ニヤッとする話

ニヤッ、とする程度の笑いネタを思い出しながら書きます。

ウリ坊との遭遇(Sea豚動物記95)

ウリ坊との遭遇

 ウリ坊に会った。
 野生のものと遭うのは人生初である。

 時間はいつもの早朝散歩、場所は近所(といっても家から5km位離れているが)の山の中の小道である。
 その日の散歩はちょっと遠出をしようと徒歩でなく電動アシスト自転車「イグアナ号(仮名)」だった。
 上り坂をえっちらおっちら上り、道が平らになったとき、遠くの方に小さな犬が見えた。「ああ、犬がいるな」と思ったのだが、妙に鼻が大きい。まさかと思って目を凝らしたが、どうも犬ではなく猪のようだ。ただし、私は野生の猪を見たことがないから、そのシルエットが猪であると確信が持てなかった。
 もし猪だと分かっていたら、すぐに肩掛けバッグからロシアレンズ「木星11号(仮名)」付きの愛機「ペンテコステオバQ(仮名)」を取り出し、撮影していたに違いない。対象物の大きさとそこまでの距離からして「木星」の135mmという焦点距離は最適だったに違いない。
 だが、もう一つ確信が持てなかったのと、後述する心配のために、悠長に自転車を停めてカメラを取り出す余裕がなかったのだ。

 すぐ前は道が二股になっている。私は子犬だか猪だかよく分からない動物のいる道に敢えて進まず、もう一本の道を選んだ。この道をしばらく行くと動物のいる道に迂回して合流する道があるのだ。そっちから道を反対側から進もうと思った。いわば背後からの不意打ちである。

 すると、迂回して合流した直後、ウリ坊にばったり遭ったのだ。距離は5mくらいだろうか。ウリ坊は私を見て吃驚したらしく、道の脇の茂みに逃げ込んだ。

 猪は夜行性であると聞いていたから、もう日が昇ってから遭うとは思わなかったので吃驚した。

 そういえば最近、田圃の中の小道を散歩していると、稲の周りを金属の柵で囲ってある。
 私の棲んでいるところは結構街中で(嘘)、少なくとも猪が出そうなところではない人里だから、まさか猪避けの柵とは思わなかった。

 「こんなところで稲泥棒をする人もいないだろうに」と、大袈裟に感じた。
 「まさか俺よけじゃないだろうな」と邪推したりもした。私はここで結構長時間カワセミを待ってじっと立っていることがあり、その横を農家の人らしい軽トラックが速度をぐーっと落として殆ど歩くくらいで通りすぎ、「監視されているのでは」と感じることがあるからだ。

 何のことはない。
 実際に猪の被害が出てそれに対する防御策が為されていたのだ。

 「ウリ坊に遭った」などというと、都会に住んでいる人は「可愛かったでしょう」などと言うのだが、正直自分にとっては恐怖体験以外の何物でもなかった。

 ウリ坊は小さな子供であるから、基本的に単独行動はしない。きょうだい達と動くし、何よりも母親の引率付きである。

 つまり、「ウリ坊のいるところ、親の猪あり」なのである。
 交通安全に例えれば、「ボールが道に転がって来たら次はそれを追って子供が飛び出してくるからブレーキ」というシュチエーションなのだ。

 だからうっかりウリ坊の可愛さに我を忘れて一瞬でも見惚れたり、ましてや至近距離で撮影などしようとするのは大変危険である。
 獣道を外れて人間用の道に出てしまった我が子を案じて母親が後から出てきたら、この距離だと防ぎようがない。

 この場合どうにか逃れられるのは自転車に乗って動いている場合だけである。「イグアナ号」はパワーモードで走れば50kmは出るから猪の走る速度より速い。もっとも「猪突猛進」というぐらいでダッシュ力はどうみても猪の勝ちであるが。

 ただ、体重が90超の私がさらに自転車に乗っていると猪から見れば巨大生物である。基本的にはウリ坊にちょっかいを出さない限りは向こうが逃げ出すのではないだろうか。

 などと後付けの屁理屈を捏ねてみたが、実際のところただ驚いたし怖かった。はっきり言って撮影どころではなかったのだ。

 といいつつ、この日以来私は「ペンテコステ」に純正望遠を付けて首からぶら下げ、「イグアナ号」に跨ってその道の近所を散歩するのが日課になっている。レンズが純正なのはこれが自動焦点だからだ。望遠なのは安全な距離から撮影するためである。

 しかし、その日以来ウリ坊に遭うことはない。結構人家が近かったから、あるいは私の知らないうちに噂になって駆除されてしまったのかもしれない。

私の農業入門記32-ズッキーニの夭逝-(それでも生きてゆく私453)

ズッキーニ

 ズッキーニを日本で最初に見かけたとき、「なんちゅう半端な野菜じゃ」と思った。
 「日本で最初に見かけた」などというと、私がズッキーニの本場であるイタリアに住んでいたかのようだが、私は中国と韓国以外には行ったことがない。

 閑話休題(さいしょのいちぎょうではなしがそれるとは)。

 どこが「半端か」というと、私はこれをその外見から胡瓜の仲間である、と思ったのだが、南瓜の仲間であるという。いま漢字で書いてみて初めて気付いたが、この3者に瓜の仲間であるという共通点はあるのか。

 閑話休題(はなしがそれるというよりまとまらないな)。

 こういう変わった野菜は一時は持て囃されるが急速に飽きられて消えていくのが必定である。私はズッキーニもそういう運命を辿るのだと思っていた。実は食べてもいないのに。

 ところが消えるどころか、ズッキーニは春になると苗屋の店先に必ず並ぶ定番の野菜になって行った。
 それでも、私はズッキーニをそれと意識して食べたことがなかった。もしかすると知らないうちには食べていたかもしれない。が、やはりその半端さから、「ん、ズッキーニだな」という強烈な印象はなかったのだ。


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 私がズッキーニを初めて植えたのは、ウキウキ市(仮名)の三角町に引っ越した最初の春である。隣に胡瓜が植わっているのが、私がこの野菜をどんな類のものだと思っていたかをよく表している。「要は胡瓜もどきでしょ?」と思っていたわけだ。

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 最初の収穫である。
 まるで胡瓜のように細い。これは受粉していないからである。それはそうだ。ズッキーニの苗は他の物より高かったので、「お試し」のつもりだった私は1本しか植えていなかったのだ。
 後から知ったのだが、ズッキーニは他の瓜類と同じく、雌花と雄花があって、最低でも2株植えて互いの雌雄を受粉させなければならないのだ。同一株の両者を受粉させようとしても極端に受精確率が低くなる。

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 仕方がないのでそばに植えていた南瓜の雄花をズッキーニの雌花にぐりぐり押し付けてみると、なんと上手いこと受精したらしく、初めて大きなものの収穫に成功した。

 こいつを妻がベーコンと炒めてくれたのを食べて初めて、私はズッキーニの真価を知ったのだった。
 現在でも私は「ズッキーニとベーコンの炒め物」がこの野菜の最も美味い料理だと思っている。

 ところが、この株は実を3.4本収穫した後、急に葉にモザイクのような斑点が現れ、あっという間に枯れてしまった。何せ1株しか植えていないから、この年はこれで終わりだった。

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 ベーコン炒めの美味さに文字通り味を占めた私は、翌年もズッキーニを植えた。
 今回は確実に受粉させるために2株である。

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 ところがこの2株は胡瓜より細くアスパラガスより少しだけ太い実を数個付けた後、またモザイクがザーッと現れて、あっという間に枯れてしまった。この年もこれで終わりである。

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 これに懲りた私は、ズッキーニの作付け場所を変えた。2年目の不作は連作障害によるものだと思ったからだ。1年目の株の命を奪った病原微生物が土中に残っていたに違いない。
 この年の2株はすくすくと育ち、受粉が半端なものの随分大きな最初の収穫があった。
 ところが、これからという日、出勤前だったろうか、折から大雨が降った。
 庭で家の中まで聞こえるバキッという音がした。
 見ると、ズッキーニの株が、雌雄の花をたくさんつけたまま、2本とも根元から折れていた。
 私はその形態からズッキーニには支柱が必要ないと思っていたのだが、「大本営放送協会DHK(仮名)」の「野菜の此岸(仮名)」によれば、実は茎が折れやすいので是非支柱を建てるべきだという。

  今年、私は、我が家の猫の肉球ほどの畑(というより庭を勝手に耕した場所)のうち、「最終兵器」とも呼べる場所に2本のズッキーニを植えた。

 庭に3ヶ所ある畑のうち、日当たりは悪いが、砂混じりで水捌けのよい土地である。後の2ヶ所は粘土質で日当たりの悪い場所と、日当たりはいいがやたらと土が固い場所である。昨年まではこのどちらかにズッキーニを植えていたのだ。

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 効果覿面、ズッキーニは2株ともすくすくと育ち、次々と花を咲かせ、実をつけ始めた。

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 だがなかなか受精しない。実が小さい。
 ズッキーニの花には蜜蜂や蟻が次々にやってくるのだが、やはり人工苗床で育った乳母育ちなのか、受精能力が低いようである。

 ここはやはり人間による「月下氷人」が必要である。
 私は鵜の目鷹の目で毎朝開花状況を調べ、雄花と雌花が同時に咲いているときにはすぐに雄花の花びらをちぎって花芯だけにし、雌蕊にぐりぐり花粉を擦り付け、さらに3つに分かれている雌蕊の中央に雄蕊を挿入して固定した。随分乱暴な月下氷人である。

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 ほとんど手取り足取りの「スパルタ教育」の成果か、遂に大きな結実が2つあった。
  
 だが、これはベーコンとの炒め物だけで消費してしまえる量ではない。すぐに飽きてしまうだろう。

 ここで私の脳裏に韓国ドラマ「チャングマー(仮名)」の一場面が蘇った。そうだ。ジョン(煎)だ。
 煎は日本ではチヂミという名称が一般的であるが、韓国ではジョンやプッチムゲといわれ、「チヂミ」と言われても分からない人が多い。
 なんでもチヂミは古い韓国語で、様々な食材を溶いた小麦粉などと合わせ、油で平たく焼いた粉食(Wikpediaによる)をこう呼ぶのだとか。
 「チャングマー」の中で主人公がズッキーニのジョンを焼くシーンがあったような。私も真似をしてみることにした。

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 ちなみに韓国の南瓜は基本的にズッキーニなのである。これは何故か高校の校庭に植えてあった南瓜だ。

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 ズッキーニ、韮、人参、オクラ、茄子、ピーマンの煎である。
 これを酢醤油と辣油を混ぜたものにコチュジャンを溶かしたもので食べてみる。

 美味い。

 特に大きくなったズッキーニはベーコンとの炒め物よりこちらの方が合うようだ。

 「ズッキーニとベーコンの炒め物」「ズッキーニの煎」はズッキーニ料理の二大巨頭である。

 ほかにもいろいろ試してみて分かったことは、ズッキーニは胡瓜料理に使っても南瓜料理に使っても独特の存在感を発揮するということだ。
 たとえば「胡瓜と大蒜の炒め物」は妻の十八番だが、この料理をズッキーニで作ってもまた独特の風味で美味しい。あるいは胡瓜と混ぜるとズッキーニがうまく水分を吸い取ってまた独特の食感になる。

 結実能力が弱いのが玉に瑕だが、植えてみる価値のある野菜である。

恐竜化石が呼び起こす少年の日の疑惑(毒にも薬にもならない話83)

恐竜の本当の姿

 復元土器に対する疑問の話が出たところでもう一つ、やはり子供の頃から納得が行かない話をする。
 それは化石の話である。

 これについては一度「ベリンジャー事件」と「ピルトダウン原人事件」の話をしたことがあるが、もう少し根源的なところから疑問を呈したい。

 ちなみにベリンジャー事件とは、ある化石研究家を陥れるために「文字の化石」を製作して発掘現場に埋めた、という化石研究草創期らしい捏造事件であり、こんなものには現代人は決して騙されないだろう。
 もう一つのピルトダウン事件はもっと悪質で、ヒトの頭蓋骨とオランウータンの下顎骨を巧みに組み合わせて捏造した「世界最古の原人」の化石で、こちらは1950年代まで偽物であることが判明しなかった。

 さて、化石復元に対する子供の頃の疑問は2つある。

 第一の疑問。
 もともと化石である部分を他の部分と判別するのにはどんな方法が採られているのだろうか。

 おそらく専門家が見て周囲の部分と物質的に違う部分、ということになるのだろうが、これが素人目には実に怪しい。

 私は多くの同年代と同じく、「養育者カラーブックス(仮名)」によっていろいろな雑学の知識を得た子供だったが、このシリーズの「化石入門」というような書名の本の中に「クラゲの化石」の写真が掲載されていて、これが子供心に「本当かよ?適当に彫ったんじゃねーの?」というような代物だったのだ。
 ところが今、この本だと思われるような題名の本をネットで検索しようとしても、どうしても出てこない。これでは私が「海月の化石」を持ち出すために話を捏造しているようである。いずれもう少し詳しく調査して結果を報告したい(確実に忘れるだろうな)。

 とにかく、海月の体の主成分はほとんどすべて水である。これがそんなにうまいこと化石になるものなのだろうか。

 もちろん専門家のすることだし、もう成分分析の技術なども発達しつつあった時代だから信憑性については相当高いものだったのだろうが、子供としては何か納得のいかない、騙されているような気分だったのを覚えている。

 もう一つの疑問。
 化石として出土した生物の身体のごく一部分からどうすれば全体像が分かるのか、ということである。
 これはおそらく化石生物の現代に生き残った子孫や、その前後の時代の同種の生物の化石などから類推するのだろうが、これまた子供心にどうも納得が行かなかった。

 今では信じられない話かもしれないが、私が高校生になった昭和53年(1978)まで、「日本では恐竜の化石は見つからない」と言われていた。「日本には肉食恐竜はいなかった」とも。

 そして、子供向けの本などにはミトコンドリアを縦断したような形をした歯の化石の写真と、それから推測したカバのような動物の絵が掲載されていて、「恐竜の化石はないが、一番古いものに属する哺乳類は見つかっていて、こんな奴」というような説明が記されていた。確かデスモスチルスと言った。

 私のことを直接知っている人は何でそんな昔に1回か2回本で読んだ動物のややこしい名前を覚えているのか、10秒前のことすら忘れる癖に、と思ったと思うが、私は昔のことは覚えているのである。

 閑話休題(ほらほらまたはなしがそれはじめた)。

復元図
 今Wikipediaで見るとデスモスチルスはこんな全体像をしていたとして想像図が載っているが、私が当時見たのとまったく違う。私が見たのはもっとずっとカバに近い挿絵だった。

 だいいち、ちゃんと化石が発掘されている世界の恐竜にしてからが、「冷血動物だった」とか、「動きが鈍かった」とか、「毛がなくてゴワゴワの皮膚だった」などと、おそらくは現代に生き残った爬虫類である亀や鰐からの類推なのだろうが、現在の研究とはかなり違う通説が流布されていたのだ。

 だから私は少年の域を脱して中高年の域に入った今でも、恐竜の化石からの「想像図」などと言われると、「本当かよー?」と内心ツッコミを入れる。これはおそらく私の中に年甲斐もなくたくさん残っている稚気の一つなのに違いない。

 ちなみに、我が熊本では御船町と御所浦町で恐竜の化石が発見されているが、いずれも歯など身体の一部で、ミフネリュウなどの全体像も想像の域を出ない。したがって私は「本当かよー?」と思っている。
 ここはひとつ全身骨格の出土が待たれるところである。そうなると全国で3例目ということになる。

 それにしても、恐竜は古銭や蝶の標本と同じく、私の少年の日の想い出とと直結しているアイテムである。
 Those were the good old days.なーんて、現役で仕事をしている男が言っちゃいけないナ。

復元土器への素朴な疑問(毒にも薬にもならない話82)

本当にこんな形か

 とある日曜日。

 私たち夫婦は今まで行こう行こうと思っていながらなかなか行く機会のなかった場所に来ていた。

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 熊本市城南町にある塚原古墳群である。
 ここはちょっと分かりにくいところにあり、大々的に宣伝したりもしていないから、あまり訪れる人もいないが、実は巨大な遺跡だ。大小さまざまな形式の古墳は全部で500余りもある。

 何でも九州自動車道を作っているときに偶然見つかり、発掘されたのだという。
 「古いもの好き」の熊本人であるから、当然のように保存運動が巻き起こり、全国でも珍しい方法で遺跡の保全が図られた。それは「遺跡の下にトンネルを通す」というものである。高速の松橋インターから北上すると程なく現れるトンネルがそれで、トンネルの上がこの遺跡なのだ。

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 こんな多くの古墳を作れるということはここに相当大きな、そして先進的な集団が存在したということだ。古墳の形式から当然のことながら大陸文明とも交流があったようで、古代の熊本の繁栄とそのスケールには驚いてしまう。

 だが今日はこの巨大遺跡の話ではない。

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 この古墳公園の中には歴史民俗資料館がある。
 私は以前からここに行きたくて何度かそれを試みたのだが、愛車「ウォッス(仮名)」に搭載されているのが「バカーナビ」であることもあって遂に行きつくことが出来なかった。
 ちなみにこの「バカーナビ」は最近、無人の荒野を飛んだり、海の上を走ったり、宇土半島の南側を走っているのに北側の道を表示したりと、その能力をますます発揮し始めたので(故障ともいうが)、ナビは専らスマホのものを使用しているが、今日はその話でもない。

 この資料館はほかの人のレビューにも「場所が分かりにくい」と書いてあるくらいで、非常に多くの熊本県民が行こうとしては断念した「迷宮の資料館」なのだが、今日の話はそれでもない。

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 では何の話かというと、この資料館に展示されている土器を見ているうちに頭をもたげてきた子供の頃からの疑問についてである。
 これらの土器は細かい破片を組み合わせて巧みに元の形に復元してある。
 深い専門的な知識と同時に私の持ち合わせていない根気がないとできない仕事であろう。

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 ただ、こういう復元土器を見ると、つい「本当かよ」と思ってしまう。
 こんなに少ない遺物からよく全体の形が分かるものだ。もちろんこの時代の土器の形に関する深い知識と空間的なセンスがあれば、「これしかない」という形が分かるのだろう。
 だが、素人目にはどうも完全に納得はできない。ましてや私は科学の道を歩む医学徒である。科学の根本は「疑うこと」なのだ(大袈裟)。医学の世界では「常識だ」と思われていたことが20年くらいで完全にひっくり返ってしまうことがある。

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 ここから出土した土器にはユニークな形のものが多い。

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 何だか、「土器ってこんな形だよな」というこちらの先入観を壊してしまうような形だ。

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 これなど、現代芸術だと言っても通用しそうだ。

 復元された土器も、実は冒頭の絵のように専門家の予想すら裏切ってしまうような形だったのではないか、と思ってみる。
 
 こんなことばかり考えているから出世しなかったんだよな(既に過去形)とうらぶれた気分にもなるが、だからこそ毎日が楽しいんだよな、とも思う。

バーチャルウォーキングマシーンの提案(どうしても言いたかったこと57)

バーチャル散歩

 私は毎朝家の近所を散歩することを日課にしている。

 ただ、猛暑の時期と厳寒の時期はなかなかこれが実行できない。

 猛暑の時期は早めに目が覚めて朝日が昇るのを見るのだが、その途端に我慢が出来ないような暑さが外の空気に感じられて、もう一度横になる。気付いた時にはもう散歩に費やす時間がなくなっている。
 厳寒の時期は朦朧とした意識の中で既に散歩の時間であることを感じるが、外は真っ暗だし、肌を刺すような寒さであることは長年の経験から分かっているから、ついつい布団の中にいるうちに、もう朝食を食べなければならない時間であることに気付く。

 また、張り切って散歩に行こうとして玄関を出ると、雨が降っていることに気付くこともある。無視できるような小雨ではなく、傘が要るくらいの量の雨が静かに降っていたりする。少々の雨なら、と思うのだが、私は黄砂や花粉にアレルギーがあって、身体中が痒くなったり喘息が起こったりする。傘を差さずに雨に打たれたりすると、この症状が覿面に現れる。仕方がないので、もう一度寝ようとするのだが、こういうときは身体が「これから動くぞ」という気になっているので、なかなか寝られない。

 こんなとき、ウォーキングマシーンがあったら、と思う。ベルトコンベアーみたいな奴の上に載って狭いスペースの中で歩行動作ができる健康機器である。

 これならば外気の温度や天候に関係なく散歩できる。

 ただ、私はとても飽きっぽい。

 したがって、このテの健康機器を長く使い続けたことがない。これは妻もご同様で、私が「引っ越し貧乏」と呼ばれるほどの輿の落ち着かない男でなければ、これらの残骸で家の中は足の踏み場もなくなっていたに違いない。幸い実際には引っ越しのたびにこれらの嵩の高い物品は収集所行きになるのである。

 ウォーキングマシーンは私の中では以前から欲しい健康機器のナンバーワンなのだが、それなりの値段がする。これを飽きて使わなくなるというのはあまりにも勿体ない。それで過去これに手を出したことはない。

 実はウォーキングマシーンで飽きないためのアイディアは小学校の頃から温めているのだが、なぜかこうした商品が販売されているのを見たことがなかった。

 それはどんなマシーンなのだろうか。

 名付けて「バーチャルウォーキング東海道五十三次」。

 別に東海道五十三次でなくてもいいのだが、マシーンと連動して目の前の大きなTVモニターに街並みが現れ、マシーンで歩くとあたかも道を歩いているような映像が映る。

 適度なところで休憩できるように、一定距離歩くと旅籠などの休憩所が現れるので、そのときはティータイムである。これで歩きすぎ(専門用語で過用という)が防げる。

 モニターに現れる風景は「東海道五十三次」のほかに「北海道野生動物ツアー」でもいいし、「思い出の道散策」でもいいし、「古都京都寺社巡り」でもいい。とにかく飽きさせないような景色が次々に現れれば、私のような飽きっぽい人間でもきっと頑張れるに違いない。

 私が小学校のころ(つまり45年前くらい)にはテレビとウォーキングマシーンを連動させるなど丸きりの夢物語だったが、現代のこれだけ進んだバーチャルリアリティーだったらこうした商品を実現するのは簡単ではないだろうか。

 そう思った私は「アマゾネス(仮名)」や「楽観(仮名)」などの通販サイトでこうした商品を探してみた。ところが、これがほとんどないのである。

 もちろん、ウォーキングマシーンで歩いた距離を入力するとバーチャル日本一周ができる、というような類のサイトはあるのだが、マシーン連動ではないから、これはどちらかといえば「みんなで励ましあってウォーキングを続けましょう」という趣旨に近い。

 一つだけ見つけたのはお遍路さんがバーチャルで体験できる機器だったが、これが私には到底手の出る価格ではない。しかもモニターが小さい。

 ドライブレコーダなども今はとてもいいものが出ているのだから、ウォーキングマシーンとこうした映像を連動させて大画面に映すことは技術的には十分可能なはずである。なぜこうした機器がほとんど販売されていないのか、謎である。

 何か陰謀の臭いがする。

 こうした、「誰でも思いつくアイディアなのになぜか実用化しない物」というのは私たち市井の者が思う以上に複雑な「訳あり」なのかもしれない。

 私は以前「電池交換式EV車はなぜない」と世に問いかけていつものように全く無視されたが、こうした機器が発売されると権益を脅かされる一団があるにちがいない(誇大妄想)。

 ちなみに電池交換式のEV車は結局中国で実用化されたらしい。新興勢力でないとこうしたことが実現しないというのが如何にも胡散臭い話ではある(穿ち過ぎ)。

 あるいは今は「ゴーグルアース(仮名)」などで世界中のどこの街並みでも仮想散策することができるのだから、これとウォーキングマシーンを組み合わせたら世界的な大ヒットになりそうな気がする。数が出れば値段も安くなるし。
 一瞬「ゴーグルの陰謀」という言葉が脳裏を掠めたが、深入りしないことにする。命が危ない(被害妄想)。

 どこかの会社に是非製品化してほしいアイディアだ。

 そのときは私にアイディア料をお願いしたい。料金は「バーチャルウォーキング東海道五十三次」一台無料進呈で結構である。

初の新潟は学会出張7-新潟雑感-(河童日本紀行573)

川の途中で切れた橋

 新潟、といえば、米と酒と魚、ということで、避けるわけにはいかないのだが、学会出張で行ったのにそのことばかりを取り上げると「何しに行ったんだ」と言われそうなので、雑感の中で取り上げることにした。

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 新潟名物三角達磨である。この二人(?)が出迎えてくれる店は、同行者が「どの店が美味しいですか」と通行人にインタービューしてほとんどの人が「あそこ」と答えたらしい。
 実際美味かった。

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 特に貝の刺身は抜群だった。北寄貝など、九州で食べるものとは名前は一緒でも中身は同じものとは思えないくらい違う。
 この間「大ハマグリ」で40度の熱を出して「もう二度と貝は食べない」などと言っていたのだが、あの悪夢をすっかり忘れてしまうくらいに美味かった。

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 新潟名物の「氷頭(ひづ)」。鮭の頭の軟骨である。美味かった。もう一つの名物である「メフン(鮭の腎臓)」は頼む勇気がなかった。

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 新潟は蕎麦も名物らしい。来るまで知らなかったが。遊びで来てるんじゃないんだからな(建)。

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 この店も美味かった。甘海老もまた九州で食べるものとあまりに味が違う。

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 最終日の空港で食べた寿司。「米どころ」「魚どころ」でそのコラボレーションを食べない法はない。ただし、「酒どころ」だからといって、こいつは出張中の勤務時間内に飲むわけにはいかない。

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 新潟の夕焼け。緯度が高いせいで日暮れが早い。九州の方が昼間の時間を得しているような気がする(それだけ夜明けが遅いじゃろうが)。

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 会場に行く途中で見た不思議な橋。川の途中で終わっている。かといって、未完成という感じでもない。一体どういう事情なのだろう。ネットで調べても分からない。

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 早朝の散歩で見つけた不思議なオブジェ。「人体の不思議展」を思い出した。



 同じく散歩で出会った新潟鷗。釣り客に懐いているらしくそのすぐそばでおこぼれを待っていたが、私を見るとすぐ逃げてしまった。鳥は人間の個体を見分ける能力があるとしか思えない。

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 ほぼ毎日釣りに来ているらしい。



 これがもう見ている間にじゃんじゃん釣れる。今度は絶対に観光で来なければ。もっとも釣り道具を手荷物で機内に持ち込まないようにしなければ。一度上海行の飛行機で没収されたことがある。釣竿もその筋の人から見ると「テロの道具」らしい。

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 新潟空港の空。いよいよ新潟ともお別れである。

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 帰りはプロペラ機で2時間。その日は生憎の悪天候で、かなり揺れたので、乗客たちはぐったり疲れていた。
 途中、乱気流を避けるためだろうか、ずっと列島沿いを飛んでいたこの機がどんどん陸地から離れていき、しかも到着予定時刻になっても陸地が見えないので不安になった。「操縦席でなんか起きてるんじゃないだろうな?」

 以上、新潟からお伝えしました(嘘)。

初の新潟は学会出張6-人から見た自分-(河童日本紀行572)

写真の中の自分

 「自己イメージ」という言葉がある。 
 「自分が自分に抱いている印象」という意味だが、往々にして「他人が自分に対して抱いている印象」とは違う。

 私は教育に関わるようになって今年でちょうど30年になる。
 若い頃の私はおそらく生徒を叩かない教師の元祖だったと思うし(本当にあの頃の先生はよく生徒を叩いた)、言語聴覚士の教育に関わってからもその卵たちには随分優しく接してきたつもりである。

 しかし、特に初期の教え子たちからは、「あの頃の先生は怖かった」「先生は丸くなりましたね」と言われることが多い。まさに心外である。

 俺のどこが怖いんじゃい?ゴラア!!!

 というのは冗談として、人は他者が見た自分のイメージを知って驚くことがある。

 学会出張で行った新潟でもそういう経験をした。

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 写真は新潟のとあるデパートの企画展である。
 生粋の九州人である私は何だか不思議な感じに襲われる。「九州」の頭に「大」が付いているのが何だか面映ゆい。もちろんこの「大」は「九州」に冠されているのではなく、「展(展覧会)」の方に冠されているのだが。

 バスに貼ってあった広告によれば、この大九州展に熊本県代表として出品されているのは、「くま悶(仮名)」を模ったお菓子と赤牛のステーキである。

 確かに「くま悶」は熊本県を代表するキャラクターだし、赤牛は熊本独特の牛であり、美味い。どちらも私は大好きである。
 だが、「それだけが熊本(の食べ物)か。もっとないか」と思ってしまう。
 たとえば御菓子だけでも朝鮮餅や小袖餅や高瀬飴やいきなり団子などいろいろなものがあるし、肉だってまず馬刺しがあるし、絶滅した鶏を復活させた天草大王があるし、梅肉を食べさせているために脂の香りがいい「天草毎日ポーク(仮名)」があるし、と、熊本県を「くま悶」と赤牛だけで語ってもらっては困る、という気になる。
 もちろん企画展にはスペース、というものがあるから、さまざまある中から取捨選択しなければならないというのは分かるので、これは別にデパートの担当者のせいではなく、単に自分の中の不合理な心の動きに過ぎないのだが。

 これが自己イメージと他者イメージというものなのだろう。

 自分としては自分の中のいろいろな面を知っているから、他者イメージとして一部分を取り上げて認知されていることを知ると、「なんか違う」「抜け落ちたものがある」と感じるのだ。

 写真というのも他者イメージの一つだろう。
 写真に写った自分は、機械が客観的に捉えた自分なのだが、これがほぼ例外なく自己イメージと違う。
 自分の写真に激怒する人などもいて、亡くなった祖母の写真などには自分の顔の部分に傷をつけてしまったものすらあるし、「写真は撮らせない」という人もいる。女性に多いようだ。

鏡の中の自分

 以前「トイレの中の見知らぬ自分」という題で自己イメージと他者イメージのギャップについて書いたことがあるが、

講師時代

 今から見るとそのころの自分は吃驚するほど若い。河童ではないし(髪が)。それでもショックを受けたのだから、自己イメージがいかに高いかということだ。

 こうして見てみると、自己イメージよりも良い他者イメージというのはあまりなく、「それは自分ではない」「誤解だ」「一部を誇張している」「偏見だ」と感じることが多いようである。

 私が「河童日本紀行」で書いている文章も、各地の住民からするとそういうものなのかもしれない。

 前々回に「新潟駅界隈には古いものがない」と書いたとき、反論のコメントが1つは来るのではないかと思っていた。「古いものはいくらでもあるぞ」と。おそらく熊本県のある一角について書いたらそうなっただろう。

 だが、何も反応がなかったのは、新潟県民が私の意見に賛同したわけではなく、新潟県民が私のブログを誰一人読んでいないからだろう。

 これはこれで自己イメージと他者イメージの違いである。

 自分で書いていて衝撃を受けたが。健康に悪いのでこの話題はこのへんでやめておこう。

初の新潟は学会出張5-忠犬タマ公-(河童日本紀行571)

忠河Well肉桂

 私にとって新潟は本当にモニュメントの少ない街だったが、新潟に着いて真っ先に出迎えてくれた銅像があった。
 人ではない。

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 犬である。

 「忠犬タマ公」という。
 体幹に突出した乳房で分かるとおり、雌の犬である。

 忠犬といえば「ハチ公」が有名であるが、「タマ公」は初見であった。

 何でも猟師である飼い主が雪崩に巻き込まれて埋もれ、命が危ない時に、両脚の爪から血を流しながら掘り返して助けたという。しかも、二度。

 「ハチ」は実は飼い主の買ってくる焼き鳥が目当てだったのではないかなどという無粋な説もあるが、「タマ」は飼い主が実際に助けられたと証言しているのだから、議論の余地がない。
 雪崩に巻き込まれた場合の死因としては1.外傷、2.窒息、3.低体温があるが、タマの場合は頭の部分の雪を掘り返して露出させることで2.を防いだわけである。

 また、これは私見であるが、「いざ」という時に人間の生存率を低下させるものとして、精神的打撃、不安、孤独、絶望などのストレッサーがあると思う。
 タマが掘り返した雪が本当は大した量でなくとも、飼い主にとってはストレス反応を回避するために重要な役割を果たしたことは想像に難くない。

 何でこんなことを考えるかというと、今年の初めの持病の心房細動のアブレーションでの経験によるのだ(「の」がいくつあるか数えましょう)。これは肺静脈から来て心房を勝手に動かしてしまう電気信号を心筋を焼灼することにより遮断する手技である。

 これはもちろん雪崩などよりずっとマイルドな出来事である。

 しかし、施術中ヘリカルCTで撮った画像に沿って処置が行われるため、受ける方は画像と実際の軌跡がズレないように身じろぎ一つできない。というところが、強制的に身じろぎできないという、雪崩に巻き込まれた人にちょっとだけ似ているのだ。

 心筋梗塞や大動脈解離などに遭われた方の経験などとは比べものにならないことも想像できる。

 それでも、経験しないとピンとこないかもしれないが、意識がはっきりしているのに3時間じっと天井を向いて指一本動かしてはいけないというのは相当の苦行である。
 私は何度か「ああ、もうワーッと身体を動かしちまおう。アブレーションが中途半端になっても仕方ないや。」と思った。もしそうしていたら、施術そのものが失敗したか、画像の撮り直しで苦痛がもっと長引いていたに違いない。

 そんなとき、「ああ、後少しだけ我慢しよう。」と思い直させてくれたのは、「あと少しですよ。頑張ってください!」とNs.が枕もとで掛けてくれる声だったのだ。

 だから私は飼い主が犬に救われたと証言した気持ちはよく分かる。そばで励ましてくれる存在は生命の危機を感じている者にはなによりの助けなのだ。

 忠犬タマ公の像は新潟に4つ、タマのエピソードに感動した軍人の故郷である横須賀市に1つあるらしい。
 私の目撃した新幹線口のタマは設置が新しいせいか、ハチのように人々の待ち合わせ場所にはなっていないようだった。

 ところで、我が熊本にも「忠犬」がいる。
 「虎」という。「忠犬」ではなく「義犬」と呼ばれている。(ちょっと司馬遼太郎調で)

 トラは明治初期の反乱の一つである「神風連」で決起した兄弟の飼い犬だったのだが,敗死した2人の墓の前で飯も食わずに佇んだまま餓死したという。

 どうもこちらはタマと違ってイデオロギッシュな感じがして好きになれない話である。

 ちなみに全国の「忠犬」について知りたければ、青柳健二「全国の犬像をめぐる   忠犬物語45話」青弓社という本があるからこちらをどうぞ。って、興味ないか。
 

初の新潟は学会出張4-新潟県民の夢の懸け橋-(河童日本紀行570)

橋ありて

 新潟駅界隈には古いものが残っていない、と書いたが、実は超大物が残っている。

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 それは万代橋である。 

 全体に新しい感じのする新潟の街の中で、古い印象を持った建造物だ。

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 なかなかの風格である。

 万代橋は信濃川に架けられた初めての橋だという。

 信濃川は長野県に源流を発し、新潟市で日本海に注ぐ。長野県では千曲川と呼ばれている。短小な川の多い日本には珍しい水量豊かな大河である。地理の教科書をまだかすかに覚えている人は「日本一長い川」という知識があるだろう。

 信濃川を隔てた新潟と沼垂(ぬったり)には明治時代まで橋がなく、渡船で1時間かけて渡っていた。
 これには川幅という物理的な距離だけでなく、両地の人々の間の心理的な距離も関係していたらしい。

 もともと「隣同士」というのは一つ間違えれば中が拗れる、というのは日本と韓国の間を見ても分かることである。

 両地の仲が「犬猿」とまで称されるようになったのは、たびたびの水害に悩まされていた沼垂が1680年(延宝8)に治水のための堀を作ろうとしたのが発端らしい。「新潟」と「沼垂」、どちらも湿地であることを示す地名である。
 堀の完成による流路変更の悪影響を心配した新潟側がお上に訴え、沼垂にとっては死活問題の堀の掘削が差し止められてしまう。その後数回の訴訟が行われたものの、すべて沼垂側が敗訴。湿地ではどんな治水をするかでどこが発展するかが大きく変わってくる。沼垂側の恨みは深い。
 両者の争いには新潟の属する長岡藩が譜代大名であり、沼垂の属する新発田藩が外様大名であることも関係していたらしい。(新潟「地理・地名・地図」の謎)

 さらに明治に入って1886年(明治19)に万代橋ができてから、北越鉄道(現在の本越本線)の終着駅をどこにするかで揉めに揉め、両地域の対立は頂点に達する。信濃川を越えて新潟を終点にしてほしいという願いを北越鉄道が拒否。沼垂を終点にしたため、新潟住民がこれに激怒。しまいに列車の爆破事件まで起こったというのだから、半端な仲の悪さではない。(同書)

 しかし、明治40年(1907)に沼垂に大火が発生する。このとき、新潟側から消防車が万代橋を渡って対岸に駆けつけ、消火に活躍したことが転機となる。
 以後新潟港の築港・整備にともなって両地域の合併の機運は高まり、遂に大正3年(1914)、新たな新潟市として一つになった。

 今、新潟市民に聞いてみても、こんな両地域の対立を知っている人は殆どいないのではないだろうか。橋がつないだ両者の縁である。

橋を作ろう

 私は以前こんな絵を描いて熊本県の石橋である霊台橋を称えたことがあるが、新潟の万代橋はまさにそんな橋なのである。

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 かつて熊本の天草五橋を提案した森慈秀は「夢の懸け橋(夢想癖のたわごとの橋)」と言われたが、新潟の万代橋は文字の全き意味での「夢の懸け橋」だったわけだ。

 もっとも、現在の橋は昭和2年(1927)年建造の三代目だそうで、両町の懸け橋となった一代目は火事で焼け落ちている。
 信濃川の川幅は大正11年(1922)の大河津分水掘削完成までは770mもあり、初代の橋長は782mと現在の2.5倍以上あったそうだから、「非業の死を遂げた偉大な創業者」という感じである。
 一度その雄姿を見たかったものだ。

初の新潟は学会出張3-頑固親父のいない街?-(河童日本紀行569)

頑固親父

 翌日は早朝からホテルの周辺を散歩した。学会出張したときのいつもの習慣である。ホテルは新潟駅の近所にあるから新潟駅界隈の散歩ということになる。

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 その日はワークショップなのだが、移動の起点が新潟駅になるので、その下見も兼ねている。会場は北口あるこのバスターミナル出発かと思っていたら、

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長い長い廊下を渡って駅の反対側の南口である。
 下見に来てよかった。おかげで出発直前になって戸惑わなくてよかった。この情報は同行者と共有しなければ(単なる気まぐれのくせに偉そうに)。

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 駅の反対側も開発が進み、随分繁盛している。
 北口と同じく長い飲食店街が続く。
 私は北口から南口に出て、さらに東に進み、最短距離でまた北に進んで北口に出るつもりだった。

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 しかし、行けども行けども線路を横切って北に抜ける通路がない。

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 1km以上歩いたと思う。やっと踏切が。線路の北側に渡れた。足は棒である。この情報も同行者と共有である(たまたまのくせに偉そうに)。

 ここまで歩いてきて私は、新潟駅と九州の熊本駅や博多駅の大きな違いに気付いた。
 北口も南口も、古いものが全く残っていないのである。

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 たとえば熊本駅などだと、再開発がされていても、あちこちに古い家並みや石碑や小さな祠など、街のかつての面影を残したものが残されている。というより、私たちはいまだに古いものに埋もれて生きていると言ってよい。

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 ところが新潟駅の場合、少なくとも私が歩いた範囲ではそうしたものが一切ない。モニュメントも新しい。私は新潟駅の周囲をぐるっと3kmくらい歩いているにもかかわらず。

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 もちろんレトロな雰囲気の店や横丁はある。だが、それはおそらく1990年代よりは遡らないようである。

 これがとても不思議だった。
 私は未知の土地に行ったとき、石碑などの古いモニュメントを見つけてその土地の歴史を知ることにしている。特に学会出張のときには観光に行くわけではないから詳しい下調べなどはせず、事前情報なしにこれらに書いてある文章でその土地柄を知ることがほとんどである。

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 たとえば倉敷に出張に行ったとき私は発表の準備が忙しく、この土地について皆無というくらい情報を持っていなかったのだが、

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そこに残る数々のモニュメントによってこの古い街の歴史を知ることが出来た。

 新潟駅ではこれができなかったので、戻ってきた今でも私はこの土地に関する情報をほとんど持っていない。「駅の反対側に行くのが大変だった」「駅の両側とも繁盛していた」くらいである。

 だいたい古いものを壊して新しくするとき、九州では「これだけは残してくれ」という人がいるものである。人によって思い入れのあるものが違うから、「これだけ」の「これ」も違うことになる。したがって、再開発で街が装いを新たにしても、九州の街では古いものがあちこちに残ることになる。九州には「頑固親父」が多いのかもしれない(あくまで私のことです)。

 新潟駅界隈ではそうした人はいなかったのだろうか。
 ものの見事に丸ごと新しい街になっている風景を見ると、保守的で頑固な九州人(あくまで私のことです)からすると不思議な感覚に襲われる。

 これが県民気質の違いなのか、それとも単なる偶然なのか、研究の余地のある現象であった。

初の新潟は学会出張2-新潟エレジー-(河童日本紀行568)

新潟エレジー

 話が前後したが私は新潟に行くのは初めてである。
  美味しい米、美味しい酒、美味しい肴が揃っている、ということと、雪が深い地域である、ということは知っていたが、具体的に行ってみようと思ったことはなかった。
  おそらく今回の学会がなかったら一生縁のない土地だったろう。
  だから、学会で発表することになって、いざ行こうという段になっても、その方法は皆目分からなかった
  まず、熊本-新潟 ツアーで検索してみても、何もヒットしない。つまり、その種類のパック旅行は存在しないのだ。
  熊本-新潟 飛行機で検索してもご同様で、これまたヒットしない。つまり、熊本-新潟の直行便の飛行機は存在しないということだ。
 いろいろ調べてみると、福岡-新潟、大阪-新潟、名古屋-新潟、東京-新潟便はそれぞれ存在する。
 ただ、そこまで行く手段が結構難しい。パックがないのでどれもなかなかの割高である。
 結局職場の同僚に探してもらって一番しんどくないルートに決定した。
 それは熊本-福岡新幹線、福岡-新潟航空機である。
 ただ、これだと学会初日の朝に熊本発で新潟に着くのは不可能だし、学会最終日の夕方まで参加すれば熊本に着くのは深夜である。しかも私の場合そこからさらに三角に帰らなければならない。
 職場にお金をだしてもらって出張するのだから学会には少しでもたくさん参加したいし、費用はできるだけ少なく済ませたい(大建)。私は「昭和の男」だから、そうしないと気が済まないのだ(大見得)。

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 夕暮れの福岡を出発して、

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 夜の新潟に着く。
 あれも食べて、これも飲んで、などと考えていたが、明日は一日ワークショップである。

出張中の発作

 何せ去年はワークショップの翌日に心房細動の発作を起こしているのである。

 同行の同僚には「大人しく寝ます」と宣言して、一旦部屋に帰ってからコンビニに出かけ、食事を買ってきて部屋で食べる。

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 夜の巷が私を呼んでいる。

 この誘惑を断ち切るのは昔はとても大変だった。
 だが、最近の最大の欲求は「ゆっくり寝たい」なのである。何せ夫婦で旅行に行ってもまず宿で昼寝するくらいだ。
 もはや私に「人類繁栄への情熱」も、「大友旅人との友情」もない(嘘)。

 それよりも、福岡空港で飛行機を待っている間に、夕食としてカレーを食ってしまったのだ。しかも、わざわざカツカレーを。すっかり血糖値の上がってしまった私は、身体にちっとも栄養を入れたくなくなってしまっていた。 
 せめて饂飩かただのカレーにしておけばよかったのに。

 相変わらず目先の欲望に負けては後悔している。

 こうして人生初の新潟学会出張は侘しく始まったのである。

初の新潟は学会出張1-「く」の字に曲がった友人-(河童日本紀行567)

笑えない苦行

  久しぶりに学会で発表する日、私は発表時間を待ちながら、自分がすっかり時代に取り残されているのを悟った。
  発表の内容ではない。こちらは今の流行り、じゃなかった、最新の情報に対する分析である。
  そうではなくて、形式面の話だ。私がしようとしている発表はポスター形式。学術的な内容を大きなポスターにして掲示し、皆に見てもらいながら説明するのである。
  このポスターは相当の大きさである。何せ横900mm、縦1500mm。こんな大きさの紙は通常販売していないし、この大きさの用紙を印刷できるコピー機も通常のオフィス機には存在しない。
  だから、私が学会で発表を始めた頃には、この形式で発表しようとする人は、内容をA3用紙12枚くらいに印刷し、それを切り貼りしてポスターにしていた。
  しかし、月日は流れ、皆が贅沢になって、こんなことをする人はすっかり少数派になってしまった。私の生業であるリハビリテーションの教育の主体が大学にシフトするのに伴って、そこには高性能のコピー機が入り、これくらいの印刷は楽々できる環境にいる発表者が増え、ポスターも一枚ものの印刷にする人がほとんどになった。これだと切り貼りの必要がないから丈夫だし、だいいち綺麗で見やすい。
  それでも数年前までは私は少数ながら「同志」を見つけることができた。自分のポスターが一枚印刷の物に比べて貧相なのは分かっていたが、それでも仲間がいるうちは恥ずかしくなかった。「中身で勝負じゃい!」と思うことができた。私の好きな孔子の言葉を借りれば、「徳は孤ならず、必ず隣有り」である。
  だが、今年ポスター会場に自分のものを貼りに来てはじめて、私は何百もあるポスターの中で切り貼りのポスターが私の物だけであることを知った。
  しかも私は切り貼りなどの細かい作業が苦手であるから、ポスターはシワシワゴワゴワで、持ってくるときに巻き癖がついて、決して「綺麗」とは言えないものだった。
  特に私の隣の人のものは出来が良く、ツヤツヤした絹のような紙(もしかすると本当に絹かもしれない)に綺麗なデザインで鮮やかに印刷してあった。皺一つなかった。
  私とてそうしたいのは山々である。しかし、業者に問い合わせたところ、個人で頼むと1枚10,000円近くかかるというので、泣く泣く断念したのだ。
  私のブースに友人のA君がやって来た。彼も私と同じ言語聴覚士で、やはり発表に来ているのだ。
  お互いの発表の内容について話している時、私は自分のポスターを改めて見て、思わず感想を漏らした。
  「何かこのポスター、ゴミ箱に捨てられてたのを拾ってきたみたいだな。」
  これがA君のツボに嵌ったらしい。A君は突然身体を「く」の字に曲げ、上腹部を押さえ、顔を真っ赤にして苦悶の表情になった。まるで胃潰瘍に穿孔でも起こったようである。
  隣の部屋では偉い先生の講演が行われている。A君が咄嗟に笑いを堪えなかったら、私達は二人とも今後この学会に出入り禁止になっていたに違いない。何せA君と私の馬鹿笑いは教え子達に「500m先でも聞こえる」と言われているのだ。
  A君が苦しい息の下から言った。
  「Sさん、このポスター、たーだ丸めて、熊本から手に持ってきたろ?」
  今度はこれが私のツボに入ってしまった。私もまた疝痛発作でも起こったかのように、身体を「く」の字に曲げて笑いをこらえることになったのだった。
  もちろん流石の私もそんなことはしない(10年くらい前はやっていたが)。発表用のポスターを運ぶためのバットケースのような容器が販売されているから、発表者はみんな自分のものはそれに入れてくるのだ。もっとも私のは他の人のと違い、「代走(仮名)」で300円で買った安物だが。
  ところが、意外なことに、というか、あるいはポスターのみすぼらしさが逆に目を惹いたのか、この発表にはいつになく声をかけてくださる人や質問をしてくれる人が多かったのだ。
  やはり発表は外見ではなく中身である。
  と、これでこの話が終わればなかなか締まった話なのだが、これには後日談がある。
 
  翌日はA君のポスター発表である。なかなか面白い発表だったので、私も近くに行って質問をした。
  すると、またもやA君の身体が「く」の字に曲がったのである。昨日と同じく顔は真っ赤である。昨日以上に可笑しかったらしく、腹筋を痙攣させて身体を震わせている。
  私がした質問は至極真面目なものである。失礼な奴だ。
  A君は私の腕を掴むと階段の登り口のちょっとした人影になっているところに引っ張り込んだ。
  「Sさん、チャック!」
  あ、世界への窓が全開になり、下半身がグローバル化している。学会でこのテのトラブルが起こるのは3回目である。やはり学問のグローバル性がそうしたことを誘発してしまうのか。もちろん私が阿呆なだけだが。
  随分得るところの多い学会だったが、後5年もしたら覚えているのは大笑いを堪えていたことだけかもしれない(職場の皆さん冗談ですよー!私の机を片付けたりしないでくださいねー)。

給食の豚肉はなぜ臭かったのか?(Good Old Days57)

ドラム缶スープの想い出

  以前一度書いたが、私が子供の頃の給食の豚肉はなんとも言えず不味かった。

  同級生である妻に聞いても、息を止めて噛まずに飲み込んでいたという。私と同じ処理の仕方である。

  なぜ豚肉がそこまで不味かったかというと、臭かったからだ。特に脂身が臭かった。ほんの一切れ料理に入っているだけでも、その料理そのものが嫌いになるほどの臭気を放っていた。

  私は一度この話をした時に、これはおそらく当時の子供達が獣肉に慣れていなかったことと、豚の餌の残飯が添加物塗れだったからではないかと推測していた。

  ところが最近TVで終戦後の日本の風景を見て、豚肉が臭かった原因について急に思い当たる節があったので、もしかしたらと思い、問題提起することにした(大袈裟)。

  原因はドラム缶ではないのか。
 最近はドラム缶と言っても見たこともない人すらいるかもしれないが、私が子供の頃くらいまでは近所の何処にでも転がっていた。そして、ゴミを焼いたり、木の葉を溜めたり、いろいろな用途に使われていた。
 私たちよりもう少し古い世代だが、これにお湯を溜めて風呂にして入った人すらいたくらいだ。

  あまりに多くの使用法があったためにドラム缶の本来の用途を忘れてしまいそうだが、これは主に油を入れておく容器なのである。
 油といっても食用の油ではない。食用の油はもうふた周りほど小さい角形の専用の缶がある。これまた本来の用途が終わるとドラム缶同様ゴミを燃やすのに良く使われていたが。流石にその大きさから風呂に使った人はいなかったようだ。

  閑話休題(ほんだいをわすれそうだ)。

  ドラム缶に入っていた油は、重油、軽油、ガソリン、機械油などである。

  豚にやる残飯はこのドラム缶に入っていたのではないか。

  もちろん豚の餌といえども食べ物であるからそうした用途で使う時には綺麗に洗っていたとは思うのだが、油というものは現在の高性能の界面活性剤を使用したとしてもどうしても匂いが残ってしまうものだ。まして当時はまだそんなものはなく、洗うにしても石鹸である。
  あるいはドラム缶はあんまりだからと角缶を使っていたとしても、やはり古い油の匂いは残っていたはずだ。
 
と、ここまで書いて来て、自分でも眉唾になって来たのでネットで調べてみると、雄の豚肉を不適切に処理すると豚本来の生理によって脂肪に悪臭が蓄積するそうだ。「豚の雄臭」というのだとか。

  ただ、当時小学生だった人に聞いてみると、決まって「機械油のような臭いだった」と口を揃える。やはり「雄臭」だけでは説明できない部分がありそうだ。

  そこでさらに調べてみると、私たちより一回りくらい上の世代では残飯をドラム缶に入れて運搬したり豚の餌にするのに煮込んだりしたという証言が出てきた。

 それどころか、終戦直後の都市の住民の中には進駐軍の残飯をごった煮にしたスープが栄養源だった人すらいたというのである。
 やはりある一時期までドラム缶は大量の食事を作るのに欠かせない調理器具だったようである。

  豚肉の悪臭は少なくとも私たちより前の世代ではドラム缶に残存した油臭が残飯に移り、さらにそれを食べた豚の脂に蓄積したことが一因だった、と言ってよいようだ。

  ただ、私たちより下の世代では日本の食品衛生は急速に改善されていったから、私たちの場合はドラム缶が原因かどうかは微妙である。あるいは「雄臭」と獣肉の食べ慣れなさが上の世代の記憶とミックスされて話が大袈裟になっているだけなのかもしれない。

  それでも、臭い臭いと言いながら、食べられない、というほど過敏な子供はほとんどいず、さっさと胃の中に片付けて貴重な昼休みを1分でも多く遊ぶべく校庭に駆け出していく子が大多数だったのだから、強いガキどもだ。

 ここまで書いてまた急に思い出したのだが、「包丁人味平」という漫画にドラム缶でスープを煮たラーメンの話が出てくる。このラーメンについては別の理由で不衛生だという話をしたことがあるが、これもまた十分不衛生な話だ。それにしてもバッチイ漫画である。

「包丁人味平」の食べたくないレシピ5つ(Good Old Days55)


 ただ、バッチイと言われている物はなぜか意外に美味い物が多い。人は案外そういう食べ物に対する憧れがあるのかもしれない。
 たとえばちゃんと屋根のある家に住み衛生的な調理器具が完備しているにもかかわらず、人はわざわざ家の外に出て粉塵が舞っている中でバーベキューなる非効率な料理を食べたりする。

 これは人間が猿だったときの遠い記憶の欠片なのかもしれない。

 

夫婦して涙した日(それでも生きてゆく私452)

河童夫婦の涙

 大陸で育ち、中華料理が大好きな母に八宝菜を届けたとある日曜日。
 急に阿蘇に行こうかという話になった。とにかく暑い日で、少しでも高度の高いところに行きたかったのかもしれない。
 自分たちの昼食はまだであるから、 途中で何か食べようという話になった。
 ところが、旧道ばかり通ったからなのか、どうも「COLLEDA!」という店がない。
 ご存知の通り熊本と阿蘇をつないでいた国道57号線は熊本地震によって不通になっている。私たちの記憶ではここから迂回路であるミルクロードに入っても飲食店はない。こいつは困った。

 「この先6km通行止め」という看板がある。
 ということは、後6kmは通行止めではないということだ。確かこの先にラーメン屋かなにかがあったような。それと、この先は地震以来一度も行っていない。今はどこまで復旧しているものか、見てみたい。
 私たちはちょっとした好奇心から、先が通行止めだと既に知っている道を行ってみることにした。

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 目当てのラーメン屋は残念ながらやっていなかったが、営業中のバイキング料理の店を発見した。

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 880円で饂飩、ラーメン、スパゲッティの3種類の麺、チャーハン、白飯の2種類のご飯、トロロ芋、ひじきの煮つけ、卵焼きなどの和食、ナムル(韓食)、麻婆豆腐、煮卵、焼売、鶏天、鶏唐揚、卵スープなどの中華、ピザトースト(洋食)など、盛りだくさんである。

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 最近歳のせいか夏バテのせいかめっきり食べられなくなっている私たち夫婦だが、完食。さらに、バイキングでの得意技である「唐揚げカレー」(そのうち店の人に怒られそうな気がする)作り、仕上げに平らげる。

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 この店はデザートも豊富なのだが、特にうれしかったのはソフトクリームが自分で装えることだ。
 2人ともこの機械に全く気付かなかったのだが、手慣れている感じのオッチャンがメロンソーダの入ったコップにぐりぐり装って手製の「クリームソーダ」を作ったのを見て気付いた。こいつはいい。
 私も真似をしようとドリンクコーナーに行ったのだが、メロンソーダのほかにコーラもある。まるで「上からソフトをかけなっせ」と言っているようなものだ。これで手製の「コーラフロート」の出来上がりである。
 美味かった。

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 私たちの腹も店の外の炎天下で頑張っているこの狸たちのもののようになったところで、この道をもう少し行ってみることにする。

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 片側1車線の道がもう少し行けそうである。

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 途中信号待ちしていると、

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 無残に崩れ落ちた山肌が見える。

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 立野駅まで行きたかったのだが通行止めである。

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 車で行けるのはここまでのようだ。

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 歩いていくと、大崩落した立野の谷が見える。

 復旧作業が続いているが、崩落した部分のあまりの広大さに、ほんの一部がほんの少し復旧したような錯覚に襲われる。

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 その風景を見ていると、何だか涙が出てくる。

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 車の中にいたはずの妻がいつの間にかすぐ後ろに来ていた。
 そして、「何だか涙が出てくるね。」と言った。鼻声である。
 「本当だね」と私も鼻声で答える。

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 人間の営みを嘲笑うかのような雄大すぎる自然。
 もう私たち夫婦が生きている間にこの立野の坂を通って阿蘇に行くことはないかもしれない。
 子供の時からもう100回以上通った坂なのに。

移動する運転手

 立野のスイッチバックで後戻りする列車にもどかしさを感じた少年の日も、運転手さんがハンドルを持って運転席を移動するのに驚いた中年の日も、もう戻ってくることはないのだ。
 失ったものはあまりに大きい。

 それでも、崩落した崖の文字通り崖っぷちで懸命に復旧を続ける人々。店を営業する人々。
 この無限とも思える広大な崩土の中から息子を探し出した家族たちのことも急に思い浮かんだ。

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 私たちは車をUターンさせると、ミルクロードを通って阿蘇に向かった。

 父祖の地である阿蘇には一族の墓もあるのだ。墓は先日やっと復旧した。地元の方の厚意で思ったよりずっと早く安く元に戻すことが出来た。

 6輪のあまり見慣れないトラックが妙に頼もしかった。

 頑張れ、人間。

カメラ河童のジャンク道遥か55-世界最小のDマウントレンズ-(それでも生きてゆく私241)

ミニチュアは日本人の性

 私の愛用のカメラは「ペンテコステ(仮名)」というブランドの「オバQ」という機種である。

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 デビュー時は有名俳優をCMに起用したりしてなかなか華々しかったが、もう3年ほど新型が出ていない。おそらくこのままフェードアウトして行くのだろう。

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 私が一番たくさん持っているDマウントというシネレンズ(8mmカメラのレンズ)は、このカメラが発売されるまではどの機種に装着しても「ケラレ(画面の四隅が黒く欠けること)」が発生するため、役立たずとして二束三文で売り買いされていた。

 だから「オバQ」は「Dマウントの救世主」とさえ呼ばれたのである。現在では別の会社からDマウント専用カメラが発売され、しかもこれがかつての8mmカメラと似たデザインであるため、そこまでの有難味はない。

 新型が出ない、ということは、中古しかない、ということである。中古しかない、ということは、だんだん古くなっていき、故障をし、いずれは部品もなくなって修理不能になって消えていくということである。特に最近の機械製品はエレクトロニクスを使用しているために以前のものより寿命が短い。

 私は現在2台の「オバQ」を所有している。
 これは予備のためではなく、最初に買った個体がレンズの改造をしているときにセンサーに接着剤が掛かってしまって入れても入れても電源がすぐ切れるようになったからだ。電源が入らなくなる、というのは私の経験では回復不能な故障であることがほとんどである。
 仕方なく私は通販でもう一台「オバQ」を買った。
 ところが、接着剤が完全に乾いてしまったら、もう駄目だ、と思われた最初の奴の電源が入るようになった。しかも、私の素人目には写真の写りもまともである。

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 そこで私はもともとの1台を「鳥撮り」専用にした。つまり、「オバQ」に付けると超望遠になるロシアレンズ「木星11号(仮名)」を付けっぱなしにし、バッグの中に入れ、もう一台は常使いとして手に持ったり(歩いているとき)首に掛けたり(自転車のとき)しているのだ。「オバQ」は超小型軽量なのでこういうことをしても「あー重いっ!」という感じにはならないのだ。

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 これだとよほど遠くならない限りいきなり出くわした鳥たちも「何であるか」くらいは分かる解像度で撮れるし、

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 近ければこの燕の雛のようにドアップの可愛い写真が撮れる。

 ただ、カメラを2台持ち、かつ1台には軽量とはいえ超望遠を嵌めているのだから、やはり携帯するそれ以外の部品に気を遣わなければならない。

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 たとえばこの「秘密倶楽部28mmF1.9」などはオールドレンズの本などにも登場する銘玉だが、これ1個バッグに入っているだけで相当の重さが肩に食い込むようになる。

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 もっとも、ロシアシネレンズの「流星」などはバッグにすら入らないが。

 必然的に私の携行するレンズはどんどん小型軽量化していった。

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 「ブルムベアー君」こと「歩こう13mm(仮名)」などはお誂え向きである。

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 ただしこのレンズはちょっと明るい場所だと「ぐるぐるボケ」を出さないのにちょっとしたテクニックが必要である。このときはF8とかなり絞っていたのに回転してしまった。「基本的にどんな場面でも回転する」と思っていた方がいいのかもしれない。

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 「頭脳君13mm(仮名)なども小ささと軽さから携行する頻度の高いレンズである。

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 これは小さいのに、絞りを開け気味にして明るいところで撮っても、めったにぐるぐるボケの出ないレンズなのだが、残念ながらどうかした拍子にレンズ内に混入したゴミが映ってしまって写真が台無しになることがある。したがって「歩こう」ほどには持ち歩いていない。

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 同じDマウントでも「椰子呑38mm(仮名)」などは「ちょっと重いよなー」と携行頻度が下がってきた。

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これは映りは抜群にいいレンズだと思えるのだが、やはり1個バッグに入っているだけでズシリと重さが肩に食い込む。

 そんなとき、「協賛(仮名)」の古い8mmカメラが「家畜人オークション(仮名)」に出品された。
 ターレット(ピストルのリボルバーのようにレンズを交換する機構)には小さなレンズが1個しか付いていない。拡大してもどこの何なのかよく分からないが、私には予感があった。これは「日光る13mm(仮名)」に違いない。値段は普通の勤め人の昼食1回分。私はカメラ本体には興味がないから、レンズ1個に払うには高い。しかも、レンズがどんな状態なのか、写真からはよく分からない。

 私はだいぶ迷った末に(三日後くらいに)入札した。
 もしこれが「日光る」ならばそんな値段で落札するはずがない。「日光る」は米国の「メリケンサック(仮名)」と世界最小Dマウントレンズの座を争う人気のレンズなのだ。

 ところが、やはりレンズの状態がさっぱり見えない、というのは多くのマニアに大きなリスクを感じさせたのに違いない。入札者は私だけで、そのまま値段が上がることもなく落札してしまったのだ。

 レンズが来るまでに、私はそもそもそれが「日光る」なのか、まともに映る状態なのか、悶々としていた。
 本体に付いたそれが来てみると、やはりそれは「日光る」だった。本物である。小さい。
 前玉と後玉をレンズクリーナーを染ませた綿棒で拭き、専用紙で拭くと、随分汚れているらしく、綿棒も紙も真っ黒になった。

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 「オバQ」に装着。
 前の部分は極小だが実は金属製フードだから、やはり世界最小と言っていい。もっとも、わたしは「メリケンサック」を見たことがないし、私に買える値段ではないから、これは私の主観に過ぎないが。
 ヘリコイド(ピント合わせ機構)がすスカスカである。これはあまり期待しない方がいいかもしれない。

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 絞り開放近接撮影は「歩こう」以上の回転である。

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 だがある程度絞ると回転は収まってくるし、何より発色がこんな小さな古いレンズとは思えない。

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 焦点距離が短いので収穫した野菜も撮りやすい。

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 ヘリコイドがスカスカなのも片手で操作ができるとプラスに考えることにした。この写真などほかのレンズだったらピントが咄嗟に会わなかったに違いない。

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 ということで、また楽しいレンズを手に入れた私であった。

 やはりレンズでも小さい方に行ってしまうのは、ミニチュアを愛する日本人の性なのだろうか。と書いてすぐ、この連載は当初「カメラ河童の望遠道遥か」だったのを思い出してしまったが。

カメラ河童のジャンク道遥か54-飛んで火に入るキヤノンのレンズ-(それでも生きてゆく私240)

PENTAXQ+CANON C-8

 久しぶりに会心のオークションだった。

 入手したのは現在集めているシネレンズ(ムービーカメラカメラのレンズ)である。

 以前から欲しかったのだが、なかなか条件が揃わなかった。
 何せ私が要求する条件は、「レンズ1個が普通の勤め人の昼食1回分前後(つまり1000円前後)」というものだからだ。

 そしてもう一つ、私にこのレンズの入手を困難にさせている条件があった。それは、これが今を時めく「加農(仮名)」のレンズであるということだ。

 「加農」は現在世界的に見ても最も大きいカメラ会社なのだが、ここのカメラやレンズは、私のようなジャンク道を歩むものには一つ困った特徴を持っている。それは「分解や修理が難しく、かつ他社との互換性がほとんどない」ということだ。これは私が今までにさんざん改造してきた「藤(仮名)」のものと対照的である。

 私はカメラに凝ってから2年間の間に2回「加農」のレンズに挑戦してきたが、いずれも惨敗している。

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 1回目はレンズ固定式カメラのレンズだけを取り出そうとしたのだが、カメラを分解(破壊)しているうちに絞りもシャッターもピント(ヘリコイド)も分解されてしまい、どう頑張っても私の愛機であるデジタル1眼の「ペンテコステオバQ」に装着できない、バラバラの部品群が出現してしまったのだ。

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 2回目は「加農」では最も一般的なEFマウントのレンズをやはり「オバQ」に装着しようとEF→Qマウントアダプターを買ったのだが、なにせ300mm超望遠が絞りが効かずに全開放となってしまい、「鳥撮り」にも「月撮り」にも使えないのだった。
 この2回の経験に懲りた我が家では「加農に手を出すな」が家訓として伝えられているのである(嘘)。 
 実はシネレンズに関しても「加農」は「訳あり」であって、そのレンズはごく安値で取引されている。というのは、通常8mmムービーのレンズはDマウントという規格が圧倒的に多いのだが、「加農」のシネレンズはバヨネットマウントなのだ。
 「バヨネットマウント」などというとカメラに詳しくない人はそれだけでこの文章から離れてしまいそうだが、実は現在の1眼レフやデジタル1眼のレンズマウントは例外なくこの「バヨネット」である。要はこの「バヨネットマウント」は「ワンタッチ着脱可能マウント」と同義であって、それ以前の「ねじ込み式マウント(以下私の好みにより「ねじ式」)」よりずっと楽に着脱できるのである。 

 私の愛するDマウントは「ねじ式」であって、レンズを着脱するのにマウント部のネジをキリキリキリキリ回してはめ込んだり外したりする必要がある。これは特に野生動物に出くわしてレンズの撮影距離を変えたりしなければならない時にはとても面倒な作業なのだ。

 1970年代より前のマウントであるDマウント(8mmカメラのマウント)、Cマウント(16mmカメラや監視カメラのマウント)、Lマウント(古いライカやロシアカメラのマウント)、M42マウント(バヨネット以前の全世界の最も普及したマウント)などはすべて「ねじ式」である。

 ところが、「加農」のシネレンズはすでに1960年代に「ねじ式」を脱し、ワンタッチ着脱のバヨネットなのである。

 「さすが世界の加農」といいたいところだが、これが8mmカメラのターレット(リボルバー式の拳銃のように回転してレンズの焦点距離を変える装置)に付いている意味がわからない。撮影レンズを替えるのならばターレットを回転させればいいだけだし。ワンタッチで着脱するのがウリだったら本体に1個マウントがついていればいいだけだ。だいいち、「時代はもうすぐズーム」なのだ。レンズがズームになったら焦点距離は自由に変えられるから、ターレットに複数のレンズを付ける必要はない。事実その後の8mmカメラからはターレットは追放され、固定式のズームレンズが構造的に組み込まれているだけである。

 結局、「互換性をなくし、顧客を囲い込む」という以上の意義を感じないバヨネットマウントなのだが、私は過去2回の惨敗と、別のレンズで得た教訓により、すでにこの会社のレンズを受け入れるための知識と技術を完全に整備していたのだった。

 今までにもこの会社のシネレンズ「加農レンズC8(仮名、以下「加農シネ」)」は「おっ、安い」という値段と、「カッコええなー!」という外見でたびたび「カリガリ博士(仮名)」や「家畜人オークション(仮名)」に登場していた。

 入札のボタンを押したくなるたびに私が何度も反芻した教訓は、「変わったマウントのレンズは本体と一緒に買う」ということだ。

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 この教訓は「トプカピ宮殿50mmUV(仮名)」で得た貴重なものである。 
 私はこれを「ペンテコステ(仮名)」の最も一般的である「Kマウント」に改造したのだが、技術的な制約によりこのレンズは絞り全開放の「日陰者」になってしまったのだった。
 レンズを安く買ったとたん市場に「トプカピ」の本体が複数現れたのも嫌な感じだったが。

 私は「加農シネ」がDマウントでないこと、ということは、D→Qアダプターでは愛機「オバQ」には装着できないこと、ということは改造が必要だということを既に知識として得ていた。 
 では、どんな改造が必要なのか。 
 おそらく、D→QアダプターもしくはC→アダプターに接合したら「オバQ」に装着してピントが合うというものなのだが、どうせならこのマウントのレンズだったら全部装着可能なアダプターを作りたい。
 この場合、調整する必要があるのはアダプターの口径と厚みである。これはレンズ側を調整しても可能なのだが、そうするとレンズ1個にアダプター1個が必要になる。最近某国製のアダプターが牛丼並みの値段から3倍くらいまで高騰しているので、これは厳しい。できればアダプターの方を調整したい。

 そんなことを考えながら、オークションで出品されては落札される「加農シネ」を横目でチラチラ眺めていた。

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 「加農」のレンズ2個付き8mmカメラ、私の主観では8mmカメラ付きレンズは、ある日あっさり手に入った。入札は私だけである。私の自分ルールにしたがって普通の勤め人の昼食1回分である。

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 実際に届いてみると、案の定バヨネットマウントで、雌型の方がターレットにある。 
 ただ、嬉しい誤算だったのは、雌型が2つ付いていたことだ。これで改造に失敗したり撮影中に壊れたり紛失したりしたときの保険が手に入った。

 だが、やはり「訳あり」だ。

 まず、レンズの口径がDマウントより1mmくらい大きく、D→Qアダプターの穴に入らない。かつ、Cマウントアダプターには全然小さい。これを無理にC→Qアダプターに接合しようとすると、光軸がずれたり、グラグラした不安定な写りになるに違いない。

 仕方がない。この場合は、Dマウントの穴を削って拡大するしかない。 

 この場合、もちろん人力である。できるだけ丸くて中心にある穴を、3本100円で「大層(仮名)」から買ってきたヤスリで削っていく。

 1日がかりでやって削れた。

 ターレットから外したマウントの雌型にレンズを装着し、さらにそれを丸ごとアダプターに装着し、手で支えてピントを合わせてみるが、まるで合わない。フランジバック(焦点距離)が全く合っていないのだ。

 今度は雌型の長さが長すぎるのがわかっているから、削る。これはグラインダーのヤスリで削っていくといいのだが、最近私はもっと手早く削れる方法を発見した。それは砥石の荒仕上用のものを使うことだ。これはセンスがないと斜めに削れたり、とかくムラが出るが、早い。といってもこれまた1日がかりである。

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 やっと完成した雌型をレンズにはめ、アダプターに仮止めすると、ピタリと無限遠が出た。今までで最速の改造完成かもしれない。
 あとはきちんと接合させるだけである。

 これは素人の手製レンズを超えているのではないかと自負しているのだがどうだろうか。
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 13mmと、
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 38mmの作例だ。

 手ぐすね引いて待っていたところに現れた「加農シネ」だから喜びも一入である。
 次はいよいよ「瑞鷹(仮名)」か。

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 え、銘玉として名高い「日光る(仮名)」は何時の間に手に入れたんだ、と思った人、待て、次号(って、ちょっと忙しいのでしばらく待って)。

熊本人吉転々旅行13-人吉転々雑感(無理矢理)-(河童日本紀行566)

達磨が怖い

 雑感は転々していないが一応転々旅行記だから無理やりの転々雑感である。

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 「球磨川鉄路(仮名)」を通る「未完成シンフォニー(仮名)」である。一応観光列車なのだが、高校生などの通学の足としても使われている。

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 古い「醫院」のような玄関である。
 さすが九州の小京都。いい風情だ。

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 球磨川の朝焼けである。
 海の朝日だけでなく、川の朝日も素晴らしい。

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 球磨川にはたくさんの橋が架かっているが、古いものはない。やはりこの急流と水量だから、長持ちしなかったのだろう。
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 妻は最初にこのお菓子を見たとき爆笑したという。どうも女性の感性は分からない。

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 人吉には「ジウグリット先生」こと一井正典のほかにもう一人歯科の泰斗がいた。中津留覚介である。

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[碑文]
 中津留覚介先生は明治22年福岡県に生まれ、日本歯科医専卒業後、東京帝大医科において研究を重ね、大正7年10月、人吉九日町に開業さるるや、その温厚にして篤実なる人格と卓越せる学識と技倆とはひとしく万人の信頼するところとなれり。
 昭和12年3月、推されて熊本県歯科医師会副会長たること一度ならず、かたわら田主丸銀行監査役、人吉商工会議所会頭などを歴任、昭和40年4月人吉高等学校中津留育英奨学会を開設、現に人吉東小学校、人吉高等学校校医たるとともに、人吉森林組合長、相良護国神社奉讃会長、中津留林業(株)会長としてなお矍鑠(かくしゃく)たり(現代誤訳:老いてますます盛んである)。
 昭和40年1月赤十字金色有功章、同41年1月紺綬褒章、更に47年11月3日勲五等瑞宝章を授与せらる。これ実に先生の学校医50年の行跡と育英奨学会、ならびに商工業振興のために尽くされたる功績によるなり。我らここに相図り、先生の胸像を建設し、もってその勲徳を後世に伝う。
昭和48年5月 中津留先生叙勲祝賀発起人会

 前々回紹介したジウグリット先生の友人への手紙を思い出してほしい。
1.貧民の歯痛を除きて安寧な生活を過ごさしめ、
2.金銭の余裕を集めて殖産・牧畜の業を起こし、
3.貧生に教育を施して日本を文明国の末端に据えるの念願あり。
-明治21年末、米国より江嶋五藤太宛書簡-

 何せ明治の、かつ「なぐれ武士」の言葉遣いだから「貧民」「貧生」など現代人である我々からすれば随分高飛車に感じる部分もあるかもしれない。
 しかし、この石碑を見ると、中津留が先達の示した方針を自らの人生の中で忠実に実践してきたことが分かる。
 彼が生まれた明治22年は、一井正典が5年間の苦学の末にフィラデルフィア歯科医学校に入学を許された年なのである。
 こうした永く受け継がれた志によって今日の日本があるのだ。

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 こちらはまた歯科の志よりずっと永きにわたる、愚劣の証拠である。

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 海峡を挟んで綿々と続く憎悪を、いつか学問の志が乗り越えていってほしいものだ。

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 英国寺(仮名)の達磨像。私は本堂にある幽霊像よりこの達磨の方がよほど怖い。写真では今一つ伝わらないが、不気味な彫像である。暗闇からいきなり現れたらちびってしまいそうだ。

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 ということで、人吉からさようなら。

熊本人吉転々旅行12-汽笛転々人吉グルメで熊本に乾杯-(河童日本紀行565)

いつか尺鮎を釣りたい

 冒頭の絵と内容が一致していないことをお詫びします(心にもない)。

 旅行は楽しい。そして美味い。
 だが、帰宅した日はどうだろうか。
 家に着いてもまだ楽しいか。おそらく、頭の中は明日の仕事のことで一杯である。何せ、休みを取って旅行に当てるために、随分いろいろな仕事が圧縮して前処理されているはずで、今度は出勤してまた圧縮した後処理が必要なはずである。
 旅行が楽しければ楽しいほど、頭の切り替えが大変だ。私のように切り替えの悪いタイプはもう前日からモヤモヤしている。
 また、帰宅した日は美味しいだろうか。
 私も妻も、正直、帰宅した日の夕食ほど面倒臭い物はない、という意見で(珍しく?)一致している。
 食材は大抵いろいろと買って帰っているのだが、その始末はできれば翌日以降にして、当日は出来合いで済ませたいところだ。

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 こういう時、私たちが行く店がある。

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 駅弁屋である。
 もちろん、道の駅や物産館にも夕食一食分くらいの弁当は普通に売っているから、別にそれでいいのだ。しかし、中身はそれほど違わなくても、やはりこの趣向を凝らしたパッケージは見逃せない。

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 瓢箪型のパッケージ。この弁当を喰った後はもう絶対に使わないことが分かっているのに、ついつい保存してしまうのは、この非日常が胸をわくわくさせるからだ。
 翌日の仕事の段取りを脳裏から追い出してしまうにはこれくらいのインパクトが必要である。

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 瓢箪と何の関係があるのか分からないが、この中身の人吉名物鶏の照り焼きは抜群に美味い。これはわざわざ温め直さない方が旅愁を湧かせていい。我が家のテーブルが「あの」向かい合わせの直立座席に変わる。

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 ゆるキャラで眼を惹いた柏飯も馬鹿にできない。でかい海老とシコシコの蛸が主役の鶏を喰ってしまいそうだ。

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 本来ならばこの店の名物の「鮎の姿寿司」をアテに球磨焼酎で一杯、となるところだが、今回はとある店で今朝獲れたばかりの天然鮎を1尾700円で購入しているから、こいつをまずは是が非でも食べたいところである。

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 この厳しい顔つきを見たら、こいつらが海からえっちらおっちら上ってきて、一部地元漁協の人々の助けを借りつつ球磨川をどんどん上流に上り、地元の漁師に捕えられ、遂に我々の胃袋に収まろうとしているのだということがわかるだろう。
 我が家の台所はこいつらの放つプリンスメロンのような芳香で一杯である。
 早く一杯やりたいものである。

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 焼けたー!

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 我が家の貧しいながらも豊かな食卓を見よ。これでしばらくは「モスモス(仮名)」で買った〇円也のモヤシが夕食の主役である。
 豆腐は地元のスーパーで買ったものだが、こいつだけは外れだった。

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 熊本に乾杯。

熊本人吉転々旅行11-転々としたジウグリット先生のこと-(河童日本紀行564)

ウッターオス先生

 さて、最近石碑や銅像の紹介もしていなかったから、久しぶりに人吉の「英国寺(仮名)」にある石碑について紹介したい。

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 「近代歯科医学の先駆者一井正典先生顕彰碑」である。

[碑文]
 「歯科を志す」一井正典
 米国に今日の文明あり、日本にも文明と称すべきものなきは、実に教育に由来する。日本は貧困によって多くの才能が消されてゆくが、これに教育の光を当てれば、いくつもの花が開き、実を結んで、やがては日本も文明国の仲間入りが出来るであろう。そのため私は、まず以て歯科医学を修め、帰朝の暁には、
1.貧民の歯痛を除きて安寧な生活を過ごさしめ、
2.金銭の余裕を集めて殖産・牧畜の業を起こし、
3.貧生に教育を施して日本を文明国の末端に据えるの念願あり。
-明治21年末、米国より江嶋五藤太宛書簡-


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[福碑]
 近代西洋歯科医学の先駆者
 ジウグリット先生こと一井正典先生
 一井正典先生は江戸時代末期1862年(文久2年)6月8日、一井五郎佐衛門正風(相良藩郡奉行)母寅子の長男として、ここ人吉城下の寺之馬場53番屋敷に生まれ、明治10年、15歳の最年少で人吉1番隊士として西南の役に西郷軍に従軍し官軍に降りる。明治18年「青雲の志」止まず米国へ渡航、サンフランシスコにて歯科医ドクター・ヴァンデンボルグに師事。苦学の後、1891年(明治24年29歳)フィラデルフィア・デンタルカレッジを主席で卒業。卒業後同大学助教授を兼ねながらフィラデルフィアに歯科医院を開業。米国本土で日本人として初めての歯科開業医及び米国歯科医師会会員第1号となる。1892年10月(明治25年30歳)オレゴン州ポートランドの歯科医師会に教授として招聘され現地にて開業。 
 明治27年(1894年)に帰国後、3月東京神田神保町に開業。同時に高山歯科医学院(現東京歯科大学)講師、日本歯科医学会評議員、文部省医術開業試験委員、宮内省侍医局勤務(明治、大正、昭和天皇の侍医)を歴任。当時の臨床及び教員をとおして、日本に歯科補綴学、器械学、医療管理学等を導入・普及した西洋歯科医学の草分けである。(笑気麻酔の実験、金冠製作法、電気応用歯科無痛治療法の研究、陶器充填、ポーセレン術・金冠術の講習普及)
 同時に東京肥後県人会を主宰し、郷土出身者の育成にも努め、郷土の医学会、歯科医療会、農学等にも大きな影響を与え、昭和2年宮内省侍医寮御用係を辞任、従5位を受ける。昭和4年(1929年)6月5日66歳にて他界し駒込染井墓地に葬られる。
平成9年11月吉日 人吉市歯科医師会創立50周年にあたり一井正典先生の業績を顕彰し建立する。

 一井正典は熊本県の近代文化功労者にも選ばれて熊本県教育委員会HPにも略伝が載っているし、また「青雲遥かなり」という小説にもなっているから、詳しく知りたい人はそちらを読んでもらいたい。ここでは、一井の人生について調べて私にとって印象深かったことだけ述べる。

 まず、彼は13歳で両親を亡くしている。「悪性の感冒」という記録が残っているから、おそらくインフルエンザであろう。インフルエンザは現在でも命を落とすことがある疾患だが、世界的な流行の開始された当時は現在と比較にならないほど恐ろしい感染症であった。第一次大戦中(20世紀初頭)のパンデミックは有名で、このときは2000万人の犠牲者が衛生状態の悪い前線の兵士を中心に出て、この大戦を休戦に導いたと言われているくらいである。 
 いくら郡奉行の息子でも、両親が一度に亡くなっては困窮を極めたことは容易に想像できる。

 さらに、わずか15歳の時に勃発した西南戦争で反乱軍に加わっている。
 西南戦争が開始されて反乱軍が熊本へ進撃していくとき、通過した人吉で、彼は西郷に直訴して従軍を請うたらしい。このときは幼少を理由に断られているが、人吉隊の結成と共にそれに加わり、以後は熊本隊などと共に熊本城・田原坂など、熊本各地を転戦することになる。
 人吉隊は反乱軍が熊本から後退して陣を置いた人吉の陥落とともに降伏するのだが、その一部は助命の条件として政府軍に編入され、反乱軍と戦わされたのだとか。一部にはこの命令を拒んで反乱軍と行を共にした人々もいたようで、まさに「昨日の友は今日の仇」である。 

 鹿児島が陥落して西南戦争が終わると、一井は許されて筆耕(事務職)や商売などをしたようだが、どれも長続きしなかったらしい。
 この辺りは、自分の信じていた価値観が多大な犠牲と共に一朝で崩壊してしまった私の父たちの世代の若者と似通った身の上だったのではないだろうか。
 昭和20年(1945)の終戦後、「特攻崩れ」と呼ばれて犯罪や問題行動を繰り返す一群の若者たちがいたらしいが、明治初年のそれらの若者たちは「なぐれ士族」と呼ばれたらしい。一井もまた「なぐれ士族」の一員だったのかもしれない。

 22歳の歳に故郷を捨てて上京し、警視庁や駅逓局に勤める。これがどんな地位の勤務かは判然としないが、おそらくは下っ端の警官や郵便夫だったのだろう。これもまた没落士族のお定まりのルートである。

 転機が訪れたのは23歳のとき、プロテストタントの牧師である美山貫一の伝手により、米国に留学する。これも留学といえば聞こえはいいが、歯科医師の家に農夫として住み込んで働くといういわゆる「苦学」である。
 もっとも、官費で留学するごく僅かのエリート(たとえば夏目漱石)を除けば、一井のように志す学問とはまるで関係のない肉体労働をしながらまず「勤勉である、誠実である、謙虚である」という学問の必要十分条件をパトロンに示す「苦学」は、海外の知識技術を何としても得たいと考える明治の若者にとってはほとんど唯一の道だったのだ。

「高橋是清 紙幣 見本」の画像検索結果

 中には後に名財政家となって50円札の肖像にもなった高橋是清のように、騙されて奴隷に売られてしまった者すらいる。

 さて、住み込んだ歯科医師の家で5年間、田や畑を耕すことはもとより、器械や日用品の修理、牛馬の世話、子供たちの相手まで陰日向なく働いた一井は、明治22年(1889)、遂にフィラデルフィア歯科医大学校に入学を許可される。
 2年後、卒業。なんと首席である。
 ところが、一井には卒業に当たって必要な学納金がほとんどない。「金がないのは頭がないのと同じ」というのが米国である。せっかく首席を取りながら、退学するしかないのか。
 そのとき、同級生たち81人が動いた。1ドルずつ出し合って、一井の学納金に当てたのである。
 たった81ドルで学納金が賄えるのに驚いたり、そのたった81ドルが出せない、ということに驚く人もいるかもしれないが、

貿易銀

 1ドル銀貨がまだ上の写真のように大きな時代である(写真は日本の1ドルに当たる1圓銀貨)。当時は1ドル1円で、先ほど一井が奉職したという警官の初任給が8円くらいなのである。
 いかに一井の人望があったか、ということか、あるいは優れた才能に対する尊敬の念が強い時代だったということか。
 それから先の一井正典の足跡については副碑の碑文のとおりである。
 まさに日本歯科医の先駆者にして歯科医師会の重鎮であった。

 ちなみに「ジウグリット先生」というのは日本歯科大学の学生が一井教授につけたあだ名である。
 このあだ名は一井教授は授業の時よく使用した言葉が由来である。たとえば、「口唇の周囲をジウグリット」という具合である。これが学生たちにはどうにも腑に落ちない。どんな辞書にも載っていない用語なのである。
 ある時、どうしても知りたくなって質問した。「先生、ジウグリットって英語ですか、独逸語ですか。」 
 「馬鹿もん! 君たちは日本語も分からんのか!」

 これはもちろん熊本方言(球磨方言)である。
 「ぐりっと」(ぐるりと)に熊本方言特有の強意の接頭語「じゅ(じゅう)」がついたもので、「ぐるーっと」くらいの意味だろうか。

 この一井先生も、俳優の笠智衆と同じく、「いつでもどこでも熊本人」だったようである。

熊本人吉転々旅行10-焼酎蔵を転々したかったが-(河童日本紀行563)

どうしても飲みたかった

[中断の言い訳]
 エラい目に遭った。
 出張先で「大ハマグリの網焼き」を食べたのだが、これが「何時食べるか」を客に任せていたために、いやしい私はまだ十分火が通らないうちに食べてしまったのだ(何でも人のせいにできて幸せだな)。
 4日にわたる嘔吐・下痢・40度の発熱で休日が台無しになってしまった。
 体温40度が2日も続いたときには腎臓が駄目になってしまうのではないかと不安だった。何せこれだけの高熱なのに汗一つ出ないのだ。

 もう一つ知ったのは、ここまで高熱になるともうあまりキツくないということだ。38度くらいまでは悪寒と関節痛で苦しくて仕方がなかったのだが、39度を超えたあたりから、何かポワーンとして、変にハイである。職場の人と電話で話したときも妙に陽気だったから、詐病だと思っている人もいるかもしれない。

[では人吉旅行記再開]
  遺跡巡りの後は焼酎蔵巡りである。人吉は全国有数の米焼酎の産地なのだ。
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  まずはTVのCMなどで有名な蔵に向かう。私はひねくれ者なのであまり有名になってしまうとそれだけで敬遠してしまうのだが、ここはちょっとしたミュージアム風になっているという噂を聞いて興味を持ち、行ってみる気になったのだ。

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  展示は覚えている限りでは球磨焼酎の歴史、その製法、蔵の歴史と紹介のビデオ、歴代CMのポスターとTVCMのビデオなどで、なかなか充実していた。
  しかし、観光バスで詰めかけている皆様の関心は明らかにそこにはなく、そうした展示のある部屋の人影は疎らなのだった。
  では人々の多くは何処にいたかといえば、ものすごい人熱がしているのは試飲のできる売店である。
  だが私たち夫婦は車である。呑みたい気持ちをグッと抑えて通り過ぎ、って、妻は何のためらいもなくコップを手に取り、キュッと飲み干した。
  これで帰り道の運転手は私に決定である。
 「飲んでいい?」の一言もないんかい、と思ったが、妻にとっては退屈な歴史散策に付き合わせて引っ張り回した後でどのみち私が運転するつもりだったからまあいい。
  それにしてもその美味そうな顔が憎らしい。

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  人吉で買った焼酎は以上、
  ではなくて以上であった。

  ちなみに1枚目の酒の写真の背景に写っているのは現地産のブルーベリーで、とある売り場でえらく安かったので飛びついたのだが、粘土を紫の絵の具で着色して丸めたのではないかという味であった。もっとも私は粘土も絵の具も食べたことがないが。例によって冷蔵庫で熟成させようかと思ったが、あまりに粒揃いで勿体無いので妻にジャムにしてもらってヨーグルトにかけて食べたら存外美味い。結局全部食べてしまえそうである。

熊本人吉転々旅行9-九州を転々とした英雄-(河童日本紀行562)

祖父の足跡

 釣りから帰って妻と朝食を摂ったら人吉市内2日目の観光である。
 1日目はスーパーマーケットと飲み屋という、およそ一般的でない観光であったが、2日目は正統派の場所を尋ねることにする。 


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 やって来ました英国寺(仮名)。正式名称より「幽霊寺」として有名である。

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 それはこの蓮池に出たという幽霊の絵がこの寺に保管されているからである。

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 最近はショーケースの中に収められていて撮影しても光ってよく見えないので、過去に撮ったもう少し光っていない写真を掲げておく。

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 これだけの仏の大軍団にも負けず登場するとはなかなか根性の据わった幽霊である。

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 境内に明治維新の英雄の石碑を見つけた。
 「西郷隆盛先生之遺蹟」とある。この寺は日本最後の内乱である西南戦争の際、反乱軍とされた西郷軍の人吉における本陣が置かれたという。 既に熊本城攻略に失敗し、田原坂の戦いにも敗北して後退戦が始まった時である。
  この後この古今無双の英雄は死地を求めて九州各地を転戦しながら故郷に向かうことになる。

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  この寺には人吉隊の隊士の碑もある。
  人吉隊は西南戦争の際に反乱軍に加わった人吉藩士の部隊である。
  西南戦争は中央対鹿児島、あるいは熊本対鹿児島の激突だと思われがちだが、実際には大量の熊本人が反乱軍に参加している。
  後に同心学舎を設立した熊本隊の佐々友房、植木学校に拠った協同隊の宮崎八郎などは有名である。
  また、政府方も、西郷隆盛の竹馬の友である大久保利通はじめ、反乱方の盟友兄弟により構成されていた。
  ここに内乱である西南戦争の一層の悲劇性がある。
  ちなみに同県人や身内が反乱軍と呼ばれて不愉快に思われる方もおられるかもしれないが、私の曽祖父もまた熊本隊の一員であり、かつ私は当時の「反乱」を必ずしも悪いことだとは思っていないので、この言葉を使うことをお許し願いたい。

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  寺内には西南戦争の錦絵が飾ってある。「見て来たような嘘をつき」なのだが、なかなか迫力がある。

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  西郷さんの書。
  私にはどうしても良さがわからない。

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  寺を出て政府軍の陣跡に行く。もはやこの看板以外にそれを示す何物も残っていない。

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  さらに坂を登って政府軍の砲台跡に行く。
  政府軍の最新鋭の大砲の弾はこの小高い丘から反乱軍に容赦なく振り注いだが、反乱軍の大砲の弾は政府軍の陣営まで届かなかったという。

  砲台跡の銅像の碑文に祖父の名前を見つけた。郷土の詩人だった祖父の作詞集「顧望」に未収録の校歌である。編集の時に入れ忘れたのだろう。この迂闊さは流石私の血族である。
  熊本隊だった曽祖父の降伏した地には人吉説と延岡説があり、関係者の記憶も曖昧で今となっては確かめようがない。
  それにしてもここから飛んで行った砲弾が曽祖父に当たっていたら私は今ここで祖父の詩碑を見ていることはできなかったわけだ。曽祖父が1877年に行われた人吉の戦いで死んでいたら、1900年代生まれである祖母は生まれていず、したがって私も存在しないからだ。

  人が生きているというのは万一の偶然によるのだと改めて思わされた古戦場跡であった。

熊本人吉転々旅行8-釣りは一転-(河童日本紀行561)

注目の的

 翌日は5時半から起きて釣りをした。
 妻が寝て居るのを尻目にホテルの目の前の球磨川に降りていく。

 一応鮎釣りのつもりだが、釣れるわけがないのは分かっている。

 これは鮎の生活史が関係している。

 鮎は川魚であるが、一生を川で過ごすわけではない。
 鮎の産卵は秋、河口付近の砂利の川底で行われる。生まれた稚魚は流れに流されて河口から海まで行き、ここで海洋性のプランクトンを食べて育つ。そして春になると自分の生まれた川に遡っていく。このときは集団である。そしてこのときはプランクトンを食べていた名残で川虫などを食べている。川を遡った鮎は底石に生える苔の豊富な中流域まで昇ると、適当な場所に縄張りを作って一人暮らしを始める。このころには苔しか食べなくなる。そして秋になると「落ち鮎」になって河口に行って産卵し、僅か1年の生涯を終える。落ちているときの食性はよく分かっていないが、どうも色々なものを食べているようだ。
 つまり、人間に喩えれば、幼少期から青年までは「肉食系」で、成年になったら「ベジタリアン」になり、晩年には一転、「何でもあり」というわけである。

 それぞれの時期の鮎を釣るために、日本ではさまざまな釣り方が発達してきた。

 有名なのは友釣りである。
 囮の鮎に鼻鐶を付けて自由に泳ぎ回れるようにし、鮎の縄張りのありそうな場所を泳がせると、縄張りを侵された鮎が攻撃してきて囮に付けられた掛け鉤に捕えられる。

 熊本県、特に球磨川では、鮎釣り愛好家は6月1日の解禁から12月31日の禁漁までほぼこの釣り方に終始する。
 理由は、この時期にはこの釣り方が最も大きな鮎を一番多く釣れるからである。

 コロガシ釣りという釣り方もあり、これは8月1日から解禁になるが、正直これは「漁」であって、主にプロ(職業漁師)の釣り方である。
 この釣り方は要するに掛け鉤のたくさんついた仕掛けを川底に転がしてそこにいる全ての魚を引っかけようというもので、私にはこれを素人がすることの何が面白いのかさっぱり分からない。

 次は餌釣り、と行きたいところだが、通常は鮎が餌釣りで釣れることは稀である。これは日本中でもごく限定された川でのみ行われているようだ。その理由は、「禁止されている」というより、「釣れない」のである。

 そして毛鉤釣り。
 これには瀬釣りとドブ釣りがあるが、有名なのはドブ釣りである。

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 ドブ釣りには鮎毛鉤という、芸術品と見紛うような疑似餌が用いられる。これは極めて繊細精巧に作られ、物凄い種類があり、しかもその一つ一つに「夕映」「闇烏」「二ケ月」「お染」などという優雅な名前が付けられている、まさに日本の伝統工芸そのままのものなのだが、「ニッポンが、ニッポンが」と言っている人の興味を惹かないらしく、「和風」とも呼ばれず、「スゴーイですね」とも言われず、もはや滅びようとしている技術である。

 もっとも偉そうに言っている私とて、この毛鉤がたまたま中古釣り具の「タックリベリイ・フィン(仮名)」に2つ100円で50個ほど陳列され、誰からも顧みられずにいなかったら、その素晴らしさを一生知らないままだったろう。

 この毛鉤がどれぐらい素晴らしいかといえば、単に美しいだけでなく、実際によく釣れるからである。ただし、私の場合はその本来の用途である鮎釣りでそれを知ったのではない。
 ハエ(標準和名オイカワ)の毛鉤釣り(通常「瀬釣り」)に使うと、ハエ釣り用の毛鉤の1.5~2倍くらい釣れてくるし、第一球磨川の支流である万江川のとある瀬(場所は秘密)で使うと、20cmはあるハエや30cm近いイダ(標準和名ウグイ)が簡単に釣れてきて、しかもこれらの魚が球磨川の苔を食べているものだから半端な養殖鮎よりずっと美味いのだ。もっともこれはまだ父が生きていたころの話だから、もう10年以上前の話だが。

 ではなぜ鮎毛鉤が廃れたかといえば、少なくとも熊本県の場合は「釣れない」ということに尽きる。
 これには二つの意味がある。
 一つは鮎の生活史に関係する問題であって、鮎が毛鉤で一番釣れる時期というのは、3月~5月のまだ15cm未満の時期で、このころは禁漁なのだ。落ち鮎の時にも毛鉤で釣れる地方もあるようだが、熊本ではコロガシの方がずっと釣れる(というか引っかかる)。
 もう一つは、これはハエにも共通することなのだが、魚影が薄くなってしまったことである。魚が疑似餌に喰らいつくためには、ある程度集団の密度があって、ほかの魚から餌を盗られないようによく確かめないで食いつく、という条件が必要である。毛鉤の場合はルアー以上にこの「人口密度」が釣れる条件になる。

 今日は7月17日、解禁からは随分経ち、鮎も大きくなって「ベジタリアン」と化している。時期的に、友釣り以外ではまず釣果が期待できない。

 だいいち私は瀬釣りでは随分ハエやイダを釣ったが、ドブ釣りでは如何なる魚も釣ったことがない。これは竿の操作が相当難しい釣りなのである。しかもなかなかの重労働だ。

 瀬釣りにも長い竿を使うが、一旦仕掛けを投げ込んでしまうと、後は下流に向かって流すだけだから、それほどきつくない。
 ところがドブ釣りは、流れに入れた後、竿を下流に向かって扇形に動かしつつ、仕掛けを川底に当てながら竿先を上下しなければならない。

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 しかも私は吝嗇だから竿は海の堤防などでアジゴを釣る8m竿を川釣り用に流用している。釣具屋で鮎釣りの竿を買おうとすると、友釣りの竿は鍵のかかったショーケースの中に鎮座していて値札を見るとン十万円、コロガシやドブ釣りの竿は一応磯竿などと一緒に手に取れる陳列棚に並んであるものの価格は最低でもン万円はするから、到底買う気にならないのだ。アジゴ用の竿はせいぜいン千円(5000円しない)である。これはリールシートが付いているから、小さな両軸リールを付けて糸の長さを調節できるようにしている。上の写真のような奴である。

自製ドブ釣り仕掛け

 こうしておけば川の深さに応じて手元で道糸の長さを調節できるから楽である。
 また、万一にも貴重な鮎毛鉤を根掛かりで無くさないように、毛鉤は針金から自分で作った天秤に取り付け、一番根掛かりしやすい錘は捨て糸で天秤に装着し、錘が引っかかった時には捨て糸を切って錘だけ見捨てるようにしてある。
 自製天秤は自動ハリス留めによってワンタッチで毛鉤と錘が交換できる優れもので、「Well肉桂式鮎天秤」として特許申請中である(大嘘)。

ドブ竿操作法

 仕掛けを投入して竿を上下させながら下流に向かって扇形に操作する。
 重い。
 この竿はもともと竿受けを使って置き竿にしておいてアジゴの回遊を待つものだから、手持ちにしたら堪らない重さなのである。
 しかも、釣れる気配は全く無しである。後10回ほど操作したらもう止めよう。

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 そう思っていたら、プルプルとごくごく小さな当たり。
 なんと、ドブ釣りで人生初の獲物である。ただし、鮎ではない。ハエだ。
 長竿をクレーンのように操作して岸に持ってくる。地面に着いた瞬間に、

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暴れて外れる。鮎毛鉤には返しが付いていないから当然である。
 それにしても小さい。可哀想だからすぐに放流する。

 また仕掛けを投入して、竿を動かすと、また釣れた。今度も同じくらいの大きさの、ハエの幼魚である。また放流。

 結局釣れたのはこの2匹だけ。

 竿が重くて仕方がなく、肩の付け根に激痛が走り始めたので、30分ほどで納竿した。

 ハエを釣るのであれば、4.5mくらいの軽い竿で餌釣りをしたら、もっと大きいのがこの10倍は釣れただろう。

 私は「ハエのクレーン釣り」と名付けた。
 
 それにしてもギャラリーの多いこと。
 早朝から散歩している人が私の後ろを通り過ぎていくのだが、来る人来る人私に声を掛ける。質問は同じである。「釣れたか」「何を釣っているのか」「釣り方は」「どこから来たのか」。
 一瞬まだ解禁になっていないコロガシ釣りを疑って声を掛けているのではないかと被害妄想が頭をもたげたが、遊漁券を買ったかどうか確かめた人はいなかったから、純粋に釣りへの興味からなのだろう。
 そうだとしたら物凄い釣り好きの市民である。

 次は万江川に解禁当日に来なければ。

熊本人吉転々旅行7-夕食は三転-(河童日本紀行560)

海っぱたとまでは言わないが

 人吉に夫婦で泊るのはたしか4回目である。
 過去三回はいずれも「銀の匙(仮名)」 という飲み屋で食事をしたのだが、今回は宿から遠い。タクシーで行ってもいい(人吉は他の地方よりタクシー料金が安い)のだが、この際だから新しいところを開拓してみようということになった。
 梅雨の最中だがやたらと暑いので、日が沈むまで待つことにしたのだが、考えてみれば一年のうちで最も日が長い時期である。仕方がないので6時くらいから動き始める。


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 日曜日だからか暑いからか、飲み屋街の人通りは疎らである。
 そして、店もあまり開いていない。

 当初食事するはずだった宿の近くの店もご同様である。残念。ほかの店を探すことにする。

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 蔵元でつまみと酒を買って立ち飲み、というのも楽しいのだが、残念ながら夕方には閉まってしまう。これは酒飲みが何時までも居座るのを防ぐために違いない。知らんけど。


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 一軒だけ客が行列している店があったが、見ると鰻屋である。妻が鰻嫌いなので、パス。私は行列が嫌いなので妻と心は一つである(どこが心一つじゃ)。

 ホルモンの店が無茶に良い匂いをさせているので入ろうかと思ったが、これまた妻が「この暑いのにホルモン食べたくない」というので断念。私は熱くてもホルモンOKなので心二つである(「あつい」の字が違うが)。


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 結局まったく予定にない店に入る。
 土間と上がり框の段差が少し低いので錯覚して土足で上がろうとして妻から強烈な力でベルトを後ろから引っ張られ、土間に引きずり降ろされる。

骨董屋にて

 1旅行に1回は必ずある、私たち夫婦の風物詩である。

 頭の片隅にもなかった店なので今一つ気乗りがしなかったのだが、これが美味い。

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 間八のカマは何と一人前に三切れも付いている。蓮根の唐揚げがまた美味い。

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 出汁巻き卵が美味いということは、店の大将の腕前が良いということである。

 ほかにも穴子の天麩羅など、最近喰えなくなっている私たち夫婦にしては沢山ものを頼んだのだが、どれも美味かった。

 「山の中に来て海魚ばかりかよ」と思った人もいるかもしれないが、

 実は「人吉が山の中」というのは熊本市を中心に考えて球磨川を遡って旅する場合に発生するバイアスであって、交通網、流通網が発達した現在、人吉はイメージよりずっと海に近い土地なのだ。「海っ端」とまでは言わないが。
 この件については

ブルートレインたらぎに泊まる旅7−一勝地のジビエを堪能す−(河童日本紀行403)

で一度話をした。

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 鱈腹飲み食いしても、店を出るとまだ日が沈んでいなかった。
 この季節の日の長さを考えると、もう2ヶ月もすると釣瓶落としに沈んでいく夕陽は嘘のようである。日本は本当に季節感の豊かな国である。

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 宿に帰って夜の球磨川を眺めながら人吉の夜は更けていくのであった。

熊本人吉転々旅行6-鉄道建設も一転-(河童日本紀行559)

引きの研究

 旅行先の人吉駅前で種田山頭火の句碑を見つけた私は、その隣にかなり古びた石碑があるのに気付いた。

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 渋谷礼・樅木義道両翁顕彰之碑とある。

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[頌辞]
 明治29年9月当時県会議員たりし渋谷礼先生、九州縦貫鉄道は八代より人吉を経て鹿児島へ通ずべきを論じ有志の協力を求めるため米良以平氏ともに鹿児島へ赴きしが肥薩線開通の初めなり。
 爾来先生は県委員または代議員として郡委員樅木義道先生とともに終始一貫この運動に挺身せられたり。されど海岸線と山手線との優劣論は相伯仲して譲らず遂に陸軍参謀の寺内正毅を説き得て初めて山手線に決定、いよいよ35年1月起工の運びに至るもたまたま重大時局に遭遇し41年5月ようやく八代より人吉に通じ吉松を経て鹿児島に達せしは実に42年の11月なりしなり。
 今ここに肥薩線55周年を迎うるに当たりその恩恵に浴する郡市民相図り両先生の労苦を偲び功を讃えこの碑を建つ。

 この碑の建立は昭和38年(1963)だから54年前で、その時に肥薩線は55周年を迎えているから、再来年で110周年となる。

 この碑文を見て初めて知ったのだが、肥薩線は当初鹿児島本線の八代-鹿児島間として建設されたのである。しかも、鹿児島線のこの区間を海沿いルートにするか山間ルートにするかで激論が戦わされ、結局かなり政治的な力学によって山間ルートに決定したようだ。
 寺内正毅といえば朝鮮総督として韓国で武断政治を行い、のちに総理大臣にもなった人である。
 碑文の中の「重大時局」とはおそらく明治37年(1904)に勃発した日露戦争のことであろう。

 鹿児島までの開通が遅れたのはおそらく戦争の影響だけでなく、この区間の工事が極めて困難であることも関係していたに違いない。特に熊本-鹿児島の県境にはえびの高原があり、いくつものスイッチバック線、ループ線が敷設されている。この区間は「日本三大車窓」に数えられるが、その雄大な景色は鉄道建設においてはそれだけ難所であるということを意味している。実に7年の歳月をかけて「鹿児島本線」は開通する。

 こうして難計画(?)、難工事の末に建設された「鹿児島本線」であるが、昭和2年(1927)に八代-鹿児島間の海沿いルートが完成すると、結局こちらが鹿児島本線となり、山間ルートは「肥薩線」と改められる。

  私は子供の頃から疑問に思っていることがある。

 それは「九州自動車道はなぜ鹿児島本線に沿って作られずに山間を通り、海岸沿いの西回りルートはいまだに整備が遅れているのか」ということだ。
 私の子供の頃の常識からすれば(当否は別にして)、八代海沿岸の方がずっと開発の進んだ地域であり、こちらに高速道路ができなかったのは不思議だった。

 今回この石碑を読んでその疑問がまた頭をもたげてきたので調べてみると、何でも九州自動車道(計画策定時は「九州縦貫自動車道」)をどのルートに通すか、というとき、その終点の座を巡って鹿児島・宮崎両県に熾烈な争いが発生したらしい。当時は国策がどの地域を発展させるかを決定づけていた時代だから、これは当然といえば当然である。 
 結局両県の主張の間を取って八代-鹿児島間は開業当初の鹿児島本線と同じく人吉を通るルートに建設され、宮崎行のルートは途中から枝分かれして後に完成した。

 南九州自動車道の西回りルートが完全に整備された時、海沿いルートと山間ルートの交通量や沿線の発展などはどういう経過を辿るのか、大いに興味があるところだが、これは私が生きているうちに為されることかどうか、微妙なところだ。

 それにしても鉄道でも高速道路でも人吉は綱引きに勝っているわけで、これは単なる偶然なのか、はたまた人吉人の「引き」の強さなのか、興味は尽きない。一度全国を対象に「『引き』の研究」をしてみたいところだ。

 そて、そろそろ夕食の時間である。

熊本人吉転々旅行5-転々の人種田山頭火-(河童日本紀行558)

種田河頭火

 さて、何時までも寝て居られないので、観光に出かけることにする。
 ここは折角銘蔵の宝庫に来たのだから、焼酎蔵に出かけよう。

 ところが、「ゴーグルマップ(仮名)」で検索すると、既にほとんどの酒蔵は「時間外」の表示となっており、辛うじて残っている酒蔵も実際にナビにすると「到着時には閉店している可能性があります」と出てくる。 

 もう5時近く。長く昼寝しすぎたのだ。

 仕方がないのでその辺りを車でウロウロする。
 まだ日は高いので歩くと堪らなく暑いのである。

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 人吉城址の資料館も既に閉館時間なので、裏手を回る。

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 蓮がちょうど花盛りの季節なのだが、この花は早朝に開花するので、夕方の時間は写真のように全て閉じている。

 なおもウロチョロするうちに、人吉駅裏に名所があることに気付き、妻の了解を得て行ってみることにする。

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 それがここである。
 妻に言わせると「森にティッシュがこびりついているみたい」ということだ。逆光が眩しくてピントを合わせそこなったので、ますますティッシュに見える。



 動画を見て頂ければわかるだろう。
 優美な姿に似合わぬ姦しい声。
 そう、ここは鳥撮りのみぞ知る、白鷺の大生息地なのである。

 駅の駐車場(30分無料)に車を停め、こういう暑い日には妻には車内に待機してもらい、撮影のために駅に降り立つ。

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 人吉駅も以前「蒸気之介(SL人吉)」で来た時と随分変わった。


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 放浪の詩人種田山頭火は大正5年(1916)に来熊し、一旦妻子を見捨てて上京するものの、関東大震災でまた舞い戻った。大正15年(1926)に郷里の山口に帰るまでの約10年間熊本に居たらしい。

山頭火

 代表作は

 分け入っても分け入っても青い山

というもので、これについては

余は如何にして言語聴覚士となりし乎63(分け入っても分け入っても青い山)

という題で書いたことがある。

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 人吉では現在「種田山頭火復活の町」として売り出しているらしい。

[説明書き]
 「球磨川づたひに五里歩いた。水も山もうつくしかった、筧の水を何倍飲んだことだらう。一勝地で泊るつもりだったが、汽車でここまで来た、やっぱりさみしい、さみしい。」と山頭火は人吉停車場に降り立った。
 行乞記(木賃宿宮川屋で記した9月14日分)から

人吉球磨での足跡 
 昭和5年(1930)9月9日48歳、過去の日記を全て燃やし、行乞の旅に出る。熊本から八代、日奈久、佐敷から一勝地を経て9月14日から人吉町の宮川屋に三泊逗留、行乞をし、詳しい日記を残した。
 大正5年と昭和5年春、そして同年9月の三回この地方を訪れている。「私はまた旅に出た、愚かな旅人として放浪するより外に私の生き方はないのだ、捨てても捨てても捨てきれないものが乱れ、雲のやうに胸の中を右往左往し悶々としたなかで私もようやく「行乞記」を書きだすことができるようになった、」と山頭火は述べている。
 時は昭和恐慌のまっただ中で労働争議やデモが頻発し、東京では浜口首相が狙撃されるという時代であった。山頭火は人吉滞在中、百姓、養蚕家、日雇い労働者などの窮状を田舎まわりの仲買人から聞き「自分の生活が勿体ない」と思うようになる。さらに行乞記には、遊女への情、老祖母への思いなど山頭火の心情とともに当時の世相がひしひしと伝わってくる。人吉で行乞しながら町民と触れ合い、生活の様子を知ることにより山頭火を復活させた旅立ちの三日間であった。当時の人吉町はこのように勇気と復活をもたらした素晴らしい町であった。

 地図も掲げられていて、山頭火の行乞の跡を辿ることが出来るようになっている。

[俳句]
 焼き捨てて 日記の灰の これだけか
[現代誤訳]
 生まれ変わるつもりで過去に恋々とせぬように日記を焼き捨てたのだが、たったこれだけの灰になってしまった。まるで私のこれからの人生もまたこんなちっぽけなものであることを悟らせるように。

 山頭火の俳句は悲しく、そしてどこか笑える。これが諧謔というものなのだろう。

 書き溜めし ブログの消去 30秒    Well肉桂

 私も真似してみたが、悲しくなく、かつ笑えない。文才の差である。

熊本人吉転々旅行4-ホテルで一転-(河童日本紀行557)

若かった二人

 さて、スーパーでかなりの荷物を買いこんだ私たちは、今度こそ今夜のホテルに向かう。
 10分ほどで到着。
 やはり釣り宿っぽいビジネスホテルである。
 安いだけあって結構古い。

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 電話機が昭和である。
 フロントに電話を掛けようとしてダイヤルを回すと、「ジー、トルルルルルッ、ジー、トルルルルルッ」と音がしてゆっくり戻る。
 そのうちに小林明子の名曲「恋に落ちて」の「ダイヤル回して 手を止めた♪」という一節の意味が分からない人が増えて来るのではないだろうか。

 ただ、部屋は6畳に板の間もあって十分な広さだし、空気清浄機もあって、アレルギーと喘息持ちの私たちにはとてもありがたい。

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 何よりホテルが球磨川沿いで、

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 しかも私たちの部屋は人吉城址の真ん前なのが素晴らしい。

 さて、私たち夫婦がホテルに着いて最初にしたこと、それはこれまでに何回も行った韓国旅行で思い切りしたいと思っていたが果たせなかったことであった。

 スーパー巡りか。もうスーパーは「オオムタ(仮名)」一軒で満足である。
 名所旧跡に行くことか。今日は無茶に暑い日である。正直、この天候の中を汗だくで歩き回りたくない。
 酒蔵巡りか。確かに人吉は世界に誇る球磨焼酎の銘蔵がもっと奥地の球磨地区と共に集中しているが、この暑い日に昼間から酔っぱらったらおそらく汗だくだくで酔いの心地よさも吹っ飛んでしまうに違いない。
 食事は既に住んでいる。
 釣り。妻は天草でのアジゴ釣り以外はしないし、私もこの炎天下で釣りをしたくない。今日は一応川釣りの道具は持ってきているものの、いつも釣りをするときに被っているヴェトナムハット(「ヴ」と言った方が古いベトナムシンパらしくていい)を持ってきていない。

 結局私たちがしたことは、布団を敷いて横になることだった。

 もちろん二人合わせれば齢100歳超の私たちは、新婚ほやほやのカップルのように「人類繁栄への情熱」に駆られたわけではない。
 私たちは今日5時半には起きて野菜の収穫をし、空いているところにそろそろ株が古くなってきたトマトの替りの苗を植え、そのついでに周りの草を取り、親のための料理を作り、それをお互いの実家に持って行ってから、球磨川沿いの下道を延々運転して人吉まで来たのだ。この間スーパーで売り物を破壊して目いっぱい気を遣っている。
 要は疲れているのだ。

 「旅行先のホテルで長々と気持ちよく昼寝をする。」

 旅に来たからにはできるだけあちこちに行って見聞を広めたい、という、貧乏性の私たちにはなかなかできないことだ。1時間くらいして起きたときはやはりちょっと後ろめたかった。

 どこが「一転」なのかと思った人もいるかもしれないが、この場合は「ひところがり」である。ちょっと苦しいが。

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  一年で一番日の長い季節、まだまだ日が傾くには早い。
 さあ、これから本格的な人吉観光の始まりである。

熊本人吉転々旅行3-地元スーパーで二転-(河童日本紀行556)

人吉の孔子

 「やませみ(仮名)」の定食と鮎の塩焼きで満腹した私たちは3時近くに人吉に着いた。

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 実は「やませみ」にも宿泊施設(写真上)があるのだが、既に満室であることを確認している。
 やっと確保できたのは釣り宿とおぼしきビジネスホテルである。

 まず向かうのは今日の宿、ではない。

 まずは地元の大きなスーパーに向かう。
 妻が韓国のスーパーマーケットをどんな風光明媚な場所よりも愛している話は既にしたが、国内旅行でもスーパーに入ってみると同じような楽しさがあるのではないかと思いついたのだ。
 案の定、三角や熊本市のスーパーでは並んでいないような品物がいろいろ並んでいて楽しい。
 もちろん道の駅にも同じような楽しさがあるのだが、ここにはまた無作為の地方色があって貴重である。地元の人の生活が垣間見えて微笑ましい。
 特にこの「オオムタ(仮名)」というスーパーは鹿児島資本らしく、鹿児島のものが多く並んでいる。
 どうも熊本県南には鹿児島の会社が随分進出してきていて、最近では県北の方まで進出しているものもある。
 「寿司ヒロシ(仮名)」や「焼肉殿様(仮名)」などは熊本でもすっかりポピュラーになっている。
 土地ならではの醤油や味噌などの調味料もあってこれがなかなか楽しいのだが、生憎調味料は買い置きがあってわざわざ買わなくともよい。が、見ているだけでも楽しい。

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 一つだけ、鹿児島産の「米油」を買った。
 私の幼少のみぎりには「米糠油」と呼んでいたものだ。この名称は昭和33年(1968)に発生したPCB(ダイオキシン)による健康被害でマイナスイメージがついてしまったので使われなくなり、米油そのものがなんとなく避けられるようになった。元祖風評被害である。
 だが、実は米油は揚げ物に使うと料理が香ばしくからりと仕上がる素晴らしい風味の調味料であり、伝統的な製法(米糠からの圧搾)で作ったものにはまったく危険性はない。

 ほかにもいろいろ面白いものがあったので遂にカートを持ち出して私たち夫婦が韓国でしているような爆買いが始まりそうになったとき、場面が暗転した。

 我が家にはサムギョプサル(豚の三枚肉の韓国風焼肉)に掛けるためにこの間通販で買った野菜パウダーがある。これは豚に掛けて焼くと旨みを閉じ込めてとても美味しくなる優れものである。「宣戦チョンボ(仮名)」という韓国の情報番組で「繁盛店の秘密」として紹介されていて、早速我が家に取り入れたものだ。

 これは入れるのに適当な容器がなくてまだビニール袋に入れて保管しているため、使いにくくて仕方がない。
 「これ、いいんじゃない?」と妻が持ってきた容器は、内豚が、じゃなかった、内蓋がないタイプだった。これだとスプーンを使ってパウダーを振りかけなければならない。TVでは内蓋に多数の穴がある振りかけタイプの容器だったのだ。
 「それじゃ使いにくいよ。」と私が言うと、妻は「イーッシ!」と韓国の中年男のような舌打ちをして容器を棚に戻そうとした。その刹那、容器はツルっと妻の手から離れ、床に落ちて粉微塵になってしまった。「バリーン!」とかなり大きな音がした。

 すぐに店員さんが駆けつけた。
 「大丈夫ですか!」
 「済みません。弁償しますので。」
 「いえいえ、怪我はなかったですか。そうですか。では、そのままにしておいてください。片付けておきますので。」

 その瞬間、私は昔読んだ「論語」郷党編第10を思い出した。

[書き下し文]
 厩(うまや)焼けたり。
 子、朝(ちょう)より退きて曰く、人を傷(そこ)なえりや、と。
 馬を問わず。
[現代誤訳]
 馬小屋が火事になって全焼した。
 孔子が朝廷からお帰りになっておっしゃった。「人に怪我はなかったかい?」
 馬のことはお聞きにならなかった。

 人の命の安い古代中国で、馬は下層階級の人間よりもずっと高価な商品である乗り物だった。
 その貴重な馬を養っている馬小屋の火事について、馬のことは一言も尋ねずに人の安否を気にする孔子のヒューマンな姿勢に、まだ若かった私はひどく感動した覚えがある。

 さすが「人吉」である。
 もっとも、その器は100円のものだったが。それにしてもなかなか咄嗟に言える台詞ではない。

 おかげで暗転しかけた場面はまた明るく転じたのである。
 嗚呼、やはり地元スーパーは韓国に限らず楽しい。

熊本人吉転々旅行2-昼食は二転-(河童日本紀行555)

決まらない食事

 さて、人吉を連休の旅行先に決めた私たち夫婦であるが、一路人吉へ、というわけにはいかない。
 まず私の実家へ、さらに妻の実家へ、というルートが最近は必要である。
 お互いに年老いた親に料理を届けてから、ということになる。高齢者は放っておくと既製品ばかり食べて栄養が偏るからだ。
 水前寺と菊陽町に行って、熊本インターから高速に乗る。
 このまま人吉インターまで高速で行ってもいいのだが、そうはしない。
 これには2つ理由がある。
 1つは消極的理由である。八代-人吉間には23(24だったかな)ものトンネルがある。最近私はこのルートを通ると眠くて仕方がない。鶏のように周りが暗くなるとすぐ眠くなるのだ。もしかするとこの区間には「妖怪眠らせ」がいるのかもしれない。
 もう1つは積極的理由である。この球磨川沿いの道路は、私にとっては上天草の阿村海岸沿いの道と同じく、大好きなドライビングルートの一つなのである。次々とその容貌を変化させる球磨川を遡上していくドライブは心洗われる。
 八代インターで降りて球磨川沿いの道をドライブし、途中坂本村の道の駅で鮎を喰って、一勝地の駅で切符を買って、人吉到着。
 それがこの日の計画だった。
 ところが、坂本の道の駅に行ってみると、どうも様子がおかしい。昼飯時だというのに、行列一つしていない。天然ものの鮎の定食が1500円なのだ。みんな新聞を読んでいないのだろうか。

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 新聞を(ちゃんと)読んでいなかったのは私たちだった。前日が「プレオープン」と書いてあったので、てっきりその日がオープンだと思っていたのだが、まだ先らしい。店には人っ子一人居ない。
 
 仕方がない。
 ちょっと(かなり)値が張るが、尺鮎を食べさせる店に行こう。

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 ここの鮎は球磨川の天然物の尺鮎である。
 定食だと鮎の味噌煮もついている。(写真は2012年に撮影)

 車を走らせること30分、もう13時を過ぎている。腹が減った。

 妻に言わせると、私はいつも昼食を食べる12時を過ぎても昼食を食べるべき店が決まっていないと、急に無口になり、とても険しい顔になるらしい。話しかけてもけんもほろろだそうだ。
 妻は「食糧難になったら私は確実に喰われる」と娘たちに言っている。

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 だが、もう少しの辛抱だ。あの店にはたしか鹿肉定食もあった。両方頼んで分けて食べるのもいい。

 ところがその店まで行ってみると何ということだ。営業していない。
 人の居る気配はあるのだが。
 あるいは材料がなくなって早仕舞いしたのか。無念。


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 結局昼食は二転して一勝地の「やませみ(仮名)」の定食に鮎の塩焼きをつけてもらうこととなった。 

 ところがこれが連休だけあって生憎の満席でなかなか出てこない。いよいよ二人とも不機嫌に黙り込む。
 
 空腹が極限を超えていたので、食べてしまってから写真撮影に気付いた。天然の尺鮎とはいかなかったが、とりあえず鮎が食えたから良しとしよう。

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 それよりも、坂本村の道の駅にかけられた巣にいた子燕が可愛かった。

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 もうすぐ巣立ちの気配があったから、動物好きの人はお早めに。

 お腹いっぱいになって、もうすぐ人吉である。

熊本人吉転々旅行-一転した旅行先-(河童日本紀行554)

かけがえのない人

 「やっぱり無くなっているようですね。〇〇。」
 電話口からのA先生の言葉で、我が家に落胆が広がった。
 PCの画面はその居酒屋の検索結果と、B市のホテルを予約する途中の画面が掲示されていた。
 私たち夫婦は「やっぱり無くなったんだね。〇〇。」と言いながら、眠りに就いた。もはやそれ以上旅行の準備をする気が失せてしまったのだ。

 今回の連休、世間様の3連休に対してどうにか2連休は確保した私たち夫婦は、いつものようにどこを旅行先にするか侃侃諤諤の議論を繰り広げていた。
 議論はいつものように韓国・香港・台湾から始まり、あそこも無理、ここも無理、と、主に懐具合から消去されて行き、福岡の朝倉や大分の日田、となり、やはりもう少し落ち着いてから、ということになり、その連想から昔馴染みのB市に行ってみようかという話に落ち着きつつあったのだ。

 どうせB市に行くのならあの店に行きたい、というのは私たち夫婦の一致した意見であった。

 この店は私たちが福岡県に移住してほどなく開店した店で、私たちは開店ほどないその店に素見で行き、料理が今一つだったのでそのままご無礼と相成って、月1回の贅沢は別の店を贔屓にしていたのだが、やはり場所的な近さに惹かれて再度行ってみると、大将の腕が随分と上達しているのが肌で分かって月1はこの店で、という習慣が身に付いていた。

 そのうちにある女性がこの店でバイトをするようになった。

 まだ若い可愛らしい女の子であったから、それ目当てで来ている若い客もいたようだが、私たち夫婦がこの女の子に好感を持ったのは、その気配り、目配り、利発さのゆえであった。

 二人の一致した意見は「ああいう娘に医療人になってほしいよね…」というものだった。もっともその職種は私はもちろん言語聴覚士であり、妻はNr.であったが。

 彼女の仕事を見ていると、大勢の客たちの集団について極短時間のうちに個々にプランを立て、見通しを持って接しているのがよくわかるのだった。それは有能な医療技術者によく似ていた。

 客が入ってくる。
 この段階で「あれとあれとあれをしなければ。」というのはどの店員にもわかる。
 たとえばいらっしゃいませと言っておしぼりと箸を持っていく、注文を聞く、などである。
 これすらできないと客は口に出さないけれど内心激怒しているから、もう来なくなる。そういえば最近はこれすらこなせない人が増えてきたような気がするが、話が進まないのでそれについてはまた別の機会に。

 問題は、居酒屋の客というのは一人ひとり店にいる時間や注文をする間隔が違う、という点だ。
 居酒屋で飲んでいて不愉快になるのはどういうときかといえば、圧倒的に「注文したものが来ない」「忘れられた」という理由が多いのではないだろうか。

 その原因にはいろいろあるが、一番多いのが店の人間が次々に来る注文にアメーバー的に対応している場合である。
 たとえば最初に来店した集団の注文品を全部作ってから次に来店した集団の注文品に取り掛かる、などということをしていたら、来店した順の遅い人たちほど怒りのボルテージは上がっていくだろう。
 そもそも最初の人たちもやたらと早くドカッと品物が来て、それを食べてしまったら「一番遅く来店した人」と化してしまう。

 居酒屋にいるときは、アルコールは常時全員の手元にあるのはもちろんのこと、何らかのつまみもその集団の目の前に常にある状態にしておかないと、客はたちまち不快になってしまうのだ。
 いくら酒や料理が美味くても、これが出来ない店には客が来なくなる。

 それを防ぐのは小さな店では一国一城の主である大将の力量が何より第一の要素なのだが、次は接客係にその重責がかかってくる。

 わたしたちが見ていると、彼女は同時並行で仕事を進める天才だった。

 それぞれの集団がいつ入ってきたか、その集団の各々にちゃんとアルコールまたは飲み物があるか、つまみはあるか、放置された注文はないか、目まぐるしい多忙さの中で嘘のように把握していた。私のような性格特性の人間には絶対にできないことである。

 それどころか、「そろそろ酒がほしいな」とか、「そろそろ何かつまみがほしいな」というような時には「何か持って来ましょうか」と問いかけることさえしたのである。それが少しも押しつけがましくなく、時宜を得た勧誘なのでまるで読心術が使えるのではないかと思える程だった。もちろん私はそんなものを信じてはいないから、彼女の利発さがそう思わせたのだろう。おそらくは個々の客の次の行動をかなりの確率で予測していたのだと思っている。

 これは鈍い私にも経験がある。
 私は若いころ中華料理屋の接客として働いていた。この業種は客があまり大酒を飲まないし、あまり追加注文がないので、客の集団が次に何をするか、たとえば、あの姦しいオバチャンの集団は後どれくらいの時間で出ていくか、あの1杯目の生ビールを頼んだあの酒好きっぽい客は次も生を注文するか、など、ある程度予測ができるのだ。これができるようになると、客を怒らせることはほぼなくなる。

 開店4年目くらいにこの居酒屋は全盛期を迎えたと思う。
 大将の料理の技術とこの娘の接客のコラボは見ていて惚れ惚れとした。
 もちろん大将も客が出ていくときにはわざわざ玄関先まで出てきてお礼の挨拶をしてくれるような律儀な人で、この人柄も私たちがこの店によく行った大きな要素だった。

 だが、彼女にも進路選択の時期がやってきた。
 彼女は希望の進路のために進学し、店を去った。
 残念ながらその進路は私たち夫婦が願ったような医療技術職ではなかった。

 ほかのバイトがやってきたが、いつ彼女の域に行けるか、はなはだ心もとなく見えた。大将の方もほかのことに気を煩わされて、料理に専念できていない気がした。
 私はこういうことは勉強よりずっとセンスが必要なのだと思うようになった。

 何だか活気がなくなった気がして、私たち夫婦の足はその店から遠のいた。

 今夜、B市行きを思い立つと同時にその店のことを思い出し、行く気になって、無くなったことを知ってショックだったが、よく考えてみたら福岡に居たときから行かなくなっていたのだ。

 人間の集団にはかけがえのない人がいる。それはその人の年齢や地位や肩書には関係ない。
 集団が小さいとそれを思い知らされる。穴埋めが行われても、もはや違う集団になってしまっていたりする。

 ところが、大きくなるとだんだん歯車感が強くなってくる。歯車が1個なくなったって、ほかの歯車が回っていれば結果オーライ。替りを持ってくればいい。歯車が1個1個なくなっていき、その傲慢さに慣れたころ、ある日大きな組織が軋みながら止まる。大きな集団であればあるほど動くスピードが遅いから、動かなくなっていることにすら気付かない。大丈夫。まだ動ける。実はもう瀕死なのに。

 今、日本中にそんな集団が増えてはいないか。そしてかけがえのない人はいつの間にか国外にいたりする。

 その日はそんな身の丈に合わないことを考えながら寝たのだが、翌日起きたら、久しぶりに夫婦とも用事のない連休に家でぶらぶらしているのはあまりにも勿体なく感じた。やはりどこかに行きたい。

 あちこち宿を探してみたのだが、もはや私たちが泊まれるような値段の宿はもうほとんど残っていない。

 妻が言った。
 「そういえば国試のお守り貰いに行かなくていいの?」

 そうだった。
 私は後輩たちが国試を受けるとき、肥薩線一勝地駅の切符をお守りとして渡すことにしているのだ。

 それに、昨日地元紙に球磨川の天然鮎を食べさせる店が坂本村の道の駅にできた、という話題が乗っていて、「ああ、久しぶりに球磨川の鮎を食べたいな」と思ったのだった。

鮎炎上

 球磨川には「尺鮎」と呼ばれる巨大な鮎がいて、これが焼くときにうっかりすると店の天井まで炎が上がるほど脂が乗っていてすこぶる美味いのである。

 人吉に行くか。
 急いで宿を探すと、一つだけ空いているところがあった。
 しかも、安い。

 こうなると心配は一つ、トイレだけである。
 「ちゃらん(仮名)」には「温水洗浄便座×」となっている。
 それより根本的な不安があった。これだけ安い宿で和室。私はネットで番号を調べて電話を入れた。
 「トイレは洋式ですか?」「そうですよ。」

 よかった。以前よく似たシュチエーションで、内風呂なし、かつ、トイレ無し、しかも共同トイレ和式、ということがあったのだ。

 こうして今回の旅行先は、一転、人吉に決まったのである。

柑橘チューハイに関する新提案(いやしんぼ)

摘果蜜柑賛歌

 相変わらずノンアルビール生活だが、持病の処置の結果がどうにか良好になったので、少しずつ「アル入り」も飲むことがある。

 最近のお気に入りはマッコリなのだが、好きな生マッコリは基本的に現地に行かないと飲めないので、国内ではほとんど飲まない。

 ビールはノンアルの後に安物の「ビール 類」を飲むと何だか薬臭い気がして不味い。

 そこで、柑橘を絞ったものに炭酸水を入れ、それに一番癖の少ない米焼酎を少し垂らして飲む。

 柑橘は季節によって変わる。

 私の棲む熊本県は柑橘類の宝庫なので、7.8月を除けば何らかの柑橘が手に入る。

 実は7.8月にも裏技によって柑橘が手に入るのだが、これはうっかり公開してしまうと全国の柑橘党が殺到して自分の飲む分がなくなってしまうので、今までブログで話題にするのを控えてきた。

 ところが、その日の飲み物を買いにスーパーの飲料・種類コーナーに寄っていると、以前だったら私
たち夫婦が手間をかけて絞ってアルコールと混ぜていたような柑橘が普通にチューハイとして売っている。

 たとえば国産レモン、シークァーサー、夏ミカン、カボス、スダチ、ポンカンなどである。 
 それも結構売れているらしい。
 中にはこれらの柑橘を技巧を凝らしてブレンドした逸品もあるのだとか。

 こうなると、私たちが密かに守ってきた「7.8月の柑橘」ももはやメーカーに嗅ぎつけられるのもそう遠い日ではあるまい。

 というか、すでに資本の魔の手は彼らの身辺に及んでいるのかもしれない。
 どうもこの2.3年、彼らの姿を道の駅や農家直販店で見なくなったからだ。

 そして彼らは、「単なる蜜柑」として買いたたかれて、ブレンドものの隠し味としてその真価を人々に十分称賛されることなく消費される日陰者となってしまうかもしれない。

 そうなる前に、この日の本に彼らの存在を明らかにし、彼らの真価を知らしめたい。

 彼らの名は「摘果蜜柑」
 何だかちっともアピールしない名前だが、これが美味いのである。
 
 まず、摘果蜜柑とは何か。

 柑橘類はその木に随分沢山その清楚かつ芳香を放つ小さな花を付け、それは受精して果実と化すのだが、受精した花をすべてそのまま育ててしまうと、一個一個の実はごく矮小なものとなってしまい、かつ果実を味わう食品としてはぱっとしないものとなってしまう。

 したがって、その農家は、自らが判断してより優れた未熟果を残し、後は「間引き」してしまう。これを摘果という。

 摘果は実は地面に打ち捨てられてしまうものも多いのだが、うっかり見落としたり、どちらがより優秀なあるか迷われたものはある程度の大きさに達してから摘果される。
 
 ために、これを食べる消費者は相当の「大人味覚」の持ち主なのだが、ジュースとしては私のような「子供味覚」の人物としても好ましいのだ。

 その味を言葉で説明するのは難しいが、これを試みてみる。

 摘果蜜柑は、そのままの果汁を味わえば、まず強い酸味が舌を襲う。やや渋みと苦みもある。しかし、その後から意外とも思える甘みが追いかけて来る。何よりの長所は甘酸っぱくかぐわしいその香りである。それははっきり柚子よりも強い芳香である。
 
 しかも、これを我が熊本産の米焼酎と混ぜると、酸味と苦みによって隠されていた甘みが突如として引き立つ。これは米焼酎が本来持っている甘みとの「出会いもの」なのかもしれない。

 摘果蜜柑はもはや柑橘軍最後の殿軍である天草晩柑すら水分の抜けたスカスカとなって敗退しようとする7.8月、未だ錬成されざるまま駆けつけて我が家の食卓を救う白虎なのだ。

 大袈裟すぎた。

 みなさん。
 摘果蜜柑のチューハイ、呑みたくなってきませんか。

最近違和感を覚えた言葉(どうしても言いたかったこと56)

いつの間にか趣旨が変わっている話
 
 以下は2016.1に書いたが公開が憚られていた文章である。
 やはりどうしても言っておきたいので、損することを承知で公開する。

 ある在日外国人の講演を聴きに行った。 

 私は以前からこの人の新聞に寄せた意見や著作を読んだことがあり、共感を持てる人である。仮にこの人を「A先生」と呼ぼう。

 A先生の生い立ちについて書いた文章など、涙なしでは読めなかった。

 ただ、「書いていることは面白いが話は退屈で仕方がない」という人もたまにいるから、休日の半分を費やして講演を聴きに行くことにしても、正直そこまで期待していなかった。

 だが、面白い。
 いつの間にか話に引き込まれて、1時間半の講演はあっという間に過ぎ、もっと聞きたかった。どころか、ぜひ個人的に話し込んでみたいと思った。
 もちろんこちらはタダの人であり、相手は多忙な有名人であるから、登場の時と同じようにそそくさと退場してしまった。きっとこれから東京に帰るのだろう。

 私がA先生の話に引き込まれたのは、話術もさることながら、この人の家族、郷土、そして日本への愛を強く感じたことが理由だろう。

 考えてみれば、この人はルーツが他民族にあり、国籍がその民族の形成している国のものである、という以外には、郷土に生まれ、育ち、日本で生活している私と何も変わらないのだ。頭と教養は私がだいぶ劣るが。

 講演会の帰り道、私は妻と「来てよかったねー」と言いながら、ある野球選手のことを思い出していた。この人を仮にB選手と呼ぼう。

 B選手は当時はまだ珍しかったノーワインドアップのフォームで春の甲子園大会を投げ抜いて優勝投手となり、夏の大会では2回戦で敗退したものの、1回戦ではノーヒットノーランを達成した。

 その活躍により、彼の属する高校の野球部は秋の国体に出場することになった。
 しかし、B選手はこの大会に出場することはできなかった。彼の父親が外国ルーツであり、彼もまた父親と同じ国籍だったからだ。

 エースで4番が欠場しては野球にならない。部長や監督などの関係者は何とかB選手を出場させようと駆け回ったが、やはり出場は認められなかった。
 彼の出場が認められないことが決定的になると、他の野球部員たちが騒ぎ出した。
 「そんなバカな話があるか。それなら俺たちも国体出場を辞退しようじゃないか。」

 そんなある日、父親がB選手を諭した。
 父親は異国の地から日本にやってきて、腕一本でささやかながら自分の城を築き上げた人である。
 「国体は日本人の祭りなんだ。外国人のお前が試合に出られないからといって、チームの皆に迷惑をかけちゃいかん。出場できんでも、お前が野球部の一員であることに変わりはないんだから…」

 彼はその晩、布団の中で枕がぐっしょり濡れるほど泣いたという。
                  (以上プレジデント版「"ザ・マン"シリーズプロ野球不滅のスーパースター」による)

 B選手はその後国籍の関係ない実力の世界であるプロ野球の世界に飛び込み、数々の大記録を打ち立て、なんと「国民栄誉賞」を受賞する。
 彼は外国籍であるにも関わらず、「日本国民」として最高の栄誉の第一号となったのである。

 B選手は言わずと知れた、とある球団の社長さんである。

 私が講演を聴きに行ったA先生もやはり高校球児だったそうだが、ご母堂は「勉強なんかせんでいいから、野球選手になれ!」と、ことあるごとに言っていたそうだ。

 私が何でこんな話をするかといえば、「プロ野球は実力の世界だから素晴らしい」などということを言いたいからではない。

 また、なぜ「日本」以外の固有名詞が一切出て来ないかについても一言しておけば、それは韜晦のためではなく(それも少しはあるのだが)、固有名詞が出てきた瞬間に脳内に水に落ちた墨のように「パーッ」とバイアスが広がって読んでくれなくなる人が多いからだ。

 先日、ある力士が優勝した。仮にC関と呼ぼう。
 C関は私が数年前まで暮らしていた土地の出身である。
 彼が勝つと、私の暮らしていた土地では爆竹が上がるのが習わしだった。

 この土地は知る人ぞ知る相撲の発祥地であり、横綱の土俵入りはこの土地出身の力士の型かもう一つの力士の型の2つしかない。

 怪我に泣かされても精進を重ね、苦節の末の優勝だったから、自分のことのように嬉しかった。
 お父上がお祖父さまの遺影を抱えて応援している姿には泣かされた。

 ただ、C関の優勝の前後から急にTVの画面に登場し始めた言葉に強い違和感があった。

 「日本出身力士」。
 何だろう。この言葉は。意味が解らない。言っておくが、私は人並みの国語力はあるつもりである。

 A先生やB選手は日本生まれの日本育ちだから、言葉の全き意味でいえば「日本出身者」のはずである。しかし、彼らがこう呼ばれることは今までも、また今後もないに違いない。
 彼らは日本国籍でないからだ。

 だとすると、この言葉は誰と誰を区別する言葉なのか。

 相撲界には、年端もいかない時から日本に来て精進を重ね、この世界に地歩を築いた一群の人々がいる。
 彼らは自分の出身地や集団とは全く違う日本や角界の習慣に必死で馴染み、「日本人以上に日本人たろう」としてきた人たちである。
 ある力士が昭和の不世出の大横綱双葉山を尊敬し、目標としているのは有名な話である。
 彼らの中には日本人(日本出身女性?)と結婚し、日本国籍を取得している人も多い。

  もし、「日本人が10年ぶりに優勝!」という表現をしたら、「なんだ、じゃあ彼らは日本人じゃないのか?」という話が出てくるだろう。

  日本の文化を理解し尊重し、日本人の家族を持ち、国籍も日本である人を「日本人」と呼ばないわけにはいかない。
  だが、それでもなお自分たちと彼らを区別したい(敢えて差別とまでは言わない)からこの珍妙な言葉を編み出したのだろう。

  「一体どうやったら日本人になれるんだ?!」という嘆きが聞こえてきそうである。同情に堪えない。

  私自身はどうにも隠しようのない日本人だが、「日本人」でなくても、「日本出身者」でなくても、「日本国籍」でなくても、素晴らしい知識や技術や人格を持った人を尊敬するし、彼らの努力が報われたら心から祝福する。
  
  彼らがどれほど日本の文化を豊かにしてくれたことか。

  例えばプロ野球の歴史から「日本人でない人」や「日本出身者でない人」や「日本国籍でない人」の記録をなくしてしまったら、通算最多勝も年間最多勝も通算防御率1位も年間防御率1位も完全試合第1号も通算最多安打も通算最多本塁打も年間最多本塁打も通算最高打率も年間最高打率も全て消え失せてしまうのだ。

  これらの記録のうちのいくつかは私と同時代に樹立された記録である。彼らのグラウンドで躍動する姿はどれほど私を勇気づけたかわからない。

  相撲も同じである。
  私は相撲は記録より記憶に残るものだと思っているのであまり記録については知らないが、パワーとスピードが増し、見ごたえのある取り組みが増えたのは間違いなく「日本出身者でない人」の参入によって全体が底上げされたからだと思う。

  角界が「日本出身者」だけの世界に留まっていたら、今頃は退屈な伝統芸能扱いされていたに違いない。

  C関の優勝が私たちを感動させたのは彼が「日本出身者」だからではない。
  怪我で活躍できなかった時、彼は本当に辛かったと思う。人間には努力してもどうしても上手くいかない時期があるものだ。
  それをさらなる努力で乗り越えて栄冠を勝ち取ったからこその感動なのだ。

 「日本出身力士」。
 ぜひ考えてほしい言葉である。

2017.7記
 考えてみればこの程度の文章を公開するのにさえチクリや攻撃を気にする必要がある現在の日本を本当に嘆かわしく思う。私の愛する日本はいつからこんな国になってしまったのか。

ペンギンの肉を食べた男(毒にも薬にもならない話81)

ペンギンのヒレ肉

 同僚のA君は根は真面目だがお茶目な男である。
 しかも、本人は大真面目だがズレていて笑ってしまうことがある。

天草珍一号橋
 
 天草の新一号橋はアーチ部分を車が通ると思っていた、などというのはその一例である。

 今回は彼がペンギンの肉を食べていた話である。
  
 彼の家の食卓には子供のころからペンギンの肉がよく並んでいたそうだ。 
 彼にはきょうだいがいるが、彼のお兄さんなどはこの肉が大嫌いで、決して手をつけなかったという。
 それはそうだ。
 あんなに可愛いペンギンを食べてしまおうというのだから。

 しかも勿体ないことに、それはペンギンの「ヒレ」の部分だけだったという。まるで鱶の鰭である。

 決まって短冊切で、いろいろな料理に入っていたそうだが、A君もお兄さんも除けて食べていたらしい。

 察しのいい人はペンギンのヒレの正体に既に気付いたと思う。
 A君が何時勘違いに気付いたか聞きそこなったが、さすがに小学校の高学年に上がる時には気付いていただろう。

 A君の勘違いも面白いが、この勘違いはおそらくA君の御両親から吹き込まれての事だろうから、A君の親御さんも相当面白い人のはずである。

 また、A君の家では勘違いが成り立つほど見事なペン肉を食べられていたというのは羨ましい。きっとそれは大分辺り、あるいは天草辺りで育てられた上質の冬菇だったに違いない。

 A君の家のペン肉を一度食べてみたかった。きっと干してもいい出汁が出たに違いない。

カメラ河童のジャンク道遥か54-Cに短しDには長し-(それでも生きてゆく私241)

レンズに癒される

 どうもブログを書くのに気乗りがしない。
 別に普通に生活しているし、普通に仕事をしているのだが。
 今後のことを考えると、急に脱力感に襲われる。例の人が大統領に当選してからだ。

 ブログを書こうとしても、「俺なんかが何を言ってももう無駄だよね」という気持ちがどーっと波になって寄せて来る。

 おそらく「河童」を書いたころの芥川龍之介はこんな気分だったのではないだろうか。私は髪の毛だけ河童だが。芥川は残っている写真を見る限りでは「〇ゲーッ!」と罵倒されたことはなかっただろうからその点では羨ましい。

 こういうときは趣味に没頭するに限る(ちゃんと仕事はしているのでネットチクリの人たちはご安心を)。

 久しぶりに「家畜人オークション(仮名)」でレンズを買った。

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 またも米国製のレンズである。メーカーは前回と同じく「ベル&グラハム(仮名)」。8mmカメラの名門である。

 値段はこのテのレンズの相場の30分の1くらいで、普通の勤め人の昼食1杯分くらいである。
 といっても、貧乏な私にはそれなりに応える値段であることは間違いない。送料が定形外郵便でごく安いのが決め手になった。

 舶来のレンズがこの値段、というのは、「訳あり」であるということだ。

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 もっとも、このレンズの売り手は良心的な人らしく、その「訳」が書いてあった。曰く、マウント(レンズとカメラの接続部)の口径がDマウントより少し小さいのだそうだ。

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 Dマウントというのは私が最も多く所有しているレンズのマウントで、もともと古い8mmムービーカメラにレンズを装着するものである。私はそれをデジタル一眼である愛機「ペンテコステオバQ」に付けて遊んでいるのだ。

 カメラに凝る人というのは我が熊本弁でいうところの「ぴしゃーっ」とした人が多く、「ざーっとした」私のような者は例外に属するから、こういう「ちゃんと嵌らない」だろう部品はオークションなどでも敬遠されて思わぬ安値で手に入ることが多いのである。

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 私は前球と後玉に分かれている8mmカメラのレンズを水道管の鏡胴(レンズを入れる筒)でつないで「オバQ」に装着してしまうような男だから、そんなことは少しも気にしない。

 それどころか、このレンズの写真と「訳」の記述を見た瞬間に、私はすぐにピンと来た。 

 「これ、D→Qアダプターに接着したらすぐに撮影可能になるよな。無限遠が出なくても中近用の撮影にくらいは使えるだろう。」

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 D→Qアダプター(写真左)とはごく小さなレンズであるDマウントレンズをQマウントである「オバQ」に装着するための部品で、以前は安い某国製が牛丼一杯くらいの値段で買えたのに、なぜか最近高騰して夕食一杯分より高い値段になっているが、安かった頃の買い置きがまだ1個だけあるのである。

 レンズが郵便受けに放り込まれていたのを見つけた私は、早速Dマウントアダプターに接着した。Dマウントの穴より確かにネジコミ部の口径は小さい。しかも、アダプター部がちょっとだけ穴に入って、後は入らず、不安定なセットである。どうも不安があるが、アダプターごと「オバQ」に装着してモニターを覗き込む。

 駄目だ。ピントが合わない。どころか、ボヤーっとした像しか映らない。無限遠どころではない。

 今度はC→Qアダブターに接着してみる。C→Qアダプター(写真右)は16mmカメラや監視カメラのレンズであるCマウントレンズを「オバQ」に装着するためのものである。これも買い置きが1個だけある。今度はレンズ全体が穴に嵌り込んで、鏡胴の中ほどの突起で止まった。

 アダプターごと「オバQ」に装着すると、今度は中近は開放でどうにか映るが、遠景はボヤーッとしてほとんど像を結ばない。最大限絞ってやっとかなりピンボケの像が映る程度である。

 以前の私ならこれで満足してしまったところだろうが、保存のいいシネレンズの写りの良さを知ってしまった今では、私はこれをレンズ箱に放り込んで二度と撮影に使用しないだろう。それではあまりに勿体ない。

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 そのとき私は、ちょっと前にやはり同じ「ベル&グラハム」のレンズが一見Cマウントに見せながら実はCSマウントであり、苦労して自製のCS→Qマウントを作ったことを思い出した。

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 あれはしんどかった。1週間かかった。何せ私は旋盤もグラインダーも持っていないから、全てが手作業なのである。
 だが、あれにこのレンズを接着してみたらどうだろうか。同じ「ベル&グラハム」だし。

 「オバQ」にアダプターを装着し、レンズをアダプターに手で固定してみる。
 おお、ピントが合う。無限遠も出そうである。この2つのレンズはやはりフランジバック(レンズがセンサーに像を結ぶ距離)が同じなのだ。

 ただ、このアダプターはもともともう一つの「ベル&グラハム」のために作ったものだから、接着したらそのレンズが使えなくなってしまう。困った。もう一つ自製CSアダプターを作るか。
 あの苦労は嫌だ。アルミ粉まみれの1週間。指先を削って怪我をし、握力はなくなり、喘息の発作に怯えていた。

 それに、このレンズにはピントリングがないから、接着してしまうと固定ピントになってしまう。どうにかしてピント合わせができるようにできないか。固定ピントは不便なのだ。

 仕事もそこそこに(冗談です)悩むこと1週間。明日からはまた仕事という日の夜、なんと私の夢にその解決法が出現したのである。

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 私は以前誤ってCSマウントのレンズを買ってしまい、当然のことながらそのレンズはC→Qマウントに装着しても像を結ばなかった。まだカメラの知識がほとんどない時代である(まだカメラに凝って2年めなのに大袈裟な)。

 なんとかこのカメラで撮影をしたかった私は、通販で当てずっぽうにCSアダプターを買ったのだ。ところが、これはC→CSのアダプターであって、CSマウントのカメラにCマウントのレンズを装着するもためものだったため、これに付けたレンズをさらにC→Qマウントに装着しても、当然のことながら像など結ぶはずがないのだった。

 「あのアダプター(ちゃちなリングだった)が使える!」
 レンズをC→CSアダプターに付けてからCS→Qアダプターにねじ込めば、レンズを回転させて前後させることができるから、自製ヘリコイド(ピント合わせ機構)になる。

 あまりのナイスアイディアに私はベッドから跳ね起きようとして内腿の筋肉が吊り、激痛にのたうち回った。後で見てみると、腕を痛めたときの稀勢の里のように筋肉(私の場合は薄筋)の形に内出血していたから、軽い断裂だったようである。歳なのだ。膝が曲げられないので朝の定期便のためのごふぢやうに行けず、危ないところだった。これまた1週間くらい痛かった。

 足の痛みがやっと和らいだ私はシン部屋に行ってC→CSアダプターを探したが、見つからなかった。どうやら別のレンズの改造のときに部品として使ってしまったらしい。がっかりした。

 ところが、それから3日くらいして、「家畜人」にこのアダプターが出品されていた。しかも、「即決」で、キャンペーンのときの牛丼くらいの値段である。まるで、「あのレンズを買ったんだから、これが必要だろ?」と言っているかのようである。

 このあたり、私は通販やオークションの情報網に不気味なものを感じる。「こういうものが欲しいな」と思っていると、おあつらえ向きのものが現れるのだ。これは購買行動をAIが分析して提案するのだろうが、なんだかこちらの考えまで見透かされているようだ。何せAIは天才といっていいプロ棋士にさえ勝ってしまうのだからな。

 閑話休題(さて)。

 注文して到着したC→CSアダプターにレンズを付けようとすると、内径が途中から小さくなってレンズのそれより小さく、ピントを結ばない。

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 私は1日かけてダイヤモンドヤスリで内径を削った。手が痛くなり、親指には血豆が出来る。

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 やっと内径が広くなり、絞りリングのところまですっぽり入るようになったが、これを自製CSアダプターに装着してからさらにカメラに装着しても、まだピントが合わない。全長が長すぎるようだ。

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 今度はグラインダー用の円形のヤスリで全長を短くする。手作業だから、これは2日かかった。肩が痛くて仕方がない。(写真はすべて完成後。調整前の写真は撮りそこなった。こぎゃんありますもんなー。)

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 3日後、やっと無限遠が出た。
 熱心にやりすぎて妻に怒られながらの偉業達成である。

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 まさに「Cに短しDには長し」の米国製レンズであったが、これで使える「ベル&グラハム」は2個目になった。

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 近接撮影はネジを緩めてご覧の通り。

IMGP7072

 同じ会社の20mmといい、手こずらせてくれるが、なかなか楽しいレンズたちである。

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野球におけるサイコーな掛け声(男どアホウ藤崎台37)

ノーコン河童

 小さいころから野球をしてきた。
 ほぼすべて草野球だが。
 デビューは小学校4年生の町内野球だったろうか。
 左利きのグラブを買ってもらえず、右利き用のものを右手にはめて左翼を守った。

 野球にはずいぶんいろいろな掛け声がある。だいたい守備についているときが多い。これはやはり野球の守備というものが(投手を除けば)退屈、とまでは言わないが、打撃ほどには面白くないからだろう。

 誰でも掛けたことがある声は「オーライ」か。英語のAll right!が元になっているといわれる。この掛け声をかけないと、 野手同士が激突したり、ぶつかりそうになって「お見合い」をしたりする。

 「ワンアウト、ワンアウト!」とか、「ツーアウト、ツーアウト!」というのもよく使われる掛け声である。これもやはり早く守備を終わって打撃に移りたいという気持ちの表れだろう。
 これは自分を励ます意味もあるが、主に投手に対する励ましだと思う。ただし、せっかくツーアウトを取っているのに連続四球、などという場面では少しだけ投手に対する苛立ちの気持ちが込められているような気がするのは、私がノーコン投手だった僻みからだろうか。

 「ツーアウト!」という時の指の形も面白い。普通に示指と中指を使わない。示指と小指を立てて影絵の狐と同じような形にする。

 野球の掛け声はイントネーションも普通の叫び声とはちょっと違う。「ツアウトー、ツアウトー!」というように少し巻き舌で叫ぶのが作法である。

 最近は聞かなくなった掛け声もある。
 「リー、リー!」である。
 出塁して、特に一塁ランナーが投手を威嚇するのに使っていた。「リード、リード!」が略されたのだろうが、鈴虫の鳴き声のようで、ちょっと恥ずかしかった。特に調子に乗って「リー、リー」言う方に夢中になって足元が疎かになって牽制で刺されたりすると、恥ずかしさは頂点に達する。ベンチに帰って皆の白い眼を見るのが辛い。
 この恥ずかしさによって、最近のシャイな若者はリードするのにいちいち自己主張しなくなったのかもしれない。

 随分長いこと勘違いしていた掛け声がある。
 これもまた独特のイントネーションによって本来の語や文の意味が分かりにくくなっているからだろう。
 「サイコー!」である。攻守交替で守備についた直後にかける掛け声だ。
 私は「最高!」だと思っていた。つまりWe are number one!である。
 関西の大学で軟式野球部に入って、大阪人のチームメートが「イコウデー!」と叫ぶのを聞いて、初めて今まで自分の叫んでいた掛け声の本当の意味を知った。
 「イコウデー!」って何だ? あ、「行こうでー!」か。
 するといつも俺が叫んでいたのは…「サ、イコー!」、「さ、行こう!」、「さあ、行こう!」か。

 齢18歳にして初めて真実に辿り着いた瞬間であった(アホか)。

 未だに意味が分からない掛け声がある。
 「オーエー!」である。これもやはり守備のときに使用していたような気がする。
 これは他の地方では聞いたことがないから九州限定、あるいは熊本限定かもしれない。
 こちらは齢56歳になってもいまだに意味が分からない。「OA?」。

 最近は持病で野球をやっていないから、死ぬまでに謎が解けないかもしれない。

ラブホに予約して1人で泊った男(それでも生きてゆく私240)

一人でラブホ

 私の仕事の内容をよく知らない人は、「出張でいろいろなところに行けていいですね」と言うが、「世の中に楽な仕事なし」というのは本当である。

 考えてみれば、その出張がなければ、私は休みを取ってその土地以外の場所に行けたかもしれないのである。 
 第一出張は仕事である。仕事はうまくいかないこともある。
 うまくいけば気持ちよく、ときには仕事相手と楽しい宴の後に相手の準備してくれた宿で一泊、などということもある。
 しかし、うまくいかないときには、お互い気まずい思いで、それでも再会を約束し、行く末を思いながら一人侘しく食事して早々に寝る、などということもある。

 その日は急な出張で、私はまだ宿を予約していなかった。
 随分遅くなったので、それから熊本には帰れない。こともないが、私は心臓が悪いのであまり長距離移動や寝不足の負荷がかかりすぎると決まって発作が起こる。
 幸い私の職場はまともなところなので、そういう場合には宿泊していいことになっている。

 わたしはよく使っている「ちゃらん(仮名)」で今夜の宿を探そうとした。ところが、泊まる日の夜遅くに探し始めたからか、あるいは金曜日だったからか、空いている宿がない。もちろん一か月の給料の1/10くらい、というような高級な宿は空いているのだが、そんなところに泊まるくらいならば商店街のアーケードに段ボールと新聞紙を敷いて寝た方がマシである(実は学生時代に一度ある)。

 わたしは空き地に停めた車の中で必死になって今夜の宿を探した。
 すると、20サイトくらい彷徨った後(本当)、やっとダブルの部屋に1人で泊れるホテルを見つけた。しかも、1人で泊る部屋としては割高なのだが、ダブルにしてはえらく格安である。これならば会社の出張費の枠内に収まる。
 私は早速宿を予約した。もう半分は駅の待合室に寝ることも覚悟していたのだが。ダブルの部屋に一人で泊るというのも寂しいものだが、背に腹は代えられぬというのはまさにこのことである。
 ちょっとだけ気になったのはその宿に「大人限定」と書いてあったことだけだ。

 ナビを頼りに運転していくと、どんどん道が狭くなる。もっとも、出張先であるA市はもともと坂の多い道の狭い街であるが。
 何回か見つけられずにぐるぐる近辺を回った後、「やはりここ以外にはないな」というホテルに辿り着いた。紛うことなき「ラ〇ホ」、現代風にいうところの「ファッションホテル」である(最近こう言うのかなあ。死語じゃあ?)。
 そのとき、鈍い私は「大人限定」という言葉の意味がやっと分かった。

 ホテルに入ると、カウンターがあったが、係の人の顔が見えない。分かるのは声だけである。 
 私はラ〇ホに入るのは初めてであるからまったく勝手が分からない(大嘘?)。
 だが、とにかく部屋を決め、鍵をもらい、出張での宿泊であるから会社の名前を言って領収書を切ってもらう。

 隣に空き地があったので「駐車場は隣でいいですか」と言うと、「ああ、隣は違います。地下にお願いします」との答えなので、空き地に戻って車を地下の駐車場に入れ直す。

 「2階はカップルの方が来るかもしれないので遠慮してください」と言われ、3階までえっちらおっちら上がる。急な出張で長距離運転して気を遣った後なので、足は棒、身体は鉛のようである。

 部屋に入るとベッドがあって、トリプルではないかというくらいに広い。
 「ここに一人で泊るのか」と思うと、何ともいえない虚しさと寂しさが襲ってきた。

イワシの缶詰

 私は30数年前の韓国で友人のA君と男同士「鰯の缶詰」になって「大人専用宿」に泊まったことはあるが、一人でこのテの宿に泊まったことはない。

 早々に食事に出かける。

 どういうわけかここは文教街で、まだ日が高く、周囲には学生が行き来している。
 
 ホテルのドアを出ると、幼い子を連れたお母さんにばったり出くわした。

母と子

 「〇〇ちゃん! 見るんじゃありません!」という感じでお母さんが子供をかばっているのが分かる。小学校のころ、幼稚園で遊んでいたときにお母さんたちから浴びていた視線である。 幼稚園を占領する小学生(Good Old Days29)

 ただ、近くの食べ物屋はえらく美味かった。
 特にB県特産の鯨はサエズリ(舌)やヒャクヒロ(腸)など珍しくて美味しいものが食べられて大満足だった。
 私はただそれだけでいろいろなことを忘れられる幸せな人間なのである。
 だから、もし口から食べられなくなったらと思ったらゾッとする。私の仕事は人に口から食べてもらう仕事であるが、「天職」と言っていいかもしれない。

 帰り道のコンビニで漫画を買った。まだ寝るには少し早い時間である。題名は「論語」。
 孔子の言葉に触れるのは久しぶりだったが、実に面白かった。
 特に印象に残った言葉は、「徳は孤ならず、必ず隣あり。」というものである。亡き父がよく口にしていた言葉だ。現代誤訳は「志のある人は孤立しているようでも一人ではない。必ず応援してくれる人があるものだ。」くらいだろうか。

 一人で寝るにはあまりにも広いベッドの空いた空間を見ながら、「徳はシングルならず、必ずダブルあり。あるいはツインか。」という言葉が浮かんできて可笑しくて仕方がなかった。馬鹿みたいだが。

 気持ちよく寝られた一夜だった。

  ちなみに冒頭の歌は「つがひ」ではなく「妹背」の方が良かったかなと後悔しているのですが、短歌に詳しい方、ご意見をお聞かせください(この手の呼びかけにただの一度も反応があったことがないんだよな)


Too オープンハウスのzoo zooしい住民たち(余は如何にして言語聴覚士となりしか外伝24)

病人の部屋でコンパ

 出張でA市に泊まった翌朝。
 愛車「ウォッス(仮名)」に乗り込もうとした私は、脇腹に激痛を感じて「イテテテテッ!」と叫んでしまった。脇腹が攣ったのだ。
 前日はA君たちとの飲み会。A君と飲んだ翌日はいつもこうだ。笑いすぎて、しまいには脇腹が攣ってしまう。
 「どうすればそんな面白い話を仕入れてくるのか」というくらいにA君の話は面白い。
 これは若いころからのA君の性格によるのだろう。紅顔の少年(美とつけるのは憚られるが)だったA君ももう40歳が近い。それにしても変わらないオープンな性格である。
 A君と私は言語聴覚士養成校の同級だ。歳は18私が上だが、態度はどう考えても逆である。
 A君の奥さんに言わせればA君は「世界一格好いい」のだそうで、A君の振舞いも「世界一カッコいい男」にふさわしいものなのだ。

オープンハウス

 彼がどれくらいオープンな性格かといえば、学生時代には自分の部屋に鍵を掛けないくらいにオープンだった。これについては既に余は如何にして言語聴覚士となりし乎42(tooオープンハウスの住人たち)という題名で書いた。
 その結果として、A君の部屋は本人不在の「合コン会場」と化し、さらに、

侵入犯

 さすがに臨床実習で他県に行くときはさすがにまずかろうというので鍵を掛けたところ、隣の隣の部屋から侵入した怪漢たちが勝手に部屋でTVゲームをする、などという、施錠の、じゃなかった、世情の世知辛くなった今ならが確実に警察沙汰になるような事態も発生していたのだ。余は如何にして言語聴覚士となりし乎68(tooオープンハウスの住人たち2)

 ちなみにこの2番目のネタはA君本人ではなく私たちの同級生だったBさんから提供されたネタで、もうさすがにこの部屋に関する話はネタ切れだなと私は思っていた。
 ところが、前日のA君の話ではもう一つネタがあるという。私はそれに腹を捩れさせられてしまい、今日は車に乗るくらいの軽い身体の捻じれでも攣るくらいの体たらくになってしまったのだ。

 以下はいい加減酔っぱらっていた私の覚えている限りの話である。
 もともと体の丈夫なA君は、滅多に病気しない。風邪などひいた覚えがない。
 ところが、学生時代のその日は、珍しく悪寒と関節痛がし、バイトも休んで部屋で寝て居た。悪寒と関節痛の後からは高熱がやってくるのが通常の経過である。
 その通り、A君はみるみる熱が上がり、咽頭も痛くなって、ゴホゴホゼーゼーいいはじめた。
 確実に風邪(感冒症候群)である。それどころか、流行性官房、じゃなかった、A君はウソつきじゃないからな、流行性感冒(インフルエンザ)かもしれない。
 さすがに心細い。誰か来てくれないか。こんなときに限って誰も来ないな。
 
 ボーッとした頭で考えていたとき、突然C君が入ってきた。
 しかも、女性の2人連れである。
 「よう、A、合コンしようぜ!」
 こいつは何を言っているんだろう。今の俺の状態が分からないのだろうか。ハアハアいいながらベッドで寝込んでいるのである。
「ちょっと、今日は…」と言いかけたA君を尻目に、C君は、
「さあ、座って座って。遠慮しなくていいから。」と女の子たちに呼びかけ、買ってきた酒、煙草、おつまみを炬燵のテーブルに広げ、座り込んでしまった。
 女の子たちはさすがにちょっと躊躇していたようだが、A君の額に手を当てたC君から「平気平気。大した熱じゃないよ。大丈夫!」と言われ、C君の両隣りに座った。玄関側の席がC君、両隣りが女の子たち、A君のベッド側の席は空席である。
 C君は自分のグラスと女の子たちのグラスにチューハイを注ぐと、A君に、「お前も飲む?」と聞き、A君の返事を待たずに、「まあ、注いどこう」と言って空席のグラスに酒を注いだ。まるで蔭膳である。
 
 A君にとっては無限に長く感じる時間の後、C君は女の子2人のうちの1人と今後のビジョンが一致したらしく、二人を連れて部屋を出て行った。
「Cの行方は誰も知らない(芥川龍之介「羅生門」調で)」。

 私は当然のことながらC君が誰であるか知っている。

「前途多難な電車通」の画像検索結果

 電車の床に座り込んで今は亡きPHSをいじっていたD君か?

試験勉強

 あるいは試験勉強のときですら女の子にメールを送り続けていたE君か。

回転男

 あるいは回転しながら話を続けていたF君か?
ピアス

 あるいは「身体髪膚これ穴だらけ」のG君か?

九州地図

 はたまた恩師から「隣の県の病院だから」と言われて実家から数百kmm離れた病院に就職してそこで暮らし続けているH君か(彼ではあるまい)。

実習生を呼びに行ったら

 それとも実習中に漫画を読んでいて中止になったという噂のあったI君か。

 書いていて呆れてきたが、こんな「zoo zooしい連中」だって今は真面目に働いているのだ。君たちもきっと言語聴覚士になれる。がんばれ、実習生。

カメラ河童のジャンク道遥か53-米国製レンズに一喜一憂-(それでも生きてゆく私239)

あのときもこうだった

 韓国語に「ソマン(素望)」という言葉がある。「常日頃からずっと持っている望み」という意味だ。日本語としてもあるのだが、ほとんど使われない言葉である。日本語では「素志」が近い言葉だと思うのだが、これもほとんど使われない。よく使われる言葉は「初志」であるが、「素望」とはちょっと意味が違うような気がする。

 私が古い8mmカメラを分解(破壊)してレンズを取りだし、改造レンズを製造し始めた「素望」は、カメラからDマウントレンズを取りだして愛機「オバQ」に付けて撮影することだった。

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 Dマウントレンズとは、古い8mmカメラ用の取り外し可能な小さなレンズのことである。 ちなみにマウントはレンズとカメラの接合部のことで、時代により、またメーカーによりマウントの規格が違う。Dマウントは現代のデジタル一眼カメラに装着して撮影可能な最も小さい規格であり、その次に大きなマウントはCマウントという。

 DマウントレンズやCマウントレンズは「ハートオープン(仮名)」のような普通のリサイクルショップで売られていることは稀である。これらのレンズを手に入れるためには、都内の専門店に行くか、ネットに接続して「家畜人オークション(仮名)」のようなオークション、「カリガリ博士(仮名)」のようなフリーマーケットで買うしかない。 
 私はときどきオークションに入札するが、その目的は「素見(ひやかし)」であり、むしろ落札してしまったら困る、というスタンスである。これがどんな方法で行われるかについては、既に2度ほど書いたことがあるカメラ河童のジャンク道遥か35-寒い国から来た怪物-(それでも生きてゆく私229)

 私がとある8mmカメラに入札したのも、まさに素見がその動機であった。
 そのカメラはレンズが2つ付いている、米国製のものだった。メーカーは「ベル&グラハム(仮名)」。日本で国産の8mmカメラが製造されるまで、金持ちたちはほとんどがこのカメラで撮影していたという有名どころである。レンズ付きであるから、相場としては安いフレンチの1コースくらいの値段である。
 私が入札したのは昔のニュース映画にもよく出てくるラクダの背中のようなスタイルの有名なタイプではなかったが、ネットなどで結構見かけるレンズが付属したもう一つ新しいタイプのもののようだった。

 私はこれに牛丼一杯分くらいの値段で入札した。まったく期待していなかった。「ベル&グラハム」がそんな値段で落札できるわけがない。
 ところが、最後まで私以外の入札者は現れず、私はしぶしぶ手続きをした。値段は牛丼一杯分のままである。

入札者は俺だけ

 落札した瞬間に私は不安になった。今までのオークションで「有名どころ」が安く落札できた時は、必ず「訳あり」だったからだ。これについては「後玉がないっ!」シリーズで詳らかにしたことがあるカメラ河童のジャンク道遥か37-後玉がないっ!その1-(それでも生きてゆく私232)。つまり、改造抜きでは使えないレンズが届く確率が100%なのだ。

 このカメラが届き、梱包をほどいた瞬間、私は自分の予感が正しかったことに慄いた。このカメラのレンズは固定式だったのである。しかも、レンズが2つある、と思っていたもののうち、一つは距離計だった。結局改造の必要な固定式レンズをそれなりの値段で1個わざわざ買ってしまったのだ。

 ところが、よく見てみると、このレンズはひどく外しやすそうである。日本のやつはまずカメラを破壊しないとレンズが取り出せないくらいに複雑なのだが、これはネジを外せば簡単に取り出せそうである。

 案の定、レンズは簡単に露出した。
 ところが最後の仕上げはちょっと面倒で、多くのレンズで前玉を固定してあるようなリングを外さなければならなかった。しかし、この日あるを期して、私はそのための専用の道具である「カニ目レンチ」を安く手に入れていたのだ。これはまた本当に専用機器にあるまじき安値の某国製である。 
 私は今までに相当数の小型レンズを分解して清掃したり改造したりしているから、これらを分解するのに普通は「カニ目」を使わない。「体操(仮名)」で買った女性の眉毛抜きを回転させて開けてしまう。ただ、大型レンズの場合はレンズを傷つけてしまう恐れがあるのでほとんど使わない「カニ目」を念のために買っていたのが幸いしたのだ。これは使用するのが3回目である。

 レンズは「カニ目」を回転させると割と簡単に取り外せた。

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 その時私は気付いた。「これはCマウントレンズなのでは?」

結像するわけがない

 普通レンズ固定式カメラから取り外したレンズは改造が必須である。特に8mmから取り出した奴は、鏡胴(レンズの入れ物)を自分で作って前玉と後玉を合体させてやらなければならない。そうしないと像そのものを結ばないのだ。
 これが素人作業なので、なかなかプロが作ったレンズのような写りにならないのである。

 ところが、取り出したレンズはどう見ても前玉、後玉、マウントの合体した、完全体のレンズである。 

 知る人ぞ知るだが、Cマウントのオールドレンズは高価である。私の蒐集しているDマウントの10倍くらいするレンズはザラなのだ。そもそも私が同じシネレンズでもCマウントではなくDマウントを集めているのは、主に(というより専ら)値段という要素によるのである。
 事実、「ベル&グラハム」のCマウントも市場では相当の高値で取引されている。これは小さな職場の全員の忘年会費用位賄えてしまうくらいの値段である。もっとも、「ほのぼのライカ(仮名)」に取り付け可能なlマウントレンズは目の玉の飛び出るようなものもあるが。

 私は牛丼1杯の値段で高価な外国製Cマウントレンズを手に入れることができたのかもしれない。

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 私は震える手で(大袈裟)レンズをC→Qマウントアダプター(写真右。左はD→Qマウントアダプター)に嵌めてみた。なんと、ぴったり嵌る。やはりこれはCマウントレンズだったのだ。

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 私はガタガタ震えだした手で(大袈裟)レンズをアダプターごと「オバQ」に装着し、ピントを合わせてみた。

 「あれ?」
 ピントが合わない。ボンヤリした像が映るだけだ。
 絞りを変えてみたり、いろいろやってみたが、やはりちゃんとした像を結ばない。
 このレンズはCマウントだがCマウントではないのだ(なんのこっちゃ)。

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 そのとき私は、まだレンズに凝り始めたころにやはり牛丼1杯分くらいで買った、ピントの合わないレンズを思い出した。今は「シン部屋」にある「レンズ箱」の中でひっそりと保管(放置)されている奴である。
 これも買ったときアダプターにぴったり嵌ったのだが、まるで像を結ばない。
 調べてみると、Cマウントにそっくりだが、フランジバック(像を結ぶ距離)がCマウントより短いCSマウントという規格らしい。
 私はそのときも何とかそのレンズで撮影しようとあれこれ頑張ってみたのだが、遂に断念したのだ。CS→Qマウントアダプターに市販のものは存在しないらしかった。

 どうする。

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 レンズをいじって撮影可能にする技術は持ち合わせている。私はそうして改造したレンズをたくさん持っている。しかし、鏡胴をいじると、本来の写りは期待できなくなる。せっかく舶来の高いレンズが僥倖で手に入ったのだ。

 あ、そういえば。このレンズに付いてあれこれ調べていたとき、CS→Qアダプターを自作した人の話を読んだことを思い出した。

 その人はCマウントアダプターをグラインダーで削って薄くしてCSに改造していたような気がする。
 ただ、私はグラインダーを持っていないから手作業になる。相手はアルミニウム製である。ビニールの水道管を鏡胴様に削るより、とてつもなく面倒な作業になりそうだ。

 仕方がない。頑張ってみるか。
 アルミの粉末で喘息になるのはまっぴらなのでマスクをし、途中手を削ってしまって怪我をしたのでゴム製の軍手を嵌め、熱中しすぎて食事や風呂に遅れて妻に怒られながら、作業すること1週間、どうにか像を結ぶところまで持ってきた。
 別に悪いことをしているわけでもないのに、「道楽」という意識があるからどこか後ろめたい。冒頭の絵のような心境である。

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 アダプターは削ることの可能なギリギリのところまで削られている。おかげで親指と薬指の一部も削ってしまった。これ以上削ると金具のピン留めができなくなり、無限遠位置の調整ができなくなる。

 さて、試写(いつもの演出で、実はこれまでにさんざん試写している)。

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 1960年代の米国製品って、凄かったんだな。

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 こんなに小さなレンズなのに、開放で撮っても収差や歪みや流れ、滲みなどがほぼない。

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 ただし、無限遠は出ない。
 これはレンズのせいではなく、自製CS→Qマウントアダプターの性能のせいである。

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 それでも最大限絞ると「無限遠もどき」は出る。本当は開放で出したかったのだが。

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 古き良き米国のレンズに一喜一憂した一週間であった。

皆様のおかげです(それでも生きてゆく私238)

やっと原状復帰

 熊本地震で実家が損壊して以来県外に避難していた母がやっと帰ってきた。

 壊れた部分を判定してもらって改修し、倒壊散乱した家具や本を片付け、長年の積もり積もった思い出(私たちにはゴミにしか見えないものもあるが)を倉庫を建てて収納し、使えなくなった家財は買い替え、まだ水回りは改修が必要と思われるが、どうにか人の住めるところまで復帰させた。

 これは偏に昨年の休日のほとんどを婚家の片付けに使った妻のお陰である。妻には韓国の有名デザイナーY,S,Wのグッズを贈ることを改めて宣言したい(まだ贈ってなかったんかい)。 
 また、お忙しいのに単なる仕事以上のことをしてくださったA工務店のAさん(妻の知人)のお陰でもある。
 また、行政についても本当に助かった。私は住宅や建築については全くドのつく素人であるから、行政の援助がなかったら途方に暮れていたであろう。

 きょうだいに関しては母親の面倒を見るのは人としての当然の責務であるから、口に出して礼を言うことはしないでおこう。

 仏間に帰ってきた笑顔の父の写真の見ていたらいろいろな人の情けの有難味が骨身に染みた。
 
 熊本地震から1年が過ぎたが、まだ仮設住宅で生活している人が何万人もいる。
 自分ばかり喜んでいないで、そうした人々のこともいつも心に留めながら、これからも熊本県民とともに歩んでいこうと思っています。

カメラ河童のジャンク道遥か52-ボケのいろいろ-(それでも生きてゆく私237)

グル玉ボケに逢う

 写真に凝り始めたころ、私は「写真はボケが少ないほどいいのだ」と思っていた。
 これは私が子供の頃「ピンボケ」という言葉が写真専門用語でなく日常の言葉として大人たちの間で交わされていたからであろう。有名な戦場カメラマンであるロバート・キャパにも「ちょっとピンボケ」という著作がある。

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 専門的には「パンフォーカス」という、隅から隅までくっきり写っている写真がいい写真で、

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 何だかボーッとした「ピンボケ写真」は失敗なのだというのが、世間一般の常識だった。

 これはあの当時の時代状況による。

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 ピントのあった対象物はくっきり写り、それ以外の部分はボーッとしている、という、絞り全開放特有の写真が撮れる一眼レフカメラは多くの人が触った事すらなかったのだ。

 携帯電話で随分質の高い写真が撮れるようになっても、このカメラでボケを生かした写真を撮ることはなかなか難しい。

 人々が「ボケ味」に気付いたのは、デジタル一眼が比較的安価に普及し、セットで付いてきたレンズの望遠の方で撮ったら被写体以外にボケがあって面白い写真が撮れると判ってからではないだろうか。

ツッコム気にもならないボケ

 私は愛機「ペンテコステオバQ」に純正でない古いレンズを付けて撮ってみて初めてボケというものが面白いものだと知った。

 特に、主に懐具合の関係で、私はDマウントレンズという8mmカメラ用の小さなレンズに縁があった。しかも、ジャンク品だから自分で修理したり調整したりしなければならない。

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 私が最初に買ったDマウント「椰子呑13mmF1.4(仮名)」は全開放で撮ると「爆発ボケ」の出るレンズだった。これは専門用語では「流れ」といっていい現象とは捉えられていないことを後で知ったが、私としてはこのレンズの面白みの一つである。

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 「爆発ボケ」はシネレンズ(ムービーカメラのレンズ)を改造したものに出やすい。これは改造の際に自分で後玉部分を設計する必要があるのと、もともと開放F値(レンズへの光の入りやすさ。小さいほど入りやすい)が小さいレンズが多いからだろう。私が持っているレンズではこの「不治?Non!-MAZ改(仮名)」が究極の「爆発レンズ」だろう。

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 「椰子呑」と一緒に古い8mmカメラに付いていた「ヨハン・シュトラウス38mm F1.8(仮名)」は「ぐるぐるボケ」の出るレンズだった。

 「ぐるぐるボケ」は口径の小さなDマウントには比較的出やすいボケで、最近は少々食傷気味なので意識して出すことはせず、偶然出たらそれでよし、というスタンスに変わってきている。

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 これは私が究極の「ぐるぐるレンズ」である「平気さー!9-28mm F1.4改(仮名)」を創り出してしまったからだ。おそらくこれ以上のぐるぐるレンズは地球上には存在しない(白髪三千丈)。

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 改造レンズは「玉ボケ」も生んだ。「不治?Non!38mmf2.8改」の映像である。これは一般には「バブルボケ」というらしい。

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 さらに「玉ボケ」より小さい「プチプチボケ」の出るレンズも製造した。「平気さー! 40mmF2.8改(仮名)」である。これは見方によっては「ブツブツ」に見えるから、賛否が分かれるかもしれない。

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 「ケムンパス随喜40mmF1.7改(仮名)」の「トロトロボケ」も春の陽気にふさわしい。

 こうしてみるとDマウントレンズや改造レンズは実に個性的なボケを醸し出している。

 面白いので以前から持っているレンズも思い切りボケさせたらどんなボケがでるのか興味が湧いてきて、最近使わなくなってレンズ箱やレンズ袋で保存(放置)されていたレンズを引っ張り出してきた。

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 「何処16mm F1.6(仮名)」である。
 元は監視カメラのレンズだから暗闇には強いが、絞りがついていないので写真の腕が上がるにつれて(錯覚?)物足りなくなって最近ご無沙汰だったのだ。
 Cマウントレンズである(司馬遼太郎調で)。

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 まあ普通のボケかな、と思っていたら、

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 回転を始め、

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 玉ボケが現れ、

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 遂にそれが回転した。「ぐる玉ボケ」である。

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 「ぐる玉ボケ」は不完全なものが「碧茶農9-28mm F1.4改(仮名)」で一度だけ撮れたことがあるが、

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  これほど完全なものは初めてである。
 この写真などはちょっと「ぐるプチボケ」っぽくて、気色悪さと紙一重だが。

 まだまだ面白いボケをかましてくれそうな我が家のレンズたちである。

しばし別れの韓国旅行後日談2-バイテクで作ってるんじゃないかと疑う匙-(河童亜細亜紀行101)

只者ではない匙

 私と韓国スプーンの付き合いは長い。

 私が長い長い大学生活に終止符を打ってすぐくらいに渡韓して出会ったのが最初だから、かれこれ30年になる。

床の鶏骨を増やす

 私が韓国の食堂で衝撃を受けたのが、床一杯に広がる鳥の骨などのゴミと、独特の形をしたスプーンだった。

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 私は大学時代京都の韓国人街に住んでいたから、韓国料理はさんざん食べていたはずなのだが、どういうものかこの先のとがった独特の形のスプーンにはお目にかかったことがなかったような気がする。

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 当時日本にはこういう形の西洋風のスプーンしかなく、韓国料理屋でも多くはこのタイプを使っていたような気がするのだが、実は散々見ていたのに旅先の高揚感から初めて気づいただけなのかもしれない。
 ちなみにこのスプーンは「ココロ一番やあ!(仮名)」で随分苦労してもらったスプーンで、現在我が家には西洋風のスプーンはこれだけなのだ。

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 このスプーンの左の1本を買って帰ったのがその初めであった。
 それまで使っていた西洋風のスプーンより明らかに使いやすいので、次に渡韓した時にもう1つ買って1セットにしたのだ。

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 その時もう1セット買ったスプーンには騙された。
 銀製だと思ってそれなりの値段で買ったのに、すぐ鍍金が剥げてみっともない外観になってしまったのだ。
 最初に買った奴に比べれば口に入れる部分も西洋匙に近くて今一つしっくりこない。

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 その後は最初に買ったデザインのものが韓国でも見つからなくなって、西洋風だが韓国風に浅めのスプーンが出回るようになって、現在我が家で常使いにしているのはこのタイプである。

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 今回の韓国旅行で私は民俗村の伝統工芸店で売っていたスプーンに魅せられてしまった。
 妻もご同様だったらしく、包丁のときには「持って帰れると?」と結構冷ややかだったのだが、スプーンの方は「まさか1本だけ買うつもりじゃないよね!?」という名言まで飛び出していた。これは私に浴びせる罵倒の言葉としては最上級に属する。私はまさにそういう男だからだ。

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 それがこの2セットの匙と箸である。
 正直私は韓国の金属製の箸は使いにくくて仕方がないので(不器用なので)、これはオマケである。
 結構な値段がして、私としては「清水の舞台」までは行かないが、「土手から川に飛び降りる」くらいの度胸は要った。

 上品な袋に包まれたお上品な品である。

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 口に入れるところはこんな感じで、何だか歪で個体差がある。

 これで参鶏湯を食べたときの感想が冒頭の絵である。

 最初は妻が食べて、「何? これ? 嘘みたい!」というので、よほど出来が悪いのかと思って食べてみると、口へのフィット感が只者ではない。

 「ぴったり」の一言である。

 まるでバイオテクノロジーの技術で口腔器官の構造・機能・病態(これは違うか。楽屋落ちですみません)を徹底的に分析したのではないか、というくらいだ。

 この感動を薄れさせたくないので、特別な時に特別な料理を食べるときの特別なスプーンとして使うことにして、

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 封印である。

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 これが我が家のスプーン軍である。
 これは決して物好きやオリエンタリズムで選ばれたものではなく、「使い勝手」が基準である。

 それにしてもなぜ我が日の本には「匙文化」が育たなかったのだろうか。
 それについては長くなりそうなのでまた今度。

しばし別れの韓国旅行後日談1-韓国包丁の切れ味-(河童亜細亜紀行100)

韓国包丁は難しい

 私は包丁が好きである。

 これは私がわりと頻繁に料理をすることと関係しているのかもしれない(妻の「嘘つき!」の声が聞こえる)。

 よく切れる包丁では気持ちよく料理ができる。

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 この4本は我が家で常使いにしている包丁だが、どれもよく切れる。

 左の2本は熊本県は川尻町で打たれた包丁、右の2本は同じく熊本県の天草地方で打たれた包丁である。

川尻駅にて

 特に左から2番目の柳刃包丁は私としては大枚を叩いて買ったもので、刺身を単なる「生魚の切り身」でなく料理としての「刺身」として作ろうとしたら欠かすことのできない調理道具である。
 心太を単なる「海藻の寄せ物を細切りにしたもの」でなく「心太」として作ろうと思ったら、心太突きが必須であるようなものだ。

 どの包丁も私の研ぐのが下手なために斑に輝いていて少しも美しくないが、切れ味は抜群である。
 右から2番目の鯵切包丁(天草独特の呼び名だが他所の地方では何というのだろう)以外は、結構大きな南瓜が丸ごとスパーッと切れる。

 だから「河豚を刺身にして人様にお金を出していただいて食べてもらう」とか、「豚足を関節かどうかに関わらずバーンと切断する」などといった用途でない限り、現有勢力の包丁で私は何も困っていない。

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 そんな私がわざわざ異国で包丁を買ったのは、それが「切れそう」という雰囲気を醸し出していたからだ。しかも安い。買ったのは韓国民俗村の中にある伝統工芸の店である。

 これは単なる自慢話だから読み飛ばしていただいて結構なのだが、私は不思議とその品物の相場というものが感じられる能力を持っている。
骨董鑑定

 骨董マニアの間では有名なTV番組「幸運! 何でも鑑定隊(仮名)」を見ていても、「お宝」の8割くらいは真贋はもちろん値段も極めて近いところを推測することが出来る。

 閑話休題(えまでもちだしてじまんかよ)。

 わたしのその能力に従えば、この包丁はそれに付いている値段の2倍の価値があると思われた。

 これは同日に買った韓国スプーン同様、私にとっては身分不相応な値段だったのだが、旅先の気分の高揚だろうか、私はこれを買ってしまった。

 韓国在住の娘の家まではリュックの中に入れて持ち帰ったが、考えてみると刃物は飛行機には持ち込めない。どうしようかと思ったが、婿殿の任期が終わってちょうど日本に帰国する時期だったので、その引っ越し荷物と共に船便で送ってもらうことにした。

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 3週間ほどして、包丁は我が家までやってきた。包装紙がなかなか独創的、というか、お茶目である。

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 包装紙を剥ぐと、包丁が現れた。黒光りしてなかなか切れそうな姿である。

 早速大根を切ってみた。
 ん? 何か使いにくいな。よく切れるのは切れるんだけど。

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 やはり柄が丸いからだろうか。これも日本の包丁とはだいぶ違う。

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 だが、本当の原因はこれだろう。おそらくこの包丁は右利き用なのだ。刃が少しだけ右に寄って入れてある。左利きの私には少し力が逃げる構造なのだ。
 右利きの妻は私の「使いにくい」という言葉に、「そう? そんなことないよ。使いやすいよ。」と言ったから、やはりそうなのだと思った。
 もっとも妻は、私が「上」と言えば「下」、「右」と言えば「左」と取り敢えず言うことが多いから、今回もその習慣に従っただけかもしれないが。

 「これは意外と早い時期に流し台の下に新聞紙にくるまれて保存かな」と、今までに買った包丁の中であまり気に入らなかった物のお定まりの運命を辿るのかと思った。

 ただ、私はこの包丁が「鯵切」に似ているのに気づいて、その用途に使ってみることにした。
 たまたま岳父が牛深で鯵を釣ってきてくれたのだ。

 今夜のメニューは鯵の刺身とアジフライである。

 刺身のサクを作るために三枚におろす時と、アジフライの下拵えのために背開きにする時は結構固い骨を切らなければならない。この任務にこのちょっと「骨太」の包丁はちょうどいいのではないか。

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 そういえばよく見るとこの包丁は、刃の反りではなく刃の厚みに注目すると、実は鯵切より出刃に一番近く、かつ少し小ぶりだから、「小出刃」として使えばよい。

 使ってみると、この切っ先は背骨と肉の間に滑り込ませるのに鯵切包丁以上に適していることに気付いた。鯵切は(柳刃も)刃が薄いから、ちょっとこじったりすると刃が欠けてしまう。ところがこの包丁はそのような行為に及んでも刃こぼれ一つないのだ。

 刺身のサクとアジフライの下拵えが素早く完成。

 いい匂いをさせてアジフライが揚がってから、次は刺身を引く。

 いつもの柳刃を使おうかと思ったのだが、韓国包丁の意外な使いやすさに、この包丁でやってみることにした。

 いつものように、力を入れず、真っすぐ「スーッ」と引く。

 結果が冒頭の絵である。

 韓国包丁の刃は日本の包丁とは微妙に違う独特の反りがあるから、柳刃のつもりで刺身を引くと、漫画の沢庵のように全部つながってしまうのだ。

 皿に盛りつけて食べようとした瞬間に気付き、激怒。
 鯵のような柔らかい魚でこれだから、烏賊などはもっとひどいだろう。

 これが隣国というものなのだろうか。

 似ているが、違う。

 別に日本の包丁よりも劣っているわけではない。単に、切り方が違うだけだ。もっと手首を使って切る必要があるのだろう。真っすぐ「スーッ」と引いては駄目なのだ。少しだけ弧を描きながら引く必要があるのだろう。


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 日本の直線でも、中国の曲線でもない、韓国独特の弧である。
 これが包丁にも現れているのだ。

 微妙な違いなのだが、「日本の包丁と同じように韓国の包丁を使いたい」という私にはこれはストレスである。

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 といいつつ、この包丁は我が家のラインナップに加えられたのであった。

 妻は「使いやすい」と言っていた割には一度使った後はいつもの三徳包丁に戻っていたが、またこの包丁を使い始めている。
 単なる物珍しさが冷めた後の妻は容赦ないが。
 今まで最初は「これいいよねー!」と評されたいろいろなものが、一定期間の後は倉庫の片隅や、はなはだしきはごみ収集場に送られている。

 韓国包丁は日本包丁の牙城(大袈裟)に地歩を築くことが出来るのだろうか。

 「やっぱり使いにくいな」となって流し台の下行きか、、「使い方が分かれば却って便利」となるのか、韓国包丁の今後の運命に要注目である。

カメラ河童のジャンク道遥か51-野原一杯の花はプチプチボケレンズで-(それでも生きてゆく私236)

プチプチレンズで撮影

 今年の熊本ではソメイヨシノの開花が遅れた分、菜の花や花大根など、野原を埋め尽くす花が長く咲いているような気がする。 

 この広い野原一杯咲く花を(ここまで歌の一節のパクリ)撮影するのにぴったりのレンズを私は持っている。

 このレンズはほかの人は持っていない。
 なぜなら、このレンズは私が作った(大袈裟。改造した)レンズだからである。

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 それは「平気さー! 40mmF2.8改(仮名)」だ。

 このレンズは「小西翁(仮名)」の古いコンパクトカメラを分解して取り出したレンズのフランジバック(センサーに像が映る距離)をリングやフィルターで調整して無限遠(ピントが見晴るかす遠景合わさること)を出した後、D→Qアダプターを接合して愛機「ペンテコステオバQ」に装着できるように作ったものである。

 「平気さー!」はプチプチやブツブツの嫌いな人には虫唾が走るような外観をしている。
 レンズの前の奇怪な模様は、レンズに余計な光が入ってきてハレーションが出るのを防ごうとしたためらしい。したがってこれと同時代のレンズ、たとえば「ケムンパス卞(仮名)」などはこれとよく似た外見だが、これ以後のレンズにはこのデザインは採用されていないから、結局あまり効果なし、と判定されてしまったのかもしれない。

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 写りはまあ真っ当なものなのだが、もう少し遠景に一面の花が入ると、

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 途端にこんな感じになる。
 これのどこがヘンなのか、と思った人にはもう少しわかりやすい絵を。

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 これなら流石に分かるか。

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 どうしても分からない人にはこれを。
 これで分からない場合は写真を拡大してください。

 「玉ボケ君」こと「不治? Non! 38mm F2.8(仮名)」の映し出す「玉ボケ」に似ているが、もっと細かくて零れるような感じである。

 まるでこのレンズの前面のハレーション防止のプチプチ模様が花に反射しているのではないかと錯覚するほどだ。
 私はこれを「プチプチボケ」と名付けた。

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 もう少し遠景になるとこのプチプチは消えてしまう。

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 ここまで遠くなるともう痕跡もない。

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 同じ群生でもムラサキケマンなどではこのプチプチは出ない。構図の関係かもしれないが。
 というか、ムラサキケマンは「一面の花」というほどには群生しないから、このプチプチは本当に大量に群生する花を撮ったときしか出ないのかもしれない。

 ということは菜の花や花大根の咲き乱れる春専用のレンズなのか。

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 桜を撮ったらちょっとだけプチッとした。

 もう少しいろいろなものでプチプチさせたいレンズである。

カメラ河童のジャンク道遥か50-待ちに待った桜-(それでも生きてゆく私235)

第二天門橋の桜

 遂にこの季節がやってきた。

 天草の桜である。
 ソメイヨシノは今年は開花が遅れているから、天草の山桜が先である。

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 天門橋の桜を定番の構図で撮ってみる。
 「頭脳13mmF1.9(仮名)」は開放だと少し爆発するな。絞るのを忘れていた。

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 次は「頭脳38mmF1.9(仮名)」。
 これはやはりキリッとスキッと鋭い桜である。いつもの写りだ。


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 同じ13mmだと「頭脳」より「ブルムベアー君」こと「歩こう13mmF1.9(仮名)」の方がすっきりくっきりした画像が得られる。こんなに小さなレンズなのにな。

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 さらに広角レンズで遠近感を強調してみる。レンズは「歩こう」兄弟の末弟、6.5mmF1.9である。ピントが旧天門橋の方に合ってしまった。ムービー用のシネ広角は静止画を取るときはピントを合わせるのが難しい。モニターを見ているとすべてにピントが合っているように見えるのだが、実はまったく合っていなかったり、見当違いなところに合っていたりする。

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 「玉ボケ君」こと「不治?Non!38mmF2.8改Ⅱ」でも撮ってみるが、全開放の絞りなしレンズの悲しさ、ここまで陽光が強いとどうもキリッとしない。春の早朝にはぴったりのレンズなのだが。

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 最後はもう一度「頭脳13mm」に替えて、工事の間しかとれない構図でパチリ。

 結局純正で撮った写真が一番よかった気もするが、春うららの日にチャチなレンズをとっかえひっかえというのもなかなか楽しいものだ。
 隣で撮っていた「本格派」の人のカメラがひどく重そうに見えた。
 Dマウント万歳である。

三角とりどりの記19-懐いているとしか思えないホオジロ-(Sea豚動物記94)

逃げないホオジロ

 その日は春なのにまた寒さのぶり返した早朝だった。

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 こんな日は愛機「ペンテコステオバQ(仮名)」のお供は「玉ボケ君Ⅱ」こと「不治?Non!38mmF2.8改Ⅱ」がいい。きっとお得意の玉ボケで寒さを緩めてくれるに違いない。

玉ボケレンズを製造す

 実は「玉ボケ君」は「Ⅱ」の名称が示す通り二代目なのである。初代の方がずっと玉ボケが出やすかったのだが、これは私の改造レンズの主要部品であるD→Qマウントアダプターの価格高騰により、現在はアダプターを他のレンズに譲って「レンズ箱」の中で休養中である。

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 なぜこんなことになったかというと、二代目ができたことと、初代は固定ピントの近距離専用だったためである。固定ピントだと突然野生動物が現れたときにシャッターチャンスを逃してしまう。

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 今年は桜の咲くのが遅い。
 何でも専門家によると、桜は冬の寒さが少し緩んでからもう一度寒くなり、さらに再度暖かくならないと咲かないのだという。面倒な奴である。それでも三角の桜もやっと1輪2輪花がついた。

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 椿の花はめっきり数が減ったが、それでもちらほらと咲き続けている。しつこい奴である。

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 Ⅱはなかなか玉ボケが出にくいが、それなりの条件が揃えばちゃんと出るし、

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 ピントはわざわざ身体を前後させる「人間ピント」に頼らなくてもヘリコイド(ピント合わせ)のリングを回せばピントが合うので楽ちんである。もっとも、楽ちんを追求するのだったら最初から純正レンズの自動焦点を使えばいいのだが。

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  どういうわけか花大根のように群生している花は玉ボケが出やすい。

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  花大根は今が真っ盛りである。どういうわけか以前は春の野原の花は菜の花が多かったような気がするのだが、最近は花大根の方が多い。


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  クローバーもそろそろ最盛期を迎えつつある。どういうわけかつい1週間くらい前まではポツポツしか咲いていなかったのだが。
  
  同じ言葉を何回も繰り返すのは前頭葉が萎縮しつつあるからに違いない。知らんけど。

  早朝の汽車が朝日を浴びながら通り過ぎる。こういう時に固定ピントの初代玉ボケ君はもう手がなかった。焦点が合う距離まで走って行くわけにもいかないし。IIは何と私の自製レンズには珍しく無限遠が出るのだ。

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  ふと下を見ると一面に土筆が顔を出している。昨日は気づかなかったのだが傘の開き方からするともう随分前から出ていたはずである。「見れども見れず」とはまさにこのことである。中国には「花を見て土筆を見ず」という諺があるということだが(大法螺)。

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 以前知ったかぶりをして「雀の写真を撮った」などと書いたら即座に「それは頬白です」という指摘が来て大恥を掻いたことを思い出す。( 三角とりどりの記3-やはり雀(ホオジロ)は可愛い-(Sea豚動物記71))

  

 雀に比べると警戒心の薄い頬白だが、近づきすぎたのか流石に逃げてしまった。

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  ところが、すぐ側の低木の梢に留まって鳴き始めた。百舌みたいな鳴き声で、これまた以前「百舌の写真を撮った」と言って掲載して指摘されて大恥をかいたことがある。
  きっと「百舌の鳴き声と頬白の鳴き声はまるで違いますよ」という指摘がまた来るに違いない。

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  それにしても、もう至近距離といっていい距離まで近づいても逃げない。



 考えてみると三角に越してきてからいつもこの場所でホオジロに会う。
 「見返り雀」に逢ったのもここだった。

 もしかすると同じ個体なのかもしれない。
 そうだとすると、私の個性を見分けて懐いた可能性もある。少なくとも無害だということは感じているのだろう。単に舐められているだけかもしれないが。

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  行きに見つけていた土筆を摘んで、散歩はおしまいである。
  今日の夕食は土筆の卵綴じにしようか。佃煮もいいな。

  「早起きは三文の徳」というミャンマーの諺を地で行った朝であった。

  国名は嘘。日本の諺です。

  というか、英語にも確か似た諺があったが。早起きの鳥は毛虫を捕まえる、とかなんとか。芋虫だったかな。あまり捕まえたくないが。




三角とりどりの記18-ヒヨドリへの愛憎-(Sea豚動物記93)

客観的に見たらアホ丸出し

  私が現在の住居に引っ越してきて4年目の春になった。

 三角は自然豊かなところ(田舎)なので、四季折々に野鳥の声が聞こえてくる。

 今年も桜の蕾が綻ぶと同時に、「ホーホケキョ」の声が聞こえてくるようになった。だが、毎年のことだが、この時期の鶯の鳴き声はまだ堂に入ったものではなく、「ケキョ、ケキョ」と練習段階のようである。

恐怖の鶯色

 もちろんご存知のとおり、鶯の姿を写真や動画に捉えるのは至難の業である。彼らはいつも木陰や藪陰を移動し、なかなか人の目に触れることは稀である。

 烏を除けばもっともよく見るのは雀なのだが、最近は日本における営巣環境が彼らにとって難しいものにものになっているらしく、以前のような田圃の空が暗くなるほどの大群は見なくなった。

 彼らの次に馴染みなのはヒヨドリだろう。
 鵯は鳴き声もよく聞こえてくる。
 警察官が泥棒を捕まえようとして「待てー!」という意味で鳴らす警笛のような「ピーッ!」という鋭い鳴き声である。昔の日本人にはこれが「ヒーヨ!」と聞こえていたらしく、この鳥の名の由来になっている。

鳩でなくヒヨドリ

 以前私は彼らが「甘党」なのではないかと問題提起していつものように無視されたのだが、この数年で自説に間違いがないことを確信するようになった。

 妻が野鳥に餌付けをしようとして庭にセットした柑橘類を最もよく食べに来ているのはほかならぬ彼らだからだ。

 それどころか、我が家の庭には土を肥やすために穴を掘って野菜や果物の屑を捨てているのだが、彼らは柑橘に味を占めてこれらの「ゴミ箱あさり」までするようになったので、私たちはこの穴に泥をかぶせるという面倒な作業が必須になってしまったのだ。

疑惑の視線

 鵯たちが柑橘に飽き足らず遂にエンドウ豆の芽(豆苗:トウミャオ)にまで手を出し始めたのではないかと疑った話はすでにした(私の農業入門記28-とりあえずごめんなさい-(それでも生きてゆく私182))。
 これはそのときには烏の仕業だと判って私は公開で鵯たちに謝罪を余儀なくされたのだが、何のことはない、今年になって、こいつらが実際に豌豆の芽を食べているところを現行犯で取り押さえた(嘘。見ただけ)のである。やはり私の勘はいつも正しい(関係妄想)。

 鵯は東亜全体に分布するが、実はそのほとんどの個体が日本に生息している。ほとんど日本の固有種と呼んでいい。



 だから釜山のヒヨドリを捉えたこの映像は意外に貴重なものなのかもしれないのだ。

 ただ、この日本人に昔から馴染の鳥は、最近は大切にされすぎて農作物に対する食害が問題となっている。これはニホンカモシカや猪とご同様である。

 我が家でも今年の豌豆の食害は過去なかったことだけに、ちょっと困った。私は道楽で野菜を作っているだけだから大したことではないのだが、職業で農作物を作っている農家さんだったら本当に深刻だろう。

 豌豆に対する食害は庭にセットする柑橘を増やし、鵯の関心をそちらに逸らすことでどうにか回避できた。
 ただ、甘党の鵯があれだけ好んで食べたということは、我が家の豆が相当甘いということだろう。実際、我が家の豆類を口に入れたときの第一印象は「甘い」なのだ。

 閑話休題(それはさておき)。

 私の家ではこれだけ近しい存在であるヒヨドリだが、意外にちゃんとした写真や動画は残っていない。

 これは彼らの極端なくらいの警戒心と、私の撮影技術の未熟による。

 私も随分写真が上手になったから(誰もそう言ってくれないから自分で言うのだが)、もう少しちゃんとした鵯の写真がほしくなった。

河童一族陰謀図

 今回も仕掛けは(三角とりどりの記14-メジロ夫婦、河童一族の陰謀に嵌る-(Sea豚動物記87))のときの撮影機器なのだが、今回はメジロの敵であるヒヨドリそのものだから、鳥籠改造餌場は不要である。
 私の「230円也送料の方が高い」リモコンはガラス越しだと全く役に立たないから、手動でシャッターを押すことにした。

 また、カメラは同じ「ペンテコステオバQ(仮名)」だが、カメラを動かしたときに鵯に気配を悟られにくいようにレンズはできるだけ軽いもので、かつ動画撮影にも適したDマウントシネレンズにする。(本当は単に今Dマウントに凝っているだけだけどね)。

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 こうして選ばれたレンズは「蹴るん好いたー25mmF2.5(仮名)」。このスイス製の上等舶来レンズがヒヨドリ君を待ち受ける。

 春とはいえ暗い部屋の中はまだ寒いから、厚着をして窓際に座り、じっと待つ。

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 「来たっ!」
 写真はご覧のとおり目にピントのあった鮮明な写真である。



 動画も至近距離から鮮明なものがバッチリ撮れた。さすがは銘玉の誉れ高い「蹴るん」である。これは心房細動のアブレーション前にヤケクソになって衝動的に買ったもので、信じられないくらいに安いが、ちっぽけなレンズと信じられないくらいに写りがいい。



 正面からも撮影。
 気配に感づかれて一度は逃げられたが、うすら寒い中でじっと待っていたら再度現れた。

 そのとき、有線放送の声が聞こえてきた。
 害獣駆除のお知らせである。
 猪や烏「など」をズドンとやってしまうから、流れ弾に気を付けてほしいとのことだ。

 食害が問題になっている鵯は「など」の中に入るのか。
 豌豆を食べられてしまったときは一瞬殺意を抱いた私だが、急に同情と心配の感情が湧いてきたのであった。

カメラ河童のジャンク道遥か49-春には春のレンズを持って-(それでも生きてゆく私234)

春には春にふさわしいレンズ


 その日の朝、私はいつものように散歩に出かけようとしていた。

 「今日も分厚い靴下と綿のたくさん入ったジャージを着て行かないと寒いぞ」と思いながら着替えようとしたとき、部屋の中が変に温かいのに気付いた。
 エアコンを見たが、暖房も入っていない。ストーブはこの間孫が来た時にしまったきりである。

 玄関を開けて外気の温度を確かめてみたが、これまたいつもの肌を刺すような冷たさはない。

 「もしかすると(今まで何度も裏切られてきたが、いつものとおり大袈裟だが)、春が来たんだな。」と思った。

 肩にはいつものように小さなカメラバッグを襷に掛けている。

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 私はその中に入っている愛機「ペンテコステオバQ(仮名)」から普段遣いにしているDマウントレンズ「ブルムベアー君」こと「歩こう13mmF1.9(仮名)」 を外し、自分の部屋のレンズバッグまであるレンズを取りに行き、はめた。

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 それは「ケムンパス随喜40mmF1.7改(仮名)」である。

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 私は8mmカメラのレンズであるDマウントレンズの蒐集家(推定100名)として全国的に有名だが(大嘘)、

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 改造レンズの大家としての顔も持っているのだ(誇大妄想)。

 閑話休題(じょうだんはこれくらいとして、あとはほらとじまんである)。

 私が「随喜」を思い出したのは、このレンズのトロトロのボケが、麗らかな春の花を撮るのに相応しいのではないかと思ったからだ。

 このレンズはもともと「ケムンパス」のコンパクトカメラに付いていたものを分解して取り出し、C→Qアダプターと合体させて「ヘンテコステ」に装着できるように改造したものである。

 では、写真集の始まり始まり。

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 まず、椿。いきなり春の花ではないが。

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 山桜。ソメイヨシノより少しピンクが強く、葉と一緒なのが特徴である。

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 ソメイヨシノはまだ蕾だ。

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 花大根。今が花盛りである。

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 クローバー。肥料として植えてあるものが畦道にこぼれたのだろう。



 ムラサキケマン。毒草で畑の雑草取りの主役だが、この時期に咲く花は美しい。

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 野茨。まだこれからである。祖母の好きな花だった。


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 白木蓮。そろそろ花も盛りを過ぎた。

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 紫木蓮。
 木蓮は花が美しいだけでなく、香りもすばらしい。ちょっとトイレを思い出すが。

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 鈴蘭も可憐な花を咲かせた。

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 花大根の色違い。こちらは観賞用に品種改良されたものだろう。

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 水仙もそろそろ終わりだが、まだ頑張っている。

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 近所の駅に置いてあるプランターの花たち。

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 椿はそろそろ終わりだが、これはしつこく咲くから今月いっぱいは楽しめるだろう。

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 どういうほけか今が真っ盛りの木を見つけた。今年は桜が遅いのと何か関係があるのかもしれない。

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 家に帰ると、庭の水仙も一輪だけ咲いていた。大輪である。

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 空豆の花も地味だが美しい。ましてや後2月もすると美味しい実をたくさんつけると思えば、一層いとおしい。

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 豌豆もヒヨドリに豆苗をいいように食べられてちっとも花が咲かないので心配していたが、目を逸らすために蜜柑を大量に庭に置いたら見事に引っかかって豌豆を食べなくなったので、やっと咲いた。実はこれからだろう。

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 ローズマリーは図体がでかくなりすぎたのでばっさり切ったら今年は花が少ない。でも借家だから仕方がない。

 寒い冬もやっと終わりだ。
 4度目の三角の春である。

しばし別れの韓国旅行13-韓国雑感 ソウル衛星都市編-(河童亜細亜紀行99)

田舎は甘くない

 婿殿の赴任地であったA市は近年急速に発展したソウルの衛星都市である。

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 ほんの十数年前までは、畦道を牛が通っていたようなところに、摩天楼が突如として出現した。 

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 だから街並みにも古いものはまるでなく、路地も広い。

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 幹線道路は広くて碁盤の目のように広がり、信号や標識なども判りやすく整備されている。

 釜山や仁川の旧市街とは全く違った風情である。
 おそらく韓国人にこの写真を見せても、「どこ?」と言うだろう。

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 それでも高級アパートなどでは韓国らしさを出そうとわざわざ楼閣が作ってあったりする。これもある意味で驚きだが。

 韓国でも首都への一極集中と地方の過疎化は深刻だそうで、首都の周辺の以前は田舎だったところがA市のような新興都市になる一方で、昔からの地方都市は寂れてしまいつつあるらしい。

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 烏賊天の専門店である。
 さんざん焼肉を喰った後だったが、揚げている様子があまりにも美味そうだったので入ってみた。



 ここの店員さんがとてもいい人で、彼が烏賊天を鋏で切ろうとしているところを動画撮影しようとすると、写真を撮ろうとしていると勘違いして止まってくれた。いやいや、動画だって。

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 ここの備え付けのティッシュペーパーはテーブルには置かれておらず、天井からぶら下がっていたので笑った。ただ、よく考えてみると、ここの食べ物は油ものばかりだから、ティッシュをテーブルに置いていたらギトギトに汚れてしまい、用を足せなくなってしまうだろう。ナイスアイディアである。

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 ピザも美味かった。私はこういうペラペラでカリカリの薄いピザが好きなのだが、韓国のものは基本的にこれが多い。

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 繁華街の中心の広場では屯して煙草を吸っている高校生らしき集団がいた。親は我が子が真面目に塾に通っていると思っているだろうに。
 以前の韓国ならば「あんたたち何してるの!」と注意するアジョシ(おじさん)やアジュンマ(おばさん)がいたものだが。最近は日本とご同様「君子危うきに近寄らず」と思わせるような出来事が起こった結果なのだろう。
 この通りを内心で「親不孝通り」と名付ける。
 まあ私の高校時代もあまり褒められたものではなかったことを思い出すが。

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 ヌタウナギである。
 値段の関係か、韓国では鰻より人気があるようだ。
 私は基本的にヌルヌル食品が好きなのだが、これはまだ食べたことがない。おそらく韓国人に誘われない限りは食べないだろう。

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 巨大チョッパチュプス(仮名)である。
 これ一個で巨大な飴玉かと思っていたら、後で開けてみたらプラスチックの容器に通常サイズの飴がたくさん入っていた。

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 真鍮製の洗面器。
 この間後輩と喋っていて驚いたのだが、「アルミの洗面器」の実物を見たことがない人がいるそうだ。
 TVではドリフなどでお馴染みのはずだが。
 何で洗面器の話になったかと言えば、「どうやったら目覚まし時計の音を大きくできるか」という会話からだった。そのうちにスマホに機能が集約されてしまって「目覚まし時計って何ですか」という話になるかもしれない。

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 チマ・チョゴリを来た女の子たち。
 民俗村には貸衣装屋があるようで、色とりどりのチョゴリに身を包んだ女性たちが闊歩していた。

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 やはり韓国女性にはチョゴリがよく似合う(当たり前か)。

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 韓国人の書いた虎の絵を見ると、どこかユーモラスで、この国の人々のこの動物に対する親愛の情とでもいうものを感じる。狩野派の虎の絵などはもっと怖い雰囲気である。

 ちなみに私の母方の祖父は「虎を描いては日本一」と言われた画家だが、現在ではネットで検索しても欠片も出てこないほど無名である。

 閑話休題(いっかいにひとつはじまんばなしをいれないときがすまないのはとしをとったからだろう)。

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 ヘッドライトの天の川である。

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 今回も「愛の写真」を狙って「スーパーぐるぐる君改ⅢFS」で写真を撮りまくったのだが、ハートが逆転したりボケたりして一枚もものにできなかった。

愛に満ちた夜景

 釜山では実に幸運な条件に恵まれたのだろう。

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 ビルの屋上の未だに正体の分からない「謎の物体」である。アンテナ?
 天才科学者のアジトか何かだろうか。

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 「しゃっぽろラーメン」。
 「ヘビースターラーメン(仮名)」のようなものだろうと思って味を確かめもせずにお湯を入れて食べてみた。
 私は「ヘビースター」に湯を入れて食べるのが大好きなのだ。
 なんと、砂糖が塗してあって、「刺身カレー」以来の地獄味であった。

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 さようならA市。
 あの夜のことは一生忘れないだろう。

しばし別れの韓国旅行12-嗚呼、輸入失敗-(河童亜細亜紀行98)

税関で没収

 帰国の前日、私はスーパーの買い物でとても美味そうなものを見つけていた。

 もはや写真すら残っていないので紹介できないのが残念だが、豚足(韓国語で「ジョッパル」)の煮物である。それをスライスして真空パックにしてある。 

 ところで前回豚足のことを韓国語で語尾に母音の/i/をつけて記載していたが、これは大阪は鶴橋のとある店で豚足を買う時にそう呼んだところ、「あんたはもう、そんな言葉を使いなさんな!」とその店のアジュンマ(おばさん)からたしなめられたことを思い出したので、訂正させていただく。

 もう一つは煮豚(韓国語で「ポッサム」)である。これは「コックパッド(仮名)」で見ながら自分で作ったことがあるが、さっぱりした中にもコクがあり、実に美味い。

 韓国では農林水産物はやや割高な感じを受ける。これは流通経路の問題と、国産のものが珍重されるからだろう。この2つのほかの土産に比べるとかなり割高なものだった。

 私はこのジョッパルとポッサムを娘夫婦の家の冷蔵庫で保存し、クーラーバッグに入れてマッコリとともに日本に持って帰ろうと思っていた。

 ところが、帰国の手続きも終えて、手荷物を取っていよいよ最後の関門の税関を通ろうとしたとき、係官から「肉製品をお持ちの方はいませんか? 肉製品は日本に持ち込めませんよ。」と呼びかけられた。

 「え? 税関の申告書には肉製品のことなんて欠片も書いてなかったが。」

 私は一瞬無視してそのまま通ろうかと思った。

 だが、私は善良なる日本国民である。日本国民として、日本に持ち込めない疑いのあるものを税関で申告せずにそのまま行ってしまうわけにはいけない。

 第一、私の持っている物は加熱した後真空パックされたものである。賞味期限も切れていない。いくらなんでもこれがアウトということはないだろう。

 ところが、私のジョッパルとポッサムを見た係官は、「申し訳ありませんが、これは日本に持ち込めません。今、口蹄疫が流行しておりまして。」と言った。
 口蹄疫?そういえば去年あたり相当流行っていた。私はもう一度自分の買ったものを見た。よりによってジョッパルである。「豚足」は要は「豚の蹄」なのである。こいつはアウトだろう。

 私はポッサムを指さし、「これは蹄じゃないですが、駄目ですか?」と尋ねたが、係官は気の毒そうに、「アジアは口蹄疫の好発地域なので肉製品は一切持ち込めないと思ってください」と言った。

 無念。

 私は飛行機の中でこの2つを夕食でマッコリと共に食する想像をして口に溜まった涎がこぼれないように堪えていたのである。もはや口と喉と胃袋が豚足と煮豚を待ち構えていたところから、いきなりこの二つが逃げてしまったのだ。

 「それでは放棄、ということでよろしいですか。」という係官の言葉を私は虚ろな気持ちで聞いた。「放棄」が「蜂起」に聞こえた。しかし、「法規」であるから仕方がない。私は善良なる日本国民なのだ(しつこい)。

 「これは焼却処分させていただきますから。」
 「焼却」という言葉が胸に突き刺さった。私は「もったいない世代」なのである(嘘)。

 こうして、ジョッパル君とポッサム君(二階級特進で擬人化)は日本の地を踏むことなくその生涯を終えたのだった。

 次はいつになるか分からないが、現地で食べることにしよう。

 それにしても。
 税関で物を没収されたのは初めてだった。

 最近、韓国のTVニュースなどを見ていると、韓国人の食品の安全に対する意識は日本と変わらない気がする。ときどき「トンデモ食品」が紹介されるが。
 「安全な国産品を食べましょう。」という言葉が飛び交っている。

 この「安全な国産品」が日本に来ると「危険なアジア産」になるのは皮肉な話である。

 もし国際的な規格で安全だと保証された食品でも、アジアの国のものであれば肉製品の輸入は駄目なのだろうか。

 そもそも、日本を出るときに「肉製品は日本に持ち帰れないので買わないでください」と、看板なりビデオなりで啓発してくれていれば買ってこないのに。
 なんだか間違って侵入した一方通行路の出口で待ち構えていた警官に捕まったような気分だった。

 ややこしい話になりそうなのでこれくらいにするが、なんとなく後味の悪い話であった。

 ただし、その日の夕食はマッコリほか韓国から買ってきた別の食品を食べて大満足で、その晩のうちにジョッパル君とポッサム君のことは綺麗に忘れてしまった私であった(偉そうなゴタクはなんだったんだ)。


しばし別れの韓国旅行11-帰りは土産物で完全軍装-(河童亜細亜紀行97)

完全軍装並みの荷物

 Aさん夫婦との楽しい宴の翌日。

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 朝食は娘の心尽くしのお手製であった。
 昼までには空港に行かなければならないので、前日の午後スーパーで買いこんで冷蔵庫に入れてあった食物を荷造りする。

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 各種の湯(タン=中国由来?のスープ)とクッ(固有のスープ?)である。

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  ナムルの素。

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 即席のトッポッキ(餅の辛煮)。

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 チョコレート菓子。

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 定番の韓国海苔。

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 海苔菓子。

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 何だかよく分からない駄菓子。韓国人はこれが大好きだそうだ。

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 各種のお茶。

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 トウモロコシのお菓子とアーモンドのお菓子。アーモンドは日本でも人気で、類似商品が出回りつつある。

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 缶詰。韓国ではなぜかツナ缶が多い。

 これにジョッパル(豚足)の醤油煮とポッサム(煮豚)。

 これらとマッコリ7本を買ってリュックに詰めて自宅に戻ろうとしたとき、私は自分の足が地面にのめり込みそうになる感覚を覚えた。リュックの紐が肩にずっしりと喰いこむ。完全軍装の兵隊くらいの荷物である。おそらく30kgくらいあるはずだ。
 立っているのもしんどく、冒頭の写真のようにリュックをどこかに預けていないと後ろにひっくり返りそうになる。

 ただ、これをスーツケース2個とリュック2個に分けてしまうと、「ちょっと重いかな」というくらいの荷物になった。それにしても機内に持ち込める重量ぎりぎりである。

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 A市からは仁川空港へ直行便が出ている。
 これに乗り込むと2時間もかからずに空港へ行ける。

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 席も体の大きい韓国人向けにできていて、快適だ。

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 ちょっとだけうたた寝をしたつもりだったが、もう仁川の干満の激しい海である。

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 干潟で何か採っている人がいる。
 おそらく九州の有明海と同じく、マテガイやムツゴロウやウミタケやタイラギなどの固有の生物なのだろう。ここは本当に有明の海に似ている。

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 空港の地下街で韓国最後の食事である。
 私は前回の釜山で食べられなかったオデンとキンパ(巻き寿司)、妻は温ククス(スープの温かい冷や麦のような麺)を食べる。
 何だかいつにもまして名残惜しい。

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 娘夫婦にしばしの別れを告げて、まだフライトまで随分時間があったので、免税店でさらに買い物をする。もうあと100g単位でないと重量オーバーなので軽い物を買う。

 これがいけなかった。
 私たちは出発ロビーと反対方向に歩いて行ったので、そこから引き返してロビーに行くのに30分近くを費やしてしまい、もう搭乗ぎりぎりの時間であった。
 搭乗口に着いた時にはハアハアいっている。

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 焦っていたのと席が窓際ではなかったので、離陸からフライト中の写真はない。

 1時間ほど飛んで、またうとうとしているうちにもう佐賀空港である。
 これくらいの時間だと、「自国から外国に行って帰ってきた」、という感慨よりも、「田舎から都会に行って帰ってきた」という感慨の方が強い。

 だが、それから10分もしないうちに、私は「外遊の帰り(大袈裟)」であることを思い知らされたのだった。
 以下、次号。

しばし別れの韓国旅行10-恩人との夕食-(河童亜細亜紀行96)

未来への道

 韓国人のAさんは娘にとっての恩人である。

 渡韓当時韓国語力がほぼ皆無だった娘にいろいろなことを教えて下さり、韓国での生活や習慣について手取り足取り教えてくださり、娘のオンニ(お姉さん)のようにお付き合いしてくださった。

 それだけではない。
 
 その日、婿殿はたまたま仕事で帰りが遅く、数日前から体調が悪い娘はその帰りを待っていたそうだ。

 心窩部の胸焼けのような症状として始まった疼痛は、次第に下降してマックバーネー点に集約され、筋の反跳痛を伴うようになっていた。
 医療人である娘はそれが何であるかを悟っていたが、「いざ」というタイミングを逃し、要は一人で苦しみつつ我慢する、という時間が継続していた。

 薄れゆく意識の中で娘がほとんど反射的に電話を掛けたのが、Aさんの番号だったという。

 Aさんも数日前から眩暈と発熱に襲われていて、ほとんど寝込んでいるような状態だったらしい。後にそれは愛息からうつされたインフルエンザだと判明したのだが。

 娘の電話を受けたAさんは、自分が具合が悪いにもかかわらず娘を病院まで連れて行ってくださったのだ。

 虫垂炎は医療人以外にとっては大した疾患ではないと思われているが、実は一歩間違えれば大変な疾患である。
 ほんの60年前、つまり私が生まれるちょっと前まで、それは致命的な疾患であった。
 その後、急速に発達した医学によって、それは世間的なイメージでは通過儀礼のような疾患に変わった。
 それでも、我慢して治療が遅れると致死的であることを、私は小学校の頃の横綱玉の海関の予後で知った。当時の医師が虫垂にちょっとでも異常があるとすぐにそれを切除しようとしたことが、それを逆説的に暗示していた。

 医療の発達した現在でも、虫垂が化膿して破裂すると細菌が腹腔内に播種され、腹膜炎を起こすと治療は途端に難しくなる。そのまま敗血症になって死亡することもあるのである。

 したがって、虫垂炎の場合はまだ深刻な病状でないうちにいかに早く治療を開始するか、が重要となる。

 娘の場合はもともと慢性のものがあったため、急性化してもその深刻さが今一つ自覚されなかったから、危うく大変な事態になるところだったのだ。

 連絡で婿殿が駆けつけた後は婿殿が面倒をみたらしいが、Aさんがいてくださらなかったら、と思うと、どれだけ感謝しても感謝しきれない。

 Aさんと食事をしているときにその話をして謝意を伝えると、
「いえいえ、本来なら私がずっと付いていなければならなかったのですが、私も具合が悪くて、申し訳ありませんでした。」と、東亜人らしい謙遜の言葉が返ってきたので、涙が出そうになった。

 Aさんは日本留学中に愛息のB君を身籠り、予定より随分早い時期に出血し、日本の病院で施術され出産したのだそうだ。随分長い間養生が必要な、深刻なお産だったらしい。
 Aさんは「あれで私の人生は変わりました」と、溜息とも感慨ともつかない言葉でその顛末を締めくくった。
 B君の名前は日本の教会の名からとったらしいが、使われている漢字は「日本(の医療人)に感謝する」という意味にも取れる。私はそのことをAさん夫婦に言わなかったが、密かにそうした意味もあるのではないかと思った。もちろん私のいつもの勘違いの可能性が高いが。

 とある日式(韓国風日本料理)の店の前で初めて会ったときから、ご主人のCさんともども吃驚するくらい日本語の上手な人だなと思っていたが、そうした経験をしていたのだ。

 私たちはいろいろな話をしたが、「私たちは理系ですから」といいつつ、それが謙遜だと判るくらい文系の教養もあり、ユーモアもあり、実に愉快な時間であった。

 ただ、以前も書いたが「外国語効果」というものがあって、人は外国語を話す時には神経ネットワークの2割が翻訳などの語学処理に使われてしまうから、自国語を話している私たちと話が合うということは、この人たちは私たちより2割くらい賢いわけだ。

 韓国人には山葵が苦手な人が多いが、Aさんは私たちがチョコチュジャン(唐辛子味噌を酢で溶いたもの。韓国ではよく刺身を食べるのに使われる)を付けて刺身を食べているのを尻目に、山葵を結構多く付けて刺身をぱくついているのだった。

 Cさんは何と日本の納豆が大好きで、日本に行くたびに大量の、あらゆるメーカーの納豆を買いこんでくるのだとか。
 韓国にもチョングッチャンという納豆があるが、この臭いが嫌いな人が多い。Aさんに言わせるとCさんの靴下の臭いのようだとか。
 だが、日本の納豆はそこまで臭くないので家族全員好きなのだそうだ。

 今この話を書いていて思い出したのだが、納豆のチョングッチャンと「鄭局長」の発音はどれくらい近いのだろうか。Aさんに聞くのを忘れていた。もし極似ているのなら、私の韓国語による冗談第一号完成である。

 閑話休題(またいらんじこけんじよくを)。

 私は韓国人とちゃんと話をするたびに、自分の中の「韓国人」が壊れるのを感じる。
 それはときに悪い意味の場合もあるが、大抵は良い意味である。

 人間はそう簡単に一括りにはできない。
 考えてみれば、相手は6000万人もいるのだ。同じ思考や嗜好をしているはずがない。

 日式の店を出て、Aさんの家に招待していただき、私たちはまた深夜まで話をした。

 B君のピアノの披露もあった。今はショパンの「革命」を練習しているようで、是非聞きたかったのだが、これはまだ未完成のようで、B君が照れて聞かせてもらえなかった。

 いい加減酔っていた私は、昔子供向けの本で読んだエピソードを思い出した。それはパリで客死したショパンの心臓だけが祖国ポーランドに帰った話である。
 私は得意になってその話をしたが、後で「あの話本当だったっけ」と心配になり、ネットで調べてみたら本当だったのでほっとした。「海峡を越える知ったかぶり」ではなかったのだ。

 大学の先輩と後輩であるAさんとCさんは、ある学問の分野での日本の学者の業績に憧れて海峡を渡ったのだそうだ。だから彼らの恩師は日本人なのだ。
 Aさんはその話を、「私、少女の頃は日本より韓国の方が大きいと思ってたんですよね」と私たちを笑わせながら語った。

 学問というものの大切さを改めて思う。そして志の大切さも。

 本気で学問を志した瞬間、決して「自分が一番だ」とは思えなくなる。知識や技術のレベルが上がれば上がるほど、目は世界に向いていく。自分のつまらない鼻っ柱より、もっと大切なものが見えてくる。

 Aさん夫婦は大学生当時別に日本が好きだったわけではないだろう。自分たちが志した学問の第一人者が日本人だっただけだ。だから、海峡を渡る。その一途さと行動力が羨ましい。

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 宴も果てて、Aさん夫婦が娘夫婦の家の近所まで送ってくれた。
 娘たちと、Aさんたち。
 娘は本当にいい人と巡り合った。これからの時代は彼らのものである。

 私たち夫婦もこれからの時代に混ぜてもらえると嬉しいが。

 娘夫婦を温かく見守って下さった韓国のみなさん、本当にありがとうございました。

 といいつつ、まだ続きます。Aさん夫婦もおそらくまだ登場します。
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