ニヤッとする話

ニヤッ、とする程度の笑いネタを思い出しながら書きます。

烈風すさぶ俵山(大袈裟)3-先生たち、教え子の食べ物は確保しましょう。-(河童日本紀行577)

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 どうにか頂上に辿り着いた私であるが、帰りのことを考えると既に憂鬱だった。
 登りであれだけ滑りそうになるのだから、下りはどれだけ滑るのだろう。ザーッと一気に滑り落ちて岩石に激突、などということになるのではないだろうか。

 何はともあれ、山頂に登ったら飯、である。
 早速一行は飯の支度を始める。

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 山頂で食べる飯は妙に美味い。
 カップラーメンやレトルトのカレーなどでも、一流のレストランの手の込んだ料理より美味しく感じるから不思議である。もっとも私は一流レストランの料理など食べたことはないが。

 ただし、山頂は標高の高いところにあるから、サンドイッチなどの常温で食べる食物はできれば避けたい。冷え冷えの空気の中でさらに冷え冷えのものを食べなければならないのはやはり侘しい。

 前回までの登山ではB君が持ってきたアウトドア用のガスコンロに加えて、私のホワイトガソリンのコンロで調理したから熱々の食事ができるまで比較的短時間で済んだ。

 だが、今回は病み上がりのうえに久しぶりの登山である。
 前回までのような重装備を持ってくる体力的な自信がなかったので、ガスコンロとホワイトガソリンの缶は、ほかの非常用の水汲みタンクなどとともに残念ながら「除」の対象となってしまった。
 この取捨選択は妻の主導の下に行われたので、私の趣味的なグッズはすべて「除」となり、本当に最低限の軽い物だけを持ってくることになったのだ。

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 B君は私が炊事用具を持ってきていないことを知るとちょっと鼻白んだ表情になったが、「しょーがねーなー。何せこいつだから。」と気持ちを切り替えたらしく、みんなの分のカップ麺を順番に作り始めた。相変わらず「大人」である。

 「あー腹減った」と何回も呟いているAさんを尻目に、最初にお湯を入れてもらったのは私の「特性中華麺(仮名)」だった。相変わらず「小人(こどもかつしょうじん)」である。

 実は私はカップ麺を忘れた人のためにと思い、「カッポレ1番味噌ラーメン(仮名)」のカップも持ってきていたのだが、E先生が「私はカップ麺は要らないから」と冷たいサンドイッチを食べたので、不要となり、持ってきていることを申告しなかった。本当は温かいものを食べたかっただろうに、調理してもらう手間と時間を考えたのだろう。E先生も相変わらず「大人」である。

 Aさんの「カレーヌードル」は本人も改めて感嘆するほど巨大である。だが、B君の持ってきている鍋の大きさは一番小さい奴で、沸かせるお湯の量が限られている。3分待って出来上がったAさんの食事は「ドライカレーヌードル」だった。

 それでも美味く感じるのが「山頂の魔術」である。みな粗末な食事でも満足したらしい。急坂を滑りそうになって登ってきたときは山頂の寒さに震えていた一行も、やっと一息ついた表情になった。

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 改めて眼下の景色を楽しむ。素晴らしい。ここから撮影レンズを標準の「歩こう13mm(仮名)」から「紀伊国屋門左衛門6.5mm(仮名)」に交換する。

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 記念撮影をして、いよいよ下山である。

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 「楽だから」と唆されて登った俵山、なんと1095mの高峰なのだ。

 さて、一行は無事に下山できるのだろうか。

 以下、次号。

烈風すさぶ俵山(大袈裟)2-先生たち、嘘はいけませんよ!-(河童日本紀行576)

人騒がせな走馬燈

  俵山山頂から米俵を転げ落とす俵落としを取材せよとの命令で険しい山を登って現地に向かう新聞記者7名の私たち一行である(大嘘)。

  さて、登山口の駐車場に着いてみると、ビュウウウウ!と鳴きながら烈風が吹いている。寒い。

  「本当にこんなコンディションで初心者が登るのか?」と思ったが、山の斜面にはそこを登る人たちが大勢見えている。これくらいは大したことがないらしい。

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  意を決して登り始める。

  B君の事前の説明の通り、かなりの急勾配である。しかも、前日の雨で湿っているため、結構滑る。登りはいいが、下りは苦労しそうである。

  何せ久しぶりだから、すぐにハアハア言い始めた。

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  踊り場のようになっているところに来るたびに一同立ち止まり、阿蘇谷を見下ろす。素晴らしい眺望である。また気を取り直して登っていく。

  20分ほど歩くと、道がなだらかになった。B君の説明だと最大の難所はもう越えたのだ。胸を撫で下ろす。後は心身ともにピクニックモードに切り替える。

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  ところが、しばらく行くとまた傾斜がキツくなってきた。林の中の道が続く。

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  とうとうえらく勾配の急な木の階段が現れた(写真は帰りに撮った下り。上りでは撮る余裕がなかった)。その横には「回避ルート」と書いたなだらかな道があるのだが、先頭のB君は「こっちでいいよね」と人の返事も待たずに「階段ルート」に歩を進める。おいっ!
 
 もう勘弁してくれと思いながら登って行くと、下りの登山者が来た。何とB君の知人である。何たる偶然。しかも1人は言語聴覚士である。今日の俵山はやたらと言語聴覚士率が高い。何にせよ階段のキツさから気が紛れた。

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 再び見晴らしのいいところに出、傾斜も緩くなる。もう大丈夫だろう。

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 道端の花にも目をやる余裕ができ、撮影する。
  
 きっともうすぐ頂上に違いない。確かに雁回山よりは楽だった。  

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  ところが、目の前に突然緑色の山が現れた。ものすごく急な斜面である。
  「まさかここを登るんじゃないよね?」とB君に言うと、
 「いや、登るかもしれん」と自信なげに答える。だが、B君は以前俵山に登ったことがあるはずである。謀ったな、B! 何が「かもしれん」じゃ!
 
 覚悟を決めて登り始める。私はその時先頭のB君の次にいたのだが、最後尾と代わってもらう。本気で「転げ落ちるかもしれん」と思ったからだ。体重百貫になんなんとする私が急勾配を転げ落ちたら、後の人たちは全滅である。犠牲は私1人にしなければ。何と健気な我が心。

  とにかく滑る。泥の中に霜柱が残っている。前日の雨が染み込んで霜柱となり、さらにそれが陽光で溶けてグチャグチャになっているらしいのだ。
  杖を地面に突き刺し、一歩一歩確かめながら登って行く。登山靴だけは金を惜しまずにいい奴を買っておいて良かった。

  何だか段差が大きくて足場はツルツルかつジュルッとした感じの場所に来た。前の人がどうやって登ったのかよくわからないが、靴底の滑った跡が生々しい。
  左手に持った杖を突き刺して右足をえらく高い段差に掛ける。
 あっ!杖がズブズブーッとのめり込んだ。右足が段差にかからずに空を切る。足下がツルンと滑り、体重が後ろにかかる。滑落だ!
  慌てて左足で踏ん張ろうとした瞬間、下腿三頭筋が攣る。必死で痛みを堪えながら、咄嗟に体幹と下肢を屈曲させて全力で重心を前に移す。
  今度は前脛骨筋が攣る。下腿の筋が完全にバカになっている。

  左手で杖を必死に掴み、右手で道の脇に生えている笹を掴みながらほんの短時間で閃いた。
  朝豆乳を180ml飲んだ後、何も水分を取っていない。脱水かもしれない。背負ったリュックの横袋に入れた「ポカリジケン(仮名)を手探りで掴み、蓋を開けて半分くらい飲む。常温なのに外気の温度が低いために乾いた喉に気持ちいい冷たさである。崖に取り付きながら(大袈裟)グビグビ飲み干す。

  妻よ、ありがとう。
  杖も笹も滑り止めのついた手袋で掴んでいるから滑らないのだ。

  妻よ、改めてありがとう。
  何回も親しい人を思い出したのは、本当に危なくて走馬灯状態だったのかもしれない(意図的な嘘)。

  こうして私は阿蘇五岳の中でも峻険なことで知られる俵山(五岳に入っていません)の最大の難所(これはたぶん本当)をクリアしたのである。

  以下次号。

烈風すさぶ俵山(大袈裟)1-先生たち、ゆっくり行ってくださいね!-(河童日本紀行575)

登るぞ三角岳

 私が三角岳に登ると言いつつもう2年以上もそれを果たしていないことを知る人は少ない。だが、私を知る人は「さもありなん」と思っているだろう。

  私自身も持病の心房細動のアブレーションを受けたり、「それどころではない」という事態のためにコロッと忘れていた。
 
 ところがこれを執念深く覚えて、じゃなかった、温かく見守ってくれていた人がいたのだ。

雁回山山頂にて

  それは前回と前々回に雁回山と小岱山に一緒に登ったA山、じゃなかった、Aさんである。Aさんはとある施設の言語聴覚士である。

  私が小岱山に登った話はこの項が本邦初公開であるが、これまたアブレーションに匹敵するような一大事によって「それどころではない」という心境になってコロッと忘れていたのである。

  Aさんが友人のB君を突っつき、B君が私を突っついた。B君もまたとある施設の言語聴覚士で、私の元同僚でもある。
  さらにAさんが同僚のCさんを誘い、Cさんがさらに友人のDさんを誘い、B君が元同僚のE先生と現同僚のF先生を誘い、要するに総勢7名の言語聴覚士が山に登ることと相成ったのである。あー説明が面倒だ。

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  登るのは南阿蘇村の俵山である(写真は南阿蘇村の風景)。

  計画したB君の話では俵山の登山は「最初がちょっとキツイだけで後はなだらかな坂だから難易度としては雁回山くらい」ということだった。

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  私は半年以上山に登っていないが、難易度が雁回山くらいならば舐めてかからなければどうにかやれそうである。

  それでも妻はとても心配してネックウォーマー兼用の帽子やら作業用の手袋やらを用意し、スポーツ飲料の「ポカリジケン(仮名)」まで持たせたのである。正直私は「あーうっせ」と思っていたが、2時間後に私は感涙に咽びながら妻に感謝することになるのだから人間一寸先は闇である。

  私、B君、E先生、F先生は前日から阿蘇の麓の街に宿泊して宴会、じゃなかった、打ち合わせをし、Aさん、Cさん、Dさんは某所(検閲済)で集合する。

  Aさんは来るなり「先生たち、ゆっくり行ってくださいね!私たち軽なんですから!」と叫ぶ。

 前回Aさんは私達の車列の後ろからついてきたのだが、「先生たち」は何せ私と付き合いがあるくらいだからマイペースと不注意には筋金が入っており、Aさんは何回も交差点で置き去りにされてその度に道に迷っては電話でルートを確認することを強いられたのだ。

  かくいう私も宿からここまで来るほんの短時間のうちに2回も置き去りにされていた。
 道案内のE先生歩行信号点滅で突破、B君黄色信号突破、私「→」で停止、というパターンである。

  全員揃って出発。

  直前にAさんがもう一回叫んだ。「先生たち、くれぐれもゆっくり行ってくださいね!」

 あ、やった。 Aさんの車とC.Dさんの車置き去りである。どうにか追いつく。
  二つ目の信号。
 
 
あ、またやった。C.Dさんの車置き去りである。2人とも今回が初参加で道に不案内のはずである。
 案の定後ろから付いてこなくなったが、前の車群は全く気付いていない。

  5kmくらい走って初めて気付いて車列停車。
  どうにか付いてきたAさんが連絡を取っている。2人とも完全に道がわからなくなっているようである。
 
 私とB君が道端に立って待つ。あ、あれだ。やっと来た。

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  初っ端から自己中全開の「7人のST」は俵山登山を完遂することができるのか。
  待て、次号。

カメラ河童のジャンク道遥か58-パンケーキレンズの甘い罠-(それでも生きてゆく私246)

パンケーキレンズ

 熊本地震で滅茶苦茶になった実家を片付けているときに、古いカメラを見つけた。

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 今は亡き「椰子瓜(仮名)」という会社のカメラである。
 まだ小学校くらいのときに私が両親にねだって買ってもらったものだ。

 このカメラを手渡す時、父はこれを作った会社の現状を私に教えてくれた。
 「このカメラの会社は今は潰れかけていて、組合が自主管理しているったい。」
 当時はまだ数あったカメラメーカーの中から父がなぜこのカメラを選んだか、今の私には分かる。労働組合の活動家だった父は、この潰れかけの(事実その後「今日世良(仮名)」に吸収されてしまった)会社の社員を支援するつもりだったに違いない。

 まだ経済が「イケイケ重工業」で、労働者が自分で工場を管理しても世界水準の製品を作ることが出来た時代だったのだ。

 閑話休題(はやくもはなしがそれている)。

 このカメラのレンズを見てみると、口径より長さが短い形をしている。
 最近知ったのだがこうした形状のレンズは「パンケーキレンズ」というらしい。
 もちろんパンケーキ1枚はもっと厚さが薄いが、パンケーキは何枚か焼いて重ねるのが普通だから、確かにそれを連想させるレンズである。

 つまり、私のカメラ人生(大袈裟)はパンケーキレンズから始まったのだ。

 最近私は「パンケーキ」と呼んでいいレンズを2つ手に入れた。

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 一つは「ゴタックアナグマ13mm F2.7改(仮名)」だが、このレンズについて簡単にまとめようとしてネットで検索すると、1項立てられそうなくらい興味深いレンズだということが分かったので、これについてはまた。

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 もう一つは「ロシアレンズ」と呼ばれる旧ソ連製のレンズで「縁だすなー50-2(仮名)」である。これは見ているうちにどうしても欲しくなり、普通の勤め人が朝昼晩3食すべて外食したくらいの値段で手に入れた。
 レンズには昼食1杯分しか出さない、という自分ルールを破ってまでほしくなったのは、私に「椰子瓜」を買い与えた亡き父の潜在した記憶の故かもしれない。後で気づいたのだがこのレンズが我が家に届いたのは父の命日だったのだ。


 レンズが届いてみると、「これぞパンケーキ」という外観である。少年の日の想い出が蘇る。
 早速、私はこれを我が愛機「ペンテコステオバQ」に付けるためのアダプターを「シン部屋」にある「レンズ箱」から探した。

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 おそらく装着した姿は同じくロシアレンズで沈胴式の「縁だすなー22(仮名)」の鼻を縮めたような外観になるだろう。

 あれ、アダプターに嵌らない。
 あ、M42か。

 M42というのはバヨネットマウント(ワンタッチ着脱マウント)になる前の「ねじ式」(我が家語)マウントの世界標準なのである。
 ちなみにマウントというのは着脱式レンズとカメラの接合部のことで、時代やメーカーによってさまざまな形式がある。

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 もう一つちなみに、私は世界的に有名なDマウント(8mmカメラのマウント)のコレクターなのだ(大嘘)。

 閑話休題(じまんのためにまたはなしをそらして)。

 「縁だすなーパンケーキ(今思いついた愛称)」のマウントがM42だという話だった。
 「オバQ」につけてもバランスのいい「縁だすなー22」はLマウント(M39)なのだ。
 嫌な予感が走りながら、私はM42→Qのマウントアダプターを探した。
 確か「ペンテコステ」のオールドレンズを買ったときに一緒に買っているはずである。最近このマウントのレンズはさっぱり使っていないから放置、じゃなかった、大切に保存されているのである。

 あった。
 なんだ?この長さは。

 M42はQマウントとフランジバック(ピントが合うためのレンズとセンサーの距離)があまりにも違うため、これを「オバQ」に付けるためにはやたらと長っ鼻のアダプターが必要なのである。

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 「オバQ」に装着してみると、最悪のバランスだ。
 だいいちパンケーキでもなんでもない。アダプターと一体になると、ただの不格好な望遠レンズである。

 がっかり、であった。

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 気を取り直して試写すると、「木星11号(仮名)」や「縁だすなー22」のようなキリっとした映りではないが、まあ許容範囲である。だが、この外見から予想すると、私はこのレンズを常遣いにすることはないだろう。おそらくレンズ箱行きである。

 そのとき、私は急に思い出した。
 何だかこのレンズとよく似た映りをするレンズがあったな。

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 これだ。

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 「玉ボケ君」こと「不治?Non!38mmF2.8改Ⅱ(仮名)」である。

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 この、100円玉1個(税抜)で「ハートオープン(仮名)」のジャンク箱から我が家にやってきたレンズは、もともと「パンケーキ」だったのだ。開放F値も同じ2.7。映りが似ているのも無理はない。

 それがフランジバック調整しているうちに縦に伸び、標準レンズと変わらないくらいの長鼻に化けたのだった。
 その長さはよく見るとM42→Qマウントアダプターに極似している。「パンケーキ」が流行った時代がちょうどM42マウントの全盛期だったのだろう。

 つまり私は1コインで済むようなレンズにその20倍以上のお金を使ってしまったわけである。

 結論。オバQにパンケーキレンズは合わない。映りはまともでも、装着した姿が格好悪すぎるし、嵩張って重い。

 「パンケーキに手を出すな。」
 今後これを我が家の家訓とする。妻が聞いたら怒るだろうな。パンケーキ好きだからな。

カメラ河童のジャンク道遥か57-SL人吉Dマウント追跡・完敗記-(それでも生きてゆく私245)

いじけ河童

 先日私が球磨川沿いで偶然SL人吉に遭遇し、撮影しようとしたが失敗した話をした。

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 これは一勝地駅で停車中のものを辛うじて写した1枚である。 

 だがこのときに絶妙の撮影ポイントを見つけたから、じきにコンテスト入賞写真を撮るだろうと大言壮語したのは記憶に新しい。

 しかし、私のことをよく知る人たちは「また口だけですぐに忘れてしまうんだろうな」と思ったに違いない。
 その通りである。SL人吉のことなどコロッと忘れて日常生活を送っていたのだ。

 とある日曜日。
 
 私はいつものように母の様子を伺いに水前寺に行き、そのまま帰ろうとしていた。

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 事前に育てていた秋野菜の苗を我が家の猫の額ほどの畑に植えるという使命があったからだ。

 やはり私の性格を知る人は、「一時えらく野菜の話をしていたけれど、もう飽きてしまって畑も荒れ果ててるんだろうな」と思っていると思う。
 ところが、私は最近年のせいか結構執念深くなってきて、以前よりちゃんと畑仕事もしているのだ。ブログに書かなくなっただけである。というのはブログに飽き気味だからだ。

 だが、車が益城に近づいたころ、急に思い出した。「確かSL人吉って今くらいの時間に熊本駅を出てたよな。ということは今から高速経由で球磨川沿いを行けばもしかするとちょうど出くわすんじゃないか。」
 助手席の妻に「もう、バカなことばかり思いつかんで早く帰ろう」と言われるのを覚悟で恐る恐る伺いを立てると、なんと許可が出た。きっと妻もこんな晴天の日にすんなり家に帰るのは勿体ないと考えたに違いない。

 早速益城インターから高速に乗り、八代まで走る。途中、工事でノロノロ運転の個所があり、どんどん時間だけが経っていく。
 高速を降りたときはもう随分時間が経っていた。球磨川沿いの道に曲がると、あちこちに薄れゆく黒煙が残っている。SLは既に通過した後なのだ。

 しかもどういうわけかその日は道路交通法を遵守しすぎる車が私たちの車の前に次々と現れ、制限速度の10km以下くらいのスピードでゆっくりと走っていく。

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 坂本駅を過ぎたあたりで一旦追いついたのだが、蒸気といえども汽車である。しかもこちらは法律遵守車である。また引き離されていく。

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 妻に「ブルムベアー君」こと「歩こう13mm(仮名)」を装着した愛機「ペンテコステオバQ(仮名)」を渡してシャッターを切ったもらう。
 私の常遣いのDマウント標準レンズ(13mm)はいろいろと変遷したが、ここは一番映りの鮮明な「歩こう」が一番無難なのだ。

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 だが、お互いが動いているからまともな写真が撮れない。

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 どこかで追い抜いて止まらなければならない。
 「オバQ」はローリングシャッターだから高速で横切る被写体を撮るのが苦手なのである。Dマウントにはレンズシャッターが付いていないから、普通は汽車を撮るときは標準レンズを使うのだが、目標は前回も書いた通り「Dマウントでコンテスト入賞」なので、あくまでローリングシャッターで撮れる構図で撮影しなければ。

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 鉄橋を過ぎたあたりでやっと追い抜いた(撮影妻)。
 なにせ相手は何か所も停車するのである。

 某所(教えない。嫌な奴だなあ)で車を停め、三脚を立てて待ち構える、暇もなく、汽笛が聞こえた。絞りもピントもまだ合わせていない。とっさのときに比較的ピンボケなしで撮影できるように常時調整しているのは、赤色で書いてあるF5.6と無限遠である。

 あわあわしながら準備していると、妻が、「来たよっ!」と叫んだ。
 必死でピントを合わせてシャッターを切る。

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 ずいぶん大言壮語した割に大した写真ではない。いわゆる「日の丸構図」という奴で、被写体を中心で捉えることに拘るあまり、画角が小さくて単なる証拠写真である。つまり、「某月某日、SL人吉撮りました」という情報以外ほとんど伝わってこない写真なのだ。まさに初心者がよく撮ってしまう写真である。

 妻が「私の撮った写真も送るね。」というと、「MINE(仮名)」で写真を送ってきた。

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 どう考えても妻の撮った写真の方がいい。それは素人にも分かる。特に逆さに映った山と空が秀逸である。

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 本物の山と空と、その影がすべて映った写真もまた夢のように美しい。

 これらの写真はスマホ(「カラクニー8(仮名)」のカメラで撮られた写真である。
 Dマウントと「オバQ」はスマホのカメラに負けたのだ。

 私は潔い男である。
 冒頭の絵では河童が妻を妬んでウジウジ言っているが、これはギャグであって、実際の私は妻の芸術的センスに感動してしまった。さすが我が妻!
 多少の(?)悔しさを堪えて、
「君の写真の方がずっといいね。特に山をわざと写さずに逆さに映った影だけを写しているのが素晴らしい。」
というと、妻に言わせればこの構図は前回SLの写真を撮りそこなったときに私が口から泡を飛ばして妻に力説していたのだそうだ。肝心の自分はいざという時にはコロッと忘れていたのだ。

 妻の撮った写真はNHK様(ふだんは「イヌアッチケー」などと揶揄しているくせに)に送ったら、なんと採用されて夕方のニュース番組で放映されてしまった。

 アナウンサーさん2人も「綺麗な写真ですねー!」とベタ褒めだった。

 Dマウント完敗のSL追跡記であった。

中華料理への誘い7-回鍋肉(ホイコーロー)-(いやしんぼ85)

真っ赤なうそ

 中華料理といえば、調理人が振る鍋の動きが思い出される人も多いと思う。

 上肢を巧みに動かして鍋の中の材料を空中に放り投げ、反転、また反転させる。 飛行機でいえば「宙返り」である。
 この「宙返り」により、炒飯を鍋の中にかざしたお玉の中に投げ入れ、手首を返しながら鍋の縁に押し付けてから皿に盛るといつの間にか炒飯が丸く形成されているのは、最初に見た人にとってはまるで手品である。

 だが、実は鍋の動きはそれだけではない。

 豆腐のような柔らかい材料を十分に混ぜるとき、お玉を回転させながら、同時に鍋も水平方向に回転させる。こうすると材料が型崩れせず、美しい原型を止めたままになる。飛行機でいえば「旋回」である。

 この2つが揃って初めて鍋の中の材料は十分に混ざって火が通る。

 ところで、日本人のよく知っている中華の中で、一つだけ「回」の字の入った料理がある。「回鍋肉(ホイコーロー)」である。

 回鍋肉では特に巧みな鍋捌きが必要となる。
 この料理では鍋に前述の縦の動き、横の動きに加え、斜めの動きも入るからである。
 豚の三枚肉とキャベツという極めてシンプルな材料のこの料理が日本の津々浦々まで広がるに当たっては、これを日本に紹介した達人たちの巧みとしか言いようのない鍋の操縦法が与って大きな力となったのは間違いない。
 日本ではあまり見ないが、本場の回鍋肉では地球駒のように360度の回転軸で鍋が振られる。その名人芸はまさに「回鍋」の名に恥じない。諸説あり。

 嘘である。

 「回」は孔子の弟子の一人顔回を師が呼ぶときの愛称である。
 「論語」の「子曰く、賢なるかな回や、一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)、陋巷(ろうこう)に在り。人はその憂いに堪えず、回はその楽しみを改めず。賢なるかな回や(現代誤訳:孔子がおっしゃった。なんて賢いんだろう顔回は。一皿のおかず、一杯の汁を食べて、下町に住んでいる。俗物はその清貧が苦痛でならずに宮仕えをするが、顔回はその生活を楽しんでいる。なんて賢いんだ、顔回は。)」の「一箪の食」は顔回が普段食べていた肉なしの回鍋肉(つまりただのキャベツ味噌炒め)だと言われている(「論語孟子註」参照)。諸説あり。

 嘘である。

 「回鍋肉」の「回」は「回教徒」、つまり中国語のイスラム教徒という意味で、この料理を中央アジアの砂漠の民が中国に伝えたことから来ている。諸説あり。

 嘘である。

 「回」は中華の技法の一つで、一度蒸した材料を再度鍋で加熱することである。諸説あり。

 本当である。

 回鍋肉はもとは蒸した豚肉の塊を薄切りにして大蒜の芽と炒めて豆板醤で味付けをした四川料理で、干焼蝦仁や麻婆豆腐と同じく原型は強烈に辛いが、日本では日本人の口に合うように辛くない料理になっている。

 こういう料理によくあることだが、「本場の味」を追求する奇特な人が必ずいて作ってみるのだが、意地悪な周囲の人が、「あれ、どうでした? ヒヒヒヒヒ。」と問うと、「あー、まあ、美味かったですよ。」と答えるのだが、その人が本場の味に挑戦することはそれっきりないのが普通である。

 さて、レシピ(2人前)である。
 今回顔回まで持ち出して嘘をついたのでさすがにここで贅沢自慢をすると儒罰(そんな言葉があるか知らないが)が下りそうである。そこで顔回にちなんで清貧版としたい(本当は面倒臭くなっただけ)。

①豚の三枚肉200g。某国産の冷凍もの。
②料理酒小さじ1。味醂風調味料小さじ1。砂糖小さじ1。塩一つまみ。薄口醤油小さじ1。片栗粉小さじ1。すべてメーカー問わず。大蒜を潰したオイル漬け。随分昔に輸入食品専門店で買ってきて冷蔵庫に入ったままのもの(我が家にしかないか)。
③キャベツ小1/4個。できればグリーンボー、じゃなかった、贅沢は言わない。見切り品を探す。人参1/4本。見切り品。筍水煮小1個。某国産。管理会社の国籍問わず。
④オイルポットに溜まった使い古しのサラダ油。
⑤胡麻油大さじ1。メーカー不問。
⑥甜麺醤大さじ1。何年か前に買った奴が忘れ去られて台所の片隅にあるはず。豆板醤小さじ1/2。以下同文。
⑦濃口醤油小さじ1。〇手メーカーの廉価品。

 製法である。
①②を混ぜて④を中華鍋で温めて油通しし、ジャーレンごと金属製ボウルの上に置いて油を切る。油が落ちたら皿に取る。
③キャベツはザク切、人参は薄めの短冊、筍は短冊に切り、油通しする。
油をオイルポットに戻し(冷まして新聞紙に染ませて捨てた方がいいと衷心から助言させていただく)、中華鍋を洗剤を使わずにササラか束子で洗い、⑤を入れて熱する。
①②を投入して熱し、⑥を入れて炒め、③を入れてさらに炒める。
⑦を鍋に回し入れて完成。

 キヤ別(横丁の八百屋風で)が安い季節ならば1人前150円くらいでできる顔回先生(この時代にまだ甘藍はない)御推奨のメニューである。

 今回嘘ばかりですみません。
 
 そもそも冒頭の絵の文章が嘘だ。

 「鍋に入れた砂」を振れるはずがない。「砂を入れた鍋」である。

 次回よりこのブログは「狼老人の嘘つきブログ」に改名します(大嘘)。

中華料理への誘い6-麻婆豆腐(マーボードウフ)-(いやしんぼ84)

麻婆豆腐の陥弊

 日本で食べられている中華料理の中で最も原語(中国語)が普及しているのは麻婆豆腐(マーボードウフ)であろう。 
 拉麺(ラーメン)が一番ではないか、という人もいるかもしれないが、実は中国に日本のラーメンに当たるものは現在生き残っておらず、ラーメンのルーツについて熾烈な論争が続いているほどである。拉麺は中国語の名称であるにもかかわらず、日本料理と考えた方がよい。

 さて麻婆豆腐であるが、漢字をよく見るとあまり美味そうな名称ではない。
 Wikipediaなどの複数のソースによると、何でもこの料理は「陳麻婆」という今ならば考えられないようなあだ名で呼ばれていた女性が考案した料理だそうだ。

 ありあわせの材料でこの美味い料理を思いついて来客に振舞った陳婆(陳家の奥さん)には「麻点(まてん):天然痘などの後遺症による瘢痕」があったからみんながこの料理を「陳麻婆豆腐」と呼んだというのである。
 美味いものを食べさせてもらっておきながら容姿を論うような綽名を付けるとは随分と忘八蛋(アンポンタン)な客たちである。
 別のHPではこの点を気にしたのか、「綽名がついたのは陳婆の死後」という話になっているが、「なお悪いわ!」と言いたくなる。相手が抗議できなくなってからの行為だから一層陰湿である。

 「麻(マー)」はもともと四川料理で多用される山椒の実の痺れるような辛さのことである。したがって①「麻破豆腐:辛さの中から立ち昇ってくる豆腐の旨み」くらいの名前で呼ばれていた料理の「破」が音のよく似た「婆」に変わったのかもしれないし、②あるいは「馬婆豆腐:馬奥さんの豆腐」が四川の「麻」と結びついて伝説が作られて行ったのではないか。

 もちろんこの二説は私の捏造である。

 だが、私の説に賛同した知識人が『麻婆豆腐の幻』とかいう本を書き、100人くらいの「馬婆党」が①と②の説をいろんなところでしつこく吹聴して行ったら、じきに「諸説あり」ということになるかもしれない。それどころか「麻婆説」に取って代わるかもしれない。この説が現代の私たちには最も不快で都合が悪いからだ。

 閑話休題(どうもさいきんひがみっぽくていけない。としのせいかな)。

 名前がどうあろうが、麻婆豆腐は美味い。
 私は本場風の「麻」の強いものはあまり好きではない。「麻」に弱いからだ。あの痺れる感じが舌に麻酔をされたようで不快である。それよりも「辣(ラー)」をやや利かせた市販の調味料の方が口に合う。

 「麻」も「辣」も辛味の一種だが、もともと辛味は他の基本味(塩味・酸味・甘味・旨味)とは受容・伝達する神経が異なっており、味覚というより痛覚に近い。
 舌に分布する求心性神経は前2/3の味覚が顔面神経の分枝である鼓索神経、感覚が三叉神経であるが、基本味が鼓索神経で受容・伝達されるのに対し、辛味は三叉神経により受容・伝達される。辛味の強い食べ物を大量に食べると舌が痛いと感じるのはこのせいである。もちろん最終的には大脳で痛みではなく味として認知されるのだが。
 舌後1/3は味覚も知覚も同じ神経である舌咽神経によって伝達される。こら、そこの学生! ここが一番大事なところだからね。スマホいじってないでよーく聞いとくように。

 痛覚は温度覚とも密接である。「温痛覚」と一まとめにされるくらいだ。辛い物を食べると発汗が促進されるのはこのことが関係している。英語で辛味のことを'hot'というのは辛味と痛覚と温度覚の関係を端的に表している。

 「麻」の辛味も「辣」と同じく辛味受容体で受容されるのだが、「麻」の痺れはそれだけでなく、この感覚が触覚とも関係していることを示しているらしい。実は辛味ということでは「麻」の主成分であるサンショオールは「辣」の主成分であるカプサイシンに比べてずっと弱いのだが、舌(口腔器官の粘膜)に対する侵襲性ということでは、もともと日本人がそこまで慣れていないということも関係しているのか、ずっと強いような気がする。やはり麻婆豆腐の辛味は「辣」主体でほんの少し「麻」を加えたい。
 
 ではレシピである。
①豚肉100g。「天草毎肉ポーク(仮名)」か「熊本倫道ポーク(仮名)」の切り落としまたはバラ肉を叩いて極細肉くらいにしたのが一番美味い。面倒な人は豚挽き肉でも可。
②日本酒小さじ1。新潟の地酒「魚池(仮名)」は地味だが美味い。赤酒小さじ1。熊本の「東彼(仮名)」か「超之園(仮名)」が良いが、麻婆豆腐のソースに負けないために紹興酒でもよい。味醂少々。「超之園」のもの。これを使うのは味もさることながら「味醂風調味料」でなく本格的に醸造した本物の味醂を後世に伝えるためでもある。塩一つまみ。天草の「尼の塩(仮名)」がよい。これも「超之園」の味醂を使うのと同じ理由からである。砂糖小さじ1。拘らない。
③香味油大さじ1。大蒜・生姜・白葱各少々を菜種油でこんがり炒め、網御玉で濾して油だけ天塩皿に取っておく。
④豆腐1丁。県北の「菊水一番館(仮名)」で売っている絹ごし豆腐が県内では一番美味い。二番手はここの木綿豆腐か。食感が柔らかいのがいい人と固いのがいい人で使う豆腐が変わるだろう。ソースや片栗粉の水分を少なめにしているので神経質に水を切らなくてもよい。大蒜のモヤシ1個分。大蒜を湿らせたスポンジに置き、上から箱をかぶせておくと出てきた芽がモヤシになる。
⑤豆板醤大さじ1/2~1。以前は「季錦記(仮名)」に拘っていたが今は「陽気(仮名)」のものも使っている。オイスターソース大さじ1。以下同文。甜麺醤大さじ1。以下同文。自家製韓国産唐辛子の輪切り1本分。国産の鷹の爪でもよいが、入れすぎると「痛い」料理になる。自家製韓国産は円やかなので少々入れすぎても「痛い」ところまで行きにくいので重宝している。鶏がらスープ100ml。熊本の地鶏天草大王が一番美味い。麻婆豆腐ごときにそこまでしなくても、という人は既製品をお湯に溶かしたものでも可。ここに「麻」が好きとか四川風の本格派を作ってみたい人は花椒を適宜加える。
⑥辣油小さじ1。日本産の唐辛子粉を胡麻油で炒めて(煮て)作っておく。自家製一文字3本。常備野菜として庭か台所のプランターに作っておくべき。なければ博多万能ねぎ。
⑦水50mlに溶いた片栗粉。

 製法である。
①を②と混ぜて10分寝かせ、もう一度混ぜる。
中華鍋に③を熱して①②を入れてパラパラになるまで炒める。
④サイコロ状に切った豆腐と微塵切りにした大蒜モヤシを鍋に入れ、⑤を入れる。
沸騰したら⑥を入れ、すぐに⑦を入れる。
トロミが付いたら出来上がり。

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 ぶっちゃけた話、麻婆豆腐のソースは自家製で本当に美味しいものを作るのは難しい。従って⑤と⑦は「丸目屋(仮名)」「コック、どう?(仮名)」などの既製品を使っても十分美味い。ただし、肉好きの人はレトルトの中の引き肉はアテにせず最初に自分で用意した分を炒めること。「肉はどこに入ってるんだ?」ということになりかねない。

中華料理への誘い5-八宝菜(パーパオツァイ)-(いやしんぼ83)

八宝菜無手勝流

 さて、青椒肉絲(チンジャオロース)、芙蓉蟹(フーヨーハイ)、干焼蝦仁(カンシャオシャーレン)、古老肉(クーユーロー)と紹介してきて、避けて通れない料理までやってきた。

 それは八宝菜である。

 この料理は中国読みすると「パーパオツァイ」なのだが、日本人の調理人のいる店ではまずこう呼ばれない。ほかの料理がバイトの当惑をよそに中国語で叫ばれるのと対照的である。これは普通に「はっぽうさい」と呼ばれることが多い。 

 おそらく他の料理は「チンジャーロース」「フヨウハイ」「カンショシャーレン」「スーパイコ」などのように日本訛、というよりも日本語化した和製中国語で呼ばれるのに対して、これは日本語化しにくいのだろう。したがって、「ハッポウサイ」と普通に音読みされている。

 もっと不思議なのは、この八宝菜を御飯にかけると「中華丼」と呼ばれることだ。この場合にはよほど中国嫌いの人でも「中国丼」とは呼ばない。一度そういう人に「八宝菜を御飯にかけたものは何というのですか」と聞いてみたいものである。「そんなものは喰わん!」と一喝されそうだが。

 私は発泡酒、じゃなかった、八宝菜が大好きだが、これが中国文化の精髄だとは思わないので、「中華丼」という名称はいくら何でも大袈裟だと思う。

 閑話休題(これでにっちゅうりょうこくにてきをつくったな)。

 それにしても八宝菜(もしくは中華丼)は美味い。

「ニヤッとする話 中華 ミスター」の画像検索結果

 以前熱くて堪らないのに美味い店を紹介したが、八宝菜の餡は熱いほうが美味い。餡の加熱が足りないと白菜から嫌な風味が立ち昇ってくる。アツアツの餡とともに具を「ハフハフ」言いながら口に頬張る瞬間は至福である。

 県南に引っ越してしまったのでこの店には最近ご無沙汰しているが、また行ってあの火傷しそうな中華丼を食べたいものだ。

 なぜ中華の餡がここまで熱くなるのか、その製法は未だに不明で、ネットなどで検索しても出てこないが、上の絵の妻の言葉がヒントになるのではないかと思っている。
 つまり、野菜を片栗粉のトロミで封じ込め、さらにそれを熱した油で二重に封じ込める秘法があるのではないかと私たち夫婦は睨んでいるのだ。

 私はそこまで餡の熱さにはこだわらないのだが、適度に熱されていれば白菜の風味も変なものにはならない。第一畑から採ってきたばかりのような新しいものであれば白菜は爽やかな風味しかしない。

 八宝菜には海の幸と山の幸が入っている。これが「八宝」の由来だろう。
 豚肉と共に烏賊や蝦が入っている。また、蒲鉾や竹輪が入っているのも妙に美味い。

 日本では八宝菜にしか登場しない材料もある。木耳と鶉の卵である。もちろん中国ではいろいろな料理に入れられているのを見るが、日本の中華ではまず八宝菜(中華丼)でしか見ない。
 だから「八宝菜を作ろう」と思って買い物に行くと、キクラゲの乾物とウズラの卵の缶詰を結構割高で買うのだが、次にそれのことを思い出すのは再び八宝菜を作ろうと思い立った時である。中華料理屋でも経営していない限り次の目論見までの期間は悪くすれば半年を超える。鶉の卵の缶詰はもちろん、木耳の乾物とてそんなに長持ちしない。食べられないことはないが明らかに古い乾物の嫌な風味がする。
 したがって鶉の卵は6個くらい入っているのを無理やり2~4人前の中に入れてしまうことになる。木耳は新しいものを買ってきたときに古いもののことを思い出し、捨てる。
 この二つは「抜群に美味い」というほどのものでないだけに素人料理にわざわざ入れるのも馬鹿馬鹿しい気もするのだが、やはり八宝菜にこれらが入っていないと「画竜点睛を欠く」という気がする。

 さて、レシピ(2人前)である。過去4回ずいぶん贅沢なレシピを紹介したので今回は貧乏レシピも提示する。

①豚肉50g。毎度のことながら「天草毎肉ポーク」か「熊本倫道ポーク」が美味い。(貧)デンマーク産冷凍切り落とし。
②蝦8匹。熊本産マエビ(クマエビ)または車海老が美味い。
③烏賊小1杯。天草産の甲烏賊が美味い。コウイカは新鮮な奴でも刺身は大して美味くない(淡白すぎる)のだが、いったん加熱すると実に旨みが出てくる。甲烏賊の天麩羅などを作った時にゲソやエンペラ(頭の横のビラビラ)を冷凍して取っておくとよい。(貧)②③は冷凍もののシーフード。
④日本酒大さじ1。新潟の地酒「越乃完売(仮名)」が美味い。(貧)は料理酒。赤酒小さじ1。この場合は紹興酒か。もちろん肥後の赤酒でもよい。(貧)の場合なし。砂糖小さじ1.拘らず。塩一つまみ。天草「尼の塩(仮名)」が美味い。(貧)お国の作った食塩。片栗粉。「旭日(仮名)」のもの。(貧)馬鈴薯の摩り下ろしたものの沈殿物。
⑤白菜、青梗菜、人参、椎茸。どれも自家製がよい。特に椎茸は庭の日陰に駒木を打ち込んだ櫟の枝を立てかけておくと素晴らしい「ナバ」ができる。「ドンコ」の間に収穫しても可。これらは秋から冬にかけて揃う。(貧)客筋の悪いスーパーの見切り品で可。水で戻した木耳。(貧)なくて可。この場合冷蔵庫で切りかけの玉葱を見つけても誘惑に負けて使わないこと。妙に嫌らしい甘さの八宝菜に成り下がる。
⑥鶉の卵。缶詰で可。(貧)なくて可。白葱。自家製がよい。(貧)見切り品で可。竹輪1本。日奈久竹輪が美味い。(貧)4本98円のもの。蒲鉾4切れ。柳川の「四季(仮名)」製が美味い。(貧)1本98円のもの。(貧)中華丼にするときはモヤシを入れると量が増えて良い。ただし作ってすぐ食べないと水分が出てベチャベチャになる。
⑦鶏がらスープ100ml。天草大王を1時間煮込んだものが美味い。(貧)昔買って忘れて放置されてシケった即席スープで可。私はワンタンを1パック買ってきて「出前今でました(仮名)」に入れて食べる習慣があるが、これだとワンタンのスープが余るので冷蔵庫に保存している。これを使う。実は豪華に見せかけた私の中華料理の鶏がらスープの多くはこれである。

 製法である。
 ①②③をボウルに入れて④と混ぜ、10分置く。再度混ぜてジャーレンに取り、油通しする。油は米油が美味い。(貧)使い古しのサラダ油。ボウルの上にジャーレンを置いて余分な油を落とす。
 ⑤を油通し、①②③を入れたジャーレンに開け、油を落とす。
 鍋に大蒜・生姜・小葱を焦がして作った香味油を大さじ1入れて十分熱し、①②③④を入れる。さらに⑥を入れ、⑦を入れて軽く煮込む。
 水で溶かした片栗粉を回し入れ、トロミが付いたら最後に小さじ1の胡麻油を鍋の周りに流しいれる。チヂミを作る時に最後に胡麻油を周囲に流し込むとの同じ要領である。

 読む人がうんざりしないようにできるだけ簡潔に書いているつもりだが、「八宝菜は仕込みが9割」の格言通り(今思いついた)、仕込みが滅茶滅茶に面倒である。同じ季節にこれだけの材料を揃えるだけでおそらく買い出しは一つの店では済まない。あちこち駆けまわってやっと材料が揃う、まさに「御馳走」である。一人で食べる料理としては絶対に作る気がしない。

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  ということで、へい、八宝菜夏バージョンお待ち! 熱いんで気を付けてくださいよ。

 レシピと写真が全く違うことをお詫びします。夏バージョンはピーマン、胡瓜、オクラ、白ゴーヤーが入ります。
 
  実は私の「見栄見栄贅沢中華」の実態は(貧)メニューなのであった。

中華料理への誘い4-酢排骨(スーパイコ):古老肉(クーユーロー):スブタ-(いやしんぼ82)

酢排骨の想い出

 題名が煩雑で難解なことをお詫びします。

 この項で取り上げるのは要は酢豚のことなのだが、中華料理屋ではこの料理を酢豚とは言わない。
 今を去ること30数年前、熊本から上洛した厚顔の、じゃなかった、紅顔の美少年が、借金のカタに売られた中華料理屋でホール係をするべく教育を受けていた。

 関西の中華料理屋で料理人たちの間で飛び交うのは中国語である。

 たとえば注文は「ギョウザ、一人前!」などとは言わない。「イーガコーテー(漢字にすると一个鍋貼)!」 と言う。「1人前、2人前、3人前」は「イーガー、リャンガー(両个)、サンガー(三个)」となる。だから数詞は10くらいまでは中国語を覚えなければならない。11より多くなるともう大学の第二外国語で中国語を受講していないかぎり覚えられないと思うが、11人前という注文はまずないし、第一調理人たちがそこまで中国語ができないので私たちのようなバイトが覚える必要はない。

語学遍歴

 私は中国語を2年間受講したくせに遂にⅠすら単位が取れず(つまり落第)、仏蘭西語でやっと第二外国語遍歴に終止符を打った男である。その頃には「第二外国語で世界一周した男」との異名を賜っていた。当然私の大学生活は4年では終わらず、7年の長きに亘った。
 したがって中国語の数詞は正式に習ったものではないが、1~9まで知っていた。これは高校で勉強そっちのけで「雀の学校」に通い、「~萬」「~索」「~筒」などという単位と共に覚えたものである。当然のことながら私は第一志望の大学に入れず、やっと第四希望の私立文系に潜りこんだのだ。

 閑話休題(じぶんであそびじまんはきらいだといっておきながら)。

 さらに私たち「素人」には日本語の呼称の方がポピュラーな料理も中国語を教わって覚えなければならない。
 たとえば「鳥の唐揚げ四人前!」では通じない。「ザーキー(炸鶏)スーガー(四个)!」といった具合である。

 さらに素人では聞いたこともない中華料理もある。たとえば「ナマコのうま煮」などがそれで、これは「紅焼海参(ホンシャオハイスン)」という。

 中華のメニューというのは多岐に亘るから、今思えばこれだけの中国語を全部覚えてしまうのは相当大変のような気がする。
 だが、若くて柔軟な、でも本業をちっとも勉強していなくて白紙に近い乾いた海綿のような脳だから、水を吸い込むようにスイスイと入ってきて、40年近くが経った今でも忘れない。今日の昼食のメニューも思い出さないのに。

 こうして中華のバイト修行をしているとき、「おや?」と思ったことがあった。
 一つは私が「高級中華料理」として認識している「太平燕」がこの店のメニューになかったことであり、これについては「太平燕の秘密」「さようなら中華園、そして太平燕」として既に書いた。太平燕の秘密(いやしんぼ16)さようなら中華園、そして太平燕(いやしんぼ63)

 もう一つ不審なことは、全国的にもポピュラーな料理のはずの「酢排骨(スーパイコ)」、つまり酢豚がメニューにないことだった。
 「あれっ?」と思ってもう一回よく見てみると、酢豚は「古老肉(クーユーロー)」という名前でメニューに載っている。

 だが、私は「主任、酢豚は関西ではスーパイコとは言いまへんのか?」とは尋ねなかった。

 自分では全国区だと思っていたものが実は熊本の地元限定であるという事実に打ちのめされ、田舎者であるということを思い知らされる、という経験を入学から半年以来で嫌というほど経験していたからだ。

 「離合(りごう)」「後堰き(あとぜき)」「アポロを上げる」「なおす(しまう)」「今から来る」「学校があっている」など、枚挙に暇がない。
 それにこういうときの都人というのは一種独特の、見下げたような呆れたような独特のいけずな表情をする。「は?お前何言うてんねん?」というような。その表情は結構胸に応える。
 したがって私は内心、「あ、酢豚をスーパイコっていうのは方言なんだ」と密かに自分の中で納得し、「クーユーロー」という呼称を覚えたのだった。心の中では「スーパイコ」と呼んでいたが。

 ちなみに揚げた鶏肉の甘酢餡掛けは骨付きが「糖醋炸鶏(タンツーザーキー)」、骨なしが「糖醋軟炸鶏(タンツーエンザーキー)」というから、酢豚も「糖醋肉(タンツーロー)」と呼んでもよさそうなものだが、こういう呼び方をしている店を寡聞にして知らない。

 もう一つちなみに、本来の広東料理である古老肉にはパインアップルが材料として使われているが、私はこの「果物と塩味と酸味の混じり合った嫌らしい甘さ」が嫌いなので、自分で作る時は決して使用しない。

 さて、レシピ(2人前)である。
①豚の角切り肉100g。天草毎肉ポーク(仮名)か熊本倫道ポーク(仮名)がよい。毎肉ポークは割と歯応えがあって噛むと肉の旨さが滲み出てくるので若~中年によく、倫道ポークはあくまで軟らかく噛むと油の旨さがジワリとくる(あくまで個人の感想です)ので中高年特にお年寄りでも楽に食べられる。どちらを使うかは好みによるだろう。
②日本酒小さじ1、肥後の赤酒小さじ1、薄口醤油小さじ1、味醂小さじ1、砂糖小さじ1、塩一つまみ、片栗粉小さじ1。日本酒は鳥取の地酒「鷹勲(仮名)」、赤酒は「超之園(仮名)」か「東彼(仮名)」、薄口醤油は不知火の「山亜(仮名)」、味醂は「超之園」、砂糖は不問、塩は天草の「尼の塩(仮名)」。片栗粉は裏山のカタクリの根を掘って擂り潰し、水と混ぜて布巾で絞った汁を放置した沈殿物を使用するとよい(筆者は未経験)。
③人参1/3本、玉ねぎ中1/4、ピーマン小1個。人参、玉葱、ピーマンとも自家製がよいが、路地物は収穫時期が揃わないので地元スーパーの野菜コーナーで買ってきたものでもよい。玉葱は冷蔵庫に入れずに押し入れなどの冷暗所で保存すればほぼ1年中使える。
④香味油大さじ1。大蒜1片、生姜少々、一文字または小葱少々を刻んで胡麻油で炒めて網お玉で濾して天塩皿に取っておく。
⑤オクラ2本、胡瓜1/2本、筍1/2個、トマト小1/2個。筍以外は路地物は夏のものであるから自家製を使用するならば酢排骨は夏の料理ということになる。筍は山から掘って来られるのは春だけなので市販の水煮を買う。国産か日本企業が栽培から製造まで関わっている中国産を選ぶ。
⑥鶏がらスープ100ml、黒酢大さじ3、蜂蜜大さじ1、濃口醤油大さじ1、トマトケチャップ小さじ1、コチュジャン少々。鶏がらスープは鳳凰の雄のものが蓬莱山で売っているので旅行がてら手に入れて頂きたい。なければ市販のものでよい。黒酢は鹿児島の甕醸造のもの。蜂蜜は山中で熊を見つけて後をついていくと大抵秘密の蜜蜂の巣を持っているので隙を見てお零れに預かる(筆者は未経験)。濃口醤油は「湧水仕込みの幻醤油(仮名)」、ケチャップはトマトと岩塩を混ぜて1年寝かせた自家製(筆者は未経験)。コチュジャンは「アジアな航空(仮名)」の機内食に付いてくる小袋に入ったものが抜群に美味い(筆者経験済)。
⑦水で溶いた片栗粉。

 製法である。
 ①と②を金属製ボウルで混ぜて10分程度寝かせる。再度混ぜてジャーレンに取り、中華鍋に熱した菜種油で油通しをする。十分火が通ったらジャーレンをボウルの上に置き、余分な油を落とす。油通しに使った油はオイルポットに入れ、中華鍋を洗剤を使わずにササラか束子で洗い、火にかけて水分を飛ばす。このとき十分に水分を飛ばさないと後で水滴が油の中から爆発的に蒸発して怖い目に遭う。
 ③と⑤を2cm角くらいに切る。人参が嫌いな人は横1/3に輪切りにしたものを縦に1/4に切り、それをさらに横に5mmくらいに切っていくと銀杏になる。そうすると人参の風味が野菜の中で目立たなくなる(下の写真参照)。
 中華鍋に④を入れて熱し、③を入れて炒める。
 玉葱が透明になったら豚肉と⑤を入れて炒める。
 トマトが崩れないうちに⑥を入れ、沸騰したら⑦をお玉で回し入れ、トロミが出たら皿に取って完成である。

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 酸味が好きな人は酢を多めに、嫌いな人は醤油を多めにする。トマトが嫌いな人はケチャップとトマトはパスすればよい。

 すべてぶち壊しにするようだが、甘酢餡は素人には美味しく作るのが結構難しいので、「密柑(仮名)」や「玉野井(仮名)」の「酢豚の素」を使っても十分美味しいと思う(これまでの能書きは何だったんだ)。

 いつものように冒頭の絵と内容が全く違うことをお詫びします。 

中華料理への誘い3-干焼蝦仁(カンシャオシャーレン):エビチリ-(いやしんぼ81)

エビチリはトマト入りが美味い

 昔の日本人は辛さに弱かった。

 まだ小学校の頃、ワルガキ同士で今は亡き城内プールで泳いだ後、今は亡き熊本交通センターにあった「松笠うどん(仮名)」に行ったとき(このあたり世の無常を感じるなあ)、 二人とも饂飩を頼んだ。
 饂飩にはちょっとだけ唐辛子を入れると格段に美味くなる。ところがどうした拍子か相棒の饂飩に普段より余計に唐辛子が入ってしまった。今から思えばそれでもティースプーン1杯、せいぜい4mlくらいである。そこの学生、フードテストのプリンの量は4mlだからね。覚えておくように(楽屋落ちですみません)。
 だが、今の日本人ならば「あ、ちょっと入りすぎたな」というくらいの量の唐辛子のために、相棒は饂飩を完食することを断念してしまったのである。「あーっ、辛え、あーっ、口が痛え。」と言いながら。
 当時の日本人の唐辛子に対する許容量は精一杯頑張ってもひと食事1mlくらいだったと思う。そこの涎喰って寝ている学生君。改定水飲みテストで3mlは危険だと判断したら1mlで予備テストだから(再度くだらない楽屋落ちですみません)。

 だから干焼蝦仁(カンシャオシャーレン)、つまりエビチリを最初に食べたとき、「えらく辛い料理だなあ」という印象だった。しかし、「辛いから嫌だ」などとは思わなかった。いわゆる「後を引く辛さ」に初めて出会った瞬間だったと思う。
 場面は我が家の年一回の忘年会、場所は熊本市の中華料理屋である「香蘭亭(仮名)」、時はまだ城内プールがあったころだから小学校6年生くらいだったろう。つまり今から46年くらい前ということになる。

 干焼蝦仁は四川料理であるから本場のものは随分辛さに慣れた現在の日本人からしても無茶苦茶に辛いらしい。特に四川の辛さは「辣(ラー)」、つまり唐辛子の辛さだけでなく、「麻(マー)」、つまり山椒の辛さも加わる。
 この「麻」というのが私たちには曲者で、一度庭で採れた山椒の実で佃煮を作って試食したところ、夫婦二人、どれだけ口を洗っても半日ほど味覚を失っていたくらいである。
 したがって当時私の食べた干焼蝦仁は相当アレンジされて日本人向けに辛くなくなっていたはずである。それでも「辛いが美味い料理」として私の胸に刻まれた。

 しかし、この料理は美味しいといってもそうそうしょっちゅう食べられる料理ではなかった。まず蝦仁、つまりエビが相対的に今よりずっと高価だった。小学校の教員だった父の給料が20000円だったころ、マエビ(標準和名クマエビ)や車海老は100g100円くらいはしたと思う。もっと高かったかもしれない。

 熊本県は車海老の養殖では全国的に有名だが、養殖技術の発達で車海老が安くなったかというと、そんなことはない。現地にいるとわかるのだが、むしろ天然物のほうが安い。これは大きさが不揃いだからだろう。

 蝦が安く食べられるようになったのは、東南亜細亜でブラックタイガーやバナメイエビの養殖が始まってからである。
 これらの蝦がスーパーに出回るようになってから、日本人の食卓に「エビチリ」が上る頻度が飛躍的に増えた。それとともに「コック、どう?(仮名)」などのレトルトの「エビチリ」調味料も大量に出回るようになった。
 特にブラックタイガーは車海老と味が似ていて好きだったが、最近店であまり見ない。なんでもこの蝦が弱いウイルスが養殖場に蔓延しているらしい。

 仕方がないので次善の策としてバナメイエビを使って干焼蝦仁を作ることが多くなった。
 この蝦はブラックタイガーに比べると味が淡白過ぎる気がするが、調味料に気を付ければ十分美味しい干焼蝦仁を作ることが出来る。これは最近私がバナメイエビに似合ったソースを開発したからいえることである(また偉そうに)。

 さて、レシピである。
①殻付きの蝦(バナメイエビでOK。もちろん熊本は天草産のマエビまたは車海老ならば最高である)10匹。
 剥きエビ、特に冷凍のものは加熱すると可哀想なくらいに縮んでしまうし、縮まなくて変にプリプリしている奴はどんな処理がされているのか不気味である。
②日本酒(熊本で一番美味しい酒、神祖。あ、もう存在しないんだった。嫌な世の中である。「瑞祥(仮名)」)小さじ1、肥後の赤酒(干焼蝦仁の材料が車海老、マエビ、ブラックタイガーならばあっさりした「東陽(仮名)」、バナメイやむきエビならば濃厚な「超之園(仮名)」が向いている(知ったかぶり))小さじ1、味醂(「超之園」)小さじ1、砂糖小さじ1、塩一つまみ、片栗粉(山で掘ってきたものでなくても可)大さじ1。
③トマト(この場合に最高にマッチしているのが八代産の塩トマトだが、夏のトマトならばなんでもよし。秋~春のトマトは1ランク落ちる。つまり干焼蝦仁は夏の料理だということだ)中1個。
④筍(所有している竹林を一つ焼いて焼け残ったものを掘り出したら最高。竹林が家になければ日本企業が生産と加工を管理している中国産でもよい)小1個。
 中国企業が生産管理したものには広い国内で輸送・管理することを想定した薬品が添加されている可能性が高い。これは国営テレビの料理番組で出演している料理人が言っていたから信憑性が高い。
 私は添加物に文句を言っている人でブカブカ煙草を吸っている人をたくさん知っているから、「そんなことよりまず毒物を体内に直接摂取するのを止めたら」といいたくなるのだが、それよりなによりヤバイ添加物の入っている食品は実際不味いのだ。⑤根深葱(特に指定なし。家庭菜園のものよりプロの奴の方が美味しいかもよ)1/3本。
⑥大蒜(自家製)1片、生姜(自家製)少々、一文字(なければ分葱でよし)1株。
⑦米油(伝統的製法で作ったもの)大さじ2。
⑧豆板醤(自家製の空豆を擂り潰したものに自家製の鷹の爪を混ぜて一冬寝かして作ったものが望ましい)小さじ1、ケチャップ(トマトに岩塩を入れて一冬寝かして作ったものが望ましい(知ったかぶり))大さじ1、お好みでコチュジャン少々。
⑨鳥ガラスープ(名古屋コーチンを10時間煮て作ったものが望ましい)100ml。
⑩片栗粉。
⑪蝦煎餅(中華の素材屋などでよく売っているもの)10枚。

 調理法である。
 まず①の殻を剥き、尻尾を「三角」部分だけ残して取り除く。「三角」は残しておくと溜まった水が油で熱したときに爆発的に蒸発するという俗説があるが、殻を剥いておけばそんな悲劇は起きないことは経験済みである。 背ワタは爪楊枝で取るより殻を剥いてから背中を切り開いて取った方が綺麗に取れる。これを取らないと砂抜きの不足した浅蜊のようなジャリジャリした食感になり、台無しである。
 ①をボウルに入れて②と混ぜ、置いておく。夏場ならば冷蔵庫に入れる。
 ③を千切りにする。小さな筍の穂先を千切りにする要領は、まず横に真っ二つ、その後で1cm幅で縦に切り、さらに短冊になったものを1cm幅でさらに縦に切る。④を微塵切りにする。要領はまず1粍幅で輪切りにし、更に切っ先に近い部分に非利き手を当てて裁断機の要領で包丁を縦横無尽に動かして切っていく。③④を小皿に置いておく。
 ⑤の根深葱は粗みじん切り、にし、⑥のトマトを千切りにして小皿に置いておく。
 ⑦大蒜、生姜、一文字を微塵切りする。
 中華鍋の中で熱した⑧の中に⑦を入れて調味油を作り、網お玉で濾して天塩皿に溜める。
 同じ中華鍋を洗剤を使わずにササラか束子で洗い、熱して水分を飛ばす。
 中華鍋に調味油を入れ、鍋を回して馴染ませる。コンロの火と鍋の距離を調節し、鍋があまり加熱されないようにする。
 ①②を鍋に投入して炒める。ある程度火が通ったら素早く⑤のトマトを入れて混ぜ合わせる。
 トマトが原型をとどめないほど溶けてジュルジュルになったら⑤⑧⑨を入れて煮込む。
 ⑩をお玉の中で水で溶き、鍋に流しいれる。トロミがついたら出来上がり。
 お店風にしたい人は事前に⑪を油(菜種油が美味い)で揚げておき、皿の周囲に並べておいてから干焼蝦仁を盛り付ける。
 ただし個人的な感想では干焼蝦仁がかかることで煎餅がシケって不味くなるので、別々に食べた方がいいと思う。

 もともと干焼蝦仁は「麻辣」の四川料理なので到底日本人の口に合わず、日本在住の中華料理人たちが試行錯誤して現在の味に落ち着いたらしい。Wikipediaなどにはトマトの千切りを使うのはそうした「試行錯誤」の一つだと書いてある。
 だが私は他の蝦に比べて淡白なバナメイエビの干焼蝦仁には豆板醤を少し多めに使うかコチュジャンを足して辛味を強くし、それをトマトで中和し、かつトマト出汁で旨みを加えた方が美味しく仕上がるような気がする(お前は中華の大家かい)。

 ところで、もしかするとこれらの料理人たちが考案したのかもしれないが、私は干焼蝦仁の蝦がフリッターになっているものは大嫌いである。一気に味がボケる。少ない海老を水増ししているようにしか思えない。

 もう一つ、蝦を殻ごと使うことに関しても一家言持っているのだが、それについてはまた今度。

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 干焼蝦仁生トマト入り、是非お試しあれ。

中華料理への誘い2-芙蓉蟹(フーヨーハイ)-(いやしんぼ80)

トマトかに玉完成

 さて、このシリーズを始めた動機というのは、実は単なる自慢である。

 別にわざわざ料理を紹介して日本国民にその国に対する親近感を自然に醸成する、などという、どこかの国の情報機関の対日戦略のようなことを考えているわけではない。

 「中華料理」と呼んでいるのも我が家ではそれが一番馴染みの深い呼称だからであって、別に「中国料理」でも一向に構わない。ただ、「支那料理」という呼称は用いない。

 どこの民族も「日本(太陽の昇る国)」や「韓国(大いなる国)」など、自分が世界の中心だという呼称を採用しているわけで、わざわざそれを指摘して相手の嫌がる呼称を用いるというのは私の信条に反する行為だからだ。その信条とはもちろん「己の欲せざるところは人に施すなかれ」である。

 閑話休題(さっそくはなしをそらしててきをつくっていずに)。

 どんな自慢をしたいかというと、私は新しい芙蓉蟹(フーヨーハイ:かに玉)を創作してしまったのである。

 ご存知の通り芙蓉蟹は楚蟹を混ぜて作った卵焼きに甘酢餡をかけたものである。これを御飯に乗せて丼にすると天津飯になる。

 私は芙蓉蟹も天津飯も大好きだが、以前から一つ納得のいかないことがあった。
 それは、「これは特別な名前がついているが、要は単なる卵焼きでありかつ卵丼ではないのか」ということである。そのわりには値段が高い気がする。

 単なる卵焼きや卵丼に見えるものが八宝菜や中華丼と同じくらいの値段で売られているのは、どうも以前から納得がいかなかった。
 もちろん、こんな現象が起こるのは建前上は偏に卵の中に貴重なズワイガニ(大抵は缶詰だが)が入っているからである。

 だが、私のアレルギーだかアルツハイマーだかでバカになった鼻では、どうも卵の中に入った楚蟹の風味を十分にとらえることができない。本当は一筋だけ蟹肉を入れてボラれているのではないのか。

 そんなとき、ネットの書き込みで、ある中国人が「いまや卵とトマトの炒め物は我々の国民食だ。」と言っているのを見た。もちろん私とは見ず知らずの人である。
 その発言の真偽は別にして、私はこの人の発言から、今までに食べた芙蓉蟹を「卵焼きなんだけどなーんとなく蟹風味だから八宝菜と同じ値段取っていいんだ」というぼったくり料理から、「蟹と餡が鮮烈な印象を与えるかつ安価な料理」に変身させる天啓を得たのである。

 さて、レシピ(2人前)である。
①卵3個。鶏卵ほどできるときの環境(この場合には母鶏の餌)に影響を受けない食品はないので、これには拘らない。10個100円の「4時の市」などで買ったものでも構わない。
②ガザミの缶詰(「代走(仮名)」で「ワタリガニの缶詰」という商品名で100円で売っている)1缶。これもご存知の通りワタリガニというのは東京方言で、正式な標準和名はガザミである。ことほど左様に真実とはシビアなものなのである。
③塩(できれば天草の「尼の塩(仮名)」)一つまみ、砂糖(できれば砂糖黍が原料のものより甜菜が原料のものの方が蟹の風味を邪魔しない(嘘))小さじ1。
④トマト(できれば熊本県八代の塩トマト)中1個。
⑤油(できれば風味が淡白なエゴマ油が蟹の風味を邪魔しない)大さじ2。
⑥酢(できれば鹿児島の甕仕込みの黒酢)大さじ3、日本酒(できれば熊本の「通潤橋(仮名)」)大さじ2、肥後の赤酒(できれば「超之園」または「東陽(仮名)」のもの)大さじ1、味醂(できれば「超之園」のもの)大さじ1、砂糖(できれば甜菜原料)大さじ1。
⑦鶏スープ(できれば熊本の地鶏「天草大王」1羽を10時間煮て作ったもの)100ml(どこが安価じゃ)。
⑧グリーンピース(もちろん自家製のもの。嘘。)10粒くらい。なければできれば自家製のスナップエンドウや絹さやを豆を避けて斜め切りにしたもの。
⑨片栗粉(できれば本物のカタクリを山で掘ってきて水に晒して作ったもの)大さじ1。

 製法である。
 ①をボウルでよくかき混ぜ、②③を混ぜてさらに混ぜる。カザラや「血」を神経質に取らないのがコツ(嘘)。
 ④を2cm角のサイコロ状に切って皿に入れておく。
 中華鍋に中火で⑤を熱して①②③を流し込む。鍋を回転させて流動体を広げて加熱しながら逆さにしたお玉で回りをこさぎ、焦げないように丸い卵焼きにしていく。
 半熟になってきたら手首で鍋を振って卵焼きを裏返す。ここがこの料理の最大のポイントである。うまくいったら上手にできたときのカルメ焼き(知らんか)のような形の卵焼きが出来上がる。すぐに食べるときは半熟で、時間が経ってから食べるときは完全に火を通す。
 卵焼きを皿に取る。
 中華鍋を洗剤を使わずにササラ(ないときは植物が材料のタワシ)で綺麗に洗い、⑥⑦を入れて熱する。沸騰したら④と⑧を入れる。 
 豆に火が通ると透き通った感じの真緑色になる。トマトは火が通り過ぎると溶けてジュルジュルになるので原型をとどめているうちに火を消す。
 お玉の底に大さじ3杯くらいの水と⑨を入れて指で十分に混ぜ、鍋に投入する。かき混ぜてトロミがついたら完成である。

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 写真が下手なのでちっとも美味そうに見えないが、これが美味い。このときは当てにしていた枝豆が大不作で太っていない上に生臭かったので豆抜きになっているが、十分美味い。貴公の芙蓉蟹の概念を「ブッ壊す」逸品である。ぜひお試しあれ。

 と書き終わって、いよいよアップする前に念のため「トマトかに玉」で検索してみると、この料理、とっくに考案して作っている人がたくさんいるらしい。ガザミの100円缶詰を使っていなければこの文章そのものがまったくオリジナリティのないものになるところだった。

 ここは妻の名言で締めくくりたい。
 「私たちが考えるようなことはとっくに誰かが考えてるよ。」

 毎度のことながら冒頭の絵と内容が違っていることをお詫びします。

中華料理への誘い1-青椒肉絲(チンジャオロース)-(いやしんぼ79)

青椒肉絲

 最近よく中華料理を作る。
 高齢で食欲が落ちてきた母と、妻の父母のためである。
 お年寄りはちょっと油断するとすぐ粗末な食事で済ませようとするので、ときどき料理を持っていく必要がある。
 なぜ中華か、といえば、母が大陸育ちで中華に馴染みがあるのと、野菜や肉がバランスよく入っていて栄養的に優れているからと、これが一番の理由だが、私が基本的に中華しか作れないからだ。

 なぜ中華しか作れないか、となると、話は自然と38年前に遡る。

売られる河童

 友達に借りた飲み代を返さなかった私は、中華料理屋に売られてしまった。人口の10人に1人が学生の「学生だらけの街」では料理屋の下働きは大抵学生である。この間の事情については借金のカタに売られる(京都安下宿事情18)を参照されたい。

ホームランかっとばす

 この中華料理屋はとても愉快な店だったので、飽きっぽい私としてはとても長く続いたバイトだった。その結果として、私は見様見真似ながらいろいろな中華料理の調理法を覚えることが出来たのだ。中華は調理の前に材料の「油通し」をした方が旨くなる、などというのもこの店で知ったことである。
 特に私のいわば上司である中華の料理人たちがオモロイ人たちだったのも私がこの店で長持ちした理由の一つであった。この人たちはある日突然「ホームランをかっとばした」が、この言葉の意味としては迷作リメイクシリーズ29-ホームランかっ飛ばす-(京都安下宿事情20)を参照されたい。

 この中華料理屋はある事情で辞めなければならなくなり、この理由については墓に持っていくつもり、というのは大袈裟で、全然大した理由ではないのだが、別に面白い理由でもないから言わない。何はともあれ私は和食の店に移った。
 ここが私にとって愉快な店であったら、私はそこでまたたくさんの和食を覚えて現在では我が家の主力料理人として活躍しているに違いない。ところが、ここの大将が「京のぶぶ漬け」そのままの人で、別にそれはそれで日本人としてはそういう人の方が数が多いのだろうと思うのだが、大陸的な私とは到底合わなかった。

 今でも覚えているのが、この店は賄いにおでんの残りを食べることが出来たのだが、「何でも好きなもん食べてええで」と言われて、コロ(鯨の皮)を3日連続で(もちろん遠慮をして1個ずつ)食べたら、「お前、何コロばっかり食べとんねん。コロは高いんやで」と叱られたことだ。
 ことほど左様に、人の言葉の行間やその場の雰囲気を読むことで生きている人々と、それが最も苦手な私とがうまく行くはずがないのであった。

 かくして私はこの店を3ヶ月ほどで辞めてしまったので、和食は作り方どころか、味すら賄いで遠慮して食べるおでんの大根くらいしか覚えていない。

 ただし、この項で取り上げる青椒肉絲(チンジャオロース)は、大学時代に覚えたものではない。

 私は子供の頃お菓子作りに凝り、母に道具を揃えてもらってよく作っていた。
 そのうちに料理にも興味が出たのだが、そのときにたまたま読んだ本が「中国料理入門」という「凡人社カラーブックス(仮名)」で、その中に「牛肉とピーマンの千切り炒め」というのがあった。

 牛肉は中国語では「牛肉(ニューロー)」というから、私が人生で最初に作った料理は「青椒牛肉絲(チンジャオニューロース)」である。

 これが実に美味かった。両親やきょうだいも美味いと言っていたが、これには幼い末っ子が自発的にしたことを意識して褒めようという気持ちも含まれていたに違いない。

 この料理には牛肉の細切り肉(肉絲)が必要なのだが、当時の日本にそんなものが売っていたとは考えられないので、自分で牛肉の塊を切ったのだろう。それにしても、これまた当時の日本にそんなものがあったのか。不思議である。だが、人生で最初に食べた「肉絲」の食感と味はいまでも確かに舌の上に残っているのだ。

 今ではこの料理は調味料が「コック、どう?(仮名)」などのレトルトで売っていて、簡単に作れる。「肉絲」に拘らず薄切り肉を千切りにしてもできるが、やはり「肉絲」が美味い。豚カルビや牛カルビを千切りにすればたちまち「肉絲」の出来上がりである。便利な世の中になったものだ。

 さて、レシピ(2人分)である。ここからは実際に作らない人は読み飛ばしてください。

①豚(できれば天草毎肉ポークまたは倫道ポーク(仮名))、または牛(できれば赤牛)の焼肉用カルビ100g。
②日本酒(できれば香炉(仮名))小さじ1、肥後の赤酒(超之園でも東陽(仮名)でも可)小さじ1、味醂(できれば超之園(仮名)のもの)小さじ1、砂糖(特に指定なし)小さじ1、塩(できれば天草の天日干し)一つまみ、片栗粉(特に指定なし)小さじ1、薄口醤油(できれば熊本県不知火の山阿(仮名)のもの)小さじ1。
③大蒜、生姜、白葱少々。できれば自家製。
④筍(理想は自分の竹林から採ってきたまだ地上に頭を出していない筍、次点として孟宗竹の生の小さな筍、ずっと落ちて国産の水煮筍、さらに落ちて日本企業が生産管理している中国の水煮筍)50g。
⑤ピーマン(できれば自分のうちの畑でできた少し苦みの強いもの、次点として国産の道の駅やスーパーの直販コーナーで売っているもの。ワンダーピーマン不可)。

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こんなのが美味い。
⑤濃口醤油(できれば丸矢(仮名)の湧水幻醤油、次点として山阿(仮名)のもの)小さじ1、オイスターソース(できれば利金機(仮名))大さじ1。

 作り方。
 まず①を千切りにする。普通の家庭用の包丁だと肉の油であっという間に切れなくなってしまうから、できれば熊本県川尻町で打たれた肉切包丁または三徳包丁を用いる。全鋼製は素人には扱いにくいので割り込み青鋼のものを使うこと。冷凍したものを半解凍すると素人でも千切りにしやすい。
 千切りにした①と②を混ぜ合わせ、10分ほど寝かせる。
 中華鍋(素人には広東鍋より北京鍋が使いやすい)に菜種油または米油をため、十分熱する(温度不明。やや低温か)。
 ①②をジャーレン(穴あきお玉)に取り、油通しする。縮んで中まで熱が通ったと思ったら上げて油を切る。この際余分な油が残らないようにステンレスのボウルを下に敷く。
 ③をすべて微塵切りにし、大さじ2杯の胡麻油(できれば自然圧搾で作られたもの)で炒める。焦げて茶色になり、香ばしくなったら、網目のお玉の下に天塩皿を置いて濾す。大さじ1くらいの香味油ができるはずである。
 ④を千切りにし、①②を入れたジャーレンに入れる。
 ⑤を二つに割って種を取り、千切りにする。この際、絶対に横切りにしない。横切りにするとこの料理での肉との食感が合わなくなる。あくまで縦切りにする。この際に材料が長くなりすぎないためにワンダーピーマンなどのやたらと大きいピーマンは使用しないのである(まず2つに横切りしろよ)。これも①②③を入れたジャーレンに入れる。
 この場合、伝統的な鋼鉄製のジャーレンに拘る必要はない。最近私は「国民監視TV、じゃなかった、防犯TV(CCTV:仮名)」の「明天飲食(仮名)」という料理番組を毎日見ているが、私が中華料理屋でバイトしていたときにお馴染みだった伝統的なジャーレンを見たことがない。それどころか、私が「代走(仮名)で買ってきた100円の柄付きの笊と同じものが使われているので吃驚した。
 ③を炒めた中華鍋に香味油を入れて熱し、①②③④を一気に炒め、⑤を入れて良い香りがしてきたら皿に取る。

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 さて、写真を提示して自慢しようとしたら、ちゃんとできたときの写真がないことが判明、激怒。
 左はたまたま眠くて「肉絲」にするのが面倒くさくて「肉棒」くらいにしたときの写真である。この写真で上の文章の信憑性は2%くらいになった。

 まあ、眉に唾を付けると不衛生だからゴマ油でも付けつつ、作ってみてほしい。


北九州小倉でメーテルに会う(河童日本紀行574)

モノレールに想う

 挿絵と本文の内容が違うことをお詫びします。
 
 宿泊出張の翌日が休日というのは私のような性格の人間にはあまりメリットがない。 

 本来休日にどこに行って何をしようが(反社会的行為でない限り)その人の勝手である。
 だから私は休日には自分の行きたいところに行ってしたいことをしたい。
 性格上ちょっとでも仕事が絡むとそちらの方に意識が集中してしまい、せっかくの休日に仕事の事ばかり考えてしまうからだ。

 しかし、出張の翌日の休日の場合には「どこにいるか」というのが前日の仕事場所によって限定されてくる。個人的な趣味にしたがえば特に行きたくもない場所にいることも多い。
 しかも、何日もその場所にいるわけではない。仕事の性質上休日の翌日は他の遠隔地に移動、ということも多いから、常に帰りの時間を意識して行動することになる。
 仕事がうまくいかなかったりほかのことでトラブル発生、などということになると、飯を食べるのもそこそこに(絶対抜かないが)次の場所に移動、などということもある。
 また、車で行っていることも多いから酒も飲めない。

 私のブログは日本語の苦手な人(寓喩です)が読まないように文章が長いから、紀行が何回にも及ぶと、あたかも何日もそこに滞在しているかのような印象を与えることがあるが、実際にはそこにいたのは30分などということはザラである。

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 半年ほど前、私は北九州市にいた。 
 場所は小倉である。
 仕事以外に使える時間は2時間。あまりウロウロするわけには行かないので小倉駅に行くことにした。目的はモノレールを見ることである。

  九州では小倉と那覇にモノレールがある。熊本には市電はあるがモノレールはない。というか、私はどうも昔からモノレールというものの存在意義が今ひとつ分からない。
  何故一本レールの上を列車が走る必要があるのか。二本レールを走ればいいではないか。そう思ってきた。
  この考えは東京の羽田空港から浜松町までモノレールに実際に乗ってみてますます強くなった。乗った限りでは別に普通の電車なのである。わざわざ高架駅まで行かなければならないのが田舎者の私には面倒なだけだ。
  ネットなどで調べてみると、モノレールは普通の鉄道に比べて加速が良く、車体を大きくすることができるらしい。だが、その分レールを頑丈に作る必要があり、ということは結構大掛かりな土台工事が必要になり、コストが嵩む。要は在来線と新幹線の関係が小規模になったようなものだ。

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 それでも、モノレールは外から見ると実に楽しい。
 北九州のモノレールは枝をたくさんの足で挟み込みながら動く尺取り虫にちょっと似ている。この描写を読んだ瞬間にモノレールが嫌いになる女性もいるかもしれないが。
 
 私が子供の頃の漫画やアニメの「未来の都市」にはモノレールか透明なチューブの中を走る自動車が登場していた。今から思えば自動車がチューブの中を走るとどんなメリットがあるのかよく分からないが(嫌な奴だなあ)。

 モノレールを見ると、少年の頃の「未来都市」が蘇る。

 私たち1960年代生まれのクソガキたちにとって「未来の乗り物」であったモノレールが始発する小倉駅で、私は少々それとは違う、おそらくはパラレルワールドである未来の乗り物、正確にはその乗客に逢った。

 それは松本零士の漫画・アニメ『銀河鉄道999』の主人公とヒロインである鉄郎とメーテルである。

 おそらく私より後の、1970年代以降の生まれの人にとって、あるいは松本漫画のワールドに嵌り込んだことのない人にとって、鉄郎は鉄郎であり、メーテルはメーテルであるに違いない。

 何を当たり前のことを宣っているのだと、思わない人のためにこの文章は書いている。たまにはそんな文章も書きたい。

 私にとって鉄郎は『銀河』のパラレルワールドに生きる「おいどん」である。「おいどん」とはほとんどの松本ワールドに登場する、おそらくは作者の分身であり、短身短足のO脚で近視の眼鏡を掛け歯の大きい、カリカチャライズされた日本人である。そして、「おいどん」こと大山昇太(おおやまのぼった)の活躍する世界に、「メーテル」は登場しない。登場するのは顔や身体だけがメーテル似の、「おいどん」に決して共感しない女性たちだけである。

 小学生だった私は『男おいどん』という漫画が大嫌いだった。連載されている愛読雑誌『週刊マンガジン(仮名)」の中で、「おいどん」だけ敢えて読まなかったくらいだ。
 九州人、というか、地方から上京した田舎者を自虐的に笑いものにするこの漫画のどこが面白いのか分からなかった。「203高地」のような髷を結った下宿屋の大家に少しだけ親しみを覚えた程度である。

 私はまだ「全世界を獲得する」ことを夢見る「神童(超主観)」だったのだ。

 さらに言えば、クソガキだった私にとって、メーテルは「シヌノラ」である。メーテルがシヌノラであるということを小学生が知っていたということが、そいつがクソガキであることの証明である。「シヌノラ」は長い金髪をなびかせた長身痩身色白の女性で、ウェストが蜂のように細い。おそらく本土決戦で死ぬつもりだった軍国少年が進駐してきた白人女性を初めて見たときの印象と古き良き大和撫子が融合した理想型だと思う。

 シヌノラの存在するパラレルワールドでは、「おいどん」は「トチロー」である。そして、シヌノラの登場する世界にはもう一人、「ハーロック」という男がいる。

 ハーロックはやはりメーテルと同様、「おいどん」以外の世界にはほぼすべて登場する長身で彫りの深い顔に傷のある男だ。メーテルと同じく「おいどん」に登場するときは彼を軽蔑し見下げる単なるハーロック似の男前である。

 彼は作者が子どもの頃に見た同盟国独逸の宣伝映画の中の国防軍やヒトラーユーゲントが微妙にアメリカナイズされたキャラクターなのだろう。

 メーテルとハーロックは外見上はひどくお似合いなのだが、なぜか松本漫画の中ではカップルではないか、それどころか「ガンフロンティア」では「おいどん」と三角関係である。もしこの二人がカップルだったら、松本漫画はこれほど広く日本人、特に日本男性に受け入れられなかっただろう。このあたり、戦後の日本男性のさまざまなコンプレックスが反映しているようである。

 同じ作者の『宇宙戦艦ヤマト』には「おいどん」は登場しない。日本の戦艦である「ヤマト」の世界では古代とユキという、「格好いい」日本人が創造されている。「おいどん」は「ヤマト」の乗務員としては相応しくないと判断されたのだろう。
 ただ、実はこっそり「おいどん」を登場させている。それは艦長である。艦長から髭と軍服を取ったら実は「おいどん」なのだ。やはり作者は自分の分身である「おいどん」から離れられなかったことが分かる。

 閑話休題(はなしがそれすぎてもどせそうにないな)。

 小倉駅を歩いているとき、私は偶然にも『銀河鉄道999』の登場人物たちに逢った。

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 メーテル(私にとってはシヌノラ)と鉄郎(私にとってはおいどん)である。

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 ハーロックもいた。

 銅像にしてしまうと一層はっきりするのだが、メーテルとハーロックの欧州的世界に、「おいどん」はひどく不似合いである。

 この二人の間に割り込むために、近代の日本人は「脱亜入欧」に必死になり、多大な犠牲を払っていたのだと思うと何だか悲しくなる。

 だが、明治から150年、日本人の体形だけは欧州に追いついたのかもしれない。最近の若者の体形を見ていると、私がメーテルやハーロックに最初に出会ったときほどの違和感と憧憬を感じないからだ。
 そして鉄郎のような体形の若者はぐっと減った。

 おそらくこれからの日本人は体形だけでなく、自分たちの主観とは裏腹に、どんどん欧米人に近づいていくのかもしれない。

 私は体形も考え方もとてもではないが「脱亜」できないが。

私の農業入門記33-落花生の綱渡り-(それでも生きてゆく私245)

落花生の綱渡り

  私が転居を機に農業に携わりはじめてから4年になる(大袈裟。本当は家庭菜園)。

  私は欲が深いので畳10畳くらいの猫の肉球の如き土地に考えられうる色々な種類の野菜を栽培して来た。

  ただし、根菜類はなるだけ避けている。というのは、私の借家は造成の際に土地の比較的浅い部分に砂利だか石だかが入れてあるらしく、深さ50cmくらいまでしか耕せないからだ。
  決して私がものぐさで畑を耕すのに手抜きをするからではない。わけでもない。それもあるが。

  とにかくそんなわけで根菜類は植えない。

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  ただし、庭に野菜屑を植えて肥料にしている関係でたまに馬鈴薯だの甘藷だの里芋だのが勝手に生えてくることがある。これらは勝手に生えて来やがってと憤って抜いたりはしない。
  私は来るもの拒まずの大陸的な男なのだ。

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 ただし、これらの根菜はやはり出来が悪い。ジャガイモは青酸が充分分解していないくらいの小さな奴が多いし、サツマイモやサトイモは筋だらけの小さなものが多い。
  だからわざわざ種や苗を買って来てまで根菜類を植えようとは思わないのである。

  これは根菜とは言わないと思うのだが、落花生だけは毎年苗を買って来て植えている。
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  正確には2年目には種も苗も植えなかった。1年目の出来がひどく悪かったからだ。

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  ところが、1年目の収穫のときに豆が地中に残存していたらしく、勝手に苗が生えて来た。しかも、存外に出来が良かったため、3年目4年目はちゃんと買ってきた苗を植えたのだ。

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 さらにまた勝手に生えてきたものもあり、合計5株、トマトやナスの足元に遠慮がちに棲息しているとはいえ、狭い畑の住人としてはなかなかの勢力に成長したのだ。

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  落花生は言わずと知れた豆類だが、何故かほかの豆類と違って空中に実を付けず、土中の結構深いところに結実する。花は黄色いそれを空中に咲かせるのだから実に不思議である。
  よく見ると、花から土中に細い栄養管のようなものを伸ばし、実に本体からの栄養を送っているようだ。この栄養管は酷く細くて頼りなく、ちょっと引っ張ったら簡単に切れてしまう。

  まるで某資源大国から周辺国に伸びているパイプライン並みに危なっかしい。機嫌を損ねたらすぐに燃料を止められてしまうだろう。こんなものに栄養を頼るというのはまさに綱渡りである。

  何故こんな脆弱なシステムで子孫を残そうとしているのか不思議である。
  最初から土中に開花して蟻や団子虫や土竜に受粉させたほうがずっと効率が良さそうである。
 
  そういえば妻に言われるまでこの栄養管に気づかず、畑仕事のときにしょっちゅう切断していたような気がする。出来が悪かったはずだ。

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  今年は栄養管に随分意を使ったせいか、或いはほかの要因があるのか、とにかく我が家の落花生の出来は過去最高に良かった。

蕩けるピーナツ豆腐
 
ところが、過去の出来の悪い年にはピーナッツ豆腐を作ったりバタピーを作ったりと、豆だけに
随分マメに料理を作った私たち夫婦だったが(我ながらくだらん)、今年は収穫したっきりただ乾燥させているだけである。
  もはやあの本当に美味しいピーナッツ豆腐はこんな落花生からは作れない。後はせいぜい茹でて食べるくらいしか使い道がない。
  落花生がいつまでも笊を占領しているからほかの作物の収穫にも支障をきたしている。

  この体たらくの原因として考えられる一番の要因は有難味であり、二番目は疲労である。
 
 人はあるものがあまりにも多くあり過ぎると大切にしないようだ。
  特に収穫に手間がかかるものは大量に採ると疲労も酷く、後処理が億劫になる。正直「見たくもない」という心境になってしまうのだ。

  きっと金銭もそうに違いない。たくさんありすぎると見るのも嫌になるに違いない。そのときは飽きて人にやってしまうだろう。私が大金を手にすることは一生ないから、ただ推察するよりないが。

  それにしても、自家製の殻付き落花生を目の前にしてこんなことを言っているのだから実に不遜な話である。

  金を沢山持っている人もきっと「金もあんまりあると困る」などと不遜な話をしているに違いない。知らんけど。

カメラ河童のジャンク道遥か56-SL人吉Dマウント追跡記-(それでも生きてゆく私244)

遵法は辛いよ

 とある休日。
 私たち夫婦は「ほぼ恒例」になっている行為のために球磨川沿いの道をドライブしていた。 

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 それは肥薩線一勝地駅の切符を国家試験のお守りとして後輩たちに渡すというものだ。

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 「一勝地」という地名と「地に足を付けて一勝を」の語呂合わせからの行為であり、最初は普通の汽車の切符だったようだが、今では完全に「お守り」に進化している。
 さらに一昨年くらいからはこれに「滑り止めの砂」が付くようになった。

 ただ人のためだけだと利己的な私には楽しくないから、切符を買いに行くついでに球磨川の尺鮎を食べにいくのである。
 ところが、以前鮎を食べた食堂が民宿に特化してしまい、食事だけの客をとらなくなったので、人吉市まで行って天然鮎を買って自宅で焼いて食べるようになった。

 したがって最近の私の球磨旅は「切符を買って鮎を食べる旅」から「お守りと砂を買ってついでに鮎も買う旅」に変化した。

 球磨川沿いの絶景が進行方向に入った時だけ楽しみながら運転していると、ふと、何かを燃やした後のような煙があちこちに残っていることに気付いた。
 「ゴミでも燃やしているのかな。マナーの悪いことだ」と憤慨していると、ふと思い当たった。

人吉蒸気乃輔

 これは当年とって95歳、人吉蒸気乃輔ことSL人吉の吐く黒煙に違いない。このSLに乗って旅をしてみたときのことは「人吉蒸気乃輔旅行記」をご覧になってほしい。

 このときは駅に停車中の写真と車内および車窓からの風景は写真に収めたのだが、球磨川沿いを失踪、じゃなかった、疾走中の写真はその旅の性質上当然撮影不可能である。

 急にいつもの衝動性が頭をもたげ、SL人吉の球磨川爆走中の写真を撮りたくなった。

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 ところが、煙の行方を目で追ってみると、もう随分先のほうを走っている。おそらく私たちの乗った車から5kmはある。
 鈍足の蒸気機関車とはいえ、自動車の法定速度に比べればずっと速く走る。とてもまともに勝負しては追いつけない。私は遵法精神旺盛な男なのだ(本当?)
 ただ、SL人吉は肥薩線の各駅停車であるから、ときどき数分ずつ駅に停まる。その間に追いつき追い越し、撮影ポイントで待ち伏せて撮影すればよい。

 何度か追いつき追い抜いては写真を撮ろうとするのだが、「これは絶好ポイント」というところに限って駐車場所がないか、先客がいる。今日は「撮り鉄」にとっては最高の日和なのだ。

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 やっと某所で追いつき、駐車場所も見つけた。
 ここは湧き水のあるところでムニャムニャ…。教えない。

 Dマウント改造レンズの標準「加農13mmF1.9改(仮名)」とロシアレンズの望遠「木星11号(仮名)」を装着した2台の「ペンテコステオバQ(仮名)」取り出し、1台は首にかけ、1台は手に持ってSLの動き出すのを今か今かと待ち受ける。

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 汽笛が鳴り、ついに動き出した。まず「加農」を構え、連射。
 これで川面に影を映らせ、青空の下、森林の中を疾走する蒸気機関車が激写できたはずである。

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 ところが、思った以上に木が邪魔して車体がほとんど映らない。線路が川岸より高くて川面がほとんど映らない。山が想定外に高くて青空がほとんど映らない。

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 しかも、焦っていたのでシチュエーションを間違えたらしく、100mも走らないうちにトンネルに入ってしまった。

 トンネルを出たときにはもう遠映である。もはやDマウント標準では豆粒くらいにしか映らない。

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 とっさにもう1台の「木星」で連射、といきたかったのだが、焦っているのでなんとシャッターが単発でしか降りない。
 どうにか後姿を捉えたが、「写った」というだけで、構図もなにもあったものではない。

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 結局一勝地駅で追いついて止まっている姿を撮ることが出来たが、これでは携帯で撮った写真と何も変わらない。

 だが、実はこの旅で私は絶好の撮影ポイントを見つけてしまったのだ。
 帰りに寄ってみたのだが、SLの通過まではまだ時間があったのと、午前中は存在した絶妙の条件(ヒント「〇ぜ」)が午後には失われていたため、撮影は断念した。
 半端な写真になるのが目に見えていたのと、散々振り回された「女房岳」の噴火が近かったからだ。

 次は紅葉の季節で「無〇」のときにDマウントレンズとともに来よう。きっとDマウント初のコンテスト入賞写真が撮れるに違いない。

ウリ坊との遭遇(Sea豚動物記95)

ウリ坊との遭遇

 ウリ坊に会った。
 野生のものと遭うのは人生初である。

 時間はいつもの早朝散歩、場所は近所(といっても家から5km位離れているが)の山の中の小道である。
 その日の散歩はちょっと遠出をしようと徒歩でなく電動アシスト自転車「イグアナ号(仮名)」だった。
 上り坂をえっちらおっちら上り、道が平らになったとき、遠くの方に小さな犬が見えた。「ああ、犬がいるな」と思ったのだが、妙に鼻が大きい。まさかと思って目を凝らしたが、どうも犬ではなく猪のようだ。ただし、私は野生の猪を見たことがないから、そのシルエットが猪であると確信が持てなかった。
 もし猪だと分かっていたら、すぐに肩掛けバッグからロシアレンズ「木星11号(仮名)」付きの愛機「ペンテコステオバQ(仮名)」を取り出し、撮影していたに違いない。対象物の大きさとそこまでの距離からして「木星」の135mmという焦点距離は最適だったに違いない。
 だが、もう一つ確信が持てなかったのと、後述する心配のために、悠長に自転車を停めてカメラを取り出す余裕がなかったのだ。

 すぐ前は道が二股になっている。私は子犬だか猪だかよく分からない動物のいる道に敢えて進まず、もう一本の道を選んだ。この道をしばらく行くと動物のいる道に迂回して合流する道があるのだ。そっちから道を反対側から進もうと思った。いわば背後からの不意打ちである。

 すると、迂回して合流した直後、ウリ坊にばったり遭ったのだ。距離は5mくらいだろうか。ウリ坊は私を見て吃驚したらしく、道の脇の茂みに逃げ込んだ。

 猪は夜行性であると聞いていたから、もう日が昇ってから遭うとは思わなかったので吃驚した。

 そういえば最近、田圃の中の小道を散歩していると、稲の周りを金属の柵で囲ってある。
 私の棲んでいるところは結構街中で(嘘)、少なくとも猪が出そうなところではない人里だから、まさか猪避けの柵とは思わなかった。

 「こんなところで稲泥棒をする人もいないだろうに」と、大袈裟に感じた。
 「まさか俺よけじゃないだろうな」と邪推したりもした。私はここで結構長時間カワセミを待ってじっと立っていることがあり、その横を農家の人らしい軽トラックが速度をぐーっと落として殆ど歩くくらいで通りすぎ、「監視されているのでは」と感じることがあるからだ。

 何のことはない。
 実際に猪の被害が出てそれに対する防御策が為されていたのだ。

 「ウリ坊に遭った」などというと、都会に住んでいる人は「可愛かったでしょう」などと言うのだが、正直自分にとっては恐怖体験以外の何物でもなかった。

 ウリ坊は小さな子供であるから、基本的に単独行動はしない。きょうだい達と動くし、何よりも母親の引率付きである。

 つまり、「ウリ坊のいるところ、親の猪あり」なのである。
 交通安全に例えれば、「ボールが道に転がって来たら次はそれを追って子供が飛び出してくるからブレーキ」というシュチエーションなのだ。

 だからうっかりウリ坊の可愛さに我を忘れて一瞬でも見惚れたり、ましてや至近距離で撮影などしようとするのは大変危険である。
 獣道を外れて人間用の道に出てしまった我が子を案じて母親が後から出てきたら、この距離だと防ぎようがない。

 この場合どうにか逃れられるのは自転車に乗って動いている場合だけである。「イグアナ号」はパワーモードで走れば50kmは出るから猪の走る速度より速い。もっとも「猪突猛進」というぐらいでダッシュ力はどうみても猪の勝ちであるが。

 ただ、体重が90超の私がさらに自転車に乗っていると猪から見れば巨大生物である。基本的にはウリ坊にちょっかいを出さない限りは向こうが逃げ出すのではないだろうか。

 などと後付けの屁理屈を捏ねてみたが、実際のところただ驚いたし怖かった。はっきり言って撮影どころではなかったのだ。

 といいつつ、この日以来私は「ペンテコステ」に純正望遠を付けて首からぶら下げ、「イグアナ号」に跨ってその道の近所を散歩するのが日課になっている。レンズが純正なのはこれが自動焦点だからだ。望遠なのは安全な距離から撮影するためである。

 しかし、その日以来ウリ坊に遭うことはない。結構人家が近かったから、あるいは私の知らないうちに噂になって駆除されてしまったのかもしれない。

私の農業入門記32-ズッキーニの夭逝-(それでも生きてゆく私243)

ズッキーニ

 ズッキーニを日本で最初に見かけたとき、「なんちゅう半端な野菜じゃ」と思った。
 「日本で最初に見かけた」などというと、私がズッキーニの本場であるイタリアに住んでいたかのようだが、私は中国と韓国以外には行ったことがない。

 閑話休題(さいしょのいちぎょうではなしがそれるとは)。

 どこが「半端か」というと、私はこれをその外見から胡瓜の仲間である、と思ったのだが、南瓜の仲間であるという。いま漢字で書いてみて初めて気付いたが、この3者に瓜の仲間であるという共通点はあるのか。

 閑話休題(はなしがそれるというよりまとまらないな)。

 こういう変わった野菜は一時は持て囃されるが急速に飽きられて消えていくのが必定である。私はズッキーニもそういう運命を辿るのだと思っていた。実は食べてもいないのに。

 ところが消えるどころか、ズッキーニは春になると苗屋の店先に必ず並ぶ定番の野菜になって行った。
 それでも、私はズッキーニをそれと意識して食べたことがなかった。もしかすると知らないうちには食べていたかもしれない。が、やはりその半端さから、「ん、ズッキーニだな」という強烈な印象はなかったのだ。


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 私がズッキーニを初めて植えたのは、ウキウキ市(仮名)の三角町に引っ越した最初の春である。隣に胡瓜が植わっているのが、私がこの野菜をどんな類のものだと思っていたかをよく表している。「要は胡瓜もどきでしょ?」と思っていたわけだ。

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 最初の収穫である。
 まるで胡瓜のように細い。これは受粉していないからである。それはそうだ。ズッキーニの苗は他の物より高かったので、「お試し」のつもりだった私は1本しか植えていなかったのだ。
 後から知ったのだが、ズッキーニは他の瓜類と同じく、雌花と雄花があって、最低でも2株植えて互いの雌雄を受粉させなければならないのだ。同一株の両者を受粉させようとしても極端に受精確率が低くなる。

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 仕方がないのでそばに植えていた南瓜の雄花をズッキーニの雌花にぐりぐり押し付けてみると、なんと上手いこと受精したらしく、初めて大きなものの収穫に成功した。

 こいつを妻がベーコンと炒めてくれたのを食べて初めて、私はズッキーニの真価を知ったのだった。
 現在でも私は「ズッキーニとベーコンの炒め物」がこの野菜の最も美味い料理だと思っている。

 ところが、この株は実を3.4本収穫した後、急に葉にモザイクのような斑点が現れ、あっという間に枯れてしまった。何せ1株しか植えていないから、この年はこれで終わりだった。

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 ベーコン炒めの美味さに文字通り味を占めた私は、翌年もズッキーニを植えた。
 今回は確実に受粉させるために2株である。

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 ところがこの2株は胡瓜より細くアスパラガスより少しだけ太い実を数個付けた後、またモザイクがザーッと現れて、あっという間に枯れてしまった。この年もこれで終わりである。

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 これに懲りた私は、ズッキーニの作付け場所を変えた。2年目の不作は連作障害によるものだと思ったからだ。1年目の株の命を奪った病原微生物が土中に残っていたに違いない。
 この年の2株はすくすくと育ち、受粉が半端なものの随分大きな最初の収穫があった。
 ところが、これからという日、出勤前だったろうか、折から大雨が降った。
 庭で家の中まで聞こえるバキッという音がした。
 見ると、ズッキーニの株が、雌雄の花をたくさんつけたまま、2本とも根元から折れていた。
 私はその形態からズッキーニには支柱が必要ないと思っていたのだが、「大本営放送協会DHK(仮名)」の「野菜の此岸(仮名)」によれば、実は茎が折れやすいので是非支柱を建てるべきだという。

  今年、私は、我が家の猫の肉球ほどの畑(というより庭を勝手に耕した場所)のうち、「最終兵器」とも呼べる場所に2本のズッキーニを植えた。

 庭に3ヶ所ある畑のうち、日当たりは悪いが、砂混じりで水捌けのよい土地である。後の2ヶ所は粘土質で日当たりの悪い場所と、日当たりはいいがやたらと土が固い場所である。昨年まではこのどちらかにズッキーニを植えていたのだ。

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 効果覿面、ズッキーニは2株ともすくすくと育ち、次々と花を咲かせ、実をつけ始めた。

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 だがなかなか受精しない。実が小さい。
 ズッキーニの花には蜜蜂や蟻が次々にやってくるのだが、やはり人工苗床で育った乳母育ちなのか、受精能力が低いようである。

 ここはやはり人間による「月下氷人」が必要である。
 私は鵜の目鷹の目で毎朝開花状況を調べ、雄花と雌花が同時に咲いているときにはすぐに雄花の花びらをちぎって花芯だけにし、雌蕊にぐりぐり花粉を擦り付け、さらに3つに分かれている雌蕊の中央に雄蕊を挿入して固定した。随分乱暴な月下氷人である。

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 ほとんど手取り足取りの「スパルタ教育」の成果か、遂に大きな結実が2つあった。
  
 だが、これはベーコンとの炒め物だけで消費してしまえる量ではない。すぐに飽きてしまうだろう。

 ここで私の脳裏に韓国ドラマ「チャングマー(仮名)」の一場面が蘇った。そうだ。ジョン(煎)だ。
 煎は日本ではチヂミという名称が一般的であるが、韓国ではジョンやプッチムゲといわれ、「チヂミ」と言われても分からない人が多い。
 なんでもチヂミは古い韓国語で、様々な食材を溶いた小麦粉などと合わせ、油で平たく焼いた粉食(Wikpediaによる)をこう呼ぶのだとか。
 「チャングマー」の中で主人公がズッキーニのジョンを焼くシーンがあったような。私も真似をしてみることにした。

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 ちなみに韓国の南瓜は基本的にズッキーニなのである。これは何故か高校の校庭に植えてあった南瓜だ。

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 ズッキーニ、韮、人参、オクラ、茄子、ピーマンの煎である。
 これを酢醤油と辣油を混ぜたものにコチュジャンを溶かしたもので食べてみる。

 美味い。

 特に大きくなったズッキーニはベーコンとの炒め物よりこちらの方が合うようだ。

 「ズッキーニとベーコンの炒め物」「ズッキーニの煎」はズッキーニ料理の二大巨頭である。

 ほかにもいろいろ試してみて分かったことは、ズッキーニは胡瓜料理に使っても南瓜料理に使っても独特の存在感を発揮するということだ。
 たとえば「胡瓜と大蒜の炒め物」は妻の十八番だが、この料理をズッキーニで作ってもまた独特の風味で美味しい。あるいは胡瓜と混ぜるとズッキーニがうまく水分を吸い取ってまた独特の食感になる。

 結実能力が弱いのが玉に瑕だが、植えてみる価値のある野菜である。

恐竜化石が呼び起こす少年の日の疑惑(毒にも薬にもならない話83)

恐竜の本当の姿

 復元土器に対する疑問の話が出たところでもう一つ、やはり子供の頃から納得が行かない話をする。
 それは化石の話である。

 これについては一度「ベリンジャー事件」と「ピルトダウン原人事件」の話をしたことがあるが、もう少し根源的なところから疑問を呈したい。

 ちなみにベリンジャー事件とは、ある化石研究家を陥れるために「文字の化石」を製作して発掘現場に埋めた、という化石研究草創期らしい捏造事件であり、こんなものには現代人は決して騙されないだろう。
 もう一つのピルトダウン事件はもっと悪質で、ヒトの頭蓋骨とオランウータンの下顎骨を巧みに組み合わせて捏造した「世界最古の原人」の化石で、こちらは1950年代まで偽物であることが判明しなかった。

 さて、化石復元に対する子供の頃の疑問は2つある。

 第一の疑問。
 もともと化石である部分を他の部分と判別するのにはどんな方法が採られているのだろうか。

 おそらく専門家が見て周囲の部分と物質的に違う部分、ということになるのだろうが、これが素人目には実に怪しい。

 私は多くの同年代と同じく、「養育者カラーブックス(仮名)」によっていろいろな雑学の知識を得た子供だったが、このシリーズの「化石入門」というような書名の本の中に「クラゲの化石」の写真が掲載されていて、これが子供心に「本当かよ?適当に彫ったんじゃねーの?」というような代物だったのだ。
 ところが今、この本だと思われるような題名の本をネットで検索しようとしても、どうしても出てこない。これでは私が「海月の化石」を持ち出すために話を捏造しているようである。いずれもう少し詳しく調査して結果を報告したい(確実に忘れるだろうな)。

 とにかく、海月の体の主成分はほとんどすべて水である。これがそんなにうまいこと化石になるものなのだろうか。

 もちろん専門家のすることだし、もう成分分析の技術なども発達しつつあった時代だから信憑性については相当高いものだったのだろうが、子供としては何か納得のいかない、騙されているような気分だったのを覚えている。

 もう一つの疑問。
 化石として出土した生物の身体のごく一部分からどうすれば全体像が分かるのか、ということである。
 これはおそらく化石生物の現代に生き残った子孫や、その前後の時代の同種の生物の化石などから類推するのだろうが、これまた子供心にどうも納得が行かなかった。

 今では信じられない話かもしれないが、私が高校生になった昭和53年(1978)まで、「日本では恐竜の化石は見つからない」と言われていた。「日本には肉食恐竜はいなかった」とも。

 そして、子供向けの本などにはミトコンドリアを縦断したような形をした歯の化石の写真と、それから推測したカバのような動物の絵が掲載されていて、「恐竜の化石はないが、一番古いものに属する哺乳類は見つかっていて、こんな奴」というような説明が記されていた。確かデスモスチルスと言った。

 私のことを直接知っている人は何でそんな昔に1回か2回本で読んだ動物のややこしい名前を覚えているのか、10秒前のことすら忘れる癖に、と思ったと思うが、私は昔のことは覚えているのである。

 閑話休題(ほらほらまたはなしがそれはじめた)。

復元図
 今Wikipediaで見るとデスモスチルスはこんな全体像をしていたとして想像図が載っているが、私が当時見たのとまったく違う。私が見たのはもっとずっとカバに近い挿絵だった。

 だいいち、ちゃんと化石が発掘されている世界の恐竜にしてからが、「冷血動物だった」とか、「動きが鈍かった」とか、「毛がなくてゴワゴワの皮膚だった」などと、おそらくは現代に生き残った爬虫類である亀や鰐からの類推なのだろうが、現在の研究とはかなり違う通説が流布されていたのだ。

 だから私は少年の域を脱して中高年の域に入った今でも、恐竜の化石からの「想像図」などと言われると、「本当かよー?」と内心ツッコミを入れる。これはおそらく私の中に年甲斐もなくたくさん残っている稚気の一つなのに違いない。

 ちなみに、我が熊本では御船町と御所浦町で恐竜の化石が発見されているが、いずれも歯など身体の一部で、ミフネリュウなどの全体像も想像の域を出ない。したがって私は「本当かよー?」と思っている。
 ここはひとつ全身骨格の出土が待たれるところである。そうなると全国で3例目ということになる。

 それにしても、恐竜は古銭や蝶の標本と同じく、私の少年の日の想い出とと直結しているアイテムである。
 Those were the good old days.なーんて、現役で仕事をしている男が言っちゃいけないナ。

復元土器への素朴な疑問(毒にも薬にもならない話82)

本当にこんな形か

 とある日曜日。

 私たち夫婦は今まで行こう行こうと思っていながらなかなか行く機会のなかった場所に来ていた。

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 熊本市城南町にある塚原古墳群である。
 ここはちょっと分かりにくいところにあり、大々的に宣伝したりもしていないから、あまり訪れる人もいないが、実は巨大な遺跡だ。大小さまざまな形式の古墳は全部で500余りもある。

 何でも九州自動車道を作っているときに偶然見つかり、発掘されたのだという。
 「古いもの好き」の熊本人であるから、当然のように保存運動が巻き起こり、全国でも珍しい方法で遺跡の保全が図られた。それは「遺跡の下にトンネルを通す」というものである。高速の松橋インターから北上すると程なく現れるトンネルがそれで、トンネルの上がこの遺跡なのだ。

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 こんな多くの古墳を作れるということはここに相当大きな、そして先進的な集団が存在したということだ。古墳の形式から当然のことながら大陸文明とも交流があったようで、古代の熊本の繁栄とそのスケールには驚いてしまう。

 だが今日はこの巨大遺跡の話ではない。

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 この古墳公園の中には歴史民俗資料館がある。
 私は以前からここに行きたくて何度かそれを試みたのだが、愛車「ウォッス(仮名)」に搭載されているのが「バカーナビ」であることもあって遂に行きつくことが出来なかった。
 ちなみにこの「バカーナビ」は最近、無人の荒野を飛んだり、海の上を走ったり、宇土半島の南側を走っているのに北側の道を表示したりと、その能力をますます発揮し始めたので(故障ともいうが)、ナビは専らスマホのものを使用しているが、今日はその話でもない。

 この資料館はほかの人のレビューにも「場所が分かりにくい」と書いてあるくらいで、非常に多くの熊本県民が行こうとしては断念した「迷宮の資料館」なのだが、今日の話はそれでもない。

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 では何の話かというと、この資料館に展示されている土器を見ているうちに頭をもたげてきた子供の頃からの疑問についてである。
 これらの土器は細かい破片を組み合わせて巧みに元の形に復元してある。
 深い専門的な知識と同時に私の持ち合わせていない根気がないとできない仕事であろう。

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 ただ、こういう復元土器を見ると、つい「本当かよ」と思ってしまう。
 こんなに少ない遺物からよく全体の形が分かるものだ。もちろんこの時代の土器の形に関する深い知識と空間的なセンスがあれば、「これしかない」という形が分かるのだろう。
 だが、素人目にはどうも完全に納得はできない。ましてや私は科学の道を歩む医学徒である。科学の根本は「疑うこと」なのだ(大袈裟)。医学の世界では「常識だ」と思われていたことが20年くらいで完全にひっくり返ってしまうことがある。

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 ここから出土した土器にはユニークな形のものが多い。

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 何だか、「土器ってこんな形だよな」というこちらの先入観を壊してしまうような形だ。

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 これなど、現代芸術だと言っても通用しそうだ。

 復元された土器も、実は冒頭の絵のように専門家の予想すら裏切ってしまうような形だったのではないか、と思ってみる。
 
 こんなことばかり考えているから出世しなかったんだよな(既に過去形)とうらぶれた気分にもなるが、だからこそ毎日が楽しいんだよな、とも思う。

バーチャルウォーキングマシーンの提案(どうしても言いたかったこと57)

バーチャル散歩

 私は毎朝家の近所を散歩することを日課にしている。

 ただ、猛暑の時期と厳寒の時期はなかなかこれが実行できない。

 猛暑の時期は早めに目が覚めて朝日が昇るのを見るのだが、その途端に我慢が出来ないような暑さが外の空気に感じられて、もう一度横になる。気付いた時にはもう散歩に費やす時間がなくなっている。
 厳寒の時期は朦朧とした意識の中で既に散歩の時間であることを感じるが、外は真っ暗だし、肌を刺すような寒さであることは長年の経験から分かっているから、ついつい布団の中にいるうちに、もう朝食を食べなければならない時間であることに気付く。

 また、張り切って散歩に行こうとして玄関を出ると、雨が降っていることに気付くこともある。無視できるような小雨ではなく、傘が要るくらいの量の雨が静かに降っていたりする。少々の雨なら、と思うのだが、私は黄砂や花粉にアレルギーがあって、身体中が痒くなったり喘息が起こったりする。傘を差さずに雨に打たれたりすると、この症状が覿面に現れる。仕方がないので、もう一度寝ようとするのだが、こういうときは身体が「これから動くぞ」という気になっているので、なかなか寝られない。

 こんなとき、ウォーキングマシーンがあったら、と思う。ベルトコンベアーみたいな奴の上に載って狭いスペースの中で歩行動作ができる健康機器である。

 これならば外気の温度や天候に関係なく散歩できる。

 ただ、私はとても飽きっぽい。

 したがって、このテの健康機器を長く使い続けたことがない。これは妻もご同様で、私が「引っ越し貧乏」と呼ばれるほどの輿の落ち着かない男でなければ、これらの残骸で家の中は足の踏み場もなくなっていたに違いない。幸い実際には引っ越しのたびにこれらの嵩の高い物品は収集所行きになるのである。

 ウォーキングマシーンは私の中では以前から欲しい健康機器のナンバーワンなのだが、それなりの値段がする。これを飽きて使わなくなるというのはあまりにも勿体ない。それで過去これに手を出したことはない。

 実はウォーキングマシーンで飽きないためのアイディアは小学校の頃から温めているのだが、なぜかこうした商品が販売されているのを見たことがなかった。

 それはどんなマシーンなのだろうか。

 名付けて「バーチャルウォーキング東海道五十三次」。

 別に東海道五十三次でなくてもいいのだが、マシーンと連動して目の前の大きなTVモニターに街並みが現れ、マシーンで歩くとあたかも道を歩いているような映像が映る。

 適度なところで休憩できるように、一定距離歩くと旅籠などの休憩所が現れるので、そのときはティータイムである。これで歩きすぎ(専門用語で過用という)が防げる。

 モニターに現れる風景は「東海道五十三次」のほかに「北海道野生動物ツアー」でもいいし、「思い出の道散策」でもいいし、「古都京都寺社巡り」でもいい。とにかく飽きさせないような景色が次々に現れれば、私のような飽きっぽい人間でもきっと頑張れるに違いない。

 私が小学校のころ(つまり45年前くらい)にはテレビとウォーキングマシーンを連動させるなど丸きりの夢物語だったが、現代のこれだけ進んだバーチャルリアリティーだったらこうした商品を実現するのは簡単ではないだろうか。

 そう思った私は「アマゾネス(仮名)」や「楽観(仮名)」などの通販サイトでこうした商品を探してみた。ところが、これがほとんどないのである。

 もちろん、ウォーキングマシーンで歩いた距離を入力するとバーチャル日本一周ができる、というような類のサイトはあるのだが、マシーン連動ではないから、これはどちらかといえば「みんなで励ましあってウォーキングを続けましょう」という趣旨に近い。

 一つだけ見つけたのはお遍路さんがバーチャルで体験できる機器だったが、これが私には到底手の出る価格ではない。しかもモニターが小さい。

 ドライブレコーダなども今はとてもいいものが出ているのだから、ウォーキングマシーンとこうした映像を連動させて大画面に映すことは技術的には十分可能なはずである。なぜこうした機器がほとんど販売されていないのか、謎である。

 何か陰謀の臭いがする。

 こうした、「誰でも思いつくアイディアなのになぜか実用化しない物」というのは私たち市井の者が思う以上に複雑な「訳あり」なのかもしれない。

 私は以前「電池交換式EV車はなぜない」と世に問いかけていつものように全く無視されたが、こうした機器が発売されると権益を脅かされる一団があるにちがいない(誇大妄想)。

 ちなみに電池交換式のEV車は結局中国で実用化されたらしい。新興勢力でないとこうしたことが実現しないというのが如何にも胡散臭い話ではある(穿ち過ぎ)。

 あるいは今は「ゴーグルアース(仮名)」などで世界中のどこの街並みでも仮想散策することができるのだから、これとウォーキングマシーンを組み合わせたら世界的な大ヒットになりそうな気がする。数が出れば値段も安くなるし。
 一瞬「ゴーグルの陰謀」という言葉が脳裏を掠めたが、深入りしないことにする。命が危ない(被害妄想)。

 どこかの会社に是非製品化してほしいアイディアだ。

 そのときは私にアイディア料をお願いしたい。料金は「バーチャルウォーキング東海道五十三次」一台無料進呈で結構である。

初の新潟は学会出張7-新潟雑感-(河童日本紀行573)

川の途中で切れた橋

 新潟、といえば、米と酒と魚、ということで、避けるわけにはいかないのだが、学会出張で行ったのにそのことばかりを取り上げると「何しに行ったんだ」と言われそうなので、雑感の中で取り上げることにした。

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 新潟名物三角達磨である。この二人(?)が出迎えてくれる店は、同行者が「どの店が美味しいですか」と通行人にインタービューしてほとんどの人が「あそこ」と答えたらしい。
 実際美味かった。

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 特に貝の刺身は抜群だった。北寄貝など、九州で食べるものとは名前は一緒でも中身は同じものとは思えないくらい違う。
 この間「大ハマグリ」で40度の熱を出して「もう二度と貝は食べない」などと言っていたのだが、あの悪夢をすっかり忘れてしまうくらいに美味かった。

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 新潟名物の「氷頭(ひづ)」。鮭の頭の軟骨である。美味かった。もう一つの名物である「メフン(鮭の腎臓)」は頼む勇気がなかった。

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 新潟は蕎麦も名物らしい。来るまで知らなかったが。遊びで来てるんじゃないんだからな(建)。

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 この店も美味かった。甘海老もまた九州で食べるものとあまりに味が違う。

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 最終日の空港で食べた寿司。「米どころ」「魚どころ」でそのコラボレーションを食べない法はない。ただし、「酒どころ」だからといって、こいつは出張中の勤務時間内に飲むわけにはいかない。

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 新潟の夕焼け。緯度が高いせいで日暮れが早い。九州の方が昼間の時間を得しているような気がする(それだけ夜明けが遅いじゃろうが)。

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 会場に行く途中で見た不思議な橋。川の途中で終わっている。かといって、未完成という感じでもない。一体どういう事情なのだろう。ネットで調べても分からない。

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 早朝の散歩で見つけた不思議なオブジェ。「人体の不思議展」を思い出した。



 同じく散歩で出会った新潟鷗。釣り客に懐いているらしくそのすぐそばでおこぼれを待っていたが、私を見るとすぐ逃げてしまった。鳥は人間の個体を見分ける能力があるとしか思えない。

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 ほぼ毎日釣りに来ているらしい。



 これがもう見ている間にじゃんじゃん釣れる。今度は絶対に観光で来なければ。もっとも釣り道具を手荷物で機内に持ち込まないようにしなければ。一度上海行の飛行機で没収されたことがある。釣竿もその筋の人から見ると「テロの道具」らしい。

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 新潟空港の空。いよいよ新潟ともお別れである。

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 帰りはプロペラ機で2時間。その日は生憎の悪天候で、かなり揺れたので、乗客たちはぐったり疲れていた。
 途中、乱気流を避けるためだろうか、ずっと列島沿いを飛んでいたこの機がどんどん陸地から離れていき、しかも到着予定時刻になっても陸地が見えないので不安になった。「操縦席でなんか起きてるんじゃないだろうな?」

 以上、新潟からお伝えしました(嘘)。

初の新潟は学会出張6-人から見た自分-(河童日本紀行572)

写真の中の自分

 「自己イメージ」という言葉がある。 
 「自分が自分に抱いている印象」という意味だが、往々にして「他人が自分に対して抱いている印象」とは違う。

 私は教育に関わるようになって今年でちょうど30年になる。
 若い頃の私はおそらく生徒を叩かない教師の元祖だったと思うし(本当にあの頃の先生はよく生徒を叩いた)、言語聴覚士の教育に関わってからもその卵たちには随分優しく接してきたつもりである。

 しかし、特に初期の教え子たちからは、「あの頃の先生は怖かった」「先生は丸くなりましたね」と言われることが多い。まさに心外である。

 俺のどこが怖いんじゃい?ゴラア!!!

 というのは冗談として、人は他者が見た自分のイメージを知って驚くことがある。

 学会出張で行った新潟でもそういう経験をした。

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 写真は新潟のとあるデパートの企画展である。
 生粋の九州人である私は何だか不思議な感じに襲われる。「九州」の頭に「大」が付いているのが何だか面映ゆい。もちろんこの「大」は「九州」に冠されているのではなく、「展(展覧会)」の方に冠されているのだが。

 バスに貼ってあった広告によれば、この大九州展に熊本県代表として出品されているのは、「くま悶(仮名)」を模ったお菓子と赤牛のステーキである。

 確かに「くま悶」は熊本県を代表するキャラクターだし、赤牛は熊本独特の牛であり、美味い。どちらも私は大好きである。
 だが、「それだけが熊本(の食べ物)か。もっとないか」と思ってしまう。
 たとえば御菓子だけでも朝鮮餅や小袖餅や高瀬飴やいきなり団子などいろいろなものがあるし、肉だってまず馬刺しがあるし、絶滅した鶏を復活させた天草大王があるし、梅肉を食べさせているために脂の香りがいい「天草毎日ポーク(仮名)」があるし、と、熊本県を「くま悶」と赤牛だけで語ってもらっては困る、という気になる。
 もちろん企画展にはスペース、というものがあるから、さまざまある中から取捨選択しなければならないというのは分かるので、これは別にデパートの担当者のせいではなく、単に自分の中の不合理な心の動きに過ぎないのだが。

 これが自己イメージと他者イメージというものなのだろう。

 自分としては自分の中のいろいろな面を知っているから、他者イメージとして一部分を取り上げて認知されていることを知ると、「なんか違う」「抜け落ちたものがある」と感じるのだ。

 写真というのも他者イメージの一つだろう。
 写真に写った自分は、機械が客観的に捉えた自分なのだが、これがほぼ例外なく自己イメージと違う。
 自分の写真に激怒する人などもいて、亡くなった祖母の写真などには自分の顔の部分に傷をつけてしまったものすらあるし、「写真は撮らせない」という人もいる。女性に多いようだ。

鏡の中の自分

 以前「トイレの中の見知らぬ自分」という題で自己イメージと他者イメージのギャップについて書いたことがあるが、

講師時代

 今から見るとそのころの自分は吃驚するほど若い。河童ではないし(髪が)。それでもショックを受けたのだから、自己イメージがいかに高いかということだ。

 こうして見てみると、自己イメージよりも良い他者イメージというのはあまりなく、「それは自分ではない」「誤解だ」「一部を誇張している」「偏見だ」と感じることが多いようである。

 私が「河童日本紀行」で書いている文章も、各地の住民からするとそういうものなのかもしれない。

 前々回に「新潟駅界隈には古いものがない」と書いたとき、反論のコメントが1つは来るのではないかと思っていた。「古いものはいくらでもあるぞ」と。おそらく熊本県のある一角について書いたらそうなっただろう。

 だが、何も反応がなかったのは、新潟県民が私の意見に賛同したわけではなく、新潟県民が私のブログを誰一人読んでいないからだろう。

 これはこれで自己イメージと他者イメージの違いである。

 自分で書いていて衝撃を受けたが。健康に悪いのでこの話題はこのへんでやめておこう。

初の新潟は学会出張5-忠犬タマ公-(河童日本紀行571)

忠河Well肉桂

 私にとって新潟は本当にモニュメントの少ない街だったが、新潟に着いて真っ先に出迎えてくれた銅像があった。
 人ではない。

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 犬である。

 「忠犬タマ公」という。
 体幹に突出した乳房で分かるとおり、雌の犬である。

 忠犬といえば「ハチ公」が有名であるが、「タマ公」は初見であった。

 何でも猟師である飼い主が雪崩に巻き込まれて埋もれ、命が危ない時に、両脚の爪から血を流しながら掘り返して助けたという。しかも、二度。

 「ハチ」は実は飼い主の買ってくる焼き鳥が目当てだったのではないかなどという無粋な説もあるが、「タマ」は飼い主が実際に助けられたと証言しているのだから、議論の余地がない。
 雪崩に巻き込まれた場合の死因としては1.外傷、2.窒息、3.低体温があるが、タマの場合は頭の部分の雪を掘り返して露出させることで2.を防いだわけである。

 また、これは私見であるが、「いざ」という時に人間の生存率を低下させるものとして、精神的打撃、不安、孤独、絶望などのストレッサーがあると思う。
 タマが掘り返した雪が本当は大した量でなくとも、飼い主にとってはストレス反応を回避するために重要な役割を果たしたことは想像に難くない。

 何でこんなことを考えるかというと、今年の初めの持病の心房細動のアブレーションでの経験によるのだ(「の」がいくつあるか数えましょう)。これは肺静脈から来て心房を勝手に動かしてしまう電気信号を心筋を焼灼することにより遮断する手技である。

 これはもちろん雪崩などよりずっとマイルドな出来事である。

 しかし、施術中ヘリカルCTで撮った画像に沿って処置が行われるため、受ける方は画像と実際の軌跡がズレないように身じろぎ一つできない。というところが、強制的に身じろぎできないという、雪崩に巻き込まれた人にちょっとだけ似ているのだ。

 心筋梗塞や大動脈解離などに遭われた方の経験などとは比べものにならないことも想像できる。

 それでも、経験しないとピンとこないかもしれないが、意識がはっきりしているのに3時間じっと天井を向いて指一本動かしてはいけないというのは相当の苦行である。
 私は何度か「ああ、もうワーッと身体を動かしちまおう。アブレーションが中途半端になっても仕方ないや。」と思った。もしそうしていたら、施術そのものが失敗したか、画像の撮り直しで苦痛がもっと長引いていたに違いない。

 そんなとき、「ああ、後少しだけ我慢しよう。」と思い直させてくれたのは、「あと少しですよ。頑張ってください!」とNs.が枕もとで掛けてくれる声だったのだ。

 だから私は飼い主が犬に救われたと証言した気持ちはよく分かる。そばで励ましてくれる存在は生命の危機を感じている者にはなによりの助けなのだ。

 忠犬タマ公の像は新潟に4つ、タマのエピソードに感動した軍人の故郷である横須賀市に1つあるらしい。
 私の目撃した新幹線口のタマは設置が新しいせいか、ハチのように人々の待ち合わせ場所にはなっていないようだった。

 ところで、我が熊本にも「忠犬」がいる。
 「虎」という。「忠犬」ではなく「義犬」と呼ばれている。(ちょっと司馬遼太郎調で)

 トラは明治初期の反乱の一つである「神風連」で決起した兄弟の飼い犬だったのだが,敗死した2人の墓の前で飯も食わずに佇んだまま餓死したという。

 どうもこちらはタマと違ってイデオロギッシュな感じがして好きになれない話である。

 ちなみに全国の「忠犬」について知りたければ、青柳健二「全国の犬像をめぐる   忠犬物語45話」青弓社という本があるからこちらをどうぞ。って、興味ないか。
 

初の新潟は学会出張4-新潟県民の夢の懸け橋-(河童日本紀行570)

橋ありて

 新潟駅界隈には古いものが残っていない、と書いたが、実は超大物が残っている。

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 それは万代橋である。 

 全体に新しい感じのする新潟の街の中で、古い印象を持った建造物だ。

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 なかなかの風格である。

 万代橋は信濃川に架けられた初めての橋だという。

 信濃川は長野県に源流を発し、新潟市で日本海に注ぐ。長野県では千曲川と呼ばれている。短小な川の多い日本には珍しい水量豊かな大河である。地理の教科書をまだかすかに覚えている人は「日本一長い川」という知識があるだろう。

 信濃川を隔てた新潟と沼垂(ぬったり)には明治時代まで橋がなく、渡船で1時間かけて渡っていた。
 これには川幅という物理的な距離だけでなく、両地の人々の間の心理的な距離も関係していたらしい。

 もともと「隣同士」というのは一つ間違えれば中が拗れる、というのは日本と韓国の間を見ても分かることである。

 両地の仲が「犬猿」とまで称されるようになったのは、たびたびの水害に悩まされていた沼垂が1680年(延宝8)に治水のための堀を作ろうとしたのが発端らしい。「新潟」と「沼垂」、どちらも湿地であることを示す地名である。
 堀の完成による流路変更の悪影響を心配した新潟側がお上に訴え、沼垂にとっては死活問題の堀の掘削が差し止められてしまう。その後数回の訴訟が行われたものの、すべて沼垂側が敗訴。湿地ではどんな治水をするかでどこが発展するかが大きく変わってくる。沼垂側の恨みは深い。
 両者の争いには新潟の属する長岡藩が譜代大名であり、沼垂の属する新発田藩が外様大名であることも関係していたらしい。(新潟「地理・地名・地図」の謎)

 さらに明治に入って1886年(明治19)に万代橋ができてから、北越鉄道(現在の本越本線)の終着駅をどこにするかで揉めに揉め、両地域の対立は頂点に達する。信濃川を越えて新潟を終点にしてほしいという願いを北越鉄道が拒否。沼垂を終点にしたため、新潟住民がこれに激怒。しまいに列車の爆破事件まで起こったというのだから、半端な仲の悪さではない。(同書)

 しかし、明治40年(1907)に沼垂に大火が発生する。このとき、新潟側から消防車が万代橋を渡って対岸に駆けつけ、消火に活躍したことが転機となる。
 以後新潟港の築港・整備にともなって両地域の合併の機運は高まり、遂に大正3年(1914)、新たな新潟市として一つになった。

 今、新潟市民に聞いてみても、こんな両地域の対立を知っている人は殆どいないのではないだろうか。橋がつないだ両者の縁である。

橋を作ろう

 私は以前こんな絵を描いて熊本県の石橋である霊台橋を称えたことがあるが、新潟の万代橋はまさにそんな橋なのである。

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 かつて熊本の天草五橋を提案した森慈秀は「夢の懸け橋(夢想癖のたわごとの橋)」と言われたが、新潟の万代橋は文字の全き意味での「夢の懸け橋」だったわけだ。

 もっとも、現在の橋は昭和2年(1927)年建造の三代目だそうで、両町の懸け橋となった一代目は火事で焼け落ちている。
 信濃川の川幅は大正11年(1922)の大河津分水掘削完成までは770mもあり、初代の橋長は782mと現在の2.5倍以上あったそうだから、「非業の死を遂げた偉大な創業者」という感じである。
 一度その雄姿を見たかったものだ。

初の新潟は学会出張3-頑固親父のいない街?-(河童日本紀行569)

頑固親父

 翌日は早朝からホテルの周辺を散歩した。学会出張したときのいつもの習慣である。ホテルは新潟駅の近所にあるから新潟駅界隈の散歩ということになる。

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 その日はワークショップなのだが、移動の起点が新潟駅になるので、その下見も兼ねている。会場は北口あるこのバスターミナル出発かと思っていたら、

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長い長い廊下を渡って駅の反対側の南口である。
 下見に来てよかった。おかげで出発直前になって戸惑わなくてよかった。この情報は同行者と共有しなければ(単なる気まぐれのくせに偉そうに)。

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 駅の反対側も開発が進み、随分繁盛している。
 北口と同じく長い飲食店街が続く。
 私は北口から南口に出て、さらに東に進み、最短距離でまた北に進んで北口に出るつもりだった。

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 しかし、行けども行けども線路を横切って北に抜ける通路がない。

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 1km以上歩いたと思う。やっと踏切が。線路の北側に渡れた。足は棒である。この情報も同行者と共有である(たまたまのくせに偉そうに)。

 ここまで歩いてきて私は、新潟駅と九州の熊本駅や博多駅の大きな違いに気付いた。
 北口も南口も、古いものが全く残っていないのである。

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 たとえば熊本駅などだと、再開発がされていても、あちこちに古い家並みや石碑や小さな祠など、街のかつての面影を残したものが残されている。というより、私たちはいまだに古いものに埋もれて生きていると言ってよい。

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 ところが新潟駅の場合、少なくとも私が歩いた範囲ではそうしたものが一切ない。モニュメントも新しい。私は新潟駅の周囲をぐるっと3kmくらい歩いているにもかかわらず。

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 もちろんレトロな雰囲気の店や横丁はある。だが、それはおそらく1990年代よりは遡らないようである。

 これがとても不思議だった。
 私は未知の土地に行ったとき、石碑などの古いモニュメントを見つけてその土地の歴史を知ることにしている。特に学会出張のときには観光に行くわけではないから詳しい下調べなどはせず、事前情報なしにこれらに書いてある文章でその土地柄を知ることがほとんどである。

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 たとえば倉敷に出張に行ったとき私は発表の準備が忙しく、この土地について皆無というくらい情報を持っていなかったのだが、

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そこに残る数々のモニュメントによってこの古い街の歴史を知ることが出来た。

 新潟駅ではこれができなかったので、戻ってきた今でも私はこの土地に関する情報をほとんど持っていない。「駅の反対側に行くのが大変だった」「駅の両側とも繁盛していた」くらいである。

 だいたい古いものを壊して新しくするとき、九州では「これだけは残してくれ」という人がいるものである。人によって思い入れのあるものが違うから、「これだけ」の「これ」も違うことになる。したがって、再開発で街が装いを新たにしても、九州の街では古いものがあちこちに残ることになる。九州には「頑固親父」が多いのかもしれない(あくまで私のことです)。

 新潟駅界隈ではそうした人はいなかったのだろうか。
 ものの見事に丸ごと新しい街になっている風景を見ると、保守的で頑固な九州人(あくまで私のことです)からすると不思議な感覚に襲われる。

 これが県民気質の違いなのか、それとも単なる偶然なのか、研究の余地のある現象であった。

初の新潟は学会出張2-新潟エレジー-(河童日本紀行568)

新潟エレジー

 話が前後したが私は新潟に行くのは初めてである。
  美味しい米、美味しい酒、美味しい肴が揃っている、ということと、雪が深い地域である、ということは知っていたが、具体的に行ってみようと思ったことはなかった。
  おそらく今回の学会がなかったら一生縁のない土地だったろう。
  だから、学会で発表することになって、いざ行こうという段になっても、その方法は皆目分からなかった
  まず、熊本-新潟 ツアーで検索してみても、何もヒットしない。つまり、その種類のパック旅行は存在しないのだ。
  熊本-新潟 飛行機で検索してもご同様で、これまたヒットしない。つまり、熊本-新潟の直行便の飛行機は存在しないということだ。
 いろいろ調べてみると、福岡-新潟、大阪-新潟、名古屋-新潟、東京-新潟便はそれぞれ存在する。
 ただ、そこまで行く手段が結構難しい。パックがないのでどれもなかなかの割高である。
 結局職場の同僚に探してもらって一番しんどくないルートに決定した。
 それは熊本-福岡新幹線、福岡-新潟航空機である。
 ただ、これだと学会初日の朝に熊本発で新潟に着くのは不可能だし、学会最終日の夕方まで参加すれば熊本に着くのは深夜である。しかも私の場合そこからさらに三角に帰らなければならない。
 職場にお金をだしてもらって出張するのだから学会には少しでもたくさん参加したいし、費用はできるだけ少なく済ませたい(大建)。私は「昭和の男」だから、そうしないと気が済まないのだ(大見得)。

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 夕暮れの福岡を出発して、

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 夜の新潟に着く。
 あれも食べて、これも飲んで、などと考えていたが、明日は一日ワークショップである。

出張中の発作

 何せ去年はワークショップの翌日に心房細動の発作を起こしているのである。

 同行の同僚には「大人しく寝ます」と宣言して、一旦部屋に帰ってからコンビニに出かけ、食事を買ってきて部屋で食べる。

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 夜の巷が私を呼んでいる。

 この誘惑を断ち切るのは昔はとても大変だった。
 だが、最近の最大の欲求は「ゆっくり寝たい」なのである。何せ夫婦で旅行に行ってもまず宿で昼寝するくらいだ。
 もはや私に「人類繁栄への情熱」も、「大友旅人との友情」もない(嘘)。

 それよりも、福岡空港で飛行機を待っている間に、夕食としてカレーを食ってしまったのだ。しかも、わざわざカツカレーを。すっかり血糖値の上がってしまった私は、身体にちっとも栄養を入れたくなくなってしまっていた。 
 せめて饂飩かただのカレーにしておけばよかったのに。

 相変わらず目先の欲望に負けては後悔している。

 こうして人生初の新潟学会出張は侘しく始まったのである。

初の新潟は学会出張1-「く」の字に曲がった友人-(河童日本紀行567)

笑えない苦行

  久しぶりに学会で発表する日、私は発表時間を待ちながら、自分がすっかり時代に取り残されているのを悟った。
  発表の内容ではない。こちらは今の流行り、じゃなかった、最新の情報に対する分析である。
  そうではなくて、形式面の話だ。私がしようとしている発表はポスター形式。学術的な内容を大きなポスターにして掲示し、皆に見てもらいながら説明するのである。
  このポスターは相当の大きさである。何せ横900mm、縦1500mm。こんな大きさの紙は通常販売していないし、この大きさの用紙を印刷できるコピー機も通常のオフィス機には存在しない。
  だから、私が学会で発表を始めた頃には、この形式で発表しようとする人は、内容をA3用紙12枚くらいに印刷し、それを切り貼りしてポスターにしていた。
  しかし、月日は流れ、皆が贅沢になって、こんなことをする人はすっかり少数派になってしまった。私の生業であるリハビリテーションの教育の主体が大学にシフトするのに伴って、そこには高性能のコピー機が入り、これくらいの印刷は楽々できる環境にいる発表者が増え、ポスターも一枚ものの印刷にする人がほとんどになった。これだと切り貼りの必要がないから丈夫だし、だいいち綺麗で見やすい。
  それでも数年前までは私は少数ながら「同志」を見つけることができた。自分のポスターが一枚印刷の物に比べて貧相なのは分かっていたが、それでも仲間がいるうちは恥ずかしくなかった。「中身で勝負じゃい!」と思うことができた。私の好きな孔子の言葉を借りれば、「徳は孤ならず、必ず隣有り」である。
  だが、今年ポスター会場に自分のものを貼りに来てはじめて、私は何百もあるポスターの中で切り貼りのポスターが私の物だけであることを知った。
  しかも私は切り貼りなどの細かい作業が苦手であるから、ポスターはシワシワゴワゴワで、持ってくるときに巻き癖がついて、決して「綺麗」とは言えないものだった。
  特に私の隣の人のものは出来が良く、ツヤツヤした絹のような紙(もしかすると本当に絹かもしれない)に綺麗なデザインで鮮やかに印刷してあった。皺一つなかった。
  私とてそうしたいのは山々である。しかし、業者に問い合わせたところ、個人で頼むと1枚10,000円近くかかるというので、泣く泣く断念したのだ。
  私のブースに友人のA君がやって来た。彼も私と同じ言語聴覚士で、やはり発表に来ているのだ。
  お互いの発表の内容について話している時、私は自分のポスターを改めて見て、思わず感想を漏らした。
  「何かこのポスター、ゴミ箱に捨てられてたのを拾ってきたみたいだな。」
  これがA君のツボに嵌ったらしい。A君は突然身体を「く」の字に曲げ、上腹部を押さえ、顔を真っ赤にして苦悶の表情になった。まるで胃潰瘍に穿孔でも起こったようである。
  隣の部屋では偉い先生の講演が行われている。A君が咄嗟に笑いを堪えなかったら、私達は二人とも今後この学会に出入り禁止になっていたに違いない。何せA君と私の馬鹿笑いは教え子達に「500m先でも聞こえる」と言われているのだ。
  A君が苦しい息の下から言った。
  「Sさん、このポスター、たーだ丸めて、熊本から手に持ってきたろ?」
  今度はこれが私のツボに入ってしまった。私もまた疝痛発作でも起こったかのように、身体を「く」の字に曲げて笑いをこらえることになったのだった。
  もちろん流石の私もそんなことはしない(10年くらい前はやっていたが)。発表用のポスターを運ぶためのバットケースのような容器が販売されているから、発表者はみんな自分のものはそれに入れてくるのだ。もっとも私のは他の人のと違い、「代走(仮名)」で300円で買った安物だが。
  ところが、意外なことに、というか、あるいはポスターのみすぼらしさが逆に目を惹いたのか、この発表にはいつになく声をかけてくださる人や質問をしてくれる人が多かったのだ。
  やはり発表は外見ではなく中身である。
  と、これでこの話が終わればなかなか締まった話なのだが、これには後日談がある。
 
  翌日はA君のポスター発表である。なかなか面白い発表だったので、私も近くに行って質問をした。
  すると、またもやA君の身体が「く」の字に曲がったのである。昨日と同じく顔は真っ赤である。昨日以上に可笑しかったらしく、腹筋を痙攣させて身体を震わせている。
  私がした質問は至極真面目なものである。失礼な奴だ。
  A君は私の腕を掴むと階段の登り口のちょっとした人影になっているところに引っ張り込んだ。
  「Sさん、チャック!」
  あ、世界への窓が全開になり、下半身がグローバル化している。学会でこのテのトラブルが起こるのは3回目である。やはり学問のグローバル性がそうしたことを誘発してしまうのか。もちろん私が阿呆なだけだが。
  随分得るところの多い学会だったが、後5年もしたら覚えているのは大笑いを堪えていたことだけかもしれない(職場の皆さん冗談ですよー!私の机を片付けたりしないでくださいねー)。

給食の豚肉はなぜ臭かったのか?(Good Old Days57)

ドラム缶スープの想い出

  以前一度書いたが、私が子供の頃の給食の豚肉はなんとも言えず不味かった。

  同級生である妻に聞いても、息を止めて噛まずに飲み込んでいたという。私と同じ処理の仕方である。

  なぜ豚肉がそこまで不味かったかというと、臭かったからだ。特に脂身が臭かった。ほんの一切れ料理に入っているだけでも、その料理そのものが嫌いになるほどの臭気を放っていた。

  私は一度この話をした時に、これはおそらく当時の子供達が獣肉に慣れていなかったことと、豚の餌の残飯が添加物塗れだったからではないかと推測していた。

  ところが最近TVで終戦後の日本の風景を見て、豚肉が臭かった原因について急に思い当たる節があったので、もしかしたらと思い、問題提起することにした(大袈裟)。

  原因はドラム缶ではないのか。
 最近はドラム缶と言っても見たこともない人すらいるかもしれないが、私が子供の頃くらいまでは近所の何処にでも転がっていた。そして、ゴミを焼いたり、木の葉を溜めたり、いろいろな用途に使われていた。
 私たちよりもう少し古い世代だが、これにお湯を溜めて風呂にして入った人すらいたくらいだ。

  あまりに多くの使用法があったためにドラム缶の本来の用途を忘れてしまいそうだが、これは主に油を入れておく容器なのである。
 油といっても食用の油ではない。食用の油はもうふた周りほど小さい角形の専用の缶がある。これまた本来の用途が終わるとドラム缶同様ゴミを燃やすのに良く使われていたが。流石にその大きさから風呂に使った人はいなかったようだ。

  閑話休題(ほんだいをわすれそうだ)。

  ドラム缶に入っていた油は、重油、軽油、ガソリン、機械油などである。

  豚にやる残飯はこのドラム缶に入っていたのではないか。

  もちろん豚の餌といえども食べ物であるからそうした用途で使う時には綺麗に洗っていたとは思うのだが、油というものは現在の高性能の界面活性剤を使用したとしてもどうしても匂いが残ってしまうものだ。まして当時はまだそんなものはなく、洗うにしても石鹸である。
  あるいはドラム缶はあんまりだからと角缶を使っていたとしても、やはり古い油の匂いは残っていたはずだ。
 
と、ここまで書いて来て、自分でも眉唾になって来たのでネットで調べてみると、雄の豚肉を不適切に処理すると豚本来の生理によって脂肪に悪臭が蓄積するそうだ。「豚の雄臭」というのだとか。

  ただ、当時小学生だった人に聞いてみると、決まって「機械油のような臭いだった」と口を揃える。やはり「雄臭」だけでは説明できない部分がありそうだ。

  そこでさらに調べてみると、私たちより一回りくらい上の世代では残飯をドラム缶に入れて運搬したり豚の餌にするのに煮込んだりしたという証言が出てきた。

 それどころか、終戦直後の都市の住民の中には進駐軍の残飯をごった煮にしたスープが栄養源だった人すらいたというのである。
 やはりある一時期までドラム缶は大量の食事を作るのに欠かせない調理器具だったようである。

  豚肉の悪臭は少なくとも私たちより前の世代ではドラム缶に残存した油臭が残飯に移り、さらにそれを食べた豚の脂に蓄積したことが一因だった、と言ってよいようだ。

  ただ、私たちより下の世代では日本の食品衛生は急速に改善されていったから、私たちの場合はドラム缶が原因かどうかは微妙である。あるいは「雄臭」と獣肉の食べ慣れなさが上の世代の記憶とミックスされて話が大袈裟になっているだけなのかもしれない。

  それでも、臭い臭いと言いながら、食べられない、というほど過敏な子供はほとんどいず、さっさと胃の中に片付けて貴重な昼休みを1分でも多く遊ぶべく校庭に駆け出していく子が大多数だったのだから、強いガキどもだ。

 ここまで書いてまた急に思い出したのだが、「包丁人味平」という漫画にドラム缶でスープを煮たラーメンの話が出てくる。このラーメンについては別の理由で不衛生だという話をしたことがあるが、これもまた十分不衛生な話だ。それにしてもバッチイ漫画である。

「包丁人味平」の食べたくないレシピ5つ(Good Old Days55)


 ただ、バッチイと言われている物はなぜか意外に美味い物が多い。人は案外そういう食べ物に対する憧れがあるのかもしれない。
 たとえばちゃんと屋根のある家に住み衛生的な調理器具が完備しているにもかかわらず、人はわざわざ家の外に出て粉塵が舞っている中でバーベキューなる非効率な料理を食べたりする。

 これは人間が猿だったときの遠い記憶の欠片なのかもしれない。

 

夫婦して涙した日(それでも生きてゆく私242)

河童夫婦の涙

 大陸で育ち、中華料理が大好きな母に八宝菜を届けたとある日曜日。
 急に阿蘇に行こうかという話になった。とにかく暑い日で、少しでも高度の高いところに行きたかったのかもしれない。
 自分たちの昼食はまだであるから、 途中で何か食べようという話になった。
 ところが、旧道ばかり通ったからなのか、どうも「COLLEDA!」という店がない。
 ご存知の通り熊本と阿蘇をつないでいた国道57号線は熊本地震によって不通になっている。私たちの記憶ではここから迂回路であるミルクロードに入っても飲食店はない。こいつは困った。

 「この先6km通行止め」という看板がある。
 ということは、後6kmは通行止めではないということだ。確かこの先にラーメン屋かなにかがあったような。それと、この先は地震以来一度も行っていない。今はどこまで復旧しているものか、見てみたい。
 私たちはちょっとした好奇心から、先が通行止めだと既に知っている道を行ってみることにした。

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 目当てのラーメン屋は残念ながらやっていなかったが、営業中のバイキング料理の店を発見した。

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 880円で饂飩、ラーメン、スパゲッティの3種類の麺、チャーハン、白飯の2種類のご飯、トロロ芋、ひじきの煮つけ、卵焼きなどの和食、ナムル(韓食)、麻婆豆腐、煮卵、焼売、鶏天、鶏唐揚、卵スープなどの中華、ピザトースト(洋食)など、盛りだくさんである。

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 最近歳のせいか夏バテのせいかめっきり食べられなくなっている私たち夫婦だが、完食。さらに、バイキングでの得意技である「唐揚げカレー」(そのうち店の人に怒られそうな気がする)作り、仕上げに平らげる。

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 この店はデザートも豊富なのだが、特にうれしかったのはソフトクリームが自分で装えることだ。
 2人ともこの機械に全く気付かなかったのだが、手慣れている感じのオッチャンがメロンソーダの入ったコップにぐりぐり装って手製の「クリームソーダ」を作ったのを見て気付いた。こいつはいい。
 私も真似をしようとドリンクコーナーに行ったのだが、メロンソーダのほかにコーラもある。まるで「上からソフトをかけなっせ」と言っているようなものだ。これで手製の「コーラフロート」の出来上がりである。
 美味かった。

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 私たちの腹も店の外の炎天下で頑張っているこの狸たちのもののようになったところで、この道をもう少し行ってみることにする。

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 片側1車線の道がもう少し行けそうである。

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 途中信号待ちしていると、

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 無残に崩れ落ちた山肌が見える。

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 立野駅まで行きたかったのだが通行止めである。

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 車で行けるのはここまでのようだ。

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 歩いていくと、大崩落した立野の谷が見える。

 復旧作業が続いているが、崩落した部分のあまりの広大さに、ほんの一部がほんの少し復旧したような錯覚に襲われる。

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 その風景を見ていると、何だか涙が出てくる。

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 車の中にいたはずの妻がいつの間にかすぐ後ろに来ていた。
 そして、「何だか涙が出てくるね。」と言った。鼻声である。
 「本当だね」と私も鼻声で答える。

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 人間の営みを嘲笑うかのような雄大すぎる自然。
 もう私たち夫婦が生きている間にこの立野の坂を通って阿蘇に行くことはないかもしれない。
 子供の時からもう100回以上通った坂なのに。

移動する運転手

 立野のスイッチバックで後戻りする列車にもどかしさを感じた少年の日も、運転手さんがハンドルを持って運転席を移動するのに驚いた中年の日も、もう戻ってくることはないのだ。
 失ったものはあまりに大きい。

 それでも、崩落した崖の文字通り崖っぷちで懸命に復旧を続ける人々。店を営業する人々。
 この無限とも思える広大な崩土の中から息子を探し出した家族たちのことも急に思い浮かんだ。

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 私たちは車をUターンさせると、ミルクロードを通って阿蘇に向かった。

 父祖の地である阿蘇には一族の墓もあるのだ。墓は先日やっと復旧した。地元の方の厚意で思ったよりずっと早く安く元に戻すことが出来た。

 6輪のあまり見慣れないトラックが妙に頼もしかった。

 頑張れ、人間。

カメラ河童のジャンク道遥か55-世界最小のDマウントレンズ-(それでも生きてゆく私241)

ミニチュアは日本人の性

 私の愛用のカメラは「ペンテコステ(仮名)」というブランドの「オバQ」という機種である。

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 デビュー時は有名俳優をCMに起用したりしてなかなか華々しかったが、もう3年ほど新型が出ていない。おそらくこのままフェードアウトして行くのだろう。

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 私が一番たくさん持っているDマウントというシネレンズ(8mmカメラのレンズ)は、このカメラが発売されるまではどの機種に装着しても「ケラレ(画面の四隅が黒く欠けること)」が発生するため、役立たずとして二束三文で売り買いされていた。

 だから「オバQ」は「Dマウントの救世主」とさえ呼ばれたのである。現在では別の会社からDマウント専用カメラが発売され、しかもこれがかつての8mmカメラと似たデザインであるため、そこまでの有難味はない。

 新型が出ない、ということは、中古しかない、ということである。中古しかない、ということは、だんだん古くなっていき、故障をし、いずれは部品もなくなって修理不能になって消えていくということである。特に最近の機械製品はエレクトロニクスを使用しているために以前のものより寿命が短い。

 私は現在2台の「オバQ」を所有している。
 これは予備のためではなく、最初に買った個体がレンズの改造をしているときにセンサーに接着剤が掛かってしまって入れても入れても電源がすぐ切れるようになったからだ。電源が入らなくなる、というのは私の経験では回復不能な故障であることがほとんどである。
 仕方なく私は通販でもう一台「オバQ」を買った。
 ところが、接着剤が完全に乾いてしまったら、もう駄目だ、と思われた最初の奴の電源が入るようになった。しかも、私の素人目には写真の写りもまともである。

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 そこで私はもともとの1台を「鳥撮り」専用にした。つまり、「オバQ」に付けると超望遠になるロシアレンズ「木星11号(仮名)」を付けっぱなしにし、バッグの中に入れ、もう一台は常使いとして手に持ったり(歩いているとき)首に掛けたり(自転車のとき)しているのだ。「オバQ」は超小型軽量なのでこういうことをしても「あー重いっ!」という感じにはならないのだ。

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 これだとよほど遠くならない限りいきなり出くわした鳥たちも「何であるか」くらいは分かる解像度で撮れるし、

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 近ければこの燕の雛のようにドアップの可愛い写真が撮れる。

 ただ、カメラを2台持ち、かつ1台には軽量とはいえ超望遠を嵌めているのだから、やはり携帯するそれ以外の部品に気を遣わなければならない。

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 たとえばこの「秘密倶楽部28mmF1.9」などはオールドレンズの本などにも登場する銘玉だが、これ1個バッグに入っているだけで相当の重さが肩に食い込むようになる。

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 もっとも、ロシアシネレンズの「流星」などはバッグにすら入らないが。

 必然的に私の携行するレンズはどんどん小型軽量化していった。

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 「ブルムベアー君」こと「歩こう13mm(仮名)」などはお誂え向きである。

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 ただしこのレンズはちょっと明るい場所だと「ぐるぐるボケ」を出さないのにちょっとしたテクニックが必要である。このときはF8とかなり絞っていたのに回転してしまった。「基本的にどんな場面でも回転する」と思っていた方がいいのかもしれない。

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 「頭脳君13mm(仮名)なども小ささと軽さから携行する頻度の高いレンズである。

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 これは小さいのに、絞りを開け気味にして明るいところで撮っても、めったにぐるぐるボケの出ないレンズなのだが、残念ながらどうかした拍子にレンズ内に混入したゴミが映ってしまって写真が台無しになることがある。したがって「歩こう」ほどには持ち歩いていない。

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 同じDマウントでも「椰子呑38mm(仮名)」などは「ちょっと重いよなー」と携行頻度が下がってきた。

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これは映りは抜群にいいレンズだと思えるのだが、やはり1個バッグに入っているだけでズシリと重さが肩に食い込む。

 そんなとき、「協賛(仮名)」の古い8mmカメラが「家畜人オークション(仮名)」に出品された。
 ターレット(ピストルのリボルバーのようにレンズを交換する機構)には小さなレンズが1個しか付いていない。拡大してもどこの何なのかよく分からないが、私には予感があった。これは「日光る13mm(仮名)」に違いない。値段は普通の勤め人の昼食1回分。私はカメラ本体には興味がないから、レンズ1個に払うには高い。しかも、レンズがどんな状態なのか、写真からはよく分からない。

 私はだいぶ迷った末に(三日後くらいに)入札した。
 もしこれが「日光る」ならばそんな値段で落札するはずがない。「日光る」は米国の「メリケンサック(仮名)」と世界最小Dマウントレンズの座を争う人気のレンズなのだ。

 ところが、やはりレンズの状態がさっぱり見えない、というのは多くのマニアに大きなリスクを感じさせたのに違いない。入札者は私だけで、そのまま値段が上がることもなく落札してしまったのだ。

 レンズが来るまでに、私はそもそもそれが「日光る」なのか、まともに映る状態なのか、悶々としていた。
 本体に付いたそれが来てみると、やはりそれは「日光る」だった。本物である。小さい。
 前玉と後玉をレンズクリーナーを染ませた綿棒で拭き、専用紙で拭くと、随分汚れているらしく、綿棒も紙も真っ黒になった。

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 「オバQ」に装着。
 前の部分は極小だが実は金属製フードだから、やはり世界最小と言っていい。もっとも、わたしは「メリケンサック」を見たことがないし、私に買える値段ではないから、これは私の主観に過ぎないが。
 ヘリコイド(ピント合わせ機構)がすスカスカである。これはあまり期待しない方がいいかもしれない。

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 絞り開放近接撮影は「歩こう」以上の回転である。

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 だがある程度絞ると回転は収まってくるし、何より発色がこんな小さな古いレンズとは思えない。

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 焦点距離が短いので収穫した野菜も撮りやすい。

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 ヘリコイドがスカスカなのも片手で操作ができるとプラスに考えることにした。この写真などほかのレンズだったらピントが咄嗟に会わなかったに違いない。

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 ということで、また楽しいレンズを手に入れた私であった。

 やはりレンズでも小さい方に行ってしまうのは、ミニチュアを愛する日本人の性なのだろうか。と書いてすぐ、この連載は当初「カメラ河童の望遠道遥か」だったのを思い出してしまったが。

カメラ河童のジャンク道遥か54-飛んで火に入るキヤノンのレンズ-(それでも生きてゆく私240)

PENTAXQ+CANON C-8

 久しぶりに会心のオークションだった。

 入手したのは現在集めているシネレンズ(ムービーカメラカメラのレンズ)である。

 以前から欲しかったのだが、なかなか条件が揃わなかった。
 何せ私が要求する条件は、「レンズ1個が普通の勤め人の昼食1回分前後(つまり1000円前後)」というものだからだ。

 そしてもう一つ、私にこのレンズの入手を困難にさせている条件があった。それは、これが今を時めく「加農(仮名)」のレンズであるということだ。

 「加農」は現在世界的に見ても最も大きいカメラ会社なのだが、ここのカメラやレンズは、私のようなジャンク道を歩むものには一つ困った特徴を持っている。それは「分解や修理が難しく、かつ他社との互換性がほとんどない」ということだ。これは私が今までにさんざん改造してきた「藤(仮名)」のものと対照的である。

 私はカメラに凝ってから2年間の間に2回「加農」のレンズに挑戦してきたが、いずれも惨敗している。

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 1回目はレンズ固定式カメラのレンズだけを取り出そうとしたのだが、カメラを分解(破壊)しているうちに絞りもシャッターもピント(ヘリコイド)も分解されてしまい、どう頑張っても私の愛機であるデジタル1眼の「ペンテコステオバQ」に装着できない、バラバラの部品群が出現してしまったのだ。

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 2回目は「加農」では最も一般的なEFマウントのレンズをやはり「オバQ」に装着しようとEF→Qマウントアダプターを買ったのだが、なにせ300mm超望遠が絞りが効かずに全開放となってしまい、「鳥撮り」にも「月撮り」にも使えないのだった。
 この2回の経験に懲りた我が家では「加農に手を出すな」が家訓として伝えられているのである(嘘)。 
 実はシネレンズに関しても「加農」は「訳あり」であって、そのレンズはごく安値で取引されている。というのは、通常8mmムービーのレンズはDマウントという規格が圧倒的に多いのだが、「加農」のシネレンズはバヨネットマウントなのだ。
 「バヨネットマウント」などというとカメラに詳しくない人はそれだけでこの文章から離れてしまいそうだが、実は現在の1眼レフやデジタル1眼のレンズマウントは例外なくこの「バヨネット」である。要はこの「バヨネットマウント」は「ワンタッチ着脱可能マウント」と同義であって、それ以前の「ねじ込み式マウント(以下私の好みにより「ねじ式」)」よりずっと楽に着脱できるのである。 

 私の愛するDマウントは「ねじ式」であって、レンズを着脱するのにマウント部のネジをキリキリキリキリ回してはめ込んだり外したりする必要がある。これは特に野生動物に出くわしてレンズの撮影距離を変えたりしなければならない時にはとても面倒な作業なのだ。

 1970年代より前のマウントであるDマウント(8mmカメラのマウント)、Cマウント(16mmカメラや監視カメラのマウント)、Lマウント(古いライカやロシアカメラのマウント)、M42マウント(バヨネット以前の全世界の最も普及したマウント)などはすべて「ねじ式」である。

 ところが、「加農」のシネレンズはすでに1960年代に「ねじ式」を脱し、ワンタッチ着脱のバヨネットなのである。

 「さすが世界の加農」といいたいところだが、これが8mmカメラのターレット(リボルバー式の拳銃のように回転してレンズの焦点距離を変える装置)に付いている意味がわからない。撮影レンズを替えるのならばターレットを回転させればいいだけだし。ワンタッチで着脱するのがウリだったら本体に1個マウントがついていればいいだけだ。だいいち、「時代はもうすぐズーム」なのだ。レンズがズームになったら焦点距離は自由に変えられるから、ターレットに複数のレンズを付ける必要はない。事実その後の8mmカメラからはターレットは追放され、固定式のズームレンズが構造的に組み込まれているだけである。

 結局、「互換性をなくし、顧客を囲い込む」という以上の意義を感じないバヨネットマウントなのだが、私は過去2回の惨敗と、別のレンズで得た教訓により、すでにこの会社のレンズを受け入れるための知識と技術を完全に整備していたのだった。

 今までにもこの会社のシネレンズ「加農レンズC8(仮名、以下「加農シネ」)」は「おっ、安い」という値段と、「カッコええなー!」という外見でたびたび「カリガリ博士(仮名)」や「家畜人オークション(仮名)」に登場していた。

 入札のボタンを押したくなるたびに私が何度も反芻した教訓は、「変わったマウントのレンズは本体と一緒に買う」ということだ。

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 この教訓は「トプカピ宮殿50mmUV(仮名)」で得た貴重なものである。 
 私はこれを「ペンテコステ(仮名)」の最も一般的である「Kマウント」に改造したのだが、技術的な制約によりこのレンズは絞り全開放の「日陰者」になってしまったのだった。
 レンズを安く買ったとたん市場に「トプカピ」の本体が複数現れたのも嫌な感じだったが。

 私は「加農シネ」がDマウントでないこと、ということは、D→Qアダプターでは愛機「オバQ」には装着できないこと、ということは改造が必要だということを既に知識として得ていた。 
 では、どんな改造が必要なのか。 
 おそらく、D→QアダプターもしくはC→アダプターに接合したら「オバQ」に装着してピントが合うというものなのだが、どうせならこのマウントのレンズだったら全部装着可能なアダプターを作りたい。
 この場合、調整する必要があるのはアダプターの口径と厚みである。これはレンズ側を調整しても可能なのだが、そうするとレンズ1個にアダプター1個が必要になる。最近某国製のアダプターが牛丼並みの値段から3倍くらいまで高騰しているので、これは厳しい。できればアダプターの方を調整したい。

 そんなことを考えながら、オークションで出品されては落札される「加農シネ」を横目でチラチラ眺めていた。

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 「加農」のレンズ2個付き8mmカメラ、私の主観では8mmカメラ付きレンズは、ある日あっさり手に入った。入札は私だけである。私の自分ルールにしたがって普通の勤め人の昼食1回分である。

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 実際に届いてみると、案の定バヨネットマウントで、雌型の方がターレットにある。 
 ただ、嬉しい誤算だったのは、雌型が2つ付いていたことだ。これで改造に失敗したり撮影中に壊れたり紛失したりしたときの保険が手に入った。

 だが、やはり「訳あり」だ。

 まず、レンズの口径がDマウントより1mmくらい大きく、D→Qアダプターの穴に入らない。かつ、Cマウントアダプターには全然小さい。これを無理にC→Qアダプターに接合しようとすると、光軸がずれたり、グラグラした不安定な写りになるに違いない。

 仕方がない。この場合は、Dマウントの穴を削って拡大するしかない。 

 この場合、もちろん人力である。できるだけ丸くて中心にある穴を、3本100円で「大層(仮名)」から買ってきたヤスリで削っていく。

 1日がかりでやって削れた。

 ターレットから外したマウントの雌型にレンズを装着し、さらにそれを丸ごとアダプターに装着し、手で支えてピントを合わせてみるが、まるで合わない。フランジバック(焦点距離)が全く合っていないのだ。

 今度は雌型の長さが長すぎるのがわかっているから、削る。これはグラインダーのヤスリで削っていくといいのだが、最近私はもっと手早く削れる方法を発見した。それは砥石の荒仕上用のものを使うことだ。これはセンスがないと斜めに削れたり、とかくムラが出るが、早い。といってもこれまた1日がかりである。

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 やっと完成した雌型をレンズにはめ、アダプターに仮止めすると、ピタリと無限遠が出た。今までで最速の改造完成かもしれない。
 あとはきちんと接合させるだけである。

 これは素人の手製レンズを超えているのではないかと自負しているのだがどうだろうか。
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 13mmと、
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 38mmの作例だ。

 手ぐすね引いて待っていたところに現れた「加農シネ」だから喜びも一入である。
 次はいよいよ「瑞鷹(仮名)」か。

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 え、銘玉として名高い「日光る(仮名)」は何時の間に手に入れたんだ、と思った人、待て、次号(って、ちょっと忙しいのでしばらく待って)。

熊本人吉転々旅行13-人吉転々雑感(無理矢理)-(河童日本紀行566)

達磨が怖い

 雑感は転々していないが一応転々旅行記だから無理やりの転々雑感である。

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 「球磨川鉄路(仮名)」を通る「未完成シンフォニー(仮名)」である。一応観光列車なのだが、高校生などの通学の足としても使われている。

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 古い「醫院」のような玄関である。
 さすが九州の小京都。いい風情だ。

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 球磨川の朝焼けである。
 海の朝日だけでなく、川の朝日も素晴らしい。

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 球磨川にはたくさんの橋が架かっているが、古いものはない。やはりこの急流と水量だから、長持ちしなかったのだろう。
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 妻は最初にこのお菓子を見たとき爆笑したという。どうも女性の感性は分からない。

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 人吉には「ジウグリット先生」こと一井正典のほかにもう一人歯科の泰斗がいた。中津留覚介である。

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[碑文]
 中津留覚介先生は明治22年福岡県に生まれ、日本歯科医専卒業後、東京帝大医科において研究を重ね、大正7年10月、人吉九日町に開業さるるや、その温厚にして篤実なる人格と卓越せる学識と技倆とはひとしく万人の信頼するところとなれり。
 昭和12年3月、推されて熊本県歯科医師会副会長たること一度ならず、かたわら田主丸銀行監査役、人吉商工会議所会頭などを歴任、昭和40年4月人吉高等学校中津留育英奨学会を開設、現に人吉東小学校、人吉高等学校校医たるとともに、人吉森林組合長、相良護国神社奉讃会長、中津留林業(株)会長としてなお矍鑠(かくしゃく)たり(現代誤訳:老いてますます盛んである)。
 昭和40年1月赤十字金色有功章、同41年1月紺綬褒章、更に47年11月3日勲五等瑞宝章を授与せらる。これ実に先生の学校医50年の行跡と育英奨学会、ならびに商工業振興のために尽くされたる功績によるなり。我らここに相図り、先生の胸像を建設し、もってその勲徳を後世に伝う。
昭和48年5月 中津留先生叙勲祝賀発起人会

 前々回紹介したジウグリット先生の友人への手紙を思い出してほしい。
1.貧民の歯痛を除きて安寧な生活を過ごさしめ、
2.金銭の余裕を集めて殖産・牧畜の業を起こし、
3.貧生に教育を施して日本を文明国の末端に据えるの念願あり。
-明治21年末、米国より江嶋五藤太宛書簡-

 何せ明治の、かつ「なぐれ武士」の言葉遣いだから「貧民」「貧生」など現代人である我々からすれば随分高飛車に感じる部分もあるかもしれない。
 しかし、この石碑を見ると、中津留が先達の示した方針を自らの人生の中で忠実に実践してきたことが分かる。
 彼が生まれた明治22年は、一井正典が5年間の苦学の末にフィラデルフィア歯科医学校に入学を許された年なのである。
 こうした永く受け継がれた志によって今日の日本があるのだ。

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 こちらはまた歯科の志よりずっと永きにわたる、愚劣の証拠である。

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 海峡を挟んで綿々と続く憎悪を、いつか学問の志が乗り越えていってほしいものだ。

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 英国寺(仮名)の達磨像。私は本堂にある幽霊像よりこの達磨の方がよほど怖い。写真では今一つ伝わらないが、不気味な彫像である。暗闇からいきなり現れたらちびってしまいそうだ。

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 ということで、人吉からさようなら。

熊本人吉転々旅行12-汽笛転々人吉グルメで熊本に乾杯-(河童日本紀行565)

いつか尺鮎を釣りたい

 冒頭の絵と内容が一致していないことをお詫びします(心にもない)。

 旅行は楽しい。そして美味い。
 だが、帰宅した日はどうだろうか。
 家に着いてもまだ楽しいか。おそらく、頭の中は明日の仕事のことで一杯である。何せ、休みを取って旅行に当てるために、随分いろいろな仕事が圧縮して前処理されているはずで、今度は出勤してまた圧縮した後処理が必要なはずである。
 旅行が楽しければ楽しいほど、頭の切り替えが大変だ。私のように切り替えの悪いタイプはもう前日からモヤモヤしている。
 また、帰宅した日は美味しいだろうか。
 私も妻も、正直、帰宅した日の夕食ほど面倒臭い物はない、という意見で(珍しく?)一致している。
 食材は大抵いろいろと買って帰っているのだが、その始末はできれば翌日以降にして、当日は出来合いで済ませたいところだ。

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 こういう時、私たちが行く店がある。

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 駅弁屋である。
 もちろん、道の駅や物産館にも夕食一食分くらいの弁当は普通に売っているから、別にそれでいいのだ。しかし、中身はそれほど違わなくても、やはりこの趣向を凝らしたパッケージは見逃せない。

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 瓢箪型のパッケージ。この弁当を喰った後はもう絶対に使わないことが分かっているのに、ついつい保存してしまうのは、この非日常が胸をわくわくさせるからだ。
 翌日の仕事の段取りを脳裏から追い出してしまうにはこれくらいのインパクトが必要である。

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 瓢箪と何の関係があるのか分からないが、この中身の人吉名物鶏の照り焼きは抜群に美味い。これはわざわざ温め直さない方が旅愁を湧かせていい。我が家のテーブルが「あの」向かい合わせの直立座席に変わる。

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 ゆるキャラで眼を惹いた柏飯も馬鹿にできない。でかい海老とシコシコの蛸が主役の鶏を喰ってしまいそうだ。

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 本来ならばこの店の名物の「鮎の姿寿司」をアテに球磨焼酎で一杯、となるところだが、今回はとある店で今朝獲れたばかりの天然鮎を1尾700円で購入しているから、こいつをまずは是が非でも食べたいところである。

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 この厳しい顔つきを見たら、こいつらが海からえっちらおっちら上ってきて、一部地元漁協の人々の助けを借りつつ球磨川をどんどん上流に上り、地元の漁師に捕えられ、遂に我々の胃袋に収まろうとしているのだということがわかるだろう。
 我が家の台所はこいつらの放つプリンスメロンのような芳香で一杯である。
 早く一杯やりたいものである。

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 焼けたー!

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 我が家の貧しいながらも豊かな食卓を見よ。これでしばらくは「モスモス(仮名)」で買った〇円也のモヤシが夕食の主役である。
 豆腐は地元のスーパーで買ったものだが、こいつだけは外れだった。

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 熊本に乾杯。

熊本人吉転々旅行11-転々としたジウグリット先生のこと-(河童日本紀行564)

ウッターオス先生

 さて、最近石碑や銅像の紹介もしていなかったから、久しぶりに人吉の「英国寺(仮名)」にある石碑について紹介したい。

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 「近代歯科医学の先駆者一井正典先生顕彰碑」である。

[碑文]
 「歯科を志す」一井正典
 米国に今日の文明あり、日本にも文明と称すべきものなきは、実に教育に由来する。日本は貧困によって多くの才能が消されてゆくが、これに教育の光を当てれば、いくつもの花が開き、実を結んで、やがては日本も文明国の仲間入りが出来るであろう。そのため私は、まず以て歯科医学を修め、帰朝の暁には、
1.貧民の歯痛を除きて安寧な生活を過ごさしめ、
2.金銭の余裕を集めて殖産・牧畜の業を起こし、
3.貧生に教育を施して日本を文明国の末端に据えるの念願あり。
-明治21年末、米国より江嶋五藤太宛書簡-


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[福碑]
 近代西洋歯科医学の先駆者
 ジウグリット先生こと一井正典先生
 一井正典先生は江戸時代末期1862年(文久2年)6月8日、一井五郎佐衛門正風(相良藩郡奉行)母寅子の長男として、ここ人吉城下の寺之馬場53番屋敷に生まれ、明治10年、15歳の最年少で人吉1番隊士として西南の役に西郷軍に従軍し官軍に降りる。明治18年「青雲の志」止まず米国へ渡航、サンフランシスコにて歯科医ドクター・ヴァンデンボルグに師事。苦学の後、1891年(明治24年29歳)フィラデルフィア・デンタルカレッジを主席で卒業。卒業後同大学助教授を兼ねながらフィラデルフィアに歯科医院を開業。米国本土で日本人として初めての歯科開業医及び米国歯科医師会会員第1号となる。1892年10月(明治25年30歳)オレゴン州ポートランドの歯科医師会に教授として招聘され現地にて開業。 
 明治27年(1894年)に帰国後、3月東京神田神保町に開業。同時に高山歯科医学院(現東京歯科大学)講師、日本歯科医学会評議員、文部省医術開業試験委員、宮内省侍医局勤務(明治、大正、昭和天皇の侍医)を歴任。当時の臨床及び教員をとおして、日本に歯科補綴学、器械学、医療管理学等を導入・普及した西洋歯科医学の草分けである。(笑気麻酔の実験、金冠製作法、電気応用歯科無痛治療法の研究、陶器充填、ポーセレン術・金冠術の講習普及)
 同時に東京肥後県人会を主宰し、郷土出身者の育成にも努め、郷土の医学会、歯科医療会、農学等にも大きな影響を与え、昭和2年宮内省侍医寮御用係を辞任、従5位を受ける。昭和4年(1929年)6月5日66歳にて他界し駒込染井墓地に葬られる。
平成9年11月吉日 人吉市歯科医師会創立50周年にあたり一井正典先生の業績を顕彰し建立する。

 一井正典は熊本県の近代文化功労者にも選ばれて熊本県教育委員会HPにも略伝が載っているし、また「青雲遥かなり」という小説にもなっているから、詳しく知りたい人はそちらを読んでもらいたい。ここでは、一井の人生について調べて私にとって印象深かったことだけ述べる。

 まず、彼は13歳で両親を亡くしている。「悪性の感冒」という記録が残っているから、おそらくインフルエンザであろう。インフルエンザは現在でも命を落とすことがある疾患だが、世界的な流行の開始された当時は現在と比較にならないほど恐ろしい感染症であった。第一次大戦中(20世紀初頭)のパンデミックは有名で、このときは2000万人の犠牲者が衛生状態の悪い前線の兵士を中心に出て、この大戦を休戦に導いたと言われているくらいである。 
 いくら郡奉行の息子でも、両親が一度に亡くなっては困窮を極めたことは容易に想像できる。

 さらに、わずか15歳の時に勃発した西南戦争で反乱軍に加わっている。
 西南戦争が開始されて反乱軍が熊本へ進撃していくとき、通過した人吉で、彼は西郷に直訴して従軍を請うたらしい。このときは幼少を理由に断られているが、人吉隊の結成と共にそれに加わり、以後は熊本隊などと共に熊本城・田原坂など、熊本各地を転戦することになる。
 人吉隊は反乱軍が熊本から後退して陣を置いた人吉の陥落とともに降伏するのだが、その一部は助命の条件として政府軍に編入され、反乱軍と戦わされたのだとか。一部にはこの命令を拒んで反乱軍と行を共にした人々もいたようで、まさに「昨日の友は今日の仇」である。 

 鹿児島が陥落して西南戦争が終わると、一井は許されて筆耕(事務職)や商売などをしたようだが、どれも長続きしなかったらしい。
 この辺りは、自分の信じていた価値観が多大な犠牲と共に一朝で崩壊してしまった私の父たちの世代の若者と似通った身の上だったのではないだろうか。
 昭和20年(1945)の終戦後、「特攻崩れ」と呼ばれて犯罪や問題行動を繰り返す一群の若者たちがいたらしいが、明治初年のそれらの若者たちは「なぐれ士族」と呼ばれたらしい。一井もまた「なぐれ士族」の一員だったのかもしれない。

 22歳の歳に故郷を捨てて上京し、警視庁や駅逓局に勤める。これがどんな地位の勤務かは判然としないが、おそらくは下っ端の警官や郵便夫だったのだろう。これもまた没落士族のお定まりのルートである。

 転機が訪れたのは23歳のとき、プロテストタントの牧師である美山貫一の伝手により、米国に留学する。これも留学といえば聞こえはいいが、歯科医師の家に農夫として住み込んで働くといういわゆる「苦学」である。
 もっとも、官費で留学するごく僅かのエリート(たとえば夏目漱石)を除けば、一井のように志す学問とはまるで関係のない肉体労働をしながらまず「勤勉である、誠実である、謙虚である」という学問の必要十分条件をパトロンに示す「苦学」は、海外の知識技術を何としても得たいと考える明治の若者にとってはほとんど唯一の道だったのだ。

「高橋是清 紙幣 見本」の画像検索結果

 中には後に名財政家となって50円札の肖像にもなった高橋是清のように、騙されて奴隷に売られてしまった者すらいる。

 さて、住み込んだ歯科医師の家で5年間、田や畑を耕すことはもとより、器械や日用品の修理、牛馬の世話、子供たちの相手まで陰日向なく働いた一井は、明治22年(1889)、遂にフィラデルフィア歯科医大学校に入学を許可される。
 2年後、卒業。なんと首席である。
 ところが、一井には卒業に当たって必要な学納金がほとんどない。「金がないのは頭がないのと同じ」というのが米国である。せっかく首席を取りながら、退学するしかないのか。
 そのとき、同級生たち81人が動いた。1ドルずつ出し合って、一井の学納金に当てたのである。
 たった81ドルで学納金が賄えるのに驚いたり、そのたった81ドルが出せない、ということに驚く人もいるかもしれないが、

貿易銀

 1ドル銀貨がまだ上の写真のように大きな時代である(写真は日本の1ドルに当たる1圓銀貨)。当時は1ドル1円で、先ほど一井が奉職したという警官の初任給が8円くらいなのである。
 いかに一井の人望があったか、ということか、あるいは優れた才能に対する尊敬の念が強い時代だったということか。
 それから先の一井正典の足跡については副碑の碑文のとおりである。
 まさに日本歯科医の先駆者にして歯科医師会の重鎮であった。

 ちなみに「ジウグリット先生」というのは日本歯科大学の学生が一井教授につけたあだ名である。
 このあだ名は一井教授は授業の時よく使用した言葉が由来である。たとえば、「口唇の周囲をジウグリット」という具合である。これが学生たちにはどうにも腑に落ちない。どんな辞書にも載っていない用語なのである。
 ある時、どうしても知りたくなって質問した。「先生、ジウグリットって英語ですか、独逸語ですか。」 
 「馬鹿もん! 君たちは日本語も分からんのか!」

 これはもちろん熊本方言(球磨方言)である。
 「ぐりっと」(ぐるりと)に熊本方言特有の強意の接頭語「じゅ(じゅう)」がついたもので、「ぐるーっと」くらいの意味だろうか。

 この一井先生も、俳優の笠智衆と同じく、「いつでもどこでも熊本人」だったようである。

熊本人吉転々旅行10-焼酎蔵を転々したかったが-(河童日本紀行563)

どうしても飲みたかった

[中断の言い訳]
 エラい目に遭った。
 出張先で「大ハマグリの網焼き」を食べたのだが、これが「何時食べるか」を客に任せていたために、いやしい私はまだ十分火が通らないうちに食べてしまったのだ(何でも人のせいにできて幸せだな)。
 4日にわたる嘔吐・下痢・40度の発熱で休日が台無しになってしまった。
 体温40度が2日も続いたときには腎臓が駄目になってしまうのではないかと不安だった。何せこれだけの高熱なのに汗一つ出ないのだ。

 もう一つ知ったのは、ここまで高熱になるともうあまりキツくないということだ。38度くらいまでは悪寒と関節痛で苦しくて仕方がなかったのだが、39度を超えたあたりから、何かポワーンとして、変にハイである。職場の人と電話で話したときも妙に陽気だったから、詐病だと思っている人もいるかもしれない。

[では人吉旅行記再開]
  遺跡巡りの後は焼酎蔵巡りである。人吉は全国有数の米焼酎の産地なのだ。
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  まずはTVのCMなどで有名な蔵に向かう。私はひねくれ者なのであまり有名になってしまうとそれだけで敬遠してしまうのだが、ここはちょっとしたミュージアム風になっているという噂を聞いて興味を持ち、行ってみる気になったのだ。

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  展示は覚えている限りでは球磨焼酎の歴史、その製法、蔵の歴史と紹介のビデオ、歴代CMのポスターとTVCMのビデオなどで、なかなか充実していた。
  しかし、観光バスで詰めかけている皆様の関心は明らかにそこにはなく、そうした展示のある部屋の人影は疎らなのだった。
  では人々の多くは何処にいたかといえば、ものすごい人熱がしているのは試飲のできる売店である。
  だが私たち夫婦は車である。呑みたい気持ちをグッと抑えて通り過ぎ、って、妻は何のためらいもなくコップを手に取り、キュッと飲み干した。
  これで帰り道の運転手は私に決定である。
 「飲んでいい?」の一言もないんかい、と思ったが、妻にとっては退屈な歴史散策に付き合わせて引っ張り回した後でどのみち私が運転するつもりだったからまあいい。
  それにしてもその美味そうな顔が憎らしい。

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  人吉で買った焼酎は以上、
  ではなくて以上であった。

  ちなみに1枚目の酒の写真の背景に写っているのは現地産のブルーベリーで、とある売り場でえらく安かったので飛びついたのだが、粘土を紫の絵の具で着色して丸めたのではないかという味であった。もっとも私は粘土も絵の具も食べたことがないが。例によって冷蔵庫で熟成させようかと思ったが、あまりに粒揃いで勿体無いので妻にジャムにしてもらってヨーグルトにかけて食べたら存外美味い。結局全部食べてしまえそうである。

熊本人吉転々旅行9-九州を転々とした英雄-(河童日本紀行562)

祖父の足跡

 釣りから帰って妻と朝食を摂ったら人吉市内2日目の観光である。
 1日目はスーパーマーケットと飲み屋という、およそ一般的でない観光であったが、2日目は正統派の場所を尋ねることにする。 


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 やって来ました英国寺(仮名)。正式名称より「幽霊寺」として有名である。

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 それはこの蓮池に出たという幽霊の絵がこの寺に保管されているからである。

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 最近はショーケースの中に収められていて撮影しても光ってよく見えないので、過去に撮ったもう少し光っていない写真を掲げておく。

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 これだけの仏の大軍団にも負けず登場するとはなかなか根性の据わった幽霊である。

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 境内に明治維新の英雄の石碑を見つけた。
 「西郷隆盛先生之遺蹟」とある。この寺は日本最後の内乱である西南戦争の際、反乱軍とされた西郷軍の人吉における本陣が置かれたという。 既に熊本城攻略に失敗し、田原坂の戦いにも敗北して後退戦が始まった時である。
  この後この古今無双の英雄は死地を求めて九州各地を転戦しながら故郷に向かうことになる。

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  この寺には人吉隊の隊士の碑もある。
  人吉隊は西南戦争の際に反乱軍に加わった人吉藩士の部隊である。
  西南戦争は中央対鹿児島、あるいは熊本対鹿児島の激突だと思われがちだが、実際には大量の熊本人が反乱軍に参加している。
  後に同心学舎を設立した熊本隊の佐々友房、植木学校に拠った協同隊の宮崎八郎などは有名である。
  また、政府方も、西郷隆盛の竹馬の友である大久保利通はじめ、反乱方の盟友兄弟により構成されていた。
  ここに内乱である西南戦争の一層の悲劇性がある。
  ちなみに同県人や身内が反乱軍と呼ばれて不愉快に思われる方もおられるかもしれないが、私の曽祖父もまた熊本隊の一員であり、かつ私は当時の「反乱」を必ずしも悪いことだとは思っていないので、この言葉を使うことをお許し願いたい。

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  寺内には西南戦争の錦絵が飾ってある。「見て来たような嘘をつき」なのだが、なかなか迫力がある。

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  西郷さんの書。
  私にはどうしても良さがわからない。

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  寺を出て政府軍の陣跡に行く。もはやこの看板以外にそれを示す何物も残っていない。

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  さらに坂を登って政府軍の砲台跡に行く。
  政府軍の最新鋭の大砲の弾はこの小高い丘から反乱軍に容赦なく振り注いだが、反乱軍の大砲の弾は政府軍の陣営まで届かなかったという。

  砲台跡の銅像の碑文に祖父の名前を見つけた。郷土の詩人だった祖父の作詞集「顧望」に未収録の校歌である。編集の時に入れ忘れたのだろう。この迂闊さは流石私の血族である。
  熊本隊だった曽祖父の降伏した地には人吉説と延岡説があり、関係者の記憶も曖昧で今となっては確かめようがない。
  それにしてもここから飛んで行った砲弾が曽祖父に当たっていたら私は今ここで祖父の詩碑を見ていることはできなかったわけだ。曽祖父が1877年に行われた人吉の戦いで死んでいたら、1900年代生まれである祖母は生まれていず、したがって私も存在しないからだ。

  人が生きているというのは万一の偶然によるのだと改めて思わされた古戦場跡であった。

熊本人吉転々旅行8-釣りは一転-(河童日本紀行561)

注目の的

 翌日は5時半から起きて釣りをした。
 妻が寝て居るのを尻目にホテルの目の前の球磨川に降りていく。

 一応鮎釣りのつもりだが、釣れるわけがないのは分かっている。

 これは鮎の生活史が関係している。

 鮎は川魚であるが、一生を川で過ごすわけではない。
 鮎の産卵は秋、河口付近の砂利の川底で行われる。生まれた稚魚は流れに流されて河口から海まで行き、ここで海洋性のプランクトンを食べて育つ。そして春になると自分の生まれた川に遡っていく。このときは集団である。そしてこのときはプランクトンを食べていた名残で川虫などを食べている。川を遡った鮎は底石に生える苔の豊富な中流域まで昇ると、適当な場所に縄張りを作って一人暮らしを始める。このころには苔しか食べなくなる。そして秋になると「落ち鮎」になって河口に行って産卵し、僅か1年の生涯を終える。落ちているときの食性はよく分かっていないが、どうも色々なものを食べているようだ。
 つまり、人間に喩えれば、幼少期から青年までは「肉食系」で、成年になったら「ベジタリアン」になり、晩年には一転、「何でもあり」というわけである。

 それぞれの時期の鮎を釣るために、日本ではさまざまな釣り方が発達してきた。

 有名なのは友釣りである。
 囮の鮎に鼻鐶を付けて自由に泳ぎ回れるようにし、鮎の縄張りのありそうな場所を泳がせると、縄張りを侵された鮎が攻撃してきて囮に付けられた掛け鉤に捕えられる。

 熊本県、特に球磨川では、鮎釣り愛好家は6月1日の解禁から12月31日の禁漁までほぼこの釣り方に終始する。
 理由は、この時期にはこの釣り方が最も大きな鮎を一番多く釣れるからである。

 コロガシ釣りという釣り方もあり、これは8月1日から解禁になるが、正直これは「漁」であって、主にプロ(職業漁師)の釣り方である。
 この釣り方は要するに掛け鉤のたくさんついた仕掛けを川底に転がしてそこにいる全ての魚を引っかけようというもので、私にはこれを素人がすることの何が面白いのかさっぱり分からない。

 次は餌釣り、と行きたいところだが、通常は鮎が餌釣りで釣れることは稀である。これは日本中でもごく限定された川でのみ行われているようだ。その理由は、「禁止されている」というより、「釣れない」のである。

 そして毛鉤釣り。
 これには瀬釣りとドブ釣りがあるが、有名なのはドブ釣りである。

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 ドブ釣りには鮎毛鉤という、芸術品と見紛うような疑似餌が用いられる。これは極めて繊細精巧に作られ、物凄い種類があり、しかもその一つ一つに「夕映」「闇烏」「二ケ月」「お染」などという優雅な名前が付けられている、まさに日本の伝統工芸そのままのものなのだが、「ニッポンが、ニッポンが」と言っている人の興味を惹かないらしく、「和風」とも呼ばれず、「スゴーイですね」とも言われず、もはや滅びようとしている技術である。

 もっとも偉そうに言っている私とて、この毛鉤がたまたま中古釣り具の「タックリベリイ・フィン(仮名)」に2つ100円で50個ほど陳列され、誰からも顧みられずにいなかったら、その素晴らしさを一生知らないままだったろう。

 この毛鉤がどれぐらい素晴らしいかといえば、単に美しいだけでなく、実際によく釣れるからである。ただし、私の場合はその本来の用途である鮎釣りでそれを知ったのではない。
 ハエ(標準和名オイカワ)の毛鉤釣り(通常「瀬釣り」)に使うと、ハエ釣り用の毛鉤の1.5~2倍くらい釣れてくるし、第一球磨川の支流である万江川のとある瀬(場所は秘密)で使うと、20cmはあるハエや30cm近いイダ(標準和名ウグイ)が簡単に釣れてきて、しかもこれらの魚が球磨川の苔を食べているものだから半端な養殖鮎よりずっと美味いのだ。もっともこれはまだ父が生きていたころの話だから、もう10年以上前の話だが。

 ではなぜ鮎毛鉤が廃れたかといえば、少なくとも熊本県の場合は「釣れない」ということに尽きる。
 これには二つの意味がある。
 一つは鮎の生活史に関係する問題であって、鮎が毛鉤で一番釣れる時期というのは、3月~5月のまだ15cm未満の時期で、このころは禁漁なのだ。落ち鮎の時にも毛鉤で釣れる地方もあるようだが、熊本ではコロガシの方がずっと釣れる(というか引っかかる)。
 もう一つは、これはハエにも共通することなのだが、魚影が薄くなってしまったことである。魚が疑似餌に喰らいつくためには、ある程度集団の密度があって、ほかの魚から餌を盗られないようによく確かめないで食いつく、という条件が必要である。毛鉤の場合はルアー以上にこの「人口密度」が釣れる条件になる。

 今日は7月17日、解禁からは随分経ち、鮎も大きくなって「ベジタリアン」と化している。時期的に、友釣り以外ではまず釣果が期待できない。

 だいいち私は瀬釣りでは随分ハエやイダを釣ったが、ドブ釣りでは如何なる魚も釣ったことがない。これは竿の操作が相当難しい釣りなのである。しかもなかなかの重労働だ。

 瀬釣りにも長い竿を使うが、一旦仕掛けを投げ込んでしまうと、後は下流に向かって流すだけだから、それほどきつくない。
 ところがドブ釣りは、流れに入れた後、竿を下流に向かって扇形に動かしつつ、仕掛けを川底に当てながら竿先を上下しなければならない。

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 しかも私は吝嗇だから竿は海の堤防などでアジゴを釣る8m竿を川釣り用に流用している。釣具屋で鮎釣りの竿を買おうとすると、友釣りの竿は鍵のかかったショーケースの中に鎮座していて値札を見るとン十万円、コロガシやドブ釣りの竿は一応磯竿などと一緒に手に取れる陳列棚に並んであるものの価格は最低でもン万円はするから、到底買う気にならないのだ。アジゴ用の竿はせいぜいン千円(5000円しない)である。これはリールシートが付いているから、小さな両軸リールを付けて糸の長さを調節できるようにしている。上の写真のような奴である。

自製ドブ釣り仕掛け

 こうしておけば川の深さに応じて手元で道糸の長さを調節できるから楽である。
 また、万一にも貴重な鮎毛鉤を根掛かりで無くさないように、毛鉤は針金から自分で作った天秤に取り付け、一番根掛かりしやすい錘は捨て糸で天秤に装着し、錘が引っかかった時には捨て糸を切って錘だけ見捨てるようにしてある。
 自製天秤は自動ハリス留めによってワンタッチで毛鉤と錘が交換できる優れもので、「Well肉桂式鮎天秤」として特許申請中である(大嘘)。

ドブ竿操作法

 仕掛けを投入して竿を上下させながら下流に向かって扇形に操作する。
 重い。
 この竿はもともと竿受けを使って置き竿にしておいてアジゴの回遊を待つものだから、手持ちにしたら堪らない重さなのである。
 しかも、釣れる気配は全く無しである。後10回ほど操作したらもう止めよう。

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 そう思っていたら、プルプルとごくごく小さな当たり。
 なんと、ドブ釣りで人生初の獲物である。ただし、鮎ではない。ハエだ。
 長竿をクレーンのように操作して岸に持ってくる。地面に着いた瞬間に、

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暴れて外れる。鮎毛鉤には返しが付いていないから当然である。
 それにしても小さい。可哀想だからすぐに放流する。

 また仕掛けを投入して、竿を動かすと、また釣れた。今度も同じくらいの大きさの、ハエの幼魚である。また放流。

 結局釣れたのはこの2匹だけ。

 竿が重くて仕方がなく、肩の付け根に激痛が走り始めたので、30分ほどで納竿した。

 ハエを釣るのであれば、4.5mくらいの軽い竿で餌釣りをしたら、もっと大きいのがこの10倍は釣れただろう。

 私は「ハエのクレーン釣り」と名付けた。
 
 それにしてもギャラリーの多いこと。
 早朝から散歩している人が私の後ろを通り過ぎていくのだが、来る人来る人私に声を掛ける。質問は同じである。「釣れたか」「何を釣っているのか」「釣り方は」「どこから来たのか」。
 一瞬まだ解禁になっていないコロガシ釣りを疑って声を掛けているのではないかと被害妄想が頭をもたげたが、遊漁券を買ったかどうか確かめた人はいなかったから、純粋に釣りへの興味からなのだろう。
 そうだとしたら物凄い釣り好きの市民である。

 次は万江川に解禁当日に来なければ。

熊本人吉転々旅行7-夕食は三転-(河童日本紀行560)

海っぱたとまでは言わないが

 人吉に夫婦で泊るのはたしか4回目である。
 過去三回はいずれも「銀の匙(仮名)」 という飲み屋で食事をしたのだが、今回は宿から遠い。タクシーで行ってもいい(人吉は他の地方よりタクシー料金が安い)のだが、この際だから新しいところを開拓してみようということになった。
 梅雨の最中だがやたらと暑いので、日が沈むまで待つことにしたのだが、考えてみれば一年のうちで最も日が長い時期である。仕方がないので6時くらいから動き始める。


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 日曜日だからか暑いからか、飲み屋街の人通りは疎らである。
 そして、店もあまり開いていない。

 当初食事するはずだった宿の近くの店もご同様である。残念。ほかの店を探すことにする。

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 蔵元でつまみと酒を買って立ち飲み、というのも楽しいのだが、残念ながら夕方には閉まってしまう。これは酒飲みが何時までも居座るのを防ぐために違いない。知らんけど。


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 一軒だけ客が行列している店があったが、見ると鰻屋である。妻が鰻嫌いなので、パス。私は行列が嫌いなので妻と心は一つである(どこが心一つじゃ)。

 ホルモンの店が無茶に良い匂いをさせているので入ろうかと思ったが、これまた妻が「この暑いのにホルモン食べたくない」というので断念。私は熱くてもホルモンOKなので心二つである(「あつい」の字が違うが)。


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 結局まったく予定にない店に入る。
 土間と上がり框の段差が少し低いので錯覚して土足で上がろうとして妻から強烈な力でベルトを後ろから引っ張られ、土間に引きずり降ろされる。

骨董屋にて

 1旅行に1回は必ずある、私たち夫婦の風物詩である。

 頭の片隅にもなかった店なので今一つ気乗りがしなかったのだが、これが美味い。

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 間八のカマは何と一人前に三切れも付いている。蓮根の唐揚げがまた美味い。

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 出汁巻き卵が美味いということは、店の大将の腕前が良いということである。

 ほかにも穴子の天麩羅など、最近喰えなくなっている私たち夫婦にしては沢山ものを頼んだのだが、どれも美味かった。

 「山の中に来て海魚ばかりかよ」と思った人もいるかもしれないが、

 実は「人吉が山の中」というのは熊本市を中心に考えて球磨川を遡って旅する場合に発生するバイアスであって、交通網、流通網が発達した現在、人吉はイメージよりずっと海に近い土地なのだ。「海っ端」とまでは言わないが。
 この件については

ブルートレインたらぎに泊まる旅7−一勝地のジビエを堪能す−(河童日本紀行403)

で一度話をした。

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 鱈腹飲み食いしても、店を出るとまだ日が沈んでいなかった。
 この季節の日の長さを考えると、もう2ヶ月もすると釣瓶落としに沈んでいく夕陽は嘘のようである。日本は本当に季節感の豊かな国である。

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 宿に帰って夜の球磨川を眺めながら人吉の夜は更けていくのであった。

熊本人吉転々旅行6-鉄道建設も一転-(河童日本紀行559)

引きの研究

 旅行先の人吉駅前で種田山頭火の句碑を見つけた私は、その隣にかなり古びた石碑があるのに気付いた。

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 渋谷礼・樅木義道両翁顕彰之碑とある。

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[頌辞]
 明治29年9月当時県会議員たりし渋谷礼先生、九州縦貫鉄道は八代より人吉を経て鹿児島へ通ずべきを論じ有志の協力を求めるため米良以平氏ともに鹿児島へ赴きしが肥薩線開通の初めなり。
 爾来先生は県委員または代議員として郡委員樅木義道先生とともに終始一貫この運動に挺身せられたり。されど海岸線と山手線との優劣論は相伯仲して譲らず遂に陸軍参謀の寺内正毅を説き得て初めて山手線に決定、いよいよ35年1月起工の運びに至るもたまたま重大時局に遭遇し41年5月ようやく八代より人吉に通じ吉松を経て鹿児島に達せしは実に42年の11月なりしなり。
 今ここに肥薩線55周年を迎うるに当たりその恩恵に浴する郡市民相図り両先生の労苦を偲び功を讃えこの碑を建つ。

 この碑の建立は昭和38年(1963)だから54年前で、その時に肥薩線は55周年を迎えているから、再来年で110周年となる。

 この碑文を見て初めて知ったのだが、肥薩線は当初鹿児島本線の八代-鹿児島間として建設されたのである。しかも、鹿児島線のこの区間を海沿いルートにするか山間ルートにするかで激論が戦わされ、結局かなり政治的な力学によって山間ルートに決定したようだ。
 寺内正毅といえば朝鮮総督として韓国で武断政治を行い、のちに総理大臣にもなった人である。
 碑文の中の「重大時局」とはおそらく明治37年(1904)に勃発した日露戦争のことであろう。

 鹿児島までの開通が遅れたのはおそらく戦争の影響だけでなく、この区間の工事が極めて困難であることも関係していたに違いない。特に熊本-鹿児島の県境にはえびの高原があり、いくつものスイッチバック線、ループ線が敷設されている。この区間は「日本三大車窓」に数えられるが、その雄大な景色は鉄道建設においてはそれだけ難所であるということを意味している。実に7年の歳月をかけて「鹿児島本線」は開通する。

 こうして難計画(?)、難工事の末に建設された「鹿児島本線」であるが、昭和2年(1927)に八代-鹿児島間の海沿いルートが完成すると、結局こちらが鹿児島本線となり、山間ルートは「肥薩線」と改められる。

  私は子供の頃から疑問に思っていることがある。

 それは「九州自動車道はなぜ鹿児島本線に沿って作られずに山間を通り、海岸沿いの西回りルートはいまだに整備が遅れているのか」ということだ。
 私の子供の頃の常識からすれば(当否は別にして)、八代海沿岸の方がずっと開発の進んだ地域であり、こちらに高速道路ができなかったのは不思議だった。

 今回この石碑を読んでその疑問がまた頭をもたげてきたので調べてみると、何でも九州自動車道(計画策定時は「九州縦貫自動車道」)をどのルートに通すか、というとき、その終点の座を巡って鹿児島・宮崎両県に熾烈な争いが発生したらしい。当時は国策がどの地域を発展させるかを決定づけていた時代だから、これは当然といえば当然である。 
 結局両県の主張の間を取って八代-鹿児島間は開業当初の鹿児島本線と同じく人吉を通るルートに建設され、宮崎行のルートは途中から枝分かれして後に完成した。

 南九州自動車道の西回りルートが完全に整備された時、海沿いルートと山間ルートの交通量や沿線の発展などはどういう経過を辿るのか、大いに興味があるところだが、これは私が生きているうちに為されることかどうか、微妙なところだ。

 それにしても鉄道でも高速道路でも人吉は綱引きに勝っているわけで、これは単なる偶然なのか、はたまた人吉人の「引き」の強さなのか、興味は尽きない。一度全国を対象に「『引き』の研究」をしてみたいところだ。

 そて、そろそろ夕食の時間である。

熊本人吉転々旅行5-転々の人種田山頭火-(河童日本紀行558)

種田河頭火

 さて、何時までも寝て居られないので、観光に出かけることにする。
 ここは折角銘蔵の宝庫に来たのだから、焼酎蔵に出かけよう。

 ところが、「ゴーグルマップ(仮名)」で検索すると、既にほとんどの酒蔵は「時間外」の表示となっており、辛うじて残っている酒蔵も実際にナビにすると「到着時には閉店している可能性があります」と出てくる。 

 もう5時近く。長く昼寝しすぎたのだ。

 仕方がないのでその辺りを車でウロウロする。
 まだ日は高いので歩くと堪らなく暑いのである。

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 人吉城址の資料館も既に閉館時間なので、裏手を回る。

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 蓮がちょうど花盛りの季節なのだが、この花は早朝に開花するので、夕方の時間は写真のように全て閉じている。

 なおもウロチョロするうちに、人吉駅裏に名所があることに気付き、妻の了解を得て行ってみることにする。

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 それがここである。
 妻に言わせると「森にティッシュがこびりついているみたい」ということだ。逆光が眩しくてピントを合わせそこなったので、ますますティッシュに見える。



 動画を見て頂ければわかるだろう。
 優美な姿に似合わぬ姦しい声。
 そう、ここは鳥撮りのみぞ知る、白鷺の大生息地なのである。

 駅の駐車場(30分無料)に車を停め、こういう暑い日には妻には車内に待機してもらい、撮影のために駅に降り立つ。

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 人吉駅も以前「蒸気之介(SL人吉)」で来た時と随分変わった。


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 放浪の詩人種田山頭火は大正5年(1916)に来熊し、一旦妻子を見捨てて上京するものの、関東大震災でまた舞い戻った。大正15年(1926)に郷里の山口に帰るまでの約10年間熊本に居たらしい。

山頭火

 代表作は

 分け入っても分け入っても青い山

というもので、これについては

余は如何にして言語聴覚士となりし乎63(分け入っても分け入っても青い山)

という題で書いたことがある。

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 人吉では現在「種田山頭火復活の町」として売り出しているらしい。

[説明書き]
 「球磨川づたひに五里歩いた。水も山もうつくしかった、筧の水を何倍飲んだことだらう。一勝地で泊るつもりだったが、汽車でここまで来た、やっぱりさみしい、さみしい。」と山頭火は人吉停車場に降り立った。
 行乞記(木賃宿宮川屋で記した9月14日分)から

人吉球磨での足跡 
 昭和5年(1930)9月9日48歳、過去の日記を全て燃やし、行乞の旅に出る。熊本から八代、日奈久、佐敷から一勝地を経て9月14日から人吉町の宮川屋に三泊逗留、行乞をし、詳しい日記を残した。
 大正5年と昭和5年春、そして同年9月の三回この地方を訪れている。「私はまた旅に出た、愚かな旅人として放浪するより外に私の生き方はないのだ、捨てても捨てても捨てきれないものが乱れ、雲のやうに胸の中を右往左往し悶々としたなかで私もようやく「行乞記」を書きだすことができるようになった、」と山頭火は述べている。
 時は昭和恐慌のまっただ中で労働争議やデモが頻発し、東京では浜口首相が狙撃されるという時代であった。山頭火は人吉滞在中、百姓、養蚕家、日雇い労働者などの窮状を田舎まわりの仲買人から聞き「自分の生活が勿体ない」と思うようになる。さらに行乞記には、遊女への情、老祖母への思いなど山頭火の心情とともに当時の世相がひしひしと伝わってくる。人吉で行乞しながら町民と触れ合い、生活の様子を知ることにより山頭火を復活させた旅立ちの三日間であった。当時の人吉町はこのように勇気と復活をもたらした素晴らしい町であった。

 地図も掲げられていて、山頭火の行乞の跡を辿ることが出来るようになっている。

[俳句]
 焼き捨てて 日記の灰の これだけか
[現代誤訳]
 生まれ変わるつもりで過去に恋々とせぬように日記を焼き捨てたのだが、たったこれだけの灰になってしまった。まるで私のこれからの人生もまたこんなちっぽけなものであることを悟らせるように。

 山頭火の俳句は悲しく、そしてどこか笑える。これが諧謔というものなのだろう。

 書き溜めし ブログの消去 30秒    Well肉桂

 私も真似してみたが、悲しくなく、かつ笑えない。文才の差である。

熊本人吉転々旅行4-ホテルで一転-(河童日本紀行557)

若かった二人

 さて、スーパーでかなりの荷物を買いこんだ私たちは、今度こそ今夜のホテルに向かう。
 10分ほどで到着。
 やはり釣り宿っぽいビジネスホテルである。
 安いだけあって結構古い。

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 電話機が昭和である。
 フロントに電話を掛けようとしてダイヤルを回すと、「ジー、トルルルルルッ、ジー、トルルルルルッ」と音がしてゆっくり戻る。
 そのうちに小林明子の名曲「恋に落ちて」の「ダイヤル回して 手を止めた♪」という一節の意味が分からない人が増えて来るのではないだろうか。

 ただ、部屋は6畳に板の間もあって十分な広さだし、空気清浄機もあって、アレルギーと喘息持ちの私たちにはとてもありがたい。

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 何よりホテルが球磨川沿いで、

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 しかも私たちの部屋は人吉城址の真ん前なのが素晴らしい。

 さて、私たち夫婦がホテルに着いて最初にしたこと、それはこれまでに何回も行った韓国旅行で思い切りしたいと思っていたが果たせなかったことであった。

 スーパー巡りか。もうスーパーは「オオムタ(仮名)」一軒で満足である。
 名所旧跡に行くことか。今日は無茶に暑い日である。正直、この天候の中を汗だくで歩き回りたくない。
 酒蔵巡りか。確かに人吉は世界に誇る球磨焼酎の銘蔵がもっと奥地の球磨地区と共に集中しているが、この暑い日に昼間から酔っぱらったらおそらく汗だくだくで酔いの心地よさも吹っ飛んでしまうに違いない。
 食事は既に住んでいる。
 釣り。妻は天草でのアジゴ釣り以外はしないし、私もこの炎天下で釣りをしたくない。今日は一応川釣りの道具は持ってきているものの、いつも釣りをするときに被っているヴェトナムハット(「ヴ」と言った方が古いベトナムシンパらしくていい)を持ってきていない。

 結局私たちがしたことは、布団を敷いて横になることだった。

 もちろん二人合わせれば齢100歳超の私たちは、新婚ほやほやのカップルのように「人類繁栄への情熱」に駆られたわけではない。
 私たちは今日5時半には起きて野菜の収穫をし、空いているところにそろそろ株が古くなってきたトマトの替りの苗を植え、そのついでに周りの草を取り、親のための料理を作り、それをお互いの実家に持って行ってから、球磨川沿いの下道を延々運転して人吉まで来たのだ。この間スーパーで売り物を破壊して目いっぱい気を遣っている。
 要は疲れているのだ。

 「旅行先のホテルで長々と気持ちよく昼寝をする。」

 旅に来たからにはできるだけあちこちに行って見聞を広めたい、という、貧乏性の私たちにはなかなかできないことだ。1時間くらいして起きたときはやはりちょっと後ろめたかった。

 どこが「一転」なのかと思った人もいるかもしれないが、この場合は「ひところがり」である。ちょっと苦しいが。

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  一年で一番日の長い季節、まだまだ日が傾くには早い。
 さあ、これから本格的な人吉観光の始まりである。

熊本人吉転々旅行3-地元スーパーで二転-(河童日本紀行556)

人吉の孔子

 「やませみ(仮名)」の定食と鮎の塩焼きで満腹した私たちは3時近くに人吉に着いた。

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 実は「やませみ」にも宿泊施設(写真上)があるのだが、既に満室であることを確認している。
 やっと確保できたのは釣り宿とおぼしきビジネスホテルである。

 まず向かうのは今日の宿、ではない。

 まずは地元の大きなスーパーに向かう。
 妻が韓国のスーパーマーケットをどんな風光明媚な場所よりも愛している話は既にしたが、国内旅行でもスーパーに入ってみると同じような楽しさがあるのではないかと思いついたのだ。
 案の定、三角や熊本市のスーパーでは並んでいないような品物がいろいろ並んでいて楽しい。
 もちろん道の駅にも同じような楽しさがあるのだが、ここにはまた無作為の地方色があって貴重である。地元の人の生活が垣間見えて微笑ましい。
 特にこの「オオムタ(仮名)」というスーパーは鹿児島資本らしく、鹿児島のものが多く並んでいる。
 どうも熊本県南には鹿児島の会社が随分進出してきていて、最近では県北の方まで進出しているものもある。
 「寿司ヒロシ(仮名)」や「焼肉殿様(仮名)」などは熊本でもすっかりポピュラーになっている。
 土地ならではの醤油や味噌などの調味料もあってこれがなかなか楽しいのだが、生憎調味料は買い置きがあってわざわざ買わなくともよい。が、見ているだけでも楽しい。

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 一つだけ、鹿児島産の「米油」を買った。
 私の幼少のみぎりには「米糠油」と呼んでいたものだ。この名称は昭和33年(1968)に発生したPCB(ダイオキシン)による健康被害でマイナスイメージがついてしまったので使われなくなり、米油そのものがなんとなく避けられるようになった。元祖風評被害である。
 だが、実は米油は揚げ物に使うと料理が香ばしくからりと仕上がる素晴らしい風味の調味料であり、伝統的な製法(米糠からの圧搾)で作ったものにはまったく危険性はない。

 ほかにもいろいろ面白いものがあったので遂にカートを持ち出して私たち夫婦が韓国でしているような爆買いが始まりそうになったとき、場面が暗転した。

 我が家にはサムギョプサル(豚の三枚肉の韓国風焼肉)に掛けるためにこの間通販で買った野菜パウダーがある。これは豚に掛けて焼くと旨みを閉じ込めてとても美味しくなる優れものである。「宣戦チョンボ(仮名)」という韓国の情報番組で「繁盛店の秘密」として紹介されていて、早速我が家に取り入れたものだ。

 これは入れるのに適当な容器がなくてまだビニール袋に入れて保管しているため、使いにくくて仕方がない。
 「これ、いいんじゃない?」と妻が持ってきた容器は、内豚が、じゃなかった、内蓋がないタイプだった。これだとスプーンを使ってパウダーを振りかけなければならない。TVでは内蓋に多数の穴がある振りかけタイプの容器だったのだ。
 「それじゃ使いにくいよ。」と私が言うと、妻は「イーッシ!」と韓国の中年男のような舌打ちをして容器を棚に戻そうとした。その刹那、容器はツルっと妻の手から離れ、床に落ちて粉微塵になってしまった。「バリーン!」とかなり大きな音がした。

 すぐに店員さんが駆けつけた。
 「大丈夫ですか!」
 「済みません。弁償しますので。」
 「いえいえ、怪我はなかったですか。そうですか。では、そのままにしておいてください。片付けておきますので。」

 その瞬間、私は昔読んだ「論語」郷党編第10を思い出した。

[書き下し文]
 厩(うまや)焼けたり。
 子、朝(ちょう)より退きて曰く、人を傷(そこ)なえりや、と。
 馬を問わず。
[現代誤訳]
 馬小屋が火事になって全焼した。
 孔子が朝廷からお帰りになっておっしゃった。「人に怪我はなかったかい?」
 馬のことはお聞きにならなかった。

 人の命の安い古代中国で、馬は下層階級の人間よりもずっと高価な商品である乗り物だった。
 その貴重な馬を養っている馬小屋の火事について、馬のことは一言も尋ねずに人の安否を気にする孔子のヒューマンな姿勢に、まだ若かった私はひどく感動した覚えがある。

 さすが「人吉」である。
 もっとも、その器は100円のものだったが。それにしてもなかなか咄嗟に言える台詞ではない。

 おかげで暗転しかけた場面はまた明るく転じたのである。
 嗚呼、やはり地元スーパーは韓国に限らず楽しい。

熊本人吉転々旅行2-昼食は二転-(河童日本紀行555)

決まらない食事

 さて、人吉を連休の旅行先に決めた私たち夫婦であるが、一路人吉へ、というわけにはいかない。
 まず私の実家へ、さらに妻の実家へ、というルートが最近は必要である。
 お互いに年老いた親に料理を届けてから、ということになる。高齢者は放っておくと既製品ばかり食べて栄養が偏るからだ。
 水前寺と菊陽町に行って、熊本インターから高速に乗る。
 このまま人吉インターまで高速で行ってもいいのだが、そうはしない。
 これには2つ理由がある。
 1つは消極的理由である。八代-人吉間には23(24だったかな)ものトンネルがある。最近私はこのルートを通ると眠くて仕方がない。鶏のように周りが暗くなるとすぐ眠くなるのだ。もしかするとこの区間には「妖怪眠らせ」がいるのかもしれない。
 もう1つは積極的理由である。この球磨川沿いの道路は、私にとっては上天草の阿村海岸沿いの道と同じく、大好きなドライビングルートの一つなのである。次々とその容貌を変化させる球磨川を遡上していくドライブは心洗われる。
 八代インターで降りて球磨川沿いの道をドライブし、途中坂本村の道の駅で鮎を喰って、一勝地の駅で切符を買って、人吉到着。
 それがこの日の計画だった。
 ところが、坂本の道の駅に行ってみると、どうも様子がおかしい。昼飯時だというのに、行列一つしていない。天然ものの鮎の定食が1500円なのだ。みんな新聞を読んでいないのだろうか。

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 新聞を(ちゃんと)読んでいなかったのは私たちだった。前日が「プレオープン」と書いてあったので、てっきりその日がオープンだと思っていたのだが、まだ先らしい。店には人っ子一人居ない。
 
 仕方がない。
 ちょっと(かなり)値が張るが、尺鮎を食べさせる店に行こう。

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 ここの鮎は球磨川の天然物の尺鮎である。
 定食だと鮎の味噌煮もついている。(写真は2012年に撮影)

 車を走らせること30分、もう13時を過ぎている。腹が減った。

 妻に言わせると、私はいつも昼食を食べる12時を過ぎても昼食を食べるべき店が決まっていないと、急に無口になり、とても険しい顔になるらしい。話しかけてもけんもほろろだそうだ。
 妻は「食糧難になったら私は確実に喰われる」と娘たちに言っている。

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 だが、もう少しの辛抱だ。あの店にはたしか鹿肉定食もあった。両方頼んで分けて食べるのもいい。

 ところがその店まで行ってみると何ということだ。営業していない。
 人の居る気配はあるのだが。
 あるいは材料がなくなって早仕舞いしたのか。無念。


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 結局昼食は二転して一勝地の「やませみ(仮名)」の定食に鮎の塩焼きをつけてもらうこととなった。 

 ところがこれが連休だけあって生憎の満席でなかなか出てこない。いよいよ二人とも不機嫌に黙り込む。
 
 空腹が極限を超えていたので、食べてしまってから写真撮影に気付いた。天然の尺鮎とはいかなかったが、とりあえず鮎が食えたから良しとしよう。

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 それよりも、坂本村の道の駅にかけられた巣にいた子燕が可愛かった。

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 もうすぐ巣立ちの気配があったから、動物好きの人はお早めに。

 お腹いっぱいになって、もうすぐ人吉である。

熊本人吉転々旅行-一転した旅行先-(河童日本紀行554)

かけがえのない人

 「やっぱり無くなっているようですね。〇〇。」
 電話口からのA先生の言葉で、我が家に落胆が広がった。
 PCの画面はその居酒屋の検索結果と、B市のホテルを予約する途中の画面が掲示されていた。
 私たち夫婦は「やっぱり無くなったんだね。〇〇。」と言いながら、眠りに就いた。もはやそれ以上旅行の準備をする気が失せてしまったのだ。

 今回の連休、世間様の3連休に対してどうにか2連休は確保した私たち夫婦は、いつものようにどこを旅行先にするか侃侃諤諤の議論を繰り広げていた。
 議論はいつものように韓国・香港・台湾から始まり、あそこも無理、ここも無理、と、主に懐具合から消去されて行き、福岡の朝倉や大分の日田、となり、やはりもう少し落ち着いてから、ということになり、その連想から昔馴染みのB市に行ってみようかという話に落ち着きつつあったのだ。

 どうせB市に行くのならあの店に行きたい、というのは私たち夫婦の一致した意見であった。

 この店は私たちが福岡県に移住してほどなく開店した店で、私たちは開店ほどないその店に素見で行き、料理が今一つだったのでそのままご無礼と相成って、月1回の贅沢は別の店を贔屓にしていたのだが、やはり場所的な近さに惹かれて再度行ってみると、大将の腕が随分と上達しているのが肌で分かって月1はこの店で、という習慣が身に付いていた。

 そのうちにある女性がこの店でバイトをするようになった。

 まだ若い可愛らしい女の子であったから、それ目当てで来ている若い客もいたようだが、私たち夫婦がこの女の子に好感を持ったのは、その気配り、目配り、利発さのゆえであった。

 二人の一致した意見は「ああいう娘に医療人になってほしいよね…」というものだった。もっともその職種は私はもちろん言語聴覚士であり、妻はNr.であったが。

 彼女の仕事を見ていると、大勢の客たちの集団について極短時間のうちに個々にプランを立て、見通しを持って接しているのがよくわかるのだった。それは有能な医療技術者によく似ていた。

 客が入ってくる。
 この段階で「あれとあれとあれをしなければ。」というのはどの店員にもわかる。
 たとえばいらっしゃいませと言っておしぼりと箸を持っていく、注文を聞く、などである。
 これすらできないと客は口に出さないけれど内心激怒しているから、もう来なくなる。そういえば最近はこれすらこなせない人が増えてきたような気がするが、話が進まないのでそれについてはまた別の機会に。

 問題は、居酒屋の客というのは一人ひとり店にいる時間や注文をする間隔が違う、という点だ。
 居酒屋で飲んでいて不愉快になるのはどういうときかといえば、圧倒的に「注文したものが来ない」「忘れられた」という理由が多いのではないだろうか。

 その原因にはいろいろあるが、一番多いのが店の人間が次々に来る注文にアメーバー的に対応している場合である。
 たとえば最初に来店した集団の注文品を全部作ってから次に来店した集団の注文品に取り掛かる、などということをしていたら、来店した順の遅い人たちほど怒りのボルテージは上がっていくだろう。
 そもそも最初の人たちもやたらと早くドカッと品物が来て、それを食べてしまったら「一番遅く来店した人」と化してしまう。

 居酒屋にいるときは、アルコールは常時全員の手元にあるのはもちろんのこと、何らかのつまみもその集団の目の前に常にある状態にしておかないと、客はたちまち不快になってしまうのだ。
 いくら酒や料理が美味くても、これが出来ない店には客が来なくなる。

 それを防ぐのは小さな店では一国一城の主である大将の力量が何より第一の要素なのだが、次は接客係にその重責がかかってくる。

 わたしたちが見ていると、彼女は同時並行で仕事を進める天才だった。

 それぞれの集団がいつ入ってきたか、その集団の各々にちゃんとアルコールまたは飲み物があるか、つまみはあるか、放置された注文はないか、目まぐるしい多忙さの中で嘘のように把握していた。私のような性格特性の人間には絶対にできないことである。

 それどころか、「そろそろ酒がほしいな」とか、「そろそろ何かつまみがほしいな」というような時には「何か持って来ましょうか」と問いかけることさえしたのである。それが少しも押しつけがましくなく、時宜を得た勧誘なのでまるで読心術が使えるのではないかと思える程だった。もちろん私はそんなものを信じてはいないから、彼女の利発さがそう思わせたのだろう。おそらくは個々の客の次の行動をかなりの確率で予測していたのだと思っている。

 これは鈍い私にも経験がある。
 私は若いころ中華料理屋の接客として働いていた。この業種は客があまり大酒を飲まないし、あまり追加注文がないので、客の集団が次に何をするか、たとえば、あの姦しいオバチャンの集団は後どれくらいの時間で出ていくか、あの1杯目の生ビールを頼んだあの酒好きっぽい客は次も生を注文するか、など、ある程度予測ができるのだ。これができるようになると、客を怒らせることはほぼなくなる。

 開店4年目くらいにこの居酒屋は全盛期を迎えたと思う。
 大将の料理の技術とこの娘の接客のコラボは見ていて惚れ惚れとした。
 もちろん大将も客が出ていくときにはわざわざ玄関先まで出てきてお礼の挨拶をしてくれるような律儀な人で、この人柄も私たちがこの店によく行った大きな要素だった。

 だが、彼女にも進路選択の時期がやってきた。
 彼女は希望の進路のために進学し、店を去った。
 残念ながらその進路は私たち夫婦が願ったような医療技術職ではなかった。

 ほかのバイトがやってきたが、いつ彼女の域に行けるか、はなはだ心もとなく見えた。大将の方もほかのことに気を煩わされて、料理に専念できていない気がした。
 私はこういうことは勉強よりずっとセンスが必要なのだと思うようになった。

 何だか活気がなくなった気がして、私たち夫婦の足はその店から遠のいた。

 今夜、B市行きを思い立つと同時にその店のことを思い出し、行く気になって、無くなったことを知ってショックだったが、よく考えてみたら福岡に居たときから行かなくなっていたのだ。

 人間の集団にはかけがえのない人がいる。それはその人の年齢や地位や肩書には関係ない。
 集団が小さいとそれを思い知らされる。穴埋めが行われても、もはや違う集団になってしまっていたりする。

 ところが、大きくなるとだんだん歯車感が強くなってくる。歯車が1個なくなったって、ほかの歯車が回っていれば結果オーライ。替りを持ってくればいい。歯車が1個1個なくなっていき、その傲慢さに慣れたころ、ある日大きな組織が軋みながら止まる。大きな集団であればあるほど動くスピードが遅いから、動かなくなっていることにすら気付かない。大丈夫。まだ動ける。実はもう瀕死なのに。

 今、日本中にそんな集団が増えてはいないか。そしてかけがえのない人はいつの間にか国外にいたりする。

 その日はそんな身の丈に合わないことを考えながら寝たのだが、翌日起きたら、久しぶりに夫婦とも用事のない連休に家でぶらぶらしているのはあまりにも勿体なく感じた。やはりどこかに行きたい。

 あちこち宿を探してみたのだが、もはや私たちが泊まれるような値段の宿はもうほとんど残っていない。

 妻が言った。
 「そういえば国試のお守り貰いに行かなくていいの?」

 そうだった。
 私は後輩たちが国試を受けるとき、肥薩線一勝地駅の切符をお守りとして渡すことにしているのだ。

 それに、昨日地元紙に球磨川の天然鮎を食べさせる店が坂本村の道の駅にできた、という話題が乗っていて、「ああ、久しぶりに球磨川の鮎を食べたいな」と思ったのだった。

鮎炎上

 球磨川には「尺鮎」と呼ばれる巨大な鮎がいて、これが焼くときにうっかりすると店の天井まで炎が上がるほど脂が乗っていてすこぶる美味いのである。

 人吉に行くか。
 急いで宿を探すと、一つだけ空いているところがあった。
 しかも、安い。

 こうなると心配は一つ、トイレだけである。
 「ちゃらん(仮名)」には「温水洗浄便座×」となっている。
 それより根本的な不安があった。これだけ安い宿で和室。私はネットで番号を調べて電話を入れた。
 「トイレは洋式ですか?」「そうですよ。」

 よかった。以前よく似たシュチエーションで、内風呂なし、かつ、トイレ無し、しかも共同トイレ和式、ということがあったのだ。

 こうして今回の旅行先は、一転、人吉に決まったのである。

柑橘チューハイに関する新提案(いやしんぼ78)

摘果蜜柑賛歌

 相変わらずノンアルビール生活だが、持病の処置の結果がどうにか良好になったので、少しずつ「アル入り」も飲むことがある。

 最近のお気に入りはマッコリなのだが、好きな生マッコリは基本的に現地に行かないと飲めないので、国内ではほとんど飲まない。

 ビールはノンアルの後に安物の「ビール 類」を飲むと何だか薬臭い気がして不味い。

 そこで、柑橘を絞ったものに炭酸水を入れ、それに一番癖の少ない米焼酎を少し垂らして飲む。

 柑橘は季節によって変わる。

 私の棲む熊本県は柑橘類の宝庫なので、7.8月を除けば何らかの柑橘が手に入る。

 実は7.8月にも裏技によって柑橘が手に入るのだが、これはうっかり公開してしまうと全国の柑橘党が殺到して自分の飲む分がなくなってしまうので、今までブログで話題にするのを控えてきた。

 ところが、その日の飲み物を買いにスーパーの飲料・種類コーナーに寄っていると、以前だったら私
たち夫婦が手間をかけて絞ってアルコールと混ぜていたような柑橘が普通にチューハイとして売っている。

 たとえば国産レモン、シークァーサー、夏ミカン、カボス、スダチ、ポンカンなどである。 
 それも結構売れているらしい。
 中にはこれらの柑橘を技巧を凝らしてブレンドした逸品もあるのだとか。

 こうなると、私たちが密かに守ってきた「7.8月の柑橘」ももはやメーカーに嗅ぎつけられるのもそう遠い日ではあるまい。

 というか、すでに資本の魔の手は彼らの身辺に及んでいるのかもしれない。
 どうもこの2.3年、彼らの姿を道の駅や農家直販店で見なくなったからだ。

 そして彼らは、「単なる蜜柑」として買いたたかれて、ブレンドものの隠し味としてその真価を人々に十分称賛されることなく消費される日陰者となってしまうかもしれない。

 そうなる前に、この日の本に彼らの存在を明らかにし、彼らの真価を知らしめたい。

 彼らの名は「摘果蜜柑」
 何だかちっともアピールしない名前だが、これが美味いのである。
 
 まず、摘果蜜柑とは何か。

 柑橘類はその木に随分沢山その清楚かつ芳香を放つ小さな花を付け、それは受精して果実と化すのだが、受精した花をすべてそのまま育ててしまうと、一個一個の実はごく矮小なものとなってしまい、かつ果実を味わう食品としてはぱっとしないものとなってしまう。

 したがって、その農家は、自らが判断してより優れた未熟果を残し、後は「間引き」してしまう。これを摘果という。

 摘果は実は地面に打ち捨てられてしまうものも多いのだが、うっかり見落としたり、どちらがより優秀なあるか迷われたものはある程度の大きさに達してから摘果される。
 
 ために、これを食べる消費者は相当の「大人味覚」の持ち主なのだが、ジュースとしては私のような「子供味覚」の人物としても好ましいのだ。

 その味を言葉で説明するのは難しいが、これを試みてみる。

 摘果蜜柑は、そのままの果汁を味わえば、まず強い酸味が舌を襲う。やや渋みと苦みもある。しかし、その後から意外とも思える甘みが追いかけて来る。何よりの長所は甘酸っぱくかぐわしいその香りである。それははっきり柚子よりも強い芳香である。
 
 しかも、これを我が熊本産の米焼酎と混ぜると、酸味と苦みによって隠されていた甘みが突如として引き立つ。これは米焼酎が本来持っている甘みとの「出会いもの」なのかもしれない。

 摘果蜜柑はもはや柑橘軍最後の殿軍である天草晩柑すら水分の抜けたスカスカとなって敗退しようとする7.8月、未だ錬成されざるまま駆けつけて我が家の食卓を救う白虎なのだ。

 大袈裟すぎた。

 みなさん。
 摘果蜜柑のチューハイ、呑みたくなってきませんか。

最近違和感を覚えた言葉(どうしても言いたかったこと56)

いつの間にか趣旨が変わっている話
 
 以下は2016.1に書いたが公開が憚られていた文章である。
 やはりどうしても言っておきたいので、損することを承知で公開する。

 ある在日外国人の講演を聴きに行った。 

 私は以前からこの人の新聞に寄せた意見や著作を読んだことがあり、共感を持てる人である。仮にこの人を「A先生」と呼ぼう。

 A先生の生い立ちについて書いた文章など、涙なしでは読めなかった。

 ただ、「書いていることは面白いが話は退屈で仕方がない」という人もたまにいるから、休日の半分を費やして講演を聴きに行くことにしても、正直そこまで期待していなかった。

 だが、面白い。
 いつの間にか話に引き込まれて、1時間半の講演はあっという間に過ぎ、もっと聞きたかった。どころか、ぜひ個人的に話し込んでみたいと思った。
 もちろんこちらはタダの人であり、相手は多忙な有名人であるから、登場の時と同じようにそそくさと退場してしまった。きっとこれから東京に帰るのだろう。

 私がA先生の話に引き込まれたのは、話術もさることながら、この人の家族、郷土、そして日本への愛を強く感じたことが理由だろう。

 考えてみれば、この人はルーツが他民族にあり、国籍がその民族の形成している国のものである、という以外には、郷土に生まれ、育ち、日本で生活している私と何も変わらないのだ。頭と教養は私がだいぶ劣るが。

 講演会の帰り道、私は妻と「来てよかったねー」と言いながら、ある野球選手のことを思い出していた。この人を仮にB選手と呼ぼう。

 B選手は当時はまだ珍しかったノーワインドアップのフォームで春の甲子園大会を投げ抜いて優勝投手となり、夏の大会では2回戦で敗退したものの、1回戦ではノーヒットノーランを達成した。

 その活躍により、彼の属する高校の野球部は秋の国体に出場することになった。
 しかし、B選手はこの大会に出場することはできなかった。彼の父親が外国ルーツであり、彼もまた父親と同じ国籍だったからだ。

 エースで4番が欠場しては野球にならない。部長や監督などの関係者は何とかB選手を出場させようと駆け回ったが、やはり出場は認められなかった。
 彼の出場が認められないことが決定的になると、他の野球部員たちが騒ぎ出した。
 「そんなバカな話があるか。それなら俺たちも国体出場を辞退しようじゃないか。」

 そんなある日、父親がB選手を諭した。
 父親は異国の地から日本にやってきて、腕一本でささやかながら自分の城を築き上げた人である。
 「国体は日本人の祭りなんだ。外国人のお前が試合に出られないからといって、チームの皆に迷惑をかけちゃいかん。出場できんでも、お前が野球部の一員であることに変わりはないんだから…」

 彼はその晩、布団の中で枕がぐっしょり濡れるほど泣いたという。
                  (以上プレジデント版「"ザ・マン"シリーズプロ野球不滅のスーパースター」による)

 B選手はその後国籍の関係ない実力の世界であるプロ野球の世界に飛び込み、数々の大記録を打ち立て、なんと「国民栄誉賞」を受賞する。
 彼は外国籍であるにも関わらず、「日本国民」として最高の栄誉の第一号となったのである。

 B選手は言わずと知れた、とある球団の社長さんである。

 私が講演を聴きに行ったA先生もやはり高校球児だったそうだが、ご母堂は「勉強なんかせんでいいから、野球選手になれ!」と、ことあるごとに言っていたそうだ。

 私が何でこんな話をするかといえば、「プロ野球は実力の世界だから素晴らしい」などということを言いたいからではない。

 また、なぜ「日本」以外の固有名詞が一切出て来ないかについても一言しておけば、それは韜晦のためではなく(それも少しはあるのだが)、固有名詞が出てきた瞬間に脳内に水に落ちた墨のように「パーッ」とバイアスが広がって読んでくれなくなる人が多いからだ。

 先日、ある力士が優勝した。仮にC関と呼ぼう。
 C関は私が数年前まで暮らしていた土地の出身である。
 彼が勝つと、私の暮らしていた土地では爆竹が上がるのが習わしだった。

 この土地は知る人ぞ知る相撲の発祥地であり、横綱の土俵入りはこの土地出身の力士の型かもう一つの力士の型の2つしかない。

 怪我に泣かされても精進を重ね、苦節の末の優勝だったから、自分のことのように嬉しかった。
 お父上がお祖父さまの遺影を抱えて応援している姿には泣かされた。

 ただ、C関の優勝の前後から急にTVの画面に登場し始めた言葉に強い違和感があった。

 「日本出身力士」。
 何だろう。この言葉は。意味が解らない。言っておくが、私は人並みの国語力はあるつもりである。

 A先生やB選手は日本生まれの日本育ちだから、言葉の全き意味でいえば「日本出身者」のはずである。しかし、彼らがこう呼ばれることは今までも、また今後もないに違いない。
 彼らは日本国籍でないからだ。

 だとすると、この言葉は誰と誰を区別する言葉なのか。

 相撲界には、年端もいかない時から日本に来て精進を重ね、この世界に地歩を築いた一群の人々がいる。
 彼らは自分の出身地や集団とは全く違う日本や角界の習慣に必死で馴染み、「日本人以上に日本人たろう」としてきた人たちである。
 ある力士が昭和の不世出の大横綱双葉山を尊敬し、目標としているのは有名な話である。
 彼らの中には日本人(日本出身女性?)と結婚し、日本国籍を取得している人も多い。

  もし、「日本人が10年ぶりに優勝!」という表現をしたら、「なんだ、じゃあ彼らは日本人じゃないのか?」という話が出てくるだろう。

  日本の文化を理解し尊重し、日本人の家族を持ち、国籍も日本である人を「日本人」と呼ばないわけにはいかない。
  だが、それでもなお自分たちと彼らを区別したい(敢えて差別とまでは言わない)からこの珍妙な言葉を編み出したのだろう。

  「一体どうやったら日本人になれるんだ?!」という嘆きが聞こえてきそうである。同情に堪えない。

  私自身はどうにも隠しようのない日本人だが、「日本人」でなくても、「日本出身者」でなくても、「日本国籍」でなくても、素晴らしい知識や技術や人格を持った人を尊敬するし、彼らの努力が報われたら心から祝福する。
  
  彼らがどれほど日本の文化を豊かにしてくれたことか。

  例えばプロ野球の歴史から「日本人でない人」や「日本出身者でない人」や「日本国籍でない人」の記録をなくしてしまったら、通算最多勝も年間最多勝も通算防御率1位も年間防御率1位も完全試合第1号も通算最多安打も通算最多本塁打も年間最多本塁打も通算最高打率も年間最高打率も全て消え失せてしまうのだ。

  これらの記録のうちのいくつかは私と同時代に樹立された記録である。彼らのグラウンドで躍動する姿はどれほど私を勇気づけたかわからない。

  相撲も同じである。
  私は相撲は記録より記憶に残るものだと思っているのであまり記録については知らないが、パワーとスピードが増し、見ごたえのある取り組みが増えたのは間違いなく「日本出身者でない人」の参入によって全体が底上げされたからだと思う。

  角界が「日本出身者」だけの世界に留まっていたら、今頃は退屈な伝統芸能扱いされていたに違いない。

  C関の優勝が私たちを感動させたのは彼が「日本出身者」だからではない。
  怪我で活躍できなかった時、彼は本当に辛かったと思う。人間には努力してもどうしても上手くいかない時期があるものだ。
  それをさらなる努力で乗り越えて栄冠を勝ち取ったからこその感動なのだ。

 「日本出身力士」。
 ぜひ考えてほしい言葉である。

2017.7記
 考えてみればこの程度の文章を公開するのにさえチクリや攻撃を気にする必要がある現在の日本を本当に嘆かわしく思う。私の愛する日本はいつからこんな国になってしまったのか。

ペンギンの肉を食べた男(毒にも薬にもならない話81)

ペンギンのヒレ肉

 同僚のA君は根は真面目だがお茶目な男である。
 しかも、本人は大真面目だがズレていて笑ってしまうことがある。

天草珍一号橋
 
 天草の新一号橋はアーチ部分を車が通ると思っていた、などというのはその一例である。

 今回は彼がペンギンの肉を食べていた話である。
  
 彼の家の食卓には子供のころからペンギンの肉がよく並んでいたそうだ。 
 彼にはきょうだいがいるが、彼のお兄さんなどはこの肉が大嫌いで、決して手をつけなかったという。
 それはそうだ。
 あんなに可愛いペンギンを食べてしまおうというのだから。

 しかも勿体ないことに、それはペンギンの「ヒレ」の部分だけだったという。まるで鱶の鰭である。

 決まって短冊切で、いろいろな料理に入っていたそうだが、A君もお兄さんも除けて食べていたらしい。

 察しのいい人はペンギンのヒレの正体に既に気付いたと思う。
 A君が何時勘違いに気付いたか聞きそこなったが、さすがに小学校の高学年に上がる時には気付いていただろう。

 A君の勘違いも面白いが、この勘違いはおそらくA君の御両親から吹き込まれての事だろうから、A君の親御さんも相当面白い人のはずである。

 また、A君の家では勘違いが成り立つほど見事なペン肉を食べられていたというのは羨ましい。きっとそれは大分辺り、あるいは天草辺りで育てられた上質の冬菇だったに違いない。

 A君の家のペン肉を一度食べてみたかった。きっと干してもいい出汁が出たに違いない。

カメラ河童のジャンク道遥か54-Cに短しDには長し-(それでも生きてゆく私241)

レンズに癒される

 どうもブログを書くのに気乗りがしない。
 別に普通に生活しているし、普通に仕事をしているのだが。
 今後のことを考えると、急に脱力感に襲われる。例の人が大統領に当選してからだ。

 ブログを書こうとしても、「俺なんかが何を言ってももう無駄だよね」という気持ちがどーっと波になって寄せて来る。

 おそらく「河童」を書いたころの芥川龍之介はこんな気分だったのではないだろうか。私は髪の毛だけ河童だが。芥川は残っている写真を見る限りでは「〇ゲーッ!」と罵倒されたことはなかっただろうからその点では羨ましい。

 こういうときは趣味に没頭するに限る(ちゃんと仕事はしているのでネットチクリの人たちはご安心を)。

 久しぶりに「家畜人オークション(仮名)」でレンズを買った。

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 またも米国製のレンズである。メーカーは前回と同じく「ベル&グラハム(仮名)」。8mmカメラの名門である。

 値段はこのテのレンズの相場の30分の1くらいで、普通の勤め人の昼食1杯分くらいである。
 といっても、貧乏な私にはそれなりに応える値段であることは間違いない。送料が定形外郵便でごく安いのが決め手になった。

 舶来のレンズがこの値段、というのは、「訳あり」であるということだ。

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 もっとも、このレンズの売り手は良心的な人らしく、その「訳」が書いてあった。曰く、マウント(レンズとカメラの接続部)の口径がDマウントより少し小さいのだそうだ。

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 Dマウントというのは私が最も多く所有しているレンズのマウントで、もともと古い8mmムービーカメラにレンズを装着するものである。私はそれをデジタル一眼である愛機「ペンテコステオバQ」に付けて遊んでいるのだ。

 カメラに凝る人というのは我が熊本弁でいうところの「ぴしゃーっ」とした人が多く、「ざーっとした」私のような者は例外に属するから、こういう「ちゃんと嵌らない」だろう部品はオークションなどでも敬遠されて思わぬ安値で手に入ることが多いのである。

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 私は前球と後玉に分かれている8mmカメラのレンズを水道管の鏡胴(レンズを入れる筒)でつないで「オバQ」に装着してしまうような男だから、そんなことは少しも気にしない。

 それどころか、このレンズの写真と「訳」の記述を見た瞬間に、私はすぐにピンと来た。 

 「これ、D→Qアダプターに接着したらすぐに撮影可能になるよな。無限遠が出なくても中近用の撮影にくらいは使えるだろう。」

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 D→Qアダプター(写真左)とはごく小さなレンズであるDマウントレンズをQマウントである「オバQ」に装着するための部品で、以前は安い某国製が牛丼一杯くらいの値段で買えたのに、なぜか最近高騰して夕食一杯分より高い値段になっているが、安かった頃の買い置きがまだ1個だけあるのである。

 レンズが郵便受けに放り込まれていたのを見つけた私は、早速Dマウントアダプターに接着した。Dマウントの穴より確かにネジコミ部の口径は小さい。しかも、アダプター部がちょっとだけ穴に入って、後は入らず、不安定なセットである。どうも不安があるが、アダプターごと「オバQ」に装着してモニターを覗き込む。

 駄目だ。ピントが合わない。どころか、ボヤーっとした像しか映らない。無限遠どころではない。

 今度はC→Qアダブターに接着してみる。C→Qアダプター(写真右)は16mmカメラや監視カメラのレンズであるCマウントレンズを「オバQ」に装着するためのものである。これも買い置きが1個だけある。今度はレンズ全体が穴に嵌り込んで、鏡胴の中ほどの突起で止まった。

 アダプターごと「オバQ」に装着すると、今度は中近は開放でどうにか映るが、遠景はボヤーッとしてほとんど像を結ばない。最大限絞ってやっとかなりピンボケの像が映る程度である。

 以前の私ならこれで満足してしまったところだろうが、保存のいいシネレンズの写りの良さを知ってしまった今では、私はこれをレンズ箱に放り込んで二度と撮影に使用しないだろう。それではあまりに勿体ない。

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 そのとき私は、ちょっと前にやはり同じ「ベル&グラハム」のレンズが一見Cマウントに見せながら実はCSマウントであり、苦労して自製のCS→Qマウントを作ったことを思い出した。

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 あれはしんどかった。1週間かかった。何せ私は旋盤もグラインダーも持っていないから、全てが手作業なのである。
 だが、あれにこのレンズを接着してみたらどうだろうか。同じ「ベル&グラハム」だし。

 「オバQ」にアダプターを装着し、レンズをアダプターに手で固定してみる。
 おお、ピントが合う。無限遠も出そうである。この2つのレンズはやはりフランジバック(レンズがセンサーに像を結ぶ距離)が同じなのだ。

 ただ、このアダプターはもともともう一つの「ベル&グラハム」のために作ったものだから、接着したらそのレンズが使えなくなってしまう。困った。もう一つ自製CSアダプターを作るか。
 あの苦労は嫌だ。アルミ粉まみれの1週間。指先を削って怪我をし、握力はなくなり、喘息の発作に怯えていた。

 それに、このレンズにはピントリングがないから、接着してしまうと固定ピントになってしまう。どうにかしてピント合わせができるようにできないか。固定ピントは不便なのだ。

 仕事もそこそこに(冗談です)悩むこと1週間。明日からはまた仕事という日の夜、なんと私の夢にその解決法が出現したのである。

IMG_6998

 私は以前誤ってCSマウントのレンズを買ってしまい、当然のことながらそのレンズはC→Qマウントに装着しても像を結ばなかった。まだカメラの知識がほとんどない時代である(まだカメラに凝って2年めなのに大袈裟な)。

 なんとかこのカメラで撮影をしたかった私は、通販で当てずっぽうにCSアダプターを買ったのだ。ところが、これはC→CSのアダプターであって、CSマウントのカメラにCマウントのレンズを装着するもためものだったため、これに付けたレンズをさらにC→Qマウントに装着しても、当然のことながら像など結ぶはずがないのだった。

 「あのアダプター(ちゃちなリングだった)が使える!」
 レンズをC→CSアダプターに付けてからCS→Qアダプターにねじ込めば、レンズを回転させて前後させることができるから、自製ヘリコイド(ピント合わせ機構)になる。

 あまりのナイスアイディアに私はベッドから跳ね起きようとして内腿の筋肉が吊り、激痛にのたうち回った。後で見てみると、腕を痛めたときの稀勢の里のように筋肉(私の場合は薄筋)の形に内出血していたから、軽い断裂だったようである。歳なのだ。膝が曲げられないので朝の定期便のためのごふぢやうに行けず、危ないところだった。これまた1週間くらい痛かった。

 足の痛みがやっと和らいだ私はシン部屋に行ってC→CSアダプターを探したが、見つからなかった。どうやら別のレンズの改造のときに部品として使ってしまったらしい。がっかりした。

 ところが、それから3日くらいして、「家畜人」にこのアダプターが出品されていた。しかも、「即決」で、キャンペーンのときの牛丼くらいの値段である。まるで、「あのレンズを買ったんだから、これが必要だろ?」と言っているかのようである。

 このあたり、私は通販やオークションの情報網に不気味なものを感じる。「こういうものが欲しいな」と思っていると、おあつらえ向きのものが現れるのだ。これは購買行動をAIが分析して提案するのだろうが、なんだかこちらの考えまで見透かされているようだ。何せAIは天才といっていいプロ棋士にさえ勝ってしまうのだからな。

 閑話休題(さて)。

 注文して到着したC→CSアダプターにレンズを付けようとすると、内径が途中から小さくなってレンズのそれより小さく、ピントを結ばない。

IMGP9075

 私は1日かけてダイヤモンドヤスリで内径を削った。手が痛くなり、親指には血豆が出来る。

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 やっと内径が広くなり、絞りリングのところまですっぽり入るようになったが、これを自製CSアダプターに装着してからさらにカメラに装着しても、まだピントが合わない。全長が長すぎるようだ。

IMGP9078

 今度はグラインダー用の円形のヤスリで全長を短くする。手作業だから、これは2日かかった。肩が痛くて仕方がない。(写真はすべて完成後。調整前の写真は撮りそこなった。こぎゃんありますもんなー。)

IMGP9061

 3日後、やっと無限遠が出た。
 熱心にやりすぎて妻に怒られながらの偉業達成である。

IMGP9039

 まさに「Cに短しDには長し」の米国製レンズであったが、これで使える「ベル&グラハム」は2個目になった。

IMGP9072

 近接撮影はネジを緩めてご覧の通り。

IMGP7072

 同じ会社の20mmといい、手こずらせてくれるが、なかなか楽しいレンズたちである。

IMGP6889


野球におけるサイコーな掛け声(男どアホウ藤崎台37)

ノーコン河童

 小さいころから野球をしてきた。
 ほぼすべて草野球だが。
 デビューは小学校4年生の町内野球だったろうか。
 左利きのグラブを買ってもらえず、右利き用のものを右手にはめて左翼を守った。

 野球にはずいぶんいろいろな掛け声がある。だいたい守備についているときが多い。これはやはり野球の守備というものが(投手を除けば)退屈、とまでは言わないが、打撃ほどには面白くないからだろう。

 誰でも掛けたことがある声は「オーライ」か。英語のAll right!が元になっているといわれる。この掛け声をかけないと、 野手同士が激突したり、ぶつかりそうになって「お見合い」をしたりする。

 「ワンアウト、ワンアウト!」とか、「ツーアウト、ツーアウト!」というのもよく使われる掛け声である。これもやはり早く守備を終わって打撃に移りたいという気持ちの表れだろう。
 これは自分を励ます意味もあるが、主に投手に対する励ましだと思う。ただし、せっかくツーアウトを取っているのに連続四球、などという場面では少しだけ投手に対する苛立ちの気持ちが込められているような気がするのは、私がノーコン投手だった僻みからだろうか。

 「ツーアウト!」という時の指の形も面白い。普通に示指と中指を使わない。示指と小指を立てて影絵の狐と同じような形にする。

 野球の掛け声はイントネーションも普通の叫び声とはちょっと違う。「ツアウトー、ツアウトー!」というように少し巻き舌で叫ぶのが作法である。

 最近は聞かなくなった掛け声もある。
 「リー、リー!」である。
 出塁して、特に一塁ランナーが投手を威嚇するのに使っていた。「リード、リード!」が略されたのだろうが、鈴虫の鳴き声のようで、ちょっと恥ずかしかった。特に調子に乗って「リー、リー」言う方に夢中になって足元が疎かになって牽制で刺されたりすると、恥ずかしさは頂点に達する。ベンチに帰って皆の白い眼を見るのが辛い。
 この恥ずかしさによって、最近のシャイな若者はリードするのにいちいち自己主張しなくなったのかもしれない。

 随分長いこと勘違いしていた掛け声がある。
 これもまた独特のイントネーションによって本来の語や文の意味が分かりにくくなっているからだろう。
 「サイコー!」である。攻守交替で守備についた直後にかける掛け声だ。
 私は「最高!」だと思っていた。つまりWe are number one!である。
 関西の大学で軟式野球部に入って、大阪人のチームメートが「イコウデー!」と叫ぶのを聞いて、初めて今まで自分の叫んでいた掛け声の本当の意味を知った。
 「イコウデー!」って何だ? あ、「行こうでー!」か。
 するといつも俺が叫んでいたのは…「サ、イコー!」、「さ、行こう!」、「さあ、行こう!」か。

 齢18歳にして初めて真実に辿り着いた瞬間であった(アホか)。

 未だに意味が分からない掛け声がある。
 「オーエー!」である。これもやはり守備のときに使用していたような気がする。
 これは他の地方では聞いたことがないから九州限定、あるいは熊本限定かもしれない。
 こちらは齢56歳になってもいまだに意味が分からない。「OA?」。

 最近は持病で野球をやっていないから、死ぬまでに謎が解けないかもしれない。

ラブホに予約して1人で泊った男(それでも生きてゆく私240)

一人でラブホ

 私の仕事の内容をよく知らない人は、「出張でいろいろなところに行けていいですね」と言うが、「世の中に楽な仕事なし」というのは本当である。

 考えてみれば、その出張がなければ、私は休みを取ってその土地以外の場所に行けたかもしれないのである。 
 第一出張は仕事である。仕事はうまくいかないこともある。
 うまくいけば気持ちよく、ときには仕事相手と楽しい宴の後に相手の準備してくれた宿で一泊、などということもある。
 しかし、うまくいかないときには、お互い気まずい思いで、それでも再会を約束し、行く末を思いながら一人侘しく食事して早々に寝る、などということもある。

 その日は急な出張で、私はまだ宿を予約していなかった。
 随分遅くなったので、それから熊本には帰れない。こともないが、私は心臓が悪いのであまり長距離移動や寝不足の負荷がかかりすぎると決まって発作が起こる。
 幸い私の職場はまともなところなので、そういう場合には宿泊していいことになっている。

 わたしはよく使っている「ちゃらん(仮名)」で今夜の宿を探そうとした。ところが、泊まる日の夜遅くに探し始めたからか、あるいは金曜日だったからか、空いている宿がない。もちろん一か月の給料の1/10くらい、というような高級な宿は空いているのだが、そんなところに泊まるくらいならば商店街のアーケードに段ボールと新聞紙を敷いて寝た方がマシである(実は学生時代に一度ある)。

 わたしは空き地に停めた車の中で必死になって今夜の宿を探した。
 すると、20サイトくらい彷徨った後(本当)、やっとダブルの部屋に1人で泊れるホテルを見つけた。しかも、1人で泊る部屋としては割高なのだが、ダブルにしてはえらく格安である。これならば会社の出張費の枠内に収まる。
 私は早速宿を予約した。もう半分は駅の待合室に寝ることも覚悟していたのだが。ダブルの部屋に一人で泊るというのも寂しいものだが、背に腹は代えられぬというのはまさにこのことである。
 ちょっとだけ気になったのはその宿に「大人限定」と書いてあったことだけだ。

 ナビを頼りに運転していくと、どんどん道が狭くなる。もっとも、出張先であるA市はもともと坂の多い道の狭い街であるが。
 何回か見つけられずにぐるぐる近辺を回った後、「やはりここ以外にはないな」というホテルに辿り着いた。紛うことなき「ラ〇ホ」、現代風にいうところの「ファッションホテル」である(最近こう言うのかなあ。死語じゃあ?)。
 そのとき、鈍い私は「大人限定」という言葉の意味がやっと分かった。

 ホテルに入ると、カウンターがあったが、係の人の顔が見えない。分かるのは声だけである。 
 私はラ〇ホに入るのは初めてであるからまったく勝手が分からない(大嘘?)。
 だが、とにかく部屋を決め、鍵をもらい、出張での宿泊であるから会社の名前を言って領収書を切ってもらう。

 隣に空き地があったので「駐車場は隣でいいですか」と言うと、「ああ、隣は違います。地下にお願いします」との答えなので、空き地に戻って車を地下の駐車場に入れ直す。

 「2階はカップルの方が来るかもしれないので遠慮してください」と言われ、3階までえっちらおっちら上がる。急な出張で長距離運転して気を遣った後なので、足は棒、身体は鉛のようである。

 部屋に入るとベッドがあって、トリプルではないかというくらいに広い。
 「ここに一人で泊るのか」と思うと、何ともいえない虚しさと寂しさが襲ってきた。

イワシの缶詰

 私は30数年前の韓国で友人のA君と男同士「鰯の缶詰」になって「大人専用宿」に泊まったことはあるが、一人でこのテの宿に泊まったことはない。

 早々に食事に出かける。

 どういうわけかここは文教街で、まだ日が高く、周囲には学生が行き来している。
 
 ホテルのドアを出ると、幼い子を連れたお母さんにばったり出くわした。

母と子

 「〇〇ちゃん! 見るんじゃありません!」という感じでお母さんが子供をかばっているのが分かる。小学校のころ、幼稚園で遊んでいたときにお母さんたちから浴びていた視線である。 幼稚園を占領する小学生(Good Old Days29)

 ただ、近くの食べ物屋はえらく美味かった。
 特にB県特産の鯨はサエズリ(舌)やヒャクヒロ(腸)など珍しくて美味しいものが食べられて大満足だった。
 私はただそれだけでいろいろなことを忘れられる幸せな人間なのである。
 だから、もし口から食べられなくなったらと思ったらゾッとする。私の仕事は人に口から食べてもらう仕事であるが、「天職」と言っていいかもしれない。

 帰り道のコンビニで漫画を買った。まだ寝るには少し早い時間である。題名は「論語」。
 孔子の言葉に触れるのは久しぶりだったが、実に面白かった。
 特に印象に残った言葉は、「徳は孤ならず、必ず隣あり。」というものである。亡き父がよく口にしていた言葉だ。現代誤訳は「志のある人は孤立しているようでも一人ではない。必ず応援してくれる人があるものだ。」くらいだろうか。

 一人で寝るにはあまりにも広いベッドの空いた空間を見ながら、「徳はシングルならず、必ずダブルあり。あるいはツインか。」という言葉が浮かんできて可笑しくて仕方がなかった。馬鹿みたいだが。

 気持ちよく寝られた一夜だった。

  ちなみに冒頭の歌は「つがひ」ではなく「妹背」の方が良かったかなと後悔しているのですが、短歌に詳しい方、ご意見をお聞かせください(この手の呼びかけにただの一度も反応があったことがないんだよな)


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