ニヤッとする話

ニヤッ、とする程度の笑いネタを思い出しながら書きます。

祝! 世界遺産決定の崎津集落へ行く4-観光船に乗る-(河童日本紀行594)

崎津のマリア像

 諏訪神社を後にした私たちは船着き場に急ぐ。実は教会を離れるときに観光船の予約をしていたのだ。

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  船着き場に行ってみると、もう船は出航寸前であった。諏訪神社で時間を潰し過ぎたのだ。
 石碑を見つけたときは写真を撮るだけでなく、必ず碑文もその場で確認して解読することにしている。そうしないと、光線や撮影手腕の関係で解読不能な写真が写っていたりするからだ。今までにもう二度と訪れないであろう土地の貴重な石碑の解読を何度も断念しているのである。

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 教会を普段は見ないアングルで見ながら船に乗り込む。

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 教会の足元に漁船が並んでいるこの定番のアングルも望遠レンズを使わずに撮影可能である。

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 庭が直接海に開けている民家の構造はどこかで見たことがあると思ったら、以前住んでいた福岡県柳川市のクリーク沿いの民家の造りと同じなのだ。
 一つだけお願いなのはあまりに身近だからとここからそのまま海に生ゴミなどを捨てないでほしいということだ。以前別の港でそうした行為を見たことがある。海は私物ではない。

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 写真を撮りながら船頭さんのガイドを聞くのだが、なかなか興味深い話を聴けた。

 私は世界遺産の登録名がなぜ「潜伏キリシタン」という私たちにはあまり聞きなれないものなのか疑問だった。私たちの馴染みの名称は「カクレキリシタン(全て片仮名で表記)」である。
 これも明治期に関係があるのである。この時期の吉利志丹たちの行動によって江戸時代の禁教にも信仰を守った人々は2つに分類されるのだ。

 それは明治6年(1873)の禁教令廃止によってキリスト教信仰が解禁された時の行動である。

 このとき、多くの吉利志丹たちは禁教以前に布教された本来の宗派であるカトリックに復帰する。この人たちは「布教→禁教→潜伏→復帰」というルートを辿ったという意味で「潜伏キリシタン」と呼ばれる。だからこちらはカトリック教会の立場からの言葉である。「信徒発見」などという言葉もこうした語の一種であろう。

 一方、カトリック教会に復帰しなかった人々がいた。この人たちは禁教後に自分たちが守り、独自の進化を遂げた宗教をそのまま守ることになった。「カクレキリシタン」と呼ばれるのはこの人たちである。明治初年の極めて厳格なカトリック教会の立場からいえば、神仏や祖霊をも信仰する彼らは「異端」と呼ばれる一団であったろう。カトリックの教義により祖霊を崇拝できないことも、彼らがカトリック教会に再入信しなかった理由の一つと目されている。
 2014年になってローマ教皇庁は「(カクレキリシタンは)古いキリスト教徒であり、キリスト教徒と見做さない理由はない」との声明を出し、現在ではキリスト教徒と見做されている。
 「カクレキリシタン」と仮名で書くのはもはや隠れていないからで、「離れキリシタン」という別名を用いないのは、「異端である」という差別的な意味合いがあるかららしい。

 つまり、禁教期には「隠れキリシタン」=「潜伏キリシタン」であり、禁教が解かれてからは「カトリック教徒」と「カクレキリシタン」になったわけだ。

 明治初年には両者はほぼ同数だったらしいが、その後の日本の近代化と共に後者は減り続け、現在はごく少数の信者が信仰を守り続けているという。

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 船頭さんに聞いたもう一つ興味深い話は、大江天主堂のことである。
 私はこの天主堂は、そのストーリー性といい、信仰の歴史といい、素晴らしい景観といい、崎津の天主堂と共に世界遺産に相応しいと思っていた。だからこの天主堂が候補にすら挙がらなかったことがショックだったのだが、やむを得ない事情があったようである。が、ここでは触れまい。

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 いろいろな話を聞きながら、また崎津の漁に関係する自然現象の話を聞いたりしているうちに、船は私たちの目的であるマリア像に近づく。

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 この像は漁師たちが安全を祈願して漁の途中で礼拝するものである。

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 この角度から見るのは船に乗って沖からでないと無理なのである。本来この像を礼拝するのは正面からなので、まさに漁師たちのために建てられたマリア像なのだ。

 この像は昭和49年(1974)の建立だからそれほど古いものではないが、なんだか気高い有難い雰囲気の像である。

 今回は時間がなくて見られなかったのだが、この像の背景に夕陽が沈むさまは実に神々しい景色らしい。次に来るときには「マリアと夕陽」を見てみたいものだ。

ヤバいぞ日本

 私は以前崎津の天主堂を撮影しようと駐車した公共施設の近くに大きな廃校を見つけてショックを受けたことがある。

天草下島おかえり旅行5-海上コテージと教会と廃校-(河童日本紀行316)


 それについては上の項を参考にしてほしいが、世界史的に貴重なこの集落を観光客しかいない土地にしてはならないと思う。
 私のこの言葉が単なる杞憂でないほど天草の人口減少は深刻である。

雑魚の美味さを知る男

 豊かな自然、美味しい食べ物、そして「崎津の知恵」に見られるような寛容で穏やかな人情を「失われた美しい過去」にしてしまわないように、熊本県民みんなで考えていきましょう(大風呂敷)。

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 最後に、なぜか海にいた可愛い川烏の姿を見ながらさようなら。

祝! 世界遺産決定の崎津集落へ行く3-血税運動記念の石碑-(河童日本紀行593)

富津血税運動石碑

 「すわ! 神社(仮名)」 から崎津教会を見下ろしながら感慨に耽っていた私は、ふと境内に建つ石碑に気付いた。

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 「富津血税運動記念塔」と刻んである。

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[碑文]
 明治6年6月14日この境内から生活と人権を守る血税運動を起こして生命を落とされたり阻害された人々の名誉を回復し、平和と安定を望み、その歴史を後世に正しく伝えんがため、関係地にしるしを建立し奉納するものである。
 事後133年記念 2006年6月吉日

 富津というのは崎津と今富を合わせた村名だが、「血税運動」は崎津が中心の運動であり、当時は「騒動」と呼ばれた。
 明治6年といえば徴兵令が発布された年であり、日本全国にその反対運動である血税運動が巻き起こったのだが、熊本県でその運動が最も激しかったのがほかならぬこの崎津なのである。
 崎津神社境内はその集会が行われたところであり、運動の指導者は漁民の吉川寅太郎であった。

 徴兵令の中には次の一節がある。

 均(ひと)しく皇国一般の民にして国に報ずるの道も固(もと)よりその別なかるべし。およそ天地の間一事一物として稅あらざるはなし。もって国用に充(あ)つ。しからばすなわち人たるもの固(もと)より心力を尽くし国に報ぜざるべからず。西人(せいじん)これを称して血税と云(い)う。その生血(しょうけつ)をもって国に報ずるの謂(いい)なり。かつ国家に災害あれば人々その災害の一分(いちぶん)を受けざるを得ず。この故に人々心力尽くし国家の災害を防ぐはすなわち自己の災害を防ぐの基(もと)たるを知るべし。(下線は河童)
[現代誤訳]
 日本の一般国民であって国に貢献する道にもともと士農工商の別はない。およそ天地の間のどこの国でも税のない国はない。国民の納める税金によって国家は運営されているのだ。だからもし人であるならば心身を尽くして国に貢献しなければならない。欧米人は兵役を称して「血税」という。その心血をもって国に貢献するという意味である。もし国家に災害があるならば人々もその災害を受けざるを得ない。だから、人々が心身を尽くして国家の災害を防ぐのは自己の災害を防ぐことになるのだということを知りなさい。

 農民や漁民が徴兵制に対して反対運動を起こしたのは徴兵令の一節の「血税」という言葉を「自分たちの血を絞って税として収めなければならないのだ」と誤解したからだという説があって、「熊本の歴史5」(熊本日日新聞社刊昭和37年)にも堂々とその説が開陳されている。

 「天草の崎津では、明治六年六月、村民約四百人が村の役人の家に押しかけ、これを打ち壊すという騒動が起こっている。これも血税の文字を誤解したために起こった騒動であった。騒動は直ちに鎮圧され、おもだった者は処罰された。」

 確かに運動に加わって逮捕された人々の供述書にも同様の趣旨のことが書いてある。
 しかし、私はどうも腑に落ちない。
 苓南の人々が天草島原の乱に参加しなかった理由が他所と隔絶されていたからだとか、徴兵制の反対運動が無学の故だとか、崎津における独自の動きに対する解釈は状況証拠からすると不自然なのだ。

 徴兵令の中から「血税」という単語を抽き出せる人が、前後の文脈を理解できなかったとは到底思えない。これは騒動を穏便に済ませるための方便のように思えるのだ。「心得違い」と同様の手口である。

 「穏便に」といっても、血税運動に参加した人に対する懲罰は厳しいもので、吉川寅太郎をはじめ首謀者と見做された人たちは尻の肉がズタズタに裂けて柘榴のようになるまでの笞刑に処せられたという。寅太郎の弟の永一ともう一人の指導者松永寅松は帰村せず、その後消息不明である。指導者たちは刑罰の後遺症で皆短命だったという説もある。碑文の中に「生命を落とされた」とあるのはこの説を踏まえたものなのだろう。もっとも吉川寅太郎は94歳まで生きているが。(詳しい話は慶応義塾大学学術情報リポジトリに「明治六年・天草血税一揆裁判小考」という論文があるので参照されたい。)

河童の一揆

 崎津の歴史を素直に解釈すれば、宗教弾圧には柔軟に対応して隠忍自重した人々が、徴兵令には堪忍袋の緒が切れたのだ、と思える。
 これは働き手である壮年男子を一銭五厘で持って行かれてはかなわないという面もあったと思うが、やはり「平和に暮らしたい」という強い継続した意志によるものではないだろうか。

 なぜそう思うかといえば、崎津では明治10年の西南戦争における政府軍の輜重運搬への徴用に対しても反対運動が起こっているからだ。西郷軍に馳せ参じたわけではないから、これはどちらかに与するために起こったものではない。

 崎津を見るときに吉利志丹という視点だけでなく、明治日本の光と影という視点から見ることも必要であろう。その方がよりよくこの土地のことが分かるのではないだろうか。

祝! 世界遺産決定の崎津集落へ行く2-諏訪神社にて-(河童日本紀行592)

諏訪神社と崎津教会

 客船乗り場の近くの駐車場に車を停めて、まず教会に向かう。

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 教会そのものは昭和8年(1933)の建立だから、物凄く由緒のある建造物というわけではないけれど、漁村の「せどや(路地)」の中に立った武骨なゴシック様式はやはりこの町に実に似つかわしい。

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 現地に来ないと撮れない映像である(偉そうに)。

 ただ、私は教会そのものよりも、教会の建つ街全体の雰囲気が好きだ。

 教会は地元の祈りの場であり、折から日曜で礼拝が行われていたので早々に退散する。本当は日本でも珍しい(もちろん他国にはない)畳敷きの内部も見どころなのだが、私は他者の信仰を尊重する男なので物見遊山で不仕付けに闖入したりはしない。

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 「すわ!神社(仮名)」である。

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 境内から眺めると、この神社が街全体を見下ろすような位置に建てられていることがわかる。
 このことを以て「『すわ!神社』は吉利志丹を監視し抑圧するために建てられた」と解釈している議論をよく目にする。
 そうした面も間違いなくあったろう。しかし、よく考えてみれば、神社というものは大抵山の上に建っていないだろうか。

 禁教の時代、吉利志丹たちはこの神社の氏子となり、神道の祭祀を行いつつ、自らの信仰を捨てることもなかった。神社への参拝の際には「あめんれうす(アーメンデウスか)」と唱え、踏み絵を踏んだ足を洗った水を自らへの罰として飲んだという。礼拝の対象として十字架やマリア像の代わりとされたのは貝殻や山姥の泥人形(地元の伝統工芸品)だったという。
  そんな中、吉利志丹たちを最大級の危機が襲う。「天草崩れ」である。5000人を超える人々が禁教徒として摘発されたのだ。証拠の品々はこの「すわ!神社」に集められた。
  「吉利志丹」が「切支丹(斬り捨て御免)」だった時代である。湯島などは苛烈な弾圧と戦乱によって無人の島になってしまったのだ。
  しかし、吉利志丹たちは「心得違いをしたが既に仏教徒に復帰した」として処理され、その後も事実上信仰を続けることを黙認された。
  処分が異例に寛大だったことにはさまざまな事情がからんでいるようだが、「心得違い」という、私から見ると絶妙の言い訳を思いついたのは高浜焼を創始した高浜村庄屋上田宜珍らしい。高浜焼は上品な青絵付けの白磁で私も愛用している。
  上田さんには高浜焼の創始と絶妙の新造語を合わせて「河童国クリエイティブ大賞」(今思いついた)を贈りたい。

  米国の心理学者フェスティンガーに認知的不協和という理論がある。
  人は、自身の中で矛盾する認知を抱えたとき、それを不快に感じ、この状態を解消するために自分の態度や行動を変更する、というものだ。
  例としてあげられるのはイソップ寓話の「狐と酸っぱい葡萄」である。狐は木に成った葡萄が食べたい。しかし、自分の背では届かないところにあるので食べられない。つまり狐は「食べられない葡萄」という現実に対して「葡萄を食べたい」という矛盾した認知を抱えているわけだ。それで狐はどうするかといえば、自分の認知を変更するのである。「ふん!あの葡萄は酸っぱいに違いない。だから僕は食べたくない。」

  自分の願望と現実が違うとき、人はその人間性に従って様々な態度を取る。

 あくまでも信念を貫く人。これは少数派である。だが、現実があまりに理不尽である場合(たとえば穏健な政党(宗教)が弾圧されたり、自分の民族が他民族に力づくで支配されている場合などはこれに当たるだろう)、多くの人も実は彼らのように振る舞いたいと内心は思っているから、彼らは殉教者となる。天草島原の乱で立ち上がった人たちはこれに当たるだろう。
  
  自分の認知を現実に徹底的に合わせる人。つまり、「弾圧された〇〇党(教)は過激な邪教だったんだ」「〇〇民族は我が民族より優れているから支配されても仕方ないんだ」。「酸っぱい葡萄の狐」の中でも極端派である。これも少数派だが、現実が過酷な場合には必ず一定数出現する人々である。これはあまり具体的に指摘するとヤバい気がするので例は挙げない。私はかつてこういう人たちを許せなかったが、人生経験を積むとまあこういう人がいても仕方がない気もしてくる。

 そして多くの人は「違うんだけどなあ」「俺って卑怯だなあ」と、願望と現実の不協和に耐えながら生きてゆく。そのうちに現実の理不尽が緩んでくると、周囲の反応を見ながら「やっぱりおかしい」と声を上げるし、逆に厳しくなると、「やはりこれで仕方がないんだ」と自分を納得させて一段と目立たなくおとなしくする。かくいう私はまさにこの種族に属するのだが、人より少しだけズレがあるので、ヘンに目立って損をする。まあその損はこれまで「死なない程度」だったから、身の処し方としてはとんでもない下手というわけでもないが、立派な人間ともいえない。孔子に言わせればこういう種族がまさに「小人」なのだろう。

 崎津の吉利志丹たちはといえば、天草島原の乱に参加していない。これを「周囲と隔絶していたから乱のことを知らなかった」という説もあるが、私はこの説を採らない。なぜか。天草の各集落は確かに陸路ということでいえば隣村とさえ隔絶しているところが多い。しかし、実は海を通じて遠くまで繋がっているのだ。小さな船でも順風満帆ならば下島の北から南まで半日で行けるのだ。崎津の人々が富岡で繰り広げられている激戦のことを噂でさえ知らなかったはずがない。だからそこにはもっとはっきりした「参加しない」という意志が存在したと思うのである。このことはその後の彼らの歩みに大きな影響を及ぼしたと考える。

 乱後、荒廃して無人同様になった天草に全国各地から移民が送り込まれた。いわば島民の「総入れ替え」が行われる中、「生き残った」崎津や大江の人々は彼らと共存していく道を選ぶ。選ばざるを得なかった、と言ってもいいかもしれない。

 「天草崩れ」がそうした文脈の中で起こった事件だったことを考えると、その世界史的な意義が見えてくる。
 絶望的な蜂起が起こるとき、それと思想を共にしつつ蜂起しなかった人々の運命はある意味蜂起した人々より苛刻である。彼らは殉教者になれず、どころか身内からは裏切り者とすら言われる。
 他方、権力は彼らを決して許さない。彼らはたまたま蜂起しなかっただけで、内心に叛意を秘めた危険分子なのだ。
 彼らは悪くすれば蜂起した人々と同罪として処断されるし、良くても社会の片隅で生きることを強いられる。もし彼らがその地位に甘んじず社会的に上昇して行こうと思ったら、自分の認知を徹底的に現実に合わせる必要がある。つまり、自らの思想が完全に転向したことをその言動で示さなければならない。これは簡単に言えば「裏切り」である。
 こうした状況の中で起こった「天草崩れ」は、
1805年の出来事であるから、1638年の天草島原の乱終結から実に167年の間、「認知的不協和」に耐えつつ信仰を守り続けた人々が物凄い数いたわけだ。その精神力と粘り強さに驚嘆する。

 取り調べ側も、単に「切支丹であるから切り捨てろ」というような一元的な見方ではなく、「異宗であることを認めて反省すれば許す」という方針であったとされる。これも現代の眼から見れば内心の自由に踏み込む許しがたい態度と考える人もいるかもしれないが、何せ明治維新までまだ60年以上待たなければならない時代であることを考えれば、後に禍根を残さない賢明な方針だったと私は思う。

 騒乱、蜂起、鎮圧、弾圧、拷問、報復、テロルは異教同士が接触したときにまるでフルコースのように並べられる定番メニューであり、こちらがグローバルスタンダードである。これは異民族同士であることが原因でないことは、欧州各地で起こった凄惨な宗教戦争が示している。そこには夥しい数の「殉教者」の骸が転がっている。そして彼らの存在が両陣営の心に憎悪の火を燃やし続ける。

 私は「殉教しない」「殉教させない」この「崎津の知恵」の真価が世界遺産の審査員たちに分かってもらえるのか、本気で心配していた。
 キリスト教的価値観からすれば、「夥しい殉教者を出しながら異教と戦い続けて信仰を守り抜き、最終的には時を得てキリスト教会に復帰する」というストーリーの方が受けそうな気がしていたからだ。

 だから崎津教会も含めた「長崎と天草の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産として正式に登録されたと聞いたとき、本当に嬉しかったのと同時に、信じられない気がした。今まで何回か駄目だった、というのもあるが。「天草」の名が入ったのも本当に嬉しかった。

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 この写真を撮った時はまさに遺産登録の審査が始まろうとしていたときだったのである。

 改めて、世界遺産登録、おめでとうございます。

 ここで河童朝臣より一首。

諏訪神社より崎津教会を眺めて詠める

 教会を見下ろす杜(もり)は閑(しず)かにて烈(はげ)しき史(ふみ)は既に遥(はろ)けし

祝! 世界遺産決定の崎津集落へ行く1-いつものように旅は気まぐれに-(河童日本紀行591)

崎津の神社

 半月板損傷がなかなか癒えない膝を抱えながら家の近所を早朝散歩(といっても事実上サイクリングなのだが)しているとき、 突然閃いた。

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 「そうだ! 牛深に行こう! 牛深に行ってグラスホッパーに乗ろう!」
 三角の山々は深い霧に包まれているとある休日である。

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 ところがその日は最近の私たち夫婦にしては珍しく一日一杯暇があったために、本渡からは五和を回って苓北を回って西海岸周りで牛深に向かい、大江の町で行きつけの(嘘)料理屋「ビヨンセ(仮名)」の刺身定食を食べているうちに、翌週に世界遺産の審査を控えている崎津集落に行ってみようかという話になったのだった。

 なんのことはない。あの閃きは何だったのだろうか。

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 私だけ老の夫婦(妻に「老」の一言は禁句である)には完食するのに相当無理をする刺身定食を平らげ、パンパンに張った腹を抱えながらやってきたのは崎津である。

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 漁港であるから船着き場があるのは当たり前なのだが、この乗り場はどうも世界遺産登録を見越して長崎茂木港と崎津港の間に設置された航路のものらしい。

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 以前はこんな待合所はなかったような気がする。

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 天草らしく南国の花が咲いている。

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 どうも物産館も新設されたようだ。
 せっかく観光地として改めて整備されたのだから、少しマメに見てみるとしよう(偉そうに)。

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 私はこの崎津という町が大好きでもう何回も来ているのだが、ついつい教会に眼が行ってしまい、神社には目もくれなかった、というのが真相である。

 今回はじっくりと街を巡るつもりだから、こんな小さな目立たない神社も見てみる。

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 まずは西宮宮。
 何と読むのか迷う名前だが、英語の看板を参照して考えるに、「にしのみやぐう」と読むようだ。

 祭神は蛭子である。
 蛭子(ひるこ)は「えびす」とも読み、漁港であればどこにでも祀ってある七福神の一つ、恵比寿神の元になった神である。

 「古事記」に次のような記述がある。
[原文]
 約(ちぎ)り竟(お)へて廻(めぐ)りたもう時に、伊耶那美命(いざなみのみこと)まず「あなにやし、えおとこを」とのりたまい、後に伊耶那岐命(いざなぎのみこと)「あなにやし、え娘子(おとめ)を」とのりたまいき。
 おのもおのものりたまひ竟(お)えて後に、その妹に告(の)りたまいしく、「女人(おみな)先だち言えるはふさわず」とのりたまいき。
 然(しか)れども隠処(くみど)に興(おこ)して子水蛭子(みこひるこ)を生みたまいき。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去(や)りつ。

[現代誤訳]
 夫婦の契りを終えてお約束の「捕まえてごらんなさい」をするときに、イザナミノミコトからまず「まあ、なんていい男」とおっしゃって、その後にイザナギノミコトが「ああ、いい女だなあ」とおっしゃった。
 愛の賛歌が終わった後に、イザナギノミコトがおっしゃるには、「女性から先に求愛したのはまずかったんじゃないか」とおっしやった。
 しかし、イザナミノミコトは寝所に行って子をお産みになった。この子は蛭のような子だったので、葦船に乗せて海に流しやった。

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 この流された子が実は生きていて恵比寿神になり、日本全国の漁師たちから漁の安全を守る神として信仰を集めるようになるのである。写真は同じ天草でも上島の倉岳漁港のものである。

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 ちなみに倉岳港には日本最大級の恵比寿神があるが、いつものように話が逸れ始めたので元に戻す。

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 崎津の蛭子はまだ恵比寿神になる前の原型を留めているようで、丸々太って釣竿と鯛を抱えているお目出たい姿ではない。

 実は「潜伏キリシタン」の歴史は、こうした神社の歴史と密接に関係しているのだ。

 崎津の神社を吉利志丹を監視し抑圧する単なる敵役と捉えた瞬間、人類の未来につながる大切な智慧の数々が私たちの手からポロポロと零れ落ちてしまうのではないかと私は思っている。

 では、崎津集落の旅、始まり始まり。

佐賀県多久市で孔子に逢う9-炭鉱王高取伊好-(河童日本紀行590)

自分には絶対できない仕事

 多久聖廟から車で5分ほどのところに西渓公園があり、そこには 寒鶯亭(かんおうてい)がある。

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  寒鶯亭は地域の人々のために高取伊好(たかとりこれよし)によって建てられた公民館のようなものである。公民館にしては実に趣のある建物だ。

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 高取伊好は多久出身の炭鉱王と呼ばれた人物である。

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 西渓公園に建つ銅像の説明文にはこうある。

 高取伊好(1850-1927・嘉永3-昭和2)は嘉永3年(1850)、ペリー来航3年前、多久家儒臣鶴田斌の三男として嫩垞(とんだ)屋敷に生まれた。長兄に刑法学者鶴田晧、次兄に炭鉱経営者横尾庸夫がいる。東原庠舎に学び高取大吉の養嗣子となり、邑主多久茂族に請われ長子茂穀(乾一郎)と勉学を共にした。明治初年工部省鉱山寮に入り、鉱山学を修めたのち、当時最も必要とされた炭鉱の開発に挺身した。晩年、高取鉱業(のちの杵島炭鉱)を創設し「石炭王」と呼ばれ実業界に名をなした。
 一方事業で得た富は義捐金、教育基金、産業資金として惜しみなく社会に還元した。業を西渓、法名を自ら「開物斎成務伊好居士」としていた。高取伊好の生き方は、まさに易経にある「物を開き勤めを成しとげる」を意とする。開物成務そのものであった。昭和2年1927)78歳で没した。

 この碑文にはないが、杵島炭鉱を開く前、工部省に採用された高取は高島炭鉱に取締役として赴任しているようだ。

 私は碑文の「杵島炭鉱」よりもネットで調べているうちに遭遇した「高島炭鉱」という言葉に覚えがあった。

妻比較

 この炭鉱の名前にはわたくしWell肉桂と並ぶ「熊本二大巨顔」である清浦圭吾伯の記念館で遭遇した覚えがある。
 私がこの記念館に行ったのは2013年のことであって、私の56年の人生の中では最近のことに属するから、記憶の時間勾配が始まっている私としては忘れているのがむしろ当然なのだが、それでも覚えていたのはそれだけ印象深かったのだろう。

 この記念館では「清浦圭吾小伝」という小冊子を売っていて、その中には伯の11の功績が書いてあるのだが、その3番目に、

3.三菱高島炭鉱(長崎県)での坑夫虐待事件に関して会社側の言い分を鵜呑みにせず公平を貫いた。

 というのがあるのである。

 我ながら嫌なことを思い出すものだ。
 高取が高島炭鉱の取締役をしていた時期と、坑夫虐待事件の時期は完全に重なっているのである。

 以下はWikipediaの引用である。

 「炭鉱では「納屋制度」と呼ばれる過酷な雇用制度が取られ、「二度と帰れぬ鬼ヶ島」と恐れられた。会社と納屋頭による二重の搾取、非人間的な労働環境、逃亡者はリンチによって見せしめ的に殺害されるなど、そのあまりに過酷な雇用形態は、雑誌『日本人』(6-14号)に掲載された、松岡好一(ルポライターで、自ら炭坑で働いた。高島炭鉱の元勘場役)による告発記事「高島炭鉱の惨状」によって全国に知られ、全国的なキャンペーンが巻き起こった。(引用終わり)

 私の記憶が高取翁と清浦伯を結び付けなければ、こんな嫌な話が多久聖廟の隣にある公園と結びつくこともなかっだろう。

 つくづく嫌になる。
 こういう記憶力の持ち主は自分の持ち合わせた才能に対して目いっぱいの、あるいはそれ以上の利益を得たい人(たち)にはさぞ鬱陶しい存在なのだろうと思う。それは人を踏みつけにすることによってはじめて可能だからだ。そして私の困った記憶力はその人(たち)にとって都合の悪い記憶を突然呼び覚ます。にも拘わらず、私はそういう記憶力の持ち主なのだ。

 ただ、分からないのだ。
 私たちは孔子のような聖人ではない。しかし、高取が高島炭鉱の最悪の時期に中枢の位置にいたからといって、彼が全面的にそれに加担したのだろうか。

 もしかすると、彼が会議に現れたときにはいつも既に話は他のメンバーによって決まっていて、激怒して反論しても相手方は眉を顰めて沈黙するだけだったかもしれない。あるいは中央から派遣された自らの任務に忠実であろうとしたのかもしれない。士農工商がまだ赤子が成人になるほどの時間程度にしか遠くなかった時代なのだ。

 それは人の世に孔子のごとく「糞は糞」といい続ける人や、司馬遷のように腐刑に処されようと起こったことを忠実に記録に残す人がそう簡単に現れるものではない以上、やむを得ないことなのかもしない。

 悪人は無名である。
 これは真の英雄が無名であるのと同じだ。
 真の英雄が彼の業績を声高に叫ばずむしろ目立たないようにするのと同じく、悪人もまた彼らの悪行の証拠を徹底的に消そうとする。
 終戦直後の公文書の焼却などその良い例だ。えらく強気で「そんな事件はなかった」などと主張されている事柄の裏には「あの件の証拠は徹底的に消した」という自信があるのだろう。
 そして「半端に人の良い」人間が汚名を着せられる。BC級戦犯が良い例だ。

 世界はアイヒマンで満ちている。

 だから私は状況証拠だけでこの高取という人をそう簡単に貶す気にはなれない。

 ただ、炭鉱という場所は、その日本での終焉が私の青春時代であったから、ほんのすこしだけその実態が分かるのだが、やはり実に過酷な場所だったと思う。
 私はまだ20代だった頃、万田坑(もしかすると近くの別の炭鉱だったかもしれない)の地の底からトロッコに乗って地上に姿を現した鉱夫たちの、薄汚れた顔とギラギラ光っている眼を初めて見たときの、ギョッとした印象を今でも鮮明に覚えている。初対面の彼らには本当に申し訳ない印象だったのだが。

 自分自身は粋がって工事現場や船底での労働を齧ってみたこともあったが、そんなものは「貧乏人のお坊ちゃん」の単なる「武勇譚」だと分かっていた。
 だから、いつ事故が起こるかも知れぬ真っ暗な地底で働く人々が地上に出てくる現場に出会ったときの正直な心境は、「狼狽」であった。

 それにしても、「もっと人間らしい暮らしをさせろ」という叫びが、それが発せられた場所ごと圧し潰されていったことに対する心の痛みを今どれくらいの日本人が持っているのだろう。持っていたら今の日本はこんな貌をしていないか。

 地元の英雄の銅像と、彼が町に寄贈した素晴らしい建物を見ながら、複雑な気分に襲われた私であった。

佐賀県多久市で孔子に逢う8-江藤新平のこと-(河童日本紀行589)

日本のことを知ってるつもり

 佐賀県多久市にある多久聖廟(孔子廟)には祀られている孔子の像だけでなく、廟を作った多久茂文の像もある。

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 しかし、多久茂文の儒教政策の肝になる部分は実は聖廟よりもその敷地内にあった東原庠舎(とうげんしょうしゃ)という学校であった。
 既に書いたようにこの学校はまだ明治維新よりは関ケ原の戦いに近い時代に武士だけでなく農民や職人の子弟たちに当時最先端の学問である儒学を教授したという点で極めて先進的な試みであった。

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 東原庠舎の初代教授が河波自安である。
 多久聖廟にはその旧宅と学問所跡の看板のみがあり、自安がどんな人物であったかよく分からない。

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 ただ、その場所には詩碑が建っているので、何かヒントになるのかもしれない。

[原文]
 船山暮雨

 勢似巨船凌碧霄
 暮天風樹自粛々
 黄昏着雨遠相望
 最上片雲帆影遥

 正徳五年乙未仲夏

 講官快堂

 林信充士僖甫題

 多久八景 抜粋

[書き下し文]
 船山の暮雨

 勢(せい)は巨船(きょせん)に似て碧霄(へきしょう)を凌(しの)ぎ
 暮天(ぼてん)の風に樹(き)自(おのず)から粛々(しょうしょう)たり
 黄昏(たそがれ)に着く雨を遠く相望(そうぼう)し
 最上(さいじょう)の片雲(へんうん)帆影(はんえい)遥(はる)か

 正徳(しょうとく)五年乙未(いつび)仲夏(ちゅうか)

 官快堂(かんかいどう)に講ず

 林信充(はやしのぶみつ)士僖甫(しきほ)題

 多久八景(たくはっけい)抜粋

[現代誤訳]
 多久船山にて夕方の雨に遭う

 船山の稜線は巨船のごとく青空に聳え
 夕方の強風に森はざわざわと鳴く
 黄昏に降る雨を遠く望み
 帆影はひとひらの雲のごとく天涯に消える

 1716年5月

 林信充

 船山の近所には海がないので、最終句は「ひとひらの雲が帆影のように消えた」としようかと思ったが、何せ雨が降っているわけだからこれだと少し変である。おそらく李白の「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」の転句「孤帆の遠影碧空に尽き」をパク、じゃなかった、踏まえたものと考えて上のようにした。勘違いがあれは教えて頂けると幸いである。

 「多久八景」は幕府の儒学者林信充が多久茂文に贈った詩である。信充は家康・秀忠・家光・家綱の徳川初代~4代に仕えた林羅山の曽孫だから、この詩碑は河波自安とは関係なさそうである。

IMGP8034

 近くには江藤新平の詩碑もある。

[原文]

 聖廟詣 江藤新平

 蔓柏茂松緑欲流
 聖祠人絶昼悠々
 西凕猶有尼丘月
 却照扶桑六十州

[書き下し文]
 蔓柏(まんぱく)茂(しげ)り松緑(しょうろく)流れんと欲(ほっ)す
 聖祠(せいし)人絶えて昼悠々(ゆうゆう)
 西凕(せいめい)なお尼丘の月ありて
 かえって照らす扶桑(ふそう)六十州

[現代語訳]
 柏に蔦が絡み松は生い茂る。
 孔子廟には訪れる人もなく昼でも長閑だ。
 西の空にはいまだ有明の月。この月は孔子の生まれた尼丘山の上にある。
 孔子の徳がこの日の本を照らす。

 江藤新平は維新十傑に数えられる佐賀人である。佐賀七賢にも数えられる。

 志士としての活動は脱藩の罪で永久蟄居(維新により解除)させられたため短かったが、早くから攘夷論とは距離を置き、当時としてはかなり異色な民生重視の富国強兵策を構想していたらしい。
 その証拠に新政府の参与になってからの活躍は目覚ましい。
 四民平等、議会制、三権分立、中央集権などの基本的構想に基づき、文部卿や司法卿として近代的な教育や法律制度の基礎を固めたのは江藤であり、次々と繰り出された政策はおそらく蟄居中に練りに練ったものだったのだろう。その先見性には眼を見張るが、ここでは「自由民権」の「民権」という言葉は江藤の造語と言われることを指摘するにとどめよう。

 だが、我が熊本の「民権の父」宮崎八郎と同様の蹉跌が江藤を襲う。
 「征韓論」による下野である。これは現在TVで伝記ドラマが放映中の西郷隆盛の蹉跌でもある。
 現代の私たちには「自由民権」と他国への侵略思想が同一人物の中に併存していることへの違和感があり、また贔屓の人物に対して残念に思う点である。

 ただ、少し勉強してみると、彼らの志した日本の近代化が「国防」をその起点としていること、そしてその思想の一つの帰結として韓国を中国に対する、中国を西洋列強に対する防壁とする戦略が導き出されたことがわかる。戦争中連呼された「満蒙は日本の生命線」というスローガンはこれが基になっている。
 たとえば維新革命の長州における精神的支柱となった吉田松陰はその「外征論」の中で、

 三韓、任那の諸蕃は地脈接続せずといえども、しかも形勢対峙し、吾往かずんばすなわち彼必ず来り、吾攻めずんばすなわち彼必ず襲い、まさに不測の憂いを醸さん。
[現代誤訳]
 韓諸国のような非文明国は我が日本と地続きではないものの、ごく近くで対峙している地域であるから、我々が進出しなければ必ず彼らが進出してくるだろうし、我々が侵略しなければ必ず彼らが来寇するだろう。このままだと将来きっと我が国の禍いになるだろう。)と述べ、韓国を「合わせざるべからざるもの(現代誤訳:必ず併合しなければならない地域)」と位置付けている。

 紛うことなき中央集権国家である当時の韓国を三国時代(四国時代)の地域に分けてそれを「諸蕃」と呼ぶなど、ここにあるのは明らかな「中華思想」である。当時の東亜の諸国はそれぞれに「中華思想」を持っていたのだ。

 もっとも、松陰自身はこののち自らの考えを大きく転換させ、「海洋通商国家構想」とでもいうべき対外政策を提唱することになり、これは坂本龍馬の発想や戦後日本の歩みに繋がっていくような構想なのだが、残念ながら松陰の短い生涯の中で実現されることはなく、むしろ彼が神に祀り上げられることによって初期の侵略思想が金科玉条としてその後の日本人の胸に刻まれてしまったことは彼の本意から大きく外れているのではなかろうか。

 閑話休題(おっと、えとうしんぺいのはなしだった)。

 江藤の開明的な思想はその後の日本の発展に大きな影響を与えるのだが、本人の生涯は悲劇的なものであった。また、現在でも郷党以外では必ずしも評価が高いとはいえない。

 私はそれが以前から腑に落ちなかったので、今回少し調べてみた。

 政府を辞した彼は同郷の大隈重信らの説得にも関わらずさっさと佐賀に帰ってしまう。政府の高官だったものは東京に滞在すべし、という太政官令を無視したのである。するとまるでそれを待っていたかのように政敵の大久保利通は佐賀討伐の統帥に就任し、佐賀追討令を受ける。もはや東京を離れた時点で反乱の志ありと行動を予期されていたのだ。

 佐賀に帰った江藤は自分とは正反対の思想を持つ守旧派の集団と共に決起する。このあたりも西南戦争で協同隊を率いて熊本隊と共に決起した宮崎八郎を思わせる。
 
このとき彼は自分が立てば薩摩の西郷など各地の士族が決起すると考えていたようだが、乱は広がりを欠き、鎮圧されてしまう。
 乱は1月ほど続き、当初、兵に佐賀出身者が多く彼らに同情的な熊本鎮台兵との戦いでは佐賀城を奪取するなど有利に戦を進めたものの、中央からの兵が来るとその圧倒的な火力の前に敗戦を重ねる。

 戦況不利とみた江藤は戦場から脱出して鹿児島に赴き、西郷隆盛に決起を促すが断られる。
 結局上京して岩倉具視に直接意見を陳述することを意図するが、途中土佐で捕縛されてしまう。江藤自身が導入した写真による指名手配がこれを可能にしたというのだから皮肉である。

人相書き

 上の人相書きは幕末維新の有名人3人なのだが、初めて見る人にはまず誰だか分かるまい。指名手配写真によって検挙率は飛躍的に上がっただろう。この3人が誰だか知りたい人は

明治維新発祥の地、萩を行く10-おい、高杉!-(河童日本紀行460)を参照のこと。


 大久保利通は江藤の逮捕を評して、

 江藤が自ら作るところの新律に罪按されたるは、そのすこぶる秦の商鞅(しょうおう)に似たり
[現代誤訳]
 江藤が自分の作った新法によって捕縛されたのは、まったく秦の商鞅に似ている

という言葉を残している。

 商鞅は中国戦国時代の法家の政治家で、秋霜烈日によって辺境の小国に過ぎなかった秦を中原を伺えるほどの強国に生まれ変わらせた人物だが、周囲に恨まれ、逃亡せざるを得なくなった。そのとき、自分の作った厳しい監視体制と刑罰がいかに人間疎外の体制であるかを身を以て知った、という故事の主人公である。
 大久保が江藤を商鞅に喩えているところに、その個人的な憎悪が感じられる。法治国家に生きる私たちと、儒教的な教養の中にあった当時の知識人の商鞅観は自ずと違い、かつての同僚を敢えて商鞅に喩えるということの意味もまた現代とは違う。

 閑話休題(えとうしんぺいのはなしだって)。

 さて、このときの捕方の責任者は江藤の人物を惜しんで逃亡を薦めるが、彼は法廷で堂々と自説を述べるつもりでこれを断る。
 ところが、江藤のかつての部下が主宰した裁判はわずか2日の即決裁判で、自説を開陳する暇もなく、彼は判決後ただちに梟首(きゅうしゅ:晒し首)となってしまった。しかも彼の晒された首は当時の最先端メディアである写真によって全国に流布されるのだから、彼の同郷の佐賀人は勿論、当事者ではない英公使パークスさえ「これは個人的な復讐ではないのか」という説を匂わせている。大久保が江藤を喩えた商鞅は車裂きの刑になっているのだ。

 板垣退助は言っている。

 かくの如き憎悪せられたる点は、その短所にあらずして、実にその長所に在り。すなわち邪にあらずして正なる点にあり。言を換ゆれば、江藤君は余りに正義なりし為に、遂にその奇禍(きか)を買うに至りしなり。
[現代誤訳]
 江藤新平がこれほどまでに憎悪されたのは、その短所のゆえでなく、実にその長所のゆえである。つまり、悪いところではなくて良いところのゆえである。換言すれば、江藤君はあまりに正義感が強かったために、遂に災いを蒙ることになってしまった。

 江藤は司法卿として山形有朋や井上馨の絡んだ汚職事件を厳しく追及し、2人を辞職に追い込んでいる。郷党の帰郷するなという説得に耳を貸さなかった点など、「お友達」でつるむのが嫌いな性格だったのだろう。

 私は熊本にもこういう人物を見出すことができる。横井小楠である。
 小楠もまた江藤新平と同じく新政府参与となるが、こちらはほとんど何も為す暇がないうちに暗殺されてしまっているから、それに比べれば江藤の方がまだしも幸運かもしれない。

 江藤新平の名誉が回復され、正四位が贈られたのは大正5年(1916)。首を晒されてから42年後のことであった。

三角とりどりの記21-お初にお目にかかります-(Sea豚動物記96)

未知との遭遇

 「鶯の写真を撮った」などといっても誰も驚かないだろう。
 「鳴いている動画も撮影した」などといっても、「ふーん…」といった反応をする人がほとんどに違いない。
 そしてこう言うだろう。
 「 ウグイスって、あれでしょ。春になると梅の木にたくさんいて、綺麗なウグイス色で、最初はチューチュル、ピーチュルいっているがそのうちに上手になってきてホーホケキョって鳴くやつでしょ。」

 あのね。それ、最後しか鶯じゃない。
 「ピーチュルいっている」までの59字は別の鳥である。



 その鳥は、これでしょ。これはメジロ。
 ちなみに動画は毎年我が家の庭に来るようになったメジロ夫婦である。

 鶯の姿を見つけるのはとても難しい。

恐怖の鶯色

 「幻の魚」石鯛を釣り上げることを一生の夢にしている人が多くいるように、「幻の鳥」鶯の姿をひとめ見、写真に撮ることを一生の夢にしているバードウォッチャーは多い(いつもの大袈裟)。

 これも以前書いたが、鶯色というのはメジロや上の河童のように鮮やかな色ではなく、

恐怖の鶯色02

 この絵の河童の色のような色なのである。

 とある休日、仕事をサボったのだが(冗談)、さすがに後ろめたくて職場の近所をウロチョロしていた。別に後ろめたくはない。タダの休日だから。タダでもないか有給休暇だから(我ながらくだらん)。

 3月末から4月初めのほんの1週間くらい以外は毛虫の巣と落ち葉の元にしかならない木(クイズ:この木は何でしょう)の並木の下を通り過ぎようとしたそのとき、「ホーホケキョ」という例の鳴き声が頭の上から聞こえたのである。

IMGP8190

 ふと見上げると、電線に雀のような地味な鳥が留まっている。
 もしやあれは鶯ではないのか。

 私は電動アシスト自転車「イグアナ号」をできるだけ音を立てないようにして停め、鳥の口元をじっと観察した。
 もし「ホーホケキョ」と聞こえたときにこの鳥の口が動いたら、こいつが鶯である。それにしても地味な奴だ。写真は音を立てないように足で地面を蹴って後ずさりしてアングルを決めたもので、近くに寄ったら桜の、あ、言っちまった、葉蔭になって撮影不能である。それくらいこの鶯という奴は忍者並みに姿を眩ますのが上手なのだ。

IMGP8191

 鳴いた。「ホーホケキョ」と声が聞こえるときにこの鳥の口も開いている(写真は最初の「ホ」の[h]を鳴いているときくらいか)。間違いない。こいつが鶯だ。電線に留まっていなかったらまず見つけることができなかっただろう。それにしても電線とは。風情のないことだ。



 1回目は「ケキョッ」と期待外れだが、2回目に「ホケキョ」と鳴いてくれた。最初の「ほー」が聞こえにくい人は次の動画でどうぞ。



 2回「ホーホーケキョ」と鳴いている。
 三角町の鶯の姿と声を捉えた日本最初の映像ではないだろうか。残念ながら梅雨の合間の曇天だったので「鶯色」がよく分からないが。

 このように、私は休暇といえども日々世のため人のために働いているのである(どこが)。

佐賀県多久市で孔子に逢う7-「史記」の孔子-(河童日本紀行588)

似たもの同士

 この項を書くに当たって、「論語」と「史記孔子世家」を改めて読んでみた。

 すると、「論語」はもちろんなのだが、「史記」の面白さに感じ入った。

 「論語」や、孔子自身が思想を纏めたと自負している「春秋」を読んでさえ、注釈を読まなければなかなかその思想や人物像や全体像が分からない。 しかし、「史記孔子世家」を読むと、孔子の人生の全体像が浮かび上がってくる。

 子路(しろ)愠(うら)み見(まみ)えて曰く、「君子も窮(きゅう)することあるか。」
 孔子曰(いわ)く、「君子固(もと)より窮す。小人(しょうじん)は窮(きゅう)すればここに濫(みだ)る。」

[現代誤訳]
 弟子の子路が恨みがましく言った。「立派な人間でも困窮することがあるのですか。」
 孔子が言われた。「君子も困窮することがあるのだ。小人が君子と違うのは、困窮したときに狼狽えて見苦しいことをする点だ。」

 という、有名な問答も、「論語」では前後の記述が淡々としすぎていて、今一つ面白さが伝わってこない。

 ところが「史記」を読むと、これは前に書いた「兕(じ)にあらず虎(こ)にあらずこの曠野(こうや)に率(さまよ)う(現代誤訳:サイでも虎でもないのになぜこの荒野を彷徨わなければならないのか)」という言葉と同じ時に発せられた言葉であることが分かる。

 つまり、陳と蔡(さい)の大臣たちが自分たちの粗相がバレないように孔子一行を殺そうとした事件である。孔子たちは7日間食うや食わずで、立ち上がる気力もなくなってしまった。

 「君子固より窮す」という有名な言葉のもとになった一節も、こうなるとまた訳を変えなければなるまい。

[現代誤訳]
 子路が空腹を抱えながら言った。「先生が立派な人だと思ったからついてきたのに、飯も食えなくなるなんて。」
 孔子が言われた。「私の人生、こんなことには慣れっこだ。腹が減ったからってみっともなく喚くんじゃない!」

 これには子路だけでなく子貢もムッとしたらしく、顔色を変えて立ち上がった(原文は「子貢色作」以下、適当な参考書が手元になく書き下し文が出鱈目なので引用すると恥をかきます)。

 孔子曰わく、「賜(し)よ、なんじは予(よ)をもって多学にしてこれを識(し)る者となすか。」
 曰わく、「然(しか)り。非(ひ)か。」
 孔子曰わく「非なり。予は一もってこれを貫く。」
[現代語訳]
 孔子が言われた。「子貢よ。お前は私のことをたくさん勉強して知識が豊富な人間だと思っていないか。」
 子貢が言った。「そうですよ。そうじゃないんですか。(言外に「それしか取り柄ないだろ」という気持ちを感じる言葉)。」
 孔子が言われた。「違う。私は生まれてこの方一つの信念を貫いてきただけだ。」

 「史記」にはその「一」が何であるか書かれていないが、こちらは「論語」にある。

 夫子の道は、忠恕(ちゅうじょ)のみ。
[現代語訳]
 先生の道は誠実と思いやりだけだ。

 ただし、これは孔子自身の言葉ではない。弟子の曽子が孔子の「一以貫之」を解釈して言った言葉である。あるいは司馬遷はこの曽子の解釈に納得していなかったのかもしれない。

 いずれにせよ、2000年以上いろいろな人に使われ過ぎていささか陳腐になってしまったこの「一以貫之」という言葉が、実は餓死が目前に迫っている窮迫した状況下で発せられた言葉であることに改めて気付き、驚嘆した。
 「史記」は20歳の時に読んで「風蕭蕭として易水寒し(荊軻)」など、「列伝」の面白さに眼を惹きつけられたのだが、この「孔子世家」もちゃんと読んでみると新たな発見があるものである。

 もう一つ、やはり「史記孔子世家」で、これも若い頃には読み飛ばしてしまったのかちっとも印象に残っていなかった一節に改めて目が留まり、一人で笑ってしまった。
 
 孔子の状(かお)は陽虎(ようこ)に類(るい)す。

 孔子が陳の国に行こうとして匡(きょう)という街を通り過ぎようとしたとき、地元の人が孔子一行を拘束してしまい、それは5日に及んだ。このときまで孔子と匡人は縁も所縁もなかったのだが、なぜそんなことになったのか。それは孔子の顔が陽虎に似ていたかららしい。匡人は以前陽虎に酷い目に遭わされたことがあったのだ。

 陽虎は孔子の故郷魯のほか大国である晋などにも仕えた政治家である。
 孔子がまだ17歳のとき、陽虎の仕えていた季氏(きし)に招かれて宴会に行くと、「季氏は士(し)を饗(もてな)すなり。あえて子(し)を饗(もてなす)にあらざるなり。(現代誤訳:殿様は立派な大夫を招待したのだ。なんでお前のような青二才を招待することがあろうか。)」と叩き出されたこともあり、孔子は陽虎を「小人」として嫌っていたようだ。後に陽虎から仕官するよう誘われた時も、なんだかんだと理由をつけて逃げ回っていた様子が「論語」に出てくる。孔子に関する大抵の創作でも敵役として登場するのが常である。

 ところが、実は孔子は陽虎に外貌がそっくりだったのだ。それも、複数の人が確認して「同一人物で間違いない」と思い込むほどに。
 これは孔子としては実に不本意だったのではないだろうか。何せ自分が一番嫌っている人物と間違えられて迫害されるのである。でも、なぜか笑ってしまう。「君子と小人、外観は同じ。」なんだか皮肉である。

 このあたりは儒家の書である「論語」にはなかなか載せられない部分だから、司馬遷がいなかったら2000年以上の時を隔てた私たちにはなかなか「人間孔子」を感じられなかっただろう。

 よくぞ困難にめげず「史記」を完成させてくれたものだ。

 孔子の里、後ちょっとだけ巡ります。

 

佐賀県多久市で孔子に逢う6-小人たち-(河童日本紀行587)

小人たちのブルース

 「論語」には「君子」という言葉と対で「小人」という言葉が登場することが多い。「小人」は「しょうじん」と読み、「つまらない人間」という意味である。

 よく考えてみれば「小人」が単独で登場することはないから、いわば「君子」の引き立て役である。

 前に紹介した「小人の過つや、必ず文(かざ)る。(現代誤訳:つまらない人間は失敗すると必ず言い訳をする」という文も、実は「君子句(今作った新造語です)」と対句になっている。ただし、この句だけ君子句がちょっと離れたところにある。

 君子句はこうである。

 君子の過ちや、日月の蝕(しょく)のごとし。過つや人皆これを見る。更(あらた)むるや人皆之を仰ぐ。
[現代誤訳]
 君子の失敗は日蝕や月蝕のようなものだ。影響が大きいのでどうなることかと皆がこれを注視する。過ちを正すと「ああ、さすが〇〇さんだ」と人は皆君子を仰ぎ見る。

 「悪いのは私たちですからっ!社員は悪くありませんからっ!」

 この人がどんな人か知らないが、謝罪っぷりは間違いなく君子であった。

 また「小人句(これも今作りました)」。

 小人は同じて和せず。
[現代誤訳]
 小人はそのときの大勢の意見に「そうだそうだ!」と付和雷同するが、内心はその意見が分かっていないか、ちっとも納得していない。

 だから情勢が変わるとコロリと意見を変える。「一億玉砕だ」と生徒を煽っていた同じ人物が「今日から日本は民主主義の新生日本ですから」と今までの教科書に墨を塗り、スターリンを「親父」と呼んでいた同じ人物がみんな君が代を歌っているか人の口元を覗き込む。

 君子句である。

 君子は和して同ぜず。
[現代誤訳]
 君子はできるだけ多くの人に共感しようとするが、出鱈目な意見にはどれだけ賛同者が多くても絶対に付和雷同しない。

 私は今は故人となったガラパゴス大(仮名)学長A先生の大衆団交での姿を生きている限り忘れないだろう。あれぞまさしく君子の姿であった(先生はクリスチャンだが)。私の生涯の師である。当時の私はといえば、まさに群衆となった小人であった。
 
  再び小人句。

 小人は比(ひ)して周(しゅう)せず。
[現代誤訳]
 小人は仲間内で集団を作り、広く仲間を得ようとしない。

 分かる分かる。自分に気持ちのいい意見しか聞かなくてすむから、精神衛生上はいいに違いない。だが、責任のある立場の人物がこれだったらその集団の構成員は哀れなものだ。一時何に対しても「私企業だから」という言い訳がまかり通ったことがあるが、株式会社でこれをやったら実際には多くが違法行為である。ましてこれが国政だったら「国を私する」というレベルだ。

 君子句。

 君子は周(しゅう)して比(ひ)せず。
[現代誤訳]
 君子は広く仲間を募り、親しい人に依怙贔屓をしない。

 親しい人にはどうしても便宜を図りたいもの。そういう意味ではこれは人情には反した行為かもしれない。そうなると、これを守れるかどうかはその人の「器」である。幸い法律やルールというものがあり、客観的な基準がある。責任ある立場に就くということは、「友達甲斐のない奴だ」とか「不人情だ」といわれる覚悟が必要だということを意味している。

 またまた小人句。

 小人は利に喩(さと)る。
[現代誤訳]
 小人は私利私欲に眼がなく、その物事の正邪は後回しである。

 この場合の「利」は公共の利益ではない。私利私欲である。
 悪いと判っていても私利私欲を満たせれば始める。バレなければずっと続ける。バレても告発した方より力が強ければ告発した方のせいにする。潰す。しつこく不利益を被らせる。取り巻きが弁護する。数や暴力で反対者を黙らせる。世の中全体からモラルが失われれていく。

 君子句。

 君子は義に喩(さと)る。
[現代誤訳]
 君子はまずそのことが仁義に叶うものかを考える。不道徳なことならば採用しない。

 この一文を現在の日本で堂々と掲げるのは何だか負け犬の遠吠えのように感じてしまう。それくらい「利」には人と社会を狂わせるものがある。どうしても「細々と」などという副詞が相応しくなってしまう。もっとも、2000年以上も人々の心からこの「論語」の一文が消えなかったわけだから、そこに希望の光があるのかもしれない。

 さらなる小人句。

 小人は諸(これ)を人に求む。
[現代語訳]
 小人はうまくいかないことを人のせいにする。

 「〇〇さんが私の邪魔をしたからうまく行かなかった。」ならまだいい。
 ひどいのなると「〇〇さんの言うとおりにしたのに酷い目にあった。」と人のせいにする。自分で考えなかった自分は完全に棚に上げている。運命を他人に委ねた人間に人のせいにする資格はない。

 君子句。

 君子は諸(これ)を己に求む。
[現代誤訳]
 君子はうまくいかないときは自分のどこがいけなかったのか省みる。

 この考えが「吾日に三省す」という態度につながるのだろう。
 孔子の人生はその理想からすれば挫折の連続だったから、これには随分強い精神力が必要だっただろうが。
 この勁い人のおかげで2000年以上を隔てた人々が心の慰めを得ているのだが。

 実は後一つ「小人句」がある。
 しかし、この句は天の半分を支える人々に孔子への不人気を根付かせてしまっている句である。

 「君子は危うきに近寄らず。」

 いつかまたの機会に。
 

佐賀県多久市で孔子に逢う5-陶祖李参平-(河童日本紀行586)

李参平さん有難う

 この項は「陶祖」と呼ばれる李参平のことについて書こうと思っていたのだが、ちょうどその日、「朝鮮日報」に彼のことについて書かれているのを見つけたのでまずはその紹介をしたい。

 「朝鮮日報」について書くのは3度目だが、偏見と無知による攻撃から身を守るためにやむを得ないこととして了とされたい。
 この新聞は大韓民国の新聞である。現在の韓国に僅かに残る「朝鮮」という言葉を冠した公的に認められた機関の一つだ。北朝鮮の新聞ではない。北朝鮮の支配政党である朝鮮労働党の機関誌は「労働新聞」であり、私はこの新聞は読まない。そして、「朝鮮日報」は日本でいえば「参詣新聞(仮名)」に当たるような保守的な論調の新聞である。 
 「スモークニュース(仮名)」というニュースアプリに日本語版が無料で入っているから毎日読んでいる。「スモークニュース」はTVCMに起用された女優の英語が「何言っとるかわからん」といって話題になったアプリだ。

 私が読んだコラムは佐賀県有田市で行われたイベントでの第14代李参平のあいさつのニュースから初代の来歴を説き起こす記事だった。
 人の意見を引用してああだこうだと言うと、必ず私自身の色眼鏡でバイアスがかかってしまうので興味のある人は直接記事を読んでいただきたいが、私の読んだ感想としては、「こういう意見の人がオピニオンリーダーとしていてくれるかぎり日韓関係は大丈夫だ」ということだ。朝鮮日報日本版コラム「もし陶工が朝鮮に残っていたら」という一文、是非読んでいただきたい。

 閑話休題(さてほんだい)。


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 孔子廟である多久聖廟には「陶祖李参平顕彰庵」がある。

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 日本では金ヶ江三兵衛といったらしい。

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[説明文]
 日本磁器創業の祖として称えられている金ケ江三兵衛は、文禄・慶長の役(河童註:韓国でいうところの壬辰倭乱)(1592-1598)のおり、帰国する鍋島直茂のもとで、日本に連れてこられた朝鮮の陶工李氏であると多久の古文書は伝えています。
 また、金ケ江家古文書には参平とだけあるので、今日では通称を李参平としています。
 直茂は、李氏を同行していた龍造寺家久(のちの多久長門守安順)に預けましたので、李氏はその治領多久に来ました。
 以後多久家の被官となり、生地が忠清南道の錦江であることから、姓を金ケ江と改め、金ケ江三兵衛と名乗ることになりました。
 はじめ多久領内で窯を築きましたが、思い通りの焼き物ができませんでした。金ケ江三兵衛が多久で試し焼きをしたと伝えられる場所は、のちに「唐人古場」「高麗谷(皿屋)」「大山古窯」と呼ばれるようになりました。
 やがて金ケ江三兵衛は、良質の陶土を求めて有田に移り住み、ここで漸く泉山の陶石砿を発見、初めて磁器を焼くことに成功しました。「多久の古文書」にはこの時を丙辰の歳、つまり元和2年(1616年)と記されています。
 依頼、有田は日本における磁器発祥の地として、世界に知られるようになり、有田では「陶祖 李参平」の記念碑を建立しています。その偉業を追慕し、このたび初期ゆかりの地である多久市に顕彰之碑の寄贈を受けました。
 2005年4月吉日
 多久市教育委員会

故郷忘じがたく候

 韓国人陶工が日本に連れてこられて開いた窯は多い。
 長崎県の三川内焼きや鹿児島県の沈壽官窯などもそうである。

皿が焼き物

 三川内焼きは私の頭の皿を焼き物に変えてしまうほどの素晴らしいものだし、

薩摩焼

 沈壽官の焼き物は私をショーウインドウにへばりつかせるほどの至芸である。

 中でも李参平は磁器に適した陶石を探し出して日本初の磁器を焼き、「陶祖」と呼ばれた天才である。
 この説明書きによれば多久の土は李参平の理想とする焼き物には適さず、有田に移って初めて偉業が成し遂げられた。

 韓国人陶工が日本に渡来した動機はほぼ「嫌々」だったと思われる。

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 この記念館にある李参平の肖像がそれを表している気もする。実に厳しい表情だ。

 しかし彼らはそれぞれの置かれた位置で全力を尽くし、日本の文化文明を進めるのに大きな功績があった。李参平のように神社を建てられて神になった人さえいる。李参平を祀る神社は有田町にあり、陶山神社という。

 一世を風靡したグルメ漫画「いやしんぼ(仮名)」の中に登場する人間国宝加藤陶九郎(実名)をモデルにした陶工「陶山陶人」の姓はこの神社の名から採っていると思われる。

 後世の儒学者から「聖人」に祭り上げられた孔子に次ぐ「亜聖」と呼ばれた孟子には次の言葉がある。孟子は孔子の直接の弟子ではないが、孔子の思想を忠実に受け継いで発展させたと見做されている。

[書き下し文]
 心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治められる。
[現代誤訳]
 頭を使うものは人を治める地位となり、肉体を使うものは人に治められる地位となる。

 私は「論語」を読破した18歳の5月、次に孟子を読んでこの一節に触れ、とても嫌な気持ちになったのを覚えている。大学の授業に出るよりも図書館のロビーのソファで自分の好きな本を読むのに夢中になっていた時期だ。世の中を嘗めきった学生だったが、多感で正義感に満ちていた。

 幼いころから前回書いたような辛酸を舐めた孔子であれば、世間の現実は知っていたとしても、こんなことは言わなかっただろう。孔子自身が長らく「治められる」立場だったからだ。
 だが、何せ孟子は「孟母三遷」の環境で育った人である。

 「孟母三遷」というのは、孟子の母が3回住所を変わった、という故事である。
 最初孟子親子が住んでいた住居は墓地の近くだったので、幼い孟子は葬式のままごとをしていた。孟子の母はこんなところで暮らしては我が子のためにならない、と言って市場の近くに引っ越した。すると孟子は商人のままごとをした。孟子の母はまた同じことを言って今度は学校の近くに引っ越した。すると孟子は教師や学生のままごとをするようになった。孟子の母はやっと満足してそこに定住した。

 子供の教育には環境が大事、という喩えとして今でも引用される「列女伝」のこのくだりも、若い私には何かひどく嫌な印象を与えた。前回書いた通り幼い孔子は父の弔いをさせてもらえず祭祀のままごとを繰り返していたのだ。環境を整えるのはいいが、何だか母親の職業に対するバイアスが子供に遷ってしまいそうである。

 孟子は若い頃からさまざまな職業を重ねた孔子と随分境遇が違う。
 この境遇の違いが「心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治められる。」などという知識人偏重の考え方に繋がったのだろう。
 第一、「力を労する」だけの仕事など実は存在しない。
 私の生業であるリハビリテーションにしても、主にすることは自分の身体を用いて患者さんの症状を改善することだが、「心を労せず」して闇雲に行えば効果がないばかりか害になる。

 日本が東亜で最初に近代化を成し遂げた要因の一つとして語られるのが農民や職人の知識や技術に対する尊敬の念である。
 それが優れていれば身分は低くとも神となって崇拝される。李参平もその一人である。
 そして李参平の技が柿右衛門や仁清に受け継がれていき、彼らの名声もまた不朽のものとして残っている。
 これに対して中国や韓国に神となって崇拝されるような陶工はいない。
 特に中国の作陶方法は徹底した分業制で、個人が名を遺す可能性はその時点で既にない。曜変天目のような人類の宝と言っていいような器にして作者(たち)は全くの無名である。

 西洋列強が東亜にやって来たとき、独自技術という点では日本と中韓は同等か、むしろ大陸の方が先進的なものが多かったと思う。
 ところが日本では伝統的な技術が近代的な技術に(ぎくしゃくしながらも)結びついていったのは、島津斉彬のような殿様ですら自らハンマーを振るって(ピョートル大帝の故事を踏まえての比喩。「斉彬公はハンマーなんぞ振るっていないぞ」という人がいそうなので)西洋の技術を模倣・吸収しようとしても許容されるような精神的基盤があったからだと私は思う。

 もちろん中韓にも近代化への強い意志を持った人々はいた。
 中国には譚嗣同あり、韓国には金玉均があった。
 彼らが非業の死を遂げざるを得なかったについては他人事として同情してもいられない事情があるのだが、ここではそれには敢えて触れない。違う話になっていくこと必定だからだ。

 ここでは彼らの志が「人に治められる」人々の心に届かなかったのは、「力を労する」ことへの尊重が近代以前のこれらの国に弱かったことがあるのではないか言うにとどめる。

 そして、近代化に成功し、世界有数の経済力を持つに至った日本においても、こうした思潮の衰退はまた国力の衰退につながることも言いたい。

 「心を労する者」からの一方的な目標を見かけ上達成するための「力を労する者」の偽装が例外と呼べないくらいに深刻になっているのはその兆候ではないかと思われるからだ。モラルハザードが確実に蔓延しつつある。

 そんなことを李参平の肖像を見ながら考えていた。

佐賀県多久市で孔子に逢う4-人間孔子-(河童日本紀行585)

父の墓を知らぬ子ども

  多久聖廟の敷地には孔子世系譜がある。

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 これには孔子から後の子孫の名前が記してある。何でも孔子の子孫は2000,000人もいるのだそうだ。世界一長い系図としてギネスブックに乗ったこともあるという。

 ただ、この石碑には孔子以前については何も刻まれていない。

 仕方がないので前回同様司馬遷に孔子以前のことについて語らせよう。

 「史記」にいうには、孔子の曽祖父は宋の人で孔防叔、祖父は孔伯夏、父は孔叔梁、字を紇といった。孔叔梁は勇猛な軍人だったらしい。
 司馬遷は魯の大夫孟釐(もうきし)をして「孔子は聖人の末裔である」と言わしめているが、この部分の記述は孔子の年齢が矛盾したりしていて、どうも怪しい。
 紇は顔氏の娘と野合して孔子が生まれた。「野合」とは正式な結婚でない関係である。
 つまり、孔子は庶子であったわけだ。

 孔叔梁は孔子が3歳のときに亡くなったが、母の顔氏は父の墓所を孔子に教えなかった。つまり父親の出自を子供に知らせなかったのである。
 これは孔子が父親と暮らしたことがない、ということも示唆している。
 孔子は幼いころ、父親の祭祀(日本にあてはめれば法事)のままごとを繰り返していたという。

 東亜では偉い人物が出るともっともらしい出自が後付けされることが多いが、この点司馬遷の記述は赤裸々である。

 17歳のときには母も喪う。孔子は「論語」で「吾十有五にして学に志す(現代誤訳:私は15歳で学問で身を立てようと思った)。」また、「三十にして立つ(現代誤訳:30歳で経済的に自立した)。」と言っているから、このときはまだ学生(おそらくは働きながらの苦学生)であったことが推測される。
 にも関わらず、19歳のときには幵官氏(けんかんし)という女性と結婚し、20歳で長男の鯉(り)が生まれているから、生活は困窮を極めたに違いない。口に糊するために様々な仕事をしていたことが考えられる。孔子は身長が220cmあったというから、力仕事の類も厭わずにやったのかもしれない。

 事実孔子は後に「吾少(わか)くして賎(いや)しかりき。故に鄙事(ひじ)に多能なり。(現代誤訳:私は若いころ身分が低くて貧乏だった。だから食べていくための仕事のやりかたなら何でも知っている。」と言っている。

 ちなみに孔子は当時としては長寿の74歳まで生き、かつ肖像には末端肥大の形跡はないので、この高身長は病的なものとは考えにくい。

 孔子が公の職業に就いて歴史に登場するのは本人も認めている通り30歳(一説には28歳)であるから、それ以前のことや、孔子以前のことについてはほとんど分からないといってよい。

 つまり、孔子の後には膨大なもの、子孫や弟子や文献や制度があるのに、孔子の前にはほとんど何もないのだ。

 ここまで極端に「後があって前がない」人は珍しい。豊臣秀吉だってもう少し「前」があるだろう。

 一つだけ言えることは、こういう人は絶対に堅苦しい人ではない、ということだ。孔子は堅苦しい人たちの崇拝する「聖人」に祭り上げられてしまったので本人にまで堅苦しいというイメージを持つ人がいるかもしれないが、「論語」の端々にも孔子の「人間臭さ」が垣間見える。

 私の大好きな一節である。

 厩(うまや)焚(や)けたり。子(し)、朝(ちょう)より退(しりぞ)きて曰(いわ)く、「人を傷(そこ)なえりや」と。馬を問わず。
[現代誤訳]
 孔子邸の馬小屋が焼けた。孔子が朝廷を退勤してそれを知っておっしゃった。「怪我人はなかったかい。」皆が無事であると知ると、「なら、いいんだ」。馬のことは聞かれなかった。

 少し時代が下るが、「史記」によると司馬遷の生きた前漢時代の馬1頭の値段は5000銭(三銖銭または五銖銭5000枚)である。孔子の生きた春秋時代はまだ西域からの馬の供給がわずかだから、もっと高価なものだったに違いない。下級官吏の給料を「やっと食える収入」と考えて換算すると、現代日本人の価格実感としては400万円くらいか。

 なんでも孔子邸では名馬の誉れ高い白馬が飼われていたのだとか。「ベンチ(仮名)」か「レクソス(仮名)」かという高級乗り物が焼肉になってしまったのだから、なかなか俗物に言える台詞ではない。さすがは孔子さんである。

 かれこれ30年くらい前、第一の学生時代にたまたま歴史の本で東京大空襲の際の大本営発表を読んだとき、私はこの「論語」の一節を思い出した。

[大本営発表]
 本三月十日零時過ぎより二時四十分の間、B-29 約百三十機主力を以て帝都に来襲、市街地を盲爆せり。右盲爆により都内各所に火災を生じたるも、宮内省主馬寮は二時三十五分、その他は八時頃までに鎮火せり(下線は河童)。

 大火災で国民10万人が死んだ日の発表でメインになっているのは「馬小屋が無事だった」という情報。
 まさに「馬を傷ねたるや。人を問わず。」である。


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 孔子の自己評。これまた人間臭い一節である。

[書き下し文]
 憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘る。老いのまさに至らんとするを知らず。
[現代誤訳]
 弟子と問答しているうちに勉強が足りないことに気付いてカッとなって食事も忘れて勉強し、そのうちに楽しくなって何にカッとなったのか忘れてしまう。我ながら年甲斐もない。

 この一節は「聖人らしくない」と感じたのか、後世の学者たちが「憤」の字に込められた怒りの感情を消して解釈していることが多いので、私なりに「人間孔子」らしく訳してみた。

 孔子と弟子たちの間にはもちろん礼儀が存在するのだが、それ以上に苦楽を共にした同志的な結びつきと、学問に関しては上下関係を越える真理追求への平等性がある。
 私は浅学の徒だから後輩たちにリハの知識や手技を教えていて途中で自分の誤謬に気付いたり、質問に答えられずに窮したりすることがあるが、そうしたときには羞恥と自らへの憤りの感情が湧いてくる。まさに「憤りを発する」状態である。そういうときは他のこともそっちのけで調べ物をしたりするそのうちに「そうだったのか」と膝を打ち、そうなると最初の怒りはどこへやら、調べ物に夢中になってしまう。
 孔子にもそうしたことは多々あったと思うのである。

 孔子のそうした人間性は、多難な幼少期と青少年時代に培われたものなのだろう。

佐賀県多久市で孔子に逢う3-孔子とその弟子-(河童日本紀行584)

孔子廟に父を想う

 多久聖廟には孔子の言葉が刻まれた数々の石碑がある。

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 父の好きだった言葉である。

 徳は孤ならず、必ず隣あり。
[現代誤訳]
 正しい信念を持った人は一時的に孤立してもずっとそのままではない。必ず賛同し助力してくれる人が現れるものだ。

 この言葉を私は18の時に読んだ論語で知ったが、実際に印象深い言葉として胸に刻まれたのは父の言葉としてだ。
 私が教員になることが決まったとき、小学校の教師だった父は、私にこう諭した。
 「子供が人の道に外れるような悪さをしたら、その行為の影響が大したことがないように見えても、必ず叱らないかんぞ。大したことないとほっとったらいかん。『徳は孤ならず』でな。必ずほかの子が真似しはじめる。」
 父はそのときニヤリとして少し皮肉っぽい解釈でこの言葉を引用したのが強く印象に残った。

 確かに「徳は孤ならず」なのだが、「悪は孤ならず」でもあるのだ。

 では、なぜ孔子は「悪は孤ならず」と言わなかったかといえば、悪の方が広がりやすいことを知っていたからだろう。

 人を殺すことはどの宗教でも禁じている「悪」だが、これが「孤」でなくなると正義として扱われる。ある臨界点を超えると突然沢山殺した方が正義に変化するのだが、その臨界点は世界万人の眼に明らかになるほど確実なものではない。

 晩年の父の口によく上ったもう一つの孔子の言葉は、

 兕(じ)にあらず、虎(こ)にあらず、この曠野(こうや)に率(さまよ)う
[現代誤訳]
 犀(さい)でも虎でもないのに、この荒れ野をさ迷い歩かなければならない。

というもので、ソ連(ロシア)との戦いで部隊が全滅し、敗残の兵となって満州の曠野を彷徨っているときに心に浮かんだものらしい。これは「論語」ではなく「史記」の「孔子世家」にある。

 この一節はもともと「詩経」のものらしく、この後に孔子とその弟子たちの対話が続く。

[書き下し文](参考にする適当な文献が手元になくて出鱈目なので引用すると恥をかきます。)
 吾(わ)が道は非(ひ)か。吾なんすれぞ此(ここ)においてするか。
 子路(しろ)曰(いわ)く。意は吾らいまだ仁か。人の我らを信ぜざるなり。
 意は吾いまだ知らず。人の我らを行わざるなり。
 孔子曰く。これ有るか、由や。たとえば仁者は必ず信ぜらるるか。いずくんぞ伯夷(はくい)、叔齊(しゅくせい)ありや。知者は必ず行わるるか。いずくんぞ王子、比干(ひかん)ありや。
 子路出でて、子貢(しこう)入りて見(まみ)ゆ。
 孔子曰く。
 (略:同じ質問)
 子貢曰く。夫子(ふうし)の道は至大(しだい)なり。故に天下は夫子をよく容(い)るるなし。夫子けだし少しく貶(おとし)めざるか。
 孔子曰く。賜(し)や。良農のよく稼ぐもよく穡(とりい)れざるあり。良工のよく巧(たく)むもよく順(したが)わざるあり。
 君子のよくその道を修め、綱(こう)これを紀(おさ)め、統(とう)これを理(ととの)え,容(い)れざるあり。
 今爾(なんじ)爾の道を修(おさ)めずして容(い)れられんことを求む。賜や。志の遠からざるか。

 子貢出でて、顔回(がんかい)入りて見(まみ)ゆ。
 孔子曰く。
 (略:同じ質問)

 顔回曰く。夫子の道は至大なり。ゆえに天下容(い)れざるなり。
 然(しか)りと雖(い)えども、夫子よ、推(お)してこれを行け。容(い)れざるを何をか病(なや)む。容(い)れずしてしかる後君子に見(まみ)えん。
 それ道の修めざるは、これ吾らが醜(しゅう)あるなり。
 それ道の既に大いに修めて用いざるは、これ國者(こくしゃ)の醜あるなり。
 容(い)れざるを何をか病(なや)む。容(い)れずしてしかる後君子に見(まみ)えん。
 孔子欣然(きんぜん)として笑いて曰く。これあるかな。顔氏これ子なり。爾(なんじ)をして財多からしむれば、吾爾(なんじ)の宰(さい)とならん。

[現代誤訳]
 孔子が陳という小国に赴いて自分を宰相として使うことを提案したが、実現しなかった。孔子は陳を出て大国の楚に向かおうとした。しかし、この国の大臣は孔子が大国に用いられて自分の立場が危うくなることを恐れて孔子を殺そうとしたので、孔子と弟子の一行は逃げ回って7日間食事もできなかった。

 孔子が血気盛んな弟子である子路に尋ねた。
 「野獣でもないのになぜ荒れ野を彷徨っている。私が間違っているのか。なんでこんな目に遭わなければならないのか。」
 子路が言った。
 「天が私たちはまだ本当の仁者ではないと言っているのです。だから人が私たちを信じないのです。天が私たちをまだ本当の知者ではないと言っているのです。だから私たちは用いられないのです。」
 孔子がおっしゃった(少しキレ気味)。
 「子路よ、仁者は必ず信用されるのか。だったら周の殷からの王朝の簒奪に憤って山に籠った伯夷、叔齊はなぜ賛同者もなく餓死してしまったのだ。知者は必ず用いられるのか。だったら殷紂王の酒池肉林を諫めた比干はなぜ『聖人の心臓には7つ穴が開いているらしいが、私はそれを見てやろう』などといって惨たらしい最期を迎えなければならなかったのか。」

 子路はシュンとしてテントを出ていき、才気の余った商人の子貢が入ってきた。
 孔子は子貢に同じ質問をなさった。
 子貢が言った。
 「先生の理想は遠大です。ですから天下に先生を受け入れようという国がないのです。もう少し妥協なさったらどうですか。」
 孔子がおっしゃった(マジギレ)。
 「子貢よ。世の中には心を込めて作物の世話をしているのに収穫が思わしくない農民がいる。素晴らしい技術を持っているのに機械がうまく動かない職人がいる。天の道理を極め、人の道に従っているのに世に受け入れられない君子もいるのだ(河童註:もしかして自分?)。今、お前は道を修めてもいないのに用いられることを望んでいる。なんと志の小さいことか。」

 子貢がムッとしてテントを出ていき、ちょっとボーッとしている顔回が入ってきた。
 孔子は顔回に同じ質問をなさった。
 顔回が言った。
 「先生の理想は遠大です。ですから天下に受け入れられないのです。」
 「それでも、この道を突き進んでください、先生。そんなことで悩むなんて、先生らしくありませんよ。それでどうしても駄目な時はなんぼでも愚痴をききまっせ(なぜか大阪弁)。」
 「私たちが悪いことでもしているのなら国に受け入れられないのも仕方ありませんが、人の道を真っすぐに進んでいるのですから、受け入れないこの国がアホなのです。」
 「いけるとこまでトコトン行きましょうや(ちょっと子分風)。話はそれからです。」

 孔子はにっこりと笑い、「顔両班、あなたこそ本当の君子ですなあ。顔回、お前が金持ちになったら、私はお前の執事でもさせてもらうよ。」

 改めて現代誤訳していて思ったのだが、このやりとりは孔子の弟子それぞれの個性と、師弟の飾らない関係がよく表れていて抜群に面白い。流石は司馬遷である。
 父が生死の境を彷徨っているときにこの文章の一節を思い出したというのも、このやり取りの面白さが脳裏にあったからだろう。

 父は辛うじて命永らえて博多港に引き揚げてきたとき、「我、木鐸(ぼくたく)たらん」と決意していたという。その志は父を一生苦しめた戦場神経症(PTSD)により十分に果たされたとはいえないが。多くの戦死者と同じく、父の人生もまた父が本来生きたかったそれからすれば未完のものであった。

 この「木鐸」という言葉もまた「論語」中のものである。

[書き下し文]
 儀(ぎ)の封人(ほうじん)見(まみ)ゆることを請(こ)う。曰(いわ)く、君子のここに至るや、吾いまだかつて見えずんばあらざるなり。従者これに見えしむ。出でて曰く、二三子(にさんし)、何ぞ喪(うしな)うを患(うれ)うるか。天下の道無きや久し。天まさに夫子をもって木鐸(ぼくたく)となす。
[現代誤訳]
 衛の国境の役人が孔子に会うことを願った。この役人は国境を通る君子で私と会わなかった人はいないと豪語していた。
 役人は孔子に会って話をし、退出してから周囲の人に言った。
 「みなさん、孔子が魯の宰相の職を失って浪人になったことを悲しむまい。天下に人の道が失われて久しい。天は孔子を警世の鐘として遣わして全国を巡ることが出来るようにしたのだ。」

 日教組の活動家だった父は世間からは左翼的な人だと思われていたが、父の背骨にあったのは母校「肥後中学(仮名)」で授けられた「士君子教育」だったことがわかる。父もまた遠く時を隔てた孔子の弟子だったのだ。

 私はといえば、門前払いを喰って(要は受験に失敗して)父の受けた教育を受けることすらできなかったのだが。

 仁義も礼儀も廉恥も知らぬ偽君子が跋扈する世の中で息を潜めて生きている私は、折々に触れる孔子の言葉に父を懐かしく思い出すのみである。

佐賀県多久市で孔子に逢う2-多久茂文という人-(河童日本紀行583)

多久河文

 私は今まで何度も佐賀県の多久という土地を訪れている。おそらく20回を超えているだろう。
 だがそれは常に「通過点」としてであって、この土地とちゃんと向き合ったことがなかった。
 この落ち着いた風情の街は、もう少し規模が大きいものの、私の棲む熊本県三角町と似た位置にあるのだと思われた。
 要は、「交通の要衝」なのだが、どこかに訪れるために通る場所であって、そこをじっくりと見ることはない町である。

 今回全くの気まぐれによって私は初めてこの土地とちゃんと向き合うことになった。

 そこで知ったのは、この町が私の尊敬する孔子の町を標榜していることだった。

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 この街がなぜ「孔子の里」を標榜しているかといえば、この人の故である。
 この人の名は多久茂文という。
 日本の武士であるにもかかわらず韓国ドラマの両班の幼少期のような恰好をしているのに違和感を覚える人もいるかもしれないが、これには訳があるのである。

 そもそも佐賀県多久市がなぜ「多久」と命名されたかといえば、多久一族がこの地一帯を治めていたからだ。
 ただ、茂文公が相続したころの多久氏はもともとこの地を治めていた多久氏(前多久)とは違って、それを滅ぼしてこの地を支配した龍造寺系が名乗った多久氏(後多久)で、しかも茂文公はその龍造寺を征服して支配した鍋島氏の人だったというから話は最初からややこしい。

 つまり、「多久」の名はその元々からそれを滅ぼした一族に移り、さらにそれを滅ぼした一族に受け継がれたわけだ。
 「元祖〇〇屋」が乗っ取られて「本家〇〇屋」となり、さらにメインバンクから社長がやってきて「〇〇屋本店」になったようなものか(かえって分かりにくい喩え)。

 こういうややこしい経緯でやってきたトップが賢かったら、まず間違いなく自分の出自をひけらかしたりしない。
 茂文公が「わしゃ鍋島の直系じゃ。これからは鍋島流に従ってもらう!」というような態度を取っていたら、おそらくこの多久の地が無事に治まっていくことはなかっただろう。

 こういうとき、とことん迎合して、「わしゃ多久のもんじゃけえ(なぜか広島弁)」と地元を強調するトップもいる。
 だが、領民はこの人が実は地元でないことは嫌というくらいに知っている。こうした迎合は逆に馬鹿にしていると思われたのではないだろうか。
 
 では、茂文公はどうしたか。
 地元を飛び越え、家柄を飛び越え、とことんの高み(高飛車?)を目指したのである。

 茂文公がやったことは、江戸中期の東亜の最高の学問である儒学を多久に広めることであった。
 つまり、当時のグローバルスタンダードをいきなり片田舎(地元の人ごめんなさい)に直輸入したのだ。

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 まずは東原庠舎を創設し、儒学を中心とした教育を始める。
 特筆すべきは、武士の子弟だけでなく、農民や職人の子弟も受け入れて教育したことである。

 身分を問わず教育を施した学校としては入塾の瞬間から身分・出身・性別を奪う「三奪の法」で有名な大分は廣瀬淡窓の咸宜園があるが、咸宜園の創設は1800年、維新革命の67年前である。東原庠舎の創設は1699年、明治維新より関ヶ原の戦いが近い。この学校がいかに先進的だったかが分かる。

 近代になるとこの学校から我が国電気工学の嚆矢志田林三郎、明治刑法の創案者鶴田晧など、錚々たるメンバーを輩出する。また、草場佩川はその文才と画才により朝鮮通信使にも名を知られ、佐賀藩校の弘道館の教授として副島種臣、大隈重信、江藤新平など明治の英傑を育成することとなる。その子草場船山もまた江戸昌平黌で学んだ学者として有名である。

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 1708年には念願の多久聖廟(孔子廟)を完成させ、多久は学問の里となる。

 茂文公が聖廟建立に臨んで著した「文廟記」には、  

  敬は一心の主宰、万事の根本にして、万世聖学の基本たり
[現代誤訳]
 優れた人に対する尊敬は人心の最も核心をなす部分であり、人の為す全ての行為事物の根本であって、不朽不滅の学問の基本である。

とある。

 優れた人を尊敬して学ぼうとする気持ちから人倫哲学や知識技術は発展するのであって、それに対する侮りや独善(つまりは反知性)から生まれるのは停滞と退廃だけである。

 幸い多久の人々は茂文公の考えを受け入れたらしく、「学問の里多久」の名は全国に轟き、
「多久の雀は論語で囀る」「多久の百姓は田畑を耕す手を休めて論語を説く」とまで言われたという。
 無学な私にはここまで行くとちょっと嫌だが。

 それにしても、歴史に必然などないのだとつくづく思う。
 多久茂文という殿様がいなかったら、この田舎(地元の人重ね重ねすみません)に当時の最先端のグローバルスタンダードエデュケーションである儒教が根付くことなどなく、その後に輩出した傑物たちも出現することなどなかったのだ。

 孔子の里巡りは続く。

佐賀県多久市で孔子に逢う1-結局ここに帰るのか-(河童日本紀行582)

孔子像

 自分を客観視することは本当に難しい。

 自分の年齢や性別や職業、家族構成については、それが分からないという人は稀だろう。
 
 しかし、自分が今どんな位置にいて何をしているのか、誰にでもある自己愛を抜きにして考えられる人は100人に1人もいないと思う。
 かくいう私も除外される99人のうちの一人である。

 だから、まだ17歳くらいのころに高校の漢文の授業で孔子の言葉に触れて、「吾日に吾が身を三省す(現代誤訳:私は毎日三度自分の行いを反省する)。」などと言われても、「嘘をつけ」としか思わなかった。

 だが、最近齢56歳にして、日に一度は自分の行いを反省できるようになった。というよりも、日々耳目に入ってくる責任ある立場の人々の情報に接して、嫌でもそうせざるを得なくなったのだ。

 私はヒラの言語聴覚士であって、私が何か言葉を発したとて、それを額面通りに受け取って自分の運命をそれに委ねるような人間は私の家族くらいだから、そこまで気にするというのは自意識過剰である。

 その方々に私淑している教え子たちが私の言葉に動揺するようなことはないと安心しているのだ。

 それでも少々心配になったのは、「糞」の臭いをプンプンさせているのに(比喩です。特にこういう人は比喩の分からない人が多いので)自分の臭いに少しも気付いていていない人が意外に多いのではないかと感じるようになったからだ。

 自分の利益のために人を踏みにじる。しかも大抵は集団で。どうせこいつは何も言えないだろうという見通しが前提にある。
 バレると踏みにじられた人のせいにする。被害妄想だ。もともとはあいつが望んだことだ。あいつは昔から浮いていた。
 さらに取り巻きが騒ぎ出す。「〇〇さん(加害者)可哀想」「でっち上げよね」「本当は〇〇(被害者)が悪いのに」。
 何よりも、私たちは自分のことで忙しいので、いつまでもそのことに関わっていられない。酷い話だがそのうちにその問題を忘れてしまう。
 だが、踏みにじった方は執念深いのでずーっと覚えていて、「江戸の敵を長崎で討つ」。
 すると私たちはその問題を突然思い出して、「ああ、あのときは〇〇(被害者)に同情したけれど、結局あいつが悪かったんだな。」と久しぶりに「あの事件」をまとめる。
 まったくのところ、この世に髪も(じゃなかった、それは俺だけだ)仏もないのか、と感じることがある。

 だが、今から数千年前、こうした人(集団)に対して、「お前は糞だ」といい続けた人がいた。それが孔子である。
 もちろん品位を重んじる人だったから「糞」とは言わなかったが。
 代りにこういう人たちを「小人」と呼んだ。もちろん「こびと」とは呼ばない。「しょうじん」である。一言でいえば「つまらない人間」という意味だ。

 今の私たちは「小人」を「あんたは小人だ」と言えない。「小人」もそれなりの地位や権力を持っているし、そうでない「小人」は「何時でも告訴・告発してやるぞ」あるいは「何時でも死んでやるぞ」と構えているからだ。

 だから、「つまらない人間(小人)はこんなことをする」と言い放つ孔子の言葉はとても心地いい。

 「小人の過つや、必ず文(かざ)る。(現代誤訳:つまらない人間は失敗すると必ず言い訳をする)」
 私の好きな言葉だ。私も小人だから当然のことながら失敗するとそうするのだが、この言葉がなぜかひどく気持ちいい。孔子を借りて自分を攻撃している。

 そんな私が久しぶりに孔子ゆかりの土地に行ってみた。

 少し(かなり)クドクドになりそうだが、「徳は孤ならず」であるから、付き合ってくれる人だけ付き合ってください。

祝! 新一号橋=天城橋開通! (河童日本紀行581)

選択肢のある喜び

 遂に、というべきか、やっと、というべきか、天草新一号橋が開通した。

 昨日発表されたところによると、橋の名前は「天城橋」だという。
 旧一号橋が「天門橋」だから、新しい橋にも是非「天」を付けてほしい、と思っていたところだったので、とてもいい気持ちになった。もっとも私の腹案は「宇天橋(うてんきょう)」だったのだが。

 新橋名の「天城」の「天」は「天草」から、「城」は「宇城」から採ったというから、私の腹案と全く同じ発想だが、こちらの方がずっといい。
 よく考えてみたら「宇天」だと「雨天」に通じるから、晴れ渡った宇土天草の素晴らしい景色にそぐわない。「天城」、いい名前である。

 ただ、「天城」は「あまぎ」と読めなくもない。
 新橋を通っての天草行は今後「天城越え」といわれるかもしれない(いわれないって)。

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 実は開通式だった昨日通ろうとしたのだが、橋の上にずらりと車が並んで1mも動かない状態だったので断念し、旧一号橋の方から眺めて帰ったのだ。こんなとき地元民は楽である(根拠のない優越感)。

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 改めて本日初走行したのだが、その写真はない。
 運転しながら撮影するわけにはいかないからだ。

天草珍一号橋

 工事の途中でアーチ部分しかなかったときは荒唐無稽な噂をされていた。
 熊本県民の5人に1人がこのせ説を信じていたこともある(大嘘)。
 ただ、この橋がこんな構造だったらまさに「天城越え」である(しつこい)。

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 もちろん車が通っているのは道路の部分である。

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 随分長い間単なるオブジェだった高架道路にも車が通っている。

 何だかいいことが始まりそうな気がする(ジョーカー大統領[仮名]風で)。

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 あまりに嬉しかったので三角西港まで行って写真を撮った。

  ただ、地元民として言わせていただければ(根拠のない優越感)、熊本方面からいえば五橋入口の前にインターの交差点が出来たので、旧橋を通って天草に行くにしても、新橋を通ってそうするにしても、熊本方面に行くにしても、三角方面に行くにしても、どのルートに向かうにしても信号待ちの時間が長くなったような気がする。

 三角町の中心地は宇土半島の北側ではなく、南側にあるのだ。

 三角方面から交差点を超えて三角西港に行くとき、急にある道路のことを思い出した。

 それは宇土半島の北側から南側に抜ける道である。
 海水浴場としてかつて有名だった太田尾から波多の方に抜ける道だ。
 この言い方にはもちろんもともと熊本市側から見た言い方で、天草側の人からすれば違和感があるかもしれないが。

本当は「あの坂を越えれば」

 かつて私はこの道の行く末を確かめるために急坂を自転車(電動アシスト)で越える冒険をしたことがある。

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 この道は私が言語聴覚士になった20年くらい前から工事中で、私は「今か今か」と待っていたのだが、一向に開通する気配がないままに福岡県に移住したのだった。
 5年前に熊本に戻ってきて、相変わらずこの道が開通していないのに驚いた。
 もちろん自転車や軽トラが通れる限りなく獣道に近い道は通じているものの、「宇土半島の北あるいは南を通る幹線道路が何らかの理由で渋滞した時にそれをシャントする道」はいまだにできていないのだった。

IMGP7926
 
 だが、この道の工事もやっと動き出した。
 未だ舗装もされていない道だが、遂に宇土半島の南と北は獣道ではなく直通の道路でつながったのだ。
 きっと宇土半島の南側に住む住民たちが交通量の増した北側ルートでの渋滞に巻き込まれずにすむように整備が進み始めたのだろう。

 天草だけでなく、三角もこれからだ。


祝! 世界遺産登録勧告! 長崎と天草地方の潜伏キリシタン(河童日本紀行580)

祝世界遺産

 おめでとうございます。

 待ちに待った朗報が飛び込んで来た。

 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産への登録が勧告されたのである。

 思えば5年前の申請は「明治日本の近代化遺産」とのどうもスッキリしない競合に敗れ、

遺産候補の板挟み

 3年前の申請は推薦機関に差し戻しを喰い、「三度目の正直」である。

 関係者各位の心痛と苦闘はいかばかりかとお察ししておりました。

世界遺産推薦取り下げに怒る

 (こんな絵まで描いて非難しとったくせに。)

 本当にお疲れ様です。

 世界遺産の名称に私の大好きな「天草」の名まで入れていただいて、ありがとうございます。

 この教会についての興味深い話を知りたい人は過去に紹介した記事を読んでください。

熊本へ行こう99-天草南街道を行く9 崎津天主堂-(河童日本紀行562)


 あとは6月の登録決定を待つばかりである。

 まさか、「教会を作るのに誰か強制動員された」なんて話はないだろうな。

 無事の登録を祈っております。

三角オールドカーフェスティバルにて昭和の日に昭和への旅をする3-憧れの単車たち-(河童日本紀行580)

いつも見る悪夢

 古いもの好きの私だが、その中でも何が一番好きかと言われれば、古銭だろう。

 閑話休題(おーるどかーふぇすてぃばるのはなしなのにいきなりはなしをおわらせてどうする)。

 では、次に好きなものは何かと言われれば、 昔の野球である。

 閑話休題(はやくほんだいにはいれよ)。

 三番目に好きなのが古い単車である。

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 私たちの世代は「バイク」と呼んでいた。これは前回も出てきたメーカーの「WMB(仮名)」を「ベムヴェー」と呼ぶか「ビーエム」と呼ぶかというくらいの「世代のフォッサマグナ」であって、ちゃんと乗ったことのある世代の中では青春を送った世代が1980年台の前か後かで峻別される(嘘)。

 さあ、私の大好きな旧いバイクの登場である。

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 まず原チャリ部門。
 「チンパンジー(仮名)」である。
 このバイクについては既に「'80京都バイク事情」で書いた。
 '80京都バイク事情5-太った人の方が似合うバイク-(京都安下宿事情65)

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 次は「漱ぎジェントルマン(仮名)」。「本気だ焚くぞ(仮名)」、「ハメハメハベルが鳴る(仮名)」の「80年代スクーター御三家」の一角である。

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 「チンパンジー」の兄弟分「マンドリル(仮名)」。
 燃料タンクにクローム鍍金をした限定版がえらくカッコよかったのを覚えている。

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 「ダックスフント(仮名)」。
 とんでもない体重のレスラーたちがリングに上がるのにこれに乗ってパフォーマンスしていたような気がする。

パッソルのウルトラ振動

 残念ながら一世代前の大ヒット作、バイオリミッター付原チャリ「パンル(仮名)」はご老体のためか、あるいは現役時代に酷使され過ぎたせいか、今回はその雄姿を見ることはできなかった。

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 「ハラサキエースコック400(仮名)」。
 私の青春時代、大型免許を取るのは東大に入るより難しかったから、大きいバイクに乗りたい人は大抵これに乗っていた。たしか200kgくらい重量があったはずだ。
 私にとっては関ケ原の「ピー(自粛)」で「ピー(自粛)」された苦い思い出のあるバイクである。

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 同じく「ヤンチャ族御用達」だった「ハメハメハ罰じぇー400(仮名)」である。

 私の見る限り「ハメハメハ」は洗練されたデザインのバイクが多かったのだが、なぜかヤンチャな人たちに気に入られ、せっかくのデザインが全面改変されてしまうことが多かったような気がする。このバイクは最低限の改造でなかなかカッコいい。

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 「渋い400ホーッ?(仮名)」。
 先輩たちに叩き出されるまで棲んでいた学生寮にいつも停まっていて「何時見てもカッコいいなあ」と思っていたバイクである。
 マフラーが替えてあるのが残念で、純正のクローム鍍金のマフラーの方がずっとカッコよかった。

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 「ハラサキダブダブワンワン(仮名)」である。
 学生寮を叩き出されてから最初に下宿した家の前にバイク屋があって、朝から調整のためかこの「ダブワン」が暖機運転していて、これがまあ五月蠅かった。「パンパンパンパンパンパン!」という、重量級力士の張り手のような音といったらいいのか。
 ブレーキとクラッチが逆なのが英国車らしい。
 と思ったが、あれ? 普通か?
 長いこと乗っていないからどっちがブレーキでどっちがクラッチか忘れてしまった。もし日本車と同じであれば「ダブサン(仮名)」である。

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 「菜々飯ベトナムフォー(仮名)」である。
 「少年チャンポン(仮名)」という漫画雑誌にこのバイクに乗っている青年が登場する漫画が連載されていた。たしか「仮面ライダー750(仮名)」という題名だったと思う。
 最初は暴走族と喧嘩したりしていたのに途中からはほとんどの場面が喫茶店の中になり、主人公の啜る珈琲が昆布茶のように見えてくるのだった。
 膝が痛くて活発に動きたくない現在の私には共感の持てる漫画だが。

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 そして「ハラサキマッチ750(仮名)」。

早朝はマッハに乗って

 もともとは500cc版の「黒マッチ(仮名)」が最初だったらしいが、小学生だった私は全く覚えていない。
 写真を見てもらったら分かるが、3気筒の一つ一つにマフラーが付いているので、左右非対称の3本マフラーである。これが大好きだった。

 私の青春時代にはもはや「マッチ」という名前ではなく、「吝っ嗇(仮名)」という、あまり景気の良くない略称となっていた。排気量も400か250だった。
 何度か〇ったが(察してください)、改造していない奴はいわゆる「殿様乗り」の姿勢で、かつスムーズな走りとはお世辞とも言えないので怖かった。排気煙もすごかった。
 ただ、音だけは本当に素晴らしく、ジェット機が急加速するような痺れる響きだった。

 こうして調子に乗って〇〇〇〇〇+〇〇〇〇(察してください)しているうちに肋骨・上腕骨骨折と尺側手首裂傷で入院することになり、バイクとも縁が切れてしまったのだ。
 当時球速130km/hを誇った左腕の怪我によりこのとき私の野球生命も絶たれてしまったのだった。別に絶たれたからといって日本球界は少しも困らないのであったが。


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 ほかにもまだまだ懐かしいバイクが展示されていて、飽きないフェスティバルであった。

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 名車「Zoo2(仮名)」が出てこないではないか、と思われた貴兄へ。
 私は若いころどういうわけか「Zoo2」や「Zoo1」に乗っている人を見たことがない。
 これはほとんどが大型免許が教習所で取れるようになって米国から逆輸入されたものではないかと思っている。当時からのオーナーさんには申し訳ないが、そうした偏見が私にはあって、どうも感情移入できないバイクである。

三角オールドカーフェスティバルにて昭和の日に昭和への旅をする2-ボンネットバスに乗る-(河童日本紀行579)

時代より地域

 オールドカーフェスティバルで旧車に関する思い出を満喫している私たち夫婦に、ボンネットバス乗車の案内放送が聞こえてきた。

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 今回の祭りにはこのボンネットバスが2台参加していた。
 1台はこの車で、今回は動く企画はなかったが、

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 中には乗れた。
 子供の頃は随分大きく感じたものだが、現在のバスに比べて小さな車体である。座席も当時の日本人に合わせたのか小さい。「昭和の日本」そのままである。

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 もう1台は山江村で今も現役で走っている「ロマン号(仮名)」である。
 今回はこのバスに試乗できるという。

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 もう1台はボンネットバスではないが、2階建ての「ロンドンバス」で、これも試乗できるらしいのだが、私たちの心はボンネットバスに決まっていた。



 ロンドンバスの出発を見送って、「ロマン号」の整理券をもらう。

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 発車まで30分ほどあるので、軽い昼食を食べることにする。

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 トマトカレーにチーズメンチカツをトッピングして、二人で一皿食べる。
 待ち時間から考えてこれくらいの量が適当である。
 が、これが思いのほか美味い。皿もスプーンも1つずつだから、夫婦お互いの目がときどき「キラン!」と光った瞬間に相手にスプーンを渡す。なかなか緊迫感のある昼食である。

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 ロンドンバスが戻って来たらいよいよボンネットバスの出発である。

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 乗り込むと幸運なことに運転席の直後の席が空いている。ラッキーだ。

 

 出発進行。

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 運転席の後ろに貼ってあったスペックによるとこのバスは6気筒のはずなのだが、実際のエンジン音は「ドルルルン、ドルルルン」と、3気筒エンジンのような音がする。
 あのあまりにも有名な2サイクル3気筒「マッチ500(仮名)」のちょっと調子が悪い時のアイドリングのような音である。

 ほんの短い時間なのだが、このエンジン音を聞いているとさまざまな思い出が蘇る。

ボンネットバス

 阿蘇の小国で暮らしたときの、まだみんな元気だった家族のこと。熊本市との間をボンネットバスが行き来していた。

スイッチバックの原理

 阿蘇の内牧から熊本までの鉄道の旅。立野の坂をスイッチバックで登る時のヂーゼルの喘ぐようなエンジン音が蘇る。
 ずっと私たち阿蘇人の足だった豊肥線はいまだに全線復旧していない。

干潟にて

 熊本市に移住してからの住吉や長浜への潮干狩り。父の車は「古老菜(仮名)」だった。鯰あたりにえらく起伏の激しい道路があって、通ると車の中で座ったまま飛び上がったのを思い出す。

ホルスタインカローラ

 天琴工業高校(仮名)で教え子たちと愛車の「過労ら(仮名)」を改造したこと。もうみんな40歳を過ぎているはずだが、元気だろうか。

 早朝の釣りに向かう途中、悪友に貰った「スザンナ(仮名)」が鳩の釜漁港の近くの側溝に嵌り込んでしまって、道路工事の人たちに手伝ってもらって脱出したこと。あの頃は上天草でも鰈がよく釣れた。最近は温暖化のせいか下島ですら鰈の姿を見られない。

 社用車を貰い受けて愛車にした「家族ーや(仮名)」。北九州の支社から貰って帰る途中に季節外れの雪が降っていたのを忘れない。個人で車両を登録するのが如何に面倒くさいか身に染みた経験でもあった。

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 初めて自分の力で買った「初代ウォッス(仮名)」。
 「やわらか戦車」って綽名を付けていったっけ。

 会場を一周して元の場所に到着。

 私たち世代がいかに車と共に生きてきたか分かる思い出である。
 最近は若者の車離れが顕著だというが、これからも地方の人々は車と共に生きてゆくに違いない。

 というより、車なしでは生きてゆけないと言った方がいいかもしれないが。

 バスを降りて本格的な昼食を摂るべく屋台の方に向かう。

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 ところがそこには大量の単車が。
 若いころの私は車より単車がずっと好きだったのだ。

 妻に、「ちょっと単車を見てくるけん」と言って事実上放置し、痛む足を引きずりながら足早に単車の方に向かう私であった。

 以下、次号。

三角オールドカーフェスティバルにて昭和の日に昭和への旅をする1-オールドカー異聞-(河童日本紀行578)

あなたは誰

 ふだんは人口が1000人を切っている熊本県宇城市三角町だが、年に2回、人口の2倍以上の人でごった返す日がある。
 それは4月29日の「昭和の日」に行われる「オールドカーフェスティバル」と「海の日」に行われる「港祭り」である。
 私は何に限らず古いものが好きな保守的な男なので、車や単車などの乗り物も本当は「旧車」と呼ばれるものが好きである。
 その一方で、「機械は最新のものを使った方がいい」という信条も持っている。

原付で日本一周

 というのは、今を去ること40年弱前、当時の旧車のオーナーだったことがあって、その単車には本当に苦労させられたからだ。その経緯については「バリバリ!…プスンプスン伝説」に詳しい。

迷作リメイクシリーズ97-バリバリ!…プスンプスン伝説-(京都安下宿事情13)

 したがって、私の現在の愛車はそろそろ古くなってきたとはいえ、2010年式の「豊田ウォッス!(仮名)」であって、いわゆる「旧車」ではない。「もう旧車じゃねーかよ!」という人もいるかもしれないが。

 だが、古い車や単車を見るのは大好きで、旅行の際にそうした類を展示している博物館などを見つけると、何時間でも滞在しようとして妻を激怒させることになる。

 しかし、ことが地元の三角町であれば話は別である。遠くに旅行してその時間の大半を「オールド」なものに使ってしまうのと違い、車で5分走れば自宅がある場所でそうしたもののために少々時間を浪費しても妻の貴重な休日の時間を奪うことにはならない。

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 ということで、やってきました、オールドカーフェスティバル。
 本当は後輩の言語聴覚士(卵)がこの会場で感心にもボランティアをしようというので、様子を見に来たのだが。

 2ヶ月前くらいから右膝が割れるように痛く、先日MRIを撮ってみたら実際に半月板が割れていて相変わらず痛いのだが、随分遠い駐車場から脚を引きずりながら旧車マニアたちの群れに参戦したのは、ほかならぬ私も旧車大好きだからである。

 したがってここから先は旧い車に興味のない人はには全く面白くない内容だと思うので、別のサイトに飛ぶことをお勧めする。

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 まず、私の一番好きな旧車、「ダッツンマイフェアレディ(仮名)」である。
 今でも後嗣が生き残っている数少ないスポーツカーの一つだ。
 昔のオープンカーだから今路駐していたらあっという間に電気系統を直結されて車もろとも盗まれるか、最低でも車上荒らしに遭いそうだから、ふだんはちゃんとしたガレージの中にセカンドカー(サードカー?)として大切に保存できるお金持ちしか保有できないだろう。
 それでも宝くじが当たったら真っ先に旧車専門店に買いに走りたい車である。
 ちょっとだけ蘊蓄を垂れさせてもらえれば、後部座席は横向きの1座で、合計3座。
 運転席には自分が座り、助手席には親友、後部座席には二人の間を揺れ動く微妙な立ち位置の異性を乗せたら楽しい(?)車である。
 その設定、なぜ今まで文学や映像芸術で使われなかったのか謎だ。


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 これはあまりにも有名な「港のヨーコヨコハマ箱スカ(仮名)」である。
 これも後嗣の生き残っている貴重な車だが、「マイフェアレディ」に比べるとずっとよく見る。
 ただ、何せ登場が私がまだ小学校低学年の頃だから、

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 そろそろ車に憧れ始めた私がそれとして意識したのは「箱スカ」ではなくこの「メリケン(仮名)」である。メーカーのCMでは「愛の♪マウンテンレンジ♪(都合により改変)」という音楽が流れていた。この車の前に立つと夫婦どちらからともなくその音楽を口ずさんでいた。

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 実際に免許を取れる年齢になったときに登場したのはこの「ニッポン(仮名)」だったが、その頃の私は草深い地方から花の都の私立文系に進学した「貧乏人のドラ息子」だったので、車の購入はおろか自動車免許を取ることすらままならないのだった。

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 「待つわコスモススポーツ(仮名)」。(写真は2014のもの)
 ロータリーエンジンはまさに未来のエンジンだったのだが、遂に未来のままで終わってしまった。現実は理想の通りにはいかないという見本のような話である。それでも実用化させてしまったのは今から思えば凄いことだ。
 事情を知る人は「未来の車」と思っていたのだろう。
 子供たちに人気の懐柔、じゃなかった、怪獣ものの「帰らざるウルトラマン(仮名)」の地球防衛隊が乗っている車はこれの改造版だったと思う。

 私の自動車教習所の乗用車は「コスモス」ではないロータリーエンジンの車だったが、正直な話その車の乗り心地はピストンエンジンとどうちがうのかさっぱり分からなかった。

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 「みすゞ117ルーペ(仮名)」。
 ナンバープレートを選べるようになってからこの車のオーナーは大抵「117」という番号を選ぶようである。この会場に来ていた車もナンバーのほとんどが「117」であった。
 私と同い年の妻は小学校時代に走っていたこの車に鮮烈な印象を持っているようだが、私は全く覚えていない。「格好いい」と思った記憶ももちろんない。
 だが、今見るとカッコいい車である。

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 「ヴェムベー(仮名)」。

高速道路でBMW故障す

 今を去ること30年強前、初めて行った韓国ソウルから大邱までの道程でこの「ヴェムベー」が突然動かなくなり、「歩車分離」のはっきりしない当時の韓国の高速道路で佇んでいたのは、まだ肥満もしておらず高血圧でも高脂血症でも高尿酸血症でもない若き日の私である。ただ、心房細動は自覚していないだけで既に持っていたようだが。

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 「瀬里奈GT(仮名)」。
 夏休みに宇土半島の赤瀬の民宿に泊まりに行くべく、父の運転する「古老菜(仮名)」の後部座席に乗っていたとき、追い越し禁止にも関わらず我が家の車を追い抜いて行ったのが、車体に不釣り合いな幅の広いタイヤを嵌めたこの「瀬里奈」だった。色もこの濃緑色である。
 父が忌々しそうに「あの車に乗っとる奴は運転が荒かったい!」と吐き捨てたのをいまだに覚えている。

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 これは、… 何だっけ?
 どこかで見たことがあるのだが。「ペレット(仮名)」という名前だったような気がする。この車体は白と黒の塗分けだが、記憶の限りではオレンジと黒だったような。
 ネットで調べてみると、「箱スカ」の前にレースで活躍した車らしい。
 私はカーレースの類には昔から全く興味がないから、私の記憶の中にこの車が残っているのは不思議である。

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 「シビリアン(仮名)」の前に立ったとき、夫婦の口から同じ感嘆の声が漏れた。 
 「シビリアンって、こんなに小さかったっけ?!」
 この小さな車が、

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 「派手ラック(仮名)」のようなドでかいクルマを押しのけて全米を席捲したのだ。
 ちなみに「派手ラック」の前に立ったときも夫婦の口から異口同音に声が漏れた。
 「(リッター)2kmくらいだよね?」
 なにせ同じ距離から愛機「ペンテコステオバQ(仮名)」Dマウント13mm固定標準レンズで写真を撮ろうとしても画面の中に入らないのだ。

 夫婦して自分の小学生から中学生、あるいは青春時代の車に見とれていると、場内放送が聞こえてきた。
 今回この企画に参加してくれたバスに乗れるという。

 こんな楽しいことを見逃してはいけない。
 私たちはさっそくそちらに耳を傾けたのだった。

 以下、次号。

5年目の春(それでも生きてゆく私253)

5年目もよろしくお願いします。

 私が三角町に移住して5年目の春を迎えた。
 不本意入学した生徒のように最初はなかなかエンジンがかからなかったが、どうにかここでの生活にも慣れてきた。
 三角に移ってから始めたことがいくつかあるが、全て続けている。

 まず、写真。
 相変わらず上達しないが、愛機「ペンテコステオバQ(仮名)」にDマウントという規格の小さなシネレンズ(映画撮影用レンズ)を中心に装着していろいろなものの撮影を楽しんでいる。

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 花。

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 鳥。

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 野菜。

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 自製レンズの製作技術も随分上がってきた。

 次に家庭菜園。

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 移住初年の春植え野菜から始まって、

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 秋植え野菜、

 また春植え、秋植え、春植え、秋植え、春植え、秋植えと来て、

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 今年の春植え野菜の植え付けも終わったところだ。

 韓国旅行。

 最初は娘夫婦が仕事で駐韓したのが縁で10年ぶりくらいに行った久しぶりの渡韓だったが、彼らが帰国した今も行き続けている。

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 最初は水原、

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 次はソウル、

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 次は釜山、

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 次は仁川、

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 次は慶州、

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 次はまた水原、

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 次は金海、

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 そして論山。

 行くからには現地の人とコミュニケーションをとりたいので、韓国語の勉強もちょっとずつながら続けている。

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 さっぱり話題に出てこなくなったから全滅したと思っている人がいるかもしれないが、三角に移住してから天草で買った目高の子孫は増えに増えて40匹弱が我が家で生活している。

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 鳥の餌付けも続けている。

 今ブログの更新そっちのけでやっていることがある。

 それは趣味の一つである古銭収集の文献である「韓国貨幣価格図譜」の日本誤訳(誤字にアラズ)である。あと2項目訳せば完成というところまで来ている。
 著作権の関係で皆さんにお見せできないのが残念だが。

 そして仕事。
 趣味に支障がない範囲でやっている(冗談ですよー)。

 

仏に逢い鍋を買う韓国の旅16-韓国雑感漢江西岸・湖南編-(河童亜細亜紀行131)

疲れるはずだ

 さて、いつものように韓国雑感なのだが、実は帰り道も相当危ない橋を渡っていたことを報告したい。というより、一番ヤバかったかもしれない。
 というのは、私たち夫婦はどういうわけか、帰りの飛行機を13:30と思い込んでいたのだ。ところが、実際は12:30だった。
 旅行社がホテルに迎えに来る時間が妙に早いなと思っていたら、とんでもない勘違いだったのだ。
 これは「まだ時間がたっぷりあるから飯でも食おうか」と歩き出したとき、たまたま掲示板の前を通って「念のためにゲートを確認しておこう」と見上げて発覚した。

 そのとき既に時間は11:00過ぎ。
 のんびり昼食を食べていたら館内放送で呼び出されるはずだった。悪くすれば気付かずに乗り遅れたかもしれない。
 危ない危ない。

  では、本題である。

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 熊本空港で見た不思議な「半分日の丸」である。
 どういう旗なのかよく分からない。

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 仁川の干潟もちょっとずつ埋め立てられて狭くなっているような気がする。
 干拓は取り返しがつかないのだから、慎重にやってほしいものだ。いらん世話だが。

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 どんどん増える「日系コンビニ」。 
 本当は左端のキャラクターが面白かったのでそれを撮ろうとしたのだが。

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 「ここに駐車するとこうなりますよ」という直截な標識。
 それでも停めている強者がいたが、「君子危うきに近寄らず」で写真は撮らなかった。

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 光化門。
 朝鮮王朝創建から間もない時期に作られたが、豊臣秀吉の引き起こした文禄の役(韓国では壬申倭乱)によって焼失、その後王朝末期に大院君により再建された。その後日本が朝鮮総督府を建設する際に取り壊されそうになったが、柳宗悦の働きかけにより保存が決定、本来の建設場所から移設されて保存された。

 柳宗悦という人名を見て韓国人だと思った人がきっといると思うので説明するが、この人は韓国の民芸をはじめとする文化を深く愛した日本人で、「やなぎむねよし」と読む。
 韓国では歴史上の日本人は概ね評判が悪いが、この柳宗悦と「日本のシンドラー」布施辰治は絶賛である。

 この再建門は朝鮮戦争で焼失し、朴正熙(パクチョンフィ)大統領が再々建した。

 再々建門には朴大統領が揮毫したハングルの扁額(看板のようなもの)が掲げられていたが、古風な門にそぐわない、ということで漢字のものが作られて掛け替えられた。
 ところが、最近読んだ「朝鮮日報」の記事では、実はこの扁額は写真のような白地に黒ではなく、黒字に白だったのではないかという議論があるそうだ。

 ちなみに昨日も書いたのだが、「朝鮮日報」は北朝鮮の新聞で私がそれを取り寄せて読んでいると思っている人がきっといると思うので説明するが、この新聞は韓国の伝統ある新聞で、かつ「韓国の参詣新聞(仮名)」と呼んでもいいくらいの保守的な新聞である。

 閑話休題(はなしがそれすぎたがわたしのぶんしょうもよくしらないひとからこのてのごかいをたくさんされているのではないかとおもうとなさけなくなる)。

 数奇、としか言いようのない運命の門である。

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 ここまで来たら車がUターンせざるを得ない不思議な交差点である(写真右が標識にしたがってUターンする車)。
 南大門の近所にあった。

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 南大門でおでんを売っていた。
 ハングルで「おでん」と書いてある。

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 食べ物の写真を撮る時は大抵食べ始めてから気付いてこうなる。いやしいことだ。

 「おでん」は「おかか」「おなら」などと同じく宮中の女房詞である。伝統料理である「田楽」に「お」を付けて略したものだ。韓国では少なくなった日本語語源がはっきりしている言葉である。

 韓国ではときどき植民地時代に由来する日本語源の言葉を固有語に言い換えようという議論が盛り上がり、それは一向にかまわないのだが、韓国語初級の私としては氾濫する韓製英語もどうにかしてほしいと思う今日この頃である。なかなか覚えられない固有語語彙以上にこれが難物だ。「プルレック(black)」などと言われてもさっぱり分からない。

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 おでんと並ぶ伝統的なファーストフード(たった今韓製英語をどうにかしてほしいと言ったくせにもう和製英語かよ)であるホットックである(写真中央上)。
 こちらの語源は「胡(ホ)=西方の異民族」「トック=固有語で餅」らしい(Wikpediaによる)。

 私は最近ホットックに凝っていて、これのミックス粉を買ってきて自分で用意した胡桃・アーモンド・カシューナッツ等々のナッツ類を入れて焼いて食べているが、妻に言わせると「南大門で売っているのがずっと美味い」そうである。



 カササギは韓国の国鳥だが、警戒心が強いので意外と撮影が難しい。
 今のところ巣作りをしているこの時期のものしか撮れていない。

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 「格安航空(仮名)」のゲートまでの長い長い通路を痛む足を引きずりながら歩き、フライトして1時間も経たないうちにあっという間に雲仙普賢岳が見えた。

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 山の麓を見ると懐かしい湯島である(まだ離日して3日目だが)。

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 金峰山を眺めながらさようなら。
 あと10分もしないうちに熊本空港着陸である。

 あー、おうちが一番。(このシリーズ終わり)。

仏に逢い鍋を買う韓国の旅15-百聞は一見に如かず-(河童亜細亜紀行130)

百聞は一見に如かず

 朝食から帰ってきて支度をして、後は迎えのバスを待つばかりである。

 ホテルのホールに若者の男女2人づつが座って談笑している。
 日本語だ。4人で韓国旅行に来たのか、と思った。

 ところが、ホテルのフロントに電話があって、係の人(韓国語オンリー)が女の子たちを呼ぶと、「〇〇君、行ってきて」と男の子を促し、男の子が話しているのを聞くと、韓国語である。どうも男の子たちは韓国人らしい。

 後でバスの中で判明したのだが、男の子たちが以前日本に留学していて、女の子たちはその子たちに逢うために韓国に遊びに来たらしい。

 日本に反感を持っている韓国人や韓国を嫌っている日本人には信じがたいことだろうが、韓国人の留学先や日本人の留学先として常に上位10位に入っているのが海峡を隔てたお互いの国なのである。 

 それにしても、私が歳を取ったからか、若者をパッっと見て、「あ、日本人」「あ、韓国人」と分からない。
 同民族が同集団でいてすら分からないことがある。
 顔立ちはもちろん、髪型も、体形も、服装も、両民族はどんどん近づいているような気がする。

これが中高年スタンダードだ

 最も見分けがつかないのは日中韓の中高年男だが。この話は何度も書いた。

 人は楽しいことが好きだ。そして人と仲良くするのは楽しいことだ。

 「論語」の冒頭の一節が「朋有り。遠方より来る。また楽しからずや。(日本誤訳:遠くに住んでいる友達が久しぶりに訪ねてきた。嬉しいなあ。)」で始まるのは決して偶然ではない。

 だからどんな憎悪や悪意が壁や溝を作ろうとしても、必ずそれを超えようとする人がいる。

 どんな人と仲良くしたいと思うかはその人次第だが。

 少なくとも人種や民族や門地でそこにゲートを設けたくないものだ。

 30年前、若い私たちが海峡を渡ったのもそうした動機だった。別に韓国に惚れ込んでいたわけではない。

 日本の左右の両陣営が韓国の南と北をそれぞれに「独裁」と呼び、「怖い国だ」と言っていた時代だった。

 私の周囲には若くて元気なひねくれ者が集まっていたから、「怖い」などと言われると、「いかほどのことやあらん」と考える思考と行動のパターンが発動されるのだった。

 実際に韓国に行ってみたときの感想は「88以前の韓国旅行を記憶遺産に」というシリーズにまとめたので興味のある人は読んでほしい。

 30年前のこの旅行での私の最大の収穫は、安重根(アンジュングン)の「東洋平和論」を全文原文で読めたことだった。これはいまだにネットにちゃんと掲げてあるのを見たことがない。

 安重根は20世紀初頭の東亜の知識人であるから、自分の意見を表明する手段は漢文である。
  この人が遺書として書いた「東洋平和論」を原文で全文読んで意味を取ったことのある存命の人は、現在の日韓で20万人いないのではないかと思う。つまり1/1000人くらいか。もっと少ないかもしれない。
 皮肉なことに漢字教育が充実していない韓国人の方がそうするための条件が不利なのではないだろうか。日本人でも漢籍の素養がないとまず読めない(さりげなく自慢)。

 ちゃんと読んだことのない人に先入観を植え付けるようなことはしたくないので私の意見や感想は差し控える(さりげなく傲慢)。

 ただ、私がこれを読むことができたのは、前夜一緒に酒を飲んで仲良くなった韓国人のA君とB君が私と同行のC君をそれが掲げられている場所に連れて行ってくれたからだ。

 30年前、私が両親の反対に負けて渡韓を断念していたら(父は私がスパイ容疑で捕まることを本気で心配していた)、大学生のA君B君と夜の酒場で意気投合していなかったら、彼らが安重根の「東洋平和論」の掲げてある記念館に私を連れて行かなかったら、私は今でも安重根を単なる暗殺者として認識していただろう。

 その一方で、酷い交通マナーや、不潔なトイレや、悪質な客引き、不愛想な店員には呆れかえった。若い私にはそれを面白がる体力があったが、年老いた今(検診結果によると私の健康年齢は実年齢より随分高いらしい)、タイムスリップしてあの頃の韓国の街角にいきなり放り込まれたら、倒れてしまうかもしれない。

 百聞は一見に如かず。
 なのだが、歳を重ねるにつれて実行力が衰え、足を運ばずにPCから得た知識でことを済ませようとする自分を感じる。

 だが、実際に行って見ていなかったら、私は灌燭寺(クァンチョクサ)の石造弥勒菩薩を水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくる「アリラン様(この仏をモデルにしたといわれている)」のようなただただ面白い仏像だと思ったままだったろう。

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 この仏像の持つ気品や威厳、また人々の尊崇や寺の持つ宗教的な雰囲気などは、その場に行かなければ、どれだけ写真を見ても分からない(私の写真が下手なだけという話もあるが)。

 もっとも、朝鮮日報(名前から北の新聞だと思う人がいるかもしれないが、南の、しかも保守的な論調の新聞である)にも「不細工な仏像」などと書かれた記事を見たことがあるから、地元でもユーモラスな印象をまず第一に受ける人が多いのかもしれないが。

 また今日も若者たちが互いの国の何かから受けた印象を、自分の目で確かめるために海峡を越える。
 
 私の見た日韓の若者たちは現在の私の年齢になるころ、お互いのことをどういう風に思っているのだろうか。いまだに付き合いが続いているのだろうか。

 そのとき私はもう生きていないだろうが、その時代を見てみたい気がする。

仏に逢い鍋を買う韓国の旅14-シウォナダー!-(河童亜細亜紀行129)

本当はシウォナダー

 韓国旅行で美味いものを食べられなくては海峡を越える意味がない。こともない。今回は仏に逢いプルコギ鍋を買う旅だったからだ。
 それにしてもホテルの近くの店で食べたテジカルビ(豚アバラ肉)と近くのコンビニで買ったポッサム (煮豚)は大当たりだった。
 韓国で飯を食って「これは不味い」と思ったことはほとんどない。

 ただ、酒のつまみとして売っているものはどうかと思うものが多い。

 特に干物は生乾きのままで、あと一回温めてあると嬉しい。

 それにしても本場のマッコリはやはり美味い。最近は通販でそれなりに美味しいのを見つけて取り寄せているのだが、それでも実際に韓国でマッコリを飲むと「似て非なるもの」というのがよく分かる。


 さて、美味しいものをたくさん食べ、美味しい酒を呑んで一晩寝たら、もう帰国である。

 旅行社がホテルに迎えに来るのは8:50なので、7:00ごろ朝飯を食べに行く。

 ただ、昨晩カルビ屋を出て周辺を散策したのだが、朝食を出してくれそうな店はなかった。また、翌朝部屋の窓からホテルの周囲をざっと見まわしてもこの時間に開いている店はない。

 数年前までならばこういう場合は店で喰うのは諦めてコンビニに朝食を買いに行っただろう。

 ところが、この数年で韓国に関する情報は飛躍的に増え、精度を増している。

 これは「オネスト(仮名)」をはじめとする情報アプリに負うところが大きい。

 半分諦め気分になって「オネスト」で「塩倉(ヨムチャン)」「朝食」「グルメ」などをキーワードに検索すると、なんとこの時間に開いている店が複数出てきた。

 ホテルから一番近い店を選んで出発。
 時間を無駄にするといけないのでまたフロントで店名を言って、「右?左?」と韓国語で尋ねると、教えてくれた。「左に行って信号を渡って道の向こう」らしい。

 いい時代である。
 ハングルが逐字読みできて「右」「左」「信号」が分かる程度の韓国語力があれば、事前の情報が全くない未知の土地の未知の店で食事が可能なのだ。

 店はヘジャングが有名らしく、芸能人のサインが掲げてある。
 ヘジャングの「ヘジャン」は漢字では「解臓」と書く。「ク」は固有語で「汁」という意味である。
 この食べ物は日本ではほぼ馴染みがないが、韓国ではよく朝食で食べられているようだ。
 強いて日本語に直すと「脱宿酔いスープ」か。

 ただ、この店のそれを店外の写真で見ると、スープが真っ赤っかである。しかも、どう見てもスンデ(韓国風血のソーセージ。独逸のブルートヴルストのようなもの)が入っている。
 私は「真っ赤っか」を食べると即下痢をするし、妻はスンデが大嫌いなのだ。

 ヘジャングの下にはスンデグの写真もある。
 妻は「貴方と同じものでいいよ」と言うので悪戯でスンデグを2つ頼もうかという考えがよぎったが、さすがに激怒しそうだったので止め、野菜スープを頼む。
  野菜スープを二つ頼むと、店員さんが「これは野菜しか入っていませんよ。いいの?」と聞き返す。勿論ケンチャナヨ(構いません)である。



  ところが来たスープを見ると、ヘジャングクやスンデグクと変わらないくらいに赤い。


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  しかも、黒いブヨブヨの得体の知れない物が入っている。
  妻も気になったらしく、「ねえ、これ、何?」と気味悪そうに聞く。
  よく見ると、なんだ、生のキクラゲである。
  私は阿蘇の生まれだから、これが木に生えているのを子供の頃よく見た。
  乾燥のキクラゲしか知らない人には蝙蝠の耳のようで気色悪く感じるらしいのだが、実は食感が抜群の珍味なのだ。足が速いため都会では希少で高価だから見かけることはまずないが。まさかソウルのような大都会で出会うとは思わなかった。

  これには後日談があって、帰国してから一週間くらいして、妻が近所の物産館から生のキクラゲを買ってきた。私たちは田舎に住んでいるのである。
  都会育ち(といっても九州の中都市)の育ちである妻は、今まで天草の店で生のキクラゲが売ってあっても(九州方言でいても)気味悪がって買ったことがなかったらしい。ところが今回の野菜スープでその美味さに目覚めたのだ。
  これは早速私がプルコギの材料として料理して、「美味しいもの」として妻の脳裏に刻まれた。

  閑話休題(はなしをもどして)。

  「キクラゲって野菜かな?」と疑問に思いながらスープに手をつけたが、これが美味い。ただし、やはり辛い。朝っぱらから汗がどーっと出てくる。

  食べ終わる頃には昨日の酒と摂取しすぎた脂肪分はどこかに行った。

  勘定するとき私は店のアジュンマ(おばちゃん)に「シウオナダ(スカッとする)」の過去形のつもりで「シウォナッソヨ(日本誤訳:スカッとしたよ)」と言った。
  「シウォナダ」は辛い料理や熱い料理を食べた後に韓国人がよく発する言葉で私も何度か聞いたことがあるが、後から調べてみるとどうもこれを過去形にした言い回しは存在しないらしい。
 だいいち「シウォナダ」は無理に過去形にすると「シウォネッソヨ」だから文法から間違っている。

  アジュンマは一瞬ポカンとしていたが、私の顔を見て吹き出し、笑いながら「お気をつけて。」と言った。

  私が何を言いたかったか見事に通じたらしい。というのは私の顔は「信汁」で「汁だく」だったのだ。

  「皆の衆!」(若い人が警戒して身構えるのを感じる)
  外国語上達のコツはいっぱい恥をかくことじゃ。特に地元民の笑いを誘ったら成功であーる。

  さあ、後は一路、本当は寄り道をしたいが、帰国である。

仏に逢い鍋を買う韓国の旅13-瓜二つの人に逢う-(河童亜細亜紀行128)

瓜二つの人

 大満足の夕食の後、ホテルの二次会とお土産を買う目的で近くのコンビニに寄る。

 ここで私は驚くべき体験をした。

 商品の冷蔵棚で、仁川旅行で買ったが佐賀空港の税関で没収されてしまったポッサム(煮豚)の全く同じ製品を見つけたのである。
 何だ、そんなことか、と思われると思うが、もちろんこれはまあそれほど驚くには当たらない。 

 巨大なテジカルビ(豚アバラ焼肉)を食べた後だが、私はこれをホテルで味見したいと思った。それくらいこの食品は美味そうなのである。
 ただ、ホテルには客の使える電子レンジがなかったような。だとすると加熱せずに食べなければならない。

 私はコンビニの店員さんに尋ねることにした。
 レジに近づいていくと、そこには教え子のAさんが! いつ渡韓したのだろうか。
 いやいや、Aさんには数日前に日本で逢って話をしたところである。こんなところでバイトをしているはずがない。これは他人の空似なのだ。それにしても似ている。

アミーゴな二人
 故星子敏夫元熊本市長と俳優の故笠智衆氏よりも似ている。
 「きょうだいのよう」というレベルではなく、「一卵性双生児」というレベルである。
 「えーっ! 何でここにいるの?」と話しかけそうになったくらいだ。

 気を取り直して「これはこのままで食べられますか」と尋ねると、「んー、止めた方がいいですね。そこ(店の入り口)に電子レンジがあるから加熱してください。」と答えたが、声もAさんにそっくりである。Aさんが韓国語を話したらこんな感じなのだろう。

 これは驚くには当たらない。顔が似ている人は頭頚部(声道)の構造も似ている場合が多いから、声も似ているのだ。専門的には「ホルマント構造が似ている」という(どうしていちいち上から教示を垂れなければ気が済まないんだ?)。

 この「韓国のAさん」は、私が韓国製の電子レンジの扱い方が分からずに戸惑っていると、レジから素早く出てきて代わりに操作してくれた。性格も親切な「日本のAさん」そのままである。
 もっとも、「この人は韓国語がわからないからレンジが使えないんだ」と思ったのではなく、「この人はオルシン(ご老体)だからレンジが使えないんだ」と思った可能性が高いが。

 Aさんが温めてくれた(レンジのボタンを押しただけだが)ポッサムはホテルの部屋で夫婦二人で食べた。添付のセウソース(蝦の塩辛をベースにしたソース)を掛けて。とろけるような豚肉を海鮮のソースで食べるのが新鮮で、ことのほか美味しく感じた(あまり肉ばっかり食べるとまた足が痛くなるぞ)。

 「日本のAさん」と「韓国のAさん」は何万年か前の遠い遠い親戚なのかもしれない。一度対面させてみたいものだ。

仏に逢い鍋を買う韓国の旅12-韓国人の食欲に驚く-(河童亜細亜紀行127)

モモ肉がなぜカルビ

 念願の仏に逢い、念願のプルコギ鍋を買って、ホテルに戻り、今度は夕食である。
 今回の旅行、私たちは1日目の夕食、2日目の朝食、昼食と、「取り敢えず」という食事をしている。
 韓国で最後に摂れる夕食くらいは「取り敢えず」や「やむを得ず」でない食事を摂りたい。

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 最初から「ここに行こう」と思っていた店に入る。
 例によってその店の名前は教えないが。
 このブログのモットーは「誰にも得をさせない、誰にも損をさせない」なのだ。
 看板が面白かったのでそれだけは掲げておく(本当に嫌な奴だなあ)。

 この店は塩倉(ヨムチャン)という耳慣れない場所に宿泊するホテルがあると知ってから情報収集しているうちに耳に(眼に?)入ってきたものである。

 何でも以前塩倉に住んでいて他所に引っ越した人がその店の味を忘れられずにわざわざ「地下鉄地獄線」に乗ってやって来て食事をしたとか。これは美味いに違いないと思っていたのだ。

 結構早い時間に行ったのだが、私たちが待たずに入れた最後のカップル客だった。家族客はすでに椅子に座って待っていた。
 客は私たち以外はすべて韓国人のようだった。地元民に人気の店らしい。

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 でかいテジカルビ(豚のアバラ肉)が出てくる。

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 これが2人前ではない。もう1枚、皿に入りきれずに畳まれた奴が出てきた。
 正直私たちのような2人で100歳超のカップルには怯むような肉の量だ。

 ところで、日本でカルビといわれている肉は韓国ではソカルビという。
 そして、統計を取ったわけではないからあくまでも私の印象だが、韓国ではソカルビよりもテジカルビがよく食べられているように思う。

 韓国の固有語で牛はソ、豚はテジ、鶏はタといい、それぞれにソカルビ、テジカルビ、タッカルビがある。
 カルビはエバラ、じゃなかった、アバラ肉という意味だから、ソカルビは牛のアバラ肉、テジカルビは豚のアバラ肉である。
 それでは最近日本でも若い女性に人気のタッカルビは鶏のアバラ肉かといえば、そんなものは極少量だからそうではなく、タッカルビに多く使われているのはモモ肉である。
 タッカルビの語源はよく分からないが、「鶏の骨の周りの肉だから」という大雑把な説が有力である。牛にも豚にもカルビがあるから鶏にもないと寂しいという理由で「鶏のカルビ」と呼ばれているのかもしれない。
 だとするといかにも細かいことにこだわらない大陸的な話であるが、細かいことに気付く(こだわる)日本人には何か納得がいかない話かもしれない(話を持ち出したのはお前だろうが)。

 ちなみに冒頭の絵で河童が「モモ肉」だと思って手に持って文句を言っている肉は「まんが肉」といって実在しない。
 哺乳類の筋肉には起始と停止といって骨への付着点が2ヶ所あるのである(内舌筋のような例外もあるが)。

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 1人前それぞれに(アバラ)骨付き肉がちょこんと添えてあるのは「この部分の肉ですよ」という看板のようなものなのだろう。日本で魚の姿作りが尾頭付きで出てくるのと似ている。

 ほかに玉葱スライス、ペチュキムチ(白菜キムチ)、湯豆腐、ラッキョウの酢漬け、たぶん玉葱ベースのドレッシングのかかったサラダ、

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 そしてチマサンチュ(チシャ)と大蒜の付け合わせである。

 豚肉がジュウジュウ焼け始める。
 今までに韓国で入った店では肉を焼くときは店員さんが裏返したり鋏で切ったりしてくれていたので、ボーッとしていたら焦げ始めた。慌てて裏返し、鋏で切る。ここはセルフサービスなのだ。
 見ているとひっきりなしに客が入ってきて店は常に満席で、店員さんもほとんど走るように立ち動き、殺人的に忙しそうである。客の肉を切っている暇などないのだろう。

 御飯を頼んで肉と一緒にサンチュで巻いて食べる。

 うんまーい!!!

 肉の質、タレの味、もっちりした御飯、最高である。

 サンチュが足りなくなって頼む。次はもっと大き笊に入って出てきた。タダのようだ。

 あちこち歩き回って空腹なせいか、今までに韓国で食べたどの焼肉より美味しい気がした。

 私たちの隣には私たちより10歳は上だろうというカップルが陣取っていたが、この人たちはテジカルビを3人前頼んでいた。つまり、上述の巨大肉を3枚、付け合わせやサンチュも追加注文してペロリと平らげてしまった。
 さらに驚いたことにこの2人はその後テンジャンチゲ(味噌汁)と御飯を追加注文し、これも平らげた。日本の味噌汁よりかなり量が多く、一人用の鍋一杯のチゲである。

 この、もうオルシン(ご老体)といってもいい男女の食欲に驚いてしまった。
 しかも2人とも肥満体ではないから、日頃からよく運動しているのだろう。

 酒はビール1本、マッコリ1本、焼酎1本(小瓶)を飲んで、全部で40000ウォン。

 大満足の夕食であった。

仏に逢い鍋を買う韓国の旅11-念願のプルコギ鍋を買う-(河童亜細亜紀行126)

プルコギパンは河童の甲羅

 KTXの旅は早い。

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 田園と、

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都会と、

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 それが混ざった風景を見ているうちに、列車は1時間半くらいでもう龍山(ヨンサン)に着いた。論山(ノンサン)-龍山間はちょうど熊本-鹿児島間くらいの距離である。

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 行ってしまう前に自分たちが乗ってきた列車を撮影。KTXは日本系の技術ではないから(仏蘭西の技術らしい)私たちにはあまり「あ、あれに似ている」という感じは受けない。

 龍山で地下鉄1号線に乗り換えてソウル駅に行く。

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 あ、やっちまった。
 ソウル駅までは2駅なのに勘違いして1つ前の南営(ナムヨン)で降りてしまった。

 時間を気にしなくてよくなったらすぐこれだ。
 やはり私は都会には住めない。長くなったらいろいろなことをやらかすに違いない。

 再度列車に乗ってソウル駅に到着。
 ソウル駅から地下鉄4号線に乗り換えてしばらく乗ると南大門の最寄り駅である会賢(フェヒョン)である。

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 南大門は相変わらず賑わっていた。
 地図アプリの「オネスト(仮名)」を頼りにして食器店街を探す。

 あった。鍋屋である(写真はなし)。

 プルコギ鍋(プルコギパン)はすぐ見つかった。
 アルミ製が15000ウォン、ステンレス製が20000ウォン、真鍮製が60000ウォンである。

 迷って迷って、値段を教えてくれた店のアジョシ(おじさん)が愛想をつかして店内に引っ込んでしまうくらいに迷った。
 アルミ製は安い。しかしアルミ製の鍋は焦げ付きやすい。本当は真鍮製がいいのだが、重い。これからリュックに入れて運搬である。痛む足を抱えて、満員の地下鉄に乗って(さっき乗った4号線は土曜日でラッシュ時でもないのにぎゅうぎゅう詰めだった)、重い鍋を運びたくない。

 結局ステンレス製にした。一度引っ込んだアジョシを再度呼んで、購入である。

 実は最初にプルコギパンを見たときから「これは使える」と思っていた。料理ではない。冒頭の絵は実際にやってみたところだが、私の身体が大きすぎてイマイチ伝わりにくい。もう少し身体の小さな人ならばバランスがいいと思うので、「頭頂型」の人は是非挑戦してみてほしい(アホか)。

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 ホテルまでの帰りは会賢駅から再び地下鉄4号線に乗り、銅雀(トンジャク)というところで地下鉄9号線の急行列車に乗った。
 土曜日の夕方だというのに、ぎゅうぎゅう詰めである。
 地下鉄9号線は「地獄鉄9号線」だというソウルっ子のジョークがちょっとだけ分かった気がした。土曜日でこれなら平日のラッシュはどれくらいなのだろう。
 初日に自力で移動していたらこの列車に平日の夕方に乗っていたわけだ。物凄く迷惑がられたに違いない。

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 やっと塩倉(ヨムチャン)に戻ってきて、交通カードを機械に入れると保証金が戻ってくる。

 明日はバスで空港まで送迎だから、もう公共交通機関を使うことはない。
 ホッとした。妻よ、お疲れ様。

 後は昨日できなかった、店で夕食、である。
 

仏に逢い鍋を買う韓国の旅10-俺なんかオルシンだからまだマシだ-(河童亜細亜紀行125)

危ないですよ。

 韓国忠清南道論山市灌燭寺にある素晴らしい仏像、石造弥勒菩薩と記念写真を撮り、大満足の私たち夫婦である(説明調)。 

 さあ、これから昼食を食べて、ソウルに帰ってショッピングである。

 さっきAさんから貰った名刺に書いてある電話番号に電話する。
 あれ?「現在使われておりません」のアナウンスが。あ、そうか。Aさんの携帯は韓国の電話会社と契約したもの、私の携帯は日本の電話会社と契約したものだから、韓国内で電話をかけても国際電話になるのだ。
 国番号を最初に入れなければならない。
 だが、まてよ、国際電話はそれを受ける方にも課金されるはずである。
 論山駅-灌燭寺のタクシー料金は6000ウォン。親切なAさんに余計な金を掛けさせるわけにはいかない。
 私は寺の事務所の人に「電話を借りられませんか?」と聞いてみた。最初上級者ぶって「チョナ」と言ったが通じず、「チョン・ファ」と1音ずつゆっくり発音して初めて通じた。さすが弥勒の使徒、親切にも事務所の電話を貸してくれた。

 Aさんは「20分くらいかかるけど待っててください」と言ったが、10分くらいですぐ来てくれた。

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 さようなら、弥勒菩薩。またいつかお会いしましょう。

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 途中、苺祭りの看板があった。
 論山は苺の名産地らしい。もしかすると平昌五輪のカーリング韓国チームが「もぐもぐタイム」で食べていた大きな苺はこの地方の産なのかもしれない。

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 駅前に帰って、昼食である。

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 本当はプリン体の関連で牛系は避けたかったのだが、たまたま入った店の辛くない食べ物がカルビタン(牛のあばら肉スープ)しかなかったので、それにする。
 まだこれから地下鉄の駅やら南大門の街やらを歩かなければならない。前回の釜山のようなことは避けたいので、「赤いものは食べない」という最近の私の韓国旅行の鉄則を守る。
 味は「普通に美味しい」。少し胡椒(熊本弁で洋胡椒)が多いような気がしたが。7000ウォンの昼食としては十分だ。骨付き肉を手で持って骨の周りの肉を歯で骨膜ごとこそぎとって食べるのが美味い。

 そして何よりご飯が美味い。韓国で白飯(ペクパン)を頼んで外れたことがない。
 日本では安い食堂で食べると「外米かよ」というようなボソボソパラパラの飯に当たることがあるが、韓国では安いところでもいつもモチモチホカホカである。これは初めて行った30年前から一貫している。

 腹もくちて、いよいよ帰る算段をする必要があるのだが、復路のKTX(超々特急)までまだ少し時間がある。

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 駅前の観光案内図を改めて見る。

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 それによるとここ論山には、弥勒菩薩のほかに、美しい湖や、百済の殉国の将軍偕伯(ケベク)が最後に新羅・唐連合軍を迎え撃って全滅した古戦場など、11の見どころがあるという。
 もう一度来ることがあれば、とも思うが、自家用車かタクシーの貸し切りでなければ回れそうにないので、今後とも縁はないだろう。

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 駅前のコンビニで「チョコチョコ」と「ドゥラキュルラバー」を買い、店内のテーブルに座って食べる。「ドゥラキュルラ」はグレープ味だった。

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 列車の時刻が近づいてきたので構内に入る。13:56発KTXが私たちの列車である。

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 若い女の子たちがそこに屯している猫とじゃれようとしたが、猫は忙しいのかつれなく行ってしまった。女の子たちが名残惜しそうに「アーン、カジマヨー(ニャンちゃん、行かないでー)、カジマヨー」と呼びかける。
 羅勲児(ナフナ)の名曲に「カジマオ(行かないで)」というのがあるが、トロット(演歌)ではよく聞くこのフレーズが日常会話で使われるのを初めて生で聞いて笑ってしまった。
 女の子たちも私の笑っている意味が分かったらしく、ニコニコしながら私たちの方を見ていた。

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 韓国でもホームへの転落事故が問題になったらしく、どんな田舎の駅にも簡易的ではあるが防止柵が設置してある。
 日本の場合はほとんどの新幹線が別規格の線路だからこうした対策は考えにくいのだろうが、韓国の場合は在来線利用の高速鉄道があるからこうした対策が必要なのだろう。
 考えてみたら日本でも特急(韓国ではムグンファ号くらいか)は在来線のホームを猛スピードで通過していくから、こうした対策が本当は必要なのかもしれない。

 私は足が痛いのでベンチに座り、妻はホームをうろうろしていた。

 そのとき、最初は小さな声で、だんだん大きくなり、最後は怒号がホームに響いた。

 「アジュンマ(おばちゃん)。アジュンマ! アジュンマ! ウィヨメヨォー!(危険ですよ)」

 見ると、保線作業員らしき人たちの声だった。
 妻がいつのまにか転落防止用の柵に寄りかかっていたのだ。
 最初は「もしもし」くらいの声量で注意したのだが、妻が自分のことだと全く気付かず、寄りかかったままなのでだんだん声が大きくなったらしい。

 大和撫子が国内で「おばちゃん」と呼びかけられることはめったにない。もともと親しくない人には「おばちゃん」ではなく「奥さん」「お母さん」だろう。

 私など韓国の若者からは「オルシン(ご老体)」と呼ばれるから、まだマシなのだが。

 アジョシ(おじさん)たちが妻に強い口調で注意しようとしたので、私は妻を背にして仁王立ちになり、「チュエソンハムニダ(ごめんなさい)」と謝った(半分嘘。立ち上がろうとしたが膝が痛くて咄嗟に立ち上がれず、ベンチに座ったまま)。韓国語学習歴34年、齢56歳にして2回目に使用する慣用句である。

 すると険しかったアジョシたちの表情が急に和らぎ、にこにこしながら「注意しないと私たちが怒られるから」「ここはモニターを使って本部で見てるんですよ」というようなことを言った。あくまでも「注意」や「怒る」や「モニター」「本部」「見てる」などの聞き取れた単語と、ジェスチャーからの推測ではあるが。

 私も笑いながら「本当にごめんなさい。妻は韓国に慣れていないので。」と返した(後半は嘘。私の韓国語力では咄嗟に言えない)。だが、その場の雰囲気が急に和んだのは本当である。

 私は旅行のたびに人一倍韓国人とトラブルを起こしてきた男だ。

 そのトラブルは相手が100%悪かったこともあるが、こちらが90%悪かったこともある(100%はないと思っているところが図々しいが)。たいていの場合半々である。

 難しいのはこちらに非がある場合で、あまりに相手が怒るからこちらもカッとなる。
 以前タクシーに乗っていて運転手さんの充電器を壊してしまったときなどはそうだ。これは彼が客席にあるシガーソケットで自分の携帯を充電していたものを私が車から降りるときに思い切り膝で蹴って壊してしまった事件である。
 要は私が悪いのだが、「客相手」という日本の常識からすれば彼が常軌を逸して怒るので、こちらも「そんなもん運転席のソケットで充電しろよ」と、「殴り合いも辞せず」という気持ちになってしまった。

 民間でもなかなか難しい日韓関係である。

 ただ、私はこうしたトラブルの多くは韓国人の反日感情で起こるものではない、と思う。この点に関しては多くの日本人が誤解している気がする。

 この誤解から「幻の親日国」を探して世界中を彷徨っている日本人は多い。あるときは台湾、あるときはトルコ、あるときはインド、あるときはタイ、あるときはベトナム。そして相手が自己主張すると「裏切られた」と感じて離れていく。

 相手が好意を示してくれるのは相手が親日感情を持っているからそうするのではなく、こちらの行動に対して喜んでくれたからだ。逆に、怒るのは、こちらの行動に不快感を持ったからだ。喜んだり不快感を持ったりする基準は各民族によって微妙に違ったりもするが。

 どこの国にもロクデナシもいればいい人もいる。これは分かりやすい。万国共通だろう。テッド・バンディは前者の、コルベ神父は後者の例だ。
 私たち凡人はその間のグレーゾーンを漂っている存在である。

 グレーゾーンは精神的に応える。

 だから、私たちは「自分は今起こっている事態を本質的に解決できる。」と言い放つ人間に弱い。
 だが、人種間、民族間、国家間を含めた人間同士の関係に「本質的な解決」などない。
 あるとしたらお互いが消滅してしまう場合のみだ。

 人間同士は「分かり合えなさ」を抱えながら「取り敢えず」やっていくしかない。
 
 自分が相手によって利益を得たら取り敢えず感謝する。自分が相手に損失を与えたら取り敢えず謝罪する。
 実はこの「取り敢えず」というのが大事で、相手が自分でない以上、相手との損得関係が「本質的に」解決することなど永遠にないのだ。

 日本人も韓国人も世界を相手にこれからもそうせざるを得ないのだと思う。

 お互いに認めたくないだろうが、日本人と韓国人は一見似ているようで全く違うのに、それでも感情を抜きにしてみれば世界で最も似ている。
 良きライバル、良きトレーニング相手として、両民族は互いをもっと見直してよいのではないかと思う。

 人間同士の分かり合えなさから起こってくるトラブルに万能の特効薬はないが、「ありがとう」と「ごめんなさい」はそれでもちょっとだけ効く常備薬である。

 改めてそう思った今回の訪韓だった(まとめてしまったがまだ続きます)。

仏に逢い鍋を買う韓国の旅9-遂に仏に逢う-(河童亜細亜紀行124)

仏像と一緒

 さて、いよいよ論山(ノンサン)駅頭に立った私たちである。
 
 逸る気持ちを抑えつつ、まずは街の観光案内所に入る。

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 駅前にはタクシーが数台停まっているから、これで弥勒菩薩のいます灌燭寺(クァンジョクサ)まで行ってもらえるのは間違いない。
 ただ、寺から論山駅までの帰りの交通手段はあるのか。
 寺には1時間くらい滞在して写真を撮りまくるつもりであるから、その間タクシーが待機、などということになると料金が嵩んで仕方がない。
 かといって、いつ来るとも知れないローカルバスを待つ、などというのも困ってしまう。帰りの切符は高速鉄道だから時間を決めて予約してもう発券してもらっている。これに乗り損ねたらことである。

 私は案内所のアジュンマに何度か同じことを尋ねた。「灌燭寺にタクシーは停まっているか?」である。しかし、今一つ要領を得ない。これは日本人の韓国語に慣れていない韓国人にはありがちなことである。既に仁川市街で似たような経験をした。

 アジュンマは駅前で屯している運転手さんの一人に話しかけ、私たちをタクシーに乗せた。
 私は改めて「灌燭寺に行ってください。」と頼んだ。
 すると運転手さん(仮にAさんとする)は、「ああ、弥勒菩薩を見に行くの。ところで、その後は扶余(プヨ)に行くんでしょう?」と言った。扶余は百済の古都で灌燭寺から車で40分くらいのところにある。

 この間の会話はもちろんすべて韓国語である。私の韓国語力だともう精一杯のところだ。
 もし私が最初に石造弥勒菩薩を見たのが「太陰(仮名)」という雑誌でなく、弥勒のいますところが扶余だと勘違いしなかったとしたら、私はAさんの言葉がよく分からないくせに「はい」と生返事をしたかもしれない。

 「韓国でぼったくられた」という話の多くはこうして起こるのに違いない。
 Aさんにしてみれば商売だし、第一自分たちの見慣れている仏像にそれほどの価値を見出してそれだけを見に来る日本人がいるなどとは思いもしなかっただろう。Aさんは韓国語しかしゃべれないから当然韓国語で勧誘する。それに人の言葉に肯きやすい傾向のある日本人がよくわからないままに「うん」と言ってしまう。
 おそらく扶余観光が加わったらタクシー代は100000ウォンを超えただろう。だいたい韓国のタクシーの貸し切り料金は4時間でそれくらいなのだ。
 だいいち予約した列車に乗り遅れてしまう。

 しかし、弥勒に魅せられて「扶余の仏像が」「扶余の弥勒菩薩が」と、家族や友人に「プヨプヨプヨプヨ」しょっちゅう言っていた私は、Aさんの「プヨ」という言葉を聞き逃さなかった。
 「アニョ(いいえ)」を2回繰り返し、「灌燭寺マン(韓国語で「だけ」)行ってください。」と「マン」をプロミネンス(強調)して念を押し、タクシーは走り出した。

 Aさんの運転は最近私たちがよく出会う「神風」ではなく、丁寧だった。もっとも、扶余行きを私が断った後は一言も喋らず、にこりともしない不愛想な態度だった。
 
 寺に付いたときAさんがまた何か言ったが、私には聞き取れなかった。
 私は生返事をして行こうとした。早く仏像に逢いたかったのだ。Aさんは諦めたように車を動かしかけたが、運転席の窓を開けて、「ヨギヨ!」と私を呼び止めると、名刺を渡し、手話の電話のポーズをして、「終わったら私に電話して。」と言った。今度は聞き取れた。
 親切な人だったのだ。

 急な坂道を登りながら境内に入ってふと横を見ると、

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 出たーっ!(オバケじゃないって)[撮影PENTAXQ10+KINO-SANYO13mmDmount.F4.5]

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 思っていたよりもずっと威厳と気品があって、素晴らしい仏像である。[撮影PENTAXQ10+KINO-SANYO13mmDmount.F4.5]

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 レンズを「讃!38mm(仮名)」に付け替え、絞りを開けて風景を回してみる。なかなか幻想的である。[撮影PENTAXQ10+SUNTELEPHOTO38mm,F2.8]

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 観察力のある人は仏像の足元にいる人たちが何をしているのか気になると思うが、広角レンズで写してみるとよく分かる。[撮影PENTAXQ10+SUN WIDE 6.5mm,F4.5]
  この人たちは弥勒菩薩に礼拝しているのだ。しかも、いわゆる「五体投地」といわれる礼拝の仕方である。五体投地といえばチベット仏教が有名だが、韓国の礼拝もこの最大級の敬意を表すやり方なのだ。

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 最初私は、写真だけでみるとユーモラスな感じのするこの仏像を真下から顎を強調して撮るなど、できるだけ面白く撮ろうと考えていた。
 しかし、実際に見た仏は威厳と気品に満ち、しかも今もなお人々に尊崇の対象として仰ぎ見られているのである。
 そのことを知ってしまったので、私はあまり近くに行って人々の信仰の妨げにならないようにし、かつふざけた撮り方も止めたのだ。

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 お堂からは僧の講話の声が聞こえてくる。

 私はこの、今年韓国の国宝にも指定された素晴らしい仏像が、なぜ芋の子を洗うような人ごみの押し掛ける見世物にならないのかが分かった気がした。

 百済の時代から1000年以上の時を経てなお、この寺は実際の信仰の現場なのだ。
 
 私は神も仏も信じない男だが、信仰を尊重する気持ちは人一倍持っているつもりである。この雰囲気を喧噪や非常識な行為によって壊すのは人としてして(重複にアラズ)はいけないことだと思う。

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 境内の山の上に祠があったので登って最後に1枚。
 隅から隅まで鮮明に収めたかったのでここは標準レンズで。[撮影PENTAXQ10+02 Standard Zoom 5mm,F4.5]

 この仏像の巨大さが分かると思う。

 なんとこの仏像は巨石を37年かけて削り出したものなのだという。
 
 伝説ではある女性が山中に蕨狩りに行ったとき、子供の泣き声を聞いて行ってみると、子供の代わりに巨石が盛り上がり、それを慧明(ヘミョン)大師という人が王の命で刻んだということだ。

 妻が「一緒に撮ろうよ」と言って撮ったのが冒頭の絵のもとになった写真である。
 仏像が大きいのと私の顔がデカいのとでなかなか3人(?)が一つの構図の中に入らず苦労していたが、やっと撮影できた。

 私には一生の「出ひ想(北原白秋調で)」になる写真である。

 最後に仏様の足元に行き、夫婦で礼拝。
 韓国式の五体投地ではなく、日本式の合掌礼拝である。

 大満足。

仏に逢い鍋を買う韓国の旅8-湖南高速線の旅-(河童亜細亜紀行123)

韓国の田園

 さて、綱渡りの末に韓国忠清南道の論山(ノンサン) についた私たち夫婦であるが、ここから石造弥勒菩薩(ソクチョミルクモサ)のいます灌燭寺(クァンチョクサ)に行く前に(勿体つけて)、論山のある湖南(ホナム)線沿線を紹介したい。

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 まず湖南高速鉄道の始発終着駅である龍山(ヨンサン)。
 韓国の高速鉄道といえばソウルと釜山を結ぶ京釜線が利用者も多く、KTXといえばこの路線を思い浮かべる人も多いが、実は湖南方面の高速鉄道は京釜線と同時に2004年に開通している。ところが例によってというべきか、どういうわけか、というべきか、全羅方面の整備は遅れ、やっと2015年に開通した。

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 私たちの乗るムグンファ号(日本でいうと「こだま」のような各駅停車)はこの光州ルートの列車である。

 龍山は「韓国の秋葉原」といわれ、電機店が集まっていることで有名だ。
 古銭マニアである私には、韓国の典圜局(造幣局)が龍山にあったことで昔から知っている地名である。
 韓国の近代貨幣は最初自力で、次に日本の指導のもとで(典圜局は仁川)、次にロシアの指導で(典圜局は龍山)造幣されたが、結局韓国が日本の植民地になることで日本の貨幣と瓜二つのものになってしまった。
 その間の経緯については既に韓国仁川ミステリー?ツアー7-古銭マニアの見た韓国近代化への苦悶-(河童亜細亜紀行66)で書いた。
 龍山で製造されたものはロシアの影響のもとに作られただけあって、裏面に鷲の図案があるが、ロシアのそれのように双頭ではない。この典圜局は独立協会による反露運動によって70日間で閉鎖された(「韓国貨幣価格図録」による)。したがってここで製造された貨幣はどれも極めて希少で、私のような普通の勤め人が買える値段ではない。したがってここに掲載できるような写真もないので、日本の指導で作られた一両銀貨を掲げる。

朝鮮1両銀貨


 私は日韓併合までに作られた韓国貨幣の製造(彫金)技術の高さを見るにつけ、韓国の自力での近代化がなされていたら、と胸が痛む。
 当時に生きていなかった私は過去にスリップして曽祖父の代の日本人の行動を修正するわけにはいかないから、「償いをしろ」などと言われると困ってしまうが。

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 龍山駅で買ったサンドイッチとポリチャ(玉蜀黍茶)である。
 サンドイッチは耳を取っていないところが日本と違うが、私はパンの耳を嫌いではないので気にならない。
 ポリ茶の方は大当たりで、特に妻の口に合ったようだ。「プルレック」と書いてあったので何のことかと疑問だったが英語の綴りを見て意味がわかった。「黒ポリ茶」である。

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 塗装にヒビが入っている。走行には関係ないのだろうが、日本人ならば絶対に放っておかないだろう。

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 ムグンファ号の中はガラガラである。
 これで採算が取れるのか、と他人事ながら心配になったが、

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 論山が近づくころには満席になった。私もよく席が取れたものだ。

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 最初の停車駅永洞浦(ヨンドゥンポ)である。
 地下にはショッピングモールがあり、若者の街になっているらしい。実際乗客にも若者が多かった。

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 水原(スウォン)。
 世界遺産である水原華城のある都市だ。

どこが「もののふ」なんだか

 かつて日本のもののふがここで弓を射、見事的に当てたことがあった。

只者ではない匙

 またこの駅からは韓国民俗村へのシャトルバスが運行されている。ここで買った匙は素晴らしい出来であった。

韓国包丁は難しい

 また、ここで買った包丁は最初我が家での定着が危ぶまれていたが、何よりも錆びにくいという特性が認められ、我が家の常遣いの包丁のうちの1本になっている。

 朝鮮王朝時代の冶金・鋳金技術もまた自力で(というより周辺諸民族を犠牲にして)近代化を成し遂げた日本に優るとも劣らないレベルだったのだ。
 またも先の疑問と苦悩が胸をよぎるが、とりあえずは旅を楽しむことにする。

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 漫画になりそうな構図だが、平澤(ピョンテク)である。
 ガザミ(東京方言:ワタリガニ)の醤油漬けケジャンで有名な海沿いの都市である。

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 天安(チョナン)である。
 私も大好きな胡桃饅頭の発祥地はここらしい。

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 鳥致院(チョチウォン)。
 桃の名産地らしい。

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 西大田(ソテジョン)。
 高速鉄道のために古くからある田舎の駅を整備し、その周りにこれから新興住宅地ができつつある感じだった。

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 なんだか九州新幹線の新大牟田駅や新玉名駅などの「新」を冠した駅を彷彿とさせるが、私は思い込みと勘違いが多いから違うかもしれない。

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 鶏龍(ケリョン)は韓国の軍都であり、市民の半数近くが軍人とその家族らしい。戦前の熊本(現在もその傾向はあるが)のようなものか。

 祖父の歌に

 わが軍歌うたへる人ら戦場に死にたまひたる数は知らえず

というのがある。

 詩人だった祖父は熊本に本拠のあった旧軍第六師団を称えた「第六師団行進曲」や「色は黒いが」の作詞者であり、戦後も自衛隊第八師団(熊本が本拠)の部隊歌を作詞している。

 戦後は戦争協力の疑いで公職につけず、生活は困窮を極めた。自衛隊の部隊歌はそうした境遇の中で作詞されたもののようだが、上述の短歌の歌意からすると矛盾した行動のようにも思える。

 懲りない人だなとも思うが、プロは金をもらって仕事をするわけだから当然とも思われる。祖父の収入で父たちきょうだいは大きくなったわけだから。

 そして連山(ヨンサン)。
 経緯から駅の写真はない。

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 周囲の風景からするとそうとうの田舎のようだ。
 ここで降りていたら本当に大変だった気がする。

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 論山の駅頭風景である。
 熊本でいうと玉名駅くらいの感じだろうか。

 駅前にタクシーが数台止まっているのはおそらく灌燭寺(クァンジョクサ)に案内するためだろう。

 さあ、今、逢いに行きます。

仏に逢い鍋を買う韓国の旅7-綱渡りの往路-(河童亜細亜紀行122)

龍山・連山・論山

 さあ、論山灌燭寺の石造弥勒菩薩に逢う旅の始まりである。 

 ホテルのフロントに「外出します」と言って鍵を預けようとするのだが、「そのまま持って行って」というようなことを言う。この人は日本語は勿論英語も一切話さない。韓国語オンリーである。私の韓国語力だと話の内容の半分分かるかどうかというところだ。

 駅の位置に自信がなかったので、「地下鉄の駅は」と韓国語で言ってから、右と左を交互に指さすと、「左に行って、信号を右に行ったらありますよ。」と、ゆっくり答えてくれた。さすがの私も「右」「左」「信号」くらいは分かる。もっとも早く喋られたら分からなかったかもしれない。

 言われたとおりに行くと、確かに塩倉(ヨムチャン)駅の2番出入口に着いた。

 エスカレーターを降りて行って切符売り場に行く。

 まず確かめることがある。

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 私たちは前回の金海旅行のときに釜山の交通カードを買って、そのまま持って帰ってきたのだ。これははたしてソウルでも使えるものなのか。

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 一応カードの一番上には「全国互換」と書いてあるのだが、何せ釜山の地下鉄ですら自動改札を通れなかった代物だから怪しいものだ。

 案の定料金をチャージしようとすると、「使えないカードです」と表示が出た。外国旅行はこういう時間のロスが結構あるから早め早めの行動が大切なのだ(偉そうに)。

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 仕方がないのでソウルの交通カードを買い直す。本当は何回も使える奴を買いたかったのだが、ここでまた時間をロスするわけにはいかないので1回限りのものを買った。

 無事に改札を通ったので安心である。

 ところが、ホームに行って電光掲示板を見るのだが、6:48発新論峴(シンノンヒョン)行の電車が見当たらない。ホームを間違ったのかとも思ったが、看板の駅名を見たら確かにこの方向である。よく見ると6:48発の急行はナントカ運動場(ウンドンジャン)行になっている。「オネスト(仮名)」で路線図を確かめようとするのだが、携帯なので画面が小さくてよく見えない。画面を拡大すると全体像が見えなくなるし。

 ちなみに「オネスト」は日本語での検索が可能な優れものの韓国地図アプリである。今回はこのアプリにどれだけ助けられたか(よく見えないとか言っておきながら)。

 そうこうしているうちに6:38発のナントカ運動場行の急行は出てしまった。あと10分で6:48発のナントカ運動場行が出発である。

 私は咄嗟に考えた。私が日本で触れた情報が古いのだ。こちらのアプリは発着時刻まで出してくれるので「オネスト」よりもっと便利だと思っていたのだが。
 おそらく地下鉄9号線は延伸したのだ。これは日本でも都会ではよくあることである。もともとは新論峴が終点だから列車も新論峴行だったのが、ナントカ運動場まで延伸したのでナントカ運動場行になったのに違いない。その証拠に、電光掲示板にあるそのホームからの列車はすべてナントカ運動場行なのである。
 帰国してから分かったのだが、この推理は正しかった。ナントカ運動場は「総合運動場(チョンハプウンドンジャン)」で、9号線はここまで延伸し、新論峴は終点から2つ前の駅になっていた。

 私たちは6:48発総合運動場行に乗った。乗ってから車内に掲示された路線図を見ると、間違いなくこの列車はKTX龍山(ヨンサン)駅の乗り換え駅である鷺梁津(ノリャンジン)駅に向かっていたのだ。
 
 無事鷺梁津駅に着いた私たちは、1号線に乗り換え、龍山駅に着いた。

 地下鉄の改札を出ようとするのだが、自動改札を通れない。改札の液晶画面に「運賃が足りません」と出ている。
 近くに精算機があったので精算する。100ウォンの不足である。
 もう一度改札に行くと今度は通れた。

 さて、これからが交渉だ。切符売り場に行って、切符の変更をしてもらわなければならない。
 正直まだ「論山発龍山行KTX2枚」と交渉した方がずっと簡単である。
 伝えなければならないのは、「論山発龍山行KTX2枚を購入したのだが、まだ発券していないからプリントしてくれ」という内容である。しかも、行きの駅で帰りの切符を発券してもらうのだから、誤解の種満載である。

 私は窓口のアガシ(お嬢さん)に「こんにちわ」と日本語で言ったが反応がない。日本語オーケーの人ではないようだ。仕方がない。
 携帯の画面で購入したチケットを拡大して見せながら、「これらのチケットを購入したのだが、まだ…」までは出てきたのだが、後が咄嗟には出てこない。「印刷」って何だっけ。
 アガシの顔にイラッとした色が走る。韓国語でいうところの「タッタッパダ(もどかしい)」というやつだろうか。
 その刹那、口を衝いて出たのは'No print.'だった。
 「ああ、プリント。パスポートください。」

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 アガシは私のパスポートを受け取ると、機械に向かってカチャカチャやり、行きの切符までプリントしてくれた。

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 内心「行きは印刷してるんだけどな」と思いながら礼を言って、ムグンファ号の発着ホームに行き、朝食を買ったらもう発車まで10分くらいである。時間に余裕を持ってスケジュールを組んでおいてよかった。

 車窓の風景は次回に報告するとして、このムグンファ号を降りるときにも結構危なかったことを言っておかなければならない。

 もともとこの列車は龍山発光州(クァンジュ)行なのだが、降りる駅は論山である。
 龍山は용산と書き、日本語ではヨンサンと読む。論山は韓国語では논산と書き、これは日本語ではノンサンである。ところがこの二者は中国語では龍がlóng、論がlúnで、日本人にはまず聞き分けられない音になる。もともと似た音なのである。

 妻は私が「ヨンサンが」「ノンサンが」と連呼するのに辟易して、日本語読みするように厳命したくらいだ。
 
 また、この列車の車内放送がまたどういうわけか変に声が小さくて聞き取りにくい。しかも韓国の国鉄の車内放送は駅名を連呼せずに1回しか言わない(気がする。もしかすると聞き取れなかっただけかもしれない)から、ますます聞き取りにくい。 

 列車がノンサン、つまり論山に近づいてきて、「そろそろ降りなきゃいけないな」と私たちが準備を始めたころ、車内放送があった。
 「ヨンサンです。」
 たしかに「ヨンサン」と聞こえた気がした。だが、ヨンサンつまり龍山は始発の駅である。こんなところで車内放送があるはずがない。だとすると「ノンサン」つまり論山(ぁーつ!書いているだけで面倒くさい)の聞き間違えか。

 降りそこなったら次はもう江景(カンギョン)である。これではせっかく変更したのに間違えて結局当初の計画通りの旅になってしまう。

 私たちは出口まで行ってみることにした。

 列車はとんでもない田舎(住民の方ごめんなさい)の田園の中の駅に停まった。
 停車しかけたとき、「やはりここなのか?新兵の教練所があるくらいだから田舎だろうし。」という考えが頭をよぎり、私は妻を促して降りる態勢になった。
 出口がちょうど駅名の看板の前に停まったのは僥倖であった。

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 その駅は「連山(ヨンサン)」だったのである。連山は韓国語では연산と書き、용산とも논산とも違う。
 しかし、日本人で연산と용산を聞き分けられる人は韓国語が上級の域に入りつつある人だけである。何せ仮名に直せばどちらも「ヨンサン」なのだ。
 ヨンサンつまり連山はノンサンつまり論山の1つ手前の駅なのである(あーっ、本当に面倒くさい!)。

 危ない危ない。
 ここで降りたら1時間1本のムグンファを待つか、タクシーに乗るしかないところだった。計画がすべて後ろに押す形で狂うはずだったのである。

 もう一駅。
 また車内放送があったが、ちょうど列車が音を立てているところで、「ノンサン」なのやら「ヨンサン」なのやら、はたまた「ヨンサマ」なのやら分からなかった(分かるって)。
 列車が停車するために急速にスピードを落としたとき、私は最近どんどん衰えている動態視力を文字通り目一杯使ってホームの看板を凝視した。

 「論山(ノンサン)」。
 間違いない。ここだ。

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 私は今度こそ妻を促してホームに降りたのだった。やっと着いたぞ、論山。

仏に逢い鍋を買う韓国の旅6-旅程変更の決断-(河童亜細亜紀行121)

漢江の朝日

 真夜中の韓国のホテル。
 私は4:00ころに眼が覚めた。

 その瞬間、私は「やはり旅程を変更しよう」と決意した。

 理由は3つ。
 1つは1日目が完全に無駄になってしまったこと。食事は軽食のみだし、鍋を買うことなど思いもよらなかった。しかも最終日も全くフリーの時間がないこと。

 2つ目はそこから派生することだが、妻が大好きな市場やスーパーマーケットでの買い物の時間がなくなってしまったことだ。仏像や塩辛タウン(江景:カンギョン)はまるっきり私の趣味だから、妻はただただそれに従うだけになってしまう。

 3つ目は私の膝が正常な歩行ができないくらいに痛いことだ。この痛みは旅行の1ヶ月前くらいから始まり、「痛風または偽痛風」であると診断されている。この診断が出てから私はプリン体の多い食事を控えているのだ。

 私は江景観光を諦め、代わりに南大門(ナムデムン)でショッピングをすることにした。

 私がゴソゴソしているので妻も起きたらしい。
 私が「江景はやめて南大門にするけん」というと、妻は喜んでいるようだった。自分の趣味というより、私の足を心配して「その足で長時間歩いて大丈夫?」と何回も言っていたのだ。

南大門で拉致される

 南大門だったら足が痛くなってきたら店に入って座ればいい。この街は私にとってはあまりいい記憶のない街だが、以前のような性質の悪い客引きもいなくなって随分買い物しやすい街になっているらしい。

 ここでもう一度当初の計画を確認したい。

 塩倉(ヨムチャン)駅周辺のホテル-(徒歩)-塩倉駅-(地下鉄9号線)-鷺梁津(ノリャンジン)駅-(地下鉄1号線)-龍山(ヨンサン)駅-(ムグンファ号)-論山(ノンサン)駅-(タクシー)-灌燭寺(カンチョクサ)参拝-(タクシー)-江景(カンギョン)駅-昼食・江景観光-江景駅-(ムグンファ号)-論山駅-(セマウル号)-龍山駅-(地下鉄1号線)-鷺梁津駅-(地下鉄9号線)-塩倉駅-夕食-(徒歩)-ホテル
 朝ホテルを出るのが6:30、灌燭寺が11:00、江景駅到着が12:30、出発が15:52、ホテル到着が20:00位と踏んでいた。

 この行程の後半を変えて、
 明洞近郊のホテル-(徒歩)-明洞駅-(地下鉄4号線)-ソウル駅-(地下鉄1号線)-龍山駅-(ムグンファ号)-論山駅-(タクシー)-灌燭寺参拝-(タクシー)-論山駅-昼食-論山駅-(KTX)-龍山駅-(地下鉄1号線)-ソウル駅-(地下鉄4号線)-会賢(フェヒョン)駅-(徒歩)-南大門-(徒歩)-会賢駅-(地下鉄4号線)-銅雀(トンジェ)駅-(地下鉄9号線)-塩倉駅-ホテル-夕食

 朝ホテルを出るのが6:30、灌燭寺が11:00、論山駅到着が12:30、出発が13:39、南大門最寄りの会賢駅到着が15:30位だから、ショッピングの時間は十分ある。

 問題は切符があるかどうかだ。
 娘の話ではKTXはいつも一杯で当日だとなかなか予約が取れないらしい。まだパラリンピック開催中なのだ。それにセマウル号より料金も高いが、この際仕方がない。

 ネットで検索してみると、幸い空席ありである。さすが湖南線である。京釜線だったら当日に切符がとれるなどまずなかったろう。

 今度は江景-論山のムグンファ号と論山-龍山のセマウル号のキャンセルをしなければならない。これは1枚1枚しかできず面倒くさかったがどうにか無事に終了した。
 
 これで予定変更に伴う列車の変更は済んだが、乗るためには乗車券が必要だ。携帯で手続きをしたのでプリントアウトが出来ない。これは龍山駅で乗る論山行きの待ち時間が1時間近くあるから、その間に窓口に行って発券してもらうしかない。

 発券の時間を確保するためには、予定通り6:48発新論峴(シンノンヒョン)行に乗らなければならない。手間取って1本遅れたりすると発券どころか行きの列車に乗り遅れる恐れすらある。

 あ、いつの間にかもう5:30である。
 支度して6:10にはホテルを出なければ。駅までは徒歩5分くらいらしいが、昨日が遅かったので駅までの道を確認していないのだ。

 以下、次号。


仏に逢い鍋を買う韓国の旅5-熊本発15:30ソウル着22:00だと?-(河童亜細亜紀行120)

もうやめて免税店

 30分くらい遅れたが、無事仁川空港に着いた私たち夫婦である。

 これから30分くらいで入国審査を済ませ、最寄りの免税店に寄って、まあ19:00くらいにはホテルにチェックインできるだろう。
 そこから近くで飯を食ってもよし、ソウルの中心街まで地下鉄9号線と1号線を1回乗り継ぎで30分くらいだから、「眠らない街」東大門(トンデムン)に行けばプルコギ鍋も売っている店があるに違いない。

 ところが、荷物を受け取って出てきた私たちを見たガイドのAさんはいきなり「ホテルに着くのは22:00くらいになりますから」と言う。
 ほかの客はみなソウル中心街の明洞(ミョンドン)のホテル宿泊で、私たちともう一組だけが「川向こう」塩倉(ヨムチャン)のホテルである。塩倉の日本人にとっての取柄といえば、金浦(キムポ)でも仁川でも空港が近いだけである。まあ本当にそれだけだ。それなのに、何でそんなに時間がかかるのか。

 これは明洞の免税店に寄るかららしい。

免税店難民

 正直リピーターの韓国旅行者にとって免税店は「脱出」の対象でしかない。
 一度市場やスーパーマーケットで買い物をしてしまうと、免税といいつつ同じ物を1.5から悪くすると2倍くらいの値段で買わなければならない意味が分からない。「買い忘れ」「買い逃し」対策のために帰りに1回寄ってもらえば十分なのだ。

 「さあ、ホテルに行って、これからあそことあそこで遊ぶぞお!」と思っている気持ちに冷水を浴びせるもの、それが免税店なのだ。

 勿論、なぜツアーがあんなに安くできるか、という絡繰りの一部であるから、仕方ない部分はあるのだが、それにしても寄るタイミングや場所などをもう少し考えてほしいものだ。せっかく日本の地方都市から韓国の首都まで1時間でいけるメリットが台無しである。

 閑話休題(それはりょこうしゃにかんがえてもらうとして)。

 要は私たちは明洞で宿泊する客に付き合ってホテルを素通りして明洞まで行き、用もない免税店で時間を潰した後、引き返してホテルまで帰らなければならないというわけだ。

 さらに、最終日のホテル送迎は8:50だという。そこから免税店に30分くらい寄ったらあとは一路空港だから、市街で遊ぶ時間は全くない。何ということだ。自由に行動できるのは2日目だけではないか。

 しかも、ツアー客のうちの一組が待てど暮らせど出てこない。
 仁川空港の呼び出し放送は飛行機到着後1時間しないと頼めないらしい。無限に感じる時間の後、Aさんが呼び出ししてもらい、やっと出てきた。つまり1時間待ったわけだ。

 その間、私はもう自分で移動しようと思い、Aさんとも交渉した。
 Aさんの話ではそれは構わないので本社に連絡するからもう少し待ってくれとのことだった。Aさんにしてみたら来るはずの客が来ないわけだからそちらが優先なのは分かる。

 ただ、「混みますよ」というAさんの言葉で、私は事前に得た情報を急に思い出した。
 私たちが自力で移動するためには、空港からの高速鉄道でソウル駅まで行き、それから地下鉄1号線と9号線を乗り継がなければならない。私たちのホテルは9号線沿いの塩倉(ヨムチャン)という駅の近所にあるのだ。

 地下鉄(チハチョル)9号線はソウルっ子の間で「地獄鉄(チオクチョル)9号線」というあだ名があるらしい。これは利用客と車両数が合致していないからで、車両数を増やすことを要求してストライキが行われたほどだという。
 地下鉄1号線が混むのは既に体験済みである。

 しかも、今は金曜日の夕方。週末のラッシュ時である。

 この二つの路線を大きなスーツケースを持った旅慣れない日本人がラッシュ時に使用することの意味をもう一度冷静に考えてみた。

 行方不明だった若いカップルが待ち合わせ場所に出てきたとき、Aさんが私に「どうします、本社に電話しますけど」と言われたのだが、「やっぱりみんなと一緒に行きます」と答えた。
 自力で移動してもおそらく早くなるのは1時間くらい、苦痛は2倍だろう。送迎だったらバスの座席に座ってさえいればいいのだから。

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 ソウルに入ったころには日はとっぷりと暮れてネオンが輝いていた。

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 明洞の免税店では早速地下に「脱出」して地下街にある「日式(韓国風日本料理)」の店で軽めの夕食を食べ、夜食用に「饅頭(韓国では餃子も含めて餡を皮で包んだものをこの言葉で総称する)」を買った。
 この温麺(蕎麦)が思いのほか美味かった。出汁が利いていて韓国人好みにあまり塩辛くない。最近めっきり塩辛いものが駄目になった私にはちょうどよく感じる。海苔、春菊、油揚げ、エビフライ(蝦天でないのがご愛敬)、白い何かのムック(寄せ物)などの具も美味しい。

 免税店に着く前にツアー客の一部から嬉しい申し出が。
 ホテルまで行かなくていいからここで降りるとのこと。おかげでホテルに寄る時間が削減できる。

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 免税店を出ると、バスは再び郊外に向かう。案の定、さっき見覚えた風景が逆回しになって広がる。

 結局ホテルに着いたのは最初の予定通り10:00。途中で降りた人たちの厚意がなければあと30分は遅くなっていただろう。
 これでこの日店で夕食を摂ったり、東大門で鍋を買ったり、という思惑はすべてパーになった。

 搭乗手続きのために熊本空港に着いたのが13:30だから、実に8時間30分を費やした計算になる。新幹線で北海道まで行けるぞ。何という時間の浪費だろう。飛行機はこれが嫌だ。

 早く「玄界灘トンネル」ができてくれないだろうか。

仏に逢い鍋を買う韓国の旅4-1時間で行ける美しい外国-(河童亜細亜紀行119)

怒鳴られてフライト

 いよいよ出発である。

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 最近熊本-ソウルの航空便は乗客が多いので、搭乗手続きで手間取らないように13:30には空港に着く。駐車場は県の助成でタダなのが嬉しい。

 同じ値段のツアーでもこれが福岡発ならば高速料金・駐車料金・ガソリン代、便の時間によっては宿泊費まで要るから、1万円近く違うのだ。移動で費やす時間も'Time is Maney.'であることを考えれば無駄な出費といえる。

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 今回の便は珍しく日本人がたくさん乗っている。1/3くらいは日本人ではないだろうか。ここのところ周囲は全部韓国人で機内アナウンスが韓国語と英語だけ、などということもあったのだが。
 まるで見ず知らずの人たちだし別に言葉を交わすわけでもないのだが、やはり同胞が乗っているというのは心強い。

 ところが、出発が近づいても飛行機が来ない。韓国語と英語のアナウンスから推測するに強風のためらしい。日本語のアナウンスでは「遅れる」というだけで理由には一言も触れなかったが。

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 結局出発時刻くらいに到着。
 ここから整備して荷物を載せるのだからあと30分は遅れそうである。

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 初めて知ったのだが、手荷物は1個1個手で積むのである。これは時間がかかるだろう。

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 だが、思ったより早く、15:51には離陸できた。
 何でこれほど正確な時間が分かるかといえば、愛機「ペンテコステオバQ(仮名)」がデジタル一眼だからで、写真のプロパティを見れば何時撮った写真かすぐ分かるのである。怖いといえば怖い話だが。




 飛行機の旅には珍しく私の席が窓際になった。妻が、「いつも私が窓際を譲ってるよね…」などと事実無根の言い分で脅迫してきたが、負けずに座り、離陸風景を撮影する。

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 空から益城町の風景を見る。やっとビニールシートがほとんどなくなった。1年前だったら青いビニールシートだらけだっただろう。熊本地震で最も被害が大きかった震源地なのだ。
 熊本県を空から見るといつも美しい緑色である。人々が太古から営々と続けてきた耕作の賜物である。

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 飛行機が上昇すると雲の上に出て地上の風景が見えなくなった。

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 こういうのも「雲海」というのだろうか。雲が幾重もの波を作って息を呑むほど美しい。レンズは「讃6.5mmDmount(仮名)」、絞りはF4.5くらいである。

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 しばらく自然の造形に見とれていたら、もう韓国の南岸に到達した。たぶん麗水(ヨス)あたりだろう。

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 再び陸地が雲に隠れた。
 これはさっきと違う雰囲気の雲海である。

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 韓国もまた美しい国だ。
 曲がりくねった川がまるで空に昇る龍のようである。

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 傾いた陽に照らされて輝く西海岸に見とれていると、

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 もう仁川の遠浅の海が見えてきた。



 着陸。現在時刻17:01分。1時間10分でもう外国なのである。
 東京だってこんなに早くは着かない。熊本と韓国の近さが分かる。

 ところが、この後私たちは「やはり外国は遠い」ということを思い知らされたのである。以下、次号。

仏に逢い鍋を買う韓国の旅3-人生は計画通りにはいかない-(河童亜細亜紀行118)

失うものがあると弱い


 一度書いたが私は何に付けても綿密な計画を立てない(仕事は別)。 
 何事も計画通りにいかないことをこれまでの人生で嫌というほど思い知っているからだ。

ハンフリーボガードに憧れて


 それについては
計画性に関する大転換(それでも生きてゆく私106)に詳しい。



 ただ、今回は(北を含めても)韓国の南北最長距離の1/6くらいを移動する長距離旅行なのだ。しかも論山は韓国軍の新兵教練所があるくらいだから相当な田舎のはずである。
 おそらく日本語がまったく通じない可能性が高い。

 しかも、「ペラペラ」の"p"くらいの韓国語力で、「アンニョンハセヨ」「オルマエヨ」「ケンチャナヨ」くらいの韓国語力の相棒と旅をするのだ。
 五里霧中の中進退窮まって日本大使館に連絡、という事態だけは避けたい。

 私は熊本-ソウル間の格安フリーツアーに申し込んだ後、10回目の韓国旅行で初めて詳細な計画を立てた。

 まず熊本からソウルまで飛行機。
 1泊目はソウルのどこかのホテル(これは私たちの頼むような安いフリーツアーだと厳密にどこのどのホテルとは選べない)でチェックイン後、南大門辺りで鍋を買う。
 翌日はホテルの近所の駅から地下鉄で龍山(ヨンサン)まで移動。
 龍山から論山(ノンサン)まで湖南高速鉄道のKTX(超々特急)、セマウル号(超特急)、ムグンファ号(特急)のいずれかで移動。
 論山駅から石造弥勒菩薩のいます灌燭寺(カンジョクサ)まではタクシーで移動。

 ここまではすぐ決まったのだが、菩薩に逢った後はどうしようか。高速鉄道でわざわざ湖南まで行くのに訪問地は寺一つのみか。私はそれで満足だが、妻はそういうわけにもいくまい。
 やはり百済の古都扶余あたりで観光するのが定石か。
 ただ、移動の時間や費用にどれくらいかかるのか、鉄道が通っていない扶余の場合計算しにくい。バスは時間が計算しにくく、タクシーは料金が計算しにくいのだ。

 論山の近隣で高速鉄道の通っている楽しそうな街はないか。

 調べてみると、ムグンファ号などだと次の停車駅となる江景(カンギョン)というところに心惹かれた。
 この町は古くは仁川・釜山と並ぶ韓国の三大貿易港で、今は寂れているものの、日本風の建物が残り、「塩辛(韓国語でチョッカル)の街」として有名だという。

 私はこの町のHPで街のことを調べ、歩行地図が載っていたのでこれをすべて日本誤訳(誤字ニアラズ)し、さらに塩辛店の位置まで調べて書き込んだ自分だけの歩行地図まで作った。

 以下、2日目の行程である。
 明洞近郊のホテル-(徒歩)-明洞駅-(地下鉄4号線)-ソウル駅-(地下鉄1号線)-龍山駅-(ムグンファ号)-論山駅-(タクシー)-灌燭寺参拝-(タクシー)-江景駅-昼食・江景観光-江景駅-(ムグンファ号)-論山駅-(セマウル号)-龍山駅-(地下鉄4号線)-ソウル駅-(地下鉄1号線)-明洞駅-夕食-(徒歩)-ホテル
 朝ホテルを出るのが7:10、灌燭寺が11:00、江景駅到着が12:30、出発が15:52、明洞駅到着が18:50位と踏んでいた。

 韓国の高速鉄道がネットで日本語で予約できることは娘から聞いていたので、この計画に沿って私は合計6枚の切符を予約した。
 龍山-論山、江景-論山、論山-龍山2枚ずつである。

 これも湖南線がソウルからでなく龍山から出ていることを知らなかった(ちゃんと調べていなかった)ために途中で「もうやめようかな」と思ったくらいだったのだが、どうにか予約できた。

 ただ、具体的なホテルの場所が決まらないと計画をもっと詳細にすることができない。私は旅行会社からの通知を待った。

 通知が来た。
 何と、ホテルはソウル中心街から漢江を隔てた「反対側」だった。

 この地域は空港からは近いがソウルの中心街からは遠い。
 もちろん「中心街」をどこと考えるかである。
 漢江西岸は国会議事堂などもあるので、意識の高い人から見ればこちらが中心なのだろうが、韓国のどんな名所旧跡や白砂青松よりもスーパーマーケットが好きな私たちのような意識の低い輩からすれば明らかに「場末」なのだ。
 
 まずここで計画は最初の練り直しを迫られた。
 私たちの泊まるホテルは本数の多い地下鉄4号線ではなく、9号線の沿線であった。地名も日本人には聞いたこともないような地名「塩倉(ヨムチャン)」である。発音も日本人にはあまりに発音しにくくかつ覚えにくいので、私は旅行の間じゅう妻には「しおくら」と言っていたくらいだ。

 9号線は列車の本数が少ない。
 しかも私たちはどの駅にも行ったことがないからその構造が分からない。
 韓国の地下鉄の駅は安全面の配慮からか、反対方向行きのホームがレールを隔てて分離しているところがあるから(というか全駅?知っている人教えてください)、間違えて行先と反対側のホームに行ってしまうと正しい方向のホームに行くのに時間がかかるのである。

 結局、ホーム間違いや思わぬ駅内移動の可能性も考えて、6:48に「しおくら」駅を出発することにした。幸いなことに地下鉄9号線は「急行」があり、それに乗れば長距離の割には意外に早く目的地に着けるのだ。

 もしかすると「顔の大きな仏様」に魅入られて灌燭寺に行きたいという人がこのシリーズを見ているかもしれないので(ありえんか)、修正した行程表を掲げておく。

  江西区のホテル-(徒歩)-塩倉駅-(地下鉄9号線)-鷺梁津(ノリャンジン)駅-(地下鉄1号線)-龍山駅-(ムグンファ号)-論山駅-(タクシー)-灌燭寺参拝-(タクシー)-江景駅-昼食・江景観光-江景駅-(ムグンファ号)-論山駅-(セマウル号)-龍山駅-(地下鉄1号線)-鷺梁津駅-(地下鉄9号線)-塩倉駅-夕食-(徒歩)-ホテル
 最終的にホテルに帰ってくるのは20:00位である。

 この行程が決まってから、私は妻のために主要な場所の地名と住所と電話番号とその概要をハングル・英語・カタカナ、漢字仮名交じり文でメモ帳の1ページにまとめて書いた。
 例を挙げれば、

염창역(Yeomchang station)
서울특별시 강서구 염창동 282-22 (서울특별시 강서구 공항대로 629)
TEL:02-2656-0910

塩倉駅(ヨムチャンヨク)
ソウル特別市 江西区 塩倉洞 282-22 (ソウル特別市 江西区 空港大路 629)
今回の旅の拠点駅
地下鉄9号線

 という具合である。

 こうしておくと、いざというとき、たとえば私とはぐれた、私が突然の発作で死んだ、というようなときにでも、メモ帳のそのページを切り離して渡せばまともな人間ならば対処してくれるだろう。どこの国にでもロクデナシはいるが、まともな人の方が多いのだ。

 皆の衆。
 人生は計画通りには行かぬものじゃ(村の長老風で)。
 これだけの計画を立てておきながら、今回の旅は大幅な変更を強いられるどころか、計画性とは無縁の、咄嗟の判断が迫られる瞬間の連続だったのである。これは私が得意の法螺や大げさではない。
 以下、次号。

仏に逢い鍋を買う韓国の旅2-最近凝っている(た?)料理-(河童亜細亜紀行117)

プルコギ鍋が欲しい

 さて、今回の旅行の最大目的は「論山の石造弥勒菩薩に逢うこと」だが、実はもう一つ目的があった。
 それは妻を喜ばせることである、というのも本当なのだが(建)、ある鍋が欲しかったのだ。 

 それは最近私が凝っている料理に関係がある。
 
 ご存知の通り(全国で10人くらい)、私は中華の調理人である(嘘)。
 中華料理は昔から作ってきたが、韓国料理はほとんど作らない。
 これは韓国料理が一見辛いだけの料理に見えて、実はやたらと手がかかるからだ。
 若芽スープ一つとっても、出汁を取るのがえらく面倒くさい。

 そんな私がこれは作ってみたいと思ったのは「ソウル式プルコギ」である。
 おそらく興味を持った人がネットで検索しても出てこないだろう。だが、私は最近2回、この料理を食べた。
 1回は一昨年末に釜山で、もう1回は今年の年始に金海で。
 これが日本人好みの味で美味いのだ。

 もっとも「ソウル式」といってもソウルではお目にかかったことがない。 
 ソウルのプルコギは日本でもお馴染みのもので、私はこれにはさしたる興味がない。これだったらもっとシンプルなセカルビ(要は日本風の牛焼肉)の方が美味い。

 これは私の独断的推理だが、どうも「ソウル式プルコギ」はソウルを中心とした首都圏では絶滅危惧種で、地方で生き残っているらしい。
 これは「東京ラーメン」、つまり醤油スープで縮れ麺のラーメンが東京ではあまり目立たなくなって一部愛好家のものになりつつあり、醤油豚骨やら煮干しやらの出汁のラーメンが持て囃されているのと似た状況ではないかと推測している。

 つまり、「ソウル式(東京式)」というよりも、「古式(韓国語でイェンナレ)」と表現した方が実態に合っている食物である。

 では、「古式プルコギ」はどんなものかといえば、基本的に醤油ベースのあっさりダレで牛肉を焼き煮(こんな言葉は日本語にはないが)したものである。

 今回特別にレシピと調理法を日本の皆さんにお教えする。
 私の東亜中に張り巡らされた情報網にかかった貴重な情報である(嘘。某国営TVの「生鮮チョンボ(仮名)で見た)。

[材料]
①醤油90ml。熟成360年の韓国産が望ましいが、そんなものはあるはずがないので、創業から100年くらい以上の日本の醤油蔵のちゃんとした製品で自分の舌に合うものならばよいだろう。
②水飴90ml。日本のものが望ましい。理由は察してください。
③塩1つまみ。全羅南道新安郡のものが望ましいが、手に入らない場合は熊本県天草の塩田で作られたものでもよい。
④胡椒1つまみ。もともと日韓どちらのものでもないのでお好みでどうぞ。
⑤大蒜微塵切り1個分。慶尚北道義城産のものが望ましいが、手に入らない場合は熊本県合志市産のものでもよい。
⑥林檎1/6個。慶尚北道大邱市産のものが望ましいが、手に入らない場合は熊本県阿蘇市産のものでもよい。
⑦水700ml。忠清北道沃川郡のものが望ましいが、手に入らない場合は熊本県阿蘇神社の境内の湧水がよい。
⑧韓国牛肩薄切り200g(口蹄疫発生のため現在輸入禁止なので入手不可能)。いきなり材料が手に入らず製作中止、という訳にはいかないので、熊本県阿蘇市産の赤牛肩薄切り200gで代用可。おそらく韓牛と最も似ている牛が赤牛だと思われる。
⑨玉葱小1個。全羅南道務安産のものが望ましいが、手に入らない場合は熊本県芦北産でもよい。
⑩人参1/2本。忠清南道錦山で農家が高麗人参畑の片隅でひっそりと作っているものが望ましいが、手に入らない場合は熊本県山鹿市産でもよい。
⑪豆モヤシ半袋。これは韓国産であればどこでもよいが、持ってくる間に萎びてしまうので、熊本県の水前寺モヤシでよい。同じものである。
⑫榎茸、椎茸、エリンギ等、適量。これも持ってくるより日本で入手した方がよい。榎茸は最近福岡県大木町産のものが品質がよい。椎茸は最近原木を売っているので日陰のスペースがある人は立てかけておくと生えてくる。採りたては美味い。エリンギは劣化しにくく環境で味が変わりにくいイメージがあるのでできるだけ近い産地であればいいだろう。
⑬韮20gまたは長葱1/4本、または両方。韮は慶尚南道河東郡産のものが望ましいが、手に入らない場合は家庭の庭に植えているものが第一選択、熊本県の菊池、益城町などが第二選択である。葱は済州島のものが望ましいが、鮮度を考えれば庭先に植えているもので十分である。

[調理法]
1.①②③④を混ぜ⑤⑥を摩り下ろして入れ、⑦を入れて混ぜ、タレを作る。
2.タレの中に細切りにした⑨⑩⑫と水洗いした⑪、5cmの長さに切った⑬を入れ、最後に⑧を入れる。ここで長時間漬けこまないのがコツ(「生鮮チョンボ」の受け売り)。
3.をプルコギ鍋の上に置き、って、これがないのだ。通販だとこの料理だけのために買うには馬鹿馬鹿しいほど値段が高い。仕方がないのでフライパンで代用可であるが、これだとただ煮てしまうことになり、「焼き煮(今思い至ったが要は「鋤焼き」である)」できない。

 そう、私が欲しかったのはプルコギ鍋(プルコギパン)だったのだ。
 フライパンでソウル式プルコギを作りながら、いつも「あー、プルコギパン欲しいなー」と思っていた。
 仏に逢いに行くついでに、鍋も買おう。現地だったら安く簡単に手に入るはずだ。

 こうして、「仏に逢い、鍋を買う旅」は計画始動したのである。

仏に逢い鍋を買う韓国の旅1-石造弥勒菩薩との出会い-(河童亜細亜紀行116)

石造弥勒菩薩を知ったときの驚き

 それは「太陰(仮名)」という古い雑誌だった。

 熊本地震で一部損壊した実家を片付けているとき、「韓国の旅」と銘打った雑誌が、崩れ落ちた本の山から姿を現したのだ。どうも父が生前に買って読んだらしい。

 まだ1988年のソウルオリンピックすら開かれていない1970年代に韓国を旅した記者の紀行文が載っていた。

 その中の一枚の写真が私の眼を強く惹いた。

 日本では類似のものすら見たことのない、「異形」といってもよい仏像だった。
 とにかく顔(頭)が大きい。 
 顔は敦煌や雲崗にある釈迦牟尼仏や如来像のような大陸的な雰囲気である。

 ところが、これが弥勒菩薩なのだという。
 私は韓国の弥勒菩薩といえば日本にも製作法が伝来して作られた弥勒半迦思惟像のような細身で女性的な仏像を連想する。この仏像はそのイメージから完全に外れている。

 ちなみに私が「ミロク」を「ミクロ」と勘違いしていたことは随分昔に書いた。

ミクロ菩薩?(チャンクの暴走14)


「ミクロ菩薩」の画像検索結果

 この挿絵は私のブログの中で河童が登場しない最初期の貴重なものである(アホか)。

 とにかく私は一枚の写真によってこの仏像に完全に魅入られてしまった。
 何とかしてこの仏に会いたい。身近で見たい。

 私はときどきこうやって人間でないものに「一目惚れ」をする。

焼き物に一目ぼれ

 諫早郷土資料館の鍾馗像に一目惚れした話は既に書いた。
 日本の宝だ! 諫早市郷土館の鍾馗像! (どうしても言いたかったこと34)

 この仏像は扶余(プヨ)にあるという。
 扶余は韓国の三国時代、日本と関係の深かった百済の都があったところである。韓国の行政区分でいうと忠清南道扶余市にあたる。

 私は早速扶余への旅行を計画し始めた。

 ところが、ネットで「扶余 仏像」と検索してもこの仏像が出てこない。
 それもそのはず、随分後で知ったのだが、この仏像が扶余にあるという雑誌の記述は正確ではない。
 仏像のある灌燭寺(クァンジョクサ)は1000年以上前の概念でいえば確かに百済の都扶余にあるのだろうが、現在の行政区分では同じ忠清南道でも論山(ノンサン)という都市に入るのだ。

 しかも、片付けのどさくさでせっかく見つけたこの雑誌が再び行方不明になってしまったため、細かいことが分からなくなってしまった。
 「韓国 頭の大きな仏像」などと検索しても例によって嫌韓記事が出てくるだけでまったく意味をなさない。

 以前よりはマシになったが、韓国や中国について検索しようとすると相変わらずデマや偏見に基いた嫌韓・嫌中記事が邪魔をする。
 私たち熊本人は地震のときのライオン脱走デマでこのテの情報の悪質さを思い知ったから、こんなことにまさか熊本人が関わっているとは思いたくないが。

 この雑誌を見つけた当時韓国に駐在していた婿殿にも聞いてみたが、韓国人に「扶余」と言っても、「は? 扶余ですか?」と反応が鈍いという。誰もどんな土地でどうやって行くのか知らないらしい。
 婿殿が調べたところでは扶余にソウルからの直通の汽車はなく、バスで3時間以上かかるという。バスで3時間以上というのはさすがに躊躇してしまう。私の韓国旅行は一人旅でなく、妻と一緒なのだ。

 ただ、「頭の大きな仏像」というと大抵の人が知っているという。そしてその仏像は論山というところにあるのだとか。
 扶余ではなかったのだ。
 しかし、私が熱に浮かれたように「プヨプヨプヨプヨ」言っていたため、この地名は私の頭の中に強く刻み込まれた。そのことが私をトラブルと余計な出費から救うことになるのだが、その理由はもっと後で明らかになるだろう。

閑話休題(それはさておき)。
 
 論山にはソウルから湖南高速鉄道が通っている。首都圏である京畿道は別として、韓国の西海岸地方は東海岸に比べて発展が遅れているといわれる。九州の南九州道沿線のようなものだろうか。特に全羅道は「反逆者の土地」などといわれて歴史的に冷遇されてきたのは有名だ。この全羅ルートも2015年にやっと全線開通し、西海岸ルートはとても便利になった。

 これでやっと仏像に会える見込みが立った。

 だが、あのときと違い、韓国語のできる娘夫婦は日本に帰ってきている。
 はたして私たち老(?妻が怒るので?つき)夫婦だけで高速鉄道の旅ができるものなのだろうか。「ペラペラ」でいうと「ペ」までも行かず「p」くらいの私の韓国語力だけが頼りである。

 「頭の大きな仏様」に逢いに行こうと決意してからはや2年、そろそろ重い腰を上げる時間である。

 幸い熊本発ソウル便も以前以上に頻繁に往復する形で復活した。

 いざ、「仏に逢う旅」の出発である。
 「鍋を買う」の方はどういう意味か、それは次回に。

私の農業入門記43-ヒネ大根の使い道-(それでも生きてゆく私252)

葉大根の使い道

  三角町に移住して貸家の庭に小さな畑を作った時、「植えるだけ無駄だろうな」と思っていた野菜がある。
  それは根菜類、特に大根である。
  何故なら、耕耘機も何も持っていない素人の耕す畑は、大根が順調に伸びて行くだけの深さまで耕さないからだ。

  だから畑を作って3年目の昨年秋に大根を種から植えたのは全く無謀というほかなかった。
  事実、その時同時に「駄目元」と思って植えた聖護院蕪は見事に「駄目」で、「葉大根」ならぬ「葉蕪」になってしまった。

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  大根もまた今年の2月くらいまでは予想通り生育状態は最低で、陳ねこびた二十日大根みたいな葉っぱのみが畑の畝に疎らに点在するだけだったのだ。

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  ところが、そろそろ春一番が吹くくらいに急に葉が茂り出して葉大根くらいには大きくなり、さらに売っている大根とは比較にならぬにしてもそれなりの大きさの大根が土の上に頭を出し始めたのだ。殆どの株は二十日大根より少し大きいくらいなのだが、どうかすると市場で売れるといえば図々しいが、例えば大根おろしなど、ちゃんと大根としての用途に耐える大きさのものもある。

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  引き抜くと先が曲がった挙句に結び目ができていたりして、やはり「陳ねこびた」という印象は否めないが。よく出来た大根と違って水分も足りない。
  だが、食べてみると甘い。

  隣町の大矢野には有名な特産品である湯島大根があり、大根といえばどうしてもこれと比べてしまうので点数が辛くなるが、それでもこの大根は甘い範疇に入るのである。
  ちなみに湯島大根は先日「鉄腕イナオ(仮名)」というバラエティ番組で取り上げられたから知っている人も多いかもしれない。

  私たち夫婦はこの大根が有名になって自分たち地元の庶民の手に入らなくなるのではないかと心配しているのだが。
  ただし、いつもは冬になると地元物産館の「サンパウロ(仮名)」に並ぶ湯島大根の売れ行きは確かめていない。

  それは他ならぬ我が家の大根が力不足ながら代役を務めているからだ。

  我が家の庭には猫の肉球ほどの広さの畑が3つあるが、今回大根を植えた畑の土は大根に適していたらしい。

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  というのは、岳父が家庭菜園で育てた奴を妻が貰ってきて保存のために土に埋めていた大根が、土から養分をもらったらしくまるで湯島大根のようにデカくなったからだ。

  全く期待していなかった大根が合計9本育ってしまうと、今度はそれをどう使うか考えなければならない。

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  根があるとはいえ、基本的には葉の方が主役で根は添え物という感じの大根である。

  我が家には妻のお得意の「大根の葉とチリメンジャコの油炒め」という名品があるが、これはあまり保存が効かないのが玉に瑕である。
  一本分作って朝食のおかずで食べてしまうのに大体3日か。多分9本全部を順番にこの料理にしていたら、最後の方の奴は塔が立って菜の花に化けてしまうだろう。

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  以前も書いたことがあるが、秋植えの野菜は放置すると菜の花になってしまうものが多い。大根、蕪、ブロッコリー、塌菜、青梗菜など、冬から春に美味しい野菜は軒並みそうである。
  菜の花は菜の花で綺麗でいいのだが、自分が育てた数少ない野菜が食べられずにそうなってしまうのは何か勿体ない気がするのだ。

  私は考えを巡らせた。大根の葉と根を同時に活かす。かつ、大量に作っても良いように長持ちする食品。これはもう一つしかないだろう。漬物である。
 
ただし、私は同じ漬物でも古漬けが嫌いである。高菜の古漬けなど、大事な人からのもてなしででもない限りまず食べない。
  それに、血圧が高いから塩分の多い塩漬けは避けたい。

  結論。キムチだ。

  でも、私は今までの人生で大根の葉のキムチなるものを食べたことがない。
  キムチに精通した韓国人にして作製賞味しないものが美味いとは思えない。
  それに、私はカクトゥギ(大根のキムチ)をあまり好まない。ペチュキムチ(白菜のキムチ)とカクトゥギがあったらペチュキムチばかり食べて妻から怒られるくらいだ。

  私は有名な料理サイト「コックパッド(仮名)」に「大根の葉」を入力して検索してみたが、少なくとも上位100には入っていない。ナムルは上位にあるから別に大根の葉の愛好者は嫌韓揃いでそうなったわけではないようだ。やはり一般的なキムチではないらしい。
 
次に「大根の葉のキムチ」と入れてみる。「大根の」まで入れるともう勝手に「大根の葉」と候補が出てきたが、「大根の葉の」まで入れても、ズラリと並んだ変換候補の中に「キムチ」はない。
  辛うじて2つヒットしたが、どうもあまり美味そうではない(投稿した人ごめんなさい)。

  仕方がないのでレシピに限らず全般的に検索するつもりで「ゴーグル(仮名)」に「大根の葉のキムチ」で入力してみると、出た出た。
  韓国には小さめの大根を葉ごと漬けた「ヨルムキムチ」というのがあって、日本では大根の葉で代用できると書いてある。「代用」も何も、我が家の陳ねこびた大根はこの「ヨルム」そのものではないか。

  早速抜いた大根を洗い、葉は茹で、大根は細かく切って、「ほな、小ライス…」の名文句CMで有名な某食品会社の「キムチの素」に「水キムチの素」、それに九州では普通に食卓に上がっているアミの塩辛、ナンプラーを混ぜ、「ねじ式」の漬物樽に詰めて待つこと3時間。十分水が上がってきたのを小さく切って汁ごとタッパーに詰めて冷蔵庫に入れてさらに3時間。

  その日の夕食から登場した「ヨルムもどきキムチ」は、御飯のおかずに良し、調味料がわりに鍋やクッパに入れてよし、マッコリのつまみにもよしの優れものであった。

  我が家の大根が順調に育った水分たっぷりのものであったらこの味は出なかったに違いない。
  「大自然の作ったものに無駄なものはない」とはまさにこのことであった(大袈裟)。

中華料理への誘い8-最近お気に入りの料理番組-(いやしんぼ86)

笑える料理番組

 私たち夫婦は韓国の番組はよく見るが、中国の番組はほとんど見ない。

 大きな原因は政治色が強いことで、中国の国宝についての番組なのに抗日映画の古典を「国宝級である」などと言い募って紹介したりするからだ。

 ただ最近、一つだけ「こいつは面白い」という番組を見つけ、それは毎日見ている。中国の国営TVの番組表が私のよく見る韓国国営放送のそれの隣に表示されるため、たまたま好奇心でどんな番組があるか調べて見つけたのだ。
 15分間の短い番組であり、TVの番組表では空白の部分で、カーソルがその部分に当たった時だけ題名が表示される。おそらく放送局の日本担当者にすれば「どうしても日本人に見せたい」というような番組ではなく、場の賑わせなのだろう。

 「今天飲食(仮名)」という料理番組である(司馬遼太郎調で)。

 中国の番組であるからここに登場する料理はすべて中華料理である。
 私は中華料理の料理人であり(嘘)、週に1回は大陸育ちの母のために中華料理を届けることにしているから(本当)なかなか参考になる。

 特に驚いたのは、私の中では常識である材料の「油通し」をこの番組に登場する中華の料理人たちはほとんどしないことだ。 
 油通しはもともと日本の中華独特の下処理だったのか、はたまた中国でも世界的な「ヘルシー」の流れが中国にも押し寄せているのか。もっとも、なぜ油を使わないことが「ヘルシー」なのか私にはいまだによく理解できないのだが。脂肪分は人間にとって良質かつ不可欠の栄養だからだ。

 閑話休題(はやくほんだいにはいれよ)。

 ことほどさように(何がことほどさようか分からないが)、この番組は料理に関するヒントをいろいろと与えてくれるから、最近のお気に入りなのだが、それとは別に、この番組の登場人物もなかなか傑物ぞろいなので見ていて楽しい。

 たとえばときどき代打として登場する若い綺麗なアシスタントがいるのだが、料理人と料理の話をしていて「私は料理をしないからよくわかりませんが」などと言ったりする。料理番組なのだが。なかなか正直な人である。

 だが何といっても楽しみなのはこの番組の司会兼アシスタントと料理人のやりとりである。

 アシさんはこれまた綺麗な中年女性なのだが、これがなかなか大陸女性らしい人で、日本の料理番組に登場するようなおとなしく目立たないアシさんではないので、見ていて実に面白い。ときには痛快ですらある。

 この女性は料理人が調理を進めるたびに自分の疑問を相手にぶつけるのだが、これが腕組みをしているか腰に手を当てた姿勢で発せられるからほとんど尋問のようである。ときどき料理人がムッとしているのが分かる。また、内容も婉曲な日本人と違って直截である。

 一度料理人が熱してまだ冷えていない材料を冷たい材料と混ぜようとしたことがあった。これは素人目にも「あ、水が出て不味くなるぞ」というような行為だったが、「たぶん番組の編成上仕方がないんだろうな」と思った瞬間、「あ、熱いものと冷たいものを混ぜたら不味くなりませんか?氷水で冷やすすべきでは?」と鋭いツッコミを入れ、料理人がムッとして「私たちも普段はそうしています。」と番組の内幕を暴露せざるを得なくなったこともあった。収録時間の関係だったのだろう。

 ある料理人が熱した葱油をそのまま料理に塗ろうとしたときも、「皆さんは冷ましてから塗って下さいね。」と言っていたのには笑った。言わなきゃ素人は気付かないのに。料理の手本を見せる番組であることを考えれば、料理人の面子丸つぶれである。

 夫婦二人で爆笑したのは材料に梨が登場した時である。
 梨は風味づけに少しだけ使用されたのだが、大部分残った。アシさんは材料入れからほぼ丸のままの梨を取り上げると、丸齧りし始めた。料理人が調理している最中である。料理人が料理の説明をしている中、シャクシャクと梨を食べる音が響いたような気がした(実際には音声は入っていなかったが。編集の時に消されたのかもしれない)。

 この人は料理が行われている最中にたびたび料理ではなく食材のほうの味見をする。流石に梨が問題になったのかその回以後はカメラから顔を逸らして食べるようになったが。

 家鴨の舌は嫌いらしく、料理人から「味見してみてください」と言われても、「私は食べたことがないんですよね」と、露骨に気味悪そうな顔をして食べなかった。正直な人である。日本人なら言われれば無理して食べるところだろう。

 自分の知らない中華料理を知ることが出来るというほかに、登場人物たちの大らかで人間的な振る舞いがこの番組のもう一つの魅力である。

 一つだけ気になるのは、この番組のスポンサーらしき会社の調味料が結構目立つ位置でずっと画面に映っているのだが、これの正体が分からない。パッケージには「十三〇〇」と書いてあるようなのだが。知っている人がいたら教えてください。

Dマウントレンズと行く第4の王国伽耶への旅15-韓国雑感釜山編3-(河童亜細亜紀行115)

先達に感謝

 今回の旅の雑感、まず釜山編である。

 私はふだん旅行に行くときできるだけ計画を立てないようにしている。意外性のない旅は面白くないからだ。
 しかし、今回は何時になく事前に情報を収集した。
 それは蔚山という未知の土地に行くつもりだったからだ。結果的に行ったのは金海だったが。

 結論から言うと、一番役に立った情報は目的地の情報でなく、電気関係のそれであった。

 韓国の家電は日本と違って100Vだけではなく、100~240Vと幅がある。それに従ってコンセントもA型、C型、SE型と3種類がある。

 私たち夫婦はこれまで携帯2台、レンタルのWifi機器2台、カメラのバッテリーの充電器2台、ドライヤー1台の計7個のコンセントを確保する必要があった。
 ホテルによっては1つの型のコンセントしかないところもあるから、そうなるとそのコンセントに合わせた同種のアダプターが7個要る。レンタルのWifiには途中からアダプターが付くようになったからその分は要らなくなったが、それでも5個要る。
 火を噴く心配のないちゃんとしたアダプターを揃えるためには3種セットのものを買う必要がある。これは相当な経済的負担である。

 ところが、韓国のコンセントに関する情報を見ていると、耳寄りな情報を得ることができた。
 賢い人がいるものだ。アダプターに三又タップをつなげば、一気に3個のコンセントを付けることができるわけだ。6口のタップをつなげば理論上は1個のアダプターがあればいいことになる(ブレーカーが落ちない限り)。 

 私の携帯は「My Pone(仮名)」で米国製だからもともと240V対応である。ましてや妻の携帯は「カラクニー(仮名)」で韓国製なので韓国のコンセントにつなげないはずがない。

 また、日本の電化製品も「海外使用可」のものが増えてきたから、そういうものを買えばドライヤーやその他の電化製品も変圧器の心配は要らない。

 おかげで今回はコンセントの心配は全くせずに済んだ。大きな進歩である。「コロンブスな卵」とはまさにこのことである。教えてくださった方に感謝したい。

IMGP5121

 1ドルに対する円とウォンの交換レートである。円:ウォンに直すと112.88:1071.40、つまり、1円9.491ウォンである。ここから交換手数料を引くと10,000円札を出して受け取れるのは90000ウォンくらいだ。これがもう羽が生えたように飛んでいく。
 最初に10%の消費税を取られる、と考えると分かりやすいと思う。

 韓国に特別の興味がなくて(むしろ下に見て)ただ「安いものが買える」という動機で旅行していた過去の日本人客はもはや韓国を旅することはないだろう。

 今回私たち夫婦は「伽耶王国の謎」というテーマを自ら作って金海に出かけたが、こうしたストーリーをどれだけ作れるかが今後の韓国観光業の命運を握っているに違いない。知らんけど(大阪流ジョーク)。

IMGP5126

 釜山の旅の道標はこの釜山タワーである。
 街のどこからでも見えるので、これを目印にしていけば道に迷っても大丈夫である。
 また、上に登れば街全体が見渡せるので、自分の目的地が街のどの位置にあるかが一目で分かる。

 

 光復路にあった不思議な電話ボックスである。電話の代りに水が入っていて、オブジェになっている。最初はそういう趣旨の作りものかと思っていたら、本物の水が入っていて、泡が立っている。もしガラスが割れたら中身がドッと出てくるだろう。酔っ払いが不埒な考えを起こさないように祈る。

IMGP5164

 ちょっとした間違いなのだが、思わず笑ってしまった。きっと私の韓国語もこうした間違いに満ちているのだろう。

IMGP5208

 韓国で初めて会った河童である。
 喜んだのだが、残念ながら日本の会社であった。
 韓国に河童を求めて、Well肉桂の「真・河童紀行」は続く(「仕事の流儀」調で)。

IMGP5200

 釜山の「サグァ(林檎)」である。
 日本のものよりずっと小さい。ほとんど棗である。
 そういえばもう随分前のことだが、大阪の街中で荷台一杯の林檎を積んだトラックを1時間放置したら林檎があっという間になくなった、という実験があった。
 人間の欲望は万国共通、とすると、大阪以上の大都会である釜山ではこのリンゴは30分でなくなるはずなのだが。

IMGP5236

 今回一番気に入った看板である。
 牛と馬が競い合って私たち夫婦の胃袋に入っていきそうだ。

IMGP5244

 今回の旅行で一番美味かった「ソンゴグ(海胆スープ)」。
 本物の生ウニとたっぷりの若芽。素晴らしい朝食だった。流石は海っ端の街釜山である。

IMGP5245

 この店は「チョンボクチュ(鮑粥)」もちゃんと切り身が入っていて、コリコリである。素晴らしい。
 今度釜山に行ったときの朝食はこの店に決めた。もちろんこの店の名前は誰にも教えない(本当に嫌な奴だなあ)。

IMGP5512

 子供の頃に乗った記憶のある自転車である。「三角乗り」「男乗り」「女乗り」などと言っても私より下の世代には全く通じないが、小さな子供がこの大人用の自転車に乗るための工夫だった。
 これらの言葉を口にすると幸せだった幼少期の記憶が蘇る。「家族がみんな元気」というのは何と素晴らしいことだろう。失って初めて分かる。

IMGP5515

 ホテルの近くで見つけたレンタサイクル。電子マネーで使用可能のようだ。これも次回は活用しよう(何時来られるやら)。

 相変わらず釜山は楽しい街である。

Dマウントレンズと行く第4の王国伽耶への旅14-韓国とりどりの記 金海編-(河童亜細亜紀行115)

都会の撮り鳥

 さて、そろそろもう一つの旅の目的について語らねばならない。
 それは「鳥撮り」、つまり野鳥の撮影である。

 私が焦点距離が比較的短い軽いシネレンズだけでなく、重くてかさばる(といっても「ナノ一眼」である「オバQ(仮名)」のものだから「普通の一眼」のレンズよりはずっと小型で軽いが)中望遠や超望遠も一緒に旅行に持っていくかといえば、偏に偶然出会った野鳥を撮りたいからである。

 今回は一泊目が船内、二泊目が釜山の中心街である南浦洞だったため、二日目までは野鳥に出会えなかった。

 三日目の金海の首露王陵に至って初めて、ヒヨドリの撮影に成功した。



 番のヒヨドリを動画で捉えたのは日韓を通じて初めてである。
 もちろん我が三角町にもヒヨドリは五月蠅いくらいに居て、餌付けのための柑橘類に寄ってくるのだが、彼らは極端に警戒心が強く、来るときも一羽ずつであることが多い。
 それに比べると韓国のヒヨドリは大事にされているのか、警戒心が薄く、すぐ近くに寄ってもなかなか逃げない。

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 さらに国立博物館の近所の川では我が家で「ガーコ」と呼ばれている鴨を発見した。

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 ガーコを見るとホッとするのは、やはり夫婦睦まじいからだろう。



 今回は就餌行為の撮影にも成功した(大袈裟)。

 だが、考えてみたら3泊4日も旅をしたのに鳥を撮ったのはこの2回だけである。

 本当は鵲(カチガラス)が目の前を横切ったしたのだが、咄嗟の場合はなかなかシャッターが切れない。ちょうどカメラを向けた方に人がいてバッチリ目が合ったりする。

 ということで、今回の旅での「鳥撮り」は以上。期待外れで済みません。

Dマウントレンズと行く第4の王国伽耶への旅13-釜山愛の夜景2-(河童亜細亜紀行114)

釜山愛の夜景2

 金海から釜山までは恙なく帰り、土産物も夕食も買って、「笑ってトンヘ号(仮名)」の乗船客となった私たち夫婦である。
 いつもながら名残惜しく、後ろ髪を引かれる思いだが、仕方がない。明後日は仕事なのだ。
 外はもうすっかり暗い。

愛に満ちた夜景

 前回の釜山に引き続いて「愛の夜景」撮影開始である。前回は初めて成功したが、その後どこの夜景を撮っても成功していない。

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 まず「紀伊国屋門左衛門13mm」の絞りをF11まで絞って1枚。

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 手ブレなしで無事撮影成功。廣安大橋は夜間ライトアップして美しい。

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 もう一枚。ハレーションがなかなか美しい1枚となった。

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 さらに「頭脳38mm(仮名)」で望遠撮影。ここはF8くらい。

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 やや手ブレしたが「頭脳君」初の海外撮影である。

 さあ、いよいよここからが本番だ。

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 レンズを「スーパーぐるぐる君Ⅲ」こと「不治?Non! MA-Z 9.7-26mm F1.2 改ⅡHeart SF」に付け替えて同じく廣安大橋を撮影。さあ、どうか?

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 橋が愛に包まれた。成功である。よく分からない人は写真を拡大してみてください。

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 コンテナ置き場にさえ愛が満ちていた。美しい愛の港である。

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 遂には町全体に愛が満ちた。

 それにしてもなぜ釜山でだけこの撮影が成功するのか謎である。やはり光源が多くて強いからか。どうもよく分からない。

 何はともあれ今回も大成功の「釜山愛の夜景」であった。

Dマウントレンズと行く第4の王国伽耶への旅12-国立金海博物館にて-(河童亜細亜紀行113)

私は認めない

  国立金海博物館は釜山金海軽鉄道の博物館駅からすぐそばにあるのだが、意外に分かりにくい。
  どうも自信がなかったので韓国案内所で聞こうとして「こんにちは」と日本語で言った瞬間、受付の人が「チャムカンマンニョ(ちょっと待って)」と言うや否やどこかに電話を始めた。日本語のできる人を呼んでいるらしい。「道を聞くくらいの韓国語はできるんだけどな」と思いつつ待っていると、カウンターの向こうから受話器をこちらに突き出す。流暢な日本語が聞こえてきて道順を教えてくれた。
  博物館の入口で受付をすると日本語のパンフレットをくれた。韓国の多くの博物館と同じく入場無料である。

 時代順に並べられた発掘遺物を見学する。今までに見た古代韓国の遺物のどれよりも日本のものに似ている。というより、日本そのものである(しつこい)。
  「参考にした」とか「教えてもらった」というレベルではなく、製作者が同一(の集団)であることを疑わせるに足る一致である。


  流石に三角縁神獣鏡はない。この日本でしか出土しない鏡が伽耶から出土したら決定的な証拠だろう。 

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  刀は日本の古墳時代と同じ、円環の付いた柄を持つ直刀である。出土刀の保存状態は概ね日本のものより良好で、銀の象嵌が残ったものもある。日本より乾燥した気候の故だろう。
  そういえば渡韓してまだ2日目なのに肌がカサカサになっている。相当の乾燥である。このカサカサは日本に帰ったらいつのまにか治っていた。

  日本の須恵器そのものの土器群。

  勾玉に朝鮮半島では採れない翡翠製のものが混じっているのも重要な点である。韓国で出土する翡翠は日本の糸魚川産のものであることが成分分析で既に確かめられている。

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   これまた土師器そのものの土器群。これでもかというくらいに出土している。日本の遺跡から出たものだと言っても何の違和感もない。

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 出土数が半端ではないから偶々見つかったというレベルでは絶対にない。
 奥にあるのは通常日本でしか出土しない甕棺である。単体の写真は撮りそこなった。こぎゃんありますもんなー。

 やはりここには古代日本人と同じ文化を持つ人々が暮らしていたのだ。それだけは確信できた。

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  一番違うのは鎧である。
  私は韓国ドラマなどで出てくる首回りの防御は脚本家あたりが日本の埴輪を参考に何か独自色を、ということで創作したものかと思っていたのだが、実際の出土物にあるのであるのである(大隈重信調で)。

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  日本の同時代の鎧にこの防具はない。これまた湿気の問題かもしれない。湿気の多い日本でこれを装着したら汗疹で死んでしまうだろう。

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  それを除けば埴輪の武者像とよく似ているが。この甲冑などそっくりである。

 言葉はどうだったのだろう、という興味が湧く。
 しかし、当時は大和も韓諸国も自分たちの固有語を表記する文字を持たないから、どれくらいの類似点と相違点があったのか確かめる術がない。漢文で書かれた文章は固有語の痕跡をほとんど残さない。
 万葉仮名まで時代を下って初めて古代日本語の研究は開始されたのである。それ以前のものは推測に過ぎない。

 何度か書いたことだが、日本語と韓国語は一見すると物凄く似ている言葉に感じる。相互の学習も容易である。しかしこれは膨大な漢語を共有しているからであって、固有語にはほとんど共通のものがないことは既に研究済みなのだ。

 しかし、伽耶に限って言えば、これだけ文化の似ている両者の言葉が全く違う、というのはむしろ不自然な気がする。ことは情報の発達した現代ではない。特定の技術だけが情報として交換される時代ではないのだ。そこには人の交流が伴い、それにつれて言語も交流するのである。

 日韓両語の統語が現在でも極めて似ているのは間違いないが、日本と伽耶の語彙はどうだったのだろう。同じ語彙がこの地域だけでも通用していたのか。しかし、1500年の時を経て共通語彙がこれほど痕跡もなく消えてしまうものなのか。

 一つの推理としては、日本語と共通の語彙を持つ民族(部族というべきか)が、ある一時期に大量にこの地から消えてしまった、ということが考えられる。行先は勿論日本である。

 この推理を追求していくことはあまりにも面白いが、所詮この時代の言語を表記する文字が存在しない以上、これは戯言というほかない。考古的な成果を待ちたい。

 本当はこの後首露王妃陵にも行く予定だったのだが、土産物と帰りの船での夕食を買う時間と、不慣れな土地での移動時間を考え、金海を後にすることにした。

 観光案内所で金海観光の日本語版をもらったのだが、この地はまだまだ見どころ楽しみどころがたくさんあるところのようだ。
 福岡-金海は飛行機で1時間程度でいけるし、空港-金海は軽鉄道を使って20分程度である。
 次回はこのルートで江辺ウナギタウン、銀河寺、金海天文台、鳳凰洞遺跡、金海会硯貝塚、金海邑城、大成洞古墳群、金海郷校、亀旨峰、金海粉青陶磁器館などなど、今回は行けなかった楽しそうな場所に行こうと決意する私たちだった。

 あ、そうだった。その前に扶余に行って頭の大きな弥勒菩薩に逢いに行かなければ。

Dマウントレンズと行く第4の王国伽耶への旅11-韓国女性のコミュニケーション力について-(河童亜細亜紀行112)

お袋の味

 そろそろ歩くのに疲れてきた妻と再び軽鉄道に乗って博物館駅に来た私である。

 いつの間にか昼飯時になっているので、休憩がてら昼食を摂ることにする。 

 駅に着いて周りを見回して「ウッ」となったのが、食堂街が見当たらないことだ。事前の情報で「食べるところが少ない」とは聞いていたが、これほどとは。

 観光案内所の方向にそれらしきものを見つけたので歩いていくが、雑貨屋やらなんやらでお目当ての食堂街ではない。いいかげん不機嫌になりつつあった妻が、「こっちはないからやめようよ」と言った。「でも昼食はどうする?」と尋ねると、「さっきの店でいいじゃん」という。「え、さっきの店って?」
 先を急ぐあまり目に入らなかったのだ。結構大きいプルコギの店がある。

 中に入ってメニューを見る。円安レートの関係か普段通りに消費しているのに残金が怪しくなってきているから、安いものを探す。テジカルビ(豚バラ焼肉)が一人8000ウォンなのでこれを頼もうとするが、通じない。
 仁川に行った時と同じである。日本人に接したことがない韓国人に私の韓国語は通じにくいのだ。
 何回か繰り返すとやっと通じたが、アジュンマ(おばちゃん)は「オットッケ、オットッケ(どうしよう)」と焦った様子である。日本人と話すのは初めてなのだろう。日本人女性の多くがが西洋人から話しかけられたときに見せるあの表情である。

  彼女がそんな表情をしたのはロマンスグレイのナイスミドルが突然現れたからに違いない(Well肉桂よ恥を知れ! 河童神社の教えじゃ!)。

 テジカルビの注文はやっと通じたのだが、またすぐ戻ってきて、「テジカルビは3人前からだよ」というようなことを言った。そんな店は聞いたことがないから、多分材料が用意してなかったのだろう。
 仕方がないので店の看板メニューのプルコギ定食11,000ウォンを頼む。これはすぐ通じた。アジュンマは早くも私の韓国語に慣れてきたらしい。すごい適応力である。中年女性のコミュニケーション能力はどこの国でも侮れない。

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 ジンギスカン鍋の周りに入れてある出汁に浸して食べるらしい。
 私は日本で売っているプルコギの素はあまり好きではないのだが、本場で直近2回食べたものはもっとあっさりして美味い。最近の本場での流行りなのかもしれない。

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 例によって付け合わせは沢山出てくるのだが、肝心のご飯と味噌汁が出てこない。この2つがない定食というのも珍しい。どうなっているのだろう。
 いくらなんでも忘れているのではないか、というくらいの時間出てこず、肉はあと半分くらいになってしまったのでメニューをよく見ると、別に注文が必要のようである。
 もう一度アジュンマを呼び、注文。「ああ、やっぱり要るんかね」という表情だ。片言だがだいぶやり取りがスムーズになってきた。

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 付け合わせと共に御飯とチゲ(味噌汁)が到着。
 アジュンマが日本語で「たくさん食べなさいよ」とお母さんのようなことを言ったので、吹き出しそうになった。これは語学力の関係で、「たくさん召し上がり下さい」と言いたかったのだろう。

 それにしても、韓国の普通に(外国関係でなく)働いている人の教育水準の高さにはいつも驚いてしまう。韓国語と英語と日本語をフル回転させれば、どんな土地でもどうにかコミュニケーションが取れてしまうのだ。
 しかも大抵の場合相手の日本語の方がこちらの韓国語より上手である。英語は相手が思っているほど上手ではないが。

 日本旅行に来た韓国人が見た日本人もおそらくそうだと思う(韓国語力を除く)。韓国人の相手をした日本人がおかしな思想や感情を持っていない限り、旅行者に必要なコミュニケーションには困らないはずだ。

  オモニの言う通り夫婦とも「たくさん食べて」勘定をすると、御飯と味噌汁の代金は入っていなかった。サービスしてくれたのか、出てこないのが単なる手違いだったのか、よくわからない。
  「美味しかったです。」と韓国語で言うと店の主人は嬉しそうな表情になった。これは万国共通である。

  1時間ほど座って休み、美味しいものを食べたお陰で噴火寸前だった「女房岳」の活動も収まったようだ。

  いよいよ本日のメインイベント、国立金海博物館の見学である。

Dマウントレンズと行く第4の王国伽耶への旅10-伽耶が先か大和が先か-(河童亜細亜紀行111)

蝸牛角上の争い

 韓国三国時代の「第4の王国」伽耶観光の嚆矢は王国の創始者金首露王陵である。

  首露王は卵から生まれたという伝説がある。

国外でも知ったかぶりする男

  これについて、慶州の博物館で新羅の始祖朴赫居世の卵生伝説を聞いて知ったかぶりをしようとして窘められた話は既にした。
 朴赫居世の生まれたのは紫色の卵であり、首露王が生まれたのは金色の卵で、その故に姓を金氏にしたというのだ。

河童の孵化

 以前冗談で河童は卵生であるという絵を掲載したことがあるが、実は韓国の始祖たちの卵生神話が元なのである。韓国ネタは想像力の強力なヒントだ。

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 首露王陵のある金海市はおそらくかつては田園風景の広がる長閑な場所だったと思われる。しかし、今はご覧の通り典型的な新興住宅地である。かつて娘夫婦が居住していたA市はソウルのベッドタウンだったが、こちらは釜山のベッドタウンなのだろう。 

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 橋を渡って陵に向かう。

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 なんとまあ、通路が野趣溢れる自然石の石畳である。これだと障碍のある人は散策できないだろう。私も何度か足首を捻りそうになった。

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 夫婦してハアハアいいながらやっと登った丘の上に「駕洛国天祭壇」があった。ここでかつては祭祀が行われたのだろう。

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 ここから眺める金海は50万人超の人口のある都会である。ちょうど熊本市くらいの規模だ。何だか熊本城の上から見た熊本市を思い出す。早く天守閣が復旧されて熊本でもこんな眺めが見たいものだ。

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 さらに登っていく石段がある。「登ろう」というと、妻は「えーっ?」と言ったが、しぶしぶ登り始めた。愛機「ペンテコステオバQ」に付けた「紀伊国屋門左衛門13mm」の絞りを思い切り絞って撮影。たまたまの晴天で木漏れ日が輝き、何だか天国への階段のようである。妻よ、置いていかないでくれ。

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 登り切るとドルメン墓のような石群が現れた。何だか石舞台古墳を連想させる。
 あまりにも大和に似ている。というより、大和そのものである。

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 大和はくにのまほろば たたなづく 青垣山ごもれる 大和しうるわし
[現代誤訳]
 大和は本当に素晴らしい。青い山々の連なる大和は本当に美しいなあ。

という倭建命の歌を思い出した。

 この歌は美しい風景を見たときに思い出す私の大好きな歌である。

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 だが、残念ながら山の麓に眼を移すと、「ヨッテ百貨店(仮名)」や「ハウスプラス(仮名)」などの巨大ショッピングモールと高層アパートが群立していて、「古代浪漫」から引き戻されてしまう。

 まだ開発の進む前、1980年代にこの陵に来てみたかった。きっと眼下に春は黄色や赤色の無数の花が、夏は様々に輝く緑の草が、秋は一面の黄金色の田園が広がっていたに違いない。(今は冬だし軽鉄道がなかった来られなかったじゃろうが。)

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 陵の麓に当時の住居と倉庫が再現してあるが、これがまた吉野ケ里そのままである。ここは日本か。
 もしかすると一部韓国ドラマ同様再現者が適当に創作したのかと思ったが、そうでないことを私は次の訪問地である国立金海博物館で知ったのである。

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 この時点ではこの騎馬武者の姿も「適当に作ったんじゃねーの」と半信半疑だった。しかし、これはちゃんとした発掘結果に基づいているのだ。

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 この物見台も吉野ケ里遺跡を参考に作ったのではないかと疑っていたが、そうではないらしい。
 私のこの疑いは「広開土太王」というドラマに出てきた無茶苦茶に適当な日本を見てしまって以来である。しかし、ここの出土物は驚くべきものだ。
 とにかく似ている、というより、まんまである。

 伽耶と大和が似ている、という話を皆がなぜ避けるかといえば、どちらかが先で、どちらかがどちらかを征服した、などという人が出てくるから争いごとが嫌いな人間はそれを避けて通るようになるのである。
 しかもその話は実は「現在相手が嫌い」というところから始まって現代の基準を近代に無理やり当てはめることから始まり、さらに秀吉まで遡り、さらに元寇まで遡り、遂には文字がない時代まで遡って「相手が酷いことをした」とか「自分たちが勝った」などという話になってしまう。

 もう誰も知らない、お互いに文字も持っていなかった時代の本当のことなど誰にも分からないのだから、「海峡を隔てて仲良くやっていた」でいいのではないかと私は思う。その方が「未来志向」である。

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 さっきからピーピーと五月蠅い鳴き声があちこちから聞こえてくる。
 やはり。日本でもお馴染みのヒヨちゃんである。 
  鳥は「自分たちが本家だ」とか「あいつらは似てるけど偽物だ」などと言わないから好きである。


 すかさずレンズを「縁だすなー61」に替えて動画を撮影する。このレンズは特に近中距離で撮影しようとするとピントリングがやけに堅くなる欠陥品だが、無限遠に固定している分にはかえってピントが安定していい。

 気付くと、ヒヨドリに包囲されているほど沢山いる。

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 特に竹林はヒヨドリだらけだった。カメラを向けるといつの間にか視界から消えたが、声は聞こえてくる。
 ヒヨドリは首露王の墓守なのかもしれない。

 本当はこの後近くにある古墳博物館に行く予定だったのだが、例によって妻が「股関節が痛い」と言い始めた。この言葉が出ると急激に心の天候が悪化するのが分かっているから、次の次に予定していた国立金海博物館を訪れることにする。

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 さようなら、ヒヨちゃん。また会う日まで。

Dマウントレンズと行く第4の王国伽耶への旅9-地下鉄で釜山市民に助けられ、無人列車で金海へ-(河童亜細亜紀行110)

釜山人情

 翌日はいよいよ金海への小旅行である。

 私たちの宿泊している「弁韓観光ホテル(仮名)」からだと、「南浦(ナンポ)」という駅から地下鉄1号線で「西面(ソミョン)」という駅に行き、ここから地下鉄2号線で「沙上(ササン)」という駅に行き、ここで「釜山金海軽鉄道」という路線に乗り換え、「首露王陵(スロワンニョン)」 という駅で降りると、「鉄の王」と呼ばれた伽耶国の始祖金首露の墓に着く。公共料金の安い韓国では地下鉄代が200円、軽鉄道の料金が200円の計400円しかかからない。

 金海には「金海国際空港(通称釜山空港)」があり、福岡など日本の大空港から直行便が出ている。空港からならば20分くらいで到着する。あまりにも身近過ぎるのが日本で金海観光が流行らない原因かもしれない。

 ホテルから南浦駅までは3分くらいか。
 エスカレーターで地下に降り、切符を買おうとする。
 あれ? 最初に交通カードを買わなければいけないのか。ソウルで地下鉄に乗る時は買った覚えがあるが、釜山では去年まで要らなかったはずである。こういう変化が私たち中高年は苦手なのだ。
 仕方がないのでカードを買い、沙上駅までの料金をチャージする。切符の自動販売機にはデフォルトの韓国語モードのほかに日本語モード・中国語モード・英語モードもあるから、そのボタンを押せば目的地の切符を買うのは簡単である。
 ただし韓国語の英語表記は独特だから、ハングルを読めない人が目的地の韓国語読みしか知らなくて英語で切符を買おうとしたら大変だと思う。たとえばソウル一つとっても'Seoul'なのだ。

 妻の分も買って、自動改札を通ろうとする。
 あれ、通れない。これでいいはずなんだがな。何回やっても通れない。

 すかさずアジュンマ(おばちゃん)が何かまくし立てながら寄ってくる。こういうとき、世話を焼いてくれる釜山っ子を見つけるのは全く難しくない。「ほっといてくれ」と言っても寄ってくるだろう。

 早口なのでよく分からないが、「カードに料金をチャージしなきゃ通れないよ」と言っているらしい。だからチャージしたんだって。
 カードを券売機にかざすが、なんということだ。なぜかチャージされていない。さっき間違いなく「チャージしました」という表示が出たのに。日本語だから間違いない。
 仕方がないのでもう一度お金を入れてチャージする。アジュンマは「ほら、私の言った通りじゃないの」という意味のことを何度も言う。

 再度挑戦。
 駄目だ。やはり通れない。アジュンマも「おかしいねえ」と首をかしげている。

 すかさず改札の向こう側からアジョシ(おじさん)が寄ってくる。「こうすりゃいいんだよ」と言いながら自分の〇〇〇を〇〇〇に〇〇〇〇(諸般の事情により自粛)。アジョシは見ず知らずの日本人のために自分のお金を遣ってくれたのだ。

 さらに、妻も再チャージして料金がカードに入っているのは間違いないのに、どうしても通れない。アジュンマとアジョシのアドバイスに従い、〇〇〇の〇を〇〇〇で〇〇る(諸般の事情により自粛)。

 こうしてどうにか改札を通れたのだが、その後は同じカードでまったく問題なく改札を通れたから、なぜ通れなかったか未だに謎である。

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 西面で2号線に乗り換えである。
 釜山の地下鉄は必ず駅名が漢字で併記してあるし、釜山駅・西面・沙上・金海空港など、主要な駅は日本語のアナウンスもあるので、電車の方向(これが曲者である)さえ間違えなければ全然ストレスなく目的地に行けるだろう。

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 韓国の地下鉄のホームはどこも転落防止のドアがあるので安心である。
 そして、これは前回の釜山旅行でも目撃したことだが、若者が席に座ってお年寄りが立たされていることがない。お年寄りが乗ってくると誰かが必ず席を譲る。これは競争の激しい国の350万都市としては奇跡的なことである。

 軽鉄道でのことだが、とうとう私が席を譲られてしまった。
 私はシラガッパだから歳よりも上に見られたのだろう。韓国にはあまり白髪の人がいない。おそらく大抵の人が髪を染めるのだろう。

 私のような儒学徒(半分本気)には心地よい街である。知ったかぶりの米国人の嫌韓嫌中本が出版されてから私は「儒学徒である」と声を大にして言いたい気分なのだ。

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 沙上駅に到着。ここから釜山金海軽鉄道に乗り換えである。

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 案内板を発見。これも漢字が書いてあるからハングルが読めなくても大丈夫である。

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 軽鉄道の沙上駅までは結構遠いが、動く歩道と、

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 エスカレーターがあるから大丈夫。

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 駅でトークン(代用貨幣)を買う。軽鉄道はこれが切符なのである。短い距離だと1600ウォン、長い距離だと2000ウォンだ。逆さなのはご愛敬である。

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 驚いたことにこの鉄道には運転手がいない。
 これは既に事前に情報を得ていたが、実際に見るとやはり吃驚する。
 「軽鉄道」の「軽」は「運転手がいない」という意味らしい。確かに一人分は軽いが。

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 さあ、いよいよ出発である。

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 洛東江を越える。

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 10分も走ると金海国際空港である。
 なるほど、飛行機で来るときはこのルートで釜山と往復すれば低料金で移動できるのだ。

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 時々列車同士が擦れ違う。やはり運転席は無人である。10分間隔くらいで運行されているらしい。とても便利である。まさか金海がこんなに都会とは思いもしなかった。

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 首露王陵駅に到着。
 9:10くらいにホテルを出て、沙上駅出発が10:10、首露王陵駅近くのこの橋の欄干を撮影したのが10:44なので、所要時間は約1時間半、軽鉄道での旅は30分強というところである。こういうとき、デジタル写真は撮影年月日や場所が分かるから便利だが、怖いといえば怖い話ではある。

 さて、まずは伽耶王国の創始者金首露陵の散策である。

Dマウントレンズと行く第4の王国伽耶への旅8-満月の下で似顔絵を描いてもらう-(河童亜細亜紀行109)

夫婦といえど考えていることは違う

 ホテルでチェックインし、釜山観光も仕切り直しである。 

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 それにしてもさすがに昔から日本人観光客を迎え入れてきた「弁韓観光ホテル(仮名)」である。
 日本語は完璧に通じるし、接客も実に親切で、日本の高級ホテルに泊まっているようだ(私は高級ホテルなど人生で一度も泊まったことはないが)。
 トイレに「ウォッス!Let's!(仮名)」が付いているのも本当に助かる。
 私の水戸方面軍は弱体であり、だいたい3回洗浄機なしのトイレに行くと退却を始め、3日も滞在すると壊走するのが常なのだ。

 閑話休題(ぜんかいからしものはなしばかりだな)。


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 トントロと、

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 テジカルビ(豚のバラ肉)と、

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 美味しい生マッコリをいただく。
 やはりマッコリは生に限る。最近は通販で家に取り寄せているが、やはり現地で飲んだ方が旨い。

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 外に出ると釜山の街は昼とはすっかり様相を変えていた。
 目が眩みそうなほどのイルミネーションである。
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 何だか舌切り雀の「大きな葛籠」「小さな葛籠」みたいである。

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 このスノーマンで分かった。

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 これはクリスマスの催しものなのだ。
 韓国では朴正煕大統領の時代から新正月を祝おうという運動があるのだが、どうしても定着せず、やはり旧正月を祝う人が多い。これは中国でも同じような事情らしい。

 旧暦をわざわざ新暦に換算して休日や家族の儀式を行うのも大変だと思うのだが、このあたりはそれぞれの民族のこだわりだから仕方がない。

 閑話休題(はなしがそれはじめたな)。

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 とりあえず新年を祝う人々と共に歩く。

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 ここでまたトイレに関するひと騒動があったのだが、あまりしつこく下ネタが続くのもどうかと思うので省こう。
 やはり外国旅行に行くときはある程度その国の言葉を勉強していった方がいい。特に「トイレはどこですか」というフレーズと、相手の答えに対して「ゆっくり言ってください」というフレーズは是非覚えておこう。韓国では「ファジャンシルオディエヨ」と「チョンチョニマレジュセヨ」である。

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 釜山名物のホットック(韓国風お焼き)を見つけて購入。なんて美味いんだ。ソウルのお上品な奴とはまた違う。雑穀の旨味が全開である。

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 焼き栗と銀杏を見つけて購入。
 1つ3000ウォンなのだが、小銭(といっても札だが)が5000ウォンしかなかったので店のアジュンマ(おばちゃん)と交渉である。値切りをするのは久しぶりである。
 アジュンマに日本語で「日本人?」と聞かれ、「日本人!」と答える。アジュンマも客に値切られたのは久しぶりなのかもしれない。

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 大きな満月の光を浴びながらイルミネーションが満ちた街を歩く。ロマンティックな夜である。

 私は普段ならば絶対にしないようなことを思いついた。

 私たち夫婦の似顔絵を描いてもらおう!
 実は、私たちの歩いている光復路には数人の似顔絵描きがいるのだ。

 本来私は似顔絵が嫌いである。

 これには私特有の事情がある。
 私の父方の祖父も芸術家(詩人)、母方の祖父も芸術家(日本画家)であって、そのテの人たちと交流が多かった。
 その関係か、私の一族は全員肖像画や似顔絵を描いてもらったことがあって、それが実家に残っている。私のものもある。

 ところが、私は幼少の頃から真実を重んじる科学徒であったから、肖像や似顔絵に拭いようのない違和感を感じていたのだ。

 確かに症状、じゃなかった、肖像や似顔絵は、その人の特徴はよく捉えているから、その人であることは一目見ただけで分かる。その技術には感服するものがある。
 しかし、やはり写真のように真を写したものではない。

 特に似顔絵は、対象を明らかに美化している。

 私は祖父の友人知人の画家たちが似顔絵を描くのを見て、幼心にそれが嫌だった。

 新入の女子社員の手を撫でながら「今晩どう?」と誘って、手を振り払えば「あいつはいつまでも仕事を覚えんから首にしろ」と子分に言いそうなオッサンや、「どうするの?私の仲間になるの、Aさんに付くの?」と迫って、どっちつかずだと徹底的なイジメを手下に命じそうなオバハンが、社会主義リアリズムの英雄や殉教者たちのような美化された肖像になっていくのが気持ち悪くて仕方がなかった。
 もちろんセクハラ・パワハラや社会主義リアリズムなどは後付けの概念であるが、子供というのは大人が思っている以上にそうしたことに敏感なものだ。

 だが、私も歳をとった。

 私は鏡の中の自分がどんな顔をしているか知っている。お世辞にも褒められた顔ではない。顔に反映した私の人格もご同様だ。
 こんな顔だけが後世に残るのは嫌だ。
 それに、「美化された私」というものはどういうものか、知りたい気もする。
 最近は誰も私を美化してくれないからだ。

 私は、私たち夫婦をできるだけ美しく描いてくれる人を選ぼうとした。

 その場いる似顔絵描きの大部分は、韓国の俳優を描いた見本を掲げていた。
 それを見渡すに、みな相当の技量の持ち主である。中には本物そっくりに描いている人もあった。凄い技量である。
 だが、私はその人を敢えて外した。この人は技量が勝ち過ぎてその俳優さんの暗部まで描き出しているような気がしたからだ。妻はいざ知らず(彼女は本当にいい人である)、私の暗部を抉り出されては困るのだ。

 結局私は、肖像画のどれもが優しい感じに描いてある画家さんを選んだ。

 値段の交渉をすると、一人30000ウォンということだった。円安の現在、これは結構堪える料金だが、思い出作りである。まあいいだろう。

 二人並んでベンチに座る。
 画家さんが私たちの足元に電気ストーブを設置してくれたので、年始の冬空の中でもそこまで寒くない。さっき熱々のホットックを食べたのも効いているのかもしれない。

 製作開始。
 優しそうな画家さんの表情が厳しく引き締まる。さすがプロである。
 どうも妻から描いているようだが、何の指示のもないので用心のためにじっとしておく。画家さんの集中力を妨害してはいけないからだ。

 しかし、これが長い。
 足元からだんだん寒くなってくる。ストーブの暖かさを感じなくなってきた。その日の釜山の最低気温はマイナス7度。身体を動かしていても寒くて堪らないような気候の中で身じろぎ一つせずに座っているのは拷問に近い。

 無限に長く感じた時間の後、やっと終了。
 ところが、画家さんは妻と位置を交代しろという。なんだ、妻の分を描き終わったのだ。

 これからまたあの無限の時間に耐えなければならないのか。
 妻も「えーっ?」という表情になっている。

 製作再開。
 風が吹いてきた。
 山から下した冷気を含んだ風が港へと、光復路を吹き抜けていく。
 もはや寒さを感じなくなってきた。横目で妻を見ると、吹き付けられた髪が頬に張り付き、完全に目がイってしまっている。フランダースの犬最終回のネロのようだ。ういえば朝まで体調が悪かったんだよな、大丈夫か? 改めて気紛れに巻き込んだことを後悔する。

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 やっと完成。
 なるほど、美化された俺というのはこういう顔なのか。

 ここで額代が20000ウォンかかることが分かったが、乗り掛かった舟である。「カードでもいいよ」と言われたが、現金で払う。

 いい思い出もできて、ロマンティックな釜山の夜は更けていくのであった。

Dマウントレンズと行く第4の王国伽耶への旅7-からくにで徳川家康となる-(河童亜細亜紀行108)

味噌も糞も一緒

 ホテルについた私たちは当初の予定通り1日目は国際市場周辺をうろつくことにする。

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 まずは釜山名物のカルグクス屋に入る。ククスは日本の五島うどんと冷や麦の中間位の太さの麺である。
 本当はミルミョン(朝鮮戦争当時釜山に避難した人々は冷麺が手に入らなかったので代わりに米軍放出の小麦粉で麺を代用し、それが釜山名物になった)の店に入りたかったのだが、既に冬に冷麺を食べようとして韓国人に笑われること3回の私は、無難に温かい麺を食べることにしたのだ。
 最初に出てきたお茶を飲んでみると、お茶ではなく出汁であることが判明。しかし、美味い。

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 出汁の写真は撮ったのに、麺の写真は途中で気づいた。こぎゃんありますもんなー。よほど空腹だったに違いない。出汁が利いていて、あまり辛くなくて、美味かった。30秒で完食。

 私たちが店に入ったとき、一人の男性が一生懸命店の女主人に懇願していた。
 「アジュンマ(おばちゃん)、〇〇ジュセヨー(ください)!」と何回も繰り返している。最初何を言っているのかわからなかった。これは私の韓国語が拙いせいではなく(それもあるのかもしれないが)、どうも構音障害があるようである。プロの眼から見ると(偉そうに)、FlaccidにAtaxicが合併したDysarthriaである(ペダンチック男め)。酔うと一時的に小脳の機能が障害されるから、「酔っているのかな」とも思ったが、単に酔っている喋り方ではない。
 男性は1000ウォン札を握りしめて、必死の形相で頼み込んでいるのだが、アジュンマの対応は冷たい。「ほら、そこに座って水でも飲んだら。」と言っている。どうやら「酒を飲ませろ」と言っているようだ。
 結局酒は飲ませてもらえなかったようだが、席に座ってククスを幸せそうに食べている。金のやり取りは見なかったけれど、1000ウォンでこのククスを食べられたのならば随分得をしたことになる。
 もしかするとアジュンマと男性は知り合いで、奥さんから「酒を飲ませないで」と頼まれているのかもしれない。
 詳しい事情は私の韓国語力では分からなかった。

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 店を出て日本以上に競争の激しいこの国で障害を持つことの意味を考えながら街を歩く。そういえば、熊本に居たら普通に見かける、車椅子で外出している人をこの国でまだ見たことがないことに気付いた。

 楽しいことがあると大事な思索でも停止してしまうのは私の悪い癖だ。

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 これまた釜山名物の「オデン」を見つけた私は、注意が完全にそちらに逸れてしまった。

 前回釜山に来た時に私は「オデン」の美味しさに目覚めたのだ。写真を撮るのも忘れてしまうほどこの「オデン」は美味い。
 「オデン」は釜山方言で魚の練り物およびそれを出汁で煮たものを意味する。
 この練り物が、天草や柳川の新鮮な魚を使用して作ったものに遜色ないほど美味いのである。

 前回の旅行では釜山駅にあるビュッフェ形式の店で「オデン」を買った後、ホテルでの二次会で食べようとおもっていたのだが、道に迷って反対方向に延々と歩くハメになってしまい、途中で空腹を満たすためにこれを食糧としたのである。おかげでよく味が分からなかった。

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 「オデン」に舌鼓を打った後は「饅頭」である。韓国で「饅頭」というと、日本人が想像する丸い奴だけではなく、小麦粉で作った皮で餡を包んだもの全般を指す。従って日本では「餃子」と呼ばれているものも韓国では「饅頭」なのである。

 こいつがまた美味い。
 二人であっという間に平らげてしまった。

 ところが、大事な思考を簡単に停止して快楽に走った男を神は許さなかった。
 饅頭を平らげて歩き始めた私は、軽い〇〇(検閲済)を感じた。「ああ、〇(検閲済)だな。」私は軽く〇〇(検閲済)を緩めた。
「〇○ルッ!(検閲済)」。「あ、〇(検閲済)た…」

三方が原合戦に学ぶ

 私は三方ヶ原ならぬこの異国の繁華街の真ん中で、家康してしまったのである。

 「ねえ、〇〇〇(検閲済)ないかな。」
 妻は私と付き合いが長いからすぐピンと来たらしい。「こいつとうとう外国でまでやりやがったか…」という表情である。

 頭がフル回転を始める。
 どうする。公衆〇〇〇(検閲済)に行って〇〇(検閲済)籠に〇〇〇(検閲済)を〇(検閲済)てるか。でもそれはテロに等しい行為だ。日本人がやったと分かればこのこじれた日韓関係はさらに悪化するに違いない。「日本人渡航禁止」もありうる(冗談)。だが、この感触だと〇〇(検閲済)たのは大した量ではない。ということは、〇〇〇(検閲済)は〇(検閲済)てるレベルではなく、〇〇ー〇(検閲済)袋に入れて口をしっかり締めて管理すれば大丈夫。寒さに備えて〇〇〇(検閲済)を履いてきてるから、しばらく〇ー〇〇(検閲済)でも大丈夫だろう。〇〇〇(検閲済)まで〇(検閲済)みてなければいいが…。

 よし、ホテルに帰ろう。ホテルの〇〇〇(検閲済)ならば〇器〇浄〇(検閲済)もあるし。生憎まだチェックインの時間ではなく、荷物を預けているだけだから、その中から〇〇〇(検閲済)を取り出したらあまりにも目立ってしまう。よし、チェックインまで〇ー〇〇(検閲済)で過ごそう。

 ホテルに向けて歩き出したものの、その行程の長いこと永いこと。
 すれ違う人たちが私にちょっと視線をやったり、鼻を鳴らしたり、咳をしたりする度に、「何だ? この日本人?」と思われているようでドキッとする。

 妻は黙ってついてくる。優しい女性である。大和撫子そのものである。もっとも、この優しさが今度は妻を救うことになるのだが。

 それにしてもこれほど何の予兆もなかったのは初めてであった。数時間前に妻を冒した病魔が私の身体もいつの間にか蝕んでいたに違いない。

 東亜の皆さん。
 外国に行くときは旅行中だけでなく、母国での食事にも十分に気を付けましょう。
 それと、トイレの位置には常に注意をしておいた方がいい。

 というより、釜山市民の方々にお願いである。
 「釜山トイレ地図」を作って下さい。英語で構いません。ぜひよろしくお願いします。

Dマウントレンズと行く第4の王国伽耶への旅6-免税店の難民たち-(河童亜細亜紀行107)

免税店難民

 旅行するときに自分で交通機関や宿泊を手配した経験のある人は、旅行会社の募集するツアーがなぜあれほど安い値段にできるのか疑問に思ったことがあるだろう。どう考えてもホテル代か交通費かがタダでないとありえないような値段だったりする。

 その秘密の一端が「土産物店」である。外国旅行の場合はこれは「免税店」ということになる。

 どんなに「フリーツアー」と銘打っていても、旅のご一行は最低1回はこれらの店に行くことになっている。どうかすると来た時と帰る時の2回行くこともある。

 初めてのその土地(国)で、右も左も分からない、言葉も全く分からない通じない、という状態のときは、このルーチンは有難い。何を土産にしようか途方に暮れる心配なく、店の人のアドバイスで無難な品物を選ぶことが出来る。関税がかからないうえに、しかも、だいたい定価より負けてくれる。「ハワイに来てMade in Japanを買う」などという喜悲劇も避けられる。買い物に出たはいいが迷子になって五里霧中、などということもない。

 ところが、旅行が重なってだんだんその土地に慣れてくると、有難迷惑になってくる。回数を重ねるにしたがって土地勘が出来て来るし、コミュニケーションもだんだんできるようになってくる。
 特に地元のスーパーマーケットを知ってしまうと、その品物のユニークさ(地元の人が日常使用している店なのだ)と安さから離れられなくなる。
 最近は総計を表示する液晶の付いたレジスターも多いから、言葉が通じなくても勘定が出来る。アラビア数字は世界中のどの民族も知っている世界共通語なのだ。

 そうすると、これまでは有難かった免税店が鬱陶しくなってくる。「これ、あすこのスーパーだったら〇〇ウォンで買えるのに」ということになる。関税がかからないのも負けてくれるのも元々が高く設定してあるだけで、実は割高だということも判ってくる。
 これがホテルから遠いところにあったりすると片道が30分以上かかったりして、「何て無駄な時間だ」と感じるようになる。 

 私たちのツアーの客たちはこのご時世にミサイル発射地の方向に船で旅するような「豪の者」ぞろいだから、免税店に案内してもらうのが有難い、という段階はとうにクリアしている人たちであることが推定される。

 ただし、私は今回はこの「免税店案内」が実に有り難かった。

 なぜなら、私のブログを愛読しているこれまた「豪の者」としかいいようのない人たちならば覚えていると思うが、私は熊本地震の起こった一昨年、休日を潰して私の実家を片付けてくれた妻にY,S,Wのグッズをプレゼントすることを約束していたにもかかわらず、まだそれを果たしていなかったのだ。

 そして、運のいいことに、私の知る限り、Y,S,Wの店はソウルのカロスキルと仁寺洞という繁華街と、釜山の「ヨッテ免税店(仮名)」にしかないのである。
 このツアーはわざわざ私の買いたいものを売っている稀有な店に交通費無料の通訳付きで案内してくれるのである。これほどの僥倖があろうか。
 単独でカロスキルのようなお洒落な街(日本でいえば東京の青山か)に行って可愛らしいキャラクターデザインの小物を買う、などということは私のような田舎者の中高年男子には拷問以外の何物でもないのだ。

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 店員さんは私の風体を見てあからさまに「素見やめろよ」という態度だった(値段を聞くと数字だけ答えてそっぽを向いてあっちに行ってしまった)が、私に本気の購入の意思があると分かるとちょっと驚いた様子で急に丁寧な対応になった。

 東亜の皆さん。写真を見てほしい。私は約束を守る男である(忘れていなければ)。

 さて、こうして律儀にも約束を果たした私であったが、ほかに買いたいものは、といわれると、ない。私に用があるのは食品くらいだが、これはスーパーマーケットに行けば半額以下で買えるのが分かっている。第一去年も仕方なく1つだけ買ったトッポッキ(韓国人が間食として食べる餅の辛煮)がやたらと辛いだけで不味かったのだ。

 私たちは免税店を抜け出し、地下の食品売り場に行くことにしていた。去年も実はそうしたのだ。
 ところが、免税店に着いたとき、私たちはガイドのAさんに「ここの地下は食料品売り場でしたよね」と確認したのだが、Aさんは私たちの意図を見透かしたように「今日は開いてませんよ」と冷たく答えたのだった。考えてみれば今日は元旦なのだ。

 それでも、一縷の望みを託して私たちはこっそりエレベーターに乗った。第一「開いてない」というのは免税店に足止めするための方便かもしれない。ところが、3階から下のボタンを押しても反応すらしない。「開いていない」というレベルではなく「行けない」のだ。

 諦めきれない私たちは1階と6階の直通のエレベーターに乗った。これで1階に下りればなにかあるかもしれない。
 ところが、1階についたとき、立札の向こうの建物からか帰ってきた一行が私たちと入れ替わりにエレベーターに乗った。無駄足だったのだろう。
 立札の向こうまで行っても結果が見えているので、私たちはそのまま帰りのエレベーターに乗ろうとした。すると、またも別の御一同が降りてきた。明らかに免税店にいた人たちである。

 随分沢山の人が何とか免税店以外のところに行こうとしては阻止されて彷徨っているようだった。

 結局一軒だけあるカフェに行って珈琲を飲もうとしたが、とっくに満員で座るところがない。一巡すると一か所だけ休憩所を見つけたが、ここも難民船並みの満杯である。私は密かに自分を含めた客たちを「免税店難民」と名付けた。

 今、日本では中国人たちが免税店を中心にして消費活動をしているが、その中心はじきにスーパーマーケットや地元のコンビニに移っていくのではないだろうか。かつて免税店に群がっていた日本人や韓国人がそうしたように。

Dマウントレンズと行く第4の王国伽耶への旅5-酔って、酔って、当たらず、当たって、新年-(河童亜細亜紀行106)

海雲台の摩天楼

  私はキムチが好きである。おそらく日本で食べることのできる漬物の中で一番好きに違いない。
 しかし、同時に、食べると必ずといっていいほど下痢をする。特に本場のものはまず間違いない。

 今までに何度付け合わせのキムチに手を出してトイレを探し回るハメになったことか。「ファジャンシルオディエヨ(トイレどこですか)」は韓国語の豊かな表現の中で私が今までに発した回数のもっとも多いフレーズだろう。

 だが、上から出てきたことはない。下から出てくるのは私の側の問題だが、上から出てくるときは料理を作った側の問題である。

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 日韓を行き来する「笑ってトンヘ号(仮名)」の中で2017年最後の二人宴会を始めた私たち夫婦である。今夜は博多で新年を迎え、深夜に出航する予定らしい。

 それにしても、いつになく酔いが回るのが早い気がする。たいして飲んでいないのに。
 気付くと、船が大きく揺れている。ローリングというのだろうか。これは1987年に関釜フェリーで帰国した時以来の大きな揺れのような気がする。

関釜フェリーの踊る銭湯

 あのときは風呂のお湯が踊っていた。
 もっとも、関釜連絡船より「笑ってトンヘ号」の方が船体が随分大きいから、あれに比べれば大したことがないのだろう。
 だが、あの当時は健康そのものの頑健な若者だったから、「まあこれくらい揺れるんだろうな」程度の感慨しかなかった。まだ一度たりとも船酔いなどしたことがなかったのだ。周囲全員がノビているようなときでも何も気にせずに弁当を喰ったりしていた。

 だが、今は心臓が悪く、胃腸薬も手放せない虚弱中高年と化した自分がいる。

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 年越し蕎麦を食べたくらいから私はなんだかムカムカしてきた。これは酒に酔ったのもあるのかもしれないが、おそらく船酔いが始まっているのに違いない。
 妻もなんとなく無口になってきた。さっきから「揺れるねえ」ばかり言っている。

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 気を紛らわすためにカウントダウンに参加する。抽選会も同時開催である。
 乗船券が抽選券にもなっていて、乗船番号を読み上げられると旅行券がもらえるとあって、すごい人出である。階下では新年を迎えると同時に鏡割りをする準備が整えられているが、カメラに収められない。
 抽選会開始。もちろん当たらない。私たち夫婦はこのテのものが当たったためしがない。前後の人が当たる、というのはよくあるが。



 カウントダウンを動画撮影。
 「5.4.3.2.1.ゼロ!」
 鏡割りと同時に皆が事前に配られていたクラッカーを鳴らす。
 それと同時に私もシャッターを切る。
 「カシャッ。」
 あれ?動画のときはシャッター音はしないはずである。あ、写真撮影になっていた。慌てて動画に切り替えるが、時すでに遅し。クラッカーを鳴らしそこなった人が遅ればせながら鳴らした音しか入っていない。間抜けな話である。新年早々失敗だ。

 部屋に帰るともうはっきり体調が悪い。ムカムカする。そして、さっきからやたらと便意が湧く。またトイレに行く。
 トイレから帰ると、妻はもう横になっている。顔色が悪い。完全に船酔いのようだ。

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 ムカムカする腹を抱えながら眠り、起きるともう6時である。夜明けはまだだが、もう外は明るい。薄暮撮影用の「ELBOW10mm F1.1改Ⅱ」で撮影。

 船室に帰ると、妻が腹を抑えて横になっている。 
 問診してみると、昨日から下腹が痛く、上から下から出ているらしい。どうもただの船酔いではなさそうである。

 そういえば私もムカムカは収まったものの、また便意が駆け下り、トイレに駆け込む。
 「笑ってトンヘ号」のトイレは洗浄機付きだから本当に助かる。そうでなければこのトイレの回数ならば水戸方面軍は壊滅的な損害を被ったに違いない。

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 船内放送で初日の出が直前だということなので、5分だけ妻を置いてデッキに出、撮影。レンズは「縁だすなー61 55mm」である。

 帰ってくると、妻は少しよくなったようで、身の回りを片付け始めている。慌てて妻を止めて私が部屋を片付ける。あと1時間で下船である。

 港に着くと同時に病院を受診すべくZUNOWをフル回転させる。旅行保険に入っていてよかった。娘が韓国在住中に虫垂炎の手術をしたときは結構な金を払ったらしいのだ。

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 だが、驚くなかれ、船が韓国に着くと、妻はケロッと治ってしまった。
 これは出すものを出して菌だかウイルスだかが体内にいなくなったのと、船酔いとのダブルパンチがなくなったからだと思われる。
 それにしても良かった。

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 いつものように廣安大橋の下を通る。レンズを「讃6.5mm(仮名)」に付け替えて、下から撮影。
 やっぱりこのレンズもピントが甘い。どうして私の持っているDマウント6.5mmはケラれる上にピントが甘いのだろうか。やはり1個牛丼以下の値段がいけないのか。

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 無事港に到着。

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 入国審査までひたすら歩く。この通路がやたらと長い(1km以上あると感じる)のがこの旅の唯一の欠点である。

 妻は、といえば、足取りも軽くさっさと歩いていく。
 現金な体調である。

 また来たぞ釜山。9回目の韓国である。

Dマウントレンズと行く第4の王国伽耶の旅-食は玄界灘にあり-(河童亜細亜紀行105)

船旅の醍醐味

 私は1987年に最初に渡韓してから、玄界灘を18往復しているが、そのうち7回は船旅である。

 韓国行きの船は博多か下関からしか出ていないから、実はあまり効率のいい話ではない。
 高速料金は熊本-福岡往復で1万円近いし、駐車場代も1日1000円はかかる。
 だから熊本発着の飛行機旅より少々安く見えるツアーも結局のところ総出費はそう変わらなかったりする。

 それでもときどき船旅をしたくなるのにはいくつか理由がある。
 
 一つは私が田舎者である点だ。
 私の棲む三角町は人口1000人弱。韓国の首都ソウルは1000万人弱の人口を誇る。釜山でも350万弱の大都市である。片田舎の小さな街からいきなり大都会に移動すると、比喩ではなく頭がくらくらする。その点船の旅はまず100万都市の福岡まで移動してからゆっくりとそこを離れ、それより大きな釜山にゆっくり近づいていくので、心の準備ができる。

 もう一つは私がソウルより釜山が好きな点だ。
 これにはいろいろな理由があるが、一番大きいのは釜山っ子には日本語の話せる人が多いということだ。話せなくても、歴史的な経緯から日本人に接し慣れているので、私の拙い韓国語でも通じることが多い。きっと日本訛の韓国語に慣れているのだろう。

 さらに手荷物検査や検疫が飛行機に比べれば緩い点だ。
 飛行機ではペットボトルやライターすら没収されてしまうが、船ではここまで厳しい持ち込み制限はない。
 特に食物の持ち込みが許可されているのは本当に有難い。 
 自分の好きな食物と酒を持ち込んで酒盛りをし、一眠りしたら外国、というシュチエーションは素晴らしい。もっとも今回は妻がこれでエラいメにあったのであるが。

 今回私たち夫婦は博多の国際ターミナルに集合時間より早くついてしまったので、同じ港内にあるショッピングモールに行ってみた。


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 するとそこには韓国語の看板が。
 どうやら韓国人たちもこの店でいろいろな物を買って船に持ち込んでいるらしい。
 今まで何回も来ているのに知らなかったとは迂闊な話である。

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 ここでいろいろなつまみを買いこんで船で二人宴会である。コップが茶碗なのがなんだか貧乏学生寮の酒盛りのようだが、それもまた懐古趣味をくすぐって楽しい。

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 今回は「船上でカウントダウン」という企画だから、船の方から年越し蕎麦が出た。これも嬉しい。

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 帰りの船は「ヨッテ百貨店(仮名)」で買った饅頭と回転焼き(蝦や豚肉の挟んである韓国化したもの)でまたも二人宴会となった。韓国の饅頭は美味い。

後ろ髪を引かれる帰国

 韓国から帰国するときにはいつも、「もっと遊びたかった」「もっと買いたかった」「もっと食べたかった」「もっと現地の人としゃべりたかった」と後ろ髪を引かれる。

 船上での韓国料理を食べながらの宴会は旅情を少しでも引き伸ばし、こうした気持ちを和らげる働きがあるのだ。

 「食は玄界灘にあり」である。

 閑話休題(まえおきはこれでおしまい。よんかいやったな)。

 おつまみを国際ターミナルで買った私たちだったが、韓国旅情を盛り上げるために夕食は韓国料理を食べることにした。
 福岡市内のとある店でビビンバをテイクアウトしてもらった。

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 ところが、実はこれが時間のロスで、ターミナルの前の駐車場が満車になってしまっていて停められない。仕方がないので随分離れた駐車場に車を停め、えっちらおっちらスーツケースを引っ張ってターミナルに戻る。
 と、物凄い人だかりである。写真は人の顔を写さないように用心して撮ったので伝わりにくいと思うが、1000人くらいはいるのではないだろうか。

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 乗船までまだ時間があるのでターミナルの屋上に夕陽の写真を撮りに行く。それにしても寒い。風が強いのだ。嫌な予感がする。船が揺れるのではないか。酔い止めの薬は既に飲んでいるが。
 かつて玄界灘で船釣りをしたときに自家製コマセを撒きまくった悪い記憶が蘇る。何回「陸に戻してください」と言いたかったか。

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 乗船手続きを済ませ、凄い人いきれの中を船に向かって歩いていく。
 私は閑古鳥が鳴く光景を予想していたので、ただただ驚くばかりである。というより、この人ごみは相当の疲労を誘う。嫌韓も反日もミサイルもものともせぬ「豪の者」の群れである。

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 やっと乗船出来て、部屋で荷物を広げる。今回は船中2泊だから個室の旅である。割高だが大和撫子の妻が大部屋では寝られないのは眼に見えているので仕方がない。随分広さがあって快適である。

 ビビンバをつまみに宴会開始。

 ところが、どうもこれに入っているキムチが古いような気がする。どうも酸っぱい。まあ本場のキムチも結構酸っぱいからな、と思いながら、食べる。

 もうすぐ新年である。
 今年もいろいろなことがあったな、と語り合いながら、2017年最後の夜は更けていくのであった。私たち夫婦もまた老けていくのであった(我ながらくだらん)。
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