ニヤッとする話

ニヤッ、とする程度の笑いネタを思い出しながら書きます。

私の農業入門記37-馬鹿と南瓜は高いところに登りたがる-(それでも生きてゆく私254)

高いところの南瓜

 私が若い頃を過ごした関西地方では、女性の好きなものを「芋・蛸・南京」と表現していた。 元は江戸の言葉らしいが、なぜか本場では廃れてしまって、関西で生き残ったらしい。

 この場合の「芋」は「里芋」、「蛸」はもちろん八本脚の蛸、「南京」は南瓜である。
 どれも夏に採れるので、夏の料理の献立としてよく使われているようだ。

 「ようだ」というのは、私がこれら三つの料理をあまり食べないからだ。

 里芋と蛸はよく食べる。

 特にこの2つを組み合わせた「蛸と里芋の煮物」は京料理の絶品であって、遠く都を離れた鄙である熊本にあっても、ときどき妻に作ってもらって舌鼓を打っている。

 自分で作らないのは私が怠け者だからではなく、日本料理が苦手だからだ。妻に言わせると私の作る魚や野菜の煮付けは「一味足りない」のだそうである。

 しかし、南瓜はまず食べない。
 この野菜が女性の好きなものの代表選手として挙げられていることをまるで理解できないのは私が男だからだろうか。
 「栗南瓜」と呼ばれる甘い南瓜もあるが、栗ほど甘くないし、その爽やかさには到底及ばない。
 かといって甘くない品種はもっと美味くない。煮物などにしてもビチャビチャ水っぽい。

 だいいち私は南瓜に限らず甘い味のおかずを好まないのだ。

 にも関わらず、これがまた甘藷や馬鈴薯と同じく、植えてもいないのに勝手に生えてくる。生えてくるのは勿論我が家の猫の肉球ほどの畑である。

 これは妻が南瓜を好きだからで、ときどき煮付けにするのだが、何せあの図体だから1/4カットを買ってきてすら持て余している。これの種を下拵えのときにスプーンで掬ったものが野菜屑に混じって庭に肥料代わりに植えられるものだから、稀に幸運な奴が発芽して地上へと脱出するのだ。

 妻もまた水っぽい品種のものは好まないから、買ってくるのは栗南瓜ばかりのはずなのだが、庭で芽を出した奴は何故か甘くない実をつけたりする。これは先祖返りに違いない。

 あるいは接ぎ木で作った野菜苗の台木は大抵南瓜であるから、もしかすると本体が枯れてしまった苗の台木の方が育って実をつけているのかもしれない。

 南瓜の弦は地を這って実も地べたに成ると思っている人もいるかもしれないが、放っておくと野菜の茎や庭木に絡み付いてどんどん上に登っていき、大きな実が地上3mの高さにぶら下がってしまったりする。これは危ない。もし強風に揺られて落ちて人に当たったりすれば致命傷を負わせかねない。

 この点は芋や蛸が基本的には地面で生活しているのと異なる。「馬〇と南瓜は高いところに登りたがる」のである。

 いずれにせよ私にとってはつい最近まで南瓜は厄介者でしかなかった。

 ところが私は遂にこの野菜の美味しい食べ方を見つけてしまった。

 それは別の野菜、ズッキーニのおかげである。

ズッキーニ

 詳しくは 私の農業入門記32-ズッキーニの夭逝-(それでも生きてゆく私243)を見て頂きたいが、ズッキーニはジョン(煎)にすると抜群に美味いのである。ジョンとは韓国料理で、日本では普通「チヂミ」と言われている。ところが日本でチヂミといえば小麦粉を具と混ぜてお好み焼きのように小麦粉を円盤状に薄く焼いたものを指し、本来のジョンの部分集合を指してしまう。ジョンはもう少し広い概念で、野菜などを薄く切って小麦粉の衣を付けて焼いたもの全般を指す。

 ズッキーニのジョンで美味い奴は、細切りにして小麦粉と混ぜた奴ではなく、薄切りにして小麦粉の衣をつけた奴なのである。これはをチヂミと呼んでしまうと読んだ人に違うイメージを喚起してしまう。したがって私は「韓国通ぶっている奴」と思われるのを承知で「ズッキーニのジョン」という言い方をしているのである。もっともこの部分の文章そのものが韓国通ぶっている以外の何物でもないが。

 閑話休題(ずっきーにじゃなくてかぼちゃね)。

 ズッキーニはもともと南瓜の仲間である。ズッキーニのジョンが美味いのであれば南瓜のジョンも美味いのではないか。そう思った私は南瓜のジョンを作ってみた。

 これが美味いのである。立派な御飯のおかずにもなる。

 これはおそらく韓国料理であるジョンがコチュジャンなどで作った辛いタレで食べられるからなのだろう。南瓜の甘さがタレの辛さで上手くカバーされて御飯との相性を高めたのだ。

 こいつぁー美味い。そう思った私は、南瓜を一気に見直してしまった。

 そうなると、それまでは鼻にも引っかけなかった身近な南瓜料理も改めて味わう気になった。そうすると、今までは何とも思わず、単なる添え物と思っていたものの中に、何とも言えない旨さをもったものがあったのだ。

 南瓜の天麩羅。
 これぞ海老天や鱚天の添え物以外の何物とも認識していなかったのだが、芋天を除けば天麩羅定食の唯一の甘みである。これは御飯を食べる前か食べ終わった後に食べると絶好の前菜あるいはデザートである。

 南瓜の味噌汁。
 これも少しだけ唐辛子を振りかけてから食べると、甘みが気にならなくなる。それどころか、好ましい甘さである。

 南瓜の煮付け。
 相変わらずニチャついていて好きではないのだが、ジョンや天麩羅や味噌汁で十分美味い思いをさせてもらっているから、ちょっとくらい食卓にあってもまるで許せるのであった。

 人間も同じかもしれない。

 南瓜のように今まであまり好きでなかった人が、あることを境に見直すと、実はいろいろな長所を持っていることに気付く。

 もっとも南瓜のようにいつの間にか自分の上に実をつけて、落ちてきて頭を割られてしまうかもしれないが。

 などとヒラの長い私は被害妄想に駆られるのであった。

私の農業入門記36-消えた馬鈴薯-(それでも生きてゆく私253)

失われた馬鈴薯

 そういえばもう一つ、甘藷と同じく、我が家の猫の肉球ほどの畑に勝手に生えてくる野菜がある。

 それは馬鈴薯である。

 これまた植えた覚えもないのに毎年生えてきて、土の中には勝手に芋が出来ている。

 これはその年の収穫でたまたま採りそこなった芋が翌年になって発芽して命を繋いできたものなのだろう。

 しかし、何事にも始まりというものがあるはずである。
 私は引っ越してきた初年度に馬鈴薯を植えた覚えがない。最初の馬鈴薯はどこから来たのだろう。私たちが住んでいる借家は10年以上人が住んでいなかったはずなのだ。

 これはおそらく甘藷同様、妻が野菜屑と一緒に捨てた腐れ芋にたまたま腐らずに付いていた皮の窪みから発芽した茎が地上に脱出したに違いない。 

 馬鈴薯は勝手に生えてくる割にはよく採れる。

 もっとも、私の棲む九州では馬鈴薯は春植え秋採りと秋植え春採りの2回収穫できるのだが、自然に生えてくる奴は春生え秋採りだけのようである。

 私の見る限りこれはメイクイーンという品種のようだ。

 日本でよく食べられている馬鈴薯には男爵芋とメイクイーンがある。
 男爵芋はホクホク、メイクイーンはしっとりした食感が売りで、甲乙つけ難い美味さなのだが、自分で植えるとするならば(植えていないが)、私は断然メイクイーンを取りたい。

 これは私がメイクイーンの味を男爵芋よりも断然気に入っているからではなく、断然皮が剥きやすいからだ。
 男爵芋はゴツゴツして凹凸が激しく剥きにくいが、メイクイーンはツルンとして凹凸が少なくて剥きやすい。不器用な私には料理のしやすさも食材の選択に大きな要因である。

 たとえば実際に調理したことのあるさまざまな野菜(果物?)の中で私が二度と調理したくないものに花梨というのがある。花梨は果実酒にする木の実である。私は別に花梨酒が嫌いなのではない。単にこの実がどんなに切れる包丁を用いてもツルンツルンに滑る上に固くて身の危険を感じるからにほかならない。

 閑話休題(はなしをいもにもどせば)。

 男爵芋はただ吹かして食べるのに向き、メイクイーンはカレーやシチューに入れて食べるのに向くような気がする。勿論食べ物の好みは人それぞれだから、私とは逆の感想を抱く人もいるに違いない。

 私の主観では男爵芋には及ばないものの、メイクイーンの吹かし芋もまた美味い。調味料次第ではこれを凌ぐ。そのまま、あるいはバターで食べるという古典的な食べ方では男爵芋の吹かしの方が確かに美味い。しかし、マヨネーズにほぐした明太子を混ぜて作ったソースを用いればあら不思議、メイクイーンの大逆転勝ちである。

 また、私が最近凝っている韓国料理にカムジャタンというのがある。
 これは馬鈴薯と豚の背骨肉(日本ではまず売っていないので代用でスペアリブ)をコチュジャンを入れた辛めの汁(を作るのが面倒なので「信ラーメン(仮名)」のスープで代用)で煮る鍋料理なのだが、男爵芋を用いると、豚肉を圧力鍋で下拵えしていたとしても、シメのラーメンを入れる頃には馬鈴薯が煮崩れてしまっていることが多い。ところが馬鈴薯がメイクイーンならばラーメンを食べる時刻でもまだどうにか原型を保っていることが多い。
 この料理はジャガイモに気を遣って豚肉を煮る時間を加減すると肝心のそれが不味くなってしまうので、煮崩れにくいメイクイーンの方が合っているような気がするのだが、本場ではどうしているのだろうか。一度韓国人に聞いてみたいところだ。

 我が家の畑、というより、無理やり耕されて土地を肥やされた庭は、放っておけば勝手にメイクイーンが取れるのだから、考えてみればこれは素晴らしい僥倖である。

 ところが好事魔多しとはよく言ったものだ。

 馬鈴薯は今年も5月くらいになったら勝手に芽を出した。そして順調に育っていった。
 はずだったのだが、レモングラスと甘藷と菊芋と唐辛子とピーマン(3方向にある我が家の畑のうち西側の畑に植えてある野菜たち)が生い茂る夏、いつの間にか姿を消してしまっていた。

 これは狭い土地にあまりにも欲張って作付けをしたので生存競争に負けてしまったのかもしれない。
 が、いつもはなかなか芋が採れるところまでは行かない甘藷が今年はやたらと蔓延っていたから、あるいは暑さのせいかもしれない。今年の我が郷土熊本はやたらと暑かったのだ。

 こうして我が家の招かれざる馬鈴薯は消えてしまった。

 馬鈴薯そのものは岳父が妻の実家の畑で男爵芋もメイクイーンも作っているから、別に我が家の馬鈴薯が消えたとて特に困りはしないのだが、やはり毎年生えてきていたものが出てこないというのは寂しいものだ。

 もっとも、岳父からもらった秋植え春採りの馬鈴薯をいろいろな料理にして食べ、野菜屑は妻が畑に埋めていたから、来年になったらまたどこからか芽を出すかもしれないのだが。

私の農業入門記35-招かれざる甘藷-(それでも生きてゆく私252)

薩摩芋

 我が家の猫の肉球ほどの畑には、一度も植えた覚えがないのにいつの間にか生えてきて収穫される野菜が幾つかある。

 その中の一つが甘藷である。

 熊本では唐芋と呼ばれている。「唐」とは大まかに「外国」を指す言葉だが、日本から見た外国はおそらく東亜のどこかの国、中国か韓国であろう。もともとは中南米の原産らしい。

 標準和名は薩摩芋だが、九州の場合は唐芋と呼ばれることが多い。これは九州各国の場合薩摩から来た芋という認識がほとんどないからだろう。したがって私の中でもこの芋を薩摩芋と呼ぶことに対する違和感がある。かといって唐芋だと他の地方の人に通じない恐れがあるので、別名である甘藷と呼ばせてもらうことにする。

 甘藷は親芋を切って植えるか、根の付いていない茎を植えておくと繁茂して子芋をつける。

サツマイモの花

 甘藷はアサガオ科だからそれに似た美しい花を付けるが、日本でこれが見られることは滅多にない。写真はWikipedia。

 私の棲む熊本県の天草地方は昔から甘藷の栽培地である。
 採れた芋を干し芋にして潰し、糯米と混ぜた「コッパ餅」は天草の名物である。

 焼いても蒸しても、天麩羅にしても美味いが、一つ弱点がある。
 それは「ご飯のおかずになりにくい」ということだ。これはその甘味による。この甘味はお菓子や間食として食べる際には最大の長所となるのだが、御飯のおかずとしては米の甘みを打ち消してしまう短所となる。
 
 私は中華の料理人なので(嘘)、この芋が御飯のおかずとして相応しい料理にならないか、豚肉や鶏肉や牛肉、果ては羊肉(嘘)とまで組み合わせてみたが、やはり芋の甘みが変な嫌らしさを出してしまって美味くならなかった。
 中華でも人気の甘藷料理は大学芋や中華ポテトなど、最初からご飯のおかずたることを放棄した料理であることは周知である。

 今年も、植えた記憶が全くないにも関わらず、甘藷が生えてきた。
 おそらく妻が肥料代わりに畑に埋めている野菜屑の中に芽の付いた端切れか皮があり、それが伸びて地上まで脱出したのだろう。

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 いつもならば同じく勝手に生えてきた里芋など、他の野菜の陰でひっそりとしているのが常なのだが、今年だけはどういうものか元気がよく、「蔓延る」というに相応しい繁茂を見せた。

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 そして秋には収穫が。
 玉葱は市場に出すならば大玉と中玉である。笊の上方にある芋の大きさが分かろうというものだ。招かれざる客としては大収穫である。

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 これらの芋はそのもっとも相応しい料理となって私たち夫婦の胃袋に収まった。

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 その料理とは、「がね揚げ」である。

がね揚げの衝撃

 これがどのような料理かについては一度書いたことがある。天草の郷土料理である。

 ニヤッとする話 : がね揚げの衝撃(いやしんぼ65) 



 下の写真の方がそれらしい。何だか蟹の身を天麩羅にしたようだ。

 「招かれざる客」も思わぬ喜びを与えてくれるものだ。かといってちゃんと植えると採れすぎて持て余すんだよな。

栗の皮剥きが好きな人を求む(いやしんぼ87)

奇特な人


 今年も栗の旬がやってきた。

 私は栗が好きである。

 私は果物全般が好きだが、その中でも西瓜や桃、サクランボや梨に負けず劣らず、栗が好きだ。

 正月のお節料理の中の栗金団。
 栗だけを拾い上げて食べてしまっては怒られていた。栗の入っていない芋だけの金団は不毛の砂漠である。小学生の私は希少金属や宝石を掘り尽くしてしまって本国に引き上げる植民者よろしく、もうそれを見向きもしなくなるのだった。

 栗の渋皮煮。
 これまた渋みと甘みのマッチングに何とも言えない旨さがあって好きである。母はこれをあまり好きでないらしくあまり作らなかったが、結婚して妻が作ったのを食べて、「栗にはこんな隠れた魅力があるんだ」と改めて栗のことを見直した。

 マロングラッセ。
 お菓子の中でも指折りで好きなものの一つだ。ブランデーに漬けた薫り高い栗を上品な甘さで包んだこの食べ物には「高貴」とか「洗練」といった賛辞がよく似合う。

 モンブラン。
 ケーキでも最も好きなものの一つであることは間違いない。裏ごししてデコレーションしたものは勿論、上に載っている甘露煮の栗もまた欠かせない。

 栗ご飯。
 私は元より炊き込み飯が好きだが、その中でも栗ご飯は堪らなく好きである。私はあまり甘いおかずというものは好きでないのだが、栗は別だ。ご飯の味付けの塩味と栗の甘みが出会うと何とも言えない微妙なハーモニーが奏でられる。これを味付け海苔(最近は韓国の岩海苔に凝っている)に包んで食べるとまた違った味わいで素敵に美味い。

 焼き栗。
 日本では既に私の幼少のころにはもう街頭で売られるものではなかった。しかし、海峡を隔てた隣国に行くと市場などで普通に売られているものだった。香ばしい香りと共にうず甘い味が舌を刺激するこの食べ物は、あまり甘みが強くない方がむしろ素朴な感じがして美味い。

 甘栗。
 これは我が家のつまみの定番である。何らの甘味料も使用することなく栗の持つ本来の甘味と旨味を引き出す製法はさすがに中国四千年の知恵である。

 しかーし。

 やはり私が好きなのはただの栗である。

 もちろん無料のものは誰でも好きだがそういう意味ではない(我ながらしつこくて下らない定番)。

 ここでいう「ただの栗」とは、単に茹でただけの栗である。

 だが、私は上述の様々な調理の工夫を加えたどの栗よりも、このただの栗が好きである。

 これはどれだけでも食べられる。ボウル1杯くらいあってもドンと来いである。特に麦酒軍の援軍があれば1時間も経たないくらいで全滅させられる。ビールのつまみに最高だ。
 食べ終わった時にはもう腹はパンパンなのだが、焼肉や御飯を食べすぎたときとは違って、「気分が悪い」という感じにはならない。心地よい満腹感である。これは栗の良質な栄養素のお陰に違いない。知らんけど。

 ただし、皮を剥いていないと困る。
 しかも、鬼皮は勿論、渋皮も一緒に剥いてあって、もう口に入れるだけになっていなければならない。

 私は中年以降手先が不器用になったので、栗の皮を包丁で剥く、というのは手に大怪我をして救急車で運ばれるというのと同義である。
 栗の皮剥き用にさまざまな道具が開発されているが、これを用いても栗はなかなか剥けない。大量に剥いているうちにもうクタクタになってしまい、栗の味など分からなくなってしまう。

 したがって、本当に申し訳ない次第なのだが、栗を剥くのは器用な妻の役目になってしまう。
 私は料理に関する他の作業ついては、モヤシの根を取るのだって魚を捌くのだって中華鍋を振るのだってプルコギ鍋の焦げを落とすのだって率先して自分でしているのだが、これだけは苦手なのだ。

 ただ、料理上手の妻とて、栗の皮剥きはやはり重労働らしく、よほど上機嫌のときしか剥いてくれない。この間は手を怪我させてしまって気の毒なことであった。なおのことそうおいそれとは頼めない。

 最近は「栗が食べたい」と言うと、茹でた栗を皮ごと半分に切ってスプーンと一緒に持ってくるようになった。半割れの栗の中身をスプーンで掬って食べるわけだが、丸ごと頬張るのに比べると食感が全然違う。あのホクホクした感じは失われている。

 プロが剥いたものも売ってはあるが、鮮度が相当落ちるし、保存用に重曹だか何だかの薬品が使われているらしく、どうも風味が自然ではない。

 その結果、私がただの栗を食べるのは年に1回程度となる。
 妻がたまたま気が向いて剥いてくれた栗を貪るように食べ終わると、「ああ、この幸福をまた来年のまで待たなければならないのだ」と名残惜しい。

 どこかに冒頭の絵のような奇特な人がいないだろうか。
 栗の皮を剥くのが大好きで、頼むといつでも喜んで駆けつけてくれ、しかも栗そのものはあまり好きではなく、1個食べるともう私の食べる分を侵食しないような人である。

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 実は今我が家には私が矢部の道の駅から買ってきた山栗があるのだ。既に煮られて半分に切ってスプーンで食べたのだが、まだ随分ある。やはり自分で皮を処理しながらだと美味さが半減する。やはり栗は人の剥いたものが美味い(ふざけるな)。

 妻に言わせればこの小粒の栗は、「貴方のいう栗剥き名人だって剥くのを嫌がるよ」ということだ。求む、栗を剥いてくれる人。報酬として半分くらい食べても構わない。是非我が家に来てほしい。

 我ながら馬鹿馬鹿しくて我儘な話だ。


カメラ河童のジャンク道遥か65-御輿来海岸また後悔記-(それでも生きてゆく私253)

想像の中の風景

 その日私は半休を取って市内の母のところに行っていた。
 「市内」というのは熊本人独特の言葉で、「熊本の街」という意味である。

 その帰り、16時ごろだろうか。

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 ふと空を見上げた私はビビッと電流に撃たれた。
 「畝雲だ!」

 私はこの1年くらいこの雲を待っていたのだ。
 畝雲は波状雲ともいう。この雲はまるで空を見えない波が打ち寄せた後のように干潟の波紋に似ている。
 空には畝雲、海には波紋、これが夕陽に染まりながら見晴るかす水平線で交わる風景こそ、私がずっと撮りたいと熱望しているものなのだ。

 そしてこの風景が現れそうな場所は我が熊本県で1箇所しかない。

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 それはたった今私が車を走らせている宇土半島の北側にある御輿来海岸にほかならない。

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 私はこの海岸の名称の由来となった、「熊襲征伐」に来たという景行天皇が輿を停めさせたという石碑のある駐車スペースに車を停め、写真の構図を決めるために海岸を眺めた。

 残念。畝雲の向きと波紋の向きが逆である。

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 本当はこうだったら理想的だったのだ。
 上写真は上部だけを反転させた合成写真であるから、日光の向きが上下の画面で逆方向であり、不自然だ。

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 欲を言えば畝雲がもっと大きく、波紋と揃っているとなお良いのだが。
 ますます画像は不自然になっているが。

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 日光が逆方向なのを目立たなくさせると色が薄くなるし。

 贅沢は言っていられない。
 私は常時乗せているカメラバッグを取り出すために後部座席を振り返った。

 あれ? ない!

 そうか。
 今日は用事だけ済ませるつもりだったからカメラを乗せていないのだ。
 レンズに凝っていたときにはこんなことは考えられなかったのだが。最近は関心が古銭に移っているのである。

 仕方がない。
 私は携帯のカメラで撮影を始めた。

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 ついこの間携帯を買い替えたばかりである。
 携帯のカメラはもはや私の愛機「ペンテコステオバQ」よりも性能が良いかもしれない。「オバQ」はもう5年くらい前の技術水準のカメラなのだ。

 だが、この綺麗な光景をDマウントレンズで撮影しなければ、私は何のためにそれなりの金を遣ってこれを収集したのか分からない。

 ここから家までは約20分。往復40分である。
 しばらく迷った挙句、私はカメラバッグを家に取りに帰ることにした。
 山越えして宇土半島を南北に横切れば往復10分は節約できる。

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 「オバQ」には「紀伊国屋門左衛門13mmDマウント」を付けっぱなしにしているから、バッグから出したらすぐ使用可能である。

 焦る心を抱えながら、「安全運転!」と唱えながら、車を走らせる。

 御輿来海岸に近づくにつれて、その上からもう畝雲が去っていったのが分かった。
 それどころか、着いたときにはもう干潟もほとんど消えていた。もはや波紋は波間に呑まれて消滅していた。

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 近くの長浜の美しい夕陽を撮りながらも心は後悔で一杯の私であった。

カメラ河童のジャンク道遥か64-180度の虹は写したが-(それでも生きてゆく私252)

180度の虹

 全国推定100名のDマウントレンズファンの皆さんこんにちは。お久しぶりです。って、もうこのブログ見ている人いないだろうな。

 以前虹の話題を取り出してから随分経った。

まん丸の虹

 それは360度真円の虹を撮影するという野望である。

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 そのためにスマホ用の魚眼レンズを買って改造して愛機「ペンテコステオバQ」に装着したものの、

こりゃ無理だ

見事に失敗した話も既にした。

カメラ河童のジャンク道はるか28-河童写真軍失敗の研究1-(それでも生きてゆく私221)

 この失敗に懲りた私は、ちゃんとした魚眼レンズを買うことにした。

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と言っても、「オバQ」用の純正魚眼レンズは貧乏人の私からすると凄く高い。ためらっているうちに1年以上の歳月がたってしまった。

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 ところが、「オバQ」が製造停止になったからなのか、去年くらいから安い中古の魚眼レンズが出回り始めたので、やっと買うことができた。

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 このレンズで石打ダムを写してみると、このとおり。これならば360度の虹も画面の中に全て捉えられそうである。

 ところが、実際に撮影のための準備ができてみると、肝心の虹がかからない。
 これまでは早朝の散歩では3ヶ月に1回くらいはかかっていたような気がするのだが。

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 虹のことなどもう完全に忘れてしまっていた、台風一過のある朝焼けの綺麗な早朝。

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 急に狐の嫁入りが始まったと思ったら、美しい虹が。
 まず最近標準で使っている「紀伊国屋門左衛門13mmDマウント(仮名)」で証拠写真を撮影。
 急いでレンズを魚眼に付け替える。

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 あれ? 雲が流れてきて虹をかき消してしまった。
 要らんことをせずにすぐレンズ交換しておけばよかった。こんなに早く虹が消えてしまうとは。

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 がっかりして、それでもときどき空を見上げながら帰途を辿っていると、再び虹が現れ始めた。

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 どうにか虹の脚の端から端まで撮影に成功。
 しかし、後で再生してみても、単に「撮れた」というだけで、「だから何?」という画像である。
 実際妻は私がこの写真を見せたとき、この台詞を吐いた。

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 色を鮮明にして、トリミングして、せいぜいこの程度である。

いつか虹の全てを

 だが、とりあえず虹の全貌を撮影可能であることは分かったから、今度はもっとくっきりと表れたときに撮ることにしよう。Qマウントのレンズは軽いからミニバッグに常時入れていても苦にならないし。
 ちなみにこのレンズ、中古だから上の絵の中の値段そのままだった。(もう製造停止だから宣伝してもいいだろう)。




誘惑の韓国貨幣14-どっちなんだ、の中外通宝-(河童亜細亜紀行145)

中外通宝

 今回取り上げる貨幣は、果たして韓国貨幣と呼んでよいものやらよく分からない。

  「韓国貨幣価格図録」にはこう記述がある。

 P244
21.中外通宝(チュンウェトンボ)
 中外通宝を中国の貨幣だとみなす意見がある。しかし、中外通宝の図案を見ると我が国の貨幣とあまりにも似ているだけはなく、額面も我が国の貨幣と似ており、中国との貿易に使用するために作られた我が国のコインだったという説が有力なようだ。今後もっと研究するべき課題だと思われる。

 日本誤訳は河童である。

 実は私はこの書籍を全文日本誤訳している。著作権の関係で公表できないのが残念だが、純粋に学術目的で読みたいという方はご連絡いただければゴニョゴニョ(卑怯の代名詞)。

 閑話休題(またじまんばなしかよ)。

 私は中国の古銭書と韓国の古銭書でほぼ同時期にこの貨幣を知ったため、「一体どっちなんだ」という気持ちに襲われた。

 中韓にはこのテの歴史論争が数多く存在する。たとえば「海東の盛国」と呼ばれた渤海国についても、中国は中国の一部と主張し、韓国は韓国の一部だと主張している。

中外通宝1両額面

 確かにこの貨幣には「韓国っぽさ」が随所に感じられる。

 額面の「中外」は「中華と夷荻」という意味であり、もうすこし剣呑でない言葉に直せば「中外通宝」は「全世界に通用する貨幣」という趣旨になる。

 「中華」だから中国か、といえばそうではなく、確かに韓国が「中華」に対して「小華」を自任していた時期もあったのだが、大清帝国がその解体への徴候をはっきりと見せ始めた時期にあっては、東亜の周辺国もその求心力から離れて「自らが中華である」と意識し始めた時期が19世紀後半から20世紀初頭だったのである。

 我が日の本はといえば、その地政学的な位置から終始夜郎自大的な意識を持ち続けられたのだが。

 だから、この時代に「中外通宝」という額面で貨幣を発行する国を想定すると、それは中国とは限らず、日本でも韓国でもベトナムでも構わなかったのだ。

 ちなみに上下の写真は私の所蔵するレプリカである。
 中外通宝には1両のほかに5銭、2銭、1銭があるが、いずれも博物館級の希少品であり、1枚で家が1軒建つ。

中外通宝1両龍図

 裏面は現代の韓国人が泣いて喜びそうなデザインである。

 中央に陰陽図(太極図)、その周囲に八卦、さらにその周辺を雙龍が囲んでいる。太極旗に絡みつく龍、という風情だ。

 韓国人がこれはもしかするとウリナラ(わが国)のものではないか、と思うのも無理はない。

 一方、中国はこの貨幣を自分の国で発行されたものだと主張している。

 たとえば「中国銀幣図録」では、
[日本誤訳]
 上海での流通のために1854年に英国皇室ミントに委託して鋳造した。流通しなかった。

とある。

 これはあるオークションでの説明だが、

[日本誤訳]
 元来この貨幣には3つの説がある。
 一説には中外通宝銀幣は咸豊4年(1854)上海衛海関が設立され、当局が外国の先進造幣廠に委託して鋳造した。
 別の一説では、中外通宝銀幣は英国造幣廠が上海海関に代って納税用の銀元として咸豊8年(1858)に発行した。
 もう一つの説では中外通宝銀幣は朝鮮高麗高宗21年(1884)典圜局で鋳造した、とあるが、これは根拠がない。
 
と、韓国鋳造説にも触れ、これを否定している。

 これらの説のうち第一の説の「外国」に露西亜を充てる人も多い。

 一体どっちなんだ、という話なのだが、私は次のように考えている。

 端的にいえば、中外通宝のデザインがどれほど現代の太極旗に似ていようと、それがこの貨幣が韓国で鋳造された証拠にはならない。

 ただ、ここまで似ていると、何らかの関係性を考えてみる必要もあると思う。

 そうした考察の一助となる貨幣を紹介したい。


7銭2分銀貨吉林省造額面
7銭2分銀貨吉林省造龍図

 堂々たる太極図が額面に鎮座するこの貨幣は清国吉林省造の7銭2分銀貨である。

 吉林省は現代の北朝鮮と中国の国境地帯に位置する省で、韓国人が多く住み、延辺には民族自治州も設置されている。
 額面に「甲辰」の文字が刻まれているように、1844年の製造である。
 吉林省は日本でいえば飛鳥時代には高句麗の領土だったのだが、光緒元宝が製造された時代には清国の領土であり、中央政府の統制に従っていた。ということは、そこで発行された貨幣は清国の貨幣である。

 中外通宝の製造は最も古い説でも1854年であるから、7銭2分銀貨はそれより以前に製造された貨幣である。

 太極図の赤と青を凹凸で表現するために使われている彫金の技法も両者は似通っている。

 中外通宝の作者がこの吉林省造7銭2分銀貨のデザインを参考にしたとしても不思議ではない。やはり両者のデザインには韓国人が関わっているとしか思えない。

 ただ、ここで注目したいのは両者の製造技術であって、吉林省造7銭2分から中外通宝へは飛躍的な技術的向上が見られる。中外通宝1884年製造説を信じるとすると、両者の時間的ギャップは10年。とてもそれほどの短期間の進歩であるとは信じがたいくらいである。
 吉林省造7銭2分と中外通宝は明らかに「世代が違う」。


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 それでも、吉林省造7銭2分を韓国初の近代的貨幣である大東銭と比較すると、完全な正円の銀塊に打刻して作られており、これよりは先進的な技術である。大東銭はいまだ完全な正円に作ることが出来なかったことが上写真を見ると分かる。

 中外通宝韓国貨幣説のいうとおり、この銀貨が1884年に典圜局で鋳造されることは可能だったのだろうか。

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 1888年製造の巴(太極徽章)1圜銀貨と比較してほしい。
 この彫りの浅い感じの打刻は日本の1圜銀貨の手本となった香港1圜に通ずるものがあり、中外通宝を打刻した機械・技術に比して劣る。
 
 巴の方が後から打たれたのだから、2種類の銀貨が同じ典圜局で打たれたという説には頷きかねる。


中外通宝5銭額面
中外通宝5銭龍図

 上は中外通宝5銭である。
 レプリカとはいえ、5銭の小さな面の中に極めて精緻な図案が打刻されていることが分かるだろう。

 このことから考えると、中外通宝は中国や韓国のような東亜ではなく、当時の貨幣製造の先進国である欧州のどこかの国で打刻された可能性が高い。
 現存数から考えると、製造国から極少数がサンプルとして送られてきたのではないか。

 再度中外通宝と巴銀貨の図案を比較してみると、雙龍が小円の外にあるか中にあるかの違いはあるが、実はこの2つの雙龍図は極めて類似していることが分かる。
 これは中国貨幣である吉林省造7銭2分が他省製造の7銭2分と同じく単龍の正面図であることと対照的である。

 ここからは私の独断推理であって根拠はほとんどないので学術的なものに引用すると恥をかきます。

 中外通宝は吉林省造7銭2分銀貨を参考にデザインされ、独逸ミントで製造された、巴(太極徽章)1圜銀貨製造のためのサンプル品なのではないか。
 甲賀宜政「朝鮮貨幣及び典圜局の沿革」には漢城典圜局の機械は独逸から輸入されたことが明言されているが、円形銀塊と刻印については「そうではないか」とボカしてある。
 巴の刻印については典圜局では上手くいかなくて、結局日本人が修正してモノになった話は既にした。

 つまり、大東銭の後、本位銀貨の製造を企図した韓国政府および漢城典圜局は製造機械と技術の輸入のために独逸に交渉し、中外通宝の出来を見てそれを決意した。
 ところが実際に導入された機械は払い下げの中古品で、巴をはじめとした精緻なデザインを打刻するのは困難で、日本人による彫刻のし直しが必要になった。

 ここで、もしこの仮説が正しかったとして、サンプルである中外通宝のデザインがなぜそのまま採用されなかったのか、という疑問が湧くであろう。

 これについては清国が介入したか、あるいは朝貢国である韓国が忖度したかは分からないが、「中外」という銭文と、中国貨幣である吉林省造7銭2分と太極図があまりに似すぎていることからデザインの変更を迫られたことが考えられる。

 これほどの独断的推測が必要となるのはやはり中外通宝韓国製造説には無理があるからである。
 
 もっとも中国貨幣説についても外国で委託製造されたと言っているので、果たしてこれを「中国貨幣」と言っていいのか、という問題が残る。

 結局のところ中外通宝に関しては、「韓国人と何らかの関係がある欧州製貨幣」というくらいが無難な説であろう

韓国貨幣に会いにいく旅15-韓国雑感仁寺洞・明洞・南大門-(河童亜細亜紀行158)

韓国時間は過ぎるのが早い

 楽しかった(足腰は痛くて辛かった)韓国旅行もあっという間に3日目、最終日である。

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 私は韓国に行くたびに(というより常時)カメラバッグに自製レンズ「スーパーぐるぐる君Ⅲ(愛称)」を入れている。

愛に満ちた夜景

 これは「愛の夜景」を撮影するためである。

釜山愛の夜景2
 この「愛の夜景」はなぜか釜山でしか成功したことがない。

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  ソウルでもこのレンズを装着して夜景にカメラを向けてみたが、やはり撮影することができなかった。光源は釜山に負けないくらいにあるはずなのに。不思議である。

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 仁寺洞の屋台。
 妻は一度韓国の屋台に入ってみたいというのだが、実はかれこれ15年ほど前に東大門で入ったことがあるのだ。もう完全に忘れてしまっているらしい。あのときはテンプラの入ったタラスープ(おそらく今思えばプゴクという奴だろう)を食べた。私は3秒前の記憶は妻に頼っているけれど、10年前以上の記憶は鮮明なのだ。こういうのを「記憶の勾配現象」というのだろう。前向健忘の症状である。


 韓国のコンセントは日本のコンセントと形が違うのでプラグと連結するためのアダプターが必要である。たくさんコンセントがあるホテルならば3個も4個も持っていけばそれで解決だが、古いホテルにはコンセントが少ないところもある。

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 そういうときは上写真のような三又コンセントを持っていけばいいというのは前回の旅で学んだことである。ところが今回はホテルの総アンペア数が大きすぎたのか、コンセントを刺した瞬間に火を噴いた。元のコンセントやカメラのバッテリー充電器が壊れたのではないかと心配したが、それは大丈夫だった。だが、三又はオシャカになってしまった。

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 そこで100円ショップの「代走(仮名)」(明洞)で見つけた三又コンセントを使ったところ、支障なく通電した。やはり「所変われば品変わる」である。

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 ホテルの部屋に用意してあったスリッパ。

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 ヤラセではないことを示すため残りもう1組も。滞在中2回部屋の掃除があったが、この1組のスリッパが交換されることはなかった。

 こういうのも「ケンチャナヨ」なのだろう。私は、といえば、もちろん「ケンチャナヨ」である。「みんな違って、みんないい」である。私は大陸的な男なのだ。

 最近こういうことでサービス業の従業員さんを痛めつける日本人が増えている。自分が仕事でサービスをしているときに溜まった鬱憤をそんな形で晴らしているのだろう。

 私は昔から「お客様は神様です」という言葉が嫌いだった。客だったら何をしてもいいのか。サービスする方だって人間なのだ。行き過ぎた「お・も・て・な・し」が遂にそんな歪んだ形で現れ始めたのだと思う。前回書いた「生アジョシ」を私が好きなのは、そうした私自身の哲学による。別に皮肉を言っているわけではないのだ(ちょっとだけそういう趣旨もあるが)。

 平等な人間として、お互いが気持ちよくなる。もちろんお金を貰っている方の気遣いが大きいのは当然のことだが。これからの日本はそんな接客を目指すべきだと思う。

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 仁寺洞の商店街からホテルに帰る道でふと目に留まったプレート。

 独立宣言文配布址

[日本誤訳]
 3.1独立運動の偉業のため、天道教代表たちが集まって、独立宣言文を検討、配布した場所である。

 ハングルが読めるようになると韓国の至る所にこうしたモニュメントがあることに気付く。
 日本人にとっては決して愉快なものではないが、少なくとも一部日本のメディアにあるようなヘイトや蔑視そのものの記述ではない。

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 なかなかストライクなバスのデコレーション。どういうコンセプトのものなのかはよく分からないが。

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 なんだかよく分からないキャラクター。
 もしかすると文禄慶長の役(韓国では壬申倭乱)で日本を相手に戦った英雄を模しているのかもしれないが、こんな敵将が現れたら我が日本軍は笑い死にして大敗北したにちがいない。

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 ミニパトならぬミニ白バイ。
 これは車の後ろから来られても絶対分からないと思う。

 仁寺洞の24時間営業の飯屋は当たりだった。今回の滞在中の朝飯は2回ともここに行った。

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 プゴク(タラスープ)。二日酔いに抜群の効果である。モヤシが入ればなお好(ハオ)。

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 ユッケジャン。これも、汗だくになって前夜の酒が抜けていく。

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 ソルロンタン。辛いものが苦手な貴兄にお勧めである(写真は妻注文)。

 ここはこの3品以外のコムタンやらヘジャングやらビビンバやらカルグクスやらジャジャン麺やら、日本人でも多少韓国料理に詳しい人だったら「ああ、あれ美味いんだよね」と頷く料理が概ね5000ウォン(約500円)で出てくる。しかも、美味い。「うっまーい!」というほどではないが。
 付け合わせのキムチも韓国人には物足りないかもしれないが、浸かりが浅いので日本人にはむしろ好ましいだろう。
 また、日本でも安い店にありがちの不潔な店構えや客筋の悪さとも無縁である。明るく清潔な店内で、朝から酔っぱらっていない客が静かに飯を食べている。
 しかも前払いだから旅行客相手のぼったくりが心配な人にも安心である。高ければ頼まなければいいわけで。
 ただし、韓国語必須である。店内に日本語は一切ない。店の誰も日本語を話さない。メニューのハングルくらいは読めないと何を頼んでいいか分からないだろう。もしかすると店主は日本人には来てほしくないのかもしれない。

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 この店である。現地の人にしか分からない程度のボカシが我ながら底意地が悪い。

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 行商の竹細工屋さんである。
 ちょうど野菜の収穫用の籠が壊れたところだったので、売買交渉をした。
 韓国製の結構大きい奴が10000ウォン。ベトナム製の同じ大きさの奴ともう一回り小さい奴が2つで7000ウォン。迷わずベトナム製を買う。
 帰国してから後悔した。2年くらいで壊れた我が家の籠と同じ系統のものである。バカじゃないのか。韓国に行ったのだから韓国製のものを買えばいいのに。とても丁寧に作られたがっちり丈夫な感じの籠だったのだ。私の呪詛に妻のいつもの台詞。「安物買いの銭失い」。

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 前回は空港でまともな昼食が取れず、「LCC客には飯も喰わせんとかっ!」と心の中で叫んでいたが、今回は第2ターミナルで飯屋を見つけたのでビビンバにありついた。
 味噌汁はなんとチョングッチャン(韓国納豆汁)である。私は納豆が嫌いなのであまりいいイメージがなかったのだが、これは美味しくいただけた。

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 御飯を器に入れて、しっかり混ぜて、いただきまーす!

 フライトまでは後30分である。

 ここらで仁川空港からさようなら。

韓国貨幣に会いにいく旅14-タクシーの運転技師たち-(河童亜細亜紀行158)

この世の不幸

 2018年現在の韓国では、少なくともソウルの鉄道・地下鉄の駅の看板には日本語の表示がある。券売機にも日本語モードがある。目的地に行くまでの交通手段は旅行サポートアプリで調べればいいし、駅から目的地までの徒歩経路は地図アプリを使えばよい。 
 したがって韓国語が全く喋れなくとも切符を買って目的地に着くことは可能だろう。

 だから、東京や大阪、名古屋のような大都会からの旅行客であれば、少しの違和感もなく鉄道や地下鉄で移動できると思う。
 しかし、ソウルは大都会である。
 私のような人口1000人余りの小さな街から来た旅行者にとっては、田舎と大都会のギャップに苦しむことになる。
 今までに何度も書いたがそれは「長距離を歩かなければならない」ということである。同一の駅名の場所でも、その駅内での路線から路線への移動が馬鹿にならない距離である。

 前回の「仏に逢う旅」で私たちは列車での長距離移動を計画したが、列車が遠くにいくことよりも、駅までの、もしくは駅内での長距離歩行の方がずっと堪えたのであった。

 まして今回のソウル行きは私が膝を、妻が腰を痛めての旅行である。

 仁川空港内の移動だけでも随分堪える。LCC(格安航空)の搭乗口は「冷遇」といっていいほど遠い場所にあるのである。

 これにまた前回のような長距離歩行が加わったら、私たちは二人とも異国の土になってしまうかもしれない(大袈裟)。

 そこで今回は全ての移動をタクシーで行うことにしていた。

 ただ、韓国でタクシーに乗るにあたっては一定の覚悟がいる。それにはいくつかの理由があるのだ。

1.運転マナーが日本人にはかなり違和感がある。

神風タクシーin韓国

 私が初めて渡韓した80年代のようにとんでもないスピードを出す人は少なくなったと思うが、

実はもっと深刻

 たまに死を覚悟した妻が座席で瞑目するようなとんでもない「神風タクシー」に出くわすことがある。妻に言わせるとこのときは150km出ていたそうだ。

 ほとんどのタクシーはそこまでのスピードは出さないが、頻繁に車線を変えたり、日本人なら鳴らさない場面でクラクションを鳴らしたり、といった行為はやはり多い。

2.運転技師に韓国語と片言の英語以外通じない人が多い。

取り越し苦労

 したがってガス車なのにガソリンの残量を心配するなどという全くの杞憂に襲われなければならないことがある(これは私たち夫婦が阿呆なだけかもしれないが)。

3.時間と料金が計算しにくい。

 私はボラれたことはないが、渋滞でえらく時間がかかったり、デモやイベントで最短距離をとれずに料金が思ったより高かったりしたことはたまにある。

 ただ、タクシーでの旅行はネタにはしやすい。
 それは運転技師さんたちが「生アジョシ」だからである。
 「生アジョシ」は「生ビール」の「生」と韓国語で「おじさん」を意味する「アジョシ」を合成した私の造語であるから、どんな辞書にも載っていない。
  生アジョシが一番沢山いるのは飲み屋だが、酒のないところにもいる。したがってタクシーも運転しているのだ。

  この言葉は日本語にはなりにくいが、強いて言えば「大阪のオッチャン」だろうか。

  「お.も.て.な.し」の仮面を被っていない、生の人間力がこちらに迫ってくるというか。親切な人はより親切に、そうでない人はまあ、それなりに、マイペースを崩さないが、でも基本は親切なのである。

  私も年齢からいえば韓国ではアジョシと呼ばれる年齢だが、なかなか「生」で勝負できる人間性を持っていないから、ついつい愛想笑いの仮面を被って人に接してしまう。

  だから彼らの飾らなさがちょっと羨ましい。全面的に、ではないが。
 
  それではこれまでの旅行で出会った生アジョシその1。「溜息アジョシ」

  私の「韓国銀行」の発音が聞き取れず何回も聞き直してから乗せてくれたアジョシ。時々私に韓国語で話しかけてくるのだが、私があまり聞き取れず、私の韓国語もアジョシに通じず、その度に「はーつ!」とため息をつくのだった。「何でこんな面倒な客乗せちまったんだ」と後悔しているようだった。5回くらい溜息をついて、それでも自分が向かっていた場所が私の行きたかった場所だと分かると、急に元気を取り戻して「ありがとう」と笑顔で送り出してくれた。

  その2、「警笛アジョシ」。
  交差点で車列が止まるたびに「パーッ!パパーッ」と警笛を鳴らす。
  「そんなに警笛を鳴らしても混んでるんだから進まんのに」と思うのだが、あら不思議、どこに車の進むスペースがあったのだろう、警笛のたびに車列は少しずつ進むのだった。
  アジョシはひっきりなしに警笛を鳴らしているのだが、その表情を見ると少しも苛立っておらず、時々「もう少しだから」といった表情でにこやかにこちらを振り返るのだった。
  まるで警笛を鳴らして車列を進めるのが自分の義務だと思っているかのようだった。

  その3。「地図アジョシ」。
  目的地を示すために観光地図を見せたら私の手からひったくり、片手で地図を見ながら運転したアジョシ。
  この人も少しも苛立った表情ではなく、「ありがとう」と日本語で言ってにこやかに立ち去ったから、彼なりの親切だったのだろう。

  その4。「喧嘩アジョシ」。
  街角から乗ってもう2人乗せるためにホテルの玄関に寄せたら、乗り込む間にアジョシがホテルのボーイと猛烈な口喧嘩を始めた。何と言っているかは分からないがお互いに顔を真っ赤にして罵倒しあっていて、もう乗り込みが終わっているのになかなか出発できない。
  やっと出発したと思ったら私の方を振り返って笑いながら、「あいつ、悪い男だよ。ねえ。」って、知らんし。一緒に乗っている娘が怯えていた。

  その5。「投げつけアジョシ」。

  この人については何回か書いたが、その一部始終については初めて書く。
  この人の運転する車に乗ったとき、私はちょっとだけ、え、と思った。客の乗る後部座席のシガーソケットで携帯電話を充電していたからだ。客が悪い奴だったらどうするのだろう。盗られてしまう。
  まあ、人のことだから、と思って黙っていた。第一私の懸念を表現できるほどの韓国語力が私にはない。
  ところが、私はこのタクシーを降りるときには携帯の充電器がそこに刺さっていることをもう忘れていた。
  降りるとき、足元でパキッと音がした。見ると、携帯の充電器が真っ二つになっていた。そのまま知らん顔をしようかとも思ったが、それはあんまりなので「もしもし」と言ってアジョシにそれを見せた。
  するとアジョシは凄い形相になり、何か言おうとした。しかし、私たちが外国人なのは乗せたときに分かっている。まくし立てたところで怒っているということ以外の何も伝わらないだろう。そのことに気づいたアジョシは「イーッシ!」と生アジョシたちが忿懣遣る方無いというときに発する声を発し、充電器を投げつけた。
  床に投げつけたのか、私に投げつけたのかよく分からない。それはそのちょうど中間に落ちたからだ。アジョシは何故か充電器を拾って私に渡し、「ガヨ!(行くよ)」と言うと私に「行け」というジェスチャーをした。それは日本での「シッシッ!」に似ていたが、これは韓国人のジェスチャーとしてはそうした失礼な意味はない。
  
  悪いのは確かに私だが、客席で充電していたのはアジョシだし、客に対してそこまで怒らなくても、としばらく不快な気分だった。

  最後の事例を除けば親切で人間味のある「生アジョシ」たちである。
  考えてみれば「投げつけアジョシ」も20000ウォンくらいする充電器を壊されても「弁償しろ」と言ったわけではない。もっともそれを言われたら私も「生オヤジ」と化して逆上していたような気がするが。

  まあこのように、「生アジョシ」たちはタクシーに乗るたびに私に愉快なネタを提供しているのである。次はどんな「生アジョシ」に会えるか楽しみだ。

韓国貨幣に会いにいく旅13-仁寺洞ロマンティック散策、実は彷徨-(河童亜細亜紀行157)

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 さて、お目当ての物を買ってホテルに帰ろうとした私たちだったが、タクシーが捕まらない。

 まず来た方向に向けた車線側に地下道を通って来た途端、何台か続けてタクシーが来たが、ホテル名を言っても、 近くの交差点の名前を言っても、「そこはこの道から行くのは難しい」というようなことを言って断られた。皆異口同音の「オリョウォヨ(難しい)」という文末だけは間違いなく聞き取れた。
 近すぎたのか、あるいは混んでいる道を行かなければならないのか、とにかく採算が合わないのだろう。
 韓国のタクシーの運転技師の給料は日本と同じ歩合制だから、長距離の客を乗せなければ割に合わないのである。
 タクシーがやたらと飛ばすのも同じ理由で、特に近距離の客ならば早めに片付けて次の客を探す必要があるからだと推測される。

 私は先日札幌でタクシーの乗車拒否を何回もされて驚いたのだが、日本でも都会では「割に合わない客」は拒否されるのが普通らしい。田舎に住んでいると分からないことだ。

 なんにせよ、韓国でタクシーの乗車拒否に逢ったのは初めてだったから驚いた。

 妻も、「これが乗車拒否って奴ね」と驚いている。私と同じく田舎者なのである。
 もっとも妻は私の韓国語が下手なのがその原因ではないかと疑っていたようだが。

 何台か乗車拒否された後は空車のタクシーそのものが来なくなった。待つこと20分はあったろうか。

 遂に我が家の女王の御聖断が下された。

 「地下鉄で帰ろう。」

 ホテルのある仁寺洞と今いる南大門は直線距離は近いのだが、地下鉄は乗り換えが必要でちょっと面倒なのだ。しかも最寄りの鐘閣路駅からかなり歩かなければならない。

 でも背に腹は代えられない。私たちは痛む膝と腰を庇いながら歩き始めた。

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 会賢駅から地下鉄ソウル駅までは4号線で、そこから鐘閣路駅までは1号線である。なにせ土曜日の夕方近くだから混んでいる。 

 下がって、もう一つ下がって、乗って、上がって、また下がって、また乗って、もう一度上がったとき、私たちは地上に立っていた。
 直線距離ならもうホテルに着いているのではないかというくらいに歩いていた。
 そして、私たちは完全に方向感覚を失っていた。以前もこれで釜山の街で道に迷って釜山駅から日本大使館前まで彷徨したことがあるのだ。

 地図アプリの「オネスト(仮名)」を見ると、ホテルは北東の方向である。だが、移動中でも現在地を表示する機能が働かない。これはPC版限定の機能らしく、スマホでは見られないのだ。

 ここで間違った方向に歩きだしたら既に限界に近付いている私の膝と妻の腰は持たないだろう。

 どうしよう。右か、左か。どちらに歩き出したら東なのだろう。そうしたら北に曲がればいいのだが、最初の一歩が分からない。

 そのとき、私はリュックに方位磁石が縛り付けてあるのを思い出した。このリュックは普段は軽い登山に使っているのだ。もっとも膝を痛めてから登山どころではないのだが。

 見ると、磁石は道の左右のちょうど上を指している。こっちが北だ。ということは、右に行って左折すれば北東のホテル方面である。

 しばらく不安のうちに歩くと、見慣れた(といっても2日目だが)ホテルまでの道が現れた。

 なんと、ハイテク地図アプリでなく、磁石によって窮地を救われたのだった。さすがアナログ世代である。

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 早朝歩いたときにはほぼ無人だった仁寺洞の街は物凄い人いきれである。
 そろそろ辺りは薄暗くなってきている。

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 歩き回ったせいか腹が減っている。
 少しだけ早いが夕食にしよう。

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 「韓牛の店」というのに入ったが、抜群に美味かった。食べてしまうまで写真を忘れてしまうほどに(またかよ)。
 ただ、鍋の真ん中のクッ(汁)をどうやって食べたらいいのか、店の人に尋ねたがよくわからず、平たい皿に入れて食べたのだが、どうすればよかったのだろう。いまだによく分からない。

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 外に出ると仁寺洞の街はすっかり夕闇に包まれていた。
 カップルで歩いている人たちは申し合わせたように腕を組むか手をつなぐかしている。

 陶器や小物や骨董などのお洒落な店の立ち並ぶ夜のこの街は実にロマンティックな雰囲気である。

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 脚や腰の痛いのも忘れ、雑踏の中の独り、じゃなかった、二人となって歩く。

  清水へ 祇園を歩く桜月夜 今宵逢う人 みな美しき

という与謝野晶子の歌を思い出す。

 ただ、途中から私は「焼き物やや骨董屋があるなら古銭屋もあるんじゃないか」とキョロキョロしていたのだった。
 残念ながらそれはなかった。

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 1kmは間違いなく歩いたろうか。
 やっと商店街が途切れたとき、私たちはホテルを通り過ぎて随分離れた場所に来てしまっていた。

 釜山旅行に次ぐ夜の彷徨であった。
 ただ前回と違ってドキドキするような騒然とした雰囲気もなく、実に浪漫的な彷徨だった。

 ソウルの2日目はこうしてあっという間に過ぎ、もう明日は帰国である。

韓国貨幣に会いにいく旅12-南大門市場で座り込む-(河童亜細亜紀行156)

異口同音

 ホテルで疲れを癒し、再び活動を開始した私たち夫婦である。

 タクシーを拾い、南大門市場に向かう。

 運転技師に「南大門に行ってください」というと、「南大門のどこ?」と聞き返された。う、どこって言おう。確かに南大門は広いのだ。
 前回の旅行では地下鉄で南大門市場に行き、そのとき会賢(フェヒョン)という駅で降りたのをとっさに思い出し、その名を告げる。私は3秒前にしたことを忘れるという特技を持っているが、どういうものか一回覚えたものはなかなか忘れない。この駅の名前にはおそらく1回しか触れていないはずなのだが。

 地図アプリ「オネスト(仮名)」ではホテルから南大門市場までは10分程度のはずだったが、渋滞に巻き込まれてしまった。田舎に住んでいる私たちには盆と正月の帰省ラッシュ以外では見たこともないような渋滞である。

 もう会賢の駅が見えているのに車が少しも動かない。途中で降ろしてもらおうと思うのだが、以前の韓国と違ってタクシーの乗り降りができる場所が限定されていて、なかなかそこまで行きつかない。昔(30数年前)だったらタクシーだろうがバスだろうが運転技師の思うがままのところに止まっていた記憶があるのだが。
 数年前と比べても格段に厳しくなっている気がする。あるいは車を使ったテロが世界的に横行しているせいかもしれない。

 世界中だんだん窮屈になっている。

 などと妄想が全世界に広がりそうになったころ、やっとタクシーの乗降場に着いた。

 距離からすると随分タクシー代が高い。もっとも韓国の交通料金は日本よりずっと安いから、10000ウォンを少し超えるくらいだが。

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 やはり何時来ても南大門は凄い人出である。

 妻は頼まれたTシャツを、私は前回買った最高の岩海苔を探してうろつく。
 
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 私はこの20年来南大門市場で一度だけ買った「チョロクミトルキム」という幻の韓国海苔を追い求めて果たせず、いい加減諦めていたのだが、前回やはりこの南大門で「チョロクミ」に匹敵する海苔に初めて出会ったのだ。それがこの「ウニャウニャ海苔」である(やーな奴)。

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 かつて東大門市場であれほど探し求めてやっと見つけた丸唐辛子(チンコチュ)が無造作に売っているのに驚きながら、記憶を辿っていくと、それらしき海苔屋に行きついた。
 
 だがどうも店の主人が別人のような気がする。
 「確かここに『ウニャウニャ海苔』というのがあったと思ったんですが」と尋ねると、御主人は「ああ、それは隣の店だよ」と言う。

 隣に入ると、確かに「ウニャウニャ海苔」が店の中に並んでいる。

 私は前回帰国してから「ウ海苔(面倒くさいので略)」が実に美味いのに気付いて、ネットなどでも随分調べたのだが、何一つ情報がない。韓国語で検索しても同じである。

 仕方がないので現地で買うしかないと思っていたら、幸いにして店を見つけられたのだ。

 次はTシャツである。

 これはなかなか難航した。

 韓国土産を頼む人の中には、昔の、まだ日韓の経済格差が甚だしい時代のままのイメージの人がいる。だから、「何回洗っても首のところが伸びないTシャツを500円で」などという注文が来たりするが、これが5000ウォン前後で手に入ることはまずない。
 なにせ日本では100円ショップである「代走(仮名)」の韓国店での主力商品は多くが3000ウォンなのだ。

 今回の注文主はそれほどではなく、「伸びてもOK」だったようだが、何せそれぐらいの値段のものはデザインが堪らないのだ。 

 だが、どうにか満足できる商品を見つけて買った。20000ウォン(約2000円)。妥当な値段である。

 さて、こうしてどうにか目的を果たしたのだが、その途端に私たちはそれぞれの痛みを思い出してしまった。私は脚、妻は腰である。

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 屋台でホットックを買って広場の階段に座り込む。

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 すかさずお零れを狙って鳩が寄ってくる。

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 散策に疲れた人たちが沢山座り込んでいるからちっとも恥ずかしくない。ここはそういう場所のようだ。

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 飲み物はちょっと冗談っぽいお茶である。

 二人の口から同じ言葉が溜息のように出る。

 「歳取ったねえ…!」

 今回今までになく行動範囲をぐっと狭めた計画にしておいて良かった。

 さあ、ホテルに帰って、また休んで、夕飯を食べに出よう。

 

韓国貨幣に会いにいく旅11-DAISO明洞を登り、下る。-(河童亜細亜紀行155)

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 韓国貨幣金融博物館を出た私たち夫婦は、次は妻のリクエストである「代走明洞本店(仮名)」に向かう。 
 「代走」は言わずと知れた日本の100円均一ショップである。

 この「代走」は昨年オープンしたらしく、韓国在住から帰国した娘が「ソウルに行くなら行ってみると面白いよ」と勧めてくれた場所である。
 なんでも8階建てで、日本でもないような大規模店らしい。

 韓国地図アプリ「オネスト(仮名)」によれば、貨幣博物館からはタクシーで3分くらいのところである。脚と腰の痛い私たち夫婦は少しでも歩きたくないので、この2つの間の移動もタクシーでしようと決めていた。

 ところが、そちらの方向に行くタクシーを停めるは道を2回渡らねばならず、かつ、停められるようなスペースのあるところを探しているうちに相当の距離を歩いてしまった。

 そしてそこに停めてあるタクシーに乗せてもらうつもりで技師さんに「ダイソーミョンドンってどこですか」と韓国語で聞くと、「ダイソー? タイソーか?」と言われるので、「そう、ダイソー」と答えると、「それだったら、真っすぐ行って右に曲がれば駅のところにあるよ。」と言われた。

 え、歩くのかよ。
 乗せてもらうつもりで道を聞いたのに。

 仕方がないので歩き始める。

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 すぐに妻が、「あ、『ミーシャ(仮名)」だ!」と叫ぶと、吸い込まれるように店に入っていった。私のことは一瞥もしなかった。

 仕方がないので隣の店の石段に座って待つこと20分、やっと出てきた。
 「頼まれてたんだよね。」と妻は上機嫌である。

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 さすがは韓国随一の繁華街(この言い方からして実に田舎者だな)明洞、ものすごい人通りだ。

 周りの景色が目まぐるしく変わるのでどうにか気が紛れているが、脚が痛い。
 膝の痛みは一時期ほどではないのだが、今度はそれを庇って不自然な歩き方をしていたために反対側の足首がえらく痛み始めたのだ。

 あちこちの座れそうな突起に座っては休み休み進む。

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 そのうちに不思議な店に行き当たった。

 これはいつもお土産に買っているアーモンド菓子の店のようだ。

 いつものは蜂蜜とバターでコーティングしてあるのだが、ここには山葵、ヨーグルト、唐辛子などでコーティングしたさまざまなバラエティーのものがある。

 これを自分用と職場用と親族用に大量に買う。
 もともとは「代走」で買ったものを入れるはずの2人のリュックがずしりと重くなる。

 さて、8階建てのタワービルか。どれだろう。


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 これか。

 違う。
 これはイベントビルだった。

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 あった! あれだ!

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 タワービルといってもここらあたりはタワービルだらけなので意外に目立たない。でも確かに相当高いビルである。

 妻と二人、胸を躍られせて入る。
 二人とも「代走」は大好きなのだ。

 ここでの作法は娘から教わっている。
 まず、エレベーターで8階まで登り、階段で1階ずつ降りてくるのだ。各階にジャンルの違う商品が所狭しと並んでいる。

 韓国「代走」はなんだか「代走」と「ドンキー・ホテ(仮名)」を合体させたような雰囲気なのだった。
 1階まで降りた私たちの買い物籠は、次々と放り込まれたさまざまなジャンルの商品(私の場合は主に食品)で一杯なのだった。

 これらの商品は買った当初はやや「カワリモノ」という物珍しさがあったのだが、帰国して食品を食べてみたり、日用品を使ってみたりしたら、そのレベルの高さに感心した。
 おそらく韓国の「代走」は日本のそれよりも高級店の位置づけなのかもしれない。

 正直私は日本で出来立ての頃の「代走」の、分針を回そうとすると一緒に時針も回ってしまうような時計や、4.5回掃いただけでボロリと頭が取れてしまうような箒が1箇くらいは見つかるのではないかと変な期待をしていたのだが。

 「アジアンクオリティー」は昔とすっかりその意味合いが変わっているのだった。

 さて、私たちのリュックはすでにアーモンドで一杯。さらに「代走」の買い物袋が2つ。
 どう考えてもこれから予定の南大門には行けない。

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 たまたま入った3階の店で昼食を摂りながら、私たちは一度ホテルに帰ることにした。

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 それにしてもここの冷麺は美味かった。
 食べている途中まで写真を撮ることを忘れてしまうほどに(いつものことだろうが)。

 最近どうも冷麺に飽きてしまって積極的に食べたくなかったのだが、また食べたくなったのはこの店のお陰である。

 だが、いつものように店の名前は教えない(相変わらず嫌な奴だなあ)。

韓国貨幣に会いにいく旅10-貨幣博物館に興奮す。その5:20圜金貨、10圜金貨、5圜金貨、半圜銀貨、20銭銀貨、10銭銀貨、5銭白銅貨、1銭銅貨、半銭銅貨-(河童亜細亜紀行154)

昔からのお友達

 さて、写真を撮らなかった大阪造幣局造の貨幣であるが、これもまた韓国貨幣史上に実在したものだから、一応触れておきたい。

 20圜金貨額面20金貨龍図

 まず20圜金貨。
 量目は日本の新20圓金貨と同じだが、額面は鷲20圜金鍍金銅貨と同じ李花に李槿交叉、裏面は日本の旧金貨と同じ龍図である。


10圜金貨額面10圜金貨龍図

 10圜金貨。
 20圜金貨と同じデザインだが、当然量目はその半分である。


5圜金貨額面5圜金貨龍図

 5圜金貨。
 量目は10圜金貨のさらに半分である。

 これら3種はとんでもない希少貨幣である。
 前述のようにこれらの貨幣は韓国が日本に倣った金本位制の独立的な幣制を確立したかのように見せかけるためのいわば「見せ金」であるから、大量に作る必要はなかったのだ。
 したがってこんなものを貧乏人の私が持っているわけがないから、全部レプリカである。


朝鮮半円銀貨大型額面
朝鮮半円銀貨大型龍図

 ここからは補助貨幣である。
 半圜銀貨。
 金貨と同じく鷲半圜銀貨の鷲を除いて旧銀貨からの使いまわしの龍を嵌め込んだだけである。
 ただし、普通の勤め人が入手できる韓国貨幣の中では最も大型でデザインも美しいため、人気のある貨幣である。


20銭銀貨(大型)額面20銭銀貨(大型)龍図

 20銭銀貨。
 半圜銀貨の縮小版である。

10銭銀貨(大型)額面10銭銀貨(大型)龍図

 10銭銀貨。
 これも同じデザインの縮小版である。

1銭銅貨(大型)額面1銭銅貨(大型)鳳凰図

 1銭銅貨。
 額面は鷲1銭銅貨と同一だが、鷲の替りは鳳凰で、これは全く新しいデザインである。

半銭銅貨(大型)額面半銭銅貨(大型)鳳凰図

 半銭銅貨。
 1銭銅貨の量目を半分にしたもので、韓国ではこれが最も小さな単位の硬貨であった。

 これらの本位貨および補助貨は量目・デザインともに日本のそれにほぼ倣ったものである。

 たとえば金貨は同じ額面の「新金貨」と呼ばれる一群の金貨に、銀貨は半圜が50銭、20銭と10銭は同額面の「龍銀貨」と呼ばれる銀貨に、銅貨は「龍銅貨」と呼ばれる銅貨にそれと対応するものがある(日本の1銭は1898年から稲デザイン)。違いは銅貨に日本にはあった2銭と1厘がないことだが、これは日本で2銭は大きすぎ、1厘は小さすぎて使用に支障をきたすという理由で早期に廃止されたものである。

 また、補助貨幣である銀貨と銅貨には量目が減ぜられたものがある。

半圜銀貨(小型)額面半圜銀貨(小型)龍図

 これらはそれぞれ半圜、

20銭銀貨(大型)額面20銭銀貨(大型)龍図

 20銭銀貨、

10銭銀貨(小型)額面10銭銀貨(小型)龍図

 10銭銀貨の各銀貨と、

1銭銅貨(小型)額面1銭銅貨(小型)鳳凰図

 1銭銅貨、

半銭銅貨(小型)額面半銭銅貨(小型)鳳凰図

 半銭銅貨の各銅貨に存在する。

 これは製造元である日本で50銭、20銭、10銭の各銀貨と1銭、半銭の各銅貨が量目を減らされた(銀貨は1906年、銅貨は1916年)からで、「旭日銀貨」と呼ばれる銀貨群と「桐銅貨」と呼ばれる銅貨群に完全に対応している。

 つまり、この時期の韓国の硬貨は日本の硬貨と違う意匠を纏っているものの、実際には韓国幣制が日本幣制の下に完全に統合されたことを示しているのだ。

 悲劇の韓国近代貨幣史である。

  そのとき、私のポケットがチャラっと鳴った。私は小銭を財布に入れずにそこに入れる習慣があるのだ。

 私は不意にある事実に思い至って思わず微笑んでしまった。

朝鮮五銭白銅貨額面朝鮮五銭白銅貨

 既に明らかにしたように、これらの貨幣と同時期に発行された5銭白銅貨は、光武改革時期の「本位貨」ともいうべきであった2銭5分白銅貨と交換するためのものであり、1905年、1907年、1909年の3年間、184,000,000枚発行された。20枚で1圜だから金額にすると92,000,00圜である。2銭5分白銅貨の官鋳・私鋳全てを合わせた製造額が最大限に見積もった研究でも23,000,000圜であるから、両者の全てが交換されたとしても流通すべき白銅貨は大幅に足りなかったはずである。

稲5銭白銅貨額面稲5銭白銅貨旭日図

 これに対応する日本貨幣は稲5銭白銅貨だが、この貨幣は1906年を最後に発行が停止されている。この稲5銭の1905年の発行枚数は2,000,000枚。金額にすると1,000,000圓である。
 韓国の5銭白銅貨の発行数がいか多かったか分かると思う。

 日本向け白銅貨が発行されなくなってからも韓国向け白銅貨は大量発行され続けていたのだ。


大型5銭白銅貨額面大型5銭白銅貨裏面

 日本で次に白銅貨の発行が復活したのは1917年のことであった。

 それから100年、現在の日本では50円が有孔の白銅貨、100円が無孔の白銅貨である。

 私はポケットに手を突っ込んでそこにあった小銭を取り出して掌の上に載せて見た。
   そこには、消費税用の10ウォン銅貨以外の日用遣いの硬貨が並んでいた。何枚かあった3種類の硬貨、50ウォン、100ウォン、500ウォンの全てがあの2銭5分白銅貨と同じ無孔の白銅貨なのである。

 あれから100年、金も銀も、他の素材もふんだんにある、豊かな韓国での話である。

 「韓国人は白銅貨がお好き」なのであった。






韓国貨幣に会いにいく旅9-貨幣博物館に興奮す。その4:鷲半圜銀貨、鷲5銭白銅貨、鷲1銭青銅貨、鷲20圜金鍍金銅貨-(河童亜細亜紀行153)

それでもいつかきっと

 韓国貨幣人生初見参は続く。

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 鷲半圜銀貨。
 仁川から龍山に移動した典圜局で露西亜の影響力のもとで作られた一連の貨幣のうち最も額面の高い流通貨である。銀本位制から金本位制への世界の趨勢により、1圓額面の銀貨は試作でも製造されていない。

 既に書いたが、おそらく相当の古銭マニアでも、この鷲図が日本人の手で彫られたと知っている人は少ないだろう。かくいう私もてっきり露西亜技師の手で彫られたものだと思っていた。
 10圜鍍試鋳銅貨とこの半圜銀貨の種印は田中重太郎が、その他は蒔田一太郎が彫刻したと記録されている(甲賀宜政「朝鮮貨幣及び典圜局の沿革」)。

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 鷲5銭白銅貨。
 大量流通していた2銭5分白銅貨は当初この貨幣と交換される予定だったらしい。が、実際の交換は裏が鳳凰で額面は同じデザインの5銭白銅貨でなされた。
 この交換が不公正に行われて韓国市場が日本市場に従属する契機となった話は既にした。

誘惑の韓国貨幣14-韓国歴史教科書に現れた二銭五分白銅貨-(河童亜細亜紀行144)


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 鷲1銭青銅貨。
 鷲貨幣の流通貨は半圜、5銭、1銭の3種である。だが、日露戦争の開戦と同時に大阪に移送されて鋳潰されているから、実態は未発行貨である。したがって極めて希少であり、モノがない。「日本貨幣カタログ」や「韓国貨幣価格図録」ではン百万円級だが、実際にはもっと高価かもしれない。とにかくモノがないので、値段の付きようがないのだ。

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 20圜金鍍金銅試鋳貨。
 将来の金本位制を睨んでの試鋳だったのだろう。この個体は既に鍍金が剥がれて銅地金が見えてしまっている。
 「韓国貨幣価格図録」の画像はおそらくこの個体である。
 金鍍金銅試鋳貨は20圜のほかに10圜と5圜が製造されているが、10圜は同書でも写真ではなく設計図版である。おそらくどこかの博物館か大金持ちの邸宅の金庫にはあるのだろう。あるいは実物を撮影できない何らかの事情があるのかもしれない。
 5圜は製造記録だけで未だ現物が発見されていない。あるとすると日本にある可能性が高い。「世界に1枚」というものは売り買いするわけにもいかないから、発見して韓国人にプレゼントしてあげたい気がする(金もないのにどうやって手に入れるんだ)。そうすればここに展示されるに違いない。
 いつか10圜と5圜がこの20圜の隣に並んでほしいものだ。

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 こうして韓国近代貨幣の黎明期の実物を見ていると、紆余曲折を経ながらも次第に近代幣制が整う条件が揃いつつあったことを感じる。

 だがその芽は日本の2度にわたる対東亜戦争(「大東亜戦争」の誤植ではない。「日清戦争」と「東学農民戦争」である。)と日露戦争によって摘み取られ、枯れてしまった。

 清国と露西亜の韓国における影響力は排除され、国の独立が宣言されたが、その実態はとうてい独立といえるようなものではなかった。
  「遅れた韓国を進んだ日本が近代化してやる」という口実の下、さまざまな分野で日本に有利な形の従属化、自主権の剥奪が進んだ。

 幣制においては、近代貨幣製造の本拠地であり実験場でもあった典圜局は永久に廃止が宣言され、地金・機械・未発行となった貨幣は日本に移送され、せっかく育ちつつあった韓国人造幣技術者たちは解雇されてしまったのである。

 「何かがおかしい」と思いつつも「これは隣国の支援なんだ」と思い込もうとしていた韓国人たちはこの後に起こったことがどれほど悔しかっただろう。

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 貨幣についても、ここから先の展示は私があまり見たくないものだ。見ていると胸が痛くなる。

 金玉均をはじめとした有名無名の、そして決して少数ではない、一度は信頼を寄せてくれた隣国の友人を日本人が裏切った証だからだ。

 それは大阪の造幣局で製造された日本製の貨幣である。

 これらの貨幣は、デザインこそ李花や焼き直しの龍図、鳳凰など、「韓国らしさ」を装っているものの、実際には日本の幣制に飲み込まれてしまった韓国の幣制があたかも独立しているかのように粉飾するために製造されたものだ。

 この極めて偽善的な韓国貨幣は1910年の日韓併合と共に廃貨となり、正真正銘の日本貨幣に置き換えられる。
 
 私はコレクションとしてはこれを持っているものの、博物館で見てわざわざ写真を撮りたいとは思わなかった。したがってこれらの貨幣の写真はない。(金貨は別。これは極めて希少な貨幣で一度実物を見たいと思っていた。古銭蒐集家とはことほど左様に身勝手なのである。)

 そこで、ここから先は次回として、私のコレクションの写真を使用しながら記述したい(次回閲覧数激減するだろうな)。

韓国貨幣に会いにいく旅8-貨幣博物館に興奮す。その3:太極徽章1圜銀貨、5文銅貨、李花1圜銀貨、5両銀貨、1両銀貨、2銭5分白銅貨、5分青銅貨、1分黄銅貨-(河童亜細亜紀行152)

眼はランラン

 興味のない展示にひたすら耐えている相棒を置き去りにして、古銭巡りは続く。 

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 巴1圜銀貨(太極徽章1圜銀貨)。
 これまた実物は人生初である。しかも2枚。
 この貨幣は後述の李花1圜銀貨より多く作られているはずなのだが、とにかくモノがない。もしかするとこの後に作られた銀貨のために鋳潰されてしまったのかもしれない。
 本位貨幣に相応しい堂々たる風格である。

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 巴銀貨と共に10文銅貨、5文銅貨が製造されたのだが、この博物館には後者しかない。もしかするとあったのに写真を撮りそこなったのかもしれないが。
 同一デザインの試鋳貨の10文があるからいいか、というところかもしれないが、そこまで高価なものではないから(日本の普通のサラリーマンでも韓国古銭かマニアならば財布の紐を緩める程度)、是非揃えていただきたいものだ。

 以上3種の貨幣は漢城典圜局で製造されたものである。

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 ここからは仁川典圜局製造である。

 李花1圜銀貨。
 これも本物に出会うのは人生初。公式記録では総製造数77枚の超希少貨だが、市場では巴に比べれば結構よく見る。ということは、大量の偽物が出回っているということだ。
 古銭商に言わせれば状態のいいものはほとんどない、ということだが、流通していないのだから現存するものはどれも未使用品のはずなのだが。どういう経緯で摩滅するほど流通したものが現存しているのか。謎の貨幣である。
 この本位貨幣が流通貨としては「5両」の重量表示で製造された事情については既に書いた。

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 その5両銀貨。

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 これは結構モノがあって何度か実物を見たことがあるが、状態の良いものでも何となく彫りが浅くて一国の本位貨幣としては製造技術が今一つという感じがするのは日本の1圓の手本になった香港1ドル(写真上紂王、じゃなかった、中央)と同じである。
 「こういうもの」ということか。彫刻師は雙龍図が益田友雄、李槿図が江上源次郎である(甲賀宜政「朝鮮貨幣及び典圜局の沿革」)。

 仁川典圜局で製造されたものはどこか彫りが浅いから、私は「やっぱり大陸の人が作ったものは日本人のものに比べてユルいな」と勝手に思い込んでいたのだが、ちゃんと調べてみると実は日本人が彫ったものだったのだ。先入観の怖さである。

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 同じく仁川典圜局で製造された1両銀貨。
 1圜や5両の素晴らしい雙龍図を偲ぼうと思ったらこれだが、どうも最近状態に比べて値段が高い。これは修正品に対する見方が厳しくなってきたからかもれしない。なにせこの大きさのコインはペンダントトップに最適なのだ。そのための孔が開いていないものを探す方が難しいかもしれない。

 ここで五分青銅貨の写真を撮りそこなっていることに気付いた。

5分青銅貨額面5分青銅貨龍図

 仕方がないので私のコレクションをご覧ください。真贋は保証しません。といいつつ自慢。

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 1分黄銅貨。
 これは「日本貨幣カタログ」でも「韓国貨幣価格図録」でも大した値段ではないのだが、実際の市場ではモノがちっともない。しかも「たかが黄銅貨が何でこんなに高いんだ」というくらい高い。変な偽物はよく出回っているが(私も1枚蔵)。偽物があるくらいだから実は記録と違って実態は希少なのかもしれない。

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 そして私の恋人、2銭5分白銅貨ちゃんである。
 韓国の高校歴史教科書にまで載っている割に、この博物館の記述はそっけない。
 この小さなコインにまつわるストーリーこそ日韓両国の子供たちに教えたいものなのだが(完全な偏向教育だろ)。

韓国貨幣に会いにいく旅7-貨幣博物館に興奮す。その2:20圜金鍍金錫貨、1圓銀鍍金錫貨、5両銀鍍金錫貨、2両銀鍍金錫貨、1両銀鍍金錫貨、10文銅試鋳貨、2文銅試鋳貨-(河童亜細亜紀行151)

スラブケースに想う

 韓国最初の近代的貨幣大東銭の本物を目にして大興奮の私である。

 実は私は日本のとある古銭屋で大東銭を見たことがあるのだが、それがあまりにシャープな印象だったために、逆に真贋を疑っていた。
 というのは、大東銭は外見上は近代的貨幣なのだが、その製造法は前時代のものなのだ。
 つまり、近代的コインというのは延伸した金属板を打ち抜いて作った円形金属板に図柄を打刻して作る打製なのだが、大東銭は融解した金属を鋳型に流し込んで作る鋳造なのである。

 しかし、大東銭に限らず私が長い古銭収集歴(嘘。年齢はそれなりだがノボせては冷めの繰り返しなので実質3年くらい)で悟ったことがある。
 本物は美しい。偽物は醜い。

 これは貨幣というものが流通を目的としている以上、ある意味当然なのである。
 美しくないものは流通しない。美しいものだからこそ人々の手から手へと遷されていき、やがて摩滅して醜くなり、その使命を終える。

 だから偽物を作る人々は、摩滅して醜くなった本物を真似る。
 そうしないと本物の美しさと比べられてすぐにその醜さを見抜かれてしまうからだ。

 ただし、例外がある。
 それは試鋳貨や未発行貨・不発行貨である。
 これらの中には抜群に美しいものであるにも関わらず、何らかの理由で市中に出回らなかった不運な貨幣もある。また、「何じゃあ、こりゃーあ!」というデザインのものもある。
 しかし、何せ造幣関係の人以外はその本物を見たことがない。したがってその貨幣がそもそもどんなものだったのか、名作だったのか駄作だったのか、一般人には知る由もない。

 だからなおのこと当時の政府に近いところから転がり出てきた本物を見ておく必要がある。

 大東銭の次に並べられていた銭貨たちはそういう意味で貴重なものであった。

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 まず20圜金鍍金錫試鋳貨。
 錫に金メッキをした試鋳貨は20圜のほかに10圜、5圜、2圜、1圜があるのだが、この博物館にあるのはこの1枚である。「韓国貨幣価格図録」に掲載されている個体はおそらくこれだ。実物を見るのは人生初である。

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 1圜銀鍍金錫試鋳貨。これは流通貨の巴1圓銀貨に繋がっていく。

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 5両銀鍍金錫試鋳貨。実際に発行された5両銀貨がこの倍の重量があり、1圜銀貨と同じ重量と規格だったことを考えると、当初は「両」が重量ではなく貨幣単位として考えられていたことが分かる。つまり1圜=10両である。しかし実際には1圜=5両という、重量による実質価値によって発行されることになった。
 この、貨幣の秤量的な部分(金属の重量による価値に交換価値が依存する近代以前の貨幣の性質)と計数的な部分(一定の品位量目により交換価値が保証される近代の貨幣の性質)の混同が韓国の貨幣制度を終始混乱させていくことになる。
 ただし、この点は幕末の日本が列強に見事に付け込まれ、幕府が倒れる遠因となった部分でもある。

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 二両銀鍍金錫試鋳貨。
 コインの上の部分に孔が開いているのは、おそらくペンダントトップとして使われていたからである。韓国のコインにはなぜかこれが多い。

朝鮮1両銀貨額面

 私が所蔵している1両銀貨は図柄等の摩滅が比較的少ないにも関わらずこの種の古銭としては私の懐の許せる範囲(ただし独身で自由に金が使えた時代だが)で入手できたのだが、それはこのコイン下部のリボンの結び目の文様の下に(やたら「の」が続くな)やはりはっきりそれとわかる孔が開いていて、それを修正した後があるからである。

 韓国貨幣を資産として収集したい人は、この点には十分気を付けられたし。

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 1両銀鍍金錫試鋳貨。
 明らかにどこかのオークションで買い戻したのだろう。オークション会社などが品質(古銭の場合は本物)を保証するスラブケースに入っているからだ。
 
 列強による強奪、植民地支配による収奪、戦争による混乱により実に多くの貴重な文化財、ひいては古銭が韓国から失われたに違いない。
 それをどうにかして自分たちの手に取り戻そうとする努力が分かって涙が出そうになった。
 韓国の文化財が韓国に戻るよう、我が日本にも協力の余地があると思う。
 ただし、犯罪者が非合法的に日本から盗んだものを「もともとウリナラ(わが国)のものだから」というのは止めていただきたい。国際法を守らない国は世界から信用されない。

 それと、これは老婆心だが、最近はスラブケースを開けて偽物をブッ込む手口が横行しているらしいから、各国の貨幣博物館関係者は用心せられたし。

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 10文銅試鋳貨と2文銅試鋳貨。
 10文は流通貨と同じデザインだがやや彫りが浅いか。
 2文は初めて見た。おそらく流通していたら1週間で摩滅して銭文が見えなくなりそうであるが、実に繊細な素晴らしい出来である。

 それにしてもいずれも博物館級(だから博物館だって)、見応えのある展示である。

 相棒のことを忘れ去っていることに気付いた。あ、いた。「世界のコイン」の中の「日本」を見ている。あと30分ほどはどうにか持たせねば。もう少しこの眼福に浸っていたい。

韓国貨幣に会いにいく旅6-貨幣博物館に興奮す。その1:大東銭、常平通宝打製当五銭試鋳貨-(河童亜細亜紀行150)

カメラガッパ

 私は以前中国は上海の貨幣博物館に行ったことがあるのだが、素晴らしく充実した展示物に酔いしれているうちにアッという間に予定の時間になってしまったのだった。

 したがって今回の旅行を企画した時、ソウルの貨幣博物館も同じくらいの規模の巨大な施設を想像して期待に胸を膨らませていた。

 ところが前日、空港からホテルに送ってもらうバスの中で係員のAさんと雑談していて、「今回の旅行ではどこに行きたいですか」と言われて「貨幣博物館」とまず日本語で言うとAさんが「は?」という顔になった。
 古銭に興味がある人など日本人と韓国人とに限らずそういるものではないのだ。
 そこで韓国語で「ファペクミュンパンムルグァン(貨幣金融博物館)」と言い直すと、Aさんは「あーあ、あの、韓国銀行の隣の…」と言って、「韓国語がお上手ですね」と言った。
 私が顔を真っ赤にして手を横に振っていると、Aさんは「でも、あれは結構小規模で、ワンホールに全部入ってしまうくらいだから、たいしたものはないかもしれませんよ。」といった。
 今回の旅行の目的地である明洞や南大門は妻の希望であって、私の希望の場所は貨幣博物館のみなので、この言葉には相当がっかりさせられた。

 だから翌日タクシーの運転技師に目的地を告げるとき、「貨幣博物館」では通じないと思ったので、「韓国銀行」と言った。

 ところがどうも私はᄂ(ニウン:アルファベットのnに似た音)の後にᄒ(ヒウッ:hに似た音)が続いたときのリエゾンが上手く発音できていないらしい。この一連の音が入った単語が韓国語ネイティブには分かってもらえない。

 前回の旅行で「電話(전화)」を「チョナ」と言って通じなかった話は既にした。

 韓国語の「銀行(은행)」は私には「ウネン」と聞こえるのだが、私が「ウネン」と言ってもやはりこのたまたま道端で止めたタクシーの運転手さんには「は?『ウネン?』何だって?」と分かってもらえなかった。仕方がないので、「韓国(ハングク)」「銀行(ウネン)」と切り離して発音してもそれでも通じない。「韓国、何だって?」と早くもキレ気味である。今度は「銀(ウン)」「行(ヘン)」と切り離して発音すると、「ウネンか?」と聞き返し、納得してもらえない。だから「ウネン」だって。私には自分の発音と技師さんの発音の違いが分からない。こちらも少しキレ気味になって「韓国銀行、明洞」と少し早口気味にいうと、「もう、仕方ねえなあ、違うところに連れて行っても知らねえぞ」という顔でやっと乗せてくれた。ちらっと妻を見ると不安が思い切り表情に出ている。

 シートに座ってから「貨幣博物館」と韓国語でいうと、「ああ、何だ、貨幣博物館か!」と、技師さんはやっと納得して走り出した。何だ、貨幣博物館はそれほどマイナーな場所ではないらしい。

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 ホテルから貨幣博物館までのルートは地図アプリの「オネスト(仮名)」では4分ほどになっていたのだが、実際に乗ってみると結構遠回りで(ボラれたわけではなく一定方向にしか曲がれない道が結構あるのだ)10分ほどかかり、いい加減私も不安になったころ、「あれだろ?」と言われて見ると、いかにも博物館らしい建物が行く手にある。

 私は自分の意志がちゃんと通じていたことでちょっとした達成感を覚えたのだが、技師さんもそうだったらしく、急に上機嫌になって日本語で「ありがとう」と言って去っていった。

 館内に入ってみると仁川で行った「ジャジャン麺博物館」でもそうだったように、教師に引率された小学生の一団が来ており、先生の熱弁に耳を傾けている。例によって「イルボヌン(日本は)」「イルボンサラムドルン(日本人たちは)」という言葉が1分間に1度くらい登場する。我が祖国日本についての、日本人の大部分がまず知らない日韓交流史への詳細な説明らしい。

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 紙幣の擦り方だとか、

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 偽札の見破り方だとか、小学生の社会学習にとっては重要な展示を気もそぞろに通り抜け、目的の場所に急ぐ。

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 中国戦国時代の燕国の刀貨「明刀」。
 燕は古代の韓国と密接な関係にあったらしい。
 だが、今日の目的はこれではない。

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 英国で製造された香港の銀貨。一番上の1ドルは日本の1圓銀貨の手本になったものだ。私の持っているものと同じく、やや彫りが浅い。やはりこれが特徴のようだ。
 だが、今日の目的はこれでもない。先を急ごう。

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 私の足が完全に止まった。
 大東三銭。
 本当に色が付いていたのか定かではない伝説の赤側五銖を除けば、世界最初のカラーコインである。この個体は残念ながら「戸部」の七宝が剥離しているが。

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 大東二銭。
 やった。これは七宝が残っている完全体である。この七宝があるかないかでポップさが全然違う。この独創性。コリアンデザインここにあり、である。

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 大東一銭。
 やはり今市場に出回っている大東銭はレプリカが多いのだと判る。本物は鋳造であるにも関わらずシャープである。もしかすると一旦鋳抜いた後で彫刻しているのかもしれない。

 本物が見られてよかった。
 これが大東銭、韓国で初の近代的貨幣なのだ。

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 大東銭は清国から輸入された馬蹄銀で製造され、それが尽きると製造中止されたと言われている。
 その多くは退蔵され、流通しなかった。

 私はいつの間にか夢中になって展示物を撮影していた。
 それまではウインドウから離れて、わいわい言いながら見ている小学生の後ろから遠慮気味に撮影していたのだが、ウインドウにへばりつき、カメラのレンズをウインドウに密着させ、できうる限り接写した。
 小学生が、私から離れて遠巻きにしてひそひそ話しているような気がした。

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 常平通宝当五銭試鋳貨である。
 韓国初の近代的打製貨だが、あまり魅力を感じないのはデザインが旧時代のものだからだろう。

 私は係員のAさんの言葉を思い出した。
 「たいしたものはないかもしれませんよ。」
 とんでもない。「大したもの」ばかりである。

 それにしても、韓国の近代貨幣がこのまますくすくと育っていたら。そう夢想してしまう。

 だが、大東銭はその後嗣を残さなかったし、常平通宝は鋳造に戻ってしまった。

 大東銭が発行された高宗19年(1882)、壬午軍乱が勃発して開化派政府とともに日本大使館が襲われ、日本人十数人が犠牲になった。この事件の賠償金が韓国政府に重くのしかかったことは既に述べた。

 悲劇の日韓近代史が始まりつつあった。

韓国貨幣に会いにいく旅5-緑豆のチヂミに全琫準を想う-(河童亜細亜紀行149)

ポッサムしたポッサムは美味い

  偶然か意図的か分からない好意あるいは幸運によって貴重な時間を与えてもらって予定よりずっと早くホテルに着いた私たち夫婦である。
  早速夕食を摂る店の探索も兼ねて周辺の街を散策する。
  係員さんはこの辺りの名物はアグチム(鮟鱇の辛味噌和え)だと言っていたので、最初はその店に入るつもりだったのだが、美味そうな店は満席だし、客の少ない店はどうもカップルで入るには躊躇われるような客筋(早い話が常連らしい酔っ払いの中年男しかいない)である。
  モタモタしているうちに、韓国に三年住んでいた婿殿が「韓国の海鮮はやたらと辛い味付けが多い」と言っていたのを思い出した。
  私の口腔や舌はカプサイシン軍に対して何時でも来いの鉄壁なのだが、私の胃腸はあっという間に敗走を始める最弱軍なのだ。
  まだ初日の夜である。これからずっとトイレを探して彷徨う旅にはしたくない。
  別のものを食べることにした。
  またしばらくウロウロするが、妻の腰が痛いのを思い出し、結局ホテルの近くの食堂に入ることになった。

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  メニューを見てみると前々回の旅行で没収されて食べ損なったポッサム(蒸し豚)がある。これをチマサンチュ(かきチシャ)でポッサムして(包んで)、セウジョッ(蝦の付けダレ)で食べると抜群に美味いのは既に経験済みである。
  後は何種類かチヂミ(煎:ジョンの古語)があるが、どれにしようか。「緑豆のチヂミ」という文字を見た瞬間、私は韓国のある民謡を思い出した。

[原文]
 새야 새야 파랑새야  セヤ セヤ パランセヤ  

 녹두 밭에 앉지마라  ノクト パッテ アンジマラ 

 녹두 꽃이 떨어지면  ノクト コッチ トロジミョン   

 청포 장수 울고간다  チョンボ チャンス ウルゴカンダ

ルリビタキ

(写真はWikipedia)

[日本誤訳]

  ヒタキよ、ヒタキ、ルリビタキ

  緑豆の枝にとまるなよ

  小さな花がはらはら散ると

  思い出すのはあのお方


  あまり崩し過ぎると激怒して抗議してくる人がいそうなのでちゃんとした訳も掲げておく。実はこの民謡には「韓国の北原白秋」ともいうべき詩人金素雲(キム・ソウン)の名訳があるのだ。


  鳥よ 鳥よ 青い鳥よ

  緑豆(ノクト)の畑に 下り立つな

  緑豆の花が ホロホロ散れば

  青餔(チョンボ)売りの婆さん 泣いて行く


  この民謡は全琫準(チョン・ボンジュン)を悼んだものだと言われている。全琫準は身体が小さかったので「緑豆将軍」という渾名だったのだ。

  全琫準は最近は日本の教科書にも出て来るらしいから知っている人も多いと思うが、甲午農民戦争の指導者である。私が高校の時分には東学党の乱として教わった。韓国では最近は東学農民戦争、または東学農民革命と呼ばれているようだ。


  甲午農民戦争は日本の韓国に対する介入がもはやどう取り繕っても支援と呼べないレベルまで侵略化した時に起こった農民蜂起である。


  私にはこの蜂起の全貌を把握して説明する能力は到底ないので、詳しく知りたい人は京都大学レポジトリにこれに関する文献がたくさんあるので是非読んでほしい。

  また、この蜂起の鎮圧は実に惨たらしいものだから、「遅れた韓国、近代化してやった日本」という歴史観を持っている人には「近代化してやった」というのはこういうことも含むのだということを知っても欲しいが、これまたブログの趣旨に合わないことだから、私はそれについても記述しない。


  私が話したいのは、全琫準に井上馨が惚れ込んでしまったという逸話についてだ。


  井上馨は若い頃は井上聞多といい、明治維新の元勲の1人だが、当時は駐韓大使をしていた。当然のことながら反乱を鎮圧する側の立場である。その井上が、全琫準の言葉に共感して韓国政府に助命したのだという。


  この情報はやたらと日本のネットに溢れているが原典と思われる文書はない。

 しかも酷いのになると農民軍への日本軍の凄惨な鎮圧には全く触れずに「井上は全琫準の助命をしたのに韓国政府がこれを処刑した」と、あたかも韓国政府に最大の非があるかのように記述したものまである。そもそも鎮圧に際して徹底的な殲滅作戦を教唆したのは井上その人である。

 もっとも、韓国側の記述にも、「全琫準は日本軍に捕まり、翌年処刑された」と、処刑した主語を敢えて省いてあたかも彼が日本軍に処刑されたかのように読者に誤解させることを意識した文章がある。

 どちらも歴史に対する不誠実な態度というほかない。

 ただ、井上馨が全琫準に共感したという話は、さもありなん、という話ではある。


 明治の日本人が郷土の偉人宮崎八郎のような民権派でさえほとんど強迫的に持っていた「韓国を中国への防壁に、中国を露西亜への防壁に」という観念から、韓国に関わった多くの日本人はこの国の自律的な近代化を「待てない」と考えていたと思われ、最初から侵略的に接する人が多かったようだ。

 しかし、その一方で、ほかならぬ自分たちに反抗している韓国人の首魁の人格に惚れ込んでしまう日本人も多く出現した。
 
 たとえば伊藤博文を射殺した安重根が収監されていた旅順監獄の看守千葉十七は、彼と対話を重ねるにつれ私淑し、帰国してからも生涯彼への供養を欠かさず、千葉の墓の横には「為国献身軍人本分(現代誤訳:国のために献身するのは軍人の本分である)」という揮毫碑が建っている。


 どうも彼らの中には「男が惚れる漢」が少なからずいたようだ。漢文を共通の基盤とした当時の東亜の知識人同士では特にそうなりやすかったと思われる。井上が「緑豆将軍」の人となりに共感を覚えても不思議ではない。

 考えてみれば地政学的な位置も含めた運や列強の思惑によってたまたま先に日本が近代化したまでの話であって、もし彼我の立場が逆であったら多くの日本人が義兵や農民軍となって戦っただろう。

 人間は神ではないから未来のことなど分からない。自分が今置かれている客観的な位置だとて、誰が分かろうか。それは過去のことでさえ話がまとまらないことでも分かる。ただひたすら目の前の難題を乗り越えるために闘うのみだ。

仙台通宝 (2)

 古銭はそれを教えてくれる。江戸時代のグローバルでない幣制、幕末の雑多な地方貨、維新政府の作った劣悪な偽造貨。日本が植民地になっても何の不思議もなかったのだ。
 上写真は地方貨の一種で「銭でさえ 角のある奴 はじかれる」と肥後国で謳われた仙台通宝一文銭である。幕府の勅許を得て東北地方で作られてたちまち全国を席捲したこのみすぼらしい鉄銭を見れば、幕末日本の置かれた立場が朝鮮王朝末期の韓国とさほど違わなかったことがよくわかるだろう。

 だから私は、「亜細亜で唯一植民地にならなかった」という言葉を、これから東亜の人々と手を携えて生きてゆく日本の若者に口にして欲しくない。それは他民族を防壁にしてなされたことだからである。

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 緑豆のチヂミが出てきたとき、私は妻に「昼間話していた(実は私は空港に向かう車の中で上に書いたような話をぐっと噛み砕いて妻に話していたのだ)『東学党の乱』の指導者の全琫準は背が低かったから『緑豆』とあだ名されていたんだよ。」と言った。
 妻は「ふーん。」と興味なさげに言い、チヂミを口にして、眉を顰めた。妻は美味しいものを食べるとき自然にニコニコ顔になるから、お気に召さなかったようだ。

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 考えてみれば私は今まで何回も緑豆のムック(寄せ物)を食べている。今回の旅でも付け合わせとして出てきていた(ちょうど写真中央付近)。金素雲の訳詩はこれについてのものだから、そのときに全琫準のことを思い出すべきだったのだが、私の脳裏にはこれっぽっちも彼の面影が浮かんだことはない。

 緑豆のチヂミは正直最初は喉を通りにくかったが、我慢して食べていると緑豆の「豆臭さ」がだんだん好ましく思えてきて、私は全部食べてしまった。

 一度我が家の猫の肉球ほどの畑に緑豆を植えてチヂミとムックを作ってみよう。 

韓国貨幣に会いにいく旅4-脱免税店の旅-(河童亜細亜紀行148)

未来志向のツアー

 私はツアーで行く免税店が決して嫌いではない。

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 ただし、それは特定の店にしかない商品(たとえば私が天才だと思っているY.S.Wがデザインしたバッグ)や、帰途に買い忘れた物を入手するために寄ってほしい場所である。

 長い手荷物検査と入国審査と税関の検査と預けた荷物がベルトコンベアーに出てくるのを待つ時間の果てにやっとゲートから出て、「やっと韓国に着いた。さあ、遊ぶぞお!」という時に行ってほしい場所ではない。

免税店難民

 少々大袈裟で不謹慎だと言われるかもしれないが、免税店で買うものがなくて休憩室の少ないスペースの座席に座り、予定された時間が過ぎるのをただひたすら待っている人々の疲れ果てた表情は、どこか国を失った人々に似ている。

  確かに日韓の経済力に差があって韓国で買い物をすると「わあ、安っすー!」という時代には免税店で物を買いまくるというのは旅行客の大きな目的だったと思うのだが、今韓国を訪れる日本人は何か別の目的を持っている人が多い。ショッピングが目的の人も、地元のスーパーや市場で「そこにしかないもの」を発見して買うのが楽しみなのだ。免税店の品物がそれらの店で買えるものなら、それは「単に高い商品」に過ぎない。大体の品物は市場やスーパーで見つけて、「あ、これ、こんなに安いんだ」と、凄く損をした気分になる商品である。特に「LCCの格安ツアーで来る」という時点で客の懐具合は想像できようというものだ。

  上でも買いたように、免税店にしかない、というものは別である。例えば釜山でY.S.Wを買おうとすれば「ヨッテ(仮名)」の免税店に行くしかない。最近Y.S.Wのケバいパッチもんを別の免税店で見つけてガッカリしたが。まあこれは別の話である。

 今回私たち夫婦はとある旅行社の企画するフリーツアーに応募したものの、送迎は依頼しなかった。このツアーはそもそも「送迎なし」であって、送迎を頼む場合には決して安くない別料金が掛かったのだ。取り敢えず私の乏しい韓国語力でもホテルに十分辿り着けるくらいに現在の韓国の(外国人に対する)バリアフリーは進んでいるのである(障碍のある人に対するものはまだまだだと思うが)。

 空港から高速鉄道に乗り、地下鉄に乗り、そこからタクシーに乗れば(もしくは歩けば)、片言の韓国語と片言の英語を頭脳をフル回転させて操ればどうにか目的地に着ける時代が到来したのである。これには韓国旅行アプリ「オネスト(仮名)」の力が与って大きかった。

 ところが、妻が旅行の直前になって腰を痛めてしまった。

 ソウルは東京に匹敵する大都会である。
 都会というところは車で移動しない限りとんでもない距離を歩かなければならない。これはすっかりDoor to doorの車生活に慣れてしまった私たち田舎者にはえらく堪える。
 たとえば同じ駅の中でも出口と出口の間の距離が1km、その間は徒歩、などということも普通にあるのだ(ちょっと大げさかな。でも500mは確実である)。

 しかもこの移動は水平方向だけでなく、垂直方向にも伸びている。そのうえそれは主に階段で行われる。特に地下鉄から地上に出る場合、エスカレーターは小さい駅では1基、大きいところでも大抵は2基である。目的地に開いた出口には階段しかない、ということも当然あり得る。

 エレベーターも当然あるのだが、それは日本のように「ユニバーサル」ではなく、「障碍者専用」である。
 こうはっきりと書かれていると、私たち夫婦のように膝や腰を痛めていて不自然な歩き方をしていても取り敢えず車椅子や杖が必要ないくらいの人間は実に乗りにくい。だいいち、「あんたら旅行に出てこれてるやん」という目で見られる。長時間の歩行で本当は膝から崩れ落ちそうになっていても、よほど勇気がなければ滅多に利用者のないエレベーターには乗れない。

 今までの旅行で地下鉄を含む鉄道で移動するたびにこうした事情を目の当たりにしていた私は、旅行の前日になって旅行社の方に無理を言ってバスによる空港までの送迎を付けてもらったのだ。

 事前に貰った旅程表では飛行機は16時過ぎには仁川空港に着くのだが、ホテル着は21時近く。
 いくら入国審査や手荷物検査など空港通過に時間がかかったとしてもせいぜい1時間、バスでホテルまでの移動時間は1時間半くらいだから、残りの時間は免税店に寄る時間である。

  「時間がもったいないなあ」と思いつつ、背に腹は代えられない。「免税店に着いたら脱出して地下街巡りだな」と、私たち夫婦はもはや何も語らずとも同じ決心をしていた。

  ところが空港で待っていたとても親切で面白い係員のAさんがバスの乗客に「今から免税店に向かいます」と宣言した時、運転手さんがAさんに何か言った。協議すること30秒程度、「免税店は明日寄ります。今日はこのままホテルに向かいます。」と再度宣言があった。
  何という幸運。無駄に費やされると思われていた時間が戻ってきたのだ。

  しかも、翌日は別の係員さんだったのだが、この人も免税店に寄らなかった。これが申し送りの不足による偶然なのか、意図されたものなのかはわからない。しかし、私たちはバスで送迎してもらった上に直行直帰だったのだ。

  お陰で時間をとても有効に使うことができた。いつもならホテルに着く頃には疲労困憊の上腹ペコで不機嫌になり、もうその日は近くの24時間営業のチェーン店で夜食を済ませるところを、充分に余裕を持って飲食店を選び、「夕食」を食べられたのだ。

  帰りもいつもなら空港に着いたら手続きを考えたら昼飯も喰えずに軽食で済ませるところを(喰ってるじゃねーかよ)、ちゃんとした韓国料理の昼食を食べることが出来たのだった。

  「時間を有効にって、飯食ってばっかりじゃないか」と言うなかれ。韓国に来て美味いものを喰わなければ旅の楽しさ半分である。

  旅行社の皆さんには是非「脱免税店」の旅をお願いしたいものだ。

韓国貨幣に会いにいく旅3-空の旅はいつも羽の上-(河童亜細亜紀行147)

景色のいい飛行機

 前回飛行機に対する不満を書いたので今回は空の旅のいいところについて書く。

 空の旅の一番いいところは地上にいたら絶対に見られない風景を見られることだ。

 機上から地上を眺めると、我が日本国の美しさに見惚れてしまう。

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 木々の緑と海の青を背景に、マッチ箱のような小さな家、海上に軌跡を作る船、 どれも夢のように美しい。

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 夕方のフライトで黄金色に輝く有明海の干潟もまた現か夢かという景色である。

 しばらく海だけが見え、次に韓国の陸地が見えてくる。

 韓国もまた美しい国だ。

 35年くらい前、初めて韓国の国土を見たとき、くすんで寂しい国に見えた。しかしこれは私の先入観で、その日は冬の一日だったので、広葉樹の多い韓国の森林は落葉して赤茶けていたのだ。

 その後いろいろな季節に渡韓するようになって、また日本とは違った美しさを持った国だということが分かった。

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 龍のようにくねる川が降り注ぐ太陽に輝くさまはまさに「朝の鮮やかな国」である。

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 仁川空港に降りるときに降り注ぐ夕陽が遠浅の海に輝くさまは有明の美しい光景に優るとも劣らない。

 これらの写真はいろいろな時に機上から撮られたものだが、いずれの写真にも共通して写っているものがあるのにお気づきだろうか。
 そう、飛行機の翼とそれに装着されたエンジンである。

 今回はまさにどストライクであった。

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 空港の景色を撮ろうが、

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 雲を撮ろうが、

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 空を撮ろうが、必ず翼が写っている。

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 必死になって身体をひねっても写るエンジンの尻尾。

 どういう訳か私たち夫婦が飛行機に乗ると、ほぼ100%翼の上の席に案内されてしまうのだ。

 「空港に早めに行かないからだよ」と思った貴方。
 貧乏人の、じゃなかった、貧乏性の私たちは2時間前には空港に行っている。
 だが、手続きするときに「どこになさいますか?」と言われて機内図を見ると、もう翼の近所の座席しか残っていない。「窓側になさいますか、通路側になさいますか」って言われてもなー。窓側って言っても眼下の景色は見えないし。別に通路側でも大して変わらないだろ。

 「席順まで手配してくれるツアーを頼めばいいだろ」と思った貴方。
 私たちは何度かそうしたが、何も言わなければ問答無用で翼の近所の席だった。一度だけ「翼の近所でない席をお願いします」と頼んだことがあったが、「…すみません、もう翼の近所しかないんです…」と言われてしまった。

 私が搭乗するのは東亜を行き来する飛行機だから、そこに住む人々に問いたい。

 「東亜ではそれほどまでに翼の近所の席は忌避されているのか」と。
 到目前为止,在東亜,避免了机翼附近的座位.
 동아는 그토록 날개 근처 좌석은 기피되어 있는지.
 到目前為止,在東亞,避免了機翼附近的座位.
 (各言語の翻訳の順番は各地の人口順ですのでご理解ください。)

 金持ち(LCC利用だから小金持ちだろうが)から順に翼から遠い席を取っていき、貧乏人の私たちにはもうそれしか残っていないとしか思えないのだ。

 「座席の沙汰も金次第」なのか、単なる偶然なのか、あるいは別の基準があるのか、知っている人は是非教えてください。
 

韓国貨幣に会いにいく旅2-ああ、またも没収-(河童亜細亜紀行146)

没収された品々を偲ぶ

 私は生得的な性質で忘れ物が多い。
 
 ということは(何がということかよく分からないが) 、空港の手荷物検査や税関で没収される物が多いということだ。

 今までに、釣り道具、千枚通し、目薬、知らずに買ってきた肉製品などを没収されている。

 釣り道具・千枚通し・目薬はテロに使われる恐れがあるからだという。 
 千枚通しはまだ分かるが、釣り道具や目薬はどうやってテロに使うのだろうと思うのだが、実際にこれらを使ったテロが計画されたことがあるのだそうだ。

 肉製品は口蹄疫の流行地からのものは防疫の関係上輸入禁止なのだそうだ。

 肉以外は空港に預けていれば帰ってきたときに返してくれるらしいが、大した値段でないのと面倒なのとで建前上は私が所有を放棄した、ということになる。

税関で没収

 しかし、いつも、「えーっ? これも駄目なの?」という嫌な後味がある。まるで一方通行の出口で待っている警察に捕まったような気分だ。違反を防止するのだったら入り口で待っていればいいのに。

 それにしても勿体ないので最近はずいぶん気を付けているので、前回の渡韓では没収ゼロであった。

 今回もスーツケースの中から手荷物まで随分気を付けてチェックしたので、手荷物検査も税関も気持ちよく通れるだろうと思っていた。

 手荷物のリュックとカメラバッグとポケットの小銭・財布・名刺入れ・携帯電話などを備え付けの籠の中に入れ、身体検査に進む。

 中国語の「慢慢的(マンマンデー)」という看板の指示に従ってその場でゆっくりと回る。
 ちなみに私はこの戦前によく使われた中国語に今回初めて触れた。
 大陸で日本人と中国人が暮らしていた時代、性急な性格の日本人が中国人を急かすと彼らが口にしたのがこの言葉だったらしく、日本人が最もよく知っている中国語の一つだったようだ。
 この言葉はそのままの発音で韓国語としても残っており、만만디(マンマンディ)という。
 日本人も「いらち」だが韓国人も相当の「いらち」なので、この言葉は両国の人々に是非記銘しておいてほしい言葉である。

 閑話休題(てにもつけんさにもどって)。

 身体検査も無事だったと思って通り過ぎようとすると、係官がやってきてリュックを開けてくれという。開けると、新品の歯磨き粉が出てきた。旅支度の中にないのに気づいてついさっきホームセンターで買ったものだ。

 パックも開けていない歯磨き粉が駄目なのだという。容量が100ml以上ある液体(どうみても個体だが)は機内に持ち込めないのだそうだ。過去目薬も同じ理由で没収になっているから今回は相当気を付けていたのだが、まさかこれも「液体」の一種だとは。

 「100ml以下だったらいいんだったら、開けて半分ぐらい出したら駄目ですか。」
と尋ねたら鼻で笑われてしまった。引っかかる容量は中身でなく容器の大きさによるのだという。
 後で調べてみたら100ml以下だとそれが爆弾に化けても威力が大したことがないというのが理由だそうだから、容器の大きさで決まるというのは本来の趣旨を外れている。
 私はちょっとムッとして抗議しようかと思ったのだが、歯磨き粉は一番安い奴を買ったので135円。この金額で逆らって逮捕されても馬鹿馬鹿しい。
 「蜂起、じゃなかった、放棄します。」と言って通過した。

 私は外国といえばほぼ韓国にしか行かないが、空港の手荷物検査は日韓両国で年々厳しくなっていて、そのせいか時間が物凄くかかる。海峡を越えるのは1時間くらいで済むのに、その前後の時間が2時間くらいあるから、飛行機であることの利便性はほとんど失われている。

 もし日韓トンネルか何かがあって車で海峡を越えられるのだったら、日韓間の飛行便は壊滅するだろう。
 同じ出入国でも、車や列車(日韓間にはこのルートはないが)などがこれほど厳しい検査を経ているとは思えない。それをやったらEUの経済などは完全に停滞してしまうだろう。
 要は飛行機の場合「あの国」に飛んでいけるからという理由で厳しいのではないか。やたらと厳しくなったのも「あの国」で飛行機によるテロが起こってからだし。

 あまり要らないことを言って〇IAの協力者に眼を付けられても敵わないのでこれくらいにするが、この不快さには慣れそうもない(だったら飛行機に乗るなよ)。

韓国貨幣に会いにいく旅1-旅のお供は世界最小Dマウントレンズ-(河童亜細亜紀行145)

好きやすの飽きやす

 なぜ韓国に行くのか。

 その答えは人によって千差万別だろう。

 両国の経済的格差があったころは「安く行ける外国」という動機で行く人が多かった。
 最近の若者には「K-POPのアイドルを追いかけて」という動機の人が多いらしい。あるいは「韓国コスメを買いに」という人も相当数存在する。

 私は、といえば、その時々で動機が変わっている。
 前回は「仏に逢いに行く旅」であった。

 今回はといえば、「貨幣に会いに行く旅」といえるだろう。
 これは最近の私に古銭蒐集熱が再発しているからである。

 「レンズ熱はどうなったんだ」という人もいると思う。
 私は全国に100人程度いると推測されるDマウントレンズ(映画撮影用の小さなレンズ)の蒐集家として有名である(大嘘)。
 こちらは僅かに遣える金が古銭の方に行ってしまったので休止中である。

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 「紀伊国屋門左衛門13mm(仮名)」を普通の勤め人の昼飯1回分くらいの値段で買って以来新しいレンズは入手していない。
 これはもう半年くらい前の話になるから、私のレンズ熱は一時寛解と言っていいだろう。またいつ再発するか分からないが。

 ただ、旅行に行くときは折角だから一緒に連れて行って撮影することにしている。
 しかし、以前はどれだけ重くても少しも苦にならなかったのだが(そもそも小さいレンズが好きという理由の一旦は「軽いから」なのだが)、熱が冷めた今はレンズの重さが肩に食いこむ。したがってzuikoする、じゃなかった、随行するレンズはできるだけ小型軽量がいい。

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 まず標準レンズである13mmは「メリケンサック1inch(仮名)」を除けば世界最小Dマウントの呼び声の高い「ブルムベアー君」こと「日光る13mm(仮名)」。

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 このレンズは買ったときは油まみれ埃まみれだったのだが、私の持っているDマウント13mmの中では「紀伊国屋」に次いで映りがいい。

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 望遠である38mmはこれこのクラスでは最も小型軽量の「ヨハンシュトラウス38mm(仮名)」。

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 ときどきレンズ内に混入したゴミが映り込むのが難だが、絞りに気を遣えば防げる。それよりこのクラスはずっしり重いものが多いので、この軽さは貴重である。

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 広角である6.5mmは「讃! 6.5mm(仮名)」このレンズの選定も以下同文である。

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 少しだけケラレ(画像の四周が丸く黒くなること)があるので画像処理が必須だが、遠近感を強調したいときに有効なレンズである。

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 夜景撮影用に「スーパーぐるぐる君Ⅲ」こと「不治? Non! 9.7-26mm改Ⅲ(仮名)」。

釜山愛の夜景2

 なぜか釜山でしか成功したことがないのだが、「愛の夜景」が撮影できる唯一のレンズである。このレンズは私が設計して前玉と後玉を組み合わせて作成した「世界に一つだけのレンズ」でもある。

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 野鳥撮影用の超望遠はアルミ製の超軽量ロシアレンズ「木星11号(仮名)」。

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 可愛らしい燕の雛もこのとおり。今回も韓国の野鳥撮影に実力を発揮してくれるに違いない。

 これらのレンズを愛機「ペンテコステオバQ(仮名)」とともに小さな肩掛けバッグに入れ、さあ、韓国ソウルに出発である。

誘惑の韓国貨幣14-韓国歴史教科書に現れた二銭五分白銅貨-(河童亜細亜紀行144)

韓国人と日本人古銭マニアしか知らない歴史

 韓国高等学校の歴史教科書には何と二銭五分白銅貨についての記述があり、写真も掲載されている。

 まず本文には以下の記述がある。

 露日戦争後に大韓帝国の財政を掌握した日本は徴税の仕組みを大きく改編し、各種税金をいっそう増やして取り立てた。また、皇室を弱めて国庫を増やすために皇室財政を国有化した。
 日本は大韓帝国の金融市場を掌握するために貨幣発行権を奪い、日本の第一銀行券を本位貨幣として新しい補助貨幣を発行した。そして国内の商人が主に使っていた白銅貨の価値を切り下げ、新貨幣に交換した。これにより日帝は財政と金融市場を完全に掌握し、植民支配のために必要な資金を現地で調達することができた。 


  次にコラム記事には次のような記述が。

[歴史の窓 貨幣整理事業]
 日帝は日本人財政顧問目賀田種太郎を先頭に、大韓帝国の金融市場を掌握しようと貨幣整理事業を断行した。当時わが国の商人が最も多く使っていた白銅貨を三等級に分けて交換した。乙種は半分の価格で交換、最も金額が多かった丙種は交換に応じなかった。これによって商人は深刻な貨幣不足に苦しめられ、結局日本金融市場に完全に隷属してしまった。

 2つの記述とも嘘ではないと思うが、目賀田種太郎の貨幣整理事業当時二銭五分白銅貨が国家の統制の下に製造されておらず、かつ官鋳も濫造と言っていいレベルで増鋳されていて、それが経済の混乱を招いていたことには一言も触れていない。

 私はこの間図書館で借りてきた韓国の高校歴史教科書を二銭五分白銅貨以外の記述もひと通り読んでみたのだが、白銅貨濫造のように韓国人にも責任があるようなことは記述そのものがなく、主に日本人にその責があるようなことは「高校生にここまでの知識が必要なのか」というくらいに詳しく記述してある。これはいわゆる「春秋の筆法」というものなのだろう。

 また、白銅貨の回収についての記事には明らかな事実誤認がある。

2銭5分白銅貨07額面2銭5分白銅貨07龍図

 ここでいう甲種は「普通市場において故障なく流通せるもの」である。上写真のようなものだろう。

2銭5分白銅貨04額面2銭5分白銅貨04龍図

 乙種は交換を忌避されるようなもので、上写真はあるいは甲種の最低、もしくは乙種だったかもしれない。
 丙種は極印のないものなど、もはや粗悪な円形地金と化したものである。これは殆ど貨幣の体を為していないので、私の手元にはない。

 白銅貨の製造量は官鋳・特鋳・黙鋳・私鋳・密輸入を含めて最も多く見積もっても23,000,000圜(「朝鮮貨幣及び典圜局の沿革」)であり、少ない研究だと大体20,000,000圜内外である。
 そして回収量は約20,000,000圜(「亡国の白銅貨二銭五分」)だから、回収されなかった丙種(つまり粗悪な私鋳品)が「最も金額が多かった」というのはおかしい。最大限に見積もっても丙種は3,000,000圜であり、残りは甲種・乙種だったということになる。
 実際交換された二銭五分のうち99%が甲種であり、乙種は1%だったのである。つまり、約19,800,000圜が甲種として交換されたわけで、これは二銭五分の製造量の86%に当たる。もちろんこれが「最も金額が多かった」のである。

 なぜこのような誤認が起こったかといえば、今流行の「チコちゃん」風にいえば、「執筆者が古銭マニアじゃないからー!」ということだろう。

 これはおそらく文献中の官鋳銭が甲種、その摩耗の酷いものまたは特鋳が乙種、それ以外の民鋳銭を丙種に同定しているのだ。そうするとたとえば姜徳相(カン・ドクサン)の昭和42年の研究から導き出される各種白銅貨の数は甲種が3,000,000圜弱、乙種は100,000圜程度、丙種が17,000,000圜ということになり、圧倒的に丙種が多いことになってしまう。

 だが、実に576種あるとされる現存する二銭五分白銅貨のどれが正貨(官鋳銭)か、未だ同定されていない、というのは古銭マニアの間では常識なのである。
 端的にいえば、「綺麗な出来だから官鋳銭とは限らない」ということである。渋沢栄一の「韓国財政整理報告」には「典圜局といえども民間より円形を買い入れこれに同局において極印を打記せるもの無数の趣なればその亜鉛含有するもの多かるべきはもちろんなり」とある。

2銭5分白銅貨01額面2銭5分白銅貨01龍図

 たとえばまだ小学生だった私が40数年前に初めて手に入れたこのとても美しい「宋朝体」の二銭五分は少なくとも典圜局の極印でストライクされたものではないらしい。
 だが、交換された時は間違いなく甲種として扱われただろう。

2銭5分白銅貨06額面2銭5分白銅貨06龍図


 逆に官鋳銭でも上写真のように流通するうちに素材の悪さが露呈して乙種になってしまったものもあったに違いない。

朝鮮五銭白銅貨額面朝鮮五銭白銅貨


 既に光武9年には新しい五銭白銅貨が発行されていた。この貨幣が大阪の造幣局で製造されたことは既に述べた。

   貨幣整理に当たってはこれまでの日本1圓=韓国旧1圜=銀5両=100銭が、日本1圓=韓国新2圜=銀10両=100銭とされた。これは白銅貨インフレで変化した圓圜比率を実勢に合わせたということであろう。
 ということは、額面からいえば五銭白銅貨1枚に対して二銭五分白銅貨1枚で交換されるはずである。しかし市場ではその信用度によって交換されるから、比較的二銭五分の信用の高いソウルでもその4割、信用の低い平壌では実に1/3の価値で交換されていた。つまりソウルでは五銭白銅貨2枚に対して二銭五分5枚、平壌では五銭白銅貨1枚に対して二銭五分3枚で交換されていたということだ。

 これを市場価値よりずっと有利な比率、二銭五分白銅貨2枚で五銭1枚に交換しようというのだから、この制度そのものは決して二銭五分を所有していた人々にとって不当なものではない。

 「遅れた韓国、近代化してやった日本」という歴史観を持った人の中には「それ見たことか」と思う人もいるかもしれない。

 しかし、私は思う。日韓の不幸な近代史の中で滓のように溜まってきた恨の原因は、正史に彫刻刀で端整に刻まれた公正な「制度」ではない。それは、踏みつけられた側の心に爪で掻きむしって刻まれる不公正な「運用」なのだと。

 白銅貨の交換者のうち日本人は53%、韓国人と中国人を合わせて46%、欧米人が1%(「亡国の白銅貨」)。
 これは事前の情報提供が日本人に対するものに偏っていたことを推測させるに十分な数字である。交換は韓国の貨幣について韓国で行われたのだ。地元の人より外国人の方が交換者が多いという数字はどう考えても不自然である。

  そしてここで圓に対する圜の切り下げが効いてくる。この交換によって、当時の韓国の本位貨ともいうべき白銅貨の流通量は半減し、韓国市場に「銭慌」ともいうべき事態が招来されたのである。銭慌とは中国の宋代に起こったことのある極端な流通貨不足である。何せ当時の韓国は建前上は金本位制を採用していたが、実際に流通していたのは白銅貨と銅貨(葉銭)だけだったのだ。

  では不足分は何で充当されたか。それは日本製の貨幣で為されたのである。

 したがって、もし東亜で共通の教科書が編纂されるとしたら(そんなことは夢物語だが)、冒頭の韓国歴史教科書の記述は次のようなものになるだろう。

[河童国歴史教科書]
2銭5分白銅貨07額面修正朝鮮五銭白銅貨額面

 日本は韓国の貨幣近代化支援を放擲し、自国に有利な形で貨幣整理事業を断行した。当時韓国の商人が最も多く使っていた二銭五分白銅貨(写真左)を品質により三等級に分けて新白銅貨(写真右)と交換した。甲種は旧貨対新貨で2:1、乙種は4:1で交換、極端に品質の劣る丙種は交換に応じなかった。この交換は旧貨を多く所有している商人には有利なものだったが、交換に関する情報が韓国の商人には十分伝えられなかったため、彼らは大きな不利益を被った。さらに流通貨の不足が起こり、これは韓国金融市場が日本に支配される契機となった。

北海すすきの男一人旅6-北海道再雑感-(河童日本紀行600)

やはり九州は暑い

 さて、久しぶりに訪れた北海道の雑感である。

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 最初に驚いたこと。地下鉄の窓が開いている。
 地下鉄に乗ったのは初めてだった。窓を開けて風を入れれば冷房を使用する必要がないのだ。さすがは涼しい北海道。九州だったら「何ばしよっとか!」という怒号が飛び交うだろう。

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  北海道の中の広島。しかも隣は「のっぽろ」である。一瞬誤字かと思った。

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 学会場の近くに食堂がなくて結局この駅まで後戻りして食べたのだが、美味かった。写真は「ザンギ定食」である。どう考えても鶏の唐揚げなのだが。なぜ「ザンギ」というのか。
 どうも中国語の「炸鶏(ザーキー)」から来ているらしい。

 「注文通します! 3番テーブルさん、ザーキーイーガァー!」
 「はい、ザーキーお待たせ。」
 「兄ちゃん、これ、違うで。儂の頼んだん骨なしの唐揚げや。」
 「すんまへん。大将、ザーキーやのうてエンザーキーでした。」
 「阿呆! お前この時間の給料なしや!」

 関西中華的感覚からいえばこれは「軟炸鶏(エンザーキー)定食」である。

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 中島公園の烏。
 いいようにゴミを散らかしていた。これだから嫌われるのだ。写真なんか撮らずになぜ追い払ってゴミを片付けないんだ、と思った人もいるかもしれない。

烏に襲われる

 しかし、札幌の烏は凶暴なのだ。うかつに手を出すと漆原教授に似ている私は再び襲撃されてしまうかもしれない。

漆原教授に似た男(Sea豚動物記42)



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 夕食に食べたジンギスカンである。

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 最近は羊肉といってもラム肉中心になっているらしい。羊肉らしいあの臭みが少しもない。物足りないので懐かしい匂いのする伝統的なマトン肉を頼んで食べた。ところが鼻がバカになっているためにこれまた少しも臭くない。
 私がまだ子供の頃は両親ともかつて過ごした大陸を懐かしんでいたのかよくマトンを食べたものだが。熊本地震で散乱した家具を片付けていたら真っ赤に錆びたジンギスカン鍋が出てきたくらいだ。あれはなかなか臭かったが。もっともそれよりも肉の旨味の方に注意が行ってしまって気にならなかった。それくらい獣肉は貴重な食べ物だった。

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 人と待ち合わせの時に入った「昭和の居酒屋」。
 北海道の地場の飲み屋かと思ったら熊本にもあるそうだ。これまた懐かしい味のつまみである。

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 昔はたくさん狸がいたのだろうか。

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 キャラクターの「メカタヌキ」である(名前は嘘)。

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 道端に人が座っているのかと思って「どきーっ」とした。丸まった背中が何とも侘しい。

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 サンタクロースって本当にいたらどう見ても泥棒だな。

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 しかもこのサンタの場合共犯は小人さんである。
 今から子供のところに行くんじゃなくて収穫を背負ってずらかるところだったりして。

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 九州で今咲いているはずのない花が咲いている。
 日本は広い。

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 ラッセル車だったっけ。線路の雪かきを目的にした車輛である。

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 雨の空港♪ デッキに佇み♪ 手を振る貴方♪ 見えなくなるわ♪
 雨の日のフライトは人生初であるような気がする。

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 雨の日でも雲の上は晴れている。当たり前なのだがやはり不思議だ。

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 帰ってきたぞ、九州。

 搭乗口を通過した瞬間、ムッとする熱気が。ああ、涼しい北海道が懐かしい。

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 あ、ラーメン喰いそこなった。

北海すすきの男一人旅5-時計台に「がっかり」す-(河童日本紀行599)

がっかり名所にまたがっかり

  観光地として有名な場所には「がっかり名所」というのがある。

 最も有名なのは土佐の高知のはりまや橋である。

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 橋の袂にお馬と純真のオブジェを作ってみても、橋そのもののチャチさか覆いようもない。というか、江戸時代の橋であるからやむを得ない気もするが。

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 地元の人も意識しているらしく、このような看板のレプリカを見たことがある。

2010.8.18北海道 062

 これに匹敵するのが札幌の時計台である。

 石原裕次郎の名曲「恋の街札幌」で一躍有名になり、札幌を訪れる観光客が一度は訪れるが、やはり想像との落差にかなりのショックを感じる場所である。

 10年ほど前に学会で訪れたとき、「え、これ?」と思った。

 だから今回の北海道行でも特に訪問の予定はなかった。
 ところが、私が今回泊まったホテルは繁華街のすすきのには近いのだが、それ以外の場所からは遠いのだ。
 何せ学会が目的だから訪れる時間は開会前の早朝か終了後の夕刻しかない。痛む足を引きずってのことだからかなりの近距離でないと行って帰るのは無理である。

 私のお気に入りの「北帝大(仮名)」も今回は断念した。

 地図アプリで検索してみると、一番近い中島公園は既に散策しているから、辛うじて往復できそうなのは市庁舎と時計台くらいである。

 私は市庁舎と時計台に行くことにした。

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 途中客引きらしき若者同士の喧嘩に遭遇したりしながらしばらく歩くと市庁舎である。
 足が痛くないときの私ならば20分くらいで到着するはずなのだが、今は30分以上かかる。もうホテルに帰らないと学会の冒頭の講演に間に合わなくなってしまう。


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 市庁舎は私好みの赤レンガの建物なのだが、ゆっくり見る時間もない。

 早々に時計台に向かう。以前訪れたときは夜だったから、日光の下で見るのは初めてである。

 ここで私はまたも時計台に落胆させられることになった。
 「分かる分かる」という人もいれば、「期待しすぎなんだよ」という人もいるかもしれない。
 しかし、今回の私の「がっかり」は前回の「がっかり」とはかなり意味合いが違う。

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 しばらく歩くとそれらしき建物が見えてきた。

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 って、絵じゃねーか。

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 なんと、時計台は外装の改装工事中なのであった。痛む足を引きずってきた甲斐が全くない。

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 まあ、普段だったら気にも留めなかったであろう時計台の歴史も知ることができたのでよしとしよう。外装からしていろいろと変遷しているようなのだ。

 ある意味期待以上に「がっかり」させてくれた時計台であった。

北海すすきの男一人旅4-豊平館で任侠の人に出会う-(河童日本紀行598)

日本沈没

 中島公園には小洒落た洋館が建っている。

 北海の土建王大岡助右衛門が受注して建てた豊平館である。 


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 明治13年(1880)に日本最古級の西洋式ホテルとして建築され、以来明治・大正・昭和の三代の天皇が宿泊するなど、長らく宿泊施設として利用されていた。
 その間国の史蹟として指定されたり米軍に接収されたりと、日本の歴史そのままの沿革を辿ってきた。1957年に保存のため中島公園内に移設され、その後は結婚式場として利用されていた。

 驚いたことにこの建物は現役の結婚式場として使われているのだという。熊本でいえばジェーンズ邸で結婚式をするようなものだ。
 広告も見てみたが結婚式・披露宴(パーティー)併せてもなかなかリーズナブルである。


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 格好いい建物だなあ、と思ってみていると、ゾロゾロと人が集まってきた。私より最低でも10は年上であることが推測される団体である。やや女性の方が数の多い男女混成部隊だ。

 一人の女性が手にラジカセだかラジCD(そんな言葉があるかどうか知らないが)を持っている。
 あ、あれだ、と思っているうちに、音楽が始まった。

 最初はストレッチ。
 私はそれが何か分かってから半月板損傷で痛む足を引きずりながらその場から逃れようとした。

 しかし、悪魔の音楽が始まってしまった。
 私たち1960年代世代はこの音楽が始まるともう逃れられない。身体が自分の意志に反してでも勝手に動いてしまう。

 「ラジオ体操第一、よーい!」
 タンタン♪、タ♪、じゃなかった、タンタカターン♪タンタカターン♪タタタタタタターン♪タンタカターン♪タンタカターン♪タタタタタッタラララン♪

 いきなり膝の悪い男には禁忌のその場飛びが始まったが、こうなったら止まらない。下が土の部分に入って少しでも衝撃を和らげようとするが、やはり痛い。

 やっと終わった。

 さあ、と思ったら、

 「ラジオ体操第二、よーい!」

 駄目だ。このままこの場を離れたら万引きか何かのとても悪いことをして逃亡したような気分になってしまう。

 最近車の中で聞いている韓国語学習のCDの一節が蘇る。
 「ラジオ体操がこんなにキツイとは…」韓国語は何だっけ。駄目だ。日本語だけ覚えている。
 このCDはもう何百回も聞いているはずだが、日本語のフレーズしか覚えない。馬鹿馬鹿しい話だ。

 やっと終わった。
 軽く散歩するはずが、すっかり足が痛くなってしまった。都会を公共交通で旅するととにかく歩かなければいけないので、昨日からの歩行で右膝が曲がりにくくなった気がする。たぶん水が溜まっているのだ。

 10時からはここから1kmくらい離れたところでワークショップである。ちゃんと歩いて行けるのだろうか。

 閑話休題(せっかくほうへいかんのまえなんだから)。

 この建物の建築を請け負った大岡助右衛門は、当時の札幌の多くの建物を建てた土建王である。前回「四翁碑」で紹介した。

 剛毅な性格で(最近人物評でこういう言葉を使ったことがないな)、義侠心に富み(同左)、部下を愛し(同左)、公共の事業に私財を費やすことも珍しくなかった(逆の奴はたくさんいるが)。
 情に厚く、箱館戦争で幕府方の遺体が各地に埋葬されず放置されると新政府の禁令もお構いなく遺体を埋葬したのだとか。元々が江戸っ子、というのもあったのかもしれない。

 しかしその後人生は幸福とはいえず、長男を豊平橋の工事の際に事故で失い、字が読めなかったために部下に裏切られて経営する会社は倒産の憂き目に遭ったのだという。

 博打が大好きで、そのために百叩きの刑を受けたことがあるともいうから、カジノ建設を進めたい人たちは一度この人の墓にでも参ったらどうだろうか。同じ札幌の経王寺というところにあるそうである。

 とうとう「正直」や「公正」が禁句になったこの国に住んでいると、子供の頃は大岡のような人がいたなあ、と懐かしく思い出されるばかりである。

 おっと、そのうち「剛毅」とか「義侠心」とかも禁句になるかもしれないな。そのときはブログを検索してヤバい語句は消そう。

北海すすきの男一人旅3-中島公園で多能の人に出会う-(河童日本紀行597)

多芸多才

 さて、翌日はワークショップであるが、10時開始ということなので、いつもの学会出張に倣って早朝散歩を敢行する。
 なぜ「敢行」なのかといえば、膝の半月板の損傷が発覚して治療中だからである。ちょっと無理をするとすぐ関節に液が溜まる。
 以前なら楽しい行為であった歩くことが、いまや半分以上苦行なのだ。
 障害を持つというのはこういうことなのだろう。

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 この公園には散策コースが設けられている。


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 池の鴨を冷やかしながら歩いているとき、急に気付いた。
 まったく暑くない。ヒヤッとするくらいである。さすが北海道。九州に帰る時が辛いかもしれない。

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 大きな石碑が建てられている。 
 「四翁表功之碑」。直訳すれば「4人のおじいさんの功績を称える碑」である。何のことなのか。

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 横に副碑があるのでこれを読んでみる。

[原文]
 今茲開道五十年記念博覧会見催西札幌区長南部源蔵機勒水原寅蔵大岡助右衛門石川正叟対馬嘉三郎等功績於具珉以伝示不朽阿部宇之八阿由

 あ、途中からずっと人名である。文章らしきものはその最初の文だけだ。人名を除いて現代誤訳してみよう。

[現代誤訳]
 今ここに開道50年記念博覧会を開催した不朽の功績を伝え示す。

 これでは博覧会を開催したという以外に何もわからない。

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 裏に回ってみると、碑文があった。短いが、これはちゃんとした文章である。

[碑文]
 明治維新 勅礽北疆乃枹地於札幌数千百政庁其創始際率先尽力以水原寅蔵大岡助右衛門石川正叟対馬嘉三郎為白眉而功労偕偉即為之銘々曰

 〇山浚峙 豊川清淪 兢秀千古 渡芳万春

 大正七年八月

[現代誤訳]
 明治維新において天子様から北辺のコナラ茂る土地をいただき、道都札幌を創始した時、率先して尽力した水原寅蔵・大岡助右衛門・右川正叟・対馬嘉三郎らは白眉の功労があったため、ここに彼らの功績を刻むものである。

 〇山は険しく聳え、豊川は清冽である。永久に俊秀を競い、春爛漫に香る。

 「兢」を字義どおり「つつしむ、おそれる」と解釈するとどうも意味が通じないので「競」の誤字と見て訳してみた。

 副碑、碑文の両方を見てもどうも話が読めないので、「開道50年記念博覧会」をキーワードに調べてみた。

 「開道五十年記念北海道博覧会は、1918年(大正7年)8月1日から9月19日まで開かれた地方博覧会。(中略) 東京、大阪以外の地方博覧会としては、かつて見られなかった大規模なものといわれるが、それだけに博覧会景気も空前の好景気となった。観覧者総数は142万3661人に達し」た。(Wikipediaによる)

 なるほど。情報や交通の発達しなかった当時としては大規模なイベントである。
 この博覧会の際にこれまで北海道開拓に功績のあった人々を「四翁」として選出し、記念碑を立てたのがこの石碑らしい。
 以下、主にWikipediaの記述を中心に4名の功績を纏めてみたい。

 水原寅蔵(すいばらとらぞう)は大岡助右衛門とともに取り組んだ数々の土建事業で名を馳せた人物である。また、北海道の林檎栽培に取り組んだ最初期の人物であり、中島公園一帯の土地に林檎を植えて果樹園とし、当時は「水原林檎」として有名だったそうだ。

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 今では大きな池のあるこの公園一帯が当時は林檎園だったというのがにわかには信じられない気がする。

 大岡助右衛門(おおおかすけえもん)は「(札幌の)大工事のほとんどが大岡の落札に帰す」と言われるほどの土建王である。彼が手がけた工事の代表的なものには、豊平館、琴似・山鼻・篠路の屯田兵屋、札幌農学校寄宿舎、創成学校、藻岩学校、羅卒屯所(警察署)、豊平橋、小樽入船町波止場や、幌内鉄道の敷設工事などがある。
 
 石川正叟(いしかわせいそう:本名正蔵)は渡道当初は金融業を営んだものの後に運輸業に転じ、宿泊業、保険業をも営み、さらに出版業も始めた実業家で、「札幌新聞」の創業者である。国立国会図書館に「僻地校における学力 」と著作を残している。

 対馬嘉三郎(つしまかさぶろう)は役人として北海道に赴任し、実業に転じた後は酒造業を経営[。また元開拓使官吏・堀基らと共に札幌の商社の嚆矢である「大有社」を創設し、米穀雑貨輸入販売、海産物輸入業を営んだ。電灯会社を創設して札幌に初めて電灯が灯した人でもある。初の札幌市長(当時は区長)に選出されている。

 この4人のうち、石川正蔵という人の生涯が私には興味深いので、『北海開發事蹟』という本の中の「開拓功勞者 故石川正叟」という項からその事績を紹介したい。なお、原文はホーム「今日も日暮里富士見坂」というHPに載っているのでそちらを参照していただくとして、ここではその現代誤訳を示す。

[現代誤訳]
 石川正蔵は文久9年5月江戸で生まれた。石川長左衞門の次男である。初め江戸に住んで刀剣商を営み、後東京為替店に入り、同店の開拓使御用達札幌支配人となって、明治5年札幌に来た。しばらくして東京為替店が廃止されてしまったので、札幌で独力で為替店を開き、專ら開拓使の資金調達を請け負った。9年開拓使が御用を廃されたが正蔵それ以前に民間への融資を図っていた。次いで13年三井銀行札幌出張所の開設と共に、為替店を完全に閉店した。これより以前に明治9年独力で馬車会社を興し、馬匹30頭を常に置いて乗車および荷馬車20台を備え、札幌-函館間の旅客または貨物の運搬を行い、13年札幌-小樽間鉄道開通と同時に馬車会社を廃業した。この年さらに札幌停車場前に運送店を設けて札幌駅の出入貨物取扱をを請負ったが、20年本業を東清九郎という者に譲渡した。6月創成社を設けてその社長となり、毎週水曜日発行の札幌新聞という新聞を発刊した。その他石狩に鮭漁業を経営し、あるいは魚菜会社、あるいは魚鳥会社、煙草会社、晩成社、白熖社等を組織して、実業家のために資金融通の便宜を与え、また役所に請願して土地の払い下げを受けて区(現在の市)の基本財產および学田地を興し、あるいは定山渓温泉の通路を修繕し、あるいはビリヤード場を設け、政法会または読書会を設け、あるいは私立消防組織を興してその組頭となり、あるは駅逓取扱人となり、札幌におけるあらゆる事業計画の開祖先達となり、かつ後進有為の者に資本を投下して自ら指導し、その事業を成功させた。選ばれて区の伍長となり、区の惣代人となり、学務委員となり、多年にわたり札幌区の発展に尽力した。当時正蔵をあだ名して「無名の区長(現在の市長)」と呼んだ。正蔵もまた自ら無名の区長として任じていた。明治21年7月病没した。齢63、性格は極めて清廉にで大らかでよく人を愛した。」

 なんとまあ、いくつ仕事があるのだろう。

 刀剣商、為替店、馬車会社、運送店、新聞社、鮭漁業、魚菜会社、魚鳥会社(これがわからない)、新聞社、白熖社(ガス会社あるいは電灯会社か)を営んでいるがどれも大して長続きしていない。札幌最初の新聞社も寿命はわずか25号だったようだ(「北海道の新聞ことはじめ」)。
 随分と事業に手を出しているが、性格は「極めて清廉」とあるから金儲けが好きというよりも、事業を興して軌道に乗せるのが好きだったのだろうか。

 さらに取り組んだ事業としては、区の土地確保、温泉のアクセス改善、ビリヤード場の設立、政法会(何かの政治団体か)や読書会の設立、消防組織の設立、郵便事業。
 そして政治家としては区の伍長から惣代人、学務委員、そして区長。

 性格のところにも「人を愛した」とあるが、これは人が好きでなければできないことである。

 これだけ多忙にもかかわらず意外に長生きしている。大らかな性格の故かもしれない。

 「四翁」の中でこの人だけWikipediaに記述がないのは取り組んだことが「大成功」とはいかなかったからだろうか。良く言えば「多芸多才」、悪く言えば「器用貧乏」である。
 ほかの3人は大実業家であったり、国会議員になったりしているのだ。

 ただ、この人の残した「公私諸向日誌簿」という日記は、北海道大学に残され、当時の北海道のことを知る貴重な資料となり研究者の役に立っている。

 実はこういう人が一番偉いのかもしれない、と、現在までの人生で何もモノになった試しのない私などは自分に引き付けて思ってしまったりするのであった。図々しい。

 ちなみに冒頭の河童は結構ありがちな「多芸多才」の人である。
 実に迷惑だ。

 「自分でやりなはれ!」

北海すすきの男一人旅2-格安航空の罠-(河童日本紀行596)

真の接客

 話は少し遡る。

 私は人前で話すのが苦手である。

 私の職業を知っている人はこの話をすると「バカじゃないの」という顔になるし、結婚式でもこの話をして2回大きく滑っている。

 だが、実は本当なのである。
 もし私が人前で喋るのが苦手でなかったら、私は政治家やアナウンサーなど、人前で喋る仕事に就いていたに違いない(じゃあ今の仕事は何なんだ)。

 したがって、学会発表も口述発表しかない場合は仕方なくそうするが、ポスター発表部門がある場合にはそちらで発表することにしている。
 勿論学界の慣習からいえば、前者の方が格が上と思われている。だから「この研究はエポックを作る」というような発表は 口述で行われるのが常であるし、権威ある学会であれば口述発表が採択されるというのは名誉なことである。

 だからポスターで発表する私は既にしてエポックを作る気がないともいえる(あっても無理だが)。

笑えない苦行

 ただ、最近はほかの人の作るポスターが綺麗だから、私のものは「汚い」という印象をで目立つようになってしまった。前回の学会では自分のポスターが「ゴミ箱から拾ってきたみたいだ」と思えた。そのことを偉い人が講演している会場の外で口にして友人のA君が「く」の字に曲がった話は既にした。


初の新潟は学会出張1-「く」の字に曲がった友人-(河童日本紀行567)


 今回はそんな目に遭いたくない。しかし、業者に頼むと高い。最近は7000円くらいまでは下がってきたが、それでも費用が一部(1/4くらい)自費であることを考えると少しでも金を遣いたくない。
 私は伝手をたどりにたどって随分ゴリゴリ押してやっとン百円でポスターを印刷してもらった。市価の20分の1以下である。

 出来上がりを見せてもらったら今までの私のものとは比較にならないほどピカピカである。内容もよくなったような気がするのはまさに気のせいだが。

 私はそのポスターを「代走(仮名)」で300円で買ったポスターケースに入れて飛行機で運ぶことにした。本体とケースを合わせて500円強である。

 出張の稟議を出すとき、私はできるだけ費用が少なくて済むようにLCC(格安航空)で見積もりを出し、その時点で予約した。そうしないとこういう安いチケットはあっという間に売り切れてしまうからだ。
 もし稟議が通らない場合は自費になってしまうが、もともと自分の勉強のために学会に行くのだから、自費でもやむを得ないと思っているのだ。それが多少補助してもらえればラッキー、くらいに考えている。完全自費なら聞きたい講演や発表のない時間にブラブラしていてもとやかく言われる筋合いもないから却って気楽なくらいなのである。

 私はおそらく学会日程で最安値の航空機を確保し、悦に入っていた。

 ところが、いざ搭乗、という時になって、この航空券の費用には手荷物預かり料金が入っていないことを知った。それは搭乗券をもらって航空会社の人に言われて初めて気づいたのである。予約した時にちゃんと見ていなかった私が悪いのだが。

 機内持ち込みの荷物は1人2個まで。
 私の荷物は今回の出張のために(嘘。本当はこの後に行く韓国旅行のため)買ったでっかいスーツケースと、小さめのリュックと、ポスターケースの3点である。スーツケースはどう考えても重量と大きさから持ち込みできない。リュックは持ち込むとして、ポスターケースはどうしよう。あ、これは長さを考えると3辺の合計が持ち込み可能な長さをオーバーしている。
 中のポスターを取り出して折り曲げて入れ直したらケースの長さをもっと短くできる。でも、それではまたポスターがシワシワになって去年と同じ体たらくになってしまう。

 仕方がない。何せ「格安」であるから、手荷物の料金も格安にちがいない。ポスターケースも預けよう。

 ところが、係員の人が告げた料金は2つで6000円弱。1個3000円近かったのだ。

 もし高い金を出して印刷をしていたら、ポスター1枚10000円である。そうなったら私は激怒していただろう。しかしそれはどこにぶつけようもない怒りである。

 こんなとき、「ポスターケースをお預けになると割高になりますが、もう少し縮められませんか。」などという親切な係員さんが昔はいたものだが(昔に対する美化、というより大嘘。そんな人は昔からいなかった)。

 「ポスター1枚3500円かあ。まあそれでも業者に頼んで印刷した値段よりは安いからな。」
 と思ったものの、係員さんに手渡すポスターがなんと軽く感じたことか。

 「今度の学会から口述発表にしようかな」と、金が動機で研究手法さえ変えようかと思う私であった。

北海すすきの男一人旅1-ここがかの有名なすすきのか-(河童日本紀行595)

北海ブルース

 また北海道に行ってきた。
 もちろん学会である。

 ただ、今年から職場の経費削減で 学会費と往路くらいの自費が発生するようになったので、ある意味気が楽である。

 この学会に私は教育に携わるようになってからほぼ毎年行っていた。今までは同行人が必ずいたのだが、今回は参加者1人である。旅の手配から経路の選択から全て独りでしなければならないのは大変だが、私には付き物の色々なミスで迷惑をかける心配がないのは素晴らしいことだ。

 また、以前は全てが「会社」の金だったのですべてに切り詰めてできるだけ金を遣わないようにしていたのだが、今回は自腹なのでやはりできるだけ切り詰めて金を遣わないようにしているのは同じである。

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 違うのは宿泊地で、これまでは北帝大(仮名)の近所などの文教地区に泊まっていたのだが、今回は中島公園というところの近所なのだ。


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 ホテルに着いて散歩してみるとすぐに分かったのだが、ここは日本有数の歓楽街であるすすきのから数百メートルの場所なのだった。
 「注意 客引きのうまい言葉にだまされるな!」という看板が私のような田舎からのお上りさんの警戒心を煽る。
 何せ我が三角町は人口1000人弱、札幌は200万都市なのだ。

 何だか折角の可愛いキタキツネの看板が「狐に化かされないよう注意」に見えてくる。

 実際翌日の早朝には客引きらしき若者同士の殴り合いなども目撃してしまった。

 「君子危うきに近寄らず。」
 尊敬する孔子の言葉を何度も心の中で反芻する。

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 もっとも、周囲を散策してみると、一口に「すすきの」といっても、徒歩では回り切れないほどの物凄く広大なエリアの繁華街であって、人間の下半身に関するエリアはそのほんの一部であることが分かった。

 ホテルに荷物を置いて、さっそくお目当ての店に向かう。
 「ゴーグル先生(仮名)」のナビですぐ見つかった。

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 この奥まったビルの中にある店こそが私の今日の目的地である。
 入ってさっそく私のお目当てがいるかどうか尋ねる。
 駄目だ。

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 もう一軒。やはりその店のチェーン店で尋ねる。
 これも駄目である。ここにもいない。

 駄目だ。とうとう北海道では彼女に逢えなかった。

 どこにいるんだ。二銭五分白銅貨ちゃん。

 最近探し求めている古銭を擬人化してお伝えしました。シブタレさんやネットチクリちゃんはわざわざ興味のない文章を読んでいただいてご苦労様です。

 明日は学会前のワークショップである。
 早めにホテルに帰って予習をしなければ(わざとらしい真面目さ)。

誘惑の韓国貨幣13-二銭五分白銅貨の謎2続きの続きの続き:光武改革と白銅貨濫鋳3-(河童亜細亜紀行143)

他山の石


 さて、前回私は二銭五分白銅貨の謎1「なぜ光武2年だけ濫造されたのか」謎2「なぜ光武3年~5年銘のものはないのか」という2つの謎を見事に解いた(って、解いてないない)。

 それは謎1「光武2年だけ濫造されたのではなく、光武2年銘だけ濫造されたのだ」という答えと、「光武3~5年銘は典圜局メンバーによって発行を拒否されたのだ」という答えである。

 では、光武3~5年銘の二銭五分の発行を拒否したのは誰なのか。

 少なくとも局長の李容翊(イ・ヨンイク)でないことは前回明らかにした(って、明らかにしてないない)。

 私の答えはこうである。

 事は1人2人の話ではなく、李容翊より下位の、典圜局創設以来のメンバーたちのうちの多数の人々なのではないだろうか。

 そもそも仁川にあった典圜局が龍山に移されたのは光武改革の一環だった可能性が高い。
 目的の一つは日本の影響力を削ぐこと、そしてもう一つが二銭五分の増鋳である。というのは、光武4年(1900)の龍山移転前後から典圜局における白銅貨の鋳造高が急増しているからだ(表参照)。


二銭五分白銅貨製造数

 この間、職工たちの同盟罷業らしき大量欠勤があったり、完成間近の工場が全焼したりと、どうも移転反対と思しき動きがある。
 また、典圜局内部に河相驥(ハ・サンギ)などのように兪吉濬(ユ・ギルチュン)の革命党に賛同する人物もいたのである。既に書いたが、兪吉濬はその供述書の中で除くべき君側第一の奸臣に李容翊を挙げているのだ。

 「朝鮮貨幣及び典圜局の沿革」はこの間の混乱を次のように伝えている。

[書き下し文]
 当時典圜局は竣成とともにようやく世間に重要視せられ、あるいは各結託するところの外国公使の後援によりて競うて同局に関係せんことを企画し、あるいは中傷的批評をなすものあり。これがため五月十三日勅命により内蔵院参政課顧問大三輪長兵衛工学士、内田儀兵衛らとともに典圜局の実況を視察せり。このとき韓廷内部の混乱はなはだしく政変踵を接し李容翊謹慎蟄居し崔錫肇また遠慮して出勤せざりしをもって反対派勢力を占め、五月十七日露国派なる玄向健局長に拝すと風説あり。六月五日劉漢容技師に任ぜられ玄向健の代理と称せり。しかれども事務長以下当局者は創立より日本人の主として経営せる事業を外国人に奪わるるに忍びず、上記画策者に対し防御すこぶる勉めたり。
 ようやく七月十八日官制を改められ、典圜局を独立官営となし、管理官に沈相薫任命せられたり。ここにおいて李容翊・崔錫肇また来りて事務を視、庶務やや緒に就けり。工事もまたほとんど完成しかば八月十日溶解を開始し、十一日伸延を開始せり。
[現代誤訳]
 この(光武3年5月)当時、典圜局はその機能の完成とともにだんだん世間に重要視されるようになり、ある人はそれぞれに結託している外国公使の後援によって典圜局に関係することを企図し、それが上手くいかない人の中には誹謗中傷する人もいた。そのため、5月13日韓国皇帝の勅命によって内蔵院参政課顧問の大三輪長兵衛工学士が内田儀兵衛とともに典圜局の実況を視察した。
 この頃韓国政府内部の混乱は甚だしく、政変が度々起こり、李容翊局長は謹慎蟄居させられ、崔錫肇(チェ・ソクソ)もまた遠慮して出勤しなかったため、反対派(河童註:何に対する反対かがよくわからない。反日派か)が主流となり、5月17日露西亜派と目される玄向健(ヒョン・サンゴン)が局長になるという噂があった。6月5日劉漢容(ユ・ハンヨン)が技師に任命されて玄向健の代理だと自称した。しかし、事務長以下当局者は創立から日本人が主体となって経営してきた事業を外国人に奪われるのが耐えられず、彼ら陰謀者に対して徹底的に防御した(河童註:サボッたのか)。
 ようやく7月18日官制が改められ、典圜局を独立公営として、管理官に沈相薫(シム・サンフン)が任命された。ここでやっと李容翊・崔錫肇が出勤してきて事務・庶務が再開した。工場もほとんど完成したので8月10日金属の溶解を開始し、金属板の延伸作業を開始した。

 これを見る限りでは既に仁川で溶解・延伸・円形の打ち抜きができていたようだから、龍山移転はやはり(主に韓国側の)かなり政治的な理由であったようだ。

[書き下し文]
 八月十一日仁川典圜局機械を龍山新工場に移転することに決し、二十三日増田信之は管理の嘱託により技師額田大助、翻訳崔銘元、職工長福田卯吉らと仁川に至り諸機械解放に着手し、越えて二十四日同様操業中午前八時一名の巡検来り王命と称して諸機械の移転中止を命ぜられ局長騒然たり。しかれども財政の窮乏なる一日も白銅貨鋳造を緩うすべからざるをもって、午後七時に至り再び移転着手の命下れり。けだし当時韓廷の有様は朋党相排斥し命令の朝三暮四なる。必ずしも奇怪とすべからず。
[現代誤訳]
 8月11日に仁川典圜局の機械を龍山新工場に移転することに決定し、23日顧問の増田信之は管理の嘱託により技師額田大助、翻訳崔銘元(チェ・ミョンウォン)、職工長福田卯吉たちと仁川に行き機械の取り外しに着手した。ところが翌日の午前8時、一人の巡査が来て、王命と称して機械の移転中止を命じたので、李容翊局長が激怒した。しかし、財政が窮乏している今、一日でも二銭五分白銅貨の鋳造を休むわけにはいかないということで、午後7時に再び移転着手の勅命が下った。考えてみると当時の韓国政府の内情は、対立党派が互いに排斥し合っていて命令が朝三暮四(河童註:朝令暮改の誤りか)だったのだ。必ずしも奇怪な出来事ともいえまい。

 この一文で少なくとも李容翊は移転に反対でなかったことが分かる。おそらく移転は彼の方針だったのだろう。

[書き下し文]
 十月三日韓人職工多数休業せるがため技師劉漢容ら監督不行き届きとして譴責減俸の処分を受けたり。十一月十一日沈相薫免官せられ度支部大尽署理朴斉純(パク・チェスン)監理署理に任命せられたり。
[現代誤訳]
 10月3日韓国人工員が多数休業したため、技師劉漢容たちが監督不行き届きとして譴責減俸の処分を受けた。11月11日沈相薫は解任されて度支部大尽署理朴斉純(パク・チェスン)が監理署理に任命された。

 またこの時期、最初期の技能伝習留学生である韓旭(ハン・ウク)をはじめとする技師たちが仁川にとどまり、いまだ龍山に着任しなかった、という記述もあり、それぞれの移転に対する複雑な感情を示しているように思われる。

 ネットには李容翊を「終始一貫して親露派だった」と書いてあるものもあるが、これら移転の経緯を見る限りではことはそれほど単純ではなさそうである。このストライキらしい事件で排除された両人は「沿革」の記述を信じる限り「親露派」だからである。彼には彼の意図があったようだ。

2銭5分白銅貨07額面2銭5分白銅貨07龍図

 こうして8月30日には移転した機械の据付も終わり、貨幣の製造が開始される。製造されたのはもちろん二銭五分白銅貨である。
 そしてその紀年銘は「光武2年」しかないのだから、やはり謎が解けた今でも不思議である(解けてないからだろ)。

 光武5年には貨幣条例が発布され金本位制が宣言されるが、既に明らかにしたように本位貨を製造するための金など公の場所には存在せず(韓国人官吏・商人・在韓日本人の私邸には存在したかもしれないが)、本位貨である20圜金貨・10圜金貨・5圜金貨は試鋳貨しか製造されなかった(5圜貨は現物が存在せず)。しかもそれは漢城典圜局でかつて作られたものと同じく、鍍金貨だったのだ。

鷲20圜金貨額面鷲20圜金貨鷲図

 このとき作られた試鋳貨の表面はその後大阪造幣局で製造された20圜金貨と同じデザインであり、裏は韓国政府の当時の意図を反映して鷲図である。

 画像は私が世界でただ1枚所有する鷲20圜銅鍍金貨である。

 というのはもちろん大法螺で、上図は額面が日本製20圜金貨のレプリカの画像を銅鍍金に見せかけて加工したもの、鷲図が鷲半圜銀貨を同じく銅鍍金らしく変色させたものである。我ながらよく出来ている。

誘惑の韓国貨幣12-二銭五分白銅貨の謎2続きの続き:光武改革と白銅貨濫鋳2-(河童亜細亜紀行142)

金解禁より白銅本位制の方がマシ

 さて、いよいよ二銭五分白銅貨の謎その2のうちでも最大の謎に関する私なりの答えである。

 「は? 何、それ?」という人が必ずいると思うのでおさらいしておくと、

 二銭五分白銅貨製造数

 表の如く、光武3年~5年に二銭五分白銅貨は大量に製造されているにも関わらず、「ない」と言ってもいいくらいに現存数が少ないのか、という疑問である。

 私の結論から先にいこう。

 それは、「典圜局のメンバーがこの年号の刻印の打たれた二銭五分白銅貨の発行を拒否したから」である。これがどのレベルで行われたかは分からない。とにかくこの年号銘の二銭五分は発行されず、市場に流通しなかった。流通したのは光武2年銘のものだけである。

 ということは、現存するものはごく少数が典圜局から持ち出されたか、ごく少数が民間で試鋳されたものだ、ということだ。

 これは第一の疑問の謎解きにも関連する。
 「は? 第一の疑問?」という人が必ずいると思うのでこれもおさらいすると、二銭五分白銅貨はなぜ光武2年にだけ濫造されたのか、ということである。これはもちろん記銘年上のことであるが。

 どういうことかといえば、典圜局のメンバーはなぜ光武3年~5年の刻印を拒否したのか、ということである。

 私はこれを濫造への抗議とみる。

 実はその年内に製造された枚数からいえば、光武2年の製造はその前年の製造に比べ1桁違うものの、その翌年からの天文学的な数値に比べればまだ「国を傾ける程の大濫造」といえる量ではない。

 典圜局のメンバーは日本留学経験者を含む当時の韓国のエリートである。この場合のエリートは身分制度に根拠を求める旧時代のものではなく、頭脳を根拠とした近代的な意味である。本位貨不在のままで補助貨幣を乱発したら幕末から明治初年の日本のような経済混乱を来すことは彼らには容易に想像できただろう。

 近代国家において貨幣に刻印をストライクできるのは造幣機関だけである。韓国においてそれは典圜局なのだ。そして近代貨幣においては濫造・偽造ももはや民間だけでできる作業ではなくなっていたのだ。彼らはそのプライドにかけて刻印を拒否したのではないか。

 ではその拒否はどのレベルで行われたのか。

 典圜局には日本人顧問がおり、彫刻師も日本人であるから、彼らが拒否した可能性もある。

鷲半圜銀貨鷲図

 ただ、彼らはどこから見ても露西亜由来と分かる鷲貨幣の図案製作・彫刻もしている。私は鷲貨幣は露西亜の技術者が彫ったのだと思っていたくらいなのだ。
 この大らかさを考えると、彼らは相当大陸的な人たちだったような気がする。製造数が多くなったからといってその年号の刻印を拒否したりするだろうか。

 だとすると、韓国人局員の誰がそのようなことをしたのか。

 少なくとも典圜局のトップ、李容翊(イ・ヨンイク)ではないだろう。

 私が前回延々と日本の幕末から明治初年の話をしたのは、この李容翊という人が何をしようとしていたか、というより、どんなテが彼の手中には残されていたかを想像してもらうためである。

 まず、私はこの人を韓国典圜局長として昔から知っていた。これは私が古銭マニアだからである。しかし、今回私の関心が古銭からもっと広い視野を得たとき、この人の違う顔が見えてきた。この李容翊という人は、光武改革のほかならぬ中心人物の一人なのである。

 私は濫造と呼ばれた二銭五分白銅貨の大量発行を企画・実行したのはこの人ではないかと思い始めている。

 既に数回記したように、当時の韓国政府の財政は本位貨幣を発行することができないほど窮迫していた。金はもちろん、銀もなかった。

李花一圜銀貨額面(レプリカ)
李花一圜銀貨龍図(レプリカ)

 本位貨幣たるべき巴一圜銀貨・李花一圓銀貨(上写真はレプリカ)・五両銀貨ともごく少数の発行に留まったのがその窮乏を示唆している。貨幣を製造する技術はあっても、発行し流通させるための条件がなかったのだ。
 もしそうする金または銀が準備できたとしても、典圜局の中枢には日本人がいるのである。すぐさま本国に通報され、「そんな金があるならば賠償金と借款を払え」と言われるのがオチであろう。

 そんな八方塞がりのときに李容翊が注目したのが、当時韓国の商人たちの間で最も流通していたある貨幣だったのではないか。

2銭5分白銅貨07額面2銭5分白銅貨07龍図

 二銭五分白銅貨である。

 彼がそれを目指したかどうかは定かではない。が、金本位でも銀本位でもない、「白銅本位制」(比喩であって正式な用語ではない。そもそも本位貨となる金属には一定の希少性が求められる)によって光武改革は行われようとしていた。金も銀もない以上、「この道しかな」かったのだ。

 驚くべきことに、「白銅本位制」に基づいた光武改革は一定の成果を挙げたのだという。
 ただし、光武改革の輝かしい成果は主に韓国人の書いた資料にしか登場しない主張だから、今後要調査である。
 
 ただ、確実に言えることは、この改革は日本にとっては非常な不利益があったということだ。
 韓国における日本の影響力が弱まって露西亜の影響力が強くなる、という政治力学的な不利益だけではない。
 圓(日):圜(韓)レートが短期間にどんどん圓高に傾いていくのだから、経済的な不利益もとても大きなものだっただろう。
 この状況を「朝鮮貨幣及び典圜局の沿革」は次のように記述している(既出)。

[書き下し文]
 日本貨と韓貨との交換に打歩を生じ、明治34年頃は日本1圓に対し白銅貨の打歩43.4圜を要するに至り、同35年3月は93圜以上を唱え、貿易渋滞し内外人の破産者続出する

[現代誤訳]
 本来は1:1だった日本圓(円)と(信用の低落した)韓国圜(ウォン)との交換にプレミアを生じ、光武5年(1901)頃は日本円100圓に対し韓国圜143圜が必要となり、光武6年(1902)3月は193圜以上が必要となったため、貿易が滞り韓国内外の人に破産者が続出する

 この場合の損害はよりグローバル化の進んでいた日本において大きいものだったろう。韓国でも南部の慶尚道・全羅道などはいまだ葉銭中心(銅本位制)の経済だったのだ。

 結局日本人商人の要求により、二銭五分白銅貨は通用を停止される。

 韓国においてもインフレは発生していたが、それは第一次世界大戦敗戦後の独逸や第二次世界大戦敗戦後の日本のようにハイパーと呼べるものではなく(2倍程度)、少なくともその後の一国の造幣権が喪失されるような大混乱とはいえない。
 つまりは二銭五分の廃止や典圜局の廃止は日本の都合による部分が大きいということである。

 その後の各国の貨幣制度は金属地金の価値を貨幣信用の基盤とする金・銀本位制から、その国の経済力や資源・労働力の質などを基盤とした信用貨幣制度に変わっていった。
 そうした中で金本位制に固執した日本が金解禁を強行し、経済に大打撃を受けたのは歴史上有名な話である。

 そうした視点から考えれば、窮余の一策だったとはいえ、「白銅本位制」は世界に先駆けた信用貨幣制度だったと言えなくもない。

 ただし、貨幣濫造によるハイパーインフレによって経済が崩壊しなかったのは、紙幣が乱発されなかったからである。高額紙幣が乱発されていたら韓国経済はたちまち崩壊しただろう。

 当時の韓国にはまだ国が発行する紙幣が試作品レベルのもの以外になかった。紙幣は究極の信用貨幣であるから、その発行にはまだ機が熟していなかったのだ。結局韓国最初の紙幣は二銭五分白銅貨が廃止された光武6年(1902)、日本の経済力をその信用の基盤として第一銀行から発行される。

 だからこそ二銭五分は当時の韓国経済の身の丈に合った「本位貨」だったと言えなくもないが。官鋳・特鋳・黙鋳・私鋳・偽造と、ありとあらゆる手段を以て製造してもその1枚の額面は2銭5分、1/4両(つまり1/20圜)なのだから。韓国南部では葉銭(常平通宝)が流通の中心だったことを考えれば、日本を切り離したところでの当時の韓国は実質的には銅本位制だったのかもしれない。

 閑話休題(はなしがおおきくなりすぎた)。

 さて、二銭五分白銅貨の濫造に対して光武3年~5年の刻印での発行を拒否したのは誰かということだが、またも話を大きくしすぎたために更新する時間がなくなってしまった。

 ということで、この話の続きはまた次回。

誘惑の韓国貨幣11-二銭五分白銅貨の謎2続き:光武改革と白銅貨濫鋳1-(河童亜細亜紀行141)

ロシア革命干渉戦争の真相

 さて、二銭五分白銅貨の謎2の謎解きの続きである。

 まず、多くの日本人が知らないと思うので、光武改革とはどういうものだったか。今図書館から借りてきている韓国の高等学校歴史教科書を参考にまとめてみたい。これは日本の教科書に全く記述がないことと、日本人の書いたもので感情に流れず極端に走らずまとめたものがほぼ見つからないからだ。

 露西亜公使館に避難していた高宗は、本来の住まいである王宮に戻ると、国号を「大韓帝国」、年号を「光武」に変え、皇帝即位式を挙行し、自主国家であることを国内外に宣布した(1997.10)。 
 高宗は自らの皇帝権を強化し、国家の自主権保持と富国強兵を目的として改革を推し進めた(光武改革)。政府は「旧本新参」(現代誤訳:古いものを基本として新しいものを取り入れる)をスローガンとした。これは甲午改革や乙未改革など開化派の急進的改革を意識し、漸進的改革であることを表明したものである。
 政府は光武3年(1899)に韓国初の憲法といえる大韓国国制を発表した。それは以下のようなものである。
第1条:大韓国は世界万国が公認した自主独立帝国である。
第2条:大韓国の政治は万世不変の専制政治である。
第3条:大韓国皇帝は無限の君権を享有する。
第6条:大韓国大皇帝は法律を制定してその頒布と執行を命じ、大赦・特赦・減刑・復権を命じる。
第7条:大韓国大皇帝は行政各部の管制を定め、行政上必要な勅令を発する。
第9条:大韓国大皇帝は各条約の締結国家に使臣を派遣し、宣戦、講和および諸般の条約を締結する。

 大韓帝国が皇帝専制国家であり、立法・行政・司法・外交・軍事すべてに指揮権を持っていると規定したわけである。また、元帥府を設置して軍権を皇帝直属とし、漢城の侍衛隊や地方の鎮衛隊の兵士数を大きく増やした。
 政府は領地衙門をたてて一部の地域に量田事業を実施し、政府の租税収入を増やすとともに、土地所有者に近代的土地所有権を認める地契を発給した。
 また、産業を発展させるためにさまざまな実業学校や技術教育機関を創立し、近代産業技術を習得するために各国に留学生を派遣した。これに伴い、繊維、運輸、鉱業、金融、鉄道などの分野に多くの近代的会社が設立された。

 私なりに考えると、光武改革の柱は制度の近代化と産業の振興、軍備の強化であり、それを成しとげるために皇帝に権限を集中したということだろう。

 これは遅れて近代化した国の常道の方針であり、後世の用語で「開発独裁モデル」と言われるものである。日本もこの方針に従って列強の仲間入りをしたのだ。

 ただ、江戸幕府も幕末には同じような方針に向かっていったのに成功せず、それを倒した明治政府がこれを成し遂げた。
 なぜかといえば、私は端的に言って財源の違いだと考えている。

 完全に話が逸れてしまうが、ここを見逃すと近代の日韓関係の不幸な経緯の原因が見えなくなってしまうので、冗長に感じられるのを承知で幕末の貨幣事情について私の知っている限りの部分を述べたい。

 幕末の政府中枢だった小栗忠順の財宝を探す活動が150年経った現在でも続けられ、TVの特集になったりしているが、これは薩長軍が明け渡された江戸城の金庫に入った時にそれが空だったことによる。つまり、ある筈の財宝がなかったので、それが事前にどこかに隠されたと考えられたのだ。
 私は小栗忠順の財宝などないと考えている。幕府はもうスッカラカンだったのだ。だからこそ討幕が成功したのである。

 なぜか。それは全く幕府のせいではない列強との戦争の賠償金のゆえである。薩摩が英国と戦争した薩英戦争。長州が英仏蘭米4ヶ国と戦った下関戦争。前者の賠償金が540,000ドル(うち100,000ドルは薩摩に対するものだが結局幕府が支払い)、後者の賠償金が3,000,000ドル。

 これがどれくらいの金額だったのか、為替や物価との比較ではよく分からない部分がある。なぜなら、「同じものが当時幾らで今幾ら」と言っても、そのものの相対的な価値が自ずから違うのである。たとえばよく米1升の価格を比較することが行われるが、現代と当時では米に対する人々の価値観や他のものに対する相対的な価値が違うのだ。
 こういう場合には古銭に語らせるのがよい。特にこの時代には貨幣の価値はイコール地金であり、地金の価値は各国でもグローバルスタンダードに近づきやすいからだ。

 薩英戦争・下関戦争とも1863年前後に起こっている。

万延小判表万延小判裏

 この時点で日本の本位貨幣は建前上は金銀比価を国際的に合わせるための万延小判になっている。万延金の品位は574/1000であり、重量は3.30g(品位・重量とも「日本貨幣カタログ」による)。ということは1枚の金量は1.89g。(上写真は当時の偽物)

米国貿易銀鷲図米国貿易銀女神


 当時の米国は亜細亜向けの決済には1ドル銀貨(上写真)を使用していたからそのまま比較はできない。日本の補助銀貨幣である一分銀と比較する必要がある。

安政一分銀表安政一分銀裏


 当時の1分銀は品位873/1000、重量8.63gの安政一分銀である(上写真)。この銀量は7.53g。1ドル銀貨の品位は900/1000で重量は27.22g。ということは銀量は24.5g。1ドル銀貨は国際的な(ほぼ強要された)取り決めで1分銀3枚と交換するようになっていた。安政1分銀の3枚分の銀量は23.10gであるから、銀貨の交換に関してはやや日本に有利に見える。(これにはまだ列強が得をするための絡繰りがあるのだがさすがにそろそろ韓国の話に戻りたいのでこれくらいにしよう。)そして小判1枚は1分銀4枚と交換されるのが江戸の幣制である。
 ということは賠償金が決められた当時、1ドル銀貨と安政1分銀が1:3で交換され、安政1分銀と万延小判1両が1:4で交換されるのだから、1ドル銀貨1枚の価値は万延小判1枚の3/4ということになる。

 つまり540,000ドルは40,5000両、3,000,000ドルは2,250,000両である。幕府はこの2年間だけで2,655,000両の賠償金を背負ってしまったのだ。幕府は540,000ドルの全額、3,000,000ドルのうち1,500,000ドルを即金で(要は小判と金塊で)払っている。潰れるはずだ。ただでさえ財政難が深刻で貨幣の改鋳を繰り返していたのだから。

 ところでこの賠償金を圓に直すとどれくらいなのか。明治政府もこの賠償金と無縁ではない。下関戦争の賠償金の半額1,500,000ドルは新政府が幕府から引き継いで明治7年までに分割して支払っているのだ。もちろんこれも金の現物で払わなければならない。

明治二分金表明治二分金裏

 明治4年(1881)の貨幣条例では1両=1圓での交換を謳っているが、この当時の事実上の本位貨幣は明治2分判金(上写真)であるから、万延小判と単純比較はできない。明治2分判金の品位は2230/10000で重量は3.00gであるから、金量は0.67g。これは2枚で小判1枚と交換だから、1両分の金量は1.34g。

旧2円金貨レプリカ表面旧2円金貨レプリカ龍図


 貨幣条例に従って製造された1圓金貨の品位が900/1000で重量が1.67gだから金量は1.50g。ということは、万延金1両は1.26圓に当たるということだ。ちなみに上写真は2圓金貨のレプリカである。私はこの1圓金貨の現物はおろか、レプリカすら持っていない。

 閑話休題(こんかいはこれくしょんじまんじゃない)。

 つまり、薩英戦争の賠償金は明治初年の510,300圓、下関戦争のそれは2.835.000圓に相当するわけだ。合計すると3.345.300圓である。
 貨幣条例の成立した明治4年を含む1年間の明治政府の歳入が22,144,598圓だから、(「明治大正財政詳覧」による)賠償額はその約15.1%に当たる。

 これを払ってしまうのは相当しんどかった筈である。
 何せ戊辰戦争の戦費も捻出しなければならないし、明治初年のさまざまな改革にも膨大な予算がかかるのだ。幕府の外債も自ら借りた分も償還しなければならない。

 では新政府はどうしたか。

 考えられる対策の一つは苛斂誅求である。しかし、これはやり過ぎると政府が打倒されてしまう。事実最初は3%だった地租は一揆の頻発で2.5%に軽減されている。が、一揆も士族反乱も明治10年までには何とか乗り切る。

 ほかに考えられる方策の一つは踏み倒しである。世界史上最も有名な踏み倒しは露西亜革命の指導者レーニンのそれであろう。彼は「無賠償無併合」とともに、露西亜帝国政府の莫大な借款の無効を宣言した。お陰で当初は革命に好意的だった仏蘭西をはじめとした西欧列強の干渉戦争を招いてしまうことになった。
 基本的にこれが使えるのは日本のように国民が従順な国の内債だけである。

 ではもう一つは…。

 戦争し、領土を拡張し、そこからさまざまな形で利益を上げることである。

 薩英戦争や下関戦争の賠償金から考えると、日清戦争の賠償金200,000,000両(約277,777,778圓)という額が如何に法外なものか分かるだろう。
  ところで歴史の教科書などで清2億両を3億圓に換算しているものが多いが、どんな計算をしているのだろう。

7銭2分銀貨造幣廠造額面


 当時清の戸平7銭2分銀貨(上写真は中央の造兵廠造であるから重量は正確と思われる)が、

新一圓銀貨丸銀打額面

 日本の1圓銀貨(上写真は韓国通用の〇銀打)と等価である。ということは、0.72両が1圓で計算するのが正確ではないだろうか。

  日本の近代改革資金の相当部分はこの賠償金による。いかな大清帝国でもこれだけの臨時支出には耐えられなかったのだ。それから程なく王朝の命運は尽きる。

 やっと話を光武改革に戻すことが出来る。

 光武改革は日本に一定の距離を置き、露西亜に接近する形で行われようとしていた。
 だが、先に挙げたように、既に露西亜は外債の償還に喘いでいたのだ。したがって財政を支援する意図で韓国へと南下していたわけではない。その意図は日本と同じである。

 では改革を実行する金はどこから捻出するのか。

 日本に借りるのか。日本に対しては既に多額の借款のほかに壬午兵乱の際の補填金(事実上の賠償金)の支払いもある(結局完済されず)。
 壬午兵乱では10数人の日本人が犠牲になり、済物浦条約により彼らの遺族への見舞金5万圓と補填金50万圓の支払いが韓国政府にのしかかった。日本人を襲撃したのは政府ではなく反政府勢力なのだが。これは薩英戦争での賠償金とほぼ同額である。このあたり、幕末に江戸幕府を襲った理不尽と話が類似している。
 上に多額の借款と書いたが、高宗32年(1896)に韓国政府は日本政府との間に300万圓(圜)の借款契約を結んでいた。これは下関戦争の賠償金とほぼ同額である。

 おそらく江戸幕府同様、既に本位貨幣を発行する金銀にすら事欠いていた韓国政府には短期間で捻出できる額ではなかったに違いない。

 しかも日本の場合は封建制度の下で地方の雄藩にまだ富が残っていたが、中央集権の韓国では中央政府の金がなくなればもうどこにも(すくなくとも公の機関には)金がないのである。

 では韓国政府はどうしたか。日本の話ですっかり長くなってしまったので、それに関する私の推測は次回。

誘惑の韓国貨幣10-二銭五分白銅貨の謎2-(河童亜細亜紀行140)

無いはずのものが有り有るはずのものが無い

 さて、当初の予定に戻って、二銭五分白銅貨の謎その2である。

 それは、「何故ないはずの年号の二銭五分が存在し、あるはずの年号の二銭五分が存在しないのか」ということである。

 韓国近代貨幣確立への模索について生々しい情報をいろいろと与えてくれる甲賀宜政「朝鮮貨幣及び典圜局の沿革」には、[附録の2]として二銭五分白銅貨の発行枚数が記されている。
 これには二銭五分白銅貨以外の鋳造量も記されているが、とりあえずこの貨幣について表にしてみた。

二銭五分白銅貨製造数

 「沿革」によれば二銭五分白銅貨の製造が始まったのは高宗29年(1892)、製造が停止したのは光武6年(1904)年である。

 この間、高宗30年(1893)には製造数の記述がなく、高宗31年(1894)には製造数が0である。
 にも関わらず、この2年間には「開国502年」「503年」銘で現物が存在する。
 しかも「日本貨幣カタログ」および「韓国貨幣価格図録」に記載された価格は、白銅貨にしては高いものの、他の韓国の希少貨幣、たとえば十文銅貨や鷲五銭白銅貨などに比べれば随分求めやすい値段である。

 これが、「ないはずの二銭五分がある」という謎である。明らかにこの年号の白銅貨が市場流通した証拠である。試鋳貨レベルの現存数ではない。

 また、光武6年に製造中止が公示されるまでは典圜局で正式に官鋳が行われたはずである。しかもその額は天文学的な数値である。にも拘わらず、光武3年~5年の現存数は希少であり、実際私はこの年号の二銭五分を57年の人生で一度も見たことがない。「カタログ」も「図録」もこの期間の価格は画一的であり、実際の取引価格が反映しているものなのか疑わしい。
 さらに、甲賀によれば光武6年の発行停止後も製造が行われ、むしろこの光武6年~8年の製造数の方がそれまでの製造数より多い。にもかかわらず、この年号の二銭五分は存在すらしない。あったらレプリカである。

 これが「あるはずの二銭五分がない」という謎である。明らかにこの年号の白銅貨が市場流通しなかった証拠である。流通貨レベルの現存数ではない。

 まず、一番解きやすいと思われる謎から解こう。
 それは光武6年~8年銘の二銭五分がなぜ存在しないか、という謎である。
 これは単純明快である。光武6年の時点で典圜局が二銭五分の製造停止を公示したのであるから、それ以降の年銘のものがあったら逆に可笑しい。明らかに偽造貨である。日本でいえば明治2年銘の旧金貨が存在するようなものだ。

 では、なぜ光武2年よりも酷い濫造が行われているかといえば、これは官鋳ではなく特鋳:許可されて行う私鋳や黙鋳:黙認された私鋳を典圜局の製造数に含めているからだろう。既に書いたようにこれは近代以前の東亜では通用貨の普通の製造法だったのだ。

 次に「ないはずの二銭五分がある」問題について。
 これは2つの理由が考えられる。

 1つは典圜局で製造されたにもかかわらず記録がない、という事態である。
 しかし、これは東亜の役所における問題だから考えにくい。実質的な仕事はサボったとしても記録だけは残すのが彼ら役人の性だからだ。まして事は細かいことに拘泥する記録魔の日本人絡みなのだ。

 だとするともう一つの事態を考えなければならない。
 それは二銭五分白銅貨は登場の当初から大量の私鋳・偽造貨が出回っており、開国502.503年銘の現存するものは全てこれだ、という事態である。

 しかし、お上が「作らなかった」と言っているものを民間が作っているというのもおかしな話である。私鋳・偽造であることがすぐにバレてしまう。

 もっとも現在と違って製造数が公表されていたわけではないから最初に502年銘が出回ると「我も我も」と次々に登場したのかもしれない。だとするとよほどよく出来た偽物である。

 だが、ないはずの502年銘が出回れば典圜局ではすぐに気付いたはずで、何らかの対策が行われて、次の503年銘は私鋳・偽造できない、という事態になったはずである。

 ただし、これは現在の私たちの常識であって、当時の韓国では大した問題にはならなかったのかもしれない。なにせ特鋳という形で公認の私鋳が認められていたくらいなのだ。

 それにしても、貨幣製造を指導している日本人側は既に近代的造幣を確立していたわけだから、相当の違和感があったはずである。
 この時代、公使と本国の間で相当マメに書簡が交わされ、かつ保存されているから、こうした文書の中にこの「ないはずの二銭五分がある」問題について言及したものがあるかもしれない。要研究である。

 最後に「あるはずの二銭五分がない」問題のうち光武3年~5年銘のものが大量に作られたはずなのに現存希少な問題。
 この年銘の二銭五分は製造数からすれば光武2年銘のものよりも現存数が多いはずで、だとすると光武2年銘と同様未使用品でも二束三文で買えるはずである。
 だが、実際には「カタログ」や「価格図録」での価格は並品でもジャワ未発行錫貨や特年号の龍銀貨と同等である。つまり、「ほとんど流通しなかった」というレベルなのだ。
 
 これは私にとって最大の謎である。
 大量に官鋳されたことが記録に残っているのに、ほぼ現存しない流通貨。

 この謎解きは難しいが、取っ掛かりやすい部分から考えていこう。

 まず、ごく少数現存する光武3年~5年銘の二銭五分について。

 これも二つの事態が考えられる。
 一つは表に出すつもりのなかった官鋳品が何らかの理由で一部出回ってしまったこと。
 「遅れた韓国、近代化してやった日本」という歴史観の持ち主や、「ルーズな韓国人」という民族観の持ち主は「あるある」と頷いたかもしれない。
 が、これは別に韓国に限ったことではなく、例えば日本においても上述のジャワ未発行錫貨や一銭未発行陶貨など、本来は出回るはずのない銭貨がマニアなら財布の紐を緩める程度の値段で市場に出回っているのである。亡国の秋、こうした行為が蔓延るのは万国共通である。

 さて、もう一つの事態は、黙鋳や偽造貨の中に光武3~5年銘のものが少数存在すること。これは「ないはずの二銭五分がある」と同様の事態である。

 いずれにしても、現在夥しい数が現存するのは光武2年銘の二銭五分だけだから、光武3年~5年に典圜局で製造されたものはほとんど全てこの年号で製造されたようだ。それどころか、光武3年~5年銘の二銭五分が希少である、ということは、黙鋳・私鋳・偽造でもほとんど作られなかった、ということである。このことをどう解釈したらよいのか。

 ここで改めて光武2年(1898)という年を考えてみたい。

 私は既に、この年が日本では菊五銭白銅貨と稲五銭白銅貨の切り替え期にあたり、これは韓国における二銭五分白銅貨の濫造・偽造に何らかの影響を与えた可能性があることを指摘した。

 さらに読者に照会していただいた文献によって、光武3年に発覚した兪吉濬事件において白銅貨偽造が計画され、一部実行されたことを知った。
  ここで私は、重大な失敗をしていたことに気づいた。それは当時の韓国の内政について調べることだ。光武2年はいうまでもなく、「光武改革」が本格化した年なのである。
  二銭五分白銅貨の初鋳が光武年間ではないためについ見落としていたのだ。
  だが、この改革が貨幣製造に影響を与えないわけがない。

  その影響とは勿論、典圜局の仁川から龍山への移転である。
  私はこれを「龍から鷲へ」つまり日本の影響力から露西亜の影響力へ、という面からのみ考えていた。

  だが、光武改革という一連の流れから考えると、龍山移転には別の側面から見る必要のある要素がある。
  それは典圜局における李容翊の権力の確立である。李容翊といえば兪吉濬から「君側の姦臣」として真っ先に除くべき人物として挙げられていた人物である。
  実はこの人は1904年日露戦争の際、日韓議定書が締結された際の大臣だが、これに反対したために日本に連れて来られて軟禁されている。独立のために奔走する中途、ウラジオストクで没している。日本では所謂「親露派」と見做されてネト◯から口汚い評価をされているが、私は残された言動を見る限りなかなか立派な人物だと思っている。
  ただ、この人については典圜局の技術者たちの中にはよく思っていない人がいたようである。兪吉濬が彼を君側第一の奸臣と見做していたのは革命党の同志である河相驥からの情報だろう。また、皇帝の密偵徐相潗もまた、彼と争って林大使の仲介でどうにか和解したという話は前回紹介した。
  お互いの相性や好き嫌いだけでこうした軋轢があるとは考えにくい。
  次回、李容翊が中心的役割を果たした光武改革がどういうものだったか考え、改革と「あるはずなのにない二銭五分」との関係について大胆推理してみたい。
  

誘惑の韓国貨幣9-二銭五分白銅貨の謎1続き:白銅貨偽造計画-(河童亜細亜紀行139)

文献の沼にはまる

 さて、二銭五分白銅貨の謎、その2に行こうと思っていたのだが、読者の方から「謎その1」の解明のヒントになるような興味深い文献を紹介していただいたので、 その話から先にすることにした。

 それは「兪吉濬陰謀事件」または「革命一心会事件」と呼ばれる事件に纏わる話である。

 Wikipediaによれば、この事件は「亡命者の兪吉濬および陸軍士官学校卒業の第11期生の大韓帝国人で結成された革命一心会の構成員が中心となって大韓帝国の軍政革新の陰謀を企て、それが露見し逮捕・処刑された事件」だという。

 兪吉濬(ユ・ギルチュン)の供述は以下の通り。

[書き下し文]
目的及び企画
 自分は本国も現時の状態にて国家の不利益なればこれを改革せんにはまず以て君側の姦臣を掃蕩せざるべからざるとの意見なり。君側ノ姦臣は常に聖明を蔽い、王室をして人民の怨府たらしめ、王室の威徳を損せり。自分等は決して王命に対しては陰謀を抱く者にあらず。どこまでも王室を奉戴して忠誠を謁くすの精神なり。しこうして君側の姦臣を除くに付いては本国にも同志者ありて、ここに至急事を挙ぐるを可とする旨本国より通知ありしも、自分に於ては日本政府の同意は到底得難し、しかし日本国民を一時雇い入るることはなしあたわざることにもあらざるべきにつき百人位を雇い入るべしとの旨を申し送りたることあり。
[現代誤訳]
目的および計画 
 私は韓国も現在のような状態ならば国家の不利益なのでこれを改革するためにまず王様の近くにいる悪い臣下を一掃しようという意見である。君側の奸臣は常に王様の眼を曇らせ、王室を人民の恨みの対象とし、王室の権威を損なっている。
 私たちは決して王命に対して陰謀を抱くものではない。どこまでも王室を尊敬して忠誠を尽くすという精神を持っている。そして君側の奸臣を除くという考えを持っている同志は韓国にもいて、早く立ち上がるべきだという通知が日本にいる亡命者の私たちにも来たのだが、私は到底起義に関する日本政府の同意を得ることはできないだろう。しかし日本国民を一時的に雇い入れることは不可能でもないので、100人位を雇い入れてくれという命令を申し伝えた。



[書き下し文]
 また事を挙ぐるに付きては第一に費用を要す。その費用欠乏なるゆえ政府の白銅貨を偽造しては如何と申越せし者ありしも自分はこのことに対して反対の意見を申し置れり。その理由は貨幣を偽造するは国法の許さざるところなり。自分等は国家のために正義の挙に出でんとするに反して国法を犯すときは他日事成りたるときにおいてその罪を免れず。国家のためには身命を賭する以上は各々その所有する財産を抛(な)げて可なり。何ぞ国法を犯すべけんやと云うにあり。故に自分は貨幣を偽造して費用に充つる策には同意するあたわざる旨を述べたり。
[現代誤訳]
 また、起義については第一に費用を要する。その費用が足りないために韓国政府発行の白銅貨を偽造してはどうかというも者があったが、私はそれについては反対の意見を述べた。なぜなら、貨幣を偽造することは国法で禁じられた行為である。私たちは国家のために正義の行為をなそうとしているのだから、正義に反して国法を犯してしまったら、将来革命が成ったときにその罪を逃れることが出来ない。国家のために身命を賭するのだから、自分たちそれぞれが自分の所有する財産を投擲しても構わない。どうして国法を犯す必要があるのだ。だから私は貨幣を偽造して費用に充てる策には同意できないと述べた。

 これは紛うことなき二銭五分白銅貨偽造計画の証拠となる供述である。

[書き下し文]
企画の敗れたる始末
 自分は前述の通り、白銅貨偽造に反対せしにもかかわらず、本国にある同志者中に目下仁川監理なる河相驥とともに白銅貨を僞造しつつある者ありて、彼は自分の意見に反して偽造をなしつつあるより、もし自分の事成就するときはかえって不利益の結果を見るべきを恐れて自分共の企画を河相驥に密告せり。その密告の要領は、自分共は外国の公使館領事館に放火し、その勢いに乗じて宮中に闖入(ちんにゅう)し、国王を弑害(しいがい)し、君側の臣を除かんとせりと云うにありたり。ここにおいて河相驥はこのことを王に密奏せしが事の敗れたる原因なり。
[現代誤訳]
計画が破れた経緯
 私は前述したとおり、白銅貨偽造に反対したにもかかわらず、韓国にいる同志の中には現在仁川典圜局の監理である河相驥(ハ・サンギ)とともに白銅貨を偽造している者がいて、彼は私の意見に反して偽造を続けているため、もし革命が成就するときはかえって不利益となる結果になることを恐れて、自分たちの計画を河相驥に密かに告げた。その内容は、私たちは国の公使館領事館に放火し、その混乱に乗じて宮中に潜入し、国王を弑し、君側の奸臣を除こうとするのだ、というものである。この言葉を聞いた河相驥がこれを国王に密告してしまったのが計画の破れた原因である。

 「君側の姦を除く」と言っている割には「国王を弑害」するなどとあり、随分物騒な革命計画だが、白銅貨の偽造に反対し、正義の計画なのだから自分たちで金を出すべきだという姿勢、この兪吉濬という人、革命党の首領に相応しいなかなかの人物である。

[書き下し文]
 自分等は今日日本国の哀願に赴きしには決して国王の責にあらず。君側にある姦臣二三人のせいに外ならず。この二三人を除けば他には更に故障なし。すなわち李容翊(イ・ヨンス)・姜錫鎬(カン・ソクホ)を最も甚しき姦臣なりと思考せり。
 日本人深川某を本国に使者として遣わしたることありしか。某は一片の義俠心より出たる者なれば、もし罪ありとせばその罪は自分が受くべきはずなり。彼には更に罪なし。
[日本誤訳]
 私たちが今日事破れて日本国に亡命しているのは決して国王に責任があるのではない。君側にある奸臣2.3人のせいにほかならない。この2.3人を除けば国の統治機構に問題はない。つまり李容翊(イ・ヨンイク)・姜錫鎬(カン・ソクホ)が最大の奸臣なのである。
 日本人深川なにがしを韓国に使者として遣わしたことがありますか。彼は一片の義侠心から私たちの陰謀に関わったのであるから、もし罪があるとしたらその罪は私が受けるべきものです。彼には何の罪もありません。

 まあ、さすがは革命党の指導者である。最後の日本人協力者に対する言葉は兪吉濬の「反権力(反骨)とはかくあるべし」という度量を表している。「すべての責任は自分に」。カッコいい人である。下っ端の役人にすべてを擦り付けて恥じない人々は彼を見習ったらどうか。

 閑話休題(はなしがへんなほうこうにそれそうだ)。

 李容翊といえば仁川の中途から、また、龍山では最初から、典圜局の局長を務めた人物である。二銭五分白銅貨の濫鋳が始まったとき、多くの韓国人はこの人がその首謀者だと思ったにちがいない。これは彼を最大のターゲットとして革命を計画した兪吉濬が白銅貨偽造に同意できるはずがない。

 兪吉濬の反対にも関わらず革命党の白銅貨偽造は実行されたらしい。ということは、「貨幣偽造者を倒すために貨幣を偽造する」という皮肉な捻じれが起こっていたわけだ。

 ただ、当時すでに「白銅貨鋳造許可証」なるものが出回っていたらしい。

 林駐韓日本公使から外務大臣宛の密書が残っている。

[書き下し文]
 白銅貨鑄造特許証の真偽に関する件
機密第九一号
(前略)
 抑々当国人中もっぱら白銅貨の私鋳もしくは默鑄を企て、または現にこれに従事しつつある義に相聞き、その中には皇帝の勅許証なるものを携えこれをもってしこうして外国人間に資本もしくは地金の供給を仰がんとする向きもこれあるやにそうろう。得る者いかんせん、このことたるや極めて秘密に附せられ、表面政府の保証を得難きをもって何人もその真贋を判断するに苦しみ、容易に契約を取り結ぶものこれなき状態にありこれそうろう。しこうして実際これら勅許証中には偽造物多く、縦しまた真物なるにせよ、韓帝の本意と秘密の勅許にあるをもってもし中途にして事暴露したる場合は勅許偽造の名の下二重罪に処し、またもし甘く行かば内幣を利せんとせらるるに他ならざるもののごとし。(後略)

 敬具
明治三十四年九月三日 林 公使
外務大臣 曾禰荒助 殿

[現代誤訳]
(前略)
 そもそも韓国人の中で専ら二銭五分白銅貨の私鋳または黙認による私鋳を企て、または現にこれに従事しつつある連中の中には、皇帝の勅許状なるものを携帯して外国人に資本や地金の供給を依頼する者もいるといいます。勅許状を持っているという者はどうやってそれを手に入れたのだろうか。もしそのようなものがあるのならば全く秘密にする必要があり、表向きは政府の保証を得られないわけだから、誰にしてもその真贋を判断するのに苦しみ、そう簡単に契約を取り結ぶ者もない状態です。そして実際これらの勅許状の中には偽造したものが多く、もし本物であるにしても、韓国皇帝の意志と秘密の勅許があるとしてももし取引の途中で事が露見した場合には勅許状偽造の名の下に重罪人にされるだろうし、もしうまく行ったとしても私利私欲を貪る一味になってしまうことは間違いないだろう。
(後略)

 この文章を読む限りでは皇帝の「勅許状」もその御威光はあまり芳しいものではなかったようだ。

 もしかすると革命党の中にもこうした真偽不明の勅許状を用いて白銅貨偽造を果たそうとした者もいたのかもしれない。

 ただ、他の資料を見ると、兪吉濬の日本における同志は名前の判明している限りでは20名足らずで、本人が供述している通り日本人100名を雇い入れて人員にしようとしていたようである。
 二銭五分白銅貨の鋳造数は官鋳分を除いても3,000,000圜(第一銀行調べ。これは最も小さく見積もった数字である)。二銭五分白銅貨は20枚で1圜であるから、これに直すと60,000,000枚である。二銭五分白銅貨を日本で偽造すると1枚1銭(1/100圓)程度の利益が出たらしい(大阪朝日新聞明治25年10月6日付)。
 「壮士」の値段、といってもよく分からないが、仮に腕に覚えがあって巡査や下級軍人になるより「一発当ててやるか」という気になる金がそれらの年収の倍、とすると、明治40年(1907)の巡査および下級軍人(伍長)の年収が150圓であるから、300圜か。これは30000銭であるから、二銭五分白銅貨1枚偽造で見込める利益の30,000倍である。ということは、「壮士」1名を雇うのに二銭五分白銅貨を30,000枚偽造する必要があるわけだ。ということは、「壮士」100名を雇うためには二銭五分白銅貨30,000×100=3,000,000枚の製造が必要である。これは最も小さく見積もった私鋳・偽造量の1/20である。また、この数字は兪吉濬の計画に沿って偽造賛成派がフルに偽造したと仮定した場合のものである。

 しかし、実際には兪吉濬は偽造計画を聞いて反対するだけでなく、典圜局の河相驥にその計画を話している。それが国王の耳にも入って計画が露見したわけだ。白銅貨偽造計画も革命計画と同様に中途で頓挫した可能性が高い。

 私は紹介していただいた資料を読んで、兪吉濬と革命一心会は二銭五分白銅貨濫造の元凶、あるいは起爆剤ではなく、既に進行しつつあった濫造に便乗して革命資金を得ようとしたのではないか、という結論にいたりつつある。

 つまり、革命党が白銅貨偽造によって経済を混乱に陥れたのではなく、経済の混乱を利用して資金を得ようとしたのだ。

 元凶はやはり分からない。本当に悪い奴は証拠を残さないからだ。
 河相驥なる人物も、いくら眼をこらしても、「朝鮮貨幣及び典圜局の沿革」には登場しない。単に老眼で見落としているだけかもしれないが。

 ちなみに、林駐韓公使から本国への書簡である「亡命者兪吉濬ノ使嗾ニ係ハル陰謀暴露ノ件ニ關スル具申」という資料の中に韓国皇帝の密偵として登場する徐相潗(ソ・サンジュ)なる人物は「沿革」の典圜局閉鎖の際のメンバーの中に技手として存在する。
 この人は「徐は久しく仁川に在住し広く商業に従事し相応に資産を有する者にて、かつて典圜局の事業に従事して李容翊と争い一時本邦人方に潜伏しおり、本使(河童註:小林公使)の調停によりようやく李との折合いを附つけたるため、常におりて本使を徳としおる者にこれあり。」とある。
 「沿革」に1ヶ所だけ名前の出てくる人物にすらこれだけのドラマが潜伏しているのである。

 二銭五分白銅貨の第一の謎はかえって深まってしまった。

 やはり二銭五分白銅貨は面白い。

誘惑の韓国貨幣8-二銭五分白銅貨の謎1-(河童亜細亜紀行138)

菊五銭と二銭五分

 さて、二銭五分白銅貨の謎である。

 この貨幣にはいくら考えても結論が出せない謎がいくつかある。

 その1。
 二銭五分白銅貨はなぜ光武2年(1898)にだけ濫造されたのか。 

 これは「日本貨幣カタログ」や「韓国貨幣価格図録」を見たら一目瞭然である。

2銭5分白銅貨01額面2銭5分白銅貨01龍図

 光武2年のものだけ未使用品(製造されたばかりのピカピカのものがそのまま保存された状態)でも二束三文で買える。ちなみに画像は私のコレクションの中では最上のものだが未使用品かといわれればモゴモゴ口ごもってしまう。
 ところがそれ以外の年号のもの、特に光武3年以降のものは並品(使い古されて摩滅した状態)でもびっくりするほどの、ほとんど試鋳貨だった五文銅貨や十文銅貨なみの高値である。

 これはかなり不思議な現象である。

菊5銭白銅貨菊紋菊5銭白銅貨額面


 既に書いたが白銅貨は製造費と額面の乖離から偽造への誘惑に駆られやすく、日本で最初の白銅貨である「菊5銭白銅貨」(上写真。明治22年:1889初鋳)は登場するや否や偽造貨が登場し(河童註:この話は古銭の入門書には必ず書いてあるほど有名なエピソードなのだが初出文献未確認である)、ほどなく稲穂を模った「稲5銭白銅貨」にデザイン変更されている。

稲5銭白銅貨額面稲5銭白銅貨旭日図

 それがこの白銅貨である。

 菊5銭の偽造貨はネットにも挙げられているから「日本人がそんなことするわけねーだろ!」という人は検索して見てほしい。
 ちなみに、

菊5銭白銅貨菊紋菊5銭白銅貨額面

 自分の持っている菊5銭をひっくり返してみて、「五」の字が天地逆さの人は一瞬「すわ、偽物?」と思うかもしれないが、こちらが本物である。最初の写真は分かりやすいように額面の天地を反対にしてある。

 閑話休題(にせんごぶのはなしなんだって)。

 といっても当時はおいそれと圧印機械を持つ人はいなかったから菊5銭はそれなりの寿命(8年)を保っているのだが。
 ちなみに菊5銭は製造工程の全てが日本人の手で行われた初めての貨幣である。それまでは欧米人の指導によって貨幣を作っていたのだ。明治3年(1870)に作り始めて実に19年目の快挙であった。

 二銭五分白銅貨が登場当初濫造・偽造されなかったことについて、「当時の韓国は遅れていたから近代貨幣の偽造など思いつきようもなかったのだ」というのが、「遅れた韓国、近代化してやった日本」という歴史観の持ち主のまず思いつくところではないかと思う。
 しかし、既に書いたように、二銭五分白銅貨の濫造、特に偽造貨の密輸入に深く関わっていたのは日本人なのである。これは日本人の書いた文献が複数あるし、その取締りには日本の官憲が関わっているので間違いのない歴史的事実である。

 既に菊5銭の偽造で美味い汁を吸っていた連中が二銭五分白銅貨に眼を付けないはずがない。既に韓国は列強の介入によって「悪い奴ら」の草刈り場になっていたのである。

 にもかかわらず光武2年までは濫造・偽造が行われなかったのは、典圜局における貨幣製造が、さまざまな不利な条件にも関わらず節度を以て行われていた証拠ではないだろうか。

2銭5分白銅貨04龍図2銭5分白銅貨07龍図
2銭5分白銅貨02龍図2銭5分白銅貨03龍図
2銭5分白銅貨06龍図2銭5分白銅貨03龍図2銭5分白銅貨01龍図


 では、なぜ光武2年に突然濫造・偽造が始まったのか。というか、刻印が光武2年だから、それらの行為は光武元年に始まっているはずである。そして光武6年(1902)には典圜局が製造を停止している。
 そして、現存する二銭五分白銅貨の刻印は光武2年ばかりなのだ。

 謎は深まるばかりである。

 私は日本初の白銅貨であり、かつ全ての工程が日本人の手による菊5銭に再度戻ることにした。「原点(文献の場合は原典)に還る」というのは行き詰ったときの私の常道である。

 自分の収集品の菊5銭を見ていたとき、ふと、「光武2年って日本では何が起こったときだっけ?」と思い当たった。

 光武2年は1898年、明治31年である。

 私は東亜に何か重大な事が起こった年ではないかと思い、日韓関係を韓国の歴史教科書(今日本語訳のものを図書館で借りているのだ)まで含めて調べ、思い当たる事件が見つからずに範囲を日中関係まで広げて調べてみたのだが、せいぜい後に初代朝鮮総督になる伊藤博文が第三次内閣を作ったのと東亜同文会がこの年に創立されたのを見つけたくらいだった。

 私はもう一度、「日本貨幣カタログ」の菊5銭の項目を見た。

 すると、そこには各年でのこの硬貨の発行枚数と状態による価格が書いてあった。菊5銭は100年以上前の古銭にしては値段の安い商品である。

 そして、その下の、稲5銭の項目。同じ内容である。やはり、各年での発行枚数と価格である。こちらは菊5銭より相対的に高価だ。古銭の蒐集家でなければ全く興味のない記事であろう。

 その時、私には天啓があった。

 菊5銭の発行は明治30年、つまり1897年で終わり、稲5銭の発行は明治30年、つまり1897年から始まっているのである。

 これを韓国史で考えてみれば、1897年は光武元年。
 二銭五分白銅貨の濫造された光武2年は1898年、つまり、明治31年、菊5銭と稲5銭が切り替わった明治30年(1897)の翌年なのである。


稲5銭白銅貨額面稲5銭白銅貨旭日図


 もう一度稲5銭のデザインを見ていただきたい。

 明治3年(1870)に欧米人の指導を受けながら貨幣製造に精進し、明治30年には、
青島10セント銀貨表青島10セント銀貨裏

独逸の作った10セント銀貨に優るとも劣らない精巧な貨幣を作るところまで到達したのである。なにせ貧乏人のコレクションであるから両者とも摩滅していて今一つ説得力がないかもしれないが、二つのコインのデザインの精緻さを比べて頂きたい。

 閑話休題(またはなしがそれた)。

 日本を褒める話にはつい筆が滑る。
 そうではなく、我が同胞の悲しい性に触れてしまう話かもしれないのだ。


菊5銭白銅貨菊紋菊5銭白銅貨額面

 菊5銭と、


稲5銭白銅貨額面稲5銭白銅貨旭日図

 稲5銭の間にははっきりした技術的な格差が存在する。
 菊5銭の頃には、稲5銭の額面の稲穂の細い茎・葉や裏面の旭日の細い光線などは、彫刻はできても、白銅にストライク(打刻)して貨幣にすることは日本人単独ではまだできなかったのだ。
 つまり、稲5銭を製造した技術や機械で菊5銭はストライクできても、菊5銭のそれで稲5銭をストライクするのは無理だったということだ。

 とすると、稲5銭の登場によって、菊5銭を製造した技術と機械はその役割を終えることになる。要はそれらは余剰なものになってしまったのだ。それらの技術や機械、そして人員(贋金づくり含む)は、その後どこへ行ったのか。もちろんストライクの技術は貨幣のためだけではないからいずれはさまざまな産業に応用されていったに違いないのだが…。

菊5銭白銅貨額面2銭5分白銅貨07額面修正

 思いついて初めて菊5銭と二銭五分を並べてみた。
 デザインは別にして、製造技術はおそらく同レベルのものである。

 明治30年(1897)は日本で貨幣法が発布され、金本位制が始まった年でもある。

 幕末の金銀本位制の矛盾である金銀比価の弱点を欧米列強に徹底的に衝かれ、大量の金の流出と国内の経済混乱で痛めつけられた日本の悲願が達成された年であった。

 この年、日本の五銭白銅貨はその生命を終え、韓国の二銭五分白銅貨は大濫造が始まる。

 これは私の独断に満ちた推測なので断言や結論は避けたいが、海峡を隔てて通用したこの2つの白銅貨には何らかの相関関係があるような気がする。

 真相はよほど確かな文献が発見されない限り解明されないだろう。もはや当時のことを証言できる人はだれもいないのだから。

 これが二銭五分白銅貨の第一の謎である。

誘惑の韓国貨幣7-二銭五分白銅貨収集の楽しみ-(河童亜細亜紀行137)

完集不可能な古銭

 さて、いよいよこのシリーズの結論部分、「なぜ二銭五分白銅貨の蒐集は楽しいのか」である。

寛永通宝01表寛永通宝01裏


 日本では寛永通宝(写真上)、

安政一分銀表安政一分銀裏

 一分銀(写真上は安政一分銀)、

明治二分金表明治二分金裏

 そして前回紹介した二分判金などに熱烈な収集家・研究家がいることが知られている。

 これはなぜかというと、まずこれらの貨幣が独特の形をしていて人眼を惹くこと、造形が素晴らしく美しいこと、それぞれにストーリーがあること、さらに「手替わり」と呼ばれるバリエーションが非常に豊富であること、などが挙げられる。

常平通宝平安官局表常平通宝平安官局裏


 韓国では常平通宝がこれに当たり、やはり熱烈なファンがいる。

光緒元宝7銭2文銀貨雲南省造額面

光緒元宝7銭2分銀貨雲南省造龍図

 中国では7銭2分銀貨だろうか。全国の造幣所で個性豊かな銀銭が発行されているから(写真上は雲南省造)、自分の出身省のものを集めるだけでも楽しいだろう。ただしこれはあまりにも希少な省のものもあり、1枚が数千万円もする。その場合中国人は精巧なレプリカで満足しているようだ。問題はそれを「本物である」と言って日本人に売りつけようとする人がいることだが。

 こうした視点で二銭五分白銅貨を見ると、

2銭5分白銅貨03額面2銭5分白銅貨03龍図


 まず縦2列に並んだ額面が特異である。私の知る限り日本の近代貨幣にこのような額面のデザインを知らない。そもそも銭以下の桁を表示すること自体が大変珍しい。
 日本ではこのような額面の硬貨は近代貨幣鋳造を模索していた時期の試鋳貨に僅かにみられるだけである。

擁護共和記念貨3銭6分額面
擁護共和記念貨3銭6分唐継堯

 中国には7銭2分銀貨のほかに銀貨にはこのような「半端」な単位の額面があるが、さすがに縦2列に並べるというようなシュールなデザインのものはない。
 ちなみに上写真は擁護共和3銭6分記念幣で、裏面の肖像は例の袁世凱が辛亥革命の果実を横取りして皇帝になろうとしたときに断固として立ち上がって共和制を守った唐継堯である。

2銭5分白銅貨02額面2銭5分白銅貨02龍図


 しかも二銭五分白銅貨の場合、額面が2列に並べられているだけではなく、4文字が全体として正方形になるように配列されている。

2銭5分白銅貨01額面2銭5分白銅貨01龍図

 次に造形であるが、額面の上に李花、そしてそれを取り囲むように左に韓国国花槿、右に朝鮮王朝を象徴する李が配された表面はなかなか優美である。裏面は日本の明治初年の銅貨の龍図に比してむしろ諧謔的だが阿竜と吽龍が相争って楽しい。

2銭5分白銅貨07額面2銭5分白銅貨07龍図

 また、金銀貨のように美しいとはいえないまでも、白銅貨であるために銅貨のように使い古して真っ黒にはならず、また硬度も高いため摩滅しにくくこれだけ流通を重ねても美しい状態のものが多い。

2銭5分白銅貨04額面2銭5分白銅貨04龍図


 ただし私鋳だと思われるものは材質が悪いのか酷く傷んでいるが。この変色の仕方はそもそも材質が白銅ですらないことを示唆している。このバラエティーがまた楽しいのである。

2銭5分白銅貨06額面2銭5分白銅貨06龍図

 この硬貨の持つストーリーについては既に2回話題にしたが、韓国の近代化への模索とその産みの苦しみ、さらに我が日本との絡みは実に興味深く教訓に満ちた話なのだ。

 そして最大の魅力はその手替わり、バラエティーであろう。

2銭5分白銅貨01額面2銭5分白銅貨02額面2銭5分白銅貨03額面2銭5分白銅貨04額面2銭5分白銅貨05額面2銭5分白銅貨06額面2銭5分白銅貨07額面

 今私のコレクションにある7枚を並べてみると、額面を見ただけでそれぞれに字体に違いがあることが素人目にも分かるだろう。

2銭5分白銅貨01額面2銭5分白銅貨02額面

 たとえばこれとこれなど細く優美な字体と太く力強い字体で、同じ種類のものとは思えないくらいに違う。

 専門家に言わせると額面だけで3つに分けられるそうで、上の7つも、

2銭5分白銅貨02額面2銭5分白銅貨07額面2銭5分白銅貨07額面

 「分」の2画目の先端が「戔」の5画目の上に伸びているものと、

2銭5分白銅貨03額面

 「分」の2画目の先端が「戔」の5画目の先端に伸びているものと、

2銭5分白銅貨01額面2銭5分白銅貨06額面2銭5分白銅貨05額面

「分」の2画目の先端が「戔」の5画目の先端の下に潜り込んでいるもの(平行にも見える)の3種類があるのである。

 これはもともと「亡国の白銅貨二銭五分」という論文の著者である丁英夫という方が見つけ出した分類なのだが、自分の持っている7枚で試してみたら見事にこの3種に当てはまったので驚いてしまった。

 ほかにも李枝の葉の数と一番上の葉の位置、雙龍の阿龍の口の形、龍を囲んだ円の大きさなどで分類され、21種類に分けておられる。

 なんでももっと細かく分ければ576種類あるというのだから、全てを収集するのは到底無理だが、打刻された近代銭でこれほどバラエティーがあるものは世界中を見渡してもほかにないのではないかと思われる。

 流石に韓国典圜局による官鋳、特権階級による特鋳・黙鋳、中下級階級による私鋳、日本での偽造と密輸と、さまざまな作られ方で大量に作られただけのことはある。

 これで製造場所などが分かる指標が発見できればもっと興味深い分類になるのだが。

 次回、二銭五分白銅貨の未だ解明されていない謎について。


誘惑の韓国貨幣6-二銭五分白銅貨と典圜局廃止-(河童亜細亜紀行136)

明治二分判金

 韓国初の近代的造幣施設である典圜局の廃止を語る時、欠くことのできない貨幣が二銭五分白銅貨である。 


2銭5分白銅貨01額面2銭5分白銅貨01龍図

 光武8年(1904)8月の第一次日韓条約を締結とともに大蔵省度支部財政顧問となった目賀田種太郎は、一度だけ典圜局を検閲した後、典圜局の廃止案を出し、11月28日、20余年間韓国近代鋳貨の製造を引き受けてきた唯一の造幣機関は門戸を閉ざすことになってしまった。
 前回も書いたようにその後の鋳貨は日本の大阪造幣局で行われることになったから、経済金融の部門で先に植民地化が完成したのである。

 このとき韓国経済混乱の元凶とされたのがこの二銭五分白銅貨の濫造であった。

 「朝鮮貨幣及び典圜局の沿革」には次のように記す。
[原文]
 白銅貨は明治32年中より漸く濫鋳濫発の弊を生じ、加うるに民間贋造貨の正貨と雑(まじ)わりて流通するもの漸く多きを以てし、日本貨と韓貨との交換に打歩を生じ、明治34年頃は日本1圓に対し白銅貨の打歩43.4圜を要するに至り、同35年3月は93圜以上を唱え、貿易渋滞し内外人の破産者続出するを以て日本商民は会議を開き公使に向かって陳情するところあり、すなわち各国公使会議を日本公使館に開きその決議により白銅貨の鋳造中止と私鋳黙鋳の厳禁を韓廷に警告するに至り、日本警察所は贋造者を探知して退韓処分を行う等、物情頗る騒然たり。4月5日典圜局は遂に白銅貨鋳造を停止せり。このとき国分公使館書記官典圜局に臨検せり。しかるに偽造白銅貨の輸入依然として底止するところを知らず。白銅貨の信用いよいよ薄弱なり。増田信之は数年前より縷々朝鮮当局者に忠告しその濫造を警告せしが、ここにいたり偽造取締方に付き日本政府に陳情せしに日本政府は左の勅令(河童註:「白銅貨変造取締令」)を発せり。
[現代誤訳]
 白銅貨は光武3年(1899)中から次第に濫造の弊害が起こり、加えて民間の偽造貨が正式な貨幣に混ざって流通するものが次第に多くなったため、本来は1:1だった日本圓(円)と(信用の低落した)韓国圜(ウォン)との交換にプレミアを生じ、光武5年(1901)頃は日本円100圓に対し韓国圜143圜が必要となり、光武6年(1902)3月は193圜以上が必要となったため、貿易が滞り韓国内外の人に破産者が続出し、日本商人は会議を開き公使に向かって陳情することになり、各国公使も日本公使館において会議を開き、その決議により二銭五分白銅貨の典圜局における鋳造中止と私鋳・黙鋳の厳禁を韓国政府に警告することとなり、日本の警察署は贋金づくりを摘発して韓国外への退去処分を行うなど、世情騒然となった。4月5日典圜局はついに二銭五分白銅貨の鋳造を停止した。このとき国分公使館書記官が典圜局を臨検した。しかし偽造白銅貨の輸入は依然としてなくならなかった。白銅貨の信用はますます低落した。典圜局の創設からかかわってきた増田信之は数年前からたびたび韓国当局者に忠告してその濫造を警告してきたが、ここに至ってその取締りにつき日本政府に陳情したため、日本政府は次の「白銅貨変造取締令」(白銅貨の偽造・変造の禁止、輸出入の禁止の)を発した。

 ここでちょっとだけおさらいしておきたいのは二銭五分白銅貨の製造・発行のされ方である。これには官鋳・特鋳・黙鋳・私鋳・密輸入があった。以下は月刊収集2004年2.3月号掲載の論文「亡国の白銅貨二銭五分」による。

 まず、仁川典圜局で発行されたものを官鋳という。(まともな)近代国家で製造・発行される貨幣は全てがこれに当たり、これ以外のものは現代の感覚ではすべて偽造貨、つまり贋金である。
 特鋳:特権によって製造されたもの。韓国の上流階級が関与。
 黙鋳:私鋳を特権によって黙認されたもの。韓国の上流階級が関与。
 私鋳:公の許可を得ずに製造されたもの。要するに贋金。韓国の中下流階級が関与。
 密輸入:ほとんどが日本で偽造されたもの。 
 特鋳・黙鋳・私鋳・密輸入の総計は官鋳のおよそ7割あったという。官鋳とそれ以外の鋳造法を併せた額はおよそ23,000,000圜。本位貨幣(基準貨幣)である5両銀貨の発行量は19,923圜であるであるから、本来は補助貨幣である二銭五分白銅貨の発行数は異常というほかない。

 ただ、「沿革」の記述は典圜局の濫造・特鋳・黙鋳・私鋳など、主に韓国人にその責めを負わせているが、実はこの濫造問題には日本人が深く関わっている。
 まず、特鋳・黙鋳・私鋳に使用する機械はまだ当時韓国では自力で作ることができず、外国から調達される。これらの機械の調達に地理的に一番近い日本人が大きく関与していたことは疑いの余地がない。
 さらに、「亡国の白銅貨二銭五分」では次のような大阪朝日新聞の記事を引用している。
[原文]
 第一に(大阪)南区、難波区、西区本田九条辺、北区にて100軒余、東区もあり、総て1,000軒くらいは白銅貨製造に従事しおる。このうち製造家主は1組または1家にて5製造所くらい有し、多く支所あり、1製造家にて1日50,000箇より250,000箇を作り1箇1銭くらいの利益あり。(明治35年10月6日)
[現代誤訳]
 貨幣偽造所は大阪の南区、難波区、西区本田九条あたり、北区に100軒あまり、東区にもあり、総計1,000件くらいは二銭五分白銅貨偽造に従事しているだろう。このうち元締めは1組または1家あたり5工場くらいを所有し、その子工場が多くあって、1つの元締めが1日50,000枚から250,000枚(2,500圜から12,500圜)を作り、1枚1銭くらいの利益はある。

 典圜局の製造能力が1日最大20,000枚なのだから、天文学的な数の偽造貨幣が大阪から韓国に流入した酷さが分かる記事である。
 偽造は大阪に加え、京都や岡山でも行われたという。

 「沿革」はさらにこうした濫鋳に対して、次のように韓国政府を評する。
[原文]
 白銅貨の濫鋳・黙鋳は文明的観察眼を以て観れば許し難き悪事なれども、古来朝鮮鋳銭法に慣れて怪疑するところなかりし経済思想幼稚なる国王および当局者はただ従来の鋳銭方法を襲用するに過ぎずとして国家経済上由々しき大事を惹起すべしとは夢想せざりしなるべし。殊に財政困難のために止むを得ず典圜局を濫用せし事情もありしなるべし。増田信之の忠言もこれがために効果薄弱なりしならん。
[現代誤訳]
 二銭五分白銅貨の濫造・私鋳は文明国の眼から見れば許し難い悪事であるが、古来朝鮮式の貨幣製造・発行法に慣れて懐疑するところのない経済思想幼稚な国王および当局者はただ昔からのやり方を踏襲するにすぎないとして国家経済上の一大事を引き起こしてしまうとは思ってもみなかっただろう。ことに財政困難のために典圜局を利用して濫鋳しなければならない事情もあったのだろう。典圜局の後ろ盾である増田信之の忠言もこうした事情のために効果が薄かったのに違いない。

 植民地化を正当化する「遅れた韓国、近代化してやった日本」という見方がよく表れている文章である。

 しかし、日本も含めた東亜では近代以前はそう呼ばれてはいなくても「特鋳」がお上の発行する貨幣であった。政府が直接発行するのではなく、民間・半民間で鋳造させた貨幣を買い上げる形である。日本でも特定の一族に金座・銀座などの造幣所を任せ、できた貨幣を上納させていたのだ。大判小判にその一族(後藤家)当主の花押があるのは有名である。もちろん日本と韓国・中国では日本の方がより官の関与する部分が大きくほぼ官営なのに対し、中韓ではより民間の関与する部分が大きいという相違はあるが。

 鳥羽伏見の戦いに勝利し、江戸を無血開城させた維新政府軍は、金座・銀座を接収した後、戊辰戦争の戦費を調達するために大濫鋳に踏み切る。というより、「古貨幣夜話」の著者である利光三津夫博士にいわせれば、贋金作りである。

明治二分金表明治二分金裏

 それがこの明治二分判金と呼ばれるものである。
 二分判金は当時の日本の基準貨幣といってよいものなのだが、万延期には江戸時代の度々の改鋳によって金品位229/1000まで低下していた。新政府はこれをさらに低下させて222/1000にした。貨幣の1/4も金が入っていないのだからもはや「判金」などとは呼べない。
 かつ「東北通用仕様」として「銀台」と呼ばれるものを作った。こちらは鍍金銀貨、要は金メッキの銀貨である。
 さらに、現在大河ドラマで放映中の「西郷どん」で有名な維新の雄藩薩摩ではこの軍資金用二分判金は「銅台」であった。これは「薩摩金」「さどはら金」と呼ばれて、戊辰の戦場となった東北諸藩で忌み嫌われていたという。当然である。これは鍍金銅貨、つまり金メッキ銅貨なのである。
 これらを二分金だけで38.900.000両も大濫造して戦地にばら撒いた(ほかにも一分銀や小判もほとんど偽金という品位のものを濫鋳した)のだから、当地の人々の苦しみは一方ではなかっただろう。「濫鋳の誉れ高い?」二銭五分白銅貨ですら官鋳私鋳を総計しても23.000.000圜(両と圜はほぼ同じ)なのである。

 実際、幕末から明治にかけての日本の物価上昇はすさまじい。これは海外に門戸を開いたときの金銀比価から起こってきたものだが、当時の日本の指導層には予想できなかったことだ。詳しくは「小塩丙九郎の歴史・経済データバンク」というサイトを参照してほしいが、グラフにするとこの有様である。

江戸時代後期の米価

「『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』より転載」

 明治2年(1868)、諸外国使節は連合して明治政府に悪質貨幣除去を申し入れ、これが日本における近代貨幣製造の契機になるのだから、二銭五分白銅貨問題と同質の事件である。日本では貨幣の近代化によって幕末から続いてきたハイパーインフレはやっと止まる。
 両者には30年ほどのタイムラグがあるものの、あまり偉そうなことはいえない。このときに日本から失われた富と庶民の苦しみは二銭五分問題くらいの規模ではない。二銭五分白銅貨が原因で上がった物価はせいぜい2倍程度なのだ。

 欧米列強が二分判金問題を日本に対する経済侵略の口実にすることもできたのである。

 近代化に限らず閉鎖的な体制が外に向けて開くときにはこうしたことが必ず起こるのであって、これは万国共通といってよい。

 結局典圜局の廃止が1904年であることを考えると、この事件は二銭五分問題が主要因ではなく、日露戦争が最大の要因だったのだろう。日本はこの戦争を開戦した時点で韓国貨幣制度の自力での近代化を援助することを放棄し、自国経済に組み込むことを最終的に決意したのだ。

 他国・異民族のいい方向での変化を援助しようとする人は、自国の経験に照らして今後起こってくる不都合について冷静に予測し、彼らが自力で軟着陸できるように準備しなければならない。もちろん目立たずに。ときには自民族とも諍いつつ。こうした立場の人にはそれだけの頭脳と覚悟が必要なのだ。そうしないと韓国の近代化に「善意」から関わった人々と同じ轍を踏むことになってしまう。

 ましてや混乱や戦乱を利用して名声を得たり私利私欲を貪ったりする者は歴史から断罪されることを覚悟しなければならない。
 「近代化してやった」どころではないのである。 同じ日本人としてこれほど恥ずかしい言葉はない。古来謙譲を重んじる我が大和民族は事の成就に自分の力が与っていたとしても「してやった」などとは言わないものだ。

 そうした視点で見る韓国近代貨幣黎明史と典圜局の沿革は我々日本人に大いなる反省と今後の展望を齎してくれることだろう。

 古銭1つで話が高尚になりすぎた。
 次回はなぜ二銭五分白銅貨の蒐集は楽しいかについて。
 

誘惑の韓国貨幣5-龍山典圜局と鷲半圜銀貨-(河童亜細亜紀行136)

鷲五十銭銀貨

 光武2年(1898)、仁川典圜局を拡張させる代わりに龍山に移転することになった。それまでは日本において金属を融解延伸し、刻印のための円形金属板を作成していたのだが、これを全て典圜局内で行えるように計画したのである。

 ところが、今度は韓国内の政変によって移転に困難を来すことになった。
 当時韓国内では日本の勢力と露西亜の勢力が鬩ぎ合っていたのだが、日本の勢力拡大に危機感を抱いた韓国当局が親露に大きく舵を切り、それに対する日本の反発がまたさまざまな軋轢・暴発を生み、それが典圜局にも大きな影響を及ぼしたのだ。

 光武元年(1897)、露西亜人アレクセーエフが韓国政府顧問となり、駐韓ロシア公館内に韓露銀行が創立された。この銀行はペテルスプルグ(St.Petersburg)に本店を置いており、第一東亜支店として開設された。この創立の目的は日本第一銀行の勢力を減弱させることであった。第一銀行は既に韓国の経済を牛耳る存在までになっていたのである。

新一圓銀貨丸銀打額面

 光武5年(1891)には貨幣条例が発布されて日本の一圓銀貨が韓国内での流通を禁止させられたのもこうした政策の一環である。
 ちなみにこの銀貨の表面に打たれた〇銀の刻印は韓国内限定流通の証明である。

 「近世朝鮮貨幣及び典圜局の沿革」には移転推進と中止の命令が交互に下されて現場が混乱する様や、そうとは書いていないがどうやらストライキらしい韓国人職工の多数休業などが記されている。典圜局完成間近には工場の大部分を焼いてしまうような火災も起こったという。
 ストライキの責任を取らされたのか技師長や管理者が交代しているが、この時点で管理署理(総括)、局長、局長事務委任、技師などに多く韓国人が任命されていることがわかる。

鷲半圜銀貨額面鷲半圜銀貨鷲図


 移転した典圜局で製造された貨幣の意匠には、露西亜の意を受けて従来の雙龍ではなく、露西亜硬貨に類似した鷲が刻まれていた。 ただし、露西亜の鷲は双頭だがこの貨幣の鷲は単頭の鷲である。
 試鋳貨として20圜、10圜、5圜の鍍金銅貨、半圜銀貨、通用貨として半圜銀貨、5銭白銅貨、1銭青銅貨が製作された。10圜金貨と半圜銀貨の種印は田中重太郎が、その他は蒔田一太郎が彫刻したと記録されている。
 ところが試鋳貨はもちろん、通用貨も宮廷に収められたものの発行されることはなく、日露戦争中に大阪に回送して融解され、新貨幣に改鋳されてしまった。
 したがってこの貨幣は流通貨であるにも関わらず事実上は未発行であるから頗る高価である。したがって上写真は私の所蔵品だが勿論ごく安価なレプリカである。

朝鮮半円銀貨大型額面
 これが鷲貨幣の代わりに作られた新貨幣である。
 大阪造幣局で作られたこの半圜銀貨は鷲半円銀貨と額面は寸分変わらない。

朝鮮半円銀貨大型龍図

 しかし裏面は日本の明治初期の銀貨と同じ龍図である。

 「沿革」では「鷲から龍へ」の経緯について淡々と記述するのみであるが、この間の韓国政府の貨幣政策の大きな揺れ動きについては我が日本に大いに責任がある。

 「沿革」の記述を追っている限り、京城典圜局が創立されたときには韓国でまだ熟していなかった近代貨幣製造の技術が、10余年の歳月を経るうちに発達し成熟しつつあったことが伺われる。それは記録に残る典圜局のメンバーの民族を見てみれば明らかである。
 光武3年(1899)の龍山典圜局発足の際のメンバーは、管理署理(総括):朴斉純(パク・チェスン)、局長:李容翊(イ・ヨンイク)、局長事務委任:崔錫肇(チェ・ソクチョ)、技師:徐相準(ソ・サンスン)、劉漢容(ユ・ハンヨン)、朴某(原文のママ)、李命順(イ・ミョンスン)、ほかに韓旭(ハン・ウク。1893年日本派遣伝習生の一人)その他。
 マネジメント、技術職ともに韓国人の占める比率が大幅に高まっているのである。
 極印製造をする彫刻師だけは一貫して日本人が掌握しているのが気になるところだが、この問題さえ解決すればもはや日本人の手を離れて近代貨幣製造が軌道に乗りそうな形勢である。

 ところが、実際の経緯はその正反対を辿る。

 せっかく巨額を費やして移設された龍山典圜局は光武8年(1904)10月21日永久に廃止され、11月9日には事務長技師補助員職工一同が解雇される。

 この時解雇されたメンバーのうち局長1人、技師5人、技手20人、主事10人が韓国人であり、「外に」として韓旭ほか技師9人、技手4人、主事4人の中途任命または退職者がいて、さらに「韓人職工数」が鋳造所・鉄工所・分析所等に130人、印刷所に80人、造紙所に40人いたようだ。この中には韓国初の近代貨幣極印彫刻師李行一(イ・ヘンイル)の名前も技手として見える。

 彫刻師と金属分析師は相変わらず日本人が占めているが、おそらくは韓国人局員たちのこれまでに経てきた経験からして、日本人がいなくとも立派にやっていける陣容である。

 にもかかわらず典圜局は廃止され、韓国における造幣は翌光武9年(1905)より全て大阪造幣局で行われることとなった。

 造幣は一国経済の根幹を為す部分である。他国の貨幣を通用させるということはその通用を行った国がその造幣を行った国の一部、または属国であることを意味する。
 つまり、韓国の貨幣が日本で製造されたということは、韓国が日本の属国になったことを意味するのだ。正式な合邦は1910年だが、その5年前に韓国は既に実質的に日本の経済圏に飲み込まれてしまったわけである。

 これには「亡国の白銅貨」といわれる貨幣が少なからず関係している。次回はその二銭五分白銅貨の話である。

誘惑の韓国貨幣4-仁川典圜局と李花一圜銀貨-(河童亜細亜紀行135)

李花一圜銀貨

 高宗29年(1892)、典圜局を仁川に遷していよいよ韓国での本格的な近代的鋳貨が開始される。
 以下、「朝鮮貨幣及び典圜局の沿革」とそれを参照したと思われる「韓国貨幣価格図録」の記述を参考にその経緯を振り返ってみる。
 仁川典圜局は、創立当初から日本の強い影響力を受けていた。高宗28年(1891)に典圜局幇弁安駧壽(アン・トンス)を日本に派遣して人選し、典圜局の要職を日本人が引き受けることとなった。彫金技師は東金之助、圧印方は福田卯吉・福田茂七と、貨幣製造の現場も日本人である。

 注目すべきはこれに先立つ高宗28年(1891)、典圜局は学生李享順(イ・ヒョンスン)、河聖根(ハ・ソングン)を大阪造幣局に派遣し、9ヶ月に渡って貨幣製造技術を伝習させ、また翌年には学生韓旭(ハン・ウク)を大阪に派遣して造幣機械のことを勉強させていることだ。
 単に完成した技術を輸入するだけでなく、技術の基盤をなす学問や体制そのものを官が派遣して吸収し始めたわけである。そもそも安駧壽自身が適当な日本人を選定するのに日本留学時代のコネを使っているのだ。

5両銀貨額面5両銀貨龍図



 そして高宗29年(1892)12月4日五両銀貨(単位貨幣1圜の重量表示貨幣)の鋳造を開始した(上写真は私が所蔵のレプリカ)。
  当時のグローバルスタンダードの銀貨は西班牙の8リアル銀貨に倣ったいわゆる1ドル型の銀貨であり、そろそろ金本位制を取り始める国が多かったものの、日本では1圓銀貨が実質的な本位貨であり、韓国でも当初は1圜が額面の銀貨の発行が企図されたようだが結局のところその重量表示である5両に額面が落ち着いたようである。

  これには当時韓国の宗主国を自認していた清国の意向が働いていたかも知れない。何せ当時韓国へのお目付役であった袁世凱が貨幣の刻印の「大朝鮮」の文字に因縁をつけて「大」の文字を削らせたという逸話があるくらいである。
  「圜」という韓国独自の通貨単位(実は「圓」や「円」と同じく「元」の別字に過ぎないのだが)が袁世凱の目に留まって変えさせられた可能性もないわけではない。

  それにしても流石は東亜に悪名の轟く袁世凱、戊戌変法を裏切り、辛亥革命から国を奪っただけでなく、こんなところにまで顔を出しているとは。

 閑話休題(それはさておき)。

 五両銀貨と1圜銀貨(李花)のデザインは額面を除けば瓜二つであるが、五両銀貨の製造枚数の方が多く、五両銀貨の発行枚数が19,923枚、銀貨製造のために輸入された素銭(円形素材)が20,000枚だったことから推測すると77枚以内鋳造されただけだった。

李花一圜銀貨額面(レプリカ)
李花一圜銀貨龍図(レプリカ)


 朝鮮王朝末の2つの1圜銀貨、太極徽章(巴)1圜銀貨と李花1圜銀貨は貨幣収集界では最も収集しにくい銀貨の一つとして知られている。高価であるだけでなく、モノがないのである。上写真は私の持っているものだがもちろんレプリカである。大抵の韓国古銭ファンはこの2枚についてはレプリカでも致し方なしと思っている人が多い(ような気がする)。

 このとき仁川典圜局で製造された貨幣は、5両銀貨、1圜銀貨のほかに、1両銀貨、2銭5分白銅貨、5分青銅貨、1分黄銅貨である。

 このうち1両銀貨は手に入りにくい5両銀貨や1圜銀貨と額面を除けば同一デザインである。この銀貨は比較的手に入りやすいので(といっても古銭に価値を認めない人には「馬鹿じゃねぇの」という値段だが)、この銀貨の拡大図を掲げることでこれらの銀貨のデザインの素晴らしさを鑑賞していただきたい。

朝鮮1両銀貨龍図朝鮮1両銀貨額面


 龍図は大阪造幣局技師益田友雄、韓国皇室を象徴する李と韓国国花である槿の交叉枝は同じく江上源次郎が彫刻したという。

 さて、当初は順調に鋳銭を重ねていた典圜局だが、関係する日本人同士に争闘が起こり、結局日本人は高宗30年(1893)ほぼ全員が本国に引き上げることになってしまった。
 この内輪揉めを収拾したのは安駧壽であって、当初依頼した日本人に大阪造幣局との折衝を委任するともに彫刻師東金之助を伴って帰国し、典圜局を再開した。

 この事件は貨幣製造の主体を韓国人に移行させる副産物があったらしく、「沿革」には「日本人退去の後は貨幣圧印は全く朝鮮人の〇〇〇(活字が潰れていて判読不明)を監督として海関税務司米国人阿茲(アルツ)に嘱託せりと云う(現代語訳:日本人が韓国から去った後は貨幣捺印は全く韓国人の手によって監督され、米国人税関職員アルツに嘱託されたという)」とある。

 高宗32年(1895)に典圜局拡張の話が持ち上がって大阪造幣局技手益田熊太郎が視察したときの仁川典圜局機械長は韓旭(1892の伝習生)、彫刻技師は李行一(イ・ヘンイル)、主事は李鎔成(イ・ヨンソン)と、貨幣鋳造の実務は既に韓国人が担っていたことが分かる。
 特に彫刻技師の李行一という人は近代貨幣における記録に残る韓国初の金工師である。日本でいえば加納夏雄だ。

旧1円銀貨龍図


 加納夏雄のデザイン・彫刻した竜図(上図)は世界的にも有名で、本人も後に東京芸術学校(現在の東京芸術大学)の教授に推挙されるが、李行一について私はこの論文以外に何も得る情報がない。

 これはあくまでも推測に過ぎないが、日本人内紛の混乱にも関わらず2銭5分白銅貨だけは他の年度よりも多く順調に発行されているから、この銭貨の極印を刻んだのが李行一なのかもしれない。
 というのは、硬貨の極印は沢山圧印するほどに摩滅してきて刻印が不鮮明になり、刻み直すことが必要になるからだ。

 東金之助が再渡韓せず、あるいはいずれ腕の上がった李行一に彫刻師を譲り、彼が主体となって仕事を続けていれば、1900年代前半には本当の意味で韓国オリジナルの貨幣が誕生したかもしれない。

 だが、目まぐるしく変化する情勢は遂にそれを許さなかったのである。

誘惑の韓国貨幣3-漢城典圜局と太極徽章一圜銀貨-(河童亜細亜紀行134)

巴一圜銀貨

 大東銭発行の翌年高宗20年(1883)には典圜局が設立され、いよいよ本格的な近代貨幣発行に着手する。典圜局は最初漢城(ソウル)に設置された。
 典圜局では独逸から近代貨幣製造のための機械を購入する。
 近代貨幣を作るためには地金を融解して延伸して延べ板を作り、それを円形に打ち抜いて円形金属板にし、それに極印で図案を圧印する必要がある。
 旧式貨(鋳造)が坩堝と鋳型があれば事足りてしまうのと違い、大掛かりな工場が必要となり、その分費用も嵩むのだ。
 論文では典圜局がどんな機械を輸入したか、その個数まで記録している。また、工場におけるその配置についても大まかな記載がある。このあたり記録として大変貴重なものだ。

 ところが、次に大変興味深い一節がある。
[原文] 貨幣用の円形および極印もまた独逸において製造せるものなりしか(下線は河童)、その彫刻に不充分なるところありこれを修正せしめんがため彫刻師を募りしもこれを得ず、遂に朝鮮政府より日本政府に照会のすえ、造幣局技手稲川彦太郎、同池田隆雄を選抜して典圜局の招聘に応ぜしむることを得たり。
[現代誤訳]
 近代貨幣用の円形金属板および極印もまたドイツで製造したのだろうか、その彫刻に不十分なところがあって、それを修正するために彫刻師を募ったのだが適当な応募者がおらず、遂に朝鮮政府から日本政府に照会して、造幣局の技術者である稲川彦太郎、同じく池田隆雄を選抜して典圜局の招聘に応じさせることができた。
 つまり典圜局では当初円形金属板と極印について独逸で製造させたのではないかと筆者は推測している。
 ところが、「その彫刻に不充分なるところ」があったというのだ。
 当時の独逸の貨幣製造技術は世界に冠たるものである。

青島10セント銀貨表青島10セント銀貨裏
 写真は少しだけ時代が下るが、独逸領であった中国青島で使用されるために製造された大国徳宝一角銀貨(10セント)である。10セント銀貨のごく小さなスペースに実に精緻な文様が刻み込まれている。
 筆者の言う通り円形金属板も極印も独逸に注文したのであれば、よほど値切って相手を怒らせたのでない限り「不充分」なものができたとは考えにくい。
 機械については「何を何台」と具体的に書いてあるから間違いなく独逸に注文したのだろうが、特に極印についても独逸から輸入したという筆者の推測は俄かには信じがたい。

 私は当初典圜局では韓国人が極印を彫った、もしくは彫ろうとしたのではないかと思う。そうだとすると、近代鋳貨に不慣れな彼らの彫った極印が「不充分」であったというのも当然考えられるし、「彫刻師を募りしもこれを得ず」という記述も納得がいく。

 現存する貨幣から考えると、最初に作られた極印は20圜金貨、10圜金貨、5圜金貨、2圜金貨、1圜金貨、1圜銀貨、5両銀貨、2両銀貨、1両銀貨、半両銀貨、20文銅貨、10文銅貨、5文銅貨、2文銅貨、1文銅貨の15種類だったようで、それぞれ金貨は鍍金錫(金メッキをした錫)に、銀貨は鍍銀錫(銀メッキをした錫)に、銅貨は青銅(ブロンズ)に打刻した試鋳貨が残っている。錫に打刻しているのはこの金属が軟らかく割れにくくてて加工しやすいからだろう。
 試作してみると刻印のズレ、潰れ、不鮮明などの不具合が出て「不充分」ということになり、修正したら実用可能のもののみ通用貨として発行されたのだろう。

 結局実用貨として現存しているのは太極徽章の入った1圜銀貨(日本では「巴」と呼ぶ)、10文銅貨、5文銅貨の3種類で、これが日本から招かれた稲川彦太郎と池田隆雄が修正した極印で打刻されたものと推定できる。

 これらの通用貨の発行枚数は「日本貨幣カタログ」では「不明」となっているが、「沿革」には大まかなところが書いてあり、1圜銀貨(巴)が1300余枚(圜)、銅貨を合わせて総額4000圜内外というから、ごく少数の発行にとどまったようである。

 このときに作られた硬貨は試鋳貨も通用貨も2つのものを除けばどれも車が買えるほど高価なので、もちろん私のコレクションにはなく、写真を掲げることができないのが残念である。10文銅貨と5文銅貨はこれらの中では比較的安価だが、それにしてもよほどこの時代の韓国貨幣に惚れ込んでいない限り出せない値段である。そうでないものはまず間違いなくレプリカである。

 ただ、これらの貨幣に共通する雙龍図はなかなかの迫力で以前から気に入っている。先述した通り極印の原案や試作段階での原型は韓国人の手によるものである可能性はあり、そうだとすると当時の韓国の金属加工技術は相当レベルの高いものと考えられる。しかし残念ながらそれを示す文献は寡聞にして知らない。 

誘惑の韓国貨幣2-モダンなアンティーク大東銭-(河童亜細亜紀行133)

大東三銭

 現物が残る限りの近代的形式で作られた韓国最初の貨幣は高宗19年(1882)の「大東銭」という3種類の銀貨だろう。一銭、二銭、三銭がある。

 ただし、現代の硬貨と同じ本格的な近代貨幣ではない。
 近代貨幣は金属を融解・延伸した金属板を円形に打ち抜き、それを刻印で打刻して製造される。しかし、この大東銭は東亜の伝統的銭貨である円形方孔からは脱しているものの、まだ融解した金属を鋳型に流しいれて固める鋳造によって製造されている。

 大東銭は残念ながら私のコレクションにないので、写真や図を掲げることができない。したがってネットで検索してほしい。

 ただ、実物を見るとなかなか優美な雰囲気の銭貨で、裏面には七宝が嵌め込んであるなど、現代のカラー貨幣の嚆矢ともいえるユニークなコインである。このポップさが韓国人のデザインの真骨頂ではないだろうか。
 ただし、図案が単純なので偽造がしやすかったのと退蔵されたのとでほとんど流通しなかったらしいが。

 私の馴染みの骨董屋(といってもこのあいだ何十年ぶりかに行ったのだが)の主人にいわせると、韓国人は事物を単純化するのが上手だという。そうやって省エネを図るのだ。細部の変化にこだわる日本人と対極である。その例としてずっとデザインが変わらなかった常平通宝とハングルを挙げていた。

 大東銭は本物でも3枚合わせて150,000円くらいで買えるから、金と暇を持て余している人は集めてみるといい。
 レプリカは1枚1,000円くらいでこれも同じようなものだから楽しいのだが、どうかするとこれを古色蒼然とした雰囲気に細工して本物として売る性質の悪い人々がいて、この人たちが絡んでくると古銭の蒐集も途端に楽しくなくなるから、やはり信用のある貨幣商でちゃんとしたものを買ってほしいものだ。

常平通宝

 大東銭の鋳造と共に「韓国の寛永通宝」とでもいうべき「常平通宝(上の写真)」の近代的製造(打製)の試鋳も行われているが、こちらは通用銭までも行っていない。「葉銭(常平通宝の別名)で十分用が足りるのになんでわざわざコストのかかる方法で小銭を作らなきゃならんのだ」という意見があったことは想像に難くない。

 こちらは「韓国貨幣価格図録」に値段すら載っていないから、博物館にしかない銭貨と考えていた方がいいだろう。

 この貨幣が鋳造された年に壬午軍乱が起こっている。
 これに先立ち近代化を目指す韓国政府は別技軍という近代装備を持った軍を旧来の近衛軍とは別に編成し、日本軍人を顧問として訓練を行っていたのだが、これに対して待遇と日本の介入に不満を抱く旧軍が反乱を起こし、これに群衆が加わって開化派の政府と日本人を襲撃した事件である。
 この事件で開化派は失脚し、清朝を宗主とする守旧派の政府が成立する。

 貨幣の形状から見て大東銭は近代化を目指す勢力が鋳造したものと推測されるが、守旧的な勢力が政権を取った翌年に近代的造幣所である典圜局が創立されているから、貨幣の近代化については開化・守旧を問わずある程度のコンセンサスがあったことが考えられる。

 何はともあれこの大東銭によって韓国近代貨幣の黎明期は始まったのである。



誘惑の韓国貨幣1-再燃してしまった古銭収集熱-(河童亜細亜紀行132)

二銭五分白銅貨

 困ったことに古銭の蒐集熱が再燃してしまい、ブログの更新がすっかり滞っている。

 カメラ熱の場合は撮った写真を公開したいという動機からブログの更新にはプラスに働く面もあるが、古銭収集はそうはいかない。仕事をしている以外の時間はフリマだのオークションだの古銭の本だのを 見ているから、ブログの更新などする暇がない。

 しかも、古銭というのはあまり笑いの種にならない。要はカネなのだから。カネの話というのは人間の欲望が生々しく現れるから、笑いの中でも「ヒヒヒヒヒ」というような卑しい笑いとなる。

 ではどんな古銭をまた集め始めたかといえば、韓国は朝鮮王朝末期に発行された「二銭五分白銅貨」というものである。この白銅貨については仁川旅行に行ったときに一度書いた。


韓国仁川ミステリー?ツアー7-古銭マニアの見た韓国近代化への苦悶-(河童亜細亜紀行66)

 この硬貨は国を傾ける程濫造されているから値段が安い。ときにはサンドイッチ1つより安く買うことが出来る。もっともそういうものは極めて状態が悪い。
 本来蓄財として古銭を考えるならばいわゆる「並品」「劣品」とよばれるようなそんな状態のコインは何の価値もないのだが、私にとってはむしろ「未使用品」や「極美品」と呼ばれるような良好な状態のものよりもよほど価値がある。
 その理由についてはこの文章を最後まで読んだ人には氷解することだろうが、そんな人は100人に1人もいないだろう。だからこの文章は人に読んでもらうものというより、本来の意味でのブログ(日記・備忘録)である。

 さて、せっかく収集するからにはその銭貨についてできるだけ勉強したい。
 またぞろ仕事とは何も関係ない学問にのめり込みつつある私である。

 そんな中、甲賀宜政「近世朝鮮貨幣及び典圜局の沿革」という論文に巡り合った。
 著者は戦前の「末は博士か大臣か」と呼ばれたころの工学博士で、ネットで検索するとその著者名と著作はたくさん現れるのだが、ご本人がどういう人かはほぼ情報がない。明治末から大正・昭和初期にかけて活躍した人らしい。
 「典圜局」というのは朝鮮王朝末期の韓国における日本の造幣局のような役所である。

 この論文を読むと、前回韓国の古銭について書いたときよりも格段にこの国の近代貨幣の黎明期の知識が深まった。前回参考にした「亡国の白銅貨二銭五分」や「韓国貨幣価格図録」の記述だけでは分からなかった部分である。

 この論文は日韓併合後の大正3年(1914)に日本の朝鮮総督府の月報に掲載されたものであるから、「遅れた韓国、近代化してやった日本」という論調なのは致し方ないが、事態の推移(日本人視点の)や人事など、現在ではなかなか分からない部分が書いてあるという点で貴重である。

 既に前回の文章で書いた部分もあるが、「貨幣価格図録」と「沿革」を照らし合わせながら、韓国近代貨幣の黎明を簡単になぞってみたい。

祝! 世界遺産決定の崎津集落へ行く4-観光船に乗る-(河童日本紀行594)

崎津のマリア像

 諏訪神社を後にした私たちは船着き場に急ぐ。実は教会を離れるときに観光船の予約をしていたのだ。

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  船着き場に行ってみると、もう船は出航寸前であった。諏訪神社で時間を潰し過ぎたのだ。
 石碑を見つけたときは写真を撮るだけでなく、必ず碑文もその場で確認して解読することにしている。そうしないと、光線や撮影手腕の関係で解読不能な写真が写っていたりするからだ。今までにもう二度と訪れないであろう土地の貴重な石碑の解読を何度も断念しているのである。

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 教会を普段は見ないアングルで見ながら船に乗り込む。

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 教会の足元に漁船が並んでいるこの定番のアングルも望遠レンズを使わずに撮影可能である。

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 庭が直接海に開けている民家の構造はどこかで見たことがあると思ったら、以前住んでいた福岡県柳川市のクリーク沿いの民家の造りと同じなのだ。
 一つだけお願いなのはあまりに身近だからとここからそのまま海に生ゴミなどを捨てないでほしいということだ。以前別の港でそうした行為を見たことがある。海は私物ではない。

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 写真を撮りながら船頭さんのガイドを聞くのだが、なかなか興味深い話を聴けた。

 私は世界遺産の登録名がなぜ「潜伏キリシタン」という私たちにはあまり聞きなれないものなのか疑問だった。私たちの馴染みの名称は「カクレキリシタン(全て片仮名で表記)」である。
 これも明治期に関係があるのである。この時期の吉利志丹たちの行動によって江戸時代の禁教にも信仰を守った人々は2つに分類されるのだ。

 それは明治6年(1873)の禁教令廃止によってキリスト教信仰が解禁された時の行動である。

 このとき、多くの吉利志丹たちは禁教以前に布教された本来の宗派であるカトリックに復帰する。この人たちは「布教→禁教→潜伏→復帰」というルートを辿ったという意味で「潜伏キリシタン」と呼ばれる。だからこちらはカトリック教会の立場からの言葉である。「信徒発見」などという言葉もこうした語の一種であろう。

 一方、カトリック教会に復帰しなかった人々がいた。この人たちは禁教後に自分たちが守り、独自の進化を遂げた宗教をそのまま守ることになった。「カクレキリシタン」と呼ばれるのはこの人たちである。明治初年の極めて厳格なカトリック教会の立場からいえば、神仏や祖霊をも信仰する彼らは「異端」と呼ばれる一団であったろう。カトリックの教義により祖霊を崇拝できないことも、彼らがカトリック教会に再入信しなかった理由の一つと目されている。
 2014年になってローマ教皇庁は「(カクレキリシタンは)古いキリスト教徒であり、キリスト教徒と見做さない理由はない」との声明を出し、現在ではキリスト教徒と見做されている。
 「カクレキリシタン」と仮名で書くのはもはや隠れていないからで、「離れキリシタン」という別名を用いないのは、「異端である」という差別的な意味合いがあるかららしい。

 つまり、禁教期には「隠れキリシタン」=「潜伏キリシタン」であり、禁教が解かれてからは「カトリック教徒」と「カクレキリシタン」になったわけだ。

 明治初年には両者はほぼ同数だったらしいが、その後の日本の近代化と共に後者は減り続け、現在はごく少数の信者が信仰を守り続けているという。

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 船頭さんに聞いたもう一つ興味深い話は、大江天主堂のことである。
 私はこの天主堂は、そのストーリー性といい、信仰の歴史といい、素晴らしい景観といい、崎津の天主堂と共に世界遺産に相応しいと思っていた。だからこの天主堂が候補にすら挙がらなかったことがショックだったのだが、やむを得ない事情があったようである。が、ここでは触れまい。

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 いろいろな話を聞きながら、また崎津の漁に関係する自然現象の話を聞いたりしているうちに、船は私たちの目的であるマリア像に近づく。

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 この像は漁師たちが安全を祈願して漁の途中で礼拝するものである。

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 この角度から見るのは船に乗って沖からでないと無理なのである。本来この像を礼拝するのは正面からなので、まさに漁師たちのために建てられたマリア像なのだ。

 この像は昭和49年(1974)の建立だからそれほど古いものではないが、なんだか気高い有難い雰囲気の像である。

 今回は時間がなくて見られなかったのだが、この像の背景に夕陽が沈むさまは実に神々しい景色らしい。次に来るときには「マリアと夕陽」を見てみたいものだ。

ヤバいぞ日本

 私は以前崎津の天主堂を撮影しようと駐車した公共施設の近くに大きな廃校を見つけてショックを受けたことがある。

天草下島おかえり旅行5-海上コテージと教会と廃校-(河童日本紀行316)


 それについては上の項を参考にしてほしいが、世界史的に貴重なこの集落を観光客しかいない土地にしてはならないと思う。
 私のこの言葉が単なる杞憂でないほど天草の人口減少は深刻である。

雑魚の美味さを知る男

 豊かな自然、美味しい食べ物、そして「崎津の知恵」に見られるような寛容で穏やかな人情を「失われた美しい過去」にしてしまわないように、熊本県民みんなで考えていきましょう(大風呂敷)。

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 最後に、なぜか海にいた可愛い川烏の姿を見ながらさようなら。

祝! 世界遺産決定の崎津集落へ行く3-血税運動記念の石碑-(河童日本紀行593)

富津血税運動石碑

 「すわ! 神社(仮名)」 から崎津教会を見下ろしながら感慨に耽っていた私は、ふと境内に建つ石碑に気付いた。

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 「富津血税運動記念塔」と刻んである。

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[碑文]
 明治6年6月14日この境内から生活と人権を守る血税運動を起こして生命を落とされたり阻害された人々の名誉を回復し、平和と安定を望み、その歴史を後世に正しく伝えんがため、関係地にしるしを建立し奉納するものである。
 事後133年記念 2006年6月吉日

 富津というのは崎津と今富を合わせた村名だが、「血税運動」は崎津が中心の運動であり、当時は「騒動」と呼ばれた。
 明治6年といえば徴兵令が発布された年であり、日本全国にその反対運動である血税運動が巻き起こったのだが、熊本県でその運動が最も激しかったのがほかならぬこの崎津なのである。
 崎津神社境内はその集会が行われたところであり、運動の指導者は漁民の吉川寅太郎であった。

 徴兵令の中には次の一節がある。

 均(ひと)しく皇国一般の民にして国に報ずるの道も固(もと)よりその別なかるべし。およそ天地の間一事一物として稅あらざるはなし。もって国用に充(あ)つ。しからばすなわち人たるもの固(もと)より心力を尽くし国に報ぜざるべからず。西人(せいじん)これを称して血税と云(い)う。その生血(しょうけつ)をもって国に報ずるの謂(いい)なり。かつ国家に災害あれば人々その災害の一分(いちぶん)を受けざるを得ず。この故に人々心力尽くし国家の災害を防ぐはすなわち自己の災害を防ぐの基(もと)たるを知るべし。(下線は河童)
[現代誤訳]
 日本の一般国民であって国に貢献する道にもともと士農工商の別はない。およそ天地の間のどこの国でも税のない国はない。国民の納める税金によって国家は運営されているのだ。だからもし人であるならば心身を尽くして国に貢献しなければならない。欧米人は兵役を称して「血税」という。その心血をもって国に貢献するという意味である。もし国家に災害があるならば人々もその災害を受けざるを得ない。だから、人々が心身を尽くして国家の災害を防ぐのは自己の災害を防ぐことになるのだということを知りなさい。

 農民や漁民が徴兵制に対して反対運動を起こしたのは徴兵令の一節の「血税」という言葉を「自分たちの血を絞って税として収めなければならないのだ」と誤解したからだという説があって、「熊本の歴史5」(熊本日日新聞社刊昭和37年)にも堂々とその説が開陳されている。

 「天草の崎津では、明治六年六月、村民約四百人が村の役人の家に押しかけ、これを打ち壊すという騒動が起こっている。これも血税の文字を誤解したために起こった騒動であった。騒動は直ちに鎮圧され、おもだった者は処罰された。」

 確かに運動に加わって逮捕された人々の供述書にも同様の趣旨のことが書いてある。
 しかし、私はどうも腑に落ちない。
 苓南の人々が天草島原の乱に参加しなかった理由が他所と隔絶されていたからだとか、徴兵制の反対運動が無学の故だとか、崎津における独自の動きに対する解釈は状況証拠からすると不自然なのだ。

 徴兵令の中から「血税」という単語を抽き出せる人が、前後の文脈を理解できなかったとは到底思えない。これは騒動を穏便に済ませるための方便のように思えるのだ。「心得違い」と同様の手口である。

 「穏便に」といっても、血税運動に参加した人に対する懲罰は厳しいもので、吉川寅太郎をはじめ首謀者と見做された人たちは尻の肉がズタズタに裂けて柘榴のようになるまでの笞刑に処せられたという。寅太郎の弟の永一ともう一人の指導者松永寅松は帰村せず、その後消息不明である。指導者たちは刑罰の後遺症で皆短命だったという説もある。碑文の中に「生命を落とされた」とあるのはこの説を踏まえたものなのだろう。もっとも吉川寅太郎は94歳まで生きているが。(詳しい話は慶応義塾大学学術情報リポジトリに「明治六年・天草血税一揆裁判小考」という論文があるので参照されたい。)

河童の一揆

 崎津の歴史を素直に解釈すれば、宗教弾圧には柔軟に対応して隠忍自重した人々が、徴兵令には堪忍袋の緒が切れたのだ、と思える。
 これは働き手である壮年男子を一銭五厘で持って行かれてはかなわないという面もあったと思うが、やはり「平和に暮らしたい」という強い継続した意志によるものではないだろうか。

 なぜそう思うかといえば、崎津では明治10年の西南戦争における政府軍の輜重運搬への徴用に対しても反対運動が起こっているからだ。西郷軍に馳せ参じたわけではないから、これはどちらかに与するために起こったものではない。

 崎津を見るときに吉利志丹という視点だけでなく、明治日本の光と影という視点から見ることも必要であろう。その方がよりよくこの土地のことが分かるのではないだろうか。

祝! 世界遺産決定の崎津集落へ行く2-諏訪神社にて-(河童日本紀行592)

諏訪神社と崎津教会

 客船乗り場の近くの駐車場に車を停めて、まず教会に向かう。

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 教会そのものは昭和8年(1933)の建立だから、物凄く由緒のある建造物というわけではないけれど、漁村の「せどや(路地)」の中に立った武骨なゴシック様式はやはりこの町に実に似つかわしい。

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 現地に来ないと撮れない映像である(偉そうに)。

 ただ、私は教会そのものよりも、教会の建つ街全体の雰囲気が好きだ。

 教会は地元の祈りの場であり、折から日曜で礼拝が行われていたので早々に退散する。本当は日本でも珍しい(もちろん他国にはない)畳敷きの内部も見どころなのだが、私は他者の信仰を尊重する男なので物見遊山で不仕付けに闖入したりはしない。

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 「すわ!神社(仮名)」である。

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 境内から眺めると、この神社が街全体を見下ろすような位置に建てられていることがわかる。
 このことを以て「『すわ!神社』は吉利志丹を監視し抑圧するために建てられた」と解釈している議論をよく目にする。
 そうした面も間違いなくあったろう。しかし、よく考えてみれば、神社というものは大抵山の上に建っていないだろうか。

 禁教の時代、吉利志丹たちはこの神社の氏子となり、神道の祭祀を行いつつ、自らの信仰を捨てることもなかった。神社への参拝の際には「あめんれうす(アーメンデウスか)」と唱え、踏み絵を踏んだ足を洗った水を自らへの罰として飲んだという。礼拝の対象として十字架やマリア像の代わりとされたのは貝殻や山姥の泥人形(地元の伝統工芸品)だったという。
  そんな中、吉利志丹たちを最大級の危機が襲う。「天草崩れ」である。5000人を超える人々が禁教徒として摘発されたのだ。証拠の品々はこの「すわ!神社」に集められた。
  「吉利志丹」が「切支丹(斬り捨て御免)」だった時代である。湯島などは苛烈な弾圧と戦乱によって無人の島になってしまったのだ。
  しかし、吉利志丹たちは「心得違いをしたが既に仏教徒に復帰した」として処理され、その後も事実上信仰を続けることを黙認された。
  処分が異例に寛大だったことにはさまざまな事情がからんでいるようだが、「心得違い」という、私から見ると絶妙の言い訳を思いついたのは高浜焼を創始した高浜村庄屋上田宜珍らしい。高浜焼は上品な青絵付けの白磁で私も愛用している。
  上田さんには高浜焼の創始と絶妙の新造語を合わせて「河童国クリエイティブ大賞」(今思いついた)を贈りたい。

  米国の心理学者フェスティンガーに認知的不協和という理論がある。
  人は、自身の中で矛盾する認知を抱えたとき、それを不快に感じ、この状態を解消するために自分の態度や行動を変更する、というものだ。
  例としてあげられるのはイソップ寓話の「狐と酸っぱい葡萄」である。狐は木に成った葡萄が食べたい。しかし、自分の背では届かないところにあるので食べられない。つまり狐は「食べられない葡萄」という現実に対して「葡萄を食べたい」という矛盾した認知を抱えているわけだ。それで狐はどうするかといえば、自分の認知を変更するのである。「ふん!あの葡萄は酸っぱいに違いない。だから僕は食べたくない。」

  自分の願望と現実が違うとき、人はその人間性に従って様々な態度を取る。

 あくまでも信念を貫く人。これは少数派である。だが、現実があまりに理不尽である場合(たとえば穏健な政党(宗教)が弾圧されたり、自分の民族が他民族に力づくで支配されている場合などはこれに当たるだろう)、多くの人も実は彼らのように振る舞いたいと内心は思っているから、彼らは殉教者となる。天草島原の乱で立ち上がった人たちはこれに当たるだろう。
  
  自分の認知を現実に徹底的に合わせる人。つまり、「弾圧された〇〇党(教)は過激な邪教だったんだ」「〇〇民族は我が民族より優れているから支配されても仕方ないんだ」。「酸っぱい葡萄の狐」の中でも極端派である。これも少数派だが、現実が過酷な場合には必ず一定数出現する人々である。これはあまり具体的に指摘するとヤバい気がするので例は挙げない。私はかつてこういう人たちを許せなかったが、人生経験を積むとまあこういう人がいても仕方がない気もしてくる。

 そして多くの人は「違うんだけどなあ」「俺って卑怯だなあ」と、願望と現実の不協和に耐えながら生きてゆく。そのうちに現実の理不尽が緩んでくると、周囲の反応を見ながら「やっぱりおかしい」と声を上げるし、逆に厳しくなると、「やはりこれで仕方がないんだ」と自分を納得させて一段と目立たなくおとなしくする。かくいう私はまさにこの種族に属するのだが、人より少しだけズレがあるので、ヘンに目立って損をする。まあその損はこれまで「死なない程度」だったから、身の処し方としてはとんでもない下手というわけでもないが、立派な人間ともいえない。孔子に言わせればこういう種族がまさに「小人」なのだろう。

 崎津の吉利志丹たちはといえば、天草島原の乱に参加していない。これを「周囲と隔絶していたから乱のことを知らなかった」という説もあるが、私はこの説を採らない。なぜか。天草の各集落は確かに陸路ということでいえば隣村とさえ隔絶しているところが多い。しかし、実は海を通じて遠くまで繋がっているのだ。小さな船でも順風満帆ならば下島の北から南まで半日で行けるのだ。崎津の人々が富岡で繰り広げられている激戦のことを噂でさえ知らなかったはずがない。だからそこにはもっとはっきりした「参加しない」という意志が存在したと思うのである。このことはその後の彼らの歩みに大きな影響を及ぼしたと考える。

 乱後、荒廃して無人同様になった天草に全国各地から移民が送り込まれた。いわば島民の「総入れ替え」が行われる中、「生き残った」崎津や大江の人々は彼らと共存していく道を選ぶ。選ばざるを得なかった、と言ってもいいかもしれない。

 「天草崩れ」がそうした文脈の中で起こった事件だったことを考えると、その世界史的な意義が見えてくる。
 絶望的な蜂起が起こるとき、それと思想を共にしつつ蜂起しなかった人々の運命はある意味蜂起した人々より苛刻である。彼らは殉教者になれず、どころか身内からは裏切り者とすら言われる。
 他方、権力は彼らを決して許さない。彼らはたまたま蜂起しなかっただけで、内心に叛意を秘めた危険分子なのだ。
 彼らは悪くすれば蜂起した人々と同罪として処断されるし、良くても社会の片隅で生きることを強いられる。もし彼らがその地位に甘んじず社会的に上昇して行こうと思ったら、自分の認知を徹底的に現実に合わせる必要がある。つまり、自らの思想が完全に転向したことをその言動で示さなければならない。これは簡単に言えば「裏切り」である。
 こうした状況の中で起こった「天草崩れ」は、
1805年の出来事であるから、1638年の天草島原の乱終結から実に167年の間、「認知的不協和」に耐えつつ信仰を守り続けた人々が物凄い数いたわけだ。その精神力と粘り強さに驚嘆する。

 取り調べ側も、単に「切支丹であるから切り捨てろ」というような一元的な見方ではなく、「異宗であることを認めて反省すれば許す」という方針であったとされる。これも現代の眼から見れば内心の自由に踏み込む許しがたい態度と考える人もいるかもしれないが、何せ明治維新までまだ60年以上待たなければならない時代であることを考えれば、後に禍根を残さない賢明な方針だったと私は思う。

 騒乱、蜂起、鎮圧、弾圧、拷問、報復、テロルは異教同士が接触したときにまるでフルコースのように並べられる定番メニューであり、こちらがグローバルスタンダードである。これは異民族同士であることが原因でないことは、欧州各地で起こった凄惨な宗教戦争が示している。そこには夥しい数の「殉教者」の骸が転がっている。そして彼らの存在が両陣営の心に憎悪の火を燃やし続ける。

 私は「殉教しない」「殉教させない」この「崎津の知恵」の真価が世界遺産の審査員たちに分かってもらえるのか、本気で心配していた。
 キリスト教的価値観からすれば、「夥しい殉教者を出しながら異教と戦い続けて信仰を守り抜き、最終的には時を得てキリスト教会に復帰する」というストーリーの方が受けそうな気がしていたからだ。

 だから崎津教会も含めた「長崎と天草の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産として正式に登録されたと聞いたとき、本当に嬉しかったのと同時に、信じられない気がした。今まで何回か駄目だった、というのもあるが。「天草」の名が入ったのも本当に嬉しかった。

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 この写真を撮った時はまさに遺産登録の審査が始まろうとしていたときだったのである。

 改めて、世界遺産登録、おめでとうございます。

 ここで河童朝臣より一首。

諏訪神社より崎津教会を眺めて詠める

 教会を見下ろす杜(もり)は閑(しず)かにて烈(はげ)しき史(ふみ)は既に遥(はろ)けし

祝! 世界遺産決定の崎津集落へ行く1-いつものように旅は気まぐれに-(河童日本紀行591)

崎津の神社

 半月板損傷がなかなか癒えない膝を抱えながら家の近所を早朝散歩(といっても事実上サイクリングなのだが)しているとき、 突然閃いた。

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 「そうだ! 牛深に行こう! 牛深に行ってグラスホッパーに乗ろう!」
 三角の山々は深い霧に包まれているとある休日である。

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 ところがその日は最近の私たち夫婦にしては珍しく一日一杯暇があったために、本渡からは五和を回って苓北を回って西海岸周りで牛深に向かい、大江の町で行きつけの(嘘)料理屋「ビヨンセ(仮名)」の刺身定食を食べているうちに、翌週に世界遺産の審査を控えている崎津集落に行ってみようかという話になったのだった。

 なんのことはない。あの閃きは何だったのだろうか。

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 私だけ老の夫婦(妻に「老」の一言は禁句である)には完食するのに相当無理をする刺身定食を平らげ、パンパンに張った腹を抱えながらやってきたのは崎津である。

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 漁港であるから船着き場があるのは当たり前なのだが、この乗り場はどうも世界遺産登録を見越して長崎茂木港と崎津港の間に設置された航路のものらしい。

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 以前はこんな待合所はなかったような気がする。

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 天草らしく南国の花が咲いている。

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 どうも物産館も新設されたようだ。
 せっかく観光地として改めて整備されたのだから、少しマメに見てみるとしよう(偉そうに)。

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 私はこの崎津という町が大好きでもう何回も来ているのだが、ついつい教会に眼が行ってしまい、神社には目もくれなかった、というのが真相である。

 今回はじっくりと街を巡るつもりだから、こんな小さな目立たない神社も見てみる。

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 まずは西宮宮。
 何と読むのか迷う名前だが、英語の看板を参照して考えるに、「にしのみやぐう」と読むようだ。

 祭神は蛭子である。
 蛭子(ひるこ)は「えびす」とも読み、漁港であればどこにでも祀ってある七福神の一つ、恵比寿神の元になった神である。

 「古事記」に次のような記述がある。
[原文]
 約(ちぎ)り竟(お)へて廻(めぐ)りたもう時に、伊耶那美命(いざなみのみこと)まず「あなにやし、えおとこを」とのりたまい、後に伊耶那岐命(いざなぎのみこと)「あなにやし、え娘子(おとめ)を」とのりたまいき。
 おのもおのものりたまひ竟(お)えて後に、その妹に告(の)りたまいしく、「女人(おみな)先だち言えるはふさわず」とのりたまいき。
 然(しか)れども隠処(くみど)に興(おこ)して子水蛭子(みこひるこ)を生みたまいき。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去(や)りつ。

[現代誤訳]
 夫婦の契りを終えてお約束の「捕まえてごらんなさい」をするときに、イザナミノミコトからまず「まあ、なんていい男」とおっしゃって、その後にイザナギノミコトが「ああ、いい女だなあ」とおっしゃった。
 愛の賛歌が終わった後に、イザナギノミコトがおっしゃるには、「女性から先に求愛したのはまずかったんじゃないか」とおっしやった。
 しかし、イザナミノミコトは寝所に行って子をお産みになった。この子は蛭のような子だったので、葦船に乗せて海に流しやった。

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 この流された子が実は生きていて恵比寿神になり、日本全国の漁師たちから漁の安全を守る神として信仰を集めるようになるのである。写真は同じ天草でも上島の倉岳漁港のものである。

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 ちなみに倉岳港には日本最大級の恵比寿神があるが、いつものように話が逸れ始めたので元に戻す。

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 崎津の蛭子はまだ恵比寿神になる前の原型を留めているようで、丸々太って釣竿と鯛を抱えているお目出たい姿ではない。

 実は「潜伏キリシタン」の歴史は、こうした神社の歴史と密接に関係しているのだ。

 崎津の神社を吉利志丹を監視し抑圧する単なる敵役と捉えた瞬間、人類の未来につながる大切な智慧の数々が私たちの手からポロポロと零れ落ちてしまうのではないかと私は思っている。

 では、崎津集落の旅、始まり始まり。

佐賀県多久市で孔子に逢う9-炭鉱王高取伊好-(河童日本紀行590)

自分には絶対できない仕事

 多久聖廟から車で5分ほどのところに西渓公園があり、そこには 寒鶯亭(かんおうてい)がある。

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  寒鶯亭は地域の人々のために高取伊好(たかとりこれよし)によって建てられた公民館のようなものである。公民館にしては実に趣のある建物だ。

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 高取伊好は多久出身の炭鉱王と呼ばれた人物である。

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 西渓公園に建つ銅像の説明文にはこうある。

 高取伊好(1850-1927・嘉永3-昭和2)は嘉永3年(1850)、ペリー来航3年前、多久家儒臣鶴田斌の三男として嫩垞(とんだ)屋敷に生まれた。長兄に刑法学者鶴田晧、次兄に炭鉱経営者横尾庸夫がいる。東原庠舎に学び高取大吉の養嗣子となり、邑主多久茂族に請われ長子茂穀(乾一郎)と勉学を共にした。明治初年工部省鉱山寮に入り、鉱山学を修めたのち、当時最も必要とされた炭鉱の開発に挺身した。晩年、高取鉱業(のちの杵島炭鉱)を創設し「石炭王」と呼ばれ実業界に名をなした。
 一方事業で得た富は義捐金、教育基金、産業資金として惜しみなく社会に還元した。業を西渓、法名を自ら「開物斎成務伊好居士」としていた。高取伊好の生き方は、まさに易経にある「物を開き勤めを成しとげる」を意とする。開物成務そのものであった。昭和2年1927)78歳で没した。

 この碑文にはないが、杵島炭鉱を開く前、工部省に採用された高取は高島炭鉱に取締役として赴任しているようだ。

 私は碑文の「杵島炭鉱」よりもネットで調べているうちに遭遇した「高島炭鉱」という言葉に覚えがあった。

妻比較

 この炭鉱の名前にはわたくしWell肉桂と並ぶ「熊本二大巨顔」である清浦圭吾伯の記念館で遭遇した覚えがある。
 私がこの記念館に行ったのは2013年のことであって、私の56年の人生の中では最近のことに属するから、記憶の時間勾配が始まっている私としては忘れているのがむしろ当然なのだが、それでも覚えていたのはそれだけ印象深かったのだろう。

 この記念館では「清浦圭吾小伝」という小冊子を売っていて、その中には伯の11の功績が書いてあるのだが、その3番目に、

3.三菱高島炭鉱(長崎県)での坑夫虐待事件に関して会社側の言い分を鵜呑みにせず公平を貫いた。

 というのがあるのである。

 我ながら嫌なことを思い出すものだ。
 高取が高島炭鉱の取締役をしていた時期と、坑夫虐待事件の時期は完全に重なっているのである。

 以下はWikipediaの引用である。

 「炭鉱では「納屋制度」と呼ばれる過酷な雇用制度が取られ、「二度と帰れぬ鬼ヶ島」と恐れられた。会社と納屋頭による二重の搾取、非人間的な労働環境、逃亡者はリンチによって見せしめ的に殺害されるなど、そのあまりに過酷な雇用形態は、雑誌『日本人』(6-14号)に掲載された、松岡好一(ルポライターで、自ら炭坑で働いた。高島炭鉱の元勘場役)による告発記事「高島炭鉱の惨状」によって全国に知られ、全国的なキャンペーンが巻き起こった。(引用終わり)

 私の記憶が高取翁と清浦伯を結び付けなければ、こんな嫌な話が多久聖廟の隣にある公園と結びつくこともなかっだろう。

 つくづく嫌になる。
 こういう記憶力の持ち主は自分の持ち合わせた才能に対して目いっぱいの、あるいはそれ以上の利益を得たい人(たち)にはさぞ鬱陶しい存在なのだろうと思う。それは人を踏みつけにすることによってはじめて可能だからだ。そして私の困った記憶力はその人(たち)にとって都合の悪い記憶を突然呼び覚ます。にも拘わらず、私はそういう記憶力の持ち主なのだ。

 ただ、分からないのだ。
 私たちは孔子のような聖人ではない。しかし、高取が高島炭鉱の最悪の時期に中枢の位置にいたからといって、彼が全面的にそれに加担したのだろうか。

 もしかすると、彼が会議に現れたときにはいつも既に話は他のメンバーによって決まっていて、激怒して反論しても相手方は眉を顰めて沈黙するだけだったかもしれない。あるいは中央から派遣された自らの任務に忠実であろうとしたのかもしれない。士農工商がまだ赤子が成人になるほどの時間程度にしか遠くなかった時代なのだ。

 それは人の世に孔子のごとく「糞は糞」といい続ける人や、司馬遷のように腐刑に処されようと起こったことを忠実に記録に残す人がそう簡単に現れるものではない以上、やむを得ないことなのかもしない。

 悪人は無名である。
 これは真の英雄が無名であるのと同じだ。
 真の英雄が彼の業績を声高に叫ばずむしろ目立たないようにするのと同じく、悪人もまた彼らの悪行の証拠を徹底的に消そうとする。
 終戦直後の公文書の焼却などその良い例だ。えらく強気で「そんな事件はなかった」などと主張されている事柄の裏には「あの件の証拠は徹底的に消した」という自信があるのだろう。
 そして「半端に人の良い」人間が汚名を着せられる。BC級戦犯が良い例だ。

 世界はアイヒマンで満ちている。

 だから私は状況証拠だけでこの高取という人をそう簡単に貶す気にはなれない。

 ただ、炭鉱という場所は、その日本での終焉が私の青春時代であったから、ほんのすこしだけその実態が分かるのだが、やはり実に過酷な場所だったと思う。
 私はまだ20代だった頃、万田坑(もしかすると近くの別の炭鉱だったかもしれない)の地の底からトロッコに乗って地上に姿を現した鉱夫たちの、薄汚れた顔とギラギラ光っている眼を初めて見たときの、ギョッとした印象を今でも鮮明に覚えている。初対面の彼らには本当に申し訳ない印象だったのだが。

 自分自身は粋がって工事現場や船底での労働を齧ってみたこともあったが、そんなものは「貧乏人のお坊ちゃん」の単なる「武勇譚」だと分かっていた。
 だから、いつ事故が起こるかも知れぬ真っ暗な地底で働く人々が地上に出てくる現場に出会ったときの正直な心境は、「狼狽」であった。

 それにしても、「もっと人間らしい暮らしをさせろ」という叫びが、それが発せられた場所ごと圧し潰されていったことに対する心の痛みを今どれくらいの日本人が持っているのだろう。持っていたら今の日本はこんな貌をしていないか。

 地元の英雄の銅像と、彼が町に寄贈した素晴らしい建物を見ながら、複雑な気分に襲われた私であった。

佐賀県多久市で孔子に逢う8-江藤新平のこと-(河童日本紀行589)

日本のことを知ってるつもり

 佐賀県多久市にある多久聖廟(孔子廟)には祀られている孔子の像だけでなく、廟を作った多久茂文の像もある。

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 しかし、多久茂文の儒教政策の肝になる部分は実は聖廟よりもその敷地内にあった東原庠舎(とうげんしょうしゃ)という学校であった。
 既に書いたようにこの学校はまだ明治維新よりは関ケ原の戦いに近い時代に武士だけでなく農民や職人の子弟たちに当時最先端の学問である儒学を教授したという点で極めて先進的な試みであった。

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 東原庠舎の初代教授が河波自安である。
 多久聖廟にはその旧宅と学問所跡の看板のみがあり、自安がどんな人物であったかよく分からない。

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 ただ、その場所には詩碑が建っているので、何かヒントになるのかもしれない。

[原文]
 船山暮雨

 勢似巨船凌碧霄
 暮天風樹自粛々
 黄昏着雨遠相望
 最上片雲帆影遥

 正徳五年乙未仲夏

 講官快堂

 林信充士僖甫題

 多久八景 抜粋

[書き下し文]
 船山の暮雨

 勢(せい)は巨船(きょせん)に似て碧霄(へきしょう)を凌(しの)ぎ
 暮天(ぼてん)の風に樹(き)自(おのず)から粛々(しょうしょう)たり
 黄昏(たそがれ)に着く雨を遠く相望(そうぼう)し
 最上(さいじょう)の片雲(へんうん)帆影(はんえい)遥(はる)か

 正徳(しょうとく)五年乙未(いつび)仲夏(ちゅうか)

 官快堂(かんかいどう)に講ず

 林信充(はやしのぶみつ)士僖甫(しきほ)題

 多久八景(たくはっけい)抜粋

[現代誤訳]
 多久船山にて夕方の雨に遭う

 船山の稜線は巨船のごとく青空に聳え
 夕方の強風に森はざわざわと鳴く
 黄昏に降る雨を遠く望み
 帆影はひとひらの雲のごとく天涯に消える

 1716年5月

 林信充

 船山の近所には海がないので、最終句は「ひとひらの雲が帆影のように消えた」としようかと思ったが、何せ雨が降っているわけだからこれだと少し変である。おそらく李白の「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」の転句「孤帆の遠影碧空に尽き」をパク、じゃなかった、踏まえたものと考えて上のようにした。勘違いがあれは教えて頂けると幸いである。

 「多久八景」は幕府の儒学者林信充が多久茂文に贈った詩である。信充は家康・秀忠・家光・家綱の徳川初代~4代に仕えた林羅山の曽孫だから、この詩碑は河波自安とは関係なさそうである。

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 近くには江藤新平の詩碑もある。

[原文]

 聖廟詣 江藤新平

 蔓柏茂松緑欲流
 聖祠人絶昼悠々
 西凕猶有尼丘月
 却照扶桑六十州

[書き下し文]
 蔓柏(まんぱく)茂(しげ)り松緑(しょうろく)流れんと欲(ほっ)す
 聖祠(せいし)人絶えて昼悠々(ゆうゆう)
 西凕(せいめい)なお尼丘の月ありて
 かえって照らす扶桑(ふそう)六十州

[現代語訳]
 柏に蔦が絡み松は生い茂る。
 孔子廟には訪れる人もなく昼でも長閑だ。
 西の空にはいまだ有明の月。この月は孔子の生まれた尼丘山の上にある。
 孔子の徳がこの日の本を照らす。

 江藤新平は維新十傑に数えられる佐賀人である。佐賀七賢にも数えられる。

 志士としての活動は脱藩の罪で永久蟄居(維新により解除)させられたため短かったが、早くから攘夷論とは距離を置き、当時としてはかなり異色な民生重視の富国強兵策を構想していたらしい。
 その証拠に新政府の参与になってからの活躍は目覚ましい。
 四民平等、議会制、三権分立、中央集権などの基本的構想に基づき、文部卿や司法卿として近代的な教育や法律制度の基礎を固めたのは江藤であり、次々と繰り出された政策はおそらく蟄居中に練りに練ったものだったのだろう。その先見性には眼を見張るが、ここでは「自由民権」の「民権」という言葉は江藤の造語と言われることを指摘するにとどめよう。

 だが、我が熊本の「民権の父」宮崎八郎と同様の蹉跌が江藤を襲う。
 「征韓論」による下野である。これは現在TVで伝記ドラマが放映中の西郷隆盛の蹉跌でもある。
 現代の私たちには「自由民権」と他国への侵略思想が同一人物の中に併存していることへの違和感があり、また贔屓の人物に対して残念に思う点である。

 ただ、少し勉強してみると、彼らの志した日本の近代化が「国防」をその起点としていること、そしてその思想の一つの帰結として韓国を中国に対する、中国を西洋列強に対する防壁とする戦略が導き出されたことがわかる。戦争中連呼された「満蒙は日本の生命線」というスローガンはこれが基になっている。
 たとえば維新革命の長州における精神的支柱となった吉田松陰はその「外征論」の中で、

 三韓、任那の諸蕃は地脈接続せずといえども、しかも形勢対峙し、吾往かずんばすなわち彼必ず来り、吾攻めずんばすなわち彼必ず襲い、まさに不測の憂いを醸さん。
[現代誤訳]
 韓諸国のような非文明国は我が日本と地続きではないものの、ごく近くで対峙している地域であるから、我々が進出しなければ必ず彼らが進出してくるだろうし、我々が侵略しなければ必ず彼らが来寇するだろう。このままだと将来きっと我が国の禍いになるだろう。)と述べ、韓国を「合わせざるべからざるもの(現代誤訳:必ず併合しなければならない地域)」と位置付けている。

 紛うことなき中央集権国家である当時の韓国を三国時代(四国時代)の地域に分けてそれを「諸蕃」と呼ぶなど、ここにあるのは明らかな「中華思想」である。当時の東亜の諸国はそれぞれに「中華思想」を持っていたのだ。

 もっとも、松陰自身はこののち自らの考えを大きく転換させ、「海洋通商国家構想」とでもいうべき対外政策を提唱することになり、これは坂本龍馬の発想や戦後日本の歩みに繋がっていくような構想なのだが、残念ながら松陰の短い生涯の中で実現されることはなく、むしろ彼が神に祀り上げられることによって初期の侵略思想が金科玉条としてその後の日本人の胸に刻まれてしまったことは彼の本意から大きく外れているのではなかろうか。

 閑話休題(おっと、えとうしんぺいのはなしだった)。

 江藤の開明的な思想はその後の日本の発展に大きな影響を与えるのだが、本人の生涯は悲劇的なものであった。また、現在でも郷党以外では必ずしも評価が高いとはいえない。

 私はそれが以前から腑に落ちなかったので、今回少し調べてみた。

 政府を辞した彼は同郷の大隈重信らの説得にも関わらずさっさと佐賀に帰ってしまう。政府の高官だったものは東京に滞在すべし、という太政官令を無視したのである。するとまるでそれを待っていたかのように政敵の大久保利通は佐賀討伐の統帥に就任し、佐賀追討令を受ける。もはや東京を離れた時点で反乱の志ありと行動を予期されていたのだ。

 佐賀に帰った江藤は自分とは正反対の思想を持つ守旧派の集団と共に決起する。このあたりも西南戦争で協同隊を率いて熊本隊と共に決起した宮崎八郎を思わせる。
 
このとき彼は自分が立てば薩摩の西郷など各地の士族が決起すると考えていたようだが、乱は広がりを欠き、鎮圧されてしまう。
 乱は1月ほど続き、当初、兵に佐賀出身者が多く彼らに同情的な熊本鎮台兵との戦いでは佐賀城を奪取するなど有利に戦を進めたものの、中央からの兵が来るとその圧倒的な火力の前に敗戦を重ねる。

 戦況不利とみた江藤は戦場から脱出して鹿児島に赴き、西郷隆盛に決起を促すが断られる。
 結局上京して岩倉具視に直接意見を陳述することを意図するが、途中土佐で捕縛されてしまう。江藤自身が導入した写真による指名手配がこれを可能にしたというのだから皮肉である。

人相書き

 上の人相書きは幕末維新の有名人3人なのだが、初めて見る人にはまず誰だか分かるまい。指名手配写真によって検挙率は飛躍的に上がっただろう。この3人が誰だか知りたい人は

明治維新発祥の地、萩を行く10-おい、高杉!-(河童日本紀行460)を参照のこと。


 大久保利通は江藤の逮捕を評して、

 江藤が自ら作るところの新律に罪按されたるは、そのすこぶる秦の商鞅(しょうおう)に似たり
[現代誤訳]
 江藤が自分の作った新法によって捕縛されたのは、まったく秦の商鞅に似ている

という言葉を残している。

 商鞅は中国戦国時代の法家の政治家で、秋霜烈日によって辺境の小国に過ぎなかった秦を中原を伺えるほどの強国に生まれ変わらせた人物だが、周囲に恨まれ、逃亡せざるを得なくなった。そのとき、自分の作った厳しい監視体制と刑罰がいかに人間疎外の体制であるかを身を以て知った、という故事の主人公である。
 大久保が江藤を商鞅に喩えているところに、その個人的な憎悪が感じられる。法治国家に生きる私たちと、儒教的な教養の中にあった当時の知識人の商鞅観は自ずと違い、かつての同僚を敢えて商鞅に喩えるということの意味もまた現代とは違う。

 閑話休題(えとうしんぺいのはなしだって)。

 さて、このときの捕方の責任者は江藤の人物を惜しんで逃亡を薦めるが、彼は法廷で堂々と自説を述べるつもりでこれを断る。
 ところが、江藤のかつての部下が主宰した裁判はわずか2日の即決裁判で、自説を開陳する暇もなく、彼は判決後ただちに梟首(きゅうしゅ:晒し首)となってしまった。しかも彼の晒された首は当時の最先端メディアである写真によって全国に流布されるのだから、彼の同郷の佐賀人は勿論、当事者ではない英公使パークスさえ「これは個人的な復讐ではないのか」という説を匂わせている。大久保が江藤を喩えた商鞅は車裂きの刑になっているのだ。

 板垣退助は言っている。

 かくの如き憎悪せられたる点は、その短所にあらずして、実にその長所に在り。すなわち邪にあらずして正なる点にあり。言を換ゆれば、江藤君は余りに正義なりし為に、遂にその奇禍(きか)を買うに至りしなり。
[現代誤訳]
 江藤新平がこれほどまでに憎悪されたのは、その短所のゆえでなく、実にその長所のゆえである。つまり、悪いところではなくて良いところのゆえである。換言すれば、江藤君はあまりに正義感が強かったために、遂に災いを蒙ることになってしまった。

 江藤は司法卿として山形有朋や井上馨の絡んだ汚職事件を厳しく追及し、2人を辞職に追い込んでいる。郷党の帰郷するなという説得に耳を貸さなかった点など、「お友達」でつるむのが嫌いな性格だったのだろう。

 私は熊本にもこういう人物を見出すことができる。横井小楠である。
 小楠もまた江藤新平と同じく新政府参与となるが、こちらはほとんど何も為す暇がないうちに暗殺されてしまっているから、それに比べれば江藤の方がまだしも幸運かもしれない。

 江藤新平の名誉が回復され、正四位が贈られたのは大正5年(1916)。首を晒されてから42年後のことであった。

三角とりどりの記21-お初にお目にかかります-(Sea豚動物記96)

未知との遭遇

 「鶯の写真を撮った」などといっても誰も驚かないだろう。
 「鳴いている動画も撮影した」などといっても、「ふーん…」といった反応をする人がほとんどに違いない。
 そしてこう言うだろう。
 「 ウグイスって、あれでしょ。春になると梅の木にたくさんいて、綺麗なウグイス色で、最初はチューチュル、ピーチュルいっているがそのうちに上手になってきてホーホケキョって鳴くやつでしょ。」

 あのね。それ、最後しか鶯じゃない。
 「ピーチュルいっている」までの59字は別の鳥である。



 その鳥は、これでしょ。これはメジロ。
 ちなみに動画は毎年我が家の庭に来るようになったメジロ夫婦である。

 鶯の姿を見つけるのはとても難しい。

恐怖の鶯色

 「幻の魚」石鯛を釣り上げることを一生の夢にしている人が多くいるように、「幻の鳥」鶯の姿をひとめ見、写真に撮ることを一生の夢にしているバードウォッチャーは多い(いつもの大袈裟)。

 これも以前書いたが、鶯色というのはメジロや上の河童のように鮮やかな色ではなく、

恐怖の鶯色02

 この絵の河童の色のような色なのである。

 とある休日、仕事をサボったのだが(冗談)、さすがに後ろめたくて職場の近所をウロチョロしていた。別に後ろめたくはない。タダの休日だから。タダでもないか有給休暇だから(我ながらくだらん)。

 3月末から4月初めのほんの1週間くらい以外は毛虫の巣と落ち葉の元にしかならない木(クイズ:この木は何でしょう)の並木の下を通り過ぎようとしたそのとき、「ホーホケキョ」という例の鳴き声が頭の上から聞こえたのである。

IMGP8190

 ふと見上げると、電線に雀のような地味な鳥が留まっている。
 もしやあれは鶯ではないのか。

 私は電動アシスト自転車「イグアナ号」をできるだけ音を立てないようにして停め、鳥の口元をじっと観察した。
 もし「ホーホケキョ」と聞こえたときにこの鳥の口が動いたら、こいつが鶯である。それにしても地味な奴だ。写真は音を立てないように足で地面を蹴って後ずさりしてアングルを決めたもので、近くに寄ったら桜の、あ、言っちまった、葉蔭になって撮影不能である。それくらいこの鶯という奴は忍者並みに姿を眩ますのが上手なのだ。

IMGP8191

 鳴いた。「ホーホケキョ」と声が聞こえるときにこの鳥の口も開いている(写真は最初の「ホ」の[h]を鳴いているときくらいか)。間違いない。こいつが鶯だ。電線に留まっていなかったらまず見つけることができなかっただろう。それにしても電線とは。風情のないことだ。



 1回目は「ケキョッ」と期待外れだが、2回目に「ホケキョ」と鳴いてくれた。最初の「ほー」が聞こえにくい人は次の動画でどうぞ。



 2回「ホーホーケキョ」と鳴いている。
 三角町の鶯の姿と声を捉えた日本最初の映像ではないだろうか。残念ながら梅雨の合間の曇天だったので「鶯色」がよく分からないが。

 このように、私は休暇といえども日々世のため人のために働いているのである(どこが)。

佐賀県多久市で孔子に逢う7-「史記」の孔子-(河童日本紀行588)

似たもの同士

 この項を書くに当たって、「論語」と「史記孔子世家」を改めて読んでみた。

 すると、「論語」はもちろんなのだが、「史記」の面白さに感じ入った。

 「論語」や、孔子自身が思想を纏めたと自負している「春秋」を読んでさえ、注釈を読まなければなかなかその思想や人物像や全体像が分からない。 しかし、「史記孔子世家」を読むと、孔子の人生の全体像が浮かび上がってくる。

 子路(しろ)愠(うら)み見(まみ)えて曰く、「君子も窮(きゅう)することあるか。」
 孔子曰(いわ)く、「君子固(もと)より窮す。小人(しょうじん)は窮(きゅう)すればここに濫(みだ)る。」

[現代誤訳]
 弟子の子路が恨みがましく言った。「立派な人間でも困窮することがあるのですか。」
 孔子が言われた。「君子も困窮することがあるのだ。小人が君子と違うのは、困窮したときに狼狽えて見苦しいことをする点だ。」

 という、有名な問答も、「論語」では前後の記述が淡々としすぎていて、今一つ面白さが伝わってこない。

 ところが「史記」を読むと、これは前に書いた「兕(じ)にあらず虎(こ)にあらずこの曠野(こうや)に率(さまよ)う(現代誤訳:サイでも虎でもないのになぜこの荒野を彷徨わなければならないのか)」という言葉と同じ時に発せられた言葉であることが分かる。

 つまり、陳と蔡(さい)の大臣たちが自分たちの粗相がバレないように孔子一行を殺そうとした事件である。孔子たちは7日間食うや食わずで、立ち上がる気力もなくなってしまった。

 「君子固より窮す」という有名な言葉のもとになった一節も、こうなるとまた訳を変えなければなるまい。

[現代誤訳]
 子路が空腹を抱えながら言った。「先生が立派な人だと思ったからついてきたのに、飯も食えなくなるなんて。」
 孔子が言われた。「私の人生、こんなことには慣れっこだ。腹が減ったからってみっともなく喚くんじゃない!」

 これには子路だけでなく子貢もムッとしたらしく、顔色を変えて立ち上がった(原文は「子貢色作」以下、適当な参考書が手元になく書き下し文が出鱈目なので引用すると恥をかきます)。

 孔子曰わく、「賜(し)よ、なんじは予(よ)をもって多学にしてこれを識(し)る者となすか。」
 曰わく、「然(しか)り。非(ひ)か。」
 孔子曰わく「非なり。予は一もってこれを貫く。」
[現代語訳]
 孔子が言われた。「子貢よ。お前は私のことをたくさん勉強して知識が豊富な人間だと思っていないか。」
 子貢が言った。「そうですよ。そうじゃないんですか。(言外に「それしか取り柄ないだろ」という気持ちを感じる言葉)。」
 孔子が言われた。「違う。私は生まれてこの方一つの信念を貫いてきただけだ。」

 「史記」にはその「一」が何であるか書かれていないが、こちらは「論語」にある。

 夫子の道は、忠恕(ちゅうじょ)のみ。
[現代語訳]
 先生の道は誠実と思いやりだけだ。

 ただし、これは孔子自身の言葉ではない。弟子の曽子が孔子の「一以貫之」を解釈して言った言葉である。あるいは司馬遷はこの曽子の解釈に納得していなかったのかもしれない。

 いずれにせよ、2000年以上いろいろな人に使われ過ぎていささか陳腐になってしまったこの「一以貫之」という言葉が、実は餓死が目前に迫っている窮迫した状況下で発せられた言葉であることに改めて気付き、驚嘆した。
 「史記」は20歳の時に読んで「風蕭蕭として易水寒し(荊軻)」など、「列伝」の面白さに眼を惹きつけられたのだが、この「孔子世家」もちゃんと読んでみると新たな発見があるものである。

 もう一つ、やはり「史記孔子世家」で、これも若い頃には読み飛ばしてしまったのかちっとも印象に残っていなかった一節に改めて目が留まり、一人で笑ってしまった。
 
 孔子の状(かお)は陽虎(ようこ)に類(るい)す。

 孔子が陳の国に行こうとして匡(きょう)という街を通り過ぎようとしたとき、地元の人が孔子一行を拘束してしまい、それは5日に及んだ。このときまで孔子と匡人は縁も所縁もなかったのだが、なぜそんなことになったのか。それは孔子の顔が陽虎に似ていたかららしい。匡人は以前陽虎に酷い目に遭わされたことがあったのだ。

 陽虎は孔子の故郷魯のほか大国である晋などにも仕えた政治家である。
 孔子がまだ17歳のとき、陽虎の仕えていた季氏(きし)に招かれて宴会に行くと、「季氏は士(し)を饗(もてな)すなり。あえて子(し)を饗(もてなす)にあらざるなり。(現代誤訳:殿様は立派な大夫を招待したのだ。なんでお前のような青二才を招待することがあろうか。)」と叩き出されたこともあり、孔子は陽虎を「小人」として嫌っていたようだ。後に陽虎から仕官するよう誘われた時も、なんだかんだと理由をつけて逃げ回っていた様子が「論語」に出てくる。孔子に関する大抵の創作でも敵役として登場するのが常である。

 ところが、実は孔子は陽虎に外貌がそっくりだったのだ。それも、複数の人が確認して「同一人物で間違いない」と思い込むほどに。
 これは孔子としては実に不本意だったのではないだろうか。何せ自分が一番嫌っている人物と間違えられて迫害されるのである。でも、なぜか笑ってしまう。「君子と小人、外観は同じ。」なんだか皮肉である。

 このあたりは儒家の書である「論語」にはなかなか載せられない部分だから、司馬遷がいなかったら2000年以上の時を隔てた私たちにはなかなか「人間孔子」を感じられなかっただろう。

 よくぞ困難にめげず「史記」を完成させてくれたものだ。

 孔子の里、後ちょっとだけ巡ります。

 
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