ニヤッとする話

ニヤッ、とする程度の笑いネタを思い出しながら書きます。

本田進一郎『アメリカ有機農業の未来』を読む(新米国語教師の昔取った杵柄161)

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本棚の身内本

 以下の文章は10年ほど前に大学時代の友人が本を出版した時にレビューとして書いたものである。

 私がアマゾネス(仮名)の会員でなくなったために現在は削除されている。
 随分気合を入れて書いた文章なので「勿体ない」精神でここに再掲する。 

 大いなる期待とともに読み始めたこの本だが、第1章、小学校時代によく読んでいた趣味の入門書を思い出した。これらの書物の第1章はカメラであればカメラの、釣りであれば釣りの、原初の歴史から説き起こし、筆者の古今東西に渉猟する蘊蓄が披露され、本を紐解く読者が決して使用することのないであろうピンホールカメラや湘南リールや、読者が決して一緒に趣味を楽しむことはないであろうカメラや釣りの好きだった有名人に関するエピソード等々が延々と続くのであった。
 この本もまた大気からアンモニアを精製するのに成功した独逸のハーバー博士に始まり、農業には素人の私にはまったく初めて目にする有機農法の先人たちの業績が次々と羅列されて延々と続き、危うく大口を開けて意識を失うところだった。

 ところが第2章からは俄然面白くなる。
 この章以降は筆者の米国における有機農業の見聞録が訪れた5つの農場について綴られているのだ。
 これは私たちのような農業以外の仕事に従事している者にとって、あるいはこれから農業をしようとしている人にとって、あるいは既に農業に従事していて有機農法を試してみようと思っている者にとって、実に貴重な体験の記録ではないだろうか。

 第2章は日本でも多くの有機農家がこうした形態で行っているだろうと思われる小規模な家族経営の農場の見聞録である。
 米国でも有機農場の90%以上がこうした経営形態だという。
 この記録は筆者が実際にボランティアとしてこの農場で働いてみた体験談にもなっているから、実に興味深い。
 筆者が苦も無く農作業をこなし、それどころか草取りが徹底していると農場主に感心されるところなど、日本人の面目躍如である。
 私は若いころ千葉の農家にボランティアで農作業に行ったことがあるが、畑の保温のビニールを剥がす作業がきつすぎて一日で降参したことがあるから、体当たりで米国の有機農法を学ぼうとする筆者の姿勢には頭が下がるばかりだ。

 ところで、米国の多くの有機農家には、ボランティアで農作業を行いながら有機農業のノウハウを学ぶWWOOFという制度により国内外の志を持った人々が集い、それらの人々によって支えられている側面もある。
 これがどんなものか、この章を読むとよく分かった。
 ボランティアには有機農業の志願者だけでなく、楽しみや生きがいとしてのとしての農作業を期待する人々も集まっているようだ。

 第3章は打って変わって、いかにも米国らしい有機農場の紹介である。

 私たち日本人は有機農法というと近代農法に疑問を抱く反資本主義(反近代主義)で理論武装した頑固者が同志である家族とやっていて、やはり同志である契約者やボランティアに支援されている農家を思い浮かべてしまう。
 これには『冬子の酒』(仮名)などの漫画の影響が強いのかもしれないが。

 ところがこの農場は20,000haの規模を持ち、年間580,000,000ドルを売り上げる超巨大農場であり、中南米からの農業労働者が賃金労働をしている文字通りの資本主義的農業を実践している。

 私は「有機農法」と「大規模」が頭の中でどうしても結びつかず、この農場が本当に有機農法を行っているということ自体が半信半疑だったのだが、本書の記述を見る限り、さまざまな工夫によってそれを実現しているようだ。
 農場長へのインタビューによれば、収量も近代農法と「ほとんど変わらない」という。

 現状の日本から考えると俄かには信じがたいこの資本主義的農業の見聞録もまた実に興味深かった。

 第4章は地元で加工して世界中に直販している有機のブドウ農家の見聞録である。

 米国の商業というと、コマーシャルと切っても切れない関係にあると考えがちだが、この農家が世界に販路を広げるに当たって特別な宣伝は何もしていないという。
 口コミによって遠く日本までこの農家のレーズンがやってくるようになり、筆者も家でパンを焼くのにこのレーズンを使っていて、この農家を訪ねるにあたっての動機の一つとなったようだ。

 この嘘のようなサクセスストーリーは1990年代に始まったことに注目したい。
 この時期はちょうどPCが素人にも扱えるようになり、ネットワークが世界に広がっていく時期と重なっている。

 「本物を作っていればいずれ口コミで良さが広がる」という、小規模な生産者を勇気づけ、未来に希望を持たせる実例である。

 第5章と第6章は日本ではほとんど不可能だと見做されている2つの有機酪農家の見聞録である。

 実際、この2つの農家に関する記述を読んでも、牧草の栽培と放牧を可能にする広大な土地あってこそ、という感想を持った。
 おそらく飼料を海外産のものに頼る限り、日本で有機酪農が拡大していくことはないであろう。
 ただし、一頃流行った「牛乳悪玉論」にも表れているように、酪農製品に対する消費者の目は他の農産物に対するのと同様どんどんシビアになっていっているし、個人的な賛否は別にして既に参加国の合意がなされたTPP(環太平洋経済協定)が発効すればこうした米国産の有機酪農製品も比較的安価に輸入されるようになるわけだから、日本の酪農家はこうした農家との競争も視野に入れて将来を考えなければならないのではないか。

 第6章の農家ではこれまた日本では不可能と見做されている有機リンゴも栽培しているようだ。
 このリンゴが山積みになった写真を見たとき、私はなぜ日本では有機農法がなかなか普及しないのかわかったような気がした。
 はっきり言って見てくれが悪いのである。
 私は柑橘類の産地である熊本県に住んでいて、見てくれが悪くて二束三文で売られているそれらの堪らない美味さをよく知っているから、かえってこういうリンゴの方が食欲をそそるのだが、おそらく日本の消費者は有機農業の「同志諸君」でない限りこうしたリンゴを買わないだろう。

 全体を通して、この力作は有機農法というものに対する旧来の日本人の偏見を米国発情報という形で打ち破ってくれるものではないかと思う。

 なにより体験談・見聞録として面白い。
 特に第2章では筆者が実際に農作業をしているので説得力がある。どうせならばすべての農場で下っ端の労働者として働いてみた体験談を読みたかった。

 また、ただ1回行ってみた、というだけでなく、ちゃんと10数年後のそれぞれの農場についての後日談が添えられているのが素晴らしい。
 このテの本によくあるのが、一時的に褒めあげてみたものの10年経ったら潰れてしまっているのに口を拭ってまた別のものを賛美している、というものだからだ。
 実に地道で息の長い、大学時代に顕微鏡で1つ1つ延々と有孔虫を数えていた筆者らしい仕事である。

 ただ、「有機農法と未来」という題名にしては、見聞が中心である。
 もっともその見聞が面白かったのだが。
 私としては有機農法の将来の展望について筆者独自のもっと突っ込んだ意見や予測が読みたかった。第1章の「ピンホールカメラからフラスコを用いたカメラを経てレンズカメラへ」的な歴史記述の代わりにそうした部分にもっと紙数を割いてくれると嬉しかったのだが。

 何にせよ、私は今庭の猫の肉球ほどの土地にささやかな畑を作っているのだが、本書を読み終えて早速庭に出て作物の世話をした。
 そんな気持ちにさせてくれる本であった。

 最後に筆者にお願いである。
 次は日本の農業がこうした農業と競争(あるいは共存)していくためには現状に対してどんな処方箋が必要か、そんな本をぜひ書いてほしいものだ。
2016.2.18Well肉桂記す。

河童簡単韓国料理28-絹さやのチヂミ(ワンドゥスンジョン)-(いやしんぼ118)

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さやえんどうのチヂミ

 豆が好きな人ならば豌豆にはグリンピース、スナップ豌豆、絹鞘の三種があることを知っているであろう。

 そして非常に多くの人は「どれが一番好きですか」と聞かれれば、「うーん、それぞれに美味いけど、やっぱりスナップ豌豆かな…」と答えるだろう。

 私も物心ついてから数十年、そう答えて来た。

 まあ子供の頃は豆そのものがあまり好きではなかったが、豆の美味しさに目覚めさせてくれたのはスナップ豌豆だった。

 だから農業に入門して植えた豌豆はやはりスナップ豌豆だったし、一番多く食べてきたのもスナップ豌豆だった。

 たまにグリンピースや絹鞘を植えてそれを採れたての新鮮なうちに食べても、前者はスナップ豌豆に比べれば何かしつこい感じがしたし、後者は熊本弁でいうところの「ヒャーんごたる(物足りない)」感じがして、「やっぱりスナップ豌豆が美味いな」と改めてかみしめるのであった。

 だから冒頭の質問をされたら、多くの人と同じくやはりスナップ豌豆と答えて来た。ほんの1か月前までは。

 「一か月前までは」ということは、今は違う、ということだ。

 2026年5月現在の私は冒頭の質問をされたら、「断然絹鞘が美味しいと思います。ただし、ある料理をするときに限りますが。」と答えるだろう。

 昨年の秋、私は苗屋からタダで貰って来たポット32個に豌豆の種を植えた。
 スナップ豌豆が16個、絹鞘が16個である。

 烏の眼を逃れてうまく芽が出て来たので、畑とプランターにそれぞれ分散させて植えた。

 あまり1箇所に集中させると何かあったときに全滅してしまうことをこの10年余りの月日の中で学んだからだ。

 私としてはスナップ豌豆の苗が16本、絹鞘が16本、畑とプランターに育つつもりだった。

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 ところが、実際に花が咲き始めた時、赤紫の花が圧倒的に多いことに気付いた。

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 白い花は空豆畑の隅っこの一角の4本の苗にしか咲かなかった。

 そして、赤紫の花は緑色の薄い鞘に小さな豆が透けて見える実を付け、白い花にはもっと緑色の濃い分厚い膨らんだ鞘の実が付き始めた。

 赤紫の花が絹鞘であることは明らかだった。

 絹鞘は毎朝毎朝物凄い数の実を付け始めた。
 ちゃんと数えていないが、残った写真から推測すると500を超えていたと思う。

 絹鞘と云えば定番の料理は普通に茹でることである。
 私達家族は20個ずつくらい煮て食べ始めたが、処理しきれないことは明らかだった。

 仕方がないので、妻の職場の人やら娘の友達やら、義母がお世話になっている介護施設やら、あちこちに300個くらいは配った。

 それでも残りの数は女性が主体の我が家で食べてしまうのは厳しいと思われた。

 ところがどういうものか、妻が「これ、チヂミ(ジョン)にしたらどうだろうね。」と云い始めた。

 だが、チヂミにしたとしても、丸のままの鞘を焼いたとして、1枚15個くらいを処理するのが精一杯ではないだろうか。

 ところが妻は、「これ、刻んだら相当嵩が減るんじゃない?」と云うのだ。

 妻がどこからこのアイディアを取ってきたのか知らないが、グッドアイディアである。 

 今妻に訊いてみても、「自分で思いついた」というし、ネットなどで調べてみても妻が創り出したタイプのチヂミの写真はない。

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 それはこんな感じの、絹鞘オンリーのチヂミである。
 ほかには何も入っていない。
 だが、これが素敵な美味さなのである。

 どんな感じかと云えば、外はカリカリ、中はシャキシャキ、喉越しはスルッという感触だ。

 韓国でよく売られているピンデトック(緑豆のチヂミ)は風味がマメマメして、これに慣れていない日本人は好みが分かれるところである。

 しかしこの絹鞘のチヂミはマメマメした感じが全然ない。

 スナップ豌豆でもやってみたが、絹鞘が断然美味い。
  
 このあっさり感は凄い。

 幾らでも食べられる。

 ということで、レシピである。

[材料]
1.絹さや。1人前50個くらい用意してほしい。自分で作れば50個くらいはすぐできるが、買うと1袋20個ずつくらいだから、2袋は欲しいか。
2.チヂミの素。今はスーパーなどでも普通に売っている。小麦粉でもよいが、外のカリカリ感を出したかったら専用の粉が欲しい。とことんあっさり感を追求したいならば米粉を使うというテもあるが、私は使ったことがないので美味しさは保証しない。
3.チヂミのタレ。チヂミの素を買ったら大抵付いてくるが、もしなくても今はこれも普通にスーパーなどで売っている。妻のように自分で作ってみたいという奇特な人は胡麻油とコチュジャンと酢を混ぜたら似たようなのができる。ただし、毎回味が違う。
4.胡麻油。本場のものは少々香りが強すぎて淡白な絹鞘が負けてしまうので、「ヘルシー」などと銘打ったアッサリめの香りのものがよい。我が家では日中(仮名)のものを使っている。

材料は以上。

[調理]
1.絹鞘の筋を取る。
2.絹鞘を千切りにする。縦長に切るのがコツ。横に切るとあのシャキシャキ感が弱くなる。文章にすると簡単だが、この下拵えは実に面倒くさくて時間がかかる。「簡単」どころではないが、今回は妻が頑張ってくれたので私は「簡単」だった。だが、妻が「あれを食べたいから作って」と云ったとしても私はこの面倒を喜んで引き受けるつもりだ。この自己犠牲的な行為はチヂミが口に入った瞬間に報われるだろう。
3.水で溶いたチヂミの素に千切りにした絹鞘を混ぜる。「こんなに粉が少なくていいのかな」というくらいに豆の比率を多くするのがシャキシャキ感を強くするコツである。
4.フライパンに胡麻油を入れ、全体に広がるまで加熱する。

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5.3.を入れて広げる。写真のような感じである。
6.表面が乾いてきたら裏返す。粉の比率が少ないので不安に感じると思うが、意外に簡単で崩れない。自信がない人はフライパン返しを2つ使えばよい。
7.もう一度裏返して周りに胡麻油を垂らす。バチバチジュージュー言い始めたら完成である。

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 タレなしでもあっさりして美味い。
 タレに飽きたら味変でマヨネーズで食べても美味い。元々鞘豌豆は茹でた奴でもマヨネーズによく合う。

 最近お好み焼きは勿論、チヂミですらもっちり感がもたれる、という人は是非。
 「粉モン」のイメージが覆され、食欲が戻ること請け合いである。


私の農業入門記45-蓼食う虫もいろいろ-(それでも生きてゆく私330)

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河童とシジミ

 今年も夏野菜の植え付けの季節がやってきた。

 私を直接知る人たちは「『農業入門』なんて云ってたけど、とっくに飽きて、庭は草ぼうぼうで野菜なんぞ少しも植わっていないんだろうな」と思っているだろうが、とんでもない。

 三角町で猫の肉球ほどの畑を作って以来、妻の実家に寄生している今も、私は畑を作り続けているのである。

 広さは依然猫の肉球ほどだが。

 特に去年から今年にかけて、仕事に出かけるのが昼過ぎで午前中が空いているようになったから、畑弄りをするには絶好の環境になったのだ。

 したがって今までになくあれこれの野菜を植えては採れたての新鮮な野菜を食べている。

 だが、その中で、今までずっと作ってきたのに今年は作付けを断念した野菜がある。

 ゴーヤである。 

 熊本ではニガウリとも云う。
 沖縄ではゴーヤーと呼ばれるが、熊本人は沖縄風の名前で呼ぶ時は最後の音を伸ばさない。

 私達夫婦とも、また、家主である義母も、ゴーヤそのものは好きで、色々な料理に使う。

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 去年採れた実も1個残らず無駄なく平らげた。

 写真に残っているものを数えて見たら39個あった。携帯で撮ってPCに移すのを忘れているものもあるから大体40個以上食べているらしい。

 ゴーヤはグリーンカーテンとしても優れている。

 南向きの部屋の窓の外に網を張って這わせることで、大きくて大量の葉っぱで直射日光を防ぎ、部屋が灼熱地獄になるのを防止できる。

 にも関わらず何故こんな重宝な野菜を今年は植えないかと云うと、妻が「ゴーヤ虫が気持ち悪い」というのである。

 「ゴーヤ虫」は本当は何とかいう蛾の幼虫である。
 一度ゴーグル先生(仮名)に名前を教えてもらったのだが、正直まったく目を惹かないジミーな蛾なので名前を憶えていない。

 ということで再度教えてもらったら「ウリノメイガ」と云うらしい。

 蟲(この正字だけでも気色が悪い)が嫌いな人もいるだろうから写真は掲載しない。
 ネットで検索したら沢山出てくる筈であるから、興味のある人はそちらをどうぞ。

 そういえばかつて稲の害虫で農家の不倶戴天の昆虫として「ニカメイガ」「サンカメイガ」というのが居たが、成虫はこれによく似ている。幼虫も色は違うが形はよく似ている。
 おそらくこいつらの親戚なのだろう。

 名前は分かったがこの文章では我が家語である「ゴーヤ虫」と呼ばせてもらう。

 なぜならこの虫は胡瓜やメロンなどのウリ科の野菜の害虫なのだそうだが、我が家ではどういう訳か胡瓜やメロンや西瓜などのゴーヤ以外のウリ科の野菜は一顧だにせず、ひたすらゴーヤだけを食い荒らしているからだ。

 では我が家の胡瓜やメロンや西瓜は害虫の被害を受けないかと云えば、これらにつくウリハムシという奴がいる。
 葉にコンパスで描いたような丸い噛み跡があったらこいつである。

 これも写真の掲載は差し控える。

 こいつは葉をズダボロにするほどには食欲がないのだが、どうもウイルスを持っているらしく、こいつらが付いたウリ科の野菜はほぼ例外なく葉が縮れて変な斑模様が出るようになる。

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 実が成る前に枯れる程重篤な疾病ではないが、こいつにやられると実付きの期間が短くなり、植物自体も寿命が短くなる。
 写真はそろそろ終末が近づいた胡瓜である。

 こちとら素人の道楽だからいいが、農家の野菜に付いたら深刻だろう。

 ゴーヤ虫は初実の付く7月くらいには葉っぱを少し食い荒らすくらいで目立たないが、8月に入るとそろそろ実にポツポツと穴を開けるようになり、盆を過ぎると突然大発生し、葉をズダボロにし、実にもボコボコのクレーターとトンネルを掘り、最後はゴーヤ本体を枯らしてしまうのだ。

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 真ん中がゴーヤ虫にやられたゴーヤの実である。

 妻がこの虫を忌み嫌うようになったのは、寝室の窓のどこからか侵入して部屋の中で蛾になっているのを発見したからである。
 窓にはどう考えても隙間はなく密閉しているはずなのだが。
 まあ古い家だからどこかに抜け道があるのだろう。

 私は学生時代「蛾の館」で暮らしていた大陸的な男だから蛾が2.3匹部屋に侵入してもどうということはない。
迷作リメイクシリーズ16-蛾の館-(京都安下宿事情2)

3分間待つのだぞ

 小さな蛾だから叩き潰せばいいだけだ。
過去の自分がくれた釜山旅行12-蛾を10匹叩き潰してから夜の街へ-(河童亜細亜紀行257)

蛾を退治する

 だが、妻は名門駒形家出身の「どぜう様」だから(大嘘)、耐え難いらしい。

 そういう訳で我が家の女王様の勅令により当分の間ゴーヤの栽培を中止することになった。

 一安心、と思ったら、「豆虫」が発生した。

 去年の秋にスナップ豌豆と絹鞘をカップに撒いて苗にして畑やプランターに植えたところ、これが土質にぴったり合ったらしく、大繁殖したのである。

 豆類は空中の窒素を自力で固定できるから、他の多くの野菜とは違ってむしろ痩せた土地の方が性に合うらしい。
 そういう意味では手入れの悪い我が家の土質はこれらにぴったりだったのだろう。

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 もっともスナップ豌豆と絹鞘は半々植えたつもりだったのだが、どういうわけか花が咲いてみると9割が絹鞘で、ごく僅かなスナップ豌豆は空豆畑の隅っこにヒョロヒョロと生育し、合計30位の収穫があっただけだったが。

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 残りはとんでもない数の絹鞘である。

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 誇張ではなく500個以上収穫したであろう(写真はほんの一部)。

 この絹鞘が素敵に美味しい料理になった話はまた次回に報告することにする。

 「豆虫」も「ゴーヤ虫」と同じく、最初は、「あれ?葉の端が何かに喰われてるな」という程度だった。

 我が家ではナメクジがあらゆる野菜(特に苺)を食害するから、最初はこいつらだと思った。

ナメクジトンネル

 ナメクジは確かに気持ち悪いが深刻なのは苺にトンネルを掘るのと白菜の芯に潜り込んでいるのくらいで、後は葉っぱに一寸穴が開く程度である。

 それにビールと食塩で退治も簡単だ。
 ナメクジ退治については一度書いたことがある。
三角とりどりの記8-烏を本気で嫌いになった日-(Sea豚動物記76)
烏たちの饗宴

 だいいちナメクジはずっとナメクジであって、蛾にならない。
 こちらに向かって飛んできたりもしないし、部屋にも入ってこない。
 豆に関しては葉を少し食べるだけで豆も食べないので、収穫のときも目につかないので気色悪さもない。

 ところが、絹鞘の葉がことごとくズダボロになり、実に次々と穴が開くようになって初めてこいつがナメクジよりずっと強力な敵であることに気付いた。そしてその実体を直接目にしてその脅威を知ったのである。

 何だか「ゴーヤ虫」を小さくしたような芋虫である。
 誇張ではなく100匹以上いただろう。

 この蟲が集団でいるところの写真を私は撮っているが、勿論掲載しない。

 またゴーグル先生に訊いてみた。

Peablue_October_2007_Osaka_Japan
Peablue October 2007 Osaka Japan.投稿者自身による著作物, パブリック・ドメイン,  https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2918721

 なんとこいつらは蜆蝶の幼虫らしい。ウラナミシジミという、最もありふれた蜆蝶の1つである。
 彼らはまだ幼虫なので、成虫の写真は私が撮ったものではなくWikipedia掲載のものである。

 そういえば確かに蜆がよく庭に来ていた。
 花の蜜でも吸いに来たのかと思っていたら、何のことはない、産卵に来ていたのだ。

 私はこいつらが蛾の幼虫ではなかったので正直ほっとした。

 そして何だか可愛く見えて来た。
 こういうのもルッキズムというのだろうか。

 しかし我が家の女王様はそうはいかない。

 私にとって蛾の幼虫と蝶の幼虫は印象もその処遇もまったく異なるが、妻にとっては両者とも「気色の悪い芋虫」なのだ。
 ちょうど絹鞘が収穫期を終わる直前だったので、豆に対する被害はほとんどなかったのが幸いである。
 もし豆に大量に被害が出ていたら「皆〇し」の厳命が下っていたに違いない。

 彼らは我が家で寿命を終えて(というより食用に適さなくなって)抜かれた野菜を集めて堆肥にするためのある一画で、今も大好きな豌豆の葉を食べているに違いない。

 住処と一緒に移動できなかったドン臭い残留組は仕方なくレタスや胡瓜の葉なぞに憑りついて食い荒らしていたから退治されてしまったが。
 私はこの日のために長めのピンセットを「代走(仮名)」で買っていたのだ。

 蜆蝶の幼虫は極端な偏食であることが知られている。

 たとえば阿蘇に生息するオオルリシジミなどは、クララという特定の植物しか食べないために、その減少と共に絶滅が心配されている。
蓼食う虫の絶滅危機(どうしても言いたかったこと36)

幻の蝶

 また、ゴマシジミという蜆蝶の幼虫は蟻の好きな蜜を尻から出して懐柔して蟻の幼虫を餌にし、食い逃げして成虫になる。それに失敗すると蟻の餌になってしまうというのだから浅ましい。
蓼食う虫は小説より奇なり(Sea豚動物記90)

 ゴマシジミの脱出劇

 これらの蜆蝶に比べればウラナミシジミは遥かに柔軟な食生活であり、豆類だったら何でも喜んで喰うようだ。
 我が家では豌豆だけでなく空豆にも似たような喰い後があったので、空豆の葉も食べているらしい。
 更に豌豆を取り上げられてしまった連中はキク科(レタス)やウリ科(胡瓜)のものも躊躇なく食べ始めていたから、腹が減れば何でも食べるのだろう。

 こんな習性を持っていれば絶滅する心配はないに違いない。

 来年は我が家の庭でウラナミシジミが乱舞する光景が見られるかもしれない。
 近所迷惑もいいところだが。

私の農業入門記44-6年目に実った玉葱-(それでも生きてゆく私329)

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玉葱

 熊本県は菊陽町の妻の実家に寄生生活を始めてからもう6年目の春である。

  ここに来るまで私は育てるのが下手でまともに収穫できない野菜がいくつかあった。

 玉葱もその1つである。

 今までにも何度か作ったことがあったのだが、「ラッキョ?」というようなおよそ玉葱とは思えないような小さな小さな玉が地中に出来、葉を持って抜くと「スポン!」と軽い音を立てて地表に姿を現し、私をガッカリさせるのだった。

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 こんな感じである。
 ちなみに後姿は三角町在住当時飼っていた兎である(大嘘。瀬戸物。)

 また、亡き岳父の家庭菜園はかなりの面積の土地での本格的なものだったから、キャベツ・白菜・玉葱などは潤沢に常備されていたから、わざわざ下手な私が作らなくてもよかったのだ。

 しかし、岳父が亡くなって我が家の家庭菜園も猫の肉球ほどの庭だけに面積を縮めたため、私はこの、料理に一番良く使う三種の野菜の調達に心を砕かなければならない事態がやってきたのだ。

 今回、私は本当に久し振りに玉葱の苗を植え付けた。
 昨年の11月のことである。


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 こんな感じの「え、どこにあるの?」というようなヒョロヒョロの苗である。
 植えたのは2種類、早生で速く出来るという品種と、収穫してから長持ちするという品種だった。

 その後もこれらの苗はちっとも大きくならず、他の野菜の世話をするために歩き回っているうちにうっかり踏んでしまったり、隣に生えて来た雑草に埋もれてしまいそうになった。

 それでも私には一つだけ「これはやっておかなければ玉葱は育たない」という、過去の経験から来る信念があったので、それだけはずっと続けた。

 それは玉葱用の肥料を1ヶ月ごとに欠かさずやることである。

 植物の根っこがあれだけ膨らむと云うのは、勿論品種改良による特性というものもあるだろうが、栄養が土中に満ちていなければあり得ないことである。

 「根菜と云うのはそういうものだ」という、本職ならば誰でも知っている常識に、園芸歴50数年にしてやっと気づいたのだ。

 この「50数年」というのは決して誇張ではない。

農作業

道路は畑(Good Old Days 35) 
 私は齢10歳くらいからの筋金入りの野菜メイカーなのだ。決して農家ではないが。

IMGP8695

 そして遂に、6か月後、収穫の時がやってきた。
 まず第一弾、早生品種の収穫である。

IMGP8824

 これでも一番デカイ株ではない。
 冒頭の兎と写っている玉葱と比べてもらえればこの「早生」の玉葱たちが如何に大きいか分かるだろう。

 そして第二弾だが、こちらの「長持ち」玉葱はもう少し大きくなりそうな気がするのでまだ収穫していない。


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 だがこれまた豊かな収穫は保証されている。
 既に玉はパンパンになりつつある。

 これだけ大量の自家製の玉葱を手に入れるのは初めてである。

 ただ、今度は別の心配が出て来た。

 玉葱と云う奴は、どんな料理にでも入れられるものだ。

 カレーでも炒飯でも焼肉でもオムレツでも味噌汁でもプルコギでも、和食洋食中華韓食何に入れてもその独特の甘みと旨味を料理に加えてくれる。

 だが、その使用量はと云えば、大体3人分の料理で行くと1玉の1/4くらいである。
 あまり入れすぎるとその甘みと旨味が前面に出てきてしつこく感じられ、料理が台無しになる。

 中学生くらいの頃玉葱を丸々1個出汁で煮るというTVCMがあって、それがとても美味そうだったから唆されて作ってみたのだが、実際に食べて見るとそれ程美味いものでもなかった。
 兎に角甘いのである。
 そして別の食材に混ざっていたときにはとても美味しく感じたその甘みが、ひどくしつこく感じてしまった。

 脇役としては素晴らしい演技を見せるのだが、主役となると灰汁が強すぎてドラマ全体がドギツイものになってしまう俳優さんのようである。

 自家製玉葱は全部で30個くらいあり、かつ新玉であるから、いくら「長持ち」でもせいぜい美味しさを保てるのは1ヶ月くらいではないだろうか。

 ということで、我が家の物知りAI君に「玉ねぎを大量に消費してかつしつこくない料理」を聞いてみた。

 すると、1番目に「玉葱の丸ごと白だし煮(和風)」が出て来た。
 だからそれをしつこく感じたから聞いとるんじゃい。

 2番目。
 玉葱と豚しゃぶの「梅ポン酢」マリネ(主菜)。
 おっ、これはいいかも。
 熱を加えないので甘味が出ないし、かつ梅の酸っぱさで旨味も抑えられそうである。

 ここで料理や人体に詳しくない人は、「えっ、旨味を抑えたら不味くなっちゃうんじゃないの」と考えるだろうが、私がここで云っている「旨味」は甘味・塩味・酸味・苦味とともに「五味」に数えられる、グルタミン酸やイノシンさん、じゃなかった、人じゃないんだ、イノシン酸などのアミノ酸由来の味のことである。
 この味は適度だと美味しさを感じさせるのだが、多すぎると「しつこい」と感じられて、美味(うま)くないどころか不味(まず)いのである。

 そしてこの料理も豚肉とのバランスを考えれば1個消費が限界であろう。

 何せ我が家は総勢3~4人(人数の変動は子供の帰省による)、しかも93歳を筆頭に最年少でも40ウン歳。
 食べ盛りの年齢の人物は1人もいないのである。

 3番目の候補は玉葱だけの「焼き浸し」(副菜)。
 これも過熱することで甘味と旨味がドーンと出てそれほど沢山食べられそうにない。

 やっぱりAI君は知識はあっても経験がないからなあ、と1人で妙な納得をしつつ4番目を見てみると、食べる玉葱ドレッシング(万能)。

 あ、これはイケそうかも。
 「蒸し鶏や豆腐、冷やしうどんなどにたっぷりかけて食べてください。」だそうだ。
 加熱していないから甘みも旨味もしつこくならないし。

 冷凍できたりすると云うことなしだ。

 今度は冷凍可能かどうかAI君に聞いてみると、何と可能だそうだ。
 これはドレッシングとしてだけでなく、料理の下味としても優秀だということで、肉と一緒に混ぜて冷凍しておくと下味がついて料理の手間が省けるだけでなく、玉葱の酵素の働きで肉が柔らかくなるという。
 「一度にたくさん作ってストックしておけば、日々の料理がぐっと楽になりますね。」と結んである。

 これで玉葱の用途は決定。
 日々の料理に使いつつ、ドレッシングとして冷凍した分は3ヶ月くらいかけて使い切ろう。

 と腑に落ちて安心した瞬間、思い出した。

 我が家では去年の10月から今年の2月くらいにかけて、一文字(分葱の熊本方言)が大量に採れ、刻まれてジップロックLサイズ6袋位冷凍されているのだった。
 これは饂飩・蕎麦・拉麺・汁物を食べる度に大量に入れて食べているのだが、なかなか減らない。

 我が家には冷蔵庫が2つと冷凍庫が1つあるのだが、既に大量に採れた野菜と自家製の干物、冷凍食品などで満席状態である。

 買い物で冷凍ものを買おうとすると「冷凍庫満員でしょ!」と妻に怒られるくらいなのだ。

 不作なら不作なりに、豊作なら豊作なりに、人間というものの悩みは尽きないものである。

『古今集』を読む-小野小町と男たち5-在原業平-(新米国語教師の昔取った杵柄160)

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小町と業平

 『古今集』で小野小町と贈答歌のあるのは文屋康秀・僧正遍昭・安倍清行・ 小野貞樹の4人である。

 この時代の貴族階級同士で贈答歌もなく結びつくというのは考えにくいので、小野小町のお相手としてはこの4人、ということになろう。
 中でも小野貞樹が一番有力という話も既にした。

 だが、ここに小野小町の恋人として非常に根強い伝説を持った男がいる。
 そうっ、在原業平である。

 人々が世界三大美女の相手をドサ周りの役人に同定してしまうはずがない。

 ここはやはり稀代の色好みである在原業平と結びつけなかったら気が済まなかったのだろう。

 『伊勢物語』の「昔男」とされる業平は、何せ後に二条帝の妃となるやんごとなき藤原高子(ふじわらのたかいこ)と駆け落ちしてしまうような人物なのだ。(『伊勢物語』第6段「芥川」)

 『古今集』では在原業平の歌と小野小町の歌を並べて掲載しているが、これが相聞歌であるとは云っていない。

[詞書]
 題知らず 業平の朝臣
[和歌]
 秋の野にささわけしあさの袖よりもあわでこし夜ぞひぢまさりける  622番
[現代誤訳]
 秋の野の笹原を掻き分けて貴女との逢瀬から帰った朝の袖よりも、逢えなくて帰ってきた夜の袖の方が私の涙でもっと濡れているのですよ。

[詞書]
 題知らず 小野小町
[和歌]
 見るめなきわが身をうらとしらねばやかれなであまのあしたゆく来る  623番
[現代誤訳]
 男を見る眼も逢う気もない恋愛不毛の海辺である私と知らないので、貴方は海人のように朝な夕なに足を棒にしてまで通ってくるのでしょうね。そろそろ諦めたら?

 どうも深草少将の百夜通いの話はこの歌から想像を膨らませた結果のような気がする。

 深草少将のモデルとされる僧正遍昭はむしろ小野小町から逃げ回っている印象さえあるので、どうも変だと思ったのだ。
 
 在原業平は『伊勢物語』第23段「筒井筒」では大和から「河内の女」のところまで通っている。
 授業の予習で調べたところ、この道程は片道徒歩3時間なのだ。
 いくら色好みを原動力としているとはいえ、恐るべき健脚である。

 松尾芭蕉か在原業平かと云うくらい足の丈夫なこの人と、行方不明の僧正遍昭が混ざって出来上がったのが、深草少将百夜通いなのだろう。

 『古今集』では二つ並んでいる在原業平と小野小町の歌を、『伊勢物語』が見逃すはずがない。

『伊勢物語』第25段
[原文]
 むかし、男ありけり。あはじともいはざりける女の、さすがなりけるがもとに、いひやりける。
[現代誤訳]
 昔、男がいた。「逢いたくない」とは云わない女で、しかい、いざとなると何かと口実をつけて逢わない、思わせぶりな女のところに、歌を届けさせた。

[和歌]
 秋の野にささわけし朝の袖よりもあはで寝る夜ぞひちまさりける
[現代誤訳]
 すぐに逢ってくれるような女に対してより、つれない君に対する気持ちの方がずっと深くなって来たよ。

[原文]
 色好みなる女、返し、
[現代誤訳]
 恋愛体質の女が返歌した。

[和歌]
 みるめなきわが身をうらとしらねばや離れなで海人の足たゆく来る
[現代誤訳]
 逢う気もない私のところによく通ってくるわねえ。ご褒美に逢ってあげようかな。

 物語中の和歌は既出だが、『伊勢物語』の文脈に合わせてより過激に誤訳してみた。

 信憑性は薄くとも有名人二人の関係は創作者たちの想像力を掻き立てたらしく、小野小町の末路伝説にも在原業平は登場する。

 源顕兼の纏めた鎌倉時代の説話集『古事談』の一説である。

[書き下し文]
 業平朝臣二条后(宮仕以前)を盗み、まさにこれを去らんとする間、兄弟達(昭宜公等)追い至りてこれを奪い返す時、業平の本鳥を切りて云々。すなわち髪の生ゆる程、歌枕を見ると称して関東に向けて発す。(『伊勢物語』に見ゆ。)奥州八十島に宿する夜、野中㆘に和歌の上句を詠ずる声有り。その詞に云う、秋風の吹くたびごとに穴目穴目。音に就いて求むれどもこれ人無く、ただ一つの髑体(どくたい)有り。明けて旦(あした)なおこれを見れば、件の髑髏(どくろ)の目穴より、薄(すすき)生い出でたりけり。風の吹くごとに薄のなびく音、このごとく聞えけり。奇怪なる思いを為す間、ある者云う、小野小町下りてこの国に向かい、此所において逝去(せいきょ)す。件(くだん)の髑体なり云々。ここに業平哀憐(あいりん)を垂(た)れ、下句を㆒に付けて云う、小野とはいわじ薄生いけり云々。件の所を小野といいけり。この事『日本紀』に見ゆ。
[現代誤訳]
 在原業平が宮仕以前の二条の妃と駆け落ちをして、まさに彼女と逃げようとしたとき、彼女の兄弟たちが追いかけて奪い返した。その時、業平は皇族なので首を斬る訳にも行かず、代わりに貴族の命とも云うべきもとどりを斬ったという。そのため業平は髪が生えそろうまで、歌枕を見ると称して関東に向けて旅行に出かけた。『伊勢物語』東下りの一節にある。東北の八十島というところに宿泊した夜、野原の下のどこからか和歌の上の句を映ずる声が聞こえた。その詩はこう云った。「秋風の吹く度にああ眼が痛い痛い。」音のする方に行ってみたが人はおらず、ただ一体の骸骨があった。一夜明けた朝にこれを見ると、例の髑髏の眼窩からススキが生えている。風が吹く度に薄が靡く音が昨日聞いた歌の上句のように聞こえたのだ。奇怪なことだと思っていると、ある者がこう云った。「小野小町は京から下ってこの国に向かい、ここで死んだのです。例の髑髏は小野小町のものです。とか何とか。」それを聞いて業平は可哀想に思い、下の句を上の句に付けて云った。「ここを小野小町の墓とは云うまい、薄が生い茂っている荒れ果てた野原なのだから。」例の場所を小野と云った。この話は『日本書紀』に載っている。

 まず『日本書紀』に載ってるわけねーだろ、とツッコミたい。
 『日本書紀』は奈良時代の歴史書、小野小町も在原業平も平安時代の人である。載せられるわけがない。

  もう一つのツッコミは「お前、知り合いだったら埋葬くらいしろよ!」というものだ。

 どうも男たちは小野小町に冷たい。
 どこかでザマーミロと思っている節がある。

 まあ在原業平は小野小町に限らず興味をなくすと限りなく冷たいが。
伊勢物語を読む9-筒井筒3-元の鞘に収まる-(新米国語教師の昔取った杵柄9)

因果応報

 こういう人の最期はこうなるに違いない。

 何だかこの2人が一番のお似合いのような気がしてきた。

『古今集』を読む-小野小町と男たち4-小野貞樹-(新米国語教師の昔取った杵柄159)

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小野小町を振り返る

 さていよいよ本命、小野小町のお相手発掘が始まってから最も有力な候補者と云われ続けている人の登場である。 

 名前は小野貞樹(おののさだき)と云う。

 見れば分かる通り、小野小町と同姓である。

 中国や韓国では古代から同姓同士の結婚は長らく刑法に触れる犯罪であった。

 したがってこれらの国でお相手探しが行われる際には真っ先に候補から外される対象である。

 ところが小野小町と小野貞樹は同姓であるだけでなく、実際に血縁関係がある可能性が高い。

 小野姓の有名人と云えば能書家として知られる小野篁(おののたかむら)がいる。
『宇治拾遺物語』を読む-小野篁、広才のこと-(新米国語教師の昔取った杵柄125)

河童と帝

 小野篁については既に書いた。

 古い研究の中には小野小町はこの小野篁の娘であるという説もある(前田善子『小野小町』三省堂、1943年。)し、小野貞樹は小野篁の甥であるという説もある。

 いずれにせよ、同姓である、ということで、遠い親戚くらいの関係はあったことが推察される。

 そしてこの人も安倍清行と同じく、歌仙ではない。
 『古今集』に二首だけ勅撰されているのも安倍清行と同じである。

 そして安倍清行と同じく「田舎わたらい」の役人である。
 甲斐守・甲斐守(再任)・大宰少弐・肥後守を歴任している。

 小野小町の歌に閨怨歌(けいえんか:男と遠く離れて暮らす女が孤閨を悲しむ歌)が多いことから考えて、彼女が小野貞樹の妾(しょう:正妻でない妻)であっても矛盾しない。

 二人の贈答歌を見てみよう。

[和歌]
 今はとて わが身時雨(しぐれ)に ふりぬれば 言の葉さえに うつろいにけり  『古今集』782番
[現代誤訳]
 今はもう潮時でしょうか。私の身に時雨が降り注いで老けてしまったので、愛してくれた貴方の言葉さえも冷たいものに変ってしまったのですから。

 「題知らず」の詞書しかないこの小野小町の歌は彼女の最も有名な歌に通ずるものがある。

[和歌]
 花の色は うつりにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに  『古今集』113番 『百人一首』9番
[現代誤訳]
 花の色は虚しく色褪せてしまいました。美貌を謳われた私もまた物思いに耽っているうちに老けてしまいました。

 私の容姿が衰えたから冷たくなったんでしょ、と、我が身を嘆きつつ相手の心変わりを責める歌である。

 どうもある年齢を過ぎてからの小野小町は「自分は老けて魅力がなくなってしまった」というコンプレックスに囚われていたようだ。

 これに対する小野貞樹の返歌。

[和歌]
 人を思う 心の木の葉に あらばこそ 風のまにまに ちりもみだれめ
[現代誤訳]
 人を想う心が木の葉ならば風に吹かれて散り乱れてしまうということもあるかもしれませんね。でも人の心はもっと強いものですよ。私は少しも心変わりしていません。

 若い頃の激情はないけれど、今も変わらず愛していますよ、という、歳を重ねた夫婦の極めてまっとうな感覚で詠まれた歌に思える。

 この二つの歌からは確かにそれなりの年月を二人で過ごしてきた者同士の心の通じ合いが感じられる。
 やはり本命は小野貞樹で決まりだろう。

 小野貞樹のもう一つの歌を見てみよう。


[詞書]
 甲斐の守に侍りける時、京へまかりのぼりける人につかわしける
[現代誤訳]
 甲斐の国司であったときに、京都へ上る人にことづけた歌

[和歌]
 みやこ人 いかがととわば 山たかみ はれぬ雲ゐに わぶとこたえよ  『古今集』937
[現代誤訳]
 都にいるあの人が私はどうしているか尋ねたならば、甲斐の山が高いので雲が晴れることがないように、いつも辛く侘しい気持ちで暮らしていると答えてくれ。

 既に紹介した次の4首は同じくドサ回り専門の安倍清行を相手に詠まれても矛盾のないものだが、この歌の返歌と考えても得心が行く。

 夢の中の逢瀬を詠った歌である。

[和歌]
  思いつつ 寝ればや人の 見えつらむ ゆめとしりせば さめざらましを 『古今集』552
[現代誤訳]
 あの人のことを思いながら寝たので夢に出てきてくれたのだろうか。夢だと分かっていたなら目を覚まさなかったのに。
[和歌]
 うたたねに 恋しき人を 見てしより 夢てうものは たのみそめてき 『古今集』553 
[現代誤訳]
 転寝で恋しい人を夢に見て以来、夢というものを頼りになるものだと思うようになったよ。
[和歌] 
 いとせめて 恋しき時は むば玉の よるの衣を 返してぞきる 『古今集』554
[現代誤訳]
 孤独で真っ暗な夜にたいそう苦しくて恋しい時には、言い伝えの通り寝巻を裏返して着てあの人に夢で逢うことにしよう。
 ここでも安倍清行の場合に考察した「夫婦ならばなぜ地方まで付いて行かなかったのか」という疑問が湧いてくるが、謎解きのヒントになりそうな小野小町の歌がある。

[和歌]
 限りなき思いのままに夜も来む夢路をさえに人はとがめじ
[現代誤訳]
 私の限りない想いに誘われるままにあの人は夜も来るだろう。なにせ夢の中のことだからまさか世間の人はそんなことまで咎めたりはしないだろう。

 「む」を意志の助動詞と取ってこの歌は男の代わりに小野小町が言伝てたのだとする解釈もあるようだが、「む」を推量あるいは適当の助動詞と取れば本人の歌としても矛盾がない。

 この歌を見る限り小野小町には正式ではない結婚(平安時代にこれを定義するのも難しいが)をしていた時期があり、しかもそれは人目を憚るようなものだった可能性が高い。

 この歌の詞書は「題知らず」である。
 具体的なシチュエーションを明らかにできなかったのかもしれない。

 小野小町の後半生が不幸であったという伝説はこうしたところからもまことしやかに作られていった可能性がある。

 恋と歌を謳歌する誰が見ても綺麗な女
→人目を憚る恋に身を窶す女
→ドサ回り役人の妾(しょう)
→パッとしない中年女
→ホームレスの老女
→眼窩から草の生えた髑髏

 それにしても、小町伝説をこうして系列化してみると、計り知れない悪意を感じる。
 ルッキズムの仇波に乗った人に対する妬み嫉み僻みだけでは説明できないような。

 そういえば、小野小町の歌はほとんどすべてが男性に向けたもの、または男性との恋について歌ったものである。
 そして某宗教の某大師様も、某芸能の某能楽師も、それ以降の物語の作者も、どれも男性である。

 小野小町は男性にとって、かつて肘鉄を喰った美女を思い出させる存在なのかもしれない。
 男性たちはもう死んでしまって反論できない小野小町を不幸にすることで無意識の復讐をしているのではないだろうか。

 男って嫌だなあ。

『古今集』を読む-小野小町と男たち3-安倍清行-(新米国語教師の昔取った杵柄158)

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小野小町と安倍清行

 小野小町が贈答歌を残している三人目の男は安倍清行(あべのきよゆき)である。 

 この人は『百人一首』に採録されていないし、歌仙でもないし、あちこちのドサ回りと共に少しずつ官位も上がっているから、余芸より役人としての仕事を真面目にしていた人のようだ。

 したがって勅撰されたのも『古今集』の2首だけだが、そのうちの一首がなんと小野小町に宛てたものなのだ。

[詞書]
 下つ出雲寺に人のわざしける日、真静法師の導師にて言えりけることばを歌によみて、小野小町がもとにつかわせりける
[現代誤訳]
 下の出雲寺で法事が行われた日、真静法師が導師をして云った言葉を歌に取り込んで詠み、小野小町の所に持って行かせた歌。

 ちょっと分かり難い詞書だが、坊さんの有難い言葉を和歌に取り入れて作歌するということは、仏教に対する信仰の篤かった平安貴族にはよくあったことらしい(牧野淳司「唱導の場から生まれた和歌
-『古今和歌集』の安倍清行と小野小町の贈答をめぐって-」)。

[和歌]
 つつめども 袖にたまらぬ 白玉は 人をみぬめの 涙なりけり  (『古今集』556)
[現代誤訳]
 包もうとしても袖で包み切れずにこぼれ落ちてしまう白玉は、貴女に逢ってもらえなくて流す私の涙なのですよ。

 前掲の論文によればこの歌のうち坊さんの言葉は「つつむ」「袖」「白玉」だそうで『法華経』に出て来るそうだが、お経に手を出すと一生をその研究に捧げなければならない気がするので、老い先短い私はこれを敬して遠ざけることにする。

 この歌に対する小野小町の返歌。

[和歌]
 おろかなる  涙ぞ袖に  玉はなす  我はせきあへず  たぎつ瀬なれば  (『古今集』557)
[現代誤訳]
 本気じゃないのに変な歌贈って来ないで。玉になるくらいの涙なら大したことないわ。私の涙は堰き止められなくて激流になってるんだから。

 これははっきり云って恋情から発せられた歌とは思えない。

「俺とこのラーメンは熊本一だからな。」
「だったら俺とこのラーメンは九州一だ。」
「だったら俺とこのラーメンは日本一だ。」
「だったら俺とこのラーメンは世界一だ。」
「だったら俺とこのラーメンは銀河系一だ。」
「だったら俺とこのラーメンは宇宙一だ。ん、どうした、もうないのか?」

 こんなやり取りを連想してしまった。

 小野小町と文屋康秀や僧正遍昭との相聞歌のやりとりは「これはこうこうこういう状況で」と説明する物語(文屋康秀の場合は『古今著聞集』、僧正遍昭の場合は『大和物語』)が残っており、しかも男女の関係を否定する方向で話が進んでいる。

 ところが安倍清行との場合は短い詞書だけである。

 それだけ人々の興味を惹かなかったのだろうか。

 「あいつと小町? なーいない。小町が相手にするはずがない。」という感じか。

 だいいち坊さんの有難い話を聞いて女のことを思い出し、坊さんの言葉を「これもーらい」と歌に取り入れて贈るというのは、この安倍清行という人はなかなかいい性格をしている。

 そういう意味では面白い話だ。
 そう考えると小野小町の歌は不謹慎を窘める歌、ということになる。

 ただ、実は『古今集』にはもう一つ気になる詞書がある。

[和歌]
 起き退いて 身を焼くよりも 悲しきは 都島辺の 別れなりけり 『古今集』1104番
[現代誤訳]
 朝起きて見て思い出して、身を焼くよりも悲しいのは、都島の近くで貴方と別れたことでした。

 『伊勢物語』ではただ「女」となっているが、『古今集』の撰者たちは小野小町作としている。

 この歌の詞書。

[詞書]
 からこと 清行下
[現代誤訳]
 安倍清行の「からこと」の歌の下に書いてあった歌。

 「からこと」の歌とは次の歌である。

[和歌]
 浪のおとのけさからことにきこゆるは春のしらべやあらたまるらむ  『古今集』456番
[現代誤訳]
 唐琴の波の音が今朝からやけに大きく聞こえるのは、立春になって音までも春に相応しく変わったのだろうか。

 詞書は安倍清行の歌の下に小野小町の歌が書いてあったという意味だと思うのだが、一体何に書いてある歌の下に書いてあったのか。どう考えても『伊勢物語』(古今集より後に成立)ではない。
 『古今集』では安倍清行の歌は456番、小野小町の歌は1104番で全く違う場所にある。

 この二つの歌は無関係、と思ったからこそ『古今集』の撰者たちは切り離してかけ離れたところに置いたのだろう。

 確かに意味を考えても相聞歌とは思えない。 
 というより、やり取りとしては成立していない。

 安倍清行の歌は季節の移り変わりを詠んだ歌、小野小町の歌は閨怨歌(けいえんか:男と遠く離れて暮らす女が孤閨を悲しむ歌)である。

 噛み合っていない。

 しかし、たった2首しか『古今集』に採られておらず、プロの歌人でもない安倍清行の歌がなぜか2首とも小野小町の歌(または彼女作とされる歌)とペアで扱われていたことが窺い知れる詞書である。

 もしかすると、だが、同時代の人にはそうすることが暗黙の了解だったのではないか。

 2つの詞書はその痕跡かも知れない。

 小野小町のパートナーが「田舎わたらい(『伊勢物語』)」の役人だったとすると、彼女の歌に前述の閨怨歌が多い理由も納得がゆく。

 安倍清行は周防守・伊予守・播磨守・陸奥守・讃岐守と、地方官を歴任している人なのだ。

 正式な婚姻関係があれば女性は地方まで付いて行く場合が多いだろうが、そうでなければ都で待つことになる。
 そうすれば逢瀬は夢の中ということになる。

[和歌]
  思いつつ寝ればや人の見えつらむゆめとしりせばさめざらましを 『古今集』552
[現代誤訳]
 あの人のことを思いながら寝たので夢に出てきてくれたのだろうか。夢だと分かっていたなら目を覚まさなかったのに。
[和歌]
 うたたねに恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき 『古今集』553 
[現代誤訳]
 転寝で恋しい人を夢に見て以来、夢というものを頼りになるものだと思うようになったよ。
[和歌] 
 いとせめて恋しき時はむば玉のよるの衣を返してぞきる 『古今集』554
[現代誤訳]
 孤独で真っ暗な夜にたいそう苦しくて恋しい時には、言い伝えの通り寝巻を裏返して着てあの人に夢で逢うことにしよう。

 一連の歌は遠くにいる恋人を想って詠まれたものなのかも知れない。

 坊さんの説教で女のことを思い出すような少しズレた、多忙で不在がちの男。
 多感で情熱的で、だが、寂しがり屋で繊細な女。

 最後の言葉まで想像できる。

 「嫌いになったんじゃないの。私、疲れちゃった。」

『古今集』を読む-小野小町と男たち2-僧正遍昭-(新米国語教師の昔取った杵柄158)

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僧正遍照

 僧正遍昭(そうじょうへんじょう)は平安時代のそれほど身分が高くない人としては珍しく生没年がはっきりしている人である。
  弘仁7年(816年)に生まれ、寛平2年1月19日(890年2月12日。ユリウス暦のため日にちも違う)に死んでいる。

 平安時代前期の人である。
 本名は良岑 宗貞(よしみね の むねさだ)で、出家して遍昭を名乗った。
 六歌仙、三十六歌仙であり、『百人一首』にも歌を残す。

 以前ちょっとだけ六歌仙を紹介した時に私は次のように書いている。
 熊本へ行こう78-JR三角線で行く三角西港リメイク3 川尻駅-(河童日本紀行550)
「古今集」を読む-六歌仙-(新米国語教師の昔取った杵柄32)として改作

[和歌]
 天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ
[現代誤訳]
  千の風よ。天に通ずる道を吹き閉ざしてくれ。天女がもう少しだけ天に帰れないように。

  ちらっと垣間見たこの世の人とは思えないほどの美少女。それが去っていく後ろ姿への未練。助平な人である。だが、厳格な儒学徒(嘘)である私にもほんの少しだけ気持ちのわかる歌だ。

引用終わり。

 これはもしかすると彼が小野小町を初めて見た時に詠んだ歌かも知れない。

 詞書には「五節(ごせち)の舞姫を見て詠める」とある。
 五節の舞姫とは、主に大嘗祭や新嘗祭で舞われる「五節舞」を披露する、未婚の貴族の少女たちである。
 小野小町の出自はほとんど分かっていないが、古代からの名門小野家の出身だとすると、五節の舞姫の資格は十分にある。

 などと、所詮戯言だな、と思いながら「小野小町 舞姫」で検索してみると、出るわ出るわ、この歌は小野小町のことを詠った歌だという説はまったく珍しくない。
 「日の下に新しきものなし」というのは本当である。

 そしてこの説について調べているときに知ったのだが、小野小町の被害者伝説のある深草少将は何と僧正遍昭をモデルにして創作された人だという説も、非常に有力な説としてあるようだ。  
 そういえばこの人の世俗の時の別名は良少将で、『大和物語』にはこの少将が登場するのだが、その時の帝の仮名が「深草帝(史実は仁命帝)」なのだ。
 『大和物語』は『伊勢物語』などと同じく歌物語である。

 この『大和物語』には良岑宗貞が突然出家して遍昭になってしまった事情がかなり克明に描かれている。

 ただし、克明に描かれているということは相当の長文だということで、これを現代誤訳するのは面倒くさいので(お前の仕事何?)、ごく一部だけを紹介することにする。

[原文]
 深草の帝と申しける御時、良少将という人、いみじき時にてありける。いと色好みになむありける。
[現代誤訳]
 深草の帝とおっしゃる天皇の治世に、良少将という人がたいそう寵愛されていたそうだ。この人は強い恋愛体質の人だった。

[原文]
 しのびてときどきあいける女、おなじ内にありけり。
[現代誤訳]
 人目を避けてときどき逢っていた女が、同じ内裏にいた。

[原文]
 「今宵かならずあはむ」と契りたりける夜ありけり。
[現代誤訳]
 「今晩は必ず逢おうね」と約束していた夜があった。

[原文]
 女いたう化粧して待つに、音もせず。
 目をさまして、夜や更けぬらむと思うほどに、
 時申す音のしければ、聞くに、「丑三つ」と申しけるを聞きて、男のもとに、ふと言いやりける。
[現代誤訳]
 女はたいそう気合を入れて化粧をして待っているのに、音沙汰もない。
 眼を覚まして、夜も更けてしまったなあと思っているうちに、時刻を伝える音がしたので、聞いてみると、「丑三つ時」と申したのを聞いて、男の下に伝言をやった。

[和歌の上の句]
 人心 うしみつ今は 頼まじよ
[現代誤訳]
 あれほど信じていた貴方の心も、真夜中まで待たされた今は、もう信じませんよ。

[原文]
 といいやりけるに、おどろきて、
[現代誤訳]
 と云ってよこしたのに男が驚いて飛び起きて、
 
[和歌の下の句]
 夢に見ゆやと ねぞすぎにける
[現代誤訳]
 夢で貴女を見たと安心して寝すぎてしまいましたよ。
[原文] 
 とぞつけてやりける。しばしと思いて、うち休みけるほどに、寝過ぎにたるになむありける。
[現代誤訳]
 と文をつけてやったのだった。ほんの少しの間だと思って、休んでいるうちに、寝過ごしてしまったのだった。
 
[原文]
 かくて世にも労あるものにおぼえ、つかうまつる帝、かぎりなくおぼされてあるほどに、この帝、うせ給いぬ。
  御葬の夜、御供にみな人つかうまつりけるなかに、その夜より、この少将うせにけり。
 友だち、妻も、いかならむとて、しばしはここかしこもとむれども、音耳にも聞こえず。
 法師にやなりにけむ。身をや投げてけむ。
[現代誤訳]
 このようにしてこの女がこの世で一番の関心事であったのだが、仕えていた帝が、限りなく寵愛されているうちに、この帝が亡くなってしまった。
 御葬式の夜、お供の人々がみな参列する中で、その夜から、この少将は行方不明になってしまった。
 友達や、妻は、どうなったのだろうと、しばらくはあちらこちらを探したけれども、全く音沙汰がない。 
 法師にでもなったのだろうか、川や池に身でも投げたのだろうか。

 正妻さん、居たんだな。

 昔の人は昔の基準で行動する、という当たり前のことを分かっていながら、純愛している人に正妻さんがいた、などと分かると何か興醒めしてしまう。

 良少将には三人の妻がいたことが物語には書いてある。
 さらに物語には書いていないが、ウィッキーヲサガペディア(仮名)によると子供は5人いたらしい。
 
 そのうちの1人は『百人一首』にも歌の採られた素性法師である。

[和歌]
 今来むと いいしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな
[現代誤訳]
 今すぐ来るっていうからワクワクしながら待ってたら夜が明けてとうとう有明の月になっちゃったじゃない。バカ。

 この歌は『土佐日記』などと同じく女性仮託の歌だと云われる。
 
 父子共に変身願望があったのかもしれない。

 それにしても妻三人と子供五人、さらに宮廷に恋人一人を残して突然出家隠遁か。
 ちょっと怖い性格である。

 良少将は2人の妻にはそれとなく出家を匂わせていたが、正妻さんにはおくびにも出さなかったから、この人が一番いい面の皮だろう。

 この後正妻さんは良少将が出家して隠れている寺に参って夫の行く末を知りたいと仏に祈るのだが、それを少将が陰で聞いていて血涙を絞る。
 だが、正妻さんの前に出て行かないので行方不明のままである。

 宮廷でも何度か捜索するのだが、その度に居場所を変えて姿をくらます。
 ますます怖い性格に思えて来た。

 執念の捜索が実って観念した良少将が姿を現したとき、既に高僧となっていた。

[原文]
 この大徳の顔容貌姿をみるに、悲しきこと物にも似ず。その人にもあらず、蔭のごとくになりて、ただ蓑をのみなむきたりける。少将にてありし時のさまのいと清げなりしを思い出でて、涙もとどまらざりけり。
[現代誤訳]
 この高僧の顔貌や風貌を見ると、これほど悲しいことはない。良少将の面影は全くなくなって、人影のようになってしまって、それが蓑だけを着ているようだ。少将だったときの様子の大層清楚な面影を思い出して、涙が止まらない様子だったのだ。

 やっと遍昭こと良少将の居場所が分かった後、小野小町登場である。

[原文]
 小野の小町という人、正月に清水に詣でにけり。行いなどして聞くに、あやしう尊き法師のこゑにて読経し陀羅尼よむ。この小野の小町あやしがりて、つれなき様にて人を遣りて見せければ、「蓑一つを着たる法師の、腰に火打笥など結ひつけたるなむ、隅にゐたる」といいけり。
[現代誤訳]
 小野小町という人が、正月に清水寺に詣でた。修行などをしていると、不思議に貴い様子の法師の声で読経し陀羅尼経を読む人の声が聞こえてくる。小野小町は不思議に思って、さりげない様子で人を遣って見てもらうと、「蓑一つを着た法師で、腰に火付けの道具を結び付けた僧が、隅の方に座っていた。」と云った。

 遍昭は相変わらず酷い格好をしているようだ。

[原文]
 かくてなお聞くに、声いと尊くめでたうきこゆれば、ただなる人にはよにあらじ、もし少将大徳にやあらむと思いにけり。「いかが云う」とて「この御寺になむ侍る。いと寒きに御衣一つ貸し給え」とて、
[現代誤訳]
 こうして更に聞いていると、声がたいそう貴く素晴らしく聞こえたので、ただの人では決してないだろう、もしかしたら良少将が出家して高僧になっているのではないかと思った。「どう答えるだろうか」と思って、「私小野小町が今このお寺にいます。大層寒いので服を一着貸してください。」と云って、更に和歌を添えた。

[和歌]
 岩の上に旅寝をすればいと寒し苔の衣をわれにかさなむ
[現代誤訳]
 旅の岩枕で寝ているのでとても寒いです。貴方の粗末な苔蒸した衣でもいいので私に貸してくださいませんか。

 すると返歌が来た。

[和歌]
 よをそむく苔の衣はただ一重かさねばつらしいざ二人ねむ
[現代誤訳]
 俗世間に背いて出家した私の持っているボロ衣は一着しかありません。これを被って二人で寝ましょう。

[原文]
といひたるに、さらに中将なりけりとおもひて、ただにも語らひし中なれば、あひて物いはむと思ひていきければ、かい消つやうに失せにけり。
[現代誤訳]
返歌にはこう書いてあったので、こんなふざけて気の利いた返事がすぐできるのは絶対に良中将(ママ)に違いない、と思って、直接語らったこともある仲なので、会ってものを云いたいと思って行ったのだが、かき消すようにいなくなっていた。

 確か遍昭の出家前の役職は少将だったはずだが。
 もしかするとこの話は『大和物語』を編纂するときに別々の話から持ってきてつなぎ合わせたのかも知れない。
 もしそうだとすると編集者は私なみに注意に問題がある人である。
 この人に「大切なものを置き忘れたりしませんか。」「大事な約束を忘れたことがありませんか。」などと質問をしてみたいものだ。

[原文]
 一寺求めさすれど、さらににげて失せにけり。
[現代誤訳]
 小野小町は寺中を探させたが、跡形もなく消えていなくなっていた。

 なんとまあ、天下の美女を袖にして逃亡するとは。
 小野小町の美貌には接したことがあった訳だから、もしここで会ってしまったら折角克服した煩悩が一気に復活してしまうと思ったのかもしれない。

 こういうのを本当の「隠遁」というのだろう。

 この人のどこがどう深草少将に繋がっていくのか全く分からない。

 この場面をドラマにするならばOSTはバッハの「トッカータとフーガ ニ単調」が相応しいに違いない。
 「接触(toccata)と遁走(fugue)」である(アホか)。

 ということで、おあとがよろしいようで。
 

 

『古今集』を読む-小野小町と男たち1-文屋康秀-(新米国語教師の昔取った杵柄158)

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卒塔婆小町

 私は古銭マニアであるから古銭に関する知識は興味がない人の100倍くらいある。
 もっとも0にどんな数をかけても答えは0だから、比較に意味がないような気もするが。

 そんな私の小学生くらいからの知識に「小町銭」というのがある。
 
 初めてこの言葉を見る人は「小町」という部分から連想して「造幣されたばかりのピカピカの未使用銭」をイメージするかもしれないが、違う。

 これは「穴の開いていない穴銭」という意味なのだ。

 「穴銭」と云われてもピンとこない人がいるかも知れないから説明すると、日本の貨幣は元々中国は唐の開元通宝を手本に作られたが、この銭の形式は「円形方孔」という。つまり、丸い銭に四角い穴の開いたものだ。

 中国も戦国時代までは貝の形をしたもの(貝貨)、
蟻鼻銭

小刀の形をしたもの(刀貨)、

明刀

鋤の形をしたもの(布貨)など、
方足布

さまざまなデザインの貨幣があった。

 ところが、秦の中国統一に伴ってそこで使用されていた円形方孔の半両銭が統一通貨となり、その後の中国の貨幣は近代までずっとこの形の銅銭だったため、それに倣った日本の貨幣も同じく円形方孔だった訳だ。 

半両銭

 これは私が所有している半両銭だが、土産物用に現代に作られたものなのでこれを見て私が裕福であると勘違いして僻んだりしないようにしていただきたい。他の古代銭も同様の土産物である。専門用語では参考銭という。

 小町銭というのは本来開いている筈の穴が開いていない銭、という意味の言葉で、専門用語ではエラー銭という。

 ネットなどで「小町銭とは」と調べて見ると絵銭(本来流通を目的として作られない玩弄用の銭)だと書いてあったりするのだが、穴の開いていない穴銭になぜ「小町」の名が冠されたかということを考えると、この説はちょっとおかしい。

 などと長々とコレクション自慢と蘊蓄を披露してしまったが、これは勿論「穴の開いていない五円玉を想像してほしい」という一言で済んでしまう話なのだ。

 古銭マニアというのは事程左様に面倒くさい人種なのである。

 閑話休題(じまんばかりしてほんだいにはいらないところはぼうこくのだいとうりょうみたいだぞ)。

 ではなぜ穴の開いていない穴銭を小町銭というようになったかと云えば、これは小野小町にフラれた男たちが作り出した誹謗中傷なのである。

 つまり、「俺様のようなイイ男に靡かないなんて、あいつは身体に何か欠陥(エラー)があるに違いない。エラー銭のようなものだ。」という負け惜しみなのだ。

 一人が云っただけだったら千年も続くような話にはならなかっただろうから、複数で噂を広めた自信過剰のかつ卑劣な連中がいたのだろう。

 小町銭よりもっと酷い伝説は、小野小町が野垂れ死にをして野ざらしの骸骨になる、というものだが、これは悪意に基づいて作られたもの、というよりも、おそらくは楊貴妃が野ざらしになったという伝説のパクリなのだろう。

 小野小町にフラれた人の代表は深草少将という人で、小町から「100日通ってきたならば貴方の望みをかなえましょう」と云われて通い続け、99日目に雪の夜道で凍死してしまったという。

 この気の毒な人への同情が小町銭伝説や野ざらし伝説の相当強い根拠となっているようだ。

 ところが深草少将は世阿弥という室町時代前期の能楽師が後世に作り出した架空の人物であることが分かっている。

 しかし、なにせ世阿弥は能楽の大成者とされている大人物だから、私ごときがこれを指摘しても、それこそ僻みによる誹謗中傷であると攻撃されるのがオチなので、この話はこれくらいにしておく。

 閑話休題(はやくおわれせんそう)。

 ところで、なぜ小野小町は1000年以上に亘って話題にされ続けているかと云えば、「美しかったから」である。

 楊貴妃、クレオパトラと共に「世界三大美女」に数えられる。

 だが、「美女」については過去に検討したことがある通り、人によって、地域によって、時代によって、その指す具体的な顔は変わる。
浪速早朝散歩5-美人画の名手-(河童日本紀行219)

二枚舌

 実際小野小町についてもその肖像画は人により時代により変化しているのが分かる。

小野小町 鈴木春信

鈴木春信画 小野小町 パブリック・ドメイン
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=75083683

小野小町 菊池容斎
菊池容斎画『前賢故実』小野小町 パブリック・ドメイン
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=635305

 たとえば江戸後期の浮世絵師鈴木春信の描いた小野小町や明治時代の画家菊池容斎の描いた小野小町は瓜実顔だが、これはこの時代に瓜実顔が好まれたからである。

 ちなみに夏目漱石は自らの小説にたびたび瓜実顔を登場させているので、これについては私の恩師の論文を参考にされたい。(玉井敬之『夏目漱石論』瓜実顔の女-その二つの顔-)

小野小町 加納探幽 
狩野探幽 『三十六歌仙額』小野小町 パブリック・ドメイン
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10484703

 また、江戸前期の画家狩野探幽の描いた小野小町は平安時代に最も好まれた下膨れの引き目鈎鼻であるが、これまた江戸前期まではこうした顔が好まれていたからであろう。

 したがって「美女である」という属性は小野小町の歌を語る上では殆ど意味を為さず、むしろその結果として齎された「モテる」という現象の方が重要であると考えられる。

 小野小町は和歌の名手で六歌仙に数えられる。

 三十六歌仙の中でも最初に「歌仙」とされた超一流の6人に入っている訳だ。

 ちなみに六歌仙は彼女の他に僧正遍照、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大伴黒主で、在原業平については『伊勢物語』のモデルともされ、既に何度も紹介した。

 では、彼女はどんな男たちに言い寄られたのだろうか。

 これについてはフラれた男たちの怨念が作り出した後世の伝説ではなく、誰とどんな歌を贈答しているかを見てみよう。
[詞書]
 文屋の康秀三河掾(じょう)になりて、「県(あがた)見にはえ出で立たじや」と言いやれりける、返事によめる
[現代誤訳]
 文屋康秀が三河国の役人になって、「三河見物に一緒に出掛けられませんか」と和歌を送った返歌に詠んだ。
[和歌]
 わびぬれば身をうき草の根をたえて誘ふ水あらばいなむとぞ思う 『古今集』938番
[現代誤訳]
 ああもういやだっ!て思っていたところなの。渡りに舟ってやつかしら。ここでのしがらみなんか断ち切って貴方と一緒に行ってあげてもいいんだけど。どうしようかなー。

 「青少年に悪い影響を与える」などと云われたら嫌なのでちゃんとした訳も添えておこう。
[口語訳]
 我が身を嘆いていたところなので、浮草の根を断ち切るようにしがらみを断ち切って、誘う水があるのならばそれに流されて去ってしまおうかとも思うが、やはり断りましょうか。

 「いなむ」は「去(い)なむ=去りましょう」と「否む=断る」の掛詞であり、迷っている様子が伺われる。

 文屋康秀は小野小町とともに六歌仙の1人で、和歌の名手である。
 「和歌の名手」である、ということは在原業平や『古今集』の撰者達と同じく、「大出世の見込みはない」というのとほぼ同義である。
 実際「掾(じょう。えん、とも)」は国司の第三頭官、つまり序列を下から数えた方が早い役人である。

 『百人一首』にはこういう歌が採られている。
[和歌]
 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐というらむ
[現代誤訳]
 山からの風が吹くとたちまち秋の草木が萎れてしまうので、なるほど、だから山風のことを嵐(荒し)というのだなあ。

むべ
ムベの実 Miya CC BY-SA 3.0
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1208305

 祖父が文学者だった我が家では正月になると家族みんなで『百人一首』をしていたが、歌心など欠片もないクソガキだったわたしは「『むべ』ってアケビに似たあの甘い果物だよなあ…」と密かに生唾を飲み込むのが精一杯で、どんな意味の歌なのかなど考えたこともなかったのだった。

 『古今著聞集』には文屋康秀と小野小町の歌のやりとりの場面について次のように書かれている。

[原文]
 小野小町が若くて色を好みし時、もてなし、ありさま、たぐいなかりけり。『壮衰記』というものには、「三皇五帝の妃も、漢王、周公妻も、いまだこの奢りをなさず」と書きたり。かかれば、衣は錦繍(きんしゅう)のたぐいを重ね、食には海陸の珍を調え、身には蘭麝(らんじゃ)を薫じ、口には和歌を詠じて、よろづの男をば、いやしくのみ思い下し、女御、后に心をかけたりしほどに、
[現代誤訳]
 小野小町が若くて色気があった頃、そのもてはやされる様子は比較できる女がいなかった。『玉造小町壮衰記』には、「中国の伝説の皇帝たち三皇五帝の妻も、呂后や周公旦の妻でさえ、これほどの贅沢はしていなかった。」と書いている。じっさい小町は、着物は金銀や多彩な糸で模様を織り出した美しい織物や刺繍したものを重ねて着、食べ物は山海珍味を調達し、着物の内側には高価な蘭の花や麝香の香りをたき込み、和歌を上手に詠み、あれこれの男たちをつまらない奴らだと見下し、いずれは皇后や妃になろうかとさえ思っていたが、

 三皇五帝は大昔の皇帝たちでしかも質素を旨とした人が多いのでその妻たちも決して贅沢はできなかったはずだし、周公旦もまた孔子が模範としていたくらいだからその妻も慎ましい暮らしをしていたはずだからこれは太公望の妻(故事成語「覆水盆に返らず」の一方の主役)と混同しているのではないかと思われる。
 なぜ夏(か)桀王(けつおう)の妃末喜(ばっき)や殷紂王(ちゅうおう)の妻の妲己(だっき)に喩えなかったのか疑問である。
 どうも怪しい、と思って偶々国書データベースというところに『玉造小町壮衰記』の原本があったので確かめて見ると、確かに三皇五帝・漢王・周公という記述があり、引用元からおかしいようだ。
 この書物には小野小町がどんな贅沢な食べ物を食べていたか相当のスペースを取ってそのメニューが書いてあって興味深かったので一部掲載する。

小野小町のメニュー

[メニュー](上から下に進む)
[魚偏に舟](こう)鮒(ふ)の炰(つつみやき)・翠鱒(すいそん)の炅(あぶりもの)・鮹(しょう)鱖魚(けつ)の韲(おうれもの)・羹(あつもの)は東河の鮎(あゆ)を沸かし・臟(しるもの)はこの海の鯛(たい)を煮る・鮭(さけ)の條(おさし)と鯔(ぼら)の楚(すはいり)・鱣(うなぎ)の[肉月に肯](すし)と鮪の[肉月に肅]・鶉(うずら)の[肉月に黍](しるもの)と鳫(かり)の醢(しおから)・鳳(おおとり)の脯(みのわた)と雉(きじ)の臛(つちかき)・熊の掌(てのひら)と兎(うさぎ)の脾(はらわた)・塵(のじか)の膸(あぶら)と龍の脳(なつき)・煮たる鮑(あわび)と焦(い)れる蠟(なまこ)
[現代誤訳]
 ドジョウとフナの包み焼・ニジマスの炙り物・タコとケツギョの燻製・アユのスープ・タイの澄まし汁、サケのメフンとボラのヘソ・ウナギの寿司とマグロの蒸寿司・ウズラのスープとカモの塩辛・オオトリの腸の塩辛とキジのスープ・熊のてのひらとうさぎの内臓・ノジカの骨髄と龍の脳・煮アワビと煎りナマコ

 『玉造小町壮衰記』は、道端でホームレスの老女に出逢った作者が昔の生活を彼女に尋ねると、衣食住の贅沢について滔々と答え始めるという趣向である。

 その老女の容貌は、「面黒く歯は黄わめなり(現代誤訳:顔は浅黒く歯は黄ばんでいて汚らしい)」と、まるで見てきたようである。

 その贅沢話に登場する膨大な文物は何か中国製のネタ本か何かがあるとしか思えない。

 小野小町の贅沢の数々が微に入り細を穿って書いてある。

 架空の誹謗中傷を読む人に信じさせるだけのためにはあまりにも念が入っている。
 現代のストーカーを思わせる。

 『古今著聞集』は13世紀後半の成立、『玉造小町壮衰記』は『著聞集』に引用されているから、成立はそれに先立つものと考えられる。
 小野小町ホームレス説はどうもこの本に始まっているようだ。

 ところが、ちゃんとした論文(「平安期における小野小町享受」)によるとこの本の作者はあの天台宗の開祖空海上人であるという。

 贅沢の話が微に入り細を穿っているのが上人の煩悩そのものに見えて何だか人間らしくて微笑ましい。わざわざ「小野」を「玉造」に替えたのは誹謗中傷だと思われたくなかったからか。(仮名)というやつである。

 だが、世阿弥の話と同じ理由で私はこの話から手を引くことにする。
 『古今著聞集』に戻ろう。

[原文]
 十七にて母を失い、十九にて父におくれ、二十一にて兄に別れ、二十三にて弟を先立てしかば、単孤無頼(たんこぶらい)のひとり人になりて、頼む方なかりき。
 いみじかりつる栄え日ごとに衰え、華やかなりし貌(かたち)年々(としどし)にすたれつつ、心をかけたるたぐいも疎(うと)くのみなりしかば、家は破れて月ばかりむなしく澄み、庭は荒れて蓬(よもぎ)のみいたづらにしげし。
[現代誤訳]
 17歳で母を失い、19歳で父に死に遅れ、21で兄と死別し、23で弟に先立たれてしまったので、孤独で身寄りのない一人の人になって、頼りになる人もいなくなった。
 素晴らしかった繁栄も日ごとに衰え、花のようだったかんばせも年々醜くなり、浮名を流した相手とも日々に疎くなるばかりだったので、家は壊れて穴の開いた天井からは澄んだ月が見える状態になり、庭は荒れ果ててヨモギだけがただ茂っている。

 次は一転お涙頂戴と相成る。

 零落の様子がこれでもかと描かれるところは『枕草子』の作者の清少納言の末路の伝説となぜか似ている。
 そういえば清少納言にも男をこっぴどく拒否する歌がある。これも『百人一首』の歌である。
[和歌]
 夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ
[現代誤訳]
 夜が明けないうちに鶏の鳴き声を真似て朝が来たように装っても函谷関と違って日本の私の逢坂の関は絶対に開きませんよ(あんたなんか相手にしないよ)。

 清少納言は紫式部からも「そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよく侍らむ。(現代誤訳:あんなに中身のない人の行く末は、どうして良いものでしょうか、いや、良いはずがない。)」などと云われているから、この時代には小野小町や清少納言のようにあまりはっきり意志を表す女性は「あいつ碌な死に方はしないよ」などと叩く風潮があったのかもしれない。

[原文]
 かくまでになりにければ、文屋康秀が三河掾にて下りけるに誘われて、

  わびぬれば身をうき草の根をたえて誘う水あらばいなんとぞ思う

と詠みて、次第におちぶれゆくほどに、果てには野山にぞさそらいける。人間のありさま、これにても知るべし。
[現代誤訳]
 これほどまでに落ちぶれてしまったので、文屋康秀が三河国の役人になって下っていくのに誘われて、「わびぬれば(現代誤訳は前述)」の歌を詠んだのだ。
 更に身を落していくうちに、最後は野山を彷徨うホームレスになってしまったそうだ。
 人間というものの本性は小野小町のこの事例を見ても分かるだろう。

 最後は「貰い手のあるうちに嫁がないとこうなるぞ」という脅しにも取れる表現である。

 既に紹介した「東雲のストライキ節」の最後を思わせる。
熊本へ行こう77-JR三角線で行く三角西港リメイク2 熊本駅-(河童日本紀行549)

[原文]
 自由廃業で廓は出たが♪ ソレカラ、ナントショ♪ 行き場ないので屑拾い♪
[現代誤訳]
 遊女は嫌だと云って遊郭を出たけれど♪ それからどうしよう♪ 行き場がないのでくず拾いくらいしかする仕事がない♪

 『十訓抄』にも小野小町に関してほぼ同じ文章があるが、最後だけ違う。

 『十訓抄』では、
[原文]
 懐旧の心のうちには、悔しきこと多かりけんかし。
[現代誤訳]
 昔を懐かしむ気持ちになったときは、悔しいことが多かったに違いない。

と、こちらの方が随分優しい感じがする。

 こうしてみると「小野小町が零落してホームレスになり最後は野ざらし」というストーリーの原型を作ったのはどうやらやはり〇〇上人(自粛)のようだ。
 『古今著聞集』も『十訓抄』もその話から漢籍の教養を引っぺがして枠組みだけにし、それに小野小町と文屋康秀の和歌のやり取りを肉付けした感じである。

 文屋康秀も小野小町も生没年不詳のため、この歌のやり取りが互いに何歳くらいで行われたのか分からない。

 ただ、『古今著聞集』や『十訓抄』のように、没落した小野小町に文屋康秀が救いの手を差し伸べようとしたという設定にしてしまうと、「正妻は都、現地妻として付いて行く」などというストーリーにせざるを得ず、小野小町の歌の最後の句の「去(い)なむ=去りましょう」と「否む=断る」の掛詞に何だか嫌らしい感じが籠ってしまうので私はこれを採らない。

 まだ若く自分の将来にも才能にも夢を持っている若者である文屋康秀が、作歌仲間の若くて美しい小野小町に「今度地方に赴任になったから結婚して付いて来てくれ」とプロポーズしたという話と思いたい。

 ただ、文屋康秀のように有名な歌人の歌の割に、この歌は全体が伝わっていないのだ。

 残っているのは「県見(あがたみ)=地方の見物」に行きませんか、という、何だかプロポーズにしては気弱な感じの断片のみ。
 そもそも『古今集』に採られている文屋康秀の歌は4首すべてが『百人一首』の歌と同じく自然を詠ったもので、恋歌は一つもない。他に勅撰集に採られた2首も同様である。

 恋愛体質ではないのだ。

 文屋康秀は『古今集』の仮名序で紀貫之から、

[原文]
 文屋康秀は、ことばはたくみにて、そのさま身におはず。いはば、あき人のよき衣着たらむがごとし。
[現代誤訳]
 文屋康秀は言葉の使い方が上手だが、その技巧に中身が伴っていない。云ってみれば、商人がその商品を売るために上等の着物を着ているようなものだ。

と云われてしまっている。

 小野小町も実は必死のプロポーズなのに「またこの人の好きないつもの冗談よね。本当に口が上手いんだから。」と軽く受け流してしまったのかもしれない。

『古今集』を読む-凡河内 躬恒-(新米国語教師の昔取った杵柄157)

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四季の移ろい

 これぞ「田舎わたらいしける人」(現代誤訳:ドサ周りしていた人)(『伊勢物語』第23段「筒井筒」)ではないだろうか。

  凡河内 躬恒のウィッキーヲサガペディア(仮名)の略歴を見ていてそう思った。

 寛平6年(894年)甲斐国に任ぜられたのを皮切りに、丹波国、和泉国、淡路国に任ぜられるなど、宇多朝から醍醐朝にかけて地方官を歴任。延長3年(925年)、最後に任ぜられた和泉国から帰京して間もなく死んでいる。
 実に31年間にわたり山梨県や関西一円の「田舎わたらい」をしていた訳だ。

ドサ日記

 この絵は紀貫之ではなくこの人にこそ捧げたい。

 『古今集』仮名序では「さきのかいのさう官おうしかうちのみつね」と書いてあるから、『古今集』の撰者として働いたのは甲斐国から帰ってすぐのことらしい。

 取り敢えずその後は甲斐のような関東ではなく関西に遣られているから、これが『古今集』編纂のご褒美だったようだ。
 都で出世することは遂になかった。

 ドサ周り専門の役人と見做されていても、歌人としての実力は十分に認められていたらしく、『古今集』(60首)だけでなく、ほかに134首が勅撰集に採られている。
 また、『躬恒集』という家集も出版している。
 勿論三十六歌仙の1人である。

 さらに、歌物語である『大和物語』にもエピソードが収録されている。

[原文]
 同じ帝の御時(おおんとき)、躬恒(みつね)をめして、月のいとおもしろき夜、御あそびなどありて、「月を弓張というは何の心ぞ。そのよしつかうまつれ」とおおせたまうければ、御階(みはし)のもとにさぶらひて、つかうまつりける、
  てる月を 弓張としも いふことは 山べをさして いればなりけり

 禄に大袿かづきて、又、

  しらくもの このかたにしも おりゐるは 天つ風こそ 吹きて来つらし

[現代誤訳]
 さて、同じ醍醐天皇の治世のとき、凡河内 躬恒を宮中に呼んで、月がたいそう趣のある夜、宴席をお開きになって、「月を『弓張』というのは何故なのか。その理由を教えなさい。」とおっしゃったので、躬恒が殿上に上がる階段のところに侍して歌を詠んだ。

  輝く月を「弓張」というのは、月も矢のように山の端を指して入って行くからなのだなあ。

 歌のご褒美に頂いた大袿を肩に掛けてもう1首詠んだ。

  白雲のようにふうわりとした恩賜の大袿が私の肩にかかっているのは、天からの風のような帝の恩が私の方に吹いて来たんだろうなあ。

 ドサ周りから勅撰集の撰者になり、天皇の謎かけを解いて褒美まで貰うのだからこれまた壬生忠岑なみの急上昇だが、このあと関西一円のドサ周りに出かけなければならないのだから、「俺の何が悪かったんだよ」と嘆いたかもしれない。

 そこでそのヒントを彼の数多くの和歌の中に探してみたい。

 一応AI君にも聞いてみよう。
 どんな荒唐無稽な説が飛び出すか楽しみである。

 AI君曰く。「躬恒が地方を転々としたのは、和歌の実力はトップクラスだが、家柄が低いために中央での出世が見込めず、経済的な安定を求めて地方官のポストを渡り歩かざるを得なかった、というのが、最も現実的な理由です。」
 
 正直何とも無難な説で、AI君が色々な学者さんと対話を重ねてどんどん賢くなっているのが分かる。

 だが、これでは面白くないので、彼の和歌を見てみよう。

 まず『古今集』の62首をチェックしてみたが、特徴としては圧倒的に恋歌が少ないことが挙げられる。
 ほとんどの歌が花鳥風月、特に桜花を詠っており、優れた歌もまたそれに多い。

 勿論恋愛の激情を詠った歌もない訳ではない。

[和歌]
 君をのみ思いねにねし夢なればわが心から見つるなりけり (608番)
[現代誤訳]
 貴女だけを想って寝たときの夢なので、私の心によって貴女が現れたよ。

という歌や、
[和歌]
 わが恋は行くえもしらず果もなし逢うを限りと思うばかりぞ (611番)
[現代誤訳]
 私の恋は何処に行くのか分からないし限りも分からない。ただ会いたいと思うばかりだ。

 私達が恋しい人を夢に見たいと思ってもなかなかその人が現れないのは、一説には夢がレム睡眠時に長期記憶に残さないしょうもない短期記憶を消去する作業だかららしい。
 夢に出てくるのは行きずりの人が多いのはそのせいである。

 だから「貴女のことを一生懸命想ったので貴女が夢に現れた」という凡河内 躬恒の歌に私はどこか眉唾な感じを受ける。

 また、凡河内 躬恒の恋歌には相手の様子を伺わせる生き生きとした描写がない。
 この歌と比べてみれば分かる。

[和歌] 
 契(ちぎ)りきな かたみに袖(そで)をしぼりつつ 末の松山 波こさじとは 『百人一首』清原元輔(42番)
[現代誤訳]
 約束したよね。お互いに泣きながら。波が末の松山を越すことがないように、二人の心が変わってしまったりしないことを

 私は凡河内 躬恒の恋歌には「みんなが作るから仕方なく作りました」という「面倒くさっ!」感さえ覚えてしまう。
 したがって凡河内 躬恒に私は恋愛体質を感じない。

 つまり、ドサ周りの原因は在原業平のようなスキャンダルによるものではなさそうである。

 凡河内 躬恒は『百人一首』に採られた歌が

[和歌]
 心あてにをらばやをらむ初霜のおきまどわせる白菊の花
[現代誤訳]
 当てずっぽうに折れるのなら折ってみようか、初霜が折りて区別が付きにくくなっている白菊の花を

と、白菊の歌なので「白菊の人」という印象があったのだが、実は『古今集』の他の撰者の3人と同等かそれ以上に桜を好き過ぎる人だったようだ。

 この人の庭に桜があったら枯れてしまっただろう、という話は既にした。
『古今集』を読む-紀友則-(新米国語教師の昔取った杵柄155)

[和歌]
 山高み 雲ゐに見ゆる 桜花 心のゆきて 折らぬ日ぞなき 『古今集』358番
[現代誤訳]
 山が高いので雲の高さのようにも見えて我が身は行くことができない桜花だが、我が心はそこに行って花を手折らぬ日はないのだ。

 『古今集』だけで桜を詠んだ歌は7首あり、全62首の1/9超である。

 花鳥風月は凡河内 躬恒が最も好きなものだったのではないだろうか。

 紀友則の「桜・猫・電車」じゃなかった、(これはHDS-Rの記憶課題だ、)「桜・梅・女」から「女」を抜いて代わりに「梅」を入れた「桜・梅・菊」が凡河内 躬恒のラヴだったような気がする。

 凡河内 躬恒が突然の宮中勤めをどう思っていたか窺い知れる歌が『古今集』のもう終わりに近い「雑歌」にある。

[詞書]
 物思ひける時、いときなき子を見てよめる
[現代誤訳]
 物思いに耽っていた時、たいそう幼い我が子を見て詠んだ。

[和歌]
 今更になにおひいづらむ竹の子のうき節しげき世とはしらずや (957番)
[現代誤訳]
 今更何でこの子はこの世に生まれてきて育っているのだろうか。筍に「よ」(節と節の間の空間)が無いように、嫌なことの多い「世」のことをまだ知らないからだろうか。

 凡河内 躬恒の厭世は『古今集』後半になるほど募って来る。

[和歌]
 世を捨てて 山に入る人 山にても なお憂き時は いづち行くらむ (956番)
[現代誤訳]
 世の中を捨てて出家して山に隠遁する人は、山の中でも浮世と同じように嫌な気持ちになったときには何処に行くのだろうか。

 私は凡河内 躬恒の「ドサ周り」の理由は自然を愛しすぎていたのと宮中に馴染めなかったのが理由だと考える。

 最後に、見ているだけで爽やかになって来る気持ちの良い歌。凡河内 躬恒の歌の中で一番好きな歌である。
 高校生にもお勧めだ。

[詞書]
 みな月のつごもりの日よめる
[現代誤訳]
 6月30日に梅雨明けの空を仰ぎ見て詠んだ歌。

[和歌]
 夏と秋と行きかう空の通い路はかたえ涼しき風やふくらむ (168番)
[現代誤訳]
 夏と秋とが行きかう空の通り道は、片方は涼しい風が吹いているに違いない。今年も夏がやってきた。もうすぐ秋だ。

 私達八洲の住民は、梅雨入りのときより随分と気温が上がった梅雨明けの日、額から汗が滴り落ちながら灼熱の太陽が輝く空を見て、なぜか秋の空を見たような爽やかさを瞬間的に感じてしまう。

 四季の移り変わりを何度も体感し、素晴らしいZunowに刻んできた人だからこそ歌える歌である。

 もっとも韓国にも「シウォナダー(汗だくだけど涼しいー)」という感覚があるらしいが。

 近年夏と冬しかなくなってきたこの地球で、今後もこの歌の良さを分かる人たちが絶滅しないことを祈りたい。

 

『古今集』を読む-壬生忠岑-(新米国語教師の昔取った杵柄156)

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大抜擢

 前回紀友則への挽歌を紹介した壬生忠岑を今回は取り上げる。

 みぶのただみね、と平仮名で打っても変換候補が出てこないので、いちいち漢字の人名をコピペしなければならないので面倒くさい。
 だが、この人を抜きにしては『古今集』は成り立たないので我慢して紹介したい。

 『古今集』は紀貫之・紀友則の紀家二巨頭とこの 壬生忠岑、そして、おおしこうちのみつね、という、これまた変換候補が出てこない面倒くさい人の4人が撰者となって完成した。

 凡河内躬恒が「面倒くさい人」と云っても私が面倒くさいだけで、この人の性格が面倒くさい訳ではなく、悪口を云っている訳ではないので誤解のなきよう。

 今上の文を打ちながら変換したところ、私が出来るだけ使うようにしている「云って」がすぐに出ず「言って」となり、更に出来るだけ使わないようにしている「無く」が出てきてしまったので消去して打ち直した。
 実に面倒くさい(面倒くさいのはお前の性格じゃ)。

 閑話休題(そろそろせきゆせいひんいがいのものもねあがりしてくるころなのでちゅういしましょう)。

壬生忠峯
菊池容斎画『前賢故実』壬生忠峯 パブリック・ドメイン
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3947739

 さて、上の絵は菊池容斎画『前賢故実』に残る壬生忠岑であるが、お世辞にも堂々とした大丈夫には見えない。どちらかと云えば冴えない中年男、という感じである。
 実際社会的な地位は高くなかったらしく、官位は頂戴した記録が無く、『三十六歌仙伝』にも「先祖不見」などと書かれている。
 『古今集』「仮名序」によれば、衛門府というところで府生(武士抬頭以前に貴族を護衛していた役目)として働いていたようだ。

[原文]
 延喜五年四月十八日に、大内記(だいだいき)きのとものり、御書(ごしょ)のところのあづかりきのつらゆき、さきのかいのさう官おうしかうちのみつね、右衛門の府生みぶのただみねらにおおせられて、万えうしうにいらぬふるきうた、みづからのをも、たてまつらしめ給いてなむ。
[現代誤訳]
 延喜5年(905年)4月18日に、中務省大内記(だいだいき)書記官の紀友則、御書所(ごしょどころ)の所長代理の紀貫之、前甲斐国荘官(かいのくにのそうかん)の凡河内躬恒、衛門府(えいもんふ)衛士の壬生忠岑たちに(醍醐天皇が)命じられて、『万葉集』に収録されていない古い歌や彼らの秀歌を収録した歌を編集して勅撰集として献上させられたのである。

 これを見ると出世という点ではほぼ絶望的だった他の3人の編纂者に比べても明らかに官職が低い。

 他の多くの歌仙たちと同じく「歌を歌わせたら仙人だが仕事をさせたら潜人」というような人だったのだろう。

 もっとも、この絵に書いてある歌を見れば、浮かない顔をしているのも当然とも云える。

[和歌]
 有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし
[現代誤訳]
 月の残っている空の下の貴女との冷淡な別れを経験してから、夜明けほど憂鬱になる時間はない。

 この歌は『百人一首』に採られているから人口に膾炙しているが、『古今集』にはない。

 ただ、『後撰集』には同趣旨の歌がある。

[和歌]
 夢よりもはかなき物は夏の夜の暁かたの別れなりけり  (170番)
[現代誤訳]
 夢よりも儚いものは夏の夜の暁時分の別れであるなあ。

 おそらくは『百人一首』の歌と同じ相手との逢瀬と離別を詠った歌と思われる。
 しかもこの2つの歌から察するに「振られた」という状況であろう。

 同じく『後撰集』の歌。

[詞書]
 女のもとに初めてつかはしける
[現代誤訳]
 片思いの女の下に初めて使いを出して遣った歌

[和歌]
 独りのみ 思えば苦し いかにして 同じ心に 人を教えむ  (603番)
[現代誤訳]
 私一人だけが貴女を想っているので苦しい気持ちです。どのようにしたら貴女を私と同じ気持ちにさせられるのでしょうか。

 『古今集』にはこんな歌も。

[和歌]
 月影に わが身をかふる ものならば つれなき人も あはれとや見む    (602番) 
[現代誤訳]
 月影に自分の姿を変えてしまうならば、つれないあの人も可哀そうだとしみじみと見てくれるだろうか。

 私にはこの歌の女も前3首と同じ人ではないかと思える。

 有明の月の残る暁に別れた一夜限りの逢瀬への未練が満ち満ちている。

 しかも、壬生忠岑の気持ちにも関わらず、暁の別れの後は一切相手にされていないことが伺われる。
 女の方は軽い気まぐれだったのかもしれない。

 やはり『古今集』の歌である。
[和歌]
 風吹けば 峰にわかるる 白雲の 絶えてつれなき 君が心か  (601番)
[現代誤訳]
 風が吹くと、山の峰でさっと分かれて吹き飛んで行く白雲のように、消えてしまって音沙汰のないつれない君の心だなあ。

 出世できない、モテない。

 そんな人が勅撰集の撰者になったのだから、大抜擢と云っていいのではないか。

 お相手の女性もさぞや驚いたことだろう。

 気まぐれで部屋に入れて見たらパッとしないので以後相手にしなかった男が、いきなり天皇の詔勅で作られる勅撰集の撰者になったのだから。

 そういえばあの人のくれた和歌があったっけ。
 友達に自慢できるかも。
 あ、貰うたびにすぐ燃やしちゃってたんだ。
 いかにも貧乏って感じの藁半紙みたいなパッとしない紙に書いてあるんだもん。

 なんてね。

『古今集』を読む-紀友則-(新米国語教師の昔取った杵柄155)

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紀友則

 紀友則は紀貫之と同じく紀家の人間である。
 紀家は古代の豪族の流れを汲む旧家である。

 貫之とは従兄弟に当たる。

 しかし、現在では紀貫之ほど有名ではない。
 どちらかと云えば「影に隠れている」という存在である。

 実際、紀貫之と同じく『古今集』の編者の1人(後の2人は壬生忠岑、凡河内躬恒)なのだが、 完成を見ずに没したと云われ、そのときに詠まれた紀貫之と壬生忠岑の挽歌が残っている。

[和歌]
 時しもあれ  秋やは人の  わかるべき  あるを見るだに  恋しきものを (壬生忠岑)
[現代誤訳]
 よりによって、ただでさえ寂しさの募るこの秋に、歌集の完成を待たずに逝ってしまうなんて。友則よ、生きている姿を見ているだけでも切なくなる君の姿だったのに。

 紀友則を悼んだ壬生忠岑のこの歌には、何やら友情以上の、恋人に対するラヴのようなものさえ感じられる。 

 前々回も話した「好き過ぎる」という奴だろうか。
『古今集』を読む-在原業平-(新米国語教師の昔取った杵柄152)

[和歌]
 世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
[現代誤訳]
 人の世に桜というものがまったくなかったとしたら、春の心はさぞやゆったりと長閑であっただろうに。

 在原業平のこの歌には好き過ぎて浮足立ってしまう自分に戸惑う、殆ど恋愛に近い桜への感情が表されている。

 ところがこの紀友則にもまた「好き過ぎる」歌が残っている。やはり桜に対するものである。

[和歌]
 久方の ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ
[現代誤訳]
 久し振りに柔らかな陽光が差し込んで折角ゆったりした気分になりそうな春の日なのに、花が風に吹かれて散るのが惜しくてちっとも落ち着かないことだ。

 『古今集』から『百人一首』に収められたこの歌もまた、桜を「好き過ぎる」数寄者たちの、そぞろ神に憑りつかれた落ち着かない心を表した歌である。

 紀友則が好き過ぎたのは桜だけではなかったようで、梅に関してもこんな歌が残っている。

[和歌]
 雪降れば 木ごとに花ぞ 咲きにける いづれを梅と 分きて折らまし
[現代誤訳]
 浅い春の日に雪が降ると、木々に白い花が咲いたよ。どれが梅花でどれが雪花だと区別して折り取ることはできないなあ。

 雪の積もった梅の枝を折ろうとすれば枝が揺れて雪が降りかかったはずで、さぞ冷たかっただろうに、梅の枝を折って家に持って帰るのに夢中な訳である。

 妻か想い人にでも見せるつもりなのだろう。
 この場面に連なる歌。

[和歌]
 君ならで 誰にか見せむ 梅の花 色をも香をも 知る人ぞ知る 『古今集』38番
[現代誤訳]
 君以外の誰に見せるっていうんだい。この折り取った梅の花。桜に比べれば地味だけど、色も香りも、知ってくれる人は知っているんだ。

 これで紀友則の桜、梅、と共に「好き過ぎる」ものは分かってもらえただろう。

 「桜、梅、女」。

 何だか HDS-Rの記憶課題みたいだな。(本当は桜、猫、電車。)

※HDS-R:改訂長谷川式簡易知能評価スケール。日本で最も広く使われる認知症のスクリーニング検査。

 ところで「桜切る(折る)馬鹿梅切らぬ(折らぬ)馬鹿」という諺は現在でも桜と梅の手入れの仕方の違いを表したものとして有名だが、平安時代には桜を手折る歌が結構ある。
 だから紀友則の行為を眉を顰めて見る必要はない。

 たとえば『古今集』の撰者の1人凡河内躬恒の歌。

[和歌]
 山高み 雲ゐに見ゆる 桜花 心のゆきて 折らぬ日ぞなき 『古今集』358番
[現代誤訳]
 山が高いので雲の高さのようにも見えて我が身は行くことができない桜花だが、我が心はそこに行って花を手折らぬ日はないのだ。

 もし山の上ではなくこの人の庭に桜があったら、その木は確実に枯れただろう。

 桜と日本人の付き合いは長いから、この時代にはもう「桜は折ったらヤバい」ということに気付いていた人もいたと思うのだが、何せ人間の病さえ悪霊や妖怪が引き起こすというレベルの科学知識だから、何の躊躇いもなくポッキリと折ってしまう「好き過ぎる」人が多かったのだろう。

 同じ紀家の人間だからという訳でもないが、桜や梅に関する歌を見ると、私は紀貫之に感じる神経ネットワークの伝達速度の速さをこの紀友則という人にも感じてしまう。
 彼の歌にも後の「万葉ラブ」たちが噛みついたような理屈っぽさはない。やはり直感で歌われた、どちらかと云えば「素直」に属する歌である。

 これだけの認知機能があれば他の分野でも活躍できたはずである。

 ところが貫之も友則も文学以外の業績はほとんど伝わっていない。

 これには実は「中古のサスペンスドラマ」とでも云うべき事件が絡んでいる。

 勿論「使いまわしのストーリーのサスペンスドラマ」という意味ではない(しつこい)。
 「中古」は平安時代を指す時代区分だという話も既にした。
『古今集』を読む-藤原敏行-(新米国語教師の昔取った杵柄154)


 その事件は「応天門の変」という。

応天門の変
常盤光長 伴大納言絵巻 パブリック・ドメイン
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2053466

 この絵の通り、都にあった応天門が放火されて焼け落ちた事件である。

 この犯人を巡って、あいつだ、いや、あいつだ、いや、こいつだ、と二転三転した挙句、門を建造した伴家の者の仕業だ、ということになった。

 私は最初この事件について解説するつもりだったのだが、現代人にはほぼ馴染みのない人物が複雑に絡み合っていてあまりにも面倒くさい。(「面倒くさい」は認知症の初期症状らしいが。)
 興味のある人はウィッキーヲサガペディア(仮名)でも読んで欲しい。

 とどのつまり、応天門の変の首謀者とされた伴家に連座して、紀夏井ほか紀家の中心人物たちが流罪となり、この古代以来の名家は政治の表舞台から姿を消すことになった。

 そして最終的に得をしたのはご存知の通り藤原家だった。
 「一番得をした奴が一番怪しい」という、サスペンスのセオリーから云えば、一番怪しいのは藤原家であるが。

 そんなことが起ってからこの世に現れたのが紀友則なり紀貫之だったのだ。

 政治の表舞台は漢文の世界である。
 こちらには藤原家がデンと構えている。

 表舞台に出られない紀友則や紀貫之は舞台裏である仮名の世界、つまり和歌の世界で活躍せざるを得ない。

  文字における公私あるいはジェンダーについては既に書いた。
「土佐日記」を読む1-馬のはなむけ-(新米国語教師の昔取った杵柄41)
ドサ日記

 したがって『万葉集』や『古今集』などの仮名文学の世界では有名な人でも、『六国史』などの漢文の世界には一行たりとも登場しない人はザラにいる。

 こういう人たちは都に居ても出世の見込みはないから、あちこちの国の役人として「田舎わたらい」(『伊勢物語』第23段「筒井筒」冒頭)をしていたことが推測される。有り体に云えば上の絵の通り「ドサ回り」である。

 『古今集』には『万葉集』のような地方色はあまりないが、任地を後で懐かしんだ歌がこうした「ドサ周り」を偲ばせる。

 やはり紀友則の歌。
 これは詞書から読んだ方が面白いので添える。

[詞書]
 筑紫に侍りける時に、まかりかよいつつ碁うちける人のもとに、京にかえりまうできてつかわしける
[現代誤訳]
 筑紫の国(現福岡県)に赴任していたときに、しょっちゅう通っては碁を打っていた人のところに、京都に帰って来てから使いを遣わして贈った歌。

[和歌]
 ふるさとは見しごともあらず斧の柄の朽ちし所ぞ恋しかりける 『古今集』991
[現代誤訳]
 帰ってきた故郷の都は昔とはすっかり変わり果てていました。斧の柄が腐ってしまうのも気付かないほど没頭して長い間あなたと碁を打っていたあの場所が懐かしいことです。
 
 ちょっと分かり難い比喩だが、中国南北朝時代のものとされる『述異記』を踏まえている。
 例によって書き下し文は適当な参考文献がなく、出鱈目なので禁引用、禁試験対策である。

[書き下し文]
 晋の時樵者(しょうしゃ)の王質(おうしつ)、二童子の棋(き)するに逢う。一物(いちぶつ)をもって質に与う。棗核(さうかく)の如し。これを食いて飢えず、斧を置きて坐して観る。童子曰く、「汝の斧の柯(か)爛(らん)せり。」質郷閭(きょうりょ)に帰るも、復た時人(じじん)無し。 
[現代誤訳]
 晋の時代に木こりの王質が、二人の子供が将棋を打っているのに出会った。子供はアーモンドのような物を王質に与えた。それを食べると空腹を忘れた。斧を置いて座って将棋を見た。しばらく経ってから子供が云った。「お前の斧の柄が腐ってしまったぞ。(随分時が経ったぞ。大丈夫か。)」王質はそれを聞いて慌てて郷里に帰ったが、もう同時代の人は死んでしまって誰もいなかった。

 『土佐日記』にも屋敷が変わり果ててしまった話が出てくるが、地方に赴任して帰京したら「気分は浦島太郎」であったろう。

 歌人たちの政治的不遇が『古今集』の文学的豊穣を齎したのだから皮肉である。

 後世の私達はそのおかげでこの素晴らしい歌集を楽しむことができるのではあるが。

 

『古今集』を読む-藤原敏行-(新米国語教師の昔取った杵柄154)

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藤原敏行

 藤原敏行は前二回に取り上げた在原業平や紀貫之とは違い、現代では中古文学の研究者以外にはほとんど無名であろう。

 ちなみに中古文学と云っても、使用済み(used)の文学ではなく(意味わからんし当たり前)、平安時代の文学のことである。

 これは歴史区分の一種で、奈良時代以前を上古、平安時代を中古、鎌倉・室町時代を近古という。

 これまたちなみに上古・中古と来たら平安時代より後は下古ではないのか、と思う人もいると思うが、「げこ」と入力して変換しても「下戸」しか出てこないから、一般的な呼び名ではない。 

 下戸とは酒を飲めない人のことであり、よく飲む人は上戸という。こちらは「じょうご」と読む。

 閑話休題(もうはなしがそれてるぞ)。

 藤原敏行は存命中には蔵人頭などの官職を歴任したが、何度も病気を理由に辞職しているから、あまり身体が丈夫な人ではなかったようだ。

 また、空海上人と並び称される能書家であったらしいが、現存する書は拓本と云うこともあってか伸びやかさに欠ける気がする(お前何様)。

P-3175_E0168972
山城国高雄山神護寺鐘銘拓本 東京国立博物館蔵 CC BY
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/P-3175?locale=ja

 そしてこの才能がとんでもない仇になったという伝説の持ち主である。

 出典は『宇治拾遺物語』なのだが、あまりにも長い文章なので、適当に端折りながら紹介する。

 敏行朝臣のこと

[原文]
 これも今は昔、敏行という歌よみは手をよく書きたれば、これかれがいうに随いて法華経を二百部ばかり書き奉りたりけり。
[現代誤訳]
 これも今となっては昔のことだが、藤原敏行という歌人は字が上手だったので、あの人この人に頼まれるままに法華経を200部くらい書いて奉納した。

 ところが、突然死んでしまった。  

 自分では死んだとは思えないのだが、拘束されて連行されて行く。
 一体どういう理由で連れていかれるのか尋ねると、次の様な事情だった。

 本来ならば法華経のような貴いお経を書くときには、斎戒沐浴して身を清めて行わなければならないのに、敏行は生臭物を食べて女体にも溺れながら書いてしまった。そのせいで本来なら法華経を奉納して良い転生をするはずの依頼主たちが異形の者に転生してしまった。彼らの敏行を恨むことは甚だしく、彼らの訴訟によってその吟味のために連行されていくのだという。

[原文]
「さて我をばいかにせんとて、かくは申すぞ」と問えば、「おろかにも問うかな。その持ちたりつる太刀、刀にて、汝が身はまづ二百に斬り裂きて、おのおの一切づつ取りてんとす。その二百の切れに汝が心も分れて、切れごとに心のありて、責められんに随(したが)いて、悲しくわびしき目を見んずるぞかし。堪へがたき事たとえん方あらんやは」という。
[現代誤訳]
 「では私をどうしたくて訴訟などしたのか」と聞くと、「愚問だな。彼らの持っている刀でまずお前の身体を200に切り裂いて、それぞれが一片ずつ取ろうというのだ。その200片の一つ一つにお前の心も分けられて、責められることで悲しく辛い目に遭うだろう。耐え難いことはたとえようもないのでは。」という。

 良い転生をしたいならば自分で経を書けば良かっただろうに、代筆家の所為にするとは随分身勝手な連中である。

 あまりに文章が長くてこれは読む方も嫌になるのではないかと思えてきたので中略。

 結局敏行は閻魔様の前に引っ立てられて有罪、ということになり、今は異形の者となった依頼主たちに引き渡されそうになった。
 八つ裂き、じゃなかった、二百裂きの運命である。

 しかし、四巻経を書写して奉納するという仕事がまだ未完であるという敏行の言い訳に大王がコロッと騙され、執行猶予が付いてこの世に戻されたのだった。

 その時大王が敏行の人生の功罪を記した帳簿で確認するのだが、そこには罪ばかりがズラリと並び、功の方は一番最後の四巻経の書写しかなかった、という記述に思わずニヤッとしてしまった。

 どんだけ悪人なんだよ、と思うとともに、功成り名遂げた役人にこんな伝説が出来てしまうというのは、やはり藤原敏行という人の人徳の招き寄せたもの、というか、不徳の致すところというか。

 世間の人からあまり良く思われていなかったのかもしれない。

 本当は敏行に与えられた寿命は後少しあったのだが、訴訟のために早めに連れてこられていたのだから、大王もルール違反をうやむやにする口実が欲しかったのかもしれない。

 こうしてこの世に帰ってきた敏行は悔い改め身を清め、残りの人生を四巻経の書写に捧げた、となれば良かったのだが、そこは何せ平安時代のこと、実に人間臭い結末が待っていた。

[原文]
 ほもとの心の色めかしう、経仏の方に心のいたらざりければ、この女のもとに行き、あの女懸想し、いかでよき歌詠まんなど思ひける程に、暇なくて、はかなく年月過ぎて、経をも書き奉らで、この受けたりける齢、限りにやなりにけん。遂に失せにけり。
[現代誤訳]
 (敏行は)元々色欲の強い男で、仏道の方に心が寄らなかったので、この女の所に泊まりに行ったり、あの女に惚れ込んだり、どうにかして良い歌を詠みたいなどと思っているうちに、写経をする暇などなくて、無駄に月日が過ぎて、四巻経を写して奉納するという約束も守れずにいるうちに、元々貰っていた寿命も尽きたのだろう、とうとう死んでしまった。

 懲りない、というのはまさにこういう人のためにあるのだろう。

 それと、女に現を抜かすのと同レベルの放蕩として「いかでよき歌詠まんなど思いける」という態度が並べられているのだから、当時歌を歌うと云うことが世間にどういう風に受け止められていたか分かる話である。

 「(役人の)勤めもちゃんとせずにアルバイト(写経)と女と音楽(作歌)に夢中なっている人」というのが世間のイメージだったのかもしれない。

 この後はやはり歌人(暇人?)として有名だった紀友則の夢に敏行が現れて、自分が約束を破ったために地獄で苦しんでいること、四巻経を代わりに奉納してほしいということを訴えたのでその通りにした、というエピソードで物語は終わる。

 閑話休題(いらんでのせんそうがいちにちもはやくおわりますように)。

 それでは、藤原敏行の代表作で『百人一首』に採られ『古今集』にも採られている歌。

[和歌]
 すみの江の 岸による浪 よるさえや 夢のかよいじ 人目よくらむ
[現代誤訳]
 昼には逢えない貴女に住之江の岸に寄る(よる)波のように夜(よる)だけでも逢いたいのに、その夜の夢の中でさえ人目を気にして逢ってくれないのですか。

 どうも在原業平の藤原高子のような、身分違いの恋を暗示している気がする。

 『伊勢物語』の「昔男」が在原業平をモデルにしている、というのは巷間広く云われている学説であるが、実は「昔男」のもう一人のモデルは藤原敏行であるという説もある。
 藤原敏行の妻である紀有常の娘は在原業平の妻の姉妹であり、二人は姻戚関係なのだ。
 ロマンスが混ざったり移行したりしても何の不思議もない。

 『伊勢物語』の「筒井筒」と「梓弓」を同一の男女の連続した話と考えると男女間にロマンチックな関係を想像したい人(私もそうだが)たちにとってかなり都合の悪い話になるということは既に書いた。
『伊勢物語』を読む-梓弓-(新米国語教師の昔取った杵柄146)

 そういう人たちにとっては「昔男」が複数いる、というのは魅力的な説である。

 もっとも、この歌の詞書には「寛平の御時の后の宮の歌合せの歌」とあるから、これは相聞歌として謳われたというより座興として作られた可能性が高い。

 それにしてもよく似たキャラクターなのにここまで知名度も人気も違うというのは、官職を歴任した藤原敏行に対して、出世の道を閉ざされてしまった在原業平に対する日本人特有の判官贔屓なのかもしれない。

 さらに『古今集』に採られ、高校の教科書にも載っているものを。
 
敏行は『古今集』に18首採られているのを含め、勅撰集に24首が採られている。何せ三十六歌仙の一人なのだ。

[和歌]
 秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる
[現代誤訳]
 秋が来たと目にははっきりと見えないけれど、風の音によって秋に気付かされることだ。

 この歌は通常作者の季節感の鋭さに気付き、日本の自然でそれを磨いてきた日本人を称える文脈で教えられる歌だと思う。

 だが、私はこの歌に「気付いてみたら私一人」という孤独を感じる。

 「この女のもとに行き、あの女懸想し」ているうちに、季節の移り変わりを共に喜び愛でてくれる人が周囲に誰もいなくなってしまったのではなかろうか。

 「ねえ、見て見て、紅葉が綺麗!」と云われて相手の視線の先に自分の視線を合わせた後で顔を見合わせ、微笑み合う。そこにはコミュニケーションとしての季節の移り変わりがある。

 そんな季節の知り方ではなく、冷たい風がひゅうっと吹いてきて首筋を掠めて初めて知る秋。

 物言えば唇寒し秋の風 

 に通ずる寂しさを感じる。

 そして、

 咳をしても一人

 と冬を知る。

 かつては一目見ただけで異性の心を虜にした、花にも喩えられるかんばせは、いつの間にか深い皴を刻んだ翁の顔に変化している。

 藤原敏行の辞世の句は伝わっていないが、『宇治拾遺物語』にも登場する紀友則が「藤原敏行朝臣の身まかりける時に、よみてかの家につかわしける」という詞書とともに哀傷歌を残している。

[和歌]
 寝ても見ゆ寝でも見えけりおほかたは空蝉の世ぞ夢にはありける
[現代誤訳]
 寝ていても見える。寝ていなくても見えるなあ。すべては蝉の抜け殻のように空虚なこの世で見た夢だったのだ。

 私の好きな敏行の歌はこれだ。

[和歌]
 白露の 色はひとつを いかにして 秋の木の葉を ちぢに染むらん
[現代誤訳]
 白露の色はひとつしかないのに、どうやって秋の木の葉をこんな様々な色に染めるのだろうか。

 一面の紅葉を眼にした作者の感動と不思議がとても素直に詠まれた賛歌である。

『古今集』を読む-紀貫之-(新米国語教師の昔取った杵柄153)

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河童と紀貫之

 さても苦手な『古今和歌集』、次はその主幹である紀貫之である。

 紀貫之については既にそれが正岡子規が断じたような屁理屈を捏ねて歌を作った人ではないことを立証した。

俳句を読む3-正岡子規3-子規v.s.貫之-(新米国語教師の昔取った杵柄88)

 これは貫之の神経ネットワークが同時代の人と比べても、近現代の日本人と比べても発達していて、その伝導速度が異常に速かったことが関係しているのであって、後世の人々が理屈っぽいと思っている歌も実は瞬時に直感によって作られた歌なのだ。

 話の腰を折ってリンク先に行く人も珍しいと思うし、紀貫之という人の短歌をどんなスタンスで解釈するかという重要な問題を孕んでいるので、少しだけ過去のブログを引用したい。

[和歌]
 袖ひぢて むすびし水の こおれるを 春立つ今日の 風やとくらむ
[現代誤訳]
 夏の日に袖を濡らしながら掬って飲んだ水が、冬になって凍ったのを、立春の今日吹く春風が解かしたのだろうか。

 おそらく貫之は春の日に川の水を掬って飲もうとしたのだが、それが思いのほか冷たかったのだ。それで「ああ、これは雪解け水だな」とピンと来た。そこから更に同じ場所で夏に水を飲んだことを思い出したのである。

 確かに、

 袖ひぢて むすびし水の 冷たければ げに雪解けの 水にやあるらむ

と歌やあいい話じゃねえのかい、と子規に代わってべらんめえ口調で云いたいところではある。

 そこの涎喰って寝てる生徒君、「冷たければ」は「冷たし」の已然形プラス「ば」だから順接確定だからね。今日の授業でこれだけは覚えとくように。(楽屋落ちでスミマセン。)

 だが、この人はおそらく脳内ネットワークの伝達速度が異常に速かったのだと思う。だから雪解け水に手が触れた瞬間に脳内イメージが春から冬、さらに夏、と季節が移り替わったのだ。もちろんその際に触覚や視覚も瞬時に生起しているはずである。

 だからこれは決して「理窟ツぽく」詠んだ歌ではない。正直な「感覚」で詠んだ歌なのだ。
 これができるからこそ「歌仙」なのである。

 紀貫之より脳内ネットワークの伝達速度が遅い人は彼のスピードについていけない。
 したがって、この歌を理屈で理解するしかない。

 そうすると「冷てっ!」という感覚と「そうそう、雪解け水って冷たいんだよなあ」という共感は消えてしまって、「上手だねえ貫之は」という感想しか出てこなくなってしまう。

 引用終わり。

 『古今集』に対する誤解は、この紀貫之と近現代人も含めた後世の歌人との神経ネットワークの粗密に依拠している可能性が高い。

 それを『古今集』に収録され教科書にも掲載された実績のある次の歌で考証してみよう。

[和歌]
 桜花 散りぬる風の なごりには 水なき空に 波ぞ立ちける。
[現代誤訳]
 桜の花が散った後に風が吹いてそれを青空に吹き上げると、水もない空に花びらが舞って、まるで海に立つ波のように煌めいているなあ。

 これもまた「袖ひぢて」の歌と同じである。

 花の盛りの終わりかけたある春の日、桜の木の枝に未だかろうじて留まっている花弁が、一陣の春風によってブァーッと((この擬態語、センスがないなあ)舞い散った瞬間に貫之は居合わせたのだ。

 青空に舞い散った無数の花弁。

 この場合、空は、秋や冬の青空のように雲一つない、という必要はない。

 ただ、海を思わせるような蒼空であるべきである。

 そうした真っ青な空間の中に薄桃色をした花弁が吸い込まれていく。

 そうしてあたかも海に波を立てるように極く近距離から遥か彼方まで薄桃色を波立たせながら遠ざかっていく。

 そして桜の花吹雪や花筏を見たことがある人ならば知っていると思うが、こうした状態にある桜の花弁と云うのは、あたかもそれ自身が発光しているかのように煌めくのだ。

 これは決して理屈によって歌われた光景ではない。

 紀貫之という、稀有に発達した神経ネットワークによって捉えられた風景を、直感的に詠った歌なのだ。

 もしかするとこれができるのは同時代の1/10000人くらいの稀有な才能の持ち主だけかもしれない。

 しかも、当時の日本列島には彼と同じような身体能力を持った人はいたのかもしれないが、その人が貫之と同じ作歌をできるような貴族階級に生まれる可能性は0に近かったに違いない。

 だからこうした才能の持ち主の歌を、近世から近代にかけてのフィルターにかけて、「からごころ」による技巧に満ちた歌、というバイアスで解釈してしまうのは勿体なさすぎる。

 ここでアドバイス。
 
 紀貫之の歌を自分に親しいものとする術は、それを最も印象的な写真の一コマ、またはショート動画として切り取ることだと、私は思う。

 「袖ひじて」の歌であれば、春の小川の雪解け水を手で汲んで飲もうとした瞬間のひやっとした冷たさ。眉の間に少しだけ刻まれた皴。

 「桜花」の歌であれば、桜の花弁がブァーッと天空に吸い込まれて行く瞬間。それを眼で追っていくときに脳裏に刻まれるブルースカイブルー。

 歌を一場面の情景にしてみることで、貫之の歌に対する鑑賞力が一気に高まるに違いない。

 え? 

 これって短歌の鑑賞の常識?

『古今集』を読む-在原業平-(新米国語教師の昔取った杵柄152)

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河原業平

 どうも『古今和歌集』は苦手である。

 これは『万葉集』をこよなく愛し、自らも万葉調の短歌を作っていた亡き父の影響もあるかも知れない。

 あるいは正岡子規の「貫之は下手な歌よみにて古今集は下らぬ集に有之候」という刺激的な意見に影響されているのかもしれない。

 いずれにせよ、自分の文章でも『万葉集』や『百人一首』に言及することはあっても、『古今集』について述べることは過去ほとんどなかった。

 ところが、実は『百人一首』の文字通り100首の歌のうち、『古今集』から採られたものはその1/4弱である24首もあるのだ。

 さまざまな歌集の中で日本人に最も親しまれている歌集は『百人一首』であろう。
 つまり、過去1000年余りにわたって日本人にお馴染みの歌の非常に多くが『古今集』の歌なのだ。

 たとえば『百人一首』の在原業平の歌。

 この歌は落語のネタになったほど人口に膾炙した歌である。

[和歌]
 ちはやふる 神代も聞かず 龍田川 からくれないに 水くぐるとは

[現代誤訳]
 遠い昔の神話時代にすらこんなことがあったとは聞いたことがない。龍田川に浮かんだ紅葉が絞り染めの衣のように輝いている美しい光景は。

 落語『千早振る』ではこの和歌にこんな出鱈目な解釈をし、そこから想像が広がっていく。

[現代誤訳]
 龍田川を千早が振った。神代も云うことを聞かなかった。おからをくれないので入水してしまった。

 これだけでは意味が分からないのでどんな落語か紹介する。

 物知りの御隠居のところにお馴染みの八五郎が尋ねて来る。「ちはやふる」の歌の意味が分からなくて恥をかいたので教えてくれというのである。ところが御隠居もこの歌の意味を知らない。だが物知りで知られた御隠居であるから「知らない」とは云えない。そこで出鱈目な解釈をするのである。

 「いいかい、八つぁん。千早っていうのは花魁の名前だ。神代っていうのはその妹分だ。龍田川っていうのは相撲取りだ。」

 確かにそう云われて見れば「千早」や「神代」は遊女の源氏名にありそうだし、「龍田川」というのは力士の四股名にありそうである。落語では大関だと云うことになっている。

 「大関の龍田川が吉原に遊びに行ったんだ。そしたら、千早っていう綺麗な花魁がいて、龍田川は一目惚れしてしまう。早速言い寄るんだが、千早は大の力士嫌い。『あちきは相撲は大嫌いでありんす。』ってんで龍田川を振っちまった。ここが「ちはやふる」だ。それじゃあ、ってんで、千早の妹分の神代に言い寄ったんだが、これまた『姐さんが嫌なものはあちきも嫌でありんす。』って云うことを聞かない。ここが「神代も聞かず」だ。立て続けに二人の女に相手にもされなかった龍田川はノイローゼならぬ色ノーゼになって相撲の調子も悪くなっちまって、とうとう思い悩んだ末に相撲を辞めちまう。」

 ここで八つぁんが「大関にもなったような力士が遊女に振られたくらいで相撲を辞めますかねえ…」と尤もなツッコミをするのだが、隠居はそれを無視して話を続ける。
 
「実家の豆腐屋を継いだ龍田川は懸命に働いたんで豆腐屋を繁盛させる。ところが数年経って女の乞食が豆腐屋を尋ねてきて『おからでいいから分けてください。」って云う。気の良い龍田川は喜んでおからをやろうとするんだが、女の顔になんか見覚えがある。よく見るってえと、千早だ。千早太夫が落ちぶれて物乞いに来たんだ。

 ここでさらに八つぁんは「いくら何でも花魁が乞食まで落ちぶれますかねえ…」とまたツッコむのだが、当時は吉原の遊女が性感染症になって遊郭に居られなくなり、夜鷹(道端で客を取る売春婦)になってしまったというような話はいくらでも転がっていたから、これは私から見るとありそうである。

「自分をイロノーゼにして相撲を辞めさせた恨み重なる千早にはおからだってやれねえ。「お前なんかにおからがやれるか。出てけーっ!」て店の外に放り出しちまった。これが「からくれないに」だ。世をはかなんだ千早は店の前の川に「どぼーん!」って飛び込んで死んじまった。これが「水くぐるとは」だ。何?「とは」は何ですかって?「とは」は千早の本名だよ。源氏名が「ちはや」、本名が「とは」だ。」

 この落語と一緒に子供時代のことを思い出した。

 私が幼少のみぎりは豆腐屋に行くとおからはタダで貰え、ときどき母が豆腐を買いに行っておまけにおからを貰ってきていた。

 私は子ども心にこのおからという奴が嫌いで、母がどんな料理にして出して来ても食べなかったのを覚えている。今でも料理屋の突き出しなどで出てくることがあるが、今でも決して好きではない。

 閑話休題(こきんしゅうのはなしをはじめんかい)。

 在原業平の歌でよく話題になるのがやはり「ちはやふる」と共に『古今集』に掲載されている次の歌である。

[和歌]
 世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
[現代誤訳]
 人の世に桜というものがまったくなかったとしたら、春の心はさぞやゆったりと長閑であっただろうに。

 この歌は「渚の院にて桜を見て詠める」と詞書がある。

 美しい桜を見ながら、それがこの世から消滅してしまったら、という想像をしている。
 そんなことはありえないから、この歌に使われている「活用語の未然形+ば~まし」という句法を「反実仮想(事実に反する仮定・想像)」という。
 よく使われる反実仮想にはこの「せば~まし」のほかに「ましかば~まし」「ませば~まし」がある。

 この歌がよく教科書に載っているのは、作者の発想の面白さもあるが、反実仮想を生徒に教えるためというのもあるに違いない。

 ただ、「万葉ラブ」「アンチ古今」の国学者や正岡子規などから見ればこの歌は眼前の桜の美しさを素直に詠まずに理屈をこねまわしていると取られるかもしれない。

 実際この歌は『徒然草』の次の一段に通じるものがある。

[原文]
 花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨に向かいて月を恋ひ、垂れ籠めて春の行方知らぬも、なおあわれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。(後略)(137段)
[現代誤訳]
 花は満開のときにだけ、月は陰りのないときにだけ見どころがあるのだろうか、いや、そうではない。雨が降っているときにそれを見ながら「降っていなかったら美しい月がみられるのになあ」と思い、悪天候によって部屋に閉じ込められているうちに春が過ぎ去ってしまうのを嘆くのも、やはりしみじみとして情趣が深いものだ。今にも咲きそうになっている桜の梢や、花が散ってしぼなえてしまった庭のような不完全なものにこそ見どころから多いものだ。

 案の定国学の祖本居宣長はこの段に「ガウッ!」とばかりに噛みついている。

[原文]
 兼好法師が徒然草に、「花は盛りに、月は隈なきをのみ見みるものかは。」とか言えるは、いかにぞや。いにしえの歌どもに、花は盛りなる、月はくまなきを見たるよりも、花のもとには風をかこち、月の夜は雲をいとい、あるは待ち惜しむ心づくしをよめるぞ多くて、心深きもことにさる歌に多かるは、みな花は盛りをのどかに見まほしく、月はくまなからんことを思ふ心のせちなるからこそ、さもえあらぬを嘆きたるなれ。いづこの歌にかは、花に風を待ち、月に雲を願ひたるはあらん。
[現代誤訳]
 兼好法師が『徒然草』で「花は満開のときだけを、月は陰りがないときだけに見どころがあるのだろうか、いやそうではない。」と云ったのは、妥当なことだろうか。昔の歌に、花は満開のとき、月は陰りがないときを写実したものよりも、花が風で散っていくのを嘆き、月の夜に雲が出るのを嫌い、あるいは花が咲いたり月が出たりするのを待ち遠しく思う気持を詠んだものが多くて、情感も深いものがそうした歌の方に多いのは、どの人も花は満開の時を長閑に見たいと思い、月は陰りがないのを想い願う気持ちが切実だからこそ、実際にはそうでないのを嘆いたのである。どこの歌に花が咲いているのに風が吹かないかなと思い、月が出ているのに雲がそれを隠さないかなと願っている歌があるだろうか。ありえない。

 あったんですよ、宣長さん。そんな歌が。歌仙、在原業平のこの歌です。

 この後宣長は兼好法師の考え方は、
[原文]
 人の心に逆さかひたる、のちの世のさかしら心の、つくりみやびにして、まことのみやび心にはあらず。
[現代誤訳]
 人の天然自然の情に逆らった、後世の小賢しい心で、無理に作り出した雅であって、本当の雅ではない。

 と決めつける。

 そしてそうした作為(からごころ)によって天然自然の心(やまとごころ)が覆い隠されてしまっているのでそれを取り戻さなければならない、という主張になっていくのである。

 ところが、業平と云えば、『三大実録』にこう書かれてしまっている。

[原文]
 略無才学、善作倭歌。
[書き下し文]
 略(およ)そ才学が無く、善(よ)く倭歌を作る。
[現代誤訳]
 ほとんど素養がなく、歌だけは上手である。

 この時代の「才学」は要は漢文の素養である。つまり「からごころ」そのものだ。
 そして「倭歌」は勿論「和歌」のことである。つまり「やまとごころ」である。

 つまり業平はちっとも「からごころ」がない人、「やまとごころ」そのままの人だったのだ。

 その人が反実仮想として眼前桜を見ながら桜のない世界を夢想したのである。

 だからこれは「から」が「やまと」が、という話ではないことが分かる。もっと普遍的な話なのだ。

 一言で云えば業平は桜を愛しすぎていたのだろう。
 想像しただけで、開花を待つだけで、どきどきして苦しくなるほどに。

 プリンセスプリンセスの「ダイヤモンド」にこんな一節がある。

 幾つも恋して♪
 順序も覚えて♪
 Kissもうまくなったけど♪
 初めて電話するときにはいつも震える♪

 もう今後の人生ではそんなことはないだろうが(何せ64歳既婚なので)、私のようなモテない男は初デートで待っている時にデートの約束をしたことを後悔する。
 時間より30分も早くその場所に行き、待っているうちにドキドキして胸が苦しくなってきて、しまいには胃が痛くなってくる。相手が現れるとドキーン!とする。所謂「心臓に悪い」という奴だ。

 世の中にたえてカノジョのなかりせば今の心はのどけからまし

である。

 好きすぎる。

 これがこの1000年以上人々に愛され続けてきた歌を端的に表す言葉だと考えたい。

 私は『徒然草』の件の段にも「からごころ』よりはそれを感じるのである。

国際女性の日に思うこと(どうしても言いたかったこと65)

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母も妻もスーパーマン

 以下の文章は高校生の総合的な探求(総探)の題材のヒントについて10分くらいで話してほしいと云われて作成した資料である。

 本日3月6日は「国際女性デー」だそうだ。
 新聞を見ているうちに「そういえば俺も似たようなことを考えたことがあったな…」と思い出したので掲載する。

 何せ高校生相手のレクチャーなので少々問題が単純化されているが、ふるさと熊本の現状についてそれほど的外れでもないことを云っているような気がするので、ブログに掲載したい。

 では、どうぞ。


 「なぜ熊本県から女性が出ていくのか。」

 みなさんの行きつけの食堂がお父さんから息子に代替わりしました。行って食べてみたらひどくまずい。みなさんはどうしますか、

 「おじさん、これ、ひどくまずいよ。こんなの猫も食わないよ。」とは言わないと思います。
おそらくほとんどの人がどうするかといえば、何も言わずに次から行かないという選択をするはずです。

 私たちは今までにいる場所から離れるとき、わざわざその理由を言いません。たとえそれが不愉快な体験によるものであったとしても。

 ところで、私たちのふるさと熊本県はもともと入ってくる人よりも出ていく人が多い転出超過が長く続きました。
 そして、熊本地震以降、この傾向が加速しています。
 特に男性に比べて若い女性の転出超過が目立ちます。

 県の統計によれば、熊本地震からの5年間で20~30代女性の実に13000人強が転出超過です。今から私が紹介する調査はすべて「女性が住みたくなるスタートアップ事業調査報告書」として県のHPに載っているので興味がある人はそれをご覧ください。

 単純な言い方をすれば熊本県では5年間で若年女性が13000人強減ったということです。2020年の20~30代女性は260000人くらいですから、かなりの数です。

 実際私が働いていた医療・福祉の現場でも、特に福祉職がふるさとを離れて都会に出て言ったという話をよく聞いていました。

 では、なぜ若い女性は熊本を出ていくのか。理由を言わずに出て行ったのならば出て行った人に後から聞けばいい。
 さすが熊本県の公務員は仕事ができる。

 さて、これが熊本県が県外転出者を対象に調べた「出て行った理由」です。

 この結果で私が注目したいのは男女差です。

 男性の方が女性に比べて多いのは仕事に関する要因ですが、女性が男性に比べて明らかに多いのは「人間関係やコミュニティの閉塞感」「レジャー・娯楽が少ない」です。

 また、熊本県のネガティブイメージについて聞いたアンケートでも、女性が男性に比べて明らかに多い項目は「地域の人間関係が面倒」でした。

 こうしてみると県外に出ていく人数の男女差は「人間関係」にありそうです。

 ところが、同じ転出者に熊本県のポジティブイメージを訪ねたところ、女性が男性より明らかに多かった要因は「知人・友人や地域の人と交流」なのです。

 つまり、彼女たちは「人間関係」そのものが嫌で出て行っているのではないということです。
では、どんな「人間関係」が問題なのでしょうか。

 こういうと皆さんはまず男尊女卑やセクシャルハラスメントを思い浮かべると思います。それももちろんありますが、今日私が言いたいことは少し違います。

 まず私の妻の話をしましょう。熊本生まれの熊本育ち、生粋の熊本人といっていいでしょう。私とは中学の同級生です。

 私は基本的に料理と片づけはよくしますが、※自分の特性の問題で洗濯物がきちんとたためないので、妻の洗濯を手伝うことをしてきませんでした。
 それでも妻はそれについて何もいいませんでした。

 しかしある日、何も言わないけれど妻があまりにもしんどそうだったので、妻が別の仕事をしている間に洗濯物を全部干しました。

 全部干されている洗濯物を見た妻は「わーっ、ありがとう、今日ほんとにキツかったの。」と言いました。

 そういわれたら翌日から干さないわけにはいかないですよね。

 私たちの居室は2階にあって洗濯物も2階に干すのですが、それからは階段の下に洗濯籠がおかれるようになりました。
 これは「干して」という合図だと私は受け取っています。
 妻は何も言いませんが。

 私があのとき気まぐれでアクションを起こさなければ妻は今でも「ああキツイ」と思いながら、でも何も言わずに洗濯物を干し続けたでしょう。

 妻は本当にいい人です。

 妻と結婚以来、こうして私は少しずつ家事の分担が増えてきました。妻は上手に我慢強く私が家事をするようにしてきました。

 妻は賢い人です。

 しかし、よく考えてみてください。
 男性は女性に家事をしてもらうのにこんな根気のいることをするでしょうか。

 男性が「結婚してください」と女性に言って、女性がこれを承諾したら、男性は「この人はこれから先家事をしてくれるんだ」と自動的に思い込むはずです。

 今男性はどう思ったかちょっと教えてください。

 もっとも、女性は女性でプロポーズを承諾した時点で「この人は私を養えるくらいに仕事をして稼いでくれるんだ」と思うかもしれませんが。
 しかし田舎には専業主婦を養えるほど給料の高い仕事はなかなかありません。

 田舎の女性の問題はこれだけではありません。

 みなさんが「いい人」「立派な人」と言われて思い浮かべる大人の女性はどんな人でしょう。

 おそらく多くの人が思い浮かべるのは、家事も仕事も子育てもバランスよくこなし、夫を陰ながら助け、近隣やコミュニティでも仲良くできる人、そして見返りを求めず、不平を言わない人、ではないでしょうか。

 私の妻はそういう人です。

 この理想像から外れた、家事をしない人、仕事をしない人、子供を産まない人も含めて子育てをしない人、夫を助けない人、人と仲良くしない人、自分の行為に見返り(簡単に言えば金)を求める人、不平を言う人、どれか一つの要素でも欠けている人は、「変わった人」「変な人」と言われます。

 男の場合は極端にいえば仕事さえしていれば「変わった人」「変な人」とまでは言われないでしょう。
 「昔俺はこんなに悪かった」と「昔のワル自慢」をする人すらいるくらいですから。
 少なくとも私たちの世代ではそうです。

 つまり、田舎の女性は男性に比べて高い精神性・倫理性を求められているような気がするのです。

 極端な言い方をすれば「スーパーマン」であることを求められているというか。
 そして多くの女性がその期待に応えています。

 私の妻も間違いなくそういう女性です。
 私がお気楽でいられるのはまさに妻のおかげです。

 今から思えば母もそんな女性でした。

 しかし、いつもスーパーマンでいないといけなければ疲れてしまいます。

 スーパーマンは飛べますからいつかどこかに飛んでいってしまうかもしれません。

 熊本地震は象徴的ですね。

 地震の後片付けが力仕事のいるものから次第に細かい日用のことに移っていったとき、男性と女性のどちらがそれをしたか、私には想像がつきます。

 皆さんもお父さんとお母さんのことを思い出してみてください。
 復旧の最後の仕上げの細かい面倒なことはおそらくお母さんがしていたのではないでしょうか。

 このときに飛んで行ってしまったスーパーマンが結構いたのではないかと思います。

 そして娘たちは母親のそういう姿をよく見ています。
 母親の姿は将来の自分ですから。

 「いい人」「立派な人」である母親を見て、「私もお母さんみたいになりたい」という娘ももちろんたくさんいると思います。

 しかし、私はお母さんみたいにできるだろうか、と思う人もいるでしょう。
 また、そういう生き方は嫌だ、もっと自分のペースで生きたい、という人もいると思います。

 そういう女性は「私はお母さんみたいになりたくない」と言って熊本から出て行くことはないでしょう。
 なにせお母さんの頑張りで自分は成長してきたのですから、口が裂けてもそんなことは言わないと思います。

 そういう人たちは進学や就職のときに、「熊本には私のしたいことがない」と言って出て行くでしょう。

 こうして疲れたスーパーマンとその娘たちが熊本県の女性の転出超過の要因になっているのではないか、というのが私の結論です。

 では、どうしたらいいのか、私にはこれについて意見がありますが、一言でいえばスーパーマンでなくても暮らせる地域にしようよ、ということです。

 詳しい話はまたの機会に。ご清聴ありがとうございました。

※河童註:洗濯物をちゃんとたためないというのは洗濯を手伝わない口実ではなく、事実である。
 私はこうした空間把握能力が必要な作業が極めて苦手である。
 何せ空間ベクトルが問題だった高校二年の二学期中間テストの数学の点数は4/100点だった。
 それでは独り暮らしをしていたときにはどうしていたかと云えば、洗った後は部屋に干したままにしておくのである。 
 その服が必要になった時はハンガーから直接取ればよい。
 独身時代にそうしていた人は結構いるのではないだろうか。

『史記』を読む-夜郎自大-(新米国語教師の昔取った杵柄151)

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夜郎自大の真相

 「夜郎自大」といえば、現代の東亜で「身の程知らずの誇大妄想」という意味で使われている。

 これは大国である漢の使者がその西南にある夜郎国に行ったとき、そこの王が「漢と私の国はどちらが大きいのか?」と尋ねたという故事が元になっている。

 実はこの故事も『史記』にある。「西南夷列伝」である。 

 ところが、原文を見るとこうなっている。
[原文]
 滇王與漢使者言曰、「漢孰與我大?」及夜郎侯亦然。
[書き下し文]
 滇(てん)王漢の使者と言いて曰く、「漢と我といづれか大なる。」と。および夜郎侯また然(しか)り。
[現代誤訳]
 滇国の王が漢の使者に訪ねて云った。「漢と我が滇国とどちらが大きいのか。」と。夜郎の王もまた似たようなことを云った。

 つまり、「自大」発言は滇国の王が先にしたものであり、夜郎の王は似た発言をしただけなのだ。

 なのになぜ「滇王自大」ではないのだろうか。なぜ2000年以上を経て「夜郎自大」という成語が伝わっているのだろうか。

 これには四字熟語にしたときのリズムの良さが関係している気がするが、これは「夜郎自大」という響きに慣れた後世の私達の後知恵という気がする。

 それよりは滇と夜郎のその後の運命が関係しているような気がする。

 滇も夜郎も最初は漢の使者から呆れられたものの、どちらも臣下であることを示す印を貰っている。

 特に滇が貰った印は日本でも有名である。

 なぜかと云えば、我が日の本もまた漢から金印を賜わっているからである。
 「漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)」。
 この印の印章を知らない日本人はあまりいないだろう。

 この印の来歴を研究する際に欠かせないのが滇が貰った印なのだ。
 中国雲南省で発見されたこの「滇王之印(てんおうのいん)」は、志賀島で発見された金印と同じ蛇鈕(だちゅう):蛇を模った把手を持っている。
 蛇鈕は文献には登場したものの、実在が疑われていたのである。
 この印が発掘されたことで、「漢倭奴国王」印もまた偽造ではない真品である可能性がぐっと高くなったのである。

 何せ金印が発見されたのは既に国学者たちが現れて「からごころが何だっ! 我が国にはやまとごごろがあるっ! 」と叫んだ後であり、これから幕末にかけて急速に国粋主義が盛り上がっていく天明4年(1784)である。
 そうしたときに大昔とはいえ日本が中国から王に任命された証拠の印が見つかったのだから、この人たちが面白い訳がない。

 「フェイクだ!」の大合唱が沸き起こったことは想像に難くない。


 その後も本当にしつこいほどに偽造説が繰り返し唱えられる。
 おそらくこれからもあるだろう。

 だが、これより前には卑弥呼が「親魏倭王」の称号を貰ったことがあり、これは明らかに君臣の礼を示すものだし、もっと後だが室町幕府の足利義満が貿易のために明から冊封されたこともある訳だから、当時とすれば中国の都からとんでもない遠方にある辺境の国が実利のためにこうした関係を結んだとしても、これを「なかったこと」にして何の得があるのだろうと思う。

 まあ昔から現在まで連綿とこのテの人たちはこの列島に住み続けていてむしろ主流をなし、亡国に至るほどの馬鹿をやったのは先の大戦だけだから、目くじらを立てる必要もないのかもしれないが。

 ただ、私やその大切な人達の生きている現在にまでこういう人たちの言動が悪影響を与えるのは困るのではっきり云っておきたいことがある。

 外交は善悪ではない。損得である。

 外交に善悪を挟むのは近代以降(もう少し正確に云えばその萌芽である国学の勃興以来)の日本人の悪癖である。
 これが我が日の本にどれほど多くの犠牲者を生んできたことか。

 閑話休題(しんだりけがをしたりするいらんのふつうのひとたちがひとりでもすくなくすみますように)。

 『史記』に現れる滇のリーダーが「王」、夜郎のリーダーが「侯」であることが示すように、漢のこの両国に対する見方には濃淡があったようだ。
 同じ異民族で臣下扱いでも、より親密な国のリーダーは「王」と呼ばれ、そうでもない国のリーダーは「侯」と呼ばれたのである。

 つまり夜郎は滇よりもワンランク下の臣下だと思われていた訳だ。

 滇は元々春秋戦国の大国である楚の将軍・荘蹻が建国した国と見做されていた。
 つまり相当の地方色があるにせよ、中原の人々にすれば取り敢えず同族意識があったということである。

 一方、漢人が夜郎に対してこうした意識を持っていたことを示す文献的な証拠はない。

 そして夜郎はその興王のとき、漢に対してその気に入らないことをする。中国の史書である『漢書』では「反乱」という話になっているようだ。

[書き下し文]
 成帝に至り河平(かへい)に中(あた)り、夜郎王の興(こう)と鉤町(こうてい)王の禹(う)、漏臥(ろうが)侯の兪(ゆ)、更に挙兵し相攻む。牂柯(しょうか)太守兵を発し興を誅するなどを請うも、議者、道の遠きをもって擊つべからざるとなし、すなわち蜀郡の太中大夫張匡(ちょうきょう)を遣りて節を持ちて和解せんとす。興ら命に従わず。木象に漢吏を刻み、道の旁らに立ててこれを射る。
[現代誤訳]
 前漢の成帝、河平年間(前28年~前25年)の出来事である。夜郎王の興(こう)、鉤町(こうてい)王の禹(う)、漏臥(ろうが)侯の兪(ゆ)が挙兵しお互いを攻めた。牂柯(しょうか)太守は討伐を求めたが、参謀たちに遠方であるということで却下され、張匡(ちょうきょう)が和解に向かった。しかし夜郎王らは従わず、漢の官吏に見立てた木像を道端に立てて射るという侮辱行為を行った。

 どうもこれを反乱と呼んでいいのかという気がする。
 「相攻む」というのは私の知識ではどう考えても「お互いを攻めた」としか訳せない。
 だとすると西南の民族同士の内紛であり、漢に対する内乱とは思えないのだ。

 中国の史書には意外に「なかったこと(にされた史実)」が少なく、反乱があった場合には「中国が派遣した〇〇を殺した」などという赤裸々な記述がある場合が多い。

 たとえば、『史記』の「南越列伝」には漢の使者が無残に殺されてしまう場面が出てくる。

 ところが、夜郎に関しては「漢に対して反乱を起こした」という記述はあるものの、誰か漢人を害したというような話は一切ないのだ。それこそ木像を射たという話だけだ。


 『漢書』にはもう一度夜郎の「反乱」の話が出てくる。

[書き下し文]
 大将軍鳳(ほう)ここにおいて金城司馬の陳立(ちんりつ)を薦め牂柯(しょうか)太守となす。立は臨邛(りんきょう)人なり。前に連然長(れんぜんちょう)、不韋令(ふいれい)たり、蛮夷これを畏(おそ)る。牂柯(しょうか)に至り、夜郎王興に諭告す。興命に従わず。立これの誅(ちゅう)を請う。未だ報ぜずに、すなわち吏数十人を従えて県を出行し、興の国の且同亭(しょどうてい)に至り、興を召す。興将数千人と往きて亭に至り、邑君(ゆうくん)数十人を従えて入りて立に見(まみ)ゆ。立数えて責め、因りて断頭す。邑君曰く「将軍亡状を誅し、民のために害を除く。願わくば士衆(ししゅう)に出暁(しゅつぎょう)せん。」もって興の頭をこれに示し、皆兵を釈(さと)して降る。鉤町(こうちょう)王の禹(う)、漏臥侯(ろうがこう)の愈(ゆ)、震恐(しんきょう)し、粟千斛(あわせんと)を入れ、牛羊をして吏士(りし)を労(ねぎら)う。
[現代誤訳]
 大将軍の王鳳は、金城の司馬であった陳立を牂柯太守に推薦した。陳立は臨邛(りんきょう)の人で、以前には連然(れんぜん)の長や不韋(ふい)の県知事を務め、異民族から恐れられていた。 
 陳立が牂柯(しょうか)に着任し、夜郎王の興に諭(さと)したものの、興は命令に従わなかった。そのため、陳立は漢朝に興を誅殺(ちゅうさつ)することを請い、返事が来ないうちに、数十人の役人を連れて各地の県を視察し、興国の且同亭(しょどうてい)に至り、興を召喚した。 
 興は数千人を連れて亭にやってきたが、地元の首長たち数十人を連れて中に入り陳立に面会した。陳立は興の罪を数え上げ、その場で興を斬首した。地元の長達は「将軍が無法者を殺し、民の害を除いてくれた。願わくばこの首を見せて兵士たちに状況を理解させたい」と言った。これを受けて陳立が興の首を彼らに示すと、皆武器を捨てて降伏した。 
 この様子を見て鉤町(こうちょう)王の禹(う)や漏臥侯(ろうがこう)の愈(ゆ)は恐れをなし、千斗の粟を納め、牛や羊を出して陳立の部下たちをねぎらった。

 なんとまあ、「斬首作戦」が行われたのだ。
 比喩でなく語の全き意味で。

 土地の古老たちが素早く漢軍に迎合しているところがまるで南米のどこかの国のようである。

 また周辺の国が矜持を忘れて大国に諂っているところはまるで中東のどこかの国のようである。

 閑話休題(がいこうにぜんあくをはさむなといっておきながら)。

 結局のところ「滇王自大」でなく「夜郎自大」になったのは「大国に逆う身の程知らずの奴はこうなるんやで(何故か関西弁)」という見せしめが何千年も続いているということではないだろうか。

 ちなみに、夜郎のあった貴州省では、現在はそこに住む人々が「自分たちは夜郎の末裔である」ということを謳ってそれを自らの誇りとするとともに、観光の目玉にもしているそうである。

 著作権の関係で画像をお見せできないが、1人の芸術家が作り上げた「夜郎谷」というテーマパークは「夜郎色全開」で素晴らしい。
 一度行ってみたいと思っている。

 やはり『史記』は面白い。
 

私の人生を変えた本(少し大袈裟)(それでも生きてゆく私341)

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本棚

 以下の文章は過去の勤務先で図書室の広報に書いた文章である。

 このシリーズの趣旨に合っていると思われるので転載する。

 4月から講師としてA高校でお世話になっているSといいます。(以下常体で失礼します。)

 昨年まではリハビリテーションの養成校で、嚥下障害学という、飲み込みに障害がある人についての学問を教えていた。教員になる前は天草の病院で言語聴覚士という仕事をしていた。

 医療職になるためには医学を勉強してそれなりに難しい試験に合格する必要がある。また、働き出してからも知識や技術のアップデートのために常に勉強し続けなければならない。学生の間は医学の教科書が伴侶であり、社会人としては医学の論文が伴侶となる。そのため、高校生が読んで面白いと思われるような新しい本は知らない。年齢も年齢なので話は古い本のことになる。

 まずロフティング「ドリトル先生」シリーズ。動物語の話せる医者が主人公のこの一連の物語は小学校のときに『航海記』を初めて読んで虜になり、全シリーズを何度も読んだ。『山椒魚』などで知られる井伏鱒二の訳は大人になった今読んでも名訳だと思う。特に「サーカス」が好きで、この巻は「韋編三絶」状態になった。

 中学生に上がってからは『どくとるマンボウ』シリーズ。これも最初は『航海記』だった。『青春記』の旧制高校的世界にどれほど憧れたことか。この間熊本大学の五高記念館に行った時もこの本のことを思い出した。これまた原型を留めないほど何回も紐解いた。今でも私の文章のお手本は作者の北杜夫である。 

 高校では受験のために読み始めた『伊勢物語』「平仲物語』『とりかえばや物語』など、古文の現代語訳。これは講談社学術文庫から大量に出ていたが、大学に入学するまでには手に入るものはすべて読んだと思う。古文単語や古典文法はさして勉強しなかったが、昔の人の心理や行動が読めるようになったし、なにせ「ネタバレ」を読んでいるのだ。古文の大抵の問題は解けるようになった。

 大学では日本の近代文学を『当世書生気質』あたりから文学史に沿って順番に読んでいったが、自然主義あたりで飽きて止めた。それからは文学作品をあまり読まなくなった。一生分読んでしまったような気がした。本は相変わらず読んでいたが、主に歴史などの社会科学の本だった。

 学習塾の講師をしていた34歳のとき、人生を変える本に出会った。トールワルド『外科の夜明け』とその続編の『近代外科を開拓した人々』である。当時看護師をしていた姉の本棚にあったのをたまたま手に取ったのだが、そのまま徹夜して読んでしまった。今では入院すら必要なく治療ができる疾患で苦しみぬいて死んでいく19世紀の人々。その疾患に挑み、一つ一つ克服していく医療人たち。そして幾度となく跳ね返される死という壁。考えてみれば今までの私の愛読書は何らかの形で医療に関係しているものだったのだ。

 私はそれから毎晩飲んでいた酒を止めた。金を貯めるためである。目的はもちろん医療職の養成校に入学することだ。

 バブル経済崩壊後の就職の買い手市場の中、「35過ぎたら絶対まともな就職なんかない」と言われていた時代である。

 36歳での受験も39歳での就職も綱渡りだったが、周囲の人たちの助けでどうにか医療職として喰っていくことができるようになった。その過程で会った同志たちは一生の友人である。

 『外科の夜明け』のように自分で画期的な治療を開発することなど及びもつかなかったが、医学が進歩していくのを目の当たりにできたのは実に幸運だった。医学の限界も痛感させられたが。

 こうして振り返ってみると私の来し方は本とともにあったと言っていいのかもしれない。


 これは高校生相手に書いた文章なので少々事情が単純化されており、また図書室の広報誌ということもあって読書の重要性に力点が入りすぎている気もする。
 要は医学本との出会いについて若干誇張されドラマチックになっていると云える。

 より実態に近いのは次の文かも知れない。
私の本のカバーの身の上に起こったこと(それでも生きてゆく私93)

 この文では本棚の本のタイトルに『外科の夜明け』はない。
 ということは、医療職を目指すに当たってこの本が大きな影響を与えたのは事実だが、これが決定打、という訳ではなかったらしい。

 私が医療職を目指したもっとリアルな事情を知りたい人は99回シリーズで「余は如何にして言語聴覚士となりし乎」というのがあるので、こちらを読んでいただきたい。「ニヤッとする話 余は如何にして言語聴覚士となりし乎」で検索すると出てくるはずである。

『史記』を読む-匈奴のミカタ中行説-(新米国語教師の昔取った杵柄150)

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司馬遷

 前回は無理矢理匈奴に嫁がされた王昭君の話をした。

 匈奴のところに行くことは女性だけでなく男性にとっても嫌なことだったらしい。

 ここに中行説(ちゅうぎょうえつ)という男がいる。

 『敦煌』『天平の甍』などの歴史小説や『あすなろ物語』『白ばんば』などの教養小説で名高い井上靖はこの男に眼を付けて『宦者中行説』という小説を書いているが、今IMEで変換させようとしてもこの人の名前は候補に挙がって来ないから、先に話した「雑家」同様、日本ではほとんど知られていない人だろう。

 匈奴の中原への侵入が最も激しかったときに生きた人である。
 というより、この人が匈奴の侵入を激しくさせたと云ってもいいのかもしれない。

 武帝より2代前の文帝のとき、王昭君のように本来公主でない娘を公主に仕立て、即位したばかりの単于(匈奴のリーダー)のところに嫁がせようとしたことがあった。

 この時に随行として白羽の矢が立ったのが宦官である中行説である。

 元は燕の国の人らしい。

 この人が宦官になったのはどうも「自宮」らしい。

 宮廷にいる女性は建前上は「王の女」であるから、王以外との恋愛はご法度である。
 したがって、彼女たちが他の男と出来てしまわないように、男性機能を喪失した人たちが宮廷での様々な雑事をした。

 この仕事には刑罰によって男性機能を喪失させる「宮刑」に処せられた人が充てられたが、それだけでは数が足りないので、自分で自分に「宮刑」を施して出仕してくる人たちがいた。これが自宮である。

 なぜこんなことをするかといえば、宦官の仕事は建前上は「雑事」だが、皇帝のすぐそばに仕える訳だから宮中の最新の情報に触れることが出来るし、機嫌を損ねずに上手く取り入れば皇帝や后たちに気に入られて彼らに影響を及ぼすこともできる訳である。

 つまり、刑罰の結果仕方なく出仕してきたのではなく、たとえ身体の一部を無くしたとしても宮中でのし上がるために自ら望んで出仕してくるのが自宮者なのだ。

 それが公主のお供をして彼らからしたら辺境に行かなければならないのだから、不本意そのものであったろう。

 「匈奴列伝」によれば、中行説は匈奴行きを強く拒否したようだ。

[書き下し文]
 説(えつ)行くを欲せず。漢彊(し)いてこれを使わしむ。説曰く「我行けば、必ず漢の患(うれ)いと為(な)らん。」
[現代誤訳]
 中行説は行きたがらなかった。だが、漢王朝はこれを無理矢理遣わした。中行説が云った。「私が匈奴に行ったなら、必ず漢の災いになってやるぞ。」

 だが、げに凄まじきは宮仕え、皇帝の命であるから逆らえば死罪である。無理矢理生かされる中行説は捨て台詞を吐く。「目にもの見せてくれるわ。」そして復讐計画を直ちに発動する。

[書き下し文]
 中行説既に至り、因(よ)りて単于(ぜんう)に降る。単于甚だこれを親幸す。
[現代誤訳]
 中行説は匈奴に着くや否や、すぐに単于に降伏する。単于は大変喜んで彼を取り立てた。

 このときの匈奴のリーダーは老上単于、歴史上有名な冒頓単于の息子である。

 さあ、復讐開始。

[書き下し文]

 初め、匈奴、漢の繒(そう)・絮(わた)・食物を好む。中行説曰く、「匈奴の人衆は漢の一郡にも当たること能わず。しかるに彊(つよ)き所以(ゆえん)のは、衣食の異なるを以て、漢に仰(よ)ること無ければなり。今、単于、俗を変じ漢の物を好む。漢の物十の二に過ぎずして、すなわち匈奴尽(ことごと)く漢に帰せん。それ漢の繒絮(そうじょ)を得ば、以て草棘(そうきょく)の中を馳せよ。衣袴(いこ)皆裂敝(れっしょう)せん。以て旃裘(せんきゅう)の完善なるに如(し)かざるを示せ。漢の食物を得ては皆これを去り、以て湩酪(どうらく)の便美なるに如かざるを示せ。」
[現代誤訳]
 その当時、匈奴は漢の絹織物・綿入れ・食物を愛好していた。中行説が云った。「匈奴の人口は漢の一郡より少ないです。しかし、それでも漢より強いのは、衣食が違うために、漢にそれを頼ることがないからです。今、単于はこれまでの匈奴の伝統に反して漢の物をお好みです。このままでは漢は自分たちの力の十分の二も使わずに匈奴を征服するでしょう。
 もし漢の絹や綿を得られたならば、それを着て草むらの中を馬でお走りください。そうすればそれらの着物は全てボロボロになるでしょう。そうして匈奴の毛皮の服の方が優れていることをお示しください。漢の食べ物を得たらそれは全て捨ててしまい、匈奴の食べ物である乳やバターの方が美味しいと云うことをお示しください。

 私はこの部分を改めて読んで感嘆した。
 過去中国に侵入した周辺民族が結局のところ同化されてしまう根本原因は、まさにここにあったのだ。中国文化に次第に染まっていくことによって民族としての背骨が溶解してしまうのだ。中行説は既に2000年以上前にそれを看破していたのである。

 「中華に染まってはならない。」
 周辺民族が同化されないための最も基本的な考え方を単于に教えたのである。

[書き下し文]
 ここに於て説、単于の左右に疏記(そき)を教え、以てその人衆畜物を計課せしむ。
[現代誤訳]
 そして中行説は、単于の家臣に簿記を教え、匈奴の人口や家畜の数を統計させた。

 国の基本統計を取ることにより、彼我の国力を単于や家臣たちが把握できるようにしたのだ。

[書き下し文]
 漢、単于に書を遺(や)るに、牘は尺一寸を以てし、辞に、「皇帝敬(みて匈奴の大単于に恙なきを問う」と曰い、遺る所の物及び言語云云す。中行説、単于をして漢に書を遺るに、尺二寸の牘を以てせしめ、及び印封皆広大にして長たらしめ、その辞を倨傲(きょごう)して、「天地の生ずる所にして日月の置く所の匈奴の大単于敬(つつし)みて漢の皇帝の恙(つつが)なきを問う」と曰い、以て遺る所の物、言語また云云す。
[現代誤訳]
 それまでは漢が単于に書簡をやるときには、25.3cmの長さの竹簡を使い、「漢の皇帝が謹んで匈奴の大単于の無事を問う。」と冒頭に書いてから贈り物と要件を書いていた。
 中行説は単于が漢に書簡をやるときに、漢のものより長い27.6cmの長さの竹簡を使い、封印も漢のものより大きなものにして、冒頭の挨拶も上から目線にし、「天地が生じるところであり日月が沈む世界の中心にいる大単于が謹んで漢の皇帝の無事を問う」と書くようにした。

 この部分、『隋書』「東夷伝倭国条」で描かれた聖徳太子の遣隋使に持たせた書簡を思い出させる。
 有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや、云々。」という奴である。

 「舐められたら外交は負け」という気持が伝わって来る。

 特に書簡で勝とうとしたのは、匈奴の文化が決して漢に劣っていないということを示そうとしたのだと考えられる。
 これから後、幾多の周辺民族が中国文化に対するコンプレックスに押し潰されていったのだから。
 
[書き下し文]
 漢の使或いは言いて曰く、「匈奴の俗は老を賤しむ。」中行説、漢の使を窮して曰く、「而(なんじ)の漢の俗は屯戍(とんじゅ)従軍の当に発すべき者は、その老親あに自ら温厚肥美を脱して以て飲食を齎送して戍に行かざること有らんや。」漢使曰く、「然り。」中行説曰く、「匈奴は明らかに戦攻を以て事と為し、その老弱は戦うこと能わず。故に其の肥美を以て壮健者に飲食せしむ。けだし以て自ら守衛と為す。この如くに父子各々(おのおの)久しく相保(やす)んずるを得(う)。何を以て匈奴老を軽んずと言わんや。」
[現代誤訳]
 漢の使者でこんなことを云う者がいた。
「匈奴人は老人を卑しめる。」
 中行説が漢の使者を問い詰めて云った。
「お前の国漢では、辺境警備に出征しようとする者がいたら、その者の老親は自分のヌクヌクした服を脱いで息子に着せ、美味しい物を送って従軍させるだろう。」
 漢の使者が云った。
「それはそうだ。」
 中行説が云った。
「匈奴は日々が戦いなのだ。老弱な者は戦うことが出来ない。だから美味しい物を戦士である壮健なものに食べさせるのだ。つまりはそうやって自衛しているのだ。そのようにして年老いた親も元気な子供もお互いが生き延びることができるのだ。どうして匈奴が老人を軽んじているなど言えるのか。」

 これで「匈奴若尊老卑説」が論破されてしまった。

 それでは、と漢の使者は今度は「収継婚」を非難し始める。

[書き下し文]
 漢の使曰く、「匈奴の父子は乃ち穹廬(きゅうろ)を同じくして臥す。父死せば、その後母を妻にし、兄弟死せば、尽くその妻を取りこれを妻にす。冠帯の飾り無く、庭の礼を欠く。」
[現代誤訳]
 漢の使者が云った。
「匈奴の親子は同じテントで寝起きし、父が死んだらその後妻を妻にし、兄弟が死んだらその妻を娶って妻にする。冠や帯の飾りがなく、朝廷での礼儀がなっていない。」

 「収継婚」だけでなく、服が華美でないことや、朝廷での虚礼がないことを論って「野蛮な奴らめ」と非難した訳だ。

[書き下し文]
 中行説曰く、「匈奴の俗は、人は畜肉を食べ、其の汁を飲み、その皮を衣(き)る。畜は草を食べ水を飲み、時に随い転移す。故にそれ急ならば則ち人騎射に習い、寬なれば則ち人無事を楽しむ。その約束は軽く、行い易きなり。君臣は簡易にして、一国の政はなお一身なり。
[現代誤訳]
 中行説が云った。
「匈奴の習慣では、人は家畜の肉を食べ、その乳を飲み、その皮で作った服を着る。家畜は草を食べ水を飲み、ときどき場所を移る。だから緊急の場合には戦い、何もなければ無事を楽しむのだ。社会のルールは簡便で、実行しやすいものだ。君臣の礼儀は簡単なものだから、国を治めるのは一身を治めるようなものだ。

[書き下し文]
 父子兄弟死せば、その妻を取りこれを妻にするは、種姓の失を悪(にく)めばなり。故に匈奴は乱るといえども、必ず宗種を立つ。
 今、中国はその父兄の妻を取らざるを詳(つまび)らかにすといえども、親属益々疏(そ)にして則ち相殺(そうさい)し、すなわち姓を易うるに至る。皆この類に従う。
[現代誤訳]
 父や兄弟が死んだらその妻を娶って自分の妻にするのは、家系が絶えないようにするためだ。だから匈奴は内輪揉めをしたときでも、必ず本家の一族を立てる。
 今、中国は父や兄弟の妻を娶らず家族の秩序を大切にすると表向きは云うけれど、実際には親族はますます疎遠になり、殺し合いさえし、しまいには姓を変えるものすらいる。

 「収継婚」に関する非難も論破されてしまった。

 確かに近親婚を避けるのは遺伝病予防や家族内の秩序を保つために人類が長年の経験で採ってきた方策だと思う。
 だが、儒教圏が長らく守ってきた同姓不婚(親戚でなくても姓が同じならば結婚を禁ずる法律)は日本人である私から見るとやりすぎと感じる。
 何千年も前には親戚だったかもしれないが、実際には赤の他人なのに姓が同じと云うだけで結婚できないのだから。

 私の大好きな韓国ドラマ「応答せよ1988」の中に、登場人物が同姓不婚の法律に悩む場面が出てくる。
 韓国でこの法律が廃止されたのは何と1999年である。

[書き下し文]
 かつ礼義の敝(へい)は、上下交々(こもごも)怨望(えんぼう)す。室屋(しつおく)の極みは、生力必ず屈す。
[現代誤訳]
 それに礼儀礼儀と云うけれど、実際には礼儀なんか廃れてしまっていて、上の身分の者も下の身分の者もお互いにいがみ合っているではないか。住宅を派手にしようとするあまり、その費用のために生活が破綻してしまう者もいる。

 中行説の言葉は経験者だけに漢人の偽善を暴いて説得力がある。

[書き下し文]
 それ耕桑(こうそう)に力(つと)めて以て衣食を求め、城郭を築きて以て自ら備う。故にその民は急ならば則ち戦功に習わず、緩ならば則ち作業に罷る。
[現代誤訳]
 匈奴の民が緊急の場合には戦い、何もなければ無事を楽しむのに対し、農業ばかりに力を入れて、それで衣食を得、城郭を築いてその中ならば大丈夫だと思っている。だから漢の民は緊急の時でもすぐには戦えずに無理矢理動員され、何もないときも疲れ切っている。

 本当に民を大切にしているのはどちらかな、という皮肉である。 

[書き下し文]
 ああ、土室(どしつ)の人、顧(はなは)だ辞多し、令(よ)く喋喋(ちょうちょう)して佔佔(てんてん)すること無かれ。冠(かんむり)固(もと)より何にか当らん。」
[現代誤訳]
 大体お前は五月蠅いんだよ。土の家に住んでいる奴は口数が多いな。べらべらべらべら喋るんじゃないよ。冠なんか何の役に立つんだ。

[書き下し文]
 これよりの後、漢の使の論を辞ぜんと欲する者に、中行説輒(すなわ)ち曰く、「漢の使は多言する無かれ。顧(た)だ漢の匈奴に輸(いれ)る所の繒絮(そうじょ)・米糱(べいげつ)、令(よ)くその量中(あた)り、必ず善美なるのみ。何を以て言を為さん。かつ給する所の備善ければ則ち已(や)む。不備にして、苦悪なれば、則ち秋孰(しゅうしつ)を候(うかが)い、騎を以て而(なんじ)の稼穡(かしょく)を馳蹂(ちじゅう)するのみ。」
[現代誤訳]
 この話の後、漢の使者で論争を始めようとする者には中行説がピシャリと云った。
 「漢の使者はうだうだ喋るんじゃない。ただただ漢が匈奴に持ってくる絹や綿、米や麹がちゃんと決められた量があって良質なものにすることだけを考えろ。余計なことを喋るな。もし持ってくるものがちゃんとしているならそれで終わりだ。もし量が足りなかったり質が悪かったりしたら、秋の収穫時を狙ってわが匈奴の騎馬隊がお前の所の農地を蹂躙するだけだ。」

 とてもかつては漢人だった人とは思えないお言葉である。
 恨み骨髄とはこのことだろう。

 何だか再雇用後に会社で冷遇されていたところを他国に招かれて安い製品を作って日本に逆輸入して元の会社を潰してしまうエンジニアを思い出してしまった。

[書き下し文]
 日夜単于に候(うかが)い、利害処を教う。
[現代誤訳]
 そして日夜単于に漢のどこに攻め込んだら一番利益が得られるか、その場所を指南した。

 冒頭で私が「匈奴の中原への侵入が最も激しかったときに生きた人である。というより、この人が匈奴の侵入を激しくさせたと云ってもいいのかもしれない。」と書いたのは、中行説が単に漢の使者を辱めるだけでなく、単于に計画的に漢を侵略させた形跡があるからである。

[書き下し文]
 漢の孝文皇帝十四年、匈奴単于の十四万騎、朝那(あさな)、蕭関(しょうかん)に入り、北地都尉(とい)卬(ぎょう)を殺し、人民畜産を虜にすること甚だ多し。遂に彭陽(ぼうよう)に至り、奇兵をして入りて回中宮を焼かしむ。候騎(こうき)、雍甘泉(ようかんせん)に至る。
[現代誤訳]
 漢の文帝の14年、匈奴単于の率いる14万の騎兵が、早朝、蕭関から侵入し、北地都尉の卬を殺害し、人民や家畜の非常に多くを連れ去ってしまった。遂には彭陽にまで達し、奇襲部隊が回中宮を焼いた。偵察隊は甘泉城まで達した。

 こうして中行説の復讐は成し遂げられた訳だが、私が一つ疑問なのは、和親のために身を捨てて匈奴に嫁いできた公主(偽物だが)は中行説に対してどういう態度を取ったのか、そしてどんな運命を辿ったのか、ということである。

 この人については『史記』に、


[書き下し文]
 老上稽粥単于(ろうじょうけいじゅくぜんう)初めて立つや、孝文皇帝復(ま)た宗室(そうしつ)の女を遺り公主として単于の閼氏(えんし)と為す。
[現代誤訳]
 老上単于が即位したとき、文帝は皇室の女を公主に仕立てて単于に嫁がせた。

としかないので、その後のことは分からない。

 それにしても司馬遷はよく人によっては「民族の反逆者」と呼びそうな人物を『史記」列伝に載せたものだ。

 だが、よく考えて見ると司馬遷が宮刑に遭ったのはやはり匈奴に降った友人の李陵を弁護したことが原因だから、その時の都合で人を平気で捨て石にする漢王朝に対してどうしても一言云いたかったのかも知れない。
 自分のことを書くと今度は首が危ないので中行説の話を持ち出すことで鬱憤を晴らした可能性はある。

 やはり『史記』列伝は面白い。

『西京雑記』を読む-王昭君の伝説-(新米国語教師の昔取った杵柄149)

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美人って何
I,Sailko,CC BY-SA 3.0,
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 司馬遷の『史記』や班固『漢書』は中国史の本だが、周辺民族についての記述も豊富である。

 中国の歴史書には編年体と紀伝体がある。
 編年体はその名の通り出来事を時系列で並べたもので、孔子の纏めた『春秋』や司馬光の『資治通鑑』がこれに当たる。
 『史記』や『漢書」は紀伝体で、これらには帝王の事績を纏めた「本紀」、諸侯のそれである「世家」、それ以外のさまざまな人々についての「列伝」がある。

 周辺民族については「列伝」にある。

 ある、も何も、「列伝」の相当部分は周辺民族についてである。
 謎の民族匈奴について纏めた「匈奴列伝」、ヴェトナムなどについて纏めた「南越列伝」、韓国について纏めた 「朝鮮列伝」、現在は中国である「東越列伝」や「西南夷列伝」などである。

 そしてこの中で大いなる関心を持って相当のスペースを取って書かれているのが「匈奴列伝」である。

 中国の歴史は塞外民族との争闘の歴史でもあるが、紀元を挟んだ古代史の相当部分でその相手は「匈奴」という民族である。

 既に前回匈奴のその後について喧伝されている「匈奴=フン族説」と「匈奴=ハンガリー人祖先説」2つの説についてそれらの信憑性について述べた。

 また、漢族を憤激させたであろう匈奴の習俗「若尊老卑」と「収継婚」についても簡単に紹介した。

 匈奴についての司馬遷の記述を見ると、漢と匈奴の戦いが単なる国境紛争ではなく、異なる文化文明を持った勢力同士の存亡を賭けた激突であったことが分かる。

 戦いがそういうものである以上、大規模化し、長期化することは避けられない。

 これは漢にとって大きな負担であった。
 前漢と後漢の間に一代だけ存続した新という国は外征の負担に耐え切れずに滅亡してしまったくらいである。

 中国人は対立相手が手ごわければ手ごわい程、単純に対立することはない。
 これはどんどんエキサイトする我が大和民族と違う点である。

 彼らは常に和戦両様の戦略を採る。
 ジョーカー(仮名)流の言葉で云えば戦争も「ディール」の一部なのだ。

 匈奴に対しても、長城を築いたり大規模な外征を行うだけでなく、和親政策も断続的に行われた。

 この場合の「ディール」は何を使って行われたかと云えば、女性である。

 漢の公主(皇帝の娘)が何人も異民族に嫁いでいる。

 ただし、文化文明から違う相手に自分の娘を送り込むのは忍びなかったらしく、親戚の娘や官女を公主に仕立て上げることが多かったようだ。

 ことは豪華な絹を捨ててフェルトを纏い、米を捨てて獣の肉と乳を摂り、定住を捨てて風塵の中を移動するという、生活の劇的な変化だけではない。

 嫁いだ相手が死んだらその子供や兄弟と再婚しなければならないのだ(「収継婚」)。

 これは漢民族の倫理観には到底耐えられないことだったろう。

 こうした悲劇的な女性の中で最も有名なのは中国四大美女に数えられる王昭君である。

 ちなみに四大美女は西施・王昭君・貂蝉(ちょうせん)・楊貴妃で、貂蝉以外は実在の人物である。

 彼女は司馬遷の死後の人物であるため『史記』には登場しないが、『漢書』や『西京雑記』にその人物像が描かれている。また、白楽天(白居易)が詩に歌って『白氏文集』にも載せられているため、日本でも比較的早くから知られていたらしい。

 『漢書』の記述が簡潔で淡々としているのに対して、『西京雑記』の記述は実にまことしやかでストーリー性に富んでいる。
 「西京」は東の都洛陽に対する西の都長安の別名である。
 『西京雑記』は歴史書としては本邦の頼山陽『日本外史』のような眉唾物で、歴史小説集とでも考えた方がよさそうだが、話としては『漢書』よりこちらの方が面白い。

 そこでまずはこちらを元にこの人について紹介したい。

 王昭君の諱(いみな:本名)は檣(しょう)、昭君は字(あざな)である。
 中国人の名前については一度話をした。
漢詩を読む5-白居易1「香炉峰下の詩」-(新米国語教師の昔取った杵柄81)

中宮定子

 彼女は元々は民間からその美貌を見初められて宮中に入ったらしい。

 ところが飛ぶ鳥を落とすほど美しい彼女にして、さっぱり皇帝のお呼びがかからない。
 というのは、清廉な性格の彼女は、皇帝に宮中の女性を紹介する肖像画を描く画家やその他関係者に賂を送ることを潔しとしなかったのだ。

 したがって皇帝が目にする肖像画に描かれた彼女の容貌は、一般受け、男性受けするものではなかった。

 だから匈奴に嫁ぐ女性が択ばれるとき、彼女をそれに充てることを宮中の誰もためらわなかった。

 ところが、いよいよ王昭君が匈奴へと旅立つ日、初めて彼女の花のかんばせを見た皇帝(元帝)は地団太を踏んで悔しがる。

『伊勢物語』「芥川」で駆け落ちした女が鬼に喰われてしまった後の在原業平を思わせる。

 その場面である。適当な資料が手元になく例によって素人(お前国語の教師だろ)が白文から書き下したものなので禁学術引用、禁用試験対策である。

[書き下し文]
 昭君入る。帝これを見、貌(かたち)後宮第一と為(な)す。応対も善し、挙止(きょし)も閑雅(かんが)なり。帝これを悔ゆ。
[現代誤訳]
 王昭君が玉座の間に入った。元帝はこれを見て、宮廷一の美人だと思った。受け答えも気が利いていて、挙措も優雅であった。元帝は彼女を匈奴にやるように決めたことを激しく後悔した。

 悔しがったのが一介の貴族ではなく大国の皇帝であるからこの後に起こったことが恐ろしい。

[書き下し文]
 すなわちその事を窮案(きゅうあん)し、画工皆棄市(きし)せらる。
[現代誤訳]
 そこで元帝は事の真相を徹底的に追及し、画家たちは全員処刑された。

 「棄市」とは公開で斬刑にされて道端に捨てられることである。
「晒す」とも云う。

 あな恐ろしや、宮廷には絵を描く人間が誰もいなくなってしまったのだ。

 ところで、さっき「飛ぶ鳥を落とす」と書いたが、この表現は「勢いの盛んなさま」という意味で使われるのが普通である。
 したがって国語が得意な人ならば、「ん? ここは言葉の使い方がおかしいんじゃないか。王昭君は権力や権勢を振るっていたわけではなく単に美しかっただけなんだから」と思ったかもしれない。

 ところが王昭君は本当に(?)飛ぶ鳥を落としているのだ。

 王昭君が匈奴に向かう途中、故郷への御名残で琵琶を弾いたところ、空を飛んでいた雁たちが、王昭君の美貌に見惚れ、また琵琶の音の悲痛でかつ優美な音色に聞きほれて、羽根を動かすのを忘れ、バタバタと地上に落ちて来たと云うのである。

 このエピソードから王昭君は「落雁美人」と呼ばれるようになった。

 日本では米の粉で作った菓子で「落雁」と呼ばれるものがあるが、この菓子と王昭君のエピソードとの関係は定かではない。

 中国では「落雁」という熟語は後に「沈魚」という熟語と合体して「沈魚落雁」という故事成語になった。
 「魚が泳ぐのを忘れ、鳥が飛ぶのを忘れる程の美女」という意味である。

 現代の都会に表れたら交通事故続出であろう。

 『西京雑記』の記述は彼女が匈奴に行くまでで終わっている。
 だからこれだけだと王昭君は楊貴妃などと同じ悲劇のヒロインに過ぎないのだが、彼女には匈奴に行ってからのエピソードがある。
 正史である『漢書』に書かれているものだ。
 こちらが史実だと思われる。

 彼女は夫である呼韓邪単于(こかんやぜんう)との間に沢山の子供をもうけ、夫の死後は「収継婚」の慣習に従って義子と再婚することになる。

 このとき王昭君は漢帝(当時は成帝)に直訴の手紙を書いて帰還を願うが、皇帝の返事は「胡俗に従え(現代誤訳:匈奴の慣習に従いなさい)」であった。

 王昭君は次の単于である復株累若鞮単于(ふくしゅるいにゃくていぜんう)との間にまた2子をなす。

 つまり匈奴の王族は王昭君の子孫だらけになった訳だ。

 この間60年、漢と匈奴の間には平和が保たれた。
 それはそうだ。匈奴の王族の相当数が漢の皇族(これは虚偽だが)の血を引いている訳なのだから。

 だがこれは、嫁ぎたくなく、かつ帰りたい女性の犠牲の上に成り立った平和であるから、「美しい国、漢」がお好みの諸氏はこの史実を受け入れたくなかったようだ。(このテの人はどこの国にもいるなあ。)

 『漢書』「匈奴伝」では王昭君が匈奴に嫁いだという淡々とした記述に、『後漢書』「南匈奴伝」では、皇帝の寵愛を得られなかった王昭君が前途を悲観して自ら志願したという話が加わる。  

 さらに『西京雑記』では王昭君が寵愛を得られなかったのは宮廷画家のせいだという話になり、どんどん話がドラマチックになる。

 そしてこれに杜甫だの李白だの白楽天だのという、唐代当代(誤字にアラズ)一流の詩人たちがその文才によって悲劇性を増幅させていく。

 王昭君を悲劇のヒロインとして決定づけたのが元・馬致遠『漢宮秋』である。

 この戯曲では「王昭君と元帝は実は両想い」などという荒唐無稽のストーリーが生まれ、王昭君の匈奴行きも皇帝との涙の別離として描かれる。

 ここでは王昭君をちゃんと描かなかった宮廷画家(『西京雑記』で登場、おそらくは架空の人物)は、悪事がバレそうになって匈奴に亡命し、単于に正確に描いた王昭君の肖像を見せたために単于が横恋慕して王昭君を匈奴にやるように要求する。
 あくどさが100倍に増幅している。

 この画家は毛延寿という名前になっているが、実在の人物だったら遺族が怒るぞ。

 しかも、夫の死後、義理の息子と無理に結婚させられそうになった王昭君は元帝(史実は元帝の後の成帝)に訴えるが、元帝は国家のために血涙を絞りながら王昭君に胡地に留まるよう命じ、絶望した王昭君は江に飛び込んで自ら命を絶ってしまう。

 ちょっとちょっと、ええ加減にせえという感じである。

 無理やり異民族に嫁がされ、異国の風習に適応してそこに自分の地歩を築いた我慢強い女性が、民族に殉じた悲劇の英雄に変化していくのである。

 これは今云うところのエコーチャンバーを思わせる。

 民族の歴史というものはこうやって織り成されていくものなのだろうか。

 「最新の侵入者」である日本人に関する記憶もこういった物語になっていかなければいいが。

 ちなみに王昭君の墓は「青塚(せいちょう)」と呼ばれる。
 冬枯れで草の白くなる時節でも、墓に生える草だけは緑色だからだそうだ。

 李白、杜甫、白楽天がそれぞれ詩に詠んでいる。
 どの詩も長くて訳するのが面倒くさいので(お前本当に国語の教師?)、「青塚」という言葉が登場する部分だけを紹介してこの項を終えたい。

[李白の詩]
 死して青塚を留め、人をして嘆かしむ。
[現代誤訳]
 王昭君は死んで青塚に葬られ、ここを訪れる人を悲しませる。

[杜甫の詩]
 一人青塚を留めて、黄昏に向かわんとす。
[現代誤訳]
 王昭君は独りで青塚に葬られ、黄泉の国に向かおうとしている。

 白楽天は詩題そのものを「青塚」としている。

[白楽天の詩]
 見ずや、青塚の上、行人の澆酒を為すを。
[現代誤訳]
 見なさい、旅人が青塚の上に弔いの酒を注いでいる。


 

『淮南子』を読む-人間万事塞翁が馬2-塞翁が馬-(新米国語教師の昔取った杵柄148)

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塞上の父子

 『淮南子』は相当古くから日本人に読まれていたらしい。
 というのは、「ワイナンシ」という漢音ではなく、「エナンジ」という呉音で呼ばれることが多いからだ。

 日本での漢字の受容には三段階ある。
 最初が呉音で4~5世紀、次が漢音で7~8世紀、最後が唐音で平安中期以降に入ってきたものだ。

 例えば「明」という漢字は呉音では「ミョウ」と読むが、漢音では「メイ」、唐音では「ミン」と読む。
 だから「光明」などの熟語は呉音で「コウミョウ」と読むし、「明暗」などの熟語は漢音で「メイアン」と読むし、「明代」などの熟語は唐音で「ミンダイ」と読む。 

 閑話休題(ぜんかいはなしがそれてほんだいまでいかなかったのをわすれるな)。

 『淮南子』は春秋戦国時代の諸子百家のうち「雑家」に属する人々が纏めたものらしい。
 今IMEで変換しようとしても「雑貨」という候補しかないから、超マイナーな学派だと云っていいのかもしれない。
 何でも「雑貨」、じゃなかった「雑家」は、色々な学説を折衷した学派らしい。
 「いいとこどり」とも云えるが、煮込み過ぎて雑味たっぷりのスープのような気もする。

 残した書物も百科事典のような感じの構成である。
 「みんな持っているけど意外と読まない。」という奴か。

 それでも「塞翁が馬」のエピソードは大抵の高校の教科書に載っているほど有名である。
 パロディ化されて小説の書名になっていることにも前回触れた。

 では、参る。

[書き下し文]
 塞上(さいじょう)に近き人に、術を善(よ)くする者有り。
[現代誤訳]
 異民族との国境に近い人に、占いの上手な老人がいた。

 「塞」は要塞の塞であって砦である。

 中国の歴史は塞外から侵入してくる異民族と塞内の人々との争闘の歴史でもある。

 あるときは撃退し、ある時は征服され、同化し、同化され、その過程で「中国」と呼ばれるものの中身が変化していく。

 現在中国には56の民族が暮らしているが、その多くがかつて塞外から侵入してきた民族である。
 そして彼ら全てが現在は「中国人」として生活している。

 中国に侵入して一定期間居続けた民族で、近代になって国民国家を作れるほどに勢力を存続しえた民族は例外的存在である。

 モンゴル族はその稀有な一つであろう。

 もっともモンゴル族にしてもスヘ・バートルという英雄が現れてソ連(露西亜)を後ろ盾にしなかったら、もしかするとモンゴル族の国民国家はできなかったかもしれない。
 実際本来ならば国民国家の領域だったかもしれない南モンゴルは現在中国なのだから。

 ところで漢族にとって最も最近侵入した塞外民族は日本人である。
 勿論日本人は砦の外からでなく海を渡って来たのだが。
 よく民族が消滅しなかったものだ。

 「塞翁」というのはそうした各民族が入り乱れる最前線で歳を重ねてきた人だと思っていただきたい。

[書き下し文]
 馬故無くして亡(に)げて胡に入る。人皆之を弔(ちょう)す。
 その父(ふ)曰わく、
「これ何遽(なん)ぞ福と為(な)らざらんや」と。
[現代誤訳]
 翁の飼っていた馬がどういうわけか逃げて国境の外に入ってしまった。人々は翁のところにやって来て気の毒にと云った。
 翁が云った。
「これがどうして幸福を齎さないだろうか、いや、きっと齎すだろう。」と。

 以前も書いたが春秋戦国時代の馬は1頭300万円くらいする。車の値段が上がった現在の価値に換算するともっと高いかも知れない。 
 数百万円の財産が突然失われたのだから、それは慰めに来るだろう。
 
 ところが、翁はあわてず騒がす、このことがきっと幸いを齎すに違いない、と云ったのである。

 このあたり、私は反語を定型の通りに訳するのが嫌いなので、そうするのはこの1回だけにする。
 「いや、云々」と云わなくてもただの疑問ではないことは文脈上分かるだろ、と思うのだ。

[書き下し文]
 居ること数月、その馬胡の駿馬(しゅんめ)を将(ひき)ゐて帰る。人皆之を賀す。
[現代誤訳]
 逃げた馬が塞外に行ってから数ヶ月経って、その馬が駿馬を連れて帰ってきた。人々は皆このことで翁にお祝いを言った。

 「故無くして」とあったが、この馬は実は「春が来た」状態だったのだろう。
 翁はそれを知っていたのだ。

[書き下し文]
 その父曰はく、
「此れ何遽(なん)ぞ禍(か)と為(な)る能(あた)わざらんや」と。
[現代誤訳]
 翁が云った。
「これがなぜ災いを招かないだろうか。」

 ここからは誤訳で自然な日本語にしたい。

[書き下し文]
 家良馬に富む。その子騎(き)を好み、堕(お)ちてその髀(ひ)を折る。人皆之を弔(ちょう)す。
[現代誤訳]
 翁の家は良い馬が沢山いた。そのせいか翁の息子は乗馬が好きで、乗り回しているうちに落馬して足を折ってしまった。人々は皆やって来て気の毒にと云った。

 これは単純骨折ではなかったのだろう。
 関節が粉砕される、とか、折れた骨が皮膚を突き破る、とか、後遺症の残るものだったのに違いない。

[書き下し文]
 その父曰く、
「これ何遽(なん)ぞ福と為(な)らざらんや」と。
[現代誤訳]
 ところが、翁が云った。
「どうしてこれが幸福を連れて来ないだろうか」と。

 大事な息子が障碍を負ってしまったのだからこれはなかなか云える台詞ではない。
 この翁、少々空気が読めない人なのかもしれない。
 媼がいたら激怒だったのではないか。

[書き下し文]
 居ること一年、胡人(こじん)大いに塞(さい)に入る。丁壮(ていそう)なる者、弦(つる)を引きて戦い、塞(さい)に近き人、死する者十に九なり。
[現代誤訳]
 それから1年して、異民族が大挙して塞内に入ってきた。兵役に就けそうな者は、皆武器を持って戦い、砦に近い所の人は10人中9人が死んだ。

 これが具体的に歴史上のどの出来事を指すのか分からない。

 ただ、『淮南子』を書いた劉安が生きたのが前漢初期であることから、「胡人」は当時頻繁に侵入を繰り返していた匈奴である可能性が高い。

 そして匈奴もまた中国に侵入して撃退された後、杳としてその後の行方が分からない民族の1つだ。

 一説にはフン族になって欧州に侵入したというが、匈奴の中国史からの退場とフン族の欧州史への登場には200年ほどのタイムラグがあるため、言語学的な分析やDNA解析などによって、何らかの関係はありそうだと信憑性が証明されつつあるところである。

 ちなみにフン族が再度東欧まで侵入してハンガリー人になったという、私が学生の頃に唱えられていた説は同じく言語学や人類学の研究によると、伝説の域を出ないものらしい。

 いずれにせよ『淮南子』の頃の中国では恐るべき敵として認識されていたことがこの記述で分かる。何せ10人中9人が戦死してしまうのだから。

 匈奴については司馬遷が『史記』「匈奴列伝」の中で描いているが、これは単に戦争相手と云うだけでなく中国人は匈奴を嫌いだっただろうな、という習俗が描かれている。

 1つは「若尊老卑」とでも云うべき習慣である。

[書き下し文]
 「壮者は肥美(ひび)なるを食らい、老者はその余りを食らう。壮健を貴び、老弱を賤(いや)しむ。」
[現代誤訳]
 若い者が美味しい物を食べ、老人はその余り物を食べる。若くて健康なことを尊重し、老いて病弱なことを軽蔑する。

 これは儒教の敬老精神に真っ向から挑戦する習俗である。
「野蛮な奴らめ」と思ったに違いない。

 もう1つは「収継婚」の習慣である。

 これは父や兄弟が死んだときにその子やその兄弟が彼らの妻を娶る習俗だ。

 「匈奴伝」にはこうある。

[書き下し文]
 父死すれば、その後母(こうぼ)を妻とし、兄弟死すれば、皆その妻を取りてこれに妻(めあ)わす。
[現代誤訳]
 ある人の父が死ぬと、息子は自分の母以外の父の妻を娶り、兄弟が死んだときは他の兄弟がその人の妻を娶る。

 儒教の習慣では血が繋がらなくてもいったん形式的に家族になった人(義母や義姉妹)と通ずるのはとんでもない不道徳である。
 やはり同じ儒教圏の韓国では「犬野郎」と呼ばれる。

 匈奴のこの習慣も中国人にとっては許しがたい習慣だっただろう。

 匈奴に対して中国人が宿敵という以上の憎悪を持っていたことは想像に難くない。また、侮りの感情も持っていたに違いない。

 匈奴に対する中国人の侮蔑に対してこれを匈奴に下った中国人が論破するという面白い文章がやはり「匈奴伝」にはあるが、とりあえず「塞翁が馬」を終わらせてからにしよう。

[書き下し文]
 これ独り跛(は)の故を以つて、父子相保てり。
[現代誤訳]
 ところが、翁の息子は足に障碍があったので兵役を逃れ、無事だった。翁も難を逃れた。

 この凄惨な戦いに翁の息子は参加せずに済んだ。
 「跛」は足の障碍であるが、兵役を免除されるくらいだから相当の重症だったようだ。
 盾や矛を手に持ったら立っていられないくらいの障碍だったのだろう。

 それより私の眼を惹いたのは、「父子相保てり」という記述である。

 息子は戦場に行かなかったから無事というのは分からないでもないが、相手は国境を越えて侵入してきたのだから、どこかに逃げなければ武器を持たない人は兵士より危険だろう。また、翁はどうやって難を逃れたのだろう。
 何かよほど安全安心な避難場所を持っていたのだろうか。
 まあ翁の慧眼とも云える先見の明でそうした場所を事前に確保していたのかもしれないが。

 我が日の本だったら「自分たち親子だけ助かりやがって」という白い目や「自分だけ生き残ってしまった」というサバイバーズ・ギルトに苦しみそうだ。

※サバイバーズ・ギルト:事故や災害などの死を伴う出来事から生還した人が、自分が生き残ったことに対して抱く強い罪悪感。 

[書き下し文]
 故に福の禍(か)と為(な)り、禍(か)の福と為(な)る、化(か)極むべからず、深(しん)測るべからざるなり。
[現代誤訳]
 この話から考えると、幸福が不幸となり、不幸が幸福となる、その変化の法則は人には分からず、その真理を捉えることはできないのだ。

 最後の部分は高校の教科書には載っていないことが多いが、『淮南子』の世界観を表したものだ。

 『淮南子』は「雑家」の書だが、この部分を見る限り「道家」の思想が色濃い。

 分かりやすい喩え話が一気に深淵な哲学に引きずり込まれそうなので、今日はここまで。

『淮南子』を読む-人間万事塞翁が馬1-六十干支について-(新米国語教師の昔取った杵柄147)

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迷信に怒る

 昔『人間万事塞翁が丙午』という本があったのを思い出した。

 青島幸男という人の直木賞受賞作である。

 読みは「にんげんばんじさいおうがひのえうま」だと思う。

 本当は「人間」は「じんかん」と読み、「世の中」という意味なのだが、日本では何故か「にんげん」と誤読されて広まり、多くの人が「にんげん」と読んでいるから、この小説のタイトルもおそらく「にんげん」と読ませるつもりでつけられたのだろう。

 青島と云う人は元々は放送作家だったと思うが、クレイジーキャッツの「スーダラ節」なんかも作詞しているし、俳優としては「いじわるばあさん」として一世を風靡したし、確か参議院議員でもあって、当時の総理大臣を「財界の提灯持ち」などと呼んで懲罰動議をかけられそうになったこともあると記憶している。

 この経歴を見ても分かる通りユーモラスな台詞や言動が売りの人であり、この『人間万事塞翁が丙午』という題名も、「人間万事塞翁が馬」という故事成語と「丙午の年に生まれた女は男を喰い殺す」という迷信を合体させて面白味を出そうとしたものである。

 「塞翁が馬」に入る前に「丙午」の方に触れておく。

 中国には十二支十干という考え方があって、これの組合せによってその年を表すことがある。

 十二支は日本でもお馴染みであって、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の12個である。
 十二支は通常は固有語で「ね、うし、とら、う、たつ、み、うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、い」と呼ばれるが、漢語で「シ・チュウ・イン・ボウ・シン・シ・ゴ・ミ・シン・ユウ・ジュツ・ガイ」と呼ばれることもある。

 十干は十二支ほどには普及していないが、甲乙丙丁戊己庚申壬癸10個である。
 十干は通常は漢語で「コウ・オツ・ヘイ・テイ・ボ・キ・コウ・シン・ジン・キ」と呼ばれるが、固有語で「きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと」と呼ばれることもある。

 十二支と十干の組合せは12と10の最小公倍数である60通りあって、一番目の組合せである甲子から最後の組合せである癸亥まで行くとまた一番目である甲子まで戻るのがルールである。
 これを還暦といい、60歳になると何故還暦のお祝いで赤いちゃんちゃんこを着せられるかと云えば、六十干支が一巡する程長生きしたお祝いな訳だ。

 え、10個と12個の組合せならば10×12=120通りじゃないの、などと数学が得意な生徒が突っ込んできそうだが、陽の十干は陽の十二支、陰の十干は陰の十二支としか組み合わせられないという陰陽思想に基づいたルールがあるのだ。
 このルールに従えば甲子・甲寅の組合せは許されるが、甲丑・甲卯などという組み合わせは許されないので、許されない組合せの60通りを抜いた組合せの数である60通りが正解なのだ。(あーっ、めんどくさい!)

 たとえば甲の年であって子の年であればその年は甲子(コウシまたは、きのえね)の年と呼ばれる。
 甲子園は甲子の年に完成した野球場だから甲子園なのだ。

 また、古代の内乱である壬申の乱も壬の年であって申の年、つまり壬申(ジンシンまたは、みずのえさる)の年に起こったから壬申の乱と呼ばれるわけだ。

 日本人はどうもこの組み合わせを内心「面倒くさい」と感じていたようで、明治になるとこの組み合わせを太陰暦と共にポーンと放り投げてしまったようだ。
 日本での用例は甲子園と壬申の乱くらいしか私は思いつかない。

 にも関わらず、丙午に関する迷信だけはなぜか根強く、戦後にすら残り続けた。

 丙午伝説は元々外来の六十干支に基づくものだし、かつ全くの迷信であるにも関わらず、なぜか日本人にはこれを信じ込んでいる人が多かったらしく、過去の「丙午」の年には出生数が極端に低下してきた。
 この統計は、丙午生まれの子ども(女の子)が生まれないために何らかの措置が講じられたことを暗示している。

 最後の丙午は1966年。既に私が生まれているから現代に属する。

 こうなると冗談めかした題名を笑ってもいられない。
 迷信に近代科学が接ぎ木された時ほど悪質なものはない。

 このテの迷信は六十干支の本場の中国や韓国にはないのだから、なおのこといい加減にしてほしいものだ。

 実は今年2026年は六十干支では丙午に当たる。

 来年か再来年あたり、日本人がこんな下らない迷信を脱したことを示す統計結果が出てほしいものだ。

 閑話休題(うむもうまないもそのひとのいししだいであることはいうまでもないが)。

 ということで、「塞翁が馬」の方は次回。

  

『伊勢物語』を読む-梓弓-(新米国語教師の昔取った杵柄146)

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夫帰る

 初学者が教えられる『伊勢物語』としては、「芥川」「東下り」「筒井筒」があるが、もう一つ、教科書によっては載っている話がある。
 「梓弓(あづさ弓)」である。

 この話は第24段にあり、第23段である「筒井筒」に隣接しているので、これを教科書に入れるか入れないかは、二つの章段の関係をどう捉えるかと云う解釈が影響していると思われる。

 なぜそう思うかと云うことについてはまず現代誤訳が必要であろう。

[原文]
 昔、男、片田舎に住みけり。男、宮仕えしにとて、別れ惜しみて行きにけるままに、三年来ざりければ、待ちわびたりけるに、いとねむごろに言いける人に、
「今宵あわむ。」
と契りたりけるに、この男来たりけり。
[現代誤訳]
 昔、男が辺鄙なところに住んでいた。男は宮中で仕事をするからと云って、妻と別れを惜しんで上洛したまま、三年もの間帰って来なかったので、妻は待ちわびていたところに、たいそう熱心に求愛してくれる人がいたので、
「夫がいなくなってからちょうど三年目の今夜、貴方の妻になります。」
と約束していたところに、ひょっこりと夫が帰ってきた。

 内容がしっかりと確認できる最古の法律『養老律令』によると、夫が三年家を空けると妻は再婚してよかったのである。
 これは戸令結婚条に以下の通りにある。いつものように書き下し文は我流なので学術的引用不可、試験対策等への使用不可である。

[書き下し文]
 その夫外蕃(がいはん)に没落せしとき。子有るは五年。子無きは三年帰らざるとき。及び逃亡せしとき。子有るは三年。子無きは二年出でざる者は、並(いず)れも改めて嫁がしむるを聴(ゆる)す。
[現代誤訳]
 妻の夫が外国に行ってしまって帰って来ない時。子供がある場合は5年、子供がない場合には3年帰らない時。および逃亡してしまった時。子供がある場合は3年、子供がない場合は2年消息不明の者は、いずれも再婚を認める。

 外国を「外蕃(よその野蛮な土地)」、そこに行くことを「没落」と呼んでいるところなど、『養老律令』の元ネタである『唐律』に表れた中華思想がそのまま書かれていて面白い。

 こういう考え方が漢学者や国学者の思想に紛れ込んで「大和魂」と云う名の中華思想になっていったのだろう。

 ところで、これによく似た規定は実は現在の民法にもあって、配偶者が3年消息不明の場合、相手の意志が確認できなくても離婚の申し立てができるのである。

 したがってこの女性の行為は現在の法律に照らし合わせても正しい。

 また、冒頭で触れたように、もしこの段を「筒井筒」の続編だと捉えると、妻の両親は既に亡くなっており、頼るべき実家もない窮迫した生活が夫不在の中で3年続いていたことになるのだ。

 しかも夫には片道3時間以上かかるような所にいる別の女の所に通うという「前科」があり、しかもその女と切れた理由は「風流ではない」という浮世離れしたものなのである。

 もし続編説を採るならば、よく3年も待ったな、というシチュエーションなのだ。

 ところが、「よりによって」としか云いようがないが、ちょうど3年目、夫(前夫)が帰ってきてしまったのである。

[原文]
 「この戸開け給へ。」とたたきけれど、開けで、歌をなむ詠みて出だしたりける。
[現代誤訳]
 夫は「この戸を開けてください。」と叩いたのだが、妻は開けずに、歌を詠んで戸の外に差し出したのだった。

 ここで、「新しい夫は家の中にいただろうか?」などと生徒に問いかけたいところだが、分からないだろうな。

 私は「いなかった」派である。

 それについてはまた後で述べるとして、訳を急ごう。

[和歌]
 あらたまの 年の三年を まちわびて ただ今宵こそ 新枕すれ
[現代誤訳]
 貴方の帰りを今か今かと3年も待ちわびて、ちょうど今夜新しい夫との生活を始めようとしていたのです。

 この歌に対する男の返歌。

[和歌]
 あづさ弓ま弓つき弓年を経てわがせしがごとうるはしみせよ
[現代誤訳]
 私があなたにあげたもの♪ キリンが逆立ちしたピアス♪ 私があなたにあげたもの♪ 中略♪ シャガールみたいな青い夜♪ 中略♪ 大好きだったけど♪ 彼氏がいたなんて♪ 大好きだったけど♪ 最後のプレゼント♪ bye bye my sweet honey♪ さよならしてあげるよ♪ 俺があなたにしてあげたように新しい夫に尽くせよ。仲良くな。

 そう云って、男は去って行こうとする。

 ところが、女は急に未練が湧いてくる。

[和歌]
 梓弓引けど引かねど昔より心は君によりにしものを
[現代誤訳]
 貴方が何をしてくれてもくれなくても、他の男が何かしてくれてもくれなくても、昔から私の心は貴方に引き寄せられていたのに。

 そう云って引き留めようとしたが、男は去って行ってしまった。

[原文]
 女、いとかなしくて、後に立ちて追い行けど、え追いつかで、清水のある所に伏しにけり。そこなりける岩に、指の血して書きつけける。
[現代誤訳]
 女はたいそう悲しくて、男の後から追いかけたけれども、追いつくことが出来なくて、清水の湧いている所で倒れてしまった。そしてそこにあった岩に、指の血で歌を書きつけたのだった。

[和歌]
 あい思わで離(か)れぬる人をとどめかねわが身は今ぞ消え果てぬめる
[現代誤訳]
 思いが通じなくて別れてしまった人を止めることができなくて、私は今消え果ててしまうのだろう。

と書いて、そこで死んでしまったのだった。 

 この話を読んでの私の正直な感想は、この女性が気の毒だ、というものである。

 要は3年間ほったらかしにされた訳だから。

 これは「筒井筒」と「梓弓」が全く関係のない独立した章段であると考えてもそうである。

 45年くらい前に『伊勢物語』全編を読んだ時の私は「筒井筒」と「梓弓」の関係についてそう思っていた。

 『伊勢物語』には全部で125の章段があり、それを全て読破すると、これらは一組の男女の一貫した愛の物語とは到底思えなかったからだ。

 だが、もし「梓弓」が「筒井筒」の続編であると考えると、幼馴染の夫婦の、情多き夫と、操を
貫く妻の終局の姿となってしまう。

 この文章の冒頭で私が国語の教科書にこの2つの章段を連続して入れるか否かという選択について述べたのは、そういう意味である。

 これを1人の女性の一貫したストーリーとして捉えると、親に反対されつつも純愛を貫いて幼馴染と結婚した女性が、多情な夫の浮気に苦しみつつも夫を慕い続け、しかし、最終的にはずっと自分を愛してくれそうな人を見つけて幸せになろうとするその日、突然帰ってきた夫への愛を蘇らせ、にも関わらず捨てられて、自死してしまう、という話なのだ。

 「続編派」(そんなものが何時できたのか知らないが)の、「筒井筒」など絵空事だ、という吐き捨てるような声が聞こえて来そうである。

 それどころか「続編論」(以下同文)を発展させて、教科書に載っている「男」が全て在原業平だとすると、「芥川」や「東下り」が「空白の3年間」の理由になるという、恐るべきストーリーになってしまう。

 それにしても男の「逃げ足」の早いこと。
 3年振りに戻ってきたのも「たまには行ってみるか」という気まぐれに過ぎなかったことが分かる。多少でも気持ちがあるならば女が追いかけてきたら足の運びも鈍るだろう。

 こんな男の為に死んでしまう女が哀れ過ぎる。

 私は「独立派」(これまた以下同文)である。

 やはりこの2つの話は別の男女による別々のストーリーだと考えたい。

 そうでないと「筒井筒の感動を返してくれ!」ということになりかねないからだ。 
 まだ18くらいのとき、初めて読んだ「筒井筒」は胸がジーンとするような感動を私に齎した。
 この感動を私は齢64になっても持ち続けていたい。

 それと同じ理由で、元夫が帰ってきた時、妻の家には新夫はいなかった、と考えたい。
 妻が新夫との初夜の寝床から抜け出してきて元夫とやり取りする、などというシチュエーションは生臭すぎるからだ。
 冒頭の絵はそれをカリカチュアライズしたものである。

 そもそもそんな場面であれば元夫への気持ちが蘇ったりはしないだろう。

 ここはやはり新夫が訪ねて来るの待っていたら訪ねて来たのは元夫だった、という方が運命の皮肉を感じさせていい。
 その後の妻の行動もまだ新夫を迎え入れていないからと考えた方が辻褄が合う。

 いずれにしても、この2つの話を連続して高校の教科書に乗せるのならば、「梓弓」→「筒井筒」の順番にしてほしいものだ。

 その方が教育上宜しいような気がする。

 それにしても新妻が突然元夫のために死んでしまった新夫も気の毒である。
 事態が俄かには呑み込めなかったのではないだろうか。

 いるよね。こういう人。

 生徒に教えるときには先生方にはこの新夫の可哀想さにも是非言及してほしいものだ。

「人がいいだけでは恋愛で勝てないぞ。」とか何とか。
 

釜山二転三転空転旅行28-韓国雑感海雲台編-(河童亜細亜紀行330)

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海雲台今昔

 4日行った旅行をひと月引っ張ってしまった。

 それでも何時もよりはネタが少なかったようだ。


 IMGP8085

 海岸に出るためには海雲台駅の5番出口から出る。

 仮に南浦洞やチャガルチに泊っている場合は地下鉄1号線に乗って西面で4号線に乗り換え、大体30分くらいで到着する。

IMGP8088

 駅から出て見ると長い歩行者天国ができているので吃驚した。

 以前来た時はなかったのに。
 考えてみたら10年近く前に来て以来なのだ。

 その間にますます観光地としての整備が進んだらしい。

IMGP8090

 ここにも代走(仮名)が。
 これもなかったような気がする。いや、あったかな。

 ハードディスクの故障でその当時の写真にアクセスできなくなったので確かめようがない。

 そうだ、AI君に聞いてみよう。
 「海雲台のメインストリート(亀南路)にある**「ダイソー 釜山海雲台店」**は、2013年5月24日にオープンしました。」だそうである。あったのだ。

 これから私の記憶力は鰈と共に、じゃなかった、加齢と共に衰えていくだろうから、AI君の教えてくれる過去の情報はとても有用になりそうである。

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 大きなオデンの看板。
 これは間違いなく以前もあったのを覚えている。

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 構図がほぼ一緒と云う所が進歩のなさか、老化なのか。

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 海雲台にも伝統市場があり、健在である。

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 釜山名物のヌタウナギも健在だ。

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 ホヤも新鮮そう。

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 ただ以前はポンテギの素(要は蚕の幼虫)や、

IMG_6604

 カムルチー(雷魚)など、如何にも蛸にも韓国、という感じの物が売っていたが、今回はなかった。

 これは季節的になかったのか、それとも時の流れの結果なのかは分からなかった。

IMGP8104

 そして以前は分かり難くて汚かったトイレが外国人にも分かりやすく清潔なものに生まれ変わっていた。
 韓国のトイレ革命、まだまだ進行中である。

IMGP8105

 今回釜山でタクシーに乗って嬉しかったこと3つ。

 一つはホテルから空港までのタクシーの運転が安全かつスムーズだったこと。
 これについては既に書いた。
釜山二転三転空転旅行23-韓国タクシーの運転技師の技に酔う-(河童亜細亜紀行325)

 もう一つはブルーラインパークまでのタクシーの運転技師さん。
 近くなのに全然嫌がらずに行ってくれて、しかも清算のときに私が小銭を出すのにもたもたしていたら、「ケンチャナヨ。」と云って料金を負けてくれたこと。
 個人タクシーだからできることだろうが、こんなケンチャナヨは大歓迎である。

 もう一つはブルーラインパークからの帰りのタクシーで運転技師さんが聞いていた音楽が「心配しないで、君(걱정말아요 그대)」だったこと。
 私の大好きなドラマ『応答せよ、1988』のOSTである。
 思わず「この歌、『応答せよ88』のOSTですよね?」と技師さんに話しかけてしまった。

 私はこのドラマに関して話したいことが沢山あるのだが、私の周囲にはこのドラマを見たことがある人が妻しかいないので、是非この技師さんと話したかった。

 妻はドラマを黙ってみたい派なのである。
 何回「黙って見なっせ!(熊本方言で見なさい)」と怒られたことか。

 しかし、片道10分くらいなので技師さんとの会話が盛り上がらないままに終わってしまったのが残念だった。
 あるいはこの人も妻と同じく音楽は黙って聞きたい派だったのかもしれない。

 これは全くの個人的な体験なのかも知れないが、私は今回の旅行で釜山の運転技師さんがとても好きになった。

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 大寒波到来と云う話だったが、天気が良いせいか海岸は意外に暖かい。

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 大学生らしき集団が肩を寄せ合って座り、海を見ながら喋っている。

 私の大学時代は(今も)女にモテなかったので、野郎とつるんでばっかりで、その時はちっとも楽しくなかったのだが、今から思えばその後の人生にとってとても大切な時間だったのだなと思う。

 COVID-19のパンデミックのせいで、リモートか、会ってもマスクにゴーグル越しにしか人と話せなかった時期に青春を送った若者たちは、これからどうなっていくのだろう。

 何とか人との触れ合いを取り戻してほしいものだ。

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 いつも船で来た時に最初に見えるビル街である。
Dマウントシネレンズと行く韓国世界遺産への旅3-船の旅は楽し-(河童亜細亜紀行76)

個体発生は系統発生をなぞる

 いつもぼんやり見えて来たこのビル街が輪郭をはっきりさせて来ると、「よーし、釜山に来たぞー!」と闘志がわいてくる(誰とも何とも闘わないけどね)。

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 このビルはマンションとホテルと商業街の合体したものらしい。
 「昔の海雲台ってどうだったのだろう?」という疑問が湧いてくる。

 いつものようにAI君に聞いてみると、海岸沿いは何と屋台村だったそうだ。

 確かに海浜の観光地だったらそうだろう。

 その頃に来てみたかった。

 来たら冒頭の絵のようなややこしいことが起っていたかも知れないが。

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 水族館の訪問記に上げ損なった写真。

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 乗り捨てられた電動キックボード。
 スマホでシェアできるらしいのだが、やり方が分からなかったので乗らなかった。
 日本で乗ったことがあったらおそらく乗ったのだが。
 初キックボードが勝手の分からない外国というのはちょっと勇気が要り過ぎる。こういう「ハンパ」な乗り物は国によってルールが違ったりするし。

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 トルソバン(済州土着の石像)が守る食堂。
 間違いなく済州島の郷土料理が出てくる店だろう。
 入ってみたかったが、さっき鱈腹チャジャン麺とタンスユク(豚天)を食べたばかりなので断念。

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 ここはスンドゥブ屋である。
 もはや日本の食卓に完全に溶け込んでしまった料理だ。
 どこのスーパーに行ってもインスタントのそれが置いてある。
 どうも「食べ慣れ」感があって現地で見てあまりその気にならない料理である。

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 おっと、これは海雲台じゃない。

 チャガルチ市場の隣の乾物市場である。

 ここについては前回の釜山旅行記で書いた。
過去の自分がくれた釜山旅行17-キンパ用の海苔は瞬時に調達-(河童亜細亜紀行262)

最後まで喋らせて

 今回の旅行でもキンパ用の海苔はがっちりゲットした。
 ただしやはり最後まで話させてくれなかったが。

 一応雑感は南浦洞・西面・海雲台と来たが、何かモヤモヤしているからもう一回あるかも知れない。ないかも知れない。


釜山二転三転空転旅行27-韓国雑感西面編-(河童亜細亜紀行329)

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釜田市場で彷徨す

 韓国雑感西面編である。

 日本人の韓国旅行先として南浦洞やチャガルチに替わってこの10年ほどで浮上してきたのが西面だ。 

 釜山といえば船で行く旅を思い浮かべる人も多いと思う。

 その場合、釜山港から釜山駅まで10分ほど歩いて地下鉄に乗るとすぐに南浦洞やチャガルチである。

 ところがこれが飛行機の旅となると、金海空港から沙上、西面と軽鉄道と地下鉄を乗り継いで1時間近くかかる。
 まあタクシーを使えばいいのだが、時間が不定なので余裕をもって出発する必要があり、そうすると最終日はほとんどの時間を空港で過ごさなければならなくなる。

 これが金海にホテルをとれば空港までは30分かかるかかか(www)らないくらいだから、飛行機の旅だとこちらのほうが時間をたくさん使える。

 釜山にはあちこちに日系のホテルがあるが、東横ウィン(仮名)は日本でもお馴染みの清潔でサービスのよいホテルである。
 そして西面にもこのホテルがあるのだ。

 それと、いろいろと遊べる海雲台までは地下鉄で直通だから、一旦西面に出て乗り継がなければならない南浦洞やチャガルチよりも便利である。

 それでは西面そのものには何があるかというと。


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 まず釜山で最も大きい生鮮市場である釜田市場。


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 私はソウルでもこんなに大きな市場を見たことがない。

 この市場を歩いて行くと、後で入口まで帰れるのか心配になるほど大きい。

 実際「ここから入って、こう行って、ここから曲がって」というのをちゃんと覚えていないと西面駅まで帰れないような気がする。
 まあ分からなくなった時は市場の人に聞けばすぐ教えてくれるが。


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 ただ、実際にここで買った物を日本に持って帰れるかと云うと、現在の日韓両国の防疫体制から云って難しいだろう。
釜山二転三転空転旅行24-空港の手荷物検査でまたまた空転す-(河童亜細亜紀行326)

 既にこの旅行でも経験したが、レトルトのカレーさえ持ち出せないのだから、写真のような生の野菜類や魚類、肉類などが税関を通るとはとても思えない。

 例の御仁が「ハンバーガーぐらい個人輸入させろ。でなきゃ関税100パーセントだ!」などと云い出さない限り無理だろう。
 もしそうなったら少なくとも日本では今迄の厳しい基準は何だったんだというくらいにユルユルになると思うが。

 私も含めてこの80年日本人は子供の教育に悪いことをしてきたよなあ。
 「ルールを守りなさい」と厳しく云っていた大人が親分に云われるとあっさりルールを変えるんだから。

 「逆説」的に云えば、命を守るための教育としては最良のものを伝えられたのかも知れないが(皮)。
 殆ど災害教育である。

 これからも「逆説」で子供や孫の命を守って欲しいものだ。 
 突然「正論」(『正論』?)に変わるのだけは勘弁して欲しいが。

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 服を買いたい人は是非西面駅の地下街に行くべし。

 ロッテ百貨店側から左側がベテラン人類用、右側がルーキー人類用である(と思う)。

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 私達が行ったときにはたまたま休みだったが、ロッテ百貨店も大きいのがあるから、定番のお土産などが買いたい人にはお勧めである。


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 「ズキューン」(我が家語)がやりたい人にはその為の施設もある。
 やりたい人はどうぞ。

 これはむしろ女性の方が完全な非日常体験として楽しめるかもしれない。
 男がやると兵隊に行く前の訓練をしているような気分になる。

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 代走(仮名)も2軒あるので、クラッカーやスープ、歯磨き粉や石鹸などの上質のものを安く買いたい人にはお勧めである。

釜山人は本当に親切

 地下街などで少しでも迷う仕草をしたらすぐに釜山っ子が寄って来るのも何時ものことである。

 今回の旅行でも立ち止まった瞬間に高齢の男性が寄ってきて、「どこに行くんだ。」と聞かれ、「どこどこ」というと、「ああ、それは…」と云って教えてもらった。
 言葉は韓国語、日本語、英語のチャンポンである。

 その後またほんの数秒躊躇した瞬間、また別の高齢者が寄って来て以下同文。
 これは迷ったというレベルではなかったから有難〇〇などと云いたいところだったが、好意に対してそんなことを云うのは人の道に外れるから〇〇に入る言葉は「無限」と云っておこう。

 今の韓国の高齢者が経験してきた戦争・貧困・軍人政権・経済危機などの試練を考えると、それでも高齢になったときにこれだけ他人に親切であれるというのは尊敬に値する。
 彼らの顔に刻まれた深い皴をみていてそんな感慨に襲われた。

 6年前、やはり西面での経験について私はこう書いている。
「最悪の日韓関係」の中「反日感情の強い」釜山で年末年始を過ごしてみた11-アガシとアジョシに道を教えられる-(河童亜細亜紀行211)


 嗚呼、なんて親切な人たちなのだろう。
 何度も言っているが、ここはお互いが顔見知りの小さな田舎町ではない。韓国第二の都市の新市街なのだ。

 感謝しかない、と言いたいし、「何が反日感情が強いじゃ」とこの項をまとめたいところである。

 しかし、実は私は少なからぬ敗北感も味わっていた。

 最初の娘さんの、困っている人を自分のできる精一杯で助ける物怖じしない態度。彼女はほどなく日本語がペラペラになるだろう。
 まさに孔子の言葉、「義を見てせざるは勇無きなり」である。

 次に助けられた男性たちは最初は私達が何人か分からなかったので国際共通語である英語で話しかけたのだろう。そして日本人と分かったからすぐ日本語で話してくれたのだ。その紳士らしい親切と教養。

 考えてみれば、私達の滞在している「弁韓観光ホテル(仮名)」も、決して大きなホテルではない。しかし、従業員たちは日本語・英語・中国語を相手がストレスを感じない程度に喋れるのだ。勿論人によって得意不得意な言語は違うにしても。

 過去の栄光に浸っていたい日本人が「近代化してやった」と見下げていた人々がどんどん追いついてきている。もう追い抜かれてしまった部分も多々あるだろう。認めたくないが。英語力はまさにその部分である。

 頑張れニッポン。

 今は「近代化してやっている」と思っている国、ヴェトナムが、ミヤンマーが、そのうちにすぐ追いついてくる。そうしたら日本人には耳の痛い自己主張を始めるだろう。そうなったらカッとなって臍を曲げて「丁寧な無視」を始めるつもりか。

 もう宗主国意識は捨てた方がいい。そんな意識があるから「生意気だ」とか「(相手が)甘えている」とか、「懲らしめる」などという言葉が出てくるのだ。「丁寧な無視」などしていたら日本が放置した部分にどんどん他国(おそらく当面は米国や中国)が入り込んでくるだろう。

 虚心坦懐。

 日本という小さな島国が今まで独立を保ち、発展できたのは、他民族の優れたところを見抜き、学んで自分たちのものにしてきたからだ。世界中が先生だった。

 引用終わり。

 あの頃は多くのオピニオンリーダーたちが、「韓国と云う国は煮ても焼いても食えないから丁寧に無視しろ」とか、甚だしきは日韓断交を主張していた。

 しつこいようだが日韓には無数の懸け橋や緩衝が存在し、彼らには固い絆がある。

 彼らがいるうちは両国間にどんなに難しい問題が生起しても知恵を出し合って乗り越えていくだろう。

 今は中国との懸け橋や緩衝が、辛い思いをしながら、ときにはスパイ呼ばわりされながら戦争回避に向けて動いているに違いない。

 私も若い頃から今迄の人生で何度もスパイ呼ばわりされたが。

 簡単に断交だの戦争だのと云う人たちはそれで票が集まったり記事が売れたりするからそうするのだろうが、こうした商売のスタイルは今後は難しくなっていくだろう。

 なぜなら大衆は忘れてもAIは忘れないからだ。

 今、「6年前に日韓関係が悪かったときに断交を唱えていたのは誰ですか。」とAI君に聞いてみると、ずらりと人名が出て来た。
 AI君は人間と違ってしっかり覚えているし、相手が有力者でも忖度しないから、誰が何を言っていたか瞬時に答えてくれる。

 私には人を陥れる趣味はないからこれ以上はAI君に聞かないが、もっと細かく質問したら誰が何時どこでどの媒体を使ってどういう文脈でそれを言っていたかも言い逃れができないくらいに事細かに教えてくれるだろう。

 これからも言論を以て収入を得て人から尊敬もされたいのならば、売らんかなで4.5年で耐用年数が切れるようなことは云わないことだ。

 10年前に予告していた通り、日韓関係についてあの「最悪の時」から6年目の今、大笑いしたいと思う。
覚えておこう、笑うために。(笑えない夜のために6)

 HAHAHAHAHAHAHAHAHA!

溶けて流れりゃ皆同じ

 閑話休題(わらわれてもはずかしくもおもわないんだろうな。ろんりむじゅんをしてきするとかおをまっかにしておこってたしょうわのりーだーたちがなつかしい)。

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 西面で見つけたバッテリーチャージャーと電動車椅子。

 10年位前までは韓国の街中で障碍者を見ることはまずなかったが、今では当たり前になった。

 本当に変化の激しい国である。

 88五輪の渡韓ブームで行ったきりの人はそろそろ行ってみた方がいい。
 自分の韓国イメージがリレー式計算機くらい古いものだと云うことが分かるだろう。

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 こうした変化はマッコリのような伝統的なものに関してもそうだ。

 釜山のマッコリと云えば宣託マッコリ(仮名)というイメージがあったのだが、この見慣れないマッコリが飲食店やコンビニを席捲していた。

 これが実に美味いのである。 

 私には「あのマッコリが人生で一番」という味のものがあるのだが、それを彷彿とさせる美味さである。
Dマウントシネレンズと行く韓国世界遺産への旅11-懲りずに提案-(河童亜細亜紀行84)

こんなマッコリが出たらうれしい

 現地で飲んだもので最高のものと比べても遜色ない。
「最悪の日韓関係」の中、韓国の中枢に行く、ただし買い物旅行16-ドンドン酒に出逢う-(河童亜細亜紀行193)

これぞドンドン酒

 ただし、このマッコリは新製品ではなくて、昔から地道に醸していた造り酒屋のものが再発見されるような形で広がったのだという。

 これからも色々なものが新しくなっていくのだろう。

 南浦洞編で書きそこなったものを1つ。

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 ショーウインドウに顔を突っ込んでいるキャラクターがあった。

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 釜山に来ると最初に出迎えてくれるキャラクター、「ブギ」である。
 
 見ての通りこれはカルメギ(鷗)がモデルのキャラクターである。

 釜山(Busan)のカモメ(Karumegi)だから併せてBugiだ。

 我が熊本が世界に誇るキャラクタークマもん(仮名)は熊本県の営業部長兼しあわせ部長であるが、ブギ君は釜山市のインターン社員なのだそうだ。

 私がなぜこんなに詳しく知っているかと云えば、私は日韓カモメカルメギ協会(会員数1名)の会長だからだ。

 私がなぜこんな肩書を持っているかについては既に書いた。
河童からくに紀行11-海峡を越えてもカモメはカルメギ-(河童亜細亜紀行33)

カルメギはカルメギ

 自分で絵に描いてみて分かったが、カモメはほぼ真っ白だし、全体にツルンという印象だからキャラクターにしにくい動物である。

 実は目つきも滅茶苦茶悪いし。

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 よく上手いことこんな可愛いキャラクターにできたものだ。

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 このブギ君は「危険」というシールが貼ってあるから、あるいは酔っ払いがぶつかったりしたことがあったのかもしれない。

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 カルメギのキャラクターは日本旅行に誘うCMにも使われている。

 これはブギのバリエーションなのか、それとも別のキャラクターなのかよく分からないが。

 それに「マスヤマ(松山?)旅行」と銘打っている割に背景に写っているのは熊本城のようだが。


 私が渡韓し始めた頃の韓国のキャラクターは今で云う「無気味系」で、正直ちっとも可愛いとは思えなかったが、2000年代を過ぎるくらいから可愛くなってきて、今ではドナウ(仮名)やココア(仮名)を始め可愛いキャラクターが街中に満ち溢れている。
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 こういう「日本のどこかで見た」というようなキャラクターが多いのも事実だが。

 これからも変り続ける韓国を見続けていたい。

釜山二転三転空転旅行26-韓国雑感南浦洞編-(河童亜細亜紀行328)

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床面信号機

 韓国雑感である。

 まずは宿泊した南浦洞を中心に。

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 私達のような高齢者は釜山旅行をするときに「日本人御用達」の弁韓観光ホテル(仮名)に宿を取り、南浦洞を中心に観光する人が多いと思う。

 その際の合言葉が「南浦駅7番出口で会いましょう(映画っぽく)」である。

 ここはエスカレーターがあるから運動器や循環器や呼吸器に多少の問題がある人でもOKだし、ここから出るとホテルはもうすぐそばだ。

 ところが2025-26の年末年始現在、ここは工事中で通行止めである。

 したがってここを起点にいろいろな場所への移動を考えている人は戸惑うことになる。

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 5番出口を使うように案内がしてあるし、エレベーターもあるから高齢者も安心だが、ここから出ると7番から出る場合の反対方向がホテルになるから要注意。

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 地面に埋め込まれた信号機。
 「LED歩道信号灯(床面信号機)」というらしい。

 既にソウルは明洞で経験済みだが、釜山でも普及しつつあるようだ。

 最近は韓国人も日本人も道を歩くときに俯きがちだからこれがあると事故防止になりそうである。

 いわゆるスマホを操作しながら歩く「歩きスマホ」は韓国でも問題になっているらしく、この国では「スモンビ」と呼ばれているらしい。
 「スモンビ」は「スマトポン(スマートフォン)」+「チョンビ(ゾンビ)」の合成語である。

 スモンビに対して「歩きスマホは止めましょう」と呼びかけるだけではなく、彼らがそんなことでは悔い改めない(歩きスマホをやめない)だろうことを見越して交通事故の防止策が取られると云うのが現実主義的な大陸らしい。

 日本なら歩きスマホで事故に遭っても「あーあ、歩きスマホするからだよ。自己責任だからな。」で終わりだろう。

 などと考えていたのだが、よく考えて見るとこれはバリアフリーの一種とも云える。

 お年寄りは背中の曲がっている人が多いし、背筋が弱ってくるから歩くときに俯きがちになりがちである。視線を落とさずに真っすぐ前をみることすら難しい人が結構いるのだ。

 日本以上に高齢化が急速に進んでいる国の交通事故対策だと考えると急速に普及が進んでいるのもむべなるかなである。

Dマウントシネレンズと行く韓国世界遺産への旅7-韓国ドライバーの超絶技巧-(河童亜細亜紀行80)

 韓国の交通事故事情についてはちょうど10年前に書いたが、最新情報を確認してみたい。

 私が上記の記事を書いた前年の2015年の韓国の交通事故死者は4621人、入手できる最新のデータである2024年のそれは2521人だから、半減とまでは行かないが、大幅に減っていることが分かる。

 10年前に読んだ日韓の共同研究では韓国の交通事故対策の課題として1.歩車分離2.高齢者対策3.飲酒運転対策が挙げられていたが、着々と対策が進んでいるようだ。

 LED歩道信号機は2の対策として進められているのに違いない。

 これに対して日本はというと、2015年が4117人、2024年が2663人だから、人口比から考えるとこの分野では日本の圧勝と云えるだろう。人口比が彼我1:2くらいだから、日本の交通事故死者は韓国の半分くらいと考えてよい。

 実際に街を歩いた実感では、韓国では1.歩車分離がまだまだという感触がある。

 光復路などでも車が大通りから侵入してくる交差点に信号がなくて歩行者が渡り放題という場所があるし。

 これは今思いついたことなのだが、素人考えを1つ。

 私は最近通称「ヒガバイ」(国道57号線東バイパス)を運転して通勤しているのだが、この道路の交通マナーが最近とみに悪くなったという印象がある。

 特に熊本地震の後からそうなったような気がしていたので、私はこれを「熊本地震による人心の荒廃」に帰していたのだが、よく考えて見ると拡張工事で道幅が広がって以来のような気がする。

 そう思ってAI君に尋ねてみると、日本と韓国の道路事情の違いの一つとして道の広さがあるらしい。
 韓国の方が総体的に道が広い。

 そして道が広い方が運転が荒くなる傾向があるのだという。

 安全のために道を広げたつもりが却って危険度を増したのだとしたら皮肉な話である。

 韓国では「交通事故死を半分にする」というスローガンが政権の左右を問わず打ち出されているらしいから、LED歩道信号機のようなハイテクを利用した対策はどんどん推し進められていくに違いない。

 日本でも交通事故死の半数以上が高齢者であるから、高齢者対策として信号のハイテク化は考慮に入れてよいのではないか。
 日本の誇る青色ダイオードとトロンを使えば安くできそうである(とっくに使われてるって)。

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 空港にある公衆電話。

 日本で公衆電話と云うと、「人気のない寂しい場所で取り残された」というイメージがあるのだが、韓国のものは「繁華なところにある最新の機器」という感じである。
 最近はスマホを充電できたりATMで金を下ろしたりできるものもあるそうだ。

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 金海空港から釜山に向かう無人鉄道から見た洛東江。

 韓国で最長の川である。

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 1日目に夕食を食べた店。

 チケット問題で落ち着かなかったが、味は美味かった。

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 サムギョプサルはやはり美味い。

 ただ、最近気になっているのは、どの店にも以前はあった爪楊枝がないことだ。

 この澱粉でできた透明な緑色の爪楊枝は以前はお土産に買って帰ったりするほどよく見かけた。最近韓国の食堂にテーブルに置かれているのを見ない。

 気になって調べて見ると、最近では1本ずつ出てくる機械に入れられて設置されているらしい。私は不注意だから気付かなかったようだ。

 それより驚いたのはこの爪楊枝を揚げて食べる人がいるらしいことだ。

 たしかに澱粉は馬鈴薯のものらしいから成分はポテトチップスである。だから食べようと思えば食べられるのだが…。

 遂に食品医薬品安全処から食べるのを自粛するように警告が発せられる事態になったという。
 それくらい流行しているのだろう。

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 ペロちゃん(仮名)とポロちゃん(仮名)を合体させたようなキャラクター。
 舌出しとオーバーウォールはペロちゃん、性別はポロちゃんである。
 太い眉毛と韓国人が「チェゴ(最高)!」と云う時の立てた親指が辛うじて関係法規をすり抜けているような気もするが、やはり限りなくパクり感がある。

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 年末年始に光復路に行くとクリスマス前後が一番派手なイルミネーションが見られる。

 すぐ横に空の段ボールが放置してあるのはご愛敬か。

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 美しいデコレーションをしばしお楽しみください。

 妻に云わせると「以前より少し派手さが減った」そうだが。

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 光復路名物の似顔絵描きは今も健在だが、だいぶ人数が減ったような気がする。

 一番左にある背広を着た男性は名優チェ・ブラムさんではないだろうか。
 いろいろな韓国ドラマでお馴染みの人物である。

 この人がMCを務めていた「韓国人の食卓」という番組は今でも放映されているが、MCがチェ・スジョンさんに交代している。

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 6年前に描いて貰った似顔絵は今も衣裳部屋に飾ってある。
 Dマウントレンズと行く第4の王国伽耶への旅8-満月の下で似顔絵を描いてもらう-(河童亜細亜紀行109)

夫婦といえど考えていることは違う

 ここは家族しか入らないから他人様の眼に触れたことはないが。

 あのときも年末で海への風が光復路を吹き抜けて無茶苦茶に寒い中30分以上座っていたっけ。
 そういえば二人とも目がイッてしまっている感じである。

 似顔絵は美化されるから、社会主義リアリズムの英雄の絵のようである。
「最後まで抗日を貫いたS夫婦の肖像」ってか。

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 2026年、日本も韓国もどうにか平和が続きますように。

 次回は雑感西面編である。

釜山二転三転空転旅行25-旅行の最後にまたまたまた空転す-(河童亜細亜紀行327)

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写真がない

 一時は「無事に帰れるのだろうか」という旅行だったが、そろそろ熊本空港到着である。


 

 飛行機の窓の外を眺めるというそんな当たり前のことさえ平和あってのことだということを実感する。
 釜山の上空と金海空港では窓を閉めなければならなかったのだ。
 これがいまだに休戦状態が続く6.25戦争の影響だという話は既にした。
釜山二転三転空転旅行3-休戦の国の旅客機-(河童亜細亜紀行306)

私の悲願

 最近は当事者である韓国ですら北と統一しなくていいという意見の人が増えているらしいし、当事者ではない日本人がとやかく云う問題でもないのだろうが、それでもやはり私はこの国の南北の人々が自由に行き来できる平和な時代が訪れて欲しい。

 今世界を「現実」が覆っている。

  それは幼児的全能感が動脈硬化と前頭葉萎縮によって暴走し始めた指導者が、国によっては多くても国民の半数をちょっと過ぎるぐらいの数の、大抵の国では25%にも満たないくらいの、先行きの不安から自棄糞になっているところを煽動されて興奮した支持者たちによって「合法的に」浮上し、私利私欲さえ得られれば全体のことなどどうでもいい悪党たちと、現実の人間が自らの妄信する歪んだイデオロギーに押し潰されても平気な狂信者たちに担ぎ上げられて、権力を握り、世界を巻き込んで急な下り坂を駆け降りていて、もうすぐ転ぶかもしれないと云う「現実」である。

  この「現実」の前に内心戸惑い恐怖を感じている人もいるかもしれない。
 権威主義的体制で暮らしている人たちはその内心の自由すら脅かされているかもしれない。

 私は日本におけるあの1987年と2013年の「現実」を経験したから、これだけは云える。

 あなたは現在の状況に「これが現実だから」と迎合してはいけない。

  これは幼児的指導者と悪党と狂信者が作り出したバーチャルリアリティに過ぎないのであって、国民の半数以上がそれに迎合しなければ雲散霧消してしまうものなのだ。

 これは権威主義的体制においても変らない。
 たとえ独裁者であっても国民の気持ちとかけ離れた政策は採れないのが情報化の進む現代なのである。
 あなたが今権威主義的体制に暮らしているとすれば、あなたよりもっと前の世代がバーチャルリアリティに迎合することによってそれを「現実」にしてしまったのだ。

 今私達が経験している「現実」は決して正常ではないし、永遠に続くものでもない。

 韓国の話で云えば、2世代前までは同じ屋根の下で暮らしていた民族が自由に行き来できないという状態は決して正常ではないし、それが「現実」だからと慣れてしまってはいけないと云うことだ。

 理想を抱き続けて欲しい。抵抗できなくても「おかしい」と思う気持ちは持ち続けて欲しい。
 彼らの声高に叫ぶ単純な正解に雷同しないで欲しい。
 特に「正しい戦争などない」ということだけは胸に刻んで欲しい。たとえそれが「現実」になっても。

 それが現状の嵐から未来を守る、英雄でなくてもできる唯一の方法だ。

 閑話休題(はなしがすぐてんかこっかにいくのはうすいねたをひろげてひろげてひきのばしているからだな)。

 さて、私の今回の旅行最後の空転。

 旅行で撮った写真を整理しているときのこと。

 最近の私の短期記憶は鶏並みなので、ブログで旅行記を書くのにそれは欠かせない行為である。

 写真を時系列で見ながら「こんなことがあったな」「あんなことがあったな」と思い出しながら書いていくのだ。

 ところが、フォルダを見て気付いた。
 3日目の写真の入ったフォルダがない。
 どこかに間違って移動させたのだろうと思ってあちこちを検索してみるのだが、やはり、ない。
 そもそもカメラに入れていたSDカードにその日のフォルダがない。

 個々のファイルは写真の出来を確認するために何度か見たから旅行中にそれがあったのは間違いないのだが、やはり、ない。

 整理しているときに間違ってフォルダごと消してしまったのだ。
 そういえは「このフォルダは空です」という画面が出てきて消したフォルダがあった。

 ゴミ箱を見てみたが、やはり、ない。
 ネットワーク上のデータは消去するとゴミ箱には行かずに完全に消去されてしまうのだ。

 3泊4日の旅行で、1日目と4日目はほとんどが移動の時間だから楽しんだのは実質2日である。
 そのうちの1日分の記録が消えてしまったのである。

 今の私の記憶力だと記録が消えると云うことは記憶が消えることと同義なのだ。

 こういうときはどうしたらいいのだろうか。
 脇の下をツツーッとアポクリン腺から出た粘っこい汗が流れる。

 こういうときこそAI君だ。

 早速聞いてみると、「ファイル復元ソフト」というのがあって、完全に消したネットワーク上のデータでも復元できることがあるという。
 ハード面での故障だと厳しいが、間違って消したレベルだと復元の可能性はかなり高いらしい。

 怪しいソフトをインストールしてPCを乗っ取られたり復元ソフトにファイルを修復不能にされたりするのは嫌なので、AI君が教えてくれた中から一番信用できそうなものを選ぶ。

 一応は無料だが、復元などの多少とも複雑な動作には金の要るソフトをインストールし、使ってみた。

 あった。

 やはり間違って消してしまったらしい。
 カメラのSDカードに2026.〇.〇というフォルダがある。
 ここまではタダ。

 復元しようとすると、「金を払え」という通知が。
 一番安い契約で1ヶ月7000円強である。

 高い。
 だが、仕方がない。背に腹は代えられない。

 カードで金を払い、復元作業を試みる。
 これで復元できなかったら許さんからな。

 あ、復元できた。

 震える手でフォルダを開けてみる。
 数百枚の写真のサムネイルが確認できた。

 また震える手でPCのHDに移して、と。
 あの日撮った写真は全部あるようだ。

 良かった。

 だが、私は何だかげっそりしてしまった。
 こんなに色々ケチのついた旅行は初めてである。
 何だか回想しながら旅行記を書いても不快な想い出しかないのではないか。

 ということで、何時もの旅行記よりも楽しさが少なくゴタクとグチの多いものになってしまった気がするが、老人の戯言と思ってお許しを。

 次回は雑感である。

 

釜山二転三転空転旅行24-空港の手荷物検査でまたまた空転す-(河童亜細亜紀行326)

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私はハムスター

 以前私は次のような文章で空港の検疫を批判したことがある。

 オットギカレー
七転び八起き韓国ソウル旅行22-明洞DAISOでスープとクラッカーを買う-(河童亜細亜紀行295)


 このカレーは現在韓国からの持ち出しも日本への持ち込みもできないのだ。
 実際私は仁川空港の手荷物検査で没収されてしまった。

 入っていたのは妻のリュックだが。
 今回の旅行は妻にとって「祟られている」レベルにトラブルが多かった。

 没収(放棄)の理由は「肉製品だから」。

 6月末現在韓国では数件の口蹄疫が発生しており、その防疫対策として肉類の日本への持ち込みが禁止されているのである。

 同様の理由で調理パンが没収されてしまったことについては既に書いた。
韓国ソウル再会旅行27-妻が麻薬犬に懐かれる-(河童亜細亜紀行249)

麻薬犬に懐かれる
 以前娘の住んでいたA市に行ったときも帰りの空港でポッサムなどの肉製品が没収されたことがあった。
 しばし別れの韓国旅行12-嗚呼、輸入失敗-(河童亜細亜紀行98)

税関で没収

 それにしても、これも知る人ぞ知る話なのだが、このカレーは「牛肉」と銘打っているものの、パッケージの写真とは違って殆ど牛肉なんぞ入っていないのだから、これを肉製品と見なしていいものなのか少々謎である。

 だいいち、レトルトカレーから口蹄疫が感染するというのはどういう想定なのだろうか。

 ご存知のようにこの技術は「ポンカレー(仮名)」から始まったもので、レトルトパウチの中は完全に殺菌されるため保存料なしで2年間保存可能な食品なのである。なにせ宇宙食や非常用の保存食になるくらいだ。
 食品会社のHPに製法が書いてあるので見てみたが、食品がパウチに入った後は中心部120℃で4分間加圧加熱されて真空処理・殺菌処理されるのである。
 この処理に耐えられる微生物はいそうにないから、少なくともカレーそのものから家畜に感染するというルートはなさそうだ。

 考え得るのは、殺菌された後のパウチやパッケージを生肉を触った人が汚染された手のままで触ってしまう、というパターンだが、このカレーはそんなバッチイ環境の工場で作られているのか。
 (中略)「オットット」は先進国韓国の大企業なのだが。
 このカレーが本当にそんな環境で作られているのなら、カレーに限らずこの会社の製品はどれも食べたくない(語用論的な問題のある人や日本語の苦手な人のために。諧謔です)。

 何はともあれ周囲の印象とは違って私はルールを厳守する男だから、今後このカレーは現地のコンビニで買ってホテルで食べるしかあるまい。

 日本では食べられないとなると、ますます郷愁を誘う食べ物である。
 引用終わり。 

 日本国内での口蹄疫発生は2022年だが、あれからもう4年も経過し、また、東亜の国々で口蹄疫が流行しているという情報も確認できなかった。(帰国してから調べてみたら2025年3月に韓国でまた発生していた。)

 私はオットット(仮名)という会社の「3分カレー」というカレーが好きなので、これを4個買って手荷物に入れていた。

 ところが例によって金海空港の手荷物検査の時にこれが引っかかり、「これはダメですね」と云われて「放棄」を余儀なくされた。「蜂起」という言葉が頭をよぎったが、「法規」だから仕方がない。ほう、気の毒と思っていただけますか。ありがとうございます(1つ増えています)。

 もう一度云うが、オットットは今や先進国韓国の世界的企業であり、衛生的な環境の中で作られた製品が世界中で売られている。

不潔な工場

 このカレーが上の絵のような環境で作られているのなら納得ができるが、近代的な工場で衛生的に作られたレトルトのカレーがどうやって汚染されるのだろうか。

 そんなことが起こるためには牛や豚を飼っている人や農場に行った人が動物を触った手、または農場に踏み入れた足でこのカレーのパッケージを触るというシチュエーション以外に考えられない。

 足で触ると云うのもどういう場面で起こる事象なのか私には理解できないが。
 脚でカレーのパッケージを蹴って移動させたり梱包したりする超絶技巧を操る足技の名人でもいるのだろうか。

 そう考えると、日本に口蹄疫が持ち込まれるためには別にオットットの牛肉エキスを使った製品である必要はなく、汚染された手や足の人が触った物であればあらゆる事物が感染源になりうる訳だ。

 その人のスーツケースでもバッグでも服でも靴でも読んでいた雑誌でも本でもスマホでもガラケーでもモバイルバッテリーでも眼鏡でもサングラスでも時計でもブレスレットでもネクタイでも、その人が触る可能性のあるものは何でも感染源になると云うことである。

 だったら旅客全員の手と足を消毒したらどうか。

 何だかCOVID-19のパンデミックの時のことを思い出した。
 あの頃は何でも消毒していたっけ。

 口蹄疫の防疫について調べていたらとある省庁のHPに行き当たったので、私が現在抱えている疑問について問い合わせをしようとしたが、防疫に関する問い合わせは一覧にないので受け付けていないらしい。
 そして業務の範囲や程度を明らかに超える苦情相談についてはカスタマーハラスメントとして法的措置を取るそうなので、うっかりこんな疑問を役所にぶつけたら私は社会的制裁を受けそうである。

 仕方ないのでそんな心配のないAI君に相談することにした。

 議論は1時間に及んだが、結局のところ、牛肉に限らず国同士で保証しないものは相互に輸出入できない、ということらしかった。
 簡単に云えば食品の個人輸入は禁止、ということだ。

 何でもカレーが残飯になって家畜がそれを食べることまで想定しているらしい。
 今時家畜に残飯を喰わせている農家があるのだろうかと疑問に思ったが。

 AI君の回答が異常に速いことから考えて、この問題についての相談者(つまりカレーを没収、じゃなかった放棄した人)は相当多いのだろう。

 一つだけ云えることは、AI君から教えてもらった関係各界の方針の強硬さから考えればこの措置は残念ながら今後も続く、ということだ。

 まあ日本の場合は、あのBSE(といっても誰も覚えていないだろうが)のときに親分の圧力に負けてズルズルと輸入が再開したことを考えると、親分がやらかしたら急に緩くなりそうな気もするのだが。

 もっとも私はあの騒動のころ牛肉が投げ売りされているのを喜んで毎週買って食べていたが。

 どう考えても親分の牛を食べてCJDになる確率よりも道を歩いていて車に跳ねられる確率の方が高く思えたからだ。
 20数年後の私にCJDの如何なる徴候も見られない。

 あの頃は「牛肉天国」だった。

 そのうちにまた時代が変わって「カレー天国」が訪れるといいが。

 それにしてもやりたいことができない旅行である。まさに空転だ。

 そのときの私の心境は回し車の中で必死に走り続けるハムスターのようだった。

釜山二転三転空転旅行23-韓国タクシーの運転技師の技に酔う-(河童亜細亜紀行325)

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水の流れるが如く

 空港までのタクシーは渋滞に一切遭わず、弁韓観光ホテル(仮名)を出てからちょうど30分で金海空港国際線に到着した。

 料金は15000ウォン。
 日本で同じ距離をタクシーに乗ったことを考えればタダのような費用である。

 運転も丁寧で少しも危なさを感じなかった。

 日本ではタクシーと云えば「上級国民の乗り物」「贅沢品」というイメージがあり、私もそうした感覚で今まで生きて来たから、「タクシーか電車か」という選択肢があったら躊躇なく電車を選ぶ。
 しかし韓国での移動に慣れて来た娘や妻はそうした場合にタクシーに乗ることを主張し始めている。

 おそらく今回行きが鉄道、帰りがタクシーとなって二つを乗り比べたことで、今後飛行機で釜山旅行をするときには空港からの交通手段は彼らの強硬な主張によってタクシーになるだろう。

 鉄道だと2000ウォンくらいだからこちらはべらぼうに安いのだが、時間や疲労を考えれば私もそうしたい。

 元々私達田舎者は車でのドアツードアに慣れているから、都会の鉄道のホームからホームまでの徒歩移動は応えるのだ。
 ましてや旅行中はスーツケースを押しての移動である。

 韓国旅行はタクシーで決まり、といいたくなるのだが、そう能天気に叫べない事情もあるらしい。

 韓国のタクシーの料金が安いのは準公共料金だと見做されているからであるらしい。
 そして残念ながらその料金を維持するために低料金=低賃金の構図があるらしい。

 COVID-19のパンデミックにより韓国のタクシー乗客が激減した時に、運転技師の数も激減し、現在でも技師不足は継続しているらしい。

 この問題に関してはこれからも韓国に行くたびに考え直さなければならないだろうが、取り敢えず私は韓国の運転技師たちとのやり取りや彼らの観察が面白いので、中国のように無人化はしないでほしい。 

 旅行も終盤になってやっと運が巡ってきたのか。

 丁寧かつ高度な運転の技師さんだった。
 
 最高速度を超えることなく運転しながら車線をスーッと自然に変えて「大名行列」を避け、その場面での最速のルートを走る。

 急加速も急発進も2車線ワープも3車線ワープもしない。

 最近私の棲む熊本では通称「ヒガバイ」(東バイパス)で運転しているとこうした行為が日常になってきているので、なおさらその名人芸にうっとりと酔った。

 「水の流れるが如く」というのはこういう技術を云うに違いない。
 道家が云うところの「無為自然」というのは或いはこういう境地なのかも知れない。

 この境地には当分ロボットは行けないだろう。

 今中国では無人運転のタクシーが営業運転しているというが、おそらくその車に遭遇した一般のドライバーは「おっ、無人運転だな」と気付き、「腫れ物に触る」という態度を取っているのではないかと思う。
 何せ相手は「最高指導者の意を受けて祖国の無人運転を発達させるために公道を走っているロボット」なのだ。
 その車には当然のことながら下々がお上の名代に対してどう振る舞ったかを周囲360度記録する監視カメラが搭載されているのは間違いない。
 
 これはヤク〇の黒ベンツより怖い。
 
 だが、そのうちに無人タクシーはだんだん社会のルールを学んでいくだろう。

 教わった車間距離を取っているうちに前に割り込まれたり、右折しようとしている車の後ろに行列ができていることに気付いて本来優先である自分がその車に譲ったり。

 軍事用のロボットにはこんな配慮を学習する必要はない。それはいざというときに敵に決定的な打撃を与えるための妨げにしかならないだろう。

 つまり科学技術が民生用として世に出てくるというのはその技術が軍事用としては完成していると云うことなのだ。

 そして民生用の技術で得られた情報は、軍事用としてより確実に敵を倒すためにフィードバックされていくだろう。

 これは対立相手としては決して侮れない技術である。

 すぐにやっつけられるはずだと相手を侮って喧嘩を売って泥沼化させ、挙句に相手の巧妙な外交によって破滅に導かれた歴史を日本人はもう忘れてしまったのだろうか。(忘れるも何も最初っから知らないんだろうな。)

 田中角栄や園田直のような過去の政治家が日中の友好を進めたのは必ずしも親中感情を持っていたからではない。
 戦場経験者である彼らは相手の実力を身を以て知っていて、敵対するのは得策ではないと思っていたからだ。
 これは戦後の蒋介石や周恩来のような中国の政治家も同じだろう。

 個人の感情や身内のウケよりも、たとえ嫌われてもまず全体の利益のことを考えるのがリーダーの本来あるべき姿である。

 日本軍に身内を殺された中国人の日本人に対する反感は凄かっただろうから、蒋介石の「怨みに報ずるに徳を以てす」や周恩来の田中角栄との握手などは、そうした覚悟がなければできないことだったろう。

 郷党にのみ好かれることを目的にして行動する人間を孔子は「郷原」と呼んで嫌った。郷原を「徳の賊」とすら呼んでいる。

 私が「郷原は徳の賊なり」という言葉の意味が分かったのは四時軒に横井小楠の事績を尋ねた時だった。
熊本へ行こう5+カメラ河童のジャンク道遥か23-四時軒-(河童日本紀行477+それでも生きてゆく私215)

 愛国とは決して自国を褒め上げて排外的なスローガンを声高に張り上げることではないということも。

 戦国趙の宰相藺相如の話は既にした。
『史記』を読む-刎頸の友-(新米国語教師の昔取った杵柄136)

 閑話休題(たくしーのはなしからてんかこっかまでいってしまうのがろうじんのもうそうだな)。

 ドキドキしながら航空会社の窓口に向かう。
 航空券は本当に確保できているのか。
 
 実は一度の失敗が尾を引いてずっと失敗を続けるのではないか、という心理は、「過度の一般化」といって、 抑鬱や不安に繋がるやや病的なものである。

 わざわざ問い合わせまでしたチケットの取得が失敗している筈もなく、チケットは無事に入手できたのであった。

 いよいよ帰国である。

釜山二転三転空転旅行22-最後の夕食でまた空転す-(河童亜細亜紀行324)

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店員とのやりとり

 帰りの飛行機の時間は11:30である。

 チケットの確認書には「3時間前には空港に行くこと」と書いてあるから、8時半には空港に着かなければならない。

 帰りはタクシーと決めている。

 宿泊している弁韓観光ホテル(仮名)から金海国際空港まではタクシーで大体30分くらいらしいが、なにせ帰国する1月2日は韓国では平日なのだ。
 つまり通勤ラッシュと空港行がまともにぶつかることになる。
 30分では行けない可能性も十分ある。

 とすると、ホテル出発は8:00前にしておいた方が無難である。

 幸い弁韓観光ホテルはソウルの安いホテルとは違って親切だからタクシーを呼んでくれる。
韓国ソウル再会旅行11-人が代われば態度も変わる-(河童亜細亜紀行233)

5年も経つとこんなに変わる

 私はCOVID-19のパンデミック以前にはとても親切だったソウルのホテルがタクシーすら呼んでもらえない不親切なホテルに変貌しているのに唖然としたことがあるが、このホテルは相変わらずこちらの期待にしっかり応えてくれる。 

 さすがは「日本人御用達」である。

 フロントに明日のタクシーの手配を依頼してこれで一安心。

 現地での最後の食事のために外出する。
 タクシーの時間から考えて明日の朝食はコンビニで買ってホテルで食べた方が無難である。

 さて何処で食べるか。
 まず南浦洞に出るが、昨日のようにあちこち見て回っても決まらないのは目に見えている。
 今日は過去の記憶を頼りに一直線に店に向かう。
 目指すはBIF広場(仮名)である。

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 ここだ。

過去の自分がくれた釜山旅行13-計123歳の夫婦が豚と牛を計600g平らげる-(河童亜細亜紀行258)

喰えるかなこの量

 ここは前回の釜山旅行で計123歳の私達夫婦二人で豚肉400g、牛肉200gの計600gをあっという間に食べてしまった店である。
 今回の旅行では私達の年齢合計は128歳になっている。

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 3年前と変わらぬ直截な「豚」という看板が潔い。

 店に入って「2人大丈夫ですか?」と云うと、3年前と同じく2階に通された。

 前回も「繁盛している店だな」という印象だったのだが、何だかそれより客が多い。

 席に座ってメニューを見て納得。
 3年前と値段が殆ど変わっていないのだ。

 日本と同じく韓国も最近の物価上昇は甚だしいが、この店は踏ん張っているのだろう。

 変わったことはタブレット端末で注文するようになっていることだ。
 日本語モードがあるからラクチンなのだが、現地の人相手に韓国語を喋りたい私としてはちょっと寂しい。

 前回と同じくテジカルビ(豚アバラ肉のタレ漬け焼き)400gととソカルビ(牛アバラ肉のタレ漬け焼き)200gを頼む。

 さあ、喰うぞ、と張り切って待つのだが、これがなかなか来ない。

 私達の隣の会社員らしきアジョシ(おっちゃん)たちの追加注文した肉が来て、私達より後から入ってきたヒョン(おにいちゃん)が頼んだ肉が来ても、私達の肉はまだ来ない。

 それどころか、パンチャン(付け合わせ)すら出てこない。

 15分経過。

 妻が「前も後回しにされたことがあったよね。」などともう10年くらい前の出来事を蒸し返して云う。
飛行機で行く釜山・金海の旅9-若者は韓国を目指す-(河童亜細亜紀行171)

放置されたのは日本人だからではない

 あのときは日本から来たお嬢さんたちが優先されて私達中高年夫婦は後回しにされたような印象があった。まだ覚えているとは。

 これは機械の誤操作で注文が通らなかったか、忘れられているに違いない。

 日本でもよくあることだ。

 タブレットの「店員呼び出し」を押すと学生さんのバイトらしきヒョンがやってきた。

 タブレットの注文履歴を見せながら「注文通ってますか?」と韓国語で云うと、「イジェ、ナワヨ。」という返事。
 帰国してから娘に聞いてみたところ、これは「もう出ますよ。」くらいの意味らしい。

 ところが、腹が減って気が立っていたと云うのもあって、勉強が半端な半可通がやることを私もやってしまった。
 私が日々デオ林檎(仮名)で勉強しているところによれば「イジェ」は「既に」、「ナワヨ」は「出ます」である。
 私はヒョンが「もう出ましたよ。」と云ったと解釈してしまったのだ。
 殆ど注文を忘れていたラーメン屋の言い訳のようではないか。

「アニョ、アジク、アンナワッソヨ(いや、まだ、出てないよ。)」

 と云うと、ヒョンはムッとした顔をしてさっきより大きい声で「イジェ、ナワヨ。」と云った。
 私ももう一度「アニョ、アジク、アンナワッソヨ。」と、「アジク」のところを強調して答える。

 一触即発である。

 そのとき、ベテランらしきアジュンマがささっと寄ってきて、「チャムカンキダリセヨ(ちょっと待ってお客さん)。」と韓国語で云い、厨房の方に早足で行くと、すぐに戻ってきた。
 手にはパンチャンが載ったお盆を持っている。

 アジュンマはパンチャンを私達のテーブルに置くと、また急ぎ足で厨房の方に歩いて行き、焼けている炭を持ってきてテーブルの真ん中の窪みにセットし、上から網を置いた。そしてもう一往復すると、今度は肉を持ってきた。テジカルビ400gとソカルビ200g、間違いなく私達の注文である。

 彼女はそれから網の上に肉を置き、ひっくり返したり鋏で切ったり、肉のお世話を始めた。

 まるで注文を受けてからすぐに私達のテーブルに来たような自然な態度だった。

 私が呼んだヒョンはいつの間にか居なくなっていた。

 また空転してしまった。

 アジュンマが焼いてくれた美味しいカルビと、これまた久し振りに飲んだと思えるような美味しいマッコリに舌鼓を打ちながら、私は反省しきりだった。


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 トンチミも美味かった(本当に反省してるのか)。

 なるほど外国人観光客というのはこうやってトラブルを起こすのだ。

 まず私達の注文の品が来るのが遅かったことについて。
 これは日本でもよくあることだ。
 店の客は私達だけではない。
 ましてや人気店では店に入るのさえ待たなければならないことがある。

 後からの注文が先に来るというのもよくある。
 これは厨房の人がその時どんな注文を受けているかによる。
 たとえば同じ注文がたくさん入ればそちらを先に作った方が効率的だし、たまたま手元の材料が切れて冷蔵庫まで取りに行かなければならないことだってあるだろう。
 私は中華料理屋で長くバイトしていたのにそうした店側の事情を想像する力に欠けていたのだ。

 そして勉強が半端なのにその言語が分かるという変な自信。

 今回はこれが一番まずかった。

「イジェ」という語彙を「既に」という、過去形で使う副詞としてしか認識していなかったために、ヒョンの言葉を過去形と取ってしまったのだ。
 もっとちゃんと勉強していれば「イジェ」が「もう」という現在形や未来形でも使える副詞だということが分かっていた筈で、「イジェ、ナワヨ」と云われたら「アア、クレヨ(ああ、そう)」と答えてその場が緊張するなどということもなかったのだ。

 あの若者が「日本人って嫌だなあ」と思わなければいいが(思ってるだろうなあ)。

 そして、「俺っていつも女性に助けられているなあ」とも思う。
 あのアジュンマがいなかったら喧嘩になっていたかもしれない。

 こうしてまた空転しながら釜山の夜は更けてゆくのであった。
  

釜山二転三転空転旅行21-改めてツアコンにならなくて良かった-(河童亜細亜紀行323)

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河童のツアコン

 人生を振り返る時、時が過ぎるのがだんだん早くなってきているのに気付く。

 思えば小学校のときの午前中など、無限に続く時間であった。 

 今はといえば、昨日見たような気がする番組を今日もやっていて、それが週1回放映の番組なので「えっ、もう1週間経ったの?!」と驚くことしばしばである。

 これは歳を取るにつれて外部の時間と体内時計の進む速さにギャップが生じてくることから起こる現象らしい。

 体内時計の進みが遅くなってきて外部の時間の進行に付いていけなくなるのだ。

 これには楽しいか苦痛かということも関係しているらしい。

 たまに連休などあっても1日しか休まなかったような気がするし、自分であまり好きではない仕事をしていたときなど1週間が無限の時間に感じていた。

 「あまり好きではない仕事」が何であったかは云わない。

 少なくとも今の仕事の勤務時間は意外に早く感じている(本当)。
 これは「慣れない仕事」ということも関係しているかも知れないが。新鮮なことは早く通り過ぎる。

 それにしても韓国旅行の時の流れは速い。

後ろ髪を引かれる帰国

 そして後ろ髪を引かれる。

 妻は旅行から帰るときいつも「金があったら1週間くらい居てあちこち行きたいねえ。」と云う。

 だが、実際に1週間居たとしてもその時間は「あっ!」という間に過ぎるだろう。

 私は旅行のときツアコンと通訳の二役をする必要があるから、いつもよりずっと頭を速く回転させているのだが、頭の回転が速い程体内時計は遅くなるらしく、「あっ!」という間に旅行が終わる。

 そして「あれもしてない、これもしてない」「あそこにも行っていない、ここにも行っていない」「あれも買っていない、これも買っていない」という後悔が押し寄せてくる。

 今回の旅行は特に空転が多かった。

 水族館には行ったがお目当ての獺君の餌遣りは見られなかったし、ブルーラインパークまで行ったのに列車にもスカイカプセルにも乗れなかったし、ヨッテ百貨店(仮名)で部隊拉麺(仮名)を買うはずが休店だったし、西面地下街で服を買うつもりが買えなかった。

 今回旅行記を書こうとしていつもの旅行記より10個以上ネタが少ないのに気付き、まさに「空転旅行」だなと感慨に耽っている。

 私がもしツアコンをしていたら客から抗議が殺到しただろう。

 前々回ソウルに行ったときは殆どツアコン状態だったが、評判は決して芳しくはなかった。
韓国ソウル再会旅行2-ツアコンは大変だ-(河童亜細亜紀行224)

ツアコンは大変だ

 あのときは不眠になるほど気を遣って旅行をコーディネートとしてコンダクトしたのだが、

バウチャーがない

 空港鉄道のバウチャーを忘れるという大失態をやらかした挙句、

視線が痛い

 「こいつ本当に分かってんのかよ…」という不審の視線を浴び続けての旅行だったのだ。

韓国ソウル再会旅行17-アワビ粥を食べ損なって面目を潰す-(河童亜細亜紀行239)

粥屋の開店は十時

 結局鮑粥を食べそこなってツアコンの面子丸潰れだった。

 前回の旅行では歩いて10分ほどのホテルに辿り着くのに1時間くらいかかったし。
七転び八起き韓国ソウル旅行10-全能感が地獄の釜の蓋を開く-(河童亜細亜紀行283)

客を忘れたツアコン

 そして遂に今回、日程を間違えて予約するという、上の絵の冗談が本当になりそうなミスまで犯してしまった。

客を置いていくツアコン(京都安下宿事情52)

 今振り返ってみると、何と私は一時の出来心でツアコンになるはずだったのだ。
 出来心の動機は当時ツアコンが人気の職業だったからというに過ぎない。
 まさに「ミーちゃんハーちゃん」である。
「あのとき」ツアコンにならなくて本当に良かった。

 もっとも私が自分で断念したのではなく、旅行会社が「お前やめとけ」と落としてくれたのだが。

 よく妻は怒らないものだ、と、旅行をするたびにいつも思う。
 だが、よく考えてみれば、怒ると云うのは「こいつ本当に分かってんのかよ」という気持があるからで、妻は私が「本当は何も分かっていない」ということを長年の経験で骨身に染みて「分かっている」から怒らないのだろう。

 殆ど菩薩である。

 とりあえず今度の旅行で妻は以前からやりたがっていた「ズキューン(我が家語)」がやれたから満足だったらしい。

 妻も巻き込んだ空転を続けているうちにもう明日は帰国である。

釜山二転三転空転旅行20-南浦駅地下街で思わぬものを買う-(河童亜細亜紀行322)

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スマホを替えた

 西面駅地下街で空転し、南浦駅地下街でお目当ての防寒着と「オルシンズボン」を買うことができた私である。

 今回の旅は旅費・食費・土産物代全てに割高感があったが、これは超の付く割安感である。
 何せダウンジャケットとズボン2本で₩80000しないのだから。

 ルンルンしながら地下街を歩いているうちに、ふと、「これも機会があったら買おう」と思っていた物を思い出した。

 私が齢64歳になってもフルタイム勤務で働いているのにはこの品物が大いに関係している。
 
 それはスマートフォンである。
 
 元々私は我が日の本の多くの人々と同じく、米国製のMy phone(仮名)を使っていた。

 私はMy phoneが新発売された時の衝撃が未だに忘れられない。

 何せパソコンがポケットに入るようになったのである。

 それはまさに革命だった。

 当時としてはとても高価で、フォローが悪く自分でセットアップしなければならないこの機械を、保守的な私としては珍しく人よりも早く買って使い始めたのだ。

 まだ殆どの人が後にガラケーと呼ばれるようになる折り畳みの携帯電話を使っていた時代である。

 ちなみに時代遅れの孤立した生態系を持つものを「ガラパゴス」と呼ぶのは私の出身校であるA大関係者が嚆矢だと思う。
 1960年代後半に全盛を迎え70年代中盤にはほぼ沈静化した無党派の学生運動が1980年代にもまだそれなりの勢力を以て残存していることをA大関係者が自嘲的に「A大ガラパゴス」と呼んでいたが、それ以前にはこうした表現は生物学の分野で、本来の意味でしか使われていなかったと思う。
 本来の意味とは勿論ガラパゴス諸島の独自の生態系である。

 あれから既に50年近くが経過し、今では人気お笑い芸人の出身校としてしか世間に知られていないA大の意外な歴史である。
 時は流れた(ガロ「学生街の喫茶店」調で)♪

 閑話休題(がくれきじまんのほうがまだましだぞ)。

 My phoneは私の生活を劇的に変えたといっていい。

 何時でもどこでも、オフィスや家に居なくても、分からないことをMy phoneで検索すればたいていのことの概要は分かるようになった。
 TVやラジオや新聞でしか知ることのできなかったような世界中の最新のニュースを知ることができるようになった。
 車にカーナビを高い金を出して搭載しなくても、地図を片手に歩かなくても、My phoneの地図を使えば未知の場所に行けるようになった。
 仕事やプライベートに関する会合の打合せも、壁にかかったカレンダーに書き込まれた日程や丸印を視なくてもスマホの画面を見ながらスピーカーを使った通話でできるようになった。
 旅行会社に出かけて行ってスタッフに申し込まなくても、旅行アプリでポチッと画面を押すだけで海外旅行の飛行機や船のチケットやホテルの予約もできるようになった。

 最近では家にスマホを忘れたりすると不安で仕方がないほどだ。

 ただ、人間と云うのは飽きるものだ。
「便利」もそれが当たり前になると有難味が薄れてくる。
「感動のインフレーション」という奴だろう。

 私は初代から8代目まで、画面を大きくしながらMy phoneを買ったが、機種が替わる度に感動が薄れていった。ワクワクしなくなった。

 むしろあるのは「買わされ感」である。

 大体携帯電話やスマホは2年位で調子が悪くなる。

 大抵は電池が劣化してすぐに減るようになったり、充電がうまくいかなくなったりして、ショップに持って行くと「電池を替えるより買った方がお得ですよ」と云われて新機種に乗り換えることになる。その度にプランが変わって高くなる。

 一度「電池を替えてもらえませんか。」と云ったら、「これは画面が割れていて交換するときに本体が壊れる可能性があるから無理です。」と云われた。

 私はスマホを落とさないように「命綱」でスマホとズボンのベルトループ(名前が分からなかったので早速スマホで検索。ベルトを通すズボンの輪っかはそんな名前だったのだ。)を結んでいるが、車用の充電器とも繋いでヨウツベ(仮名)で音楽を聴くことが多い。
 そして注意に問題のある私は車を降りる時にスマホがズボンと車のシガーソケットの両方に繋がれていることを忘れ、スマホは「大岡裁き」の親権争いに遭った子供のように双方から引っ張られて車の床や地面に落ちることが一再ならずあるのだ。

 こうして画面の角っこのところに傷が入る。
 これがあると電池を替えてもらえない、または通常の交換費用よりずっと高くかかることになるのである。

 My phoneの交換がそろそろ9、というときに、私は一台のスマホに出逢った。

 といっても、当時そのスマホの実物は日本国内に殆どなかったから、韓国ドラマの中で見たのである。

 韓国ドラマは日本のドラマに比べてCMが少ないと感じる人がいるかも知れない。

 CMはストーリー展開に心を奪われている視聴者を現実に戻してしまうからドラマにとってはかなり興醒めなものだが、実は韓国ドラマは全編がCMに満ちているのだ。

 韓国ドラマで少ないのは直接CMである。
 日本ではこれが多いから「CMが多い」と感じる。直接CMはドラマが一旦中断してCMのみを目的として製作されたショート動画が流れる。
 韓国ドラマではよほど長尺のものでないかぎり直接CMは始まりと終わりのときにしか流れない。

 では韓国ドラマではCMが少ないかといえば決してそうではなく、間接CMが多いのだ。
 間接CMはドラマの出演者たちがドラマの中でスポンサーの製品を使うという手法でなされることが多い。
 特に多いのはスマホの間接CMである。

 主人公がヒーローヒロインと結ばれそうな瞬間、社運を賭けた取引の瞬間、長年家族が抱えてきた秘密が暴かれそうな瞬間、その電話は掛かって来る。
 そして出なきゃあいいのに出演者が律儀にその電話に出るのである。
「お前、そんな1本の電話とどっちが大事なんだよ。」と云いたくなる。
 その時彼らの手に握られているのがスポンサー会社製のスマホなのだ。

 私が見たのは両手に持って画面が左右にパカッと開くスマホだった。
 普通の携帯電話、と思ったスマホが、タブレットに変化したのだ。

 この機種はしばらく我が家語で「パカパカ」と呼ばれていた。

 これはMy phoneを初めて見て以来の衝撃だった。

 というのは、当時私には2つの悩みがあった。

 1つは、どんどん度が進む老眼である。
 眼鏡なしではスマホの字が小さくて読めない。
 1→8plusとMy phoneが大きくなっていったのは主に老眼のせいである。
 今から思えばこの老眼の進行はスマホ依存のせいではないかと思われるのだが。

 いずれにせよ、タブレットはスマホよりずっと画面が大きいから表示される字も大きい。
 ただタブレットは大きいから携行に不便である。ポケットに入らない。
 これなら使用するときだけタブレットの大きさになるから、普段は閉じてポケットに入れておけばいい。
 こいつはいい。

 もう1つの悩みは、ポイント活動である。
 当時は私が最もポイ活に嵌っていた時期だった。
 通勤途中の電車の中ですらポイ活をしていた。

 特に割がいいのがCM動画の視聴だった。
 ポイ活が初期のころは、5秒動画を見ただけで1円、などというものすらあったのだ。

 ちなみに最近のポイ活のCM動画は長い。

 1円のためにこんなに時間を取られるものか、と思う。
 放置しておいても画面が変わらずそのままになっている。
 ×を押すとインストール画面に誘導されるし。
 特に王様が悪あがきした挙句死んでしまうゲームのCMなど長すぎて殺意を覚える程だ。
 これはうまくやれば王様を助けられるようだが、「勝手に死んどけ!」と云いたくなる。

 これらの動画は見た人に「一生この商品は使わない」という決意をさせるためのものではないか、と疑ってしまう。

 ただ、興味のないCMというのはたとえ5秒でも退屈である。

 何か他のこと、たとえばニュースを読みながら動画をやり過ごすことはできないか。

 ところが、他のことをするためには画面を変えなければならない。
 画面を変えてしまうと注意の転換に問題のある私はそちらの方に没頭してしまい、動画の方を忘れてしまう。
 5秒の動画が終わったまま放置され、時間ばかりが過ぎていく、というのは時間の無駄である。そしてポイ活においては時間の無駄は金の無駄でもあるのだ。

 これをタブレットで2画面にしてやったらどうだろうか。
 左の画面にニュースを写し、右の画面にはCM動画を写せば、動画が終わった時にすぐに次の動画を再生できる。
 これまたタブレットは携行が不便だから、このスマホがあれば解決である。

 このスマホはフォルダブルフォンといい、縦折りの「Flip」と呼ばれるものと横折りの「Fold」と呼ばれるものがあるらしかった。

 私の用途にぴったりなのはFoldの方である。

 Foldは当時3代目のFold3が発売されたばかりだった。

 早速私はこれを購入すべく調べ始めたのだが、すぐに「目ん玉が飛び出て」しまった。
 30万近くするのである。
 私の使っている中古のパソコンの6倍の値段である。
 My phoneと比べても倍以上だ。

 こんなにするものを使ってもみないで買うのは度胸が要りすぎる。
 どこかに試用品がないか、あちこちのショップに聞いてみたが、当時熊本でこの機種に触れられる店はなかった。

 結局福岡は博多まで行ってやっと実物の使い勝手を確かめ、購入の価値ありと結論を出した私は清水の舞台から飛び降りる心境でこの平安京エイリアンZ Fold3を購入したのである。

 幸い、機種の購入補助のオプションに加入していたおかげで随分安く買えたが、購入条件がその携帯会社の一番高いプランに加入することだった。
 そして「あんたが買うなら私だって」と妻がFlipを買ったため、毎月の通話料と機種の代金を併せた料金は相当の高額だった。

 こうして私は「携帯電話を衝動買いしたために身売り転職を余儀なくされた男」になってしまったのである(本気にしないように)。

 あれからはや4年、随分と楽しい思い出を重ねて来たFold3君との別れは突然やってきた。

 何時もの如く電池が劣化し、朝充電しても職場から帰るころにはインジゲーターに表示されるのは残量10%などという状態が続き始めていた。

 買い替え時だ。

 だが、もう一度新品を買う財力は私にはない。
 私はもう64歳。臨採講師の身である。
 やっとこの間Fold3の代金を払い終わったばかりなのだ。
 
 もう借金は嫌だ。

 韓国で本体だけ買ったら日本で契約に縛られて買うより少しは安いのではないか、と思い始めていたときに今回の旅行が降って湧いたのである。

 ただ、できれば新品がいい。

 既に寿命を迎えつつあるFold3をポケットに入れて、ダウンジャケットと「オルシンズボン」を安価で手に入れて意気揚々と南浦駅地下街を歩く私の眼に、中古の携帯ショップが飛び込んできた。

 吸いこまれるように店に入る。

 どうせFoldシリーズはないだろう。

 さっき西面の携帯ショップでもFold3のケースを買おうとしたのだが、なかった。
 Foldは高価なせいか、アクセサリーもあまり豊富ではない。
 ましてや一旦買った人が手放した中古の本体などそうそうあるものではない。

 取り敢えず今回は中古品の相場を知るために見てみよう。

 ところが、店に入った丁度正面のところに、Foldが置いてある。

 4と5である。

 4の方を指さして社長に値段を聞くと、私の月の手取りの4分の1くらいだという。
 頭の中で素早く2年ローンと4年ローンにした時の月の支払額を計算する。

 なるほど。

 買ってすぐにぶっ壊れない限り十分元の取れる金額である。

 決断。買おう。

 「これください。」
というと、社長が「イゴ、チュンゴ」という。

 私の耳には「チュングッ」と聞こえた。中国製のGalaxyなんてあったっけ。
 中国製のパッチもんか、それはさすがにマズいな、と思って、「チュングッチョン(中国製)?」と聞くと、「アニョ、チュンゴ。」と云う。


 ああ、「中古」か。

 「中古だけどいいか?」と聞いているのだ。
「ケンチャナヨ(構いません)。」と答えると、やっと意味が通じたと安心顔で包装しようとする。

 ふと気になって、5の方を指さして「オルマエヨ(いくらですか?)」と聞くと、社長は一瞬怪訝な顔をした。気が変わって買うのをやめるのか、と思ったのかもしれない。
 だがすぐに気を取り直したらしく、「₩〇。」と云った。

 また頭の中でローンにした場合の月々の払いを計算する。
 これも1年以内に壊れない限りは元の取れる金額である。

IMGP8426

 こうして私の携帯は平安京エイリアンFold3からFold5になった。
 左が3、右が5である。

 カバーも似たようなものを買った(というより買っていたのだが、その話はまた。)ので、殆ど替わったという実感はない。

 ところで、今後韓国で物を買う時の注意点を1つ。

 もう₩表示の値段を見て0を1つ減らして¥で計算しない方がいい。
 私のような年寄りは長年それで韓国製品の価格を咄嗟に判断してきたのだが。

 全く別の件でカード会社に連絡した時、この携帯の¥価格は₩価格の1/10より1割増し以上の価格だったのだ。

 これは為替が円安であるために起こる現象で、今後も継続する可能性が高い。

 この携帯、2年はもって欲しいものだが、どうだろうか。

 耐用年数次第では高い買い物をしてしまった気もする。

釜山二転三転空転旅行19-西面地下街で空転し、南浦駅地下街でお目当てのものをゲット!-(河童亜細亜紀行321)

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オルシンズボン

 私は釜山を旅行するときに「これは買おう」と思っているものがある。

 それは服である。

 服と云っても色々あるが、私が韓国で買いたい服の第一は前回も話題にした防寒着。
 これは本当に優れものがとても安い。

 私が韓国で最初に防寒着を買ったのは初渡韓の1987年、母への土産に青色の羊皮のジャンパーを買ったのが最初だった。
 結局このジャンパーは母には大きすぎ、私が着るようになったのだが(どれだけサイズが合ってないんだ)。
 この革ジャンは30年位着て天寿を全うした(引導を渡したのはいつものように妻だ)が、その間、私は韓国の防寒着を買ったことがなかった。

 フリースやらなにやら日本の防寒着にも良い物が登場したからだ。

 最近また防寒着を韓国で買うようになったのは、韓国に住み始めた娘の「防寒着は寒い所で買った方がいいよ」いうアドバイスによるもので、実際その言葉に従って買ったダウンジャケットはとても着心地がよくて防寒機能も十分だった。
 だから私は冬に渡韓するときには事前に防寒着を買ったりしない。
 現地で買った方が安いし優れものだからだ。

 前回は6年前にチャガルチ駅で帽子を買い、西面の地下街でダウンジャケットを買った。

 この二つが揃うと訳もなく「最強!」と叫びたくなる。

完全装備だとこうなる

 このジャケットのファスナーが壊れたので、また似たようなものを買おうという算段なのである。

 もう一つは我が家で「オルシンズボン」と呼ばれているパンツである。
 これはポケットが多くてかつそれにファスナーが付いているので遺失防止と防犯の両面で便利である。 

 私が旅行の際の防犯に気を付けるようになったのは外国でそのテの被害にあったからではない。

 ほかならぬ我が日の本の東京である。

 東京の山手線で掏摸の集団に出くわしたのだ。顔つきやファッションから彼らは日本国籍の男たちと思われた(マスコミの犯罪報道が如何におかしいか実感してもらうための表現)。

 回収役と思われる男が擦り盗った10個くらいの財布を運び屋に渡すと、彼は電車の外に消えていった。

 私は気付かない振りをしていたが、回収役の男が私の顔を睨みつけているような気がして怖かった。

 私はこの出来事の記憶を長い間熟成壺の中に入れていたが、あれは関東の大学に講義に行っていたときのことで、もう12年前のことなのでさすがにもう熟成していると思われるので公表する。

 あの集団はもう一網打尽に逮捕されているか自ら前非を悔いて解散しているはずである。
 何せここは「美しい国」ニッポンなのだから。

 そのとき私は咄嗟に尻のポケットを探った。
 知らないうちに私も財布を擦られたのではないかと思ったのだ。
 
 幸い財布はあったが、それ以来私は都会に旅行するときは財布やカード入れは絶対にボタンやファスナーで蓋のできるポケットにしか入れないようになった。

 私はときどき韓国を旅行するが、この旅行は海外旅行であると同時に都会への旅行でもある。
 ソウルは韓国第一の1000万都市、釜山は韓国第二の都市で300万都市なのだ。

 都会は犯罪者が犯罪を行いやすく、かつ隠れやすい。

 したがって私は韓国に旅行するときは必ず全てのポケットにファスナーの付いたズボンを履いていく。

 そしてそんなズボンは「オルシンズボン」しかない。

 このズボンは大体1本2000円くらいで買える。

 安い。

 が、安いということは品質もそれなりということで、ポケットに穴が開いたりファスナーが壊れたりする。
 安い服は特にファスナーが壊れやすい気がする。

 そうなると遺失防止や犯罪防止の役に立たなくなるから、ときどき同じものを補充する必要がある。

 今回も6年前に買ったズボンが2本、そろそろ限界に近くなってきたので、今回の旅行で補充するつもりだったのだ。

 今回の旅行で私達夫婦がショッピングの舞台に選んだ西面(ソミョン)という地名は、釜山旅行での目的地として最近急速に認知されつつある。

 特に若者が集う街というイメージから、若い旅行客はホテルからして西面に取る人が増えているようだ。
 金海空港にも観光地である海雲台にも近い、というのも人気の要因だろう。

 日本人御用達の弁韓観光ホテル(仮名)に泊って済州屋(仮名)で朝食を摂って、光復路や国際市場やチャガルチ市場でお買い物、というのは私達夫婦のようなオッチャンオバチャンの昔ながらの行動パターンと見做されつつあるようなのだ。

 西面の地下商店街はアパレル店街として有名である。

 メインストリートは2本あり、そしてこれは私の個人的な印象なのだが、ヨッテ百貨店(仮名)側から見て左側の通りが年配者向けの店、右側の店が若者向けの店が多い(に違いない。ような気がする。かもしれない。違ってたらごめんなさい。)

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 写真は6年前のものだがこちらが「年配街」、

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 こちらが「若者街」である。

 このときは大晦日だったせいか随分歩いている人が多いが、


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 今回は人が少ない。
 やはり今日が元旦と云うのが響いているらしい。
 韓国でも伝統的な市場以外では「新正月も旧正月も休む」という「働き方改革」が進んでいるのかもしれない。

 特に「若者街」の方は半分も開いている店がない。
 以前ダウンジャケットを買った店も今回はお休みである。
 
 2本のストリートをざっと歩いてみたが、お目当てのダウンジャケットも「オルシンズボン」も店頭に出してあるものは見つけることができなかった。

 またも空転である。

 明日は帰国の日だから服を買うとしたら今日しかない。

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 一旦ホテルに帰ってからもう一つの商店街に向かう。
 南浦駅の地下街である。

 すると何のことはない、ダウンジャケットも「オルシンズボン」もすぐ見つかった。

 ダウンジャケットは何と₩39000、ズボンが1本₩20000である。ズボンは2本買う。

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 ダウンジャケットはこれである。
 来た瞬間にヌクヌクになり、室内だったらすぐに汗だくになるほど暖かい。

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 ズボンはこれ。
 全てのポケットにファスナーが付いていて遺失・犯罪対策に完璧の構えである。

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 裏はフェルト地になっていて、ヌクヌクだ。
 日本の寒さだったら冬じゅうズボン下を履かなくても大丈夫である。

 何かと空転の多い旅行だったが、南浦洞駅地下は期待通りであった。

 買いたい物を買って意気揚々で地下街を歩く。
 すると私の眼に、別の大物が飛び込んで来たのであった。

釜山二転三転空転旅行18-河豚粥は人情の味-(河童亜細亜紀行320)

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美味しかった河豚粥
 
 今回の釜山旅行では私達の精神状態によって食事を楽しめない店があったが、逆に「釜山の朝食の店」候補として急激に浮上した店があった。

 今年の年末年始、韓国は大寒波に見舞われた。

 これは私の何時もの「白髪三千丈」ではなく、韓国政府からわざわざ「寒波と強風に注意して、不要不急の外出は控えるように」という旨の通達が来たほどである。

 この通達が旅行者も含めた釜山の人々の行動に何か影響を与えた気配は感じられなかったが。

 首都ソウルでは最低気温が-10℃を下回ったが、釜山は-8℃程度であり、雪も降らなかったのだ。

 「-8℃程度」と書いたが、これは日本でも九州では山間部でもまず経験できない寒さである。

 私達夫婦は本当に厳しい寒さは「痛み」の感覚を引き起こすのだということを人生で初めて実感として知った。
 これは朝食を摂るために7:00ちょっと前にホテルのドアの外に出た瞬間の感覚である。
「寒い!」ではなく「痛い!」と思ったのだ。

 しかも結構強い風が吹いているから、体感温度は-10℃くらいあっただろう。

 頬を刺すような寒さの中を目当ての店に向かう。

 大晦日の朝食が今一つだったので、近所の別の店を開拓しようとしたのだ。

 ところが、さしも旧正月文化圏の韓国でも、1月1日の早朝から店を開けようという飲食店主はそう多くないらしい。
 あちこち回っても開いていない。

 寒さも耐え難くなってきたので、「コンビニで何か買って帰ろうか」となりかけたとき、中に明かりが灯っている店を見つけた。
 時刻はちょうど7:00である。
 中にアジュンマたちがいて、どうやら開店準備中のようだ。

 ホテルに帰って暫く待機してから出直そうか、と思ったが、取り敢えず声を掛けてみることにした。

 「やってますか?」という韓国語は「ヨロイッソヨ?」と云うのだが、咄嗟に思いつかなかったので「ハセヨ?」と声を掛ける。
 これは直訳すると「いらっしゃいますか?」「されますか?」というような意味で少し違うが、シチュエーション的には通じたのだろう。

 私の韓国語が覚束ないのをすぐ悟ったのだろう。
 アジュンマは「オソオセヨ(いらっしゃい)」とだけ言って私達に手招きをした。
 「ありがたい!」寒さはもう限界だったのだ。

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 ナプキンと箸袋が上品で可愛い。
 河豚のお店である。

 開店前にも関わらず入れてくれたことで芽生えていた好感度がこれで一気にアップした。
 きっと美味しい店である。

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 やった、ムルギムチ(水キムチ)である。

 これが最初に出てくるかどうかがその店の本気度を表す、というのが、最近の妻の持論である。

 そういえば昨日の朝食には以前は何時もあったこれがなかったな。

 トンチミ(大根の水キムチ)ではないが、美味しい。

 店の中が暖かいので喉越しのスーッとした感じがとても心地よい。

 韓国人が云うところの「イヨルチヨル(以熱治熱)、イハンチハン(以寒治寒)」=「熱を以て熱を治め、寒を以て寒を治む(日本誤訳:熱い食べ物で暑さを制し、冷たい食べ物で寒さを制する)」である。

Dマウントシネレンズと行く韓国世界遺産への旅5-赤いものを食べない旅-(河童亜細亜紀行78)

 私は過去3人の韓国人から冬に冷麺を食べたいと云って笑われたことがあるので、この諺の後半部分は言葉遊びの類かと思っていたが、暖房技術や防寒着の進歩によって後半部分も現実になりつつあるようだ。

 たしかに「冬アイス」など日韓両国で定着しつつある。

 それどころか、韓国には「オルジュガ(얼죽아)」という略語さえあるそうだ。

 これは「凍え死んでもアイス(アメリカーノ)」という意味の韓国語(어도 이스)の頭文字を取ったものである。

 そういえば韓国の防寒着はとても暖かい。

これは結構来る

 私は6年前の釜山旅行でダウンジャケットを買った。
 これとやはりその旅行で買った帽子を組み合わせるともはや日本人には見えないが、この2つを身に付けると気温が何度でも頬以外にはもはや寒さを感じない。

完全装備だとこうなる

 帽子屋のアジュンマに教わった通りにこの帽子の機能をフルに活用するとこうなる。
 もはや頬の冷たさすら感じなくなるが、道で誰かに話しかけても答えてくれないような気がする。

 このダウンジャケットもとても暖かくて寒い日などは愛用していたのだが、ファスナーが壊れて交換費用が本体より高いという見積もりだったので、今回の旅行で現地でまた買おうと思っていた。

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 それで買ったのがこれである。
 何と₩39000。

 河豚粥を食べているこの時点ではまだ私の物になっていないが、これを着た途端にまだファスナーも止めていないのにポカポカして来て汗ばむほどだった。

 どういう素材なのかはよく知らないが、寒さ対策としては素晴らしいアイテムである。

 ところで、過去に買ったダウンジャケットについて自分の過去ログを見ていたら、私達は今いる河豚の店に入ったことがあったらしい。
「最悪の日韓関係」の中「反日感情の強い」釜山で年末年始を過ごしてみた15-図らずも年越しそばを食べる-(河童亜細亜紀行215)

天麩羅饂飩が冷やし蕎麦に化けた

 この旅行で妻は私のミスのために零下3℃の気温の中氷入りの冷たい年越し蕎麦を食べる破目になったのだが、その前の朝食はこの店で食べているようだ。

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 この時はポックッ(河豚鍋)と、

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 ポッチュッ(河豚粥)を食べている。

 この記事の中で私は「そういえば朝食のことを書くのを忘れていた」などと云っているから、あまり強い印象を受けなかったらしい。

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 パンチャン(付け合わせ)に明太子があったのを珍しがっているくらいである。

 前日ユッケ(牛肉の膾)を食べすぎて当たって胃腸の調子が悪かったのもあまり美味しいと感じなかった原因のようだ。

 「前日の生肉で痛めつけられた胃腸が癒される優しいお味であった。しかもどちらも8000ウォンと河豚としては極めて安い。」
 と一応褒めてはいるが。

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 今回パンチャンに明太子はないが、昨日の朝食に食べたパンチャンよりずっと美味しく感じた。「本気度」を感じられる味である。

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 肝心の河豚粥はさんざん喰ってからやっと写真を撮ることを思い出したので、本来なら他人様にお見せできるような写真ではない。所謂「喰いかけ」であるから。

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 完食の器を見て私が如何に美味しく感じていたか推測してください。
 本来の美味しさに、チケット問題の解決、寒い外から暖かい店に入れた安心感、そして何よりも開店前に店に入れてくれたアジュンマの人情が加わっていたのだろう。

 改めてこの店は美味しい。

 今度釜山に行くときは夜にも行ってみたいものだ。

 「誰にも得をさせない、誰にも損をさせない」というこのブログのモットーによって何処にある何という店かは教えられないが。(嫌な奴だなあ。)

釜山二転三転空転旅行17-支店の味-(河童亜細亜紀行319)

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精神的満腹

 今回の旅行の2日目の昼前まで、私が食事をしても上の空で砂を噛むような思いをしていたことは前回も話した。

 だから、2日目の朝食に関して判断に困る問題がある。

 私達夫婦は釜山に行くと朝食1回はそこで食べようという店を持っている。

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 済州屋(仮名)という店である。

 前回2023年の釜山行きでもこの店で朝食を食べたことは既に話した。
過去の自分がくれた釜山旅行16-朝食はウニスープとアワビがゆ-(河童亜細亜紀行261)
もう食べられないかと思っていた

 この店で私はソンゲミオックッ(海胆と若布のスープ)、妻はチョンボッチュッ(鮑粥)を食べるのが恒例である。

 そして一寸出だしが遅れるともう行列が出来てしまって結構待たなければならないので少し早めに行くと云うのもまた何時ものことである。

 ところが、今回の旅行ではこの習慣にちょっとした変化があった。

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 というのは、この店の本家のすぐ近くに支店ができたのだ。

 今までは1つ所に集中していた客が2箇所に分散した訳だから、この店の名物であった行列も今回は見ることができなかった。

 私達は小綺麗になった支店の方に行くことにした。
 どうも日本人は皆そう思うらしく、店の中は日本人だらけで、客はみんな日本語で話している。


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 最初にパンチャン(付け合わせ)が出てくるところは一昨年来たときと同じである。

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 一昨年は5品、今年は7品だから、数から云えば増えている。

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 鮑粥登場。
 これは蛤料理以外では妻が食べられる世界でただ一つの貝料理である。

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 これも一昨年と似たような外観である。

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 そして海胆と若布のスープ。
 釜山に来るたびにこれを食べるのが私の大きな楽しみの一つである。

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 これも同じような外観である。

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 途中で妻が鮑をくれるのも同じ。

IMGP4248

 一昨年は肝をくれたのだが、今年は身だ。

 食べ進めるのだが、何かが違う。

 決して不味い訳ではない。

 だが、何かあの思わずニッコリしてしまうような幸福感がない。

 支店が出来たことで大きな違いでもあるのかと思って今年の写真と一昨年の写真を比べてみたのだが、去年と同じものが出てきているようだ。

 これはやはり店の責任ではなく、私達夫婦の側の問題のようだ。

 最も大きな要因は私達の心理状態だろう。まだチケット問題は完全には解決していなかったのだ。
 正直「飯どころではない」という心境なのだ。

 もう1つは「腹が減っていない」という要因かも知れない。
 昨日のホテルでの二次会でお菓子を食べすぎたのか、朝から胃が凭れた気分だったのだ。

 だから出て来た食べ物を見た瞬間、「うっ、多いな。」という気がした。
 戦う前に負けている、という状態な訳だ。
 別に食事は勝負でも戦争でもないが。

 食べてしまって店を出たとき、二人で顔を見合わせて同じ言葉が同時に口から出た。

 「次に来た時は本店の方に行ってみよう。」

 或いはこれは支店が出来たときによくある心理状態なのかもしれない。

 旅が終わった後AI君にも聞いてみたが、AI君によれば、これは「期待値」と「希少性」の魔法だそうだ。
 私はこれを「本店効果」と名付けたい。
 実は、私たちの脳も味の感じ方に影響を与えている。
 支店ができる前は「あそこに行かないと食べられない」という特別感がスパイスになり、味を底上げしている(期待値=本店効果)。ところが支店ができてどこでも食べられるようになると、脳が感じる「ありがたみ」が減り、冷静(シビア)に味を判断するようになる。(希少性の消失)。

 ほかにもいろいろ教えてくれたが、最終的なアドバイスに驚いた。

「次回は是非本店に行ってみてください。」

 私達が感じたのとまるで同じ意見を持っているのだ。

 次回は行列しても本店に行ってみることにしよう。

 それ以前に旅の手続きや準備を確実にして、追い詰められた変な精神状態でないときに行かなければ。
 夜中の酒とつまみはほどほどにして腹も空かせておこう。

 そうしないと今まで美味しい料理を出してくれたあのお店に失礼だ。
 

釜山二転三転空転旅行16-韓国で見た変な夢-(河童亜細亜紀行318)

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フサフサ訓練

 手違いで1日短い日程を組んでいた私は、結論から云えばそれに気づいた瞬間に修正し、その後は何も問題がないはずであった。

 だが、結論から云えばそうだっただけで、実際にはこのミスは自分に対する信頼感を大きく損ねたから、その後の心理状態にも大きく影響した。

 特に参ったのは、物の味がちっともしないことだった。

 これは身体症状症のように本当に味がしなくなったのとは違う。
 味はするのだが心がそれを楽しめないという状態である。美味しい物を食べているのに「ああ、美味い。幸せだー。」と思えないのである。

 しかも食欲が全くない。 

 これは航空会社と連絡が取れてチケットが既に発券されていることを知るまで続いた。

 つまり水族館を出るまで、旅行2日目の昼に韓国中華を食べるまでである。
 
 それからも完全に楽しい気分を取り戻せなかったことを示すものがある。

 買ったものをほとんど撮影していないことだ。

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 過去の旅行ではこんなものまで撮る必要があるのかというようなものまで撮影しているのに。

IMGP8357

 撮ったのは食べかけの餅くらいである。

 こんな心理状態だから睡眠も良好なものではない。

 12時くらいに就寝しても4時くらいに起きてしまう。

 まだ夜も明けていないから酷く手持ち無沙汰である。
 妻は気持ちよさそうに寝ているから電気を付けたりTVを付けたりするわけにもいかない。

 二度寝しようとしてもなかなか眠れない。

 そんな2日目の朝、「眠れない、眠れない」と思いながら起きていた。

 いつの間にか眠っていて、夢を見た。
 吉夢なのか悪夢なのか、よく分からない夢である。

 ところで、急に思い出したので、不眠の悩みのある人に一言アドバイス。

 私はずっと受験生の世話をしてきたから、結構「最近眠れないんです」という相談を受けることがあった。

 そういう時、私は彼や彼女たちにこう尋ねていた。

 「『眠れない』って思いながら横になってるとき、今何時か気になるだろ。時計を見たとき、『ああ、もう〇時か。』って思う?それとも『ああ、まだ〇時か。」って思う?

 「『もう〇時か。』って思います。」と答えた人にはこう云う。
 「自分で思っているよりは眠れてるよ。ただ、「眠れない」って日が何日も続いているようなら医師に相談しなさい。」

「『まだ〇時か。』って思います。」と答えた人にはこう云う。
「うーん、眠れてないかも知れないね。これが何日も続いているようなら医師に相談しなさい。」

 これはどういうことかと云えば、「もう」の人はその「もう」の間寝ている可能性が高い。だから時間の流れを早く感じているのだ。特にいい睡眠の時間はとても短く感じる。身体をしっかり使った後の眠りからの目覚めは「ああ、もう朝か。」という感慨である。
 こういう人は「眠れない」という焦りで眠れなくなっている場合が往々にしてあるから、「眠れてるよ」と云われると安心して眠れるようになることも多い。
 ただ、自覚症状が抑鬱や不安症から来ている場合もあるので何時でも医療に繋げるようにはしておく必要があるが。

 そして「まだ」の人はその「まだ」の時間一睡もできずに手持ち無沙汰に起きている可能性がある。だから時間の流れを遅く感じているのだ。

 こちらは「眠れない」という自覚症状に加えて本当に眠れていない疑いがあるから、できるだけ早く医療に繋げる必要がある。

 勘違いをする人がいそうなので云っておくが、これは一つの目安であって、絶対的な基準ではない。
「もう」の人の中にも本当に眠れていない人もいるし、「まだ」の人の中にも本当は眠れている人もいるのは云うまでもない。

 いずれにせよ「眠れない」という自覚症状以外に何か他の症状がないかどうかは共感的に丁寧に聞き取りをすべきである。
 それと、私も含めて医師でない人は勝手に自己診断をして医療に繋げる道を閉ざしてしまわないということは絶対に守るべきである。

 不必要な医療に繋げる害よりも必要な医療に繋げない害がずっと大きい。

 だいいち私達は医学的な診断をする権限を持っていない。
 診断していいのはその疾患についてちゃんとした訓練と経験を積んだ医師だけである。

閑話休題(はやくゆめのはなしをせんかい)。

 さて、いよいよ夢の話である。
 
 私はTVを見ていた。

 写っていたのはドラマ「私のおじさん」である。
 これは現実でもあって、就寝する直前まで実際にTVで「私のおじさん」をやっていたので、それが夢に反映したらしい。

 CMの時間になって、ナレーターが叫び始めた。

 何故か日本語である。ここは韓国なのに。
 「私のおじさん」も日本語字幕なしで放映されていたのだ。

「フサフサ訓練。貴方もフサフサ訓練で髪の毛を取り戻しましょう。」

 フサフサ訓練に参加して髪の毛を取り戻した利用者達(実は俳優)が叫ぶ。

「もう年だし父親もハゲてたんで諦めていたのですが、フサフサ訓練で髪の毛を取り戻しました。フサフサ訓練のお陰です。」
「家族に内緒でフサフサ訓練に参加したらどんどんフサフサになってきて、家族もどうしたの?って。1ヶ月で訓練を卒業できました。」

 夢を見ているうちにそれが夢であることに気付くことがある。

 その時の私はまさにそうであった。

「そんな訓練があったら命懸けでもやるわい! アホぉーっ!」

 叫んだ瞬間に眼が覚めた。

 横を見ると、妻はまだスヤスヤと眠っていた。

 今日は獺に逢いに行くのだ。それから海東竜宮寺に行こう。

釜山二転三転空転旅行7-ブルーラインパークで空転す-(河童亜細亜紀行309)
に続く。

釜山二転三転空転旅行15-釜田市場で買った餅に父を偲ぶ-(河童亜細亜紀行317)

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餅菓子に父を偲ぶ

 1月1日の公休日にわざわざヨッテ百貨店(仮名)を目指して見事に空転した私達夫婦である。

 気を取り直して、西面でのもう1つの目的地に向かう。

 釜田市場である。

「最悪の日韓関係」の中「反日感情の強い」釜山で年末年始を過ごしてみた10-チャガルチより大きい?魚市場に迷い込む-(河童亜細亜紀行210)  

 ここは6年前「最悪の日韓関係」と云われていたときに「反日感情が強い」と云われた釜山に旅行した時に偶然見つけた市場である。

韓国最大の市場じゃないのか

 今この時の記事のタイトルを見て改めて思うのだが、世論に影響を与える立場にある人はもう少し言動に気を付けて欲しいものだ。
 高給取りは伊達じゃない。

 日本と韓国には無数の懸け橋や緩衝が存在し、彼らが日々頑張っているからいいものの、そうした存在が殆どない国に対して同じような言動をしたら戦争になってしまう。

 6年前に自分が書いた記事をもう一度読んで、売らんかなで読者を煽っていた部分がなかったか、しっかり振り返っていただきたい。
 演説や講演で似たようなことを云っていた人も、以下同文。

 貴方達の言動によって、貴方の同胞が、間近で見たら精神の均衡を保てなくなるような死に方をするような事態が訪れるかも知れないのだ。

 酷いのは韓国や中国の経済が破綻すると何十年も云い続けている人たちだが、そんな記事を読んで安心しているうちに彼らに追い抜かれるばかりか置いて行かれそうになっている。
カメラ河童のジャンク道遥か44-ソ連製品の実力-(それでも生きてゆく私239)
予言の正体

 景気には循環と云うものがあるから当然これらの国の経済にも上がり下がりがあるし、アジア通貨危機のようなアクシデントも発生するが、これは別に彼らの国民性や民族性が日本人より遅れて劣っているからではない。

 何十年も他民族の悪口を言い続けた挙句、たまたま底が来た時にそれ見たことかと誇ると云うのは、それが商売だとしたら実に哀れな人生である。

 そんなことより日本経済を良くする方策を真剣に考えて欲しいものだ。
 その方が有意義だし本当に経済に関する慧眼があるのであれば本人の実入りもよほどよくなるだろう。

 閑話休題(いんきょのたはごと)。

 そろそろ市場だ。

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 あれっ、閉まってる?

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 開いていない店が続くうちに不安になってくる。
 まさかまた空転か。

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 と思ったら、6年前にも驚いたような長い長い商店街が現れたのでホッとした。
 やはり商売をする人たちにとって1月1日は店休日ではないのだ。
 軍人政権の強権をしても変えることができなかった韓国民の伝統は健在である。

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 だがさすがに人通りは少ない。

IMGP3844

 6年前の写真と比べて見るとよく分かる。
 このときは確か12月31日だったのだ。
 公休日の前の日と云うことで人出がいつもより多かったのかもしれない。

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 日本と同じで山芋にもいろいろな種類がある。

 これは私が直接見聞きした話ではないが、西大和新聞(仮名)の韓国特派員の書いた『韓国の釣り』つり人社 という本の中に、韓国男性の強精に関する情熱に触れた部分がある。

 山芋も云わずと知れた強精食品の1つである。

 だが私は韓国食品のキーワードは「強精」よりも「酔い覚まし」だと思う。

 「私のおじさん」という、私も妻も大好きなドラマに「酒飲みの世界選手権があったら韓国人の圧勝だ」という冗談が出てくるが、韓国人と酒は切っても切り離せない。

 ちなみに私はこのドラマの主題歌を歌っているSondiaという歌手のクン、クン、クンペン(大、大、大ファン)である。

 閑話休題(みなさんぜひそんでぃあのうたをきいてみてください)。

 韓国に存在する数多のクッやタン(どちらもスープ)には、「宿酔いの朝に食べたら酔い覚ましになる」というキャッチフレーズのものが多い。

 ヘジャングッ(解酲スープまたは解腸スープ)などはその直截なネーミングが如何にも韓国らしい。
 これにはピョヘジャンクッ(豚の背骨のスープ)やソンジヘジャングッ(牛の凝血スープ)などがある。

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 写真はソンジヘジャングッである。
 ソンジヘジャングッを食べて汗だくになった話は既にした。
仏に逢い鍋を買う韓国の旅14-シウォナダー!-(河童亜細亜紀行129)

本当はシウォナダー

 また、コンナムルクッ(大豆モヤシ汁)やプゴク(ホシスケトウダラ汁)なども実際に体験してみると確かに宿酔いに効く。

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 写真はコンナムルクッにご飯を入れたコンナムルクッパである。
 これを家族と食べたとき、私だけトンテ(スケトウダラの干物)入りのものを食べた話も既にした。
韓国仁川ミステリー?ツアー10-生マッコリ余話-(河童亜細亜紀行69)
 娘夫婦がまだ韓国に居た時だからもう10年前である。

 これらもコンナムルヘジャンクッ、ファンテヘジャンクッなどと「解酲」の名が冠されることがある。

 ここに釜山では名物のジェジョックッ(蜆スープ)が加わる。

 冷麺に入っていたりジュースやサイダーになっていたりする梨もまた酔い覚まし食品として韓国人には認識されているらしい。

 ソジュ(焼酎)を梨サイダーで割ると美味いという話も既にした。
河童簡単韓国料理26-韓国焼酎の梨サイダー割り-(いやしんぼ116) 

梨チューハイは君だけのものではない

 ただしこれはよく考えれば酒を酔い覚ましで割ったものだから、この飲料を飲み過ぎて悪酔いした場合には救いようがない気がする。

 そもそも飲み会の前に対策のためにウコンドリンクや肝臓水解物ドリンクなどを飲んでいくと酒がスイスイ入って飲み過ぎて最悪の宿酔いになることは飲兵衛諸氏ならば一度は経験したことがある失敗だろう。

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 釜田市場で売られているチョギ(シログチ)やプセ(キグチ)やモンゲ(ホヤ)やパジラッ(浅蜊)、ケブル(ユムシ)などなどの、数々の海産物もまた、大抵のものはタウリン豊富な食品だから、この市場や有名なチャガルチ市場は巨大な「酔い覚まし食品市場」と云えないこともない。

 ただし、私が買ったのは「酔い覚まし」ではなかった。
 生の海産物が税関を通るとは到底思えないし、ホテルで調理する訳にもいかないからだ。

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 私は韓国の餅菓子が大好物なのだ。

 日本では大阪鶴橋の韓国人街に行くか冷凍を買うかしないと手に入らないから、現地で食べる出来立ての美味しい餅は貴重である。

 私がこれを好きになったのはまだ幼少の頃で、父が飲み会の帰りに土産物としてよく持ち帰っていたからだ。

 ということはその飲み会はおそらく韓国人との飲み会だったと思う。

 しかしどういう訳か父はその飲み会の相手についての話を私達に一度もしたことがなかった。
 たいていの場合父は飲み会から帰ってきた後「今日は誰それと飲んで」とか「あいつは今何をしていて」とか、相手の消息について母に話していたから、父が飲み会の相手の話をしないのが子供心に不思議だった。
 あるいは母と二人のときには話していたのかもしれないが。

 餅の土産はいつしかなくなった。

 今から思えば父が餅を持ち帰らなくなったのは朝鮮民主主義人民共和国で「白頭山の血統」などという言葉が声高に叫ばれて指導者の世襲が既定路線になった頃だったような気がする。

 私は大学生になり、脛齧りの癖に、戦争のことや韓国の植民地化のことなどについて、生意気に父と議論をするようになっていた。

 私は餅が父の私達への土産として持ち帰られなくなった時期のことを思い出すと、彼らが父のような日本の反戦主義者たちを工作の対象として利用する気持ちしか持っていなかったのではないか、父の朝鮮や中国に対する親愛の情は永遠の片思いに過ぎなかったのではないかと、とても辛い気持ちになる。

 釜田市場で買った餅はホテルでの妻との二次会で酒のつまみに食べてしまった。

 子供の昔に味わったのと同じ、上品な甘さの、でもどこか素朴な、美味しい餅だった。

釜山二転三転空転旅行14-西面でまたも空転す-(河童亜細亜紀行316)

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この日だけは休みだよ

 まだコーフン覚めやらぬ感じの上気した顔の妻と西面の街を歩く。 
 
 それにしても妻にあんな才能があるとは知らなかった。

 もしかすると日本国内にも秘密の訓練所があってそこに通っているのかもしれない(冗談です)。

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 目的のヨッテ百貨店(仮名)までは結構距離があるのだが、気分が高揚しているので全然疲れない。

 娘から土産として頼まれている部隊ラーメン(仮名)は最近ヨッテ系列の店にしか売っていない。
 昨日は南浦洞のヨッテモールに行ってみたが、なかった。

 前回のソウル旅行では明洞のヨッテ百貨店でやっと見つけたのだ。
七転び八起き韓国ソウル旅行23-ロッテデパートでプデチゲラーメンを買って歌う運転技師のタクシーで南大門市場まで帰る-(河童亜細亜紀行297)

タクシーが止まらない

 もはやモールレベルでは入手できず、百貨店まで行かないとないのかもしれない。

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 「泉の広場」発見。

 といっても、ある程度年配の熊本ケンミンでないとこの冗談は分かって貰えないだろうが。

「最悪の日韓関係」の中「反日感情の強い」釜山で年末年始を過ごしてみた22-韓国雑感釜山年末年始編-(河童亜細亜紀行222)

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 「泉の広場」は韓国のあちこちにあるのだが、どこも人気がない。

 熊本の泉の広場も人気がなかったもんなあ、と思いつつ、ふと、その理由に思い当たった。

 私達が「泉の広場」を発見するのはいつも冬なのだ。

 冬の噴水の近くは寒い。

 夏には人がいるのかもしれない。

 かつて熊本県歌より火の国小唄(祖父作詞)より熊本ケンミンに歌われた歌を再度掲載し、昔を偲ぶよすがとしたい。

  泉の広場で♪ 逢いましょうと♪
  あなたの言葉を思い出す♪
  最後のバスはもうすぐ出るのに♪
  いつまでもいつまでも〇ン〇〇プ〇〇♪

 今は亡き、〇ン〇〇プ〇〇に捧ぐ。

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 美味しそうな店を発見。
 こういうのを「プンシク(粉食)=軽食屋」というのだろうか。

「昼はここで食べようか。」と云いながら通り過ぎる。まだ10時半過ぎなのだ。
 もうお客が結構入っているから人気店なのだろう。

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 もう一つの「泉の広場」。
 6年前には噴水が出ていたが、もはやそれもない。
 「冬は寒いから噴水は止めてくれ」とクレームが来たのかもしれない。

 地下街を随分歩くと、ヨッテ百貨店である。

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 あれ?
 紐が架けてあって入れない。
 休み?

 そうか。
 今日は新暦1月1日なのだ。

 韓国や中国では公的なスケジュールは新暦(太陽暦)なのだが、正月のような私的な行事は旧暦(太陰暦)で祝うのが習わしである。

 韓国では1970年代に朴正煕大統領が正月や秋日なども新暦で祝う運動を強力に推し進めた。
 この運動はかなり強権的なものであった。
 何せ旧正月前後に精米所や餅屋が営業することを禁止したのだから。
 正月には欠かせない「トックッ(餅入りスープ)」を作らせまいとしたのだ。

 これは旧暦は韓国の現代化を阻む前近代的な風習であり、新暦が現代化に必要な近代的な制度であるという考えに基づいていた。

 ところが、開発独裁とも云える強力な政策によって韓国を現代化した朴大統領にして、遂に国民に新暦の正月を祝わせることはできなかった。

 韓国民は「新暦は役所の正月、旧暦はウリ(私達の)正月」と呼び、陰に陽に旧正月(ソルラル)を祝い続けた。
 1960年代生まれである私には、これがかなり度胸の要る行為であったことが分かる。
 軍人政権の政策に反対して投獄されたり拷問を受けたりする人の噂は海峡の向こう側にも伝わってきていた。
 先に話題に出した金大中大統領などは野党指導者だった時に日本で拉致されて殺されそうになったこともあるのだ。

 この旧正月を守ろうとする抵抗はいかなる民主化運動よりも広範な国民に支持されていたかもしれない。
 これには日本の植民地時代に新暦を強制されていたことに対する反動もあっただろう。

 遂に1989年、民主化された韓国で旧正月前後の3日間が「コンヒュイル(公休日)=公的な休日」とされ、この新暦(政府)と旧暦(国民)の軋轢は旧暦(国民)の側の勝利に終わったのである。

 日本では明治政府の新暦採用により旧暦はあっさりと歴史の彼方に去って行った。
 旧暦は現在の日本では古典文学の世界にしか残っていない。
 それ以外では韓国人や中国人が秋夕(チュソク)の連休に日本に観光に訪れる時のみ、それが旧暦に基づいた行動パターンであることを意識するだけだ。

 だから日本人である私にはどうもこの韓国人の旧暦に対するこだわりは分からない部分が多い。
 あるいは日本における東亜の伝統的思想の受容が「儒学」であったのに対し、韓国では「儒教」であった点に由来するのかもしれない。

 いずれにせよ、韓国では1月1日は新暦運動の名残として公休日なのである。
 前後に休みはない。

 だから日本人観光客である私達夫婦は新暦の年末年始に韓国を訪れても、日本にいる時のように「ああ、今は年末年始なのだ」と意識することは殆どない。

 本当にヨッテ系列の店が休みであるのに気付いたときだけ「ああ、今日は1月1日、日本では元旦だな」という感慨がある。

 だが、よりによってそのたった1日にヨッテ百貨店を目指すとは。

 アホとしか言いようがない。

 高揚した足取りが急に重くなった私達夫婦であった。

釜山二転三転空転旅行13-西面での午前は熟成壺入り-(河童亜細亜紀行315)

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ネタの熟成壺

 翌日は西面に行った。

 ここで私達はある体験をした。

 しかし、これについては私の超自我とメタ認知が「このネタはネタの熟成壺で少し熟成させろ」と命じているのでそうすることにする。

 熟成ネタは大抵の場合記憶の最下層に埋もれてしまって永遠に忘却されるのだが、たまに地上に出てくることがある。 

河童はつらいよ(京都安下宿事情56)
河童リチャードギア

 たとえば「馬鹿丸出し」で恥ずかしくて世に出せなかったこのネタなど、30年の歳月の重みで十分熟成されて世に出ることになった。
 世に出てからも14年の月日が経過しているので私自身が忘れていたが。

こんな新聞紙の使い方はやめましょう-('80京都安下宿生活5)
新聞しかないことに気付いた瞬間

 こんな人格を疑われるようなネタも、32年も経てば「昔の話だから」と許してもらえるに違いない(え、許さないって?)。

ラブレターはどこへ行った?('80京都安下宿生活25)

ナース宛のラブレター

 やはり女性に関わることは熟成ネタになりやすい。この話など月日が近かったら相手に恐怖を与えるかもしれない。もはや現在からすれば45年くらい前の話だから相手の名前すら覚えていないが。

余は如何にして言語聴覚士となりし乎56(密命を受けし者)

誹謗中傷

 中には未だに壺の中で熟成を続けているネタもある。
 これなどは「定年を迎えるころ」に公表すると宣言していたのだが、相手が同業者になってしまったので、彼が転職するか引退しない限りは世に出せないだろう。

'80京都バイク事情6-懐かしくも苦きエキゾーストノート-('80京都安下宿生活77)

遠い日の思い出

 私は「昔のワル自慢」が嫌いである。
 中学や高校の時に自分が如何に悪かったか、酒を飲んで後輩などに延々と自慢している男を見ると、「お前の人生中高で終わったのかよ。その後は人に語れるものはなーんもないんやろ。」などと、殴られるのを覚悟で云いたくなる。
 だが、バイクに関することはときどき語りたくなる。
 というか、私が就寝中に見る悪夢の半分くらいはバイクがらみである。
 これなども昔の話だから冷静に話せるが、今思えば親不孝の極みだ。
 もう二人とも亡くなったが、私の両親は本当にいい人だった。それを考えれば若い頃の私など極悪非道である。

旧友は自分の鏡4-テレパシーで話したこと-('80京都安下宿生活88)

卒業写真の私

 閑話休題(このてのわだいはえいえんにじゅくせいしないとおもっていたほうがいいぞ)。

 ということで(何がということなのかよく分からないが)、私達夫婦の3泊4日3日目の西面での行動については熟成壺送りで決定。

Dマウントシネレンズと行く韓国世界遺産への旅10-オルシンは辛いよ-(河童亜細亜紀行83)

 このネタなどは熟成壺入りを宣言してから2年で世に出た。このときは「10年経って」などと云っているが、熟成が早かったのだ。

「最悪の日韓関係」の中「反日感情の強い」釜山で年末年始を過ごしてみた13-釜山人の反日について-(河童亜細亜紀行213)
釜山女性は逞しい

 このネタのように約束通り世に出ることを期待してください。

 午後の行動から始めることにする。

釜山二転三転空転旅行12-日本人と東南アジア人が韓国語で会話をする-(河童亜細亜紀行314)

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東南アジアの人と韓国語で話す日本人

 中華料理屋のところで書き忘れていた話を一つ。 

美味しそうな店

 この中華料理屋は如何にも中国中国した感じの装飾の店であった。

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 だが、出て来たのは韓国風にアレンジされたタンスユクとチャジャン麺であった。
 これらの料理は中国本土で注文しても「没有(メイヨー)。=ない。」と云われるか、全く別物が出てくるだろう。
 そもそも「タンスユク」という中国語はない。
 「咕咾肉(クーユーロー)」または「糖醋肉(タンツーロー)」と云わなければ酢豚は出てこない。「タンスユクを下さい」と云ったら「什么(シェンマ)?=何だって?」「没有」と云われるだろう。

 「チャジャンミョン」も著しく韓国化した発音だから、この発音のままで注文したら「什么(シェンマ)?」と云われるか、「茶酱麺(チャジャンミェン)」が出てくるだろう。

cafe

 ちなみに写真は仁川の中華街の外れで華僑の老夫婦がやっている店のチャジャン麺であり、私が今までに食べたものの中で最も美味しいと思っているものである。

 茶酱麺とは「沙茶酱(サーチャジャン)」と云う東南アジアでは「サテソース」と呼ばれるバーベキューソースのようなものを掛けた麺であり、「チャジャン麺」の祖型である「ジャージャー麺」とはまた別ものである。

Satay-souce-Coriander

(写真はWikipedia John Cross Satay-souce-Coriander CC BY-SA 3.0 commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=482127)

 こんな料理だ。

 閑話休題(ここまでのはなしはわたしのすいそくなのでほんとうにこんなりょうりがでてくるかはわかりません)。

 なぜこんな話をするかと云えば、海雲台の中華料理屋に入った私達夫婦から注文を取ったのが、インドネシアかマレーシアか、風貌から見て東南亜細亜系の人だったからだ。

 彼らにとって韓国語は母国語ではない。

 したがって彼らの会話は韓国人より相対的にゆっくりである。

 私は語学力不足と加齢性難聴のために聞き取りに問題があるから、これはとても助かる。

 私は韓国滞在中会話相手に一再ならず「チョンチョニ(韓国語で「ゆっくり」)と云わなければならないのだが、彼らは私が頼まなくても「チョンチョニ」喋ってくれる訳だ。

 実際この店員さんの韓国語は私にはとても分かりやすかった。

 おそらくネイティブが聞いたらどこか不自然な韓国語なのだろうが、日本人である私はそこまでは分からない。単にゆっくりで聞き取りやすい韓国語なのだ。

 だが、考えてみれば不思議な気がする。

 ここは韓国。私達は日本人。食べようとしているのは中華料理。それを給仕してくれるのは東南亜細亜人なのである。そして交わされる会話は韓国語なのだ。しかも出てくる料理は「中華」と銘打ちながら本国にはない韓国風料理である。

 なんだかとってもエスニックでありながら、同時にグローバルな状況である。

 茶酱麺(チャジャンミェン)は元々東南亜細亜の料理であるから、私達が東南亜細亜で東南亜細亜の人がやっている飲食店に入って「チャジャンミョン」と注文したとすると、韓国中華の炸醬麵(チャジャンミョン)ではなくて茶酱麺(チャジャンミェン)が出てくるかもしれない。

 東南亜細亜には韓国系の人もいるだろうから、韓国系の店で「チャジャンミョン」と注文したら炸醬麵(チャジャンミョン)が出てくるだろう。

 では中国系の店だったらと考えると、この場合は「什么?」または「没有」と云われるか。または「ここは東南亜細亜だからこの客が云っているのは東南亜細亜風の麺だろう」と茶酱麺(チャジャンミェン)が出てくるかもしれない。あるいは「この客は我が『ジャージャーミェン』を『チャジャンミョン』と云ってるから韓国人だよな。だったら『チャジャンミョン』は『ジャージャーミェン』のことに違いない。」と考えて炸醬麵(ジャージャーミェン)が出てくるかもしれない。

 もう訳が分からなくなってきたのでこれぐらいにするが、こうした状況には韓国の国策が関係している。

 前にも書いたが、1997年、韓国はIMF危機(日本ではアジア通貨危機)と呼ばれる災難に見舞われた。

 この災難から抜け出す道として金大中大統領の指揮の下、語学とIT化を軸とした文化国家が志向されたことは既に書いた。
釜山二転三転空転旅行7-ブルーラインパークで空転す-(河童亜細亜紀行309)

 多くの日本人の冷笑を浴びながら、国運を賭けたグローバル化が始まったのだ。

 かつて1980年代まで、韓国は海外に対して移民を送り出す国であった。

 私が今でも最も感動する映画の1つに挙げたい「国際市場で逢いましょう」(2014年)にはその間の事情がリアルに描写されている。
 看護師や炭鉱労働者として多くの韓国人が出稼ぎに出た。

 この状況が劇的に変化するのが「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長とソウル'88五輪である。

 国民の高学歴化によってブルーカラーが不足するようになり、海外から労働力を受け入れるようになるのだ。

 最初は観光ビザを使用した不法労働に始まり、産業研修生という名の労働者としての権利を持たない就労形態が主流になっていったのは日本とご同様である。

 しかし、2000年代に再び状況は劇的に変化する。

 改革の柱は二つある。

 1つは雇用許可制(EPS)の導入である。
 2004年、政府が直接送り出し国と協定を結び、外国人を「労働者」として受け入れる制度が始まった。
 これにより最低賃金や労働三権が保障されるようになり、外国人労働者の就労環境は大きく改善された。

 もう1つは「多文化家族支援法」の制定である。2008年、農村部を中心に国際結婚(結婚移民)が急増し、その定住支援や子供の教育を支える「多文化政策」が国家プロジェクトとして始動したのだ。

 もう10年以上前のドラマだが、現在でも日本の女性に人気があるチ・チャンウク主演の「笑ってトンヘ」という作品がある。
 このドラマで主人公の父親が血統のあるなしで掌を返すような態度の違いを示す場面がある。
笑う済衆院4(韓国ドラマのヘンな日本人12)

 私には韓国人の親友や親戚がいる訳ではないから、断言はしないが、韓国人にも日本人と同等かそれ以上の血統主義があるように思う。

 最近の韓国における反中デモのニュースなどに触れても、排外的感情も相当数の人が持っているように感じる。
 私自身がそうした感情の攻撃対象になったことはないから、これも断言はしないが。

 ではなぜこうした移民政策が韓国で可能となったかと云えば、その背景には「苦難の行軍」以来、韓国が数万人規模で北の同胞を受け入れて来た経験があると思う。

 「苦難の行軍」については私の旧友A君の力作に講談社新書『北朝鮮難民』という本があるから是非読んで欲しいが、要は朝鮮民主主義人民共和国で飢餓と云う人災が起こり、大量の人々が国境を越えて韓国に逃れてきたのだ。

 彼らは大韓民国の国民と同族であるが、長年違う体制で暮らしてきた人々だから、意識や知識や行動様式の上では大きな違いがあった。

 韓国民は脱北者支援を通じて同じ言葉を話す同胞であっても、インテグレーション(社会的な統合)には多大なコストと専門的なケアが必要であることを学んだのだ。
 だが、同時に、それなりの金と手間を掛ければ意識や知識や行動様式が違ってもインテグレーションやインクルージョン(社会的な包括)は可能であることも学んだのである。

 勿論韓国にも同質性を極端に尊び、異質なものが不愉快であれば排除してしまえばいいと考える人は多いのだろうが、そう考えない人が特に指導層に多いことが日本との違いだろう。

 韓国の指導層のこの部分での考え方は対立の激しい思想の左右を問わないように思える。

 日本と韓国、どちらも少子化に悩みながら明らかに違う道を行こうとしている二つの国は、どちらがそれをより良い形で克服できるだろうか。

 明らかに韓国ルーツではない人と韓国語で話している日本人の私は、こんなことを考えていた。

釜山二転三転空転旅行11-韓国で日本風オデンを食べる-(河童亜細亜紀行313)

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この言葉が一番恥ずかしい

 海雲台から南浦洞に帰っていろいろな人への土産物を買っているうちに夜になった。

 買い物が惰眠の合間に行われたのは言うまでもない。

 この惰眠なくして私達夫婦の最近の旅行は成立しない。

 元々私達夫婦の脚の航続距離は旧日本陸軍の二式単戦並に短いが、旅行中にはあちこち移動するせいか旧独軍Me163コメート並みにしょっちゅう惰眠という燃料を補給する必要がある。

 折角高い金を出して海外まで行っているのだから時間が勿体ない、という向きもあるかも知れないが、惰眠なくせかせかと観光地を巡ったとすると、それは現在の私達の体力から考えて「苦行」以外の何物でもないのだ。

 したがって本来は水族館の後に予定されていた海東竜宮寺の観光は夫婦で顔を見合わせて「寺…」という言葉が私の口から出た瞬間に「止めようか…」という声が妻の口から出て中止と相成った。

 海東竜宮寺は海沿いの景勝地として日本の観光客にも有名だが、私達夫婦はそれよりも惰眠を選んだのだ。

 一日目の夜の夕食が「チケット問題」のせいで落ち着かないものになってしまったので、二日目の今夜はゆっくりと韓国グルメを楽しみたい。 

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 ところが、欲望が強すぎるせいか、店を見繕うために歩き回っても、なかなか決まらない。

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 いろいろと美味しそうなものを売っている屋台もあるのだが、「立って食べるのかよ…」と思うとアジュンマに声を掛ける勇気が出ない。

 もはや私達の脚は燃料切れのコメートのように滑空に入った。

 シュルルルル…と滑り込んだ店は、なんだか飲食店というよりは昔日本で流行っていたスナックと云う感じである。

 日本人観光客の多い釜山では店のメニューなどに日本語が併記されていることは珍しくないが、ここは韓国語だけである。英語の併記すらない。
 「外国人は来なくていい」というスタンスなのかもしれない。

 しかも、見慣れないメニューばかりである。
 私の韓国語は初学の人と殆ど変わらないレベルだが、一つだけ、韓国人より詳しいというジャンルがある。
 それは食品関係である。
 1987年の初渡韓から、韓国語のメニューを見てそれがどんなものであるか分からない、ということはまずなかった。
 怪しい日本語で「ピソデトク」と書いてあっても、ああ、緑豆のジョンだな、と分かるし、「豚ドゥルチこと正式」と書いてあっても、ああ、豚肉と野菜の炒め煮の定食だな、と分かるし、「センガルしてこの」と書いてあっても、それが太刀魚の焼き魚だと分かるのである。
飛行機で行く釜山・金海の旅14-誤訳の謎解き-(河童亜細亜紀行176)

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 ところが、この店のメニューは普通にハングルで書いてあるのに、分かるのは「へムルプチュジョン」(海鮮ニラチヂミ)と「スジオムクタン」(筋オデン汁)くらいなのだ。

 ゴーグル検索(仮名)は最近カメラをかざすと翻訳してくれる機能があるから、これも使ってみたが、日本語になっていない答えが出てきてどんな料理なのかやはり分からない。

 それにしてもあまりに耳慣れない料理名である。
 どうもどれもこの店の社長(女性)が自ら名物として編み出した感がある。

 私がオムクタンを注文してから、妻が娘にドナウ(仮名)して尋ねている。

 娘は韓国に住んでいた経験があるのだ。
 したがって私より娘の方がずっと韓国語に堪能である。

 しかし、妻は私が下手なりに一生懸命韓国語を勉強しているのを知っているから、旅行中に入ってきた韓国語の情報はできる限り私に処理させて私のプライドを尊重してくれる。

 だから今回も既に私の考えのもとに注文が済んでから娘に質問したのだ。

 娘もよく分からなくてAI君に聞いたらしいが、多少は推測できる答えが返って来た。

 一番左はホンオサムハプ(日本語なし):ホンオフェ(カオリフェ)(発酵させたガンギエイの刺身)、スユク(茹で豚)、古キムチ(発酵の進んだ酸味のあるキムチ)の3つを一緒に食べる郷土料理。


 なるほど。 好奇心でよく分からずに頼んでいたらごっそり喰い残したにちがいない。 
 ホンオフェは日本のくさやなどと並んで世界で何番目かに臭い食べ物と云われている。

 左から2番目はオギョプスユク(日本語なし):オギョプサル(豚の三枚肉サムギョプサルの皮つきのもの)を香味野菜と蒸しあげた料理。

 これを頼めばよかった。美味しそうである。

 左から3番目はチャシュ。
 今から思えばこれは叉焼である。
 つまり焼き豚だ。

 わざわざ韓国まで来て叉焼を頼まんでも、とも思うのだが、韓国中華は独特の発達を遂げているから、話の種として面白かったかもしれない。
 ただ、よく見ると下に括弧して「予約」と書いてあるから、一見客の私達が頼んでも断られただろう。

 左から4番目は私の韓国語力でも分かったヘムルプチュジョン(海鮮ニラチヂミ)。

 これは他の客が頼んでいてとても美味しそうだったから頼もうかと思ったのだが、遠目にも牡蠣が焼き込まれているのを見て断念。

 妻が食べられる貝料理は蛤を使用したものと「済州屋(仮名)」の鮑粥だけなのである。
 私も牡蠣には何度か当たったことがあるから、旅先で食べるには危険な食品だ。

 次のスジオムクタンはおそらくスジ肉の入ったオデンである。スジは日本語の筋そのままなのだろう。私達が頼んだのはこれであった。

 ちなみに日本語由来の言葉だとして有名だった「オデン」という言葉は、急速に「オムク」という言葉に置き換えられつつある。
 これについては一度書いたが、「オデン」は「田楽」の宮廷言葉であり、厳密には日本由来ではなく中国由来の言葉である。
「最悪の日韓関係」の中「反日感情の強い」釜山で年末年始を過ごしてみた18-釜山オデンの味わい-(河童亜細亜紀行218)

 そして「オデン」が侵略や植民地化に何か大きな役割を果たしたことはないし、何か差別的なニュアンスを含んだ言葉でもないし、軍人政権の維持手段として民主化を邪魔したこともない。

 だから私は「オデン」という言葉が「日本由来の言葉を使うのは止めましょう」という韓国で暗黙のうちに続けられてきた運動の対象になるのは納得がいかないし、これからも韓国で使われ続けて欲しいと思っている。

 もっともこれは中国由来の言葉であるという正確な認識が広がり、最近の韓国の反中感情によって排斥されているのかもしれない。

 韓国語や日本語から中国由来の言葉(つまり漢語)を追放したらどちらの言語も崩壊してしまうことは自明なのだが。

閑話休題(たべものひとつでにっちゅうかんのまさつのたねにするんじゃない)。

 左から6番目のパジラクチョケタン(日本語なし)になるともう私の韓国語力では見当もつかないが、娘の回答によると浅蜊の澄まし汁らしい。
 これまた頼んでいたら妻は一切手を付けなかっただろう。

 次の右から5番目は娘の回答を見て初めて気づいたのだが、「チキン唐揚げ」という日本語をハングルで書いてあるだけである。
 私は韓国の唐揚げは揚がり過ぎと云う気がしてあまり好きではないので、解読したとしても頼まなかっただろう。

 次の右から4番目はカジャミグイ(日本語なし)。
 カジャミは鰈のことでクイは焼き物だから鰈の焼き魚である。
 これは追加で頼んでもよかったのだが、鰈の焼き魚が30000ウォンというのは最近の物価高とはいえども納得できるコスパではない。

 次の右から3番目はコマク(ハイガイ)。
 ハイガイは韓国でよく食べられている貝で、赤貝を小さくしたようなものである。
 日本で「赤貝の缶詰」として売られているのはこれだ。
 括弧書きの「季節」は季節ものという意味だろう。
 これも貝類だから妻は食べられない。

 次の右から2番目はセングルジョン(生牡蠣のチヂミ)。
 センは「センメクチュ」などの「セン」で「生」。「クル」は牡蠣である。
 つまり生牡蠣をチヂミにしたもの。
 これまた妻は手を付けないし、私も旅行先では避けたい食べ物である。

 最後の右端はクァメギ(サンマの生干し)。
 これはどこかで聞いた覚えがあったのだがどうしても意味を思い出せず、娘のドナウを見て初めて「ああ、そんなんあったな」と得心が行った。
 これは人によるが病みつきになるほど美味いらしい。

 こうして見てみると、この店のメニューは韓国南部の郷土料理が中心の、チキン以外は話の種になりそうなものばかりだったのだ。

 私の韓国語力がもう少しあったら。
 残念至極である。

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 「スジオムク」と云って頼んだオデンは我が家で「ペラ天」と呼ばれている薄い角天を使った韓国風のものではなかった。
 そして日本でもお馴染みの竹輪や卵の入った日本風のオデンが出て来たのでちょっとがっかりした。

 しかしスープはピリ辛だし、練り物も釜山風の塩気の薄いもので、私達の舌には十分韓国風なのだった。

 こうした評価は日本風オデンを出したいと思っている社長には少し不本意かも知れないが。

 美味しいオデンと美味しい韓国麦酒を頂きながら、妻のトイレを借りることも含めて社長とのやり取りは全て韓国語で行われた。
 釜山には珍しく日本人が来ることを一切予想していない店らしい。

 勘定をした後、社長が感に堪えないという表情で云った。
 「オルシン、韓国語お上手ですねえ…!」

 私は顔の前で手をブンブン振り、「アニアニアニアニ…」と云いながら逃げるように店を出た。
 私の顔は真っ赤になっていたに違いない。

 私が韓国人から最も云われたくない台詞である。

釜山二転三転空転旅行10-釜山地下鉄美談2-(河童亜細亜紀行312)

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地下鉄は楽し

 さて、ここまでの釜山での移動手段はブルーラインパーク往復以外は全て鉄道であった。

 釜山はソウルに次ぐ韓国第二の都市であり、大阪より大きい300万都市であるから、地下鉄を含めた鉄道の車内は大体混んでいる。

 私達はかつて「地獄鉄」と呼ばれたソウルの地下鉄9号線すら経験しているから、車内が混雑していることに関しては特に驚かない。

 ところが、もう10年以上前に釜山の地下鉄に乗ったとき、驚くべき光景を見た。

 地下鉄で座席に座っている若者が、お年寄りが乗って来るとほとんど例外なく席を譲るのである。
船で行くプサン長閑旅8-釜山地下鉄美談-(河童亜細亜紀行53)

 当たりのつり革

 この光景は「ビヨーン」と伸びそうな吊革と共に私の脳裏に刻まれたのであった。

 あれから10年。
 50代だった私達は60代半ばになった。あの頃若者だった人たちは既に中年である。そして韓国でもZ世代と呼ばれるデジタルネイティブたちが若者の主力である。

 彼らにあの美風は受け継がれているのか。

IMGP1621

 「あの」吊革は健在だった。
 順番に10個ぶらさがっていくと1個「ビヨーン」と伸びる奴がありそうである。

 ではあの美風は。
 私は移動の車内をじっと見まわした。

 車両が駅に停まる度にお年寄りが乗って来る。
 老人の優先席は既に一杯である。
 ちなみに釜山の地下鉄には老人用の優先席のほかに、妊婦用の優先席がある。こちらは誰も座ろうとしない。

 席にあぶれた老人が席に座った若者の前に立つ。さあ、どうだ。
 譲らない。若者はスマホに夢中である。

 別の若者の前に別の老人が立つ。
 やはり譲らない。若者は眠りこけていて自分の前にお年寄りが立っていることなど気付いてもいないようだ。

 椅子にドベーッと浅く座って化粧をしている若い女性がいる。
 電車で化粧をする女性は10年前からいた。
船で行くプサン長閑旅12-ただただ感心したことin地下鉄-(河童亜細亜紀行57)

恐るべき化粧技術

 女性はいかにもしたたかそうな表情である。

 嗚呼、10年の歳月が流れ、敬老の美風はZ世代には受け継がれなかったようだ。

 と思ったとき、化粧をしていた女性が、ヨタヨタと乗ってきた老人にサッと席を譲った。
 とてもそれまでの横着、じゃなかった、気だるそうな態度からは考えられないキビキビした身のこなしであった。

 あ、またである。 
 スマホに夢中と見えた若者は、別の、もっと高齢であると思われる足元が覚束ない別の老人にはサッと席を譲った。

 そうか。

 私は事情を悟った。

 この10年で韓国は急速に高齢化が進んだ。
 現在は20%以上が65歳以上の高齢者なのだ。

 したがって若者が席を譲るべき対象は年齢よりも足取りが基準になっているのだろう。
 65歳以上と思われる人には席を譲る、ではなく、吊革に捉まって立っていたら危険な感じの高齢者には席を譲る、というように基準が変化したのだ。

 そして、よく見ると、この車両の連結部に近い方の6席、つまり1車両には2箇所あるから12席は優先席なのだ。これはシートの色が違うからすぐ分かる。
 かつ、妊婦専用の優先席が1席あるから、13席は優先席なのだ。
 これは全36の座席のうちの1/3強に当たる。

 そして日本のようにこれらの席にどっかり座っている若者は1人もいない。 

 しかも車両によっては席を撤去してそこが車椅子専用スペースになっている。

 つまり若者~中年は残りの22席を分け合って座り、しかも足の弱そうな人が乗って来て優先席が空いていなかったらその人に席を譲るのである。

 何だか美談を通り越して韓国の若者が気の毒になってきた。

 そういえば10年前と比べて若者たちが疲れた表情をしている気がした。

 男はこれで兵役にも行くんだよなあ。

 頑張れ、釜山の若者たち。

釜山二転三転空転旅行9-韓国中華を堪能す-(河童亜細亜紀行311)

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美味しそうな店

 私は中華の料理人である。(嘘である。)

 私はよほど特殊な、たとえば仏跳牆(ファッチューチョン)のような宮廷料理でもない限り、街中華で出しているポピュラーな中華料理ならば大体作れる。(本当。)

 これは私が大学のとき中華料理屋でバイトをしていたからで、この時に培った知識と技術は、大学の授業は勿論、他のどの場所で得たそれよりも私のその後の人生に役に立っている。
ホームランをかっ飛ばす料理人たち('80京都安下宿生活20)
大文字焼きの夜('80京都安下宿生活78)

 これは私が借金のカタに友人から中華料理屋に売り飛ばされたからだが、今となってはもう付き合いのないその男に感謝感謝である。
借金のカタに売られた男('80京都安下宿生活18)

 私の中華料理レシピについては今回目次を作って検索しやすくしたので一度ご覧いただきたい。

中華料理への誘い 目次

 ところで、「韓国で中華料理を食べる」と聞いて、あまり韓国旅行歴が長くない人は「何でわざわざ韓国まで来て中華?」と思うかもしれない。

 ところが、韓国で好まれている中華は、もはや中華ではない。
 これは立派な韓国料理である。

 たとえばチャンポン。

 これは元々中国の料理ですらなく、日本は長崎の四海楼という中華料理屋で開発された、れっきとした日本料理であることが明らかになっている。
 
 だから韓国で供されるチャンポンについて知らない人は、これを最初に見たときに驚愕するであろう。
 コチュジャン(唐辛子味噌)とコチュカル(唐辛子粉)によってあくまで真っ赤に染まったスープ。
 日本ではまず入っていない殻付きのムール貝。

 私のように胃腸の弱い人間はこれを現地で食べることを避けている。
 これについてはもう何度も書いている。
Dマウントシネレンズと行く韓国世界遺産への旅5-赤いものを食べない旅-(河童亜細亜紀行78)

赤くない料理はと

 さもないと、翌日はトイレに籠るか、トイレを探して彷徨う羽目になるからだ。
河童からくに紀行8-いつものように1日の半分はトイレタイム-(河童亜細亜紀行30)

考える河童

 もう一つ韓国化した中華料理にチャジャン麺がある。

 これは中国ではジャージャー麺と呼ばれ、チャジャン麺も日本語に訳するときに「ジャージャー麺」と訳されることがある。
 しかし、この二つは全く別物の料理である。
 麺類であること、汁なしの麺にソースを掛けること以外に共通点はない。

 ジャージャー麺は四川料理である。
 四川の料理は辣(ラー)と麻(マー)の二つの辛さが口腔と喉に迫って来る大変辛い料理である。
 ちなみに辣は唐辛子の舌を刺すような辛さ、麻は山椒の舌を痺れさせるような辛さである。

 ところが、チャジャン麺は全く辛くない。
 「これ、辛くないですか?」という私達日本人の問いに対する韓国人の答えが「辛くないですよ」だったとき、その料理は通常は辛い。
 全然赤くなくて組し易そうな料理でも、実は青唐辛子が隠し味に使ってあってピリッとしたりするのが普通である。
 答えが「辛いですよ」だったときには、その料理は通常は物凄く辛い。
 タッパル(鶏の脚)やブルドックポックリ麺(仮名)などはさすがの韓国人も「辛いから気を付けて」と云うほどだ。

 しかし、チャジャン麺は多くの韓国料理と違って、全く辛さがない。それどころか、むしろ甘い感じである。
 私はこれを日本でインスタント麺として食べていたときには美味いと思ったことがなかった。

 ところが、仁川の中華街の外れの老夫婦でやっている店のチャジャン麺を食べてから、韓国に行ったら1食は摂りたい料理になった。
韓国仁川ミステリー?ツアー6-ジャージャー麺の神髄を知る-(河童亜細亜紀行65)

ラーメン博物館での歴史教育

 チャジャン麺は韓国化した中華と云うより、韓国の国民食そのものと云ってよい。
 何せ発祥の地である仁川にはチャジャン麺の博物館があり、小学生が引率の先生と共に社会見学に訪れる程なのだ。

 ここにタンスユクという韓国中華がある。
 漢字では糖醋肉と書く。
 中国読みすれば「タンツーロー」である。日本語に直訳すると「肉の甘酢餡掛け」である。
 中国で単に「肉」というと豚肉を指す。

 熊本では酢豚のことを「酢排骨(スーパイコ)」と呼ぶ人が多いが、これは元々熊本に最初に入ってきた酢豚が「排骨(パイグー)」=スペアリブを材料に使っていたためらしく、現在では熊本の酢豚も全国標準と同じく骨なしの豚肉を使った「古老肉(クーユーロー)」になっている。

 中国では古老肉は糖醋肉とも呼ばれるが、何故か日本では酢豚のことを糖醋肉(タンツーロー)とは呼ばない。
 少なくとも私はそう呼んでいる店を知らない。あったら在日韓国人がやっている中華料理屋だろう。これについては一度詳しく書いた。
 これについては先ほど紹介した中華料理への誘い 目次から入ると、
中華料理への誘い4-酢排骨(スーパイコ):古老肉(クーユーロー):スブタ-(いやしんぼ82)
という項目があるのでそちらをご参照いただきたい。

 タンスユクもまたチャンポンやチャジャン麺と同じく韓国人に絶大なる人気を誇る韓国中華なのだが、私はこれまで本場でこれを食べたことがなかった。

 だが、妻の体力を考え(騙そうとしとった癖に)、我を抑え(引っ張りまわしていた癖に)、獺君の餌遣りを断念した私に(結果的にそうなっただけじゃろうが)、神がご褒美を下さる時がやってきた。

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 水族館を出てたまたま通りかかった中華料理屋がいかにも「中華」という感じで美味そうだったのである。

 早速中に入り、タンスユク1人前とチャジャン麺2人前を注文。

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 まずタンスユク登場。

 なんとこれはザリーチではないか。
 こう書くと何だか麻雀で大勝している人が勢いに乗って「ザ・リーチ!」と声を上げているようだが、これは漢字では「炸里背」と書く。
 ザーリーチなのだが、何故か私がバイトしていた店では「ザリーチ」と呼ばれていた。調理人さん達がみんな麻雀が好きだったからその連想からかもしれない。

 ザーリーチは北海道は函館名物として有名だが、私の知っているザリーチはより本家のものに近く、豚肉の細切りに小麦粉の衣を付けて油でカラッと揚げたものである。
 日本語で端的に云うならば「豚の天麩羅」だ。

 日本の酢豚である古老肉(クーユーロー)は豚肉の唐揚げの他に玉葱・人参・ピーマン・パイナップルなどの野菜を餡かけにしたものだが、ザリーチは豚肉のみの料理である。

 つまり韓国の酢豚はザリーチに甘酢餡をかけたものだったのだ。


IMGP8234

 そして肉に比べて餡が少ない。
 掛かっている所は時間が経つにつれてシットリしてきて、かかっていないカラッとしたところと味が違うといういわゆる「味変」が楽しめそうだ。
 それにしても1人前がこの量である。
 2人合わせて120歳超の老夫婦に食べてしまえるものなのだろうか。


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 そう思っているところにチャジャン麺登場。
 これも相当の量である。

IMGP8235

 なんだか闘争心が湧いて来て、チャジャン麺をグルングルン混ぜる。

 戦闘開始。

 ところが、チャジャン麺もタンスユクも思ったよりずっと軽くて、完食してしまったのだった。

 韓国の豚料理はなんでこんなに食べてしまえるのだろう。

 これが日本風の酢豚だったらこの量は絶対食べられなかったと思う。

 すごいぞタンスユク。

 また一つ韓国中華の真髄を知った私であった。

釜山二転三転空転旅行8-シーライフ釜山アクアリウムで充実す-(河童亜細亜紀行310)

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共通のつぶやき

 女房岳大噴火をどうにか予防して海雲台に戻ってきた私である。

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 カワウソ君の餌遣りの時間はまだ随分後だが、このまま海へと吹き抜ける寒風に晒されたまま佇んでいる訳にもいかない。

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 釜山アクエリアス(仮名)に入ることにする。

 餌遣りは見えないが、獺君達に逢うことはできる。
 生きている獺に出遭うのは人生初なのだ。 

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 エスカレーターで地下まで下りていく。

 私は魚と水族館が大好きなので、期待が高まる。

 何せ大学入試の時は水産学部を考えたくらいだ。

 「就職どうすんの」と周囲から云われてあっさり諦めたが、文学部に行った後の就職難から考えたらそんなことは気にせずに行っておけばよかった気がする。

 そうしたら「さかなクン」の愛称は同名で活躍しているあの人ではなく私だったかも知れないのだ。

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 最初の展示を一瞬見ただけで分かった。
 これはアマゾンの魚たちだ。
 ということは、次の展示はピラニアだな。
 「手の内は全部知ってるんだぞ」という気分になってくる。期待が萎んでいく。

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 ところが、ピラニアの水槽を見て爆笑してしまった。

 さすがは韓国である。
 このベタさがコリアン・デザインの真骨頂だろう。
 日本だったら「ピラニアの被害者を馬鹿にしている」とか何とか抗議する人が現れるところだろう。

 いいなあ。
 私は韓国のこういう直截な部分が好きなのだ。

IMGP8140

 トイレのピクトグラムが潜水服姿なのも実にいい。
 日本だと「いざというときに分かり難い」などと苦情が来そうである。



 カワウソの餌遣りは見られなかったが、可愛いペンちゃんの餌遣りを見られたのはラッキーだった。



 このペンギンはバーチャルリアリティーである。
 こちらの動きに合わせて体の向きを変えて動作する。




 そしてお待ちかね、韓国の獺君達である。

 寝ている獺君に別の二人がちょっかいを出して怒られている感じだった。
 
 河童のモデルになるくらいだから単独行動を好むのかと思ったら、集団で固まって生活しているらしい。

  やはり可愛らしい。
  やはりこれからの河童のモデルは獺で決まりだ。水死体よさらば。



 そしてこの水族館の主役、鮫たちである。
 元々はこの水族館は鮫メインで作られたらしく、獺たちの導入は2020年を過ぎてからである。
 
 以前来ていたら「なんだ、鮫かよ。」となっていたかもしれない。




 熊本県は牛深付近で釣りをしていたら釣れてきそうな魚がたくさん泳いでいる。
 釜山は熊本よりやや北寄りにあるが、海の中の様子は似ているのかもしれない。



 鯵の大群。
 思わず夫婦して「美味しそう」と呟く。

 どういう訳かこんなに美味しい魚が韓国では食用とは認識されていないらしく、魚屋などでもほとんど売っていない。
 この話は一度した。
飛行機で行く釜山・金海の旅12-鯵はどこへ行った?-(河童亜細亜紀行174)

 この水族館でも日本人が来ない限りこの「美味しそう」という溜息は鯵の大群に向けては吐かれまい。

 韓国人にこの呟きをさせようとおもったらシログチやキングチ、ニベ、太刀魚、鯖などの水槽の前に彼らを連れていく必要があるだろう。




 この水族館でもう一つ見逃せないのは水母の展示である。

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 これほど多くの水母を見たのは長崎は佐世保の水族館雲母館(仮名)に行ったときだからもう10年以上前である。
佐世保平和旅行記2-私はクラゲになりたい-(河童日本紀行17)

チッゴカッパクラゲ

 気色の悪い絵をすみませんでした。

 規模的には雲母館よりこの釜山アクアリアスの方が上かもしれない。

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 正面から見たエイは豚に似ている。

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 日本でも人気のミノカサゴ。

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 造物主の気まぐれとしか思えないタツノオトシゴっぽい魚。
 それよりもっと珍妙である。

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 逆さ泳ぎするヘコアユ。
 とにかく子供の好きそうな面白い魚は全て揃っている感じである。
 お子様連れにはお勧めの水族館である。

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 ウミガメ。
 可愛いのやらなんなのやら、あまり近くから見ない方がいいようだ。

 この水族館では水槽で泳ぐ魚と一緒に泳いでいる体感のバーチャルリアリティーも体験できる。
 私はこれがタダだと思って勝手に椅子に座って道具一式を身に着けようとしていたら「お客さん、お金を払ってから体験してください。」と係の女性から云われてしまった。
 東亜の皆さん、ここのバーチャルリアリティーは有料です。注意喚起(知らなかったのはお前だけじゃ)。

 それにしても素晴らしい充実ぶりである。
 あっという間に1時間余りが過ぎていった。

 韓国の観光案内サイトであるオネスト(仮名)によれば、ここでは250余種、10,000匹の水生生物が観察できるという。
 維持費も相当なものだろうな、と日本の同種の施設を思い浮かべて想像していたのだが、この水族館は韓国に多い公設の施設ではなく、メルボルンや上海などで水族館を運営している国際的な企業が作ったものらしい。

 航空券も確定し、多くの生物や魚たちに癒されてやっと旅行に相応しいウキウキ気分を取り戻した私であった。

 かえすがえすも獺君たちの餌遣りが見られなかったのは残念だったが(しつこい)。
 

釜山二転三転空転旅行7-ブルーラインパークで空転す-(河童亜細亜紀行309)

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爆発の予兆

 私が思いついたのは海雲台のブルーラインパークに行くことだった。

 ここにはかつての廃線を利用した海辺列車とスカイカプセル(少人数用のモノレール)が走っていて、海雲台の人気観光ルートなのだ。

 海辺列車のフリーチケットは1人16,000ウォンと手ごろだし、平日は30分おき運行、休日は15分おき運行である。
 残念ながら新暦の12月31日は韓国では休日ではないので、 30分おき運行。

 チケットは事前予約していないが、11:00くらいから待てば11:10くらいにはチケットが手に入って11:30分には乗れるだろう。時間は尾浦(ミポ)駅 ↔ 松亭(ソンジョン)駅の往復で約50分。
 ということは尾浦駅に帰ってくるのが12:20分くらい。

 それから海雲台に帰ると13:00近いから、それから昼食を摂ったら13:30過ぎ。

 獺君の餌遣りは14:00だから丁度良い待ち時間である。早めに入って他のところを見て回っているうちに餌遣りの時間になるだろう。

 万一海辺列車が満席で乗れない時はスカイカプセルに乗ればいい。

 なにせスカイカプセルの運賃はフリーチケットだと2人乗りが1両40,000ウォン。
 こんな高い金を海辺の景色を見るためだけに使うような数寄者はそうそういないに違いない。
 こちらはチケットが手に入ったらすぐ乗れるはずである。時間は往復約60分。

 こちらも13:00には海雲台に帰って来られるから、14:00までの時間の調整は食事と水族館見学でどうにでもなる。

 「ねえ、海辺の列車に乗らない?楽しそうだよ。」
 「え、乗り場が遠いんじゃないの?」

 かかった! フック・オンである。
 妻もブルーラインパークには興味があって調べていたのだろう。

「タクシーで行けばすぐみたいだよ。行ってみようよ。」
「でも、多いんじゃないの?」
「大丈夫、列車が満員のときはスカイカプセルに乗ればいいから。」

 そういうと早速右手を水平に伸ばして流しのタクシーを停める。
 釜山のタクシーはどういう訳かソウル市街と違って流しの車がすぐに捉まるのだ。

IMGP8116

 10分くらいでブルーラインパークに到着。
 予定通りである。

IMGP8120

 案の定行列しているが、このくらいの人だったらチケット購入まで20分、そこから列車に乗ったら12:30くらいには帰って来られるだろう。
 タクシーはすぐに捉まるのが分かっているから、ちょうどいい時間である。

IMGP8117

 遠くに見える高層ビルを眺めながら四方山話に花を咲かせているうちにチケット購入の順番はすぐにやってきた。

 「列車のチケット往復で2枚!」と韓国語で云うと、日本語が帰ってきた。
 「次の列車は12:30だけど、大丈夫?」

 えっ、12:30?

 私は列車待ちの行列を大したことがないと思っていたが、これは11:30発の列車待ちの行列で既に満車。
 その後の12:00発も既に満車で、今売っているチケットは12:30発の列車のものなのだ。
 12:00発や12:30発の乗客は乗車時間が来るまでどこかに時間潰しに行っているのだろう。

 今チケットを買って12:30発に乗るとすると、帰ってくるのは13:20。
 そこから海雲台に帰るとすると結構厳しい時間である。
 だいいち昼飯を食べる時間もない。

 今冷静に考えれば列車の待ち時間に昼飯を食べればよかったのだが、そのときはすぐに列車に乗れないという事実に唖然としてそんなことは思いもつかない。

 「え、じゃあ、スカイカプセルは?」
 「スカイカプセルは一番早いのが14:30ですよ。」

 なんと、1台40,000ウォンの高い乗り物に乗りたがる人がそんなにいるのだ。

 だが、これもよく考えてみると、列車は1人16,000ウォンだから2人にすると32,000ウォン。
 満員電車で立たなければならない可能性がないことを考えれば、むしろこちらの方が割安感があるのだ。

 係員の話を聞いた妻が云った。
 「無理だよ。乗るのやめよう。」

 変に優しい声だった。

 妻は怒りが爆発寸前まで来ると、妙に優しい口調になる。
 温和な女性である妻はそんなとき「怒ったらいけない。楽しい旅行が台無しになる。」と思っているのだろう。
 噴火する前に鎮めなければ。

 こうして、「獺が立ち上がって餌をもらう光景を写真に収める」という、今回の旅行の最大の目的は潰えたのであった。(どっちみちこの目的を思いついたのは旅行の3.4日前なのだが。)

 ところで、その時はそんなことは思いつきもしなかったのだが、考えてみたら凄いと思われることがこのエピソードの中にはある。

 それはチケットを売る係員さんだ。

 この人は列車の時間を含めた相当込み入った話を流暢な日本語でしていた。
 私の記憶力だからほんの1週間くらいでペラペラに、車に轢かれて風に飛ばされる昔の漫画の主人公のように薄っぺらい言葉に変容しているが。
 おそらく客の人種や民族から考えて英語も同程度に話せるだろう。
 母国語である韓国語は当然である。

 外国語を勉強してみるとすぐに分かることだが、時間を示す外国語と云うのは習得するのに相当の努力を要するものの1つだ。
 あなたは12:47と英語や韓国語でスラッとすぐに云えますか?

 チケットを売る係員さんはおそらくエリート層ではない。(もしかすると財閥令嬢が駆け落ちの結果生活のためにそれをしているのかもしれないが。あるかーい。)
 どうみても普通のアジュンマだ。
 韓国ではエリート層ではない一般の人がビジネスに使う3か国語を操るのである。

 私は韓国に旅行する度にこうした人に出会う。
 そして彼らにどれだけ助けられたか分からない。

 私は今の日本人と韓国人の最も差のある点はこの語学力だと思う。

 ここで「弱国は必要のために外国語を覚えざるを得ないのだ」などと負け惜しみを云うことは簡単である。

 しかし、実は、現在の韓国人の驚くべき語学力は何度も外勢に踏みにじられたという歴史的な経緯から醸成されたものではない。

 1987年、臨調行革路線の日本とは違う道を歩み始めて10年後の1997年、韓国を未曽有の災難が襲う。
 国家が破産したのだ。日本ではアジア通貨危機、韓国ではIMF危機と呼ばれる。

 その危機のさなか、日本人にも馴染みのある金大中大統領が就任し、語学とITを発展させ、文化を以て立国することを宣言する。

 それに先立って小学校での英語必修化が開始される。

 もはやグローバル化なくして国の存立なし。

 財閥でさえ倒産し、街に失業者が溢れ、国際通貨基金の経済へのシビアな介入という苦難の中、全国民が2か国語以上を話すことを目標に未来への歩みが始まったのだ。

 高校では既に1970年代から日本語をはじめとした第二外国語教育が始まっていた。
 まだ日本に対する反感が強い時代だったが、戦争中の日本のように敵国と見做した外国語の排撃が行われていたわけでないのだ。

 金大統領が宣言したIT立国に対して日本人が冷ややかな上から目線を浴びせていたことについては既に書いた。
七転び八起き韓国ソウル旅行19-青瓦台を見ながら日本の失われた30年を考える-(河童亜細亜紀行292)

 これは早期語学教育についてもご同様で、国民性や民族性まで持ち出してこれを批判する人が沢山いたのを覚えている。

 韓国民が貯めていた貴金属を公に供出して国難を共に乗り越えようとしていた時である。
 これもまた「戦時中の日本みたいだな」と云って嘲笑う人がいたが。

 (要らんことばかりは覚えているから今の為体があるんだよな。エラいさんほど「あんたあのときこう云っとったやん。」と指摘すると顔真っ赤にして怒るからな。もっとも庶民は覚えてもおらんけど。)

 そんな日本で小学校の英語必修化が行われたのは2020年。

 もはや韓国や台湾の足音が背後まで迫ってからの決定だった。

 我が日の本は真面目に働いたり勉強したりしている外国ルーツの人に因縁をつけて虐めている場合ではないのだ。

 チケットを買い損なうというレベルの低い話から天下国家まで話が行ってしまうのがまさに「老いの繰り言」だな。

 孔子曰く。「小人の過つや、必ず文(かざ)る。」

釜山二転三転空転旅行6-嗚呼カワウソ君、もう少し待ってくれ-(河童亜細亜紀行308)

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悪魔のささやき

 私は今回の旅行でこれだけはやっておきたいという目的があった。

 これは私が旅行記を書いているうちに思いつくいつものご都合主義的な目的ではない。

 私の長年の悲願、などというのは真っ赤な嘘だが、少なくとも安いツアーを見つけて大急ぎで旅程を組み立てている時に思いついたものだから、4日前には思いついたものである。(そういうのをご都合主義というんじゃないのかい、ああ?)

 その目的とは、韓国の獺(カワウソ)君の餌遣りを見てみたいということである。 

 ご存知の通りこのブログには必ずと云っていいくらいに河童のイラストが登場し、私自身も河童であることを自認している(髪の毛だけだが)。

 この河童も実はご都合主義的に登場したことは古い読者ならば知っている。

 実は河童のキャラクターは、元々は絵の下手な私が人間の手指を描きたくないという理由で発達してきたものなのだ。

河童発達史(それでも生きてゆく私70)

河童の進化

 たまたま登場させた河童に偽科学の衣を被せて肥大させたのがこの河童のキャラクターなのである。

 私はご都合主義と忘却でその場をやり過ごすのが得意な典型的な日本男児なのだ。

 閑話休題(じしょうあいこくしゃがでんとつとえんじょうをねらってるぞ)。

 河童のモデルには諸説ある。

 最も有力なのは水死体説である。

 古い河童は本気で怖い、という話も既にした。
真・九州河童紀行1-学術調査開始!?-(河童日本紀行174)

古い河童

 これなどは水死体説を補強する強力な証拠である。
 私の描く河童が人間に近い髪の色をしているのは、私がこの説の信憑性を支持しているからである。

 実際、有名な日本酒黄桃(仮名。小島功画伯作画:実名)のCMのキャラクターや故水木しげる先生(実名)の「河童の三平」などに登場する河童の髪の色は茶色である。

 小島先生や水木先生は日常と死が現在より近い時代の方々だから、河童の髪と云えば自然に人間の髪の毛の色を描いたに違いない。知らんけど。

 「河童が人を川の中に引きずり込んで尻子玉を抜く」などという伝説もこの説を強化するものである。

 水死体として発見される人は運動神経の死によって全身にある括約筋が弛緩する。

 括約筋というのは普段は収縮していて必要な時だけ弛緩する筋肉である。
 つまり普通の筋肉のように普段は弛緩していて必要なときは収縮するのとは逆の働きをするわけだ。

 括約筋の中には肛門の括約筋も含まれるから、死体の括約筋は弛緩し、あたかもそこにあった「尻子玉」が抜けたように見えるのだ。

 これは偽科学ではなく医学的な根拠のある説である。

 たが、河童水死体由来説は、令和、またはこれから先に河童のキャラクターを使いたい人にとっては面黒い説であろう。
 可愛らしいキャラクターのモデルは水死体、ではあまりにも気色が悪い。

 時代は多くの人が家で死んで死が身近にあった昭和中期までの日本ではないのだ。
 
 多くの人々がこの説から離れたい、あるいは葬り去りたいと思っていることは、最近登場した河童のキャラクターの髪の毛の多くが緑色であることに表れている。

 最近と云っても少々古いが、福岡県久留米市のキャラクターであるグルッパ(仮名)なども、髪の色は緑である。

 水死体よさらば。

 河童には水死体よりずっと可愛らしいモデルがある。

 獺である。

 最近AI君に頼りすぎなので、獺→河童説の由来をAI君を使わずに調べてみたところ、長野県立歴史館のHPで「河童」の名称の由来を見つけた。

[引用]
 「河童」という文字の初出は、室町時代の国語辞典『下学集』と言われています。「獺(カワウソ)」の説明として「獺老いて河童という者になる」とあります。カワウソが老いると河童になると考えられていたようです。長野県内では、河童のことを「カワウソ」と呼んでいた地域もあり、カワウソが河童のモデルの一つなのかも知れません。

 ということで、「河童」という名称が使用されると同時にそれが獺の「経上がった(『徒然草』の猫又に関する表現で、正常な寿命より長く生きて変化したという意味)」ものであるという説が生まれたことが紹介されている。

 河童の由来が水死体、というより、獺である方がずっと可愛らしい。というか、比較にならない。

 これは獺が「立つ動物」であることが関連しているらしい。

 「立つ動物」についても既に書いた。
阿蘇ファームランドで動物たちに会う2-立つ動物たち-(Sea豚動物記68)
 
 暁や薄暮や黄昏時に、獺が何らかの動機で立っているのを見た人間がこれを河童だと誤認したのが河童伝説の始まりという説があるのだ。

 もっともこの説にも「獺が人間を川に引きずり込む」などという無気味な話も絡みついてはいるのだが。

 河童を自認する私としては、一度は立っている獺にお目にかかりたい。

 だが、残念なことにこれを日本で見ることはできない。

 ニホンカワウソは1979年(昭和54年)を最後に目撃例がなく、2012年(平成24年)に絶滅種に指定されてしまった。
 最後の目撃例も四国でのもので、私の棲む九州では既に1950年代に絶滅していたと推測されている。

 ところが、わざわざカワウソを見ようと捜索隊を結成しなくとも目撃できる国がある。
 隣国の韓国である。

 それについても一度書いたことがあるので引用したい。

河童簡単韓国料理24-アルミ鍋に関する日韓歴史問題-(いやしんぼ113)

  全国津々浦々の河川をコンクリートで固め、農薬で汚染させてしまった日本では、カワウソは1965年に特別天然記念物になったのも虚しく絶滅した。絶滅宣言は2012年だが、最後の目撃例が1979年だからそれ以前に事実上絶滅したことが推測される。

 一方の韓国では既に日本の高度成長の負の部分が露わになり始めた時期に成長が始まった。世界の風潮は既に自然保護へと向きを変えつつあった。農薬の有毒性や河川改修の悪影響などは世界の常識になっていった。
 勿論韓国のカワウソにも開発の波は襲い掛かったのだが、日本のように全国の隅々までいきわたるものではなかったため、カワウソたちは最も危険な時期を生き延びたのである。そしてソウルの清渓川に象徴されるような自然復帰の時代を迎え、特別探しに行かなくても目撃できるほど個体数がいるようだ。なにせ4頭のカワウソが対馬に泳ぎ着いたというエピソードがあるくらいである。相当数の個体がいなければこんなことは起こらないだろう。
(引用終わり)

 釜山の水族館にはカワウソ(韓国名スダル)が飼育されているらしいのだ。

 ただし、ニホンカワウソとはちょっと種類が違うコツメカワウソというものらしい。
 これはニホンカワウソより少し身体が小さいから、これが川辺に立っていたとしても日本人は「河童だ!」とは思わなかったかもしれない。

 それにしても、私は獺そのものを見たことがないから、是非見たいと以前から思っていた。

 実は釜山の水族館であるアクアリアス海雲台(仮名)にはかれこれ10年前に入ろうとしたのだが、予算の関係で断念したことがあるのだ。
船で行くプサン長閑旅9-海雲台で水族館鑑賞を断念す-(河童亜細亜紀行54)

 アクアリアスに獺が登場したのは2022年のことだから、この件に関して私に後悔はない。

 今回韓国の旅行案内サイトであるオネスト(仮名)で釜山観光について調べていて、獺がいること、しかも餌遣りのときに獺が立ち上がって餌を貰うと知って「これはどうしても行かなければ」と思ったのだ。

 立ち上がる獺→河童伝説の始まりだからだ。

 また嫌な話を思い出したくないので結果から先に云うと、私は獺の餌遣りを見られなかった。ということは立ち上がる獺も見ることができなかった。
 
 例の忌々しい航空券問題のせいである。

 南浦洞から海雲台に行くためには地下鉄1号線を西面駅で2号線に乗り換える必要があるのだが、その途中で航空会社とチャットをしているうちにオペレーターと直接チャットできるという連絡が来て、西面駅でそれをしているうちに獺の餌遣りの時間である10:30を過ぎてしまったのだ。

 次の餌遣りは14:00。

 妻は別のイベントに心を奪われていて(それについてはまた後述)、獺には何の興味もない。

IMGP8086

 海雲台駅に着いた時刻は10:40くらい。
 今から獺だけのために14:00まで待つ、などということに妻の忍耐心が保たれるとは思えなかった。

 旅程に関する私のミスが発覚して以来、「女房岳」は無気味な鳴動を続けているのだ。

 3時間以上待っているうちに女房岳大噴火が起こるに違いない。

IMGP8089

 海雲台の歩行者天国を歩きながら悪知恵を働かせているうちに、私はナイスアイディアを思いついた。

 このアイディアが何であったかと、その結果については次回。


釜山二転三転空転旅行5-日本の前途の前に自分の前途を心配しろ-(河童亜細亜紀行308)

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崩壊寸前

 今回の旅行、私はよほど旅行記を書かないでおこうかと思った。

 というのはこの旅行を思い返すと、どうしてもこの出来事を思い出してしまうからだ。

 金海軽鉄道で沙上(ササン)へ、地下鉄2号線に乗り換えて西面(ソミョン)へ、さらに1号線で海苔買えて、じゃなかった、乗り換えて南浦駅で降り、何時ものように7番出口で地上に上がろうとしたとき、そこが塞がれていることに気付いた。
 工事中である。

 どうも何時ものように行かないな、と思いつつ5番出口から階段でえっちら上がったとき、既に旧陸軍の二式単戦なみに航続距離の短い私達夫婦の足は悲鳴を上げていた。

 弁韓観光ホテル(仮名)までの上り坂をやっと上る。

 なんだか我が家に着いたような安堵感と共にフロントに向かい、日本語で云う。

 「Sです。予約していた。」
 「ああ、Sさんですね。12月〇〇日から1月〇日まで2泊の。」

 は? 

 弁韓観光ホテルにしては珍しいミスである。
 私の予約は12月〇〇日から1月〇日までの3泊である。

 その旨をもう一度伝えると、「予約の確認書を見せてください」と云う。

 そうそう。

 これを見せたらフロントのヒョン(お兄さん)も自分の間違いに気づくだろう。

 私はリュックから確認書を取り出し、ヒョンの前に提示した。

 衝撃だった。

 ヒョンの口から出たのは「ほら、やっぱり12月〇〇日から1月〇日までの2泊で予約されていますね。」

 嘘だろう。

 私はヒョンから確認書をひったくると、 ホテルの予約を凝視した。
 そこには「12月〇〇日から1月〇日」と印字されていた。
 間違いない。私がこの手で2泊を予約していたのだ。

 まさか、と思って帰りの航空券の予約を見てみると、1月〇日で予約されている。

 私は2泊3日のツアーを、3泊4日だと思い込んで予約していたのだ。

 妻を振り返ると、顔を引き攣られせている。

 それはそうだ。

 2泊3日のつもりで予約されていたのだったら、どのみち年末年始の長期休暇の期間中だから、それが3泊4日になっても笑い話で済んだかもしれない。
 ところが、3泊4日いつもより1日長く韓国を楽しむつもりでいたところにいきなり滞在が1日少なくなるのだ。

 まずはホテルの宿泊が延ばせないかとヒョンに聞いてみると、3泊めの1月〇日は「同じタイプの部屋は空いていませんね」ということだった。

 ふむふむ。

 私はツインの部屋を予約していた。

 これは妻の希望で、ダブルベッドだと私は寝ている間に妻をベッドから追い落としてしまいそうになるそうだ。
 夫婦の旅行を重ねるにつれて、妻は「ダブルは嫌。ツインで部屋を取って。」と強く要求するようになったのだ。

 ヒョンの言葉を分析すれば、ツイン以外のタイプの部屋は空きがあるということだ。

 これがシングルであればアウトである。だが、ダブルであれば、最後の1泊だけは妻に少々(相当)我慢してもらうしかない。

 取り敢えず2泊を確保した後は、翌日の航空券の確保である。

 これは相当厳しい状況だが、釜山の場合は最悪の場合は船、という手がある。

 元々私達夫婦は釜山に旅行するときは殆ど船を使う。

 飛行機だと私達が一番安心できる弁韓観光ホテルの交通の便が少々悪くなるからだ。
 釜山港に着いてから徒歩で釜山駅まで行き、地下鉄一号線で南浦駅、というのが、一番安心できる定番のコースなのだ。

 ところが、博多-釜山を結ぶ最近の船に関する環境の変化(これにはCOVID-19による往来の制限が影響していると推測している)により、私達には定番だったこのルートがどうも面黒い(正岡子規の表現)状況である。

 貧乏人の私達は特等船室など考えたことがないが、COVID以前は笑ってトンヘ号の一等船室はコスパ抜群の選択肢だった。
 飛行機より確実に安く、私達のほかに人がいなくてゆったりできる。

 ところが、私達が会員である船会社からLINEが来て、私達がこれを予約しようとしても、目敏い人たちに先を越されてあっという間に満席になってしまうのである。
 キャンセルを期待して待っていても全く空かない。

 かといって妻は「どぜう様」だから二等船室では寝られない。(平民である私は甲板でも寝られる自信があるのだが。)

 だから私一人であれば、この窮迫した状況を察知した瞬間にそうしたであろう。
 あるいは荷物に潜り込むための貨物船を探しに釜山港に走ったか(冗談です)。

 幸い、航空券はあった。
 ただ、これを買うためには相当の金が必要である。
 元々これが高いから旅行を躊躇していたのだ。

 だが、背に腹は代えられない。
 私は、普段だったら絶対に選択しないような金額が提示されているチケットを二枚ポチった。

 すぐに予約確認のメールが来た。

 これで一安心。

  すぐにフロントに行き、ダブルの部屋がないか尋ねると、ある、との返事。
 すぐに宿泊の予定を入れる。
 これで宿舎も確保できた。

IMGP8004

 南浦のメインストリートである光復路(クァンポンノ)にあるとある焼肉屋でサムギョプサルに舌鼓を打っているとき。(例によって相当食べてから写真を撮るのに気付いた。)

 旅行会社からメールが来た。
 既に旅券確保の確認のメールは来ているから支払いについてのメールかと思ったら、ギョッとする内容である。

 今から30分以内に支払いをしないと旅券がキャンセルされるというのだ。
 支払いはしているはずである。
 さっきクレジットカードのCVCまで入力して手続したのだ。

 「支払う」のボタンを押すと、さっき見た確認画面になる。

 猛烈に不安である。
 もう焼肉を楽しむどころではない。

 まず航空会社に直接確かめようとしてカスタマーサポートに電話しようとするのだが、掛からない。スマホには「無効な番号です」と表示される。

 次に、旅行会社のカスタマーサポートに電話しようとするのだが、そもそも電話がない。

 チャットはあったのですぐに問い合わせを始めるのだが、「よくある問い合わせ」に誘導される。そして私の経験していることは「よくある」ことではないらしく、選択肢にない。
 選択肢の一番下に「その他」というのがあるのを見つけて、
「明日のチケットを予約番号〇〇〇〇で予約して支払いもしたのだが、30分以内に支払いをしないとキャンセルになるというメールが来た。どうなっているのか。」と書き込むと、
「オペレーターにおつなぎしますので〇〇〇〇〇に電話してください。」というメッセージが来た。

 航空会社の方のサイトで確認してみると、予約番号を入れても私のチケットしか確認できず、同乗者のはずの妻のチケットは確認できない。
 このままでは妻が韓国に置き去りである。

 震える手で番号に電話すると、日本語ネイティブではない人が出た。

 知りたいことは唯一つ。
 「予約はちゃんとできていて、航空券はちゃんと発券されているのか。こんなメールが来たので支払いをしようとすると予約確認の画面に飛ぶのだが、支払いしなくて大丈夫なのか。」

 「大丈夫だと思いますよ。」

 いや、思います、ではなくて、本当に確実に大丈夫なのか。大丈夫でなかったらこっちは外国で帰りのチケットがなくなるのだ。

 ここまで切羽詰まったことは云わなかったが、私は最初の質問をもう一度繰り返した。

 オペレーターは「確認してみます」と云って暫く無言になったが、再度、今度は「大丈夫です。」と云った。

 チケットを巡る話はしつこくしたくない。
 どうもトラウマになっているらしい。

 したがってその後この話がどうなったかを報告して、この項は終わりたい。

 翌日今度は航空会社の方に問い合わせをしたのだが、年末年始だったからか、とうとう電話は繋がらなかった。

 チャットに連絡すると最初はAIが出て、例によって「よくある質問」に誘導され、自分のチケットしか確認できないということを書き込むと、やはり「オペレーターが対応します」というメールが来た。

 これは丁度目的地に向かう電車の中で行われたのだが、私は旅行会社のようにオペレーターが電話を掛けてくるのだとばかり思ったので乗り換え地まで反応しなかった。

 ところが、そうするとメールに「お客様は2分以上反応しなかったのでチャットを打ち切ります」というメールが来ていた。あくまでもすべてをチャットで終始させるシステムらしい。

 結局何回もそうしたことが繰り返され、結局「もう一人の方も同じ予約番号で氏名を変えて入力したら確認できます。」という返事が来たのでそうするとやっと妻の航空券も予約されていることが分かったのだった。

 このオペレーターは私達二人の航空券を自分で調べてそれを確認したはずなのだが、決して「確認できました」とは云わず、「こうしたら確認できますからどうぞ」という姿勢に終始したのだ。

 旅行会社のオペレーターも最初はそうだったのだが、客の質問に対して「それは私が請け合います」という答えをすることを禁じられていることが推測できた。

 なんだかAIが人間化し、人間がAI化している、現代そのままの話だな、と思った。

釜山二転三転空転旅行4-韓国金海軽鉄道に日本の前途を想う-(河童亜細亜紀行307)

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無人運転

 何となく釈然としないまま飛行機は昇降口に着き、私達夫婦は隣国韓国に降り立った。

 金海国際空港から私達の宿泊する弁韓観光ホテル(仮名)までは4つの移動方法がある。

 リゾート地として有名な海雲台まではリムジンバスが出ていてこれは楽だが、釜山駅方面は利用者が少なかったのか2024年7月に運行が終了してしまい、現在は運行していない。

 もっとも私は韓国のバスにはどうも苦手意識があって使いづらいので、おそらく運行していてもこの方法は採らなかっただろう。

88以前の韓国旅行記を記憶遺産に7-バスは出ていくお客は残る-(河童亜細亜紀行7)

 
神風バスで老婆転がる

 これは初渡韓のときの停留所に留まらずぶっ飛ばすバスの運転のイメージが40年経ってもいまだに脳裏に残っているからだ。

しばし別れの韓国旅行9-オルシンは辛いよ2-(河童亜細亜紀行95)

椅子に座るオルシン
 
 それから30年後に娘たちと路線バスに乗った時の印象も決して良いものではなかった。

 もっとも、リムジンバスにも乗ったことがあり、荒い運転が特別に印象に残ってはいないし、娘などは長距離の移動の際には主にこれを使うから、実はリムジンバスの運転が荒いということはないのかもしれない。

 それでも最初に植え付けられた印象というものはなかなか消せないものである。

 次の方法は一番安全かつ便利なものである。
 それは貸し切りの小型バスを使うことだ。
 これは大体30分くらいでホテルの玄関まで送り届けてくれる。
 しかしこれはもう少し多人数の旅行ならば経済的なのだが、2人で使うには少々料金が嵩む。
 これも今回はパス。

 もう一つの方法はタクシーである。
 最近の韓国のホテルはタクシーを呼んでくれない所があり、自分でアプリを入れて呼ぶ必要がある場合が多いが、空港には釜山駅方面や海雲台方面に向かうつもりで待機しているタクシーが多数屯しているし、今回の宿泊先は「日本人御用達」の名高い弁韓観光ホテルであるから、親切なフロントがタクシーを呼んでくれてすぐにタクシーが来るのは確実である。
 そして日本のタクシーよりずっと運賃が安い。韓国のタクシーの運賃は日本のバスの運賃位と考えてもらうと丁度いいような気がする。
 時間は貸し切りバスと同じ30分くらいである。
 ただ、これもバスと同じで、たまに運転の荒いのがある。

韓国仁川ミステリー?ツアー3-無国籍化の代償-(河童亜細亜紀行62)

実はもっと深刻

 仁川大橋を150kmでぶっ飛ばす神風タクシーには夫婦とも死を覚悟したことがあった。

韓国仁川ミステリー?ツアー5-月尾島まで-(河童亜細亜紀行64)

 同じ旅行で手に地図を持ったまま運転する技師さんにも胆を冷やした。

 こういった経験から、長距離を行くタクシーは運転が荒いという印象が刻み込まれている。

 最後の手段は、金海軽鉄道と地下鉄を乗り継ぐことである。
 これは2回の乗り換えが必要で40分くらいかかる。

 この方法が一番安く、吝嗇な私に合った方法である。
 6年前に釜山に飛行機で行ったときは行きはやはりこの方法を使った。
 帰りは最終泊のホテルが空港にごく近いホテルで、空港まで送迎があったのだ。

 ところが、この移動方法を妻に提案すると思わぬ抵抗に遭った。
 6年前にホテルまで移動したときしんどかったというのである。妻は大和撫子であるからそういうとき露骨にブーブー云ったりはしないが、しっかりと覚えていて次に同じようなことがあったときにその時のことを持ち出すのである。
 しかも、留守番役の娘までが「タクシーにしなよ」と妻の加勢をするのだ。

 協議の結果、行きは鉄道、帰りはタクシーということになったのである。

 まず、金海軽鉄道に乗る。これは空港から沙上(ササン)というところまで行っている。


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 なぜ私がこの鉄道に乗ることに拘ったかと云えば、この鉄道は運転手なしで運行されているからなのだ。
 韓国の公共交通機関の料金は日本からすれば嘘のように安い。
 これが韓国の国際競争力の一要因になっているという話は既にした。
七転び八起き韓国ソウル旅行19-青瓦台を見ながら日本の失われた30年を考える-(河童亜細亜紀行292)

 だが、この料金は運転技師たちの歩合制という労働条件に支えられているという側面もある。

 そうした矛盾に対する一つの答えが運転の無人化である。

 この鉄道は2011年に開通したから、もう14年間運行している。
 その間重大事故を起こしたこともない。システムエラーや気象によって停止することがときどきあったようだが、これは日本の有人鉄道でもたまに起こることだし、復旧はどのみち運転手の仕事ではないから、運転手がいないことによる不都合とは云えない。

 もはや韓国では誰も珍しがらず、普通に乗り降りしている。見世物ではなく、完全にインフラの一部になっているといっていいだろう。

 よく考えてみたら仁川国際空港のターミナル間の移動に使う地下鉄も無人である。

 無人運転はもはや韓国では当たり前のインフラなのだ。

 実は日本の無人運転列車は私が大学2回生の1981年、金海軽鉄道が開通する実に30年前に実用化された。
 当時神戸で開催された博覧会会場に向かうポートライナーである。

 これは世界に先駆けた技術と云ってよい。
 この当時の韓国はまだ地下鉄が1号線しかなく、セマウル号(最速列車)をディーゼル車が引っ張っていたのだ。

 にも関わらず、2025年現在、日本でこの技術を応用して走る鉄道は「ゆりかもめ」しかない。これは観光用としての要素が強い。要するに「無人でも走れますよ」というのを見世物にする列車なのだ。

 海峡を隔てた2つの無人鉄道は、1987年を境にした日韓両国の違う歩みを象徴しているように見えてならない。
 1987年、それは日本では酷鉄(仮名)の民営化に象徴される臨調行革路線が強力に推進され始めた年であり、韓国では6月抗争と呼ばれた運動によって軍人政権から民主化された国づくりが始まった年である。

 酷鉄民営化は20万人もの働く人々が「無駄」として切り捨てられた事件である。その中には多数の運転技師たちも含まれていた。
 その日本でいまだに無人運転が広くインフラとしては普及せず、常態的な運転士不足の中で有人運転が続いているのは無残としか云いようがない。

 韓国の国鉄(現在は鉄道公社)の現状については敢えて触れない。
 私は隣国にかこつけて祖国を攻撃したり、労働運動の宣伝をしたい訳ではないからだ。

  だが、あの逆らう者を容赦なく排除して行われた改革騒ぎは、日本人全体のためになったわけでも、社会を進歩させた訳でもなかったことは云っておきたい。肥大したものは利己心だけだ。

 私は最初に金海軽鉄道に乗った時、米軍機を撃墜してそこに八木アンテナが搭載されているのを見た日本の技術者の悔しさが分かったような気がした。

 世界に誇れるような技術が日本では活用されることなく海外に流出していく。
 それは合理的な理由ではなく多くは一時的な利益、もっと有り体に云えば私利私欲のためである。
 それはよく語られる「国益」などとは程遠い理由である。

 翻って中国ではタクシーすらどんどん無人になっているという。
 このタクシーが事故を起こしたことを「それ見たことか」と報道しているネットニュースがあったが、問題の本質が分かっているのだろうか。

 軍事技術は敵を殺すためのものであり、一定の頻度で起こる味方が死ぬ事故は想定内の出来事である。
 事故で死んだ兵士は「名誉の戦死」とされ、死の真相が国民の間に大々的に報道されることはない。

 つまり、少々事故が起こっても民用に使えるということは、軍用としてはとっくに高度に実用化されているということだ。
 それが中国のサイバー技術も含めた無人兵器の実力である。

 「張り子の虎の遅れた国に少々喧嘩を売っても大丈夫だ」と思っている人がいたら、それは大きな間違いだと云いたい。

 そして、現在の中国のロボット技術もまた元はと云えば日本のものだということも云っておきたい。
 これもまた世界に先駆けて開発され、十分活用されることなく流出した技術である。
 流出した理由もまた無人運転とご同様である。
 
 もう何度も云っていることだが、人よりもいい給料を貰える、ということは、それだけその職業がしんどいものだということだ。 
 なぜなら、そうした仕事には大きな責任が伴うし、全体のことを考えねばならず、その結果も本来ならば厳しく評価されなければならないからだ。

 韓国の権力者の末路を振り返ってほしい。

 その自覚のない人々、つまり人の上に立つだけの能力のない人達や、「公」の心を持たない人達が中枢に登ったとき、最初は目立たなくても、その集団は徐々に崩壊していく。そしてそれに焦って冒険主義が蔓延り、最後は自滅する。

 自滅の結果は冒険主義者が負い、元凶はもう墓の中だろうが。

 臨調行革路線に続いてレミングの集団入水ではないかというような暴走が始まったのは2013年である。

 これまた私は特定の集団を攻撃したい訳ではないから、この年に具体的に何が起こったかは云わない。
 だいいち、この年に始まったことが日本をどんな方向に導いたか、誰の眼にも言い訳できないほどはっきりする頃には私はもう居ない。

 また「総懺悔」するんだろうなと思う。
 今度は許してもらえないだろうが。

 気になる人がいたら2013年に何が起こったか自分で調べて欲しい。

 などと偉そうに国を憂えていた私に、ほんの数十分後には「いらん心配より自分の心配をしろよ」というような出来事が起こるのであるが、高い所に登ったときの〇カのように妄想の湧いている私にはそんなことは知る由もないのであった。

 その出来事については次回。

釜山二転三転空転旅行3-休戦の国の旅客機-(河童亜細亜紀行306)

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私の悲願

 今回利用した航空会社は初めてのところであった。

 というか、私が釜山に飛行機で行くのは2回目であるから、確率的に初めての会社である可能性が高いわけだ。

 ただ、私にはどうも不思議なことが3つあった。

 一つは、予定されたフライト時間が異常に長いことである。

 熊本と釜山は300km程度しか離れていない。
 ジェット機の巡航速度は600km超だから、単純計算すれば30分程度でついてしまう訳だ。
 ところが、予定されたフライト時間は1時間30分くらいある。

 これは今でも謎なのだが、私には一つの推測がある。
 まるっきり的外れなのかもしれないが、一応後で紹介したい。

 ただ、この旅行のその後の経緯を考えると、私はここでフライト時間などに気を取られず、帰りの飛行機のフライト日に眼を向けるべきだったのだ。
 それについては次回以降に明らかになるだろう。

 もう一つの不思議は、機内販売の時間が異常に短かったことだ。
 離陸して15分くらいで「着陸準備に入りますので機内販売を終了します」と放送があって終わってしまった。

 そして、これは最大の不思議、というより違和感を感じた出来事だった。

 フライトアテンダントが回ってきて、各乗客に指示を始めた。

 私の所にも来て何か云ったが、よく聞き取れなかった。どうも私の韓国語が上達しないのは不勉強や素質のなさ以外に最近加齢性の難聴が入ってきたという要因もありそうだ。
 私は外が眩しくて窓を半開きにしていたので、全開にした。すると彼女が笑いながら手振りで指示をしたのでやっと分かった。窓を閉めろと云っているのだ。

IMGP7982

 周りを見渡すと飛行機の全ての窓が閉められている。
 普段は開けられたり閉められたり、どちらかと云えば開いている窓の方が多いので結構違和感のある光景である。

 外が見えないまま飛行機は高度を落としてゆく、というか、落としているのだろうと中耳圧と内耳の機能で推測するしかない。

 シートベルトを確認しろと云う指示が出たのでいよいよ着陸が近いかな、と思ったとき、予想より少ない衝撃で着地した気配がした。熟達の技である。

 ただ、いつもの着陸時のワクワク感は全くない。
 むしろ、この後はどうすればいいのだろうという不安感が湧いてくる。

 機は昇降場所に向かっているのだろうが、外が全く見えないので、「何処に連れていかれるのだろう」という不安感に包まれている。乗客たちも同じ気持ちなのか、機内は静まり返っている。

 何だか目隠しをされた輸送車で前線に運ばれている兵士のようである。

 独ソ戦のスターリングラードの戦いでソ連軍が全く訓練されていない兵士をいきなり前線に運び、逃げようとした兵士は後ろから機関銃で撃った、などというエピソードが思い出される。

 なんだか胸騒ぎが止まらなくなったとき、突如過去の記憶が蘇った。

 私が飛行機で釜山に行った最初の旅行のことである。
 もう6年ほど前のことだ。
飛行機で行く釜山・金海の旅2-日韓線乗客様変わり-(河童亜細亜紀行163)

騒がしい離陸

 この時は窓を閉めろといった指示はなかったが、写真撮影禁止と云う指示はあった。

 金海空港は韓国軍と民間会社が共用している空港なのだ。

 韓国の発展ぶりと人々の平和な表情からつい忘れてしまいがちだが、この国は分断国家であり、75年前に始まった6.25戦争はいまだに休戦であって、終戦していないのである。

 私が最初に渡韓した青春時代、北の工作員が韓国の航空機を爆破するという事件があった。
 それ以前には大統領府が決死隊から襲撃されそうになったり、大統領を狙った爆弾で多くの閣僚が犠牲になったこともあった。

 こうした攻撃に対する予防策として、空港近辺の景色や空港の風景が撮影できないようにしてあるわけだ。
 以前は放送でその旨伝えていたのだが、無視して撮影した者がいたため、窓を閉めて物理的に撮影不可能にすることにしたのだろう。

 考えてみると離着陸時間に幅が取ってあって曖昧なのもこうした攻撃の予防策なのかもしれない。

 私が生きているうちにこうした物々しい警備が必要なくなる日が来ることを祈る。

 そして私の悲願は、東亜に本当に平和な日々が訪れて、熊本から列車を乗り継いで、母の育った丹東(安東)まで行くことなのだ。

 

釜山二転三転空転旅行2-グレイテスト・イレブン・ミニッツ-(河童亜細亜紀行305)

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離着陸の恐怖とワクワク

 私は飛行機が好きだ。

 青空を飛んでいる雄姿を眺めたり写真に撮ったりするのは勿論、博物館や写真集に並んでいる歴史的な飛行機を見て蘊蓄を垂れたり、映画やアニメに登場する飛行機について人と議論したりするのも好きである。

 私の飛行機愛については一度書いた。
「風立ちぬ」を見に行った(どうしても言いたかったこと31)

 ところが、飛行機に乗るのだけは、どうもあまり好きになれない。

 というか、有り体に云えば落ちるような気がしてならない。

 本当は自動車事故の方がずっと多いのだが、飛行機事故はその悲惨な様子が人々の興味を惹くために具に報道されるから、しょっちゅう起こっているような気になるのだ。

 AI君に調べてもらったところ、国際航空運送協会 (IATA) 2024年統計: 商用航空機の死亡リスクは580万便に1件。
マサチューセッツ工科大学 (MIT) の試算: 1,370万分の1(2018〜2022年)。
米国国家安全保障会議のデータ: 飛行機での死亡確率は約20万5,552分の1(約0.00048%)。 

 ということで、実は飛行機はあらゆる乗り物の中で最も安全なものの1つなのだが、何せ墜落や炎上の光景が脳裏に焼き付いているものだからやはり怖い。

 これは心理学的には利用可能性ヒューリスティックスと云うらしい。
 これについても一度書いた。
 円広志-飛んで飛んで飛んで回って回って回って忘れる-(本当は怖い昭和歌謡)

 利用可能性ヒューリスティックスとは、想起しやすい事項や記憶情報を優先して判断するヒューリスティックスをいう。
 航空機事故は自動車事故より起きる確率が高く見積もられやすいのはこの利用可能性ヒューリスティックスによる。航空機事故の方が自動車事故よりも報道などによって強烈な印象を残すからである。

 ちなみにヒューリスティックスとは発見的手法(発見法)ともいい、正しい答えを保証しないが、経験から「これならうまくいく」という勘や近道を使う問題解決方法のことで、私達は日常ほとんどの場合この手法を用いて問題を解決している。

 たとえば私達は恋愛の相手を選ぶ時ほとんどの場合ヒューリスティックスを用いるだろう。

 直感的に「この人だ!」と思う人を選んでいる。

 この場合に使用されるのは固着性ヒューリスティックスで、利用可能性ヒューリスティックスとは別の種類のヒューリスティックスであるが。
 固着性ヒューリスティックス(係留効果=アンカリング)というものである。人は最初に出会った情報に強く印象づけられ、その後の判断や意思決定に影響を与えることである。
 これについても既に書いた。
『列子』を読む-朝三暮四-(新米国語教師の昔取った杵柄115)

 ヒューリスティックスとは対照的な問題解決方法がアルゴリズムで、こちらは特定の問題を解決するための明確な手順や計算方法のことで、コンピューターのプログラミングなどによく用いられる。

 ここまで書いて、ある事実に気付いて唖然としている。
 
「私達は恋愛の相手を選ぶ時ほとんどの場合ヒューリスティックスを用いるだろう。」と書いたが、最近は非常に多くの人々がマッチングアプリで交際相手を選ぶという。マッチングアプリはアルゴリズムそのままである。

 私は気軽に「私達」と書いたが、最近の若者は「私達」には入っていないのだ。

 これは外国人に対する態度などよりもよほど大きな世代間の断絶かも知れない。

 ここで私が「交際相手」と書いたのは、私の基準ではマッチングアプリが選んだ相手は「恋人」ではないからだ。むしろ見合い相手に近い。

 閑話休題(いつになったらひこうきがとびたってかんこくにいくんだ)。
 飛行機事故の多くは離陸直後か着陸時に起きるという。

 統計的には離陸時の3分間着陸時の8分間に集中して発生することが知られており、この合計11分間は、航空業界で「クリティカル・イレブン・ミニッツ(魔の11分間)」と呼ばれ、全事故の約7割から8割がこの時間帯に発生しているのだとか。

 だから私は離陸時と着陸時は胸がドキドキする。

 だが、だんだん飛行機に乗り慣れてくると、この「ドキドキ」の質が変わってきた。

 私が飛行機に乗るのは、旅行か、旅行を兼ねた学会のときである。

 行く先は日本の北海道などの遠くの都道府県や、韓国である。中国には一度だけ行った。

 これらの場所は私にとって「楽しいことが起こるに違いない」と思える場所である。

 だから最初の離陸は「いよいよ楽しい旅行が始まるゾ…」という瞬間である。
 そしてそのフライトの着陸は「遂に〇〇県に着いた」「遂に〇〇国に着いた」という瞬間である。
 帰りの離陸は「さようなら〇〇県、楽しい旅行だった」「さようなら〇〇国、楽しい旅行だった」という瞬間である。
 そして最後の着陸は「ああ、懐かしい熊本に帰ってきた」「ああ、懐かしい日本に帰ってきた」という瞬間である。

 つまり、2度の離陸、2度の着陸とも、楽しくて胸がドキドキする瞬間なのである。

 「クリティカル・イレブン・ミニッツ」どころか、「グレイテスト・イレブン・ミニッツ(最高の11分)」なのだ。

 ところが今回、私は最初の着陸と二度目の離陸でこの瞬間を味わうことができなかった。

 これは仕方のないことではあるが、実に残念だった。
 詳しい話は次回。

 それでは最初のドキドキ、熊本空港離陸の瞬間である。



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