ニヤッとする話

ニヤッ、とする程度の笑いネタを思い出しながら書きます。

カメラ河童のジャンク道遥か53-米国製レンズに一喜一憂-(それでも生きてゆく私239)

あのときもこうだった

 韓国語に「ソマン(素望)」という言葉がある。「常日頃からずっと持っている望み」という意味だ。日本語としてもあるのだが、ほとんど使われない言葉である。日本語では「素志」が近い言葉だと思うのだが、これもほとんど使われない。よく使われる言葉は「初志」であるが、「素望」とはちょっと意味が違うような気がする。

 私が古い8mmカメラを分解(破壊)してレンズを取りだし、改造レンズを製造し始めた「素望」は、カメラからDマウントレンズを取りだして愛機「オバQ」に付けて撮影することだった。

IMGP6651

 Dマウントレンズとは、古い8mmカメラ用の取り外し可能な小さなレンズのことである。 ちなみにマウントはレンズとカメラの接合部のことで、時代により、またメーカーによりマウントの規格が違う。Dマウントは現代のデジタル一眼カメラに装着して撮影可能な最も小さい規格であり、その次に大きなマウントはCマウントという。

 DマウントレンズやCマウントレンズは「ハートオープン(仮名)」のような普通のリサイクルショップで売られていることは稀である。これらのレンズを手に入れるためには、都内の専門店に行くか、ネットに接続して「家畜人オークション(仮名)」のようなオークション、「カリガリ博士(仮名)」のようなフリーマーケットで買うしかない。 
 私はときどきオークションに入札するが、その目的は「素見(ひやかし)」であり、むしろ落札してしまったら困る、というスタンスである。これがどんな方法で行われるかについては、既に2度ほど書いたことがあるカメラ河童のジャンク道遥か35-寒い国から来た怪物-(それでも生きてゆく私229)

 私がとある8mmカメラに入札したのも、まさに素見がその動機であった。
 そのカメラはレンズが2つ付いている、米国製のものだった。メーカーは「ベル&グラハム(仮名)」。日本で国産の8mmカメラが製造されるまで、金持ちたちはほとんどがこのカメラで撮影していたという有名どころである。レンズ付きであるから、相場としては安いフレンチの1コースくらいの値段である。
 私が入札したのは昔のニュース映画にもよく出てくるラクダの背中のようなスタイルの有名なタイプではなかったが、ネットなどで結構見かけるレンズが付属したもう一つ新しいタイプのもののようだった。

 私はこれに牛丼一杯分くらいの値段で入札した。まったく期待していなかった。「ベル&グラハム」がそんな値段で落札できるわけがない。
 ところが、最後まで私以外の入札者は現れず、私はしぶしぶ手続きをした。値段は牛丼一杯分のままである。

入札者は俺だけ

 落札した瞬間に私は不安になった。今までのオークションで「有名どころ」が安く落札できた時は、必ず「訳あり」だったからだ。これについては「後玉がないっ!」シリーズで詳らかにしたことがあるカメラ河童のジャンク道遥か37-後玉がないっ!その1-(それでも生きてゆく私232)。つまり、改造抜きでは使えないレンズが届く確率が100%なのだ。

 このカメラが届き、梱包をほどいた瞬間、私は自分の予感が正しかったことに慄いた。このカメラのレンズは固定式だったのである。しかも、レンズが2つある、と思っていたもののうち、一つは距離計だった。結局改造の必要な固定式レンズをそれなりの値段で1個わざわざ買ってしまったのだ。

 ところが、よく見てみると、このレンズはひどく外しやすそうである。日本のやつはまずカメラを破壊しないとレンズが取り出せないくらいに複雑なのだが、これはネジを外せば簡単に取り出せそうである。

 案の定、レンズは簡単に露出した。
 ところが最後の仕上げはちょっと面倒で、多くのレンズで前玉を固定してあるようなリングを外さなければならなかった。しかし、この日あるを期して、私はそのための専用の道具である「カニ目レンチ」を安く手に入れていたのだ。これはまた本当に専用機器にあるまじき安値の某国製である。 
 私は今までに相当数の小型レンズを分解して清掃したり改造したりしているから、これらを分解するのに普通は「カニ目」を使わない。「体操(仮名)」で買った女性の眉毛抜きを回転させて開けてしまう。ただ、大型レンズの場合はレンズを傷つけてしまう恐れがあるのでほとんど使わない「カニ目」を念のために買っていたのが幸いしたのだ。これは使用するのが3回目である。

 レンズは「カニ目」を回転させると割と簡単に取り外せた。

IMGP7073

 その時私は気付いた。「これはCマウントレンズなのでは?」

結像するわけがない

 普通レンズ固定式カメラから取り外したレンズは改造が必須である。特に8mmから取り出した奴は、鏡胴(レンズの入れ物)を自分で作って前玉と後玉を合体させてやらなければならない。そうしないと像そのものを結ばないのだ。
 これが素人作業なので、なかなかプロが作ったレンズのような写りにならないのである。

 ところが、取り出したレンズはどう見ても前玉、後玉、マウントの合体した、完全体のレンズである。 

 知る人ぞ知るだが、Cマウントのオールドレンズは高価である。私の蒐集しているDマウントの10倍くらいするレンズはザラなのだ。そもそも私が同じシネレンズでもCマウントではなくDマウントを集めているのは、主に(というより専ら)値段という要素によるのである。
 事実、「ベル&グラハム」のCマウントも市場では相当の高値で取引されている。これは小さな職場の全員の忘年会費用位賄えてしまうくらいの値段である。もっとも、「ほのぼのライカ(仮名)」に取り付け可能なlマウントレンズは目の玉の飛び出るようなものもあるが。

 私は牛丼1杯の値段で高価な外国製Cマウントレンズを手に入れることができたのかもしれない。

IMGP8682

 私は震える手で(大袈裟)レンズをC→Qマウントアダプター(写真右。左はD→Qマウントアダプター)に嵌めてみた。なんと、ぴったり嵌る。やはりこれはCマウントレンズだったのだ。

IMGP7072

 私はガタガタ震えだした手で(大袈裟)レンズをアダプターごと「オバQ」に装着し、ピントを合わせてみた。

 「あれ?」
 ピントが合わない。ボンヤリした像が映るだけだ。
 絞りを変えてみたり、いろいろやってみたが、やはりちゃんとした像を結ばない。
 このレンズはCマウントだがCマウントではないのだ(なんのこっちゃ)。

IMG_6998

 そのとき私は、まだレンズに凝り始めたころにやはり牛丼1杯分くらいで買った、ピントの合わないレンズを思い出した。今は「シン部屋」にある「レンズ箱」の中でひっそりと保管(放置)されている奴である。
 これも買ったときアダプターにぴったり嵌ったのだが、まるで像を結ばない。
 調べてみると、Cマウントにそっくりだが、フランジバック(像を結ぶ距離)がCマウントより短いCSマウントという規格らしい。
 私はそのときも何とかそのレンズで撮影しようとあれこれ頑張ってみたのだが、遂に断念したのだ。CS→Qマウントアダプターに市販のものは存在しないらしかった。

 どうする。

IMG_6975

 レンズをいじって撮影可能にする技術は持ち合わせている。私はそうして改造したレンズをたくさん持っている。しかし、鏡胴をいじると、本来の写りは期待できなくなる。せっかく舶来の高いレンズが僥倖で手に入ったのだ。

 あ、そういえば。このレンズに付いてあれこれ調べていたとき、CS→Qアダプターを自作した人の話を読んだことを思い出した。

 その人はCマウントアダプターをグラインダーで削って薄くしてCSに改造していたような気がする。
 ただ、私はグラインダーを持っていないから手作業になる。相手はアルミニウム製である。ビニールの水道管を鏡胴様に削るより、とてつもなく面倒な作業になりそうだ。

 仕方がない。頑張ってみるか。
 アルミの粉末で喘息になるのはまっぴらなのでマスクをし、途中手を削ってしまって怪我をしたのでゴム製の軍手を嵌め、熱中しすぎて食事や風呂に遅れて妻に怒られながら、作業すること1週間、どうにか像を結ぶところまで持ってきた。
 別に悪いことをしているわけでもないのに、「道楽」という意識があるからどこか後ろめたい。冒頭の絵のような心境である。

IMGP7077

 アダプターは削ることの可能なギリギリのところまで削られている。おかげで親指と薬指の一部も削ってしまった。これ以上削ると金具のピン留めができなくなり、無限遠位置の調整ができなくなる。

 さて、試写(いつもの演出で、実はこれまでにさんざん試写している)。

IMGP6939

 1960年代の米国製品って、凄かったんだな。

IMGP7042

 こんなに小さなレンズなのに、開放で撮っても収差や歪みや流れ、滲みなどがほぼない。

IMGP7041

 ただし、無限遠は出ない。
 これはレンズのせいではなく、自製CS→Qマウントアダプターの性能のせいである。

IMGP7095

 それでも最大限絞ると「無限遠もどき」は出る。本当は開放で出したかったのだが。

IMGP7098

 古き良き米国のレンズに一喜一憂した一週間であった。

皆様のおかげです(それでも生きてゆく私238)

やっと原状復帰

 熊本地震で実家が損壊して以来県外に避難していた母がやっと帰ってきた。

 壊れた部分を判定してもらって改修し、倒壊散乱した家具や本を片付け、長年の積もり積もった思い出(私たちにはゴミにしか見えないものもあるが)を倉庫を建てて収納し、使えなくなった家財は買い替え、まだ水回りは改修が必要と思われるが、どうにか人の住めるところまで復帰させた。

 これは偏に昨年の休日のほとんどを婚家の片付けに使った妻のお陰である。妻には韓国の有名デザイナーY,S,Wのグッズを贈ることを改めて宣言したい(まだ贈ってなかったんかい)。 
 また、お忙しいのに単なる仕事以上のことをしてくださったA工務店のAさん(妻の知人)のお陰でもある。
 また、行政についても本当に助かった。私は住宅や建築については全くドのつく素人であるから、行政の援助がなかったら途方に暮れていたであろう。

 きょうだいに関しては母親の面倒を見るのは人としての当然の責務であるから、口に出して礼を言うことはしないでおこう。

 仏間に帰ってきた笑顔の父の写真の見ていたらいろいろな人の情けの有難味が骨身に染みた。
 
 熊本地震から1年が過ぎたが、まだ仮設住宅で生活している人が何万人もいる。
 自分ばかり喜んでいないで、そうした人々のこともいつも心に留めながら、これからも熊本県民とともに歩んでいこうと思っています。

カメラ河童のジャンク道遥か52-ボケのいろいろ-(それでも生きてゆく私237)

グル玉ボケに逢う

 写真に凝り始めたころ、私は「写真はボケが少ないほどいいのだ」と思っていた。
 これは私が子供の頃「ピンボケ」という言葉が写真専門用語でなく日常の言葉として大人たちの間で交わされていたからであろう。有名な戦場カメラマンであるロバート・キャパにも「ちょっとピンボケ」という著作がある。

IMGP2502

 専門的には「パンフォーカス」という、隅から隅までくっきり写っている写真がいい写真で、

IMGP3687

 何だかボーッとした「ピンボケ写真」は失敗なのだというのが、世間一般の常識だった。

 これはあの当時の時代状況による。

IMGP9450

 ピントのあった対象物はくっきり写り、それ以外の部分はボーッとしている、という、絞り全開放特有の写真が撮れる一眼レフカメラは多くの人が触った事すらなかったのだ。

 携帯電話で随分質の高い写真が撮れるようになっても、このカメラでボケを生かした写真を撮ることはなかなか難しい。

 人々が「ボケ味」に気付いたのは、デジタル一眼が比較的安価に普及し、セットで付いてきたレンズの望遠の方で撮ったら被写体以外にボケがあって面白い写真が撮れると判ってからではないだろうか。

ツッコム気にもならないボケ

 私は愛機「ペンテコステオバQ」に純正でない古いレンズを付けて撮ってみて初めてボケというものが面白いものだと知った。

 特に、主に懐具合の関係で、私はDマウントレンズという8mmカメラ用の小さなレンズに縁があった。しかも、ジャンク品だから自分で修理したり調整したりしなければならない。

IMG_6956t
IMGP6827

 私が最初に買ったDマウント「椰子呑13mmF1.4(仮名)」は全開放で撮ると「爆発ボケ」の出るレンズだった。これは専門用語では「流れ」といっていい現象とは捉えられていないことを後で知ったが、私としてはこのレンズの面白みの一つである。

IMG_7030
IMGP9488

 「爆発ボケ」はシネレンズ(ムービーカメラのレンズ)を改造したものに出やすい。これは改造の際に自分で後玉部分を設計する必要があるのと、もともと開放F値(レンズへの光の入りやすさ。小さいほど入りやすい)が小さいレンズが多いからだろう。私が持っているレンズではこの「不治?Non!-MAZ改(仮名)」が究極の「爆発レンズ」だろう。

IMG_6959
IMGP6869

 「椰子呑」と一緒に古い8mmカメラに付いていた「ヨハン・シュトラウス38mm F1.8(仮名)」は「ぐるぐるボケ」の出るレンズだった。

 「ぐるぐるボケ」は口径の小さなDマウントには比較的出やすいボケで、最近は少々食傷気味なので意識して出すことはせず、偶然出たらそれでよし、というスタンスに変わってきている。

IMG_7280
IMGP3893

 これは私が究極の「ぐるぐるレンズ」である「平気さー!9-28mm F1.4改(仮名)」を創り出してしまったからだ。おそらくこれ以上のぐるぐるレンズは地球上には存在しない(白髪三千丈)。

IMG_7095
IMGP9238

 改造レンズは「玉ボケ」も生んだ。「不治?Non!38mmf2.8改」の映像である。これは一般には「バブルボケ」というらしい。

IMG_7034
IMGP6044

 さらに「玉ボケ」より小さい「プチプチボケ」の出るレンズも製造した。「平気さー! 40mmF2.8改(仮名)」である。これは見方によっては「ブツブツ」に見えるから、賛否が分かれるかもしれない。

IMG_7263
IMGP5649

 「ケムンパス随喜40mmF1.7改(仮名)」の「トロトロボケ」も春の陽気にふさわしい。

 こうしてみるとDマウントレンズや改造レンズは実に個性的なボケを醸し出している。

 面白いので以前から持っているレンズも思い切りボケさせたらどんなボケがでるのか興味が湧いてきて、最近使わなくなってレンズ箱やレンズ袋で保存(放置)されていたレンズを引っ張り出してきた。

IMG_7248

 「何処16mm F1.6(仮名)」である。
 元は監視カメラのレンズだから暗闇には強いが、絞りがついていないので写真の腕が上がるにつれて(錯覚?)物足りなくなって最近ご無沙汰だったのだ。
 Cマウントレンズである(司馬遼太郎調で)。

IMGP9400

 まあ普通のボケかな、と思っていたら、

IMGP9410

 回転を始め、

IMGP9402

 玉ボケが現れ、

IMGP9401

 遂にそれが回転した。「ぐる玉ボケ」である。

IMGP3923

 「ぐる玉ボケ」は不完全なものが「碧茶農9-28mm F1.4改(仮名)」で一度だけ撮れたことがあるが、

IMGP9398

  これほど完全なものは初めてである。
 この写真などはちょっと「ぐるプチボケ」っぽくて、気色悪さと紙一重だが。

 まだまだ面白いボケをかましてくれそうな我が家のレンズたちである。

しばし別れの韓国旅行後日談2-バイテクで作ってるんじゃないかと疑う匙-(河童亜細亜紀行101)

只者ではない匙

 私と韓国スプーンの付き合いは長い。

 私が長い長い大学生活に終止符を打ってすぐくらいに渡韓して出会ったのが最初だから、かれこれ30年になる。

床の鶏骨を増やす

 私が韓国の食堂で衝撃を受けたのが、床一杯に広がる鳥の骨などのゴミと、独特の形をしたスプーンだった。

IMGP6295

 私は大学時代京都の韓国人街に住んでいたから、韓国料理はさんざん食べていたはずなのだが、どういうものかこの先のとがった独特の形のスプーンにはお目にかかったことがなかったような気がする。

IMGP6298

 当時日本にはこういう形の西洋風のスプーンしかなく、韓国料理屋でも多くはこのタイプを使っていたような気がするのだが、実は散々見ていたのに旅先の高揚感から初めて気づいただけなのかもしれない。
 ちなみにこのスプーンは「ココロ一番やあ!(仮名)」で随分苦労してもらったスプーンで、現在我が家には西洋風のスプーンはこれだけなのだ。

IMGP6295

 このスプーンの左の1本を買って帰ったのがその初めであった。
 それまで使っていた西洋風のスプーンより明らかに使いやすいので、次に渡韓した時にもう1つ買って1セットにしたのだ。

IMGP6296

 その時もう1セット買ったスプーンには騙された。
 銀製だと思ってそれなりの値段で買ったのに、すぐ鍍金が剥げてみっともない外観になってしまったのだ。
 最初に買った奴に比べれば口に入れる部分も西洋匙に近くて今一つしっくりこない。

IMGP6297

 その後は最初に買ったデザインのものが韓国でも見つからなくなって、西洋風だが韓国風に浅めのスプーンが出回るようになって、現在我が家で常使いにしているのはこのタイプである。

IMGP4554t

 今回の韓国旅行で私は民俗村の伝統工芸店で売っていたスプーンに魅せられてしまった。
 妻もご同様だったらしく、包丁のときには「持って帰れると?」と結構冷ややかだったのだが、スプーンの方は「まさか1本だけ買うつもりじゃないよね!?」という名言まで飛び出していた。これは私に浴びせる罵倒の言葉としては最上級に属する。私はまさにそういう男だからだ。

IMGP4970

 それがこの2セットの匙と箸である。
 正直私は韓国の金属製の箸は使いにくくて仕方がないので(不器用なので)、これはオマケである。
 結構な値段がして、私としては「清水の舞台」までは行かないが、「土手から川に飛び降りる」くらいの度胸は要った。

 上品な袋に包まれたお上品な品である。

IMGP6299

 口に入れるところはこんな感じで、何だか歪で個体差がある。

 これで参鶏湯を食べたときの感想が冒頭の絵である。

 最初は妻が食べて、「何? これ? 嘘みたい!」というので、よほど出来が悪いのかと思って食べてみると、口へのフィット感が只者ではない。

 「ぴったり」の一言である。

 まるでバイオテクノロジーの技術で口腔器官の構造・機能・病態(これは違うか。楽屋落ちですみません)を徹底的に分析したのではないか、というくらいだ。

 この感動を薄れさせたくないので、特別な時に特別な料理を食べるときの特別なスプーンとして使うことにして、

IMGP4969

 封印である。

IMGP6294

 これが我が家のスプーン軍である。
 これは決して物好きやオリエンタリズムで選ばれたものではなく、「使い勝手」が基準である。

 それにしてもなぜ我が日の本には「匙文化」が育たなかったのだろうか。
 それについては長くなりそうなのでまた今度。

しばし別れの韓国旅行後日談1-韓国包丁の切れ味-(河童亜細亜紀行100)

韓国包丁は難しい

 私は包丁が好きである。

 これは私がわりと頻繁に料理をすることと関係しているのかもしれない(妻の「嘘つき!」の声が聞こえる)。

 よく切れる包丁では気持ちよく料理ができる。

IMGP8970

 この4本は我が家で常使いにしている包丁だが、どれもよく切れる。

 左の2本は熊本県は川尻町で打たれた包丁、右の2本は同じく熊本県の天草地方で打たれた包丁である。

川尻駅にて

 特に左から2番目の柳刃包丁は私としては大枚を叩いて買ったもので、刺身を単なる「生魚の切り身」でなく料理としての「刺身」として作ろうとしたら欠かすことのできない調理道具である。
 心太を単なる「海藻の寄せ物を細切りにしたもの」でなく「心太」として作ろうと思ったら、心太突きが必須であるようなものだ。

 どの包丁も私の研ぐのが下手なために斑に輝いていて少しも美しくないが、切れ味は抜群である。
 右から2番目の鯵切包丁(天草独特の呼び名だが他所の地方では何というのだろう)以外は、結構大きな南瓜が丸ごとスパーッと切れる。

 だから「河豚を刺身にして人様にお金を出していただいて食べてもらう」とか、「豚足を関節かどうかに関わらずバーンと切断する」などといった用途でない限り、現有勢力の包丁で私は何も困っていない。

IMGP4554t

 そんな私がわざわざ異国で包丁を買ったのは、それが「切れそう」という雰囲気を醸し出していたからだ。しかも安い。買ったのは韓国民俗村の中にある伝統工芸の店である。

 これは単なる自慢話だから読み飛ばしていただいて結構なのだが、私は不思議とその品物の相場というものが感じられる能力を持っている。
骨董鑑定

 骨董マニアの間では有名なTV番組「幸運! 何でも鑑定隊(仮名)」を見ていても、「お宝」の8割くらいは真贋はもちろん値段も極めて近いところを推測することが出来る。

 閑話休題(えまでもちだしてじまんかよ)。

 わたしのその能力に従えば、この包丁はそれに付いている値段の2倍の価値があると思われた。

 これは同日に買った韓国スプーン同様、私にとっては身分不相応な値段だったのだが、旅先の気分の高揚だろうか、私はこれを買ってしまった。

 韓国在住の娘の家まではリュックの中に入れて持ち帰ったが、考えてみると刃物は飛行機には持ち込めない。どうしようかと思ったが、婿殿の任期が終わってちょうど日本に帰国する時期だったので、その引っ越し荷物と共に船便で送ってもらうことにした。

IMGP6122


 3週間ほどして、包丁は我が家までやってきた。包装紙がなかなか独創的、というか、お茶目である。

IMGP6124

 包装紙を剥ぐと、包丁が現れた。黒光りしてなかなか切れそうな姿である。

 早速大根を切ってみた。
 ん? 何か使いにくいな。よく切れるのは切れるんだけど。

IMGP6126

 やはり柄が丸いからだろうか。これも日本の包丁とはだいぶ違う。

IMGP6129

 だが、本当の原因はこれだろう。おそらくこの包丁は右利き用なのだ。刃が少しだけ右に寄って入れてある。左利きの私には少し力が逃げる構造なのだ。
 右利きの妻は私の「使いにくい」という言葉に、「そう? そんなことないよ。使いやすいよ。」と言ったから、やはりそうなのだと思った。
 もっとも妻は、私が「上」と言えば「下」、「右」と言えば「左」と取り敢えず言うことが多いから、今回もその習慣に従っただけかもしれないが。

 「これは意外と早い時期に流し台の下に新聞紙にくるまれて保存かな」と、今までに買った包丁の中であまり気に入らなかった物のお定まりの運命を辿るのかと思った。

 ただ、私はこの包丁が「鯵切」に似ているのに気づいて、その用途に使ってみることにした。
 たまたま岳父が牛深で鯵を釣ってきてくれたのだ。

 今夜のメニューは鯵の刺身とアジフライである。

 刺身のサクを作るために三枚におろす時と、アジフライの下拵えのために背開きにする時は結構固い骨を切らなければならない。この任務にこのちょっと「骨太」の包丁はちょうどいいのではないか。

IMGP8975

 そういえばよく見るとこの包丁は、刃の反りではなく刃の厚みに注目すると、実は鯵切より出刃に一番近く、かつ少し小ぶりだから、「小出刃」として使えばよい。

 使ってみると、この切っ先は背骨と肉の間に滑り込ませるのに鯵切包丁以上に適していることに気付いた。鯵切は(柳刃も)刃が薄いから、ちょっとこじったりすると刃が欠けてしまう。ところがこの包丁はそのような行為に及んでも刃こぼれ一つないのだ。

 刺身のサクとアジフライの下拵えが素早く完成。

 いい匂いをさせてアジフライが揚がってから、次は刺身を引く。

 いつもの柳刃を使おうかと思ったのだが、韓国包丁の意外な使いやすさに、この包丁でやってみることにした。

 いつものように、力を入れず、真っすぐ「スーッ」と引く。

 結果が冒頭の絵である。

 韓国包丁の刃は日本の包丁とは微妙に違う独特の反りがあるから、柳刃のつもりで刺身を引くと、漫画の沢庵のように全部つながってしまうのだ。

 皿に盛りつけて食べようとした瞬間に気付き、激怒。
 鯵のような柔らかい魚でこれだから、烏賊などはもっとひどいだろう。

 これが隣国というものなのだろうか。

 似ているが、違う。

 別に日本の包丁よりも劣っているわけではない。単に、切り方が違うだけだ。もっと手首を使って切る必要があるのだろう。真っすぐ「スーッ」と引いては駄目なのだ。少しだけ弧を描きながら引く必要があるのだろう。


IMGP1672

 日本の直線でも、中国の曲線でもない、韓国独特の弧である。
 これが包丁にも現れているのだ。

 微妙な違いなのだが、「日本の包丁と同じように韓国の包丁を使いたい」という私にはこれはストレスである。

IMGP8977

 といいつつ、この包丁は我が家のラインナップに加えられたのであった。

 妻は「使いやすい」と言っていた割には一度使った後はいつもの三徳包丁に戻っていたが、またこの包丁を使い始めている。
 単なる物珍しさが冷めた後の妻は容赦ないが。
 今まで最初は「これいいよねー!」と評されたいろいろなものが、一定期間の後は倉庫の片隅や、はなはだしきはごみ収集場に送られている。

 韓国包丁は日本包丁の牙城(大袈裟)に地歩を築くことが出来るのだろうか。

 「やっぱり使いにくいな」となって流し台の下行きか、、「使い方が分かれば却って便利」となるのか、韓国包丁の今後の運命に要注目である。

カメラ河童のジャンク道遥か51-野原一杯の花はプチプチボケレンズで-(それでも生きてゆく私236)

プチプチレンズで撮影

 今年の熊本ではソメイヨシノの開花が遅れた分、菜の花や花大根など、野原を埋め尽くす花が長く咲いているような気がする。 

 この広い野原一杯咲く花を(ここまで歌の一節のパクリ)撮影するのにぴったりのレンズを私は持っている。

 このレンズはほかの人は持っていない。
 なぜなら、このレンズは私が作った(大袈裟。改造した)レンズだからである。

IMG_7034

 それは「平気さー! 40mmF2.8改(仮名)」だ。

 このレンズは「小西翁(仮名)」の古いコンパクトカメラを分解して取り出したレンズのフランジバック(センサーに像が映る距離)をリングやフィルターで調整して無限遠(ピントが見晴るかす遠景合わさること)を出した後、D→Qアダプターを接合して愛機「ペンテコステオバQ」に装着できるように作ったものである。

 「平気さー!」はプチプチやブツブツの嫌いな人には虫唾が走るような外観をしている。
 レンズの前の奇怪な模様は、レンズに余計な光が入ってきてハレーションが出るのを防ごうとしたためらしい。したがってこれと同時代のレンズ、たとえば「ケムンパス卞(仮名)」などはこれとよく似た外見だが、これ以後のレンズにはこのデザインは採用されていないから、結局あまり効果なし、と判定されてしまったのかもしれない。

IMGP6051

 写りはまあ真っ当なものなのだが、もう少し遠景に一面の花が入ると、

IMGP6052

 途端にこんな感じになる。
 これのどこがヘンなのか、と思った人にはもう少しわかりやすい絵を。

IMGP6061

 これなら流石に分かるか。

IMGP6044

 どうしても分からない人にはこれを。
 これで分からない場合は写真を拡大してください。

 「玉ボケ君」こと「不治? Non! 38mm F2.8(仮名)」の映し出す「玉ボケ」に似ているが、もっと細かくて零れるような感じである。

 まるでこのレンズの前面のハレーション防止のプチプチ模様が花に反射しているのではないかと錯覚するほどだ。
 私はこれを「プチプチボケ」と名付けた。

IMGP6048

 もう少し遠景になるとこのプチプチは消えてしまう。

IMGP6055

 ここまで遠くなるともう痕跡もない。

IMGP6059

 同じ群生でもムラサキケマンなどではこのプチプチは出ない。構図の関係かもしれないが。
 というか、ムラサキケマンは「一面の花」というほどには群生しないから、このプチプチは本当に大量に群生する花を撮ったときしか出ないのかもしれない。

 ということは菜の花や花大根の咲き乱れる春専用のレンズなのか。

IMGP6071

 桜を撮ったらちょっとだけプチッとした。

 もう少しいろいろなものでプチプチさせたいレンズである。

カメラ河童のジャンク道遥か50-待ちに待った桜-(それでも生きてゆく私235)

第二天門橋の桜

 遂にこの季節がやってきた。

 天草の桜である。
 ソメイヨシノは今年は開花が遅れているから、天草の山桜が先である。

IMGP5911t


IMGP8417

 天門橋の桜を定番の構図で撮ってみる。
 「頭脳13mmF1.9(仮名)」は開放だと少し爆発するな。絞るのを忘れていた。

IMGP5919t

IMG_7746 (31)

 次は「頭脳38mmF1.9(仮名)」。
 これはやはりキリッとスキッと鋭い桜である。いつもの写りだ。


IMGP5938t

IMG_7883

 同じ13mmだと「頭脳」より「ブルムベアー君」こと「歩こう13mmF1.9(仮名)」の方がすっきりくっきりした画像が得られる。こんなに小さなレンズなのにな。

IMGP5951t

 さらに広角レンズで遠近感を強調してみる。レンズは「歩こう」兄弟の末弟、6.5mmF1.9である。ピントが旧天門橋の方に合ってしまった。ムービー用のシネ広角は静止画を取るときはピントを合わせるのが難しい。モニターを見ているとすべてにピントが合っているように見えるのだが、実はまったく合っていなかったり、見当違いなところに合っていたりする。

IMGP5909

IMGP5910

IMGP5933

IMG_7096


 「玉ボケ君」こと「不治?Non!38mmF2.8改Ⅱ」でも撮ってみるが、全開放の絞りなしレンズの悲しさ、ここまで陽光が強いとどうもキリッとしない。春の早朝にはぴったりのレンズなのだが。

IMGP5946

 最後はもう一度「頭脳13mm」に替えて、工事の間しかとれない構図でパチリ。

 結局純正で撮った写真が一番よかった気もするが、春うららの日にチャチなレンズをとっかえひっかえというのもなかなか楽しいものだ。
 隣で撮っていた「本格派」の人のカメラがひどく重そうに見えた。
 Dマウント万歳である。

三角とりどりの記19-懐いているとしか思えないホオジロ-(Sea豚動物記94)

逃げないホオジロ

 その日は春なのにまた寒さのぶり返した早朝だった。

IMG_7096

 こんな日は愛機「ペンテコステオバQ(仮名)」のお供は「玉ボケ君Ⅱ」こと「不治?Non!38mmF2.8改Ⅱ」がいい。きっとお得意の玉ボケで寒さを緩めてくれるに違いない。

玉ボケレンズを製造す

 実は「玉ボケ君」は「Ⅱ」の名称が示す通り二代目なのである。初代の方がずっと玉ボケが出やすかったのだが、これは私の改造レンズの主要部品であるD→Qマウントアダプターの価格高騰により、現在はアダプターを他のレンズに譲って「レンズ箱」の中で休養中である。

IMGP9436

 なぜこんなことになったかというと、二代目ができたことと、初代は固定ピントの近距離専用だったためである。固定ピントだと突然野生動物が現れたときにシャッターチャンスを逃してしまう。

IMGP5804

 今年は桜の咲くのが遅い。
 何でも専門家によると、桜は冬の寒さが少し緩んでからもう一度寒くなり、さらに再度暖かくならないと咲かないのだという。面倒な奴である。それでも三角の桜もやっと1輪2輪花がついた。

IMGP5812

 椿の花はめっきり数が減ったが、それでもちらほらと咲き続けている。しつこい奴である。

  IMGP5803

 Ⅱはなかなか玉ボケが出にくいが、それなりの条件が揃えばちゃんと出るし、

IMGP5802

 ピントはわざわざ身体を前後させる「人間ピント」に頼らなくてもヘリコイド(ピント合わせ)のリングを回せばピントが合うので楽ちんである。もっとも、楽ちんを追求するのだったら最初から純正レンズの自動焦点を使えばいいのだが。

IMGP5813

  どういうわけか花大根のように群生している花は玉ボケが出やすい。

IMGP5834

  花大根は今が真っ盛りである。どういうわけか以前は春の野原の花は菜の花が多かったような気がするのだが、最近は花大根の方が多い。


IMGP5820

  クローバーもそろそろ最盛期を迎えつつある。どういうわけかつい1週間くらい前まではポツポツしか咲いていなかったのだが。
  
  同じ言葉を何回も繰り返すのは前頭葉が萎縮しつつあるからに違いない。知らんけど。

  早朝の汽車が朝日を浴びながら通り過ぎる。こういう時に固定ピントの初代玉ボケ君はもう手がなかった。焦点が合う距離まで走って行くわけにもいかないし。IIは何と私の自製レンズには珍しく無限遠が出るのだ。

IMGP5810

  ふと下を見ると一面に土筆が顔を出している。昨日は気づかなかったのだが傘の開き方からするともう随分前から出ていたはずである。「見れども見れず」とはまさにこのことである。中国には「花を見て土筆を見ず」という諺があるということだが(大法螺)。

IMGP8429改

 以前知ったかぶりをして「雀の写真を撮った」などと書いたら即座に「それは頬白です」という指摘が来て大恥を掻いたことを思い出す。( 三角とりどりの記3-やはり雀(ホオジロ)は可愛い-(Sea豚動物記71))

  

 雀に比べると警戒心の薄い頬白だが、近づきすぎたのか流石に逃げてしまった。

IMGP5842

  ところが、すぐ側の低木の梢に留まって鳴き始めた。百舌みたいな鳴き声で、これまた以前「百舌の写真を撮った」と言って掲載して指摘されて大恥をかいたことがある。
  きっと「百舌の鳴き声と頬白の鳴き声はまるで違いますよ」という指摘がまた来るに違いない。

IMGP5885

  それにしても、もう至近距離といっていい距離まで近づいても逃げない。



 考えてみると三角に越してきてからいつもこの場所でホオジロに会う。
 「見返り雀」に逢ったのもここだった。

 もしかすると同じ個体なのかもしれない。
 そうだとすると、私の個性を見分けて懐いた可能性もある。少なくとも無害だということは感じているのだろう。単に舐められているだけかもしれないが。

IMGP5905

  行きに見つけていた土筆を摘んで、散歩はおしまいである。
  今日の夕食は土筆の卵綴じにしようか。佃煮もいいな。

  「早起きは三文の徳」というミャンマーの諺を地で行った朝であった。

  国名は嘘。日本の諺です。

  というか、英語にも確か似た諺があったが。早起きの鳥は毛虫を捕まえる、とかなんとか。芋虫だったかな。あまり捕まえたくないが。




三角とりどりの記18-ヒヨドリへの愛憎-(Sea豚動物記93)

客観的に見たらアホ丸出し

  私が現在の住居に引っ越してきて4年目の春になった。

 三角は自然豊かなところ(田舎)なので、四季折々に野鳥の声が聞こえてくる。

 今年も桜の蕾が綻ぶと同時に、「ホーホケキョ」の声が聞こえてくるようになった。だが、毎年のことだが、この時期の鶯の鳴き声はまだ堂に入ったものではなく、「ケキョ、ケキョ」と練習段階のようである。

恐怖の鶯色

 もちろんご存知のとおり、鶯の姿を写真や動画に捉えるのは至難の業である。彼らはいつも木陰や藪陰を移動し、なかなか人の目に触れることは稀である。

 烏を除けばもっともよく見るのは雀なのだが、最近は日本における営巣環境が彼らにとって難しいものにものになっているらしく、以前のような田圃の空が暗くなるほどの大群は見なくなった。

 彼らの次に馴染みなのはヒヨドリだろう。
 鵯は鳴き声もよく聞こえてくる。
 警察官が泥棒を捕まえようとして「待てー!」という意味で鳴らす警笛のような「ピーッ!」という鋭い鳴き声である。昔の日本人にはこれが「ヒーヨ!」と聞こえていたらしく、この鳥の名の由来になっている。

鳩でなくヒヨドリ

 以前私は彼らが「甘党」なのではないかと問題提起していつものように無視されたのだが、この数年で自説に間違いがないことを確信するようになった。

 妻が野鳥に餌付けをしようとして庭にセットした柑橘類を最もよく食べに来ているのはほかならぬ彼らだからだ。

 それどころか、我が家の庭には土を肥やすために穴を掘って野菜や果物の屑を捨てているのだが、彼らは柑橘に味を占めてこれらの「ゴミ箱あさり」までするようになったので、私たちはこの穴に泥をかぶせるという面倒な作業が必須になってしまったのだ。

疑惑の視線

 鵯たちが柑橘に飽き足らず遂にエンドウ豆の芽(豆苗:トウミャオ)にまで手を出し始めたのではないかと疑った話はすでにした(私の農業入門記28-とりあえずごめんなさい-(それでも生きてゆく私182))。
 これはそのときには烏の仕業だと判って私は公開で鵯たちに謝罪を余儀なくされたのだが、何のことはない、今年になって、こいつらが実際に豌豆の芽を食べているところを現行犯で取り押さえた(嘘。見ただけ)のである。やはり私の勘はいつも正しい(関係妄想)。

 鵯は東亜全体に分布するが、実はそのほとんどの個体が日本に生息している。ほとんど日本の固有種と呼んでいい。



 だから釜山のヒヨドリを捉えたこの映像は意外に貴重なものなのかもしれないのだ。

 ただ、この日本人に昔から馴染の鳥は、最近は大切にされすぎて農作物に対する食害が問題となっている。これはニホンカモシカや猪とご同様である。

 我が家でも今年の豌豆の食害は過去なかったことだけに、ちょっと困った。私は道楽で野菜を作っているだけだから大したことではないのだが、職業で農作物を作っている農家さんだったら本当に深刻だろう。

 豌豆に対する食害は庭にセットする柑橘を増やし、鵯の関心をそちらに逸らすことでどうにか回避できた。
 ただ、甘党の鵯があれだけ好んで食べたということは、我が家の豆が相当甘いということだろう。実際、我が家の豆類を口に入れたときの第一印象は「甘い」なのだ。

 閑話休題(それはさておき)。

 私の家ではこれだけ近しい存在であるヒヨドリだが、意外にちゃんとした写真や動画は残っていない。

 これは彼らの極端なくらいの警戒心と、私の撮影技術の未熟による。

 私も随分写真が上手になったから(誰もそう言ってくれないから自分で言うのだが)、もう少しちゃんとした鵯の写真がほしくなった。

河童一族陰謀図

 今回も仕掛けは(三角とりどりの記14-メジロ夫婦、河童一族の陰謀に嵌る-(Sea豚動物記87))のときの撮影機器なのだが、今回はメジロの敵であるヒヨドリそのものだから、鳥籠改造餌場は不要である。
 私の「230円也送料の方が高い」リモコンはガラス越しだと全く役に立たないから、手動でシャッターを押すことにした。

 また、カメラは同じ「ペンテコステオバQ(仮名)」だが、カメラを動かしたときに鵯に気配を悟られにくいようにレンズはできるだけ軽いもので、かつ動画撮影にも適したDマウントシネレンズにする。(本当は単に今Dマウントに凝っているだけだけどね)。

IMGP2705

 こうして選ばれたレンズは「蹴るん好いたー25mmF2.5(仮名)」。このスイス製の上等舶来レンズがヒヨドリ君を待ち受ける。

 春とはいえ暗い部屋の中はまだ寒いから、厚着をして窓際に座り、じっと待つ。

IMGP5674

 「来たっ!」
 写真はご覧のとおり目にピントのあった鮮明な写真である。



 動画も至近距離から鮮明なものがバッチリ撮れた。さすがは銘玉の誉れ高い「蹴るん」である。これは心房細動のアブレーション前にヤケクソになって衝動的に買ったもので、信じられないくらいに安いが、ちっぽけなレンズと信じられないくらいに写りがいい。



 正面からも撮影。
 気配に感づかれて一度は逃げられたが、うすら寒い中でじっと待っていたら再度現れた。

 そのとき、有線放送の声が聞こえてきた。
 害獣駆除のお知らせである。
 猪や烏「など」をズドンとやってしまうから、流れ弾に気を付けてほしいとのことだ。

 食害が問題になっている鵯は「など」の中に入るのか。
 豌豆を食べられてしまったときは一瞬殺意を抱いた私だが、急に同情と心配の感情が湧いてきたのであった。

カメラ河童のジャンク道遥か49-春には春のレンズを持って-(それでも生きてゆく私234)

春には春にふさわしいレンズ


 その日の朝、私はいつものように散歩に出かけようとしていた。

 「今日も分厚い靴下と綿のたくさん入ったジャージを着て行かないと寒いぞ」と思いながら着替えようとしたとき、部屋の中が変に温かいのに気付いた。
 エアコンを見たが、暖房も入っていない。ストーブはこの間孫が来た時にしまったきりである。

 玄関を開けて外気の温度を確かめてみたが、これまたいつもの肌を刺すような冷たさはない。

 「もしかすると(今まで何度も裏切られてきたが、いつものとおり大袈裟だが)、春が来たんだな。」と思った。

 肩にはいつものように小さなカメラバッグを襷に掛けている。

IMG_7875

 私はその中に入っている愛機「ペンテコステオバQ(仮名)」から普段遣いにしているDマウントレンズ「ブルムベアー君」こと「歩こう13mmF1.9(仮名)」 を外し、自分の部屋のレンズバッグまであるレンズを取りに行き、はめた。

IMG_7263

 それは「ケムンパス随喜40mmF1.7改(仮名)」である。

IMGP9453

 私は8mmカメラのレンズであるDマウントレンズの蒐集家(推定100名)として全国的に有名だが(大嘘)、

IMG_7332

 改造レンズの大家としての顔も持っているのだ(誇大妄想)。

 閑話休題(じょうだんはこれくらいとして、あとはほらとじまんである)。

 私が「随喜」を思い出したのは、このレンズのトロトロのボケが、麗らかな春の花を撮るのに相応しいのではないかと思ったからだ。

 このレンズはもともと「ケムンパス」のコンパクトカメラに付いていたものを分解して取り出し、C→Qアダプターと合体させて「ヘンテコステ」に装着できるように改造したものである。

 では、写真集の始まり始まり。

IMGP5574

 まず、椿。いきなり春の花ではないが。

IMGP5581

 山桜。ソメイヨシノより少しピンクが強く、葉と一緒なのが特徴である。

IMGP5582

 ソメイヨシノはまだ蕾だ。

IMGP5586t


 花大根。今が花盛りである。

IMGP5589

 クローバー。肥料として植えてあるものが畦道にこぼれたのだろう。



 ムラサキケマン。毒草で畑の雑草取りの主役だが、この時期に咲く花は美しい。

IMGP5614

 野茨。まだこれからである。祖母の好きな花だった。


IMGP5625t

 白木蓮。そろそろ花も盛りを過ぎた。

IMGP5629t

 紫木蓮。
 木蓮は花が美しいだけでなく、香りもすばらしい。ちょっとトイレを思い出すが。

IMGP5636

 鈴蘭も可憐な花を咲かせた。

IMGP5638

 花大根の色違い。こちらは観賞用に品種改良されたものだろう。

IMGP5643

 水仙もそろそろ終わりだが、まだ頑張っている。

IMGP5641t


 近所の駅に置いてあるプランターの花たち。

IMGP5626

 椿はそろそろ終わりだが、これはしつこく咲くから今月いっぱいは楽しめるだろう。

IMGP5633

 どういうほけか今が真っ盛りの木を見つけた。今年は桜が遅いのと何か関係があるのかもしれない。

IMGP5644

 家に帰ると、庭の水仙も一輪だけ咲いていた。大輪である。

IMGP5646

 空豆の花も地味だが美しい。ましてや後2月もすると美味しい実をたくさんつけると思えば、一層いとおしい。

IMGP5649

 豌豆もヒヨドリに豆苗をいいように食べられてちっとも花が咲かないので心配していたが、目を逸らすために蜜柑を大量に庭に置いたら見事に引っかかって豌豆を食べなくなったので、やっと咲いた。実はこれからだろう。

IMGP5655

 ローズマリーは図体がでかくなりすぎたのでばっさり切ったら今年は花が少ない。でも借家だから仕方がない。

 寒い冬もやっと終わりだ。
 4度目の三角の春である。

しばし別れの韓国旅行13-韓国雑感 ソウル衛星都市編-(河童亜細亜紀行99)

田舎は甘くない

 婿殿の赴任地であったA市は近年急速に発展したソウルの衛星都市である。

IMGP4509

 ほんの十数年前までは、畦道を牛が通っていたようなところに、摩天楼が突如として出現した。 

IMGP4501

 だから街並みにも古いものはまるでなく、路地も広い。

IMGP4504

 幹線道路は広くて碁盤の目のように広がり、信号や標識なども判りやすく整備されている。

 釜山や仁川の旧市街とは全く違った風情である。
 おそらく韓国人にこの写真を見せても、「どこ?」と言うだろう。

IMGP4507

 それでも高級アパートなどでは韓国らしさを出そうとわざわざ楼閣が作ってあったりする。これもある意味で驚きだが。

 韓国でも首都への一極集中と地方の過疎化は深刻だそうで、首都の周辺の以前は田舎だったところがA市のような新興都市になる一方で、昔からの地方都市は寂れてしまいつつあるらしい。

IMGP4467t

 烏賊天の専門店である。
 さんざん焼肉を喰った後だったが、揚げている様子があまりにも美味そうだったので入ってみた。



 ここの店員さんがとてもいい人で、彼が烏賊天を鋏で切ろうとしているところを動画撮影しようとすると、写真を撮ろうとしていると勘違いして止まってくれた。いやいや、動画だって。

IMGP4473

 ここの備え付けのティッシュペーパーはテーブルには置かれておらず、天井からぶら下がっていたので笑った。ただ、よく考えてみると、ここの食べ物は油ものばかりだから、ティッシュをテーブルに置いていたらギトギトに汚れてしまい、用を足せなくなってしまうだろう。ナイスアイディアである。

IMGP4479

 ピザも美味かった。私はこういうペラペラでカリカリの薄いピザが好きなのだが、韓国のものは基本的にこれが多い。

IMGP4482t

 繁華街の中心の広場では屯して煙草を吸っている高校生らしき集団がいた。親は我が子が真面目に塾に通っていると思っているだろうに。
 以前の韓国ならば「あんたたち何してるの!」と注意するアジョシ(おじさん)やアジュンマ(おばさん)がいたものだが。最近は日本とご同様「君子危うきに近寄らず」と思わせるような出来事が起こった結果なのだろう。
 この通りを内心で「親不孝通り」と名付ける。
 まあ私の高校時代もあまり褒められたものではなかったことを思い出すが。

IMGP4516

 ヌタウナギである。
 値段の関係か、韓国では鰻より人気があるようだ。
 私は基本的にヌルヌル食品が好きなのだが、これはまだ食べたことがない。おそらく韓国人に誘われない限りは食べないだろう。

IMGP4520

 巨大チョッパチュプス(仮名)である。
 これ一個で巨大な飴玉かと思っていたら、後で開けてみたらプラスチックの容器に通常サイズの飴がたくさん入っていた。

IMGP4562

 真鍮製の洗面器。
 この間後輩と喋っていて驚いたのだが、「アルミの洗面器」の実物を見たことがない人がいるそうだ。
 TVではドリフなどでお馴染みのはずだが。
 何で洗面器の話になったかと言えば、「どうやったら目覚まし時計の音を大きくできるか」という会話からだった。そのうちにスマホに機能が集約されてしまって「目覚まし時計って何ですか」という話になるかもしれない。

IMGP4628t

 チマ・チョゴリを来た女の子たち。
 民俗村には貸衣装屋があるようで、色とりどりのチョゴリに身を包んだ女性たちが闊歩していた。

IMGP4710

 やはり韓国女性にはチョゴリがよく似合う(当たり前か)。

IMGP4717

 韓国人の書いた虎の絵を見ると、どこかユーモラスで、この国の人々のこの動物に対する親愛の情とでもいうものを感じる。狩野派の虎の絵などはもっと怖い雰囲気である。

 ちなみに私の母方の祖父は「虎を描いては日本一」と言われた画家だが、現在ではネットで検索しても欠片も出てこないほど無名である。

 閑話休題(いっかいにひとつはじまんばなしをいれないときがすまないのはとしをとったからだろう)。

IMGP4832

 ヘッドライトの天の川である。

IMGP0490

 今回も「愛の写真」を狙って「スーパーぐるぐる君改ⅢFS」で写真を撮りまくったのだが、ハートが逆転したりボケたりして一枚もものにできなかった。

愛に満ちた夜景

 釜山では実に幸運な条件に恵まれたのだろう。

IMGP4894

 ビルの屋上の未だに正体の分からない「謎の物体」である。アンテナ?
 天才科学者のアジトか何かだろうか。

IMGP4967t

 「しゃっぽろラーメン」。
 「ヘビースターラーメン(仮名)」のようなものだろうと思って味を確かめもせずにお湯を入れて食べてみた。
 私は「ヘビースター」に湯を入れて食べるのが大好きなのだ。
 なんと、砂糖が塗してあって、「刺身カレー」以来の地獄味であった。

IMGP4863

 さようならA市。
 あの夜のことは一生忘れないだろう。

しばし別れの韓国旅行12-嗚呼、輸入失敗-(河童亜細亜紀行98)

税関で没収

 帰国の前日、私はスーパーの買い物でとても美味そうなものを見つけていた。

 もはや写真すら残っていないので紹介できないのが残念だが、豚足(韓国語で「ジョッパル」)の煮物である。それをスライスして真空パックにしてある。 

 ところで前回豚足のことを韓国語で語尾に母音の/i/をつけて記載していたが、これは大阪は鶴橋のとある店で豚足を買う時にそう呼んだところ、「あんたはもう、そんな言葉を使いなさんな!」とその店のアジュンマ(おばさん)からたしなめられたことを思い出したので、訂正させていただく。

 もう一つは煮豚(韓国語で「ポッサム」)である。これは「コックパッド(仮名)」で見ながら自分で作ったことがあるが、さっぱりした中にもコクがあり、実に美味い。

 韓国では農林水産物はやや割高な感じを受ける。これは流通経路の問題と、国産のものが珍重されるからだろう。この2つのほかの土産に比べるとかなり割高なものだった。

 私はこのジョッパルとポッサムを娘夫婦の家の冷蔵庫で保存し、クーラーバッグに入れてマッコリとともに日本に持って帰ろうと思っていた。

 ところが、帰国の手続きも終えて、手荷物を取っていよいよ最後の関門の税関を通ろうとしたとき、係官から「肉製品をお持ちの方はいませんか? 肉製品は日本に持ち込めませんよ。」と呼びかけられた。

 「え? 税関の申告書には肉製品のことなんて欠片も書いてなかったが。」

 私は一瞬無視してそのまま通ろうかと思った。

 だが、私は善良なる日本国民である。日本国民として、日本に持ち込めない疑いのあるものを税関で申告せずにそのまま行ってしまうわけにはいけない。

 第一、私の持っている物は加熱した後真空パックされたものである。賞味期限も切れていない。いくらなんでもこれがアウトということはないだろう。

 ところが、私のジョッパルとポッサムを見た係官は、「申し訳ありませんが、これは日本に持ち込めません。今、口蹄疫が流行しておりまして。」と言った。
 口蹄疫?そういえば去年あたり相当流行っていた。私はもう一度自分の買ったものを見た。よりによってジョッパルである。「豚足」は要は「豚の蹄」なのである。こいつはアウトだろう。

 私はポッサムを指さし、「これは蹄じゃないですが、駄目ですか?」と尋ねたが、係官は気の毒そうに、「アジアは口蹄疫の好発地域なので肉製品は一切持ち込めないと思ってください」と言った。

 無念。

 私は飛行機の中でこの2つを夕食でマッコリと共に食する想像をして口に溜まった涎がこぼれないように堪えていたのである。もはや口と喉と胃袋が豚足と煮豚を待ち構えていたところから、いきなりこの二つが逃げてしまったのだ。

 「それでは放棄、ということでよろしいですか。」という係官の言葉を私は虚ろな気持ちで聞いた。「放棄」が「蜂起」に聞こえた。しかし、「法規」であるから仕方がない。私は善良なる日本国民なのだ(しつこい)。

 「これは焼却処分させていただきますから。」
 「焼却」という言葉が胸に突き刺さった。私は「もったいない世代」なのである(嘘)。

 こうして、ジョッパル君とポッサム君(二階級特進で擬人化)は日本の地を踏むことなくその生涯を終えたのだった。

 次はいつになるか分からないが、現地で食べることにしよう。

 それにしても。
 税関で物を没収されたのは初めてだった。

 最近、韓国のTVニュースなどを見ていると、韓国人の食品の安全に対する意識は日本と変わらない気がする。ときどき「トンデモ食品」が紹介されるが。
 「安全な国産品を食べましょう。」という言葉が飛び交っている。

 この「安全な国産品」が日本に来ると「危険なアジア産」になるのは皮肉な話である。

 もし国際的な規格で安全だと保証された食品でも、アジアの国のものであれば肉製品の輸入は駄目なのだろうか。

 そもそも、日本を出るときに「肉製品は日本に持ち帰れないので買わないでください」と、看板なりビデオなりで啓発してくれていれば買ってこないのに。
 なんだか間違って侵入した一方通行路の出口で待ち構えていた警官に捕まったような気分だった。

 ややこしい話になりそうなのでこれくらいにするが、なんとなく後味の悪い話であった。

 ただし、その日の夕食はマッコリほか韓国から買ってきた別の食品を食べて大満足で、その晩のうちにジョッパル君とポッサム君のことは綺麗に忘れてしまった私であった(偉そうなゴタクはなんだったんだ)。


しばし別れの韓国旅行11-帰りは土産物で完全軍装-(河童亜細亜紀行97)

完全軍装並みの荷物

 Aさん夫婦との楽しい宴の翌日。

IMGP4877t

 朝食は娘の心尽くしのお手製であった。
 昼までには空港に行かなければならないので、前日の午後スーパーで買いこんで冷蔵庫に入れてあった食物を荷造りする。

IMGP4971

 各種の湯(タン=中国由来?のスープ)とクッ(固有のスープ?)である。

IMGP4988

  ナムルの素。

IMGP4990

 即席のトッポッキ(餅の辛煮)。

IMGP4991

 チョコレート菓子。

IMGP4993

 定番の韓国海苔。

IMGP4995

 海苔菓子。

IMGP4996

 何だかよく分からない駄菓子。韓国人はこれが大好きだそうだ。

IMGP4998

 各種のお茶。

IMGP5011

 トウモロコシのお菓子とアーモンドのお菓子。アーモンドは日本でも人気で、類似商品が出回りつつある。

IMGP5016

 缶詰。韓国ではなぜかツナ缶が多い。

 これにジョッパル(豚足)の醤油煮とポッサム(煮豚)。

 これらとマッコリ7本を買ってリュックに詰めて自宅に戻ろうとしたとき、私は自分の足が地面にのめり込みそうになる感覚を覚えた。リュックの紐が肩にずっしりと喰いこむ。完全軍装の兵隊くらいの荷物である。おそらく30kgくらいあるはずだ。
 立っているのもしんどく、冒頭の写真のようにリュックをどこかに預けていないと後ろにひっくり返りそうになる。

 ただ、これをスーツケース2個とリュック2個に分けてしまうと、「ちょっと重いかな」というくらいの荷物になった。それにしても機内に持ち込める重量ぎりぎりである。

IMGP4885t

 A市からは仁川空港へ直行便が出ている。
 これに乗り込むと2時間もかからずに空港へ行ける。

IMGP4887

 席も体の大きい韓国人向けにできていて、快適だ。

IMGP4902

 ちょっとだけうたた寝をしたつもりだったが、もう仁川の干満の激しい海である。

IMGP4908

 干潟で何か採っている人がいる。
 おそらく九州の有明海と同じく、マテガイやムツゴロウやウミタケやタイラギなどの固有の生物なのだろう。ここは本当に有明の海に似ている。

IMGP4942

 空港の地下街で韓国最後の食事である。
 私は前回の釜山で食べられなかったオデンとキンパ(巻き寿司)、妻は温ククス(スープの温かい冷や麦のような麺)を食べる。
 何だかいつにもまして名残惜しい。

IMGP4954

 娘夫婦にしばしの別れを告げて、まだフライトまで随分時間があったので、免税店でさらに買い物をする。もうあと100g単位でないと重量オーバーなので軽い物を買う。

 これがいけなかった。
 私たちは出発ロビーと反対方向に歩いて行ったので、そこから引き返してロビーに行くのに30分近くを費やしてしまい、もう搭乗ぎりぎりの時間であった。
 搭乗口に着いた時にはハアハアいっている。

IMGP4965

 焦っていたのと席が窓際ではなかったので、離陸からフライト中の写真はない。

 1時間ほど飛んで、またうとうとしているうちにもう佐賀空港である。
 これくらいの時間だと、「自国から外国に行って帰ってきた」、という感慨よりも、「田舎から都会に行って帰ってきた」という感慨の方が強い。

 だが、それから10分もしないうちに、私は「外遊の帰り(大袈裟)」であることを思い知らされたのだった。
 以下、次号。

しばし別れの韓国旅行10-恩人との夕食-(河童亜細亜紀行96)

未来への道

 韓国人のAさんは娘にとっての恩人である。

 渡韓当時韓国語力がほぼ皆無だった娘にいろいろなことを教えて下さり、韓国での生活や習慣について手取り足取り教えてくださり、娘のオンニ(お姉さん)のようにお付き合いしてくださった。

 それだけではない。
 
 その日、婿殿はたまたま仕事で帰りが遅く、数日前から体調が悪い娘はその帰りを待っていたそうだ。

 心窩部の胸焼けのような症状として始まった疼痛は、次第に下降してマックバーネー点に集約され、筋の反跳痛を伴うようになっていた。
 医療人である娘はそれが何であるかを悟っていたが、「いざ」というタイミングを逃し、要は一人で苦しみつつ我慢する、という時間が継続していた。

 薄れゆく意識の中で娘がほとんど反射的に電話を掛けたのが、Aさんの番号だったという。

 Aさんも数日前から眩暈と発熱に襲われていて、ほとんど寝込んでいるような状態だったらしい。後にそれは愛息からうつされたインフルエンザだと判明したのだが。

 娘の電話を受けたAさんは、自分が具合が悪いにもかかわらず娘を病院まで連れて行ってくださったのだ。

 虫垂炎は医療人以外にとっては大した疾患ではないと思われているが、実は一歩間違えれば大変な疾患である。
 ほんの60年前、つまり私が生まれるちょっと前まで、それは致命的な疾患であった。
 その後、急速に発達した医学によって、それは世間的なイメージでは通過儀礼のような疾患に変わった。
 それでも、我慢して治療が遅れると致死的であることを、私は小学校の頃の横綱玉の海関の予後で知った。当時の医師が虫垂にちょっとでも異常があるとすぐにそれを切除しようとしたことが、それを逆説的に暗示していた。

 医療の発達した現在でも、虫垂が化膿して破裂すると細菌が腹腔内に播種され、腹膜炎を起こすと治療は途端に難しくなる。そのまま敗血症になって死亡することもあるのである。

 したがって、虫垂炎の場合はまだ深刻な病状でないうちにいかに早く治療を開始するか、が重要となる。

 娘の場合はもともと慢性のものがあったため、急性化してもその深刻さが今一つ自覚されなかったから、危うく大変な事態になるところだったのだ。

 連絡で婿殿が駆けつけた後は婿殿が面倒をみたらしいが、Aさんがいてくださらなかったら、と思うと、どれだけ感謝しても感謝しきれない。

 Aさんと食事をしているときにその話をして謝意を伝えると、
「いえいえ、本来なら私がずっと付いていなければならなかったのですが、私も具合が悪くて、申し訳ありませんでした。」と、東亜人らしい謙遜の言葉が返ってきたので、涙が出そうになった。

 Aさんは日本留学中に愛息のB君を身籠り、予定より随分早い時期に出血し、日本の病院で施術され出産したのだそうだ。随分長い間養生が必要な、深刻なお産だったらしい。
 Aさんは「あれで私の人生は変わりました」と、溜息とも感慨ともつかない言葉でその顛末を締めくくった。
 B君の名前は日本の教会の名からとったらしいが、使われている漢字は「日本(の医療人)に感謝する」という意味にも取れる。私はそのことをAさん夫婦に言わなかったが、密かにそうした意味もあるのではないかと思った。もちろん私のいつもの勘違いの可能性が高いが。

 とある日式(韓国風日本料理)の店の前で初めて会ったときから、ご主人のCさんともども吃驚するくらい日本語の上手な人だなと思っていたが、そうした経験をしていたのだ。

 私たちはいろいろな話をしたが、「私たちは理系ですから」といいつつ、それが謙遜だと判るくらい文系の教養もあり、ユーモアもあり、実に愉快な時間であった。

 ただ、以前も書いたが「外国語効果」というものがあって、人は外国語を話す時には神経ネットワークの2割が翻訳などの語学処理に使われてしまうから、自国語を話している私たちと話が合うということは、この人たちは私たちより2割くらい賢いわけだ。

 韓国人には山葵が苦手な人が多いが、Aさんは私たちがチョコチュジャン(唐辛子味噌を酢で溶いたもの。韓国ではよく刺身を食べるのに使われる)を付けて刺身を食べているのを尻目に、山葵を結構多く付けて刺身をぱくついているのだった。

 Cさんは何と日本の納豆が大好きで、日本に行くたびに大量の、あらゆるメーカーの納豆を買いこんでくるのだとか。
 韓国にもチョングッチャンという納豆があるが、この臭いが嫌いな人が多い。Aさんに言わせるとCさんの靴下の臭いのようだとか。
 だが、日本の納豆はそこまで臭くないので家族全員好きなのだそうだ。

 今この話を書いていて思い出したのだが、納豆のチョングッチャンと「鄭局長」の発音はどれくらい近いのだろうか。Aさんに聞くのを忘れていた。もし極似ているのなら、私の韓国語による冗談第一号完成である。

 閑話休題(またいらんじこけんじよくを)。

 私は韓国人とちゃんと話をするたびに、自分の中の「韓国人」が壊れるのを感じる。
 それはときに悪い意味の場合もあるが、大抵は良い意味である。

 人間はそう簡単に一括りにはできない。
 考えてみれば、相手は6000万人もいるのだ。同じ思考や嗜好をしているはずがない。

 日式の店を出て、Aさんの家に招待していただき、私たちはまた深夜まで話をした。

 B君のピアノの披露もあった。今はショパンの「革命」を練習しているようで、是非聞きたかったのだが、これはまだ未完成のようで、B君が照れて聞かせてもらえなかった。

 いい加減酔っていた私は、昔子供向けの本で読んだエピソードを思い出した。それはパリで客死したショパンの心臓だけが祖国ポーランドに帰った話である。
 私は得意になってその話をしたが、後で「あの話本当だったっけ」と心配になり、ネットで調べてみたら本当だったのでほっとした。「海峡を越える知ったかぶり」ではなかったのだ。

 大学の先輩と後輩であるAさんとCさんは、ある学問の分野での日本の学者の業績に憧れて海峡を渡ったのだそうだ。だから彼らの恩師は日本人なのだ。
 Aさんはその話を、「私、少女の頃は日本より韓国の方が大きいと思ってたんですよね」と私たちを笑わせながら語った。

 学問というものの大切さを改めて思う。そして志の大切さも。

 本気で学問を志した瞬間、決して「自分が一番だ」とは思えなくなる。知識や技術のレベルが上がれば上がるほど、目は世界に向いていく。自分のつまらない鼻っ柱より、もっと大切なものが見えてくる。

 Aさん夫婦は大学生当時別に日本が好きだったわけではないだろう。自分たちが志した学問の第一人者が日本人だっただけだ。だから、海峡を渡る。その一途さと行動力が羨ましい。

IMGP4866

 宴も果てて、Aさん夫婦が娘夫婦の家の近所まで送ってくれた。
 娘たちと、Aさんたち。
 娘は本当にいい人と巡り合った。これからの時代は彼らのものである。

 私たち夫婦もこれからの時代に混ぜてもらえると嬉しいが。

 娘夫婦を温かく見守って下さった韓国のみなさん、本当にありがとうございました。

 といいつつ、まだ続きます。Aさん夫婦もおそらくまだ登場します。

しばし別れの韓国旅行9-オルシンは辛いよ2-(河童亜細亜紀行95)

椅子に座るオルシン

 そろそろ腹が減ってきたので民俗村を出て昼食に向かう。

IMGP4742t

  民俗村からA市の中心街まではタクシーで30分くらいである。
 日本でタクシーに30分も乗ったらとんでもない運賃になるが、公共料金の安い韓国では同じ距離をバスに乗るくらいの運賃である。もっともバス代はさらに安いが。

IMGP4743

 婿殿が用意してくれた参鶏湯の店に向かう。



 待ってました。
 参鶏湯登場である。

 干し棗さえ手に入れば自分でも作れるのだが、やはり店で食べるものは美味しい。
 以前は塩を相当入れないと物足りない味に感じていたのだが、年を取って高血圧食を食べているうちにちょうどいい塩梅になってしまった。

IMGP4745

 だが、やはり韓国料理は少し辛味があった方が美味しく感じる。

IMGP4455

 昨夜のタッカル(鶏足の激辛焼き)で腸内マグマが活性化してしまった私は、これ以上「赤いもの」を食べられない。さて、どうしよう。

 このとき、私は韓国料理を食べ始めてから30年で初めて閃くものがあった。そうだ! こうすればいい。

IMGP4752

 これがその食べ方をした後である。

 最初に登場した時に比べて汁が赤みを帯びているのが分かると思う。

 それは、「食事のときに必ずクッか湯(タン)、つまり汁物を頼んで、その中でキムチなどの辛い物を洗う」という食事マナー(違反?)である。
 こうすると付いている唐辛子やコチュジャン(唐辛子味噌)は下に沈むから、その最後の部分を飲まなければ、大量のカプサイシンが体内に入ってくることを防げる。

 驚くべし、適度に辛味の付いた美味しい参鶏湯を食べた後なのに、私の腸内マグマは沈静化したままで、駆け下るそれを脂汗を流しながら我慢して「ファジャンシルオディエヨ(トイレ、どこですか)」という、この30年来100回以上(白髪三千丈)発した言葉を口走りながら「トイレ探索旅行」をすることはなかったのである。

 今後、私は、韓国人に見つけられて「アンデヨ(駄目です)!」と叱られるまで「赤いもの」はこうして食べようと思う。
 ただ、「ビールとマッコリを混ぜて飲む」という行為同様、すぐに彼らに見つけられて阻止されそうだが。きっと「いい年をしてあの日本人は…」と眉を顰められるに違いないが、激怒はされないだろう。

IMGP4755

 Aさんとの夕食の約束まではまだだいぶ時間があるので、バスで買い物に行くことにした。
 おほん! そういうことは自分のうちでやりなはれ!(©雁屋哲)

 娘が自分の交通カードで4人分の料金を払ってくれたので、スムーズにバスに乗り込む。
 以前はこれが大変だったのだ。

神風バスで老婆転がる

 日本で「一時停止」したらバスの運転手全員が罰金を取られそうな停止の仕方をバス停でしていたのだ。友人で当時ソウルに留学していたA君は何度かお年寄りがローリングするのを見たそうである。

 ところが、このバスの運転手は「80年代風」の運転だった。
 もちろん時代の流れで随分マイルドにはなっているのだが。
 これは韓国人たちも、「何か運転荒いよね」というようなことを小声で話していたから私の主観ではない。

 バスが次のバス停で急停車した時、油断していた私はよろめき、椅子に手をついて身体を支えようとした。
 すると何とこの席の背もたれがたまたま可動式で(ほかの席はそんな仕組みになっていないのになぜそうだったのか分からなかったが)、その席に座っていたアガシ(お嬢さん)の背中に手をついて支えてしまい、しかもそれでも支えきれなかったため、私の体重でアガシが前につんのめる、という事態になってしまったのだ。
 立派な交通事故である。

 自分では平気のつもりでももう若くはない。
 午前中の仕事と、佐賀空港までの長時間の運転と、仁川までのフライトと、A市までの長距離バスでの移動と、タッカルによる下痢が、確実に私の体力を奪っていたのだ。
 でなければこの程度でよろめくはずがない。

 それにしても咄嗟に口から「チュエソンハムニダ(ごめんなさい)」と出たのには自分で吃驚した。
 30年前に韓国語を勉強してから、一度も使用したことのない言葉である(さんざん迷惑をかけているくせにどういう奴なんだ)。
 この一言がなければ、私の巨体に押し倒された形のアガシは激怒していたかもしれない。

 皆の衆(村の長老調で)。
 勉強は若いうちにしておくことじゃ。若いうちに覚えたことは一生忘れぬものじゃ。

 娘によると、席が空いて手摺を握って座っている私は、「杖をついたオルシン(ご老体)」そのものだったそうである。

しばし別れの韓国旅行8-民俗村で繰り広げられた餅論争-(河童亜細亜紀行94)

餅論争

 実は私には、この民俗村に入った時から気になっているものがあった。

IMGP4538

 それはこの可愛い女の子、じゃなかった、韓国風のお菓子である。 

 看板の上から「糯米乳菓」「蜂蜜棒飴」「民俗村揚菓子」だ。美少女は何と言っているかというと横書きが「餅、召し上がって下さい」縦書きが「餅、召し上がって下さい。二度召し上がって下さい。」少女が持っている袋には「韓国民俗村蜂蜜餅」と書いてある。

 我が熊本には「朝鮮飴」という伝統菓子があるが、少女が食べている餅がこれによく似ているような気がしたのである。

 私は長いことこれは加藤清正が文禄慶長の役(韓国では壬申倭乱と呼ぶ)で韓国から持ち帰ったものだと思っていたのだが、その由来はもっと古いらしい。
 清正公前には「長生飴」「肥後飴」とよばれていたこの菓子は、遣唐使が製法を持ち帰ったもので、清正公の出兵の時に兵糧として持って行ったことから現在の名前に変化したのだということだ(複数の製造元のHPによる)。

 いずれにせよ、美味しいものは国境を越えるから、戦争中とはいえ互いの食物が影響を与え合うということはあり得る話である。
 それに清正公の兵は持って行った兵糧が尽きれば現地の食材で食事を作ろうとしただろう。そうすれば日本で作ったものとは微妙に風味が変わったはずである。


IMGP4667t

 実際に売っているものを見ても、実によく似ている。
 これは食べてみなければ。

IMGP4669

 買った。
 前回、前々回からポケットに溜まっている小銭がちょうど3000ウォンあったので全部小銭で払う。菓子屋のアジョシ(おじさん)は苦笑いである。

 結論。これは「朝鮮飴」ではない。
 朝鮮飴よりずっと固くて、肉桂と生姜が効いている。

 だが、この味はどこかで食べたことがある。遠い記憶を呼び起こす味である。とても美味い(他のご一行はお気に召さなかったらしく、ほとんど私一人で食べた)。

 あ、「高瀬飴」だ! 
 思い当たった。高瀬飴はもう少しさっぱりした味だが、噛むとだんだん柔らかくなってくる食感がよく似ている。

 高瀬飴もまた中国から製法が伝わったという説と、清正公の時代に兵糧として完成されたという説がある(製造元HP)。

 私が妻に「これ、高瀬飴だよね」と言うと、「はあ? 似ても似つかないよ!」と瞬殺された。
 妻に言わせればこの餅は「蕎麦掻を水飴で固めたような味で、原料はたぶん蕎麦粉」で、好きではないそうだ。

 それからしばらく「この飴は日本のどの飴に似ているか(あるいは逆にこの飴に似ているのは日本のどの飴か)」という議論になったが、未だに結論は出ていない。

 いずれにせよ、どの菓子も元々は中国(あるいはもっと西)で発明され、東遷していくうちに土着の材料と人々の好みに合わせて変化していったのだろう。

 久しぶりに朝鮮飴と高瀬飴を食べたくなった。

しばし別れの韓国旅行7-伝統的婚礼に日韓の若者を想う-(河童亜細亜紀行93)

得をするのは誰だ

 韓国騎馬(実はモンゴル騎馬)の妙技に酔った後、さらに奥に行くと、今度は韓国での婚礼の様子を紹介するショーが行われていた。
 
IMGP4636t

 鶏の剥製やら鴨のデコイなどが準備されている。
 かつてはこれらは生きているものだったのではないだろうか。

IMGP4639t

 まず両班(韓国の貴族)の格好をした人が登場して祝詞を読み上げる。

IMGP4642t

 そして新郎登場。跪いてお辞儀をする。

IMGP4643t

 いよいよ新婦登場。
 美しいのだが、丸い頬紅が印象的な化粧である。熊本の「おてもやん」を思い出す。

韓国の婚礼

 お互いに対面して愛を誓い、婚礼の儀が無事に成った。

IMGP4657

 蠟梅の咲く麗らかな春の佳き日である。

 少し古い(2010年)データだが、実は韓国の20-40歳代の未婚率(未同棲含む)は35.8%と、日本(29.7%)より高い。40歳代ではわずか7.9%だから、20.30代から急速に意識が変わっているようだ。

 これには男尊女卑や嫁姑関係、一方的な家事負担に対する女性側の反発、若年層の就職難やワーキングプアなど、さまざまな要因が関係しているようだ。

 しかし、スマホの普及によってITがいつも手元にあるようになり、「2次元でないと(バーチャルリアリティーでないと)萌えない」という、日本の若者にも増えてきた心性も要因の一つかもしれない。

 3次元と付き合うのは応用力が要るし、時には危険が伴う。

 2次元ならば相手は自分の手の内にある平面から飛び出してくることはないから、自家薬籠中の物である。
 相手(たとえばゲームのキャラクター)の手の内に慣れていなければ、何度も練習してパターンを覚えて次の動きを推測できるようになる。
 付き合うのが面倒くさくなれば消してしまえばいい。

 ところが、3次元の相手は何をしてくるか分からない。
 もちろん社会的な常識というものがあるから、いきなり殴りかかってきたリすることは特殊な状況(たとえば戦闘状態や相手が犯罪者)以外ではないが。

手をつなぐ
 私が韓国人に対して一番驚いたのは、かれこれ30年前、知り合った男子学生からいきなり手を握られた時だった。別に相手の恋愛対象が男性だったからではなく、親愛の情からそうしたらしいのだが。

南大門で拉致される

 そういえば友人と2人でいきなり洋服屋から「ポッサム」されたこともあったな。

 これは当時の私の常識の中にはなかったからちょっと驚いた。

 しかし、同じ民族であっても、生まれも育ちも違う2人の男女の間には、実はこの手の非常識はたくさんあるのではないかと思う。
 たとえ小さい常識のギャップであっても、共に末永く生きていくことを意識した瞬間から、これはボディー・ブローのように効いてくる。「二人だけの真実」が積み重なっていく。
 そうやって互いの人間性が鍛えられていく。

IMGP4662

 伝統的婚礼は科挙に合格するために本の虫になっていた新郎と、乳母日傘で育てられてきた新婦にそうした覚悟を求めるために行われたのだと思う(自分は結婚式をしていないくせに偉そうに)。

 もっとも、結婚についていえば、この鍛錬は歴史的には主に女性の側に課せられ、女性の順応力とタフさに委ねられてきたような気がする。

 日本や韓国における婚姻率の低下と離婚率の上昇は、これからはもっと男性がこうした鍛錬をする必要があることを示しているに違いない。知らんけど。

 では、日韓の男子は女子に愛想を尽かされないためにどうするか(まず自分が愛想尽かされないようにしろよ)。

 それは、3日でいいからバーチャルから離れることだ。

個体発生は系統発生をなぞる

 そして海峡を渡ろう。飛行機でも、船でも、何でもいい。

 条件がある。一人がいい。彼女がいても一人旅がいい。そして自国語を使わないことだ。できればお互いに英語で話すのがいい。
 相手の国の言葉を使わなくても、相手は自分が思っているよりずっと教育がある。ブロークンな英語なら通じる。これは何せ30年前ですらそうだったのだから、今ならなおさらである。お互いの国の大学進学率が50%を越えているのだ。

 なぜそうするかについては、河童ソウル徘徊旅行2-日本の好きな韓国人と出会う-(河童亜細亜紀行36)を参照してほしい。

 「自分は英語が喋れない」という人も、外国人相手に何とかコミュニケーションを取ろうとしているうちに、「え、俺って、こんなに英語を知ってたんだ」と驚くはずである。そう思えなくても大丈夫。相手か、相手の友達に誰か助けてくれる相手がいる。
 もしいなかったら別の人に話しかければよいだけの話だ。
 日本には「旅の恥は掻き捨て」という諺があるのだ。

 そして、渡航前に思い定めた場所に辿り着くために現地の人に道を尋ねる。同年齢である必要はないが、できれば同性がいい。
 この場合、もちろん「自分の直感でマトモでない」という人は避ける。感性が問われる瞬間である。
 どんな国にも人を騙したり踏みつけにしたりして飯を喰っている人間はいるからだ。
 日韓の間だったらこの直感にはあまりズレはないはずである。

 相手が暇なら、案内してもらおう。これは30年前と違って、なかなか難しいかもしれない。が、学生が長期休暇の時期は狙い目である。

 そして、一緒にご飯を食べて、いろいろな話をしよう。仲良くなったら酒を飲む。食事はこちらの奢り、酒は割り勘がいい。
 ただし、酒を飲む場合は政治と歴史の話は避けた方がいい。たぶん、お互いに喋りたくてウズウズするはずだが、敢えて我慢しよう。

 帰国して、自分が今まで触れていたバーチャルの韓国人または日本人と、自分が案内してもらって一緒に食事した韓国人または日本人と、イメージがばっちり一致するかどうか確かめる。
 相手は「いつまでも昔のことにこだわって因縁をつけてくる韓国人」または「歴史を少しも反省しない日本人」だったか。 

 ここから初めて三次元が始まる。

 この儀式の後、君は三次元の女性が二次元の女性よりずっと魅力的に見えるはずだし、君が密かに気になっている彼女も、「あれっ、あの人、なんか変わったな(カッコよくなったな、などとは思わないので過大に期待しないように)」と思うはずである。

 あまり本気にしないように、と予防線を張っておくが、やってみる価値はある。

しばし別れの韓国旅行6-こんなところにも国際化-(河童亜細亜紀行92)

実はモンゴル騎馬の妙技だった

 衝動的に買った匙と箸と包丁を入れたリュックを背負って民俗村ツアーは続く。

IMGP4575

 奥の方にすごい人だかりがして騒がしいので行ってみる。

IMGP4588

 馬の曲乗りをしている。



 馬の上ででんぐり返ったり、鞍の上に立ったり、逆立ちしたり、騎射して見事に的に当てたり。 

IMGP4593

 笑いを取る役も用意されていて、よく完成された芸だ。

IMGP4613

 しまいに馬の上で組体操を始めてしまった。馬も大変である。

IMGP4617

 韓国乗馬の神髄を垣間見せてもらったショーだった。

IMGP4604

 と、思ったのだが、後でAさんに聞いてみると、実この青年たちはモンゴル人なのだそうだ。
 伝統的な乗馬のできる人は韓国人にはもうほとんどいないのだとか。

 なるほど。
 だが、「韓国人だ」と思ってみれば、韓国人にしか見えない。おそらく日本人が紛れ込んでいても分からないだろう。
 改めて、私たちはお互いにそういう存在なのだ。

 それにしても韓国にも外国人が増えた(私も今はそうなのだが)。

イワシの缶詰

 かつて30年前に私がB君とラブホに泊まりながら行脚した韓国には、まず日本人と米国人(米兵)しかいなかったような気がする。

 最近は大都市に近づくにつれ、様々な習俗の民族が様々な言葉を喋りながら屯している。

 その光景は日本と同じである。
 そして、西洋人以外は内心あまり歓迎されていないだろうことも。

 アジア人同士というのは互いのエキゾチシズムを刺激しない。
 では気楽に付き合えるかというと、世界で最も近しい日本人と韓国人ですら踏めば関係が壊れかねない地雷がお互いの陣地に埋まっている。日韓の場合は歴史問題だろう。

 最近は中韓と仲が悪いからか、日本では台湾ブームのようだが、相手に自分と同じように感じ考えることを期待している限り、行きつく先は同じのような気がする。

 これからも海の彼方に「親日国」を探してはブームに乗り、相手が自己主張するとムッとして離れていく、ということを繰り返すのかと思うと、少々悲しくなる。

 韓国はどうなのだろう。世界の中になんでも言い合える友人はいるのだろうか。

 韓国の中のアジア人の一人になって歩いているとき、そんなことを考えていた。

しばし別れの韓国旅行5-民俗村で匙と箸と包丁を買う-(河童亜細亜紀行91)

この匙は本物だ

 翌朝は早朝から妻と散歩も兼ねて近所のコンビニに買い物に出かけたのだが、20分も経たないうちに娘たちのアパートに戻ってくることになってしまった。
 原因は私の腸内で沸々と活動を始めたマグマのせいである。
 やはり昨夜のタッカル(鶏足の激辛焼)がいけなかったらしい。
 腸内マグマが活発化すると韓国旅行は楽しさが半減してしまう。もう観光をしているのかトイレを探しているのか分からなくなる。
 幸い今回は食べた量が少なかったおかげか、半日ほど絞り切ったら治まった。
 夕方にはAさんたちと会う約束をしている。会合の最中にしょっちゅう中座したら失礼である。

IMGP4523

 昼近くになってから民俗村に出かけた。 
 朝鮮王朝時代の街並みを再現したテーマパークであり、映画やドラマの撮影にも使われるそうだ。

IMGP4554t

 工芸品を作っている通りを再現したところ。日本でいえば鍛冶屋町だろうか。

IMGP4558

 これはキセル。なかなか良いが、生憎煙草を吸わないので不要である。

IMGP4560

 匙を作っているところ。冶金からやっている。色からするとどうやら真鍮製らしい。

IMGP4561

 なるほど、こうやって出来上がっていくのか。大した技術である。

朝鮮1両銀貨

 後はこの固有の技術に外来の起爆剤が放り込まれれば、近代がやってくる。日本はそうして近代を迎えたのだ。
 この素晴らしい出来の匙と銀貨は韓国にもその可能性があったことを示している。

 残念ながら韓国の近代化は実に不幸な帰結を辿ったことは、既に仁川旅行の際に振り返った(韓国仁川ミステリー?ツアー7-古銭マニアの見た韓国近代化への苦悶-(河童亜細亜紀行66))。そしてそれに我が日本が大きな責任があることも。

 私はなけなしの金を出して匙と箸のセットを2つ買った。
 最初私が財布から金を出そうとしたとき、「まさか1つ買うつもりじゃないよね?!」と妻が大きな声を出したからだ。
 本当はさすがに手作りだけあって私には不相応な値段だったのだが。後から尋ねると、妻もまたこの真鍮の匙の美しさに魅せられたのだという。

IMGP4970

 これがその匙と箸である。
 わかる人にはわかると思う(とかいって実は工場製のステンレスだったりして)。

 今は作りたてのものを粒子の細かい磨き粉で鏡のように仕上げてあるから銀色が勝っているが、使い込んでいくうちに表面が凸凹になって乱反射し、地金である真鍮の黄色みが勝った渋い(悪く言えば日本の五円玉のような)色になって行くに違いない。ならなかったらステンレスである。

 店の人が手振りで「色が悪くなってきたらこれ(磨き布)でこうして磨きなさい」と教えてくれた。そのときはここに持ってきて磨いてもらおうか。

 この工房の隣は包丁屋で、これが手製にしては吃驚するほど安いので、つい買ってしまった。

川尻駅にて

 前々回の韓国行で買った買い物用のリュックに入れたのだが、見たくて仕方がない。だが、こんなものを公衆の面前で持ち出したら確実に日本に帰れなくなる。

 それにしてもどうやって持ち帰ろうか。飛行機でも船でもどう考えても運べない。
 結局、娘夫婦の引っ越し荷物と一緒に日本に送ってもらうことにした。この包丁に会えるのはおそらく2ヶ月以上後である。

 この韓国の包丁で天草の新鮮な魚を捌く日が待ち遠しい。

しばし別れの韓国旅行4-大和撫子の気合-(河童亜細亜紀行90)

入国は気合だ

 妻の機嫌も直り、飛行機は無事仁川空港に着いた。

IMGP4375

 綺麗な夕焼けである。

 ここからは格安航空のいつもの旅程で、

IMGP4378

 1kmくらい歩いた後地下鉄に乗って出入国管理局や税関のある第一ターミナルに向かう。 

IMGP4379
 
 最近は韓国でも日本同様ヒジャブ(スカーフ)を被ったイスラム女性をよく見かけるようになった。

 さて、因縁の入国審査である。

モニター画面の機械に指を置く

 過去何度かここでトラブルを起こしている私たち夫婦である。

 このところの世情のせいか、前回の仁川旅行より空港の警備が厳重になっている。

 窓口には入国を待つ列と管理官を隔てるゲートが作ってあり、物理的に一人ずつしか入れなくなっている。
 これは私のように順番を待ちきれずに前の人に付いて待合の線を越えてしまう不届き者がいるからだろう。

 それだけでなく、列に並ぶ前に、看板にわざわざ矢印と囲みをして「ここを詳しく書いてください」と「滞在先住所」を示してある。

 その旨妻に言ったのだが、「うるさく言われたことないよ」という。
 迎えに来ているはずの娘にメールしても「そこは詳しく書かなくていいよ」という返信。

 娘夫婦の住所の一部である「〇〇道〇〇市〇〇洞」だけ書いて、管理官に提出する。

 ほらー! 

 「ここはもっと詳しく書いてください。」と言って突き返された。隣の窓口の妻もご同様である。

 一旦列から離れて我が家に婿殿から届いた宅急便の住所を確認する。
 全部英語で書いてある。長い。
 許可証の狭いスペースに入るはずがない。全部漢字に直しても、やはり入らない。

 仕方がないので豚の尻尾のようにくるっと回した矢印を書いて、裏面に書く。

 私はやっとパス。
 
 ところが隣の窓口の妻はまた拒否されている。
 「表に書いてもらわないと。ここをスキャンするんですから。」と言われている。

 どうする、妻。

 「入らないですよね。ここ。狭いから。どこに書くんですか?!」
 妻が住所欄を指さしながら、ドスの利いた声で主張している。女房岳の噴火の前触れの地響きが聞こえてくる気がした。

 管理官がひるんで、「仕方ないですね」と受理。
 
 私に追いついた妻が、「ああいうのは気合よね…」と低い声でボソっと言った。
 私は大和撫子と結婚したつもりだったのだが。

 預けていた荷物がなかなか出てこず、飛行機が着いたのは6時半くらいだったのに、娘と合流したのは既に8時近かった。

IMGP4381t


 娘にチケットを買ってもらって、

IMGP4385

 バスに乗り込んでゴーである。ただし、写真のバスはプライバシー保護のため、わざと違う行く先のものを選んでいる。

IMGP4437

 娘夫婦宅に着いたときはもう9時を過ぎていた。

IMGP4449

 仕事で遅くなっていた婿殿も合流してカルビ屋で夕食である。

IMGP4451

 さすがカルビ専門店だけあって美味い。ただし、日本でよく知られているカルビ(ソカルビ=牛アバラ肉)ではなく、テジカルビ(豚カルビ)である。

 これがあっという間になくなったので(私が半分くらい食べた)、別のものを頼む。
 婿殿がメニューを見せてくれた。
 サムギョプサルやテッチャンなど、日本でもお馴染みのものもあるが、しばらく韓国とはお別れである。どうせなら安くて珍しいものを探す。

 「マクチャン」というのがあった。安い。早速2人前頼む。

IMGP4453

 これが来たのだが、ちょっと怯む外観である。わざわざテンジャン(味噌)が付いてきているから結構癖があるのかもしれない。

IMGP4454

 焼き始めたが、このまま食べたら噛み切れなくて喉に詰まりそうである。

IMGP4456

 妻が「私はこれ食わんよ!」と宣言したので、日本でもお馴染みのサムギョプサルを頼む。

IMGP4458

 マクチャンは輪切りにし、さらに縦に切ったら食べやすくなった。ちょっと癖があるが、味噌ダレと相まってなかなかの美味さである。ほとんど私一人で食べる。
 後でよく調べたら、マクチャンは豚の直腸であった。切り開いてよく焼いておいてよかった。
 豚のサナダムシは怖いのだ。

IMGP4455

 実は私はマクチャンと共に、タッパルを頼んでいたのだ。
 これは以前見たイヌアッチケー(仮名)の番組に登場していたから、何であるかは知っていた。
 この番組は日本のJK(女子高生)が中国のJKのところに泊まりに行くという企画だったが、日本の女の子が食べたのがこれだったから、元は中華料理なのかもしれない。あるいは韓国からの逆輸入か。

 赤いタレがかかっているから分かりにくいが、実はタッパルは鶏の足である。日本でいうところの「モミジ」という奴で、我が国では基本的にスープの出汁を取る食材である。

 元が中華なら赤くてもそこまで辛くなかろう、と思ったのが運の尽きだった。

 これは齢55歳の私が今までに食べた韓国料理の中で五指に折り得る辛さだったのだ。
 滞在3年ですっかり辛さに慣れてしまった婿殿すら、一口食べて「うわっ! かれえ!」と叫んだ代物である。

考える河童

 翌日からはいつもより短い韓国の滞在時間がすっかりトイレ探しの旅と化してしまったのだった。

IMGP4460

 それでもタッパル以外の肉はすべて私たち(主に私)の腹に収まったのだった。

しばし別れの韓国旅行3-女房岳久しぶりの噴火-(河童亜細亜紀行89)

温厚な妻が怒った

 妻は大和撫子そのままの温厚な女性である。

妻を忘れる

 かつて職場に新聞を届けに来たのに私に忘れられて置き去りにされたときさえ怒らなかった。

 ただし私の屁に関してだけは別で、

内臓を洗う

 「内臓を洗え!」とか、
殺人ガス禁止

 「おならはビニール袋にしろ」などといった、激怒に伴う名言を吐いている。

女房岳噴火寸前 (2)

  だが、私は何度か「女房岳」の大噴火を経験しているから、ちょっとした地震でも震え上がることがある。

 今回、私は久しぶりに妻を怒らせてしまった。

 きっかけは飛行機の席である。

 私は飛行機に限らず窓側の席が好きである。よほど通いなれたルートでない限り、指定できる限りは窓側に座って外の風景を楽しむ。
 最近は職場でも何となく窓側に座っているような気がするが、これは無視している。

 特に写真に凝り始めてからは乗り物に乗るときは必ず窓際に乗る。ときにそれが空いていない時は、わざわざ立ってドアの窓から外を撮影する機会を狙っている。
 もっとも前がガラス張りの列車は別で、この場合は窓側ではなくて運転席の反対側の一番前の席に座る。座れない時はその前に立つ(せっかく一番前の席に座った人が見えんじゃろうが)。

 そんな私だから、飛行機のチケットを受け取る時、「窓側にされますか、通路側にされますか」と尋ねられれば、躊躇なく「窓側に」と答える。
 出張などで独りの時はこれでいい。出張の時は一応(冗談)仕事なので写真撮影は遠慮するが、外の景色を見ながら仕事に向かうことになる。

 ところが妻と一緒の時には、「窓側」と頼んでも、私が窓側とは限らない。それどころか、ほとんどの場合、窓側のチケットは妻の名前になっている。

 こういうときはそれとなく、「窓側かあ、いいなあ」とか、「俺、窓側が好きなんだよね」などと妻に圧力をかけるのだが、「ふーん…そう…」と言ったきり、絶対に「席を替わろうか」などと言うことはない。
 しかも、大抵の場合、妻が外を見ているのはせいぜい30分で、その後は寝てしまっている。

 なんという贅沢な無駄遣いだろう。

IMGP4320
 
 今回の行きの飛行機も、妻は窓側の席に座ると、10分も立たないうちに寝息を立て始めた。

IMGP4329

 これは一つには今回の旅行は大陸からのPM2.5らしき霞で見通しが悪かったからかもしれない。

 私も仕事の後長時間運転をして疲れていたため、写真を撮るのを諦めて目をつぶっていた。

 しばらくして、妻の声で、「あっ、ねえ、ここどこだろう。もう陸が見えたよ。」という。

IMGP4330

 身を乗り出して窓の外を見ると、確かに陸地が見えている。まだ離陸して30分くらいである。
 「五島じゃない?」と答えてまた目をつぶろうとしたのだが、どうもつい最近見た風景である。

 よく見ると、これは釜山の海雲台である。もう韓国に着いたのだ。

IMGP4332

 窓の下には韓国の山岳風景が広がる。

IMGP4337

 まだ雪の残る山頂もあるようだ。
 妻は韓国上空になったことに安心したらしく、目を閉じて小さな寝息を立てている。

IMGP8418

 私は今回が韓国デビューの「頭脳13mmF1.9(仮名)」を装着した愛機「ペンテコステオバQ(仮名)」のシャッターを切りまくった。

IMGP4355

 飛行機が仁川上空に差し掛かった時、寝て居るはずの妻が突如、「大概にせんね!(共通語で「いい加減にして!」)」と叫んだ。周囲の人が一斉に私たちを見るほどの声だった。

IMGP4372

 私はシューンとして仁川大橋の写真を最後にカメラをバッグにしまった。
 起きていたら顔の前で「カシャカシャカシャカシャ」さぞ五月蠅かったことだろう。
 こぎゃんありますもんなー(熊本方言で「この人はこういう(変な)人ですからねー」)。

 後で見てみるとこのレンズで撮った写真は無限遠ではすべて特定の場所に黒点が映っている。ゴミが混入しているのだろう。どおりで安かったはずだ。

 温厚な妻を怒らせてまで撮った写真は、どれも霞でボヤーッとし、レンズに混入したゴミが映った最悪の写真ばかりだった。

 飛行機から降りる頃には妻の機嫌は直っていたが、久しぶりの「女房岳大噴火」であった。

女房岳噴火寸前 (3)

 
 女房岳はどうも旅先では噴火しやすいようだ。

 それにしても。
 寝るんだったら窓側を譲ってくれたらいいのに。

  気をつけよう 人には五月蠅い シャッター音     かぱを

しばし別れの韓国旅行2-イルボンサラム(日本人)です。-(河童亜細亜紀行88)

私は日本人

  しつこいようだが、私は日本人である。

 日本国籍を持ち、日本の法律(含憲法)を守り、日本語を喋り、日本の文化を尊重し、日本人を愛している。

  もっとも、ナチスはユダヤ人を迫害する時に、「①お前はユダヤ人だ②お前はユダヤ人を褒めたからユダヤ人だ③お前はユダヤ人と考え方が似ているからユダヤ人だ」という定義を使ったから、ナチスにいわせれば私は②の定義によって韓国人や中国人になるのかもしれないが。

  それにしてもこれは何だろう。

  空港の職員や飛行機の搭乗員といえばいろいろな民族と常に接している職業のはずである。
  にも関わらず、誰も私に日本語で話しかけてくれない。

  今回の韓国の旅は佐賀空港からの飛行機と仁川空港の往復だった。

  最初は佐賀空港のカウンター。係員さんは我が同胞である。しかも、大和撫子である妻と一緒である。  
  だが、職員さんの第一声は「Two person?(お二人ですか?)」であった。ブロークンであるところに係員さんの戸惑いが表れている。「英語圏の人間ではない」と判断したのだろう。

IMGP4309

 その便の到着時、佐賀空港は韓国人率90%以上だったのだが、とりあえず「韓国人ではない」とも判断したらしい。
 それにしても何人と思ったのか。
 ここで私が「Yes. two.」などと下手な英語で答えたら相手の困惑がさらに深まる惧れがあったため、「ええ、二人です。」と日本語で答えると、以降は日本語で対応してくれた。
 おそらく最初は中国人だと思ったのではないかという気がする。

 次は飛行機の中である。
 私たちの搭乗した飛行機はいわゆるLCC(格安航空)というもので、「戴冠航空(仮名)」や「アジアな航空(仮名)」のような大手と違い、日本発着の便でも日本人の搭乗員が乗っていないことがある。
 私たちはツアー客ではないので入国申請書と税関の申告書をもらわなければならない。
 私は通りすがりの乗務員さんに「もしもし、日本語のを1つ下さい。」と、彼女の手元にある書類を指さして韓国語で言った。
 すると彼女は入国申請書と税関の申告書を1枚ずつ渡しながら、妻の方を見て「家族ですか?」と聞いた。もちろん私と妻は家族なので「ええ家族です。」と答えると、安心したような表情になって行ってしまった。
 妻が、「え、入国申請書は私も書かなきゃいけないからもう1枚要るよ!」と騒ぎ出したので、「そうだっけ?」と思いながらまた乗務員さんに呼び掛けて、「もしもし、それ(入国申請書)をもう1枚下さい。」というと、彼女は怪訝な表情になり、「家族ですよね?」と妻を見て言うので、「家族ですよ。もう1枚下さい。」というと、納得いかない顔でもう1枚申請書をくれ、行ってしまった。
 これは最初意味がわからなかったが、どうやら私たちのうちのどちらかは韓国人だと思われたようだ。韓国人ならば自国に入るのに入国申請書は不要である。つまり、「家族」というのは「韓国人の家族」という意味だったらしい。
 それにしてもどちらが韓国人だと思われたのか。妻も私もアジア人の風貌だが、どちらかといえば南方系の顔である。
 どういうカップルだと思われていたかについては2つのパターンが考えられる。1つは私が韓国語が多少喋れる日本人or中国人で妻は韓国語の分からない在日韓国人。もう1つは私が韓国語があまり喋れない在日韓国人で妻は日本人or中国人。
 おそらく後者の可能性が高いのだろうが、いずれにせよ私が日本人だと思われていた可能性は低い。

 とりあえず最初から日本語で話しかけてくれたのは帰りの飛行機の手続きをしたカウンターの係員さんだけであった。

 帰りの飛行機ではまた税関の申告書を貰おうとしたのだが、乗務員さんはハングル表記の入国申請書まで2枚渡そうとする。
 「これは要らない。」と返したのだが、申告書の方もハングル表記である。わざわざ「日本語のを」と頼んだのに。
 「日本語のを」と返そうとすると、「これは要りますよ」とまた渡そうとする。
 仕方がないので妻を指さし、「イルボンサラム(日本人)」、自分を指さし、「イルボンサラム」と言うと、やっと日本語表記のものを渡してくれた。
 これも一体私たちが何人だと思っての行為だろう。
 二人とも韓国語がちょっとできる在日韓国人だと思ったのか、あるいは単に面倒くさくて「こいつは韓国語で話しかけてきたからこれくらいのハングルは読めるだろう」とハングル表記のものを渡したのか。

 日本語の申告書のせいか、わたしは我が日本国の防疫で物を没収されるという人生初めての経験をしたのだが、その話はもっと後で。

これが中高年スタンダードだ

 たしかに最近の私の格好は「東亜人である」ということは分かっても、「日本人である」とは分かりにくいのかもしれない。かといって和服を着て韓国に行く、などというと「ド」のつく〇翼のようだし。ただでさえ私のブログには「バカウヨ」などという罵倒のメールが来ることがあるのだ。

 そのうちにあらゆる場面で「日本人ここにあり!」と叫ばないと日本人として扱って貰えなくなるのではないだろうか。

しばし別れの韓国旅行1-ヨロブンヨロガジロ(皆さんいろいろ)お世話になりました-(河童亜細亜紀行87)

韓国の方々に感謝

  娘が婿殿の転勤で韓国に住むと聞いた時、私はとても心配だった。

  娘はそれまで一歩も日本から出たことのない大和撫子だったからだ。

  そして私と同じく、控え目で自己主張をしない性格だからである(前半は嘘)。
 
 しかも、渡韓当初、娘の韓国語力は限りなくゼロに近かった。

  かの国では頻繁に自己を主張する言葉が飛び交っていることは、短期の旅行者として滞在したことしかない私にも推察される。

 言葉の分からない外国で自己主張の波に翻弄される、自己主張の下手な日本人。受けるストレスと、それによる心理状態はわざわざ考える必要もないだろう。

  正直なところ、私は、娘は2ヶ月くらいであれやこれや理由をつけて日本に戻って来るようになり、ある日「韓国なんか大嫌い!」と叫び、終いに婿殿は単身赴任になるのだと思っていた。

  だから3年に及んだ婿殿の任期の間(娘が渡韓したのは任期開始の3ヶ月後だが)ずっと韓国で生活し、帰国が決まった時に「帰りたくない」とまで言うようになったのは全くの意外だった。

  これは偏に娘とお付き合いをしてくださった韓国の方々のお蔭である。

  特にAさんという方には並々ならぬお世話になった。本来ならば実名を出して全世界に向けて感謝の意を表明したいところだが(大袈裟)、世の中にはどんなヘンな人間でもいるので、このブログのいつもの方針に従って仮名とする。

 この度婿殿が任期を全うして日本に帰国することになった。
 娘夫婦が韓国にいることを口実にしてしょっちゅう韓国に行っていた私たちは、今後は主に懐の健康状態の関係でこの国に行くことはぐっと減るに違いない。

 これはどうあってもお世話になった方々に父親として挨拶しなければ。

  今回の韓国旅行は年度末の仕事が忙しい時期に無理矢理入れたため家族や同僚にも相当の迷惑をかけたのだが、Aさんにだけはどうしても直接お会いして感謝の念を伝えたかったので、周囲の白い眼を無視して渡韓したのである。

  初日には韓国の大統領が弾劾失職し、最終日には税関で土産が没収されるなど、何時もの如くハプニングとア
クシデントの連続だったが、実に有意義な時間となった。

IMGP4310

  では、始まり始まり。

天草新一号橋を巡る珍説(毒にも薬にもならない話)

天草珍一号橋

 とある出張の途中、私は後輩で同僚のA君を助手席に乗せて世界遺産三角西港の近くを通過した。

IMGP7774

 ここからは架橋途上の天草新一号橋(新天門橋)が見える。

 まだアーチ部分が完成していないころだ。

 A君が言った。
 「あれ、どうやって登って降りるんですかね?」
 「は?」
 「ほら、あんな急角度で登って降りるって大変じゃないですか?」

 私は一瞬A君が何を言っているのか分からず戸惑ったが、彼の真意を悟った瞬間、唾と鼻水を噴き出してしまった。

 A君は車が橋のアーチに沿って登って降りて橋を渡ると思っていたのだ。

 A君はすぐに自分の勘違いに気付いたらしく、「ああ、あのアーチに車の通路が入るんですね。」と言った。

IMGP9590

 その言葉通り、しばらくするとアーチ部分が完成し、
IMGP2774


 通路が両端から伸び始め、

IMGP4021

 このほど遂につながった。

 車はもちろんこちらを通るのである。

 だが、A君のような勘違いをした人は彼だけではないらしく、妻もまた何人か「あれを登って降りるの大変よね」と言っているのを聞いたそうだ。

 どうもみんなでこの話題になるたびにその場の一人くらいは勘違いをしている人がいるようで、その頻度は推計1/5人。

IMGP8223

 旧一号橋はこの直線部分を車が通る。

IMGP4019

 アーチ部分の傾斜は相当のもので、もしここを通るのならプロのレーサー並みのドライビングテクニックが必要だろう。

 どう考えても新橋の方が不便になるはずはないのだが、新しい橋だから何か今までと違った新機軸があってほしいという願望が生み出した珍説のようだ。

 私も何だかアーチを車が通った方が豪快で面白い気がしてきた。

 早く新橋が完成して通ってみたい気がする。もちろんアーチは通れないが。

言語聴覚士草創期の神話(余は如何にして言語聴覚士となりしか外伝23)

実習生を呼びに行ったら

 久しぶりに言語聴覚士養成校時代の同期生と食事をした。
 「飲んだ」などと言うと「この間心房細動のアブレーションをしたばかりだろう」と怒られそうなので、あくまでも「食事をした」と表現しておく。
 九州のとある施設で勤務するA君である。

 私の養成校時代については「余は如何にして言語聴覚士となりし乎」を99回にわたって連載したことがあるが、この中にA君は登場しない。
 これは私がA君のことを忘れていたからではない。

  授業中の睡眠

 余は如何にして言語聴覚士となりし乎41(中退候補の両巨頭)という項で、私が「こいつらは確実に中退するだろうな」と思っていたB君とC君という2人のクラスメートについては書いたが、実はA君はこの2人と同等に学校に出てこないし授業も真面目に聞いていなかった。

 だから実際には「中退候補のトロイカ体制」または「三バ(カ?)烏」だったわけだ。

 ただ、B君とC君について書くのは一つのシャレになる。
 だいたいリハの養成校を中退する人の多くは留年を契機に、という場合が多い(中には真剣に進路を考えた結果という場合ももちろんあるが)。
 B君とC君の場合は「留年して退学するだろう」と思われていたが、これが実にうまくすり抜けて決まった年限で卒業し、しかもその後はそれなりの地位で活躍しているから、彼らの学生時代の体たらくについて書くのは冗談話として面白い。

 ところが、A君は実際に留年してしまったし、その後1年遅れで卒業して今は言語聴覚士として働いている、という情報しかなかったので、彼について文章にするのが憚られていたのである。

柳リハ野球部

 彼は伝説の「花リハ-北星館わらすぼランドの血戦」に参加していないし、その後の彼がどんな生活をしているか私があまり情報を得ていなかったことも、私が彼を忘れ、じゃなかった、文章に登場させなかった要因の一つである。

 今回、彼が最先端の技術と研究によって言語聴覚療法の現場で活躍していることが確認できたので、安心して文章にすることができるのだ。彼は私が現在後輩に教えている分野と同じ分野の臨床家だが、私よりずっと知識も技術も上である。

 彼が今はブラブラしている、などということだったら、彼の学生時代の不真面目ぶりを書いても、「〇〇ちゃん、真面目に勉強しないとあんな風になっちゃいますよ」という、子供に言い聞かせるお母さんのようになってしまうからだ。

 したがって、安心して彼の学生時代の話について書くことにする。

 「花リハ学院(仮名)」1年生時代のA君は、B君やC君同様、学校で見かけることはほとんどなかった。

 当時の花リハでは「世界のD」「解剖のE」などと斯界に名を轟かせた当代一流の医学のエキスパートの先生方が基礎医学を教えてくださっていたが、こういう方々の常として、「学生が勉強するのは当然」という考えからか、生徒の出席を取る、という習慣がなかった。
 先生が教室に入ってきたときに「みんな来てるかな」とクラスに呼び掛け、返事がなければ授業が始まっていたのだ。
 だが、考えてみると、その場にいない者がこの問いに答えるはずもなく、これは出席を確認する質問としては何らの意味もなさないのだった。
 しばらくして学科の先生方が「言語聴覚科の学生は授業に出ない」という噂を聞きつけて朝から出席を取るようになったから、この「サボリのパラダイス」は1学期もしないうちに失われてしまったが。

 A君の姿を学校で確認することはほとんどできなかったが、彼に会うのは簡単だった。
 柳川か大牟田の、その日が開放のパチンコ屋に行けば、B君やC君と共にほぼ100%彼が座っていた。
 彼によればパチンコは当時彼の仕事といってよいくらいの収入があったそうである。

 彼はこんな生活を続けながらも単位はちゃっかり取っていて、2年にも進級した。

  試験勉強

 試験勉強すら真面目にしないのに試験に通ってしまうF君の話については「頭のよさについての一考察(余は如何にして言語聴覚士となりしか外伝9)」で既にしたが、A君もまたそれに近いものがあったのだ。

 A君がこのままの生活を続けていたら、おそらく彼の耳はパチンコ屋の大音響に晒され続けて騒音性難聴をきたし、言語聴覚士としての重要な武器の一つが失われていたに違いない。

 だが、幸いにして、彼のこうした生活が3年間無事に続くことはなかった。彼は2年から3年に上がれなかったのである。

 彼の留年について、同期生間で囁かれている伝説がある。A君もまた伝説の生まれやすい草創期の一員なのだ。
 それは、こんな話である。

 彼は1年生のときと同様、2年生のすべての単位を取得して評価実習に臨んだ。
 リハビリテーションの実習に行った人なら誰でも知っていることだが、この実習はそう生易しいものではない。

 課題の多さもさることながら、不十分な点があればきっちり批判される。
 最近は米国式の「褒める」教育が浸透しているから、学生たちの多くは客観的に評価され、批判される、ということに慣れていない。

 もちろん学校でも免疫を付けさせるために客観的臨床評価(OSCE:オスキーと読む)や各種実技、レポート試験などで指導はする。
 しかし、臨床はイコール社会そのものである。学生たちは学校という温室からいきなり社会の荒波の中に放り出されるのだ。
 実習指導者(バイザーと呼ばれる)は実はこの荒波から学生を守り、マイルドにしたさざ波を学生には送っているのだが、何せほぼ無風状態にいた学生たちにとってはこのさざ波ですら溺れそうなくらい高い。だからときには溺れそうになった学生をバイザーが救助しなければならないこともある。

 ところが、ときどき、自分が溺れかけているのに気づかない学生がいる。
 こうした学生は自分で作った泥船の中で眠りこけているうちに大波を喰らい、転覆、沈没、ということになる。実習中止、または不合格である。
 
 実習中のA君はどうやらこの状態だったようだ。
 いくら「指導しても変化のない(これはよく実習困難な学生についてバイザーの口から出る言葉である)A君に指導者の忍耐は臨界点に達しつつあった。

 そんなある日、学校からG先生の実習地訪問があった。
 A君はスタッフの控室で待つようにいわれ、指導者とG先生の面談ではずいぶん深刻な会話が交わされていたらしい。

 2人の話が終わり、バイザーがA君を呼びに来た時、椅子に座った彼の手には「週刊マンガジン(仮名)」が。口には「サラダ2番(仮名)」が。

 温厚なG先生が顔を茹蛸のように真っ赤にして実習中止を言い渡したのはその直後であった…

 というのがA君に関する神話なのだが、本人に直接確かめたところ、これは事実ではないらしい。
 漫画を読んでいて怒られたのは事実だが、留年の原因は実習ではない。実習はぎりぎりの点数で合格だったという。
 A君への先生の説明では、留年の原因は再試が多く、合格科目もほとんどすべてがギリギリの点数だったことで、このまま臨床に出てもとても働けないからもう一年勉強すべき、ということだったそうだ。

 今ならば学校に親がねじ込んで進級、ということになるかもしれない。
 そうなったらA君は「世の中これでいいんだ」と思っただろうし、たとえ言語聴覚士になっていたとしても、先にも書いたようにずっとパチンコを続けて耳を駄目にしただけでなく、依存症になって経済的に破綻していたにちがいない。
 
 つくづく「いい時代、いい学校だった」と思う。教育者に学生の将来を考え、彼らと対決する、信念と覚悟があった。

 飲み屋、じゃなかった、節酒中だった、食堂にPCを持ち込んでまで私に最先端の技術と研究を熱く語るA君がふと言った。
 「やっぱり学生のときにもっと勉強しておけばよかった。」

 同感である。

はみがき先生の奮闘(余は如何にして言語聴覚士となりしか外伝22)

未来の夢は「はみがき先生」

 話は昨年4月に遡る。 

 私は睡眠時無呼吸の治療用マウスピースを嵌めたまま惰眠を貪っていた。

 「何だか布団がズレるなー」という感覚で目が覚めると、地震であった。

 何台もの車が家の前の道を通って山の上に登って行った。山の上には地域の中核病院がある。
 「あの病院って随分職員が多いんだね。地震対応で今から出勤なんだろう」などと言いながら再び惰眠に復帰しようとしていたとき、津波警報がスマホに入り、さっきの車列は避難なのだと初めて悟った。慌てて身支度をし、避難した。

 翌日からは大変な被害の情報が次々と入ってきた。

  その時の私と家族の状況や心境については既に書いた。
   
こんなときこそ口をきれいに

  とにかく居ても立っても居られない気持ちで、避難者に多発しがちな嚥下性肺炎の予防のための口腔ケアをブログ(熊本地震について言語聴覚士・言語聴覚士学生へ)で呼びかけ、また新聞にも投稿した

新聞記事

  上は実際に地元紙に載った記事である。

  その後はあちこちにボランティアに出かけたのだが、私自身が言語聴覚士として何かができたとはとても言い難い。

  ブログや投稿も私のいつもの提案のように無視されたのだとばかり思っていた。

  ところが、先日後輩のAさんと地震の話になり、自分が呼びかけた活動をAさんが実践していたことを知った。
  彼女は仲間たちと一緒に上のようなポスター(サイズの関係で2分割しているが実際にはB4一枚)を持って避難所に行って口腔の清潔を呼びかけ、避難者の口腔の状態を定期的にチェックして口腔リハをしていたのだという。

  水が止まっていたり水道が遠かったりしたため、多くの避難者が歯磨きできない。
  何せ本震が真夜中だったため、入れ歯を家に置いたまま着の身着のままで避難した高齢者も多かった。
  ところが供給される食物は歯のある人のためのものであるため、そういう人は食物を十分に処理しきれず、口の中はひどい状態になっていたそうだ。
  私たち言語聴覚士が養成校のテキストで習う、まだ口腔ケアの重要さが認識されていなかった数十年前の「不潔な口腔状態」の見本のような、残渣で一杯の口腔である。
  特に認知症のある人は自分で口腔ケアができず、正確に訴えることもできないため、肺炎リスクはどんどん上昇していく。

  そのうちに子どもの口腔状態も危機的であることが分かった。
  援助物資のお菓子は気軽に食べられる栄養であるが、歯磨きが十分にできない。
  子どもはそう簡単に肺炎にはならないが、虫歯は将来の食生活に重大な影響を及ぼす。
  彼女たちは上のようなポスターを作り、子供達にも呼びかけることにした。

  私達医療人は口腔状態が肺炎と密接な関係にあることを重々知っているのだが、知識がない場合にはなかなか口腔ケアの重要性に気づきにくい。
  特に地震のような「いざ」という時には、まず暖をとることや栄養補給、排泄などが優先され、歯磨きのような一見些細に見えることは後回しにされがちである。

  そういう中で高齢の避難者にしてみれば「歯を磨きましょう」「うがいをしましょう」と、まるで母親が子供に教えるようなことを言う集団がしょっちゅう来るのだから、この活動に関わった言語聴覚士たちは本当に大変だったと思う。

  Aさんに避難者が付けたあだ名は「はみがき先生」。

  状況が変わってきたのは援助物資の中に水がなくても口腔ケアのできるグッズが増えてきてからで、これは熊本地震での援助の大きな特徴の1つであっただろう。
  熊本地震で最も大きな課題となったのは、阪神淡路大震災では深刻な問題になった嚥下性肺炎ではなく、エコノミークラス症候群であった。これは極めて早い段階から災害時の口腔ケアの重要性が県民の間に急速に浸透し、またそのための援助が早くから為された結果だと思う。

  Aさんが馴染みになった子供から掛けられた言葉は私のような言語聴覚士養成に関わる者には忘れられない言葉である。

  被災者の支援に活躍する人々の背中を見た子どもたちは言う。
  「俺は将来は消防士になる!」「自衛官になる!」「私はナースになる!」

  そんな中で、ある男の子が言ったそうだ。
  「俺は将来は、はみがき先生みたいになる!」

  「はみがき先生」、お疲れ様。

熊本へ行こう100-御輿来海岸後悔記-(河童日本紀行563)

みんな考えることは同じ

 熊本県宇土半島の北側に御輿来海岸というところがある。

 JR網田駅から歩いて20分くらいのところから望むことが出来る。車の場合は国道57号線沿いである。

 御輿来海岸は上古から絶景として日本人に知られてきた。

 「熊襲征伐」に来た景行天皇がこの海岸のあまりの美しさに輿を停めさせて眺めた、というのが、この海岸の名の由来なのである。ちょうど海岸から長崎県の島原普賢岳が見渡せる場所に、「景行天皇行幸碑」が建っている。

 日本が未だ国としても民族としてもまとまらない抗争の時代、それを一時でも忘れさせるほどの美しさがこの海岸にはあったらしい。

 ところが、私はどうもこの海岸を「絶景」というほどには美しいと思ったことがなかった。

 私は今年56歳になるが、子供の頃からもう数百回といわずこの海岸を見ながら天草と宇土の往復をしているにも関わらず、宇土半島の他の海岸と比べてこの海岸が特別に美しいものと思ったことはなかったのだ。

IMGP3255

 もちろん美しいとは思う。不思議でもある。
 どうすれば有明海を満ち引きする波はこんな不思議な模様を作るのだろう、とは思っていた。

IMGP0661

 だが、住吉のたわれ島も面白く不思議だし、

IMGP8665

 長浜の海の中の電信柱と海中の軽トラもある意味「絶景」だし、

IMGP4842

 波多浦からえっちら太田尾まで自転車で越えてきたときに見えてくる普賢岳は絶景だし、

IMGP2998
 
 鷗の乱舞する彼方に積雪した島原の見える寒い朝の三角浦もまた抜群である。

 また、私はひねくれ者だから、人が「好い良い」と言えば言うほど「何するものぞ」という気になってくる。

 これには「衝動性が強いから行列や人ごみで我慢強く待てない」という要素も強い。食い物屋でも映画でも、人気のものはそうやって待たなければならない。「いらち」の私はそれが大嫌いなのだ。

 そんなある日、私はふと、この海岸のことを思い出した。

 それは妻を隣に乗せて不知火海岸(つまり御輿来海岸の宇土半島を隔てた反対側)を走っていたときだ。冬には珍しく、畝雲(専門的には波状雲というらしい)が空一面を覆っていた。そして、それは夕陽に染まりつつあった。美しい。

 私は急に閃いた。
 「空にはこの雲、海には御輿来海岸の干潟模様、これを一幅の絵として収めることが出来たら、最高の写真になる!」
 私がさっそく御輿来海岸に車を向けようとして妻に阻止されたのはいうまでもない。
 車には買い物で買った生ものがたくさん積んであったのだ。

 雪の降るとある休日、私はついに御輿来海岸の展望できる場所に行くことにした。
 今までにも何回か「干潟景勝の地」という看板を頼ってここに行こうとしたのだが、とにかく道が狭く、一体いつになったら着くのかというくらい遠くていつも途中で断念していたのである。これも「いらち」ゆえの挫折であろう。

 隣の妻が「これ、ヤバいんじゃない?」「いくらなんでも危ないよ!」と警戒の声を出すのを無視して、私は初めてこの海岸を見下ろす小さな公園に辿り着いた。

 驚いたことに、駐車場は満杯である。しかも、県外ナンバーがずらりと揃っている。

IMGP3060

 確かに絶景である。
 だが、この日は生憎の強風で、波が荒く、いつものような肌理細やかな干潟模様になっていない。

IMGP3095

 これでもまだ夕陽の時間ではないのだ。
 少し日が傾いただけでこの光の乱舞である。

 これが日没の時間だったらどんなに美しいだろう。それにあの畝雲が空にあったら。

 風が強いのと模様が今一つなのと、慣れない狭い道を暗くなってから降りる自信がなかったのとで、その日は日没まで待たずに山を下りた。

 再来週の土日は大潮である。
 最高の撮影条件だ。もしかすると季節外れの畝雲も出るかもしれない。そうなったら2017年度のいろいろなフォトコンテストは私の独占だ。

 翌日の新聞を見て私は愕然とした。
 「御輿来海岸に行こう(このままの記述ではない)」の記事が。

 その次の日、たまたま展望所の下を通ると、遠くからでもわかるくらいに車が停まっていた。

IMGP3199

 しばらくは大矢野から湯島でも撮ろう。

カメラ河童のジャンク道遥か48-精密機械王国スイスから来た豆レンズ-(それでも生きてゆく私243)

初のスイスレンズ

 パンチョ・ビラよろしく弾帯にレンズを嵌め込んで外出しようとして妻に阻止された私であったが、そのとき妻の口から出た「いい身分」という言葉は、私を知る多くの人が大きく頷いた単語に違いない。

 じつは、こうした世間様の見方をさらに増強するようなことを、私は心房細動のアブレーションで入院中にしていたのだ。

 私が自分としてはとんでもない値段を出してロシアレンズ「縁だすなー22」を買ってしまったことは既に報告した。

 それ以外に、アブレーションの直前になって、10個くらいのレンズに次々と入札をしていたのだ。
 しかも、その入札値はふだんの原則を破り、普通の勤め人が「牛野屋(仮名)」や「キス屋(仮名)」、「なか卵(仮名)」で食べる朝食+昼食分くらいであった。
 これは危ない。最近はDマウントレンズはケレラれない(四隅が黒く映らない)デジタル一眼が複数あることもあって、以前のような二束三文ではない。したがって、昼食1回分くらいの値段だと入札してもまず素見で済むが、これにファーストフードの朝食分を付けると、間違って落札してしまう確率はぐっと高くなる。 

 アブレーションは他の心臓手術に比べれば「処置」と呼べるほどの安全性だが、やはり合併症や後遺症の可能性はある。たとえ死亡率が1/1000であっても、その1人に当たってしまえばたった一つしかない命がなくなってしまう。

 よほど気が大きくなっていたのだろう。というより、「死ぬかもしれない(大袈裟)」ということで自棄になっていたのかもしれない。


 入札したレンズが全部落札してしまったら、私は破産である(これも大袈裟)。

 アブレーションが終わって病室に帰って一眠りして起きてみると、これらの入札したレンズはほとんどが「高値更新」していた。

 ところが1個だけ、「まだ」高値更新していないレンズがあった。

 それも、「まさか」というような代物である。

 このレンズは「蹴るんスイス25mmF1.4(仮名)」という舶来レンズで、銀座あたりのカメラ屋だったら小さな会社の忘年会費が賄えてしまうくらいの値段がする。
 lマウントやCマウントだったら安い軽自動車の中古くらい変えてしまう値段だが、ここがDマウントのいいところである。

 それにしても、私が落札してしまう時の定番のパターンで、ほかに入札者がなく、締め切り寸前になってもちっとも盛り上がらない。同じ出品者からの同じ「蹴るん」の13mmはどんどん値が吊り上がっているにもかかわらず、である。やはり半端な焦点距離のせいだろうか。

 すでに「縁だすなー」は落札が決まり、正直これ以上の金は鐚一文使いたくない。
 だが、「高値更新しろ…」という祈りも虚しく、「蹴るん25mm」は私が落札してしまった。

IMGP2705

 こうして「蹴るん」は我が家に来てしまった。

 舶来物を買うのは初めてではない。すでに「ゴタック(仮名)」のレンズが古い8mmカメラについて3個まとめて我が家に来た話はした。

IMGP9000

 ただ、これは「父と子と精霊」ならぬ「標準と望遠と広角」の三位一体で、単独のレンズとして分離することが出来ないので、単独のレンズとしてはこの「蹴るん」が初めてである。

 早速いつものようにぬいぐるみを試写してみる。

IMGP2942
IMGP2941
IMGP2943t

 近景・中景・遠景とも何だか温かみのあるいい写真である。
 ちなみに遠景は「片ボケ」しているのではなく、防犯上ボカしてある。

IMGP2960

 古いレンズには珍しく光にも強い。開放で朝日を撮ってもハレーションが現れない。

IMGP2948

  これまた古いレンズで開放で撮った時にありがちな白の「浮き」や、

IMGP2949

 赤の滲みもない。

 撮影はすべて愛機「ペンテコステオバQ10(仮名)」である。

 私はネットで「蹴るん」Dマウントの写真をずいぶん見たが、どれも私が「爆発」と呼んでいる現象が現れていた。

河童爆発

 これである。
 この現象は専門家の間では「流れ」と呼ぶらしいが、私は私の呼び方で「爆発」と呼ばせてもらう。

爆走ローカル線

 「爆発」は一部のDマウントレンズを使用して絞り全開放で撮影すると現れる。

 私の持っているものでは「椰子呑13mm」が最も「爆発」が激しい。ただし、これは私が一旦分解して前玉の裏にべったり張り付いていた油汚れを除去して組み直したものだから、もともとこのレンズが「爆発」なのかどうかは分からない。

 ところが、他のカメラで写した写真では「椰子呑」並みの「爆発」を見せている「蹴るん」が、「オバQ」で撮ると、全開放でも少しも「爆発」しないのである。

 さすが1960年代には日本が「追いつき追い越せ」と頑張っていた精密機械王国スイスのレンズである。

 私はこの写真の写りを見て、まだ幼いころ多くの大人が将来の日本の進路としてスイスを理想化していたことを思い出した。

 そう、あの頃、日本人はスイスが大好きだったのだ。

 世界が東西の陣営に分かれて冷たい、あるいはときに熱い戦争を繰り広げていたとき、そのどちらにも与しないスイスは多くの日本人の憧れだった。

 年末になると恒例のようにTV放映されていた「大脱走」という米国映画で、スティーブ・マックイーン扮する主人公がドイツ軍の収容所からオートバイで逃亡し、スイスとの国境を越える直前で鉄条網に阻まれて逮捕されてしまうのが子供心に残念だった。
 政治や軍事に迫害される者にとってスイスは自由の天地のように思われた。

 もう少し歳が行って、この中立が国民皆兵と家々にまで武器が保管されているほどの重武装に支えられていることを知った時には大いに驚いたが。

 今でも家庭教師派遣業「ノーサイド(仮名)」のCMに登場する「アルプスの少女ジキルとハイド(仮名)」など、当時のアニメに中欧を舞台にしたものが多いのも、日本人のこうした憧れが反映しているような気がする。

 あるいはフィンランドの民話を元にした「ムーンミーン(仮名)」のアニメが人気だったのもあるいは同じく「中立国」に対する親近感が関係していたかもしれない。もっとも、こちらの「中立」もまたなかなか複雑だが。
 閑話休題(れんずからはなしがそれすぎだろ)。

 思えばあの頃の日本は「世界が先生」だったような気がする。
 あちこちの国から手本になるようなものを見つけてきて、まずは真似をして、そして日本に合ったものに変えていく。

 レンズもそうで、あちこちの国のレンズと似たレンズが作られ、そして日本独自のものになり、いつしか世界標準に成長した。

 「蹴るん」と似ているのは「イコン(仮名)」の「日光る13mm(仮名)」のような気がするが、残念ながら所有していないので写真を紹介できない。

 この素晴らしいレンズを作った「蹴るん社」も、日本のメーカーに押されたのか、今はもうない(らしい)。

 「先生」の無くなった日本はどこに向かうのだろうか。

IMGP2962

 いつものようにテレビ塔を見ながらさようなら。さすがに山岳の国スイスのレンズだけあって山の描写は格別である(気のせい)。
 「オバQ」では25mmは望遠になるので構図が限られるのがちょっと残念だが。

 それにしてもいいレンズが安く手に入った。病気もしてみるものだ。

カメラ河童のジャンク道遥か47-パンチョ・ビラに憧れて-(それでも生きてゆく私242)

パンチョ・ビラへの道は険し

 Dマウントレンズは一般人の使うカメラに装着するレンズの中では一番小さなレンズである。

IMGP2648

 最近手に入れた念願の沈胴式レンズ「縁だすなー22(仮名)」はLマウントという規格で、我が愛機であり「ナノ一眼」と呼ばれる「ペンテコステオバQ(仮名)」に付けても違和感がないほど小さいレンズなのだが、

IMG_7883

 それでもDマウントレンズに比べると「巨大」という感じがする。

IMGP2751
   

 だが、これだけ集まってしまうと収納には相当のスペースが必要である。
 ましてや、実際に携行しようとすると、相当大きなバッグがいる。

IMGP2748

 これはDマウントレンズが3個ついて普通の勤め人の昼飯1回分くらいの値段で我が家に来た8mmカメラに付属していた皮のバッグだが、携行しようと思えばこれくらいが「重いっ!」「デカくて邪魔っ!」と感じずに済む精いっぱいの大きさである。

IMGP2749


 しかし、このバッグは蓋を開けてみたらもうこの状態である。レンズが溢れている。

IMG_7742 (27)


 しかも、撮影を兼ねた散歩中にカワセミなどの貴重な撮影対象が現れたときのために「木星11号(仮名)」などの超望遠(普通の一眼につければ望遠)レンズも1個は携行しておきたい。ちなみに「木星」は普段はこのあまり格好良くないフードを付けている。

 苦肉の策で先日の韓国旅行では携行するレンズの数を減らしてサイドポーチに入れて行ったのだが、「こんなときにあのレンズがあれば!」と思うような場面に何度も遭遇した。
 それだけDマウントというレンズは個性的なのだ。といえば聞こえがいいが、いい写真の撮れる撮影条件がレンズによって全く違うので、大変である。

IMG_7333

 挙句、ポーチを落としたりしながら中でガチャガチャレンズ同士がひしめき合っているうちに、小傷が入りまくり、とうとう純正のズーム02番のズームリングが動かなくなってしまった。これではズームの意味がない。

 考えてみたら、純正06番ズームもリングが動かなくなるという故障を起こしたことがある。どうも純正レンズは小さい分ちょっとナイーブなところがあるようだ。

 そんな折、噂の「あの人」と、あまり噂になっていない「あの人」が、電話で会談をし、受話器を途中で叩きつけて予定されていた直接対談が中止になるほどの大喧嘩をしたという噂を聞いた。

 そのとき私が思い出したのは、パンチョ・ビラ、という人である。
 説明するのが面倒だし、ましてや面倒に巻き込まれるのは嫌なので、この人について知りたい人は自分で調べてほしい。

 この人に関連して私が思いついたのは、重厚な歴史でもなく、崇高な思想でもなく、パンチョ・ビラが身体に巻き付けていた弾帯だった。
 弾帯を体に巻き付けて、弾の替りにDマウントレンズを入れて行けばたくさんのそれを携行できる。

 このナイスアイディアに興奮した私は、早速弾帯を「アマゾネス(仮名)」に注文した。

 弾帯はすぐに来た。
 逸る手を押さえながら、Dマウントを装着。しようとしたが、なんということだ。入らない。

IMGP8418

 どうにか弾帯に収まるのは「頭脳13mm(仮名)」と「歩こう13mm(仮名)」くらいで、後は入らない。

 これは誤算である。いくら小さいといっても、弾丸よりDマウントレンズの方が大きいのだ。

 仕方がないので、弾丸を収めるスペースを縫い付けた糸をカッターで切って、スペース2個を1個に合体させる。

 今度は緩い。

IMGP0483


 「椰子呑38mm(仮名)」のようなDマウントとしては巨大なレンズすら、弾帯をすり抜けて落ちてしまう。これでは撮影から帰ってきたときはすべてのレンズを道に落として失くしてしまう。

 Dマウントレンズを弾帯に収めて移動、という野望は脆くも壊れた。

 こうなりゃ自棄じゃ。自製レンズを嵌めて撮影に出かけよう。「和製パンチョ・ビラ」の出陣である。

IMGP2677

 私は妻に写真を撮ってもらった。
 妻は私の姿を見てもニコリともせず、ただ、「その格好で外に出らんでよ…」と言った。
 「…」にはいろいろな感情と展望が籠められているようだった。

 わたしはベルトからレンズを外し、すごすごと風呂場に着替えに行った。

   背後で呟く妻の言葉の中に「いい身分」という単語が漏れ聞こえて来た。

 パンチョ・ビラよ。
 あんたの時代はよかった。
 

カメラ河童のジャンク道遥か46-INDUSTAR22の謎-(それでも生きてゆく私241)

INDUSTAR22の謎

 遂にやってしまった。

IMGP2684

 憧れの沈胴レンズである。

 その名は「縁だすなー22(仮名)」というロシアレンズだ。
 本当は「ほのぼのライカ(仮名)」の「閻魔50mm(仮名)」というレンズがほしいのだが、これは買った瞬間に破産するのでこれの100分の1くらいの値段の「縁だすなー」にしたのだ。

 100分の1の値段といっても、レンズには昼飯1回分以上かけないという自分ルールを破っての暴挙である。
 妻が怒るので婉曲に安フレンチ1回分と言っておく(いつもと変わらんじゃろうが)。

 何でこんなに気が大きくなったかというと、持病の心房細動のアブレーション治療を受けたことが大きな要因になっている。

 心房細動は肺静脈などからの余計な電気情報で心臓の伝導系が邪魔されて心房が勝手に動き出す病気である。私は20歳を超えたくらいからこの病気に悩まされてきた。この病気は「発作が起こるとすぐに死ぬ」という心臓病ではないが、心臓でできた血栓が脳に飛んで詰まる心原性脳塞栓症の最大原因であるから、やはり重大な疾患である。

 アブレーションは心筋の表面を焼いたり凍らせたりすることでこの電気情報を遮断してしまおうという治療で、2回行うとだいたい8割の患者が治癒するといわれている。
 私は5年前に1度この治療を受けたのだが、残念ながら完治とはいかず、1週間後にはひどい発作が起こって再発してしまった。それでも睡眠時無呼吸対策のマウスピースをはめて寝るようになってから4年間は発作らしい発作もなかったのは、この治療も与って力があったのかもしれない。

 昨年になってから短期間に2回かなりひどい発作があったので、もう一度この治療をやってみる気になったのである。

 入院期間は4日間。仕事を休むのは2日間だから同僚への迷惑も最小限で済むと考え、踏み切った。

 ところが、発作が起こらない時はまるっきりピンピンしているから、処置を待ってベッドでじっとしているのは退屈で仕方がない。
 いきおい、ロビーに出て読書をしたり、スマホをいじったりすることになる。
 
 スマホ、といえば、「家畜人オークション(仮名)」のアプリが入っている。ついつい、見る。いつもの「必敗法」にしたがって入札してみる。
 見ると、ずっとほしかった「縁出すなー」が昼飯1回分くらいの値段で出ている。これはいずれ締め切り間際には高級フレンチ並みの値段になるのがわかっているが、とりあえず入札してみる。
 「どうせ自動入札に跳ね返されて入札すらできないんだろう」と思っていると、とりあえず「あなたが現在の最高入札者です」の表示が出る。「どうせまた『高値更新』の通知が来るんだろう」と思い、しばらく忘れていた。

 翌日はいよいよ処置の日である。

 (中略)

 今回は鎮静剤が入っても眠り込まず、ずっと起きていたためにきつかった。病室に帰ると、夕飯も食べられず、泥のように眠り込んだ。

  起きてみると、いつになく心臓の調子がいい。
  爽やかな気分で昨日は見ることもなかった「家畜人」を見てみると、「縁だすなー」には相変わらず私しか入札者がない。何かが変だ。いつもなら締め切り間近を待たずに値が吊り上がっていくのに。

  このままでは(私としては)えらい金額を払うことになってしまう。
  胸がドキドキしはじめた。のは、軽い不整脈かもしれないが。

  結局締め切り1時間ほど前に高値更新。胸を撫で下ろす。というより、発作が治まったのかもしれないが。

  もはや「縁だすなー」の値段は安いフレンチくらい。ただ、それでもいつもの入札値よりはずっと安い。

  突然魔が差した。

  あれだけしんどい思いをしたのだ。自分にこれくらいのご褒美はあってもいいだろう。

  もちろん準備やら何やらで駆けずり回った妻には欲しがっているY.S.Wのグッズをプレゼントすることを東亜の皆さんの前でここに宣言する。私は言ったことは守る男である。忘れていなければ。

  閑話休題(あほなみえはりはこれぐらいにして)。

  私は更に昼飯代くらいの値を足して入札した。レンズ代がこの値段を超えたのは人生初である。(まだレンズを買いはじめて一年くらいだけどね。)

  また眠くなって来たので寝た。

  翌朝スマホを見ると「家畜人」のアイコンにマークが入っている。「高値更新」だとばかり思って開けてみると「あなたが落札しました」の文字が。

  やっちまった、と、しばし自己嫌悪。

  だが、無視するわけにもいかないので手続きをする。この値段、やはり堪える。
  レンズは退院の翌々日には届いた。

  冷静になって見た出品写真では地金が錆びてメッキの浮いた部分が目立ち、一層自己嫌悪がひどくなったが、実際に届いたレンズは思いのほか綺麗だった。

  念願の沈胴式レンズである。

IMGP2648

  我が愛機「ペンテコステオバQ(仮名)に装着してみると、なかなかの「男前(美女)?」ぶりだ。
  鼻の伸びたところがちょっとヘンだが、まあご愛嬌か。

  早速試写。
  古いレンズなので思いっきりシャープ、というわけにはいかないが、フンワリした中にもキリッとしたところもあって、独特の写りである。

  正直これが私の他のレンズ同様3個で昼飯分くらいの値段だったら大感激だったのだが、それなりの値段を払っているので正直そこまでの感動はない。
  はっきり言って同じロシアレンズならジャンク箱から100円で拾い出した「ドーモ君」こと「ヨタ8(仮名)」の方が写りが良い。もっともこれは絞りが動かない真性のジャンク品だが。
  まあこんなものか。

 それにしてもずいぶんと安い(私にとっては高いが)。最近高騰しているロシアレンズにしては市価の半分近い値段である。

IMGP2665

 たしかに抜群の写りとはいえないが、早朝の薄暮でもちゃんと写るし、無限遠も出る。もっとも、スーパーオーバーインフィニティというのだろうか、∞マークより相当前で出てしまうが。だが、これは古いレンズには珍しくないし、自分で調整すればいいだけの話である。

 あるいは実際の絞りと目盛りが合っていないところだろうか。だが、これは古いレンズには以下同文、自分で調整すれば以下同文。

 こういうときは先輩の意見を聞くべきである。
 といっても、私にはロシアレンズファンの友人・知人はいないから、WEBを探ることにする。

 「縁だすなー」は相当人気のレンズらしく、あちこちに記述があるが、「光線あり」「光線なし」という言葉が気になった。これはどう見てもカメラ用語ではない。初めて聞く言葉だ。ウルトラマンでもあるまいに、何のことだろうか。

 またいろいろと調べてみると、これはどうもこの種のレンズが作られた工場のマークで、そのマークにバリエーションがあるらしいのだ。

IMGP2646

 この「縁だすなー」は長く長く、1948年から1960年過ぎまで、実に10年以上モデルチェンジせずに主にモスクワのKMZとという工場で作られたのだが、この工場で作られた証拠に台形のマークが刻まれている。上の写真の円盤の左ちょっと下にあるのがそれである。
  
 これに冒頭の絵の左のように→のマークが入って屈折して反射しているのが「光線あり」、台形だけなのが「光線なし」なのだ。

 私のは「光線なし」である。
  このことを知った瞬間、私は「ああ、俺のも『光線あり』がよかった!」と子供のように思った。なんだかこのマークがとてもお洒落なのである。
 モスクワでなくカザン製のものなどはもっと複雑な光線が台形(おそらくレンズの意匠)に入って出て行っている。

 ネットで見る限りあまり「光線」に焦点を当てて話題にしているものはない。しかし、写真好きのようなダンディーな人達(それとなく自分を高めている)がこれを気にしないはずがない。

 そこまで考えて初めて、私は自分の買ったレンズがなぜ不人気だったかわかったような気がした。入札者は私を含めても数えるほどだったのだ。
 ロシアレンズファンはこのレンズの銘板を見て、「なーんだ、『光線なし』か。」と思い、見向きもしなかったのに違いない。

     私は以前古銭の蒐集をしていたから分かるのだが、マニアというのはそういうところがあるのだ。

 これは私のいつもの勘違いかもしれない。
 しかし、「光線なし」は「縁だすなー」の最初期型であり、生産数も少なく、骨董的な価値は最も高いはずなのである。やはり理由は「光線なし」としか思えない。

 あるいは「『縁だすなー22』の最初期型は映りが悪い」というのはロシアレンズファンには常識なのかもしれないが。

 何にせよ、50mmレンズはこれで終わりにしよう。
 「縁だすなー」の写りにがっかりしたわけではない。愛機「オバQ」にはこのクラスのレンズは「半端な望遠」になってしまうのだ。花の写真も2mくらい離れないとピントが合わなかったのである。

 やはり私は「D道」を歩もう。これが「オバQ」にはぴったりである。

 ということで、次回はDマウントレンズに関するとても間の抜けた話である。

カメラ河童のジャンク道遥か45-フリマでレンズを買ってみた-(それでも生きてゆく私240)

いつかきっと

 私がオークションから撤退するといいながらときどき落札している話は既にした(カメラ河童のジャンク道遥か43-遂に難易度は究極に-(それでも生きてゆく私238))。 

IMGP9318


 ところが現在、私は事実上の撤退に追い込まれている。
 あの「世故肉3兄弟(仮名)」以来、レンズが落札できないのだ。

 これは「オークション必勝法」を公開してしまったからか、あるいは「必敗法」に従っているからか(カメラ河童のジャンク道遥か35-寒い国から来た怪物-(それでも生きてゆく私229)参照)。


 もちろん私のブログなどまともなカメラファンが見ているはずもないから、これは私の誇大被害妄想であろう。

 ただ、どうも最近「家畜人オークション(仮名)」のDマウントレンズ市場が活発化し、やや高値気味になっているようである。お馴染みのレンズで昼食一回分くらいで買えるレンズがどうかすると安いフレンチコース1回分くらいで落札されたりする。

IMG_7883

 たとえば3個で昼飯1回分くらいの値段だった「歩こう3兄弟(仮名)」など、1個ずつ市場に出ているやつは3個買えば高級フレンチ1コース分くらいの値段である。断わっておくが私の13mm「ブルムベアー君」はジャンク品だが決して写りでは劣っていない。

IMGP8306

 このとおりである。「ブルムベアー君」は韓国にも同行してたくさんの写真を撮ってくれた。
 
 閑話休題(さて)。

 最近の「家畜人オークション」では、レンズ1個の値段の目安が普通の勤め人の昼飯1回分と決めている私はとうてい落札できない。どうかするとまだ6日くらいある出品物に入札しようとして自動入札に跳ね返されたりする。

 こういうときはいったんその市場から離れて忘れなければならない。そうでないと次第に熱くなって高値競争に巻き込まれてしまう。

 考えてみたら私の趣味が流行ったり廃れたりするのは、これが原因だった。
 古銭の時は随分のめり込んだものだが、年を取るにつれてだんだん「どーだっていーだろ、こんなもん」と冷めてしまうまでの時間が短くなった。これは自分がもう一生大金を稼げるような見込みがなくなったからである。

 といって、まったくレンズの市場から離れてしまうのも寂しい。
 こういうときは「河岸を変える」のが得策である。

 私は「カリガリ博士(仮名)」に顔を出してみることにした。「カリガリ」はネット上のフリーマーケット(フリマ)である。

 「カリガリ」は携帯にアプリをダウンロードすれば簡単に入れる。
 
 「カメラ」→「レンズ」で検索するとたくさん出すぎるので、さらに「Dマウント」に絞り込む。
 少ない。10個くらいだし、そのうちのほとんどは「ソールドアウト(売却済)」の印がついている。

 だが、ソールドアウト印の付いていないわずかなレンズのうちの一つに私の眼は釘付けになった。

 それは「椰子呑(仮名)」の38mm望遠レンズだった。

IMG_6957

 「椰子呑」の13mmは私が最初に手に入れたDマウントシネレンズであり、「爆発君」の愛称で活躍中である。

爆走ローカル線

 映りがいいとは言えないが、面白さは抜群である。

 値段は普通の勤め人の3食外食分くらい。ずいぶん高い。だが、よく見てみると、「カリガリ」の商品は基本的に送料が出品者持ちなのである。「家畜人」の送料は落札者もちで、東京あたりからだと大体1000円前後だから、それを考えると結局「家畜人」で昼食1回分くらいのレンズを買うのと変わらない。

 それにしては、なかなか購入するのにためらわれる。

 これはボタンを押した瞬間に商取引が成立するからだろう。「家畜人」の場合は似たような値段で入札しても、「どうせだめだろう」という気持ちがあるから、期限が迫ってきたとき以外はそれほど重たい感じはない。考えてみたらこれがオークションの罠なのだ。

 それに「カリガリ」は基本的に個人取引で、専門業者の商品は少ない。ということは、どんな人が売っているのか分からないということだ。これも私に購入をためらわせる要因だった。

 実はこの「椰子呑」と一緒に「縁だすなー61(仮名)」という星ボケの出るロシアレンズにも目を付けていたのだが、こちらはためらっているうちに「ソールドアウト」と相成ってしまった。

 えい、ままよ。
 私はボタンを押し、手続きをして購入を希望した。
 出品者はとてもしっかりかっちりした性格の方らしく、すぐに連絡が来た。しかも、「古い物だから外側に擦り傷などありますがそれでもいいですか」という旨の質問が来た。良心的な人のようである。
 私は「後玉に大傷があるとか、欠損しているとかいうのでないかぎりノープロブレムです」という旨の返事をし、「そんなものはない」ということだったので、取引成立となった。
 それからもすぐに発送してもらったらしく、商品が我が家に届くのは予想以上に早かった。

IMGP0483

 それがこの「椰子呑38mm」である。ちゃんと前キャップも純正のものが付いていた。外観も状態説明が謙遜だったのではというくらいに良い。

IMGP2121

 映りも私の持っているレンズの中で指折りに良い。

IMGP0349

 空の描写は「頭脳君」には及ばないもののなかなかである。

 私は「カリガリ」のDマウントでもう一つだけ売れ残っているレンズに眼を付けた。同じ出品者のものである。きっとこの人のものはいいものに違いない。

IMG_6959

 ただ、これは私が既に持っている「ぐるぐる君」こと「ヨハン・シュトラウス38mm(仮名)」の初期型ではないのだろうか。形が何だか似ている。

IMGP1415

 「ぐるぐる君」もまた韓国までお供をした楽しいレンズなのだが、同じものは2つは要らない。

 ただ、よく調べてみると「TELEPHOTO」と銘打たれたレンズは「ヨハン・シュトラウス」のほかに「讃カメラ(仮名)」のものもあるらしい。

 画像をよく見てみると、どうやらこちらのようだが、自信がない。

 だが、私は「椰子呑」を買ったときのこの人とのやり取りの中で、「この人なら大丈夫」という確信を得ていた。私は再度取引の連絡をした。

 これまたすぐに「送りました」という連絡が来た。これが年末の20日過ぎ。

 ところがこれが来ない。最初は年末だから年賀状の発送その他で遅れているのだろうと思ったのだが、来ない。

 とうとう年末年始の釜山・慶州旅行の日が迫ってきた。私はこのレンズの状態がよければ韓国旅行に連れて行こうと思っていたのだ。

 仕方なく出品者に連絡を取ると、間違いなく送ったということで、郵便局に問い合わせてくれるとのこと。
 年末から韓国旅行に行くことを告げ、郵便局から連絡があったら教えてほしいと依頼した。

 再度メールが来たのは船の上だった。郵便局に問い合わせたらどうやら行方不明になっているらしい。とうとう「讃38mm」を韓国に持っていくことは断念。

 気になりつつ帰国してもまだ届いていない。出品者はかなり強く郵便局に言ったらしいが、私にも何の連絡もない。

IMGP2095

 レンズは結局何の連絡もなしに郵便受けに放り込んであった。
 もし出品者が連絡してくれなかったら行方不明のままだったかもしれない。感謝感謝。

IMGP2303

 まずいつものようにぬいぐるみの試写。期待できそうである。

IMGP2336

 開放で撮ると、回りすぎず、ピントはピシャッと合って、いいボケしている。

IMGP2321

 ちょっとオーバーインフィニティ(無限遠が∞マークより近くで出ること)気味なのを知らずにピントを空に合わせてしまったために輪郭がボヤけているが、空の描写もよい。

 「椰子呑」も、「讃」も、「カリガリ」での購入はいい人に巡り合って大成功。フリマもいいものだ。

 ただし、その後ずいぶん経つが、「カリガリ」のDマウントは私の買った2つを最後に出品されていない。カメラに関しては商品数が少ないのが難点である。

カメラ河童のジャンク道遥か44-ソ連製品の実力-(それでも生きてゆく私239)

  予言の正体
  
 私の若いころ、ロシアに「ソビエト社会主義共和国連邦」という国があった。略して「ソ連」という。いくら何でも知らない人はいないと思うが、一応念のために。
 「壮大な実験」といわれた国である。そして、壮大な実験は「壮大な失敗」に終わり、1989年に崩壊した。
 もっとも、この国はできたときから「崩壊する」「崩壊する」と言われ続けて70年持ったから、長持ちした方かもしれない。

 どんな国でも栄枯盛衰があるから、特定の国や体制を敵視して「〇〇国は崩壊する」とか「〇〇体制は崩壊する」とずっと言い続ければ、いつか「予言」は当たるだろう。いつになるかは別にして。そしてよほど不幸な民族は別にして彼らはまた「再生」する。
 まして経済にはどんな体制でも逃れられない景気の循環というものがあるから、「〇〇国経済は崩壊する」といえば、これもいつになるかは別にしていずれ大きな底がやってきて、この予言は間違いなく当たる。そしてよほどのことがないかぎり「再生」する。

 だから、「〇〇国は崩壊する」「〇〇国経済は崩壊する」という予言は実は「私は〇〇国が嫌いだ」と言っているに過ぎないのかもしれない。
 自分の好きな国、たとえば自国について「崩壊する」などという人は少ないし、いわれればムッとするだろう。

 逆に1970-80年代の多くの知識人が口を揃えて言っていたのが「中国は必ず(いつか)発展する」という台詞だが、これもむしろ遅かったくらいで、あれだけの人口があって知識や技術を受け入れる教育体制があるのだから、そうならない方が嘘である。これも実は当時の知識人が中国を好きだっただけのような気がする。

   実はこのテの話には自己中心的なバイアスがかかっているということは、好悪の感情に彩られがちな具体的な国名でなく、冒頭の絵のように「河童国」「麒麟国」「天狗国」など、フィクションの話にしてしまうとよくわかる。

 ちなみに私がギリシャの次にデフォルトに陥ると予想していたのはウクライナだった。さらにちなみに、私はウクライナに何の恨みも、逆に好意も持っていない。これは損をしそうになった誰かがこっそり頼んだのではないかというくらいのタイミングでうやむやになってしまったが。

 今後もさまざまな国と民族が浮き沈みしながら生きていくだろう。いつ浮いていつ沈むかはわからないけれど。
   
 もっとも、「このままだったらマズいことになるぞ」という警鐘として刺激的な言葉を使う人はいる。夏目漱石なども「三四郎」の中で登場人物に「(日本は)滅びるね」と言わせている。あるいはこの明晰だがきわめてメランコリックな作家は本当は日本が嫌いだったのかもしれないが。

 閑話休題(はなしをそれんにもどせば)。

 日本人にソ連を嫌いな人が多かったのは、やはりシベリア抑留のせいだろう。
 15年続いた戦争の末期、もはや戦争継続の力を失っていた日本に日ソ中立条約を無視して一方的に宣戦し、千島列島と歯舞・色丹島を奪い取ったばかりか、中国の各地で捕虜になった日本兵をシベリアなどの極寒の地に連行して強制労働をさせたのである。犠牲者は抑留された人の1/4を超えると推測されている。
 父は捕虜になって連行される途中で喉の渇きを我慢できずに道端の泥水を飲んだためにアメーバ赤痢になり、半死半生で八路軍(共産系の中国軍)に引き渡されたため、シベリアに行かなくて済んだというのだから、人間は何が幸いするか分からない。

 ソ連がまだあったころ、その悪口を言うのによく引き合いに出されていたのが工業製品の質の悪さである。
 「一回使ったら壊れた」とか「使う前から壊れていた」などという話がよく飛び交っていた。
 そしてそれが「やがてソ連は崩壊する」という説の根拠になっていた。
 ただ、「ソ連の製品はひどい」というのはおそらく日本国民の総意だったと思うのだが、その割に、私は当時ソ連製品を使ったことがなかった。おそらく「ひどい」と言っている人のほとんどが使ったことがなかったと思う。つまり、この「定説」を自分で確かめた人は稀だったということだ。もっとも、輸入しようなどという気にもならないほどにひどかったのかもしれないが。

 私はカメラに凝るようになってから、初めてソ連製品を使うようになった。それは悪いイメージを払拭するために「ロシアレンズ」と呼ばれているが、間違いなくソ連時代のロシアで製造されたレンズである。

IMG_7738

 最初に使ってみたのは「木星11号(仮名)」という望遠レンズである。

IMGP0170

 正直言って何も期待していなかったのだが、これが使い勝手がとても良い。

IMGP0184

 絞りやピントのリングがかっちりしていないから心細いのだが、きちんと絞れるしきちんとピントが合う。

IMGP9548

 軽量だから三脚なしの手持ちでも手ブレが少ない。



 したがって望遠の動画撮影にも使える。40年くらい前のレンズなのに、現代レンズに通じるものがある(現代のちゃんとしたレンズは2つしか持っていないけどね)。

IMG_7720 (5)

 少なくとも同時代の日本の同クラスの望遠レンズが精巧だが重くて三脚を使わないと手ブレがひどく、動画撮影など思いもよらないのとは対照的である。

 ロシアレンズに関してはよく「ドイツコピーだから質がいい」という意見を聞くが、それが正確で冷静な意見でないことは既に書いた(カメラ河童のジャンク道遥か31-魅惑のロシアレンズ-(それでも生きてゆく私225)。技術者を拉致しただけで国全体が急激に発展できるほど工業技術の世界は甘くない。
 たとえばこの「木星11号」などはソ連で独自設計されたレンズなのだ。もっともそのせいか人気がなくて安く買えるが。

 少なくとも1960年代くらいまでのソ連工業製品の実力は相当のものだったのではないかと、実際に使ってみて思う。
 もっとも、これも既に書いたが、農業を壊滅させ、軽工業をすっ飛ばして重化学工業に傾斜した計画経済体制はこの後にやってきたエレクトロニクス化の波で沈没してしまうのだが。

IMGP0719

 今回の韓国旅行の直前、私は「ハートオープン(仮名)」のジャンク箱の中からあるインスタントカメラを100円で救出した。

 プラスチックの箱にレンズが付いただけのいかにも安っぽい出来のカメラである。
 キリル文字が書いてあったわけでもないので、私はそれがロシア(ソ連)製であることに気付きもしなかった。
 だが、「このレンズ、なんかいいなあ」と惹かれるものがあったのは間違いない。どこかに贅沢感がある。
 それはおそらく私が既に「木星」を手にしていたからだろう。アルミの削り出し鏡胴(レンズの筒)に相通ずるものを感じていたのだ。

 私はこのカメラを分解(破壊)してレンズを取り出し、使い道がなくて眠っていたM→Qマウントアダプターと結合させて愛機「オバQ」に装着できるように改造した。改造時間は30分くらいだった。 
  ちなみに、なぜM→Qマウントアダプターには使い道がないかというと、Mマウントは「ほのぼのライカ(仮名)」のレンズマウントだからだ。私にライカのレンズなど買えるはずがない。このアダプターも嵌められる予定のないレンズを待ち続けるより、その末裔のために役に立てて本望であろう(勝手な言い草)。

IMGP0799

 改造レンズが出来上がった後で、私はこのカメラのレンズが多くの人から「コメ八(仮名)」と呼ばれてデジタル1眼に装着されて愛好されていることを知った。

 私は図らずも「コメ八」の日本初Qマウント改造レンズを製造していたのだ。このレンズは「ドーモ君」と命名された。

IMGP1028

 F4と光が入りにくいレンズのため、日陰での撮影には弱いが、これはインスタントカメラ共通の弱点であるからストロボを焚けばいい話である。

IMGP0964

 写真の上手下手は別にして早朝に撮影した櫨の木の発色もご覧の通り。



 本当はもう少しこのレンズの実力の分かる動画もあるのだが、ヒタキの撮影に初めて成功したのでこちらを掲げておく。韓国で動画撮影した鳥たちはすべて「木星」とこのレンズによるものである(Dマウントシネレンズと行く韓国世界遺産への旅8-釜山とりどりの記-(河童亜細亜紀行81)

 日本のオールドレンズと比べても、決して遜色ないことがわかる。非効率な体制から生み出された時代遅れの製品と思っていたレンズの意外な実力である。

 考えてみれば1960年代に日本でポリオが大流行した時、生ワクチンが全然足りなくて輸入した先がソ連だったのだ。私が生まれた年の話である。当時の日本の科学技術の水準がわかる話だ。

IMGP5263t

 現在は世界に冠たる釣り道具を作っている日本がまだこんなリールを作っていた時代なのである。

 人間は対立の渦にあるときはバイアスによって相手の良さが見えない。

 勝ち負けがはっきりすると急に見えるようになるのだが。
 それは自分が明らかに勝った、と思えるときと、完膚なきまでに叩き潰された時である。
 勝ったときは優越感で優しくなれるし、完敗すると悔しさの後に尊敬の念が湧いてくる。

 今、国立感染症研究所のHPを見ても、ワクチンの輸入先はさりげなく「消去」されている。思い出したくない過去なのだろう。

 ちっぽけなものだが、いろいろなことを教えてくれるオールドレンズ達である。    

Dマウントシネレンズと行く韓国世界遺産への旅13-韓国雑感 慶州編-(河童亜細亜紀行86)

ちょっとピンボケの夫婦写真

  韓国雑感、2度目の釜山に続いて、世界遺産慶州である。

 上の写真は仏国寺でガイドのAさんが撮ってくれたものである。
 「シャッターを押すだけにして渡してくださいね」と言われたにも関わらず、私がピントの調節を間違ったため、せっかく夫婦一緒に映った今回唯一の写真であるにもかかわらず少しボケている。

 我が愛機「ペンテコステオバQ(仮名)」の私から見た唯一の弱点はここにある。
 周囲が明るいとモニター画面が極端に見にくくなり、かつ画面が小さいのでピント合わせがしにくい。
 特に撮影に使用したDマウント広角の場合は対象物が小さく映るため、モニターを見ただけだとなかなかピントのピークがわかりにくいのだ。
 こういう撮り直しの利かない外国旅行などだと「痛っ!」ということになる。

 「オバQ」でコンテスト写真を撮る人はまずいないと思うが、この場合の一般的な応募要件である4つ切りくらいだと十分鮮明な写真が撮れるのだから、一部カスタマーのいうようにやたらとセンサーを大きくするよりまずモニターを含めたピント合わせをどうにかしてほしかった。写真の価値は鮮明さだけではない。それよりも構図やアイディアの方がずっと大事である。

 「ほしかった」と過去形なのは、どうやら「オバQシリーズ」は今後新型が出ない可能性があるらしいからだ。

 製造側にしたら純正レンズの自動焦点があるから優先順位が低かったのかもしれないが、ピント合わせが改善せず、センサーが大きくなって多くのDマウントがケラれる(四隅が丸く黒く映る)ようになった「オバQ7」以降の機種に私は魅力を感じない。

 閑話休題(おっと、かめらのはなしじゃなかった)。

IMGP1592


 韓国ではよくこういう形の楼閣のような休憩所を見かける。そして大抵アジョシ(おっちゃん)が寝ている。これは高速道路のサービスエリアにあったものだが、年末だからかさすがにいなかった。

IMGP1593

 高速のサービスエリアも初めて止まったので見てみたかったが、ツアーの途中だったので果たせなかった。かといって韓国で自力運転はさすがに怖い。
 これはマナーの問題ではなく、韓国では通行側が日本と逆だからである。
 つまり、日本が「人は右、車は左」で右ハンドルなのに対して、韓国では「人は左、車は右」で左ハンドルだからだ。
 私は右ハンドルに改造した独逸車を運転するときにウインカーと勘違いしてワイパーを「バッサバッサ」と動かしてしまう男だから、とてもではないがこの環境の変化に適応できるとは思えない。

IMGP1595

 慶州はちょっと走るとすぐ郊外になる小さな街だが、市全体の人口は30万人近く、久留米市くらいである。一体そんな多い人口がどこに住んでいるのだろうかというと、昔から道州制が発達した中央集権の国らしく、他の都市と同様人口が中心にギュッと集中している。ただし、大都市では最近はドーナツ化が進んでいるのは日本と同じである。

IMGP1596

 30数年前に韓国を訪れたとき、飛行機の上から見た国土が「茶色っぽい」という印象を持ったのは、落葉樹の割合が日本より高いからだろう。そういえばあれは2月くらいだった。

IMGP1615

 石窟庵に登っていく途中に建てられた石碑である。

[日本誤訳]

  石窟庵の仏像

 私たちが何よりも忘れてはならない作品として、慶州の仏像がある。
 英国人はシェークスピアを失うよりはむしろ印度を失わんと言ったが、しかし、私たちにとって何よりも貴重な宝物は、この石窟の仏像である。

 「新羅の彫刻」(1934.10)より(著者は高〇〇という人らしいが碑文不鮮明で解読できず。情報をお持ちの方はご一報ください。정보를 가지고 계신 분은 연락주세요.)

 この碑文にある「英国人」が誰かは浅学である私には分からない。ただ、戦前の思想家である大川周明の著作にはこの表現をもじったものが出てくるから、あるいは当時の東亜の知識人には周知のことばだったのかもしれない。
 どうも大川周明という名前を見ると東京裁判で東条英機の禿げ頭を後ろから叩く場面が浮かんできて笑ってしまうのだが。

IMGP1627

 慶州の巨大鐘楼だが、地震で被害を受けたらしい。
 慶州の地震は日本では全くと言っていいほど報道されなかったが、世界的に貴重な遺物(当時のものは少ないといえ)が大きな被害を受けているのだから、せめて報道くらいはしてほしいものだ。

IMGP1633

 見事な枝ぶりの松である。ガイドのAさんから由来を聞いたが忘れてしまった。私たちは案内し甲斐のない客だったに違いない。

IMGP1634

 花梨の実。
 これは酒に漬けたりジャムにしたりするのだが、包丁で切るのにこんなに怖い思いをする食品はほかにない。ツルツル滑る上に真ん中に大きな固い種がある。

IMGP1639

 松の梢の間から山が見える。三好達治の見た風景とはずいぶん変わってきたのだろう。

IMGP1653

 吐含山から流れてくる玉露水である。飲むと長生きするという。

IMGP1652t

 大勢の人が群がって飲んでいる。
 人間の願いは国境を越えるということだろう。

IMGP1733

 博物館で見た印度由来っぽい神像である。
 河童かとも思ったが、残念ながら韓国に河童はいない。河童は柿と同じく日本の固有種なのだ。

IMGP1693

 韓国の十二支はほぼ日本と同じだが、猪の代わりに豚が入っている。もっとも立派な牙を持った豚だから、なんと呼んでいるかだけなのかもしれない。

十二支競争

 十二支が決定するにあたっての伝承については以前略称にニヤッとする学校-十二支編-(チャンクの暴走20)で書いた。韓国では動物の入った校名はあまりないような気がするがどうなのだろうか。一度調べてみたいものだ。

IMGP1735

 由来はわからないが頭だけになった仏像。次は扶余のあの弥勒菩薩に会いに行かなければ。

IMGP1780

 年末年始、韓国は天候に恵まれた。

IMGP1792t

 「遺跡もいいけど、スーパーもね。」
 
 やはり私たち夫婦にとって韓国で一番楽しいところはスーパーマーケットなのであった。

Dマウントシネレンズと行く韓国世界遺産への旅12-韓国雑感 釜山編2-(河童亜細亜紀行85)

後ろ髪を引かれる帰国

 最後に釜山・慶州雑感である。

IMGP1302

  「笑ってトンヘ号(仮名)」の食堂の椅子である。流石は船の椅子。がっちり固定してある。

IMGP1342

 二等船室は廊下側に陣取るのがセオリーである。荷物置き場は頭上の棚にあるが、床に余分なスペースがあるから他の人より広く使える。

IMGP1355

 改めて船の上から見ると釜山が大都会なのがわかる。福岡や大阪より大きいのだ。それにしては人々が親切な気がする。
 リゾート地だった海雲台も今は完全なオフィス街と住宅街に変貌を遂げた。

IMGP1380

 カモメ(カルメギ)たちのお出迎えである。
 私は日韓カモメ-カルメギ協会の日本側会長であるから当然であるが(大嘘)。

IMGP1456t


 今日本でも議論喧しいカジノである。
 送迎のバスの中でガイドさんが「カジノに行きたい人はおっしゃってください」と呼びかけたが、ツアー客全員ピクリとも反応しなかった。
 真面目なのか、それとも懐具合の関係なのか。

IMGP1460

 「銀ピカ」の消火器である。「ところ変われば品変わる」とはよく言ったものだ。

IMGP1467

 トイレの小便器に何か付着しているのでよく見てみると、

IMGP1466

 精巧に描かれた蠅の絵だった。「蠅を打ち落とせ」というメッセージなのだろう。

IMGP1470t

 私はこのコンビニのスイーツが大好きだ。まだ柳川に住んでいたときには出張帰りに立ち寄って「ハロハロ」やら「ペルギーチョコソフト」やらを買い食いしていた。
 なぜか熊本には出店しないのに、韓国にはしていたとは。早く熊本に進出してくれ。

IMGP1472t

 日本でもお馴染みのこのコンビニは釜山にも山ほどある。レジの機械で勘定は分かるから、言葉の分からない外国人でも全く困らない。まさに「コンビニエンス」である。韓国語では「便宜店(ピョンイジョム)」という。意味はこれまたまさに「コンビニエンス」である。

IMGP1490t

 釜山で一番よく見かけたのはこのコンビニであった。比喩ではなく、本当に通りごとに存在したが、なぜかホテルの近所にだけはなかったので入らなかった。今度行ったときは早速入ってみよう。

IMGP1485

 蜜柑を売る屋台。以前はよく見かけた行商や屋台もめっきり少なくなったのは日本とご同様である。

IMGP1510

 配達する地区がえらく細分化されたポスト? それにしてはセキュリティーがないから共同の郵便受けか何かかもしれない。広告入れか?よくわからない。

IMGP1534

 ポストは別にセキュリティー万全の奴があり、「ポスト」と書いてある。ますます謎の箱である。

IMGP1539t

 前回来た時もそうだったのだが、今回も頭に物を載せて運ぶ人を見かけた。

頭に物を載せて運ぶ女性

 昔は日本にもあった風習である。
 釜山は大都会なのだが、どこか懐かしい街である。

IMGP1543

 日本なら火山の近くにしかないものが街中にある。この民族を取り囲む厳しい現実を思い知らされる瞬間である。

IMGP1583

 釜山港に止まる豪華客船。一体どんな仕事をすればこんな船に乗れるほど稼げるのだろう。

IMGP1597

 愛機「ペンテコステオバQ」はレンズシャッターなしのDマウントレンズで撮影するときはローリングシャッターなので、車窓の風景で近くのものはこういう写り方をする。

IMGP1598

 だがこの建物はそうした事情で斜めに映っているのではない。もともとデザインが傾いているのだ。

IMGP1601

 建物の色に緑を上手く使ってあるのが韓国文化の特徴である。経年で渋い感じが出てくる。日本とはちょっと違った「詫び錆び」である。



 ドリンクホルダーの動きが面白かった。このあたりが文化の違いなのかもしれない。

IMGP1841

 ソウル、仁川、釜山とも、山の上までぎっしりと住宅が建てられている。なんとなく長崎を思い出す。
 高齢化が進んだら大変に違いない。

IMGP1850

 この物凄い数の船を見ると釜山が港町だということがわかる。

IMGP1865

 もはや釜山の人の多いところのトイレは洗浄機付き便座だと思っていい。急速な普及である。これは意外なことに中国人観光客が増えた結果のようだ。
 紙を流してもOKというより、紙は流さなければならないトイレも増えた。

 韓国の「トイレ革命」は進行中である。

IMGP1867

 釜山港の搭乗口までの長い長い通路。これはなんとかしてほしいものだ。動く歩道があるにも関わらずとんでもなく長く感じる。

IMGP1870

 何せ職員が通路を移動する専用の乗り物があるくらいである。



 ということで釜山港からサヨウナラ。
 明日は韓国雑感慶州編です。

Dマウントシネレンズと行く韓国世界遺産への旅11-懲りずに提案-(河童亜細亜紀行84)

こんなマッコリが出たらうれしい

 さて、このシリーズの前半部分で予告した今回の旅の真の目的の話をしなければならない。

 この旅は私が日本側会長を務める日韓カモメ-カルメギ協会からの密命なのだ。 
 それは、「韓国で飲むのとまったく同じ味のマッコリを日本でも飲むための可能性を探れ」というものだ(大真面目な顔をしてまた出鱈目)。

 私が最初にマッコリを飲んだのはまだ20歳のとき、やっと未成年を脱して飲酒が合法になった歳だった(建)。
 某所で飲んだのだが、これ以上詳しいことは言えない。
 まあ、そのマッコリの美味かったこと。この世にこんな美味い酒があるのかと思った。それは本当の作り立てだったのだ。

 当時韓国ではまだ米のマッコリは禁止されていたような気がするが、これは米の味のよく出た、「トンドンジュ」とでもいおうか、最高のマッコリだったと思う。1年の収穫の御褒美として韓国の人々が仕込んだものを、どういう場面設定だったのか忘れたが、ご相伴に預かったのだった。

 当時私は在日韓国人の多く居住する地区に住んでいたのだが、彼らの経営する料理屋に行っても、日本人である私にマッコリを出してくれる主はいなかった。日本の少々杓子定規に過ぎるとすら思える厳しい酒造法は、そんなマッコリを日本人には出せないものにしてしまっていたのだろう。

 それからしばらくしてソウルや大邱や釜山でマッコリを飲んだ時も、このマッコリに敵うものは飲んだ覚えがなかった。それはおそらく麦が原料のマッコリだった。まだ韓国が「漢江の奇跡」の最中で、私たち世代が子供だった高度成長期の日本と同じく、いろいろな食べ物や飲み物に紛い物が多かった時代だったのだろうと思う。

 2000年代に入ると、マッコリは普通に日本で飲めるようになっていったが、それは長期保存が可能なように加工されたもので、確かに韓国料理に合うようにはしてあったが、やはり「あのマッコリ」には程遠いものだった。

 2010年を過ぎてから、私は再び韓国によく行くようになった。
 相変わらず、私は居酒屋に入ると最初の一杯にビールを飲んだ後はマッコリを頼んだ。日本で「まあまあかな」というマッコリを飲んでいたから、それほど期待しなかった。
 ところが、これが思いのほか、というより、すこぶる美味いのである。「あのマッコリ」には及ばないものの、思い出させるほど美味い。

 では、本場のものと日本で飲むものの最大の違いは何か。

 それを考えるときに私が思い出すのはウニだ。

 私はウニ好きだから、天草の採れ採れの海栗も、殻から取り出した海胆も、塩漬けの雲丹も、アルコール漬けの雲丹も、どれも美味しくいただく。ただ、やはり一番好きなのは殻から取り出して塩水に漬けてある海胆である。
 ところが、妻はもともとウニがあまり好きではないから、海栗や海胆は食べるが、塩雲丹はあまりたくさん食べないし、アルコール雲丹は手も付けない。

 どれも記号は「ウニ」だが、実態には大きな違いがある。それは鮮度である。鮮度が高いウニはウニ嫌いの妻ですらぱくぱく食べる。「嫌いじゃなかったんかい」と私の分を心配するほどだ。


IMGP7143t


 同じように、マッコリもまた、韓国で飲むマッコリには「生マッコリ」と書いてある。
 左の米マッコリのラベルの左端のハングルや右の栗マッコリのキャップの漢字はいずれも「なま」という意味である。

 前回の仁川旅行で私たちは、スーツーケースの中に凍らせた保冷剤を入れ、現地のホテルの冷凍室で保存し、それと一緒に2本の生マッコリを持ち帰った。

 これらのマッコリは賞味期間が製造から2週間程度である。
 だが飛行機ならば、現地のスーパーやコンビニで買ってから12時間以内で持ってこられる。つまり製造年月日に気を遣えば、ほぼ作りたてを持ってこられるわけだ。

 この2本は帰国当日と翌日と翌々日で消えたが、現地の居酒屋で飲むような素晴らしい味だった。「うめー!」と夫婦して叫んでしまった。

 しかし、飛行機(格安航空)の手荷物は無料が1人15kgまでである。750mlを2本持ってくれば重さが水と同じと仮定しても1.5kg(おそらくもう少し重い)。しかも十分に冷やすためには1kgの重さの保冷剤が必要だ。これとの合計重量2.5kg。つまり、私の荷物の重さの1/6は酒の重さだったわけである。
 また、関税無料は1人750ml×3くらいだから、2人で6本は持ってこられるが、この場合は保冷剤の重さを入れると5.5kg。2人分の荷物の無料で預けられる重量が30kgだから、無料で運べて無料で持ち込める酒は荷物の1/5弱ということになる。日常生活に必要なものの重量を考えれば土産は酒飲み、じゃなかった、酒のみ、ということになってしまうのだ。

 これでは酒を買うために旅行をしているようなものである。
 それに空港が熊本の場合は国際線の駐車場がタダという特典があった(2017.1.10現在日本人のツアーは地震の影響で休止)から、飛行機を降りたらすぐ車のトランクに入れて1時間で我が家だが、福岡や佐賀だともっと時間がかかる。

 船の場合はもう少し融通が利くが、重量・関税・駐車場代・輸送時間を考えると、やはり生マッコリを買って帰るとどうしても「酒買い旅行」になってしまうのである。

IMGP1999t

 今回私たちは4本のマッコリを買い、荷物代・関税なしで持って帰ったが、わざわざマッコリ輸送用の大きなリュックを買い、1kgの保冷剤を用意し、ホテルの冷蔵庫に冷凍室がなくてフロントに保冷剤の冷凍を頼み、港に着いたら寄り道なしに帰って家の冷蔵庫にマッコリを入れ、と、「マッコリ御一行様ご送迎」の添乗員のような状態であった。

 ただし、生マッコリ750mlは現地のスーパーで1本2000Wもしないで買えるから、旅行がてらに買って帰って個人で楽しむ分にはむしろお得感がある。
 しかし、利益を考えて輸入、などということになると、単価の低さと日持ちのしなさを考えると到底元が取れないだろう。「現地に行って飲んでください」ということになる。
 やはり「マッコリと豆腐には旅をさせるな」というところだろうか。

 ではどうするのか。現地で飲むしかないのか。
 確かに韓国では各都市で違う銘柄のマッコリを売っている。これは「地マッコリ」とでもいうものが本来のマッコリの姿であることを表している。ビールが大手の寡占状態でどこに行っても同じなのと好対照である。

 ならば。

 日本を現地にしてしまえばいいのである。

 これで輸送費も関税もクリアできる。
 悪名高い日本の酒税もリキュール類はビールなどより安い。1000000mℓ当たり12000円だから、500mℓ瓶であれば60円である。

 もちろんマッコリ呑みはビール呑みや日本酒呑みなどの他の酒の愛好者よりは少ないし、短期間に呑み切る必要があるから、元を取るためにはある程度大きな都市でなければならない。

 鮮度を保ち、評判を下げないために、業者による5時間200km以上の移動禁止。輸送も要冷蔵。ただし、個人で買って遠くまで持っていくぶんには可。販売は1人2本まで。これはうっかり不味くしても自己責任である。

 当然工場の隣には韓国料理屋もしくはマッコリバーがあり、そこで出来立てのマッコリが飲める。

 原料は米のみ。添加物なし。

 銘柄は「あの時飲んだあのマッコリ」(河童註:パクリ可。2017.1.13)。

 そしてラベルにはこういう注意書きが必要である。
 「日韓関係を悪化させる恐れがあるため、飲酒しての歴史・政治の話はやめましょう」(このフレーズもパクリ可。もっとも友人のジャーナリストA君の言葉がネタ元である)。

 などと夢想を広げていたら、実はすでに日本産のマッコリがあるらしい。
 がっかり。
 いつものように妻の言葉で締めくくりたい。
「私たちの考えるようなことはとっくに誰かが考えてるよ。」

IMGP1998t

 P.S.
 ゲテモノだと思った「チーズマッコリ」、えらく美味かった。

Dマウントシネレンズと行く韓国世界遺産への旅10-オルシンは辛いよ-(河童亜細亜紀行83)

ネタの熟成壺

 いつもながら「本当に面白いこと」というのは映像にも文章にも残せない。少なくとも公開できない。
 慶州から釜山に帰ってきてから半日間の私たち夫婦の経験はそうした性質のものだった。したがってこれはいつものように「ネタの熟成壺」に入れようと思う。10年してまだ私が生きていたら公開しよう。
  この壺には私が今まで生きてきた人生での経験がたくさん詰まって、もう破裂しそうになっているが、たまにいい具合に熟成して公開できたものもある。

  河童リチャードギア

 たとえば河童はつらいよ(京都安下宿事情56)などはそうした稀有なネタの1つである。
 だが、年月を重ねて時世が移ろうにつれ、どんどん公開しにくくなったものもある。感じるのは「世の中が窮屈になったなあ」ということだ。
 「自由にモノが言える」というのは、集団が道を間違わないために重要なルールの一つだと思うが、残念ながら「多数で攻撃して黙らせる自由」があたかも「自由」であるかのようにまかり通るようになってきた。

IMGP1810
 
 どうにか公開できる話を紹介すれば、私は韓国の若者から「オルシン(日本誤訳:ご老体)」と呼ばれる歳になったことを知った。
 韓国在住の上の娘にはこの話がえらく気に入ったらしく、この間来たメールには私の事を「オルシン」と書いてあった。

 日本や韓国のような敬老精神に富んだ国では、何を言っても何をしても、その内容よりもまず、「労わられる」年齢になってしまった、ということだろう。

IMGP1796

 もう一つ、どこの国にもまともな人もいればまともでない人もいる。そして、人は環境や状況次第でどちらにもなりうる。
 私はいつものごとく、まともな人に助けられる経験をした。その人にすればもしかすると少し勇気の要ることだったかもしれないが。
 そして、まともかそうでないかは、地位や性別や経歴には関係ない、ということも改めて知った。
 私もまたどんな状況になってもそういう人でいられるように努力したい。

IMGP1817

 道に迷って2人とも股関節が痛くなって座り込んだ花壇で食べた練り物(九州ではテンプラという。韓国ではオデンというらしい)は美味かった。きっとまた道に迷ったらあの夜の出来事とこのテンプラの味を思い出すだろう。

 歳を取ったのだ。

IMGP1807t

 話を楽しいところに戻せば、釜山駅で大はやりのこの店のテンプラはやけに美味い。ビュッフェ形式というのだろうか、トレーとトングを持って山盛りにされたテンプラから自分の好きなものをちょっとずつ取っていくのがとても楽しい。全部で20種類はあると思う。

 写真はまだ早い時間だから大した行列ではないが、夕方の「揚げたてタイム」の行列は凄い。店内は凄い人いきれで、交通整理のための店員まで外にいる。

 妻はトングを構えてテンプラを取ろうとしたが、後ろから押しのけられてテンプラ盛りの前に近づけない。小柄な大和撫子の妻にはこのほとんどバーゲンセールのような人ごみの中でこの任務は無理である。仕方がないので身体の大きい私にお鉢が回ってきた。
 さすがに私を押しのけられる人はそういないから、次々と様々な種類のテンプラを取っていく。全部で15種類くらい取って、勘定は20000Wしなかった。安い。

IMGP1805t

 近くにあるこのオデン屋(こちらは日本でいうところのおでん)は構内のオデン(こちらはテンプラ)もしくはそれに匹敵する味のものを材料に使っているはずだから、きっと美味いはずだが、構内の方のオデン屋で突き飛ばされて横入りされて疲れ気味の妻がもう行列は嫌だと言ったので残念ながら買わなかった。

 それにしても普段からこんな美味いものを喰っている釜山市民が羨ましい。日本にも出店してくれないだろうか。

IMGP1809t

 釜山駅の近所には楽しそうな繁華街がたくさんあったのだが、道に迷って帰ってきたときには入る気力をなくしていた。

IMGP1812

 代わりに足が棒になって帰ってきたホテルの近所の店でコムタンを食べた。驚いたのは山葵を溶いたタレで食べることだ。

 それにしても韓国でご飯を食べて不味いと思ったことがない。韓国米の実力は相当のものである。
 インディカでないジャポニカ(コーリカ?)を食べる民族は実は世界でも稀なのだ。これもまた韓国東海岸に生息するムツゴロウなどと同じく、貴重な「保険」なのかもしれない(韓国仁川ミステリー?ツアー5-月尾島まで-(河童亜細亜紀行64)参照)。

IMGP1818

 近所のコンビニで買ってきた可愛らしいジュース(お酒?)を飲みながら2日目の夜は更けていくのだった。

Dマウントシネレンズと行く韓国世界遺産への旅9-世界遺産慶州-(河童亜細亜紀行82)

慶州は国のまほろば

 年末年始韓国旅行、2日目はいよいよ世界遺産慶州への旅である。

 釜山港近くで「鳥撮り」を満喫した後、ガイドのAさんとともにマイクロバスで慶州に向かう。

  IMGP1572

 大きなループ橋を通って、

IMGP1578

 昨日は船から見上げた広安大橋を通過すると、後は一路慶州への高速道路である。

IMGP1594

 途中トイレ休憩でパーキングに寄ると、東亜で最古級の天文台といわれる「慶州瞻星台」の復元モニュメントがあった。
 韓国では古くから天文台であるとの伝承があったが、これを「東洋最古の天文台」として再発見したのは日本統治時代の天文学者である和田雄治という人である。
 ところで、この天文台の実物は慶州に建っているのだが、倒壊の危険があるらしい(以上Wikipediaによる)。

 ガイドのAさんによると、熊本地震とその後の余震のとき、韓国でも南部を中心にずいぶん地震が起こったらしい。特に9月には「慶州地震」と呼ばれる大きな地震が起こり、このときの揺れで文化財をはじめとする古い建物が相当の被害を受けたという。

 韓国は地震の少ない国だから、人々も建物も揺れに慣れていない。現地の新聞によると、特に瞻星台は被害が大きく、大きく傾いているのだとか。韓国の文化財研究所が復元を予定しているが、正確な構造図や設計図がないため、復元が難航しそうだという。
 記録好きの日本人のことだから、誰かがそうしたものを保存していないだろうか。

IMGP1604

 慶州に着いて最初に向かったのが「石窟庵」である。

IMGP1619

 この寺には有名な石仏がある。
 統一新羅時代の宰相が開いた寺であるが、仏教国だった新羅の後に儒教を国是とする朝鮮王朝が500年続いたためにすっかり荒れ果てていたそうだ。それを日本統治時代に郵便配達員が偶然見つけ、凄い文化財だというので再評価されたという(Wikipediaによる)。

IMGP1620

 ところが修復作業がうまくいかず、この仏像を長年保存してきた環境が失われてしまったため、今後の保存について困難が生じているらしい。このあたり、日本に関係する話であるためか、Aさんの話は微に入り細を穿ったが、どの王様のときのどの宰相がどんな経緯で作った仏像なのか、とか、仏像が文化や美術史上どんな価値を持っているのか、とか、私の知りたい情報はほぼ得られなかったのであった。

IMGP1618

 それにしてもこの仏像は素晴らしい。
 これほど大きな掘り出しの石仏をよく作れたものだ。仏様の顔も気品と威厳に満ちた、そして大らかな、大陸的な雰囲気で好ましい。
 撮影禁止だったのでお堂しか写真は残っていないが、今でも目に焼き付いている。ぜひ一見していただきたいものだ。

IMGP1617

 仏像までは結構傾斜のある山道だったので、持病が「発作性」でなく「持続性」と診断されてしまっている私は「心臓が持つかな」と思ったのだが、前回の発作から1月以上1滴も飲まなかったのが幸いしたのか、今回の旅行中「ん?」と思ったことは一度もなかったのだった。
 道中にカラフルな提灯が下げてあるのがいかにも大陸的である。

IMGP1624

 しかし、見下ろす風景はまるで熊本の山都町やあさぎり町のようである。
 中国のひたすら雄大な山と違って、韓国の山はどこか繊細優美な感じがする。

IMGP1628

 石窟庵から降りたら次は仏国寺である。

IMGP1649

 なんと境内の流水が凍っている。
 熊本では考えられない寒さだが、今一つ寒いと感じないのは、異国を旅することによる気分の高揚のためか。

IMGP1663

 こちらが多宝塔、

IMGP1665t

 こちらが釈迦塔である。いずれも国宝に指定されている。
 この2つの遺物にも日本が関係したエピソードがあることは既に紹介した。

 今はこの宝塔に纏わる悲話を紹介したい。
 この宝塔を作ったのは百済の阿斯達(アシダル)という職人だったということだ。阿斯達はその石工の腕を買われて故郷に妻阿斯女(アシヨ)を残して新羅に招かれ、まず多宝塔を、次に釈迦塔を作った。
 ところが単身赴任があまりに長くなったので、寂しくなった阿斯女ははるばる新羅まで阿斯達を訪ねてきた。ところが寺の僧たちは阿斯達に会わせてくれず、党が、じゃなかった、これじゃ現代になってしまうな、塔が完成するまで待て、と言った。塔が完成した合図は、釈迦塔の影が近くの池に映ることである。
 阿斯女は池の畔で塔の影が映るのを待ち続けたが、ある日ついに影が映った。それでこの池のことは影池というのである。

IMGP1637

 その池がこの池である、のではないかと思う。というのはこの悲話は私が帰国後にネットで見つけ出したもので、Aさんから教えてもらった話ではないからだ。

 閑話休題(はなしがそれた)。

 池に映った塔の影を見た阿斯女は喜びのあまり、それに抱き着こうとして池に落ち、溺れてしまった。このあたり、月を取ろうとして水死した李白を思わせる。
 実は釈迦塔を見たというのは阿斯女の勘違いで、既に完成していた多宝塔の方だったという。
 釈迦塔を完成させて高揚した気分の阿斯達が喜び勇んで池に駆けて行くと、そこには冷たくなった妻の骸が。
 絶望のあまり阿斯達もまた池に飛び込んで死んでしまった。
 それで影の映った多宝塔は有影塔、釈迦塔の方は影が映らなかったので無影塔という別名があるのだとか。

 こんな悲しくも美しい話を最初に聞かされていたら、塔を見る目ももう少し違ったような気がする。

 三好達治に「冬の日」という詩がある。
 仏国寺は文禄・慶長の役(韓国では壬辰倭乱という)などの戦乱と朝鮮王朝の仏教弾圧によって荒廃し、現在のような形に再建されたのは朴正熙大統領の1973年だから、三好が見たのは日本統治時代に始まった再建中途の伽藍の姿だったろう。

IMGP1689

 今、観光地となった仏国寺の風景は三好の見た風景とはずいぶん違うのだが、この寺の周辺の風景はこの詩に謳われた風景を彷彿とさせる。

IMGP1713t

 そうして今日は何と静かな朝だろう
 樹木はすっかり裸になって
 鵲の巣も二つ三つそこの梢にあらわれた
 ものの影はあきらかに 頭上の空は晴れきって
 それらの間に遠い山脈が波うって見える

IMGP1829

 ああ智慧は かかる静かな冬の日に
 それはふと思いがけない時に来る
 人影の絶えた境に
 山林に
 たとえばかかる精舎の庭に
 前触れもなくそれが汝の前にきて
 かかる時 ささやく言葉に信をおけ
 「静かな目 平和な心 そのほかに何の宝がこの世にあろう」

 そうしてこれは何と下手な写真であろう

 私は韓国を訪れるたびに、ヒトの個体差、「人間の質」というものを考える。
 戦乱と弾圧によって荒廃した異民族の遺跡に人類普遍のものを見出す人がいる一方で、金製の仏にしか興味を示さない人もいる。
 そして残念ながら現代の日韓両国では互いの民族の中の後者の人たちしか語られない。

IMGP1672

 私は三好の詩もすばらしいと思うが、どちらかといえば金仏の方に興味があるから、韓国人から見たら残念ながら後者に属するのだろう。
 何せ、「まほろば」とでもいうべき慶州の景色を最初に見た私の感想は、「松の木が多いから松茸も多いだろうな」だったのである。

 しかし、反りあがった中国風でもなく、直線の日本風でもない、独特の屋根を創り出した文化の素晴らしさも多少は分かる。
 これからもちょっとずつでも人間の質を上げて行きたいものだと、訪韓するたびに思う。

IMGP1679

 境内の一角には多くの人が石を積んでいる。

 日本には成人する前に死んだ子供が成仏するように三途の川に見立てた河原に石を積む風習がある。

高千穂の賽の河原

 九州では高千穂の「賽の河原」が有名である。
 私は虚弱なうえに無鉄砲な子供だったから、ものの喩えではなく何度も死にかけた。いつ石を積まれる側になっても不思議ではなかったわけだ。
 両親はどれほど心配だっただろう。死んだ父のことを考えると、「私が子供でなかったらもっと長生きしただろうに」と涙が出てくる。年老いた母を大切にしなければ。

 二つや三つや四つ五つ
 十にも満たぬ幼子の
 河原の石を取り集め
 これにて回向の塔を積む

 汝ら命短くて
 冥途の旅に来たるなり
 
 一つ積んでは父のため
 二つ積んでは母のため
 三つ積んではふるさとの
 兄弟我が身と回向して

 昼は一人で遊べども
 地獄の鬼の現れて
 積みたる塔を押し崩す

 娑婆に残りし父母の
 ただ明け暮れの嘆きには
 むごや悲しや不憫ぞと

 賽の河原の物語
 聞くにつけても哀れなり

(各地に伝わる「地蔵讃」を河童が編集改変)
 

 仏国寺の石積みはどんないわれのある風習なのだろうか。

IMGP1718

 昼食はサンパ(包みごはん)である。
 さまざまな種類の葉っぱにさまざまな食べ物を巻いて食べる。「赤いもの」は避けて食べるのだが、これが美味い。

IMGP1720

 夫婦二人で食べられるかなというくらいの量が出てきたが、キムチを除きほぼ完食。「アアー、マシッター(「ご飯いこうよ」調で)」。

IMGP1727

 新羅歴代の王の墳墓のある一角には歴史博物館が建てられて公園化している。
 ここで知ったかぶりをしてAさんにたしなめられた話は既にした。

 充実した展示で面白かったが、撮影禁止なので文物の写真は残っていない。最近映像に残さなかったものは急速に忘れるようになっている。恐ろしや。

IMGP1741

 それにしても松の多い土地である。
 日本の杉に匹敵するほどの量の松が山野に植えられている。

IMGP1754

 博物館を出て、釜山に向かう。
 車窓から韓国の風景を見ていると、「青垣山ごもれる」という古い表現を思い出す。山地と、点在する盆地。日本各地にある「やまと」を思い浮かべる。

 たった1日だが、いろいろな意味で印象深い慶州の旅であった。
 あらためてガイドのAさんと運転手のBさんに感謝したい。

Dマウントシネレンズと行く韓国世界遺産への旅8-釜山とりどりの記-(河童亜細亜紀行81)

鳥の逃げないレンズ新加入

 夕方から真夜中までなかなかハードだった1日目が終わり、韓国2日目は慶州観光である。

 起きてから車が迎えに来るまでまだだいぶ時間があるから釜山駅から釜山港界隈を散歩してみる。

IMGP1511

 山茶花を見つけて撮影する。
 「これは天草で見つけて撮影したもので」と言ってもみんな信じるだろう。手入れもよい。

IMGP1513

 赤い実のなった千両だか万両だかを撮影したら回転した。
 Dマウントシネレンズは絞りを全開放にすると簡単に回転させられるのだが、今回の旅行ではできるだけ「真面目(?)」に撮るなかで、たまたま回転したらそれはそれで楽し、というスタンスを取っている。

IMGP1521t

 中華街を発見。
 この逞しい民族は世界各地にこうした同族街を作っているが、韓国の中華街は隣国である割に意外と小さい。
 中華街があるということは…

IMGP1523t

 やはりあった。民族学校である。
 漢民族のあるところ、必ず教育がある。
 これは日本・韓国と共に東亜の民族の特徴である。
 私は東洋的教養がいつか必ず3つの民族の間に横たわる難問を解いていく力になると信じている。あの孫文と宮崎滔天の友情のように。

IMGP1551

 そんな身の程知らずなことを考えながら歩いていると、釜山港に朝日が昇った。

IMGP1558

 ふと気づくと、チュンチュン鳥の鳴き声がすぐそばで聞こえる。雀である。近づいても逃げもしない。

IMG_7739 (44)

 ここはすかさずレンズを超望遠の「木星11号」に付け替えようかと思ったのだが、よく考えたら近すぎる。これでは鳥は大きくなるがピントが合わずにポケボケである。

IMGP0800

 ここで取り出したのは「ドーモ君」こと「住めなー40mmF4改Q(仮名)」である。
 これは釜山行きを共にしたレンズ群の中で唯一紹介しなかったものである。このレンズについては別に項を建てて紹介するつもりだったからだ。

IMGP0720

 ロシア製のインスタントカメラについていたレンズで一見チャチだが、実は私の持っているレンズの中では指折りに映りがいい。「ハートオープン(仮名)」のジャンク箱の中に100円也で放り込まれていたものを私が救出したのだが、実はアルミの削りだし鏡胴(レンズの筒)の贅沢レンズなのだ。
 ただし、さすがはジャンク品、F4と暗いレンズなのに絞りが壊れてF8くらいで固定されているので、本日のような青天白日でないと真価を発揮できない。



 これで雀を動画撮影。ただし逆光だったため画像を加工して明るくしてあるので、「ドーモ君」らしいシャープな写りではない。
 これは近づきすぎたらしく雀は逃げてしまった。

IMGP1553

 すると次はメジロが来た。



 これも動画撮影。
 またしても近づきすぎた。逃亡。

 すると次はヒヨドリがやってきた。

生きていくのは大変だ

 何のことはない。
  今年の冬に我が家で繰り広げられた光景と同じである(三角とりどりの記10-メジロv.s.ヒヨドリ-(Sea豚動物記82))。

 ほんの10分ほどの間に、我が家では一冬粘ってやっと撮影に成功したシーンが簡単に撮れたのであった。
 人懐こい韓国の鳥たちに感謝感謝である。

IMGP1829

 最終日の朝には夫婦で散歩(というかスーパーで買い物)していたら、カササギの夫婦に会った。

 鵲は以前は住んでいた筑後でよく見たが、最近はあまり見ない。ガイドのAさんに「韓国では鵲が減りませんでしたか」と聞いたが、最初Aさんはカササギが分からず、「白黒模様の烏みたいな…」というと、「ああカチガラスですね」と言って、「全然変わらず沢山いますよ。根性が悪いから私はあまり好きではないけど。」という返事だった。



 鵲は巣作りをしていた。鵲の巣作りを撮影したのは初めてである。独特のダミ声を久しぶりに聞いて懐かしかった。ヘリコイド(ピント合わせ装置)の回転方向を勘違いして逆方向に回したためボケボケだが。

 これまた、人懐こい韓国の鳥たちに感謝感謝。

 鳥好きには堪能できる釜山の旅であった。

Dマウントシネレンズと行く韓国世界遺産への旅7-韓国ドライバーの超絶技巧-(河童亜細亜紀行80)

ボンネットバス

 先日2016年度の日本の交通事故死者が67年ぶりに4000人を切ったという報道があった。 

 これは戦後3番目に少ない数字だが、1.2位がまだ戦後まもなくの車両数が今とは比較にならないほど少ない1949.48年だから、実質的には最も交通事故の少ない年だったといってよい。
 2001年度には10000人を超えていたのだから、半分以下の犠牲者になったわけだ。

 対する韓国の2001年度の交通事故死者は8000人をやや超える数だったのが、2015年度には統計を取り始めて以来最少の4621人で(2016年度のデータは入手できなかった)、こちらも随分減少しているが、日本ほどの減少ではない。

 韓国の人口が日本の1300000000弱に対して半分以下の50000000強であること、車の保有率も日本の1人あたり0.62に対して0.43であることを考えれば、軍配は日本に挙がるだろう。

 この彼我の差を安全対策の面から日韓の研究者が共同で論じた文がネットに公開されていて、興味深く読んだが、それによるとこの差は1.歩車分離2.高齢者対策3.飲酒運転対策の要因が大きいという。

高速道路でBMW故障す

 私はソウル五輪以前の韓国で「歩車分離」などという概念すら存在しているかどうかという道路の路肩に故障したペムベーと共に佇んでいた男であるから、



 ちゃんと青信号の時間内に渡り終えることのできる信号に驚いたし、

神風タクシーin韓国

 「キサニム(技師さん)」と呼ばれる運転手の爆走させる「ポニー」のタクシーに乗ってあちこちに行った男だから、(88以前の韓国旅行記を記憶遺産に6-走る走る俺たち-(河童亜細亜紀行6)参照)、タクシーがやたらとクラクションを鳴らさなくなり、エンジンが焼き切れるのではないかというような音も出さなくなったという印象があるし、

神風バスで老婆転がる

 停留所に止まらず、乗客のハルモニ(御婆ちゃん)が床を転がったという報告を留学中のA君から受けたこともあるバスにも何度も乗ったから(88以前の韓国旅行記を記憶遺産に7-バスは出ていくお客は残る-(河童亜細亜紀行7)参照)、バスがちゃんとバス停に止まるようになったのに感動すら覚えている。

実はもっと深刻

 だが、前回の仁川旅行のように死を覚悟するような運転をするタクシーに遭ったりすると、やはりもっと交通安全に気を遣ってほしいと、観光客として痛感する。

 それでもタクシーやバスに乗った印象では釜山はソウルや仁川に比べてずっとマナーがいい街だと感じる。

 また、博多や北九州の都市高速を運転しているときに感じる煽りや割り込みによる恐怖は釜山では経験したことがない。もっともこれは自分で車を運転しているわけではないという要素が強いのかもしれない。

 運転手さんの後ろに座った限りの印象では、前回の釜山行と同様、恐怖を感じるようなことは一度もなかった。ただ、別の意味で「こわいわ」と思った出来事はあった。
 それは初日の夜「寄ってマート(仮名)」で買い物をしてホテルに帰る途中の出来事である。

IMGP1502t

 バスはガイドさんが予告した道と違うルートを辿り始めた。運転手さんが近道を知っているという。
 その近道は繁華街の狭い路地で、熊本でいえば上通の裏通りのような道であった。

IMGP1503t

 大丈夫かなと思ったのだが、バスはイルミネーションの輝く路地を路肩に駐車した自動車を巧みに避けながら通り抜けていく。神業といっていい運転技術である。

IMGP1505t

 だが南無三、左右に駐車してしまっている車がいるところに来て、立ち往生してしまった。
 これはさしもの神業運転でもすり抜けられない幅である。物理的にバスの横幅より狭い空間だ。
 バスは止まってしまった。私たちのホテルまではまだずいぶん距離がある。刻一刻と時間が過ぎていく。まさか左右どちらかの車の運転者が帰ってくるのを待つわけでもあるまいな。

 無限に感じた時間の後、やっと1台の車が動き出して、ようやく道が空いた。といっても、バスぎりぎりの道幅である。おそらく両側の開いているスペースは10cmずつくらいである。
 だが、「余裕のヨッちゃん」という感じで、バスは結構速いスピード(10kmくらい)でそのスペースを滑りぬけた。
 これまた驚くべき運転技術、なにより度胸と自信である。
 おそらく日本のバスの運転手さんなら、「ここでこの場所をすり抜けないと急病の乗客が死んでしまう」というような状況でない限り、大事を取って(泣き寝入りしてともいうが)今来た道を引き返すだろう。

 私が幼少のころを過ごした熊本の南小国は、違う意味で交通事情のよくないところだった。要は道路の整備が遅れていたのだ。
 ガードレールもない狭い砂利道をボンネットバスが走っていた。
 小学校になって熊本に引っ越してから何かの用事があってバスで南小国まで向かっていたとき、後ちょっとで道が広くなる、という直前でばったりトラックと出くわしてしまい、にっちもさっちも行かなくなってしまった。5分くらいそのままだったろうか。
 子供心にトラックが強引に入ってきたような気がした。
 バスが泣き寝入りして後続の車と共にバックしようとしたとき、乗客の一人が叫んだ。
 「お前も『産興バス(仮名)』の運転手なら、これくらいの幅は通って行かんかっ!」
 ほかの人たちも「そうたい!」「バスが優先やろが!」と叫んだ。
 運転手は意を決したように前を向いてギアを入れた。バスが前進を始め、トラックと後続車がバックして道を譲り、私たちは時間通りに目的地に着いたのだった。
 
 遠く時空を隔てた韓国の繁華街での出来事に、急に幼いあの日のことを思い出した。

 後で聞いた話でははみ出して駐車していたドライバーは泥酔して車の中で寝ていたそうだ。
 その人が車を動かしたのか、他の人かは聞かなかった。どちらにせよ、いろいろな意味で「こわいわ」という話であった。

 前述の論文では、韓国経済が急成長した結果、飲酒関係の罰金が人々の懐具合に似合った金額まで上昇しておらず、違反して罰金を払う時の「痛み」が足りないことがなかなかこの違法行為が減らない原因ではないかということだった。

 韓国に1度は旅行してみたものの、道を歩いたり車に乗ったりするときの不快体験からリピーターにならなかったという話は日本人からはよく聞く。
 交通マナーがもっと良くなるだけでも韓国経済には好影響なのではないだろうか。
 ちょっと誇大妄想が出始めたところで次回。

Dマウントシネレンズと行く韓国世界遺産への旅6-自分とよく似た人-(河童亜細亜紀行79)

国外でも知ったかぶりする男

 私はガイドのAさんを見た瞬間、「この人は私と同じだ」と思った。

 何が同じなのか。

同類は韓国にもいた


 東京方言でいえば「せっかち」、関西方言でいえば「いらち」である。

 以前釜山タワーに行ったとき私のチケットをビリビリにしてしまったアガシ(お嬢さん)の話をした。

究極の卵料理

 これは専門的には「衝動性が強い」という。
 注意欠如多動症という発達の問題があって、これには注意欠如型、多動型、衝動型の3型があるのだが、私の場合は多動性はないが注意の欠如と衝動性は相当のものである。私が成長する過程で適応障碍を起こしてDr.の診察を受けていたらおそらくこうした特性があると診断されたであろう。

 こういう特性の人は活動的で臨機応変が要求される職業には向くが、根気が要って緻密な仕事に就くと苦労をする。
 ただ、ある程度は努力と工夫で何とかなるので、私のようにかなりこの特性が強い者も今まではどうにか社会の中でやってこられた。しかし、いつも自分の特性を意識しながら仕事をしないといけないので結構大変である。

 私は全人類はこのADHDスペクトラムと自閉スペクトラムの間の虹色の連続体の中のどこかに位置する、という説を支持している。つまり、これらの特徴は障碍ではなくて誰でも持っている特性だ、という考え方である。

 私の経験では、日本人はどちらかというと自閉スペクトラム寄り、韓国人はADHDスペクトラム寄りの人が多いように思える。

 ちなみに自閉スペクトラムはこだわりが強くて共感性に特徴があり、ラングよりパロールを優先させる特性を持った人だ。
 たとえば今の私のこの説明を読んで「それはあまりに大雑把で正確じゃないぞ。正確にはウイングの三つ組が…」などと憤慨している人などはかなりこちら寄りである。

 閑話休題(はなしをかんこくりょこうにもどせば)。

 Aさんの場合は歩くのがやたらと早い。後ろを振り向かない。
 ややマイペース?と思われた2人組の旅行者は取り残されそうになり、最近やっと脈拍が150から70まで戻った私は着いていくのにハアハア言い始めた。

客を忘れたツアコン

 私は大学卒業のときに旅行会社の就職試験を受けて見事に不合格だったが、もし合格していたらAさんのようなツアコンになったに違いない。

 もう一つ私とAさんの共通点は「腹に一物持てない」ということだ。

 翌日はAさんの案内で慶州旅行をした。
 Aさんは博識でいろいろな話をしてくれるので大変ためになった。特に日韓の関係史には殊の外詳しいらしかった。
 石の仏像を見てはその来歴にはほとんど触れず、「これは日本に持っていかれそうになった」とか、

IMGP1663

  石塔を見てはその建立の由来には触れず、「この中にあった金仏は今は行方不明だが日本の兵隊が手に持っている写真を見た」とか、

IMGP1688

 しまいには世界遺産の石段の工法を説明するのに「これは日本を撃退した李舜臣の作った亀甲船と同じ工法で」と言い出し、「こうやって回転しながらバンバーンと鉄砲を撃つんです」と身振り手振りで亀甲船の戦法まで解説してくれるのだった。

 私はこういう人に出会ったとき、「この人は日本にとても関心を持っている人だから、将来は日本のことを大好きになってくれる人かもしれない」と思うことにしている。無関心な人は日本の良いところにも無関心だからだ。
 
 ただ私は日韓の近代史だけでなく、三国時代(日本では大和時代)の日韓関係にも関心があるので(だからこそ慶州を旅行先に選んだわけだが)、三国を統一した金春秋が若いころ日本に来ていたと「日本書紀」に書いてあることや、新羅のライバルの百済が日本と仲が良く、「万葉集」に百済の王子である軍王(いくさのおおきみ)が短歌を残していることなどを、どちらかといえば話題にしてほしかった。

 風向きが変わったのは博物館で新羅の卵生神話をAさんが説明しようとした時で、私が「そういえば金の卵から生まれた王様がいたな…」と知ったかぶりをしたら、「それは伽耶の話ですっ!」と瞬殺されてしまった。
 ただ、それ以後は「これは本当にカナダラ(日本でいうイロハ)から説明しなければいけないな」と思ったのか、「三国時代というけれど実は四国あって…」など、三国時代の歴史について初歩の初歩から説明してくれた。

 ちなみに、新羅の始祖朴赫居世(パク・ヒョクコセ)は紫色(青色という説もある)の卵から生まれたという伝説があり、金の卵から生まれたのは「四国目」の伽耶の始祖金首露(キム・スロ)である。

 もう一つちなみに、三国時代(実は四国時代)の後の2国は高句麗と百済である。こうやって国境を越えて知ったかぶりをするから国境を越えて恥をかくのである。

 私がもっと韓国語ができたら、博識なAさんともう少し建設的な論議ができたのに、と残念だった。

 私はその時はニコニコしていて後で悪口をいうタイプの人間は苦手なので、こういう人の方が付き合いやすい。
 
 といいつつ、私は少しだけ韓国語ができるのに、今回の旅行でAさんといるとき一切韓国語をしゃべらず、何について話しているかくらいは分かるAさんと運転手のBさんとの韓国人同士の会話を黙って聞いていたのだから、一番陰湿なのは私なのかもしれない。


Dマウントシネレンズと行く韓国世界遺産への旅5-赤いものを食べない旅-(河童亜細亜紀行78)

赤くない料理はと

 今回の旅は2泊3日のうち丸1日慶州に行く予定だった。
 したがって、いつものように買い物に精を出す時間はない。
 だから、ふだんは迷惑に感じるお仕着せの土産物巡りも絶好の機会として捉え、積極的に買い物に励むことにした。

 「寄ってマート(仮名)」は通常のスーパーよりは少し高いが、品揃えが豊富である。 


買物マシーンの襲来

 私は一気に「買い物マシーン」と化した。
 クッ(スープ)、クッパ(おじや)、ラミョン(ラーメン)、ウドン(これはそのまま饂飩のことである)、チャンポン(これもそのままチャンポンのことだが、赤くて辛い)、即席饅頭、即席ホットック(御焼き)などのインスタント食品や海苔などの安い食べ物が次々と買い物籠に吸い込まれていく。

ミルミョン美味かった

 前回は見つけることができなかった釜山名物ミルミョンの乾麺も見つけることができた。

IMGP1611

 昨年の夏に韓国に行ったとき釜山駅の近所のミルミョン屋で食べたものは殊の外美味かった。

 ところで、今回の旅のもっと後で「何が食べたいですか」とガイドさんに聞かれたとき、「ミルミョンが食べたい」というと、「あれは夏のものですよ。この寒いのに凍えてしまいますよ。」と笑われてしまった。

 「以熱治熱、以寒治寒(日本誤訳:熱い食べ物で暑さを制し、冷たい食べ物で寒さを制する)」という言葉は韓国の諺であるが、冬に冷麺を食べたいと言って韓国人に笑われたのはこれで3回目である。どうもこの諺の前半は真実だが、後半はただの言葉遊びのようである。

 閑話休題(ひじょうしきのまけおしみはこれくらいにして)。

 買い物籠はあっという間に一杯になった。

 その時、私は初めて、「あ、そうだったのか」と悟ったことがあった。

IMGP1497

 それはこの店のエスカレーターである。
 何でまた段差無しの、歩く歩道のような構造なのか。バリアフリーだったらエレベーターでいいのに、と思っていた。

IMGP1501

 これに買い物籠を乗せて各階を移動できるのだ。
 もっとも、これもなぜエレベーターではいけないのか、少しだけ謎だが。

IMGP1874

 これは帰国の時の荷物だが、この買い物で妻のスーツケースは一杯になってしまった。
 だが、まだ私たちはスーツケースの中にさらにリュックを2つ詰めていたのだ。このリュックには今回の旅行の最大の目的が入っているのだが、その話はもう少し先に。

IMGP1478

 もうずいぶん遅い夕食はプルコギであった。
 旅行社が用意する料理というと、すぐプルコギが出てきて、「またかよ」と思ってしまうのだが、「赤いもの」を食べない、と決意している今回の旅行では本当に助かる。
 しかも、私はもともとプルコギはあまり好きではないのだが、これは日本のすき焼きっぽくて美味かった。生卵があればもっと嬉しいのだが、韓国では生卵を食べる習慣がなさそうなので、これは仕方がない。

IMGP1477

 付け合わせにはキムチが出てきていたが、これは無視。
 明日はあちこち歩き回らなければならないが、あちこちのトイレ巡りになってしまっては困るからだ。
 第一、持病の心房細動は今はどうにか治まってきたが、刺激物を摂りすぎると再燃の可能性が高い。

IMGP1480

 キムチを残して完食。美味かったー(「ゴハン行こうよ」調で)!


つかの間の喜び

 ホテルに帰り、快調な胃腸と半快調な心臓で眠りについた私であった。
 
 胃腸の調子のよい韓国の旅は本当に快適である。今回は帰国まで胃腸が快適という、生まれて初めての体験をした。

 考えてみたら泊ったホテルが「東洋横ウィーン(仮名)」という、無料の朝食の付く日系ビジネスホテルだったのと、2食は旅行社の用意した食事だったのとで、ほとんど「赤いもの」を食べていない。

 考えてみれば唐辛子が嫌いだったり、唐辛子アレルギーのある韓国人もいるはずだから、全ての食べ物が辛いわけではないのだ。
 もっとも、日本における醤油と同じくらいの確率で唐辛子が料理に入っているが。日本料理にだって醤油を使わないものはあるから、唐辛子の入っていない韓国料理もあるはずである。

 振り返ってみると、1日目朝おにぎり、昼無国籍バイキング、夜プルコギ、2日目朝日式朝食、

IMG_8036

 昼サムパプ(いろいろな食べ物をサンチュで巻いて食べるご飯)、

IMGP1816

 夜カルビタン(牛あばら肉スープ)、

IMGP1819

 3日目朝クッパと、付け合わせの辛い物さえ食べなければ唐辛子を体内に入れる心配のないものばかりであった。

訪韓秘話

 あとはピーマンに見せかけた(別に悪意があるわけではないがそう錯覚しそうな形である)青唐辛子にさえ気を付ければいい。

IMGP1875

 最終日の昼はコチュジャン(唐辛子味噌)のたっぷり入ったビビンパだったが、これはコンビニで買って船内で食べたので、もう道端でトイレを探して彷徨する心配はない。

 若いうちは体験のつもりで辛い物を積極的に食べるのもいいが、年を取るとだんだん身体が受け付けなくなってくる。
 しかも、昔は辛くない韓国料理を食べると何か損をしたような気になったし、何か物足りない気分になったものだが、辛くない韓国料理でも十分満足できるようになった。

 私の今回味わった「赤くない韓国料理」、中高年の方にお勧めである。

Dマウントシネレンズと行く韓国世界遺産への旅4-釜山の愛の夜景-(河童亜細亜紀行77)

愛に満ちた夜景

 旅行会社にもらった旅程表には、6時に釜山に着いてからのスケジュールはあまり詳しく書いていなかった。

 一応お土産屋に行ってから夕食という話だったので、まあちょこっとどこかに寄ってからご飯を食べてホテルに直行、と思っていた。

 ところが、送迎のバスに乗ってみると、ガイドのAさんの話では、「寄って免税店(仮名)」に1時間、食事で1時間、その後さらにスーパーである「寄ってマート(仮名)」に1時間ロッテ、じゃなかった、ヨッテ、ホテルに着くのは10時半くらいだという。

 これが夕方の飛行機で6時に着いたのだったらドッと疲れただろうが、何せ船の中で持て余すほどたっぷり寝ているから、「よーし、やってやろうやないか」と投資が、いや、これは湧かないな、懐は寂しいから、闘志が湧いてきた。

 バスの中から釜山の夜景を撮影する。

IMGP0489

 前回書いた通り、レンズは「スーパーぐるぐる君ⅢSF」である。

IMGP1449

IMGP1450

 どんどん撮影していくのだが、これはTV画面で確かめてみないと成功かどうか分からない。上の2枚の写真は遂に成功したものである。「一体何がどう成功なのか」という人は拡大してみてほしい。

 ついに「愛の街釜山」の撮影成功である。

IMGP8435

 実は焦点をわざと外せば十字架だろうが、

IMGP9757

 パックマンだろうがなんだって撮影できるのだが、今回の旅行ではこうした作為は嫌だったのだ。あくまでもちゃんと夜景を撮るなかで、たまたま浮かび上がるような写真ができればいいな、と思っていた。できなければそれはそれで全然構わないと思っていたので、余計に嬉しかった。

 釜山の夜景に感謝である。

Dマウントシネレンズと行く韓国世界遺産への旅3-船の旅は楽し-(河童亜細亜紀行76)

個体発生は系統発生をなぞる

 今回の旅は「笑ってトンヘ号で行く年末年始釜山2泊3日(仮名)」というツアーで、 12月30日12:30に博多港を出発して18:00時釜山着、12月31日は1日フリーツアー、1月1日12:30に釜山港を出発して18:00博多着だから、合計11時間は船上である。

IMGP1342

 前回の釜山行では船中泊が1泊あったのでその便は1等の個室を取ったが、今回は往復とも二等船室の相部屋であった。
 といっても、船が大きいので甲板やロビーで過ごす人も多い。全部で10人の部屋だが、全員が部屋に揃っている時間はほとんどなく、部屋が広く感じる。

IMGP1298

 旅の慌ただしさにあまり正月気分がないが、船内の飾りつけで辛うじて「そういえば年末年始だったな」ということを思い出す。

IMGP1299

 出航するとしばらくして船内のレストランでバイキング(ビュッフェ)が始まる。
 以前の旅行で結構な行列になることがわかっているから、早めに並ぶ。食券は1000円のバイキングのみである。

IMGP1301

 日本の洋食と韓国の洋食が混ざったような無国籍料理だが、これが存外美味い。
 何よりキムチ以外は辛くないのがいい。

考える河童

 過去の韓国旅行ではことごとく胃腸の調子が悪くなったので、今回こそは「赤いもの(辛いもの)」に手を出さないように誓っているのだ。
 1食目、クリアーである。

 熊本から三角までの移動で朝が早かったので、昼食を食べるとすぐ、夫婦して白河夜船に乗る。

 ぐっすり寝て起きて、もうそろそろ陸かな、と思うが、まだあと3時間もある。

 甲板に出てみるが、見渡す限りの大海原で、写真を撮る気にもならない。

 ネットも繋がらないので、大学の同級生で作家をしているA君のかなり以前に購入した電子書籍を読む。
 アメリカの有機農業の話である。これが2回目読んでもなかなか面白い。これは別にCMしても本人からも怒られないと思うから、農業に関心のある人は読んでみてほしい。「有機農業と未来-アメリカの有機農業から何が見えるか-」という本である。400円くらいで読める。
 ついでにいえば、この本のレビューは私が書いているから、ついでに読んでみてもいい(実は熱望)。

IMGP1348

 A君の彼らしい体験談に笑いながら読み進み、ついでに自分の文章に酔っているうちに、船は対馬の横を通り過ぎる。
 もうすぐ韓国である。

IMGP1353

 急に船上がざわめきだした。どうやら陸が見えたらしい。
 遠く摩天楼が見える。
 最近では旧市街よりずっと発展している海雲台地区だ(後で聞いたんだけどね)。

IMGP1355

 ビル街が夕陽に輝いて美しい。

IMGP1373

 反対側の甲板に行ってみると、夕陽が沈んでいくところだった。
 撮影が大昔のレンズである「ヨハン・シュトラウス(仮名)」なので、光に弱くてハレーション全開だが、それはそれで美しい。ただ、右の上の方ある埃だか黴だかがちょっと見苦しい。モニターの映像を見た瞬間に解体・修理を決意したが、これは帰国後だ。

IMGP1409

 釜山は港湾の工業都市でもあるので、最近流行の工業地帯見学が好きな人には堪らないのではないだろうか。

IMGP1415

 工業地帯マニア垂涎の光景が続く。

IMGP1420

 次はイルミネーションで飾られた公安大橋の下を通る。

IMG_7883

 下から見上げるアングルで撮ろうとレンズを標準の「歩こう13mm(仮名)」から、

IMG_7759

広角の「紀伊国屋門左衛門6.5mm(仮名)」に付け替えようとするのだが、焦ってしまってなかなか着かない。こういうときねじ込み式のDマウントは面倒くさい。

IMGP1431

 付け替えたときには橋は遠くに去っていた。

 とりあえず今回の旅の最初のクライマックスは終わった。

 次は釜山の街を走るテールランプの撮影である。レンズの交換だ。

IMGP0489

 「紀伊国屋」をアダプターごと外して「スーパーぐるぐる君ⅢSF」に替える。

 「ⅢSF」での夜景の完全な撮影にはまだ成功していない。
 さあ、どうなるか。釜山の街は「愛」で包まれるのか。

 以下、次号。

Dマウントシネレンズと行く韓国世界遺産への旅2-旅のお供は小さなレンズたち-(河童亜細亜紀行75)

海峡を越えるDマウント


 話は旅行前日に戻る。

 今回の韓国旅行の写真撮影はすべて「シネレンズ」で行う腹積もりだった。
 「シネレンズ」とは、かつて一世を風靡したムービカメラである「8mmカメラ」専用のレンズである。

IMG_7333

 私の愛機「ペンテコステオバQ」には「Qマウント」という独自規格のマウントがあり、小型だがとても精巧な純正ズームレンズがついていたので、大切な写真はこれで撮ることにしている。たとえば石碑の写真などである(それが大切な写真かい)。
 ちなみに「マウント」とは、カメラとレンズの接合部であり、カメラのメーカーや作られた時代によってマウントが違う。 
 これらのレンズは自動焦点でシャッターを押すだけでとても鮮明な写真が撮れ、頼りになる。
 しかし、「ジャンク道」をひた走る私とてしては、自分の腕前をちょっと癖のあるレンズで試してみたいと思ったのだ。
 したがって、この2つのレンズはいざという時の予備として持っていくことにした。

IMG_6960

 私の持っているシネレンズは1960-70年代の8mmカメラの主力レンズであるDマウントと、

IMG_7325

 戦前から現代まで16mmムービーカメラの主力レンズで、最近は監視カメラのレンズにもよく使われているCマウント、

IMG_6980

 もう一つ、固定式レンズの8mmカメラを分解(破壊)して取り出したレンズにD→QマウントアダプターまたはC→Qアダプターを接着して作った自製レンズの3種類である。

 今回は外国に行くわけだし、車ではないので歩く距離が長くなることが予想される。したがってレンズはできるだけ小型で軽量なものがいい。ちょっと大きめのサイドポーチにカメラとレンズすべてを入れて行くことにした。したがって、重かったり大きかったりするレンズはすべて没。

IMGP7803

 全重量が1kg近い「流星1.9光年(仮名)」などは論外である。これ一個でポーチが一杯になってしまう。

 やはり、DマウントとCマウントの中から選ぶことになるだろう。

 ここで、C→Qアダプターを早朝の家周辺の散歩中に持ち歩いている小さめのサイドポーチの中から探したところ、撮影で落として紛失していることが判明。もう旅行まで数日しかないから、今から通販で注文しても配達が間に合わない。自分に激怒、そして落胆と自己嫌悪。

IMGP9457
 
 ここはもう手持ちのDマウントの中から選ぶしかない。

 なんだかたくさんあるようだが、ほとんどが3個で普通の勤め人の昼食1食分くらいの値段である。しかも後玉が本体内にあったものを無理やり合体させた改造レンズが多い。これらは「とりあえず像を結ぶ」という程度のものだから、もう一度撮りにいくわけにはいかない外国旅行で使用するのは冒険が過ぎる。今までに試写してみて「ちゃんと映るもの」を選ばなければ。

 まず。標準レンズ。

IMGP8418

 これは「頭脳13mm(仮名:写真上」と「ブルムベアー君」こと「歩こう13mm(仮名:写真下)」が候補に挙がるが、どういうわけか私の持っている個体では著名な「頭脳」よりも「歩こう」の方が映りがいいような気がする。

IMG_7883

 だいいち「歩こう」の方が小型軽量である。

IMGP8298t

 山道などでの撮影でも幻想的な写真が撮れたりするし、ぐるぐるボケやハレーションも面白い。
 標準レンズはこれに決まり。

IMG_7750 (35)

 望遠は「頭脳君」こと「頭脳38mm(仮名)」の映りが持っている中では一番いい。

IMG_7751

 だが、これは中玉にヒビがある(映りには影響なし)ため、旅行などで長時間長距離移動させて写りに影響が出るほど鏡面に歪みが出たりしたらコトである。

IMG_6960

 38mmは「頭脳」のほかに「歩こう」「椰子呑(仮名)」「ヨハン・シュトラウス(仮名などラインナップが充実しており、どれも映りがいいのだが、一番軽量小型なのが「ぐるぐる君」こと「ヨハン・シュトラウス」で、「椰子呑」はポーチに入れるには大きすぎ、「歩こう」は小型の割に重い、ということで、「ぐるぐる君」に決定。

IMGP8815

 広角は「ノンプロ6.5mm(仮名)」が一番ケラれ(写真の四隅が丸く黒く映ること)が少ないのでこれを持っていきたいが、改造レンズのため望遠・標準共通の自製アダプターが必要である。しかもヘリコイド(ピント合わせ装置)なしの固定絞りなので近接撮影のときにピンボケ写真が撮れてしまう危険性がある。

IMG_7759

 小さいわりにちょっと重いが、ヘリコイド付の「紀伊国屋門左衛門6.5mm」に決定。

 そして韓国の鳥たちを撮影する幸運に恵まれたときのための超望遠だが、これは最初から心に決めていた。

IMG_7732 (17)

 「木星11号(仮名)」である。
 私の持っている超望遠の中では最も小型軽量で、焦点距離は手持ちで撮れるぎりぎりの135mmである。また、どういうわけかこのレンズだと三角の鳥が逃げにくいので、韓国でもこの効果を期待した。

IMGP0489

 そして、夜景撮影のために「スーパーぐるぐる君」こと「不治?Non! MA-Z 9.7-26mm F1.3改ⅢSF」である。

IMGP9203

 かつてはすべての画像が激しく回転していた「スーパーぐるぐる君」も、固定絞りとPLフィルターを装着した「改ⅢSF」となって、

IMGP9903

 回転も収差もない画像も撮れるようになったのだ。このレンズの特徴は現在はむしろ夜景で現れる。

IMGP8432

 腕が悪いのでなかなか綺麗に出ないのだが、今回は上手く出た。それについては項を改めて紹介することにして、他のレンズについてもどうだったか、旅行が進む中でいい写真を紹介したいと思う。

 では、次回は博多港を出港した船中に時間を戻してまた。

Dマウントシネレンズと行く韓国世界遺産への旅1-日本国籍の男ここにあり-(河童亜細亜紀行74)

これが中高年スタンダードだ

 私たちはよく自分や他人の民族や国籍を気にする。
 特に東亜の中高年男性にはその傾向が強いようだ。 
 「日本人は」「韓国人は」「中国人は」という言葉をよく聞く。しかも大体は相手と自分を比較して、「自分の(国や民族の)方がいい(優れている)」という論になっていくことが多い。

 だが、私たちは本当に各民族の特徴を正確に捉えているのだろうか。
 考え方や行動はもちろん、外見ですら、環境の助けがなかったら識別できない人が多いのではないだろうか。

 たとえば「韓国人は肩が張っている」という日本人は多い。私も確かに韓国人が数人で集まっているのを見ると、「肩が張っているな」と思うのだが、その人たちの中から一人だけが眼前に現れたとき、「この人の民族を当ててください」と言われて、果たして韓国人だと判るのだろうか。おそらく分からないだろう。

 こんなことを考え始めたのは、自分が中高年になって一定の頻度で韓国に行くようになったとき、即座に日本人であると判断されることが少なくなったからだ。

 以前は韓国に行くとあらゆる場所と時間に日本語で話しかけられるか、'Japanese?'と英語で話しかけられていた。相手に迷いはなかった。

 ところが最近は相手が一瞬「うっ!」となり、何語で話しかけようか迷っている様子が頻繁に伺われるようになった。


 河童は国境を越える


 私はこれを「薄毛短髪」「チェ・デバラ」「妻の買った服」という「東亜スタンダード三種の神器」によるものだと考えていたが、それだけでもないらしい。

 というのは、韓国人だけでなく、日本人の、しかも出国の係官などのように多数の外国人に日常的に接している職業の人にすら、「アンニョンハセヨ」などと声を掛けられるようになったからだ。

 ご存知のとおり今の日韓間の旅行は韓国人の入超であり、日本の飛行場も港も、韓国に往来する場所には韓国人の方が圧倒的に多い。
 そして韓国ではかつては多かった日本人の観光客よりも中国人の方が多い。観光地の看板なども日本語のものが減り、中国語のものがずっと多くなった。

 つまり、日本人の出超だった今までの日韓旅行では、韓国内で私に接する韓国人は「韓国に来る東洋人は日本人がほとんどだからこの人も日本人に違いない」という先入観を持っていたのであり、逆に日本国内の日本人は「韓国に往来する東洋人は日本人がほとんどだからこの人も日本人に違いない」という先入観を持っていたのではないか。

 事実私はソウルの国立博物館で中国人の団体客に間違えられて妻や娘とはぐれたことがある。これは韓国を訪れる中国人が多くなったという事実を反映しているのだろう。

IMGP1279

 今回私は博多港から釜山に渡り、世界遺産慶州に行った。帰りはその逆コースである。

 博多港の係官は出国審査の行列に一人ひとり「日本人ですか?」と声を掛け、「はい」と答えた人を日本人専用のゲートに通していた。今回のツアーは年末年始を韓国で過ごそうという日本人向けのツアーなのでこの方が効率が良いわけだ。

 「日本人ですか?」「日本人ですか?」「日本人ですか?」と係官は次々と声を掛けていく。
 次は私。
 係官は一瞬「うっ!」となった。過去何度か見た表情である。

 「日本国籍ですか?」

 もちろん「はい」と答え、日本人のゲートの方に案内されたが、なぜ私だけ掛ける言葉がちがったのだろうか。謎である。

IMGP1311

 こうして私の6回目の韓国旅行は始まったのである。

熊本へ行こう99-天草南街道を行く9 崎津天主堂-(河童日本紀行562)

言葉を失う夕陽

 志柿町はどうした、旧本渡市はどうした、という声を無視して、車は河浦町に入る。

 これらの町は北街道として紹介することにし、今回の天草の旅は終点の崎津天主堂へとたどり着いた。

IMGP0132

 天主堂はすっかり整備されて走りやすくなった国道にあるこれまた立派な崎津トンネルを抜けると、羊角湾に突如現れる。 

IMGP0139

 漁船の停泊する漁師町に聳え立つ尖塔はいつ見ても不思議な光景である。

 たまたま街中の駐車場が空いていたので、そちらに停めて街中を歩く。

IMGP0103

 熊本弁でいうところの「せどや(路地)」に立つゴシック様式の教会は、昭和9年に建てられたものだから、意外に新しい。

IMGP0101

 ゴシック様式は私の大好きな建築様式である。
 ルネサンス以降の、たとえばロココ様式と比較するならば、良くいえば重厚で長大な、悪くいえばどこか泥臭く、融通の利かない、人でいえば「石部金吉金兜」を思わせる建築物は、突如聳え立ったとしても、何ともこの漁村に似つかわしい。この教会を建てた人々は、よくぞこの様式を選んでくれたものだ。

 きちんと写真を撮ろうとすると電線が横切ってしまうのも、街の人々の日々の生活と共にある教会に似つかわしい。

IMGP0115

 これほど漁村に相応しい教会はないのではないだろうか。



IMGP0119

 駐車場から教会への道を逆に辿ると、崎津諏訪神社が、教会を見下ろすように建っている。
 これまたいかにも天草らしい光景である。

 天草・島原の乱の際、天草の吉利志丹たちは天草四郎の下に馳せ参じ、湯島などは無人の島になってしまったといわれるが、崎津の信徒たちはこの乱に加わらず、鎮圧後は「隠れ吉利志丹」として250年の長きにわたって信仰を守り続ける。

 1805年、彼らは「天草崩れ」として5000人余りが摘発される。キリシタンが「切支丹」と書かれ、要は「切り捨て御免」だった時代である。無学な私は有明町の四郎が浜にある「セントメリー館(仮名)」の展示で初めてこのことを知り、そのとき以来「吉利志丹」と書くことにしている。

 私は神も仏も信じない男だが、信念や信仰を守り続ける一本筋の通った人々に対する尊敬の念を持っている。まあ単に自分にないものを人に求めているだけだが。

本棚

 私はこだわりが強いわりに考えていることがある日コロッと変わる。

気になるズレ

 世の中の流行り廃りに合わせて変われば時流に合わせて利益を得ることが出来るのに。 

 今の流行りは排外主義だ。他民族をケナす雑誌や本がゴマンと売れている。
 何せ世界の自由主義の総本山を辞任、じゃなかった、自任する国ですらあのありさまである。

 ところが、私の場合は考えの変化が世間様よりちょっとだけ前にズレたり後にズレたりする。そのために、アナクロ扱いされたり誇大妄想扱いされたりする。
 「ズレ」の話はさようなら健さん7-ああ、ズレてゆく、「単騎、千里を走る」-(毒にも薬にもならない話70)でしたことがある。
 ズレていると世間の共感を得られない。つくづく生きるのがヘタである。

 同じ生きるのがヘタでもまだ一貫していれば尊敬もされように。
 そう考えると江戸時代の吉利志丹たちが羨ましい。

 閑話休題(こうしてはなしがずれるようにしこうもずれているのだろう)。

 「天草崩れ」の話だった。
 私はこの事件の解決法がとても興味深い。
 
 禁教の時代の摘発である。「切支丹」である。江戸時代初期ならば全員に処刑などの厳しい刑罰が下されたに違いない。そして信者たちは「殉教者」になっただろう。
 ところが、彼らは「心得違い」として処理される。また、信徒たちも「自分たちは信者である」と強く主張しなかったらしい。
 しかも、幕府もまたこの事件について深く追及せず、信徒たちは事実上信仰を許容されるのである。

 この事件が一神教の厳しい教えの下に生きる人々にはどう映るか、興味があるが、世界遺産登録にはどう働くのだろう。基本的にはキリスト教中心の価値観で動いている国連とその傘下であるユネスコがどう考えるか、少々心配である。

 ただ、日本人である私はこの事件を処理した人たちの知恵に強く心惹かれるものがある。
 「心得違い」とはよく思いついたものだ。
 この言葉には「人としてしてはいけないことをすること」という意味もあるが、この事件の帰結はどちらかというと「勘違い」とか「誤解」といった、現代的な意味でこの言葉が使われていることを示唆している。

 あるいは単なる責任逃れのつもりだったのかもしれない。なにせ自分たちのお膝元から禁教徒を大量に出してしまったのだから。
 しかし、犠牲者を出さなかったという点を考えると、私はもしそうだったとしても「よくぞ責任逃れをしてくれた」と思う。

 私の僅か55年の半生の経験を振り返っても、思想や宗教はどこかにファナティックな部分を秘めている。それが暴走を始めるのは「殉教者」が出たときである。逆にいえば、そうした危険性を秘めた考えが人々にとって有益で穏健なものであり続けるためにはそうした悲劇を防ぐことが必要になる。

 世界の多くの国で「失われた4年間(最短4年間で済むところが民主主義国家のいいところだが)」が始まろうとしている今、「崎津の知恵」は私にとって希望の光である。

 そんな誇大妄想を抱きながらトイレに行こうとすると、中から助けを求める大声が聞こえてきた。
 女性がトイレに入って出ようとしたのだが、ドアが開かないらしい。
 慌てて地元の人を呼びに行くが、そのときには自力で出てきていた。

 人騒がせな話である。おかげで妄想から逃れることができたが。自分の頭の上の蠅を追おう。

IMGP0127

 崎津には「杉羊羹」という独特のお菓子がある。

IMGP0126

 何でも、琉球王朝の使者が漂着して伝えたのだとか。
 残念ながら売り切れだった。結構楽しみにしていたのだが。

IMGP0189

 かわりに妻へのお土産に刺身用の水烏賊(標準和名アオリイカ)を買って、崎津から1時間も走ると、もう大矢野である。
 物産館の前の公園からは美しい夕焼けが眺められた。

 こうして僅か半日の天草南街道の旅は終わった。
 改めて美しい土地である。そして、思索(妄想?)を誘う歴史を持った土地である。次はもっと気楽に釣りに行こう。そんな楽しみ方もできる土地だ。

 みんな、熊本へ行こう。

熊本へ行こう98-天草南街道を行く8 下浦町-(河童日本紀行561)

江津湖の石工


 栖本町を北進して町境を越えると、下浦町である。

 私はこの町に関してどうも今まで関心が薄かった。

 私は5年ほど本渡市(現在の天草市本渡)に棲んでいたのだが、瀬戸の「ぐるぐる橋」を渡って上島に入ると、すぐ栖本町であるような錯覚があったのだ。

 しかし、少しなりともその歴史を知るに及んで、天草の歴史の中でとても重要な役割を果たしてきた土地であることを悟り始めた。

IMGP0093

  そのことを示すモニュメントが国道沿いにある。
 それには「獅子が舞うぽんかんと石工の里」と刻まれている。

 獅子舞というとどこか滑稽な感じのするものを連想する人が多いと思うが、ここの獅子舞は「赤獅子」と「青獅子」が「龍虎相撲」するという感じの勇壮なものである。
 この2匹の獅子は全国の獅子舞の源流を為すともいわれているものである。
 各地で正月などに舞われている獅子舞が「お目出たい」という雰囲気を強調したいわば飼い馴らされたものであるのに対して、野性の獅子とでも表することが出来るものだ。

IMGP0097

 このモニュメントから国道をちょっとだけ後帰ると、「天草ぽんかん発祥の地」を示す石碑が立っている。

IMGP0098

 さあ、解読である。

 と思ったら、なんということか。碑文の色が30年近い風雨で流れてしまって半分くらい読めない。
 私が現在凝っているジャンクレンズは遊びの撮影ではとても楽しい画像ができるのだが、解像度から風化した碑文の解析には向かない。だからいつもは必ず純正の標準02で撮影するのだが、うっかり忘れてしまい、近接撮影だとぐるぐるボケ(収差というらしい)の出る「頭脳13mm(仮名)」で、ちゃんとピントも合わせずに撮ってしまったのだ。
 
 したがって、今から上げる碑文は2015年に撮影した画像から解読したものである。去年まではまだ碑文がどうにか読めたのだ。
[碑文]
 大正末期天草みかんの先駆者吉田敏太郎氏のすすめにより松岡新太郎氏によって愛知県より苗木30本取り寄せられ移植された。ぽんかんが予想以上に成績が良好でありましたため後40アールに増反し日夜栽培に専念されたのが天草ぽんかんの発祥となりました。現在までは下浦町、牛深等主産地が形成され天草ぽんかんは全国屈指の産地となりました。西南暖地の天草は輝く太陽と海に面した傾斜地を生かし完熟したぽんかんの味は忘れられない甘い香りとさわやかな酸味とこくがあり、消費者の高い評価を受け今日に至っています。
 本年は65年目にあたり、下浦町果樹研究同志会に於いて記念事業を行い60有余年に亘り〇〇地の生活をうるおし生産者に確かな希望と豊かな経済をもちらしてくれた特産果樹としてのぽんかんに深く感謝しぽんかん産地の将来の発展の祈りをこめて記念碑を建立し65年生のぽんかん原木を保存する者であります。

 昭和63年12月1日 下浦町果樹研究同志会 天草ぽんかん65周年記念事業実行委員会

 天草でのポンカンは、大正末期に愛知県から原木を取り寄せて栽培を始めたのが嚆矢らしい。
 昭和63年といえば今から27年くらい前のことだから、今年で90年になる。

 ぽんかんは下浦町の温暖な気候と海沿いの傾斜地に想像以上に適しており、天草に全国的な産地が形成されて現在に至っているということである。
 ネットで調べてみると現在でも100戸以上の農家がポンカンの栽培に従事しているのだとか。

河童柑橘漬

 ご存知の通り(知らんか)、私は「柑橘命」の男である。

 大黒様のように蜜柑袋を背負って部屋を移動しながら温州ミカンを食べていた幼少時代に始まり、ハンドジューサーで絞った柑橘ジュース(現在は節酒中のためノンアル)をコップ1杯欠かさず飲む中高年の現在まで、柑橘と名が付けば八朔・春香・デコポン、夏蜜柑、晩柑、摘果蜜柑、ニューサマーオレンジ、カボス、スダチ、温州蜜柑、柚子、花柚子、橙、葉蜜柑、網田ネーブル、デコマリン、晩白柚、清見、はるみ、はるか、鬼柚子、シークワサー、レモン、マイヤーレモン、ライム、金柑、橙と、国内で手に入る柑橘類のほとんどを制覇した男なのだ。食べたことがないのはカラタチとブッシュ柑くらいである。

 ポンカンは癖がないので柑橘ジュースのベースにするには最適である。したがって随分とお世話になっている柑橘類だから、その産地が下浦町であることは知っていたが、こんなにたくさんの農家が栽培しているとは知らなかった。一大産地がすぐそばにあったのだ。正直、私の食べたり飲んだりしているものは網田や三角の産だと思っていた。
 改めて、人生は常に勉強である。

IMG_2726

 もう一つ。
 今や世界遺産となった我が三角町の三角西港は、明治以来の石積みが残っていることで知られる。

IMG_2730

 この石積みを作ったのがほかならぬ天草の石工集団、下浦石工なのである。


IMG_6491
 
 今も天草に残る市ノ瀬橋、

IMG_6479

 祗園橋、

IMG_6501

 楠浦眼鏡橋、

IMG_6486


 施無長橋、

IMG_6499

 志安橋などを作った技術力が遂に世界的に認められたのが三角西港の世界遺産登録だったのだ。

はしれトラック

 全然話が違うのだが、突然思い出したので忘れないうちに。

IMG_6481

 一昨年くらいに「みすゞ(仮名)のトラック」のCMに出てくる風景は天草の風景ではないか?という問題提起をしたことがあり、いつものように全く無視されたのだが、あのCMの映像をよく見てみると、本渡の祗園橋が映っている。やはり私の睨んだとおりだったのだ。嘘だと思う人は「ヨウツベ(仮名)」で確認してほしい。

 閑話休題(じまんばなしはぶんみゃくむしでもかならずいれるな)。

 下浦石工の開祖は松室五郎左衛門という人である。この人を祀る花岡大明神は国道を金焼港の方に左に折れるとあり、このあたりの海岸では牡蠣の養殖が盛んである。

 ちなみに牡蠣を天草に導入した金子憲一という人の銅像も国道からちょっと外れたところにあるそうなのだが、今回はどちらも寄る時間がなかった。

IMG_6456

 獅子舞とぽんかんと石工のモニュメントから少し走ると、下浦石工発祥の地の石碑が左手にある。

IMG_6458

[碑文]
 下浦石工の由来

 私たちのふるさと本渡市下浦町は、昔から下浦石と呼ばれる石材の産地で石工が育ち「石工の里」として石工文化が花開いた。
 下浦に石工が根を下ろしたのは宝暦10年(1760)元肥前の国藩士松室五郎左衛門という浪人が故あって下浦石場に移り住み、村人に石工技法を伝えたのが始まりだと言われ五郎左衛門の墓碑も下浦石場地区に現存している。
 五郎左衛門翁の石工技術は地元石工に受け継がれ、明治・大正・昭和から平成と時代と共に盛んになり、最盛期は300人の石工を数える程の隆盛を見た。天草・熊本県内は勿論、九州一円の石工の大半は下浦出身で占められている。その代表的な作品が県文化財に指定されている本渡市の祗園橋や楠浦の眼鏡橋、更に長崎のオランダ坂の石畳を初め、各地の鳥居、墓碑など、日本が誇るすばらしい石の文化遺産がある。
 こうした先人の輝かしい業績を称える共に、今後の更なる発展を願って、ここに下浦の要所に「石工発祥之地」の記念碑を建立し、その名を永遠に止める。

 平成8年2月 本渡市下浦石工組合

 私の大好きな長崎のオランダ坂の石畳も下浦石工の仕事とは知らなかった。

IMG_6472

 本渡町山口川(どこで区切るかわかりますか)にかかる祗園橋の模型もある。いつ見ても惚れ惚れする造形である。


IMG_6469

 こんな凄い人がいたとは。佐賀から下浦に移り住んだ「故」が知りたくなった私であった。

 どこの土地を調べても思うことだが、その地に新しい文化や技術が勃興するときは、現地に培われてきたものが自然発生的に発芽することはほとんどない。
 現地の知識や技術が熟成して、そこに外部からの起爆剤が放り込まれて初めて爆発的な発展が起こる。

 ぽんかん然り、石工然り。

 地元の進取の気性と外部の人間を温かく受け入れる寛容さがあって初めてそれは為しうる。発芽と成長の土壌は培われてきた伝統であるにしても。

 米国の今日的な発展もまた、欧州で居場所のなかった人々を受け入れた故ではなかったか。

 いかん、誇大妄想が湧いてきたのでこれくらいで。
 いよいよ天草下島である。

熊本へ行こう97-天草南街道を行く7 栖本町-(河童日本紀行560)

いつまでも夫婦和合

 倉岳町を出ると次は栖本町である。

  IMGP0091

 街に入ると河童が出迎えてくれる。

IMG_9636
 
右に曲がると「河童街道」である。詳しいことは真・九州河童紀行10-天草市栖本町-(河童日本紀行200)で書いたのでそちらに譲るとするが、それにしてもよくこれだけの河童を作ったものだ。

IMG_9570

 町民の「河童愛」をひしひしと感じる。

IMG_9574

 それだけではなくて、この河童たちが天草の石で作った石像であることにも注目したい。隣の下浦町を中心に、この近辺は「天草石工」発祥の地であり、現在でもその末裔がその伝統を守り続けている場所なのだ。


IMG_9580

 この河童などなんとなく修道士っぽさがある。これはまた天草一帯が独自の「神仏習合」である「吉利志丹」信仰の地であることに関係があるかもしれない。

トンスーラ

 と考えてこんなバカげた絵を描いたことがあるが、これは私の勘違いらしい。
 というのは、いわゆる隠れ吉利志丹の家では仏壇が座って拝む高さになく、立って祈る高さに作ってあるのだとか。ほかならぬ妻の母の実家がそうなのだ。
 したがって、座って拝んでいる写真の河童は間違いなく仏教徒であるということになる。

注連縄

 これもまた以前話題にしたことがあるので、真夏の注連縄(九州ケンミンショー12)を参照してほしいが、天草の家の中には一年中注連縄を飾っているところがあり、不思議に思っていたのだが、これは「吉利志丹ではない」ということをお上に対して示すものなのだという。これまた妻の母の実家にあるものである。

 つまり、妻の母の実家では注連縄で「吉利志丹ではない」と示しつつ、立って祈る仏壇を作っている(つまりおそらくはマリアに祈っていた)という不思議な行動をしていたことになる。
 私の勘違いかもしれないが、面白い風習である。

IMGP0086

 面白いといえば、栖本の町立病院には名物の「栖本太鼓」をかたどった尖塔があり、これがまた教会のそれのようで、面白い。
 秋には諏訪神社のお祭りで、太鼓と獅子舞が行われるが、これが掛け声といい仕草といい、実に面白い。ネットにもビデオが上がっているから是非ご覧いただきたい。

IMGP0089

 海岸に向かって左に折れると「河童浪漫館(仮名)」である。
 土産物屋と温泉施設が併設されている。ここは宴会だけでなく宿泊もできるから、飲酒運転撲滅の声高い今、「飲んだら泊れ、帰るなら代行、翌日はバス」を心掛けたいものだ。
 というか、持病の発作以来飲んでいないので、今年の年末はそういう意味では何の心配も要らないのだが。

油すましとの遭遇

 これまた既に書いたことだが、栖本は妖怪油すましの伝説が残る土地でもあるから、妖怪好きの人はその出生の地を訪れるのも一興である。

モニュメント街道

 さらにさらに、栖本には町の面積に比してとても多いモニュメントがあるので、石碑好きの人は解読に出かけるのも楽しいと思う。ただし、ここの石碑は達筆(草書が多い)なのと風化して読みにくいものが多いので、それなりの用意をして本腰を入れて行ってほしい。私はほとんど読めなかった。

IMG_9631

 お勧めは「水稲晩化記念碑」である。
 熊本県からこんな素晴らしい農業技術が生まれていたことを初めて知ったときの感動は忘れられない。詳しくは天草生命の洗濯旅行2-モニュメントの町栖本-(河童日本紀行202)をご覧ください。

 さあ、天草上島南街道最後の町、下浦町である。

熊本へ行こう96-天草南街道を行く6 倉岳町-(河童日本紀行559)

天草旅情

 ずいぶん道が整備された天草南街道の中で、龍ヶ岳-倉岳間のみは、未だ十分に道が整理されていない区間である。
 それでも以前に比べると離合(熊本方言で自動車のすれ違いのこと)で苦労することはない程度には整備され、身の危険は感じなくなった。

IMGP0067

 途中望薩峠を越える。 
 この峠になぜ「薩摩を望む」という名前が付いたのか、調べてみても何の手がかりもない。意味深な地名である。
 この付近には「目玉」という地名もある。これも別の意味で意味深である。バス停の名前は「目玉入口」である。つまり、「瞼」か。意味深だ。

 かつては龍ヶ岳と倉岳を隔てていた険しい山を越えると、倉岳町の中心地である棚底である。
 急な坂道を降りていくと思ったよりずっと大きな集落があるが、なにぶん道が狭いので、私はほんの入り口付近までしか行ったことがない。

IMGP0069t

 今回も上天草最高峰の倉岳を写真に収めるだけにとどめた。

 棚底港からは天草の離島である御所浦へのフェリーや三角への定期船が航行しているらしい。
 私は御所浦には行ったことがあるが、そのときは牛深港からのフェリーで行ったので、まだこの航路を利用したことはない。
 三角から船で棚底まで行ってもその後の足に困ってしまうので、今後ともこの航路を利用することはないかもしれないが、棚底から本渡まではバスが運行しているので、自動車の運転ができない年齢まで長生きしたらあるいはいつかその船に乗るかもしれない。もっともその時までこの航路があるかどうかも分からないが。

 天草から各地を結ぶ航路も、ずいぶんとその数を減らした。
 これは前回書いた道路網の整備と軌を一にしている。かつては険しい山道をくねくねと時間をかけて自動車を走らせるより、船で行った方が近い土地がたくさんあった。それが、広くて真っすぐの道ができて、そちらの方が便利になったのだ。車の方が船よりも悪天候に強いという利点もある。これは緊急の時などは死活問題である。

 それでも、寒くない季節に船の舳先に立って潮風を浴びるのは爽快である。

IMGP1334

 私は娘夫婦がいる関係で韓国によく行くようになったが、これも船の旅が好きだ。
 ソウルより釜山の方が好き、というのもあるのかもしれない。

 今後も、懐具合の許す限り船の旅をしたいと思っている。
 
 私のようなお気楽旅人にとっては船は娯楽道具の一つだが、生活のために船に乗る人はそんな暢気なことはいっていられない。
 特に科学技術が発達していなかったころの船に乗る職業の人々にとっては、まさに「板子一枚下は地獄」という言葉がぴったりであった。
 このことは天草のあちこちにある船乗りや漁師の慰霊塔が物語っている。

 「どうか無事に海から帰って来たい、帰ってきてほしい」という祈りは、各地の海岸に建てられた無数の恵比寿像になった。

IMGP0081

 宮田港の恵比寿像は、全国的に見ても最大級のものである。

IMGP0084

 もっとも、私は漁師町の中にひっそりと建つこちらの恵比寿さんの方が好きだが。

 恵比寿の語源には諸説あるが、異国人を意味する「戎」「胡」であるという説と、「蛭子」と書き、日本神話のイザナギ・イザナミの「国産み」の際に最初に生まれた子供であるという説が有力である。

 「蛭子」を「エビス」と読む名字の漫画家はときどきTVで見かけるが、私の大学生時代にあった「カロ(仮名)」という雑誌に連載していて、これがヘタウマ(ヘタヘタ?)な絵で、なぜか好きな漫画だった。学のない私はこの人の名を「ひるこ・のうしゅう」だと思っていたが。
 この人は年を取ったらなんだか神様の恵比寿さんみたいな顔になってきているので、まさに「名は体を表す」だが、なんと天草の出身だとか。それで名字が海の神様なのかもしれない。

 「国産み」の方の「蛭子」は何せ神様の息子だから呼び捨ては失礼で本当は「蛭子命」なのだが、これが三年足が立たなかったために親神たちから海に流されてしまう(ギリシャ神話と同じで日本神話の神様は良くいえば人間臭い、悪くいえば非道な人、じゃなかった、神が多い)。
 日本各地に蛭子命が流れ着いたという伝説があり、不憫に思った人々がこれを祀った「蛭子神社」があちこちにある。

 いずれの説を採るにせよ、恵比寿さんは遠くから流れ着いた神様のようである。
 これがいつしか海の安全を祈るおめでたい神に変わっていったのはどういう経緯なのかよく分からないが、菅原道真などのように各地の神社に祀られる多くの神と同じく、非業の死を遂げたために祟りを惧れて祭り上げられたというのが真相なのかもしれない。

 恵比寿像のある宮田港の物産館ではシモン茶を売っている。
 シモンは南米原産の薩摩芋である。高血圧に効くというので全国的にずいぶん有名になった。

 天草は薩摩芋(地元ではカライモと呼ばれる)の栽培に適した気候と土壌であるため、昔から栽培されてきた。芋を切って干したものをさらに擂り潰して作った「こっぱ餅」は天草の名物である。
 私は薩摩芋はあまり好きではないが、こっぱ餅は好きで、天草に行くとほぼ必ずといいくらいに買って帰って食べる。味はごくごく素朴なものだが、なぜかとても美味い。おそらく若いころに出会っていたら嫌いだったろう。

 父も晩年になるにしたがって昔の素朴な菓子が好きになっていった。私もそうなるのかもしれない。

 歳をとると人間はどういうものか若いころは馬鹿にしていた「年寄り臭い」ものが好きになる。
 番茶、演歌、バードウオッチング、家庭菜園、神社仏閣、和菓子。枚挙に暇がない。

 そのうちに公園で日向ぼっこしながら人と話すのが好きになるのではないだろうか。

 倉岳町を出ると次は栖本町である。
 

熊本へ行こう95-天草南街道を行く5 龍ヶ岳町-(河童日本紀行558)

空前絶後の魚群

 かつて天草南街道の旅行では、松島から姫戸を抜けると、急に「雛」という言葉がぴったりの風景が広がっていた。
 道幅は急に狭くなり、対向車に気を遣いながら運転すると、急に「開けた」という感じで海沿いの集落と、不釣り合いなくらいに賑わっているフェリー乗り場が現れたものである。

IMGP0021

 だが、「平成の大合併」と前後して、道路網は急速に発達し、今では何のストレスもなく中心の高戸とフェリー乗り場のある大道に行ける。

IMGP0035

 また、途中で八代方向(左)に曲がると、立派な橋を渡って、かつては離島だった樋島である。

 この発展ぶりは30年くらい前、つまり私の青年時代の天草しか知らない人には隔世の感があるだろう。

 しかし、道路網の発達とは裏腹に、漁港やフェリー港やその周辺の賑わいは、30年前を「満ち潮」とすると、今は「引き潮」に喩えられる。 

 大合併後、いろいろなものが大矢野町と松島町に集約され、他の町はそのいろいろを吸収される立場となった。いわば「二人勝ち」であるが、いずれこれは下島のように「独り勝ち」になっていくだろう。

 そのことを以て「大合併は失敗だった」と言ってしまうのは簡単である。
 だが、それは現状を肯定する結果論に過ぎず、今後に繋がらない議論である。では再度各町が分離独立すればよいか、ということになってしまう。そんなことは感情論としては可能でも、現実論としては不可能である。

 大合併の最大の果実はインフラの整備である。
 国道と、国道に負けないくらいの整備された農免農道の網の目が広がった天草は、30年前には想像もできないことであった。

 戦前からあの時代まで生きた人に「三角からならば天草のどんな土地にも2時間以内で行ける」などと言えば、誰も信じないであろう。車の助手席に乗ってもらって天草の各所を案内すれば、腰を抜かすに違いない。
 そして言うだろう。
 「いよいよ発展のための基礎固めはできた。勝負はこれからだ。」

 張り巡らされた道路網と、人口からすれば贅沢なくらいの箱物は、活用されるのを待っている。
 必要なのはやる気と知恵だ。

 それは決して若さからだけ生まれるのではない。しかし、やはり若さは大きな武器である。若者の集団は、それだけでもやる気と知恵の生えてくる土壌である。
 その、いわば「土作り」に成功するかどうかが、今後の日本の各地域の命運を定めるだろう。

 では、若者が住みたい街とはどんな街だろうか。
 
 それについて私のような法螺吹きがいくら力説しても誰も信じないだろうから、内閣府の平成25年の調査で考えてみたい。これは日・韓・米・英・独・仏・スウェーデンの7ヶ国の若者の意識について国際比較したものである。

 この調査の日本の若者の「自分の住んでいる地域が好きな理由」についての項目では、1位「家族がいるから」2位「友達がいるから」3位「生活が便利だから」4位「愛着がある」5位「生まれたところである」という順位である。これは他の6ヶ国とそれほど大変わりしない理由だ。

 意外、というか、ショックだったのは、他の国に比して極端に低い要素で、「自然環境に恵まれている」は7ヶ国中5位、「楽しく遊べる場所が多い」は7ヶ国中最下位、さらに「地域の人とのつきあいが豊かである」「地域の集まりや行事が盛んである」も7ヶ国中最下位である。それも、「楽しく遊べる」はブービーの英国(19%)と比しても極端に低い13%、「地域の行事」はブービーの米国(16.4%)と比しても半分もない5.6%で、ダントツ(?)の最下位であった。

 この結果には2つの解釈が可能である。
 1つは若者の住んでいる地域が実際に「自然環境」や「地域の人とのつきあいや行事」や「楽しく遊べる場所」に乏しい、という解釈であるが、他の6ヶ国に比して日本全体が極端に都市化が進んでいるわけではないから、これは当たらないだろう。

 もう1つの解釈は若者が「自然環境」や「地域の人とのつきあいや行事」や「楽しく遊べる場所」を地域を好きになる要素として重要視していない、ということだ。

 つまり、あくまで他の国との比較だが、若者の地域への愛着は、自然環境や地域の人との付き合いで培われているわけではない。もっとも、同じ調査で「ボランティアに興味がある」という若者も7ヶ国中最低だから、そもそも社会的な意識が他国に比して低いのかもしれない。

 また、楽しく遊べる土地だから好き、というわけでもないようなのも意外だった。これは若者にとっては重要な要素だという先入観があったからだ。

 結局若者が好きなのは「家族や友人が住んでいて便利な街」ということだろうか。

 ここで私は球磨地区を視察旅行した時に(こんな偉そうなことをいうと私の地位が高いと勘違いする人もいるかもしれないが、私はただの言語聴覚士である。ただの誇大妄想だ)引いた平成8年と15年のやはり内閣府の調査を思い出した(詳しくは目から鱗の熊本南東部視察4-やはり若者の問題か-(河童日本紀行390)をご覧ください)。

 この調査を私なりに分析した結果では、若者が住みたい街とは、
 「安定した収入のある人間関係のよい職場がある街」「親を大切にできる街」「子どもの育てやすい街」「自由にのんびり暮らせる街」だった。

 なんだか同じような結果である。
 「近所のおっちゃんにあまり構わないでほしい」という感じの調査結果は我々煩型の中高年にはややムッとする結果だが、これも時代の流れというものだろう。

 熊本県が若者が元気で明るく住み続けられる土地になるよう、努力しなければと思う。

IMGP0042

 「天草富士」と呼ばれる龍ヶ岳の威容を写真に収める。カメラは愛機「ペンテコステオバQ(仮名)」、レンズは「頭脳君13mm標準(仮名)」である。

IMGP0058t

 大道港から見上げて撮るとどうも構図が窮屈なので、レンズを「ノンプロ9mm広角改(仮名)」に付け替えてパチリ。この「ノンプロ」はDマウント格の広角レンズとしては「オバQ」でケラれない(四隅が丸く黒く映らない)珍しいレンズである。私は有名な「頭脳君6.5mm広角(仮名)」とは縁がないので(福沢さんが仲介してくれないため)、今回の旅では「頭脳」の望遠・標準に加えて「ノンプロ」の広角を同行させているのだ。


IMGP0053

 相変わらず鳶の多いところである。今度は「頭脳」の38mm望遠に付け替えてパチリ。このレンズは「空」と「鳥」を撮るのに最適である。

 以前から旅行に行くとその土地の風物に刺激されて思索(妄想ともいうが)が始まるのが常だったが、カメラに凝ってからはレンズを考えてとっかえひっかえ撮影、という手間が加わった。おかげで釣りのメッカのようなところに行きながら釣りをする暇がない。

 もう30年ほど前だが、学習塾の同僚たちと夜釣りに行こうという話になり、勤務が終わってからまだ狭かった道をくねくねと曲がりながら大道港まで行ったことがあった。

 ところが、着いてみると港一面がカタクチイワシの群れで埋められていて、釣りにならなかった。
 あの大量のイワシがキラキラと輝いている光景は一生脳裏から離れないだろう美しい光景だった。釣りに行った鯵の獲物が1匹もなかったのは寂しかったが。

 この港にもずいぶん釣りに来た。
 冬のある日、ガラカブ(標準和名カサゴ)を50位釣ったこともある。ちょっと贅沢だが、イソメではなく生きたモエビで釣るとすこぶる食いが良い。

 また今度は釣りに来よう。龍ヶ岳。次は倉岳である。
記事検索
livedoor プロフィール
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ