志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

ビデオ台本

青少年福祉センターの50年(6)

(ナレーション・女声)
 時代の変化とともに福祉センターの役割も微妙に変ってきます。30年にわたって少年たちに夢を与えた職業訓練校は、職業選択の多様化とともに役割を終えました。入ってくる子供たちに、家庭の崩壊を理由とする者が増え、現代社会の歪みが、保護者を失う新しい弱者を生み出しています。人生のスタートでつまずく「幼い負け組」を作らないこと、負の遺産の連鎖を断ち切ることが、児童福祉の根幹でなければなりません。
 センターは2006年末に、財団と社会福祉法人に分かれていた組織を統合して、新たに社会福祉法人の青少年福祉センターとなりました。現在2つの児童養護施設と3つの自立援助ホーム、そして高齢児童を養護する2つの専門施設と、障害者のためのグループホームを運営しています。2007年からは歴史のある新宿寮の1階で、社会人にも広く開かれた「日向ぼっこサロン」も始まりました。センターの仕事は子供を育てるだけでは終りません。家庭のない子供に家庭を与えたら、施設はその子の「実家」になるのです。女子寮の寮祭に集まる出身者たちの姿を見ていたら、そのことが、よくわかります。
 心から子供たちを愛する、それはいい。だけど自分は愛されているということを、子供たちの一人ひとりにわからせることが大事なんだよ、と長谷場さんは言います。50年前に、お腹を空かして宿なしになっている子を見かねて、まず食べさせて、寝かす場所を作りました。はじめに「愛」があった。その原点は50年の歴史を通して少しも変っていないのです。 
 これほどがんばって来られたのは、なぜですかと、最後に長谷場さんに聞いてみました。
(録音から)「人間って、結局は子供を育てて死ぬ、それだけじゃないの。だったら自分のあとの子供たちは、ちょっとでも今までよりよくなってほしい。世の中いろんな仕事があるけど、ぼくは子供を育てるのが面白かった。……俺たちダメな世代だったけど、できるだけやったから、あとはよろしく頼むって、すっと死にたいね。……俺、せっかちだから、火葬場まで自分で運転して行くかもしれないよ。」
(エンドタイトル)

青少年福祉センターの50年(5)

(ナレーション・女声)
 昭和56年には、職業訓練校の寮が、社会福祉法人の養護施設として認可されました。18歳までの少年の自立を助ける仕事が、国のなすべきこととして公費でまかなわれることになり、センターの財政基盤は確かなものになってきました。目の前の子供たちを放っておけなくて走り出した長谷場さんたちの活動に、ようやく行政が追いついてきたのでした。翌年からは、科学技術学園高校の通信課程との連携が始まって、訓練校の生徒にも高校卒業の資格を取る道が開けました。
 昭和58年、1983年に青少年福祉センターは創立から25周年の節目を迎えました。この年のバザーは朝日厚生文化事業団、ジャパンタイムズ、聖心女子学院同窓会、東京都社会福祉協議会の協賛を得て行われ、大成功を収めました。組織がどんなに大きくなっても、福祉の仕事は常に多くの人々の善意の協力を必要としているのです。しかしセンターの事業が一つの安定した形を整えてきたことは確かです。長谷場さんはその翌年、自分の役割にも区切りがついたことを感じて、昔からの仲間が待っているカナダへと、家族とともに移住しました。
 昭和60年代から平成へと、センターの事業は着実に発展をつづけました。昭和63年には30周年を記念して、記録の出版物とビデオを制作しています。時代が変化する中でも、自立のために助けを必要とする青少年の数は、増えることはあっても減ることはありません。そしてこの事業を支える職員やボランティアには、常に新しい知識や技能とともに、人を救い支えることの原点となる「愛」の心が求められるのでした。組織は大きくなればなるほど、全体を貫く理念を必要とします。理事長となっていた麻生和子さんの要請を受けて、長谷場さんは平成5年、1993年にカナダから帰国しました。
 その後の長谷場さんは清周寮の責任者として若い女性の自立を助けるとともに、センター職員の教育に力を注いできました。清周寮と新宿寮は、1997年から児童福祉法が適用される「児童自立生活援助事業」となりました。こういう時代になったからこそ、事業に血を通わせる職員にとって、長谷場さんから伝えられるセンターの伝統は、かけがえのない財産になるのです。

青少年福祉センターの50年(4)

(ビデオ台本ナレーション・女声)
 今でもそうですが、センターで育った青少年の最大の問題は、社会に出てどんな人生を築くかということです。夢のある未来の一つとして、カナダへの移住がカトリック関係者から提案されました。長谷場さんは村田牧師とともにカナダを訪れて調査し、昭和40年秋を第一陣として、カナダへの移住が始まりました。これまでに20名近くが海を渡り、現地に溶け込んで、のびのびと実力を発揮しながら活躍しています。
 昭和42年からは青少年のための本格的な相談室を開設、その翌年からは研究室を設けてアフターケア問題の研究成果を発表するようになりました。一方、財政は依然として苦しく、カークリーニングのきつい仕事を引き受けるなど、財団を破綻させないために精一杯の努力を続けました。
 施設出身者が自立に成功する第一の条件は、手に職をつけることです。自動車整備の職業訓練の場として、イエズス会系の社会事業団体から、足立区扇に広い敷地と建物の提供を受けることができました。それを利用して昭和46年から、東京都認可の高等職業訓練校を開校しました。工場と教室と寮を合わせ持つ理想的な施設の誕生です。長谷場さんはこれを第二の奇跡と呼んでいます。
 昭和48年、期待を集めた訓練校の第1期生5名が卒業し、晴れて自動車整備士となりました。翌49年からは、東京都から年額300万円の補助金の支給が始まりました。そしてこの年に長谷場さんの言う第三の奇跡が起こります。センターのために尽力した岩下シスターの情熱で財界人の岩下清周氏と大林組が動き、足立区保木間に女子寮の「清周寮」が建設されたのです。福祉センターは少女たちのためにも、専用の落ち着いた生活の場を提供できるようになりました。
 この時期までで、青少年福祉センターの事業の骨格は固まったと言えるでしょう。活動が社会に認知されるとともに、善意の人々の協力も得られて、センターの施設は充実を重ねてきました。マスコミにも登場するようになり、昭和50年代の放送番組が、いくつか残っています。
(以下、放送から引用。「施設の子のアフターケア」「君はひとりぽっちか」より。訓練校で学び働く少年たち、進路相談、バザー風景など。訓練校の寮の一室で生活する長谷場さんの家族風景、お祈りする子供たち、教室の窓を拭く奥さんなど。)(この部分は基本的に字幕文字で説明する。)

青少年福祉センターの50年(3)

(ビデオ台本ナレーション・女声)
 「憩いの家」の活動は、少しずつ社会に認められるようになりました。この年の10月には、東京青年会議所から社会貢献の表彰を受けています。しかし自分たちの力だけで助け合うという状況は変りません。「児童福祉法には18歳まで国が面倒見るって書いてあるのに、やってないじゃないか、嘘つくな、こんちくしょう」という怒りが当時の原動力だったと、長谷場さんは語っています。
 憩いの家には少年ばかりでなく、少女たちも集まってきました。昼は作業場で人形作りなどをしても、夜は帰る家がありません。指導員が自分の部屋を提供したり、ボランティアが自宅に泊めたりしていましたが、昭和35年にはアパートの一部屋を借りて女子の宿泊施設ができました。この時期のボランティアの一人が、後に作家として活躍する森村桂さんでした。この頃から、養護施設出身者の中には、家庭の崩壊で保護者を失った子供たちが増えてきました。
 昭和36年になると、時の厚生大臣、古井喜実(よしみ)氏から、この仕事を社会的に認知する必要があるとのアドバイスがあり、財団設立の話が具体化しました。そして関係者、協力者36名の貯金を集めて120万円の基本財産をつくり、財団法人「青少年福祉センター」として認可されたのです。昭和36年、1961年11月のことでした。長谷場さんは理事長になり、働く少年たちの中から年長者が理事に就任しました。今につながる法人としての福祉センターの発足ですが、「みんなで働いて支える」ことに変りはないのでした。
 センターの活動が継続する中で、自立して自分の店を持つ人も出てきました。施設出身の7人の仲間が力を合わせ、その名も「テーラーセブン」という洋服店を開店したのは昭和37年のことでした。やがて街は東京オリンピックに向けて建設ブームを迎えます。東京の町は急ピッチで近代都市へと変貌を始めました。その中でセンターの仲間もビル工事に汗を流しました。2階建ての木造から5階建てのビルへと、新本部会館の建築が始まったのです。自分たちの城を自分たちの手で作る仕事に、みんな気合が入りました。ハンマーを振るいセメントを運び、自分のできる仕事を探しながら、職人の技を身につけて行きました。そうして今もある新宿寮の建物が完成。このときの感激は今も忘れないと、熱を込めて語る人は少なくありません。昭和39年の11月、華やかなオリンピックの余韻が、まだ残っている頃でした。

青少年福祉センターの50年(2)

(ビデオ台本ナレーション・女声・長谷場氏の同趣旨の発言録音があれば、その部分を差し替える場合がある)
 四畳半1間の「憩いの家」は、宣伝もしないのに、話を聞いて頼ってくる少年たちで溢れました。四畳半に12人が寝たという記録があるそうです。その人数が3食食べるだけでも楽なことではありません。仲間同士で知恵を出し、できることは何でもやって生活費を稼ぎました。技術のある者は洋服の仕立てをし、長谷場さんは英語塾講師のアルバイトに通い、技術のない者はペンキ塗りや廃品回収で町を歩きました。カトリック関係者の援助もあって、やがて2間のアパートに引っ越すのですが、混雑ぶりは変りません。
 その時期に、たまたまアパートの前を通りかかかったのが、戦後長らく首相を勤めた吉田茂の娘さんでした。出入りする少年たちに「あなたたち何してるの?」と話しかけたのが縁になって、後に福祉センターの理事長も引き受けることになる麻生和子さんが、その人です。長谷場さんは生涯に何度も「奇跡」があったと語っていますが、これがその最初の奇跡でした。麻生さんがかかわる福祉団体の寄付と鹿島建設の協力により、40坪の土地に木造2階建ての「憩いの家」が、翌年の7月に完成したのです。1階は洋服の仕立てや、靴を作る、廃品を分けるなどの作業場、2階には30人ほどまで寝泊りできるようになりました。戦災孤児が働きながら自活する、コロニーの実現でした。
 戦災孤児の救済が目的で始まった「憩いの家」でしたが、しだいに養護施設などを出た子供たちを引き受けることも多くなってきました。養護施設は義務教育の終了までですから、16歳になると施設を出なければなりません。しかし中学卒業でいきなり社会に出て、自立した生活をするのは簡単なことではありません。中には落ちこぼれて非行に走る少年も出てきます。そうした子供たちを受け入れる公的な施設が、当時はまだ整備されていなかったのです。言わば戦後日本の児童福祉の谷間を埋める役割を、期せずして「憩いの家」は果たし始めたのでした。全国からうわさを聞いて集まってくる子供たちの多さは、この事業の社会的な必要性を物語っていました。

青少年福祉センターの50年(1)

ブログでこういうことをしていいのかどうか、わかりませんが、次に書く台本を、ブログの連載にしたら書きやすいような気がしてきました。この団体の存在と、その中心人物の紹介をするビデオですから、ブログに掲載しても、あながち的外れではないかもしれません。もちろん私の責任での第1稿としてです。ほぼ半年先の完成までには、何度も改定の筆が入る筈です。

(タイトル・はじめに愛があった……青少年福祉センターの50年)
(西武線下落合駅付近を流れる妙正寺川の水面にタイトルWる、パンアップして新宿寮の建物、手前の橋に長谷場夏雄氏が立ち止まる。寮を見上げる顔アップ。)
(録音)僕はね、金があったからこの仕事したんじゃないの。今夜寝るとこがない、お腹すかしてる。そういう子がいたら、まず食べさせて、寝かしてやんなくちゃいけないでしょ。だから必死になって働きましたよ。金になることなら、みんなで知恵出して何でもやった……。
(写真・昭和35年(1960)頃のセンター、オート3輪で廃品回収、など)
(ナレーション・女声)長谷場夏雄さんは中学生のとき、孤児として旧・満州から引き揚げてきました。そして小さい弟を施設に預けたのが縁になって、カトリックの施設で働きながら学ぶことになり、教育者への道を進んでいました。しかし東京の戦後風景の中で、養護施設を出た子供たちが、自立できる力もなく結局は社会の底辺に落とされる現実を見て、「この子たちの家を作ろう」と決意します。そして出来たのが4畳半一間の「憩いの家」。長谷場さんが29歳になった昭和33年、1958年8月15日のことでした。
 昭和33年と言えば、敗戦から13年もたっています。テレビ放送が始まり、建設中の東京タワーが空に向かって伸びて行った時代。戦災で家庭を失った子供たちも、この頃ようやく成人に近づいて、一人前の社会人になる時を迎えていました。しかし家庭生活を知らず、家族も保証人もいない孤児たちにとって、「普通の就職」をするのがどれほど難しかったことか。しかも、就職の失敗は直ちに「宿無しで無収入」になることを意味していたのです。
 社会を支える人になるべき青少年が、その入口で転落して「社会のお荷物」になってしまう悲劇を何とかして救いたい。その思いこそ長谷場さんの原点であり、そしてまた、この運動の今日的な意味でもあるのです。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
→著作などの紹介と販売について
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