある新井薬師は、参詣人の長い列ができて、警察の交通整理が行われていました。私たちはそこには並ばず、本殿の脇から境内を一巡しただけで帰ってきました。
 生前の妻は、ここの薬師さんには、近くへ来るとよく立ち寄ってはお賽銭をあげて、私よりは長い時間をかけて、何事かをお祈りしているのでした。よく気のつく人だから、お願いごとは、たくさんあったのでしょう。薬師如来は、衆生の疾病を治めて寿命を延べ、衣食も足らしめて菩提に導いてくれるという、まことにご利益の大きい仏さまだということです。
 薬師さまが、彼女の願いを聞き入れて、人に迷惑をかけず自らも苦しまず、きれいで温かいままの往生を恵んで下さったことは、疑いありません。写真を支える手の形は、「禅定」で結んでみました。インドネシアのボルブドゥール仏教遺跡の仏像群の解説書に、そんな記述があったのを覚えています。
 きょうの私は、これが最後かと思いながら、久しぶりの和服で整えてみました。和服を着るのは簡単なのです。袖を通せば一瞬で終ってしまいます。帯は昔から、もっとも単純な「ぐるぐる巻き」です。その他の結び方は知りません。それでも高校生時代は、自宅では和服と座机で勉強をしていました。
 孫娘が撮ってくれた写真を見たら、何やら私が坊さんみたいな姿に見えます。だからというわけではありませんが、本日は混雑につき、お賽銭もあげないで帰ってきてしまいました。家には年賀状が配達されていました。「おめでとう」だか「寒中見舞」だか「ご愁傷」だか、わけのわからない郵便物整理で、ほどよく時間が過ぎて行きます。次女は元日から出勤で、がんばっています。
 大学3年になっている孫とは、春になったら三陸鉄道に乗りに行く約束をしました。もう就活が始まっていて、内定まで出ているというので驚きました。

久しぶりの熊さん談義〜元号編

(熊さん)しばらくご無沙汰のうちに、12月になっちまいましたね。
(ご隠居)ああ、そうだね。年を取ると時間の流れが早くなると言われるが、その通りだね。つい先ごろ秋になった気がしてたら、もう12月で最後の月だよ。クリスマスの飾りを見かけるようになると、「今年ももうおしまいだな」と思うわけさ。あれを見て楽しいなと思うのは、おもに子供じゃないのかな。テレビ局の現場にいた頃、VTRの早撮りでクリスマスツリーを出したら、タレントさんが、「いやなもの見ちゃったな、これが出てきたら、今年ももうお終いだ」と嘆いたことがあったっけ。年末が近づくと、正月番組の撮りだめも始まるんだよ。アナウンサーだって、「今年」と「去年」の言い間違えをしないように神経を使うわけさ。
(熊)テレビ局の「歳時記」みたいなもんだね。ところでさ、「平成」の年号は、31年までで終って、年の途中から年号が変るんだってね。天皇の生前退位なんて前例のないことがあるから、カレンダーも気を使って注釈をつけたりしてる。
(隠)私は昭和が終ったあとの年号は使ってないから関係ないんだ。役所の書類で強制されない限りは一度だって使ったことないよ。日本だけで通用する年号なんて、ナンセンスだと思ってる。不合理、不便なだけで、何もいいことありゃしないよ。だから新しい年号が何になろうと、まるで興味はないね。今年は2018年で来年は2019年になる。それだけで結構だよ。
(熊)でもさ、明治、大正、昭和の年号を西暦に換算するのは、ご隠居のお得意じゃないですか。
(隠)うん、「明治は空し」で67、「大正はいい時代」で11、「昭和の空は濁ってた」で25、「平成は葉っぱ」で88を足すと、西暦になるんだよ。次の年号が何かは知らないが、19「……いく」を足せばいいってだけの話だ。でもね、そんな面倒よりも、日本年号は、皇室関係だけで使うようにしたらいいんだ。公文書でも、西暦の併記を基本にするって話が出てたと思うけど、いずれはそうなって、やがては西暦に統一されて行けばいいんだよ。 

たかがブログ、されどブログ

 気がついたら、22日にゴーンさんの記事を書いてから5日目になる。その間、「連歌」以外のブログの更新をしないでいた。
 ブログの更新をしなくても、誰からも叱られはしない。それでも「新聞のように毎日見ている」と言ってくれた人もいた。当てもなく過去記事を拾い読みしていたら、数年前には、毎日きちんと切れ目なく書いている月が続いていて、書いている内容も、かなりしっかりしていると自分でも思えた。
 私がブログを始めた2005年の末に、私は72歳だった。まさに「70代からの情報革命」だったのだが、新しい時代に適応できたという快感があった。思いつきを文章化するという得意技で、世の中に認められるというのは、私が少年時代から夢見ていたことだったからだ。それが、現役の仕事を終えた安心感で書き始めた最初の著書「おじいちゃんの書き置き」を宣伝する機会にもなるというので、まことに好都合だったのだ。
 それ以来、私はブログを著作を発表する場として使うようになった。戦中・戦後の暮らしを記録として残す「少国民たちの戦争」は、完全にブログに連載する形で最初から最後までを書き通すことができた。「昭和からの遺言」も、ほぼ同様だったと思っている。私にとっての「本を書く」作業は、パソコンのキーボードの「かな文字」変換で文字を打ち込むことと同義になった。これをも「執筆」と言うのだろうか。
 そして今、ブログ書きをサボり始めた私がいる。少年から大人になって、もう必要なことは覚えていられるから、毎日の記録は要らないだろうと思った状況と似ている気がする。そんな私のブログが、これからどうなって行くかは私にもわからない。ことの成り行きを、見守って頂けたら幸いである。
 

秋の日暮れは さびしい

秋の日暮れは さびしい
まだ5時を少し過ぎただけなのに
もう夜の暗さが迫ってくる

11月も10日を過ぎると
2階のベランダで洗濯物を干せなくなる
あとは2月の10日まで 待たなければならない
3階への往来で 多忙な長女の仕事が多くなった

家族にはいろいろと 患いが増えてくる
基礎体力が落ちてくるのは 私が筆頭かもしれない
いろいろと面白かった人生だが 最後が苦しいのは困る
身勝手と言われようが いつまでも健康でいたい

きょうは申し分ない天気だったが
思っていたことが半分もできないうちに暮れてしまった
夕方の5時半 もう外は暗いのだが せめて
昔から親しんでいる「笑点」のテレビをつけてみよう

今年の柿は……

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 今年の柿は豊作ではなかったが、孫の手伝いで取り入れをしてみた。並べてみたら52個あった。平均的な重さは220グラムくらいで、かなり大きい。これからしばらく保存しておくと、だんだん色が赤くなって本来の甘みも出てくる。植えた場所が絶妙な好位置だったおかげで、8割方は2階のベランダから収穫することができた。
 柿は果物の一種だろうが、「水菓子」とも呼ばれる「くだもの」の仲間としては、かなり質感が違っている。口に入れても水気を感じることはなく、たしかなものを食べている歯ごたえがある。味も独特で、他のどんな「くだもの」とも似ていない。昔、父親から、「柿の味は西洋人にはわからん、俳句のようなものだ」という珍説を教えられたことがある。まだ戦前で、国粋主義が盛んになってくる時期だった。時代に敏感だった父は、柿の味を東洋思想と関連づけたかったのかも知れない。
 父の故郷だった静岡県北部の山奥、梅ヶ島にも柿の大木があった。毎年よく実がつくのだが、渋柿だった。しかし渋柿は、長く保存して干し柿にすると甘くなり、次の一年間食べられる保存食になるのだった。この渋柿の大木が大事にされてきたのは、そのような実用的な価値があったからに違いない。戦後の物が自由に出回るようになってからも、梅ヶ島の干し柿は律儀に送られてきて、父はそれを食べていた。そして昔は、剥いた柿の皮を乾かした干し柿皮も、粗末ながらお茶受けにしたという話をして聞かせるのだった。
 つい話が懐旧談になったが、きょうのブログのタイトルは、早口言葉で遊ぶつもりで書いた。「今年の柿は、よく客食う柿だ」にしようと思ったのだ。「隣りの客は……」よりも難しい早口言葉になるような気がする。どうぞお試しあれ。

今年の柿は、かなりの豊作

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 今年の柿は、かなりの豊作になりそうだ。30年以上前に、今の家を建てた年に妻が植木屋から苗を買ってきた。そのときは短い一本棒のようで、私は「棒を買ってきたのかい」と、からかいながら、塀に近い庭の西南隅に植えておいた。それが順調に育って、今は二階の高さにまで枝を広げている。そのまま食べられる甘柿の富有柿で、味はよい。
 過去記事を探ってみたら、例年11月になってから取り入れている。今までの最高記録は、360個となっている。毎年の収穫を安定させるためには、実が小さいうちに間引くとよいというアドバイスを、深山あかねさんから頂いていることもわかった。ただしその場では「来年からやってみます」と殊勝に返事しているのに、実行した記憶は一度もない。なにしろ色づいて気がつくまでは全くの無関心でいたのだから、放任主義が徹底しているのだ。
 私たちにしてみたら、これは望外のプレゼントである。庭木として、実のなる柿を植えたのが「大当り」だったことになる。つい先日のことだが、かかりつけの歯科で「いつもお世話になって」とあいさつしたら、親しい女医さんが「志村さんは、いろんな人を助けてきたから、助けられてもいいんですよ」と言ってくれたのが嬉しかった。老妻を助けながら、秋の一日が過ぎて行く。

車がプリウスからシエンタになった

 家の車が、プリウスからシエンタに変わった。もっとも、名義はかなり以前から私ではなくて婿殿になっている。私の免許は、昭和24年の16歳から始まって来年の6月、86歳になるまで有効だから、運転歴は、ちょうど70年で終ることになる。ただし最近は、自分で運転することは、めっきり少なくなった。
 高校1年生で最初に乗ったのは、戦前の1937年製のダットサンのバンだった。唯一の運転手として、父の会社「野ばら社」の図書の配本などで神田の町を走り回った。その次は戦後すぐのダットサンになったが、エンジンが弱く故障が多かった。そのあとはホープスターという小型の三輪車を使ったことがある。けっこうよく走って、私はこれを使って家出をするときの荷物を運び、野ばら社から去った。
 免許を取った教習所では、まだ木炭車が走っていた時代で、ガソリンは統制された貴重品だった。ヤミで買ったガソリンのドラム缶には、「塗料用シンナー」と偽名が書いてあった。給油はドラム缶からゴムホースでタンクに入れるのだが、ホースを口にくわえて強く吸い、勢いをつけてガソリンが流れるようにする。失敗すると口にガソリンを吸い込んで、ひどいことになった。
 私の家出期間が終って実家と往来するようになった東京オリンピックの頃になると、車は日産のブルーバードになって、今の自動車事情と近くなっていた。子供たちを乗せて上高地へ泊りに行ったのは楽しかった。その一方で私は軽自動車のマツダ・キャロルを自家用に愛用していた。その後はホンダの軽360がよく走って、私の仕事のためにも役立った。その後は中古のコロナを経て、日産ブルーバードのオージーが愛車になった。その後、どういう事情だったか、ベンツのCクラスを勧められて、長い間つきあうことになった。その後に導入したのがプリウスで、ハイブリッドカーというものに興味があったのだ。複雑な機構なのに、快適に走ってくれて面白かった。そして今回のシエンタである。
 試乗してみて、あらゆる面で運転しやすいのに感心した。それで安心した娘夫婦が話を進めて今回になった。免許があっても、私はもうあまり乗らないだろうと思っている。免許を取ったばかりの孫が、今のところ意欲的に運転を引き受けている。それでちょうどいい。孫はその人がらに似て、穏やかでまじめな運転である。
 

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
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