志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

70代からの情報革命

70代からの情報革命(12)

2006年の後半から、私はカテゴリーの整理などもして、今につながるようなブログの形態を整えてきた。IT関係の本を読んだり、テレビ番組を見たりして、ネット検索の特性なども、少しずつ理解するようになった。キーワードになりそうな言葉をタイトルに並べておくと、自分の記事がアクセスされやすいといった技巧も覚えた。満一年までは、基本的に、自分の意見発表の場としてのブログの整備が中心だったと言えるだろう。
 他のブロガーとの本格的な交流が始まったのは、2006年の末近くからだったと思う。学校のいじめの問題の記事に共感して「学校へ行かなくても困らない」という記事を書いたのが最初だった。元になったのは、うたのすけさんの「無理に学校へ行くな」だった。ここから、うたのすけさんとのリアルの交際が始まった。過去記事の「古希かるた」に感心し、戦前の生活を思い出す「昔のお話です」の連載から、私の実家に近い町の育ちであることがわかって、共通の話題が尽きなかった。戦前戦中の暮らしを再現する本を作ってみたい思惑もあって、直接面会に応じていただくまでになった。所属していた「松戸市民劇団」とのおつきあいにも広がって、それ以来、今も続いている。 
 同じころに、大垣の「みほ」さんとの交流もあった。私が見たドキュメント映画「三池」の感想文にコメントを入れていただいたのが縁になり、私のブログを全部プリントアウトして読んでくれていると聞いて感激した。間もなく「みほ」さんが主宰している「風地蔵新聞」が創刊号から揃えてドサリと届いた。と思ったら、突然に真剣な人生相談の電話がかかってきた。すべてに前向きな、バイタリティーあふれる人だった。翌2007年3月には子供と親の会で、こんにゃく座のコンサートを開催するというので、私は大垣までビデオカメラ持参で聞きに行った。私のこんにゃく座とのおつきあいは、それ以来ずっと続いている。
 こんな経験を通して、ブログは私の生活圏を丸ごと広げるツールになってきた。だからブログは、むしろ知り合いを増やすための情報源という位置づけに近づいたとも言える。とうていバーチャルなツールとは思えなかった。こういうアプローチが一般的に主流ではないだろうが、ネット上の交際とリアルの交際とを、ことさらに区別することは、私には無意味に思われる。
 さて、70代になってから仲間入りをした私のブロガー人生は、現在進行形である。ブログを通して自分は何をしたいのか、そもそもブログ書きを自分の本業とすることは可能なのか、そうしたことは、正直に言って、まだわかっていない。だが、まだ若いメディアであるだけに、参加者の意思で望ましい方向へ育てて行ける可能性も秘めているように感じている。
 私はこの「70代からの情報革命」を、100回ほど書いて1冊分の原稿にするつもりだったのだが、だんだん筆が遅くなってきたのは、まだ落ち着いていないことを書く無理があったからのようだ。そこで、この回で一応の終了とさせていただくこととした。そして明日からは、自分が一番書きたいことを、書きたいスタイルで書いて行こうと思う。そしてできることならば、自分が一番やりたかったことを、ブログを使って実現したいとも思っている。

70代からの情報革命(11)

 2006年春までの私のブログは、「大日本帝国の生存」「君が代を何とかしたい」など、私の持論とも言うべき書きたかったことを、シリーズの形式で書いているものが多い。つまり自分の頭に溜めてあったものを、忘れないうちに文字にしておこうという気持だった。(ちなみに、この初期の私の記事に、後に親しく交流をいただくことになる「まいさん」が、コメントを下さっていることに、読み直してみて気がつきました。)
 似たような感覚で、フィルム映画時代の撮影や編集の技術的なことなども書いている。(カテゴリー「趣味・技術」にまとめてあります。)映像制作でも、スライドの時代、映画の時代、ビデオの時代と順番に経験したから、すべてのメディアについて現場のノウハウを完全に知っていて使いこなせるのは、自分が最後の世代だろうと自覚していた。だから資料として残したかったし、多少は自慢話をしたい気持もあった。
 それにしても、技術の変化の激しさは驚くべきものだ。ビデオの最初はNHKで見た2インチ巾のオープンテープで、自分の会社でビデオを撮り始めたときは4分の3インチのUマチックだった。それから8ミリやHi8ビデオが業務用に使われた時代もあったが、結局はβカムが主流になった。その次はDVカムで今に至るのだが、すでにHDのデジタル化が始まっている。
 録音も同様で、私がNHKにいた期間は6ミリのオープンテープの全盛期だった。その後自分の会社の製品はカセットテープになり、やがて録音はデジタルのDATテープになった。それが今は録音は直接ハードディスクに録るようになり、MDを使っていた録音の編集もパソコンの仕事になった。製品は、音はCDに、映像はDVDにして納品するのが主流になりつつある。これだけの変化に対応して会社を経営するのも楽ではなかった。どのタイミングで新しい機材を導入するか、判断を誤れば高価な機器が時代遅れになってしまうのだから。
 思わず本筋から外れてしまったが、こうした業界の変遷史も、覚えているうちに書いておく必要がありそうだ。思い出話はもう書き尽くしたような気でいたが、まだ残っている部分があった。
 それはそうとして、当時の私のブログは、要するに溜めてあったものの書き出しを主として、その時々の話題や、読んだ本の紹介などで間を埋めていたことになる。「1000日は休まず続ける」意欲は強かったから、書きたいことが途切れることへの心配は常にあった。だから買ってきた本を読んで、あらましの内容が理解できると、それを紹介してブログ記事にするとき、ちょっと得した気分になったことを覚えている。趣味で読んだものがブログのネタになる、という感覚だった。これはやがて、私の読書習慣を大きく変えることになった。紹介記事を書こうとすると、いいかげんな読み方ができなくなったのだ。
 この時期に読んだ本で印象に残ったのは梅田望夫の「ウェブ進化論」だった。折から「ウェブ2.0」ということが盛んに言われて、ロングテールや集合知といった概念が出てきた。そういった時代の流れに、自分もブログを書くことで取り残されずに乗って行けそうだと思うと、嬉しかった。

70代からの情報革命(10)

 マイペースで書き続けていた私のブログにも、数ヶ月たつとぽつりぽつりとコメントが入り始めた。記事に特別な興味をもってくれた有難い読者の意見なのだが、私は依然として返信を書いていない。感想文なのだから、読んでみて反応を確かめればそれで終り、と思っていたらしい。これは後に自分がよそへコメントを入れるようになってからわかったのだが、とんでもない思い違いだった。自分の意見が相手にどう受け取られたかは、とても気になるものだ。コメントにどう答えるかを知ることで、相手のことがよくわかるし、そこからさらに交流が展開するきっかけにもなるので、それこそがブログの面白さなのだった。「以前にコメントを入れたけど、返事がないので止めました」と、はっきり教えてくれた人がいて、私もようやく気がついた。要するに手紙をもらったのと同じことなのだ。
 実質的にコメント欄を使って情報交換ができたのは、2006年春になって出版の碧天舎が倒産したときだったと思う。私が「おじいちゃんの書き置き」の再版が出せなくなったことを書いたら、同じ立場の人からコメントがあった。その発信元を見に行って、先方がどんなものを書いているのかを読み、それについての感想もまじえながら、しばらく交流が続いた。このあたりから、よそのブログを見に行ってそこへコメントを残すことで、自分のブログへのアクセスを増やすという「営業活動」の呼吸がわかってきた。
 トラックバックも最初は何のことか知らなかったのだが、どこかのブログで「昨夜はトラックバックで『営業活動』をした」などと書いてあるのを見て、そんなものかと思った。初めてブログの本を書店で買ってきて、トラックバックの方法を覚えた。説明によると「私もこのテーマでこんなことを書いています」と知らせるもので、なるべくコメント欄への挨拶と併用するのが好ましいということだった。また、受けた側は「トラックバックありがとうございました」と返礼のコメントを送る習慣もあったようだ。これは今から2年前の本なのだが、今のトラックバックは商用の広告などに汚染される場合も多くなった。迷惑メールと同じような現象は、インターネットの世界では避けられないのだろうか。
 しかしブログ同士の交流は、なんといってもコメントが中心になる。もらったコメントが縁になって相手のブログを見に行き、そこへコメントを残すようになると、両者の関係は対等になる。それが継続的になると「ブログ友」と呼べるような感覚が生まれるのだ。けれどもブログ歴の浅い私には、まだそこまでの認識はなかった。とにかく言いたいことが毎日書ければいい。付随するつきあいは、人並みに出来てさえいればいいと思っていた。

70代からの情報革命(9)

2006年の正月から、ブログを書くことは私の日課になった。毎日欠かさずというのは負担ではないかと人に言われて、「夜に当日分と翌日の分を書けば、二日に一度でいい」と答え、実際にそのようにしてみたこともあったが、結局は一日に一度、ほぼ決まった時間に書くのが定着した。子供のころからずっとやっていたように、日記のように書くのが一番楽なのだった。
 ただし日記と大きく違うのは、書いたものが公開されて人目にふれることだった。すると誤字・脱字は出したくないから、プレビューのときに校正読みをすることになる。そこで文意がうまく伝わらないと思えば、表現を変えることにもなる。つまり気ままな作文ではあっても、仕事として書いている気分に近づくのだった。すると書いたものには愛着が生まれる。どんなに古いエントリーでも、読み直したときに引っかかる部分があると、その場ですぐに直す習慣は、今に至るまでずっと続いている。直しが簡単にできる点では、書籍よりもずっと便利で有難い。
 この、人目にふれるものを書くという感覚が、ブログの緊張感であり、魅力なのだと思う。どんなに少人数でも、読者がいてくれると思ったら、サボらずに書き続けることができるのだった。そして書く内容は、日ごとに勝手に自分で決められる。初期の私のブログは、出版準備中の著書の宣伝めいたものから、日々のニュースに触発されたもの、話題の本の書評、自分がふだんから温めていた主張など、我ながら呆れるほど多岐にわたっている。親しい友人と語り合っているような感覚で、ぽんぽんと思いついたことを話題にしているようだ。この姿勢は今も変ってはいないのだが、ブログの初期には「何でも書いてやろう」と試してみるような気分があったと思う。
 しかしコメント欄を通じての、未知の人との交流は、まだ始まっていなかった。調べてみたら、一月中にはコメントは全く入っていない。わずかにトラックバックが時たま入っているが、当時は意味がわからないし気づかずにいた。実際に入っていたのも、いわゆる迷惑系ばかりである。気づいていたら、逆に警戒心が働いてブレーキになったかもしれない。
 とにかくこの時期は、ブログとは、ひたすらに書くものでしかなかった。他人のブログを読んで時間を使った記憶が何もない。他の人はどんなふうにブログを使っているのか、参考にしてみようという気持にならなかったのは、どうしてだろう。今から考えると不思議である。ブログは意見発表の場だから、簡易な出版のようなつもりでいたのかもしれない。
 ブログの本当の面白さは、コメントやトラックバックの機能を通じて未知の人との交流が生まれ、相互に影響し合って新しい流れが始まるところにある。だからこの時期の私は、ブログの半面しか使っていなかったことになる。しかし継続は無駄ではなかった。どういう経路を伝ってか、私のブログに接触してくる読者が現れ始めた。

70代からの情報革命(8)

 ブログを始めた2005年末当時、メールで交信があったのはインドネシア在住の友人だけだった。彼は日本の政治に対して鋭い批判をするのが常で、それは海外にいることで、日本の不甲斐なさがよくわかるというのだった。天木直人の「さらば外務省」をぜひ読めと、しつこいほど言ってきたのも彼だった。だからブログの上で、彼の意見を公開してみたらどうかと思った。ブログはパスワードを知っていれば遠くにいても投稿できる。共同で運営する方法もありそうな気がした。
 後日談だが、このアイディアは実現しなかった。今に至るまで、私の知るかぎり、複数の参加者で運営しているブログは、劇団など特定の団体のものに限られている。任意の個人が集まっている「論壇」のようなブログの成功例は、まだ見ていない。個人で簡単に開設できるし、結局は「自分のブログ」だからこそ続けられるのかもしれない。しかし、孤立しがちな立場の人、たとえば独居老人たちを結ぶ「回覧板」のようなブログはできないか、日を決めて週に1回なら書けるという人もいるのではないか、などと今も考えている。
 話を本筋にもどすが、インドネシアの友人はコメントで参加してくれた。私の初期のブログは、社会時評的なことを、不定期に短文で書いていた。当時、株の取引ミスで株数と金額とを逆に入力し、百億円単位の損失と不労利益が出たという事件があって、コンピューターが絶対でいいのか、「しっかりしろ、人間」などと書いていた。それに対して友人は、コメント欄を使って、日本の政治への批判や、インドネシアでの生活の紹介などを寄せてくれた。ただし、コメント欄には字数の制限があって、長文は分割する必要があったりで、やや使いにくそうだった。
 ブログへのアクセス数は、少ないままだった。彼は「カウンターの数は、俺たちが使った回数なのか」などとメールで問い合わせてきた。そんな中でも、知らない人からのコメントが、ぽつんと入ってきたことがあった。嬉しかったのだが、今になって見直してみたら、私は返信のコメントを書いていない。コメントを貰ったら、すぐに返事をするというエチケットさえ知らずにいたようだ。
 12月も後半からは、私のブログは、ほぼ毎日になった。友人から勧められた本を読んでの書評なども書いた。記事の長さは、1200字程度になった。私は自分の本を書いた経験から、見開き2ページに入るスペースで一つの話をまとめる習慣がついていたのだが、これがちょうどパソコンの「テキスト」で画面一杯に入る分量に近かった。この調子でやればいいと思ったら、書くのが楽になった。そこで「新しい税源」だの「世界連邦」を作るプロセスだのと、持論を連載で書くようなことも始めてみた。ブログだからといって特別なことではない、要するに書きたいことを書けばいいので、とりあえず千日ぐらいは続けてみようかと、当面の目標が立ってきた。

70代からの情報革命(7)

 自分のブログを開設するに当っての作業は、ぷららブローチの解説画面を見ながら慎重に進めた。自信はなかったが、ふつうの人の理解力に合わせて書いてある説明なら、自分にもわからない筈はないと思った。いざとなれば、娘や婿に助けてもらえばいいという安心感もあったが、できれば自分で全部を経験したかった。その代り、最低限必要なことさえできればいいので、遊びや飾りは何もいらないと思っていた。だからテンプレートは、最初に出てきた今の形式を選んだまでのことで、ほかにどんなものがあるのか比べてみることもしなかった。
 ブログに表示する名前を実名にすることも、ほとんど迷わなかった。というか、変名にする理由がわからなかった。自分はこんなことを考えているということを公表するのだから、変名では意味がないように思った。「おじいちゃんの書き置き」を出したばかりだったから、こんな本を書いた人間だということを、むしろ知って貰いたい気持もあった。ネット社会の怖い一面というものを知らなかったから、もし身近な専門家たちに相談していたら、もっと慎重になったかもしれない。
 後で知ったのだが、日本のブロガーはハンドル・ネームを使う人が圧倒的に多いのに対して、アメリカでは実名の人が多いということだ。アメリカでは自己主張のはっきりした人が多くて、日本では、あまり目立たないところにいて発言したい人が多いのだろうか。世界の中でもブログは日本語で書かれるものが断トツに多いそうだが、私的な発言をするのが好きだが、公式発言として扱われるのは困るというのが、日本人に多い心情なのかもしれない。 
 何はともあれ、私のブログ第1号は2005年11月30日に出た。

 ブログ初体験
ブログ初体験です。どのように使うのか、まだ勝手がわかりませんが、言いたいことは沢山あります。今、二冊目の本を書いています。テーマは「人類百世紀のために……一万年だって生きられる」です。人類を突然死させたくないのです。ヘマをしなければ、地球の歴史から考えて、一万年ぐらいは楽に生きられる筈だという思いです。
 一冊目は今年の夏に出しました。「おじいちゃんの書き置き……二十一世紀を生きる君たちへ」というのです。これを書いたら、一冊だけでは終れなくなりました。 

これだけ書いてエントリーに出したのだが、それだけのことで、何も起こらなかった。たしかに自分のブログだから呼び出して自分で読めるのだが、それで終りである。カウンターがあって、アクセスされた回数を表示しているらしいのだが、10までも行かなかった。まだ他人のブログを見に行くことを知らなかったし、方法もわからなかった。
 この時点で、私にとってのインターネットの利用法は検索でしかなかった。「おじいちゃんの書き置き」を検索すると、意外に多くの項目が表示されて、この本が各地の公共図書館で購入されて「新着図書」として紹介されているのがわかった。中に「貸出し中」の表示があったりすると、誰かが読んでくれていると思って嬉しかった。

70代からの情報革命(6)

 自分専用のパソコンを持つようになってからも、もっぱら Word でワープロのように使うだけの期間が数年は続いた。会社のメールで自分用のアドレスも作ってもらったのだが、テストに一度親戚と往来しただけで、実用にはならなかった。インターネットで検索すると、いろいろなことがわかって便利だと聞いていたし、会社で使われているのも見ていたが、初期には接続していると時間に応じて課金されるシステムだったから、自分は従来通りに辞書と百科事典で調べものをする習慣を変えなかった。
  Word 以外に、自分で本を買ってきて覚えたのは Exel だった。複写用紙で手書きしていた請求書を Exel で作成すると、見た目もきれいだし合計の計算もやってくれる。請求内容の記述も活字で印刷されるから、なんとなく手書きよりも信用されそうな気がした。悪筆が隠せて便利なのは、年賀状もそうだった。とくに宛名書きに長い時間がかかって、肝心の文面がおざなりになるのは、以前から困ったことだと思っていた。だから孫に「筆まめ」をインストールしてもらって、郵便番号で住所がすらすらと出てくるのを見たときは、かなりの感激だった。
 ここまでだったら、パソコンは私にとって、今までに何度も経験してきた「使ってみたら便利だった機械」の一つに過ぎなかったと思う。本格的に踏み込んだのは、娘の手配で家庭専用に会社とは別なネット回線を引いてからだった。その動機は、中学生になった孫が、好奇心旺盛でいろいろなことを自力で覚えるうちに、ウィルスを呼び込んで会社のパソコンをダウンさせる事件を起こしたことだった。
 契約書を見ると、ぷららの「フレッツ・ADSLセット」を導入したのは2004年の8月である。私がぷらら・ブローチのブログのテスト版に申し込んで使い始めたのは2005年の11月だから、契約してから一年以上の間は、常時接続のインターネットは、ほとんど使われないままに放置されていたことになる。インドネシアにいる友人と電子メールを時たま交換することはあったし、ネット検索が日本語だけでも充分にできることがわかって、ひまな時間に情報を引き出して面白がる程度のことはあったが、まだ生活の必需品というには遠かった。それよりも私は「おじいちゃんの書き置き」を書くことに熱中していた。
 私の最初の本が出て一段落したころ、新聞でブログというものが日本で流行しつつあるという記事を読んだ。ホームページを持つよりも簡単で、日記のように随時書き足すことができるということだった。ちょうどそのタイミングで、ぷららからのお知らせとして、新規にぷららブローチというブログを開設する、テスト版の使用者を無料で受け付けるとの告知を見た。私は初めて誰にも相談せずに、無料ならよかろうと、自力で登録の手続きをした。このときの私の年齢は72歳だった。
 

70代からの情報革命(5)

 私のパソコンとのつきあいは、 Word を使って台本を書くようになってから本格的になった。要するに、使用目的なしに、いくらパソコンをいじってみても使えるようにはならない。どんなに小さな部分でも、実用に使うことでパソコンは身近なものになってくるのだった。
 これは同年輩の友人たちと話してみても同様だった。興味をもってパソコン教室に通ってみたという人は、意外なほど多かったのだが、覚えきれなくなって挫折したという例が大半だった。勉強としていろいろな機能を教わって、そのときは理解できても、時間がたてば忘れてしまう。教養としてのパソコン知識は身につかないのだ。だから、少しでも実用に使う場があって、最低限必要な使い方を、その都度教えられながら知識を増やして行くのが一番いい。ある程度まで基礎知識ができてからだと、市販の解説書が理解できて、自分流の技術を増やして行くことも可能になる。その点では、私の環境は恵まれていた。
 しかしながら、ワープロの「文豪」からパソコンの Word に乗り換えたときは、不便で仕方がなかった。 Word にさまざまな便利な機能があるのはわかるのだが、ワープロの愚直さに比べて、 Word には「頼みもしないお節介」が多すぎた。 Word の最大の欠点は罫線が自由に引けないことだったが、字詰めでも行間でも、なかなか思い通りの結果が出せず、パソコンが執拗に自分の論理を押し通そうとしていると感じることが多かった。私は何度も「『文豪』がそのままパソコンで使えるソフトはないものか」と、人にも聞いたし、調べてもみた。ワープロとは、パソコンの機能の一部分だけに特化した機械だと聞いていたから、「文豪」をそのままパソコンで使えるようにできないわけがないと思ったのだが、期待は常に裏切られた。このことは、今でも疑問に思っている。
 パソコンを使うようになって、初めて私は「コンピューターの働きは、人間の頭脳に酷似している」ことを実感した。さまざまな条件に対する反応が、蓄えられている判断基準によって、あらかじめ決められている。そして約束事は決して忘れることなく、忠実に実行する。そこには一切の妥協はないのだった。ただし、人間なら3回も拒否されれば考え直して行動を変えるのだが、パソコンは自分から折れることがない。その意味では、究極の「バカ正直」なのだった。
 バカ正直者を使いこなすには、相手の考えていることを察してやるしかない。使い手の意思に逆らう反応を繰り返すときは、古い命令を覚えていて、それが解除されない限りは自由に動けないのかもしれない。その意味では、融通のきかない哀れな記憶力である。そう思えば腹も立たないのだが、慣れるまでは「この馬鹿者め」と、本気でパソコンを叱りつけたいことがよくあった。
 キーのミスタッチも、時としてとんでもない災厄を招いた。苦労して書いた作文が一瞬にして消えてしまった経験は、一度や二度ではない。意図しない指の動きも、すべて使用者の責任となって、誰を恨むこともできないのだった。

70代からの情報革命(4)

NECのワープロ「文豪」による台本のフォーマットは、B5縦に横書きで一行に40字、行数は20行(後に22行)にしたから、ちょうど手書き原稿2枚分が1ページにおさまった。左から10字のところで縦線を入れ、左側は画面の説明、右側の30字にナレーションを入れた。一行を読む長さが、ほぼ6秒になる。スライドの場合は、一画面に対して6〜8秒の文章を二つ、字数にして7〜80字程度の解説を書くと、ナレーターが読みやすく、作品として見る場合にも座りがよかった。言いたいことを一定の長さの中で表現するという私の文章スタイルは、この習慣から作られたのだと思う。
 とにかくワープロを使うようになってからは、私はキーボードと画面の前で長い時間を過ごすようになった。目の前に並んだ自分の文章を、気が済むまで手直しして、納得できるまで作り変え、しかも直したあとが汚くならずに、完成形として出来上がってくるのを見られるのだから、これは理想的な作文の方法に違いなかった。おかげで文章書きが楽しくなったと言ってもいいくらいだった。
 台本はB4の用紙を使って、左右に2ページ印刷するのを基本にした。長い作品でも、二つ折りして本のようになる。無駄のないスタイルだと思って長くこだわってきたのだが、だんだんA4判が主流になる世の中の傾向に合わせて、ここ数年でA4に移行した。ただし今でも一行は30字にしている。
 このようにワープロは、私にとって、完全に使いこなしたと思える機械になった。しかしその成功体験は、パソコンを覚えるときには、意外にも障害になったような気がする。私の会社も、娘が参加するようになった時期から、バソコンの導入が始まった。娘はコンピューターの専門家だから、新しく始めた幼児教育用ビデオの画面作りにも、会社の計数管理にも、どんどんパソコンを使い始めた。当然、私も無関心ではいられなかったのだが、聞けばパソコンには、一冊読めば全部わかるというようなマニュアルは、ないのだという。「やっているうちに、だんだん覚える」のがいいとしか言わない。そして自由に使ってもいいというノート型パソコンを1台与えてくれた。
 マニュアルなしで、いきなりパソコンに立ち向かうというのは、いくらなんでも無謀だった。パスワードを教えられて開いてみても、自分が何をしたいのかがわからないから、手のつけようがない。「ヘルプ」などをクリックすると、余計にわからないことが出てくるばかりだった。一日に30分はやってみるという日課にしたのだが、これは後から考えると全くの無駄だった。キーボードのキーを順番に全部押してみて、どこかで正解に当る筈だ、というようなことをやっていたのだ。
 ワープロまでは「機械」だったが、パソコンは機械ではなくて、「一つの世界への入り口」だと、今の私は思っている。パソコンを機械として理解しようとしたのは、根本的に間違っていたのだ。何をしたいかを決めて、そのために必要な操作法だけを、まずは先達から習うべきだった。


70代からの情報革命(3)

 紙に手書きするものと決まっていた作文が、キーボードで打ち画面で見る作業になったのは、非常に大きな変化だったと思う。それ以前からも、私は紙に字を書くことには苦労していて、いろいろに工夫もしていた。
 まず、日本文であっても、縦書きよりは横書きの方が合理的であることは、すぐに気がついた。だいたい人間の目は横に二つついているので、上下よりも左右の方が視線の移動は早い。次に私は万年筆で書くことが多かったのだが、縦書きだと改行のたびに手は書いた字の上をこすることになる。インクが生乾きだと、にじんで汚れるのが気になって、これは毎日のように日記帳で経験していた。鉛筆でも、同じようなことは起こる。しかし横書きなら、手は常に白い紙の上にあるから安心である。
 学生時代には、ノートを楽に早く書く方法はないかと考えた。とりわけ漢字の言葉には時間がかかる。何かの本で「カナ文字会」や「ローマ字会」の存在を知り、漢字は日本語のガンだと思ったこともあった。そこで、ローマ字でノートをとることにして、一ヶ月ぐらい実行してみた。筆記体の分かち書きにして、カキクケコは ca ci cu ce co と綴ることにした。k の筆記体は書きにくいので c で代用したのだが、このアイディアは本で読んだのだと思う。このローマ字書きは、けっこう早くて見た目もきれいだったから、充分に実用可能と思われた。とくに会話文の筆記には向いていて、速記をとるような気分だった。
 ただし、欠点は読み取りにくいことだった。やはり問題は漢字で、ローマ字から漢字を連想して意味をとるのに時間がかかるのだった。だから、よく出る単語は一文字だけ漢字を書いて目印にしたり、いろいろやってみたのだが長続きせず、結局は漢字かな交じりに復帰せざるをえなかった。しかしこれ以後は、横書きの作文に全く抵抗を感じなくなったのは、成果だったかもしれない。
 だから、仕事で台本書きをするようになったときも、特に注文されない限りは横書きにした。横書き400字詰めの原稿用紙の左から5字のところに縦線を入れ、その部分に画面の絵または説明を書いて、残りの300字を使ってナレーション原稿を書くと、絵コンテを兼ねた台本になる。文字数が300字というのは、標準の早さで読めば一分になるから、作品の長さも二十枚書けば二十分ものというように、すぐ見当がつくので便利だった。この様式は、スライドや映画・ビデオの台本として、創業から十年以上にわたって私の会社の定式となった。
 しかし鉛筆で手書きした台本は、推敲や改訂を入れようとすると直すのが大変だった。消しゴムで処理できる範囲ならいいが、数行の書き加えでも、切り貼りして何枚にもわたって直さなければならなくなる。修正してもすぐにきれいに清書できる方法はないものかと、私の悩みの種だったのである。

70代からの情報革命(2)

 今にして思えば、ワープロを使い始めたのは情報IT化の入り口だった。タイプライターは筆記用具の延長という感じで、大学の卒論は英文タイプライターで打つ程度にはなっていたのだが、盤面を見ないで叩くブラインドタッチまでは習熟しなかった。
 ワープロを使い始めるとき、入力を「かな」にするかローマ字にするかで選択肢があった。ローマ字の方が字数が少ないから合理的のようだが、タッチ数は増える。両方試しているうちに、見た通りの文字がすぐに出る「かな打ち」の方が簡単明瞭で親しみやすいように感じた。文字の配列が五十音順でないのに文句を言いながらも、しばらくすると文字の位置は短時間で探せるようになった。
 ワープロの威力を実感したのは、単語登録とコピーの機能についてだった。漢字のつづく長い単語でも、登録さえしておけば、かな一文字で呼び出すことができる。「ろ」は「労働組合」、「ろき」は「労働基準法」といった具合に、何度も使う言葉が瞬時に画面に並ぶのは快感だった。住所も「しょ」だけで東京都から番地まで全部書けてしまう。これを使いこなすようになってからは、手書きよりもワープロの方が、絶対速度でも早くなったと思う。
 この辞書機能の面白さに一時期ははまり込んで、ひまな時間に辞書を開いて、自分が使いそうな言葉をどんどん覚えさせたり、使わなくなった語彙を削除したりして、「自分の辞書」づくりに精を出したこともあった。面白くてやめられなくなり、しばしば徹夜してしまった。もっとも、使わない言葉の削除は、当初は記憶容量を無駄使いしたくなかったのだが、使わなければ順位が下がるだけなので、途中からは気にしなくなった。
 字体は明朝とゴシックの二種だけ、字の大きさは10.5ポイントだけで、強調したいときは横または縦の二倍文字にできるだけだった。今から考えると不便なものだが、当時の必要に対しては、充分な機能だと思っていた。
 罫線の引き方も簡単だった。縦または横の線を文字と同様に並べるだけでよく、細罫と太罫があった。縦横の交差も、角になる部分も、きれいにつながるのに感心した。斜線を引くことはできなかったと思うが、この機能だけで、かなり複雑な案内地図を作ることもできた。今の word にもこの機能があったら、どんなに便利かと思っている。
 ワープロを使うことで、私の書く台本は、どこへ出しても恥ずかしくないものになった。記念すべきワープロ台本の第一作は、民社党の代議士会長だった岡田正勝氏のために書いた「岡田正勝・その人と歩み」で、作品としても自信作だった。昭和58年(1983)7月のことである。

70代からの情報革命(1)

 私は字が下手だ。手紙でも、ちょっとしたメモでも、自分が手書きしたものが、きれいに見えたことがない。父親は中学生の私に習字を課して、夏休みの間に「九成宮醴泉銘」という楷書の極意を臨書させた。毎日つづけて最後まで書いたのが少しは効果があったのか、直後の二学期の最初に、私の習字が一回だけ教室に張り出されたことがある。しかし、万年筆で書く日記の文字がきれいになったとは思えなかった。
 社会人になってからも字では苦労した。独立して映像の仕事を始め、スライド作品の台本などを書くことが多かったのだが、客先から、読みにくいので書き直してくれと言われることもあった。そこへ登場したのがワープロという機械だった。和文タイプは、とても素人の手に負えないとあきらめていたのだが、ワープロはかな文字を漢字に変えてくれるので、50音のキーだけで打てるというのが気に入った。さらにパソコンの普及が始まっていて、ワープロはパソコンの機能を文書作りに特化させたものだと聞いたから、時代の最先端を行くもののように思われた。
 NECの「文豪」が発表されてすぐの頃の昭和58年(1983)に、ショールームへ現物を見に行った。説明の女性がていねいに教えてくれて、漢字を含む小さな文節に分けて入力すると、漢字変換がスムーズにいくのが実感できた。変換キーを押すたびに候補の漢字が次々に出てくるのが面白かった。そこから一つを選択すると、次回はそれが最初に出るというコンピューターの賢さに驚嘆した。当時の私の年齢が50歳である。すっかり気に入って、欲しいと思った。
 ところが価格はプリンターも含めると150万円もする。7インチのフロッピーディスクを使う堂々たる大きさである。当時の家業の売り上げでは、設備投資としても過大な買い物だった。それでも妻を説得して、長期のリースで導入することにした。
 機械が到着してからは、説明書を熟読して少しずつ機能を覚えていった。かなり面倒ではあったが、手抜きしないでよく読めば、使い方に迷うことは少なかった。この「知りつくた安心感」の成功体験は、後にパソコンを覚えるときには、むしろ障害になったと思う。ワープロは、まだ知りつくすことが可能な機械だったのである。
 ワープロを使い始めたころは、当然ながら作文の早さは、手書きよりもずっと遅かった。ただ幸いだったのは、私が最初から「考えながら文章を打つ」のにワープロを使ったことだった。私は推敲を徹底する方だから、手書きの時代には消しゴムが欠かせなかったのだが、ワープロでは画面の上に言葉を並べてから自在に順を入れ替えることができる。この違いは大きかった。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
→著作などの紹介と販売について
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