一口で言うと、相手がNHKの人間だとわかると、物言いが慎重になるというか「公式発言」のようになってくるのだ。本音を聞き出したくて気分をほぐすのに気をつかったりしたものだ。そして自分が出演を依頼されるかもしれないとわかると、概して「こんな話をすればいいですか」と迎合的になる。それは立派な大学教授であっても、似たようなものだった。
番組担当者としては、とてもありがたいことなのだが、NHKの番組とは、こんなものだろうという「空気」が、やはりあったのだと思う。若者番組の打ち合わせで、不満をぶちまけていいんだよと言うと、「本当にいいんですか」と、逆に驚かれることもあった。振り返って考えると、そのような「空気」は、私たち局側の人間にもあったと思う。
たとえば「みんなのうた」を担当していたとき、「白銀は招くよ」の(雪の山は恋人……)という歌詞は(雪の山はともだち……)に、「一週間」の(恋人よこれが私の一週間の仕事です)は(ともだちよこれが私の……)に変えて録音・放送した。青少年部少年班では、当時は「恋はご法度」が常識だった。班長にも部長にも相談した記憶はない。もちろん指示もされていない。著作権者の了解を得る手続きもしなかった。NHKの放送はそういうものだと思い、どこからも問題にされることはなかった。
典型的な自主規制だったが、今なら著作権の問題もあるし、たぶん「恋人」のままで使うだろう。しかし用語の問題以外の、政治や社会全般にかかわる問題での「空気」は、報道部門などでは、今や広く厚く立ち込めているだろうことは想像できる。報道ではデスクの「空気」を個々の記者が破ることはできない。私が提案した「ポツリポツリと寄せられるハガキ作戦」は大事でも、限界があるだろう。
アメリカでは、マスコミが単一の資本系列に整理されつつあるということだ。予算を国会で審議されるNHKが、政府から独立しているというのは虚構だろう。非政府系の公共放送(ドイツにはあるらしいのだが)が電波の割当を受けるのは、日本では難しいと思われる。32年前に「マスコミ界にも、過去の失敗をくり返さないための教訓が、いろいろな形で生きている筈である。」と書いたのは甘かった。
一つだけ未来に向けて希望が持てるのは、放送とインターネットとの融合かもしれない。テレビしか見られない端末が、ごく少数の趣味的なものになり、マスコミが地盤沈下するとき、インターネットが情報の主役となって正常化に役立つのではないだろうか。
(追記・「マスコミに載らない海外記事」さんから、参考意見として下のトラックバックがありました。インターネットも資本に支配されるのか?)
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-5158.html