冨雅除太郎式次第

あなたも冨雅除太郎式にご参列ください。ぜひ。

「なう」とは言ってくれるな。お願いなう

 

ツイッターについて真面目に考えてみる。当然のごとく脈絡はない。いつものとおりだ。

 ツイッター。140文字つぶやけるとのこと。何のために? よくわからない。が、つぶやけるのだそうな。

 つぶやけるのなら、それをどう活かせるか考えてみる。何に使おうか? コミュニケーション。宣伝。マスかき。垂れ流し。そんなくらいか。

 ツイッターに対して悪口を言うのはたやすい。むしろ、悪口を言わせるためにつくったのではなかろうかと勘ぐるほどに穴だらけの存在だ。が、どうにかできないか。

 俳句を発表する。川柳あるいは短歌でもよい。狂歌でも都都逸でも。または超掌編小説。更には現在進行形実況リポート。うん。それらの完成形を提示して反応を見る。もしくは上の句や入りだけを提示して続きを募集する。うん。不特定多数に向けた連作の要請。他者を必要とする創造。どうだ? 誰でも参加できる創作。

 あるいは、書き留める必要さえ感じない脳みその無駄遣いによるほとばしりを投稿し、それに対する他者からの反応にヒントを得る。「おお、こいつは使える」なんてこともあるのではないか。もしかしたらクズからダイアが生まれるかも!

 なんてことを考えたので、ツイッターをやってみようかしら、なんて思う。

 もし誰もフォローしてくれなかったら? 自分の立ち位置が容赦なく明確になるので、それはそれで得るものがあると思う。失うものの一割ぐらいは。そして自棄酒を飲むという名目で酒が飲めてかわいそうな自分に耽溺でき、世を憎み人を恨みそんな卑小な自分に自己嫌悪の極北を見定め、卑しさに天を突かんばかりの醜悪な愚息と戯れたりできるかも、というかそうして捩れきった快楽に身を任せて愉しんでそれからいやになれるはず。

 うーん、やってみようかな。ツイッター。常につぶやいてるけど。

2010年11月から取り組んでいた。というかずっとできなかった。

 

出だしは、どうしようもない悲哀に満ちながらもどこかしら前向きな美しい、ポジティヴな陰影のイメージだった。

 それを表現するためにどうしようかと考えていくうち、宿酔の王侯、核兵器、闇の子供たち、政治的腐敗、獣の王(=狂)、強迫観念的理想世界、シェークスピアの四台悲劇にまつわる象徴的なものたちなどなどが何の脈絡もクソもなく、わっしょいわっしょいと浮かんできた。

 そこでそれらを片っ端から書いていった。どれもこれもうまくいかず、ぼくは頭を抱えてうなりまわった。

 やがて、浮かんだイメージすべてを書き表すとそれこそ狂人の世界になることに気づき、いやいやながら取捨選択を行うことにした。

 そうしてぼくはシェークスピア悲劇の登場人物たちを無理やりに中心に据えて展開する歌詞を四苦八苦しながら完成させた。表向きには登場するのはシェークスピアの造形したキャラクターたちだが、彼らはそれ以外にもさまざまな複合的メッセージを併せ持ち、それらの要素の集合体的象徴として描かれている。それでなんとか納得できるように帳尻を合わせ、やっとのことで書き上げた。狂気と正気の闘争、力業の相克(しかしそれは同時に幻想である)。そういう感じになり、得心もいき、ほっとした。

 今日気づいたが、その歌詞は同時にゲーテの『ファウスト』にもつながっていた。登場人物の名前を変えれば、即座にそうなるのだ。そしてまたそれはボリス・ヴィアンの世界にもつながる。そのままぼくの世界にもつながる。無論ぼくが先人たちに影響を受けていることは否定しないが、それにしてもいろいろな事柄がいろいろな形でリンクしているようだ。ぼくはこの、ミッシング・リンクというよりは見落としていたリンクを発見し、そしてつなぐためにこの三ヶ月ばかりを費やした。

 つなげばそれは安泰となるのか? いや、そんなことはなく、そのリンクをつないだ先にはいつも明日がある。このリンクはこの先にもつながれ続けるのだろう。ぼくがつないだリンクはあなたへ、そしてぼくにまたつながれるだろう。そしてぼくはずっとそれをつないでいくのだろう。「もうや〜めた」とかなんとか言わない限り。

 ぼくが世界を閉じない限り、それは広がっていく一方だ。混沌は絶望を許さないほど絶望的に広がっていき、ぼくはいつも路頭に迷い、頭をかきむしることだろう。そしてぼくはやめないのだろう。

 「うわ、できた! オレってなんて天才なんだろう!」という、あの愚劣極まりない達成感を知っているから。ぼくは今年も絶好調だ。ぼくを見て安心する人もいるだろう。

 なぜならぼくのバカさ加減は年中無休だからだ。三ヶ月。なんとか完成した歌詞二本(たぶんこれからも改変を加えまくるだろう)。書くべきもの無限。毎日寝不足。動機=自己満足および好奇心の追求ならびに不明そしてただのバカ。

 製作予定の歌詞。下衆野郎どもをそれ以上に下衆な切り口でコミカルにこき下ろしながら、同時にどうしようもないかなしみを湛えるもの。バカには絶対にできないバカをバカの極北とされるべきやり方で実行しながらバカをバカにするバカの自滅的世界をバカにしながらもバカな世界の歌詞。

まだまだ読書感想文

 

 『総特集 萩尾望都』 河出書房新社, 2010

 

 どうしても「偉大なる」という形容詞をまずつけずにはいられない萩尾望都についての特集本。バランスがいい。ある意味でこのような本がどうしても避けられぬ提灯記事をある程度並べ、萩尾望都へのロングインタビューや対談を行ない、それだけでは終わらないところも提示している。

 読んでみて痛感したのは萩尾望都のどうしようもない天才性。天才というのは本人が努力するしないという事以前の問題であって、それはまったくどうしようもないものだ。誰が天才で、いやそうではないと言うのは、人間がどこで生まれ何という名前になったかを真剣に論じるほどに無意味なのだから。本人にはもちろん本人の見解があるだろうが、天才であると言う結論はそれすらおジャンにする。仕方ないのだ、こればかりは。

 で、萩尾望都の天才性についてもうすこしそれらしく語れば、まずは空間の把握・認識能力の尋常ならざるハイレヴェルとなるだろう。これは言えばヘミングウェイのそれと共通するだろう。一度見たものの事柄を記憶した上で(記録、と言うべきか)、それを完全に理解し、また提示することができる能力のことだ。

 そして集中力の凄まじさ。卓越したアイデアと構成力に加えて画力。とんでもない宝箱を持っている。

 宝箱の秘密は、様々な家族との葛藤。そこから生じた解放への欲求。

 だれかがそれに専念できるカネをくれたら、じっくり時間をかけて萩尾望都についての論文を一本書きたい。   

 が、だれもくれないので今はこんなもんでやめとこう。

 

 

 『われはロボット』 アイザック・アシモフ 小尾芙佐訳 ハヤカワ文庫,1983

 

 アシモフ先生のロボット短編集。手塚先生はアシモフ先生のこの作品からたくさんの着想を得ていると読みながら思った。それにしてもアシモフ先生は本当に稀代の大衆作家だと改めて思う。緊張と弛緩の魔術師だ。そしてあふれるユーモア。近所に住んでる気さくな、そしてとてつもなく偉大な先生。といった感じか。何にせよ、先生という呼び名の似合う人だ。

 でもこんな苦悩もあったのだと。

 「私は、あまりに頭がよすぎるので、普通の人のように振舞うのは、非常に努力が必要なのだ

 この言葉に説得力があるのが凄いよな、やっぱり。              

 

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