志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

少年期の戦中と戦後

少年期の戦中と戦後(100)

インフレの終息

 昭和二十四年版「児童年鑑」の定価百八十円は当時としても高い値付けだったが、この定価は二年後の昭和二十六年版まで守られている。頁数が四百頁近くまで厚くなって戦前期と同等になり、付録として大判の世界全図・東亜要図を折り畳んでつけた上で箱入りになっているから、実質的には三割程度の値下げをしたことになる。激しかったインフレも、昭和二十四年を境にして、ほぼ終息したことがわかる。「児童年鑑」の定価は、昭和三十一年版でも二百円だった。そして昭和二十六年から、今も通用している十円銅貨の発行が始まった。それ以後の日本の物価の騰貴は、五十年かけて十倍から二十倍程度の、ゆるやかなものになって今に至っている。
 野ばら社版の後を追って、学研、小学館、金子書房なども「児童年鑑」を発売した。父は商標登録をしていたのだが、「文字自体に権利を主張せず」の条件つきだから、類書の出現は止められなかった。新興の児童年鑑は発行日を早め、社会科の参考書としてのコンセプトで追ってきた。その中で父は「大人になっても役に立つ知識」にこだわり、発行日も年末ぎりぎりを変えなかった。野ばら社版は戦前からのファンも多くて健闘し、ピーク時には十万部近くに達して王座を守っていたが、問屋筋からの「社会科を意識して近代化したら」という助言への対応は遅れた。「サラリーマンの作る本には負けない」という父の手づくり意識は、兄の批判も生んだ。奥付の編集者の欄に、父・志村文蔵と兄と私と、三人の名が並んだ年もあった。それは父の自慢だったが、同時に一つの限界でもあったと思う。「児童年鑑」としては昭和三十一年版が、そして私が大学を卒業する年に「学友年鑑」の名でスリム化して作った昭和三十二年版が最後になった。以後休刊しているが、廃刊ではないと、私は今でも思っている。
 昭和二十四年以後も私の日記はつづいて、家業の隆盛を伝えている。十万円を超える売り上げが何日も続くので、怖いようだとまで書いてある。地方の問屋が、先を争って電報で注文を入れてくる盛況だった。父も安心したのか、この正月には、姉たちと私を連れて熱海の温泉へ泊まりに行っている。その後、気に入りの温泉宿を伊豆山に決めて、そこで名著となる「手紙辞典」の編集・著作に没頭した。高校一年生になった私は、助手として週末ごとに東京と熱海の間を往復した。そして年末には十六歳で自動車の運転免許を取り、配本に走り回るようになった。
 家の仕事に組み込まれながら、私は青年期に入って行った。昭和二十四、五年の私の日記帳は薄い。それを二十六年に読み返した私は「わが伸びそこなった少年期の記念」と、わざわざ見返しに書き込んでいる。その後私の日記の分量は、加速度的に増えて高校三年のピークに向かうのだ。今の私はどのようにして出来上がったのか、よく読めばわかるのかもしれない。そのことにどんな意味があるのかは、わからないが、一人の少年が大人になるために通った足跡が残っている筈だ。日を改めて、それを書かなければならないと思っている。(完)

少年期の戦中と戦後(99)

野ばら社の「児童年鑑」昭和二十四年版

 昭和二十三年の十月以降、私の日記は中断する。もう父親の検閲はなくなったし、義務で書くような日常の記録を続けるのは、つまらなくなったのだろう。この年の秋から年末は、非常に忙しかった筈だから、それも日記を休む口実になったのかもしれない。
 年鑑のような定期刊行物の編集・制作は、つらいものである。発行日が決まっているから、自分で自分を縛って遅れを取り戻さなければならない。父は気分屋で決して勤勉ではなかったから、仕事を手伝う周囲の人間も楽ではなかった。年鑑の発行は、この年をはじめとして、いつも年末ぎりぎりまで追い込まれた。クリスマスは「苦しみます」で、サンタクロースは「さんざ苦労する」だと、母と姉は嘆いていた。それでも年末に昭和二十四年版の「児童年鑑」は完成した。
 頁数は二六二ページとやや薄く、箱入りでもなかったが、表紙と背文字には、ちゃんと金箔を使っている。定価は百八十円で、この値段は当時としても高かった。発行後に学校へ持って行って友だちに見せたが、「高いや」と言われたのを覚えている。昭和十七年版が一円二十銭だったから、七年で定価は百五十倍になった。それでも競争相手がないからよく売れた。
 肝心の中身だが、歴史年表から皇紀が消えて西暦本位になっている。しかし紀元前六百六十年のところに「神武天皇即位と伝えられる」と書き、括弧して(年代不確実、西暦紀元元年前後であろうとの説有力)としているのは、往生ぎわが悪い感じがする。年代の記述をめぐって父と兄が論争しているのを聞いた覚えもあるが、中学三年の私は、まだ編集に参加していなかった。父は「日本の歴史は古事記や日本書紀などがあるのだから、漢書の記述を優先するのはおかしい」という持論を、最後まで変えることがなかった。
 法律のところには日本国憲法とポツダム宣言の全文があり、時事解説では東西対立と「鉄のカーテン」を地図で図解している。基礎資料の都道府県や世界の国々の特徴、各種統計資料などは、良心的に新しいデータを集めたようだ。現代用語の解説から当用漢字一覧まで、社会常識を養う良質の資料を子供たちに提供するという、伝統の制作意図は貫徹されている。
 巻末の「編集だより」に、父は「愛する祖国の光栄ある独立と輝かしい民族の自由を得るためには、国民の一人一人がたゆみない努力を続け、苦難に耐え、不滅の希望に向って進んで行く、それ以外に近道もなく、また奇抜な方法など、絶対にあり得ません。」と書いている。連合軍の占領がいつまで続くか見えなかった当時の、父の真情を綴ったものだと思う。しかしながら、大筋では時代の流れのままに戦争に協力し、少年少女にもアジア十億の指導者になれと説いていたことに対する反省の姿勢はない。また、戦争のために失われた多くの生命に対する、悔恨の言葉も追悼の祈りもない。私自身を含めて、わが家族は戦争の傍観者でしかなかったことを、認めざるをえないと思う。


少年期の戦中と戦後(98)

遅れて来た悪童時代

 尋常科(中学)三年の学校生活には、割合に思い出すことが多い。吉川英治の著作を夢中で読んだのが、この年だった。「宮本武蔵」から始まって「三国志」「太閤記」へと続いた。「太閤記」は刊行が続いていて、続刊が出るのを待ちかねて買った記憶がある。宮本武蔵の人物像には心酔したから、夜中に日本刀を持ち出して、月光の下で振り回したりして、軟弱な世相と戦う気になっていた。三国志では、りゅうび劉備げんとく玄徳になったつもりで、徳の力で豪傑たちを従え、国を再建する意欲に燃えた。思想的には民主主義教育をバカにして、圧倒的な科学力で世界を統一するようなことを考えていたと思う。
 理想は高かったが、やったことは子供じみていた。校庭には森が残っていて秋にはどんぐりがたくさん落ち、それをぶつけ合う「どんぐり合戦」が伝統の遊びなのだが、私はゴム式パチンコでどんぐりの弾を撃つ、狙撃の名人になった。教壇上の教卓にチョークを立て、教室の一番奥から狙って命中させるほどの精度になった。三階の窓から下を歩く級友のカバンに当てて驚かせたこともある。藪から篠竹を切り出してきて、剣に見立てたフェンシングも、よくやった。ようやく玩具屋に出回るようになった、火薬で音の出るピストルも愛用した。英国映画の影響で騎士道に凝っている級友と組んで「イタズラ団」という秘密結社めいたものを作り、暗号で通信するようなこともした。戦時中に遊び足りなかったのと、末っ子で勝手な行動ができずに育った反動だったような気がする。
 日記の上でも、この辺で子供から大人への変化が起きているのがわかる。日常の記録を書くのは面白くなくて一種の行き詰まり感があるのだが、自分が思っていることの表現は、まだ出来ずにいる。わずかに偽悪的な小話や替え歌を作って、級友の間に回したりしていた。「東京ブギウギ」の替え歌が日記に残っていた。私たちの教室は三階の端で、ドアが一つしかなかった。
  武蔵物騒物騒 いつもガタピシャ ドタンバタンで明け暮れ
  物騒なとこ 尋三乙 武蔵物騒物騒
  手くせ悪いやつ みんな揃って あっという間に戸閉まる
  もう開かない 出られない 武蔵物騒物騒(タスケテー)
 この年の夏から、家では「児童年鑑」の復刊に向けて準備が始まった。昭和十七年版を最後に休刊したから六年間の中断になる。その復活は家業の本格的な復興の象徴だった。そこで編集に必要な地図やイラストの描き手として、美術学校の生徒が三人通ってくるようになった。増築した板の間に机を並べて仕事をしていたが、停電が多いので困っていた。蝋燭をたくさん立てて明るくするのだが、すす煤が飛ぶので、紙が汚れるのだった。美校生には軍隊の経験者もいて、いずれも明るく元気な青年たちだった。その中の一人は、後に姉と結婚して私の義兄になった。

少年期の戦中と戦後(97)

焼けビルの住人

 昭和二十三年(1948)四月末に尋常科(中学)三年の一学期が始まったが、教科書は一冊も来ていないと、日記には心細いことが書いてある。武蔵の先生は個性的な人が多くて、あまり教科書には頼らない授業が多かったのだと思う。新制中学の教科書は、使った覚えがない。三年の三学期に高校一年の数学の教科書を渡されて、内容は全部済んでいるから復習に使うとよい、と言われた記憶がある。
 この頃に、険悪な世相は近所にまで迫ってきた。すぐ近くのピアノの先生の家では、玄関に誰かが来たような音がしたので出てみたら、人は誰もいなくて、置いてあった靴が三足なくなっていたということだった。少し離れた所では、真っ昼間に三人組の強盗が押し入り、女二人の家人を縛り上げて、家中を荒らして行ったと聞いた。これでは物騒だというので、両隣の家と話し合って、三軒をつなぐ防犯ベルを取り付けることになった。私がその工事を担当することになり、電線やベル、変圧器などを買い集めてきた。かなりの工事だから、五百円ぐらい頂かないと採算が合わないと、強気なことを日記に書いている。ちなみに、当時の官公労は二千九百円の賃金ベースを不満としてストライキをしている。
 この時代らしいと思うのは、六月三日に突如として進駐軍の命令による学校の大掃除が、授業を中止して一日かがりで行われている。その前には同じく進駐軍の命令で全員にチブスの予防注射というのもあった。帝銀事件で銀行員が素直に青酸カリを飲んでしまったのも、「進駐軍の命令」という絶対の権威が利用されたのだった。
 この年の夏休みも、私は家業の手伝いでよく働いた。快速の自転車を飛ばして郵便局まで発送の荷物を運ぶのは、おもに私の仕事だった。七月二十六日、豊島郵便局へ行った帰り道で、すごい夕立に会ったことがくわしく日記に書いてある。染井墓地に近い、比較的高級な住宅街を通っていた。大きな木の下で先に自転車で雨宿りしている人がいて、私もそこに身を寄せた。そこへまた大学生風の若い人が加わったが、木の下で防げるような雨ではなくなった。向かいは二階建てのコンクリートの焼けビルだった。意を決して三人は焼けビルの中に突入した。
 ビルは窓にガラスは一枚もなく、庭も荒廃して、人が住んでいるとは思えなかったのだが、意外にも奥の小さな部屋に木製の戸がついていた。その戸が細めに開いて、中年の女性が顔を出した。一瞬不安そうにこちらを眺めたが、男三人でも悪さをしそうでもないと思ってくれたのだろう、すぐに引っ込んで戸を閉めてしまった。雨やどりの言い訳をする間もなかった。その人の奥様風の上品な顔立ちが、いつまでも記憶に残った。他に家族はいたのだろうか。激しいインフレの中で、どのように生活しているのだろうか。焼けてしまった家を建て直す算段はできるのだろうか。気にはなったが、焼けビルは、まだ、ありふれた風景だった。戦後三年目の夏である。

少年期の戦中と戦後(96)

続くインフレと凶悪事件

 昭和二十三年の正月も、私にとっては楽しいものではなかった。父も兄も体調を崩していたし、仕事の忙しさは相変らずだった。正月の二日から、たまっていた注文の発送荷造りで、夜の十一時まで働いたと日記でぼやいている。それでも四日には父と姉と三人で正月の街を見に出かけている。日比谷公園へ行ってみたのだが、人は大勢歩いているものの、池には水がないし、芝生が少しあるだけだ。昔はきれいだったと聞かされても、公園とも言えないような、ただの広場だと思った。戦時中は高射砲陣地だった筈だが、このときは進駐軍用の仮設の運動場が出来ていたような気がする。そこから新橋を通って日本橋までずっと歩いたが、百貨店は閉まっているし露店さえ出ていないし、本当にただ歩いただけで終ってしまった。
 始まった学校の三学期も、相変らず先生の休講が多くてぴりっとしなかった。しかも学制の切り替えでごたごたするとかで、二月の下旬から五月の上旬まで、三ヶ月近くも休みになると聞かされた。
 世相の荒廃は、さらに進んでいるように感じられた。「二日続けて東京に強盗事件なし」というのが、新聞の大見出しになったりしていた。そんな中で一月二十八日に帝銀事件が起きた。事件の現場は帝国銀行椎名町支店で、毎日の通学電車の窓からよく見えた。やや大きな瓦屋根の家に看板をつけてあった。さらに驚いたのは、チブスの予防薬だと毒を飲まされて殺された十一人の犠牲者の中に、漢文担当の内田泉之助先生の娘さんが含まれていたことだ。犯人への怒りとともに、生徒の間からも何かしたいという声が出て、見舞金を集めて先生に贈った。教壇に直立して謝辞を述べた先生の悲痛な表情が、今も記憶に残っている。 
 内田泉之助先生は、その後に私の担任にもなった。還暦を迎えた年に七言絶句を作って教室で披露されたが、その中に「自ら慰む三楽なお二を存するを」という句があった。三楽とは君子の三つの楽しみを言い、家族が息災で、天地に恥じることなく、英才を育てることである。家族を失ったが、教師として二つの楽しみは残っていると、誇りを述べたものだった。
 それから間もない二月三日には、インドでガンジーが暗殺された。前年の終りに、インドとパキスタンが念願の独立を果たして間もない時期の大事件だった。これが両国の宗教対立をさらに深刻にして、各地で暴動を発生させた。中国大陸では、国民政府軍と中国共産党軍との戦闘が、ますます激しくなってくるようだった。満州の大半はすでに中共軍に占領されて、ソ連領のようになってしまったと日記には書いてある。
 この年もインフレの進行は止まらなかった。郵便料金は四倍、鉄道運賃は三倍の値上げが行われている。電車の事故が多いのも、停電が頻発するのも、一向に改善の様子は見られなかった。そんな中で私は何を考えていたのか、日記は心の内面を語っていない。

少年期の戦中と戦後(95)

値上げ三・五倍の時代

 昭和二十二年後半の私の日記から読み取れるのは、学校の先生の休講が非常に多かったこと、それに悪乗りして生徒が早帰りのために合併授業などを要求していることである。休講で待ち時間が発生する場合、甲乙組の授業を合併教室で行えば、生徒は早帰りできるし先生も授業の回数が減る。この共犯関係が、中学二年生の要求で、しばしば実現しているのだ。体操の授業では、出席をとってから「グランドの状態がよくないから、好きな運動をしてよろしい」「卓球でもいいですか」「卓球でもよろしい」「帰ってもいいですか」「帰ってもよろしい」と、先生と交渉した記録も日記には書いてある。規律の弛緩は時代の風潮だったかもしれない。
 それと、電力事情はこの昭和二十二年後半が最悪だったようだ。火力発電のための石炭が足りないということで、電圧降下を防ぐための計画停電が頻発している。ニクロム線が露出した簡便な作りの電熱器が急速に普及したこともあって、夕食時に停電することが多かった。「夕方の電熱器はやめましょう」という手製のポスターを作って、町内に貼って回ったこともある。
 日記には意外なほど言及が少ないのだが、この時期の物価上昇は、すさまじかった。社会党首班の内閣の下で、標準世帯月額五百円のベースは千八百円に改められた。それと同時に、鉄道の運賃は三・五倍に引き上げられた。郵便、電気、新聞から酒、タバコに至るまで、あらゆる生活必需品の値上げが、倍々方式でそれに続いた。新円発行と預金封鎖による物価抑制政策は、経済安定本部による「新価格体系」の発表により、完全に放棄されてしまった。新価格体系は、インフレを追認した上で経済の安定をはかるのが目的だった筈だが、裏付けとなる生産力の回復が追いつかなかった。政治の場では、過度経済集中排除法などで財閥の解体が進められていたし、石炭の国家管理などが論じられていた。要するに日本経済復興の主役は何であるべきかが、決まっていなかったのだ。
 出版界では、用紙の不足が深刻になり、「文芸春秋」など一流の雑誌さえ休刊に追い込まれていた。その一方で、粗悪なエロ雑誌などが乱造されて高価で売られていた。それらは「カストリ雑誌」と呼ばれた。「一号二号はいいが、三号はいけません」と、安酒の一合二合にひっかけた一発狙いの出版物だったが、当然ながらわいせつ猥褻物として警察に摘発されることも多かった。私たちは苦心さんたんしてそれらを手に入れて、クラスの中で回し読みしたものである。
 私の家の出版物も、この時期にはよく売れた。難しいのは値段を決めることで、良心的に決めると次の用紙の仕入れが出来なくなってしまう。そんなときに一番強気で、高い値段を主張したのが母だった。家人も驚くような高い値段をつけても、半年もしないうちに適正価格になってしまうのだった。まことに野蛮な、早いもの勝ちの世の中だったと思う。堅実に預貯金を守っていた人たちは、日に日に下落する財産の目減りを、不安の中に眺めているしかなかったのだ。

少年期の戦中と戦後(94)

家業の繁盛と関東大水害

 昭和二十二年春には学制改革が施行されて、中学の三年間が義務制となり、旧制の高等学校は廃止されることが決まった。武蔵高校は高校と大学に再編されるとかで、尋常科生の新規募集をしなくなった。だから落第は不可能になると言われた。この年、高等科の受験生は、門外まで列が続くほどの盛況になった。その中には、軍服姿の陸海軍の復員兵も少なくなかった。
 尋常科二年になっても、ほとんどの教科には教科書がなく、黒板からの書き写しや、プリントだったと日記には書いてある。しかし授業の質は高かった。今なら大学教授クラスの、著書などもある先生たちが多かった。二年の最初の英語教材だったイソップ物語は、イギリス仕込みの先生のきれいな発音とともに、今でもほぼ全文を暗記している。"One day a wolf and a lamb, happened to come at the same time, to drink from a brook that ran down the side of the mountain.……" 中学二年の最初にしては難しいと思うのだが、これを寺子屋の素読のような感覚で学んだ気がする。
 二年になると、私は鉄道模型の製作も始めている。店は少なく部品は高価だったが、趣味の店も復活してきたのだ。神田で父に電気ハンダごて鏝を買って貰った記述もある。この春に家業は本格的に繁盛してきた。家の中には本が山積みになり、家族総力をあげての、発送業務との格闘がつづいた。家の敷地と、隣接する強制疎開の跡地を、地主から買い取る話が急にまとまって、新しい倉庫と住居の建築が始まった。物資も職人も不足しているから、工事は度々中断したが、夏までには完成した。屋根は当初は杉皮を打ち付ける「トントンぶ葺き」の予定だったが、途中で本式の瓦葺きに変更になった。大勢の職人が出入りして、弁当の時間には母はお茶や菓子類の接待に追われていた。職人たちは暇さえあれば戦争の思い出話で盛り上がっていた。
 しかし日本の社会全体が復興したわけではない。停電は相変らず多かったから、比較的に停電の少ない学校の先生に頼んで、長い電線で電気を分けて貰ったりもしていた。家の安全器を切り、引いてきた電線をコンセントにつなぐと、家中に電気が流れるのだ。そんな中で九月の台風による豪雨で、利根川の堤防が栗橋で決壊した。水は一週間かけて東京の東部を水没させて東京湾に注いだ。私は一時間に一本の避難用電車にもぐり込み、終点の新小岩まで行ってみた。周辺の一面は湖のようで、私の日記は次のように記述している。
 「駅前の町は軒下三尺ぐらいの水の中にあった。……大きい舟もあったが、大部分は急ごしらえのいかだで、荷物はたらいに入れて、いかだに結えつけてあった。町は二階家が多く、二階の窓から梯子をかけて舟で出入りしていたし、ボートが料理屋の座敷の中まですーっと入って行ったのは面白かった。水は線路の両側にあったが、市川の方に向って左側の方が高く、水はガードと駅の地下道にはけ口をみつけて恐ろしい勢いでゴウゴウ流れていた。」

少年期の戦中と戦後(93)

立春に卵が立つ話

 ゼネスト中止直後の二月二日に、兄が通う一高の記念祭を見に、父も交えた一家で駒場のキャンパスへ行った。寮内の展示を見て回ったのだが、とぼけた面白いものや難しそうなものなど雑多な中で、政治的なスローガンも目についた。「忘れるな、マッカーサーの武力弾圧を」など、こんなこと書いてもいいのかと思うようなのもあったと、日記に記録してある。校内は見物客で満員状態で、学生劇などの催し物は見られなかったが、戦後の解放的な雰囲気があったことは覚えている。
 この年の冬は寒かったから、私の通う武蔵高校のすすきがわ濯川も氷結して、氷の上を自由に歩いて渡れるほどになった。足の下を赤い鯉が泳いでいるのが見えて面白かったと日記に書いてある。その寒さの中で「立春に卵が立つ」という話が持ち上がった。たしかにその年には大きな話題だったようで、日記を読み返して、世界的なニュースだったことに驚いた。
 ことの起こりは中国の古い伝説に「立春には卵が立つ」と書いてあり、それを昨年にアメリカで実験した人がいて、成功したということだった。それが世界に広まって今年は大騒ぎになり、上海では卵の価格が暴騰して、立春前日には一個六百元になったという。そして二月六日の新聞には「立った立った日本でも立った」と大きな写真入の記事が出た。それによると、立春の五日午前〇時二〇分に、東京気象台はじめ各地で実験して成功したということだった。そして解説には、立春のときだけではなく、寒い夜にはいつでも立つので、これは黄身の濃度が高くなって重心が低く沈むからだろうと書いてあった。後にニュース映画でも、気象台で職員が卵を立てている場面を見たことがある。
 新聞を見た私も、もちろんその夜に実験してみた。家にあった三個でやってみると、一見難しそうなのに、意外に安定して立ちそうな予感がした。ついに九時半に机の上で一個が立った。畳の上なら、三個を全部立てることができた。その後に新聞にも解説が出たのだが、要するに卵の殻の表面は完全に滑らかではなくて、顕微鏡的には無数の細かい凹凸があるのだ。だから重心を小さな三点で支える形にさえなれば、どんな向きであれ立つのは当然になる。卵の細い方を下にしてもいいし、中身の温度にも関係はない。ゆで卵でも構わないことになる。
 わかってみればそれだけのことで、以後、卵が立つ話がマスコミに載ることはなくなった。私の日記も卵が立った場面を絵に描いた上で「これが一週間前なら世界中に写真入りで伝わったろうに、惜しいことをした。しかしこれも『コロンブスの卵』と同じことだろう。」と総括している。この記事を書くに当って、私は今日も冷蔵庫の卵で念のための実験をしてみのだが、これを書いている机の上で、一分もかからないうちに立てることができた。私の妻も、この話は、かすかに覚えているという。年代判別の話題の一つになるかもしれない。

少年期の戦中と戦後(92)

第十一章 インフレの収束まで

不逞の輩と二・一ゼネスト

 昭和二十二年(1947)の年頭に、吉田茂首相はラジオ放送で、一部の労働組合指導者を「不逞のやから輩」と呼んで非難した。前年秋から年末にかけての労働攻勢は激しいものがあり、労働組合が職場の支配権を握ってしまう「労務管理」や、共産党の活動と連携した「隠匿物資の摘発」なども頻発していた。経営・管理者側が自信を失ってしまう例もあり、秩序の回復を訴える首相の発言だったのだが、これがまた激しい反発を引き起こすことにもなった。
 私の一月の日記にも、「……省線、都電等は、『最低生活を保証する賃金確保』『五百円の枠を外せ』『我々の要求を御支持下さい』といったビラを車体にベタベタ貼ったり、メガホンで怒鳴ったりしている」と書いてある。インフレは進行しているのに、月額五百円の預金封鎖は、まだ続いていたのだ。そこに「反動吉田内閣打倒」のスローガンが加わった。「反動」というのも当時の流行語で、社会・共産主義や労働運動に対立するのは、すべて「反動」として罵倒されるのだった。こうした中で二・一ゼネストが計画された。
 これは産別会議の官公労働組合が中心となり、総同盟の民間組合も同調する形で、全国規模の一斉ストライキを行い、内閣を退陣に追い込むという、非常に政治性の強いスト計画だった。私の日記も「二月一日から全部の役所、鉄道、バス、電気、郵便、気象台、学校の先生まで、全部休んでしまうのだから、たいしたものだ。……どこへも行けず、夜は真っ暗、ラジオも聞けず、新聞も読めずテナわけで、えらい不便なことになるだろう。」と予想している。ただし半分は面白がっているようで、深刻に心配をした記憶もない。
 しかしこのゼネスト計画は、戦後日本の政治路線の分岐点だった。共産党は内閣を倒した後に人民政府の樹立を夢見て、閣僚名簿まで用意したと言われる。だがアメリカ占領軍は、日本の民主化の一環として労働運動を奨励したものの、共産化を容認するほどまで寛容ではなかった。このストライキが、マッカーサーの指令により直前に中止させられたことは、周知の通りである。共闘議長の伊井弥四郎は、涙声のラジオ放送でスト中止を告げた後、「労働者・農民万歳、われわれは団結しなければならないのだ」と叫んだ。その声を私は実際に聞いている。
 すでに日本国憲法は前年のうちに審議、採決を終えていて、吉田首相は「日本は自衛のための戦争もしない」と明言していた。しかし吉田首相はゼネストを自力では解決できず、マッカーサーの強権発動を余儀なくさせたことで信任を失った。マッカーサーは早期に議会を解散して、新しい選挙法で総選挙を行うよう指令した。その結果として四月の選挙では社会党が第一党となり、片山内閣が成立することになる。このあたりの政治・社会の動きは、戦国時代小説を読むように面白いのだが、私がその全貌を知ったのは、もちろん労働関係の資料づくりを仕事にするようになってからのことである。

少年期の戦中と戦後(91)

昭和二十二年の正月

 私にとっての昭和二十二年の正月は、あまり楽しいものではなかった。母と、同居していた叔父とが風邪の発熱で寝込んでいる中で、いつもの炬燵で雑煮を食べた。暖房は、当時の常識だが、部屋を暖めるという発想はなくて、こたつ炬燵と手あぶりの火鉢だけだった。正月らしい遊びとしては、小学校時代の友だちと往来し、寒い中でも体が熱くなるほど羽根つきをしたり、家に入ってトランプや花札で遊んだ程度である。夜には父を交えて百人一首のかるた取りをしたと思う。
 この正月の最中に、家業の方では、前年中に発行の予定で遅れていた新刊の「日本唱歌集」がようやく出来上がり、とたんに目の回るような忙しさになった。予告してから半年近くも待たせていたから、大量の注文がたまっていたのだ。私も毎晩十二時ごろまで荷造りを手伝い、力を入れて紐を結んだから、指先が痛んで困った。しかしおかげで家業の再開は軌道に乗ってきた。金回りもしだいに良くなってきた筈である。一月十九日の日曜日には、父母と買い物に出た話を日記に書いている。私は牛革のベルト、七十五円の高級品を買って貰っている。金さえ出せば、ある程度は良いものが手に入るようになりつつあったのだ。その一方で、食料品の値段の高さが目立つ。つい半月前の大晦日には二十七円だった鰯の缶詰が、1個三十五円で売られていた。まだ公式には全国民が月額五百円の新円枠で生活することなっていた時代のことである。
 公共料金、たとえば電車賃はまだ安かった。このとき省線(国鉄の発足は翌昭和二十三年なので、当時は鉄道省による政府の直営だった)の最低料金は、隣駅までは二十銭である。その電車の状況は、改善するどころか、ますます悪くなるように見えた。二月二十二日の日記に、山手線の車両の惨状が記録されている。「見れば見るほどすごい車だ。右側では十一の窓のうち、ガラスまたは板がはめてあるのは六つだけ、左側の窓は十一のうち六つは何もなし。ドア六個所のうち閉まるのは四つでそのうち一つはガラスなし、あとは開きっ放し。おまけに床には人の足がすっぽり入るほどの穴が二つ。だから風の吹き込みで寒くてたまらず、乗客は車両の風上の端に立って固まっていた。」と書いてある。
 武蔵野線でも東長崎駅で一月十六日に二名の死者が出た。乗り合わせた友人の目撃だが、駅に入る直前に乗客の一人が電車からこぼれ落ちてホームに頭をぶつけて即死。そこでかけつけた救急車が、通過する電車の外側にぶら下がっていた乗客に接触して、また一人即死したということだ。四百名あまりの死傷者を出した有名な八高線の列車脱線転覆事故は、この年二月二十五日のことである。新造車両はなく、乗客数は増える一方だから、交通事情が、通学を始めた一年前よりも悪くなっているのは私も実感していた。鉄道関係の要人を父親に持つ友人の話では、占領軍による懲罰的な賠償として、日本の電気機関車の良質のものが、東南アジアへ持ち出されているということだった。日本に対する戦後処理の方針は、まだ完全に固まってはいなかったのだ。

少年期の戦中と戦後(90)

電産ストとインフレ激化

 昭和二十一年(1946)というのは日本の労働運動にとっても重要な年で、多くの有力な組合が、この年を発祥の元年としている。私は後に労働運動の歴史を体系的に扱うようになるのだが、当時の日常から労働組合の動きを辿ってみよう。
 十一月二十六日の日記に「このごろまた電産ストが始まったのか、夜になると六時、七時、八時ごろに必ず十分ぐらいずつ停電するようになった。」と書いてある。その前の「十月攻勢」では、もっと長い停電ストが頻発していた筈である。ラジオの「日曜娯楽版」では、「明日の電気予報を申し上げます。関東地方は送電のち停電、ところにより、ついたり消えたりするでしょう。」などとやっていた。それに石炭不足による発電量の不足と、都市ガスがないために電気コンロの使用が増えたから、電圧の低下や計画停電も頻発していた。停電回復の見込みを電灯会社に電話で問合せたら「計画停電なので、わかりません」と言われたという実話がある。
 電気産業の労働組合は昭和二十一年四月に「電産協」を結成している。この電産協が十月闘争を記録して「我ら電気労働者」という映画を作っているのだが、これがなんと35ミリの劇場映画の規格で作られていたから、昭和四十年代に発見したときには驚嘆した。当時の産業や労働者の生活も記録されている貴重な資料で、映画人が全面的に協力したのに違いない。停電ストの実況も記録されている。定時に配電盤のスイッチを落とすと、東京の街が一瞬にして暗闇に沈むのだ。この場面を組合の記念行事などで上映すると、大きなどよめきが起こったものである。
 私の日記には、十二月二十二日に家族で銀座の食堂に入った記事があり、ココアが五円、汁粉が七円だったことがわかる。たいへんな物価の高騰だが、同日の地下鉄は五十銭である。公共料金と自由価格との格差が開いているのだ。このころの労働組合の記録には、賃上げ三倍増要求というような例が、いくらでも出てくる。民間の組合は労使の力関係で交渉するからそうなるのだが、官公庁や国営事業の賃金は簡単には上らない。結果として、この時期の官公労働者の賃金は、民間の半分以下だったと言われている。今とは逆に「民高、官低」になっていたのだ。こう考えると、当時の労働攻勢が官公労組主体となり、先鋭化した理由が、よくわかる。
 電産協も翌年には組織を単一化して「電産」となり、産別会議の闘争の主役になるのだが、昭和二十年代後半にも停電スト、電源ストを乱発して世論の批判を受け、組織の分裂を引き起こした。そしてスト規正法の制定を招き、電力民営化、全国九電力の分割へと進んで行った。その歴史は、後の国鉄民営化と非常によく似ている。
 この年末に、私は父に連れられて神田方面へノートの買いだめに行っている。何軒もの文具店を回って三百四十五円を使い、合計四十七冊を買った。一年前なら高給の月収に当る金額である。値上がりが目に見えていたのだ。

少年期の戦中と戦後(89)

昭和二十一年秋の東京

 昭和二十一年の夏が過ぎると、終戦から満一年を経過したわけだが、復興とはほど遠い状況だった。経済安定本部や物価庁が設置され、農地改革が行われ、新憲法の審議と制定が進められてはいたが、経済が立ち直る基盤は何もなかった。賠償として価値のある産業設備は、日本から撤去されるという方針も伝えられていた。戦後処理に必要な経費を調達するため、十月に復興金融公庫が設立されたのだが、これが新円切り替えによる統制を事実上撤廃する結果を生み、インフレが再燃した。
 生活防衛のために企業別に組織されてきた労働組合は、相次いで全国組織に統合されて、共産党系の産別会議と、社会党系の総同盟が並び立った。電気産業も国鉄も産別会議の傘下に入ったから、争議手段としての停電ストや、鉄道のストライキも行われた。さらに石炭の不足により、十一月には旅客列車の削減も行われている。復興どころか、戦後のどん底は、これから来るのではないかという不安さえあったのだ。
 そうした中で私の学校生活はつづいていた。日記によると、通学の電車のトラブルの記事が多い。山手線で駒込から池袋まで、武蔵野(現・西武)線で池袋から江古田まで通っていたのだが、電車の遅延や運休は日常のことだった。満員の電車は、ドアが閉まらなくても発車した。警告するように最初は少しだけ動き、やがて速度をあげるので、乗るのをあきらめるのだった。そんな中でも、進駐軍専用車は空いていた。山手線では外回りの先頭に当る一両がそれで、白く太い横線が入っていた。全部で六両編成だった時代である。武蔵野線は二両または単車で運転されていた。進駐軍が乗ると一両が占領されたり、一両の半分をロープで仕切ったりしていた。
 時代を感じさせる学校での珍事件としては、「進駐軍の教科書調べ」騒動が記録されている。十月二十四日の朝に学校へ着くと、「アメリカ軍が調査に来るので、地図を隠さないといけない」という大騒ぎになっていた。当時の地図帳は古いままで、朝鮮も台湾も日本領になっている。これが摘発されるらしいという噂だった。級長が職員室へ聞きに行ったが、先生が誰もいないという。何もわからぬままパニックになり、地図を集めて隠し場所を探しに校内を走り回った。そのうち「あっ、もう巡査が来た」と声があり、二十名ばかりの日本の警官が入ってくるのが見えた。私はとっさに「下はだめだ、時計塔がいい」と言い、賛同した十名ほどで屋上へ駆け上がった。あとでわかったことだが、防火週間で、消防署の検査などがあったのだった。
 この秋には、神社のお祭も復活している。おみこし神輿が出て、大通りに一杯の人だかりの中を威勢よく揺られて行った。神社の境内には昔のように屋台が出ていて、演芸大会などもやっていた。人は大勢集まっているのだが、屋台の売り物は貧相だった。一回一円の福引を五回やってみたが、小さな「うつし絵」と鉛筆一本しか当らなかったと、日記に書いてある。

少年期の戦中と戦後(88)

インターハイの蹴球

 日記によると長い夏休みの間にも、八月の後半には「講習会」という名で、希望者に対する教育が行われたようだ。ただし自分を含めて、あまり熱心に勉強した様子ではない。なぜか他校の生徒にも開放されて、女学生もいたように思う。しかし八月三十日の最終日の幾何の時間には、そこそこの人数は登校していた筈なのに、先生が来るまでに大半の生徒は消えてしまい、残ったのは私を含めて二人だけになってしまった。先生は「おや二人きりかい」と驚いていたが、ちゃんと授業をしてくれて、「これじゃあんまり情けないと思った」と日記に書いてある。戦後の自由主義ムードの悪い面が、私たちを蝕み始めていたのではないだろうか。
 家では引き続き仕事が忙しかった。郵便物作りが毎日大量にあって、夕方になると、かなり遠い豊島郵便局まで母とリヤカーで運んだ。坂もある三十分近い道のりで、暑い盛りだから汗だくになった。楽しみは、帰りに巣鴨駅近くの店で食べる「かき氷」だった。
 九月になり、二学期が始まったが、日記でくわしくわかるのは、朝の電車が故障で遅れたとか、夜に停電で勉強ができなかったといった雑事ばかりである。インフレの進行など社会の動きは、ほとんど伝わってこない。わずかに九月十五日に鉄道のゼネストが予定されていたが、中止になったという記事がある。
 それよりも二学期早々の大きな話題はインターハイの蹴球だった。いまの言葉ではサッカーだが、旧制高校の蹴球大会は、戦前の学生スポーツとしては、甲子園の中等学校野球大会と並ぶ名物だった。日記帳にあるトーナメント表によると東日本大会のようだが、戦争で三年間中止になっていた大会が復活したのだ。この試合を応援に行くのは学校公認で、尋常科の生徒も授業を短縮して行くことになった。緒戦では富山高校に勝ち、二回戦で成蹊高校に勝ち、三回戦で東京高校に負けるまで、三つの試合を見に行っている。会場は東大構内の御殿下グラウンドだった。東大の敷地の中に入ったのも、このときが初めてだった。三つの試合の記憶は渾然一体化しているが、試合と応援の雰囲気は、よく覚えている。
 わが武蔵高校の応援は三三七拍子の拍手が中心だったが、地方高校の応援では寮歌を歌っていた。対戦相手ではなかったが、一高の応援団は大太鼓を竿で吊るして二人で担ぎ、扇子をかざす応援団長の指揮でドンドンと打ち鳴らしていた。「乗ずるときは今なるぞ、乗ずるときは今なるぞ、蹴っ飛ばせ、蹴っ飛ばせ……」という応援歌は、およそ運動競技の応援とは思えないような、のんびりしたテンポだった。要するに旧制高校生の歌というのは、すべて「ああ玉杯に花受けて」と同じテンポで歌われるのだった。
 インターハイの蹴球は、戦後は昭和二十三年まで、三回行われて終っている。岡山の第六高校と広島高校が強かった。武蔵高校は昭和十二年(1937)に全国優勝している。

少年期の戦中と戦後(87)

DDTと家業の再開

 昭和二十一年の夏休みは、七月一日から九月十五日までという長いものになった。学校としても前例のない長さだそうで、別に説明はなかったが、学校側もいろいろな面で疲弊していたのではないだろうか。新円切り替えによる経済の停滞は復興の妨げになるというので、半年もたたないうちに規制は緩和に向かいつつあった。ヤミ経済も息を吹き返すとともに、インフレもまた始まった。
 夏休み初日には、四時起きして切符を買い、母と千葉へ食糧担ぎに行っている。乗り換えの千葉駅で一袋十円のドーナツを買って食べたところ、油が悪いらしくて母も私も腹具合が悪くなった。夜まで下痢がつづいたし、汽車は混んで座れなかったし、相当たいへんだったと日記に書いてある。翌七月二日は、朝からアメリカ機が低空でDDTを盛んに撒いていた。双発機が横広のノズルを曳いていて、そこから白い煙のように薬剤が噴き出していた。通過してしばらくすると、油っぽい気分のよくない臭いが立ち込めた。暑くなる前に蝿や蚊を駆除するのが目的だったのだろうが、派手に薬を撒いたわりには、効果はあまり感じられなかった。その晩も蚊は同じように出てきたし、夜は変らずに蚊帳を吊って寝ていた。
 DDTは日本の衛生状態を心配したアメリカ軍が持ち込んだものだが、最も盛んに街頭で散布されたのは、この年の夏前だったと思う。ピストン式の手持ちの撒布器で、白い粉末を人にも一人ずつ吹きかけた。シャツの前を開けさせ、最後に襟首を後ろから引っ張って、背中に吹き込むのが定式だった。私が経験したのは町会のDDTだったが、アメリカ兵が駅頭で乗客を直接に「消毒」したこともあったらしい。なんとなく万能の消毒薬のように思っていたのだが、じつは残留性の強い殺虫剤だったのだから、今なら人権問題で大騒ぎになるところだ。
 この夏休みの間に、私の家は忙しくなった。本式に出版の仕事を再開することになり、楽譜の資料が揃っていた歌の本と、図画・図案の本をとりあえず出すことになったのだ。売る方法は、書店の流通経路は当てにならないし、信用できる広告の方法もないので、宣伝物を郵便で直接に全国の書店や学校へ送ることになった。今の言葉ならダイレクトメールだが、そんな言葉は知らなかった。宣伝チラシは謄写版で刷った。おもに兄がローラーを動かし、私は紙の出し入れを手伝って、一晩に五百枚ぐらい作るのがノルマだった。
 封筒に宛名を書く、チラシを折って封筒に入れ、小麦粉を煮た糊で封をするなどの流れ作業は、家族総出の仕事になった。戦争で中断する前は、大勢の若い社員やお手伝いさんも加わって、にぎやかにやっていた仕事だから、なつかしさもあって楽しかった。私はよく夜遅くまで手伝っていて、勉強をやらなくちゃいけないだろうから、もういいよと言われたが、途中で止めたくない気持の方が強かった。勉強なんかより、ずっと面白くて、やりがいがあったのだ。

少年期の戦中と戦後(86)

食糧難つづく

 食糧休暇は状況により延長も予定されていたのだが、明けた月曜日から授業は再開になった。その代わりの対策として、学校では取って置きの米を使って握り飯を作り、昼飯として一週間だけ配布することになった。寮生と、本当に困っている者だけという話だったが、受ける資格は全員にある。一日分一合で五十銭というのは魅力だったから、級友と誘い合わせて事務所へ券を貰いに行った。事務の女性は「通学生は本当に困っている人だけですよ」と渋っているのを、「家でも大変なんですよ」などと粘って、ついに四日分の食券を手に入れた。いま日記を読み返して、かなり恥ずかしい気がするのだが、一合の握り飯は魅力だったのだろう。
 この時期に教室では、教師による異例の怒りの爆発があった。金子先生という、図画の担当で高等科では理科の生徒に製図も教え、画家としても名のある芸術家だったが、スケッチを描いて来いという宿題をやってこなかった二人の生徒に対して激しく怒り、暴力的に座席から引っ張り出してドアの外へ追放してしまった。生徒を紳士として扱ってくれる温厚な先生が多い中で、考えられないような出来事であり、みんな震え上った。当時の先生は、家ではどんなものを食べていたのだろう。日記を読んでいて、そんなことを考える。
 六月の下旬には、私が電気パン焼き器をこしらえた珍談が出てくる。両端に金属板の電極を立て、その間に小麦粉の水溶きを入れて通電すると、発熱してパンが焼ける。焼き上がれば自動的に電流も切れるという原理で、家庭で上手に使っている人がいるという記事が新聞に出ていた。それを作ると私が言い出して、家族公認の仕事になった。母が磁器の入っていた手ごろな大きさの細長い木箱を提供してくれて、電極にはブリキ板を二枚、両端に立てた。電灯用コードの皮をむいて電線を露出させ、左右に分けてブリキ板につけた。ハンダこて鏝などはないからブリキに穴をあけて電線を通しただけで、工作というほどもない簡単な作りだった。どうやら形が出来ると、姉はさっそく小麦粉を水でこねて箱に流し込んだ。あとはスイッチを入れるだけだが、これが怖くて簡単にはできない。いったい何ワットの電流が流れるのか、見当もつかないのだ。すると通りかかった兄が「俺がやってやるよ」と簡単にスイッチを入れてくれた。
 爆発するようなこともなく静かなままで、やがてパン生地から湯気が立ちはじめた。これは大成功かと期待しながら見ていたのだが、結果としては、焼けたところと水っぽいところとが混じって、あとは時間をかけても改善せず、平均に焼ける実用品にはならずに終った。  
 これと同類の無謀な工作を、この前にも風呂でやっている。電熱器のニクロム線部分を直接水に入れれば、無駄のない加熱ができる筈だと考えたのだ。実際に薪で焚く補助ぐらいの加熱には成功して数日は使ったのだが、水中で過大な電流が流れたらしく、ソケットが燃えて家中が停電する騒ぎになった。

少年期の戦中と戦後(85)

昭和二十一年戦後の旅(四)

 歩いた疲れでぐっすり眠った翌朝、目をさますと川の音がするので、ああ山の温泉に来ているのだと気がついた。朝六時という、自宅では考えられない早朝に起きて、すぐ入浴に行った。谷の底だから、まだ山には日が当らないが、空は真っ青に澄んでいた。山にはびっしりと木が茂り、濃い緑色に沈んでいた。日本にはこんなに美しい場所もあるのかと思った。
 温泉宿では湯に入るのが仕事だというので、この日は五回も風呂に入った。傷や皮膚病にも効くということだから、できものの根治がなかなかできない私の体質改善にも役立つと思われたのだろう。湯を飲むこともすすめられた。ぬるっとしてやや酸味があったが、飲みにくくはなかった。他に老人の湯治客が何人かいて、父は誰とでも、よく話し込んでいた。ぬるい湯だから、いつまで入っていてものぼせることはない。飽きれば外の河原の露天風呂へ行った。大浴場から出た湯が滝で落ちるようになっているから、肩に当てて打たせ湯ができるのだった。
 従兄はお茶や椎茸の農作業が忙しいということで、一泊だけで帰って行った。帰る前に、翌日分も含めて飯を炊いたり、芋を煮たりしてくれた。その後は父と二人でどんな食事をしたのか、日記にも記憶にも何もない。従兄の荷物は、炭、米、芋、魚、缶詰、漬物、梅干と書いてあったから、それらのものを食べたのだろう。父も私も、空腹が満たされれば文句を言わない野人だった。「昔は米の飯は病気にならないと食わせてもらえなかった」が父の決まり文句だった。
 二泊して三日目の午後、帰途についた。食糧を食べ尽くしてリュックが軽くなり、下り道だから楽に歩けた。コンヤドというところで吊橋を渡って別な親戚を訪ね、河原の伯父の家を経由して大代に上った。伯母さんと子供が途中まで送ってくれた。山の家の最後の夜はにぎやかだった。近所の人たちが次々にやってきて、「何もないけど」とお茶や山菜をくれるので、帰りの荷物はたちまち大きくなった。いろりを囲んで、父たちは遅くまで話していた。
 六月九日、私の休暇の最終日に山の家を後にした。大勢の人が川筋の道路まで送ってくれた。そこで静岡から来たトラックに乗っていた神明町の従兄、つまり後に私の妻の父親になる人と偶然に出会って、便乗するトラックの世話をしてもらったことが、今回日記を読んで初めてわかった。丸太を積んだ荷台の上から、あわただしく挨拶する間もなくトラックは走り出した。あとは狭い山道で対向車と鉢合わせしたスリルなどが日記に綴られている。
 この四日間、父と私は東京とはまるで違う環境の中にいた。時間が止まったように、そこには古いままの日本が残っていた。行った先で戦争の犠牲になった人の話が語られてはいたが、人々の現実の生活は、戦争とも戦災とも無縁のように見えた。都会の生活は破壊されて不便になったが、山の生活はもともと不便だから、変りようがないのだ。いろりの火と、筧の水と、汲取り便所があれば、人はいくらでも平和に生きていられるのだった。

少年期の戦中と戦後(84)

昭和二十一年戦後の旅(三)

 山の家に着いた夜は、疲れていたのでよく眠れた。花咲の集落は「鼻先」とも言われるほどで、山の頂上に近い南斜面にある。インカの遺跡として有名なマチュピチュにも似た立地で、朝の日当りはよかった。なぜ川沿いでなく山の上に住むようになったのかはわからないが、甲斐の武田の落ち武者が住みついたという言い伝えがあるそうで、明治以前から志村の姓があったという。ちなみに日本ですべての人が姓を持つようになったのは、明治八年の「苗字必称義務令」以降のことである。
 午前中は東京から送ってあった疎開荷物の整理などをした。大半のものは山の家でそのまま使ってもらうことにしたから、送り返さなければならないものは少なかった。このとき私が送った小包の中に、使いかけの下駄があったというのが、後々まで村の話題になったそうだ。身の回りの必要品を送れと言われた私の判断は、そんな程度だった。それが村では「東京ではこれほど物資に困っている」という話になったらしい。
 昼からは二泊の予定で梅が島温泉へ行くことになり、陸軍から復員した従兄が同行してくれることになった。食糧は持参が原則だから、大荷物を背負ってくれて頼もしかった。上りとは別な間道を通って山を下り、安倍川の河原に仮建築をして住んでいる別な伯父を訪ねた。静岡市内の戦災で焼け出された家族で、私の妻の実家になる。市内の家がまだバラックなので、老夫婦と就学前の孫が残って住んでいた。この家を建てたときのことを、三年生だった妻はよく覚えている。おじいさんが持ち山の木を伐採して、大きな鋸で丸太から板を挽くところから始めたという。小さくても頑丈な家で、後に解体して山の上に運んで物置になり、今も使われている。
 梅が島温泉への道も遠かった。途中にしんでん新田という川が滝になっているところがあり、遠くからよく見えたのだが、その滝の上に回り込む道のりだけでも相当なものだった。道は一応自動車も通れる幅だが、バスもトラックも交通はない、橋が落ちていて、水中の石を伝って歩くようなところもあった。ただ我慢に我慢で足元だけを見て歩きつづけ、温泉の宿に着いたのは夕方も近いころだったと思う。当時は一軒しかない宿の梅薫楼だった。
 宿は堂々とした造りの二階建てだった。しかし宿は部屋とふとんを貸すだけなので、食事の支度などはすべて客の仕事になる。従兄は早速炭火を起こして飯盒で飯を炊き、鍋で煮物を始めた。その間に父と私は温泉に入りに行った。温泉は宿から百メートルほども歩いて行く川の対岸にある。立派な湯屋が出来ていて、八角形の大きな浴槽があり、中央の岩から湯が流れ出ていた。浴槽は充分に泳げる広さがあった。湯はぬる目で、戦前によく行った長野の親湯温泉に似ていた。脱衣場は男女別になっているが、浴槽には区別がない。だいぶ後までその流儀を通していたから、一時は男女混浴の名所にもなったらしい。しかしそのときは客の姿もまばらだった。

少年期の戦中と戦後(83)

昭和二十一年戦後の旅(二)

 幸いにしてトラックは思ったよりも早くつかまえられた。いっしょに歩いていた地元の人らしいおばさんが手をあげて車を止め、しばらく運転手と話していたが、振り向いて「乗りましょう」と言ってくれた。トラックの荷台は案外高くて、先に荷物を投げ上げてから、先に大人が車輪に足をかけてよじ上り、私は父に手を引っ張り上げてもらった。走り出したトラックは、間もなく川沿いの細い道にかかった。洪水の後ということで、木材で補強した凹凸の多い車幅いっぱいの道の下から、車が通るとバラバラと土砂が落ちていた。その下は切り立った崖に水流が打ちつけている。上は上で木の枝が突き出しているから顔に当りそうになる、さらにその上には、今にも落ちてきそうな岩がゴロゴロしていた。その上に雨が降ってきたりしたから、景色を楽しむ余裕もなかった。
 しかし乗り合わせた人たちはみんな親切だったし、話もできた。復員兵は、インドネシアのハルマヘラ島にいたということだった。アメリカ軍の上陸はなかったが、空襲が激しくて、高射砲部隊が大活躍した話を聞かせてくれた。一発の砲弾で敵の三機を撃墜したことがあったという。元気な明るい人で、自分の村に近づくと、知っている人がいたらしくて大声で呼びかけていた。そして「ただいま帰ってまいりました」と、格好よく挙手の礼をした。
 トラックの行き先の都合で途中で車を降り、また別なトラックに便乗したのだが、それも途中までで、あとは歩くことになった。幸いに雨は止んだ。山育ちの父は、山にかかる雲を見て、雨足が見えると教えてくれた。雨を降らせる雲は、下に暗いかげがあるのだ。それを見ていれば、濡れずに雨宿りできるということだった。途中の景色のよいところの道端で休憩し、弁当を食べた。眼下には激流が流れ、山間には白雲が流れている。絵のように美しい風景だと思った。
 梅が島の村落に着いてから、道は車の通らない山道になった。ここからの一時間ほどの急な上り坂がきつかった。道端の石に腰掛けて、もう動けないと思うほどだった。父は野いちごを探してきて食べさせてくれた。それが甘くておいしかったことは忘れられない。いま日記を読んでみて、父親に励まされながら上った山道の情景がよみがえってきた。青年期にこれを読んでいたら、あれほどまでに父を憎まないで済んだかもしれない。
 夕方、へとへとになって梅が島村大代花咲の父の生家に到着した。段丘に広がる十軒ほどの小集落の入口に当る家である。わら屋根の大きな家の中で、いろりの火が燃えていた。伯父伯母をはじめ、みんなが大きな驚きとともに歓待してくれた。集落の出入りの人が庭先を通る配置になっているから、近所の人たちもすぐに集まってきた。父は幼なじみからは文蔵の名を「文公」と呼ばれていた。会話は静岡弁だが、私にもだいたいはわかる。「○○だろう」の推量を「○○ら」と言うのが特徴だが、「らん」と言う人もいた。古語の「らむ」が残っていたのだ。

少年期の戦中と戦後(82)

第十章 戦後の旅と家業の再開

昭和二十一年戦後の旅(一)

 千葉へ食糧担ぎに行った翌日の六月五日から、私は父と二人で静岡へ出かけた。日記によると東京駅朝七時発の列車に乗るのに、駒込駅四時二十七分の始発電車に乗っている。東京駅のホームにはすでに列車が着いていて、さすがに時間が早いから自由に席を選べた。海側の、窓ガラスが入っていて、座席も壊れていない席を探したのだが、これがかなり難しい。窓は板張りや、ガラスでも板の中央に小さくはめ込んだ程度のものが多かった。座席も、座面が破れてバネが飛び出しかけているのや、ビロードの表面が切り取られているものが多かった。座席のビロードは、靴磨きの布に向いているので、戦災浮浪児に切り取られる場合が多かったのだ。ようやく決めた座席には、気がついてみたら網棚がなかった。
 長々と待った末に、列車は定刻に発車した。やがて列車は京浜工業地帯を南下する。両側に見える風景は、見渡すかぎり焼け野原のままだった。時たま見える大型のコンクリートの建物もガランドウの廃墟で、立ち並ぶ煙突からは、どれからも煙は出ていなかった。要するに操業しているらしい工場が一つも見当らないのだ。見ていた父は「これは大変なことだ」と、深いため息を洩らした。終戦からすでに九ヶ月は経過しているのに、まだ復興など始まってもいない。戦災による破壊がいかに徹底していたかを、改めて実感させられた。
 平塚を過ぎ、小田原に近づくころから、車窓には田園風景が見えてきた。褐色に枯れているのが麦で、「麦秋」という言葉があること、薄紅色が広がっているのはレンゲの花で、やがて水田になる、黄色い花は菜の花などと、父から教えられた。小田原を過ぎると海が近くに見えてきた。列車はトンネルをくぐり、鉄橋を渡りながら、海からつかず離れずに走りつづける。熱海までの風光は、これを初体験として、私の最も気に入りの車窓風景となった。私も父も、日本の風景の美しさを見直すことで、ひとときは心をなごませていたような気がする。
 列車は途中から超満員になったので、昼近くに静岡で降りるときは窓から降りた。駅前に出てみると、戦災は東京よりもひどいように感じられた。東京よりもビルが少ないから、一面に平坦な赤い焼け跡が広がって、所々に小さな木造のバラックが建っていた。ここからバスで安倍川奥の梅が島へ行くのだが、次のバスは二時間後だという。切符を買って近くの店で持参の弁当を食べ、みつ豆を注文して、お茶を飲んだらそのお茶が一杯一円と言われて驚いた。待っていたバスは、時間が過ぎても現れない。予定のバスは故障運休で、その次はまた二時間後だということがわかった。復員兵を交えた乗客同士で相談の上、切符は払い戻してトラックに便乗することにした。当時は木材運搬のトラックが川沿いに往来していたから、街道まで行って頼めば、適当な金額で乗せてくれることが知られていた。山へ登るときは空で走るから、荷台に立って乗ればいい。ただし山から下るときは、満載の木材の上に乗るので、かなり怖いということだった。


少年期の戦中と戦後(81)

買出し列車は命綱

 日記によると、この五月三十一日と六月四日に、私は母に連れられて千葉の田舎へ食糧を貰いに行っている。その少し前には兄も動員されて行っているから、この時期、母の実家がわが家の重要な食糧供給源だったことがわかる。当時の買出し旅行がどのようなものだったか、二回分の日記を合成して再現してみよう。
 まず、早朝の切符買いから始まる、夜中の三時に起こされて、雨の中を母と駅に向かった。あたりは真っ暗闇だから、辻強盗でも出ないかと心配だった。懐中電灯もないから足元がわからない。私は穴に落ちて転び、傘の骨が二本折れて手足は泥だらけになった。駒込の駅舎の灯りが見えるところまで来て、ようやく安心した。四時から売り出される切符の買える順番には入れたが、今は繁華な商店街になっている電車通りも、当時は街路灯など一本もなかったのだ。
 午後の汽車に乗るつもりでいた昼に客があって、出る時間が少し遅れた。おかげで千葉駅で予定していた列車に少しの差で間に合わず、地下道で二時間も座って待つしかなかった。それで叔父の家に着いたのは夕方も近い頃だった。私は先方で少しは迷惑がられているだろうと心配していたのだが、母は持ち前の明るさで「また来ましたよ」と入って行った。当時は田舎に知り合いのいない人は、着物などを持参したり多額の金を積んだりして農家に頼んで米を分けてもらう、それが「買出し」だったのだが、その点ではわが家は恵まれていた。それでも度重なる明らさまな「米貰い」は、子供の私にも、叔父に対する遠慮の気持を生んでいたのだ。
 座敷では必ず食べ放題の白米で夕食のご馳走になった。田舎の言葉で母が交わす会話は生き生きしていて、この時期の母との買出し旅行は、私が母親を独占できた日の記憶であり、とても大事な思い出になっている。時間があれば裏の小川で、同年の従弟とザリガニ釣りもできた。
 大きなリュックに米や芋などを詰めて貰い、あわただしく最終列車の時間になるのだが、これに乗るのが最大の難事だった。満員で到着する列車には乗れる余地などない。あきらめかけていると駅員が近くの窓を開けさせて「お互いさまですから入れてやってください」と、私をリュックごと窓の中へ押し込んだ。私は何か柔らかい荷物の上に乗り、リュックの重さで後ろへひっくり返ったところへ続いて大きな荷物と母が同じ窓から入ってきた。私は下敷きになってしばらく身動きもできず、母と近所の乗客が荷物の整理をしてくれるまで、足を床に着けることもできなかった。
 落ち着いて初めて周囲のやかましい会話の声が聞こえてきて、すごいタバコの煙にむせた。途中駅に着く度に、窓をはさんで「入れてくれ」「だめだ」の怒鳴り合いがあり、車内でも本気の喧嘩が始まったりしていた。そんな大混乱と悪い空気のおかげで、私は気分が悪くなってくるのを抑えるのに精一杯だった。「どうにかまあ生きて家に帰れた」と日記帳は総括している。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
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