志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

昭和からの遺言

きょうの作文「思い出すこと」

 「小説・昭和からの遺言」の編集打合せをしていたら、「目次と前書きが大事ですよ」という話になりました。ちょっと人目を引きつけるような前書きがあるといいということでした。そこで一日かけて書いてみました。今回は、縦書きしたものを横書きにして紹介します。こんなので、いいでしょうか。

 思い出すこと

大学の同期生が集まる同窓会に行くと、今でも「あの人」のことが話題になる。「あの人が出てきて天皇陛下って言われると、今でも違和感があるわね」というわけだ。あの人は、私たちにとっては「皇太子」か「殿下」か「チャブ」さんだった。私たちは文学部の英文科で、皇太子さんは政経学部だから学部は違うのだが、教養課程では同じ科目を取ることもあった。それに、英文科は学習院の女子部からきた女子も多いから、なぜか皇太子さんと親しげに会話する人もいた。学内にいる限り「あの人」は、ちょっと気になる同期生の一人という位置づけだったと思う。

 皇太子さんの身辺には常に数名の「ご学友」がいたようだが、SPなど特別な警備がついている気配はなかった。私たちは特別なご学友でもないから、あまり気にせずに、出会っても自然体でいるのがいいというのが、暗黙の合意だったような気がする。それは先生も同様で、戦後に皇室のために尽力したと言われるブライス教授も、授業の終りぎわの雑談で「これからクラウン・プリンスの家庭教師に行くが、このままノーネクタイで行く」と言っていた。詩心に飾りは不要という話のついでだった。

 そんな中で、私にも一つの思い出話ができた。昼休みに卓球場で英文科の女子と打ち合っていたところ、受け損なって後ろへそらした球を、ワンバウンドで受けてスマートに投げ返してくれた男子がいた。「どうも」と会釈して見たら、皇太子さんの顔だったので一瞬驚いた。知らぬ間に後ろで次の番を待っていたのだ。そのとき、近くにいた「ご学友」らしい一人が、ニヤリと笑顔を見せたのが記憶に残っている。

 それだけのことで自慢にするわけもないのだが、皇太子「殿下」がその瞬間、ごく自然に反応して親切を示して下さったことについて、温かいものを感じたのは事実である。私は父から「建世」と名づけられている。満洲国建国の翌年に生まれたから、国よりも大きくしたという説明だったが、やや重荷な名前ではあった。その影響かどうかは知らないが、少年期に「自分が天皇だったら」という空想をしたことはある。それ以来、天皇の名において行われた悪を憎むことはあっても、天皇に悪意を抱いたことはない。
 英文科の同窓会では、冒頭の話題が出てくると、決まって次のような流れになって終るのだ。「あれを見ていると、自分が年をとるのもしょうがないと思うのよね」と。この点については誰にも異存はない。みんな同じように年をとって、やがてこの世から退場して行く。その中には、かつて皇太子と呼ばれ、今は天皇である「あの人」もおいでになる。私たちがどんな時代に生きたのか、それをどう後へ伝えたいのか、ちょっとお立場をお借りして思うままを述べることを、許していただけると有難いのだが。

やっぱりこの本を出す「小説・昭和からの遺言」

 このところ本づくりの実務に時間をとられて、ブログ投稿は短文で済ませています。縦書きへの変換とルビつけ、全体の章分けなどは一応形になってきました。タイトルは、「小説・昭和からの遺言」を、そのまま使いたいところです。
 肝心の、何のためにこの本を書いたかをアピールするサブタイトルとしては
  護憲派「建仁天皇」の視点で描いた
  昭和史の全体像と日本の未来
ということになると思います。
 歴史小説ならともかく、近現代の天皇を小説にする難しさは承知しています。それでも、これは私の人生の総まとめに近いのです。全体を読み直してみても、その実感は変りませんでした。昭和8年に生まれて育って、いろんな経験をして、いろんなことを考えてきた人間が、最後にこんなものを書いてみたかったのです。どう受け取るかは、読んで下さる方々にお任せします。
 順調に行けば、来年2月の発行をめざします。

昭和からの遺言・今後の予定

 一通り完結させましたが、全体を縦書きに組み直して、改めて読んでみてから今後を考えます。当初の予定だと、見開き二ページごとに一話が101で、目次、脚注、あとがきなどを加えた200ページあまりの一冊になります。早ければ来年の早いうちに出版の運びにします。

小説・昭和からの遺言(101)人は宇宙と同じ大きさになれる

 学習院の大学で学んでいた時期に、R.H.ブライス師から禅の極意を教えられたことがあった。俳句と禅の研究家であるイギリス人から、英語で仏教を学ぶという不思議な経験をしたのだった。そのとき「悟る」とは自分が宇宙に翻弄されるのを自覚することではない、自分が宇宙を翻弄することだと言われた。よくはわからなかったが、人間の心は、ある瞬間に宇宙と同じ大きさになるということは理解できた。
 世の人すべての悲しみをわが悲しみとすれば、それは慈悲の心になる。仏像の静かで悲しげな表情は、それを表しているのだろう。一方、わが心で宇宙のすべてを支配できるだろうか。現実の現象としては不可能だろうが、解脱した心で見れば、すべての事象は本来の位置に収まり、心を悩ますことはなくなるのかもしれない。
 やがて自分の肉体が亡びるとき、自分の心はどこへ行くのだろうと建仁は思う。死は長い眠りに過ぎないのならばそれでもよい。眠っていた間のことを自分は知らない。自分の死後のことも知らなくてよい。でも、死後にもまた夢は見るとしたら、それはそれとして楽しいかもしれない。そんなことを考えている間に、建仁は自分がまだ生きているのか、それともすでに死後になっているのかが、わからなくなった。
 どこからか心地よいオルガンの音楽が聞こえてきて、目の前が橙色に明るくなった。気がつくと自分の視点は空中にあり、陵墓らしいものを見下ろしていた。やがて視点は上方に引かれ、周囲に点々と同心円状の黒い列が見えてきた。よく見るとそれらは人の姿で、陵墓に向けて礼拝しているのだった。どうやら自分は死んだらしかったが、そんなことはもうどうでもよかった。視点は自分の意思で自由に移動するようでもあり、同時に何者かによって強制的に導かれているようでもあった。
 風景はいつか雲の中に没したかと見えたが、やがて地球の全体像として浮かんできた。それでも止まらずに太陽系の全体となり、周囲には無数の星が輝き始めた。そこから銀河系宇宙の全景となり、大宇宙の全体になるまでに、さして時間はかからなかった。その景色を見たとき、建仁にはなぜか懐かしいものを見るような既視感があった。それと同時に音楽は、雅楽の独特な響きに変っていた。上の方から、母のような優しい声が聞こえてきた。「……いまし皇孫(すめみま)行きて治(しら)せ幸(さき)くませ。天津日嗣(あまつひつぎ)の栄えまさんこと当(まさ)に天壌(あめつち)と窮まり無かるべし。」
 そのとき建仁は突然にすべてを悟った。これは自分の知っている宇宙とよく似てはいるが、性質が正反対の「もう一つの宇宙」なのだ。こちらの宇宙には明仁という天皇がいるはずである。会いたいが、会えばその一瞬に両方の宇宙は「空」になるのだった。(完)

小説・昭和からの遺言(100)昭和からの遺言

 建仁は書き終った文書を「上書き保存」してから、しばらく考えて、単に「書き置き」としておいた文書の題名を、「昭和からの遺言」と改めた。昭和の時代を知っている自分が、先代天皇の代弁者として語った部分が多いと思ったからだった。日本国の長い歴史において、昭和ほど重要な時代は、ほかになかったと思う。一言で言えば、それは日本の国が、孤立した島国から世界の一部分へと変身した時代だった。
 その世界とは何であったのか、世界を乗せているこの地球とは何であるのか、建仁の想念は、日本国を起点として、とりとめもなく広がって行くのだった。人類はなぜこの地球に住み始めたのだろうか。そもそも人類が発生しなかったら、この宇宙は存在していると言えたのだろうか。人類だって、天文学が発達する以前には、満天の星は単に天空に貼りついていると思っていたのではなかったか。理解する能力のないところに、客観的な真実というものが、あり得るのだろうか。
 この世に、人間の能力を超越した万能の神が存在するとは信じられない。神とはおそらく、人間の想念の中に生まれるものなのだ。それが神話となって古代の有力な氏族に伝えられた。その神話の一つが天皇家となって現代の自分にまで続いている。だからといって自分が特別な人間でないことは、自分がよく知っている。それでも神話につながっている中心人物である事実には変りがない。そして人間である自分は、自分の中に神をイメージすることはできる。他の人々と同じように。
 人には幸福感というものがある。自分の能力に自信を持って活動ができ、信頼し愛する人たちとかかわりながら暮らすときに幸せを感じる。その反対のときには不幸を感じる。人は何のために生きるかという問いへの有力な答えは、人は幸せを求めて生きるということだろう。だから国の政治は、人々の幸せをなるべく多く、不幸をなるべく少なくするのがよいのだ。しかし政治は必ずしもそうはならない。担当するのが神ではなくて、常に人間がそれを行うからだ。
 それでも人には神へのあこがれがある。自分が皇太子として、天皇としてしてきたことは、おもに悲運に倒れた人々のために祈ることでしかなかったが、国民はそれで癒されてくれた。政治にかかわらない象徴となった天皇であっても、祈る者としての役割は評価されたのではないだろうか。だとすれば自分はその役割に徹すればよい。
 建仁は自分の人生が終りに近づいていることを自覚していた。だから体の動くうちに、皇后とともに一つでも多くの慰霊地を訪ねたいと願っている。しかしそれも間もなく限界を迎えるだろう。そのあとの自分はどこへ行くのだろうか。

小説の結末はどうするの

(熊さん)ご隠居の「小説・昭和からの遺言」が、いよいよ大詰めですね。
(ご隠居)ああそうだね、最短ならあと一回でも終れるけど、それはちょっと無理があるかな。
(熊)なんか他人事みたいですね。構想してた終り方ってものが、あるんじゃないんですか。
(隠)それはそうだけど、まだ終らないうちは、どうにでも出来るんだ。早く終らせたい一方で、積み残しがないかどうか、見回っておきたい気持ちもある。1200字で100回書けば、一冊分の分量にはなるけど、仕上げはもちろん大事だよ。
(熊)思い出すと第1回が4月の14日だから、半年以上、けっこう長い時間をかけてますよね。書きたかったことは、だいたい書けたと思ってるんですか。
(隠)まずは昭和の歴史というものを、半日で読める程度の長さにまとめてみたいという気持ちがあったので、その部分はほぼ書けたような気がしてる。言わば志村版日本近代史だな。その上で、日本のこれからの指針になるものを提案したかった。それもどうやら、あちこちで盛り込んできたつもりだよ。それと、自分でもやや意外と思うほどに、天皇・皇室というものが、面白いというか、世界の貴重品のように思えてきたのは事実だな。
(熊)最後に天皇直筆の「書き置き」まで登場させましたね。
(隠)あれは、一度はやってみたかったんだよ。それでトラブルにならないように、この宇宙でなくて、別な宇宙の別の地球の話にしておいた。そうしておけば、ずっと自由な言動ができるからね。でも私には純創作は向いてないようだ。現実を少し変えて理想に近づけるあたりが、書きやすい気がするな。
(熊)ところで、題名が「昭和からの遺言」でしょ。平成からの遺言じゃないんだ。
(隠)ああ、そのことはまだちゃんと書いてないね。平成はまだ現役だから、遺言にはなじまないんだよ。それに、未来のために大事なのは、激動の昭和からの教訓を忘れないことだと思うんだな。それが昭和の時代を見てきた者の務めだよ。だからやはり「昭和からの遺言」でなくちゃいけない。題名と内容との整合性は、どこかでつけておくよ。
(熊)どっちにしても、一仕事が間もなく終りますね。
(隠)そうだね。終ったあとはどうするかな。まだ何も決めてないけど、まあいいや。とにかく、みんなに「ほほう」と思って貰えるような、格好いい終り方にできるといいね。

小説・昭和からの遺言(99)次の世に伝えたいこと(その六)

 この書き置きの最後に、皇室の立場から、国民みなさんにお願いしておきたいことを若干書いておきます。みなさんは、天皇を含め皇族は日本国の国民ではないということを、どこまで認識しておられるでしょうか。皇族には、憲法で認められている基本的人権は適用されません。そもそも天皇制を認めるということは、人間の平等とは矛盾するのです。ですから皇族には選挙権も被選挙権もありません。戸籍も住民票もなく、身分は皇統譜に記載され、皇太子には職業選択の自由がありません。
 皇室を維持するために、国は例年少なからぬ予算を使っています。皇室費がほぼ六十億円、ほかに宮内庁の予算が百億円ほど加わります。わが国はそれだけの経費をかけて天皇制を保持しているわけです。そして税金からの給与で生計を立てているという意味では、天皇および皇族は、生まれながらの特殊な公務員と見なすこともできそうです。経費に見合うだけの価値があるかという視点もあるかもしれません。
 しかし天皇制は「国民の総意」に基づいて承認されたことになっています。戦後の混乱期において、天皇がそのまま天皇でありつづけたことは、おそらく国民には恨みと反感よりも、より多くの安心感をもって迎えられたのでしょう。それは日本の国には世界最古の伝統を持つ天皇がいるという事実が、国民の間に肯定的に受け入れられていたことを示しています。伝統ある商店などが古くから伝わる「のれん」にこだわり、そこに信用と安心感の基礎を求める気持ちと、通じるところがあるのではないでしょうか。
 だとすれば、日本の天皇制は、その全体を世界に稀な文化遺産と位置づけることができます。これを廃止することは簡単ですが、一度消えたものを、復活するのも新しく作るのも、絶対に不可能でしょう。出来ることならば国民みなさんに愛される存在として、将来に残って欲しいと私は望んでいます。かつて皇太子であることに当惑した私ですが、今はそのように感じていることを、感謝とともに述べておきます。
 さらに要望を述べれば、「皇室のことは皇室が決める」余地を、もう少し広くとって欲しいと思います。皇位継承、婚姻など皇室にとっての重要事項を決める皇室会議は、現在は定員十名のうち皇族は二名のみで、内閣総理大臣が議長となる国の機関です。これを天皇が議長となる文字通りの皇室内部の会議とすることはできないでしょうか。
 もちろん法令に従い、内閣の承認は必要としても、皇室のことを皇室が発議するのは、日本国憲法の精神にも合致しています。皇位継承者の選定については、本人の資質と意欲も参考にすべきでしょう。女性の天皇や女性宮家を認めるかどうかも、これからの課題になります。皇室は、これから先も長く、国民とともにありたいと思うのです。

小説・昭和からの遺言(98)次の世に伝えたいこと(その五)

 人類の悠久の歴史を思うとき、世界の各地に目覚めた文明が、しだいにその規模を拡大し、それに伴って人口も増やしてきたことは疑いのない事実だと思います。他の文明と接触することで紛争を起こすこともありましたが、それは新しい刺激を受けて文明を高度化し、より大きな統一に向かう好機でもありました。そして、その最後の段階に達したのが二十世紀でした。そこでは史上最大の戦争も行われたのですが、その反省から、地球規模での人類の共存と平和をはかるようになったのも、この世紀でした。
 先の大戦の惨害を忘れることなく、人類恒久の平和を願うことは、この歴史的な使命に従うことであると、私は深く信じています。願わくは、この使命を国民のみなさんと共有したいと心から思っています。しかしここで強調しておきたいのは、それを決めるのは国民みなさんであるということです。天皇は政治的権能を有しないと憲法は定めています。天皇の国事行為は、すべて内閣の助言と承認により行われるのです。閣議が決定し、国会を通過した法律は天皇の名によって公布されますが、そこに拒否権はありません。その意味では、天皇の役割は所定の形式に過ぎないのです。
 さらにまた、天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づくとも定められています。つまり国民みなさんこそが、すべてを決める力を持っているのです。私がいま願いとしている世界の恒久平和が、非現実的で考慮に値しない理想論に過ぎず、むしろ国のために有害だと国民みなさんが考えるとしたら、いまの天皇である私は国民統合の象徴として、ふさわしくないことになります。国民みなさんは、そのような天皇を排除することも、天皇制そのものを廃止することもできるのです。
 いまこの国は、「国のかたち」そのものを再定義する岐路に立っていると言えるでしょう。戦争と軍備というものを、個々の国家にとって将来に向けても必要不可欠のものと位置づけるか、それとも世界全体の安全保障体制の整備に向かって進むのかという、二つの進路です。国連憲章と日本国憲法が、後者を志向していることは明らかですから、ここで再び細部を説明する必要はないと思います。要は、この世界から戦争を根絶することは、永久に不可能と考えるか、そうでないか、ということです。
 私がどちらの立場であるかは、もう繰り返しません。私は国民みなさんと、強い信頼のきずなで結ばれていると信じています。個人が志を立てて人生の目標を立てるのと同じように、民族と国家にも理想が欲しいと私は思います。日々の平穏な暮らしで幸せを築きながらも、この世界にあって力によらず信義によって希望をもたらし、未来への道を一歩先に行く国の国民であって欲しいのです。

小説・昭和からの遺言(97)次の世に伝えたいこと(その四)

 わが日本の国は、アジア大陸東端に位置する島国です。ここに建国以来二千年にわたって同じ民族が単一の国として存続してきました。これは世界史の中でも他に例を見ない稀有のことです。そして天皇の家系が国の統合の象徴として現代まで一貫して継承されてきたのも、また世界に類がありません。天皇家には、国民みなさんのような姓がないのをご存知でしょうか。これは氏族の盛衰が始まる以前からの古い家系であることを示していると言われます。
 日本列島は地理的には温帯に属し、四季の変化に恵まれています。そのために稲の栽培を中心とした農耕民族として独自の文化を築いてきました。温和な気候の中での農耕生活は、互いに力を合わせ、調和を重んじて争いを好まない国民性を育てたとも言われます。それは災害に直面しても混乱に乗じて略奪に走ったりすることなく、秩序を乱さずに助け合う美質として表れるものですが、一面では権力に対して従順で付和雷同の気質となり、個性的な人物が育ちにくいとも言われてきました。
 先の大戦は、明治以来の政府の拡張主義が、国民の従順性によって拡大した不幸な結果だったのではないかと私は考えます。そして戦後の民主主義による改革は、日本を平和を愛好する国民の国として生まれ変わらせたと、私は信じています。この国が主権在民の国である限り、戦争を好む拡張主義に陥ることは決してないと私は思うのです。このように考えたとき、私はわが国の未来について、大きな希望を抱くことができました。
 人は個人として尊重され、この世にあって幸せを求める権利があるとする天賦人権説を私は支持します。それとともに、一つの国と民族にも同様の権利があると思います。わが国は島国であったことも幸いして、有史以来、一度も他国による侵略を経験しませんでした。この幸せな経験は、多国間の交渉においても生かされるべきだったのです。先の敗戦を経験したことで、わが国はようやく目覚め、互いに侵し侵されることのない平和国家に立ち返ったのではないでしょうか。
 その意味で、現在の日本国憲法を得たことは非常な幸運でありました。憲法前文に述べられている人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚し、平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して、わが国の安全と生存を保持しようと決意することは、世界の恒久平和を実現する先導者としての役割を果たすことに他ならないからです。わが国は、まさに天の時と地の利を得て、この歴史的な使命を得たのだと思いました。
 このように考えたときに初めて、私は運命として受け入れていた重荷から解放され、日本国の天皇であることを心から誇りに思うことができるようになりました。

小説・昭和からの遺言(96)次の世に伝えたいこと(その三)

 非武装平和をつらぬいて世界に伍していくという理想は、しかしながら容易には実行できないものでした。戦後にわが国はアメリカ軍を主力とする連合軍の軍政下に置かれたのですが、その期間を終了するとき、引き続いて安全保障のためにアメリカ軍の駐留を承認し、なおかつ自国防衛のための自衛隊を創設するに至りました。わが国をめぐる国際情勢が、力の空白を許さない厳しいものであったためでした。ただし自衛隊は憲法を順守する立場から、軍隊ではない自衛のための実力組織とされたのです。
 しかし最大の国際緊張要素であった米ソの対立が解消した後までも、アメリカ軍の駐留は継続し、とくに沖縄は米国の世界戦略上の基地として整備されるに至りました。その間にわが国の自衛隊も整備が進み、世界でも有数の装備と実力を備えていると評価されるまでになりました。この状況になってもなお、アメリカ軍がわが国の本土にも駐留を継続して、指揮系統の上でも自衛隊と一体化し、指導的同盟軍として自衛隊の上位にあるかのように運用されていると聞き及んでいます。
 アメリカ軍による日本占領が、懲罰的ではない穏当なものであり、日本の戦後復興はもちろん、わが国の政治的改革にも大きな力となったことは感謝すべきであると思います。しかしながら、この現状でわが国は、アメリカから自立した外交政策で国際社会に貢献することが可能でしょうか。アメリカが主導する世界戦略の枠内でしか活動できないというのでは、事実上の占領が戦後七十年を経ても継続していると言うほかはありません。この点については、私は遺憾の意を表せざるをえないのです。
 思うにわが国が道を誤ったのは、力があれば道は開けるとする十九世紀的な拡張主義に陥ったからでした。しかし二十世紀後半からは、世界は平準化が進み、戦争を必要としない調和と共存の時代に入ったと私は認識しています。この時に当ってアメリカの世界戦略は、経済のグローバル化を先導する一面とともに、資本と軍事か癒着した拡張主義との二面性を備えているように見えます。この拡張主義の側面は、世界の未来にとって好ましくないと私は考えています。
 この拡張主義の根底には、核エルネルギーが横たわっています。核兵器を使用可能なものとして開発、備蓄しているのは人類最大の不安要因であり、原子炉を積んだ艦船の配備も、原子力発電所の存在も同様です。拡張主義の行きつく先は、人間が住めない地球という悪夢を招くのではないかと思うのです。かつて拡張主義で世界に迷惑をかけたわが国としては、この現状に警鐘を鳴らし、人類を平和共存に導くのが使命ではないか。福島の被災地を訪ねたときに、私はこのように感じました。

小説・昭和からの遺言(95)次の世に伝えたいこと(その二)

 国の総力をあげたあの戦争において、じつに多くの国民が生命を失い、また深い傷を負い、親族とともに暮らす幸せを奪われ、営々として築いた家も職場も破壊されました。その悲惨に思いをいたすとき、昭和天皇が終戦の勅語で述べられた「五体ために裂く」との心情を、私も深くわがこととして共にしてきました。
 その心情を、皇后も私と分かち合ってくれました。沖縄終戦の日、広島原爆の日、長崎原爆の日、そして八月十五日の終戦の日は、いずれも決して忘れてはならない大切な日となりました。心を込めて犠牲者の霊を慰めるために祈ります。いま生きている者は、祈ることしかできません。それが私の命あるかぎりの務めと思っています。
 もちろん犠牲者を出したのは特定の日だけではありません。さらに言えば、先の戦争では、わが国の軍隊の行動によって、日本国民よりもはるかに多くの近隣諸国の人々を犠牲にしたことを忘れることができません。また、わが国が武力を背景として併合した、台湾および朝鮮の人々に与えた苦難についても、政治経済的な解決とは別な次元で、祈る心が必要であると感じています。これらの国境を超えた鎮魂と平和祈念のための記念日や公の施設がないことを、私は残念に思います。
 祈る日や祈る施設が、何のためにあるのかと言えば、それは過去の過ちを繰り返さないためです。武力の行使と武力による威嚇で国を発展させることの限界は、先の大戦で証明されました。とくに兵器の発達した現代における戦争は、関係国相互に徹底的な破壊と殺戮をもたらす以外に、何の利益も期待できないものに変質しています。先の大戦は人類の最後の戦争にしなければならない。それ以外に人類の未来はないということを、世界の指導者は心の底では知っていると、私は確信しています。
 先の戦争が終結するとき、国際社会は再び戦争を繰り返すことがないように、人類の名において国連を結成しました。その憲章においては、国際紛争を解決する手段としての戦争を否定しています。そして平和の維持は国連加盟国の連帯によって行うこととし、その態勢が整うまでの暫定的な措置としてのみ、各国の自衛権を認めることとしました。この時期に制定された日本国憲法では、国の独立と安全は国際社会の信義によって守られることを期待し、戦争を放棄して軍備を持たないことに定めたのです。
 これは国連が理想とするところを、率先して国の基本法で定めた、じつに先進的な試みでありました。わが国の政府も昭和天皇も、心から賛同してこの憲法を制定し公布したのです。この基本法によってわが国は戦争による深刻な打撃から短期間のうちに立ち直り、世界の奇跡とまで言われた復興と発展をとげることができました。

小説・昭和からの遺言(94)次の世に伝えたいこと(その一)

 昭和という時代を見送り、平成の時代を国民の皆さんとともに過ごしてきた者として、ここに私が次の世に伝えておきたいことを書き記しておきます。
 私は皇太子としてこの日本に生まれました。皇太子として育てられ、父、昭和天皇の亡きあとは天皇に即位するように、私の人生は定められていました。日本の皇室は、非常に歴史の長い家柄です。神話伝説の時代にまでさかのぼれば、この天地を創造した天照大神の直系の子孫だとされています。もちろん私は神ではなくて人間だということは、自分でよく承知しています。ただ、家柄としてそれほど古くから存在し、記録が残されているのは事実です。その家系に生まれたということは、私の運命であって、逃れることのできない重い事実でした。
 この日本の国と天皇との関係ということを考えると、最初は実際に武力にすぐれた家系であったのかもしれません。しかし世代を重ねるにつれて、天皇の権威は古来の伝説をよく伝承してきた事実が中心となり、実際の政治を担うのは、皇室の周辺にある氏族などの有力者に委ねられるようになってきたと思われます。時には天皇が自ら国政を掌握しようとした建武の中興などの事蹟はありますが、それらはむしろ例外で、より多くの場合は時の権力者に政治を委任する形をとり、天皇はその上の権威として存在していたようです。だからこそ現代にまで存続しえたのではないでしょうか。
 それでは天皇の地位は何であったかというと、日本国民と敬愛の念で結ばれた象徴としての存在であった。これは昭和天皇が、戦後の人間宣言で述べられたことと通じるのですが、神として君臨するような絶対的な権威ではなく、人間的な親愛の心で結ばれた関係であったということです。ですからこれは、日本国憲法で定められた「国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」ということと、矛盾なく調和するのです。
 さらにまた、現在の憲法に定められた天皇の位置づけは、「万世一系の天皇これを統治す」と規定した明治憲法よりも、日本の長い伝統から見れば、はるかに寄り添った無理のない考え方のように私には思われます。つまり天皇は自ら命令を発して国民を動かすような存在ではなかった。その時々の政権に国政を任せながらも、少し離れたところから常に国民の全体を見守っていた、そのような立場だからこそ、政争に巻き込まれることなく現代にまで続いたのではないか、私はそのように思うのです。
 その意味では、明治以後の三代は特殊な時代でした。近代化を急いだ新政府が、天皇を統治者として推戴し、自らの権威を高めるために利用したのです。その結果として先の大戦では国民に多大な苦難を与えてしまいました。これは私の深い悲しみです。

小説・昭和からの遺言(93)昭和の時代とは何だったのか(その六)

 当時は小学生だった自分にはどうすることもできなかったのだが、あの戦争を裁可した昭和天皇の子として、自分には道義的な責任があるのではないか。そんなことを感じた最初は、やはり東京の焼け跡を目にしたときだったと建仁は思う。そして戦後の日本の歩みとしては、経済発展はよしとしても、アメリカ軍がそのままずっと駐留を続けていることに、違和感を拭うことができなかった。
 軍隊を持たないと憲法で定めておきながら、自衛隊を備えるようになった事情は、日本の立場と周囲の状況から、止むをえない面があったかもしれない。しかしその自衛隊が、世界有数の実力があると言われるほど整備されても、アメリカ軍が依然として日本国内に駐留しているのは何のためなのか。これではアメリカに対して対等な外交ができるわけがないではないか。これで日本は独立国と言えるのか。
 昭和天皇はこの問題については、何の問題意識も持っていないようだった。むしろアメリカの庇護の下にあることを安心の要素と思っているらしいのが不思議に思えた。米ソが対立した時代に、日本が共産圏に組み込まれるのを恐れたというのは理解できる。しかし冷戦の構造が崩れたあとになっても、アメリカとの関係をそのままにしていることに疑問を感じなかったのだろうか。核の傘という視点もあるようだが、核兵器を使用可能な武器と考えているとしたら、それは国連と日本国憲法の精神から外れている。
 日本の国は、理想を持たなくていいのだろうか。日々の暮らしが平安で物質的に豊かでありさえすればいいのだろうか。個人の人生でも、目標と信念があって努力するときに生きる充実感があり、人の役に立つ仕事ができる。国家が経済発展に力を注いで豊かになっても、それだけに終っていたら活力を失い退廃が始まるのではないか。戦後の日本に弱点があるとしたら、それは自立自尊の精神を失い、国として世界に誇れる理想を見失っていることではないだろうか。
 戦後の日本が世界に誇れることがあるとしたら、それは軍事力に頼らずに平和な方法のみで、世界経済に影響を与えられる経済力を身につけたことだろう。これは疑いもなく、世界にとって好ましい成功モデルになる。発展途上地域に進出する場合でも、日本が平和主義の国であることは、現地で好意的に受け入れられる原動力になるというではないか。この実績は、安易に捨ててはならない大事なものだと思う。
 あの戦争が終ってから七十年が経過した。昭和の時代を総括するに当って、美しい日本を取り戻すとは、どういうことなのか。それは世界の平和の先導者として踏み出すことであって、明治から昭和初期の権力支配への郷愁とは、正反対の方向にある。

小説・昭和からの遺言(92)昭和の時代とは何だったのか(その五)

 時代の「空気」に流されたのは昭和天皇も同様だった。天皇の統帥権をふりかざして政府の外交を無視する軍部に対して、時には怒り叱責はしても、既成事実が日本にとって有利であれば、それは追認するという過程を重ねた。満洲国の建国などは、明治天皇の業績を補完する新秩序の一歩と思われたのだった。
 その後の日本の国際社会での孤立化と、中国の抵抗を絶つための「支那事変」への深入りは、すべて「満州事変」から始まり、日本の譲歩がないままに太平洋戦争にまで拡大した。このときは窮地を脱する逆転の思想として、アジアに新秩序をもたらすための解放戦争という視点が加わった。困難はわかっているが、天佑神助を信じて「やってみなければわからない」と思ったのが正直なところだろう。
 だが実際にやってみたら、日本の国力では到底無理だった。簡単に言えばそういう結論になる。ではこの暴挙を冒した責任者は誰なのか。そこには「その時代の空気がそうだった」という他には何もない。天皇を処断すると国のまとまりがつかなくなるので、最低限必要な「戦犯」を処刑して犯人探しは終りにした。その代わりに日本に求められたのは、平和を愛好し個人の尊厳が尊重される国になるように、政治原則を変えることだった。
 新憲法の受け入れは、非武装で復興と経済成長に専念するという新しい目標を日本に与えてくれた。その路線は、刷新された新鋭の工業設備で高度成長を成し遂げ、世界の戦後復興と経済の活性化に貢献する目ざましい成果として結実した。気がつけば日本は世界で第二位の経済大国と呼ばれるようになっており、武力では失敗した世界の一等国入りを、経済力で果たしたのだった。
 その代わりに国の安全保障は、国連とアメリカ軍にすべて依存することになった。そのために昭和天皇は、沖縄をアメリカに提供することさえ惜しまなかった。共産主義とソ連への警戒感は、それほどまでに強かったのである。そして主権在民の民主主義を建前としては受け入れたものの、政府に対して、あるいはアメリカの高官に対して、影響を与えるような発言をする習慣は、生涯を通して変らなかった。
 昭和天皇は決して軍国主義の同調者ではなかったと建仁は思う。しかし「空気」に流されて一時的にせよ武力による世界新秩序を夢見たことはあったろう。その夢が破れて国力の限界が露呈されたとき、なぜもっと早く終戦を講じて内外国民の犠牲を少なく止めなかったのか。何度考えても疑問はそこへ帰ってくる。結局は天皇は君臨すれども統治せずの立憲君主制に逃げ込んだのではないか。それならば今の象徴天皇制と選ぶところがない。使うことのできた権力を使わなかったのは、罪ではなくても過ちにはなる。

小説・昭和からの遺言(91)昭和の時代とは何だったのか(その四)

 そもそも明治維新は、薩長ら雄藩が、まだ少年の明治天皇を擁して政権を奪取したクーデターだった。徳川慶喜が構想した大政奉還は、天皇の権威のもとに徳川以下の諸藩が近代化した合議制によって国政の実務を担当するという、日本国の伝統に基づいた「象徴としての天皇制」を再定義する試みだった。しかし幕府への懲罰感情の強かった薩長らは、武力を背景として宮廷内の実権を掌握し、錦の御旗を押し立てて、天皇親政に名を借りた「王政復古の大号令」で幕府を「朝敵」に追いやったのだった。
 軍事政権の性格を帯びた明治新政府のもとで、明治天皇は「大帝」の名で呼ばれるほどの偉業を成しとげたとされる。明治の元勲たちは官制の近代化を手がかりとして、殖産振興や富国強兵に全力で取り組んだ。江戸時代に蓄積されていた教育普及の高さ、職人の技術力、貨幣経済の整備などが、ことごとく国の近代化に役立った。結果として東の端にいた日本が、アジアで最初の近代国家に変身できたのである。
 憲法によって、日本は天皇が統治する「帝国」であると定められた。しかし天皇は絶対君主ではなく、議会と国務大臣による助言と輔弼(ほひつ)によって権力を行使することになっていた。明治天皇は、臣下と熟議した上で決断を下し、国運をかけた日清、日露の大戦争にも勝ち抜いたと信じられている。天皇を頂点として前線の一兵卒までが一丸となって戦えば勝てるという「皇軍の不敗神話」が、こうして形成された。
 日本にとっては「遠い戦争」だった大正時代の第一次世界大戦を経て、昭和の時代になったとき、日本の前には依然として近代化の進まない中国大陸と、その一部で日露戦争により特殊な権益を得たつもりの満洲の地があった。明治の戦争から一世代が経過して、日本の軍部は国政に大きな発言力を持つ軍閥に肥大化していた。「国難」があれば軍が起って国の進路を開くという自負がある。
 日本の軍国主義には、ドイツのヒトラーのようなカリスマ指導者はいなかった。しかし一定の方向に「空気」が流れだすと止まらない習性が当時の日本人にはあった。その深層に今は立ち入らないが、明治以来の膨張政策は、ここにも連続していたと見るしかない。軍は大陸へ進出する夢にこだわり、政府はそれを抑止するのに失敗した。
 国家にも個人のように一定の「集団としての意思」があるのだろうか。アジアの島国が近代化に成功して世界の強国の一つと数えられるまでになった。分に応じて近隣諸国の近代化に協力しながら、平和のうちに共存共栄をはかる道は選べなかったのだろうか。主観的にはそうしたかったのかもしれないが、相手の事情に合わせなければ共存はできない。それよりも、一度はできる限り大きくなって限界を試してみたかったのではないか。

小説・昭和からの遺言(90)昭和の時代とは何だったのか(その三)

 敗戦にともなう混乱は、疎開先の皇太子にも迫っていた。降伏をいさぎよしとしない宇都宮連隊の幹部が、皇太子を擁して徹底抗戦する意図で皇太子の引き渡しを要求してきたが、侍従武官と護衛隊指揮官の説得でようやくあきらめるといったこともあった。憲兵隊からは、アメリカ軍が皇太子をアメリカへ連れ去る可能性があるとの情報も寄せられた。それらのざわついた雰囲気の中でも、皇太子はけんめいに平静を保とうとしていた。
 しかし終戦の事態処理は、大筋では順調に進んでいた。日米両軍とも戦闘の停止はよく守られ、降伏文書の調印も日本軍の武装解除も順調に進み、アメリカ占領軍の進駐も混乱なく始まった。それらの統制のとれた動きの原動力が、天皇が発した「勅語」の権威であることは明らかだった。東京にマッカーサーが総司令官として着任し、天皇との会見も行われてやや落ち着いた秋になって、皇太子は東京に帰ってきた。
 このときに車の窓から見た東京の戦災風景は、強い衝撃だった。戦争に負けるとは、このように破壊されることだったのか。首都を守ることのできなかった日本という国の弱さを、改めて認識させられた瞬間だった。この国はどうなるのか、外国の軍隊に占領されるとは、どういうことなのか。その中で天皇は、そして皇太子である自分はどうなるのか、まだ何もわからなかった。
 しかし皇居に入ってからの暮らしは、意外なほどに穏やかで、昔のままに近いものだった。侍従たちは口々に戦時中の不便や苦労をねぎらってくれるのだが、自分にはそんな実感はなかった。むしろこれからが大変になると覚悟して帰ってきたのに、これからは安心してお暮らしになれますなどと言われるのが、違和感があった。
 このときの違和感を大事にしたいと、建仁は本能的に感じていた。この大きな戦争が失敗に終ったあとも皇室が無事に暮らせるというのは、どこか間違っているのではないかと思ったのだ。天皇がマッカーサーと信頼関係を結んで日本の復興に努力したこと自体は良かったと思う。敗戦国の元首が、国民から恨まれも排斥もされないで、立ち直る希望の象徴のように敬愛されているというのも、世界に例のないすばらしいことだとは思う。だがそれに甘えていていいのだろうか。
 明治維新をなしとげて近代化を成功させた日本は、それから何度も戦争を繰り返して大きくなってきた。日清戦争では朝鮮から清国軍を駆逐して、台湾の領有権と多額の賠償金を得た。日露戦争では朝鮮、満洲からロシアの勢力を退け、南樺太を獲得して、韓国併合への道筋をつけた。こうしてアジアの最強国となった上で、さらに世界の新秩序を唱えて膨張政策を続けたのが昭和の時代の前半だった。だがそれは必然だったのか。

小説・昭和からの遺言(89)昭和の時代とは何だったのか(その二)

 疎開先の教室でも、世の中の重大な動きは授業の前後に先生から伝えられていた。ドイツが力尽きて降伏したことも、沖縄が総力をあげた特攻作戦にもかかわらず全島をアメリカ軍に占領されたことも、連合国側が日本に降伏を促すポツダム宣言を発表し、それを日本側が「黙殺」していることも、そして広島に「新型爆弾」が投下されて相当な被害があったことも、ソ連が突然に中立条約を破って日本に宣戦布告をし、満洲や南樺太に攻め込んできたことも、長崎に二発目の新型爆弾が落とされたことも、そのつど概略のことは知らされていた。皇太子は私室にもどってそれらを伝える新聞を読むこともできた。しかしそれ以上のくわしいことは、侍従も答えられないのだった。
 それ以前から、東京への空襲が激しくなって皇居内でも被害が出たと聞かされていた。もはや負け戦の様相になっているのは誰にでもわかる。このときに日本の政府は、天皇は何をどうしようとしているのだろう。近代兵器を使う今の戦争が、歴史物語のような忠臣が現れて一気に形勢を逆転する可能性はありえないだろう。神がかりの奇跡でもいいから起きてほしいものだが、空想に逃げ込んでいる場合ではない。
 皇族として天皇の位を継ぐと決められている自分には、何か学友たちと同じではない日本の国と国民に対する責任があるのではないか。初等科の六年生になっていた皇太子は、そう考えると不思議に前向きの気持ちになれるのだった。そこで思ったのは、この先に何があろうと、自分は「しっかり」していようということだった。「しっかり」の内容はわからないが、それは苦難があっても乱れないことだと思った。何があっても驚かず、乱れないでいようと思ったのだ。
 その「何か」は、「正午から天皇陛下の重大な放送があります」という告知としてやってきた。学友たちとは別なホテルの一室で、皇太子は正座して放送を聞いた。こぶしを固く握って両膝に置き、頭を垂れ耳を澄まして聞いた。天皇の声が流れ始めてすぐに「朕は帝国政府をして、かの共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」のところで、ポツダム宣言を受け入れての降伏であることがわかった。涙は出なかった。ただ、来るべきものが来て戦争が終ったことだけが、はっきりとわかった。
 この日を境にして皇太子の様子が変ったことは、周囲の人々にもはっきり見て取れた。悲壮感かもしれないが、一種の威厳と重さが加わったように見えたのである。戦争に負けた国の王や皇帝がどのような運命をたどったか、世界の歴史には多くの例がある。天皇は詔書で「国体を護持し得て」と述べているが、日本の天皇だけが安泰でいられるわけがない。何があろうと、自分は乱れてはならないのだ。

小説・昭和からの遺言(88)昭和の時代とは何だったのか(その一)

 それから成長とともに昭和の時代の戦争を、その始まりから終りまで見てきた。生れたその年の一九三三年に、日本は満洲国の建国をめぐって国際連盟から脱退した。満州事変から始まる十五年戦争は、常に建仁とともにあった。そして父親である昭和天皇は、大元帥として全軍を指揮しておいでになると聞かされてきた。それは天皇の公務である、皇太子もいつかそのように強く偉大な立場にならねばならないと教えられてきた。そこでは、なぜそうなのかを疑うことは許されなかった。
 戦場が大陸であり、太平洋戦争が始まってからも遠い海外での勝利として伝えられている間は、日本という国も、その頂点に立つ父である天皇も誇らしいと思っていたのは当然だった。日本の天皇が世界を指導するような立場になる時代が来るのかもしれない。そのときに自分が天皇に即位したら、どんな役目が待っているのだろうか。日本が世界の勝利者になったら、その後にはもう戦争はないだろう。それだけでも、世界にとって良いことに違いない。それはかなり愉快な空想と言えるものだった。
 そんな空想が崩れてきたのは、アッツ島の玉砕、ガダルカナルでの苦闘と撤退などを聞くようになってきてからだった。当時は初等科の高学年になっていたから、戦争の見通しが決して明るくないことは理解できた。敵は物量にものを言わせて攻めてくるのを、日本軍は精神力で耐えているなどと聞かされると心が痛んだ。そして日本兵は傷ついても戦うことをやめず、最後は「天皇陛下万歳」を叫んで突撃したり自決したりするというのも、それが美談ではあっても心が重くなる話だった。
 やがてサイパン島が民間人を含めて玉砕し、本土への空襲が必至の状況になってきた。学習院の初等科でも学童疎開が行われ、沼津を皮切りとして最後は奥日光へと避難先での生活が続いた。学友たちは合宿形式の集団生活だったが、皇太子は奥日光でも別棟の居室で暮らし、多くの侍従や目立たぬように配置された軍によって守られていた。それでも授業や昼食の弁当などを通して、学友たちの粗末になる食糧事情や、家族から遠く離された心細さを見聞きすることが多くなった。
 その間にも、戦局は一向に好転しない。アメリカ軍はフィリピンから沖縄へと迫ってきて、これで南方との連絡が絶たれたことは、地図を思い浮かべればすぐにわかった。そしてヨーロッパでは同盟国のドイツが東西から攻められて敗戦の瀬戸際まで来ていると伝えられた。日本だけが世界を相手に戦って、どうして勝つことができるだろう。戦争は避けることのできない運命のように思っていたが、本当にそうだろうか。父である天皇はいま何を考えているのだろう。それは建仁が初めて感じた戦争への当事者意識だった。

小説・昭和からの遺言(87)三種の神器と天皇の地位

 太平洋戦争の末期、アメリカ軍の本土上陸が必至となった時点で軍部から出された対策に、「天皇に三種の神器を奉じて大陸へお移りいただく」という提案があったとの記録がある。陸軍は大陸に大軍を残していたので、作戦的には本土よりも天皇を守りやすいと考えたのだろうが、昭和天皇はこれを否定して松代大本営への移動を可とした。ソ連の真意も知らず、国外で天皇を守れると夢想した軍部の認識不足も甚だしいが、昭和天皇が三種の神器の護持に並々ならぬ義務感を抱いていたのは事実のようである。
 三種の神器とは、八咫(やた)の鏡、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、草薙の剣の三点からなり、歴代天皇が継承する宝物とされている。現在は鏡は伊勢神宮に、剣は熱田神宮に、勾玉は宮中に古代からのものが祀られており、宮中には鏡と剣の形代(かたしろ・神性を与えた複製)も置かれている。これらは皇族といえども実物を見ることはなく、箱に納められ白布で覆われているようだ。
 伝説では神器は天照大神から天孫に与えられたことになっており、神代と現代とをつないでいる貴重なものだが、これを科学的に研究することは、おそらく天皇陵墓の発掘調査とともに、天皇制が存続する限りは難しいかもしれない。そう考えると、日本の天皇は、世界にもまれな「生きている神話」そのものであるのがわかる。
 しかし敗戦間際の非常事態に発想されたように、天皇が三種の神器を奉じて生きてさえいれば、国が滅んで外国に亡命しても「国体は護持された」ことになるのだろうか。そんなことはありえないと昭和天皇も思ったに違いない。大八洲(おおやしま)と呼ばれた国土と、そこに住む国民があってこその日本国であろう。「あまつ日嗣(ひつぎ)の栄えまさんことまさに天地(あめつち)と窮まりなかるべし」と祝福した天照大神の期待が、わが子孫が無事でさえあればよいという小さなものであったはずがない。
 さらに建仁には、幼い頃に読んだ日本武尊(やまとたけるのみこと)の神話絵本の記憶があった。草薙の剣は、武尊が東征の途中で枯れ野で賊が放った火に囲まれたとき、周囲の草を払って迎え火を放ち難を逃れたときに活躍している。そのとき身近には弟橘媛(おとたちばなひめ)がいた。その姫は、その後房州に渡る船が荒天で危うくなったとき、海に身を投じて海神の怒りを静めたと言われる。弟橘媛はこのとき「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」と別れの歌を詠んだ。
 遠い伝説の時代から伝わる神器とそれにまつわる物語は、幼少の皇太子に限りないロマンの夢を与えたのだった。そこでは剣さえも荒ぶる武器ではなく身を守る知恵だった。太陽のように世を照らす光になる、それこそが天皇の役目だと思ったのだ。

小説・昭和からの遺言(86)祈る者としての天皇(その三)

 皇太子として沖縄で祈ったのは、父・天皇に代って謝罪しておきたいという気持ちがあったと思う。しかし、自分がたまたま戦争をして負けた天皇の皇太子に生まれ合わせたから祈った、というだけのことではないような気がする。日本の歴史の中で天皇の役割ということを考えると、自ら大将軍となって軍を率いるような場面は、むしろ例外だった。古代の神話時代は別として、文明が定着した平安以降は、貴族による派閥の争いはあったにせよ、政争とは違った次元の権威として存続していたように思われる。
 時には建武の中興のように、忠臣の力を借りて天皇親政を試みた例もあるが、結果は芳しいものではなかった。武士の力が強くなった時代以降は、戦乱の外にあって、勝者に権威を与えることで天下を安定させるという、今の憲法のいう「国民統合の象徴」に似た役割を果たしてきたのではないか。そう考えると、明治憲法よりも、現行の日本国憲法の方が、よほど皇室の伝統に親和的と言えるのではあるまいか。
 新憲法の制定が、マッカーサーの主導という面があったにせよ、日本側からも多くの知恵が寄せられている。そして何よりも感動的だったのは、人間を尊重し人間の幸せのために国家が存在するという、前文に掲げた「人類普遍の原理」が、天照大神に発する皇室の伝統と矛盾しないどころか、その核心に一致すると思えたことだった。
 皇室には「宮中祭祀」と呼ばれる一連の神事がある。それらは国家と国民の安寧を祈るためのもので、古代の面影を伝える荒行に近いものも含まれると言われる。昭和天皇も皇太子も、宮中祭祀の伝承には熱心だった。自ら稲を栽培して収穫し、実りに感謝する行事などは、農耕民族としての原点を忘れないためにあるのだろう。まつりごととは、まさに政治の原点で、天皇は「祈る人」であったのだ。
 その祈る心を国民の心に寄り添う行動として表現するのは、建仁天皇にとってじつに自然なことだった。敗戦の記念日や沖縄終戦の日、原爆記念日ばかりでなく、次々に起こる自然災害の被災者のためにも、天皇は后とともに足しげく現場を訪れるようになった。そして相手が座っていれば自らも膝をつき、ときには座り込んで同じ目線で言葉を交わすようになったのだった。
 国民の幸せは、平和であってこそ守られる。その信念は、戦跡をめぐる慰霊の旅でも確固なものになって行く。忘れられた戦跡や忘れられた戦死者が埋もれてはいけないのだ。
 戦争で人間が幸せになることはない。それは戦争に負けた日本だけではなく、世界の問題になってくる。国家は国民に戦争を強いることができるのか。そんな根元的な問題を、もはや政治的な権能を有しないと決められた日本の天皇が考えている。
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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
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