志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

マスコミの内と外

マスコミの内と外(6)(追補)

 この記事を書いてから32年が経過している。書いた当時はまだNHK在職中の気分が少しは残っていたが、自慢話をしたかったようなところも感じられる。言いたかったことは、NHKのディレクターだって、ふつうの会社員と基本的には同じような人間だということだった。というのは、在職中の取材などで、「NHKから取材に来た」というだけで、相手の態度が急変するのを何度も見てきたからだった。
 一口で言うと、相手がNHKの人間だとわかると、物言いが慎重になるというか「公式発言」のようになってくるのだ。本音を聞き出したくて気分をほぐすのに気をつかったりしたものだ。そして自分が出演を依頼されるかもしれないとわかると、概して「こんな話をすればいいですか」と迎合的になる。それは立派な大学教授であっても、似たようなものだった。
 番組担当者としては、とてもありがたいことなのだが、NHKの番組とは、こんなものだろうという「空気」が、やはりあったのだと思う。若者番組の打ち合わせで、不満をぶちまけていいんだよと言うと、「本当にいいんですか」と、逆に驚かれることもあった。振り返って考えると、そのような「空気」は、私たち局側の人間にもあったと思う。
 たとえば「みんなのうた」を担当していたとき、「白銀は招くよ」の(雪の山は恋人……)という歌詞は(雪の山はともだち……)に、「一週間」の(恋人よこれが私の一週間の仕事です)は(ともだちよこれが私の……)に変えて録音・放送した。青少年部少年班では、当時は「恋はご法度」が常識だった。班長にも部長にも相談した記憶はない。もちろん指示もされていない。著作権者の了解を得る手続きもしなかった。NHKの放送はそういうものだと思い、どこからも問題にされることはなかった。
 典型的な自主規制だったが、今なら著作権の問題もあるし、たぶん「恋人」のままで使うだろう。しかし用語の問題以外の、政治や社会全般にかかわる問題での「空気」は、報道部門などでは、今や広く厚く立ち込めているだろうことは想像できる。報道ではデスクの「空気」を個々の記者が破ることはできない。私が提案した「ポツリポツリと寄せられるハガキ作戦」は大事でも、限界があるだろう。
 アメリカでは、マスコミが単一の資本系列に整理されつつあるということだ。予算を国会で審議されるNHKが、政府から独立しているというのは虚構だろう。非政府系の公共放送(ドイツにはあるらしいのだが)が電波の割当を受けるのは、日本では難しいと思われる。32年前に「マスコミ界にも、過去の失敗をくり返さないための教訓が、いろいろな形で生きている筈である。」と書いたのは甘かった。
 一つだけ未来に向けて希望が持てるのは、放送とインターネットとの融合かもしれない。テレビしか見られない端末が、ごく少数の趣味的なものになり、マスコミが地盤沈下するとき、インターネットが情報の主役となって正常化に役立つのではないだろうか。
(追記・「マスコミに載らない海外記事」さんから、参考意見として下のトラックバックがありました。インターネットも資本に支配されるのか?)
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-5158.html

マスコミの内と外(5)

  マスコミにどう働きかけるか

 阿川弘之の「米内光政」の中に、昭和十五年の日独伊三国同盟成立の頃のこととして、
 「もはや反対意見を正面に押し出して大勢が阻止出来る状況ではなかったという。同盟成立を伝える新聞の筆致を見ても、
 『いまぞ成れり”歴史の誓”
 めぐる酒盃、万歳の怒涛』
といった国内の空気であった。」
 という描写がある。国内の空気を、新聞の見出しで代表させているわけだが、当時、日本を敗戦に引きずり込む原因となったこの同盟に対して、疑念を抱いていた人も少しはいた筈である。しかし、疑問を投げかけるような記事を書いた記者がいたとしても、それは決して日の目を見なかったに違いない。
 ファッショのお先棒をかつぐときのマスコミの恐ろしさは、今も変らない。言論の自由、少数意見の尊重の大切さは、情報化時代と言われる今日、ますます大きくなっている。マスコミ界にも、過去の失敗をくり返さないための教訓が、いろいろな形で生きている筈である。
 一方、マスコミの受け手である個人の側からは、言論の自由のために、何ができるだろうか。まずは、与えられた情報を、鵜呑みにしないことである。NHKのニュースだから、大新聞の論説だからと、権威を感じる必要など毛頭ない。所詮は、われわれと同じ、間違いをしでかしやすい、ナマ身の人間がこしらえているものなのだ。だから、一種類にだけとらわれているのは上手な方法ではない。電器製品を買うときのように、いくつかの店をくらべてみて、いちばん納得のいく商品を手に入れたらよいのである。労働組合のように、横につながる情報網をもっていることも、役に立つだろう。
 次に、マスコミに対して、直接に自分の考えをぶつけて、少しでもマスコミを動かすように働きかける方法を考えてみよう。
 私がNHKにいた時の経験で言うと、局内にいて、視聴者からの直接の反応にふれる機会というのは、意外なほど少なかった。教育テレビの番組にでもなると、一回の放送に対して五通ぐらいのハガキか電話でも来れば、ちょっとした騒ぎになるくらいだった。番組担当者としては、恒常的に視聴者からの直接の声に飢えている状態だったのである。もちろん、局として委嘱したモニター制度などがあって、それはそれとして機能しているのだが、とにかく、投書というのは、担当者にとって、かなりコワい存在だった。それも、特定の組織や団体に関係なく、個人からポツリポツリと寄せられる投書は、かなりの影響力をもつ。それも、封書よりはハガキの方がよい。誰の目にもすぐにすぐにふれるし、回覧されるチャンスも多いからである。
 要するに、どんなに立派に見えるテレビも新聞も、それを作っている人間はわれわれと変りなく、間違ったり自信をなくしたり、上司におこられたりしながら、一生けんめいにやっているのである。決して、雲の上からおりてくるなどと思ってはいけない。
(追記・以上で記事は終っていますが、私も若かったし、事情も今よりは甘かったように感じられます。現時点での追補として、あと1回追加します。)

マスコミの内と外(4)

  編集は創作活動である

 六〇年代の安保闘争で、全学連と警官隊が派手に衝突をくり返していた頃、NHKの世論調査所だったかで、面白い実験をしたことがある。衝突場面のニュースフィルムを二通りに編集して、一方は全学連が攻撃的になっている場面を多くし、もう一方は逆に警察側の実力行使場面を多くしておいて、平均的な視聴者代表に上映して見せたのである。その結果は、当然ながら、全学連中心の映画を見た人は「全学連はけしからん」という感想を述べ、警官隊中心の映画を見せられた人は「警察のやりすぎだ」という意見を述べた。しかも、その違い方は、圧倒的な差になったということである。
 少し心得のある編集マンなら、素材となるフィルムを渡されたとき、
 「どうする? 全学連と警官隊のどっちを悪者にする? それとも五分五分にしとこうか?」
 と問い合せてから作業にかかるのは、当然のことである。
 私の担当していた「みんなのうた」でも、同僚にこんなことがあった。「ホルディリディア」の歌で、
少年たちが河原で小石を拾って川へ向かって投げる場面があったのだが、次の歌詞が「きれいな魚」だから、魚が泳いでいるところも少し入れたくなった。あいにく手持ちのフィルムに魚がなかったので、たまたま隣の編集台で作業していた学校放送部のディレクターから、理科番組用の稚魚のフィルムを五秒ほどわけてもらった。海の魚だけどいいかいと言われたが、魚ならいいよと気軽に受け取って、うまいとこつないで放送に出した。
 しばらくして、視聴者から抗議の電話がかかってきた。少年たちが魚に石を投げつけているのは、動物愛護の精神に反するというのである。多摩川の河原で石を投げたのが、どう考えても太平洋の魚に当るわけはないのだが、そう言われてフィルムを見直してみると、石を投げるシーンの次に出てくる魚だから、どうも投石の標的に見えてくる。映画技法のモンタージュ効果というやつだが、これには一本参った。画面の上で、川に石を投げた、水の中には魚がいた、というストーリーを作ってしまったのである。この場合、事実関係は違います、あれは海の魚ですと弁解しても、それは屁理屈にしかならないのである。
 ドラマに限らず、教養番組にも、ニュース番組にも、必ず演出がある。言いかえれば、ある人間の「作品」として、テレビ番組も、新聞も、世の中へ出て行く。完全な「創作」とは呼べないとしても、大なり小なり「創られたもの」として、それらは、はじめて私たちの目にふれるのである。

マスコミの内と外(3)

  編集とは捨てること

 新聞社にもテレビ局にも、毎日おびただしい量の情報が流れ込んでくる。その洪水の中から、必要な情報を選び出してニュースという商品を作り出すのが、新聞社なりテレビ局なりの仕事である。ところで、必要なものを選び出す仕事の反対側には、不要なものを捨てる仕事があるわけだが、現場で編集にたずさわる人間にとっては、どちらの仕事の方により多くの労力を費やすかといえば、問題なく、要らないものを切り捨てる作業の方である。
 編集マンの鉄則の一つに「要らないものを残しておくと、要るものまで腐ってしまう」というのがある。あれもこれもと欲ばれば、結局、平板なつまらない記事にしかならないといういましめである。この鉄則は、なにも主義主張を伴うキャンペーン記事のたぐいのことを言っているのではない。客観的に描写すべき事件の報道でも、何がどうしてどうなったのかを、あざやかに浮かび上がらせるためには、演出効果を妨げるような夾雑物は、極力排除しなければならないのである。
 しかし、だからと言って、マスコミはけしからんとか、信用できないとか、いきり立ってはいけない。われわれだって、日常の生活の中で、必要な情報だけを受け取りながら、意味のない雑音は、なるべく耳に入れないようにして生きている。すべての雑音を、いちいち明瞭に聞き分けていたら、一日で神経がまいってしまうだろう。
 だから、マスコミが情報をよりわけてくれるのは、有難いことなのである。ただ、われわれの日常生活の上で、うっかり聞き流した雑音の一つが、よく考えてみると非常に大切な情報だったりすることがあるのと同じように、マスコミの内部でも、絶えず、思い違いや早トチリ、ひとりよがりや聞き落としが渦巻いていて、それらのあらゆる人間的な欠陥とたたかいながら、そして常に時間に追われながら、ナマ身の人間がニュースを作っているのだということを、知っている方がいいのである。

マスコミの内と外(2)

  意味づけは自由自在

 全く同じ材料を使いながら、これほど違った紙面が作られるのは、新聞の作り手たちが、自分たちの姿勢に合致した情報を大きく扱い、そうでない情報は片すみに追いやるか、あるいは切り捨てるからである。前出の例で言えば、
 朝日の記者は、
 「戦争に巻き込まれる不安を抱く人が六〇%と過去最高になり、自衛隊不要論が少しふえた」というところに魅力を感じたのに違いない。
 それに対してサンケイの記者は、
 「自衛隊の必要性を認める国民は八二%と多数を占めており、防衛のあり方では『安保体制と自衛隊』とする考えが増加傾向を示した」ことの方を重要だと考えた。
 明らかに、立場は正反対である。これだけ読んだら、とうてい同じ資料から引き出された情報とは信じられないであろう。ところが、どちらも間違ってはいない。同じ資料の中に、それぞれの情報の根拠は、ちゃんと入っているのである。
 実は、私も、二回目の引用文を作るときに、編集の魔術を使っている。朝日、サンケイの原文を要約するときに、原文の言葉を一字一句も変えることはしなかったが、都合のよいところだけを抜き出して、一つの文章らしくまとめたのである。
 このように、編集された記事は、編集者の意図によって、一定の方向に意味づけをされる。したがって、読者は、編集者の考え方というフィルターを通してのみ、記事にふれることができるのである。そのことを知っていないと、現代のマスコミと上手につき合って行くことはできない。

緊急に拡散のお願い
弁護士、岩月浩二氏のブログ「朝日新聞「誤報」事件・秘密保護法の生け贄」をごらん下さい。
公式発表以外の裏づけ取材が不可能になる時代がきます。いま止めなければ。
http://urx.nu/bUek
http://moriyama-law.cocolog-nifty.com/machiben/2014/09/post-08e2.html

マスコミの内と外(1)

001

 先日紹介した私の旧記事「マスコミの内と外・上手なマスコミとの付き合い方」を、本日から5回に分けてブログに連載します。読み直してみて、今でも古くなっていない、むしろ今だからこそ読んでいただきたいと思いました。連載中に新記事が入る場合は、連載は同日のウラ(2番め)に掲載します。
 これは、全郵政(全日本郵政労働組合)の月刊誌「全郵政ジャーナル」の1982年7月号に掲載したものです。

  同じ素材でこの違い
 ことし(昭和57年)5月31日付の朝刊に、総理府が行った「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」の内容を紹介する記事が、かなり大きな扱いで出た。
 サンケイ新聞はトップの扱いで「82%の人が自衛隊必要」と大見出しをつけてある。それに対して朝日新聞は「『戦争の不安』六割」の見出しで、第一面の左側にスペースをとってある。いつもながら対照的で面白いと思ったが、ふと考えてみると、素材は総理府の世論調査だから、両紙とも、ニュースソースは全く同じに違いない。それなのに、なぜこれほど違った印象を与えるのだろうと考えた。
 新聞が読者に、ある情報を伝えようとするとき、ナマの資料を官報のように掲載したのでは新聞という「商品」にはならない。「このニュースは、これこれこういう意味ですよ」と、何らかの意味づけをすることが必要である。読者にとって意味のない情報は、何の関心も引かないし、従って「商品」にならないからである。
 その意味づけを、いちばんよく表すのが、記事のリード部分である。朝日とサンケイの姿勢のちがいが、みごとなほどに表れているので引用してみよう。まず、朝日の方は、「日本が戦争に巻き込まれる不安を抱く人が六〇%と、前回調査の四四%を大幅に上回って過去最高となり、防衛費については抑制を求める傾向が、わずかながらも出てきた。また、自衛隊の必要性を八〇%以上が認めているが、前回調査より減少し、不要論が少しふえた。防衛力の規模についても、陸、海、空ともに削減を求める声がふえ始めた。」
 とある。一方、サンケイの方は、
 「自衛隊の必要性を認める国民は、五十三年の前回調査よりやや減ったものの、いぜん八二%と多数を占めており、防衛のあり方では『安保体制と自衛隊』とする考えが増加傾向を示し、六五%に達していることがわかった。また、日本の防衛力の規模、防衛予算とも『今のままでよい』とする意見が多いなど現状肯定が目立った。このほか、国際的な緊張や対立を背景に日本が戦争に巻き込まれるという不安感を抱く人が大幅に増え、これまでの最高を記録したのが目についた。」
 という書き方である。さらに、各種の調査結果の中から、どの項目を選んで図表にしているかを見ると、朝日の方は「戦争の不安感」と「自衛隊は必要か?」の二点。サンケイは「国を守る気持」の一点だけを大きめのグラフにしている。
 一見してわかるように、同じ資料を使いながら、両紙から受ける印象は非常に違ったものになってくる。朝日だけを読んだ人は「戦争の不安を感じる人がふえているんだな」と思うだろうし、サンケイだけを読んだ人は、「自衛隊は必要という意識が定着してきているな」と思うだろう。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
→著作などの紹介と販売について
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