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母系制のすすめ

母系制または「女性本位制」のすすめ

 市堀玉宗さんのブログ記事「パターナリズムの終焉?!お母さん革命」を見ているうちに、私もこのテーマで以前に原稿を書いていたことを思い出しました。ブログを始めるずっと以前、30年近く前の50代のときのことです。2回書き直して3通りの原稿ができ、出版社との打ち合わせまで進んだこともありましたが、立ち消えに終りました。
 それ以来、半ば封印された状態にあるのですが、考え方の一部は「おじいちゃんの書き置き」にも生かされています。しかし本来は「出したかった最初の本」だったことは間違いありません。出版に至らなかったのには、理由があります。あまりにも私的な内面をさらすことになるという抵抗がありました。小説にしたらいいと助言してくれた人もいました。
 最初は、ある女性への手紙の形をした「愛と恋と永遠と」という題名でした。自分の50年の人生をナマでぶつけたようなものでした。その後、自伝的な部分と論評的部分の2部構成にして「女性本位制のすすめ」とし、副題では「男たちよ、主役の座を明け渡そう」と呼びかけました。そこからさらに書き直して、妻からも発表の了解を得たものが「母系制のすすめ・人類が長く生きるために」でした。その内容は以下の通りです。
 一、はじめに                              
 二、最初の女性、母                        
 三、食事の風景       
 四、空想から現実へ      
 五、目覚めるとき        
 六、愛することは受け取ること  
 七、第二の性        
 八、妻になった人        
 九、恋人から夫婦へ      
 十、子供のいる風景       
 十一、幸福の条件       
 十二、心のさざ波        
 十三、仕事の歌、いこいの歌  
 十四、地底の歌         
 十五、愛、それによって     
 十六、主婦になってみた二週間  
 十七、働くこと生きること    
 十八、永遠が見えた       
(第二部)                                
 十九、男と女、雄と雌       
 二十、結婚、離婚、再婚       
 二十一、女性と仕事と家庭       
 二十二、婦人参政権は実現しているか  
 二十三、男の時代の終わり     
 二十四、結果としての母系制     
 二十五、母系制の原理         
 二十六、母性原理の社会        
 二十七、進歩から成熟へ        
 二十八、母性原理の世界        
 二十九、世界共通の言葉       
 三十、人の一生          
 三十一、万物は母性に帰る   
 今になってみると、女性を買いかぶっていたというか、過度の期待をしていたところがあります。女性だからといって特に超能力があるわけではないと今は思うのですが、当時は人類生存の根本原理を発見したかのような高揚感がありました。当時はまだ男としても現役だったのだと思います。問題も欠陥もある著作ですが、思い出せば愛着があります。
 ブログの場を借りて、連載の形で紹介しようかと思いますが、いかがでしょうか。書籍にはならなくても、インターネットの一隅に、文献として残しておきたいと思うのです。

母系制のすすめ(1)

 一 、 は じ め に                            
 私の気にいっている一つの考え方があります。それによると、子供は親よりも年をとっているのです。逆のように思われるかもしれませんが、本当のことです。私自身も、私の母親よりも年老いているのです。私の年齢が、もう母親の没年を越えたという意味ではありません、人間として、生きものとして、生まれた時点ですでに私は母親よりも年長者だったのです。
 奇妙な考え方と思われるでしょうが、いのちというものを長い流れとして考えればそうなります。私がいま生きているのは母親が私を産んだからで、その始まりは母親の卵子の受精だった筈です。私の体を構成している細胞はすべてそこから増えてきました。ですから私という人間をどんどん過去にさかのぼれば、母親の体の一部分だった一個の卵に行きつき、私のいのちは母親のいのちと合体してしまいます。遺伝情報については父親の精子から半分を受け取っているでしょうが、生きものとしては母親の細胞の一個から私の人生が始まったことは明らかです。                        
 そこからまたさらにさかのぼれば、私の母親はその母親つまり私の祖母から生まれたのであり、その人にはまた母がいて祖母がいて、連鎖は果てしない過去へ過去へとつながって行きます。つまり細胞の段階で考えれば、私は過去に一度も死んでいないのです。一度も死ななかったからこそ今の私が生きている、そう考えると私は大きな長い「いのち」の一部分にすぎなくなります。そして私の子供たち孫たちは私よりもさらに年齢を重ねながら、生命の始まりといわれる「原始細胞」から遠ざかる方向へ、今の私たちからは見通すことのできない未来へと生きて行くのです。                    
 こんなふうに考えると、「いのち」というものすべてが、とてもいとしいものに思えてきます。何千万年か何億年か知りませんが、とんでもなく長い時間をかけて、よくもまあ自分のところまで無事にたどりついてくれたという思いです。そしてまた、これから先どこまでつづくのか、いつかは終わるときがくるだろうけれど、なんとか少しでも長く生きのびてほしいものだという願望も感じます。


母系制のすすめ(2)

 「いのち」についてこうした認識を持つと、具体的に人のいのちの再生産にかかわる女性の役割が、とても尊いものに思えてきます。そして人間のいとなみというものは、つまるところ「いのち」の連鎖を絶やさないことが中心の課題で、あとのことはその周辺の補助的な働きにすぎないのではないかという気がしてきます。つまり、家庭のつくり方から職業生活、社会生活のあり方、国家、世界の政治にいたるまで、世の中のすべてを女性が子供を生むということを中心に据えて組み立てるのが、本来の姿ではないかということです。
 そういう目で今の世の中を見ると、あまりにも混乱し、転倒した価値観が横行していることにあきれてしまいます。もともと安全で豊かな生活のための手段だった筈の生産力をむやみに肥大させて、無理やり需要を掘り起こしながら販売競争に走り、資源を浪費して地球環境の悪化まで招いている企業活動などは、現代の愚行の最たるものです。そのかげで女性の妊娠、出産や育児といった人間の生存にとって最も本質的ないとなみが軽んじられ、生産能率を低下させる困った現象と見られているのですから救われません。    
 こういう現代の世の中をつくり上げた責任者が、女性ではなくて男性であることははっきりしています。世界中で、国家の政治も企業の経営も家庭の運営も、有史以来ほとんどすべて男性が権力を握ってきました。みんなが先を争って勢力の拡大につとめていた野蛮な時代ならば、ある程度それでよかったのかもしれません。しかし今、人類は地球規模で繁栄をきわめてしまいました。未知の大地などは、もうどこにも残ってはいません。男性主導で突っ走ってきた「異常な過渡期」が、ようやく終わろうとしているのだと私は思います。
 男性主導から男女の協力そして女性主導へ、社会の仕組みのすべてを、できるところから変えて行った方がいい、その方が男にとっても女にとっても住みよい世の中になる、というのが今の私の考えです。                           
 私がこんな考え方をするようになったのについては、特に劇的な動機があったというよりも、少年期からずっとつづいて感じてきたことが少しずつ形をとって、自分の思想らしいものに固まってきたというのが実感です。ですからしばらくの間、私の思い出話につきあっていただいて、私の辿った道すじに沿ってお話を進めた方が、私にとっても説明しやすいし、納得もいただけるのではないかと思います。



母系制のすすめ(3)

 二、最初の女性、母                      
 私に影響を与えた最初の女性は母でした。私の母は明治二七年、一八九四年に千葉県の篤農家の長女として生まれました。母は地元でもちょっと目立つ文学少女で、女学雑誌に応募した小説が入選したこともあったそうです。年ごろになって親の決めた縁談に従って一度は嫁入りしたものの、すぐいやになってそこを飛び出し、自活の道を選びました。その時代のことですから家出をした出戻り娘にまともな職があるわけもなく、女中奉公をしたり裁縫の内職をしたり、たいへんな苦労をしたようです。その途中で同じ下宿にいた新聞記者の父と知り合い、恋愛結婚をしたのですから、当時としてはたいへん急進的な行動をとった女性だったろうと思います。
 ところが、こうして夫婦になった私の父と母がどんな家庭をつくったかというと、あまりにも保守的な家父長的家庭でした。そこでは父がまさに主人で、母はもつぱら仕える人でした。父母が結婚したとき、父と母は同じ年齢で、父の方は初婚でした。当時母は、ほとんど再婚をあきらめていたのではないかと思います。
 父との再出発を決意したとき、母は「妻としてこの人に一生を捧げつくす」ことを誓ったのに違いありません。そのような手紙が残っています。そして結婚してからは、かたくななまでに「良妻賢母」の道を自分に課したように見受けられます。つまり「よい妻」になる道を、意識して自ら選んだために、それだけ強く自分を縛ってしまったように思える節があるのです。そして母の年齢が父と同じだったことも、母の立場を強くするのではなく、出過ぎた女になってはいけないとする「ひけ目」として意識されていたのではないかと思います。
 「女は男を立てなければいけない」と母は口ぐせのように言い、家の中でも外でも律義にそれを実行していました。今から考えると、その口ぐせにはかなりのあきらめがこもっていたようにも思うのですが、とにかく母は父に対するとき、言葉づかい一つをとっても「どうなさる」「何を召し上がる」というように必ず敬語で話しかけ、決して対等な議論をたたかわせたりはしませんでした。父が無理なことを言いだしても、なだめ、説得するのが精一杯で、その意味ではねばり強い面ももっていましたが、どうしてもだめなら仕方がないと、あきらめてしまうところがありました。


母系制のすすめ(4)

 父はサラリーマンをやめて小さな出版社を創業したのですが、事業を軌道に乗せるまでには、たいへんな苦労をしたようです。その過程で、母はすぐれた能力を発揮してほとんどすべての対外的な事務を引き受け、実質上の経営責任を担ったと言われています。しかも七人の子供を生み、そのうちの二人は幼いうちに亡くなったのですが、私を含めて五人の子供を育て上げたのですから、家事手伝いの人手がたやすく都合できた時代とはいえ、本当によくやったものだと思わずにはいられません。                
 そういう母に対して、父は心の一部では感謝し、実力を認めてもいたと思うのですが、基本的にはわがままの言い放題で通しました。するどい勘と発想の持ち主だった一方で、感情のおもむくままに極端な言動に走ることの多かった父は、いつでも受け止めてくれる母がそばについていることで、ようやく常識を踏み外さない社会生活ができていたように思います。
 父は母のしたことで気に入らないことがあると、よく子供たちが寝静まった夜更けにまで母を叱りつけていました。たいていは父が一方的にしつこく文句をつけ、母はひたすら言い訳をしてなだめるというパターンでした。そんな翌朝は、父は頭が痛いとか言って遅くまで寝ているのに、母はちゃんといつもの時間に起きて、子供たちに朝ご飯を食べさせてくれるのでした。そんな両親を見くらべれば、父親よりも母親の方に子供たちがなついたのは自然の流れでした。人に対するやさしさ、情緒の豊かさ、知性のたしかさ、努力の尊さなど、人間のもつよいもののほとんどすべてを、私は母から教えられたように感じています。
 今になって考えてみると、子供たちがしだいに父に対して批判的となり、母に同情的になったことを父は知っていたと思います。その意識が余計に父に警戒心を抱かせ、ついには建設的な意見さえも許し難い反抗と見なすようになってしまったのは、不幸なことでした。それは周囲の家族にとって大きな迷惑であったことはもちろんですが、誰よりも本人の父にとって最大の不幸だったと私は思います。
 父はその年代の男として、家長としての権威は守り抜かなければならないと思っていたことでしょう。一方、同い年の母に対して、恋愛時代には姉のように慕う手紙を書いている位ですから、どこかで頭が上がらない思いがあったのではないかと思います。それを素直に認めて、母にも共同経営者としての権限を与える位の度量があったら、母の能力はもっと生かされたでしょうし、父自身も楽に仕事ができた筈です。しかし、私の知らないある時点から、父は、すべての批判を自分の権威に対する挑戦と受け取って拒否してしまうような、傷つきやすい人になっていました。


母系制のすすめ(5)

 夫婦としての父母の間にどのような心の力関係があったのか、今となっては私にもわかりません。父の、そして母の、固有の性格も考えなければならないでしょう。しかし、父が父親の権威というものに固執して、それを失うことを極端に恐れていた背景に、「家長の権威は絶対である」とか「女は男の上に立つべきではない」といった、父母が育った時代の考え方が、色濃く反映していたことは明らかです。
 父母が創業した事業は、残念ながらその後あまり順調には発展しませんでした。私を含む五人の子供たちも、成長するにしたがって、結婚問題などをめぐって父の横車でいろいろに苦労をさせられ、そのことが結局は家業を発展させない原因になりました。もしも母が、大事なことを決めるときに、その実力にふさわしい決定権を行使することができていたら、事業はさらに順調に発展して子供たちもずっと幸せな育ち方をしたに違いありません。「女は男の上に立ってはいけない」とする母の自制心が、多くの人に、かけがえのない大切なものを失わせたことを、私は今、歯ぎしりするほど残念に思っています。   
 むしろ父が早死にでもしていたら、母の能力はのびのびと発揮されて、子供たちや周囲の人たちの力もうまく利用しながら、事業を発展に導いたでしょう。私が後に取材を通して知った多くの女性のリーダーたちの例から見ても、ほぼ確実にそうなったと思います。しかし母の限界は、父を立て助けるという「内助の功」に徹したところにありました。助けても期待に応えてくれない夫ならば自分がとって代わろうという発想は、母にはありませんでした。どんなに有益で合理的な提案でも、主人であり社長でもある父に拒否されたら、あきらめるしかなかったのです。心身の消耗もあったのでしょう、母は父よりも十年早くこの世を去りました。



母系制のすすめ(6)

 三、食事の風景                          
 昭和二十年の敗戦のとき私は小学校の六年生でした。それを境にいろいろな社会的な変化があって、法律上の男女平等が実現したこと、女性にも選挙権が与えられたことなどは知っていました。しかしそれで家庭の中の雰囲気が少しでも変わったかといえば、そんなことはありません。私の実感としても、新聞の見出しに見る婦人解放などという文字を、家の中で父が母の意見をよく聞くようになったりすることと結びつけて考えることなど、全然できませんでした。                             
 敗戦後間もなくて都市の生活がまだいろいろと不自由だったころは、台所をまかなう母の苦労は大変だったろうと思います。炊事のほかにも、毎日の家事の仕事量はかなりのものだった筈で、もちろん電気炊飯器も洗濯機も掃除機もないころの話です。かなり長期にわたって都市ガスも充分でなく、かまどと薪でご飯を炊いていたのを覚えています。こういったすべての家事は、当然のこととして母と姉の仕事になっていました。      
 私はきょうだいの中では、長男次男、長女次女とつづいたあとの末っ子でしたから、少しは手伝って重宝がられることもありましたが、父と兄は家事とは無縁の人たちでした。父や兄がたとえ皿一枚でも運んだり洗ったりするような場面を、今でも想像することができません。しかしそれは食事の内容や家の中の清掃などに無関心ということではなくて、むしろ逆に、注文をつけサービスを受ける側として、けっこう口うるさいのです。飯の炊き上がりが固すぎるとか、味つけが下手だとか、材料を無駄にするなとか、食事時の小言は少なくありませんでした。                           
 母は父と同じように家業にたずさわっていたし、姉は兄と同じように学校へ通っていたのですから、忙しい時間を割いての家事だったわけで、その同じ時間に父も兄もただただひまで、まだテレビのない時代でしたから、新聞を読んだりラジオを聞いたりしているのでした。母も姉も「文句があるんなら自分でやってみたら」と言い返したいことが何度もあったに違いありません。しかし、実際にはとてもそんなことを口に出せる雰囲気ではありませんでした。私が不思議に思うのは、父はともかく兄までが、家事についての母や姉の苦労をねぎらったり感謝したりする様子がなかったことです。同じきょうだいでも、こと家事については女がやるのは当たり前で、まして自分は年上だから関係ないと思っていたのでしょう。


母系制のすすめ(7)

 何かちょっとしたことで小言が出たある日、食事が終わり、不服顔の母と姉が片付けの台所へ引っ込んだあとで、父は兄に同意を求めました。               
 「台所仕事なんて、大事業じゃないよな。」                   
 「そうさ、あいつら要領が悪いんだ。」                     
 父も兄も、明らかに家事を取るに足りない仕事と見くだしていました。そして、その気になりさえすれば、家事のやり方について女たちを指導することができると思っているのでした。                                    
 それから、こんなこともありました。父の田舎から山鳥が送られて来たことがあって、山育ちの父は多少の心得があったのでしょう、自分がさばいてみると言って、羽をむしったり、首を切り落としたりし始めました。初めのうちは子供たちに得意げに説明したりしながら調子よくやっていたのですが、だんだん細かい手こずる作業になってくると、やる気をなくして行くのが見ていてもわかりました。とうとう包丁を放り出した父は、あとを母に押しつけながら、こう言ったものです。                    
 「これは男の仕事じゃないな。」                        
 子供心にも、父はずるいと思いました。どれが男の仕事でどれが女の仕事かを勝手にきめて、都合の悪い仕事を押しつける口実にするのでは、押しつけられる母があまりに気の毒です。当時の私に男女の役割について深い考えがあったわけではありませんが、父の態度は公正でないと、強く感じたことは覚えています。


母系制のすすめ(8)

 四、空想から現実へ                      
 私は中学、高校は男子だけの私立校に通ったため、その六年間は日常生活で女性との接触はほとんどないままに過ごしました。そんな中で私の女性観は、母親を原図とするかなり純情な理想化の道に踏みこんでいたようです。やさしくて、その上なんでも出来て、自分を心から愛してくれる女性が近くにいてくれたら、自分はそれこそ世界を支配するような大きな仕事でもできるような気がしたものです。そして実際に、通学の電車で乗り合わせる女学生のうちの一人の顔が、強く記憶に焼きつくようなこともありました。空想ではたとえば電車の事故があって、危機一髪の彼女を私が救うとか、いろいろな出会い方を考えたり、そのときに交わす会話を細かく組み立ててみたりするのですが、何かの具体的な行動ができる可能性は全然ありませんでした。
 当時のことを思い出して、こんな詩をつくったことがあります。

「初夢」

本当に思いがけなく                              
初恋の人を初夢に見た                             
うつ向いているので                              
顔は見えなかったけれど                            
髪の形ですぐにわかった                            

声を聞いたことはあっても                           
話しかけたことはない                             
名字は知っていても                              
名前の方は知らない                              
なつかしい人の姿が                              
ぼんやりと見えていた

目覚めて向かった                               
正月料理の食膳で                               
家族は初夢の話を始めた                            
けれども私は                                 
黙って食べ続けた                               

正月三日の朝                                 
ことしはもう去年ではない


母系制のすすめ(9)

 この年代の恋ごころというものは、水面に映った自分の影を見ているようなものです。ちらと顔を見て、きれいだなと思っただけの相手について、ほかに何の情報も持っているわけではありません。それでもその人がいると思うだけで自分の人生の全体がすばらしいものになりそうな気がするのは、架空の恋人に自分の未来のすべてを賭けてしまうことができるからです。自分が魔法の力を手に入れたらこんなことをしてみたい、あんなこともしてみたいと夢想をめぐらすのと似たようなものです。身近に女性との具体的な接触がなかっただけに、この時期の私は女性への期待感を高めていたのでしょう。       
 大学の受験は、第一志望校には失敗をして、私立校の文学部に入りました。この受験の失敗は、今の私から見れば非常によいことだったと思います。過去の経験がプラスになるかマイナスになるかは、それから後の生き方でどのようにも変わってくるものですが、同じ時間に二通りの過ごし方がない以上、過去は現在を通してのみ評価されるべきです。こういう考え方をしっかりと植えつけてくれただけでも、この失敗は私にとって価値がありました。
 私立大学の文学部は、圧倒的に女性が多い世界だということが、入ってみてはじめてわかりました。小学校卒業後の六年間、男だけの学校で過ごしていたのが、いきなり女子大にとびこんだような状態になったのですからたいへんでした。だいたい女の友達というものをもったことがないので、口のききかたがわからないのです。抵抗感なく教室に座っていられるようになるだけで、一年以上はかかりました。その上に受験失敗のコンプレックスがあったものですから、自分の殻に閉じこもりがちになったのも当然でした。その閉じこもり方は、自分はちがうんだと、偏った自信によりかかって周囲を見下すような形をとったようです。                                 
 人間、一つの考え方にこり固まっているときというのは、始末の悪いものです。周囲がすっかり変わっているのに、古いものだけが立派で価値があるように思い込んで、新しい考え方や新しい人間関係を意識的に拒否しようとするのです。自分では一段高いところでがんばっていたつもりでも、まわりから見たらずいぶん滑稽な姿だったことでしょう。もし現在の私が当時の私に出会ったら、「力をぬいて、もっと楽にしたらどうだい」と声をかけてやりたいところです。


母系制のすすめ(10)

 五、目覚めるとき                        
 人の精神史も水の流れに似ていて、深い淀みになって動くとも見えない時期もあれば、一瞬のうちに劇的な変身をとげることもあるような気がします。私も淀んでいた間に、それと知らぬうちに大きな水圧を貯め込んでいたのかもしれません。
 三年のゼミの試験のときでした。設問の中に作品の中に現れている「死」の観念を解釈せよというのがありました。素材の一つはワーズワースのルーシー詩編から「夢の中に私の心は閉ざされ」原題"A Slumber did my Spirit Seal"でした。私の訳文で紹介すると、こんな短い詩です。

夢の中に私の心は閉ざされ                           
人間のもつ不安を忘れていた                          
彼女はこの世の時の流れに                           
かかわりあろうとも見えなかった

いま彼女はつめたく静かに横たわる                       
耳も目も もう二度と開かず                          
地球の回転に乗って運ばれて行く                        
木立ちや岩や土といっしょになって

 私の解釈は、この詩のもっとも重要な部分は第一連と第二連の間にある。第一連は夢の世界であり、それがつめたい現実に出会うのが第二連であるという常識的なものでした。しかし答えが短かすぎるし時間もあまっていたので、少しは気のきいたことも書いておこうと、夢がさめてみれば生と死の間にはたいした違いはない、というようなことを書き加えて行きました。そして最後を「要するに死とは、見ること聞くことをやめてしまうことである」と結びました。
 その答案を机の上に置いて読みなおしているうちに、私は、あることに気づいて愕然としました。「見ること聞くことをやめていた間の自分は、死んでいたのと同じだった。」雷に打たれたように、私は一瞬のうちに理解しました。高校三年生の偏屈な自信にしがみついて、新しい環境に抵抗していた間の自分は少しも進歩していなかったということを。後にこのときの体験を、「趣味の変転」の中で、私は次のように表現しました。

天と地の間 過去から未来への間に
自分の上に位するものはもう何もなかった
純粋なるがゆえに自分の人生は
すでに完成したと思っていた
固く凍りついた古い自信が
詩仙の言葉の一行を偶然に解いたとき
「生きることは見ること聞くこと」
自分で書いた答案に驚いて
私は長い夢からさめた
一本の草に 一羽の鳥に心は動き
人間の呼吸を胸に感じた私は
意識して生きることを再び始めたのだ 


母系制のすすめ(11)

 目からうろこが落ちたよう、というのはこういうときのことを言うのでしょうか。それからの私は、身のまわりにあるものを、何でも素直に受け入れるようになりました。女子学生への態度も、ほとんど性別を意識しない自然なものになりました。友達の少ないさびしそうな人をみつけると、つとめてこちらから話しかけるようにさえなりました。彼女たちにとっても貴重なはずの学生時代に、男性との自然なつきあいを、少しでも多く経験させてあげたいと思うようになったのです。
 女性が多い中にいても自然にふるまえるようになったことは、私にとって生涯の財産になったと思います。少なからぬ男性が、女性との自然な接し方ができずに、ばかに丁寧になったり逆に乱暴になったりするのを見るたびに、その感を深くします。
 それにしても、安住してみれば楽しい学生時代でした。やる気にさえなれば授業そのものが面白くなることは当然ですし、講義のわからないところを聞いたり教えたり、ノートの借り貸しをしたりする学生同士のなにげないつきあいも、相手が女性だとなんとなく楽しい気分でできることに気がつきました。そんな中で、あざやかに覚えている一つの場面があります。
 私の好きな教授の講義で、気持のよい初夏の晴天、明けはなした窓の外では、木々のみどりが風にゆれていました。私はそのころようやく好意を感じはじめていた人の斜めうしろに、つまり教壇に向ける視線で自然にその人のうしろ姿が見られる位置に席をとりました。彼女は同じ科のなかでもひときわ目立つ才媛で、学力では私のよきライバルでした。しかし英語の弁論大会で入賞したり、そのほか行動と交際範囲の広いことでは私のとても及ぶところではなく、衣装や化粧も完全におとなの女性でした。
 そんな彼女に私は魅力を感じながらも、多少の抵抗感があって、それまではあえて近づかないようにしているところがありました。しかし「素直に見る、聞く」と心にきめてからは、もう彼女の近くに席を占めることに抵抗は感じませんでした。そして、好きな人のそばで好きな人の講義を聞いていることに満足していました。この気持が何かにまとまりそうだと感じたとき、すらすらとノートの端に句ができていました。         

風薫る五月に君の傍にあり                           

 なかなかいい句だなと思った次に、今までできなかった「自我を捨てる」ということがこの句ではできていることに気づきました。好きな人の傍にいるという、その嬉しさだけが句になって自分が消えている。そのとき私は、昇る太陽か燃えさかるかがり火か、熱く強烈に輝くものの中に、燃えつきる自分の姿をイメージしたのです。


母系制のすすめ(12)

 六、愛することは受け取ること            
 私と彼女は卒論に同じテーマを選びました。いっしょに教授の官舎を訪ねて質問したり参考書を探しに書店を歩いたりもするようになりました。二人の間がらはクラスの中の話題になりましたが、お互いにベタついたつきあい方にはしませんでした。彼女はあらゆる意味で私よりもおとなでした。機会があれば燃えあがろうとする私の接近を、拒むことなく、それでいていつまでも友人として冷静に距離を保つ方法を知っていました。そのままあまりにも早く、卒業のシーズンがきてしまいました。
 彼女は卒業と同時に、日本航空のスチュワーデスとなりました。当時のスチュワーデスは、今よりもずっと高級な最先端の職業という感じでした。彼女が入社してすぐ、女性週刊誌の表紙になったのを見て、彼女がすでに手のとどかないところへ行ってしまったことを私は悟ったのです。
 彼女と別れてから、それが失恋であったことがわかりました。彼女とともに将来を描きたいという私の願いは聞き入れられませんでした。しかし彼女によって私がはじめて真剣に人を愛することを知り、人間として一段と成長したことは確かでした。しかも自分の愛した人が、どこから見ても尊敬に価する人であったことは、私の心のなぐさめとなりました。「恨む理由はない、恨んではいけない」と私は何度も自分に言い聞かせました。私が彼女への恋を評価できる心境になったのは、一年近くたってからのことです。     

愛することは受け取ること                           
ほとんどそれと気づかぬうちに                         
私は充分あなたから                              
尊いものを受け取っていた                           

別れたあとに残された                             
私の心の空洞は                                
青く澄んだ感謝の念が                             
ほどなく豊かに満たして行った                         

多分あなたは最初から                             
私を愛していなかった                             
それは私を悲しませる                             
今でも消えぬ唯一の気がかり                          

多分あなたは私から                              
何も持っては行かなかった                           
そのとき私はあなたから                            
こんなにたくさん受け取ったのに 


母系制のすすめ(13)

 私が学生時代に、恋愛というものをまじめな討論のテーマとして、ある程度継続的に考える時間を持ったことは幸運だったと思います。ゼミの指導教授のR.H.ブライス先生は、俳句と禅の研究家で、みずから「私は仏教徒である」と言っていました。私ははからずも、東洋的な思想を英語を通してイギリス人の教師から学ぶという、ふしぎな経験をしたわけです。
 授業のテキストに使われたのは英詩の選集でしたが、ブライス師の講義にかかると教材の字句の解釈をこえて、そこに歌われている思想についての議論になるのでした。英語の詩も、万葉集以来の和歌の伝統と同じように、歌われている最大のテーマは恋愛に関するものです。いきおい話の中心は「禅で解釈する恋愛論」というようなものになり、「迷い」とか「悟り」とかいう言葉もよく使われました。                 
 ブライス師は、伝説的と言えるほどユニークな話題をたくさん残した人でした。たとえば授業中に戸外から鳥の声が聞こえたりすると、「自然が教えてくれるね」と日本語でつぶやいてしばらく沈黙し、学生たちも鳥の声に耳を傾ける、といったこともありました。また「人間の知恵が役に立たないということを知るためには、とぎすまされた知性が必要だ」というような逆説も、好んで使っていました。                 
 私が今でもおぼえていて、頼りにもしている考え方の一つに「愛は不条理」というのもありました。誰かを愛するときに、顔かたちがいいから、財産があるから、自分を愛してくれるからというような理由に頼っていたら、みにくくなったとき、貧乏になったとき、自分を愛してくれなくなったときに終わってしまう。真の愛は理由を問わない。新生児を抱きしめる母親は赤ん坊から何の利益も期待しているわけではあるまい。理由のない愛だけが、いつまでも変わらずにいることができる。だから、わけもなくただひたすらにその人の近くにいたいと願うのが、いちばん純粋に近い愛し方だというのでした。     
 今でもそうかもしれませんが、女子学生は概しておとなしく、先生の言うことを素直に聞いてノートするだけの人が多かったようです。先生の方は、学生と話し合うのを何よりも楽しみにしていて、質問が出ないと機嫌が悪くなるようなところがありました。私はときには思いつきで、それこそ禅問答のような質問をぶつけてみることがありましたが、先生は出された質問はどんな変なものでも、自問自答をくりかえしながら都合のよい質問に仕立て上げて話を進めて行きました。今にして思えば、先生は学生をダシに使って自分自身を語ることを楽しんでいたのだと思います。                   
 当時の学生時代をふり返ってみると、なんという優雅な恵まれた時間だったことかと思います。それは勉強というよりも、ブライス師との知的会話を楽しむ時間でした。大学の教育ことに文科系のそれは、一芸に達したよい教師の話をたくさん聞き、よい本をたくさん読み、そしてよい友達をたくさんつくることに尽きると思います。余談になりますが、私はだいぶ後になって、学歴がなくても立派な仕事をしている人は、人生のどこかで大学教育と同じ機能をもつ経験をしているものだということに気がつきました。逆に言えば、大学に行っても行かなかったのと同じ人もいるわけですが。             
 とにかく私の恋愛論は、卒業間際の体験によって空理空論ではなくなり、その後の自分の運命を左右する痛切な選択の根拠となりました。ブライス師自身は「現世を超越する」能力における男女の差を認めていて、その意味で反フェミニストでしたが、私はその点では同意できませんでした。「愛することは受け取ること」は、私が卒業の後で書いた、ブライス師への答案でもあったのです。


母系制のすすめ(14)

 七、第二の性                            
 学生時代の私に大きな影響を与えたもう一つの経験は、ボーボワールの「第二の性」を読んだことでした。たしか二年生のときに翻訳が出版されてだいぶ話題になり、私も女性というものをもっとよく知りたいと思いはじめていたところでしたから、さっそく買って読んでみました。                                
 「人は女に生まれない。女になるのだ。人間の雌が社会の中でとっている形態は、どんな生理的・心理的・経済的宿命がこれを定めているのでもけっしてない。文明の全体が 雄と去勢体との中間産物をつくりあげ、それに女性という名をつけているだけのことである。」                                   
 ではじまるこの書物は、画期的な論理的女性論と言われますが、第一印象はけして読みやすい本ではありませんでした。精神分析の用語や考え方が、やたらに出てくるのにも面食らいましたし、だいたい私にとっては現代的な論文を読むこと自体が新しい経験でした。しかし読み進むうちに、今の社会で女性的と考えられていることの大半は、社会的に「つくられた」ものであること、そしてそれは現在の社会の支配者である男性に都合のよいように、「第二の性」として女性を押し込める形でつくられていることなど、書かれていることの中心テーマが、痛いほどによくわかってきました。
 この著作は「女はこうしてつくられる」「女はどう生きるか」「自由な女」「女の歴史と運命」「文学に現われた女」の五部からなっているのですが、読んでいる間に私が最初に感じたのは、女性に対する強い同情でした。たぶん私は、自分の母親を女性の代表の一人として思い浮かべていたと思います。私はときどき読みかけの本を閉じて、もしも自分が女性の立場に身をおいたら、憤って死にいたる、つまり憤死するのではないかとさえ考えました。


母系制のすすめ(15)

 この本を読んだことによる次の大きな収穫は、女性がこわいものでも不思議なものでもなくなったことでした。女性の生理や心理を理解するための資料がふんだんに引用されていましたから、これ以後女性というものが、ごくあたりまえの親しみやすいものに感じられるようになりました。そのときの気持を「すべての女性を自分の友と感じた」と日記に書いた記憶があります。                             
 それにしても、同じ人間が男であるか女であるかによって、まるで違う人生を歩かされるというのは、どう考えても納得のいかないことでした。たしかに人は男か女かどちらかの性をもって生まれてくるので、男女どちらでもないただの「人」という人は一人も存在していません。しかし男と女で違っている点はむしろわずかで、共通点の方がずっと多いことは実感としてわかります。だからこそ「人はみな…」とか「人間というものは…」といった言い方ができるのでしょう。そして漢字にも日本語にも「男」「女」に対する中立の言葉として、ヨーロッパの言語にはない「人」という言葉があります。ボーボワールが批判しているヨーロッパの社会ほど根深い女性に対する差別は、東洋、日本には本来なかったのではないか。もしあるとしても、「もともと同じ人間」という考え方で、もっと自然に解決できるのではなかろうか、というようなことも考えました。      まだ世の中の実態を知らないだけに、ずいぶん甘い考え方をしていたものです。それに自分が男であって、にわか勉強で女性のことがわかったつもりでいても、加害者つまり力関係の強い側から被害者つまり弱い方の立場を本当に理解するのは、なかなか難しいことです。頭だけでわかったつもりのフェミニズムの入門ではありました。しかしながら「同じ人間なのになぜ…」と女性差別に対して強い抵抗を感じる姿勢は、これを境に私の中で確かなものになってきました。 


母系制のすすめ(15)-2

八、妻になった人                        
 私の妻になった人は、父方の遠縁にあたる三歳年下の女性でした。交際のきっかけをつくったのは私の父で、似合いの手ごろな嫁になるとでも思ったのでしょう。私自身も親戚づきあいを通して子供のころから知っていたので、親しみは感じていました。     
 順調に話が進んでいれば、本人も周囲も満足の申し分ない縁談になっていたことでしょう。ところが本人同士が早く接近しすぎることへの警戒心からはじまって、家業の仕事の上でも私が独断でやりすぎるという対立がからみ、わずか半年で父が先頭に立って大反対を宣言するという、わけのわからないことになりました。              
 私にとって彼女は、はじめて触れてもいい人になるかもしれないと思った人でした。その始まりは、自分で選んだというよりも、父に勧められて「うん、それもいいな」と思った人でした。そして私は、手順として相手に自分をわかってもらう努力を、まじめに始めたつもりでした。今から思うと、相手のことをわかろうとする努力も同じ熱心さでしたという記憶がありません。やはりまだ、自分本位の思考パターンから抜け出していなかったようです。それはともかく、私としては双方の合意をつくって行く上で問題がなければ、途中でやめる理由は何もありませんでした。                    
 そこへ降ってわいたような父親の裏切りです。私の主張は、とにかく本人同士の意思を優先してくれということでした。ところがそうした抵抗が、何よりも父を怒らせるのでした。そうなれば私も彼女の弁護に力を入れることになります。要するに私と父の間で、むきだしの力と力の対決が始まったのでした。                    
 力の対決となれば、父親で社長である父と、学齢を終わったばかりの私とでは、まともな勝負にはなりません。彼女をあきらめないとすれば家業を離れるしかないことが、だんだんはっきりしてきました。彼女を選ぶ理由の中から、周囲の人に喜ばれて安心で楽な生活が保障されるという条件が消え失せ、その逆になったわけです。          
 私はときどき、もしあのとき父が反対しなかったら私たち夫婦は結婚しただろうかと考えることがあります。結論としては、たぶん結婚まで進んで、同じように「いい夫婦」になっただろうと思います。しかし順調にことが運んですんなり形通りの結婚式をあげたとしても、二人の間に強い恋愛感情が育つまでになったかどうかは、疑問が残ります。昔から「堰かれるほどにつのる恋心」といいますが、障害を置かれることで恋愛感情が高まることは事実です。ブライス師の教えを応用すれば、有利な条件が消えれば消えるほど愛は純粋に近づくということでしょう。                        
 友人の住所を利用しての苦心の文通や、工夫をこらして時間をつくってのデートなどを重ねながら、二人の間に一体感が育って行きました。でもそれは、今にして思えば、対等な関係というよりも、私から彼女への流れの方が強すぎる関係だったように思います。彼女は私が書き送るものの見方や考え方に、素直に共感の返事をしてくれました。ボーボワールの「第二の性」さえも、私のすすめにしたがっていっしょうけんめいに読んで理解しようとしてくれました。
 後に妻は当時の私について、「なんでも教えてくれるお兄さんのよう」であったと言いました。それはそれで悪いことというには当たらないかもしれません。ようやく二十歳を越えたあたりの年齢で、三歳年上といえば同性同士でも対等にはものを言いにくい先輩です。それが女と男の関係で、まして相手が自分の夫になるかもしれない人で、自分がまだ知らない広い世界を知っているらしいとなったら、教えられることに抵抗を感じないのはもちろん、素直に従うことに一種の喜びを感じたとしても無理はありません。しかしながら、対等な人間関係を結ぶという点では問題がありました。もっとも私がその問題に気づくのは、ずっと後になってからのことですが。                   
 それにしても、一人の男として一人の女とのつきあいを深めて行くのは、まさに未知の世界に踏み込んで行くのと同じことです。                     

 「接 吻」                                  

二人とも それまでは                             
愛するということを                              
文字だけで知っていた                             
本当はそれは言葉ではなくて                          
行動なのだということも                            
知識としてだけ知っていた                                       

その知識が試されることになった晩                       
私の眼の前には                                
眠れる森の美女ではなくて                           
よく知っている一つの顔があった                        
愛するとはこうすることなのだと                        
知っていた通りを私たちは実行した                       

…………                                   
「あなたの体は丸っこくて柔らかいんだね」                   
「そうよ 女ですもの」                            
その言葉に深い安らぎの調子があった                      
急に思いついて私は言った                           
「今のあなたが本当に女らしいんだ                       
特権も屈従もない自然のままなんだ」                      

 性の初体験というものは、どちらかというと男にとって難しいものです。苦心さんたんの上ようやく体験ができたのは、三回目のデートのときでした。そのとき彼女は、もし結婚できなくても、この人との体験は遂げておこうと心に決めて協力する気持ちになってくれたのだそうです。時は昭和三十三年でした。日本で売春防止法が施行になった年です。昔の男は商売の女性と初体験をするのが普通だった、だけどぼくはあなたと初めての経験をしたい、というような話を熱心に彼女にしたのを覚えています。          
 初めての体験が、奪ったり捧げたりするような関係ではなく、二人の協力で新しい経験を手に入れるという形をとったことは、この上なく幸せだったと思います。これが私たち夫婦の原点になりました。                男として一人前になれたという意識は、自分でも驚くほどの勇気を私に与えてくれました。その上に嬉しかったのは、彼女の方もこの体験を「すばらしい」という言葉で前向きに受け止めてくれたことでした。これを境に、彼女を守るためだったら、世界を敵に回そうとも、もう私には何もこわいものはありませんでした。


母系制のすすめ(15)-3

九、恋人から夫婦へ                      
 線路わきのアパートの、四畳半の一室が私たち夫婦の新居になりました。たった一本の手紙で日時を打ち合わせて、双方が同時に親の家を出たのでした。最少限の身の回り品とわずかばかりの郵便貯金のほかには財産らしいものは何もなく、彼女の方も家から持ち出すことができたのは、非常持ち出し用の小さな風呂敷包み一つだけでした。
 しかし親に対しては無断の結婚であっても、それは妨害を避けるための一時の方便にすぎず、私たちには何も後ろめたい気持ちはありませんでした。結婚式には五人の友人が集まってくれて、そのうちの二人が証人として婚姻届に署名捺印してくれました。学校の同期生の中では私が最初に結婚したので、証人を含めて全員がまだ独身でした。婚姻届が区役所で受理されたときの安心感と嬉しさは忘れられません。私は二十四歳、彼女は二十一歳の三月でした。
 婚姻届を出すときに、夫婦が称する姓を選択する欄がありました。じつは私たちは親戚同士のため姓が同じだったので、「同じでよかったね」と笑いながら「夫の姓」の方を選びました。彼女の姓を変えずに済んだのは私にも嬉しいことでしたが、「夫の姓」を選んだとき、あまりにも当然のようにそうしたということを、後になって何度も思い出すことになりました。                                 
 結婚によって夫婦のどちらかが自分のもとの姓を失うというのは、失った当人にとってはたいへんな損失に違いありません。旧姓から新しい姓への切り換えにともなう具体的なわずらわしさはもちろんですが、他人から呼ばれるとき、自分から名乗るときに、結婚前の自分との断絶を絶えず意識させられることの方が、より大きな問題です。そしてもちろん、姓を変えさせられるのは、ほとんど女に決まっているのです。これは対等な結婚を妨げる大きな原因の一つなのですが、そのことはまた後で考えましょう。        
 とにかく私たちは夫婦になりました。いっしょにいることを、もう誰にも咎められない法的な根拠を手に入れました。いっしょにいられるということ自体が、完全な勝利の証明でした。
 もちろん生活が楽なわけはなく、折から就職難の中、二人ともけんめいの職探しを始めなければならなかったのですが、それは覚悟していたことでもあり、気力は充実していました。人間は本当に危機を意識すると、動物的に力をつけようとするのでしょうか、非常に食欲が旺盛になったことを覚えています。                    
 なんとかみつけた就職先は、あまり満足できるものではありませんでしたが、ぜいたくを言える状況ではなく、それなりに貴重な働き口として毎日の仕事が始まりました。昼は互いの仕事ぶりを気づかいながらも、夜になれば二人がいっしょにいられる時間が必ず戻ってきました。私の腕の中で、彼女は「天国よ」とささやくのでした。        
 いっしょにいられるというだけで、無上の幸福感に浸っていられる新婚の高揚期というものは、一般的にどれくらい長くつづくのでしょうか。私たちの場合は、かなり長くつづいた方だと思います。それでも、完全に毎日の生活を共にするようになったら、三年以上も同じ恋人の感覚をもちつづけることは不可能ではないかという気がします。恋は燃えるもの、突き進むものです。それは止まった状態ではなく、恋人をわが腕に抱きとろうとする衝動です。その目的を達した後にまで、恋は燃えつづけることはできません。遅かれ早かれ、結婚したら恋愛感情は終わらざるをえません。そしていつの間にか、恋人同士は一組の夫婦になっているのです。                          
 私は結婚する以前に、結婚した夫婦はいったいどんな会話をしながら一日を過ごすものだろうかと考えたことがありますが、いくら考えても現実感のある場面を思い描くことができませんでした。ところが実際に結婚してみると、朝は何時に出かけていつごろ帰るとか、晩飯は何を食べたいとか何がおいしいとか、衣類の片付けはどうしようとか、そういった日常のこまごまとした用事にまつわる会話が、毎日の大半の時間を埋めてくれるのでした。しかしそれは、わずらわしいとか味気ないというようなものではなく、むしろ逆に夫婦の生活をそれらしく成り立たせてくれる、人間のいとなみのやさしさのように感じられました。                                   
 たとえば日曜日の朝に、気に入りのお菓子屋さんへ一袋の甘納豆を買いに行こうというような話題が、二人をどれほど幸せな気分にしてくれたかわかりません。食事の後の片付けをする時間が楽しかったことも覚えています。妻が流しで洗う食器を、私は次々に受け取っては布巾で拭き、食器棚に並べる係をつとめたりしました。そうしながら、お互いの
職場での出来事などを話すのでした。                       
 家事と女性との関係について、私は後にもっと真剣に考える機会をもつのですが、新婚時代の素直に協力し合える時期に、好ましい分担の習慣をつくっておくことが大切なことに思えます。家事を担当する人の苦労がわかればこそ、必要なときに協力や分担をしようという発想が出てくるので、苦労がわかるためには、経験として家事の内容を知っている
ことが必要に違いないからです。                         
 当時の私たちは、たしかに仲のよい夫婦だったとは思うのですが、家事については何の認識ももってはいませんでした。目の前で妻が皿を洗っていればそれを手伝うことは自然にできたのですが、長い廊下の端にある共用の洗濯場に洗いものをもって通うのはいつも妻で、互いに手伝おうとも手伝わせようともしませんでした。しかもまだ電気洗濯機が貴重な時代で、洗濯物はコンクリートの洗い場で、すべて手で洗うのでした。      
 それはさておき、日常生活の「いとなみのやさしさ」に支えられながら夫婦の日々は過ぎて行きます。そしてやがて「いとなみのやさしさ」の最大の贈り物として、夫婦の間に子供が登場してきます。


母系制のすすめ(15)-4

十、子供のいる風景                      
 子供のいない夫婦の生活はどのようなものか、私にはよくわかりません。これは想像ですが、子供のいる夫婦にくらべて、そこでは時間がずっとゆっくり流れるのではないかという気がします。おとな同士の時間は同じように過ぎますから、川の中の二枚の木の葉のように、お互いの位置関係を見ているかぎり、全体の流れは見えにくいだろうと思うので
す。その点、子供は否応なしに親を追いたてる時計のような存在です。ある日、妻の妊娠を知らされたときから、来るものが来たという緊張感が走り、夫婦の生活は子供を中心にして回転を始めます。
 私たちの最初の子供は、死産でした。「胎内自然死亡」というのが医師の判定でした。それでも妻は、分娩の瞬間まで奇跡を祈り、かぎりなく涙を流しました。       

……あなたが                                 
私の妻を母親にした                              
そして母親の涙が                               
私を父親にした                                

あなたに名前はつけられなかったけれど                     
水色の産着にくるんだ小さなからだを抱いて                   
私はあなたの父親であることを確認したのだ                   

 そのときに感じたのは、妻にとって大切な子供だから、自分にとっても大切な子供だということでした。そうでもなければ、十カ月も前の性の行為と、目の前にいる人の形をした小さな生き物とのかかわりなどを、信じられる筈がありません。つまるところ、男にとっての「自分の子供」とは、「自分が愛している女が生んだ子供」のことであって、それ以上でも以下でもないというのが、以後ずっと私の認識になっています。       
 その後、私たちは二人の娘に恵まれました。二人目の出産のときは、入院先の産科医院がたまたまたいへんな分娩ラッシュで、待機していた和室にビニールシートを敷いて、その場で分娩が始まってしまいました。付き添っていた私は、ベテランの助産婦さんに「旦那さんはこっちへまわって、奥さんの手をにぎって」などと、たくましく指示されながら、思いがけず妻の出産の現場に立ち会うことができました。
 出産のドラマは、いのちをかけた女のたたかいです。母親は、体力と精神力のすべてをかたむけて、新しい一人の人間をこの世に送り出します。文字通り血の海の中から赤ん坊は生まれて来ます。血まみれの手足を宙にもがきながら、人間の仲間入りをした宣言を、力一杯に叫ぶのです。                              
 それにしても、九カ月もの間、体内に別な生命を宿らせ、すべての必要な栄養を与えてきた母親の役目はたいへんなものです。「血のつながり」という言葉がありますが、母親と子供の間には、たしかに血のつながりがあることを認めないわけに行きません。そして子供とつながっている母親との結びつきによって、男は父親となるのです。      
 子供を育てるのは楽しいものです。ことに一歳をすぎてから三歳ぐらいになるまでの知恵がついてくる時期は、毎日が新しい発見の連続で、一人目のときも二人目のときも、相手をしていてこれほど面白いものはないと思いました。もちろん手がかかってたいへんなことも多いし、子供は親の都合を考えて遠慮したりしてくれませんから、子供を育てるには、かなり強い体力と精神力が必要です。それから何よりも、たっぷりと時間がとられます。しかし、そうして長い時間こまごまと面倒をみるからこそ、親子らしい情愛が育つというのも、実感として間違いのないところです。
 娘が満一歳に近いころのことでしょうか、休みの日に私が一人で娘をみていたことがありました。なんとなく様子がおかしいのでおしめをあけてみたところ、果たして濡れていたので、とりかえにかかりました。娘はおしめがはずれて気持ちがよいのか、元気に部屋の中を這いまわりはじめたのですが、その途中で突然うんちをはじめてしまいました。私はあわてて「待て待て」と言いながら娘を追いかけ、夢中でうんちを素手で拾い集めていました。そのとき、きたないという感じが全くなかったのが、われながら不思議でした。妻が帰ってから、とても愉快な事件として話題にしたのを覚えています。       
 親子の間の独特な親近感は、食事と排泄という、人間のもっとも基本的な機能の世話をするところから育ってくるように感じます。私が娘に対して「血のつながり」を感じるとしたら、それは自分の腕に抱いてミルクを飲ませたときの感触、おしめをかえたとき、風呂で体を洗ったときの肌のふれあいに負うところが大きいと思います。昔から「生みの親より育ての親」ということをいいますが、生物学的に親だというだけで、無条件に親子の情愛が発生するとは信じられません。 極端な例を考えれば、人工受精で精子提供者となった男性は、本能だけで自分の子供をたずね当てるなどということができるでしょうか。その点では、女性は妊娠、出産の過程を通して、はじめから子供との深いつながりをもっていますから、子供を生んだというだけで、ある程度まで親の資格を取得してしまうのだと思います。子供に対する親の権利と
いうものを考えるとき、男性よりも女性の方が強くて当然なのかもしれません。    
 それに対して、男が父親の資格を獲得するためには、一定の条件が必要のようで、単に精子を提供しただけの「生ませっ放し」ではだめだと思います。第一に、母親との間に愛情ある人間関係が成立していること。第二に、食事と排泄の世話を含む育児の過程に、無視できない程度に参加していること。そして第三に、成人までの養育、教育について責任ある保護を与えること、などが必要な条件と言えそうです。             
 逆に言えば、こういった条件があれば男は父親になれるわけで、生物学的に本当の父親であるかどうかは、あえて問わなくてもいいのではないか、とさえ思います。発生学的にみても、卵と精子を比べたら、卵の質量の大きさに対して精子の質量などは無に等しいのです。受精によって細胞分裂を始め、受胎、妊娠へと進むエネルギーは、すべて卵の中に用意されています。遺伝子の情報量では精子も対等ですが、生き物としての実際の成長について、精子はスタートの信号を送るにすぎません。なにか子供に対する父親の立場を象徴しているような気がします。


母系制のすすめ(15)-5

十一、幸福の条件                        
 子供の可愛さが夫婦の関心の中心となり、そのことが夫婦の協力と信頼の関係を高めるというのは、家庭づくりの一つの理想的な形だと思います。子供がいることで、自分と相手がたまたまいっしょにいるというだけでなく、「自分の家」というものの存在が意識されてきます。そしてこの頃から、かつての恋人同士は互いに相手を「パパ」「ママ」と呼ぶようになるのです。                              

食卓には夕飯                                 
妻と向き合う                                 
片手には夕刊                                 
子供たちはもう二階                              

「お姉ちゃんたらね                              
大きくなったらお薬屋さんになるんですって                   
お薬ならべたり紙で包んだりして                        
買いにくる人にたくさん売ってあげるんですって」                

「そしたら横からマーコがね」                         
話しながらクツクと笑う                            
「ツノイさんになりたい だって」                       
ツノイさんとは団地の中の菓子屋の名だ                     
こらえ切れずに私も笑いころげる                        

テーブルのお茶がかすかに湯気を立てる                     
きょうは三月の二十三日                            
なに事もなかった日                              

 子供を育てるのは本当に楽しいものです。この時期に私は「子育てはなまけもののライフワークである」などという理屈を考えていました。子育てだけに埋没して人生を終わってもいいと思えるくらいの魅力を感じていたのと同時に、それだけでは人間として男としてあまりにもイージーだと、自戒の念を含めていたようです。当時、私はテレビ局で番組制作のかなり時間の不規則な仕事をし、妻はもっぱら家で家事と子育てをしていました。あまり年の違わない育ち盛りの子供が二人いれば、母親はそれだけで手いっぱいの忙しさになります。自分は外で仕事をし、妻は子育てで家にいる分業の状態を、私たちは何の疑いもなく受け入れていました。
 好きだった相手と結婚し、満足できる仕事と家があり、子供も生まれてその子供を夫婦で可愛がっているのです。しあわせな人生だと、誰もが思うような生活が自分のものとなり、よほど不幸な事故でもないかぎりそれが当分つづきそうに見えるとしたら、その上に何を望むことがあるでしょうか。                         
 夫婦のつきあいも、この頃に一つの頂点を迎えたように思います。         

先ほどのいとなみのほてりを                          
引き潮のうねりのように下腹部に残しながら                   
あなたの上体はすでに眠った                          

満ち足りた安らかな寝顔の                           
その向こうに娘たちの                             
よく似た丸い顔が並ぶ                             

あなたを妻としてやがて十年                          
あなたの寝顔の美しさに                            
私は思わず息をのむ                              

 これはちょっと逆説的に聞こえるかもしれませんが、ある程度年数のたった夫婦の間柄ほど性的でない男女の関係というものは、ほかに考えられないのではないかと思います。新婚当初はともかく、毎晩並んで寝るようになって、それが何年もつづいた後であってみれば、いっしょに寝られるというだけでいちいち感激はしなくなります。もちろん折りにふれて新鮮な感覚がよみがえったり、新しい魅力を発見したりすることはあるのですが、それは逆に、ふだんの生活が意識にのぼらない日常のものになっていることを意味しています。
 そのふだんの生活の中で、夫婦は互いの身体に親しみ、こまかい生活上の習慣まで知りつくして行きます。そのようにして築かれる親しさと安心感は、親子以上のものがあり、まさに「血のつながり」にも劣らないものがあります。それと同時に、奇妙なことではありますが、相手を異性として意識する度合いは低くなって行くような気がするのです。何を話しても安心で、たいていのことに意見が一致する仲のよい人間同士という面が強くなって、たしかに女性ではあっても、たとえば私の場合、姉に対する感覚に似てきました。一体化した夫婦は性別を超越するとでもいうのでしょうか。
 とはいうものの、夫婦は男女のペアであるからこそ夫婦でいられるというのも実感で、妻が男だったら、あるいは私が女だったらと想像するのは難しいことです。      
 「あなたが女で、ぼくが男で、本当によかったね。男と女でなかったら、こんなに長く いっしょにいて、飽きずにいるなんて、できなかったろうね。」と、夫婦の実感をこめた会話でした。


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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

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