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平岡久「あの戦争あの軍隊」

平岡久の「あの戦争 あの軍隊」

 平岡久さんは1919年(大正8年)生れ、淡路島の津名町佐野(現在は淡路市)の人です。今年で90歳になられますが、お元気です。農漁業の後継者でしたが2度の兵役に服し、最後はフィリピンで飢餓の敗戦を経験しました。戦後は地方政治の革新に尽力し、町議から町長にも当選を果たしています。これまでに「飢餓の比島・ミンダナオ戦記」「軍服と野良着と背広の人生」そして「あの戦争 あの軍隊」を自費出版しておられます。また別に、妻の平岡弥よいさんが「銃後の妻の戦中日記」を出しておられます。
 私はこの春からの新宿西口「一人デモ」で知己を得た村雲司さんの憲法記念日広告への投句「7割は餓死と知らさる英霊の夏」が縁となって、平岡さんから著書の贈呈をいただきました。その中で「ミンダナオ戦記と「銃後の妻…」は、すでにネット上で全文が読めますが、私のブログでは平岡さんのご了解を得て「あの戦争 あの軍隊」を、連載形式で紹介させていただくこととしました。
 この本の副題は「徴兵検査から満州現役兵時代」で、1回目の従軍経験を綴ったものです。兵科は砲兵隊でした。砲兵は、陸軍の中でも合理的・技術的な基盤を必要とする部隊ですが、その内実には日本陸軍の根本的な欠陥が潜んでいました。その問題意識は、先日紹介した山本七平氏と共通しています。
 日清戦争、日露戦争に勝利するまでの日本軍は、短期間で世界一流の軍隊に追いつくべく、優等生的な努力を続けていました。その結果としての連勝だったのですが、勝利に酔いしれた日本軍は、そこから急速に自信過剰の精神主義へと傾斜して行ったように見えます。そこから、資源の貧しさや技術力の不足には目をつぶる、非常に保守的な権威主義がはびこるに至るのです。その欠陥を埋め合わせるために酷使されたのが、現場の兵隊たちでした。
 これは平和のための戦争体験の語り継ぎであるとともに、日本における文明史の資料ではないかと私は思っています。

(付記・検索時に読みやすいように、並び順を番号順にしました。)


平岡久「あの戦争あの軍隊」(2)

まえがき

 過去、実に多くの人々がそれぞれの「皇軍兵士」としての体験を書いておりますが、私も昔から、かつての「大日本帝国軍隊」での現役兵生活について書き残しておきたいという、強い願望を持っておりました。
 軍隊での経験は、あまりに苦しく、哀れで、苦々しく、又、無意味で馬鹿馬鹿しいものでしたが、逆にそれだからこそ、かえって懐かしく、決して消えることのない、深い思い出なのです。浅学非才の文字そのままに、我流ながら世に残しておきたかったのです。
 罪を犯し服役した受刑者が、出所後には獄中記をよく書いております。彼らと、私のような元兵隊には、相通じるものがあると思われます。事実、昔の兵舎内では、刑務所と囚人になぞらえた替え歌がいくつか唄われておりました。「カネの茶碗にカネの箸、盛り切り飯に・・・・・」
 世界では、ユダヤ人とアラブ人、ヒンズー教徒とイスラム教徒のように、何千年も昔の紛争を昨日のことのように記憶し、根気強く、大まじめに戦い、血を流し続ける人たちがたくさんいます。
 1995年9月2日付朝日新聞「戦後政治を振り返る」において、時の大平正芳外相はこういっています。「日本外交は筏のようなもので、エンジンも舵もない」(さしずめ、アメリカ川を流れ下るようなものか)また、キッシンジャー(元米国国務長官)は「日本は哲学的確信なしに変わる国だ」といいました。(ゴム風船には哲学は無い。只、風に流されるだけ)
 日本人は、どれほど深刻な事件でも、3日もすれば忘れる世界一の健忘症患者といえます。それを良いことにして、この国の支配者たちは、「夢よもう一度」とばかりに、大陸への侵略戦争(ここ100年の我が国の歴史で、うち50年間はまさに対外侵略戦争の時代でした)の見果てぬ夢を追いかけようと、憲法改正の準備にとりかかっております。
 日本人は、自分自身で見て、聞いて、考えて、判断して、行動するという自主性を欠いた民族です。すべて、目上の人、お上や偉い人の命令・指示・暗示・誘導を唯々諾々と受け入れ、その盲従の姿勢を、あたかも美徳であると信じているがごとくなのです。権力に対する批判などは、神をも恐れぬ所行なのです。従順、盲従、奴隷根性、そのようなことばが頭をよぎります。
 理非曲直、物事の道理、是非善悪などは一切考えず、思うは只一つ「目の前のゼ二」のことばかり、そんな人達がいかに多いことか。
 このような時代、いかに拙い文章でもいいから、軍隊と戦争の実態を書き残す意義はあるだろうと考え、1998年春から筆を執り始めました。

地上の動物で人間だけが、戦争という災害を自ら作る
軍隊と戦争のない世界を築いた時
人類の平和はその時に実現する
平和の尊さと価値は失われたときに初めて判る
戦争はずる賢い権力者が引き起こす大地震、災難なのだ
人々を殺し、すべてを破壊する
平和は激しい政治の戦いでのみ守られる
新しい世代の人たちよ
平和を守る強い人間になってくれ

平岡久「あの戦争あの軍隊」(3)

まえがき(続の1)

 日本はアジアの一員ですが、東方海上の一島国です。ユ―ラシア大陸とは日本海、朝鮮海峡、東シナ海によって隔てられており、そのお陰で、大陸国家から侵略された経験は元冠2回だけで済んでおります。
 逆に、日本からは、まず四世紀末、六世紀末、七世紀半ばと、3回にわたって朝鮮半島への出兵を繰り返しました。その原因は(私の独断になりますが)、朝鮮半島の本家筋の国家から、分家である日本の王朝に救援要請があり、それに応えたものでしょう。自発的、積極的な侵攻作戦ではなかったと思われます。せっかく気候温暖な日本列島に安住しているのに、厳しい風土の朝鮮半島にわざわざ食指を動かすはずがありません。
 七世紀半ばの出兵では白村江の戦いで壊滅的大敗を喫したため、あわてて下関海峡から瀬戸内海一帯に数多くの朝鮮式山城を築き、本国防衛に専心する方針に転じました。以後大陸とは平和的関係が続き、兵事は長くありませんでした。
 続いて一六世紀末、豊臣秀吉が2回にわたって朝鮮半島に侵攻し、敗退しました。(俄成金が逆上せるように、秀吉は大陸を望み、儚く潰えました)
 徳川政権は、一転、閉鎖国家(朝鮮、中国、オランダを例外とする)をつくり、二百数十年のあいだ一国平和主義を守りつづけたのです。この間、日本は経済、社会、文化の各方面で大きく発展しました。江戸は世界でもトップクラスの大都会となり、民衆の識字率でも世界のトップを行くほどでした。
 しかし、まさに経済が発展することにより、徳川幕藩体制そのものが漸次古くなり、足枷となり、更なる社会発展の障害と成り変わってきました。続発する大規模な農民一揆こそその明白な証明であり、新時代の夜明けを告げる鐘の音だったのです。そこヘロシア、アメリカ、西欧帝国主義列強の外圧を受け、徳川政権は倒れました。
 明治政府は、徳川幕府の鎖国という垣根を取り払ってみてはじめて外国との国力格差に驚き、大急ぎで、大増税を実施、富国強兵策を強行したのです。民衆の高い教育水準と、権力に対する盲従性が相俟ってこの国策を支えました。新政府は西欧列強に追いつくために、爪先立ちをし、背伸びをして、国民には耐乏生活を強要しました。更には西欧帝国主義の真似をして、日本人漂流民の虐殺を好機とし、台湾に出兵しました。考えてから走るのではなく、ただやみくもに走りつつ考える「暴走」を始めたのです。


平岡久「あの戦争あの軍隊」(4)

まえがき(続の2)

 即ち明治27年、朝鮮国支配のために清国と戦い、北清事変、日露戦争、朝鮮占領、第一次世界大戦、シベリア出兵、山東半島出兵、満州占領、中国本土侵攻、張鼓峰、ノモンハン、第二次世界大戦、と、50年間に亘り、アジア大陸へ侵略軍を送り続けました。
 その軍隊の所行は「奪い尽くし、殺し尽くし、焼き尽くす」、悪名高い三光作戦でした。その戦争の過程で、300万人の日本軍兵士が戦場に倒れ、第二次大戦末期には、沖縄や本土の日本国民も、アジア各地で日本軍が行った蛮行の「報復」をうけることとなりました。
 誰のために、なんのために、日本軍はアジアに惨禍を撒き散らしたのでしょうか。その反省こそが新日本国憲法を守り育てたのだろうと思います。
 旧海軍主計中尉にして元首相たる中曽根某を先頭とする改憲論者・再軍備派は、アジア侵略軍に従った犠牲者を祀る靖国神社参拝を声高に主張します。「英霊だ」と。
 実は、「国防の英霊」は鎌倉時代に存在したのです。700年余前の元寇の際の日本兵には、墓標もなく神社もなく、参拝する人とてありません。彼らこそ、対外侵略軍ではなく、まさに「国を守って戦った」英霊なのです。
 しかし、政治家は誰も一顧だにしません。中曽根某を始めとする政治家達は、「利用価値のある英霊」を利用するだけの輩なのです。彼らのいう「愛国心」なるものの中身がこの一事でもはっきりします。

与謝野晶子

君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずからは出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの深ければ
もとよりいかで思されむ
―1904年(明治27年)9月1日発表―

 日露戦争のとき、ロシア軍の籠もる旅順要塞を落とすに際し、その攻城戦で日本軍は万人の屍の山を築いていました。まさにその時に晶子はこの詩を発表したのです。
 その35年後に、私は一兵士として旅順要塞に勤務しており、ことあるごとにこの詩を感銘深く思い出しておりました。おなじ人間として産まれながら、なぜ片や「死ね」と命令し、片や命令通りに死なねばならないのだろうか。
誰のために?
何のために?
死ぬ意義は?
 平和憲法制定後50余年、憲法改正が国会で取り上げられ、国土防衛論議が無制限に拡大解釈されて行こうとしています。おぞましい歴史が又繰り返されるのでしょうか?

平岡久「あの戦争あの軍隊」(5)

徴兵検査(1)

 旧明治憲法時代には、国民の義務として、教育(小学校6年間)、納税、兵役の三つが課せられていました。男性は17才から45オまで軍籍に編入され、20才から2ヶ年(太平洋戦争時代では3ヶ年)選抜された者は現役兵として服務しました。その後、予備役(5年4ヶ月)、後備役(10年)、補充兵役(現役兵勤務なく、招集令で現役兵と同じとなる)、国民兵役として在籍します。昔の30代半ばの兵士は、栄養不足のため、今日の50才以上の体力しかなく、老児(ロ―トル)と中国語で言われました。以上の各兵役の中から必要人数を選抜し、徴集して使用したのです。
 日本は1937年(昭和12年)7月、北中国、永定河の盧溝橋事件を機に中国との全面戦争に突入していきました。このときに、柏原部落でもままごとのような防空演習がおこなわれました。国道添いの多田医院に柏原町内会の本部が置かれ、毎晩、灯火管制の真似事がありました。その際に、道端の床几の上で、代診の若い医者がこう話していたことを今も忘れられません。『小さな日本が支那と戦争しても勝利は難しい。支那人の愛国心を刺激して団結させるから、一部で勝利しても、最後の勝利は至難のことじゃなあ』
 近衛内閣は国家総動員法を制定して、各地に現役兵の前段階的な青年訓練所を設置しましたが、始めのころは強制ではなかったので、私は行きませんでした。大体、兵隊も戦争も好きではなかったのです。
 早稲田大学の通信教育で政治経済学講義を勉強したり、結核で療養中の四兄正三の影響も受けておりました。正三の読む日本評論、改造、中央公論等の雑誌にも目を通していました。さらに岩波文庫の進歩的な本も乱読しました。そのせいか、多田医院の若い医者の言った「中国人のナショナリズム高揚」の話もよく理解できました。寸暇を惜しんで読書していた身ですから、夜間の青年訓練所へ行く時間も気持ちもありませんでした。
 徴兵検査は1939年(昭和14年)春、旧志筑町公会堂で行われました。現在、淡路信用金庫志筑支店としずのおだまき館があるところです。
 全員裸体で、越中ふんどしを前にぶら下げて、身長、体重、視力、性病、痔疾、体の屈伸運動、手指の検査等と、医師の質問等が行われます。その後判定官の前に立ち「甲種合格!」と告げられました。
 続いて臨席将校の前に立たされて、希望兵種を問われました。歩兵、騎兵、砲兵、工兵、輜重兵の中から答えねばなりません。あらかじめ考えていたので、海難事故で亡くなった兄、金次郎と同じ輜重兵を希望した。兵役を逃れることは出来ないので覚悟はしていたが、直接銃剣で相手を刺し殺す歩兵にだけはなりたくなかったのです。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(6)

徴兵検査(2)

 検査後暫くして、砲兵と決定し、部隊は満州の旅順要塞重砲兵連隊第二中隊への入隊通知が初夏の頃に届きました。砲兵二等兵平岡久として連隊の名簿に記された訳です。重砲兵と知って嬉しかった。直接殺す相手の顔を見ずに済むからです。なんとも弱気な兵隊さんです。
 満州への現地入隊となれば、一人では寂しいので、隣接町村へ聞き合わせしたところ、鮎原村の毛笠君が私と同連隊と知りました。早速鮎原村まで自転車で会いに出かけましたが、満足な手応えがなく、且つ、彼は第一中隊と判りましたので、その後の大阪北御堂での集合までは会うことはなかった。又旅順時代も、他中隊だったので疎遠でした。鳥飼村の真柴君や洲本の山本君とは、お互い、入隊まで知らなかった。
 入隊前1ヶ月位から、「祝入営 平岡久君」の旗が親戚から贈られて、門先に何本か立てられました。
 1940年(昭和15年)2月末、佐野川南岸、荒木の浜から櫓漕ぎの通い舟で沖合いに待つ神戸行きの汽船に乗り出発しました。同日出発の同級生数名が、それぞれの見送り人達の「バンザイ、バンザイ」の声を浴びて通い船に乗りました。乗船前に、私が兵士代表の挨拶をしました。兵士の中には、かなりの泥酔状態で、通い船への歩み板を渡るのが困難な者もおりました。
 この日の前後に、歓呼の声に送られて戦場に出た同級生30名中、約半数の10余名は、小さな骨箱に入って故郷へ帰りました。この人達の墓石を見るたびに、初年兵当時、典範令(兵士の教科書)の暗記に苦しみ、ずいぶんと盛大にスリッパやベルトで殴られたんだろうなあ、とか、彼なら要領がよかったからビンタの数は少なくて済んだだろう、とか、感無量です。
 私の同級生で一年前に入隊した人(1918年、大正7年生まれの人)の中で、宮坂末広君が戦死して町葬がありました。他にも数名の町葬が小学校の校庭で行われ、私も参列しました。
 親友の塩崎肇君も前年入隊組でしたが、貝塚陸軍病院に入院し治療中でした。何冊かの本を持って面会に行きました。持参の本の中に、「蒙古」と言う題で、表紙の裏が赤い紙だったのがあり、今でも覚えています。白衣の友は、工兵連隊での激しい訓練で体力を消耗した挙句、肺結核になり、かなり進行している様子に、内心「今生の別れ」と覚悟しました。
 「平岡よ、ワシに妹が一人おる。満期除隊の後、出来たら結婚してくれんか」とのこと、「もし生きてあれば必ず」と約束しました。当時の青年たちは、常に「もし生きてあれば」ということを抜きにしては、何事も考えられなかったのです。後日、旅順で、妹さん、続いて本人の訃報を手にしました。激しい訓練のなかで、夜一人で涙を流しました。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(7)

徴兵検査(3)

 60余年前の大日本帝国臣民の中でも、特に青年達は、「水漬く屍、草生す屍」と我が身を重ね合わせての生活でした。軍服を着て戦場に出、盾を抱いて(生きて)帰るか、盾に乗って(死んで)帰るか、運命に任せねばならなかったのです。
 金満日本の今の若い人達は、新宿や心斎橋を歩きながら何を考えているのでしょうか。大脳の内視鏡があったら是非診てみたいものです。「茶髪の兄ちゃん、何思う?」とね。「平和を守ってね」とお願いしたいものです。
 友の戦死の時期が1944年と1945年に集中しているのを見るたびに、「兵の退き時」を知らなかった大本営の将官や内閣に対して、深い憎しみを覚えます。
 さて、淡路を出た日は尼崎の長兄の家に一泊、その夜は兄達と別れの会食をいたしました。現役兵として集合したのは大阪の北御堂、1940年(昭和15年)3月1日でした。将校を長として、下士官、上等兵等6、7名の初年兵受領隊が来ておりました。彼らはこの機会に1泊2日程度の帰郷を許されて、久方振りに故郷の家を訪ねたらしく、嬉しそうに話していました。大変ご機嫌麗しく、カチンカチンに緊張していた初年兵もホッとしたことを覚えております。
 衣類として、軍足(靴下)、フンドシ、襦袢、袴下と上衣、袴(ズボン)、軍帽を支給されました。勿論、編上靴も支給されましたが、靴の寸法が足にあわず、「足を靴に合わせるよう」に命じられました。大きくても小さくても、過ぎたるは困り者で、後でこっそりと交換して、なんとか歩けるようになりました。こうして可愛い新兵さんの誕生です。
 あれから60年たって、当時の自分の顔を見ても、純真そのものの顔です。60年の星霜に痛めつけられた今の顔とは、正に雲泥の差といえます。
 輸送船は千トン級の小さな貨物船で、内部には俗称カイコ棚が何段も作られておりました。関門海峡を出ると、冬のシベリア高気圧より吹き出す北西風が起こす大浪に翻弄されます。大浪の頂点から次の浪との谷間に、船首からド―ンと突っ込んでいきます。船は大きな衝撃をうけ、船尾のスクリュ―は空転して、ガラガラと騒音を出し振動を伝えます。殆どの乗船者は短時間で船酔いします。食べたものは全部吐き出し、汚物入れの洗面器もバケツも転げ回って汚物を撒き散らし、大騒ぎです。胃袋が空になってからも、ゲ―ゲ―やって胃液を吐き出す苦しみは、見るのも可哀そうでした。
 私は漁民だったので大してこたえませんでしたが、排便には困りました。船上にある、舷側にぶら下げてシ―トで囲った便所は、船の揺れが激しく、ブラブラ、ドシ―ンと舷側に打ち当たります。とても中に入って用便なぞはできません。そこで、甲板上の風下側の手すりをしっかりと握って、小便だけはなんとか済ませました。
 多くの人が死んだようになってしまって、黄海に入って浪が少しおさまって、やっと人心地がついたものでした。甲板上からの飯運びもやらされたが、急階段には苦労しました。
 大連港に上陸後、トラックの荷台に乗って旅順の重砲兵連隊に着くと、営庭に雪が積もっており、「ああ、満州へ来たんだなあ」と感じました。アカシアの木には一枚の葉もなく、枯れ木の林で、カササギの巣があり、荒涼たる冬の大陸風景でした。冬でも山茶花や椿の花が咲き、ミカンが実っている淡路島とは天地の差、心の底まで寒くなりました。そのときには、後わずか20日ほどで、いっせいに萌え出す緑と満開の花の美しさは、知る由もありませんでした。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(8)

現役兵(1)
旅順要塞重砲兵連隊
通称満州3112部隊

 旅順要塞重砲兵連隊の兵舎は、旅順旧市街の東郊外の丘の上にあり、大連から来れば、白銀山トンネルを過ぎて4劼らいのところにありました。海とは黄金山で隔てられており、ちょっとした平坦な土地でした。連隊と称して、連隊長も大佐ですが、実質は昔のロシア軍の黄金山砲台防衛の三ヶ中隊収容の兵舎であり、日本軍は前の二ヶ中隊編成のままでした。でも、下士官、将校が大変多くて、兵隊を新たに召集さえすれば、すぐに2、3倍くらいには水増しできる体制でした。後日の関東軍特別大演習(関特演)の時には3倍ほどに脹れておりました。
 平時の任務は旅順軍港の守備で、黄金山砲台の28センチ榴弾砲4門が二中隊、7センチ高射砲が一中隊でした。黄金山砲台は旅順港防備の中心で、日露戦争のときのロシア軍の砲火はすさまじく、日本海軍を寄せ付けなかったものです。
 兵舎は、日清戦争後にロシアが清国から関東州を租借し、旧来の清国要塞を拡大強化して建設されたものです。レンガ建ての平家で、各班毎に大きなぺ―チカがあり、窓は二重窓で、冬には厳重に目張りをして防寒対策をしておりました。
 兵器は、まず騎兵用の短銃身の小銃(中国軍から奪ったチェコ小銃が半ばを占めていた)、38式7センチ野砲、明治45年式15センチ加農(カノン)砲、同じく45年式24センチ榴弾砲、と、前記の28センチ榴弾砲でした。すべて据付式で、15加と24榴には、砲手を守るための鋼鉄製の防盾を装着しておりました。別に一中隊は7センチ高射砲、二中隊は移動式野戦用の89式(大正4年制定)15センチ加農砲を特技として、野戦にはこの大砲二門を持って出陣しました。支那事変では、北中国、張鼓峰、ノモンハン等へ出陣しました。
 また、28榴には野戦用の移動式のものもありました。この大砲は1880年(明治13年)イタリアから二門を買い入れ、1887年(明治20年)制定された陸軍最大の大砲です。弾丸一発220圈∈蚤膽幼8辧■械僑暗拈回で発射間隔最小6分、普通15分に1発打ちます。総重量は30トン以上あり、砲身1万5百圈∨ず贈祇蕋撹喚圈架匡8千5百圈△修靴特話翹篝濾分が5〜6トンです。大変懐かしく思い出深いものです。
 要塞砲はコンクリ―トで台座を固めてありますが、野戦使用のときには分解して数台の運搬車に積み、それぞれの牽引車に曳かれて、タ暮れ前に陣地進入を致します。
 底に数十本の杭を打ち、水平にした後、鉄板を敷きます。その外周に鉄板を立て並べて連結し、太い支柱で固定した後、堀り上げた土を入れて踏み固めます。その上にレ―ルを敷き、4脚10トン起重機で架匡、砲座、砲身を運んで組み立てます。大変な重労働で、小さな懐中電灯を頼りに、きわめて危険な暗夜の作業です。30分交代で休みます。人間が運ぶものも数十坩幣紊里發里多く、二人で担いで運びます。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(9)

現役兵(2)

 組立班長の軍曹や曹長は低い声ながら気合を入れ、少しでも動作の鈍い兵士には、ロ―プを水に浸して棒状になったものでバシッ、バシッと殴ります。バシッと音のしないときが珍しい位で、砲座の周辺は殺気立っております。少しでも気が緩んだり、不注意だと、負傷事故や死亡事故が起こります。現役3年有余の間、これほど緊張感の漲った錬兵は他にありませんでした。
 組立開始とともに、傍らでは炊事兵がゼンザイを炊いており、休憩中の兵士は食べ放題なのですが、すぐに寝入ってしまいます。幾ら疲労回復用に糖分補給しても、兵士は疲れ果てているのです。
 組み立てが終わると直ちに砲弾を込め、火薬を押し込んで発射演習です。3回訓練をしたら、今度は、直ちに分解して陣地転換です。その分解作業中、「敵戦車右前方2千メ―トル、野砲射撃用意!」との中隊長の声で、携行中の7センチ野砲を人力で移動して迎撃用意に走ります。分解中は一切休憩無しです。
 夜明けとともに敵の攻撃が始まる筈ですので、将校も下士官も声を枯らして叱咤激励します。運搬車に積んで陣地を抜け出るには数時間かかります。ノモンハン戦でのソ連重砲は2万メ―トル近い射距離(こちらの2倍以上)を有しており、断片的にせよそのことを知る我々は、疲労とともにかすかなむなしさも感じていました。
 兵器は日進月歩です。日露戦争の旅順要塞攻略では18門の28センチ榴弾砲が威力を見せ、奉天会戦でも6門が活躍したそうです。そのこともあって、50年後のソ満国境要塞でもト―チカの中に備え付けられたそうです。明治38年式小銃を約40年後に昭和の歩兵が使っていたのと同じことです。
 旧式兵器を持たされた日本軍兵士の哀れさ! 60年後の今日でも思い出すたびに「苦労させられましたなあ」と胸がジ―ンとなります。飛行機も戦車もロケット砲もなかった時代の旧式大砲を、後生大事に重宝していた大日本帝国陸軍の高級職業軍人の愚かしさは、軽蔑を通り越して腹立たしくなります。
 大砲の話ついでに、砲弾について書きます。60年前、一等兵が教えられたことです。拳銃、小銃、機関銃等の銃弾は金属の固まりです。大砲の砲弾、空軍の爆弾、海軍の魚雷、機雷等は、鉄の筒の中に火薬を詰めてあります。その爆薬を、必要なときに、信管という小さな筒の中につめたマッチ代わりの火薬で点火して爆発させます。
 信管は、弾体の先端に付ける弾頭信管と、弾体後部に付ける弾底信管に別れます。弾頭信管は弾頭が物体に触れた瞬間に爆発する触発信管があり、海軍の機雷、魚雷等にも使用する。時限信管は装薬(弾丸を飛ばすために、弾丸と大砲後尾の閉鎖機の間に詰めた火薬のこと。小銃弾、機関銃弾は弾体と一体化している。重砲弾の場合は、弾丸を詰めた後に別に火薬を詰めます)が、雷管から発火して爆発した衝撃で、何秒か、何時間か、何日か後の指定された時に発火して爆発させる信管です。又、信管そのものを指定時間に発火させること、及びその操作を、「信管何秒に切る」と云い、発射直前に操作します。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(10)

現役兵(3)

 弾体には、火薬自身の爆発力を必要とする弾丸とは別に、火薬を弾体を破裂させる程度の少量に留めて、毒ガス、化学薬品(オウムが使用したサリン等)、細菌(ペスト、コレラ、チフス菌等)を敵陣に撒布するものがあります。また焼夷弾などもあります。
 28センチ榴弾砲でよく使う砲弾に「堅鉄破甲榴弾」といわれるものがありました。これには、軍艦の上甲板や堡塁のコンクリ―トを、上空から落下する砲弾の重量で破って、その衝撃で信管が働き、一瞬後に艦内で爆発するように作った信管が用いられていました。この破甲榴弾で名高い出来事があります。1904年(明治37年)12月15日午後9時、旅順要塞のロシア軍防衛司令官コンドラチェンコ中将が、東鶏冠山北堡塁で指揮中に破甲榴弾で戦死した事です。この人の戦死でロシア軍の士気が一気に低下した話は有名です。
 高射砲弾なども時限信管です。敵機の飛行高度と距離と速度を測って、何秒か後に到達するであろう敵機の傍らで爆発するように、信管を調節して発射するのです。もっとも滅多に打ち落とすことは出来ませんでしたが… なお、高射砲弾の信管をO秒に切ると、前面20メ―トルで爆発し、無数の弾片となって飛び散り、歩兵が攻め寄せてきても防衛出来ます。360度旋回できるし、攻守両面に使える火砲です。
 二中隊の15加は攻撃はできても、守りはできませんので、ノモンハンでは敵に分捕られました。二中隊の兵士はこのことを知っていましたので、陰では、一中隊は羨望の的でした。
 89式15加は後脚が二つに別れていて、前方の狭い範囲しか射撃できません。射撃方向を変更するには、開いた脚を一本に合わせて、牽引車で引っ張って方向を変えるのですから、側面や後方から急襲されるとお手上げです。だから歩兵の援護が必要なのです。
 前記、旅順重砲兵連隊第二中隊のノモンハンでの悲劇には前例があります。1904年(明治37年)10月15日、沙河会戦のときの万宝山の敗戦です。歩兵連隊に置き去りにされた野砲兵二ヶ中隊、山砲兵一ヶ中隊がロシア軍に攻撃されて、野砲9門、山砲5門を奪われ壊滅しました。このように、砲兵というものは、小回りの利かない大変不器用な兵種なのです。
 砲弾の中には、弾丸の中に火薬とともに小さな丸い弾を詰めて、人馬殺傷専門の榴散弾もありました。その他、砲弾自体を無数の細片に破砕して、人馬に打撃を与える砲弾もありました。兵器とか戦争とかいうものは「君子の器にあらず」(棟田博)、正に悪魔の器であります。
 演習の後などでノモンハンの話がでる度に話題になったのが、当時浦賀の重砲兵学校で試験中だった96式(皇紀2596年、昭和11年、西暦1936年制式)15サンチ加農砲のことでした。射程距離3万メ―トルとかで、ソ連軍の大砲に十分対抗できるということでした。しかし、後日伝えられたところでは、砲身破裂(砲身が長く、発射火薬が大量の時に起こる)続出で、部隊への配備はなしとのこと、兵士達は大いに落胆したものです。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(11)

連隊の歴史(1)

 連隊の歴史を書きたいが、東京の戦史研究所まで出かけるほどの熱意はありません。従って、私が旅順重砲連隊に在隊した1年余りの見聞を少し書きます。
― 1931年(昭和6年)9月18日朝の柳条溝事件 ―
 ある日曜日の晩、医務室で日直をしていると、某准尉(名は忘れた)が外出から一杯機嫌で帰って、医務室へ来ました。「風邪気味なので薬をくれ」とのことで、こんなことは日常茶飯事です。翌日、初年兵の誰かが受診したことにすれば、薬の数は合います。
 そのとき、この准尉さん、ちょっとアルコ―ルが過ぎていたようで、日頃の不満を私相手に吐き出し始めました。
「柳条溝事件の前、8月の炎天下で、満鉄奉天駅で24榴弾砲を据え付けさせられた。下士官と将校のみで、秘密のうちにこっそりとやらされたよ。まず、昼の間に北大営へ照準を合わせ、円板測量で諸元(大砲の方向、角度)を出したが、夜間射撃用に綿密な観測だったよ。その後で、高い板塀で囲いを作り、夜間に貨車から運んで、据え付けたものだ。静かに少人数でやったので大変だったぜ。砲弾も火薬も山と積んだよ。人目に触れないように随分と気を使ったものだ。何分にも相手は東北軍第一の精鋭で、張学良がもっとも頼みとする北大営の軍隊だからな。こうして、9月18日早朝、眠り込んでいる数万人の敵兵士の頭上に24榴の巨弾を不意打ちに叩き込んだからこそ、敵はパニック状態で逃走したのだ。そのお陰で独立歩兵守備隊(南満州鉄道警備隊)一ヶ中隊で占領出来たんだ。なにが独歩一ヶ中隊の手柄なものか。我々の砲撃のお陰だ。それなのに、国際連盟への手前、我々の準備作業は隠して表に出さん。独歩は勲章を貰い、昇進するのに、我々は縁の下の力持ちだ」
と大憤慨しておりました。
 後日たくさんの本を読んで、「事前に重砲を据えた計画的な攻撃だった」事実を知りました。医務室で聞いたときには、「関東軍がそこまで計画的だったのかなあ」と半信半疑だったが、今、思い出す度に、某准尉に同情したくなります。
― 大原城攻撃 ―
 1937年(昭和12年)ll月の、中国山西省の大原城攻撃では、城壁、城門の破壊に89式15加二門で連続砲撃をした。そのうちに砲身が焼けてきたので、濡れむしろを掛けて冷やし、射撃を続けた由です。「一発打つ度にむしろをかけ直した」と下士官から聞きました。
― 張鼓峰戦 ―
 1938年(昭和13年)7月、北朝鮮とソ連との国境で起こった張鼓峰事件にも、89式15加二門で参戦した。8月に停戦。この戦いのとき、閉鎖機(砲身後尾の蓋で、ネジ込み式)が後方へ飛び、分隊長以下相当の死傷者が出た。


平岡久「あの戦争あの軍隊」(12)

連隊の歴史(2)

― ノモンハン戦 ―
 1939年(昭和14年)5月から9月のノモンハン事変、一中隊は高射砲で参加し、将軍廟等の物資集積所の防空にあたる。その時、一門にソ連空軍の直撃弾を受け、分隊員の殆ど全員が死傷した。分隊長も、自身の傷と部下の血汐に全身がまみれた。驚いた衛生兵が、分隊長の両足の負傷程度を十分確認しないまま、両大腿にラセン止血帯を巻いて止血したあと、ハイラル陸軍病院へ送った。ラセン止血帯は、短時間毎に緩めて血流を促さねば、止血帯から先の組織が死ぬのです。ハイラルへ着いた時には、既に両足は死んでおりました。病院で診たところ、傷は大したことはなく、ガ―ゼの圧迫包帯で十分だったそうです。某軍曹は両足を切断、完全なダルマ様となったのです。私は某軍曹の病床日誌を見て暗然となり、衛生兵の責任の重さを痛感しました。人の生死に立ち会ったとき、如何に沈着冷静に対処すべきか、肝に銘じたものでした。
 二中隊は89式15加二門でム―リン重砲兵連隊長の指揮下に入り、ノモンハン戦に参戦した。ソ連軍は質量ともに圧倒的に優勢で、当方とは天地の差があり、二中隊は苦戦を続けた。ソ連軍重砲の射距離は日本軍と比べて格段に長く、日本軍重砲は敵の野砲と戦うのが精一杯でした。ソ連軍重砲陣地へはこちらの砲弾が届かないのです。更にソ連軍は複数の砲兵師団を使用し、その消費砲弾数は物凄いものだった、と本には書かれております。横綱と十両の相撲だったのです。
 ソ連軍は、ポ―ランドをドイツと分割する前にノモンハンを片付けようと、八月末に大攻勢を掛けてきました。日本軍は、小松原師団長の馬鹿げた命令で砲兵援護用の須貝歩兵連隊は他に異動させられていました。そのため、防御されない丸裸のム―リン重砲兵連隊は8月26日に全滅しました。旅順重砲の二中隊も、歩兵随伴の敵戦車に包囲されて、火炎放射器で焼かれ、ごく僅かの例外を除き、全滅しました。


平岡久「あの戦争あの軍隊」(13)

連隊の歴史(3)

 私が入隊したとき、顔半分と耳に大火傷をした古兵がおりました。陸軍病院から内地へ送還して手術する予定だったが、頑強に拒否して、原隊に復帰した兵士だ、との噂だった。どうやら、この兵士は、折り重なる戦友の死体の下で夜を待ち、数名残っている監視のソ連軍兵士の目をかすめて、味方陣地に辿り着いたものらしい。
 毎晩のように、タ食後「貴様らのような弛んだ根性で、モスコ―の東方戦勝博覧会の門前に飾られた我が中隊の大砲を取り返せるのか!」と、大声で泣きながら、ベルトで初年兵を殴るのです。大抵、三年兵の先任兵長が、穏やかに「もうこの位で」と制止しておりました。正に地獄の鬼そのものでした。悲惨なものでした。殴る方も、殴られる方も。
 前記のように、二中隊は全滅だったので、その後他の部隊から転入者を迎えて、ごく少数の生き残り(大砲の側にいなかった観測、通信、出張、入院等か?)で再編成されたらしいが、日常は、ノモンハン戦のことは語られず、その話はタブ―のようでした。腫れ物扱いでした。
 後日、私たちが入隊してから行われた旅大交通のバス運転手(ノモンハン出陣のときに職場から強制徴集された)の葬儀の時も、皆ロをつぐんだままでした。時々、古兵から「お前ら命冥加の無い奴じゃ。高射砲の一中隊に行きゃいいのに、15加中隊に来るとはな」と嘲笑されました。関特演の時は二中隊も高射砲四門で出ました。
 二中隊の本来の任務は旅順港ロの守備ですが、その任務に就いたのは第二次大戦末期であり、しかもその時には、沖合で真っ昼間に悠然と浮上して、甲板上を歩いている米海軍の潜水艦に対して、歓迎の弾丸をお見舞いする大砲も飛行機もなく、ただ撫然として眺めているだけだったと云います。戦後開かれた、昔の現役兵の戦友会で聞きました。
 普段の二中隊は、前記のように、中国大陸等への野戦に緊急動員されるのが常でした。動員令が来れば、二時間以内に出発です。常にその準備を整えておりました。緊急動員令到着とともに、兵器、弾薬、自動車とその燃料、食糧、被服、衛生材料、事務用品(軍隊はお役所ですから、戦場でも書類は大量に必要です)等を旅順駅へ運び、貨車に積み込み、兵員もともに出発です。多量に必要なトラックと運転手は民間から徴集して出発です。ノモンハン出陣の時の運転手は旅大交通のバス運転手が多く、家族との別れもさせられずに出発し、再会したときは骨箱に入っていたのです。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(14)

旅順重砲連隊の兵舎(1)

― 元帥 ―
 軍隊というところは、階級とともに在営日数即ち飯の数が重要です。階級が建前で、メシの数が本音です。ですから、三年兵のことを「神様」と申します。神棚の上に鎮座ましまして、二年兵の初年兵教育を眺めております。三年兵の中の一等兵には、箸にも棒にもかからないようなワルや出来損ないがいて、二年兵も初年兵も此奴らに大変痛めつけられます。このワルの渾名は「元帥」(これ以上何年居ても昇進しない)と云います。二年兵になってすぐ上等兵になった者(第一選抜)などは、よく目の敵にされて、なぐられてお
りました。又、同年兵で下士志願して軍曹になった人でも、この「元帥」には大変遠慮しながらロを利きます。
― 報告 ―
 入隊してすぐ教えられるのは、内務班(30名から40名)を出入りする時の報告の義務です。これは戦場で上官が部下を掌握するための訓練らしいのです。(支那事変の発端となった盧溝橋事件は、永定河で夜間訓練中の兵士が黙って用便に行き、路に迷ったことが引き金になった)
「○○二等兵、便所へ行って参ります」
「○○二等兵、只今便所から帰りました」
「おう、無事に出たか?」と古兵殿
「ハイ、無事に出ました」
「ほうそりゃ目出度い」
「ハイツ」
「○○二等兵、洗濯に行って参ります」
「○○二等兵、メシ上げに行って参ります」
「○○二等兵、ぺーチカ燃料使役に行って参ります」
「○○二等兵、入浴に行って参ります」
「○○二等兵、靴磨きに行って参ります」
イヤハヤ賑やかなものです。
― ビンタ ―
 兵舎中央には、幅1メートル余、長2メートル余の頑丈な木製テーブルが一列に並び、両側には1メートルほどの通路があります。兵士の座る丈夫な木製の長椅子は、テーブルの下に入るようになっております。そのテーブルで食事をしたり、衣類の修繕、兵器の手入れ等を行います。毎晩、銃、ゴボー剣の手入れ、軍靴の手入れも致しますが、少しでもゴミの付着があれば、即ビンタです。枕カバー、シーツ等が汚れていると、赤いチョークで金魚の絵を描かれます。赤いチョークで絵を描かれると、なかなか綺麗になりにくくて困りました。絵の意味は「金魚が水を欲しがっているぞ」というのです。
 初年兵は自分の物だけではなく、隣のベッドの古兵の物も担当ですから大変です。洗濯をすると、兵舎の裏に物干し場があり、練兵に出る前にそこへ干しておくと、よくシャツや枕カバー等が盗られます。古くなった物を新しい物と取り替えていくのです。泣くにも泣けないことがよくありました。靴下の盗難などは毎度のことで、古兵の物をやられた時は、自分の新しいのを古兵に廻します。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(15)

旅順重砲連隊の兵舎(2)

 寝台の上に幅4、50センチの木製の整理棚があります。そこへ、一装(外出、出陣の時使用)、二装(衛兵勤務等使用)、三装(営外演習時使用)等、代用等の上衣袴、上着とズボン、を作法通りに畳んで、その上に軍帽を乗せます。そして四角い箱形になるように積み上げます。前面も真っ直ぐに揃え、両横も垂直でないと、練兵から帰ってきた時には、突き崩されて寝台の上下に散乱しております。泣きたくなります。その傍らに防寒外套(オーバー)、外被(レインコート)、天幕、飯盒を並べ、隣との仕切は、手箱という小引出しのある木箱が乗っており、この手箱には文房具、財布、教本等を入れます。
 前記の上衣袴の一装、二装の差は、ポケットの裏側の白い布地に○で囲んだ装の字の印を押して、その数で決めます。一装は一字で新品です。少し古くなれば、もう一つ捺印して二字になれば二装です。一番古く、破れて修理したような衣類には代の字を捺して代用となります。
 下士官にはそれぞれ一人宛新兵の当番がつきます。食事の上げ下げ、衣類の洗濯、部屋掃除、ゴボ―剣の手入れ、軍靴の手入れ(泥を落として、保革油を塗り、布で磨きます)。洗濯は、毎日、肌着、靴下、ハンカチ、襟布(上着の襟に縫いつけるカラ―代用品)等で、大変な分量です。毎日洗って、干して、取り入れ、畳んで衣類棚へ整頓です。こんな雑用を練兵終了後の疲れた体でこなすのだから、どうしても失敗や手落ちが生じます。その時に当の下士官から直接殴られると、その報復として、頭のフケをメシの上に掻き落として、下士官にフケ飯を食わせることをよくやりました。だから、下士官は自分の当番兵を直接殴らずに、教育係の二年兵の上等兵にやらせるのが慣例でした。
 なお、午前、午後の練兵が済んで「解散」と号令がかかると、各人の内務班へ向かいますが、初年兵は中隊入りロで下士官の来るのを待って、各班長、班付き下士官の巻き脚絆を解かねばなりません。いつも上手に立ち回る新兵さんは、やはり色々と優遇されて可愛がられますので、皆いつも脚絆解きの競争です。
 まあ、あれやこれやで、入隊当初の2、3ヶ月は、毎晩ビンタの花盛りです。「メガネを外せ」と命令されると、両足を少し開いて、歯を固く食いしばり、両手を固く握り締めます。誰かの失策、失敗は「全体が弛んでいるからだ」と言われ、一列に並ばせられて、古兵が交代で殴って廻ります。
 手で殴るのは序のロで、次はスリッパ、ベルトになります。ベルトの場合、殴る方も殴られる方も十分用心しないと、巻き付いたようになり、皮膚がベロリとはがれた例があるそうです。そこで、殴る方はベルトを直角に当て、当たったときは、引っ張ったり延ばしたりしないことです。殴られる者は全身にカを込めて動かないことです。又、よく行われたのは、新兵同士を向かい合わせて殴り合わせる対抗ビンタです。古兵殿は寝台に座ったり、腰掛けたりしてご観覧です。少しでも手加減をしたりすれば、百戦錬磨の古兵殿から「○○、気合いが入っとらん」「○○、たるんどるぞ」とヤジられた後で、スリッパを持つ古兵殿の前に立たされます。だから、誠心誠意、全力で殴り合うことが大切です。そうすることで、尽忠報国の精神が充実したものとして、教育(ビンタは大変重要な教育科目です)が終了するのです。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(16)

旅順重砲連隊の兵舎(3)

 なお、内務班等でのいわゆる私的制裁には、兵士は深い反感を持ちます。しかし、前記の28センチ榴弾砲組立のような練兵の時に殴られるのは誰も余り気にしません。新兵さんでも公私の別は知っています。
 次に、軍靴の手入れが不十分だと、一足の靴を紐で結んで首からぶら下げ、中隊の端から端まで挨拶廻りをさせられます。「○班の○○二等兵、軍靴様を粗末に致しました。それで、手入れの仕方を教えて頂きたく参りました」と云って、各班の中央部まで進んで立ち止まります。大抵の場合、「気を付けろ、通れ!」と誰かが云ってくれて、一巡して帰ります。ところが、班の空気が悪い時は、よそ事を話すばかりで、知らぬ顔をされ誰も声をかけてくれずに立ち往生します。10分も20分も直立不動の姿勢で立ったままです。暫時の後「何をボヤボヤしとる、さっさと行け―!」で通ります。しかも帰りが遅いと、自分の班でのビンタの数が多くなります。私はやらされたことはありませんが、「通れ」の声が出ないで、じっと待っている新兵さんの姿は、哀れさを通り越すものでした。横目でチラッと見るのがとても辛かったので、記憶は今も鮮明です。
 小銃手入れ不良の時は、ビンタ代わりに、両腕を真っ直ぐに前に延ばして、小銃を持って不動の姿勢です。少しでも腕が下がったり動いたりすると、すぐにビンタです。万一落とそうものなら大変です。天皇陛下より預けられた菊のご紋章の入った兵器を床に投げつけた大罪人として、ふらふらになるまで殴られます。
 次によくやらされるのは、テ―ブルの上で腕立て伏せを10回とか20回とかです。古兵は寝台で寝そべりながら、真横から見るのです。腕立ての時の背筋の延び具合がよく見えます。直線で無いと駄目です。伏せの時は、テ―ブルと体の隙間が水平にスッと通らないと不合格です。「もっと腰を落とせ!シャンと背を伸ばせ!」等、ガヤガヤ言って楽しむのです。子供のイジメそっくりをやって毎晩の余興とするのです。その間、下士官室の下士官や事務室の週番士官、週番下士官は十分承知ですが、知らん顔で出て来ません。
 建前として、陸軍大臣通達等で、私的制裁は厳禁です。連隊長も中隊長も時々「私的制裁は絶対禁止」と大真面目で訓辞します。しかし、本音ては「しっかり鍛えろ!大いにやれ!」と奨励なのです。その理由は「殴られることで兵士に動物的服従心、隷属心を植え付けたい」からなのです。こうして訓練し、一度「突撃!」と命令さえすれば、雨と降る銃砲弾の中へ、銃剣を振りかざして敵陣に突入する兵士が出来上がるのです。「前方戦車、攻撃」と命ずれば、火炎ビンや爆雷を持って戦車に立ち向かう兵士になると信じられたのです。


平岡久「あの戦争あの軍隊」(17)

旅順重砲連隊の兵舎(4)

― 砲弾不足の軍隊と兵士の命 ―
 典型的な一例として、中国上海戦線の廟行鎮での肉弾3勇士が上げられます。当時、兵士の命は1銭5厘のハガキ代に等しいと言われました。軍歌にあるように「命令下る一線に、開け歩兵の突撃路」、直ちに工兵3名が爆薬筒を抱き、砲弾代わりの肉弾となって突進し爆死したのです。兵士の命は鴻毛よりも軽かった。外国の軍隊では、まず空軍の爆弾投下、砲兵の砲弾で敵の一線を粉砕した後、戦車が突進し、最後に歩兵が進みます。なぜ日本人の命は安いのか?誰の為に?なぜ?どうして?
 旧型の1905年(明治38年)制定の38式小銃が重要な武器で、大砲やその砲弾は数も少なく、貴重品だったのです。敵の鉄条網破壊すら肉弾に頼らざるを得なかった。日露戦争でも、ロシアの旅順要塞への第一回総攻撃では砲弾不足に悩み、無謀な突撃を繰り返した挙げ句、友軍歩兵の屍が山と重なり、中止されたのです。第二回攻撃までの間、東京への砲弾要求は悲鳴にも似たものだったと書物には書かれております。
 奉天会戦の時、日本軍左翼を進んだ乃木第三軍は、奉天北方の鉄道線西側に進出するも、砲弾が無いため、鉄道で悠々と退却するロシア軍を、座して見送ったのです。大日本帝国と威張ってみても、実態は貧しい小国で、戦場で命をかけて戦う兵士に、必要な弾丸を補給するカがなかったのです。以後、第二次大戦の敗戦まで、ずっと、大砲はすくなく、打ち出す弾丸は不足していたままでした。中国戦線での最後の大作戦であった「北京・漢ロ・ベトナム連絡鉄道確保のための京漢・湘桂作戦」でも、全期を通じて、情けないほどの砲弾不足でした。衛陽城占領の時の砲弾不足と、歩兵が代用肉弾にされる哀れさは、目を覆うものでした。
 こんな軍隊は世界で唯一です。誠に無惨な人命軽視であり、人間を虫けら同然と考える軍隊です。貧しい国の愚かな職業軍人が、身の程を忘れて大陸支配に乗り出した必然の結果です。その最高司令官の名前は?
 今日、君が代を国家として法定化した真の狙いは、青年を再び戦場へ送る時、国民に歌わせる「挽歌」なのです。子や孫を戦場に送りたい人たちと、それに拍手して喜ぶ人たち。忘れてはいけないことは、戦争を命ずる人たちは決して前線に出ず、又、その人たちの子や孫は兵役を免れることがおおいのです。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(18)

旅順重砲連隊の兵舎(5)

― 百発百中の大砲と百発一中の大砲 ―
 旅順重砲連隊でも、大連防空連隊でも、耳にタコが出来るほど聞かされた話があります。「百発百中の大砲一門は、百発一中の大砲百門に匹敵する」。三つ子でも通用しないおとぎ話ですが、訓練の精度を高めるための激励の言葉でしょう。
 訓練精倒の百発百中の大砲一門を有する部隊と、訓練不足の兵士が同性能で百発一中の大砲百門を有する部隊とが戦闘したらどうなるかは明かです。同時に撃ち合えば、百発百中の大砲一門は敵の最初の一撃(百発)で無くなり、敵の百発一中の大砲は99門生き残り、後は敵の楽勝となります。その証明がノモンハン戦であり、日本軍砲兵は、圧倒的な大量のソ連軍砲弾の前に手も足も出ませんでした。一兵士でも「下手な鉄砲でも数撃ちゃ当たる」ことを知っていますが、陸軍大学を卒業して胸に「天保銭」(陸軍大学出身者の徽章、天保銭に似ていた)を飾った高級職業軍人には理解できなかっただけのことです。
自分を「日本一の名参謀」と信じた辻正信ごときは、ノモンハンからガダルカナルまで御指導になって、敗戦になるやおめおめと生きて帰りました。更に、国会議員選挙に出ると、敗け戦の指導者たる彼に、なんと大量の投票が集まって当選する始末です。「日本人の頭のなかには、豚かロバの化身がおる」当時の私の批評です。
 戦争には絶対に必要な補給(食糧、武器弾薬、船と艦船の燃料)の補の字も知らないくせに、異常に肥大した権力欲の亡者達によって、自らの体を砲弾と代えさせられた我が戦友達よ、謹んでご冥福を祈ります。
― 逃亡兵 ―
 初年兵として入隊した2、3ヶ月後の晩、隣の班の初年兵が私的制裁に耐えかねて逃亡しました。日朝点呼の時にいないことが判明、さあ大変。中隊長は激怒して「練兵中止、捜索隊編成」となりました。新兵さんは主として兵舎、便所、倉庫、周辺山林の捜索に当たります、2、3年兵は市街、バスタ―ミナルの捜索。下士官が大連駅まで探しに行ったらしい。
 日常、兵士を痛めつけるのは平気だが、逃亡兵を出すと、下士官、将校ともに昇進の妨げになります。だから、憲兵隊に捕まる前に身柄を確保して、中隊内で内密に重営倉に入れ、ヤキを入れる位で、決して公然化してはならないのです。結局、2、3日探しても判らず終いでした。上部へはどんな報告をしたのか、一兵士には判りません。その年の秋、兵舎北東の旧ロシア軍の白銀山要塞の濠の中で、白骨死体で発見されました。着衣で逃亡兵と判ったらしいのですが、極内密に収容したようです。有線通信の兵士が発見したらしいのです。
 白銀山は他の連続した山と同じく、山頂部を凹字型に10メートル近くも掘り下げてあり、その底部で死んでいたそうです。彼は最後のとき、一人で何を思いながら昇天したのでしょうか。フィリッピンでの経験上、数日間の喉の乾きに耐える過程は定めし辛かったことと思います。合掌。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(19)

旅順重砲連隊の兵舎(6)

― ロバとともに泣く新兵さん ―
 第二中隊の兵舎は、旅大公路を挟んで、歩兵の下士官候補者(下士志願した兵士)隊の兵舎と並行していました。その下士候隊には多くの騾馬(ラバ、牡ロバと雌馬の雑種でロバよりも大きく強健。歩兵砲の牽引用)とロバが飼われていました。あの物悲しい調べの消灯ラッパが鳴って、教習室(消灯後の2時間、兵士が典範令の学習をする部屋)での学習を終わって出て、寝台に入った頃、必ずひとしきりロバが哀切極まる鳴き声を響かせます。ロバはあの小さな体と細い足で、肥え太った人間や重い荷物を運びます。その我が身の不幸を天に向かって嘆くのだそうです。新兵さんに代わって訴えてくれるように感じて、枕を涙で濡らさなかった新兵はおそらく一人もいなかったろうと思います。
 中国にはそのロバと、荷馬車を引くラバが大変多い。中国派遣軍に参加した老兵に聞いてみてください、皆、あの鳴き声を思い出す筈です。
― 人を殴る ―
 私は初年兵時代の前期を中心にして、随分殴られました。「態度がでかい」というのが基本的に底辺にあって、些細なことで難癖をつけられることが多かったように感じます。その時に思ったことは、殴られるということは、肉体的な痛みもさりながら、心に深い傷が残るということです。
 それで私は「生涯人は殴るまい」と決心し、現役時代も、召集されたフィリッピン時代も、一度も兵士を殴ったことはありません。実は「一度も」というのはウソになります。
フィリッピンのミンダナオ島で敵から逃げ廻り、飢えさらばえていたときのことです。一人の補充兵が座り込んで立とうとしなくなり「班長、捨てといてくれ。ここでこのまま死にたい。歩きとう無いんじゃ。仲間の足手まといになるだけです。ほっといてくれ」というのを、「なに戯言を言うとる。立て! 歩け!」と叱咤し、杖代わりの竹で殴り続けて、遂に生還させました。
 帰郷後、播州のその兵士の両親に招かれて訪問しました。親族も集まった席上で、ご両親が両手をついて「捨てるのが当たり前の戦場で、せがれ唯義をようこそ連れ帰ってくれた。命の恩人じゃ」と涙ながらにお礼を言われました。この1件だけは「情状酌量」で殴ったうちには入れません。
 人を叩くことはしない、と決心しながら、不徳な者の常として、誓いを破ったことが、二回あります。第一は、戦後、妻が子供の育友会に出席して帰宅時間が予定よりも遅れたことに腹を立て、平手で一発叩いたことです。私も妻も忘れず50年経っても恥ずかしい思いがします。もう一つは、住宅の上棟式の宴会に招いた甥が酒を飲み過ぎて、泣き酒となり大声で泣き出したので、注意しても止まらず、思わず頬を一発叩きましたが、生涯に二回誓いを破り、今でも思い出しては恥ずかしい。


平岡久「あの戦争あの軍隊」(20)

旅順重砲連隊の兵舎(7)

― 典範令の勉強 ―
 入隊後一期の間を主として、軍人勅諭、内務書、作戦用務令、砲兵操典等の自習が、教習室で、消灯後2時間を限度として行われます。
 私は入営前に、除隊した近所の人から「軍人勅諭は全部暗唱出来るようにしとけば良いぞ」と教えられ、長文ですが覚えておりました。入隊後暫くして、タ食後通例の教育が始まり、古参上等兵から「平岡、軍人勅諭をやれ!」と指名されました。「ハイツ」と立ち上がって、大きな声(漁業をしていたせいか声はもともと大きかった)で、坊さんが大般若経を唱えるように、一潟千里に「そもそも我が国の軍隊は世々天皇の統率したまうところにぞある・・」と早ロに一気に唱え始めました。半ばまで来ると上等兵が手を挙げて「それまで」、以後私は軍人勅諭は二度とやらされなかった。後日考えてみるに、このことが班内で注目されて、衛生兵候補の一人になったのではないかと思います。
 その他の典範令等も極く早期に卒業しました。大体において、質問事項には大声で淀みなく答えたら、二度と問われることはありません。なお、知らないことを聞かれて「知りません」と答えたら、「怠慢だ」として殴られます。「忘れました」と答えたら「ばか者」、即ち愚か者で物覚えが悪い奴、ということになって、あまり殴られません。
― 信書検閲 ―
 兵士宛のハガキ、手紙は事務室で全部検閲されます。兵士の全人格を掌握するための行為で、刑務所と同じです。入隊早々には彼女からのラブレターが来ることがあります。タ食後「○○二等兵、今渡した手紙を大きな声で読み上げなさい」とやられます。更に「声が小さい!もっと大きな声でやれ」「よく聞き取れなかったから、もう一度やれ」と追い打ちがかかります。
 親から小遣いを送金してきたら、全部本人名義の郵便貯金にされます。僅かな給料も半分は強制貯金です。腹が減っても酒保(菓子、文房具等の販売所)で饅頭を買う金に不足していることを親は知っておりますから、よく送金してきますが、本人には渡されません。
 外出するようになると、市内に手紙宿をつくり、そこへ送金して貰います。私は九州出身の人に頼みました。そのご夫婦の写真がありますが、住所を書いたものを紛失してしまい、今は、時々その写真を見て懐かしんでいます。
― 地獄の沙汰も金次第 ―
 同年兵に、中隊一のノッポで私よりも10センチ以上高い岡本という兵隊がいました。なんでも和歌山の駿河屋羊羹店の御曹司ということでした。当時名高い銘菓とのことでしたが、毎週、中隊事務室へ特製の大きな羊羹が慰問品として送られて来ます。どう考えても、下士官達の彼への待遇は特別に見えました。彼は一期が済むと、甲種幹部候補生(少尉、中尉、大尉まで進級出来る)として、予備士官学校へ転出して行きました。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
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昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
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