ニヤッとする話

ニヤッ、とする程度の笑いネタを思い出しながら書きます。

『徒然草』を読む-友とするに悪き者七つあり-(新米国語教師の昔取った杵柄108)

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医師の友人

 青春は悩み苦しむ時期である。

 「自分とは何者なのか」「自分はどうやって生きて行けばいいのか」

 いわゆるアイデンティティについて、初めて真剣に考える時期だからである。
 自分の長所だけではなく、短所をも、これまでそうしてきたような直感的な把握ではなく、初めて分析的に自覚する。

 これは本来孤独な作業なのだが、多くの人は完全な孤独に耐えるだけの精神力を持っていない。

 したがって青少年は伴走してくれる他者を渇望する。

 それはこれまでのように両親ではない場合が多い。というのは、この時期は精神的な離乳の時期でもあるからだ。

 恩師、指導者、先輩などに傾倒する者もあるが、多くは信頼できる友人を求める。

 実際、生涯の親友はこの時期にできることが多い。

 『徒然草』117段「友とするに悪き者、七つあり」は古文の初学教材としてだけでなく、青少年期のこのような課題を考える上でも適当である。

[原文]
 友とするに悪(わろ)き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強き人、四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇める兵(つはもの)。六つには、虚言(そらごと)する人。七つには、欲深き人。
 よき友、三つあり。一つには、物くるる友。二つには医師(くすし)。三つには、智恵ある人。
[現代誤訳]
 友人にするのによくない者が七つある。
 一つ、身分が高く高貴な人。二つ、若者。三つ、病気せず頑健な人。四つ、酒好き。五つ、勇猛でアグレッシブな武士。六つ、嘘をつく人。七つ、欲が深い人。
 良い友達が三つある。一つ、物をくれる友。二つ、医者。三つ、賢い人。

 まず「わろし」「やんごとなし」「たけし」「つはもの」「そらごと」「くすし」など、重要古語が学べる。
 歴史的仮名遣いについてはほとんどないので、これはそれを教える前の「古文って面白いんだよ」という教材だろう。

 おそらく中高生が「そうだよね」と思うものもあれば、中高生には「何で?」というものもあるし、兼好法師と云う個性にして初めて取り上げられたものもあるだろう。

 題材は彼らの年代として適したものだから、デイスカッションなどさせたら口角泡を飛ばすのではないだろうか。

 私は口語訳を小学校高学年で読んだから、私自身の思考の発達に沿って考えてみたい。

[良くない友人]
1.身分の高い人:大人だと単純に「付き合いに金がかかるから」ということになるが、中高生にそう教える訳にはいかない。自分の発達過程から考えると、こういう人たち(の子供)とは小中学校のときには目立たなかった価値観や感覚の違いがどんどん大きくなっていったように思う。
2.若者:これは最初読んだ時どうしてなのかさっぱり分からなかったし、中高生はまさに若者だから議論になるところだろう。今思えば中高年からすれば経験不足で思慮が浅いのが原因だろうか。中高生は納得しない気がする。ということでこれは保留にして次。
3.頑健な人:これも若い頃は「何でなんだよ」と思ったのだが、兼好法師はあまり丈夫な人ではなかったのではないだろうか。同じストレッサーでもその人の健康状態によって疲労やダメージが違う。あまりにも健康な人はあまり丈夫ではない人の気持ちが分かりにくい。これは私が中高年になり体力が衰えてきてから初めて分かったことだ。もしかすると2.若い人も同じ理由なのかもしれない。
4.酒好き:これは中高生にも分かりやすいかもしれないが、生徒によっては保護者の悪口にならないように教え方に注意したい。
5.勇猛な人:これは個人によって是非が分かれそうな性質であるが、中高生に説明させたら意外にしっくりする意見を持っている生徒がいるかもしれない。
6.嘘つき:これは満場一致で賛成されそうである。
7.欲張り:同上。
[良い友人]
1.物をくれる人:これは笑いネタとして上手く育てたい性質である。
2.医者:これはおそらく良くない友人の2.3.と同じ理由で採用されたのではないだろうか。自分の健康について相談できて面倒を見てくれる友人は最低一人はほしい。
3.賢い人:これもいざという時役に立つ知恵を授けてくれる貴重な友人である。

 こうしてみると兼好法師の友人観はやや実利に傾いている気がするので、「良い友人ベスト3.ワースト3」などを作成させると道徳や総合探求の授業としても成立するのではないだろうか。


『徒然草』を読む-高名の木登り-(新米国語教師の昔取った杵柄107)

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上りより下りがキツイ

 久々の『徒然草』である。

 古文初学者の教材としてよく用いられるものに109段「高名の木登り」がある。 

[原文]
 高名の木登りと言ひし男、人をおきてて、高き木に登せてこずゑを切らせしに、いと危ふく見えしほどは言ふこともなくて、降るるときに軒たけばかりになりて、
「過ちすな。心して降りよ。」
とことばをかけ侍りしを、
「かばかりになりては、飛び降るるとも降りなん。いかにかく言ふぞ。」
と申し侍りしかば、
「そのことに候ふ。目くるめき、枝危ふきほどは、己が恐れ侍れば申さず。過ちは、やすきところになりて、必ずつかまつることに候ふ。」
と言ふ。
 あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠も、難きところを蹴出だしてのち、やすく思へば、必ず落つと侍るやらん。
[現代誤訳]
 有名な木登り名人の男が、人を指図して、高い木に登らせて小枝を切らせたときに、たいそう危険に思われた時には何も声を掛けなかったのが、降りるときに軒くらいの高さになってから、
「ここが肝心だぞ。用心して降りろ。」
と言葉を掛けたので、
「これくらいの高さになったら、飛び降りようとしても降りられるだろう。どうしてこのようなことを云うのか。」
と申しましたところ、
「それなのですよ。目が回るほどの高さで、枝が折れてしまうのではないかと云う細さの時には、自分が恐れますのでアドバイスしません。失敗は、簡単なところになって、必ずしでかしてしまうものでございます。」という。
 身分の低い下人だけれども、云うことは古の聖人のおっしゃった教訓と合致している。私達の行う蹴鞠でも、難しい球を蹴った後で、簡単だと思って蹴ると、必ず落としてしまうと云われている。

 うーん。

 どうもあまり面白くない。
 『徒然草』を全段読んだことのある人ならば、この段は面白さということに関しては大したことがないということを頷いていただけるだろう。

 おそらくこの段は歴史的仮名遣いを教えるために使われているような気がする。

 何せ冒頭が「こうみやう」だもんな。「げらふ」なども初学者ならば一旦仮名遣いの規則について聞いていてもなかなか読めないだろう。
 「いとあやふくみえしほど」なども、「は・ひ・ふ・へ・ほ」は「わ・い・う・え・お」と読むと習っていても、何で「あやふく」は「あやうく」なのに「ほど」は「おど」にならないんだろう、という疑問が湧くだろうし。
  
 生徒が読み間違って先生が説明しやすい部分が結構ある。

 この文章は『宇治拾遺物語』の「児のそら寝」と同じく、文法的には結構難しいのだが、そんなことを知らなくても大意が取りやすい。
 
 そういった理由で初学教材としてよく取り上げられるのだろう。

 『徒然草』の「名人もの」として有名なのは他に92段の「ある人、弓射ることを習うに」や110段「双六の上手といひし人に」などがあり、特に92段もまた初学の教材としてよく使われるところであるが、いずれも現代の私達が見て「おお、なるほど。」と目から鱗が落ちるほどのものではない。

 「失敗は易しく見えるところでするぞ」(109段)とか、
 「失敗した後のことを考えずに集中しろ」(92段)とか、
 「勝つと思うな、思えば負けよ」(110段)とか、
 小さい頃から大人に散々云われて高校の時には自分の中の常識になっている生徒がほとんどではないだろうか。

 だいいち兼好法師の話は木登りから蹴鞠に変わっている。
 たかが蹴鞠に聖人を持ち出すのはあまりにも大げさではないだろうか。何だか木登り名人にも失礼だ。

 まあ「上りより下りが怖い」というのは木登りに限らず登山にも云えることだから、こちらの方を教訓として皆様に伝えたい。

 冒頭の絵のとおり、私はそれを天翔台という山に登った時に痛感したことがあるのだ。

 私は『徒然草』の口語訳は小学校の高学年のときに読んだ記憶があるが、この段の原文を初めて読んだのはおそらく中学生だったろう。

 そして一番インパクトがあったのは名人の教訓ではなくて、「あやしき下臈」という言葉だった。
 「下臈」は原義は「修行の足りない僧」らしいが、この場合の意味は要は「怪しき下郎」なんだよな。

 古文を学習する意義の1つに昔の人のものの考え方を学ぶというものがあると思うのだが、高校生が最初に触れるそれが「身分が低い奴でもたまにはいいことを云うぞ」という価値観というのはどうだろうか。

 まだ「私の家は武士の家で」などという江戸時代の価値観を持った高齢者がいた私達の世代の青少年と違って、今の子供は私達が想像する以上に平等意識が強い。

 「昔の日本人って嫌だなあ。」と思わなければいいが。

 私は『徒然草』を古文の初学の教材にするのならば、117段の「友とするに悪き者、七つあり。」を推薦したい。

 ということで、次回はその話。


『宇治拾遺物語』を読む-絵仏師良秀-(新米国語教師の昔取った杵柄106)

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大空襲の報道

 高校生の古文入門編として、「児のそら寝」と共にもう一つよく使われる『宇治拾遺物語』が「絵仏師良秀」である。

[原文]
  これも今は昔、絵仏師良秀といふありけり。家の隣より火出で来て、風おしおほひてせめければ、逃げ出でて、大路へ出でにけり。人の描かする仏もおはしけり。また、衣着ぬ妻子なども、さながら内にありけり。それも知らず、ただ逃げ出でたるをことにして、向かひのつらに立てり。
 見れば、すでにわが家に移りて、煙・炎くゆりけるまで、おほかた、向かひのつらに立ちて、眺めければ、「あさましきこと。」とて、人ども来とぶらひけれど、さわがず。「いかに。」と人言ひければ、向かひに立ちて、家の焼くるを見て、うちうなづきて、時々笑ひけり。「あはれ、しつるせうとくかな。年ごろはわろく描きけるものかな。」と言ふときに、とぶらひに来たる者ども、こはいかに、かくては立ちたまへるぞ。あさましきことかな。もののつきたまへるか。」と言ひければ、「なんでふもののつくべきぞ。年ごろ、不動尊の火炎をあしく描きけるなり。今見れば、かうこそ燃えけれと、心得つるなり。これこせうとくよ。この道に立てて世にあらむには、仏だによく描きたてまつらば、百千の家も出で来なむ。わたうたちこそ、させる能もおはせねば、ものをも惜しみたまへ。」と言ひて、あざ笑ひてこそ立てりけれ。
 そののちにや、良秀がよぢり不動とて、今に人々めで合へり。
[現代誤訳]
 これも今は昔の話だが、絵仏師良秀という者がいた。家の隣から火事が出て、自分の住処に炎が風に乗ってやって来たので、逃げ出して、大路に出た。家の中には人が良秀に描かせた仏もいらっしゃった。また、寝巻のままの妻子なども、そのまま家の中にいた。それも知らず、ただ自分が逃げ出せたのを幸いに、家の向かい側に立っていた。
 見ると、火は既に我が家に移って、煙や炎が立ち昇るまで、じっと向かい側に立って眺めているので、「驚いたことだ」と云いながら、人々が火事見舞いにやってきたが、少しも騒がない。「どうですか。」と人が云うと、向かい側に立って、家が焼けるのを見て、うなづきながら、時々笑っていた。「ああ、これは儲かった。長年下手糞に描いていたのだなあ。」と云うのを聞いて、見舞いに来た者たちは、「これはどういうことだ。どうしてそのように笑いながら立っておられるのか。呆れたことだ。物の怪でも憑りついたのですか。」と云うので、良秀は、「なんで物の怪などが憑こうか。長年不動尊の火炎を下手糞に描いていたのだ。今見ると、このように燃えているのだと、得心が云った。これこそ大儲けというものだ。絵の道で身を立てて世の中を渡って行こうと思えば、仏さえ上手に描いてさしあげければ、百千の家も立つことだろう。貴方たちこそ、大した能力もないので、物惜しみをなさるのだろう。」と云って、嘲笑いながら立っていた。
 その後、良秀の描く不動明王の絵を、「良秀のよじり不動」と呼んで、現在も人々は愛で合っている。

 この話は芥川龍之介の「地獄変」の元になったということだが、私には高校生の時に読んだこの話そのものが薄気味の悪い話に思えたので、この歳になるまで「地獄変」も読んでいなかった。

 そして「地獄変」の書評などで「芸術のために娘を犠牲にした」などと書いてあるのを見て、良秀(「地獄変」では「よしひで」。以下ヨシヒデ)が車に火をつけて娘を焼き殺し、それを絵にしたのだと思い込んでいた。

 ところが今、この項を書くために「地獄変」を初めて読んでみると、火をつけたのは娘に肘鉄を喰ったエラいさんで、良秀はそれを見させられたのだと知った。しかも良秀は絵を完成させた後自死している。
 
 「羅生門」の下人もそうだが、芥川に翻案された王朝物の人物たちは本来のそれより随分人間らしく繊細である。

 「地獄変」は「芸術至上主義」と呼ばれて称されたというが、『宇治拾遺物語』の中の良秀(この物語では「りょうしゅう」以下リョウシュウ)は発言をよく見ると芸術のために家族を犠牲にしたのではない。

 まず、リョウシュウは火事が自宅に近づいてきたとき一人で逃げ出し、家族を一顧だにしていない。つまり彼の頭の中には自分しかなく、「家族が危ない」などという考えは最初から持ち合わせていないのだ。

 「しつるせうとくかな」という発言も同様である。
 「せうとく」という古語は「得」「儲け」という意味なのだ。
 良秀の発言をストレートに取れば、「大儲けのヒントを与えられてラッキー」がその主旨なのだ。

 したがってその後の彼の発言にも家族は欠片すら登場しない。
 妻子の話に言及しているのはこの話を記録した人であって、本人の関心はそこにはない。

 ヨシヒデが世間の人から嫌われながらも自分の娘だけは愛していたのに対して、リョウシュウは人に関心がない特異な感性を持っていることが伺われる。守銭奴によく見られる性格特性である。


 彼がこの火事で失ったことを認知しているのは自分の家宅だけである。発言の最後の「仏だによく描きたてまつらば、百千の家も出で来なむ。わたうたちこそ、させる能もおはせねば、ものをも惜しみたまへ。」という部分でそれが分かる。

 また、この発言からはリョウシュウにとっては絵もまた身過ぎ世過ぎの手段に過ぎないことが分かる。仏を上手に描くことは、百千の家を得るための手段なのだ。

 「家」「もの」という単語がリョウシュウの関心事がどこにあるかをよく表している。

 もしかするとリョウシュウにとっては家族もまた「家」「もの」の一部に過ぎなかったのかもしれない。


   つまり家族は、私たち凡人(?)にとってのそれのようにかけがえのないものではなく、「仏だによく描きたてまつれば」いくらでも代わりが手に入るものだったわけだ。

 つまりこの話は元々は「芸術のために家族を犠牲にする芸術家の話」でもなんでもなく、「自分とモノにしか関心を持っていない共感性に欠ける人物の話」なのだ。

 火事見舞いに来た人々もドン引きだったに違いない。

 極限状態ではその人の素の人格が出現する。
 日頃「ちょっと変わった人だけど、まあ芸術家だから仕方ないな」という程度の認識だったのが、「こいつ、ホンマもんやあ!」となった訳だ。

 特に「わたうたちこそ、~ものをも惜しみたまへ。」発言には呆れたことだろう。
 
「だから、あんたや、あんたの奥さんや、あんたの子供のことが心配で来たんやって!」

 これと正反対の話を書いたことがある。
 「論語」の一節だ。
 
佐賀県多久市で孔子に逢う4-人間孔子-(河童日本紀行585)

 厩(うまや)焚(や)けたり。子(し)、朝(ちょう)より退(しりぞ)きて曰(いわ)く、「人を傷(そこ)なえりや」と。馬を問わず。
[現代誤訳]
 孔子邸の馬小屋が焼けた。孔子が朝廷を退勤してそれを知っておっしゃった。「怪我人はなかったかい。」皆が無事であると知ると、「なら、いいんだ」。馬のことは聞かれなかった。

 少し時代が下るが、「史記」によると司馬遷の生きた前漢時代の馬1頭の値段は5000銭(三銖銭または五銖銭5000枚)である。孔子の生きた春秋時代はまだ西域からの馬の供給がわずかだから、もっと高価なものだったに違いない。下級官吏の給料を「やっと食える収入」と考えて換算すると、現代日本人の価格実感としては400万円くらいか。

 なんでも孔子邸では名馬の誉れ高い白馬が飼われていたのだとか。「ベンチ(仮名)」か「レクソス(仮名)」かという高級乗り物が焼肉になってしまったのだから、なかなか俗物に言える台詞ではない。さすがは孔子さんである。

 かれこれ30年くらい前、第一の学生時代にたまたま歴史の本で東京大空襲の際の大本営発表を読んだとき、私はこの「論語」の一節を思い出した。

[大本営発表]
 本三月十日零時過ぎより二時四十分の間、B-29 約百三十機主力を以て帝都に来襲、市街地を盲爆せり。右盲爆により都内各所に火災を生じたるも、宮内省主馬寮は二時三十五分、その他は八時頃までに鎮火せり(下線は河童)。

 大火災で国民10万人が死んだ日の発表でメインになっているのは「馬小屋が無事だった」という情報。
 まさに「馬を傷ねたるや。人を問わず。」である。

 引用終わり。

 リョウシュウの言動を「論語」風に云えば、

 「炎の様や如何に。人を問わず。」だろうか。

 リョウシュウは一介の絵師だから、「人より絵を大事にする人」の被害は家族2人。
 大本営は戦争当時の国民の指導層だから「人より馬を大事にする人」の被害は10万人。

 なんだか絵仏師良秀が可愛く見えてきた。

『宇治拾遺物語』を読む-児のそら寝-(新米国語教師の昔取った杵柄105)

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狸寝入り

 高校で古文を習う時、入門として最初に教わる教材として、『宇治拾遺物語』が使われることが多い。

 特に多いのは「児のそら寝」である。

[原文]
  今は昔、比叡の山に児ありけり。僧たち、宵のつれづれに 「いざ、かいもちひ せむ。」と 言ひけるを、この児、心寄せに聞きけり。さりとて、し出ださむをまちて寝ざらむもわろかりなむと思ひて、方々に寄りて、寝たるよしにて、出で来るを待ちけるに、すでにし出だしたるさまにてひしめき合ひたり。
 この児、さだめておどろかさむずらむと、待ちゐたるに、僧の、「もの申しさぶらはむ。おどろかせたまへ。」と言ふを、うれしとは 思へども、ただ一度にいらへむも待ちけるかともぞ思ふとて、いま一声 呼ばれていらへむと、念じて寝たるほどに、「や、な起こしたてまつりそ。おさなきひとは、寝入りたまひにけり。」と言ふ声のしければ、あな、わびしと思ひて、いま一度起こせかしと、 思ひ寝に 聞けば、ひしひしと、ただ食ひに食ふ 音のしければ、ずちなくて、無期の のちに 「えい。」といらえたりければ、僧たち、笑ふこと限りなし。
[現代誤訳]
 昔、比叡山の延暦寺に預けられている児がいた。僧たちが宵の所在なさに、「さあ、牡丹餅を作ろう。」と言ったのを、この児は「よっしゃー」と思って聞いた。だからといって、牡丹餅が出来上がるのを待って寝ないのもよくないにちがいないと思って、片隅に寄って、狸寝入りをして、出来上がるのを待っていると、僧たちは早くも牡丹餅を作り上げた様子でわいわい云っている。
 この児が、僧たちはきっと自分を起こそうとするだろうと待ち続けていると、僧が「もしもし、お目覚めなさいませ。」と言うので、嬉しいとは思うけれども、ただ一度で返事するとしたら、なんだ、出来上がるのを待っていたのか、いやしい子だ、と思われるといけないと思って、もう一声呼ばれてから返答しようと我慢して寝ているうちに、「これお起こし申し上げるな。幼い人は寝込んでしまわれたよ。」という声がしたので、ああ、情けないことになった、と思って、もう一度起こしてくれよと、思いながら寝て聞くと、皆がむしゃむしゃと、ただひたすら食べに食べる音がしたので、仕方なくなって、ずっと後になって「はーい。」と返事をしたので、僧たちは限りなく笑った。

 『宇治拾遺物語』自体がそうなのだが、この文は文法的に考えれば初学者には決して易しいものではない。 
 それにも関わらずこの文が入門に選ばれるのは、内容の分かりやすさと面白さからであろう。
 実際この話を読んで「さっぱり訳が分からん」という感想を持つ生徒は、少なくとも進学校にはほとんどいない。

 話そのものは極めてシンプルで、面白さも上質である。
 登場人物の児も子供らしくて可愛らしい。

 にも関わらず、私は自分がこの話を(おそらく中学ではないかと思うのだが)初めて読んだ時、何とも言えない違和感があった。

 それは、僧たちの児に対する言葉遣いである。
 「もの申しさぶらはむ。おどろかせたまへ。」の「申す」は謙譲語、「さぶらふ」は丁寧語、「たまふ」は尊敬語である。「おどろかせ」の「せ」を尊敬の助動詞「す」であると取ると、「せたまふ」は天皇や皇后にしか用いない最高敬語ということになる。
 また、「や、な起こしたてまつりそ。おさなきひとは、寝入りたまひにけり。」の「たてまつる」は謙譲語である。しかも、古文における「ひと」は通常子供に対して使う言葉ではない。

 どうみても僧たちは児に対して高貴な人にそうするように接しているのだ。

 これは古文に慣れていない中学生にして不思議な態度だった。

 「児」と云えば要するに寺で雑用をする小僧である。
 小僧に対して目上である僧たちが何故敬語を使うのか。

 これには「当時の日本、特に仏教関係では敬語によって身分関係を示す意識は薄かった」などという解釈もあるが、『宇治拾遺物語』の成立年代が鎌倉時代初期であることを考えると眉唾である。

 第一、同じ『宇治拾遺物語』巻14の174では海雲比丘が道で童に出逢って「何の料の童ぞ」「汝は法華経は読みたりや」など、目上の者が目下の者に使用する語を用いて話しかけている。「比丘」は仏教の修行者のことであるから明らかに仏教関係者である。

 やはり別の理由がありそうである。

 ここで中学生の私が思い出したのが一休和尚のことであった。

 この人はTVアニメの「一級さん(仮名)」にもなったことがあって有名だが、寺に来た理由についても人口に膾炙している。
 それは一休が後小松天皇の落胤である、というものだ。
 アニメでは一休の母も登場するが、この落胤説に従い宮廷の女官であるという設定である。

 現実の一休は6歳で出家している(させられている?)。
 
 当時の寺には治外法権的なところがあって、様々な理由で子供の身の安全を確保したい人の保育所になっていたと考えられている。

 こうした子どもたちを僧たちは「何処の誰」というのは知らなくても、「粗末に扱ったらヤバい奴」というのは当然のことながら知っていただろう。

 情勢が変わって還俗したら一気に権力者、などという小僧や僧もいたに違いないからだ。

 寺での身分関係だけをいいことに虐待していたら相手が還俗、高僧に働きかけて虐待者は因縁をつけられて破門、寺から追い出されたところでバッサリ、などということも理論上は考えられるわけである。本当にそんなことがあったかは私は寡聞にして知らないが。

 閑話休題(なまぐさいはなしはひとまずおいて)。

 私は僧たちが児に対して敬語を使っていることが、この話をとてもイイ話にしていると思う。

 もし僧が「や、起きよ。」とか「起こすに及ばず。児は寝入りたり。」などという言葉を使っていたとしたら、この話の笑いが残酷なものになってしまうと思うからだ。

 日常虐待されて喰う物もろくに喰えていない児。それでも武士の高楊枝で少し見栄を張ったばかりに牡丹餅を喰い損ない、後で返事をして「いやしい奴やなあ、お前」と笑われてしまう。

 なんだかイヤーな話である。

 それが僧の敬語によって児の元の身分や大切にされていることが分かり、僧たちの笑いも「やっぱり身分の高い人でもこどもさんやなあ。かわいらしいわあ。」という明るい性質のものになるのだ。

 敬語について考えるとき、私はいつも思い出すエピソードがある。

 それはまだ新島襄が生きていた頃のガラパゴス大学(仮名)での出来事だ。

 ガラ大には校僕がいた。松本五平という。

 今でいう用務員であるが、まだ明治になって大して経っていないから、大学の関係者は学生を含めて中身は江戸時代の人である。
 我が熊本の文豪徳富蘇峰などもその中にはいた。

 学生たちは多くが士族である。したがって平民の五平を自分たちより身分が低い者、と見做し、「五平」と呼び捨てにし、「~しておけ。」と気楽に下働きを命じていた。

 ある時、五平が学生達に云った。
「あんたたちは私を『五平』『五平』と云うが、新島先生はちゃんと『五平さん』と呼んでくれるぞ。先生を見習ったらどうだ。」

 その時の学生達の反応は伝わっていない。

 しかし、五平は「死んでからも新島先生といたい」と云って洗礼を受けた。新島がクリスチャンだったから同じ天国に行きたかったのだ。
 そして、死ぬときには「先生の墓守をしたいので新島家の墓地に葬ってくれ」と遺言したという。

 「松本五平之墓」と書いた小さな墓碑は現在でも東山若王子山頂の墓地の入口付近にまるで新島襄の墓守でもするかのように立っている。

 敬語はマウンティングのためにあるのではない。
 敬語は相手を尊重し大切に思っていることを示すためにあるのだ。

リアル写真で花札を作る49-牡丹札とりあえず完成!だが写真の基本を忘れてた…-(それでも生きてゆく私333)

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牡丹4種リアル河童

 無情の雨で二つの花は散ってしまった。

 どういうものか牡丹札の撮影は雨に祟られる。

IMGP5809

 それでもまだ1個だけ牡丹が咲いている。

 これに今年最後の望みをかけて「牡丹に蝶」撮影は休日である4月19日(韓国では学生革命の日である。全然関係ないけど)の午後一杯を使って行われた。

20250419_164034

 カメラは愛機「ペンテコステオバQ(仮名)」、レンズは「シネ日光る38mmF1.8(仮名)」である。

 本当はDマウントの標準13mmで撮りたいところだが、これだと近距離からの撮影になり、警戒心の強い蝶たちはとても来てくれないだろう。


牡丹に蝶

 それにしても「牡丹に蝶」に描かれたこの蝶たちは一体何なのだろう。
 
 私はこんな柄の蝶を日本国内で見たことがない。どころか、私は中国と韓国しか行ったことがないが、海外でもこんな蝶は見たことがない。

 牡丹の花の季節に我が家の庭を訪れる蝶はアゲハ蝶、紋白蝶、アオスジアゲハ蝶、シジミ蝶類くらいのものだが、これらの蝶はどれも花札の蝶と似ても似つかない。共通点は「蝶である」というぐらいである。

 この問題は未解決だが、取り敢えず飛翔している写真が得られたら多少なりとも似たものができるかもしれない。

 考えてみたら「牡丹に蝶」の花は一つだけである。

 むしろ残った一個で撮影した方が元札の構図に似ているかも知れない。

 頑張ってみる価値はある。

 この日は春とはいうものの意外に日差しの強い日である。

 熱中症を防ぐために麦藁帽子を被って水分補給をしながらひたすら蝶の来訪を待つ。

 蝶たちが牡丹に近づく度にシャッターを切るが、構図の中までは来てくれない。

 特に近くまで来てくれるのは紋白蝶だけである。

20250419_155157

 これは牡丹の鉢が蝶を誘うためにレッドキャンピオンの群生の横に置かれている。
 この花は植えもしないのに勝手に生えてくる招かれざる外来種だが、こういうときには役に立つ。

 紋白蝶はおそらくこの花に惹かれてやってきているのだ。

 そこで私は閃いた。
 我が家にはアゲハ蝶を誘引するアイテムもあるではないか。

20250419_155152

 急遽この間植木市で買ったライム君にご登場願う。

 ライムはミカン科だからアゲハ蝶を誘因する力があるに違いない。

 気のせいか、ライムが隣に来てからアゲハ蝶が飛来する回数が多くなり、牡丹までの距離が近くなったようだ。

 何度も何度もアゲハ蝶や紋白蝶やシジミ蝶が牡丹の近くを飛び回り、その度に闇雲にシャッターを切る。

 こんなことは銀板写真時代だったら素人には絶対に無理だったろう。
 デジタル写真さま様である。

IMGP5810

 こんな写真が何百枚も撮れたが、蝶は写らない。
 あとちょっとの所で構図に入らないのだ。

IMGP5850

 あ、これだ。
 左端の真ん中あたりに紋白蝶らしき影が写っている。

IMGP5877

 惜しいっ。
 これはもっと大きくて見栄えがするのに後ちょっとのところで構図からはみ出している。

IMGP5894

 これは構図的には良かったのだが一体何が写っているのか分からない。

 アゲハ蝶は一匹も写っていない。
 多分こちらが写っていたら誰が見ても「蝶っ!」という影になっただろうに。

 レモンの蕾が膨らんでいて、こちらの方がアゲハを誘うのには良かったのだが生憎地植えなので動かせない。牡丹の方を近くに運んでもどちらから撮ってもブロック塀が写ってしまう。 緑色の支柱くらいならご愛敬だが、花札にブロック塀は合わない。 

 それにしても写りが悪い。
 
 もう少し鮮明に写らないと、撮影者以外には蝶だと同定できないに違いない。「白い影」に過ぎない。

 その時、私は急にレンズに凝り始めたころに勉強した写真の基本中の基本を思い出した。

 この写真はペンテコステオバQでは望遠になる38mmのDマウントレンズで撮影しているのだが、望遠レンズは絞りを開けると被写界深度が浅くなるのだ。
 「被写界深度」というのは鮮明に写る範囲のことで、被写界深度が浅いとピントが合った部分より近かったり遠かったりした被写体はボケて写るのである。

 これがDマウントレンズで撮った写真にいい味を与える。

IMGP5760

 たとえばこの写真などは私が「花撮りレンズ」と呼んでいる、極端に被写界深度が浅い自家製レンズで撮ったものである。ピントの合った紫苑の花以外はボケて写らない。

IMGP5740

 これもそう。
 ピントの合った虞美人草以外はボケてしまうため、花が強く強調される。
 ちなみに虞美人草はポピー(ひなげし)とも云い、野生化すると極端に花が小さくなるが、こういう撮り方をしてあげれば雑草でも主役になれる。

 ところが今回の「牡丹に蝶」は牡丹と蝶のダブル主演なのだ。
 どちらがボケてしまっても花札としては失敗である。

 この場合は固定していてピントを合わせやすい牡丹の花に焦点を当てつつも、その周囲を飛び回る蝶たちも鮮明に写さなければならない。
 現在使用している照れるシネ日光る38mmF1.8だと絞りを相当絞らないと花の周囲の蝶が鮮明に写るほどには被写界深度が深くならない。

 今絞りは昼間の直射日光下だからF5.8にしてあるが、これをF11くらいまで絞らないとフルフレーム(隅から隅まで鮮明に写った写真のこと)にならない。

 ところが、絞りすぎると今度はシャッタースピードが遅くなる。
 被写体の全てが固定物ならばいくらでも遅くていいのだが、相手は素早く動き回る蝶である。
 シャッタースピードが遅すぎると写りにくい上に写ってもブレブレの画像になってしまう。

 勿論私はペンテコステオバQ10でもケラれない(写真の四隅が減光して黒くならない)ぎりぎりの焦点距離である「贅だ7.5mmF1.4(仮名)」を持ってはいる。これだとフルフレーム写真の撮影は可能である。

 しかし、この焦点距離だと牡丹にごく近接しないと花札の構図のような写真は撮れないだろう。
 蝶が警戒して来ないだろうし、来てもフレームの中に入るのはほんの一瞬だから私の動体視力ではシャッターを押すのが間に合わない。

 この場合リモコンを使うと云うのも考えられるが、我が家のリモコンたるやスイッチを20回押すとやっと1回くらい仕事をしてくれるというような代物なのだ。

 はたしてペンテコステオバQとDマウントレンズの組合せで「牡丹に蝶」の撮影は物理的に可能なのだろうか。

 しかも、牡丹に比べて蝶の大きさが小さい。
 よほど前方で捉えるか、アサギマダラやオオムラサキ級の大型の蝶を持ってこないと無理だろう(どちらも絶滅危惧種だろ)。

 前途に暗い物を抱えつつ、暫定で花札作成開始。


牡丹に蝶暫定
PENTAX Q10+Cine Nikkor 38mm F1.8
 
 取り敢えず牡丹4種完成である。

牡丹4種本物
牡丹4種

 それにしても元札と比べて見劣りがする。

 もう一度写真の基本を学び直して再挑戦だ。
 ガホの「start!」の最後のフレーズを思い出した。

 タシシジャッケ!(다시 시작게!=もう一度やろう)

リアル写真で花札を作る48-またも無情の雨で「牡丹に蝶」作成失敗-(それでも生きてゆく私332)

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牡丹の乳母日傘

 牡丹スカ札と「牡丹に青丹」の作成が終わり、いよいよ次は「牡丹に蝶」の撮影開始である。

 というより、私は今年の牡丹が咲いた瞬間からあわよくばまず「牡丹に蝶」を撮影するつもりであった。
 それ以外の札はそれからでも十分間に合う。

 ところが、花が咲いたのはいつもの年より少し早く、ちょうど「花冷え」の時期だったのだ。

 「本当に春かよ」というような寒気が襲ってきた。

 うっかり薄着だと震える程寒い。

 自明のことだと思うが蝶は寒い時期には活動しない。
 活動しないと云うと語弊がある。寒い時期には蛹になって活動を最小限にしていると云った方がいいか。

20250419_164034

 私は牡丹が咲いた日から我が家の庭に撮影機器を据えて蝶の到来を待ち構えたが、少なくとも午前中に蝶が我が家を訪問してくれることはなかった。
 午後からは私は仕事に出かけなかければならないので、もし彼らが我が家を訪問したとしても彼らを撮影するのは不可能である。

 明日こそは、と思ったその明日が来た時、私は前夜に雨が降ったことを悟った。風を伴う相当酷い雨だったらしい。

 IMGP5797

  翌日、妻の「牡丹の花デロンデロンになってるよ!」という声と共に目覚めた私は、庭に降りて行ってその無残な姿を目撃した。

  「終わった!」
  それが私の正直な感想だった。


牡丹スカ札リアル河童

 それでも私はこれまでの牡丹札の無残さを知っているから、ここで終わる気にはなれなかった。
 それともう一つ。

IMGP5733

 この牡丹の木は驚くべきことにもう一つの蕾を付けていたのだ。

IMGP5764

 この蕾の位置を確認してみると、もしこの蕾と共に蝶が撮影されたとしてもそれは「暫定」以外の何物でもないことは理解してもらえると思う。

IMGP5809

 しかし、それは予想よりもずっと美しい花を咲かせた。

 私は決意した。たとえ暫定であろうと、一時的にでもこの花を蝶と写したものを「牡丹に蝶」として我が社(そんなものはありはしないが)の商品として陳列しようと。

 それにしても牡丹の花は雨に弱い。

 私は庭園などで牡丹に傘を差させてあるのを決して稀でなく目撃したことがある。

 第一私の実家がそうであった。

 人生の一時期を大陸で過ごした父母は、その土地に生えていた想い出の植物で日本でも手に入りやすい物を庭に植えていた。

 牡丹が最初に庭に来た時、戦後の人生そのものを余生と感じていた父は、「俺の生きている間に花が咲くかな」と云ったが、赤、桃、黄色などの様々な色の牡丹は母の丹精によって次々とその美しい花を咲かせ、長い間我が家の猫の肉球ほどの庭を彩ってくれた。

 母が草花や木が大好きだったからである。
 庭には牡丹に限らず様々な木や草花が咲き誇っていた。

 母の手入れする牡丹が余りにも容易く美しい花を次々と咲かせるので、私は牡丹の栽培というものは簡単なものだと思っていた。

 牡丹のリアル花札を作る段になって自分で栽培してみようと思ったのも、そうした印象が少なからず影響したことは否めない。

 ところが、1年目にはまず開花期を誤認していて植えることすらできず、2年目は花開いた直後の雨によって撮影に失敗し、3年目は開花せずに枯らし、4年目にやっと開花させることができたのだ。

 私は牡丹に傘を差してあるのを見ては、「乳母日傘」という言葉を思い出し、「深窓の令嬢でもあるまいし」と皮肉な気持ちで唇を歪めていたのだが、自分が牡丹を育ててみてやっと母を含めた先達の気持ちが分かる気がする。

 先に咲いた2つの花は枯れてしまったが、まだ1つ残っている。

 暫定であることに変わりはないと思うが、「牡丹に蝶」の作成をもう少し頑張ってみよう。

 



リアル写真で花札を作る47-月日の流れを感じる牡丹に青丹-(それでも生きてゆく私331)

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牡丹に青丹リアル河童

 3年越しの執念が実り牡丹スカ札を手にした私であったが、本命の「牡丹に蝶」を作成する前にもう一つの課題が残っていた。

 「牡丹に青丹」である。

 現在までに私が最も出来が良いと思っている青丹札は「紅葉に青丹」である。

 紅葉に青短リアル河童

リアル写真で花札を作る29-紅葉青短の芸術-(それでも生きてゆく私303)

 この時は全くの僥倖で青丹に紅葉の影が映り込んだために芸術と云ってよいような札が完成した。

 随分と待たせた(誰を?)挙句の作成なので、牡丹の青丹札も同じくらいの出来のものが欲しいところだ。

 私は何時花札素材に巡り合っても云いようにオンボロ軽自動車に常時乗せている赤丹青丹用の布を取りに走った。

 ところが、月日の流れは残酷である。

 お店で切り売りしてもらったときにはアイロンでもかけたかのように皴一つなかった青丹用の布が皴だらけなのだ。

 私は家の中でアイロンを探したが、普段家事を怠けている報いでアイロンの場所が分からない。

 妻は既に仕事に出ている。

 私は今年夜学で教え始めたので、妻と生活時間帯がズレているのだ。

 仕方がない。この布で撮影をするしかない。


IMGP5710

 なんじゃこりゃーっ!(ジーパン刑事調で)

 シワシワなのもさることながら、大きさが全く合っていない。

 牡丹が紫色のフ〇ドシを着けているようだ。

 急遽鋏を取り出して大きさを整える。


IMGP5724

 駄目だ、大きさはよくてもやはりシワシワである。

 私は夜帰宅してから妻にアイロンのある場所を聞いた。

 すると、それは「女性部屋」にあるという。

 「女性部屋」というのは私の勝手なネーミングであって家族の他の誰もそんな名前では呼んでいないし、女性専用に設えられた部屋でもない。
 ただ、その部屋では女性たちが髪をブローするので私は誰もいない時でも何となくそこに入りにくいのだ。何せ岳父亡きあと我が家に常駐している男性は私しかいないのである。

 仕方がない。翌日、私は何となく冷たく感じる義母の視線を浴びながら「女性部屋」に入り、青丹用の布にアイロンをかけようとした。

 ところが、やはり普段の家事の怠慢の故、その新式のアイロンの使い方が分からないのである。

 妻は仕事に行って家にいない。

 義母には云いにくい。そもそも「アイロンの使い方を教えてください。」といえば、「何にするの。」と聞かれることは必定である。または「私がかけておくよ」と云われそうである。

 そうするとその紫色の切れ端のことは何と説明するのか。

 「実はリアル花札を作っていて…」と云った段階でその日の夜には「貴女のお婿さん少しおかしいんじやない…」と妻に声が掛かるのは確実である。

 仕方がないので自己流でアイロンをかけようとした瞬間、アイロンからドーッと水が出てきて布を濡らしてしまった。
 皴も十分には伸びていない。

IMGP5785
 PENTAX Q10+Zunow Ellmo 13mm F1.1

 その結果がこれである。
 ない袖は振れないからこの写真で花札を作成する。

牡丹に青丹


   暫定、ということでお許し願いたい。
   なにせ私には「牡丹に蝶」の撮影という大業が残されているのだ。
   大事の前の小事、ということでご了承されたい。(小悪党がよく使う台詞だな。)

リアル写真で花札を作る46-石の上にも3年の牡丹スカ札!-(それでも生きてゆく私321)

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牡丹スカ札リアル河童決定版

 全国のリアル花札ファンの皆様(推定100名)、お待たせしました。
 我が「(株)リアル花札本舗(架空)」が2年振りに放つ新商品、「牡丹スカ札」でございます。

 牡丹スカ札リアル河童

 思えば、植木屋に騙されて添付の写真とは似ても似つかないピンクの牡丹を買わされたのが2年前。
 しかも花が咲いた直後に暴風雨に見舞われ、花の命は僅か1日、グチャグチャになってしまった。
 この時の花札の出来は妻に公表を止められるほどの出来栄えだった。

 その間の経緯は下に詳しい。
 リアル写真で花札を作る41-牡丹札は来年までお待ちください-(それでも生きてゆく私316)

 そのときは「来年までお待ちください」と云っていたのだが、これが2年後になったのは私の怠慢や変節の所為ではない。
 私は大事なことは鶏並みにすぐ忘れてしまうが、こういうショーもないことは何時までも覚えているのである。

 このときのピンクの牡丹はあろうことか花が咲いて2ヶ月ほどで枯れてしまったのである。

 それでも私は諦めずに翌年また植木市に行って牡丹の苗を買った。決して安い値段ではなかった。
 今回も「赤の牡丹である」という触れ込みだったのだが、私がその花の色を確かめることは遂になかった。
 この時買った2本の牡丹は、あろうことか、花も咲かないうちにまたも2ヶ月ほどで枯れてしまったのである。
 「花も咲かない牡丹の苗を売るとは!」とこの時も植木屋に対して憤激したのであるが、よく考えてみれば単に私の栽培の腕が悪いだけかもしれない。

IMGP5514

 そこで私は今年の初春にも懲りずにまた牡丹の苗を買ったのである。
 今回のは物価高騰の折、去年までのものの1.5倍ほどの値段だった。これを2本だから定年退職後給料が激減している私の懐の体調は半死半生になってしまったが、「どうしても全国の皆さんに牡丹札を届けたい」という職業倫理(仕事じゃないけどね)ゆえに私はこれを受け入れたのである。

 こうして我が家にやってきた牡丹の苗であったが、私は今年これを今までとは違う栽培方法で育てることにした。

 どうも今までの牡丹と私の家の庭の土の相性は悪かったようだ。
 そこで私は2本の苗を大型のプランターに植え、買ってきた花栽培用の土で育てたのである。

IMGP5575

 これが功を奏したのか、順調に育った1本の苗が花芽を付けたのだ。
 ただ、もう一本にはその気配もない。もしこの1本だけ買ってきていたら今年も激怒することになったに違いない。

IMGP5707
(PENTAX Q10+Zunow Ellmo 13mm F1.1以下同じ)

 何はともあれ、この花が遂に一昨日位から蕾を綻ばせ、今日開花したのである。

 花札の牡丹のように真っ赤っかではない。

 が、これは想定内のことで、真っ赤な牡丹の苗は売り切れで、「これは少しピンクっぽいけど、まあ『赤』って云っていいよ。」と云われて次善の策として納得づくで買ったものなのだ。

 それにしても綺麗であることはご覧の通りだ。

 早速撮影して花札の作成開始。

牡丹スカ札決定版01

 まず一枚目。
 背景にある空豆の支柱が映り込んでいるのがご愛敬だが、「ゴーグルピッキング(仮名)」なんかを使って消してしまうと「リアル花札」にならないので敢えて残してある。

牡丹スカ札決定版02

 二枚目。
 こちらはうまくアングルを考えたからプランターの縁が写っていないのがプロの仕業である。というかド素人にしては上出来というレベルだが。
 Dマウントレンズの特徴(特長?)で画面上の方が若干回転しているのはこれまたご愛敬である。

 ところで私のことをある程度知っている人は「え、平日の昼間にそんなことできるって、こいつとうとう無職になったのか」と思ったと思うが、違う。
 私は今年夜間で教えることになったのだ。

 「念願」と云っていい。

 したがって、勤務開始は昼過ぎからであるから平日の午前中は自由時間なのだ。
 もっともその分帰るのは遅くなるが。

 ということで、「石の上にも三年(ホントは二年)」のリアル花札本舗が満を持して放つ新製品、しかとご照覧荒れ、じゃなかった、あれ。

 次は「牡丹に青丹」である。





『史記』を読む-項羽本紀13-籍独り心に愧ぢざらんや(新米国語教師の昔取った杵柄104)

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項羽と尹東柱

 垓下を約800騎で脱出した項羽は、漢軍の5000騎に追跡され、20数騎まで数を減らして烏江(うこう)という河の畔までやって来る。
 ここを越えたらもう江東である。かつて会稽の郡守殷通を殺して兵を挙げたところだ。

[書き下し文]
 是(ここ)に於(おい)て項王乃(すなわ)ち東(ひがし)して烏江(うこう)を渡らんと欲す。烏江の亭長(ていちょう)、舟を檥(ぎ)して待つ。項王に謂(い)いて曰く、「江東は小なりと雖(いえど)も、地は方(ほう)千里、衆は数十万人あり、亦(ま)た王たるに足るなり。願わくは大王急に渡れ。今独り臣のみ船有り。漢軍至るも、以て渡る無からん。」項王笑いて曰く、「天の我を亡ぼす、我何ぞ渡るを為(な)さん。且(か)つ籍(せき)、江東の子弟八千人と江を渡りて西(にし)し、今、一人の還るもの無し。縦(たと)い江東の父兄憐みて我を王とすとも、我何の面目か之を見ん。縦(たと)い彼言わずとも、籍独り心に愧(は)じざらんや。」

[現代誤訳]
 ここまで来た項羽は今度は東に行って烏江を渡ろうとした。烏江の亭長(役人の長)は舟を向こう岸に渡す用意をして待っている。項羽に云った。「江東は小さいといっても、面積は千里四方、人口は数十万人いる。項羽様が再び王となるには十分なところです。さあ、急いで河をお渡りなさい。今私だけが船を持っています。漢軍がここに来ても、渡る船を持っていないでしょう。」項羽が笑って云った。「天が私を滅ぼすのだ。私はどうやって渡ることが出来ようか。しかも、私はかつて江東の子弟8000人と江を渡って西に行ったが、今、一人も生還した者はいない。たとえ江東の父兄が私を哀れんで王にしたとしても、私は何の面目があって彼らを見られるのだ。たとえ彼らが何も言わなくても、私はきっと一人で心に恥じるだろう。」

[書き下し文]
 乃(すなわ)ち亭長に謂(い)いて曰く、「吾、公の長者(ちょうじゃ)なるを知る。吾、此(こ)の馬に騎(き)すること五歲、当たる所敵無し。嘗(かつ)て一日千里を行く。之を殺すに忍びず。以(もっ)て公に賜(たま)う。」乃ち騎をして皆馬を下りて歩行せしめ、短兵を持ちて接戦す。

[現代誤訳]
 そして亭長に云った。「私は貴方が金持ちであることを知っている。私はこの馬に乗ること5年で、当たるところ敵なしだった。一日千里を走ったこともある。この馬を殺すのに忍びない。だから貴方に差し上げよう。」そして騎兵たちに皆馬を降りて歩行させ、接近戦を挑んだ。

[書き下し文]
 独り籍の殺す所の漢の軍数百人。項王の身も亦(ま)た十余創(きず)を被(こうむ)る。顧みて漢の騎司馬呂馬童(りょばどう)を見て曰く、「若(なんじ)は吾が故人に非(あら)ずや。」馬童、之に面し、王翳(おうせん)に指して曰く、「此れ項王なり。」項王乃ち曰く、「吾聞く、漢、我が頭(かしら)を千金、邑(ゆう)万戸(ばんこ)に贖(あがな)う、と。吾、若(なんじ)が為(ため)に徳せん。」乃(すなわ)ち自刎(じふん)して死す。

[現代誤訳]
 項羽一人で殺した漢軍の数は数百人。項羽もまた身体に10余りの傷を被った。振り返って漢の騎兵で司馬の呂馬童を見つけて云った。「お前は私の知り合いではないか。」馬童は項羽の顔を見て、指さして王翳に云った。「この人は項羽だ。」項羽が云った。「私は聞いている。劉邦は私の首に千金と万戸の村の懸賞をかけていると。私はお前に得をさせてやろう。」そう云うと自刎して死んだ。

 項羽は知人に得をさせてやるつもりだったのだろうが、この後に修羅場がやって来る。

 項羽の身体を争った漢軍が同士討ちをし、数十人が死んでしまうのだ。

 項羽の身体は五分され、呂馬童も1/5の分け前には与ったようだが。

 こうして一代の英雄項羽の人生は幕を閉じた。

 だが、生き延びた者の物語はまだまだ続く。
 しかもそれは項羽の最期で予兆されたように寝覚めの悪い話である。

 漢の高祖となった劉邦はかつての盟友を次々と排除・粛清していく。
 項羽との争闘は「高祖本紀」半ばまでに過ぎず、残りの大半は建国の功臣である韓信・彭越・黥布(英布)たちの粛清譚である。

 そのやり口は実に陰湿かつ残虐である。

 そしてそれは劉邦の死後実権を握った夫人の呂后に引き継がれていく。

 一つの王朝を建てて存続させていく、というのはそういうことなのだろう。
 
 項羽の未完の人生がなぜか美しく見えてくるのであった。

 「籍独不愧於心乎?」
 31歳で死んだ項羽の自問に、韓国の国民的詩人尹東柱(ユンドンジュ)の「序詩」の一節を思い出す。

 青年らしい言葉である。

 「죽는 날까지 하늘을 우러러 한 점 부끄럼이 없기를(Well肉桂日本誤訳:命尽きる日まで天を仰ぎ
一点の恥なきことを。)」

 そしてサバイバーズギルトも両者に共通している。

※サバイバーズ・ギルト (Survivor's guilt) :戦争や災害、事故、事件、虐待などに遭いながら、奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感のこと。

 「阬」と「烹」さえなければなあ。

 カッコイイ男なのに。

『史記』を読む-項羽本紀12-虞や虞や若を奈何せん(新米国語教師の昔取った杵柄103)

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虞美人

[書き下し文]
 項王則ち夜起(た)ちて、帳中(ちょうちゅう)に飲(いん)す。美人有り、名は虞(ぐ)、常に幸せられて従う。駿馬(しゅんめ)の名は騅(すい)、常に之(これ)に騎(き)す。是(ここ)にて項王乃ち悲歌忼慨(ひかこうがい)し、自ら詩を為(つく)りて曰く、「力は、山を抜き、気は、世を蓋(おお)う。時に利あらず騅逝(ゆ)かず。騅の逝かざるを奈何(いかん)すべき。虞や虞や若(なんじ)を奈何(いかん)せん。」歌うこと数闋(けつ)、美人之(これ)に和す。項王、泣(なみだ)数行下る。左右皆泣き、能(よ)く仰ぎ視るもの莫(な)し。是に於いて項王乃ち馬に上りて騎(き)す。

[現代誤訳]
 項羽は夜中に起きて、テントの中で酒を飲んだ。美人が傍にいた。名は虞という。項羽に常に連れられて従う。駿馬の名は騅という。項羽は常にこの馬に乗った。このとき項羽は悲憤慷慨し、自ら楚辞を作って歌った。「力は山を引き抜くほどで、気力は天下に覆いかぶさるほどだ。それなのに時勢が味方せず、騅も走らない。騅が走らないのをどうしようか。虞よ虞よ、お前をどうしようか。」数回歌うと、虞美人がこれに唱和した。項羽の頬を涙が数行下った。左右の家臣たちも皆泣いて、誰も顔を上げる者がなかった。ここで項羽は馬に乗って跨った。

 『史記』や『漢書』では虞美人はこの部分で初めて登場し、来歴や項羽とのなれそめなど一切分からないし、その後どうなったかも書いていない。

 ただ、『史記』もこれを引用している『楚漢春秋』には虞美人が歌ったとされる返歌が載せられている。

[書き下し文]
 漢兵、已に地を略し、四方は楚の歌声。大王の意気は尽き、賤妾(せんしょう)、いずくんぞ生を聊(やす)んぜん。
[現代誤訳]
 漢の兵が既にこの地を占領し、四方は寝返った楚人の歌声ばかり。大王の意気が尽きてしまったのだから、私ごときがどうして生きていられましょうか、いや、生きていられません。

 この返歌を拠り所として虞美人はこのとき自死したと考える著作が多い。
 現在でも中国人を楽しませている京劇の『覇王別姫』などでも虞美人が自刎して果てる場面は一番の見せどころである。

 さらにこの虞美人自死伝説からひなげし(ポピー)は別名「虞美人草」とも呼ばれる。ひなげしの花は可憐で、かつ赤色が血の色を思わせるからである。

 ちなみに虞美人の詩に出てくる「妾」という漢字には「正妻でない妻」という意味もある。この場合には和訓では「めかけ」と読む。しかし、この場合には女性が自称するときの謙譲語であり、「わらわ」と読む。
 婦人解放運動の先駆けである福田英子には『妾の半生涯』という本があるが、これは『わらわの半生涯』であり、正式な夫人ではない人の苦労話ではないので注意されたい。

 それにしても『項羽本紀』には女っ気がこの部分以外に一切ない。
 虞美人以外には眼も呉れなかったのか、はたまた「云わんでも分かっとるやろ」という奴なのか。

 司馬遷の「有美人名虞。」という極めて簡潔な表現が何だか心地よい。
 項羽の残虐や内紛を洗い流してくれるような清冽さがこのワンショットフレーズにはある。

 劉邦の本妻の呂雉(りょち)などは『史記』に「本紀」まで立ててあるのだ。
 
[書き下し文]
 人と為(な)りは剛毅(ごうき)にして、高祖(こうそ)を佐(たす)けて天下を定む。大臣を誅(ちゅう)する所、呂后(りょこう)の力多し。
[現代誤訳]
 呂雉の人となりは剛毅であり、劉邦を助けて天下を取った。大臣を誅殺するときには呂雉が一枚噛んでいることが多かった。

 劉邦には側室として戚夫人という人があり、この人は漢の二代皇帝恵帝の生母なのだが、呂雉がこの人にしたことは2000年以上経った今でも「胸糞の悪い話」として言い伝えられている。

[書き下し文]
 太后遂に戚夫人の手足を断ち、眼を去り、耳を煇(いぶ)し、瘖藥(いんやく)を飲ま せ、厠中(しちゅう)に居らしめ、命づけて人彘(じんてい)と曰う。

 もしかすると食事しながらこの文章を読んでいる人もいるかもしれないので敢えて現代誤訳は止めて置く。

 項羽と劉邦も対照的だが、虞美人と呂雉もまた対照的である。

 私は「女は黙って男の後ろからついてこい」などという価値観の持ち主ではないが、結婚するのに虞美人と呂雉とどちらを選ぶかと云われれば、天下なんか取らせてくれなくてもいいから虞美人を選ぶだろう。

 私は項羽の物語が彼の数々の欠点にも関わらず人々から愛されてきたのには虞美人の存在が欠かせないと思う。もし項羽の妻が呂雉だったら…と考えただけでも怖い。

『史記』を読む-項羽本紀11-四面楚歌(新米国語教師の昔取った杵柄102)

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劉邦再考

 遂に天下二分の和睦が結ばれた。

 最初の形勢からするならば信じがたいことである。

 和約は鴻溝を境として東を楚、西を漢とするものであった。鴻溝は黄河と淮河を結び南北に走る運河である。

 項羽が約に従って東に帰ろうとしたとき、突如として漢軍が背後から襲い掛かる。
 裏切りを予期していなかった楚軍は総崩れとなって敗走した。

 この間の事情を「項羽本紀」はこう記録している。

[書き下し文]
 張良(ちょうりょう)・陳平(ちんぺい)飯(と)きて曰く、「漢、天下の太半を有(たも)ち、而(しこう)して諸侯皆之(これ)に附(つ)く。楚は兵罷(つか)れ食尽く。此(こ)れ天の楚を亡ぼすの時なり。其(そ)の機に因(よ)りて遂に之(これ)を取るに如(し)かず。今釈(ゆる)して撃たずんば、此(こ)れ所謂(いわゆる)虎を養いて自ら患(うれ)いを遺(のこ)すなり。」漢王之(これ)を聴く。 
[現代誤訳]
 軍師の張良と陳平が劉邦に説いて云った。「漢は天下の大半を保ち、そして諸侯は皆漢の味方です。楚軍は兵が疲弊し食糧が尽きています。これは天が楚を滅ぼそうとしているのです。この機会に従ってこのまま楚を征服してしまうのが最上の策です。もし今これを許して撃たなかったら、それはいわゆる『虎を養って自分から心配事を作る』というものです。」劉邦はこのアドバイスを聞き入れた。

 ところが、漢軍に合流する筈の韓信や彭越が合流して来なかったので、態勢を立て直した項羽はのこのこやってきた漢軍を撃破した。劉邦はまた逃げて陣地を築いて守った。

 韓信は本来項羽側の将だったのを劉備側に移動したのだが、なかなか旗幟を鮮明にすることはなかった。劉邦が後に述懐するように韓信は軍事の天才だった。彼なしでは劉邦は項羽に勝てない。

 劉邦が将来の封土を約束することで韓信は遂にはっきりと劉邦側に附き、ここに項羽の敗勢は決定的となった。

 項羽は漢軍に逐われ、垓下というところに追い詰められた。

 垓下(がいか)に籠る項羽の楚軍は約10万、対する漢軍は韓信(かんしん)の兵力だけで30万である。

 項羽の側近だった周殷(しゅういん)も寝返り、漢軍に合流した。 

[書き下し文]
 項王の軍、垓下(がいか)に壁(へき)す。兵少く食尽く。漢の軍及び諸侯の兵、之を囲むこと数重。夜、漢の軍四面に皆楚歌するを聞き、項王乃(すなわ)ち大いに驚いて曰く、「漢皆已(すで)に楚を得たるか。是(こ)れ何ぞ楚人(そひと)の多きや。」
[現代誤訳]
 項羽の軍は垓下に籠城した。兵は少なく、食糧は尽きた。劉邦の軍および諸侯の兵はこれを幾重にも囲んだ。夜、漢の軍が全方向からみんな楚歌を歌うのを聞いて、項羽は大いに驚いて云った。「劉邦はもう楚の全ての土地を得たのか。なんと楚の人が多いことか。」

 世に云う「四面楚歌」である。

 現在でも使われる故事成語であるが、「周囲は敵だらけ」という意味で使われているから本来の意味とは少し違う。
 項羽の置かれた状況は「周囲は敵に寝返った味方だらけ」というもので、こちらの方が精神的なダメージは大きいのではないだろうか。

 しかしどうも出来過ぎている。

 私は張良あたりが思いついた心理戦ではないかと考える。

 つまり、寝返った楚人が多かったのではなく、たとえば捕虜にした楚人を脅して項羽陣の周囲に配置し、楚の歌を歌わせたのではないだろうか。

 ちなみに最後になって旗幟鮮明にした韓信や彭越は、漢王朝成立後に劉邦から粛清されている。

 劉邦という人は一見寛大に見えるのだが、「鴻門の会」のときに無事に生還したあと自らを項羽に讒言した曹無傷を瞬殺しているように、実は自分に不利益を被らせた相手に対しては執念深く覚えていて復讐している。
 まあそれぐらいないと一つの王朝を創始して存続させることなどできないのかもしれないが。

『史記』を読む-項羽本紀10-願わくは漢王と挑戦し雌雄を決せん(新米国語教師の昔取った杵柄101)

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弩という武器

 その後も楚漢は戦っては項羽が劉邦を走らせるという状態が続いたのだが、次第に争闘が長期に亘った影響が出てくる。
 それを象徴するのが次の場面である。

[書き下し文]
  漢王、則(すな)ち兵を引きて河(かわ)を渡り、復(ま)た成皋(せいこう)を取り、広武(こうぶ)に軍し、敖倉(ごうそう)の食に就く。項王已(すで)に東海(とうかい)を定めて来たり、西のかた漢と俱(とも)に広武を臨みて軍(ぐん)す。相守ること数月。此(こ)の時に当りて、彭越(ほうえつ)数々(たびたび)梁(りょう)の地に反し、楚の糧食(りょうしょく)を絶つ。
[現代誤訳]
 劉邦はすぐに兵を率いて河を渡り、また成皋を奪還し、広武に陣取り、秦の作った穀倉の穀物を食べた。項羽は既に東海を平定して来て、西の方で劉邦軍に対峙して広武の近くに陣取った。お互いに守ること数ヶ月。このとき、彭越が度々梁の地で反乱を起こし、楚軍の糧食を絶った。

 補給能力の差が出てきたのだ。
 後に劉邦が述懐したように、漢軍には蕭何(しょうか)という輜重の天才がいたのである。

 焦った項羽は劉邦の家族を人質に取っていることを使って戦局を動かそうとする。

[書き下し文]
 項王之を患う。高俎(こうそ)を為(つく)り、太公(たいこう)を其(そ)の上に置き、漢王に告げて曰く、「今急に下らずんば、吾、太公を烹(に)ん。」漢王曰く、「吾、項羽と俱(とも)に北面して命を懐王(かいおう)に受け、約(やく)して兄弟と為(な)らん、と曰(い)いき。吾が翁(おう)は即(すなわ)ち若(なんじ)が翁なり。必ず而(なんじ)の翁(おう)を烹(に)んと欲せば、則(すなわ)ち幸に我に一桮(いっぱい)の羹(あつものを分(わか)て。」項王怒りて、之を殺さんと欲す。項伯(こうはく)曰く、「天下の事未だ知るべからず。且(かつ)つ天下を為(おさ)むる者は家を顧みず。之を殺すと雖(いえど)も益(えき)無からん。祇(た)だ禍(わざわい)を益(ま)すのみ。」項王之(これ)に従う。
[現代誤訳]
 項羽は食料が不足してきたことを心配した。そこで高い所にまな板を作り、劉邦の父をその上に置き、劉邦に告げて行った。「今すぐに降伏しないと、私はお前の父親を釜茹でにしてしまうぞ。」劉邦が云った。「私は項羽と共に臣下として命令を懐王から受け、約束して『項羽と兄弟になろう』と云ったのだ。つまり私の父はお前の父なのだ。もしお前の父を釜茹でにするというのならば、できたスープを私にも一杯くれ。」項羽は怒って劉邦の父を殺そうとした。そのとき項伯が云った。「天下のことはまだどうなるか分からない。そして天下を狙う者は家族のことを顧みない。劉邦の父を殺した所で利益は無いだろう。ただ禍を増すだけだ。」項羽はこの言葉に従った。

 人質作戦に失敗した項羽は次は劉邦に一騎打ちを申し込む。

[書き下し文] 
 「天下匈匈(きょうきょう)たること数歳(すうさい)なるは、徒(ただ)に吾(わが)両人(りょうにん)を以(もっ)てなるのみ。願わくは漢王と挑戦し雌雄(しゆう)を決せん。徒(いたず)らに天下の民の父子を苦しむるを為(な)す毋(な)かれ。」漢王笑いて謝して曰く、「吾(われ)は寧(むし)ろ智(ち)を闘わさん。力を闘わすこと能(あた)わず。」
[現代誤訳]
 「数年にわたって天下が乱れ騒いであるのは、専ら私達二人に原因がある。願わくば劉邦殿と一騎打ちをして決着をつけよう。無駄に天下の民の父子を苦しめてはならない。」劉邦が笑って拒絶して云った。「私はむしろ貴方と知恵を闘わせたい。腕力を戦わせることはできない。」

 項羽は壮士に命じて劉邦の陣地に向かわせたが、劉邦の側には楼煩(ろうはん)という弓の名手がいて3回とも射殺してしまう。
 そこで自分が単騎劉邦軍に向かった。
 楼煩はこれを射ようとしたが、項羽がこれを睨みつけると、まともに視ることができず、矢を発することができない。とうとう陣地に逃げ帰ってしまって二度と外に出なかった。

 劉邦が人をやって単騎走ってきた武者が誰なのか確かめさせると、なんと項羽である。

 劉邦は項羽と距離を取って項羽の10の罪を論った。
 ①約束を守らず劉邦を関中の王にしなかったこと。②宋義を殺したこと。③勝手に関中に入ったこと。④咸陽で宮殿を焼いて略奪を行ったこと。⑤降伏した秦王を殺したこと。⑥秦の捕虜を生き埋めにしたこと。⑦冊封が不公平だったこと。⑧公地を私物化したこと。⑨義帝(懐王)を弑逆したこと。⑩悪逆無道であること。

 項羽が怒って石弓(弩:ど)を劉邦に放つと、矢は劉邦に当たって負傷させた。
 劉邦は逃げた。

 項羽が使用した弩というのは冒頭の絵のような武器で、項羽のような剛力の兵士が用いる弩は700~800mの最大射程があったというから凄い。

 私の父が担がされた旧日本陸軍の九九式最大射程が3400mである。こちらは近代兵器だから弩の4倍くらい射程があっても別に驚くべきではない。

 弩はまだ火薬が発明される前の武器としては最強であろう。

 弩は怒(ど)と同音である。
 項羽のように怒って放つには相応しい武器だ。

 なんだか「ド!」という音が聞こえてきそうだ。(どこかの量販店みたいだが。)

 項羽と劉邦の間にどれくらいの距離があったかは「項羽本紀」には記されていないが、用心深い劉邦のことだから項羽がその気になってもすぐには迫って来られないだけの距離は空けていたに違いない。

 それでも急所には命中しないまでも怪我をさせたのだから相当の腕前である。

 弩は楚の琴氏が発明したという伝説があるくらいだから、楚の人にとっては自家薬籠中の武器だったのかもしれない。

 この頃から項羽が直接率いていない楚軍はしばしば漢軍に大敗するようになる。項羽の側近である龍且(りゅうじょ)の戦死はその象徴である。

 原因はこの部分にあるだろう。

[書き下し文]
 是(こ)の時、漢は兵盛んに食多し。項王は兵罷(つか)れて食絶(た)ゆ。
[現代誤訳]
 このとき、漢軍は兵の元気がよくて食糧が多かった。楚軍は兵が疲弊していて食料が途絶していた。 

『史記』を読む-項羽本紀9-願わくは骸骨を賜いて卒伍に帰らん(新米国語教師の昔取った杵柄100)

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我が子を蹴り落とす

 遂に反項羽の烽火を上げた劉邦だったが、これを項羽は一蹴する。これぞ鎧袖一触である。

[書き下し文]
 項王乃(すなわ)ち西のかた粛(しゅく)より晨(あした)に漢軍を撃ちて東(ひがし)し、彭城(ほうじょう)に至り、日中(にっちゅう)に大いに漢軍を破る。漢軍皆走り、相随(あいしたが)いて穀(こく)・泗水(しすい)に入る。漢の卒十余万人を殺す。漢の卒皆南のかた山に走る。楚又追い撃ち、霊壁(れいへき)の東睢水(すいすい)の上に至る。漢軍却(しりぞ)き、楚の擠(おしおと)す所と為(な)る。多く殺す。漢の卒十余万人皆睢水に入る。睢水之(これ)が為(ため)に流れず。
[現代誤訳]
 項羽はすぐに西方の粛から早朝に漢軍を攻撃しながら東に進み、彭城に着き、日中大いに漢軍を撃破した。漢軍は全軍退却し、先を争って穀・泗水に入った。楚軍は漢軍の十数万人を殺した。漢軍の兵士たちは更に南方の山に逃げた。楚軍はまた追撃し、霊壁の東の淮河(わいが)の支流濉河(すいが)の畔に着いた。漢軍は追い詰められ、濉河に押し落とされた。漢兵を多く殺した。漢の兵卒十数万人が濉河で溺死した。濉河は漢軍の死体のために流れなくなった。

 この記述の前半部分は「彭城の戦い」、後半部分は「睢水の戦い」と呼ばれる。
 彭城を占領して財宝を奪い酒色に耽っていた漢軍は各地から寄せ集めた諸侯の兵も併せて56万人。対する項羽の楚軍は僅か3万人なのだが、戦意も戦力もまるで違ったようだ。

 劉邦は馬車で必死に逃げた。
 劉邦は馬車がなかなか進まないので焦り、子供たちを車から蹴り落とす。夏候嬰(かこうえい)という家臣がこれに気付いて子供たちを拾って追いつき、また車に乗る。また突き落とす。子を突き落とすこと3回に及んだという。
 劉邦は一見温厚な人柄だが、身に危険が迫ると身内でも容赦ない。
 鴻門の会で危機から逃れた後に真っ先にしたことが自身を項羽に讒言した曹無傷を誅殺することだったという話は既にした。
 『史記』を読む-項羽本紀7-鴻門の会(新米国語教師の昔取った杵柄98)

 項羽は劉邦の故郷沛(はい)まで入り、劉邦の妻と父親を人質にする。

 本拠地を占領された劉邦は栄陽に新たに本拠地を築くが、ここへの食糧輸送ルートを項羽が攻めて寸断したため栄陽では食糧不足に陥った。

 劉邦は項羽に和を請い、領土を割譲して許してもらおうとする。
 
 この和睦に反対したのが「亜父」(項羽が父とも仰ぐ人)范増(はんぞう)であった。

[書き下し文]
 「漢は与(くみ)し易(やす)きのみ。今釈(ゆる)して取らずんば、後必ず之(これ)を悔(く)いん。」
[現代誤訳]
 「今なら漢をたやすく滅ぼせるだろう。今これを許して征服しなければ、後で必ずこれを後悔するだろう。」

 項羽ももっともだと思って范増と共に栄陽を包囲した。

 追い詰められた劉邦は陳平(ちんぺい)による「離間(りかん)の計」を用いる。離間の計とはAI君によれば「敵対する関係を内部から崩して、漁夫の利を得る戦術」である。

 この場合に標的とされたのは項羽と范増の間柄であった。

 鴻門の会のときの范増の発言を思い出してほしい。
 「唉(ああ)、豎子(じゅし)与(とも)に謀(はか)るに足らず(現代誤訳:ああ、この若造とはやっていられない)」

 いかな父に亜(つ)ぐ存在とはいえ、自ら恃むところの大きい項羽にとって范増は煙たい存在だったのではなかろうか。

 具体的にはこんな離間の計が用いられた。

[書き下し文]
 項王の使者来たる。太牢の具を為し、挙げて之に進めんと欲す。使者を見、詳(いつ)わりて驚愕して曰く、「吾は亜父(あふ)の使者と以為(おも)えり、乃(すなわ)ち反(かえ)って項王の使者なり。」更に持ち去り、悪食(あくじき)を以(もっ)て項王の使者に食らわしむ。使者帰りて項王に報ず。
[現代誤訳]
 劉邦のところに項羽の使者が来た。劉邦側では牛、羊、豚の3種類の肉を備えた豪華な食事が用意され、これを捧げ持って項羽の使者に勧めようとした。ところが、劉邦側の者が使者を見ていつわって驚愕して云った。「私は貴方が范増様の使者だと思っていたのだ。なんだ、よく見たら項羽の使者じゃないか。」そして豪華な食事を下げ、粗末な食事を持ってきて項羽の使者に食べさせた。使者は帰って項羽に報告した。

 食い物の恨みは恐ろしい。使者の報告は必要以上に大袈裟なものだったに違いない。

[書き下し文]
 項王乃(すなわ)ち范増が漢と私有るを疑い、稍(やや)く之が権を奪う。范増大いに怒りて曰く、「天下の事大いに定まれり。君王自ら之(これ)を為(な)せ。願わくは骸骨(がいこつ)を賜(たま)いて卒伍(そつご)に帰らん。」項王之(これ)を許す。行きて未だ彭城(ほうじょう)に至らずして、疽(そ)、背に発して死す。
[現代誤訳]
 項羽は范増が漢と内通しているのではないかと疑い、だんだん范増の権限を奪った。范増は大いに怒って云った。「天下の大勢はもう定まった。項羽はん、勝手にやりなはれ。我が身はすべて項羽はんに捧げましたさかい、骸骨だけでも返してもらいまひょか。それ持ってただのじいさまにならせてもらいますわ。」項羽は范増の辞職を許した。范増は出て行ったが、まだ彭城にも着かないうちに背中に壊疽ができて死んでしまった。

  後に劉邦は項羽と自分を対比させてこう云っている。(『史記』「高祖本紀」)。

[書き下し文]
 夫れ籌策(ちゅうさく)を帷帳(いちょう)の中に運(めぐ)らし、勝ちを千里の外に決するは、吾、子房(しぼう)に如(し)かず。国家を鎮(しず)め、百姓を撫(な)で、餽馕(きじょう)を給(きゅう)し、糧道(りょうどう)を絶たざるは、吾、蕭何(しょうか)に如(し)かず。百万の軍を連ね、戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取るは、吾、韓信(かんしん)に如(し)かず。此(こ)の三者は、皆人傑(じんけつ)なり。吾能(よ)く之(これ)を用う。此(こ)れ吾の天下を取りし所以(ゆえん)なり。項羽は一の范増有れども用うること能わず。此(こ)れ其(そ)の我の擒(とりこ)と為(な)りし所以(ゆえん)なり。
[現代誤訳]
 そもそも戦略を陣営の中で策定し、勝利を遠い所から決定することに関しては、私は張良(ちょうりょう)には及ばない。国家を安定させ、民衆を労わり、食糧を補給し、補給路を途切れさせないことに関しては、私は蕭何に及ばない。百万の軍を率い、戦えば必ず勝ち、城を攻めれば必ず陥落させることに関しては、私は韓信に及ばない。この三人はみな天才である。ところが、私はこの三人をうまく用いた。これが私が天下を取った理由である。項羽は一人の范増さえちゃんと用いることが出来なかった。これが私にしてやられた理由なのだ。

 范増が去り、側近たちも疎んじられ始めた。そして龍且(りゅうしょ)敗死、鍾離眜(しょうりばつ)・周殷(しゅういん)離反。離間の計が項羽の陣営を深く蝕み、瓦解させた。

 そして誰もいなくなった。

『史記』を読む-項羽本紀8-楚人は沐猴にして冠するのみ(新米国語教師の昔取った杵柄99)

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人の祖先は猿

 劉邦のいなくなった咸陽に項羽が入った。 

 劉邦は咸陽入りしたときにその煌びやかな財宝に眼が眩んで略奪しようとしたのだが、部下の張良や樊噲に諫められて泣く泣くこれを封印したのだ。

 しかし、項羽にはそうした部下がいなかった。
 何故いなかったか、それを示すのが次の部分である。

[書き下し文]
 居ること数日、項羽、兵を引きて西(にし)し、咸陽(かんよう)を屠(ほふ)り、秦の降王子嬰(えい)を殺し、秦の宮室(きゅうしつ)を焼く。火三月滅(き)えず。其(そ)の貨宝(かほう)婦女を収めて東(ひがし)す。人或(ある)いは項王に説きて曰く、「関中(かんちゅう)は山河に阻(はば)まれ四塞(しさい)なり、地は肥饒(ひじょう)なり。都して以て霸(は)たるべし。」項王、秦の宮室の皆以(もっ)て焼けて残破(ざんぱ)せるを見、また心に懐思(かいし)して、東に帰らんと欲(ほっ)す。曰く、「富貴(ふうき)にして故郷に帰らざるは、繡(にしき)を衣(き)て夜行くが如(ごと)し。誰(たれ)か之(これ)を知る者ぞ。」飯者(はんしゃ)曰く、「人は言う、楚人は沐猴(もっこう)にして冠(かんむり)するのみ、と。果して然(しか)り。」項王之を聞き、飯者を烹(に)る。

[現代誤訳]
 鴻門(こうもん)に数日いてから、項羽は兵を率いて西に向かい、秦都咸陽を葬り去り、秦の降伏した王子衛嬰を殺し、秦の始皇帝が建設した阿房宮(あぼうきゅう)を焼いた。火は三月消えなかったという。秦の貨幣や宝物、婦女子を略奪して東に向かった。このときある論客が項羽を説得して云った。「関中は山河に阻まれて四方を囲まれた天然の要害である。土地は肥えていて耕作に向く。関中に都を置いて天下に覇業を広めるべきである。」項羽は秦の王室が全部焼けて残骸になっているのを見ていたし、また、里心が起って、東の故郷楚に帰りたいと思った。項羽が云った。「富貴となって故郷に帰らないのは、綺麗な着物をきて闇夜を行くようなものだ。誰が私の気持ちを分かろうか、いや、分かりはしない。」論客が云った。「人は云う。楚人は猿が冠をかぶっているようなものだ。と。本当だな。」項羽はこれを伝え聞いて、その論客を釜茹での刑にしてしまった。

 「阬(あな)す」の次は「烹(に)る」か。 
 これでもかという残虐行為である。

 人心が離れたのも当然であろう。

 更に劉邦に対しては当時は辺境と目されていた巴・蜀の漢地の王とし、「ここも関中だから」と言い訳をした。そして周囲に章邯ら例の秦の降将を配して監視させた。

 残虐行為よりも諸将の心を離れさせたのはむしろこの論功行賞だったかもしれない。
 人は実利に弱い。
 功績に見合ったものを貰えなかったと思った者たちの不満が蓄積していった。

 あちこちで反乱が起こる中、遂に劉邦が挙兵する。

 きっかけは懐王から義帝に格上げされていた例の元羊飼いを邪魔になって殺したことだった。

 傀儡とはいえ義帝は楚の皇帝であるから、下剋上である。
 項羽にとっては会稽郡守殷通、上将軍宋義に続く3度目の下剋上であるが、今度は弑逆(しいぎゃく)であるからライバルの劉邦にとっては格好の大義名分である。

 こちらは『史記』「高祖本紀」にある檄文である。

[書き下し文]
 「天下共に義帝(ぎてい)を立て、北面(ほくめん)して之(これ)に事(つか)えたり。今項羽、義帝を江南に放殺(ほうさつ)せり。大逆無道(たいぎゃくむどう)なり。寡人(かじん)親(みずか)ら為(ため)に喪(も)を発す。諸侯皆縞素(こうそ)せよ。悉(ことごと)く関内(かんだい)の兵を発し、三河(さんが)(集解:韋昭曰く、河南・河東・河内なり)の士を収め、南のかた江漢(こうかん)に浮かびて以(もっ)て下(くだ)り、願わくは諸侯王に従いて、楚の義帝を殺せし者を撃(う)たん。」
[現代誤訳]
 「天下の人々は共同して義帝を擁立し、臣下としてこれに仕えたのである。今項羽は義帝を江南に追放して殺した。大逆無道である。私は自ら義帝のために喪に服する。諸侯らも皆喪服を着てほしい。関内の兵を全て発し、河南・河東・河内の三河の武士を集め、南の江漢を船で下り、願わくば諸侯王に従って、楚の義帝を弑殺したものを討伐しよう。」

 チャンス到来、という気持ちが満ち溢れている。

 項羽は三度の下剋上を行ったくらいだから、「勝った方が正義だ」と基本的には思っていたのだろうが、一方で「鴻門の会」で見せたようにどこかに大義名分を好む気持ちもあるから、「逆賊」というスティグマはかなり応えた筈である。

 いずれにせよ、項羽と劉邦の戦いはこうして項羽の「受け身」というシチュエーションによって始まったのである。

『史記』を読む-項羽本紀7-鴻門の会(新米国語教師の昔取った杵柄98)

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鴻門の会

 自分が先に秦都咸陽に入ったことで項羽が激怒していることを知った劉邦は、側近の張良に云って旧友で項羽の叔父の項伯にとりなしてもらい、項羽と面会する。後に「鴻門(こうもん)の会」と呼ばれる。

[書き下し文]
 沛公(はいこう)、旦日(たんじつ)、百余騎を従え来たりて項王に見(まみ)ゆ。鴻門(こうもん)に至り、謝して曰く、「臣と将軍、力を戮(あわ)せて秦を攻め、将軍は河北(かほく)に戦い、臣は河南(かなん)に戦えり。然(しか)れども自(みずか)ら意(おも)わざりき、能(よ)く先づ関(かん)に入りて秦を破り、復(ま)た将軍に此(ここ)に見(まみ)ゆるを得んとは。今は、小人(しょうじん)の言有りて、将軍をして臣と却(きゃく)有らしむ。」項王曰く、「此れ沛公の左司馬(さしば)曹無傷(そうむしょう)、之(これ)を言えり。然(しか)らずんば、籍(せき)何を以って此(ここ)に至らん。」項王、即日因(よ)りて沛公を留(とど)めて与(とも)に飲(いん)す。項王・項伯(こうはく)は東に向かって坐(ざ)し、亜父(あふ)は南に向かって坐す。亜父は、范増(はんぞう)なり。沛公は北に向かって坐し、張良(ちょうりょう)は西に向かって侍(じ)す。范増数々(たびたび)項王に目(めくばせ)し、佩(お)ぶる所の玉珪(ぎょくけい)を挙げて以って之に示す者三たび。項王黙然として応(こた)えず。

[現代誤訳]
 劉邦は翌朝、百騎余りを引き連れて項羽に面会した。鴻門という所に来て、謝罪して云った。「私と項羽将軍は力を合わせて秦を攻めた。将軍は河北で戦い、私は河南で戦った。ところが自分でも意外なことに、幸運にも先に函谷関を入って秦軍を破り、またこうして項羽将軍に面会することが出来るとは。今はつまらない人間の言葉によって、将軍は私を遠ざけておられますが。」項羽が云った。「それは貴方の左司馬である曹無傷がそう云ったのだ。そうでなければ、私がどうしてここまでのことをしようか。」項羽はそのまま劉邦を引き留めてともに酒を飲んだ。項羽と項伯は東に向かって座り、項羽が父と仰ぐ人(亜父)は南に向かって座った。亜父は范増である。劉邦は北に向かって座り、張良は西に向かって控えた。范増が度々項羽に目配せをし、身に帯びた玉珪を持ち上げて項羽に示すこと三度。これは「劉邦を殺せ」という合図である。しかし、項羽は黙ったまま応えない。

 范増は項羽の軍師で、項羽が父とも思う「亜父」である。「亜」という漢字は「つぐ」と読み、「その次の」くらいの意味である。「亜熱帯」や「亜急性期」などという言葉を思い浮かべてもらうとそのニュアンスが分かるだろう。
 范増は「鴻門の会」の事前、項羽に「あれほど財宝や酒色を好んだ劉邦が関中に入った途端にそれらに眼も呉れなくなったのはおかしい、きっと天下を狙う野心があるのだろう」と、殺すことを勧めていたのだ。
 だが、項羽は范増のアドバイスに耳を貸さない。
 20万人を生き埋めにしたくらいだから劉邦とその家来を殺すくらい訳がなかったはずなのだが。
 この後は単に残忍なだけではない項羽の人となりが何となく分かって来る部分である。

[書き下し文]
 范増起ちて、出でて項荘(こうそう)を召して、謂(い)いて曰く、「君王、人と為(な)り忍びず。若(なんじ)入りて前みて寿(じゅ)を為(な)し、寿(じゅ)し畢(おわ)りて、請(こ)いて剣を以て舞い、因(よ)りて沛公を坐に撃ちて、之を殺せ。不(しから)ずんば、若(なんじ)の属(ぞく)皆且(まさ)に虜(とりこ)にせられんとす。」荘則(すなわ)ち入りて寿を為す。寿し畢りて、曰く、「君王、沛公と飲す。軍中以て楽しみを為す無し。請う剣を以って舞わん。」項王曰く、「諾(よし)。」項荘、剣を抜きて起ちて舞う。項伯も亦(ま)た剣を抜きて起ちて舞い、常に身を以て沛公を翼蔽(よくへい)す。荘、撃つを得ず。

[現代誤訳]
 范増は立ち上がって陣門を出ると項羽の従弟の項荘を呼び、云った。「項羽は慈悲深い人柄のために劉邦を殺すに忍びないようだ。お前は中に入って祝辞を云い、云い終わったら願い出て剣舞を踊り、座っている劉邦を斬ってこれを殺せ。そうでなければ、お前の一族はみんな劉邦の捕虜になってしまうぞ。」項荘はすぐに入って祝辞を云った。云い終わって云った。「我が君王が劉邦様と酒を飲んでいるが、なにせ軍中なので女人の踊りのような座興がない。私が剣舞を踊ることをお許しください。」項羽が云った。「そうせよ。」項荘が剣を抜いて立って剣舞を踊った。危険を感じた項伯もまた剣を抜いて立って舞い、常に自分の身体を使って劉邦に覆いかぶさるようにして庇った。項荘は劉邦に斬りつけることができなかった。

 しびれを切らした范増は一族の項荘を使って剣舞にかこつけて劉邦を暗殺しようとするが、項伯の機転によりうまくいかない。

 項伯は項一族なのになぜ劉邦の味方をするのか、この部分だけだと謎だが、実は劉邦が張良を伝って項伯により項羽にとりなしてもらう部分にその間の事情が書いてある。

 項伯は以前人を殺したことがあり、張良の働きによって死罪を免れたことがあったのだ。
 「人には良くしておくもんだ」という亡き岳父の言葉を思い出すエピソードである。

[書き下し文]
 是(ここ)に於(おい)て張良、軍門に至り、樊噲(はんかい)を見る。樊噲曰く、「今日の事は何如(いかん)。」良曰く、「甚(はなは)だ急なり。今は、項荘、剣を抜きて舞う。その意は常に沛公に在(あ)るなり。」噲(かい)曰く、「此(こ)れ迫れり。臣請う、入りて之(これ)と命を同じうせん。」 噲即ち剣を帯び盾(たて)を擁(よう)して軍門に入る。交戟(こうげき)の衛士、止めて内(い)れざらんと欲す。樊噲、その盾を側(そばだ)てて以って撞(つ)く。衛士、地に仆(たお)る。

[現代誤訳]
 このとき張良は軍門に行き、樊噲を見た。樊噲が云った。「今どうなっている。」張良が云った。「危急のときだ。今は、項荘が剣を抜いて舞っている。殺意が常に劉邦様に向けられている。」「それはまずいな。頼む、私に陣の中に入れさせてくれ。劉邦様と運命を共にしよう。」樊噲はすぐに剣を身に着けると盾を持って軍門に入った。護衛士が矛を交叉させて止めて入れさせないようにした。樊噲は持っていた盾を持ち上げて護衛士を突いた。護衛士は地面に倒れた。

 それにしても危ない状況である。危険を察知した張良は外で待機している劉邦の家臣団の所に行き、樊噲と話をする。
 樊噲は元は犬の屠殺業をしていたが、沛県に生まれたという縁だけで劉邦の陣営に加わって頭角を現し、後には侯にまで出世した人物である。この当時はちょうど売り出し中の剛勇の士というところだろうか。
 樊噲は護衛の兵士を突き倒して陣中に乱入する。

[書き下し文]
 噲遂に入り、帷(とばり)を披(ひら)き西に向かって立ち、目を瞋(いか)らして項王を視る。頭髪上り指し、目眥(もくせい)尽(ことごと)く裂く。項王、剣を按(あん)じて跽(き)して曰く、「客(きゃく)は何為(いかな)る者ぞ。」張良曰く、「沛公の参乗(さんじょう)樊噲なる者なり。」項王曰く、「壮士なり、之(これ)に卮酒(ししゅ)を賜(たま)え。」則(すなわ)ち斗卮酒(とししゅ)を与う。噲拝謝(はいしゃ)して起 ち、立ちて之(これ)を飲む。項王曰く、「之(これ)に彘肩(ていけん)を賜え。」則(すなわ)ち一つの生彘肩を与う。樊噲、其の盾を地に覆(くつがえ)し,彘肩を上に加え、剣を抜きて切りて之を啗(くら)う。項王曰く、「壮士なり。能(よ)く復(ま)た飲まんか。」

[現代誤訳]
 樊噲は遂に陣内に入り、幕を開いて項羽の座っている西に向かって立ち、眼を怒らせて項羽を見た。頭髪は天を衝き、眼は一杯に開かれて眦(まなじり)が裂けんばかりであった。項羽は剣の柄を上から抑えて片膝立ちして云った。「客人は如何なる人間か。」張良が云った。「劉邦様の側近の護衛で樊噲と云います。」項羽が云った。「壮士である。彼に酒盃を給え。」そこで一斗の酒盃を与えた。樊噲は一礼して立ち、立ったままこれを飲んだ。項羽が云った。「彼に豚の肩肉を給え。」そこで一塊の生の豚肩肉を与え。樊噲は持っていた盾を裏返しにして地面に置き、豚の肩肉をその上に置き、剣を抜いて切って食べた。項羽が云った。「壮士である。もう一杯飲めるか。」

 この部分に項羽の弱点が現れているといっていいだろう。

 項羽は「英雄」や「壮士」が好きなのだ。それと男の友情も。

 作戦を共にした項羽は劉邦が英雄の器であることを知っていたし、壮士たちが忠義というよりも友情を以て劉邦を救おうとしていることも感じ取っていたのだろう。

 だから父と仰ぐ范増がいくら促しても劉邦を殺さなかった(殺せなかった?)し、乱入してきた樊噲もまた殺すことをせずに逆に酒を賜わったのだと私は考える。

[書き下し文]
 樊噲曰く、「臣は死すら 且(か)つ避けず。卮酒安(いず)くんぞ辞するに足らん。夫れ秦王は、虎狼(ころう)の心有り。 人を殺すこと挙(あ)ぐること能(あた)わざるが如(ごと)く、人を刑すること勝(た)えざるを恐るるが如し。天下皆之に叛(そむ)けり。懐王(かいおう)、諸将と約して曰く、『先づ秦を破りて咸陽に入る者は之に王とせん』。今沛公先づ秦を破り咸陽に入る。豪毛(ごうもう)も敢えて近づく所有らず。宮室(きゅうしつ)を封閉(ふうへい)し、軍を霸上(はじょう)に還(かえ)して、以って大王の来たるを待てり。故に将を遣(や)り関(かん)を守れるは、他盗(たとう)の出入りと非常とに備えしなり。労苦して功高きこと此(か)くの如し。未だ封侯(ほうこう)の賞有らず。而るに細飯(さいはん)を聴き、有功の人を誅(ちゅう)せんと欲す。此(こ)れ亡秦(ぼうしん)の続(ぞく)なるのみ。窃(ひそ)かに大王の為に取らざるなり。」項王未だ以って応(こた)うる有らず。曰く、「坐(ざ)せ。」樊噲、 良に従いて坐す。

[現代誤訳]
 樊噲が云った。「私は死ぬことすら怖くありません。酒盃くらいどうして断る必要がありましょうか。そもそも秦王は獣のような心を持っていました。人を殺したことは数えられないほどであって、人の処刑を命令することは執行が間に合わないと心配されるほどでした。だから天下は皆これに背いたのです。楚の懐王は諸将と約束して云いました。『最初に秦を破って咸陽に入るものはその地の王としよう。』と。今我が殿劉邦様が秦を破って咸陽に入りました。毛筋一本程も豪華な所には近寄りませんでした。王宮を封鎖し、軍を咸陽の外の覇上まで後戻りさせて、そうして項羽様が来るのを待っていたのです。したがって将軍を派遣して函谷関を守っていたのは、他の盗賊の出入りを防ぎ非常に備えるためだったのです。苦労ばかりが多くて功績が高いのはこのようなことです。にも関わらず未だに領地を与えるという褒章もありません。それなのに小人の讒言を信じて有功の人を誅殺しようとするのは、秦王の残忍な道をなぞるようなものです。恐れながら項羽様のために私は賛成できません。項羽は未だに何も答えず、ただ「座れ。」と云った。樊噲は張良の隣に座った。

 樊噲の主君劉邦に対する理路整然たる弁護を読んでみると、この人もまたただの単純馬鹿ではないことが分かる。
 ここまでの項羽の経歴を見てみると、項羽一人は覇道の英雄だが、周囲にこうした知性と勇気を兼ね備えた人を持っていないことに気付く。
 ここが項羽と劉邦の運命を分けて行ったのだろう。

[書き下し文]
 坐すこと須臾(しゅゆ)にして、沛公起ちて廁(かわや)に如(ゆ)く。因りて樊噲を召きて出づ。沛公已(すで)に出づ。項王、都尉陳平(といちんぺい)をして沛公を召さしむ。沛公曰く、「今は出づるに、未だ辞せざるなり。之を為すこと奈何(いかん)せん。」樊噲曰く、「大行(たいこう)は細謹(さいきん)を顧みず、大礼(たいれい)は小譲(しょうじょうを辞せず。今の如きは、人方(まさ)に刀俎(とうそ)為(な)り。我は魚肉為(な)り。何ぞ辞するを為(な)さん。」是(これ)に於て遂に去る。
[現代誤訳]
 樊噲が座るとすぐ、劉邦は立って便所に行った。そのときに樊噲を呼んで一緒に出た。劉邦は既に陣外に出た。項羽は都尉の陳平に劉邦を呼ばせた。劉邦が云った。「もう陣外に出てしまったのに、別れの挨拶をしていない。どうしたらよかろうか。」樊噲が云った。「殿、大きなことを為すには小さな慎みや謙譲にこだわってはなりません。今の情況は、項羽はまさに包丁とまな板です。私達は今から料理されようとしている魚や肉です。どうして挨拶などできましょうぞ。」そうして遂に安全圏に去った。

 劉邦は項羽と范増に献上しようとして用意していた玉壁と玉でできた柄杓を張良に託していた。置き土産である。

[書き下し文]

 項王曰く、「沛公安(いず)くにか在(あ)る。」良曰く、「大王之(これ)を督過(とくか)するに意有りと聞き、身を騎(き)して独り去りぬ。已(すで)に軍に至れり。」項王則ち璧(へき)を受け、之を坐上に置く。亜父、玉斗(ぎょくと)を受けて、之を地に置き、剣を抜きて撞(つ)きて之を破りて曰く、「唉(ああ)。豎子(じゅし)は与(とも)に謀(はか)るに足らず。項王の天下を奪わん者は、必ず沛公なり。吾が属(ぞく)今之(これ)が虜(とりこ)と為(な)らん。」
 沛公軍に至り、立ちどころに曹無傷(そうむしょう)を誅殺(ちゅうさつ)す。

[現代誤訳]
 項羽が云った。「劉邦公はどこに行ったのか。」張良が云った。「項羽様が自分の過失を叱責する意思があると聞いて、馬に乗って一人で帰りました。もう自分の陣営に着いたことでしょう。項羽はそこで献上された玉璧を受け取り、膝の上に置いた。范増は自分に献上された玉製の柄杓を受け取ると、地面に置き、剣を抜いて叩き壊して云った。「嗚呼、こんな若造とはやっていられない。項羽の天下を奪うのはきっと劉邦だろう。私達の一族は今に劉邦の虜となるに違いない。」
 劉邦は自軍に着くや否や、曹無傷を誅殺した。

 「唉、豎子不足与謀。」という范増の言葉はもしかすると項羽の聞いている前で吐かれたものではないかもしれない。あまりにも失礼だからだ。

 それより劉邦が自軍に帰るや讒言者を瞬殺しているのに不謹慎にも笑ってしまった。

 さすがの人間ができた劉邦もこれは腹に据えかねたのだろう。
 何せ命の危険があったのだから。

『史記』を読む-項羽本紀6-諸侯皆焉に属す(新米国語教師の昔取った杵柄97)

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どっちもどっち

 楚軍の頂点に立った項羽は2人の将軍を鉅鹿の救援に向かわせるが、名将章邯率いる秦軍は強く、苦戦する。
 援軍を請われた項羽は自ら発つ。

[書き下し文]
 項羽すなわち悉(ことごと)く兵を引きて河を渡り、皆舟を沈め、釜甑(こしきがま)を破り、廬舎(ろしゃ)を焼き、三日の糧(かて)を持ち、以て士卒に死を必して、一の還心(かんしん)無きを示す。ここに於て、至れば則ち王離(おうり)を囲み、秦の軍と遇い、九戦して、その甬道(ようどう)を絶ち、大いに之を破る。蘇角(そかく)を殺し、王離を虜にす。渉間(しょうかん)、楚に降らず、自ら焼殺す。

[現代誤訳]
 項羽は楚の全軍を率いて河を渡り、渡し船は全て沈め、調理器具を壊し、テントを焼き、食糧を三日分だけ持ち、そのことで兵士たちに死を決して一切生還を期せずという覚悟を示した。そして、戦場に着くとすぐに秦の王離将軍の軍を包囲し、秦軍と遭遇すると九度戦って、その進路を断ち、大いにこれを破った。蘇角将軍を殺し、王離将軍を捕虜にした。渉間将軍は楚軍に降伏せず、焼身自殺した。

 このとき項羽の取った戦術は漢の武将韓信の「背水の陣」を思わせる。自らも含めた自軍の退路を断つことによる決死の覚悟である。
 これが成功し、項羽は秦軍に大勝して主な将軍を殺したり捕えたりする。

[書き下し文]
 この時に当たりて、楚の兵、諸侯に冠たり。諸侯の軍、鉅鹿の下を救う者十余壁、敢えて兵を縦(はな)つもの莫(な)し。楚、秦を撃つに及び、諸将皆壁上(へきじょう)従(よ)り観(み)る。楚の戦士、一以て十に当たらざるは無し。楚の兵の呼声(こせい)、天を動かす。諸侯の軍、人々惴恐(ずいきょう)せざる無し。ここに於(おい)て已(すで)に秦軍を破り、項羽、諸侯の将を召し見る。轅門(えんもん)に入るや、膝行(しっこう)して前(すす)まざるは無く、敢(あ)えて仰(あお)ぎ視るもの莫(な)し。項羽、ここに由(よ)り始めて諸侯の上将軍と為(な)り、諸侯皆焉(ここ)に属す。

[現代誤訳]
 この戦いの際、楚の兵は諸侯の兵の頂点に立つものだった。諸侯の軍は急増の砦を作ってそこに籠り、敢えて秦軍に向かっていくものはなかった。楚が秦を攻撃しはじめると、諸将は砦の上からそれを観た。楚の戦士の中で1人をもって10人に当たらない者がなかった。楚の兵の発する声は天をも動かすほどだった。諸侯の軍の人々で恐れおののかない者がなかった。遂に楚軍が秦軍を破り、項羽は諸侯の将軍を招いた。陣門に入るやいなや跪いてにじり進まない者はなく、項羽の顔をまともに仰ぎ見る者もいなかった。項羽はこのとき初めて本当の意味で諸侯の上将軍になり、諸侯は皆項羽の下に従属した。

 退路を断った楚兵は強かった。
 この戦に「洞ヶ峠」を決め込んでいた諸将はその一騎当千の有様を目の当たりにしてすっかり萎縮してしまったことが「無不膝行而前」というフレーズによく現れている。

 項羽は降伏した章邯と二十万の秦兵を先頭にして秦に迫る。

 ところが、秦の捕虜に不穏な空気が漂う。

[書き下し文]
 秦の吏卒(りそつ)多く窃(ひそ)かに言いて曰く、「章(しょう)将軍等(ら)、吾が属(ぞく)に詐(はか)りて諸侯に降(くだ)る。今能(よ)く関(かん)に入り秦を敗(やぶ)らば、大いに善(よ)し、即(も)し能(あた)わずんば、諸侯吾が属(ぞく)を虜(とりこ)にして東せん。秦必ず尽(ことごと)く吾が父母妻子を誅(ちゅう)せん。」諸侯微(ひそか)にその計を聞き、以って項羽に告ぐ。項羽乃ち黥布(げいふ)・蒲(ほ)将軍を召して計りて曰く、「秦の吏卒尚(な)お衆(おお)く、その心、服(ふく)せず。関中に至りて聴かずんば、事必ず危うからん。之(これ)を撃殺して、独(ひと)り章邯(しょうかん)・長史欣・都尉翳(といえい)と与(とも)に秦に入らんには如(し)かず。」ここに於(おい)て楚の軍、夜撃ちて秦卒二十余万人を新安城(しんあんじょう)の南に阬(あな)にす。

[現代誤訳]
 秦の捕虜たちの多くが密かに云った。「章邯将軍たちは我々の仲間に謀って諸侯に降伏した。今うまく函谷関を突破して秦を破ったらとても良いことだ。しかし、もし失敗したとしたら、諸侯は我々の仲間を捕虜として東に帰ってしまうだろう。そうしたら秦は必ず我々の父母妻子を殺してしまうだろう。」諸侯は密かにその計画を聞き、項羽に告げた。項羽はすぐに黥布と蒲将軍を呼んで話し合って云った。「秦の捕虜は我々の軍より多く、その内心は心服していない。函谷関を越えたときに彼らが云うことを聞かなければ、事態は危うくなるだろう。彼らを殺してしまって、章邯・長史欣・董翳(とうえい)の3人とだけ秦に入るのがよい。」こうして楚の軍は夜襲して秦の捕虜20万人余りを新安城の南に生き埋めにした。

 またやった。

 二回目の「阬(あな)にす」である。
 しかも今度は長平の戦いと並ぶ20万人。
 どうやるんだ。
 20万人が一夜にして消える。原爆を使う以外にそんなことはできないだろう。

 この「阬にす」という行為は私にとっては手品や奇術にしか思えない。

 一つだけ云えるのは『史記』では「阬」の記述は一つは秦の将軍白起の列伝、もう一つは項羽の本紀にしか登場しないことだ。
 秦は司馬遷の生きた漢の1つ前の王朝であり、項羽は漢の高祖劉邦のライバルである。

 「酷い奴」というのを強調するために「阬」という行為が創作されたのではないかという気がしてきた。

 実際この後漢の高祖劉邦が項羽と対比される形で登場する。

 項羽が大きな大きな穴を掘っている間に(皮肉)劉邦が秦の首都咸陽に入ってしまったのである。

 項羽は激怒する。

 以下、次号。

『史記』を読む-項羽本紀5-国家の安危この一挙に在り(新米国語教師の昔取った杵柄96)

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下剋上

 項羽と共に挙兵した叔父の項梁だったが、秦の章邯に敗死してしまう。

 楚の懐王はこれによって大いに秦を恐れた。懐王は項梁が見つけ出して王に据えた例の元羊飼いである。

 項梁の敗死を予言した宋義は懐王に謁見してその見識によって喜ばせて安心させ、何と上将軍に任命される。

 項羽は宋義に対して鉅鹿に包囲されている斉軍を救うべく進言するが、宋義は趙秦両軍を争わせてから秦を討つと云って動かない。

 その際にこういう喩えを用いる。

[書き下し文]
 「然らず。夫(そ)れ牛の虻(あぶ)を搏(う)ちて以て蟣虱(きしつ)を破るべからず。」
[現代誤訳]
 「駄目だ。牛の肌の表面をぶんぶん飛んでいるアブを撃ち殺しても毛の中にいるシラミは殺せない。」

 しかも、こんな項羽をあてこすったとしか思えない軍令を全軍に出す。

[書き下し文]
 「猛(もう)なること虎のごとく、很(へん)なること羊のごとく、貪(どん)なること狼のごとく、彊(きょう)にして使うべからざる者は、皆之を斬れ。」

[現代誤訳]
 「勇猛なことは虎のようで、云うことをきかないことは羊のようで、貪欲なことは狼のようで、力が強くても使えない者は、皆これを斬刑にせよ。」

 そうこうするうちに軍卒の食糧が不足してくる。
 ところが、宋義は斉の宰相として息子を送り込み、それを祝う宴を開く。

 項羽は悲憤慷慨する。

[書き下し文]
 将(まさ)に力を戮(あわ)せて秦を攻めんとするに、久しく留まりて行かず。今歳(こんさい)饑(う)え民貧しく、士卒(しそつ)芋菽(うしゅく)を食らい、軍に見糧(けんりょう)無し。乃(すなわ)ち飲酒高会(こうかい)す。兵を引きて河を渡り趙の食に因(よ)りて、趙と力を并(あわ)せて秦を攻めずして、乃ち曰く『その敝(へい)を承(う)けん。』夫(そ)れ秦の彊(つよ)きを以(もっ)て、新造の趙(ちょう)を攻む。其の勢い必ず趙を挙(あ)げん。趙挙げられて秦彊し。何の敝(へい)をか之れ承(う)けん。且(か)つ国兵新たに破れ、王坐(ざ)して席を安(やす)んぜず。境内(けいだい)を掃(は)いて専(もっぱ)ら将軍に属(ぞく)す。国家の安危、この一挙(いっきょ)に在(あ)り。今士卒を恤(あわれ)まずしてその私に徇(したが)う。社稷(しゃしょく)の臣に非(あら)ず。」

[現代誤訳]
 今にも力を合わせて秦を攻めようとしているのに、久しく留まって行かない。今年は飢饉で人民は貧しく、兵士たちは芋を喰い、軍には食料がない。それなのに宋義は大宴会を開いている。兵を率いて河を渡って趙の食料をもらって趙と力を合わせて秦を攻めるのではなくて、こんなことを云う。「両者が戦ってからその疲弊に付け込むのだ。」強い秦が再建間もなく弱い趙を攻めるのだ。秦の勢いは必ず趙を滅ぼすだろう。趙が滅ぼされて秦はますます強くなる。何が「両者が疲れたところに付け込む」だ。しかも我が兵は定陶の戦いに敗れ、王は座っていても安心できない。境内を掃いて宋義の云うことばかり聞いている。国家の存亡はこの一戦にかかっているのだ。それなのに宋義は兵士たちを思いやるのではなくて私利私欲にばかり関心が行っている。こんな奴は国の大事を託せる臣下ではない。

 この一節などは決して項羽が単なる「単純馬鹿」ではないことを示しているだろう。
 宋義の言い分が既得権を守るための詭弁に思えてくる。

[書き下し文]
 項羽、晨(あした)に上将軍宋義に朝(ちょう)し、その帳中(ちょうちゅう)に即(おもむ)きて宋義の頭を斬り、令を軍中に出(い)だして曰く、「宋義と斉とは謀(はか)りて楚に反す。楚王陰(ひそ)かに羽をして之を誅(ちゅう)せしむ。」この時に当(あ)たりて、諸将(しょしょう)皆慴服(しょうふく)し、敢(あ)えて枝梧(しご)するもの莫(な)し。

[現代誤訳]
 項羽は夜明けに上将軍宋義に面会し、その部屋に突進すると宋義の首を切り落とし、軍令を全軍に出して云った。「宋義と斉とは策謀によって楚に反抗した。楚王は密かに私にこれを誅殺させたのだ。」これを目の当たりにして、諸将は皆恐れてひれ伏し、敢えて抵抗するものはなかった。

 楚王は項羽を上将軍にして追認する。

 こうしていよいよ楚軍は項羽のものになったのである。

 ちなみに本項の題名の「項羽頂点に立つ」は手書きすると誤記しやすいフレーズである。どうでもいいが。

『史記』を読む-項羽本紀4-皆之を阬にす(新米国語教師の昔取った杵柄95)

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二十万坑は嘘

 会稽郡を手中に収め、8000人の精兵を得て挙兵した項羽と項梁であるが、ここから先しばらくは項梁が現代の私達には馴染みのない誰々と戦って勝った負けたという話が続く。したがってこの部分は割愛したい。
 項羽についての記述は短く淡白である。

[書き下し文]
 項梁前に項羽をして別に襄城(じょうじょう)を攻めしむ。襄城堅守(けんしゅ)して下らず。已に抜き、皆之を阬(あな)にす。還りて項梁に報ず。
[現代誤訳]
 項梁は前に項羽に別に襄城を攻めさせた。襄城は固く守ってなかなか落城しなかった。やっと陥落させ、城兵を全員生き埋めにした。項羽は帰還して項梁に報告した。

 「阬」はときどき中国の歴史書に出てくる漢字であり、「あな」と読む。動詞として解釈する場合には「阬す」「阬にす」と書き下し、「あなす」「あなにす」と読む。意味は「生き埋めにする」である。「坑」とも書く。

 「阬」「坑」を使った故事成語で有名なものには「焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)」がある。秦の始皇帝が儒学関係の本を焼き儒学者を生き埋めにした史実を元にしている。

 現代の中国語では「詭計や悪辣な手段で人を陥れる、ひどい損害を与える」という意味がある。

 いずれにしてもたった1文字であるが物凄く情報量の多い漢字である。
 漢字としては象形性の弱いどちらかといえば無味乾燥な文字なのに、生き埋めにされる兵士たちの苦しみや恨みがぎっしりと詰まっている漢字だ。

 中国の歴史上もっとも犠牲者の多い阬殺はおそらく「長平(ちょうへい)の戦い」の後のそれで、実に20万人と記されている。
 秦の将軍白起(はくき)が降伏した趙軍に対して行ったと云われているが、いくらなんでもこれは「白髪三千丈」であろう。

 実際20万人を生き埋めにするなどということは可能なのだろうか。
 いくら降伏しているから従順だったとしても、最初の一団が殺られた時点で大暴れになるはずである。

 「阬」は中国史に関する作品を描く漫画家の悩みの種のようで、「方法としてどうやるのか」という描写に苦心惨憺している。
  一番説得力があったのは本宮ひろしが確か『赤龍王』で描いたもので、このときは捕虜を大群で包囲して谷に追い落とし、上から岩石を落とすというものだったが、これとてもう一度戦闘をした方がよほど「効率?」が良いような気がする。

 私は、戦死者を埋めているときにまだ虫の息の人間も一緒に埋めてしまったのを「あいつら酷い奴らだ、生きてる人間を埋めやがった。」という噂が広まった、というのが実態ではないかと思う。

 といって、別に項羽を弁護している訳ではないので誤解の無きよう。
 捕虜を殺したということに関しては同じなのだから。

 閑話休題(ちなまぐさいはなしにしゅうちゃくしているとおもわれるぞ)。

 さて、項梁は、まだ楚の在りしとき、秦に騙されて幽閉されて死んだ懐王の孫が羊飼いをしていたのを見つけ出し、これを担ぎ上げて楚王となし、楚国を再興した。
 そして秦軍と戦いながら西進する。

 項羽もこの西進の過程で活躍する。

[書き下し文]
 項梁、沛公(はいこう)及び項羽をして別に城陽(じょうよう)を攻めしめ、之(これ)を屠(ほふ)る。西(にし)して秦の軍を濮陽(ぼくよう)の東に破る。秦の兵収めて濮陽に入る。沛公・項羽すなわち定陶(ていとう)を攻む。定陶未だ下らず。去りて、西して地を略して雝丘(ようきゅう)に至り、大いに秦の軍を破り、李由(りゆう)を斬る。
[現代誤訳]
 項梁は劉邦および項羽に別に城陽を攻めさせ、これを滅亡させた。西進して秦の軍を濮陽の東方で破った。秦の兵を捕虜にして濮陽に入った。劉邦と項羽はさらに定陶を攻めた。定陶はいまだ降伏しなかった。そこでそこから離れてさらに西進して攻略して雝丘に至り、大いに秦の軍を破って李由を斬った。

 「沛公」は漢の劉邦の官職名である。
 突然登場して吃驚した。これによれば劉邦は項梁の部下だったことが分かる。しかも項羽と軍を並べて共同行動をしていたのだ。
 彼らに斬られた李由は秦の宰相李斯の長男である。宰相の身内が戦死するのだから国としては危機的な状況であろう。しかも李斯とその一族は陰謀に巻き込まれて誅殺されてしまう。

[書き下し文]
 項羽等また李由を斬りしかば、益々(ますます)秦を軽(かろ)んじ、驕色(きょうしょく)有り。宋義(そうぎ)すなわち項梁を諫(いさ)めて曰く、「戦い勝ちて、将驕(おご)り卒(そつ)惰(おこた)る者は敗る。今卒少しく惰(おこた)る。秦の兵日に益(ま)す。臣、君がために之を畏(おそ)る。」項梁聴かず。

[現代誤訳]
 項羽たちがまた李由を戦死させたので、ますます秦を軽く見て、驕りの色があった。宋義が項梁を諫めて云った。「戦いに勝っても、将軍が驕慢になって兵隊が訓練を怠けるものはいずれ敗けます。今、わが軍の兵はかなり訓練を怠けています。秦の兵は日増しに強力になっています。私は君のためにこれを恐れます。」項梁はこの諫言を受け入れなかった。

 もはや秦を滅亡させるのは時間の問題だと思われたが、雲行きが怪しくなってきた。こういうときが危ないのだ。

[書き下し文]
 すなわち宋義(そうぎ)をして斉(せい)に使いせしむ。道にして斉の使者高陵君(こうりょうくん)顕(あらわに遇(あ)う。曰く、「公(こう)将(まさ)に武信君(ぶしんくん)に見(まみ)えんとするか。」曰く、「然(しか)り。」曰く、「臣、武信君の軍を論じるに、必ず敗れん。公徐行せば即(すなわ)ち死を免(のが)れん。疾行すれば則(すなわ)ち禍(わざわい)及ばん。」秦果して悉(ことごと)く兵を起こして章邯(しょうかん)に益(ま)し、楚の軍を撃ち、大いに之(これ)を定陶(ていとう)に破り、項梁死す。

[現代誤訳]
 そして宋義を斉に使いさせた。道で斉の使者の高陵君とばったり出会った。宋義が云った。「高陵公はいまから武信君(項梁の称号)に謁見しようとしているのか。」高陵君が云った。「その通り。」宋義が云った。「私が武信君の軍について論じるとすると、この軍は必ず負けるだろう。あなたがゆっくり行けば死なないで済むだろう。急いで行ったらきっととばっちりを喰らうだろう。」果たして秦は兵を総動員して章邯将軍に援軍を送り、楚の軍を撃ち、定陶で大いに破り、この戦いで項梁は戦死した。

 やっぱりやっちまったか。

 叔父の項梁を失い、しかし、ここから項羽がその英雄としての真価を発揮することになる。
 以下、次号。

『史記』を読む-項羽本紀3-先んずれば人を制す(新米国語教師の昔取った杵柄94)

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ピラミッドを疑え

 項羽が打倒秦の兵を挙げたのは24歳のとき、叔父の項梁に従ってのことであった。

[書き下し文]
  秦の二世元年七月、陳涉(ちんしょう)等(ら)、大沢中(だいたくちゅう)に起つ。
[現代誤訳]
 秦の二世皇帝の元年七月、陳勝と呉広たちが趙の国大沢というところで蜂起した。

 秦は始皇帝が崩御すると、それまで切歯扼腕していた反秦勢力が次々と兵を挙げた。
 その嚆矢となったのが「陳勝・呉広の乱」である。これは歴史に記された最初の大規模な農民反乱でもある。
 スローガンは「王侯相将何ぞ種あらんや(現代誤訳:王や貴族や大臣や将軍になるのに何か特別な血統が必要だろうか、いや、必要ない。)」。
 現代に通じる考え方とも云えるし、人間は何千年も格差と血統主義から逃れられていない、とも云えるが(日本語がおかしいと感じる人がいるかもしれませんが、表現の模索です)。
 陳勝と呉広は辺境防衛に徴発された農民兵を率いて任地に向かっていたのだが、命令された期日に間に合いそうにないことが明らかになった。期日を守れなければ秦法により死刑である。「どうせ死ぬなら戦って死のう」というのが動機であるから、この反乱も他の多くのそれと同じく秦の行き過ぎた法治が誘発したものと云える。

 この反乱は6ヶ月程度で鎮圧されてしまったが、秦打倒を目的とする蜂起はもはや止めようがなかった。

[書き下し文]
 その九月、会稽(かいけい)守通(とう)、梁(りょう)に謂(い)いて曰く、「江西(こうせい)皆反(はん)す。これまた天の秦を亡ぼすの時なり。吾聞く、先んずれば即ち人を制し、後(おく)るれば則ち人に制せらる、と。吾、兵を発し、公(こう)及び桓楚(かんそ)をして将たらしめんと欲す。」
[現代誤訳]
 その年の9月、会稽郡の郡守である殷通(いんとう)が項梁に云った。「江西は皆秦に対して反乱を起こした。これはきっと天が秦を滅ぼすという時勢なのだ。私はこんな言葉を聞いている。『先手を打てば人を制圧し、後手に回ると人に制圧される』と。私は挙兵して項梁公と桓楚を将軍にしたいと思っています。」

 会稽は越王句践が呉王夫差に敗れてこの山に閉じ込められ、自らと夫人が夫差の僕となることで赦された故事「会稽の恥」で知られる会稽山のある土地で、秦漢代には郡が置かれていた。そのトップが郡守である。当時は殷通という人が務めていたが、時流に乗って反秦の兵を挙げる意志があったのだ。

 「会稽の恥」については既に書いた。
 『十八史略』を読む2-臥薪嘗胆-(新米国語教師の昔取った杵柄48)

 桓楚は楚の将軍で会稽郡内では豪傑として知られていた。
 殷通は項梁と桓楚を将軍にし、自分が反乱軍の統領になるつもりだった訳だ。

[書き下し文] 
 この時、桓楚亡(に)げて沢中(たくちゅう)に在り。梁曰く、「桓楚亡(に)げて、人、その処を知るもの莫(な)し。独(ひと)り籍(せき)これを知るのみ。」梁すなわち出でて、籍を誡(いまし)め、剣を持(じ)して外に居りて待たしむ。梁復(ま)た入り、守と坐(ざ)して曰く、「請(こ)う籍を召し、命を受けて桓楚を召さしめん。」守曰く、「諾(よし)。」梁籍を召して入る。須臾(しゅゆ)して、梁、籍に眴(めくばせ)して曰く、「行うべし。」ここにおいて籍遂に剣を抜きて守の頭を斬(き)る。項梁、守の頭を持し、其の印綬(いんじゅ)を佩(お)ぶ。門下(もんか)大いに驚き、擾乱(じょうらん)す。籍の撃殺(げきさつ)するところ数十百人。一府中皆慴伏(しゅうふく)し、敢えて起つもの莫(な)し。
[現代誤訳]
 この時、桓楚は秦の追及を逃れて山の中にいた。項梁が云った。「桓楚は逃げて、その居所を知る人はいない。ただ私の甥の項羽が知っているだけである。」項梁は殷通の前から退出して項羽に指示をし、剣を持って外で待たせた。項梁はまた部屋に入り、郡守と向かい合って座って云った。「項羽を呼んで、君命を受けて桓楚を連れてこさせましょう。」郡守が云った。「そうしなさい。」項梁はまた外に出ると項羽を連れて部屋に入った。僅かの間に、項梁は項羽に目配せをして云った。「やれ!」すぐさま項羽が剣を抜いて郡守の首を切り落とした。項梁は郡守の首を持って、郡守の印綬を身に着けた。部下たちは大いに驚き、大騒ぎをした。項羽がたちまち百人余りを斬殺した。一同は床にひれ伏し、進んで立つものはいなかった。

 「先んずれば人を制し、後るれば人に制せらる」と云った張本人が、「先んぜられ」「制せられ」てしまったのである。
 この故事が有名なのは、その主張もさることながら、云った当人がその通りにされてしまったという皮肉なシチュエーションにもよるのではないだろうか。

 それにしても項羽は強い。100数十人は大げさにしても、その場にいた人たち全員をビビらせるくらいの数の人をあっという間に倒したのだろう。
 前回書いたように項羽は剣術修業を途中で放棄しているにもかかわらずこの強さだから、道を究めていたらどんな剣豪になっていただろうか。

[書き下し文]
 梁すなわち故の知る所の豪吏(ごうり)を召し、諭(さと)すに大事を起こすを為(な)すところを以てす。遂に呉中の兵を挙げ、人をして下県を収めしめ、精兵八千人を得たり。

[現代誤訳]
 項梁はすぐに知人の有力な役人を呼び、説得して大事を起こすための準備をさせた。そして呉の地で兵を挙げ、人を使って呉の地を治めさせ、精強な兵8000人を得たのである。

 郡守を下剋上することで郡全体を手中にできたのもまた秦の行き過ぎた中央集権の故かもしれない。

 次回はいよいよ項羽の全国デビューであるが、その記述には読者はあっと驚くであろう。
 では。

『史記』を読む-項羽本紀2-栴檀は双葉より芳し(新米国語教師の昔取った杵柄93)

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栴檀は双葉より芳し

 『史記』「項羽本紀」は項羽の生い立ちから始まる。

[書き下し文]

 項籍(こうせき)は、下相(かそう)の人なり、字(あざな)は羽。初めて起(た)ちし時、年二十四。その季父(きふ)は項梁(こうりょう)、梁の父は即ち楚の将項燕(こうえん)にして、秦の将王翦(おうせん)のために戮(りく)せらるるところの者なり。項氏は世世楚の将と為りて、項(こう)に封(ほう)ぜらる。故(ゆえ)に項氏を姓とす。
[現代誤訳]
 項籍は下相の人である。字は羽という。初めて兵を挙げたとき、歳は24歳だった。その叔父は項梁である。項梁の父は楚の将軍項燕であり、秦の将軍王翦によって殺された者である。項氏は代々楚の将軍になって、項という土地に封じられた。そのために項を姓とした。

 下相は現在の江蘇省宿遷市付近で、春秋時代には「呉越同舟」の呉の領地だったところである。
 呉越がその宿命の争闘によって双方弱体化したところを「漁夫の利」そのままに楚地となったようだ。従って項羽をはじめとした項一族を典型的な楚人と考えるのは少々単純化が過ぎるかもしれない。

 項羽の叔父項梁の父、つまり大叔父は項燕。
 漫画や映画で大人気の「コングダム(仮名)」を見たことがある人はこの名前を覚えている人がいるかもしれない。

 コングダムの主人公である李信と匈奴征討で有名な蒙恬が楚を滅亡させるべく侵攻してきたとき、これを迎え撃って大敗させたのが他ならぬ項燕なのだ。

 秦は更に王翦を大将として楚に侵攻し、楚王を捕虜としたが、項燕は本拠地を淮南に遷して徹底抗戦を続ける。
 だが、遂に矢尽き刀折れ、戦死(一説には自決)して楚は滅亡する。

 それでも民衆の間には項燕を慕う空気があったらしく、中国における記録に残る最初の大規模な農民反乱である陳勝・呉広の乱の指導者の一人である呉広は、自らを項燕であると詐称したという。
 こうした雰囲気の中、項家に生まれ育った若者が項羽だったのである。

[書き下し文]
  項籍少(おさな)き時、書を学び成らず、去りて剣を学ぶ、また成らず。項梁これを怒る。籍曰く、「書は以て名姓を記するに足るのみ。剣は一人の敵なり、学ぶに足らず。万人の敵を学ばん。」
 ここに於て項梁すなわち籍に兵法(ひょうほう)を教う。籍大いに喜ぶ。略(おおよそ)その意を知り、また肯(あえ)て学ぶを竟(お)えず。(中略)

[現代誤訳]
 項羽は幼い時、書を学んだが成就せず、辞めて剣術を学んだが、これまた成就しなかった。叔父の項梁はこれを怒った。項羽が云った。
 項羽が云った。
 「書はそれで名前を書けるだけで良い。剣術は一人を相手にするだけだ。学ぶほどのものではない。万人を相手に居る学問を学びたいのだ。」
 これを聞いた項梁はそこで項羽に兵法を教えた。項羽は大いに喜んだ。大まかな真髄の部分を知り、もっと深くまで勉強することはなかった(中略)

 「生意気な餓鬼め! 好きなことだけ勉強できるほど世の中甘くないんだぞ。」
と云われそうな子供である。
 項羽が現代の日本に生まれていたら、物凄い矯正圧力がかかるだろう。あるいは「何か障碍があるのではないか」と私達リハ職にオーダーが下るかもしれない。

 幸い項羽は2000年以上前の中国人なので、スクスクと育つ。

[書き下し文] 
 秦の始皇帝、会稽(かいけい)に遊び、浙江(せっこう)を渡る。梁、籍と俱(とも)に観る。籍曰く、「彼取って代わるべきなり。」梁、その口を掩(おお)いて曰く、「妄言すること毋(な)かれ。族(ぞく)せられん。」梁、これを以て籍を奇(き)とす。
[現代誤訳]
 秦の始皇帝が会稽山に巡行し、浙江を渡ったことがあった。項梁は項羽と共にこれを観た。項羽が云った。「俺はあいつに取って代わってやる!」項梁が慌てて項羽の口を塞いで云った。「要らんことを云うんじゃない! 一族皆殺しになるぞ! 」項梁はこの出来事から項羽が大物になると確信した。

 秦の始皇帝は全国を統一するや自らの威光を示すために全国を巡幸した。
 一行が項一族の本拠地である呉地にやってきたとき、項梁とそれを見ていた項羽がとんでもないことを口走った。ただし、実際にはすぐに項梁に口を塞がれているから、「俺はあいつに…」くらいまでが実際に発せられた言葉だろう。
 『史記』は両者の性格の違いを対比させるために項羽のライバルである漢の高祖劉邦が始皇帝巡幸を目撃したときの言葉も記録している。

[書き下し文]
 大丈夫かくあるべきなり。
[現代誤訳]
 人として生まれたからにはこういう立派な人物になりたいものだ。

 この話は劉邦の老獪な人柄と項羽のアグレッシブな人柄を対比させるものでもある。

 だが、最後まで秦に抵抗した項燕が大叔父であるという項羽の生い立ちを考えると、彼の始皇帝に対する敵愾心は至極まっとうなものに思われる。

[書き下し文]
 籍、長八尺余、力能(よ)く鼎(かなえ)を挙げ、才気は人に過ぐ。呉中の子弟といえども、皆已(すで)に籍を憚(おそ)れり。
[現代誤訳]
 項羽は身長185cm、怪力で銅製の鼎を持ち上げることができ、才気は人より優れていた。呉の国の子弟とはいうものの、幼くして既に周囲の人々は皆項羽を畏怖していた。

 「長八尺余」という記述を見て日本の尺貫法に当てはめ、「身長240cm? またまた…例の白髪三千丈ね。」と思う人もいるだろうが、秦・漢代の1尺は23.1cmだからそんなに大きくはない。『漢書』には「八尺二寸」とあるから正確には189.42cmである。現在MLBで大活躍の大谷翔平よりちょっと小さい感じか。

 鼎は三本足の調理器具で重い物は100kg近くある。
 「鼎の軽重を問う」という故事の通り、移動させるのに苦労するほどの重さであるが、項羽はこれを軽々と持ち上げることができたらしい。

 「呉中の子弟といえども」という云い方にこの時代の中国人就中楚の人々の呉の遺民に対する微妙な感情が表れている。
 「呉越同舟」の故事で知られる呉国は名剣の産出地として知られたが、BC473年、宿敵の越によって滅ぼされる。 
 その故事である「臥薪嘗胆」については既に書いた。
『十八史略』を読む2-臥薪嘗胆-(新米国語教師の昔取った杵柄48)
 漢代までの中国人には滅亡した国の遺民をどこか下に見る意識があったようだ。
 滑稽譚や愚者譚に滅亡した国の遺民を登場させて笑いを取るということも行われた形跡がある。

 たとえば「杞憂」は「空が落ちてくるのではないか」という荒唐無稽な心配で夜も眠れなくなる人の話だが、杞国は伝説の王朝夏の遺民が創った国という言い伝えがある。

 呉国の場合は夫差(ふさ)という暗君と佞臣の伯嚭(はくひ)が忠臣の伍子胥(ごししょ)を殺した末に滅亡したというエピソードは皆が知っていただろうから、「ああ、あの呉国の出身ね」と軽んじる気持ちはあったかもしれない。

 それにしても幼少の項羽には早くも将来の大物感が満ち満ちている。
 「栴檀は双葉より芳し」とはこのことであろう。
 
 将来が楽しみである(って2000年以上前の話だろ)。

『史記』を読む-項羽本紀1-「漢文必携」は楚人総出演(新米国語教師の昔取った杵柄92)

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みんな楚の出身だった

 『漢文必読(仮名)』という、高校で漢文を習う者には殆どバイブルと云ってよい本がある。
 私もまた半世紀近く前にこの本で漢文を勉強した。今また、教えている高校生がこの本で勉強している。もう何回改訂を繰り返したのだろうか。

 この本には素晴らしい例文が沢山掲載されている。
 「声に出して読みたい漢文」である。生徒諸君はこの本の例文を是非何回も訓読して覚えて欲しいものだ。
 ところが、今回生徒に句形を教えるに当たって、私はあることに気が付いた。

 例文だけを取り上げるのは教わる方は勿論教える側の私にとって退屈極まりない行為だから、その例文がどんな文脈で出てくるのか、簡単に教えることにしている。

 その下準備をしているうちに、私は例文の相当部分、大部分と云っていいものが、楚の国絡みであることに気付いたのだ。

 たとえば、
[書き下し文]
 子の矛を以て子の盾を陥さば如何。
[現代誤訳]
 あなたの矛であなたの盾を突き通したらどうなるか。

というフレーズは「矛盾」の誰でも知っている一節だが、この話の中で矛盾した謳い文句で矛と盾を売っているのは楚人である。

 また、 
[書き下し文]
 大夫(たたいふ)二人をして往(ゆ)き先(さき)んぜしむ。
[現代誤訳] 
 大夫二人に先に行かせた。

という例文は『荘子』の中の「尾を塗中に曳く」の一節であって、楚王が荘子を召し抱えようとして失敗する話だし、

[書き下し文]
 今蛇(へび)安(いづ)くにか在(あ)る。
[現代誤訳]
 今蛇は何処にいるのか。

というごく短い例文もまた、後に楚の宰相となった孫叔敖(そんしゅくごう)の幼き日のエピソードの一部なのだ。

 また、
[書き下し文]
 信にして疑われ、忠にして謗らる。
[現代誤訳]
 何よりも信頼されることを大切にしているのに疑われ、誰よりも忠義を尽くしているのに非難される。

 という例文は楚の忠臣で「離騒」をはじめとした数々の楚辞を残した屈原の嘆きである。

 この本の句形の部分には楚人が大集合していると云ってよい。
 
 特に多くの例文が引用されているのが『史記』の項羽本紀である。

 項羽は云わずと知れた西楚の覇王である。
 「楚の代表選手」と云ってよい。

 項羽と云う人は楚人の典型だと多くの人から思われている。

 直情径行で欠点も多い性格だがどこか憎めない。

 漢の劉邦と争って敗れるのだが、誰も「劉邦と項羽」とは呼ばない。司馬遼太郎の有名な小説の題名にもあるごとく、「項羽と劉邦」である。

 司馬遷にしてからが、天下を統一した訳でもない項羽に帝王を記述する項を示す「本紀」を立てている。

 ということで、次回からは『史記』「項羽本紀」を味わってみたい。

  

天草大王のように復活させてほしい柑橘2種(いやしんぼ118)

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復活してほしい柑橘

 柑橘サワーといえば通常は大手メーカーが製造してスーパーなどで販売しているものを思い浮かべる人が大半だろう。

 しかし、もし貴方が熊本人だとしたら、それではあまりにも勿体ない。

 人生の楽しみの半分くらい、は大げさだな、1割くらい、でも大げさか。人生の楽しみの1/100くらいを失っていると云っていいだろう。

 なぜかと云えば、熊本県は日本でも有数の柑橘類の産地なのだ。

 1.2位は愛媛県と和歌山県が毎年デッドヒートを繰り広げているが、熊本県はその次の3.4番手くらいに毎年付けている。

 そして特徴的なのはその品種の多様さである。

 今思いつくだけでも温州ミカン、ネーブル、八朔、甘夏、ポンカン、不知火(デコポン)、カボス、柚子、木酢、スダチ、スイートスプリング、晩柑、パール柑。
 これらの柑橘に加え、最近では国産のレモンやグレープフルーツ、ライム、シークワーサーなど、以前は熊本で作られていなかった柑橘まで栽培されている。
 しかもレモンだけを取っても、グラントやマイヤーやリスボンや、最近出回り始めた新種のリノカなど、楽しい程にバラエティーがある。

 これらを絞った汁をお好みでブレントでして、炭酸水で割った焼酎に入れて飲むと、「今まで美味しい美味しいって云って飲んでたアレは何だったんだ」という感想を抱くこと必至である。

 焼酎は一番癖のない米焼酎が良い。
 ほのかな甘みが柑橘の酸味にぴったりマッチする。

 炭酸水は阿蘇の湧水か球磨川水系の湧水にサーバーで炭酸を注入して作るのが良い。
 ただの水道水でも熊本県の大部分では水道水が伏流水をくみ上げたものだから炭酸水に適している。
 いずれにせよ熊本は水の都である。

 ただし、柑橘のどれか1種類でこれを作ると、何か足りない感じになるのもまた事実である。

 たとえば国産レモンだけにこれを担わせてレモンサワーにしたとする。
 最初の1杯は夢のように美味いが、杯を重ねるにつれて飲み飽きてくる(1杯で止めときゃいいだろ)。
 だんだん酸っぱさが勝ってきて、「もう少し甘味があったらな」という感じになる。

 かといって温州ミカンだけにこれを担わせてマンダリンサワーにしたとする。
 最初の1杯はやはり夢のように美味いが、杯を重ねると今度は甘さが勝ってきて、「もう少し酸味があったらな」という感じになる(だから1杯で止めとけって)。

 だから買い置きの柑橘を手に取りながら甘味や酸味や旨味を想像しつつあれこれ見繕うことになる。
 「レモンと木酢だけだと酸味が強すぎるからこれにポンカンを入れて、香りづけに柚子を入れて」と云った具合である。

 それがまた最高に贅沢な時間ではあるのだが。

 ブレンドがビタッと嵌った時はいくら飲んでも少しも嫌味がない。
 調子に乗って飲み過ぎる、という難点はあるが。

 ところがここに単独でサワーの作れる柑橘がある。

 夏蜜柑である。

 「え、さっき列挙された中に甘夏があったじゃん…」と思った人、夏蜜柑と甘夏は違います。

 甘夏は夏蜜柑の変異種で、夏蜜柑より甘味が強く酸味が弱い品種なのだ。

 そして甘夏が発見されたのは昭和10年(1935)らしいのだが、現在までの人々の嗜好の変化により、夏蜜柑に取って代わり、現在では夏蜜柑と云えばその姿も味も甘夏が連想されるまでになったのだ。

 確かに皮を剥いて食べる分には甘夏の方が美味しいだろう。私もそう思う。
 しかし、サワーにしてみると、何か間の抜けた感じである。
 米焼酎の甘みに酸味が負けてしまうのだ。特に旨味が足りない気がする。

 ところが夏蜜柑をサワーにすると、その強い酸味が米焼酎の甘みとの相乗効果で強い旨味を作り出す。レモン単独ほど酸っぱくなく、蜜柑単独ほど甘すぎない。絶妙のバランスである。何杯飲んでも飲み飽きない。
 日明食品(仮名)の御自慢の製品に「完全メシ」というのがあるが、これは「完全柑橘サワー」である。

 ところがこの夏蜜柑というものがどこにも売っていない。
 試しに「夏蜜柑」「ショッピング」でググってみて欲しい。
 ずらりと出てくるのは「甘夏」である。もはや夏蜜柑と云えば甘夏のことなのだ。

 実際、私が何故甘夏ではない夏蜜柑の味を知っているかといえば、これは妻の実家に植えられていたからであって、柑橘王国熊本県でもたとえば道の駅などで甘夏でない夏蜜柑を買うのは不可能に近い。

 そして何と云うことか、妻の実家の夏蜜柑は数年前に枯れてしまってもうないのだ。

 それから毎年私は植木市などでも気がけて夏蜜柑の苗がないか見ているのだが、ない。
 植木屋さんに聞いても、「最近見かけないねえ…」ということだった。
 
 なんでも原産地である山口県では今でも栽培している農家があるようだが、熊本では夏蜜柑はもはや幻の柑橘になってしまったのだ。

 実はサワーに適しているのだがもはや幻に近い柑橘はもう一つある。
 
 紅柑子である。べにこうじ、と読む。

 柑子は古くから日本で栽培されてきた柑橘類である。
 ところが、皮を剥いて食べるのには温州ミカンの方が美味いし、これは種も多いので食べにくい。
 したがってこれまた夏蜜柑と甘夏の関係と同じ道を辿った。
 温州ミカンが柑子を駆逐してしまったのである。

 辛うじて残っているのが紅柑子と呼ばれる品種で、これは色が特徴的な赤なのでむしろ色の名前として知られている。

 ところがこれまたサワーにすると独特の風味があって美味い。

 だが、これまたどこに行っても売っていない。
 「紅みかん」と称するものは近県の佐賀などで栽培されているようだが、私の記憶ではこれは柑子ではないと思う。

 もちろん苗も見たことがない。

 今は熊本の地鶏として普通に売られて人気を博している「天草大王」は実は二十年くらい前までは幻の鶏であった。
 飼育に手間がかかって採算が取れないために絶滅したのだ。それを熊本県農業研究センターが復活させたのである。

 夏蜜柑も柑子も生食用としては絶滅寸前になってしまったが、ジュース用、サワー用としては必ずヒットするはずである。知らんけど。

 どなたか柑橘好き、酒好きの方がこの二つの柑橘を復活させてくださる日を首を長くして待っています(自分でやれよ)。

 

『今昔物語』を読む-『羅生門』と「蛇を売る女」-(新米国語教師の昔取った杵柄91)

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エソは蛇に似ている

 芥川龍之介『羅生門』にはもう一つ元ネタがある。

 それは『今昔物語』巻31「 太刀帯(たてわき)の陣に魚を売る嫗(おうな)のこと」である。

 『羅生門』では下人が羅生門の二階で出会った婆がその髪の毛を抜いていた死体は蛇の肉を魚の肉と偽って売っていた女であった。

 『今昔物語』にはそれがどんな話だったか書いてある。

[原文]
 今は昔、三条の院の天皇の、春宮にておわましける時に、太刀帯(たてわき)の陣に常に来て、魚売る女ありけり。太刀帯ども、これを買わせて食うに、味わいのうまかりければ、これを役(やく)ともてなして、菜料(さいりょう)に好みけり。干したる魚の切々(きれぎれ)なるにてなむありける。

[現代誤訳]
 今となっては昔のことだが、三条天皇が皇太子でいらっしゃった時に、御所の警備をする武士たちの待機所にいつも来て魚を売る女がいた。警備の武士たちがこれを料理人に買わせて料理させて食べるのだが、味が美味かったので、これを最上のものとして、おかずとして好んでいた。干した魚のぶつ切りであったという。

 そんなに美味かったのならば「これは何の魚だ」と尋ねる者はなかったのだろうか。私ならば確実にそうするが。
 あるいは京都は海から遠いので当時は海の魚は干物にせざるを得ないし 足が速い物は干物にもできないから、都人は魚について無知だったのかもしれない。

 あるいは「うなぎの切れ切れにてはべり」と、長物系の魚の名前を云ったか。しかし、鰻は川の魚だから京都人の武士たちも知っているし、だいいち鱗がないから、自分たちが買った物が鰻ではないことにはすぐ気づいたのではないだろうか。

 こんなことを書いていたら鰻の穴釣りをしていて蛇が釣れたことを思い出した。
 迷作リメイクシリーズ27-ダイヤモンドより貴重な食べ物-(いやしんぼ7)

鰻の代わりに蛇を釣る

 やはりいくら干してあっても蛇を鰻とは騙れないのではないか。

 干したら蛇と見分けがつきにくいといえばウミヘビであるが、これには二系統ある。

 一つは爬虫類のウミヘビである。これは魚ではなく陸の蛇と同種であるから、いくら干してもどこから見ても蛇である。魚の素人でもすぐに蛇だと気付くだろう。

 もう一つは魚類のウミヘビである。これは穴子の仲間で、投げ釣りをしたりしていて曇りの日などに釣れて来る。最初は蛇が釣れたのではないかとギョッとするが、穴子に似ているのでよく見ると魚だと分かる。これは確かに蛇っぽい。色もマムシに似ている。ところが残念なことにこいつには鱗がない。だいいち「何の魚だ」と云われて「ウミヘビになむはべる」とは言えない。蛇を魚と偽って売っているのだからこんな返答はできない。

 私は女は「これはエソてふ魚になむはべる」と云っていたと考える。

 エソは一般の人にはあまり馴染みのない魚だが、実はすり身や蒲鉾や竹輪としてよく食べている筈である。この魚は通常原形を留めた形では食用にされない。
 その最大の理由は小骨が多いからで、丸のままだと所謂「煮ても焼いても食えぬ」と云う奴だ。
 ただ、もう一つの理由はこいつが蛇を連想させる外観をしているからだ。
 体長はそこまで長くなく鰻や穴子のようなニョロニョロした感じはないが、デカい口と体の模様はシマヘビを思わせる。
 これはぶつ切りにして干したら蛇とよく似ていると思う。

 それにしても原文では「買わせて」と使役形になっているから、料理したのは武士たちではなく料理人だろう。料理人だったらそれがこの世のどの魚の干物とも違うことは知っていたと思うのだが。

 何か武士たちから嫌な思いをさせられていたのだろうか。
 あるいは女とグルか。

[原文]
 しかる間、八月ばかりに、太刀帯ども、小鷹狩(こだかが)りに北野(きたの)に出(いで)て遊びけるに、この魚売りの女、出で来たり。太刀帯ども、女の顔を見知りたれば、「此奴(こやつ)は野(の)には何わざするにかあらむ」と思いて、馳け寄りて見れば、女、大きやかなる籮(したみ)を持ちたり。また、楚(ずわえ)一筋(ひとすじ)を捧(ささげ)て持ちたり。
[現代誤訳]
 そうこうするうちに、八月ごろに、武士たちが鷹狩のために北野に出て遊んでいると、この魚売りの女が現れた。武士たちは女の顔を見知っていたので、「こいつは野原で何をしているのか」と思って、駆け寄ってみると、女は大きな籠を持っていた。また、木で作った鞭を一本持っていた。

 魚を売りに来るのだから武士たちは女を漁村から来ていると思っていたに違いない。
 特に京都だから若狭から来る行商だと思っていた可能性が高い。
 
 ところがそんな女が北野の野原に現れたので驚いたのだ。

[原文]
 この女、太刀帯どもを見て、怪やしく逃目(にげめ)を仕(つか)いて、ただ騒ぎに騒ぐ。太刀帯(たてわき)の従者(じゅうしゃ)ども寄りて、「女の持ちたる籮(かご)には何の入りたるぞ」と見むとするに、女、惜(おし)むで見せぬを怪しがりて、引き奪いて見れば、蛇を四寸ばかりに切つたる入りたり。あさましく思いて、「これは何の料(りょう)ぞ」と問えども、女、さらに答うること無くて、〇〇て立てり。
[現代誤訳]
 この女は武士たちを見つけると、怪しく眼を宙に泳がせながらひたすら逃げようとして騒ぐ。武士の従者たちが寄ってたかって、「女の持っている籠には何が入っているのだ」と見ようとすると、女は隠して見せないのを不思議がって、籠を奪い取ってみると、蛇を10cmくらいに切ったのが入っていた。おどろきあきれたことだと思って、「これは何の材料だ」と聞くのだが、女は全く答えずに、〇〇して立っていた。

 女が不審な行動をしたので籠を奪い取って見てみると、そこには蛇が。
 「これは何の料ぞ」とは云っているものの、ピンと来たに違いない。

 それにしても原文の「〇〇」の2文字が気になる。
 これはもはや新しい写本が発見されない限りわからない欠失部分である。

[原文]
 早(はよ)う、此奴(こやつ)のしける様(ざま)は、楚(ずわえ)を持ちて薮(おどろ)を驚かしつつ、這い出づる蛇を打ち殺して切りつつ家に持ち行きて、塩を付けて干して売りけるなり。太刀帯(たてわき)ども、それを知らずして買わせて、役(やく)と食いけるなりけり。
[現代誤訳]
 今までこの女がしていたことは、鞭で藪を叩いて驚かせて、這い出てきた蛇を撃ち殺してぶつ切りにして家に持って帰って、塩を付けて干して売っていたのだった。武士たちはそれを知らずに料理人に買わせて、格段の御馳走だと思って食べていたのだ。

 『今昔物語』のこの項の筆者もこれには「うわっ、気色悪っ!」と思ったのか、原文で今まで使ってきた「女」ではなく「此奴(こやつ)」と蔑称を使用している。

 実は私は蛇は食べたことがないが爬虫類のウミヘビは食べたことがある。
 「エラブー汁」という。
 新婚旅行で行った沖縄の郷土料理で、材料はエラブウミヘビである。

 これは滋養強壮の効果があるらしい。結婚前後の多忙で風邪を引いていたのだが、一発で治った。
 味はといえば、風邪を引いていたからなのか、はたまた旅行社が「料金は安いが料理が」という噂のある会社だったからなのか、その旅行全般の料理の味とご同様であった。

 別にそれと知って食べれば蛇といってもどうということはない。

 ただ、「魚だ」と云われて食べさせられたのが後で蛇と分かったらやはりいい気はしないだろう。

[原文]
 これを思うに、「蛇は食いつる人悪し」と云うに、何と蛇の毒せぬ。しかれば、「その体(てい)慥(たし)かになくて、切々(きれぎれ)ならむ魚売らむをば、広量(こうりょう)に買いて食わむことは止(や)むべし」となむ、これを聞く人、云い繚(しら)いけるとなむ語り伝えたるとや。
[現代誤訳]
 これを考えると、「蛇は食べた人の害になる」と云うが、何のことはない、口から食べる分には蛇は毒にならない。そうなので、元の形がわからないようにぶつ切りにされた魚を売っているようなものは、まあいいかと思って買って食べるようなことは止めるべきだ。」と、この話を聞いた人は気持ちの悪い話だと語り伝えているということだ。

 最後は作者の感想であるが、一番の関心は「毒蛇は食べても毒がない」ということなのが面白い。

 それにしてもこの女はどうなったのだろうか。

 「蛇を魚と騙って売る」というのはどんな法律に引っかかるのか。

 繁田信一『平安朝の事件簿』という本を見つけたので目次をプレビューしてみたが、殺人・強盗・汚職・強制取り立てなど、おどろおどろしい犯罪ばかりで、「蛇を売る」など可愛いものである。

 仕方がない。原典に当たるか。面倒くさいが(お前本当に国語の教師か)。

 少し時代は遡るが平安時代にもまだ生きていた『養老律令』という法律を紐解いてみると、『賊盗律』『詐欺律』という項目あたりが怪しい。

 ところが『賊盗律』の中の「盗」は窃盗・強盗・略人(誘拐)・略奴婢(奴婢の誘拐)など、所謂凶悪犯罪を指していて、とても女の行為がこの中に当てはまるとは思えない。
 『詐欺律』の「詐欺」は

[原文]
 凡(およ)そ官私を詐(いつ)わり欺(あざ)むき以(も)って財物(ざいもつ)を取る者は盗みに準(なぞら)えて論ず
[現代誤訳]
 そもそも役所や個人を騙して財物を奪う者は窃盗に準じて議論する。

とあるが、これも「財物」が狙いのもっと大掛かりなもので、女の行為は当てはまりそうもない。

 ちなみに「律令」の「律」は現在の刑法に当たる。
 どうもこれは刑法で裁くようなものではないようだ。

 今度は現在の行政法・民法・訴訟法に当たる「令」の方を渉猟してみる。
 以下書き下し文は出鱈目なので禁引用・禁参照です。

 「関市令」というのがある。これか。
 この中の第17条にこうある。

[原文]
 出売条:凡(およ)そ出売者は、濫(みだ)りに為(ため)にし行う勿(なか)れ。
[現代誤訳]
 販売に関すること:そもそも商売をする者は、粗悪品と分かっているものを無理に売ってはならない。

 それに対する処分は第19条にある。

[原文]
 行濫条:凡(およそ)濫(みだ)りなる物を以(も)って行う交易者は、官に沒(ぼつ)す。短狹にして法に如(し)からざる者は。主(あるじ)に還(かえ)す。
[現代誤訳]
 粗悪品販売に関すること:そもそも粗悪品で商売をしたものは、その商品を官が没収する。規格外で法律に当てはまらないものは、持ち主に返還する。

 ここには被害者の補償に対する言及はない。
 何せ第16条が「売奴婢(現代誤訳:「奴隷の売り方」)」だからな。そんな時代ではないのだ。

 「養老律令」に従えば、蛇の干物は役所で没収か。いや、これは規格外品で持ち主に返還か。

 いずれにせよ女の行為は当時の法律では裁けないようだ。

 だが武士たちの腹の虫は収まらなかっただろうから、何らかの私刑が女の身に加えられた恐れはある。

 『羅城門の盗賊』といい、『蛇を売る女』といい、彼らがその後どうなったか書いていないのが、芥川の小説よりよほど怖い。

『今昔物語』を読む-『羅生門』と『羅城門』-(新米国語教師の昔取った杵柄90)

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芥川龍之介

 芥川龍之介の名は文学賞の名として不朽である。

 彼の作品の中でも『羅生門』は未だに高校の教科書に掲載されていて、最近までは中学生だった青少年たちが「高校での国語は今迄とは一寸違うぞ」という通過儀礼として勉強する作品となっている。

 時は平安朝。
 疫病と飢餓に襲われた京の都の羅生門で物語は展開する。
 主人に解雇されて切羽詰まった下人が羅生門で無気味な老婆に出逢い、その経験から盗賊になることを決意して夜の闇に消えていく、というストーリーである。

 中学校の国語教材には基本的に悪人や犯罪者は登場しないから、これは生徒たちにとってはかなりショッキングな内容である。

 感想文など書いてもらうとそのショックと人間性というものに対する真剣な考察が伺われてとても面白い。

 ただ、このストーリーは芥川の完全オリジナルではない。

 芥川の所謂「王朝物」には元ネタがある。
 そしてその元ネタは多く『今昔物語』に採られている。

 『今昔物語』は平安時代に成立した説話集である。

 説話集と云うのは人々の間に語り継がれた神話・伝説・民話などを集めたものである。

 そして『今昔物語』には平安時代のリアルタイムの噂話なども収録されている。
 私達はそれによって平安と云う時代がどんな時代だったか窺い知ることが出来る。

 この時代について知ることで、人は生まれながらに反社会的な素因を持っていない人でも悪人や犯罪者に変化して行き得ることに気付く。

 飢饉と、それに伴う人々の劣悪な栄養状態。
 これは免疫機能を低下させ、感染症の蔓延を招く。

 最初は下層階級だけのものだった餓死や行路病死が、中間層から上流階級まで波及していく様を『方丈記』がリアルに描き出していることについては既に書いた。
 「方丈記」を読む(新米国語教師の昔取った杵柄40)

 少しだけ引用しよう。

 [原文]
 さりがたき女男など持ちたるものは、その思いまさりて、心ざし深きはかならずさきだちて死ぬ。そのゆゑは、我が身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたわしく思ふかたに、たまたま乞い得たる物を、まづゆずるによりてなり。されば父子あるものはさだまれる事にて、親ぞさきだちて死にける。また母が命つきて臥(ふ)せるをもしらずして、いとけなき子のその乳房に吸いつきつつ、ふせるなどもありけり。
[現代誤訳]
 愛している異性がいる者は、その愛情が強くて想いが深い者が必ず先に餓死した。それは何故かと云うと、自分のことをさておいて、男でも女でも、愛している者に、たまたま手に入れた食物をまず食べさせるからである。だから親子である者は決まって親が先に餓死した。また、母親の命が尽きて倒れているのを知らずに、まだ幼い子供はその乳房に吸い付きつつそのまま餓死するということもあった。

 ここで描かれているのは、人間らしい人ほど先に死んでいく「獣道」である。
 芥川は「獣道」に墜ちようとしている人々を描こうとしたのだ。

 では、『羅生門』の元ネタを紹介する。『今昔物語』巻29「羅城門の上層に登りて死人を見る盗人のこと」である。

 原文は接続助詞をずっと連ねていくという、独特の文体なので、訳が分かりづらいと思うが、原文の雰囲気を残すために、それと、芥川のすっきりした近代的な文体と比較するために、あえてそうした訳し方をしてみたが、ネット上にはもっと上手に現代語に訳してあるものが沢山あるので、分かりやすい訳が見たい人はそちらを訪ねて欲しいが、いかん、もう文体が感染しているのだが、こういうふうに他人に影響されやすいのが私の特性で、実に自分でも困ったものなのだが、取り敢えずお付き合い願いたい。

[原文]
 今は昔、摂津の国の辺(わたり)より、盗みせむがために京に上りける男の、日のいまだ暮れざりければ、羅城門の下に立ち隠れて立てりけるに、朱雀の方に人重(しげ)く行きければ、「人の静まるまで」と思いて、門の下に待ち立てけるに、山城の方より、人共(ども)の数(あまた)来たる音のしければ、「それに見えじ」と思いて、門の上層(うはこし)に和(やわ)らかかづり登りたりけるに、見れば、火髴(ほのか)に燃(とも)したり。

[現代誤訳]
 今となっては昔のことだが、摂津の国あたりから、盗みをしようとして京都に上ってきた男が、日がまだ暮れていなかったので、羅生門の下に隠れて立っていたところ、朱雀門の方に人が沢山往来していたので、「人がいなくなるまで」と思って、門の下で立って待っていると、山城国の方から人々が沢山来た音がしたので、「彼らに見つからないように」と思って、門の二階にいそいで梯子に取りついて登ったところ、見ると、灯をぼんやりと燈していた。

 『羅生門』では羅生門で雨やみを待っている「下人」は「『盗人になるよりほかにしかたがない』ということを、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。」とある。
 羅生門に来た時にはまだ下人は犯罪に手を染めるかどうか迷っていた。
 どころか、もはや自分では盗人になるという選択肢しかないことが分かっていながらそれを実行できていない。

 しかし『羅城門』では男が京都にいたのは「盗みせむため」である。わざわざ物を盗むために上洛したのだ。既に「獣道」を歩む決意をした男である。

[原文]
 盗人(ぬすびと)、「怪(あや)し」と思いて、連子(れんじ)より臨(のぞき)ければ、若き女の死にて臥(ふ)したるあり。その枕上(まくらがみ)に火を燃やして、年極(ご)く老いたる嫗(おうな)の白髪(しらが)白きが、その死人(しびと)の枕上に居て、死人の髪をかなぐり抜き取るなりけり。
[現代誤訳]
 盗人は、「不思議だ」と思って、窓から覗くと、若い女が死んで仰向けになっている骸があった。その枕元に火を燃やして、歳をひどく取った婆で真っ白な白髪の女が、その死人の枕元に居て、死人の髪を乱暴に抜き取っていた。

 『羅生門』では「猿の親が猿の子のしらみをとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた」とあるように髪の抜き方が随分と丁寧だ。

 だが、『羅城門』では「かなぐり抜き取」っている。ここに死者への何らかの敬意はない。ただの鬘の材料である。

 また、『羅生門』では「猿のような老婆」「鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕」「肉食鳥のような、鋭い目」と、老婆をしつこいほどに動物の比喩を用いて表現している。
 ところが、『羅生門』の老婆の特長は「極く老いたる」「白髪白き」だけである。

[原文]
 盗人(ぬすびと)、これを見るに、心も得ねば、「これはもし、鬼にやあらむ」と思いて、怖(おそろし)けれども、「もし、死人にてもぞある。脅(おど)して試む」と思いて、和(やお)ら戸を開けて、刀を抜いて、「己(おのれ)は」と云いて走り寄りければ、嫗(おうな)、手迷いをして、手を摺りて迷えば、盗人(ぬすびと)、「これは何ぞの嫗(おうな)の、これはし居たるぞ」と問いければ、嫗(おうな)、「己(おの)が主(あるじ)にて御(おん)ましつる人の失(う)せ給えるを、繚(あつか)ふ人の無ければ、かくて置き奉(たてま)りたるなり。その御髪(みぐし)の丈(たけ)に余りて長ければ、それを抜き取りて鬘(かつら)にせむとて抜くなり。助け給え」と云いければ、盗人(ぬすびと)、死人(しびと)の着たる衣と、嫗(おうな)の着たる衣と、抜き取りてある髪とを奪い取りて、下り走りて、逃げて去りにけり。
[現代誤訳]
 盗人は、これを見ても、事情が理解できないので、「これはもしかして鬼ではないか」と思って、恐ろしかったが、「もしや生き返った死人かも知れない。脅して試してみよう。」と思って、いきなり戸を開けて、刀を抜いて、「お前は何だ?」と云って走りよると、婆は慌ててふためいて手をじたばたさせて、手を擦り合わせて命乞いをしたので、盗人が「これはどういう婆が、何をしているのか」と聞くと、婆は、「私の主人でいらっしゃった人がお亡くなりになったのを、弔う人もいないので、このように羅生門の上に骸を置いているのです。この方の髪が背丈より長いので、それを抜いて鬘にしようとして抜いているのです。命だけは助けてください。」と云ったので、盗人は、死人の着ていた服と、婆の着ていた服と、抜き取った髪を全て奪い取って、門から走り下りて、逃げ去ったということだ。

 『羅生門』では死体の女は蛇の干物を魚の干物だと云って売りつけていたおそらくは下層階級の女であり、老婆はこの女が悪事をしていたことを自分が髪を抜く口実としていた。
 ここでの老婆と下人のやり取りはこの小説のクライマックスと云ってよい。
 「悪いことをしたものは悪いことをされるのだ」という老婆の論理によって下人は「ならば俺も悪いことをしていたお前に悪いことをしてもよいのだ」という論理を思いつき、それによって盗人になること、つまり「獣道」を歩むことを決意するのである。

 ところが『羅城門』では死体の女は生前は老婆の主人(おそらくは中~上流階級)であり、不運にも誰も弔うものがいないという理由のみで老婆から髪を抜かれて鬘にされそうになっていたのだ。
 既に「獣道」である。

 そして『羅生門』では下人は老婆の着物のみを奪って逃げる。
 これはむしろ死者を冒涜した老婆に対する懲罰にさえ見える。本当にこの時点で完全な盗賊になることを決意しているのであれば『羅城門』の盗人のように何もかもを奪って逃げるはずだからだ。
 下人はこの期に及んでもまだ「獣道」を歩んでいない。

   大岡昇平『野火』の「殺したけれど食べなかった」という科白を思わせる。

 『羅城門』にそんな勧善懲悪的な論理は欠片もない。不運な弱者がその場の強者に何もかも奪われてしまう弱肉強食の論理があるだけだ。

 これぞ「獣道」である。

 芥川は下人や老婆を表現するのに本当に執拗なくらいに動物の比喩を使用しているが、それは全て直喩である。
 つまり、「~のようだ」なのだ。

 人間らしい者から死んでいくという極限状態の中でも、下人も老婆もぎりぎりのところで人間らしさの領域に踏みとどまっている。
 それが下人であれば死者の着物や髪の毛までは奪わないということであり、老婆であれば鬘を作るための髪の毛を乱暴に抜かないということ、或いは髪を奪うのは自分が生きるために仕方のないことだという自覚と後ろめたさなのだろう。

 ここでもし芥川が登場する人間を一つでも隠喩で表現していたとしたら、この小説の場面そのものが「獣道」になってしまっていたに違いない。

 たとえば羅生門に放置されていた死体(これも立派な人間である)を芥川はこう表現している。
 「その死骸は皆、それがかつて、生きていた人間だという事実さえ疑われるほど、土をこねて造った人形のように、口を開いたり手を伸ばしたりして、ごろごろ床の上にころがっていた。」

 もし彼がこう表現していたらどうだろう。
 「それは口を開いたり手を延ばしたりして、ごろごろ床の上にころがっている、土人形だった。」

 そうだったとすると、もはやそこにある骸たちは鬘にするために老婆から髪の毛を抜かれたとしても、下人を憤慨させるような存在ではなかったのではないか。

 「獣道」は人が人でなくなる世界である。
 そこには下人の憤慨も、老婆の後ろめたさもない。

 芥川の描いた世界は、だから、「獣道」ではない。
 疫病と飢餓と云う極限状態においてもぎりぎりのところで人間性を失わない、というよりも失い得ない、「獣道」ではない世界なのではないかと私は思うのだ。

 ところが芥川の自死から僅か15年ほどで、相当数の日本人が、人を殺すために送り込まれた場所で『羅生門』が、いや、『羅城門』でさえ可愛く見えるような苛烈な極限状態に置かれてしまったことを現代の私達は知っている。それが『野火』の世界だ。
 芥川の「ぼんやりした不安(遺書)」は鮮烈な現実となってしまった。

 閑話休題(さきにすすもう)。

[原文]
 さて、その上の層(こし)には、死人の骸(かばね)ぞ多かりける。死にたる人の葬いなどえせぬをば、この門の上にぞ置ける。
 このことは、その盗人の人に語りけるを聞き継ぎて、かく語り伝えたるとや。
[現代誤訳]
 さて、羅城門の二階には、死体が多かったということだ。死んだ人で葬式をできない人の死体をこの門の上に置いていたのだ。
 この話は、その盗人が人に語ったのを語り継いで、このように語り伝えているということだ。

 『羅生門』は「下人の行方は、誰も知らない。」で終わっている。
 男は歴史の舞台から消えたのだ。
 大盗賊になったかも知れないし、結局盗んだのは老婆の着物だけだったのかもしれない。その後も生きていたのか死んでしまったのかも分からない。

 教えた生徒たちの感想文ではその後の下人が生き生きと想像されていて、とても面白かった。
 「結局思い直して真人間になった」とか「罪の意識で自殺してしまった」とか。

 これは下人が『羅生門』の話の結末に至っても人間らしさを保っていたことを読み取れたからこその感想であろう。
 
 ところが、『羅城門』では「その盗人の人に語りける」とある。
 これはその後この盗人が他人と交渉があって、自分の悪事を語ったということを意味している。

 ここには自分が人間らしさを失って「獣道」に墜ちたという自覚はない。
 もしそれがあるとすると人には話さないはずだ。

 もしそうした自覚があるにも関わらず男がこの話を誰かに話したとすると、検非違使か何かに捕まって取られた供述調書が物語の元ネタになっている場合が考えられる。

 私は何となくそうではないかと思っているのだが、エビデンスを示せないのでこれ以上話を広げることはしない。

 それにしても人間とは何かについて考えさせられる『羅生門』と『羅城門』である。

俳句を読む4-正岡子規4-柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺-(新米国語教師の昔取った杵柄89)

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柿食えば

 私は良い俳句の3つの要素は飛躍・余韻・ユーモアだと思っている。

 これは今何の参考書もなく思いついたものだが、もしかすると過去に読んだ入門書などに書いてあったことが血となり肉となりあたかも自分が思いついたように錯覚しているのかもしれない。

 飛躍、というのは、五、七、五のうち初句と二句、二句と結句、初句と結句同士が平坦に繋がっているのではなく、突然断層が生じるために、次に行くにはそこで読者が跳躍してその割れ目を避けなければならない、ということだ。
 私はこれがないものは俳句としては品質の悪いものだと思う。謂わば短歌の下の句をわざと読まず、「俳句です」と称しているような。

 余韻、というのは、表現してある情報に実は背景になるもっと大量の情報があり、それが表現されている情報に接すると推測できたり想像できたりするということだ。
 正岡子規は俳句でも短歌と同様「写実」を重んじたが、見たものを単に写した訳ではない。彼の俳句には写実されなかった豊富な情報が含まれている。

 最後にユーモアであるが、これはAI君によれば、「 人を和ませるようなおかしみやしゃれ、知的なウイットや風刺などを意味する言葉」である。
 これは俳句が元々連歌の発句(最初の句)が独立したものであることを考えれば当然かもしれない。連歌という文学そのものがそうした性質を持つものだからだ。

 正岡子規にはこの三つの要素を兼ね備えた俳句がある。作句されるや既に100年以上に亘って人口に膾炙したものであるから誰でも知っているのではないか。

[俳句]
 柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺
[現代誤訳]
 柿を食べていたらちょうど鐘が鳴ったよ。法隆寺の鐘だ。

 聴覚に関する文脈なので「なり」を推定の助動詞とする説もあるようだが、平安貴族ならいざ知らず、近代人である子規が「鐘が鳴っているようだ」と表現するのは不自然なので断定の助動詞ととりたい。

 では三要素で見ていこう。

 まず、飛躍。
 初句「柿」から二句「鐘」へ、という一見関係ないものへの飛躍。
 初句の味覚から二句の聴覚への飛躍。

 断層が広すぎると読者が飛べないが、ちょうどよい断層であるから、読者は「おっとっと」と飛べる。
 子規の弟子である河東碧梧桐は「柿喰ふて居れば」の方が良いとアドバイスをしたというが、これだと初句と二句が地続きになってしまい、飛べない。
 初句と二句があたかも原因と結果の関係にあるかのように誤読できるから飛べるのだ。

 この飛躍はあまりにも印象的だから以後「〇食えば」で始まる俳句は誰からも(少なくとも有名な俳人には)作られていない。陳腐な模倣だと思われてしまうのだ。

 たとえば私が

  チョコ喰えば 第九聞こゆる 冬の街

 などという俳句を詠めば、子規マネとして非難囂々であろう。 

 そして余韻。

 どこにも書いていないが、この句は秋の古都奈良を旅して法隆寺の近くの宿か茶屋で詠まれたものだと分かる。時刻はおそらく夕方である。天候は少なくとも雨ではない。夕焼けが奇麗でないといけないからおそらく晴れである。子規はおそらく座っている。人によっては法隆寺の五重塔が眼に浮かぶ人もいるかもしれない。

 これだけの情報がたった十七文字の中に盛り込まれているのだ。

 最後にユーモア。
 
 この句に何か笑いを誘うような題材があるか、といえば、ない。
 だが、柿→鐘→法隆寺という飛躍が何とも云えない可笑しみを生み出している。
 「何で柿喰ったら法隆寺の鐘が鳴るんだよ」というような。

 さらに、一見誰にでも作れそう、という外観もまたこの句に可笑しみを与えている。

  咳をしても一人  尾崎放哉

という句を見て日本中の中学生が

  くしゃみをしても一人

という句を作るような。

  この句が長く親しまれているのはこの最後の要素によるのかもしれない。

 結局紹介できた俳句は2首か。

 俳句の鑑賞は難しい。

俳句を読む3-正岡子規3-子規v.s.貫之-(新米国語教師の昔取った杵柄88)

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小峠君と子規

 冒頭の絵と内容が関係ないことをお詫びします。

 脊椎カリエスによって長期臥床状態になってしまった正岡子規であったが、彼の文学的活動はむしろこの時から始まったといってよい。

 まず「獺祭書屋俳話」により旧来の俳諧について批判した後、「歌よみに与ふる書」により歌壇を批判する。

 今、「獺祭書屋俳話」は国立国会図書館の公開している原典によって読めるが、この数百頁に及ぶ書物を休日に自分が使える僅かな時間を使って読んでたった今紹介するのは正直無理である。
 これについてはもう少し時間をいただきたい。
 (忘れてください。)

 したがって「蒼空文庫(仮名)」「歌よみに与ふる書」の方を紹介したい。こちらは「その10」まであるが、30分もあれば読んでしまえる。

 「与ふる書」を一言で云えば、「既成歌壇に喧嘩を売っている」という奴であろう。
 特にこの一節は歌人たちを憤慨させたに違いない。

[原文]
 貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に之れ有りさうらう。
[現代誤訳]
 紀貫之は下手な歌人であって『古今和歌集』は下らない歌集である。

 そして槍玉に挙げられるのは次の歌である。

[和歌]
 年のうちに 春は来にけり ひととせを 去年こぞとやいわん 今年とやいわん
[現代誤訳]
 暦の上では12月のうちに立春が来てしまったよ。この一年を去年と云ったらいいのか、今年と云ったらいいのか。

 古今集の成立した平安時代は旧暦(太陰暦)の世界である。
 太陰暦は月の満ち欠けを基準にした暦である。

 ところが、この暦は人々の季節感とズレた暦である。
 元々暦は主に農作業のために作られたものなので、実際の季節と暦が違うとさまざまな不都合が起って来る。

 これを補正するために考えられたのが太陽の運行を基準とした二十四節季である。立春は二十四節季の最初、つまり新年を示す日であり、冬至と夏至のちょうど中間点なのだ。

 旧暦と二十四節季は基準とするものが月と太陽で違っているから、年によってズレが生じる。
 
 そのため旧暦ではまだ正月になっていないのに二十四節季ではもう立春、ということがあり得るのだ。これを「年内立春」という。

 『古今集』の冒頭を飾る在原元方の歌はこの年内立春をネタにして、「太陰暦だとまだ、12月、でも二十四節季だともう新年。立春の今日は旧年なのかね?それとも新年なのかね?」と面白がっている歌なのだ。

  現代で云うならば「閏の2月29日に生まれた人は4年に1回しか歳をとらない」といった類の冗談というか。

 私などは最初にこの歌の意味が分かった時、「あぁ、面白いことを考える人だなあ。平安時代の人って楽しいよね。」と思ったのだが、子規は酷評する。
[原文]
 実に呆(あき)れ返つた無趣味の歌にこれありさうらう。
[現代誤訳]
 実に呆れかえった無粋な歌であります。

「こんな下らない言葉遊びに勅撰集の貴重な紙面を使うな!」と怒っている訳だ。

 もっともこの歌は明治以前からあまり評判がよろしくない歌らしく、小林一茶なども、
[俳句]
 年の内に春は来にけりいらぬ世話
[現代誤訳]
 暦のズレで年内立春したからってそれのどこが面白いんだ。要らぬ世話だ。

という俳句を残している。


 子規は『古今集』全体についても、
[原文]
 この外の歌とても大同小異にて駄洒落(だじゃれ)か理窟ツぽい者のみにこれありさうらう。

 と評している。現代誤訳は不要であろう。

 そして、
[原文]
 皆古今の糟粕(そうはく)の糟粕の糟粕の糟粕ばかりにござさうらう。
[現代誤訳]
 古人の糟粕を舐める(昔の人の真意を図らずに外見ばかりを真似る)というが、『古今集』を糟粕(酒粕)に喩えれば搾りかすの搾りかすのそのまた搾りかすばかりだろうて。

 とこき下ろす。

 この発言の背景にあるのは『万葉集』の「自分の気持ちを飾らずに率直に詠む」という作風に違いない。

 現代ならば「炎上必至」というところであろうか。 
 ただ、短歌がこれほどの長い時間日本人に愛されてきたのは、単に気持ちを率直に詠むだけでなく、年内立春の歌のようないわば言葉遊び・知的遊戯の側面もあるからだろうと私は思う。

 自分の気持ちを飾らずに率直に表現するのが一番良いのであれば、「俺は〇〇ちゃんが好きだーっ!」と叫べばよいからだ。

 語弊を恐れずに云えば、言葉を弄ぶのはある一定の国語力を持った者にとっては楽しい行為なのである。

 もっとも子規の1つ前の時代に持て囃された黄表紙本などを読むと、子規ならざる私ですらその田舎蔑視とスノビズムにうんざりさせられるから、子規の伝統和歌攻撃はあるいはこうした江戸っ子的な思潮を意識したものなのかもしれない。 

 なにせ子規は「まことに小さな国が開化期を迎えようとして」いたときに「四国は伊予松山」の田舎から青雲の志を抱いて上京してきたという典型的な「明治人」なのだから(司馬遼太郎調で)。

 ところが、この後には子規の過激な言動が友人からやりこめられた、という自嘲も登場する。

 友人が、「では紀貫之の『川風寒み千鳥鳴くなり』の歌はどうですか。」と云ったので閉口したというのである。

 千鳥の歌はこんな歌である。

[和歌]
 思いかね 妹がり行けば 冬の夜の 川風寒み 千鳥なくなり
[現代誤訳]
 逢いたくてたまらずに妻の所に急いでいると、冬の夜の川の風が寒いので千鳥が鳴いているよ。早く君のぬくもりに包まれたい。

 「~がり」や「~み」などの上代に多用された助詞を用いて心情を率直に詠んだこの歌は『万葉集』に収録されていても不思議ではない。

 確かにこの歌を持ち出されてはさすがの子規もグーの音も出なかったに違いない。

 こんな歌もあるぞ、と私も云いたい。

[和歌]
 春日野の若菜つみにや白妙の袖ふりはえて人のゆくらむ
[現代誤訳]
 春日野の若菜を摘みに行くのだろうか、真っ白な袖をふりふり乙女たちが歩いて行くよ。

 この歌の何処が「駄洒落(だじゃれ)か理窟ツぽい者」だというのか。

 もっとも、この歌を探すのに紀貫之の歌を100首ほど読んでみたのだが、確かに彼の歌には情景をスパッと切り取ったり心情をバーンと吐露したりした歌はほとんどない。

 有名なこの歌を見てみるとわかる。

[和歌]
 袖ひぢて むすびし水の こおれるを 春立つ今日の 風やとくらむ
[現代誤訳]
 夏の日に袖を濡らしながら掬って飲んだ水が、冬になって凍ったのを、立春の今日吹く春風が解かしたのだろうか。

 おそらく貫之は春の日に川の水を掬って飲もうとしたのだが、それが思いのほか冷たかったのだ。それで「ああ、これは雪解け水だな」とピンと来た。そこから更に同じ場所で夏に水を飲んだことを思い出したのである。

 確かに、

 袖ひぢて むすびし水の 冷たければ げに雪解けの 水にやあるらむ

と歌やあいい話じゃねえのかい、と子規に代わってべらんめえ口調で云いたいところではある。

 そこの涎喰って寝てる生徒君、「冷たければ」は「冷たし」の已然形プラス「ば」だから順接確定だからね。今日の授業でこれだけは覚えとくように。(楽屋落ちでスミマセン。)

 だが、この人はおそらく脳内ネットワークの伝達速度が異常に速かったのだと思う。だから雪解け水に手が触れた瞬間に脳内イメージが春から冬、さらに夏、と季節が移り替わったのだ。もちろんその際に触覚や視覚も瞬時に生起しているはずである。

 だからこれは決して「理窟ツぽく」詠んだ歌ではない。正直な「感覚」で詠んだ歌なのだ。
 これができるからこそ「歌仙」なのである。

 紀貫之より脳内ネットワークの伝達速度が遅い人は彼のスピードについていけない。
 したがって、この歌を理屈で理解するしかない。

 そうすると「冷てっ!」という感覚と「そうそう、雪解け水って冷たいんだよなあ」という共感は消えてしまって、「上手だねえ貫之は」という感想しか出てこなくなってしまう。

 子規も最初は貫之を感覚で理解していた筈である。彼の脳内ネットワークならば可能だったはずである。だからこそ

[原文]
 実はかく申す生も数年前までは『古今集』崇拝の一人にて候いしかば、今日世人が『古今集』を崇拝する気味合(きみあ)いは能(よ)くありもうしさうらう。崇拝してゐる間は誠に歌というものは優美にて『古今集』は殊(こと)にその粋を抜きたる者とのみ存候し
[現代誤訳]
 実はこう云っている私も数年前までは『古今集』崇拝の一人であって、今日世間の人が『古今集』を崇拝する気持ちはよくわかるのである。崇拝している間はまことに和歌というものは優美で「古今集』はその粋であるとだけ思っていて

という状態だった訳だ。

 それが、「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に之れ有りさうらう。」となったのは子規自身が『古今集』と貫之の歌を「理窟ツぽく」理解しようとしているからだ。
 その「理窟」とは『万葉集』を基準にして『古今集』を断罪しようというものだ。

 貫之に付いていけていないのは彼の凡百のエピゴーネンたちもそうだろう。感覚で理解できないから技巧を真似るしかない。
 子規が本当に批判したかったのはこの人たちかも知れない。

 これ、「俳句を読む」だよね。

 また行きつかなかったので子規の俳句については次回。  

俳句を読む2-正岡子規2-正岡子規と野球-(新米国語教師の昔取った杵柄87)

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子規と野球

 あなたはなぜ東京六大学のリーグ戦に「東帝大(仮名)」が参加しているか知っていますか。

 「そんなもん当たり前だろ」と思った貴方。
 「サッコ・ヴァンゼッティちゃん(仮名)」に叱られますよ!

 259勝1748敗63分勝率0.129。

 学生の頭脳では他の5大学を凌いでいる東帝大も、野球では甚だ分が悪い。

 だが、他の大学が「この実力では我がリーグに居る資格なし」などと騒いだことはない。

 何故なら、東帝大こそ現在日本で行われているあらゆる野球競技の元祖であり、東帝大なかりせばひょっとすると日本は世界で第二位の野球大国たりえなかったかも知れないのである。

 時は明治初年、場所は東帝大教養部の前身である第一大学第一番中学校(後開成学校と改名)まで遡る。

 この学校で教えているホーレス・ウィルソンという米国人がいた。近代国家を目指して悪戦苦闘を始めた我が日の本にはそれを援助するたくさんの西洋人がいた。彼らは「お雇い外国人」と呼ばれたが、ウィルソンはその一人だったのである。

 彼は自らの教え子の体格が貧弱であることを心配し、彼らに母国の国技たるスポーツを教えようとした。Baseballである。あくまで体力向上のためである。

 ところが、学生たちはどういう訳かこの異国の競技に魅了されてしまい、熱中し、しまいには勉強を疎かにするほど没頭する者まで現れた。

 こうして開成学校から更に改名した第一高等学校の頃には多くの学生にとって「校技はBaseball」と認識されるほどにBaseballの盛んな学校になった。
 そして彼らはあちこちの学校に呼び掛けてBaseballの対抗試合を行ったり、あるいは技術の指導をしたりしてこの競技の普及に努めたのである。

 そしてBaseballは同時に早くも日本化の道を辿る。
 一つはその武道化である。

 「学生野球の父」と云われた飛田穂洲はこう語る。
「一高の練習には痛いという言葉が禁制になっていた。空脛、素足の選手の向う脛が鉄球に襲われる。普通の人間なら悲鳴をあげながら痛みを訴えるに相違ないのであるが、彼らは多くの場合一語も発しない。まさに痛みを噛み殺してしまう。しかもなお噛み殺せない場合があれば軽く痒いと反語を用いる。凍てた寒風を切る球、時々指間を裂いて鮮血に染まるも顧みる者がない。(『球道半世紀』)」

 私は小学校の頃に親から無理矢理剣道をさせられて以来の武道嫌いであるからこんな野球は絶対にやりたくないが、イレギュラーバウンドが顔に当たった選手が「うわーっ! 痒い! 痒い!」と叫びながら転げ回っている様を想像するとどこか滑稽である。

 日本化のもう一つはBaseballへの日本風の命名である。
 「野球」と呼ぶのは世界中で日本と韓国(「야구=ヤグ」という)だけである。中国では「棒球」である。こちらの方がむしろ名が体を表しているかも知れない。

 私が学生の頃まではBaseballに「野球」と名付けたのは正岡子規であるという説が長く信じられていた。
 子規の学生当時の字である「昇」をもじって「のぼーる」=「野ボール」で野球と命名されたのだとされていた。
 この説は子規の弟子であった河東碧梧桐が流布したものである。

 しかし、その後の研究によって嚆矢となったのは中馬庚というやはり一高で学んだ人だと分かった。
 これについては城井睦夫「"野球"の名付け親中馬庚伝」ベースボールマガジン社に詳しい。

 だが一高時代の子規が野球に熱中していたことは確かのようだ。
 明治31年に野球に関する連作短歌を9首残しているが、その中でも有名なのは次の歌である。

[短歌]
 今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな
[現代誤訳]
 満塁だ! どきどきするなあ!

 私の好きな歌はこれである。

[短歌]
 打ち揚ぐるボールは高く雲に入りてまたも落ちくる人の手の中に
[現代誤訳]
 打ちました! 高ーく上がったフライ! いったん雲の中に消えてからまた落ちてきました! アウト!

 あの夏の日。

 ベンチにあるのは大きな氷と麦茶を入れたポリバケツである。
 よく飲食店の裏に置いてある奴だ。

 バケツの蓋にはアルマイトの柄杓が橋掛けてある。

 練習試合が終わってそれを我先にと柄杓で直接飲むのである。

 麦茶で冷やされたアルマイトが唇に触れるとヒヤッとして心地良い。そして歯に沁みるほど冷えた麦茶が渇いた喉を駆け下りていく。

 今か今かと待ちわびながらライトを守っているのはそろそろ青年になりかけた少年である。

 暑い。汗が顎の先からぽたぽたとグラウンドに落ちる。喉はカラカラである。

 キーン! と金属バットが軟式ボールを弾く音がして、ボールが一瞬入道雲の中に消え、それから自分に向かってぐんぐん迫って来る。

 一瞬バックしかけて、おっとっと、意外に伸びない。

 慌てて前進する。

 本当は片手で捕れるし子供心にその方が格好いい。
 でも、そんなことをするとコーチからビンタを張り飛ばされる。

 だからボールが右手のグラブに入る瞬間に左手で蓋をする。
 
 これが上手くいかなくて何度突き指をしたことか。

 安物のグラブは軟球をちゃんとポケットで捕っても掌にビーンと響く。

 やったー、やっと麦茶が飲める。

 あの時見た空はブルー・スカイ・ブルー。
 
 空の青さと汗だくの暑さと喉の渇きを忘れない。

 ふと右手の人差し指を見ると、30度くらいに曲がって伸びなくなった第一関節。

 あの暑い夏の証人である。


 おっと、「俳句を読む」だった。

俳句を読む1-正岡子規1-脊椎カリエスという病-(新米国語教師の昔取った杵柄86)

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脊椎カリエス

 あなたの右腕の肩関節から上腕 付近を見て欲しい。

 あなたが日本国民ならば、おそらくそこにはほんの微かに、或いはかなりはっきりした化膿痕があるはずである。

 あなたが私と同じ1960年代生まれならばそこには3つの瘢痕がある。

 それは種痘が1回接種された痕と、BCGが2回接種された痕だ。

 あなたが1976年以降に生まれた人ならば、そこには2つの瘢痕があるだろう。

 そして私達1960年代生まれの3つの瘢痕が煙草の火を押し付けられた所謂「根性焼き」の痕のようなものであるのに対して、1976年以降生まれの人の2つのそれはあたかも四角形のハンコ型の焼き鏝を押されたような外観を呈しているに違いない。

 種痘は天然痘のワクチンであり、BCGは結核のワクチンである。

 1976年以降生まれの人に種痘の痕がないのは、天然痘が1956年以降日本で発生していないからである。1980年には世界保健機関(WHO)によって天然痘の根絶宣言が発せられた。

 天然痘も結核も人類が文字によって自らの歴史を記録できるようになったその瞬間からそこに刻み込まれている疾患だが、結核については根絶宣言どころか「再興感染症」としてWHOが警告を発している。

 日本人と結核の関わりは古いが、特に幕末から近代にかけて人々の行動範囲が広がり、局所的に人口密度が高くなる状況になると「国民病」と云われるほどに猖獗を極めた。

 四国は伊予松山から第一高等学校に進学して上京した正岡常規という青年もまたこの感染症に罹患した一人である(司馬遼太郎調で)。
 現在の私達はこの青年のことを子規というペンネームで以て知っている。

 子規が最初に既に進行した結核の症状である吐血をしたのは明治21年(1888)の鎌倉旅行のときであるとされるから、それ以前には感染していたのだろう。

 明治28年(1895)、日清戦争に記者として従軍した帰途の船上で大吐血して一時重態となる。

 やがて肺から脊椎に菌が侵入し、「脊椎カリエス」という状態になった。

 「小説の神様」と云われた志賀直哉は短編である『城の崎にて』の中に「脊椎カリエス」という専門用語を二度も登場させている。

 「背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねない」「自分は脊椎カリエスになるだけは助かった」

 脊椎カリエスは結核の病態の中でも患者に最も恐怖されていたものの1つであって、そのことが『城の崎にて』から推察される。

 この病態は何よりもその痛みを特徴とする。

 脊椎には人体で最も太い神経が束になって通っているから、それが病魔に侵されると泣き叫ばざるを得ないような激痛が生起する。

 子規はやがて寝たきり状態になる。

 だが、驚いたことに、子規の残した著作物の多くは激痛に呻きながら病床で書かれたものなのだ。

 私がおそらくは中学の時に初めて習った子規の短歌である。

[短歌]
 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
[現代誤訳]
 机の上に置かれた瓶に挿した藤の花の花房が短いので後少しのところで畳の上に届いていないなあ。

 当時は自分の見たものをそのまま写して何が面白いのだろうかと思っていた。

 しかし、下半身の麻酔が覚めてきて腰が猛烈に痛くなって来たのに仰臥位のまま動けない、という経験や、寸分も動くなと命ぜられて異常な電気信号を遮断すべく心筋を焼灼される、といった経験をした後では、この短歌の、

「後ちょっとなんだけどな。動けたらな。」

という、何ともじれったいというか、でもそれだからこそ感じる生の実感が分かるのだ。

 藤の花房の先端がべたっと畳についてしまった感じ。
 もうこの世に思い残すことがない。

 藤の花房は絵に描いたような調和の中で垂れ下がっている感じ。
 健康な人の感覚である。

 自然を観察する人間にはそれに干渉したいという感情が芽生える。
 
 例えば甘いもの食べに来るメジロとそれを追い払って横取りするヒヨドリ。

 それについては私がわざわざ目白しか食べられないような仕掛けを作った話は既にした。

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三角とりどりの記14-メジロ夫婦、河童一族の陰謀に嵌る-(Sea豚動物記87)

 だが病床の子規には机の上の藤の花を視てそれを写生することしかできないのである。

  だが、そのじれったさがそのものの本質まで透徹するような写実を生み出したのかも知れない。

  子規は遂に起き上がることなく、亡くなる。

  死因は肺の隅々まで冒した結核菌に対する生体反応で生じた大量の痰による窒息であった。

 享年34歳。

 [俳句]
  糸瓜咲いて痰の詰まりし仏かな

[現代誤訳]
   糸瓜の水を飲むと痰が切れるというが、その糸瓜の花が咲いた日に痰が詰まって死んでいく私である。
 
  子規が自らの死を詠んだ俳句である。

魅惑の歌声Sondia5-내일도 오늘처럼/明日も今日のように-(韓国ドラマに一喜一憂5)

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綺麗なんだよね

 私は韓国語学習歴40年になんなんとするが、未だに初めて聞く韓国語の曲の意味はほとんど分からない。
 10回くらい聞いてまずメロディーを覚え、30回くらい聞いて意味が分からないなりに歌詞が聞き取れるようになってきて、 100回くらい聞いて意味が分からないなりの歌詞を記憶して初めて、「ああ、大体こんな意味なんだろうな」と分かる。

 韓国の歌手Sondiaについては既に4回話題にしている。

 魅惑の歌声Sondia1-어른/オルン(大人)との出会い-(韓国ドラマに一喜一憂1)
 魅惑の歌声Sondia2-그대는 슬픔이 아니다/あなたは悲しみじゃない-(韓国ドラマに一喜一憂2)
 魅惑の歌声Sondia3-Away-(韓国ドラマに一喜一憂3)
 魅惑の歌声Sondia4-외딴길에서/人里離れた道で-(韓国ドラマに一喜一憂4)

 個人的にはクン、クン、クンペン(韓国語で大、大、大ファン)なのだが、彼女の歌う歌の歌詞の意味については他の歌手とご同様である。

 この状態はデオ林檎(仮名)でもう5年以上も通勤の電車の中で韓国語を学習してもいささかも変わらない。
 
 ただ、この間たまたま聞いたSondiaの、おそらくは最新曲に関しては、どういう訳か最初に聞いただけで、「多分こんな歌なんだろう」と分かった。

 そしてこの歌はSondiaの、ちょっぴりハスキーな低音から
、高音になるにつれて澄んでいく声にぴったりの歌である。

 Sondiaについて知らない人のためにちょっとだけおさらいをしておくと、この人はデビュー曲以外のほとんど全ての歌がドラマのOST(Original Sound Track)であり、コンサートやファンミーティングをしたという話は一度も聞いたことがない。

 それどころか、性別は声から考えておそらく女性だろうが、年齢や経歴なども一切明らかではない。

 それどころか、顔さえ「Sondiaである」と云われてネット上にある写真が本人のものか定かではないのだ。

 Sondiaに関する「インスタントテル(仮名)」は存在するが、これはアカウントが'Sondiarespect'(ソンディアを尊敬)なのだ。本人がこんなアカウントをつけるだろうか。私には友人か何かが代わりにやっているものとしか思えない。

 ことほど左様に謎の人Sondiaなのだが、一つだけはっきりしていることは、この人が歌が上手いということだ。

 日本ではこの歌手を知っている人でも「니의 아저씨/私のおじさん」のOSTである「어른/大人」だけが取り沙汰され、ネットでの話題もこのドラマがらみの話ばかりだった。

 ところが、実はSondiaのOSTはフォーク、ジャズ、バラード、ロックなど多岐にわたるのである。
 そしてどのジャンルも見事に歌いこなしている。聞いてみれば分かる。

 また、デュエット曲もよい。
 声におかしな癖がないからどんな相手と組んでも見事な調和を見せる。変な自己主張で相手を邪魔しない。

 閑話休題(しんきょくのはなしだった)。

 「明日も今日のように」は『ナミブ ―砂漠と海の夢―』というドラマのOSTである。

 私はこのドラマをまだ見ていない。今ちょうどこれが配信されている「ウー!寝とっと?(仮名)」を契約しているので見ようと思っているが、とりあえず歌の話に限定する。

 この歌はごく静かに、Sondiaのちょっとだけハスキーで優しい声で始まる。

 ところが、この部分は私にはほとんど聞こえない。

 なぜかと云えば、定年と共に車を替えたからだ。

 今までの愛車「ウォッス(仮名)」は今頃はミャンマーかどこか第三世界の街角を走っているに違いない。

 今私が乗っているのは10年落ちの軽自動車である。

 この車は踏切などの凸凹道以外では実に快適に走ってくれる。ただサスペンションがヘタっているらしく、そうした道では「振動が共振してひっくり返るのではないか」と少々ドキドキする。

 ただ、問題はそんな些細なことよりも(十分重大な問題だと思うが)、長年のシリンダーとピストンの摩擦の結果、エンジン音が大きいことである。

 私は基本的に音楽は自動車を運転しながらしか聞かない。
 ところがこのエンジン音はSondiaの繊細な低音を見事にかき消してくれるのだ。

 したがって話は高音部のことになる。聞こえない歌に感動はできないからだ。

 一番好きなフレーズはサビの部分、

 「알 수 없지만 내일도 오늘처럼/アル ス オプチマン ネイルド オヌル チョロム(日本誤訳:明日のことなどわからないけど、今日みたいに私らしく)」

なのだが、珠玉のフレーズがあちこちに散りばめられている。

 「고맙다는 혼잣말/コマプタヌン ホンジャマル」(日本誤訳:ありがとうという独り言)」

 そう。

 本当に心動かされた感情はその人に簡単には伝えられない。
 日本人である私達は簡単に「ありがとう」と云う。
 しかし、自分の人生を良い方に決定づけてくれた大恩のある人に「ありがとう」と面と向かって云えるかといえば、結構難しい。多分泣いてしまう。だから、独り言で「ありがとう」と呟くのだ。

 「느려도 좋은 나의 길/ヌリョド チョウン ナエ キル」(ゆっくりでもいいんだよ、私の道)」

 もう折り返し地点をとっくに過ぎて終点が近い私に向かっては云えない言葉だが、私が日々接している若い人たちに一言掛けたい言葉である。

 誰にでも「今の自分を変えたい」「今の社会を変えたい」と思う気持ちはある。
 だが、人も社会も急には変わらない。変わったと見えるとすれば、それは虚構か、物凄い無理だ。

 のんびり行こうぜ♪ 俺たちは♪

 「뭘 버리고 갖게 될까/ムォル ポリゴ カッケ ドェルカ(日本誤訳:何を捨てれば得られるというの)」

 一番難解なのはこの歌詞である。

 直訳すると「何を捨てて得られるのか」なのだが、意味がさっぱり分からないので前後の関係を考えて誤訳してみた。

 涙が出そうになったのはこの部分である。Sondiaの声が超高音に向かって透き通りながら上昇して行く。

 「매일이 달라 두렵던 날은  이젠 지워/メイリ タルラ トゥリョプトン ナルン  イジェン チウォ(日本誤訳:毎日「違うっ!」て思いながら怖かった日は、もう消すの)」

 私はこの歌の歌詞がぼんやり分かってきたとき、なぜか、現在世間から叩かれまくっている会社で真面目に働いてきた人たちのことが頭に浮かんだ。

 どれほどの売り手市場であっても、人に雇われる立場の人に完全に自由な選択などあり得ない。
 人の世に完全な組織などないから、「何か変だな」「ここは大丈夫だろうか」などと思いながら、「ここが一番マシか」と職場を選ぶのが普通である。

 その中で「大外れ」はあっても「大当たり」はなかなか難しい。
 インタビューでもされれば「大当たりでした!」と云う人はいるだろうが。

 ヒトがヒトである限り、組織には常にそこで働く人にとっての非常識や理不尽が存在する。

 日々が組織の論理と自分の中の「マトモ」との闘いである。

 その組織の非常識や理不尽が反社会的なものまで肥大してしまうことがあるが、組織の中にいるとそれに気づかないことがある。
 
 ところが、それがある日白日の下に晒されてしまうのは、現代の社会が情報の売買で成り立っているからだろう。

 そして世論の猛烈な攻撃が始まる。

 変な人たちが会社を牛耳っていても、自分は真面目にやってきたのに、という人たち、頑張れ。
 きっと誰かが見てくれている。

 それでも疲れてしまったときはSondiaを聞いてみてください。
 そういうときは「オルン/大人」か、新曲の「明日も今日のように」がいい。

 ぜひ。





 

 

漢詩を読む8-夏目漱石「春日偶成」-(新米国語教師の昔取った杵柄85)

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夏目漱石

 明治時代は45年続いたから明治に生きた人と云うのは45歳以下で死なない限りは江戸の生まれである。
 江戸の知識人は常識として漢文を身に着けていたから、自分の心情を吐露するのに俳句や短歌を使わない場合は漢詩を使用することが多い。

 勿論明治の作家たちは言文一致運動の影響を受けている。
 したがって幸田露伴のような一部の例外を除けば小説や随筆は口語で書いているが、何か心を動かされる出来事があったときには漢詩を作る。

 この点においては明治を代表する文豪と目されている夏目漱石も例外ではない。

 前回幸田露伴の『春暁』を紹介した。
 これが盛唐の詩人孟浩然の『春暁』を下書きにしていることは間違いない。何せ詩題まで同じなのだから。

 ところが夏目漱石にも孟浩然の『春暁』に強い影響を受けたと思われる詩がある。 

[書き下し文]
 流鶯(りゅうおう)夢を呼びて去り 微雨(びう)花を湿(うるお)して来たる
 昨夜春愁(しゅんしゅう)の色 依稀(いき)として緑苔(りょくたい)に上(のぼ)る

 なかなか分かりにくい詩なので、孟浩然の『春暁』を踏まえて現代誤訳してみたい。

 まず最初の一句は「春眠暁を覚えず処処啼鳥を聞く」に対応している思われる。
[現代誤訳]
 枝渡りして鳴く鶯が私を夢から呼び覚まして去り 

 次の二句は「夜来風雨の声」に対応するものだろう。
[現代誤訳]
 代わりに小糠雨が降ってきて花を艶やかに濡らす
 昨夜私に訪れた春の愁いが濃くて深く眠れず 

 次の一句は『春暁』を踏まえたものではない。

 王維の『鹿柴』の結句「復た照らす青苔の上」を踏まえたものだ。

[現代誤訳]
 今朝は春霞の中をぼんやりした気分のまま苔生した山道を登る
 
 さすがはメランコリックの帝王漱石である。

 布団の中の気持ち良い気分はどこかに行ってしまい、あるのはアンニュイな気分だけだ。

 この人、人生楽しくなかっただろうなあ。

 それは一つには文章の端々に伺われる女性嫌いの故だったかもしれない。

 これについては漱石が実母・里親・養母と、三人の母を持ち、特定の女性に愛情が固着しない性質だったのではないかということで大学の卒業論文「夏目漱石の女性観-漱石の三人の母」に書いたことがあるが、残念ながらこの卒業論文はガラパゴス大学学生会館取り壊しの折に会館と運命を共にしてしまったため現在筆者である私も読むことが出来ない。

 ただ、漱石の女性嫌いについては『草枕』を紹介する形で一度書いた。

 以下少しだけ引用する。

 小説には「那美」という女性が登場し、モデルが存在する。前田家の長女卓子(つなこ)である。
 実はこの人が漱石の好みではなかったかと思われるのだが、卓子の容貌をこのように描写している。

[原文]
 口は一文字を結んで静(しずか)である。眼は五分のすきさえ見出すべく動いている。顔は下膨(しもぶくれ)の瓜実形(うりざねがた)で、豊かに落ちつきを見せているに引き易かえて、額ひたいは狭苦くも、こせついて、いわゆる富士額(ふじびたい)の俗臭を帯びている。のみならず眉は両方から逼(せま)って、中間に数滴の薄荷(はっか)を点じたるごとく、ぴくぴく焦慮じれている。鼻ばかりは軽薄に鋭どくもない、遅鈍に丸くもない。画(え)にしたら美しかろう。
[現代誤訳]
 唇はすーっと閉じられて意志の強さが感じられ、眼は利発そうにくりくり動いている。顔は輪郭はやや頬がふっくらした面長で、落ち着いた雰囲気である。ところが、額が狭く意地悪そうな感じで、いわゆる富士額である。しかも、なにか気がかりなことでもあるのか、ミントが目に染みたかのように額の間にしわが寄ってぴくぴく動いている。鼻はやたらと尖ってもおらず、団子っ鼻でもなく、ちょうどよい美しい鼻である。絵にしたら美しいだろう。

 どうも漱石という人は女性に対して腹に一物ある人のようで、決してその美しさを素直に賛美しようとせず、必ずどこかにケチをつける。

 夫人と見合いをしたときも気に入った理由が「反っ歯なのに笑うときに手で隠そうともしないのが気に入った」というのだから、こういう人と暮らさなければならない女性は大変である。
(以上引用終わり)
 
 まあ女性が嫌いと云うより人が嫌いだったのかもしれない。

 漱石は作家活動の傍ら幾つかの学校で教鞭を執っていたが、学生との関係が良好だったことを示す証拠は皆無に近い。

 『坊ちゃん』の記述を見ると、主人公が授業が分かりにくいと生徒から苦情を云われたり、生徒が示す親愛の情に対してムキになって突っぱねる様子が描かれているが、これは最初の赴任先である松山中学での実体験が基になっていると思われる。
 次の赴任先である第五高等学校では創立記念日の祝辞としておよそめでたくない言辞を学生たちに投げかけているが、これも良好な師弟関係を示すものではない。
 次に赴任した東帝大(仮名)・第一高等学校では「巌頭之感」で有名な藤村操を授業中に叱責した数日後に藤村が自死したためにそれを漱石のせいとする風評が根強くあったという。

 女性(夫人)との軋轢、教え子との確執、英国留学での孤独はやがて漱石の心身を蝕んでいく。

 漱石の罹患した疾病としてよく知られているのは神経衰弱と胃潰瘍であるが、胃潰瘍は結局漱石の命を奪うことになる。
 「神経衰弱」は現在ではトランプゲームの名称にしか生き残っていない病名だが、主に抑鬱・不安・身体愁訴を示す人に対してかつてよく用いられた俗称である。

 一進一退を繰り返していた寒暖の相克が遂に後者の勝利となり、木の芽が一斉に芽吹く春は、生命が息吹く時期でもある。

 孟浩然や幸田露伴の『春暁』はそんな季節を感じさせる楽しい詩である。

 ところが、木の芽時は心身に問題を生じやすい時期だとも云われる。

 これには色々な要因があるのだが、その中で大きいものの1つは気候の変化である。
 これは自律神経やホルモンのバランスに影響を与える。

 もう一つは特に近代になってからだが、春は進学・就職・転居など環境の変化が起こりやすい季節である。
 これは人によっては強いストレッサーとなる。

 「春愁」か。
 漱石の漢詩を読むまで思い付きもしなかった熟語だ。
 
 急に思いついたのだが、漱石は文学を書くことによって自ら癒していたのではないか。
 自らの生きづらさを作品の登場人物に託して言動させることによって心の慰めを得ていたのではないか。
 え?
 知らなかったの俺だけ? また?


漢詩を読む7-幸田露伴「春暁」-(新米国語教師の昔取った杵柄84)

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梅に鶯

 前回孟浩然の『春暁』を「春まだ寒き朝の詩」として訳したのだが、指導書などを読んでみると「春のぽかぽかした朝」 と訳するのが正統の訳し方らしい。

 教科書によってはわざわざ幸田露伴の同名の詩を並べて「違いを考えてみましょう」などと書いてある。

 幸田露伴の『春暁』はこんな詩である。

[書き下し文]
 残寒(ざんかん)去らず春を奈何(いかん)せん
 僅かに頼る鶯声(おうせい)の自(おの)づから是(こ)れ和するに
 尤(もっと)も悦(よろこ)ぶ衾辺(きんべん)の梅蕾子(ばいらいし)
 花開ひらくこと昨(さく)に比して両三(りょうさん)多きを
[現代誤訳]
 残寒が去らない名のみの春をどうしたらいいのか。布団の中に籠るしかないじゃないか。
 鶯があちこちから自然と声を合わせて鳴いているのでやっと春だと感じられる。
 声に誘われて頭だけ布団から出してみると、やったぞ、窓辺に梅の蕾がほころんでいる。
 昨日よりまた二三個開いた花が増えているなあ。

 この詩は確かにまだ寒いことをはっきりとうたっている。

 対比させるための孟浩然の詩をもう一度掲げてみよう。

[書き下し文]
 春眠(しゅんみん)暁(あかつき)を覚えず 処処(しょしょ)啼鳥(ていちょう)を聞く
 夜来(やらい)風雨の声 花落つること知る多少ぞ
[直訳]
 春の眠りは夜明けに気付かない あちこちで鳥が鳴いているのを聞く
 一晩中の雨風の音 花はどれくらい散ったのだろうか

 ここでは客観性を担保するために私の「誤訳」ではなく直訳を上げておこう。

 おそらく授業では「露伴の方は寒い朝という感じがしますが、王維の方はぽかぽかした朝という感じがしますね。」と教えなければならないのかもしれない。

 しかし私は王維の詩を見て「春のぽかぽかした朝」を連想できない。朝に気付かずに寝過ごしたことは確かだろうが。
 果たして大陸で「夜来風雨の声」がした後に「ぽかぽかした朝」が来るものなのだろうか。

 前回も書いたが大陸の春は三寒四温を繰り返しながら徐々にやってくるものなのである。

 そして、寝床の中にまで聞こえてくるほど激しい風雨の音は、寒冷前線によって降る雨によく見られるものである。
 いまや亜熱帯に近い気候の日本に住む私達は「雨」と云うと漠然と温暖前線による雨を思い浮かべて「雨が降ると暖かくなる」と感じてしまうのだが、降れば寒くなる雨もあるのだ。
 ただし、これは所謂「時雨(しぐれ)」とも違う。時雨も確かに寒くなるが、これはしとしとと降る冬の雨である。

 しかも幸田露伴の詩では外の様子が視覚でも捉えられている。つまり、この詩の中の人物は布団から頭を出してか、または寝床から出て外を見ているのだ。
 それに対して王維の詩には聴覚的な情報しかない。つまり、詩中の人物はおそらく布団を被ったままなのである。

 「春の陽気に誘われて」などという慣用句があるように、暖かさはむしろ布団の外へと人を誘う要因なのだ。
 布団の中が暖かいから外に出たくないのは、外が寒いから、と考える方が自然である。
 もし王維の詩の方がぽかぽかした感じがするとしたら、それは露伴の詩では人物が布団の外に居るのに対して、こちらの詩では布団の中にいるからなのだ。

 露伴と王維、どちらの『春暁』の相対温度が低いか、勝敗は明らかであろう。

 閑話休題(まけおしみはこれぐらいにして)。

 露伴の詩は勿論1000年以上の時を隔てた王維の詩を踏まえたものだと思うのだが、もう一つ、日本の伝統文化を踏まえたものだと思われる。

 それは「梅に鶯」である。
 そう、花札だ。

梅に鶯

 日本では梅の花と鶯は切っても切れないものとして認識されてきた。

 だが、これについても私にはどうも疑問がある。

梅に目白リアル

 これは私が作成したリアル花札の「梅に鶯」である。
リアル写真で花札を作る5-梅に鶯(目白) 暫定-(それでも生きてゆく私279)

 私は「リアル花札本舗」の社長なのである(嘘である)。

 このブログは冗談と嘘と法螺で80%くらいが形成されているのだが(本当)、この花札はその中でも一級品の嘘である(本当)。
 これは「梅に目白」なのだ。
 目白と梅をこの構図でカメラが捉える、というのも冗談に近いくらいの確率なのではあるが。

 現在の日本人で「梅に鶯が留まっていた」という光景を見たことがあるという人の99%は勘違いをしている。

 それは「梅に目白が留まっていた周囲のどこかの竹やぶで鶯が鳴いていた」のだ。

 春の花によく留まっている鶯っぽい鳥は目白である。目白は確かに可愛い声で鳴くのでそれはそれで心和むのだが、「ホーホケキョ」とは鳴かない。



 これが目白である。

 そして、ホーホケキョと鳴く鳥は鶯だが、これはとても警戒心が強い鳥で、竹藪やなどに隠れていて滅多に姿を見せることはない。ましてや梅を愛でている人間の前に姿を現して枝に留まって花を啄んだりはしない。


 
 これは私が5年近い歳月を費やしてやっと捉えた鶯の姿である。
三角とりどりの記21-お初にお目にかかります-(Sea豚動物記96)

 したがって、世間一般で鶯色と云われているものも実は現実の色とは違う。

恐怖の鶯色

 「鶯色」と云われて多くの人はこの絵の河童の色のような所謂抹茶色を連想するのだが、

恐怖の鶯色02

 実際にはこんな、所謂オリーブグリーンなのである。

 だが、さすがは文豪幸田露伴だ。

 私のような不誠実な表現者ならばつい興の乗るにしたがって

 唯(た)だ聞く鶯(うぐひす)の梅上(ばいじやう)に囀(さへづ)るを(現代誤訳:鶯が梅の枝で鳴いているのを一心に聞いた。)

などと、やってしまうところである。

 こうやって嘘をついた方が視覚と聴覚が統合する。
 
 だが露伴は敢えて「鶯声自是和(聴覚)」「衾辺梅蕾子(視覚)」とモダリティごとに句を変えて表現しているから嘘をついていない。

 まあ露伴は日本人がまだ自然と近かった明治初年の人だから当然と云えば当然か。
 「梅に鶯」が視覚的には殆どフィクションに近いことを知っていたのだろう。

 負け惜しみと知ったかぶりついでに云わせてもらえば、私達が鶯の声と云われて思い浮かべる「ホーホケキョ」という声は春先に訪れる繁殖期限定の声である。
 普段の、つまり夏秋冬の鶯は「地鳴き」と呼ばれる鳴き方をする。これはほとんど雀の鳴き声である。なかなか姿を見せない上に「ホーホケキョ」と鳴かない鳥。鶯が春以外はいないような気がするのはそのせいである。

 いろいろと面白い鳥である。

漢詩を読む6-孟浩然「春暁」-(新米国語教師の昔取った杵柄83)

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炬燵生活

 孟浩然の『春暁』は日中両国で古くから愛されてきた詩である。
 国語が大嫌い、という人でも、この歌を読んだこともない、聞いたこともないという人はあまりいないだろう。

[書き下し文]
 春眠(しゅんみん)暁(あかつき)を覚えず 処処(しょしょ)啼鳥(ていちょう)を聞く
 夜来(やらい)風雨の声 花落つること知る多少ぞ

 これはまず直訳をしてみる。この詩の現代語訳を紙の本も含めて幾つか読んでみたが、かなりの主観が入っているように感じたからだ(お前の誤訳が一番そうだろ)。

[直訳]
 春の眠りは夜明けに気付かない あちこちで鳥が鳴いているのを聞く
 一晩中の雨風の音 花はどれくらい散ったのだろうか

 直訳を読む限り、この詩がなぜこれほどの人気を誇るのか分からない。

 それと、私が最初に習ったときは「花落つること知んぬ多少ぞ」と習ったような気がする(昔のことばかり覚えていてすみませんね)。
 つまりこれを直訳すると「花もきっと多少は散ったに違いない」という訳になるわけだ。

 ここで私のような初学者が気を付けなければいけないのは漢詩の世界も古文の世界と同じく旧暦だということだ。
 つまり春は1.2.3月なのである。もしかするとちょうど今の時期かもしれない。

 「春は名のみの風の寒さや」(『早春賦』)と童謡の一節にもあるように、「暖かい春」ではなく、「寒い春」、あるいは日中は暖かいが早朝は冬並みに寒いかも知れないのだ。

 ましてや大陸には「三寒四温」という言葉がある。
 中国や韓国の春は「もう来たかな」「いや、まだだ」「さすがにもう来ただろう」「いや、また寒くなった」というように、一進一退を繰り返しながら少しずつ訪れるものなのである。

 だからこの詩のタイトル「春暁」は、ちょうど今の日本の早朝の気候から考えると理解できる。

 つまりこの詩は寒い朝の寝床の中で詠まれたものだ、と考えると、なぜこれ程に人々に愛されてきたかが分かるのだ。
 では、現代誤訳してみよう。

[現代誤訳]
 春と云っても寒くて堪らない朝はぬくぬくした布団から出たくない。
 働き者の鳥たちは朝早くからあちこちで鳴きながら餌を探しているがご苦労なことだ。


 それでも私達雇われ人は辛いものだ。これから眠い目を擦りながら出勤の準備である。

 ところが孟浩然は勤め人ではないから布団から出なくていいのだ。この当時の中国の知識人は大抵お地主さんだから宮仕えをしなくても生活には困らないのである。
 こんな日には「お寝坊さん」をしても誰も咎める者もいない。

 ねっ、羨ましい詩でしょ。

 眠ければ、寒ければ、布団にくるまって寝ていられるのだから。

[現代誤訳]
 昨日は一晩中雨風の音が布団の中まで聞こえていた。
 梅の花もどれくらい散っただろうか。気になるから起きて外に出かけてみるか。寒いけど。

 高校の教科書などでも「花落つること知る多少ぞ(花もどれくらい散っただろうか)」と訓読するようになっているのは、世知辛い現代ゆえの変化だろう。

[和歌]
 世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし  在原業平
[現代誤訳]
 世の中にまったく桜がなかったとしたら、「そろそろ桜が満開だな」「花見に行かなければ」「満開の前に雨が降らないだろうか」などと考えずに済んで、春の心は長閑だっただろうに。

 つまりこの訓読だと後半が急にそわそわしてくるのである。
 「出世や人目は気にしなくても花鳥風月は気になるだろう。布団から出ろよ。」と云われているのだ。

 たしかに絶句は起承転結があり、三句で流れが変わることが多いから、前半のとことんのんびりした雰囲気からややそわそわした雰囲気になるこちらの解釈の方が自然なのかもしれない。

 高校の先生が「さあ、ここから雰囲気が変わります」などと声を大きくして説明しそうである。

 なんだか悔しいので「花落つること知んぬ多少ぞ」で再度訳してみよう。

[現代誤訳]
 昨日は一晩中雨風の音が布団の中まで聞こえていた。
 梅の花もきっと少しは散ったんだろうなあ。朝は寒いから布団の中にいて、昼になって暖かくなったら見に行ってみるか。

 おそらくは風流人にとっては大切だろう「梅の花は無事か」、という気がかりも、春眠の気持ち良さの前には勝てなかった、ということに(無理矢理)するために、訓読は昔ながらのものを採りたい。

 出世も人目も花鳥風月にさえ囚われず、本能のままに自由に生きる。これがこの詩の真骨頂だと思うからだ。
 
 実は第一の学生時代の私はこれにかなり近い生活をしていた。
 布団の中に炬燵を入れ、そこから一歩も出ずに生活するのが理想だった。
 寒ければ部屋から一歩も出ない。勿論授業にも出ない。当時は私立文系の大学はユルかったのだ。「レジャーランド」と揶揄されていたほどである。

 冒頭の絵は当時の様子を描いたものだ。
 こたつ入り布団は唯一の家電('80京都安下宿生活9)

 勿論こんな優雅な生活は親の脛齧りをしていたからこそできたのだが。

 『徒然草』第74段で兼好法師はこう云っている。

[原文]
 蟻(あり)の如(ごと)くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走(わし)る人、高きあり、賤(いやし)きあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕(ゆう)べに寝(い)ねて、朝(あした)に起く。いとなむ所何事ぞや。生(しょう)を貪(むさぼ)り、利を求もとめて、止(や)む時なし。
[現代誤訳]
 京の都に蟻のように集まって、東奔西走する人は、身分が高い人があり、低い人がある。老いた人がいて、若い人がいる。行くところがあり、帰るところがある。夜には寝て、朝は起きる。いったい何をしているのだろうか。生を貪り、利益を求めて、止むときがない。
 
 現在の私は齢63を過ぎてもなお兼好法師の云う所の「蟻」そのものである。学生時代に鋭気を養いすぎからだろう。

 我が身を振り返った時、『春暁』の中の主人公のような生き方をできる日が来るのだろうか。

 と云ったが、実は孟浩然自身は40歳を過ぎてから何度も仕官しようとしたことが分かっている。
 或いは生活が苦しくなってきたのかもしれない。

 玄宗の前で機嫌を取ろうとして詩を詠んで逆に嫌われてしまったエピソードなども残っていて悲しい。

 詩の中でだけでもその名の通り「浩然の気」を持った人として存在させてあげたいものだ。

メジロv.s.ヒヨドリv.s.モズv.s.カラスv.s.スズメ-そして誰もいなくなった(sea豚動物記99)

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蜜柑の残骸

 私の棲む菊陽町は最近全国ニュースによく登場する。

 話題は台湾の大手IT企業の進出である。

 それに伴って人口が大幅に増え、急速に都市化が進んでいる。 と、よく報道されているが、実はこの町の都市化は今に始まったことではない。
 なぜ台湾の企業が進出してきたかと云えば、それ以前に日本のIT企業がこの街に次々に進出し、工場群を作っていたからなのだ。

 30年前には一面の芋畑だった場所に今やマンションや店舗が立ち並び、昔の面影もない。

 これはそれらの企業に雇用されたい、取引をしたい、と思っている人たちには大きなメリットがあるだろう。
 しかし、私達夫婦のように単にそこに住んでいて、かつこれからも住み続けようと思っている人間にはほぼ何のメリットもない。

 一番困るのは渋滞であり、ラッシュ時には自宅はほんの1km先なのに車の列の中に挟み込まれて何時までも帰れない、ということになる。

 地代が上がるのもそれを利用して儲けようという人には好都合だろうが、そこに住み続けようと思っている者には固定資産税を沢山払わなければならなくなるだけだ。

 個人的には私の好きな動物たちとの触れ合いがぐっと減ったことが寂しい。

 朝散歩していても狸やイタチや猿に遭遇することもなくなったし、春になって鶯の鳴き声を聴くこともなくなった。尤も、この用心深い鳥を目撃することは三角のような田舎にいてもどのみち望み薄だが。夜になって「ホーホー」と云う梟の声を聴くこともなくなった。

 ただ、隣家が都市農家なので、今まで馴染みではなかった鳥をよく見るようになった。隣家のTVのアンテナに頭でっかちの雀よりは少し大柄の鳥が止まって「ピリピリピリピリッ、キチキチキチキチッ」と鳴いている。
IMGP8007

 百舌鳥(もず)である。

 そして三角でもお馴染みだった鳥たち。

 小春日和によく耳を澄ませてみると、「チリチリチリチリ、チュルチュルチュルチュル」と云うあの鳥の可愛い鳴き声が聞こえてくるのに気付いた。
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 目白である。

 更に、あの、「止まれっ、止まらんと撃つぞっ!」という、警官の警笛のような「ピーッ! ピーッ!」という鳴き声。 

IMGP5674

 鵯(ひよどり)である。

 そしてどこにでもいるあいつ。ここのはハシボソらしく、鳴き声が「ガーガー」聞こえる。三角ではこいつは鉄砲でときどき駆除されていたから警戒心が強くて人家には近づいてこなかったが、住宅地でぶっ放すわけにはいかないから我が物顔でやってくる。
 こいつらがなめくじの麦酒漬けが好きなのを私は偶然知ってしまって大嫌いである。
 三角とりどりの記8-烏を本気で嫌いになった日-(Sea豚動物記76)

烏たちの饗宴

 烏である。

 もう一つどこにでもいるあいつら。
 以前は菊陽町に物凄い数いた。ほとんど空が暗くなるほどの大きな群れである。ところが、都市化に伴って巣を作る場所がなくなったらしく、今は「ピピピピピ」と鳴きながら小集団で行動している。
IMGP5549改改

 雀である。

 ただ、目白は声は聞こえるもののその姿はちっとも見たことがなかった。おそらく夫婦で甘いものを食べに来ているはずなのだが。

 そこで私は三角町にいたときのように彼らを手なづけることにした。
 鳥を手なづけると云えば餌付けである。目白は甘党だから蜜柑がいい。
 
 三角の時は庭にサクランボの木があって目白が来る季節には葉が落ちて蜜柑の設置場所にはちょうど良かった。
 しかし、今の家には適当な木がない。一昨年まで蜜柑の木があったのだが、まるで持ち主である岳父に殉死するように枯れてしまった。

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 仕方がないので野菜の支柱に使う棒に半分に切った蜜柑を刺し、ブロック塀に留まって啄めるようにしたのだ。

 目白が来るようになる、ということは、鵯も来るようになる、ということだ。
 目白以上に甘党の鵯は蜜柑を設置したら必ず来る。

 これについては既に書いた。

生きていくのは大変だ

 三角とりどりの記10-メジロv.s.ヒヨドリ-(Sea豚動物記82)

 せっかく目白が蜜柑を食べているのに、鵯が目白に体当たりしてきて追い払い、自分が残りをごっそり食べてしまう、というのはよく見かける事態であった。

 しかし、これへの対策も私は既に知っている。

 鵯はあちこちで迫害されているからなのか警戒心がとても強く、ちょっとでも人の気配がするとそこに近寄らない。
 これにたいして目白は燕くらいの警戒心である。ほとんど人間を怖がらない、と云っていい。これも鵯と同じく人間との関係史の結果なのだろう。目白は昔からその姿態と鳴き声によって愛好する人の多い鳥なのだ。

 ある休日の朝、私は満を持して餌付け装置(大袈裟)を稼働した。

 妻の浮気を疑って生垣に隠れた在原業平よろしく、私はカーテンの陰からこれを見守った。
 伊勢物語を読む8-筒井筒2-別の女の所に行く夫を見送る妻-(新米国語教師の昔取った杵柄8)
 伊勢物語を読む10-筒井筒と「大和物語」の沖つ白波-(新米国語教師の昔取った杵柄10)

 チリチリチリ、チュルチュルチュル、鳴き声と共に番の目白がやってきて蜜柑を啄み始めた。

 しばらくして鵯が飛んできた。
 予想通りである。

 鵯が体当たりしようとしたので目白夫婦は蜜柑から逃げた。
 ただ、遠くには飛び去らず、隣の家の杏子の木に留まって様子を伺っている。

 私はサッシをガラッとわざと音を立てて開けた。
 鵯は「ピーッ」という警戒音と共に300mくらい先まで逃げた。

 すると杏子の木に居た目白夫婦はまた装置のところに戻ってきて蜜柑を啄み始めた。

 鵯は私が装置の近くにいるのを知っているから、当分はこちらに来ない。
 目白夫婦は安心して蜜柑を啄んでいる。心和む可愛らしい仕草である。

 ところが、黒い影が上空から急降下してきた。
 鵯よりもっと小さい影だが、猛烈な勢いである。目白夫婦は危うく身体をかわし、逃げ去った。危機一髪である。鵯の体当たりとは違い、見ている私すら命の危険を感じるような勢いだった。

 一旦低空を旋回してからブロックに降り立ったのは頭でっかちで嘴の先がひん曲がった意地悪そうな鳥だった。百舌鳥である。
 
 百舌鳥は肉食であるから蜜柑を目当てに寄ってきたのではあるまい。
 おそらく目白が蜜柑に夢中になって警戒心が薄れているところに付け込んでこれを獲物にしようとしたのに違いない。
 百舌鳥は昆虫や両生類・爬虫類を捕獲して木の枝に突き刺しておく所謂「はやにえ」という習慣で知られる。
 確かに主な餌はこうした小さなものだが、時に小鳥のような自分に近い大きさのものも捕食することがあるそうだ。
 鵯などから見ると百舌鳥も小鳥と云っていい大きさだが。

 稀には自分より大きい獲物を襲うこともあるというから、目白を襲っても何の不思議もない。

 百舌鳥は獲物を逃がしてしまったことに気付いたのか、しばらく蜜柑を見つめていたが、やがて飛び去って行った。

 すると、私が装置の近くから離れたと思ったのか、鵯が再び向こうから飛んできた。
 私は自分の工夫が目白の命を危険に晒してしまったことに気付いて愕然としていたから、鵯が蜜柑を啄み始めてもそれを呆然と眺めているだけだった。

 蜜柑はどんどんなくなっていって皮の白い部分が見え始めた。

 すると、鵯よりも更に大きな黒い影がやってきた。
 体当たりするまでもなく、鵯はその影が近づいてきただけで素早く逃げて行った。

 ブロック塀に降り立ったのは烏である。

 私は急に我に返った。

 烏が蜜柑に味を占めて庭に来訪する習慣ができたらまずい。
 私はまたわざと大きな音を立ててサッシを開けた。
 それでも逃げなかったら「こらっ!」と怒鳴るつもりだったが、そこまでせずとも烏はバッサバッサと羽ばたきながら逃げて行った。

 何もいなくなった装置を眺めながら私はまだ諦めきれなかった。
 「また目白がこないかな。」
 だが、目白はもう来なかった。百舌鳥がいることを知ってここは危険だと判断したのだろう。

 すると、茶色い小鳥が2羽パラパラッとブロックに降り立った。
 ブロックだけでなく、今までに食べられて下に落ちて干からびている蜜柑の所にも3羽降り立った。
 雀の群れである。

 雀は蜜柑の皮を食べ始めた。
 しかし、あまりお気に召さなかったのだろう。1分もしないうちにパラパラッと飛び立っていった。

 そして誰もいなくなった。

漢詩を読む5-白居易2「長恨歌」-(新米国語教師の昔取った杵柄82)

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 前回では取り敢えず高校の教科書によく掲載される「香炉峰下の詩」を取り上げたが、やはり白楽天の真骨頂は「長恨歌」だと思うので今回はこれについて話題にさせてもらう。

 唐の玄宗李隆基の治世の前半は太宗李世民の貞観の治と比肩する善政として開元の治と呼ばれた。歴史家はこの時期を「盛唐」と名付け、「初唐」や「中唐」と区別している。

 日本で最初の大規模に流通した貨幣である和同開珎は玄宗治下に発行されて東亜の隅々まで流通した開元通宝を手本としていることは有名である。

 ところが、同じ名君玄宗の治世であるにも関わらず、755年天下大乱が起こり、玄宗は遠く蜀の地まで避難せざるを得なくなる。安史の乱である。玄宗は息子の粛宗に譲位させられた後、長安に戻ったものの軟禁状態のまま生涯を閉じる。

 安史の乱では杜甫や李白、白居易や孟浩然といった詩人たちもこれに翻弄された。
 特に杜甫の絶唱「春望」はこの乱によってこそ成立したのだということは既に述べたとおりである。
 漢詩を読む1-杜甫「春望」-(新米国語教師の昔取った杵柄78)

 安史の乱には一人の女性が大きく関わっている。

[書き下し文]
 漢皇(かんこう)色を重んじて傾国(けいこく)を思う 御宇(ぎょう)多年求むれども得ず
 楊家(ようか)に女(むすめ)有り初めて長成す 養われて深閨(しんけい)に在(あ)り人未(いま)だ識(し)らず
 天生(てんせい)の麗質(れいしつ)自(みずか)ら棄て難く 一朝(いっちょう)選ばれて君王の側(かたわら)に在(あ)り
 眸(ひとみ)を迴(めぐ)らし一笑(いっしょう)すれば百媚(ひゃくび)生じ 六宮(ろっきゅう)の粉黛(ふんたい)顔色(がんしょく)無し
[現代誤訳]
 漢の皇帝は色好みで国を傾ける程の美女を求めていた。治世の間に長年求めていたが得ることができなかった。
 楊という家に一人の娘がいてようやくお年頃になったばかりだった。大切に育てられた深窓の令嬢だったため誰もこの娘が美しいことを知らなかった。
 しかし天から授かった美しさはそのまま放っておかれる筈もなく、ある日突然選ばれて君主の側に仕えることになった。
 彼女が流し目をしてにっこりしただけでうっとりするような色気が生じ、宮中に数多いる美女たちも顔色を失うほどだった。

 この楊家の娘こそ楊貴妃と呼ばれた女性である。本名は玉環(ぎょくかん)という。
 日本では小野小町・クレオパトラと共に「世界三大美女」と称えられる。

 ここで玄宗のことを「漢皇」としてあるのは白楽天が唐の役人であったからで、自分の主君のことを「色好みである」などとは言えなかったからと考えられる。

 この詩では深窓の令嬢が突然玄宗に見出されたように云っているが、史実はもっと生臭い。
 実は楊玉関は玄宗の息子の寿王の妃だったのだが、これに玄宗が眼を付けて奪ったのである。何だか額田王の伝説のような話だ。
 『万葉集』を読む5-額田王観の変遷に戸惑う私-(新米国語教師の昔取った杵柄57)

 玉関は皇后に次ぐ貴妃に昇り、玄宗の寵愛を一身に受けるようになる。

 それだけならば全然問題はなかったのだが、これが一国の皇帝の恋であるから政治に影響することだ。

[書き下し文]
 此(こ)れより君王早朝(そうちょう)せず
[現代誤訳]
 楊貴妃を得てから皇帝は早朝からの政事を止めてしまった。

 開元の治は玄宗の勤勉さに支えられていたことがこの部分から分かる。
 「お寝坊さん」になってしまった玄宗はどんどんだらしなくなっていく。

 玄宗が楊貴妃に溺れると、楊貴妃に取り入って出世を企む輩が出てくる。

 1人は楊貴妃の親族である楊国忠であり、もう1人は塞外民族出身で節度使(地方軍の司令官)を歴任した安禄山である。

 楊貴妃の安禄山に対する寵愛はちょっと度を越していて、彼を養子にした(安禄山が玄宗に乞うた結果だが)うえ、安禄山が入朝した時、安禄山を大きなおしめで包んだ上で女官に輿に担がせて、「安禄山を湯船で洗う」などと云った。自分が安禄山の母親であることをアピールしたのだ。また、夜通し自室で語り合ったりしたため宮中では醜聞が広まったという。

 楊国忠もまた楊貴妃の親族であることを利用して玄宗に取り入り、遂には宰相にまで昇り詰める。

 安禄山に対する寵愛を面白く思っていなかった楊国忠は彼を度々讒言する。
 身の危険を感じた安禄山は遂に反乱を決意し、兵を挙げる。

[書き下し文]

 漁陽(ぎょよう)の鞞鼓(へいこ)地を動かして来たり 驚破(きょうは)す霓裳羽衣(げいしょううい)の曲
[現代誤訳]
 魚陽から起こった反乱軍の太鼓は地を揺るがして長安に迫り、天女の踊る優雅な楽曲に酔いしれていた人々を揺さぶり起こす。

 安禄山が挙兵したのは范陽(はんよう)だと云われるが、詩では漁陽となっている。どちらも旧燕地で現在の北京付近にある。白居易の勘違いか、あるいは「漢皇」と同じような言い回しなのか。
 「霓裳羽衣」は当時の宮廷の女性が纏う蜉蝣の羽根を思わせる半透明の衣服である。日本でいうところの「天女の羽衣」だ。舞姫の姿に見惚れていた人々に青天の霹靂が襲ったのである。

[書き下し文]
 九重(きゅうちょう)の城闕(じょうけつ)煙塵(えんじん)生じ 千乗(せんじょう)万騎(ばんき)西南に行く
 翠華(すいか)揺揺として行きて復(ま)た止(とど)まり 西のかた都門(ともん)を出(い)づること百余里
 六軍(りくぐん)発せず奈何(いかん)ともする無く 宛転(えんてん)たる蛾眉(がび)馬前(ばぜん)に死す
 花鈿(かでん)は地に委(す)てられて人の収むる無し 翠翹金雀玉搔頭(すいぎょうきんじゃくぎょくそうとう)
 君王面(おもて)を掩(おお)うて救い得ず 迴(かい)り看れば血涙(けつるい)相和(あいわ)して流る
[現代誤訳]
 九重の城門に砂煙を生じながら、宮中の人々の乗る車馬が脱出して西南に向かう。
 皇帝の御旗は翻りながら行っては止まり行っては止まり、都の門を出てから西に百里余り。
 六軍はそこに留って出発せずどうしようもなく、絶世の美女は馬嵬で死んだ。
 身に着けていた螺鈿の簪は拾う者もない。翡翠の羽の髪飾りも、孔雀形の黄金の簪もそのままだ。
 皇帝は顔を覆ったまま救うこともできず、振り返ると血涙が滂沱と流れる。

 宮中を脱出した人々は蜀都成都を目指したものの、都から百里(日本の単位では数十里)の所で軍が停まって云うことを聞かなくなる。これまでの不満が爆発したのだ。
 矛先は宰相の楊国忠と、その親族であり安禄山を寵愛した楊貴妃に向かう。
 楊国忠は兵に殺され、楊貴妃は要求によって玄宗から死を賜われ、宦官によって縊死させられる。
 
 寿王の妃のままならば天寿を全うしたかもしれないのに、玄宗によって見出されて奪われ、同じ玄宗の命令によって死ななければならなくなったのだから、不憫な話ではある。
 「罪は美しかったこと」なのだ。

 反乱を起こして既に大燕皇帝を名乗っていた安禄山は楊貴妃の死を知って何日も泣き明かしたという。

 安史の乱がやっと鎮圧されて玄宗は長安に戻って来るが、上述のように軟禁の身となってしまう。 

 だがしつこいようだが白楽天は唐の役人であるから「唐王臣下の虜となる」などとは書けない。

[書き下し文]
 悠々(ゆうゆう)たる生死別れて年を経たり 魂魄(こんぱく)曽(かつ)て来たりて夢にも入らず
[現代誤訳]
 玄宗と楊貴妃が幽明境を異にしてから数年が過ぎた。
 楊貴妃の魂が夢にでも出てきて欲しいと願うのだが、それも叶わない。

 遂に玄宗は超自然的な力に頼ることにする。
 たまたま長安を訪れていた方士(神仙術の修行者)に楊貴妃の魂魄の捜索を依頼するのだ。

 その結果蓬莱山で仙女になっていることが分かる。

 楊貴妃は玄宗にこう伝言する。

[書き下し文]
 七月七日(なぬか)長生殿(ちょうせいでん) 夜半(やはん)人無く私語の時
 天に在(あ)りては願わくは比翼(ひよくの)鳥と作(な)り 地に在(あ)りては願わくは連理(れんり)の枝と為(な)らんと[現代誤訳]
 [現代誤訳]
 どうかあの初めて契った七夕の夜に私たちが二人きりで語り合った言葉をお忘れにならないでください。
 私たちが天に召されたら、翼を連ねて飛ぶ二羽の鳥となりましょう。草木に生まれ変わったら、違う木から生えても互いに絡み合う二つの枝になりましょう。
 生まれ変わって、また生まれ変わっても、ずっとずっと夫婦でいましょう。

「比翼連理」については以前書いた。
 「捜神記」を読む-連理の枝-(新米国語教師の昔取った杵柄36)

 最後の二句は楊貴妃の恨み言と取ると折角のこの部分が台無しとなってしまう(まるで「番町皿屋敷」)ので、私は白楽天の感想と取りたい。

[書き下し文]
 天長く地久しくも尽きる時あり この恨み綿々として絶えることなし
[現代誤訳]
 天は長く地は久しいと云ってもいつか尽きるときがある しかしこの悲しみは綿々として絶えることはない
 そういえば前回なぜ白居易は日本では白楽天の方が通りが良いかという問題提起をしたのに、その結論を述べるのを忘れていた。
 日本では『白氏文集』という形で生前に白楽天の詩が輸入され、大評判になっていたのだ。『枕草子』のエピソードも白楽天の存命中である。
 そして生前だと「白楽天」と字で呼ばれていた筈である。
 これが死後も白楽天と呼ばれる方が多かった理由と考える。

漢詩を読む5-白居易1「香炉峰下の詩」-(新米国語教師の昔取った杵柄81)

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中宮定子

 白居易という人は私には白楽天という別名の方が馴染みがある。 
 何だか白居易というと「唐代の政治体制と白居易」などという難しい論文の題名になっている感じである。したがってこの文では白楽天と呼びたい。

 居易は名(諱:いみな)で、楽天は字(あざな)である。白は姓である。

 日本人と同じく中国人にも生まれたときに親が付けてくれた本名がある。これが名である。

 しかし、(古代の)中国人のマナーとして、本人を名で呼んでいいのは親(名付け親)、師、君主などごく目上の人だけである。
 それ以外の、対等に近い、あるいは目下の人がその人を名で呼ぶことは大変な失礼に当たる(「実名敬避俗」という)。そのため、云わばあだ名で呼ぶことになる。これが字である。字は成人のときに付けられる。
 では成人するまでに呼ばれる名前がないではないか、と云う人がいそうだが、心配なし。幼名というのがあって子供はそれで呼ばれる。
 その人が亡くなるとやっと本名で呼ばれることになる。これが諱である。
 ちなみに死後の名前としては諡(おくりな)というものもあり、これは人の死後にその人の生前の業績に従って付けられるものだが、基本的には君主クラスに贈られるものだから白楽天の場合には関係がない。
 諡については一度書いた。
 『十八史略』を読む6-隗より始めよ-(新米国語教師の昔取った杵柄52)

閑話休題(じょうほうがおおすぎてはなしがわからなくなるぞ)。

 つまり、白居易と呼んでいる人は彼の死後の人と思ってよい。
 ところが、彼は死後にも多くの人から字で呼ばれている。

 どうも相手をわざと名で呼んでマウントを取る、などということも行われるようで、魯迅の『故郷』で豆腐屋のおばさんは立派な紳士である魯迅を名の「迅哥兒(迅ちゃん)」と呼んでいる。
 また、逆に幼馴染の閨土は「閨土哥(閨土さん)」と名で呼びかけられているのに「老爺(旦那様)」と返事して封建的な身分関係に従順であることを示そうとしている。

 しかし、白居易が白楽天と呼ばれることが多いのはそうした事情からではないらしい。

 中国史上には既に歴史的な人物なのに字で呼ばれる方が多い人がいる。(カッコ内は名)
 
 たとえば臥薪嘗胆で有名な伍子胥(員)、漢の劉邦のライバル項羽(籍)、三国時代蜀の宰相諸葛孔明(亮)、同じく魏の宰相司馬仲達(懿)、北宋の詩人蘇東坡(軾)、中華民国の将軍蒋介石(中正)などである。

 このうち伍子胥は呉王夫差との軋轢で誅されたときに住民がその墓所を「胥山」と名付けたという故事があるし、諸葛孔明と司馬仲達は「死せる孔明生ける仲達を走らす」というあまりにも有名な故事が死後も字で呼ばれる所以であろう。

 また蘇東坡はその得意料理が「東坡肉(トンポーロー:豚の角煮)」という中華好きならば誰でも知っている料理だったのが字の方がポピュラーな理由だろう。

 このように既に生きているうちに、または死後であっても何か有名なアイテムに字が残ってしまった人はこちらの方が皆に分かりやすいので字で呼ばれる理由が推測される。

 よく分からないのは項羽と蒋介石だが、どちらも劉邦と毛沢東というライバルとの天下分け目の決戦に負けて国を失ったという共通点がある。敗者と云うことで若干軽んじられているところがあるのだろうか。劉邦にしても毛沢東にしても字(劉邦は季、毛沢東は潤芝)を知っている人の方が少ないのではないだろうか。

 もっと訳が分からないのは孟浩然で、名も字も浩然なのである。

閑話休題(そろそろしのはなしをしようか)。

 白楽天の詩で有名なのは何と云っても「長恨歌」なのであるが、最近の教科書には「香炉峰下、新たに山居を卜し、草堂初めて成り、偶東壁に題す」という詩が取り上げられていることが多いようだ。

[書き下し文]
 日高く睡(ねむ)り足りて猶(な)お起くるに慵(ものう)し 小閣(しょうかく)に衾(しとね)を重ねて寒(かん)を怕(おそ)れず
 遺愛寺(いあいじ)の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き 香炉峰(こうろほう)の雪は簾(すだれ)を撥(かか)げて看る
 匡廬(きょうろ)は便(すなわ)ち是(こ)れ名を逃るるの地 司馬(しば)は仍(な)お老(おい)を送る官たり
 心泰(やす)く身寧(やす)きは是(こ)れ帰する処(ところ) 故郷何ぞ独(ひと)り長安(ちょうあん)に在(あ)るのみならんや
[現代誤訳]
 日が高く昇って十分寝た筈なのにそれでもなお起きるのが億劫である。小さな家の中に布団を重ねているので寒くはない。
 遺愛寺の鐘の音は枕を高くして耳をそばだてれば聞こえるし、香炉峰の雪は簾を巻き上げれば見えるので起きて外に出る必要はない。
 周代に仙人が隠れ住んだという盧山はまさに名利功績を逃れるのにふさわしい地であり、名ばかりの閑職である司馬はやはり老年を送るのにふさわしい官職である。
 心がゆったりとして身体もくつろげるこの地は安住の地である。どうして都長安だけが故郷だろうか、いや、長安だけではない。人間至る処青山有りだ。

 私は白楽天の詩の中で左遷先で詠まれたものは負け惜しみ臭がしてあまり好きではない。
 この詩もその一つである。

 だが、この詩は日本の文学史と大きな関係がある。それは『枕草子』第280段である。

香炉峰の雪

『枕草子』を読む3-中納言参りたまひて1-自慢話以外の何なんだろう-(新米国語教師の昔取った杵柄44)

 これについては軽く取り上げたことがあるが、もう少し詳しく解説したい。

[原文]
 雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子(みこうし)まゐりて、炭櫃(すびつ)に火おこして、物語などしてあつまりさぶらうに、「少納言よ。香炉峰の雪いかならむ」と仰(おお)せらるれば、御格子上げさせて、御簾(みす)を高く上げたれば、笑わせたまう。人々も「さる事は知り、歌などにさえうたえど、思いこそよらざりつれ。なおこの宮の人にはさべきなめり」と言う。
[現代誤訳]
 雪がたいそう高く降り積もったときに、いつにもなく格子を下ろしたままで、炭櫃に火を起こして話などをして集まっていると、中宮様が「清少納言よ。香炉峰の雪はどうだろうか。」とおっしゃるので、格子を上げさせて御簾を高く上げたところ、お笑いになった。人々も、「白楽天の香炉峰の詩は知っていて、歌などにまで詠みこむのだが、まさか中宮様の言葉がなぞかけだとは思いもよらなかった。やはり宮仕えをする人はこうでなければないのだろう。」と云う。

 この話に関する感想は既に述べた通り、
 「ねえねえどれくらい積もってるの?見せて見せて!」
 「じゃーん! お庭真っ白にございます。」
といやあいいのに、というものなのだが、段全部を読んでみると若干今まで受けていたのとは印象が違ってきた。

 それは原文にある「例ならず」という部分から導かれた印象である。
 雪が高く積もっているくらいだから寒いのだ。だから、女房達はいつものようにてきぱきと動き回らずに炭櫃を囲んで油を売っていたわけだ。
 そこに中宮が来た。おそらくちょっとムッとしたのではないだろうか。何だ、こいつら、寒いからって働きもせずに背中を丸めて火に当たりやがって。
 だが、さすがは中宮、どこぞの現場監督のように「早う仕事せんか、バカチンがあ!」とは怒鳴らなかった。
 代わりに「そろそろ格子も御簾も上げて仕事を始めたら」という意味のことをユーモアを交えて遠回しに云ったのだ。
 それに中宮に心酔している子分の清少納言が即座に応えて動いたのだ。

 全く的外れかもしれないが、こう考えたらこの段も抜群に面白くなってきたのではないだろうか。

 白楽天の元の詩が「あーっ寒い! 動きたくねー!」というものだということを考えると少しは掠っている解釈のような気もする。
 勿論授業で教えるときにはこんなことはおくびにも出さないが。

漢詩を読む4-王翰「涼州詞」-(新米国語教師の昔取った杵柄81)

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大宗李世民

 高校の教科書の和歌の部分には一切酒が登場しないのに対して、漢文の漢詩部分ではではよく酒が登場する。

 次に紹介する「涼州詞」もまた酒を詠んだ詩である。というか、この場合主役が酒というか。

[書き下し文]
 葡萄(ぶどう)の美酒夜光の杯(はい) 飲まんと欲すれば琵琶(びわ)馬上に催す
 酔うて沙場(さじょう)に臥(ふ)すとも君笑うこと莫(なか)れ 古来征戦(せいせん)幾人(いくにん)か回(か)える  

[現代誤訳]
 美味い葡萄酒を月光に輝く玉杯に注ぎ 飲もうとしたときに馬上から琵琶が鳴り響いた 
 酔いつぶれて砂漠に寝っ転がっても君よ笑わないでくれ 明日をも知れぬ我らが命なのだから

 「古来征戦幾人回」は直訳すると「古来戦に行って何人が還ってきただろうか」となるが、どうも理屈っぽくて酔いつぶれた言い訳としては面白くないので上のように誤訳してみた。
 理屈っぽい奴が酔狂を回すと鬱陶しいことこの上ないからだ。

 この詩は唐の王翰(おうかん)という人の作った「塞外詩」の1つである。
 王翰についてはネットで調べてみてもあまり情報がない。博学で知られるAI君ですら、
①生没年687年頃~726年頃と推定
②字は子羽で、山西省太原の出身
③科挙に合格して高級官僚になった
④酒と女と馬を好む性格だった
⑤④が原因で3度左遷され、左遷先で亡くなった
くらいの情報しか持っていないようだった。

 したがって王翰の名が不朽であるのは偏にこの「涼州詞」の所以である。
 この詩は後の様々な詩人が「史上最も優れた七言絶句である」という言葉を残しているのだ。

 ところで、漢族と塞外民族の争闘はまさに「終わりなき」というべきもので、あるときは撃退し、ある時は征服され、互いに同化し、その民族が表舞台から退場するとまた別の民族が現れて(これは漢族の側からの見方であって彼らからすれば元々存在していたわけだが)同じことを反復する。そしてそのたびに「中国」と呼ばれるものの内容が変化していくと同時に領土が拡張していく。(あくまで清朝までの話であって私は今流行の中国脅威論を唱えたい訳ではない。我田引水の片棒を担がされるのは嫌なので念のため。)

 南北朝が統一されるとその勢いに乗って領土を東に拡張しようとする動きが起こる。三度に亘る高句麗遠征である。隋はこれで国力が疲弊して滅亡し、唐に取って代わられる。唐でも初期の太宗李世民は高句麗遠征を行うがこれも失敗。次は新羅の三国統一に干渉して高句麗・百済を滅ぼすが、半島に居座ろうとして羅唐戦争により駆逐されてしまう。

 代わって考えられたのが西域への進出である。
 進出と云ってもこちらも無人の土地ではない。
 中国史からすればテュルクもウイグルも「突厥」「回紇」という1エピソードに過ぎないのだが、7世紀や8世紀の地図を見て頂くと分かる通り、唐の西北方に存在する大帝国なのである。
 時系列で云うとまず突厥が大帝国を築き、それを台頭してきたウイグルが滅ぼして大帝国を築いたということになろう。

 そこに割り込んだのだから苦戦は必至というものだ。まさに「古来征戦幾人か回る」である。
 突厥帝国は東西に分裂したことにより衰退し始め、一旦は唐に服属するのだが、再び叛いて自立する。
 『旧唐書』や『新唐書』によれば突厥は常に徳のない可汗により内紛状態、唐の遠征軍は連戦連勝万々歳なのだが、これは「大本営発表」のようなものと考えた方が良かろう。

 玄宗の時に安史の乱が起こると唐はさっさと西域から手を引く。
 安史の乱の鎮圧に唐王朝はウイグルの騎馬兵の力を借りているから、ちょうど彼我の力関係が大きく変わる転換点だったのだろう。

 「涼州詞」はこうした背景の中から生まれ出た詩なのだ。

 「涼州詞」は盛唐の皇帝玄宗に献上された「涼州歌」に付けた歌詞である。
 王翰の他に王之渙(おうしかん)という人も同じ歌に歌詞を付け、こちらも「涼州詞」と呼ばれるが、王翰のものの方が遥かに有名である。

 詩の成立の事情からしてこの詩は情景をそのまま写したものではなく、想像によって作られたものと考えられる。
 ただし、これが王翰の経験に基づいた回想なのか、それとも全くの創作なのかは議論の余地があるだろう。

 王翰の行動範囲を少ない情報を基に考えてみる。

 まず出身は并州晋陽県とされる。
 并州は河北省を中心にした地域で、古くから北方の塞外民族に対する防衛に重要な州であった。中心都市は古くは燕都薊、現在の中華人民共和国の首都北京である。
 ただし、王翰の出身地晋陽県は并州でも西の外れ、現在の山西省太原市である。
 いずれにせよ唐代の中国人の感覚から云えば北の涯だったろう。

 この地は短命の隋王朝を挟んで唐の前代の南北朝時代には北朝のうち西魏を除く北魏・東魏・北斉・北周が興亡したところである。
 これらの王朝は元々鮮卑族などの北方の塞外民族が立てた王朝であるが、北魏孝文帝以来の漢化政策により急速に中国化した。(それでも拓跋氏・慕容氏などの氏族はその後の隋・唐でも鮮卑系の名門として力を振るった。指導層の6.7割が鮮卑系であったとする説もある(『資治通鑑』)。)

 北方民族が中国化したという云い方には語弊があるかもしれない。北方民族もまた漢族に大きな影響を与えている。「胡俗」といわれる風習が漢族の間に普及・浸透した。
 現在でも中国人が普通に行っている椅子とテーブルでの生活などは北方民族が持ち込んだものである。服装もまた隋唐時代には、胡服と呼ばれる、それまでの漢族のスタイルとは違うものであった。つまり漢族が北方化したとも云える訳である。

 王翰が生まれたのは687年頃と云われているから南北朝時代の終焉から既に100年近くが経過しているが、「并州は北の涯」という感覚は中国人に保持され続けていたのではないだろうか。

 先に唐の東の涯と西の涯の話をしたが、王翰は北の涯から来た男だったのだ。

 北の涯から来た男が西の涯の詩を詠んだのだ。
 晋陽県は最前線ではないものの、王翰はその成長する過程で最果てを守る兵士たちを見たことがあったのかも知れない。
 また、北方の習俗は侵入してきたり交易に来た異民族を通じて知っていた可能性が高い。

 では、「葡萄の美酒」を現地で飲んだことがあったかと云えば、これはそうではなく宮中で飲んだ物だろう。

 というのは、王翰の仕えた玄宗より前の太宗皇帝は酒の醸造が趣味で、臣下たちを集めて自製の酒でパーティーを開いていたという記録が残っているのだ。
 太宗は何とワイン用の水道を作らせ、酒宴の参加者が飲みたいときに何時でもその水道(ワイン道)から酒を注げるという仕掛けまで作っていたそうだ。所謂タップワインである。(以上酒志網HPによる)

 中国では既に殷代にワインが作られていた証拠が出土しているが、この技術は唐代には既に失われていて、太宗が西域(おそらくウイグル族)からワインの製造法を学んで作らせたのだという。

 太宗よりも贅沢者だった玄宗がこの趣向を自ら採り入れないはずがない。

 同様に「夜光の杯」も宮中で用いられたものであって、現地でそれで酒を飲んでいるのを王翰が見て描写したのではあるまい。

 おそらく玄宗が太宗より更に参加者を喜ばせようとして(あるいは自慢しようとして)用いたアイテムに違いない。

 とすると「琵琶馬上に催す」も取り敢えず戦場に準えているだけで、実際には宮廷の楽人たちの奏でる音色だろう。

 そうであってこそこの前半二句は煌びやかとさえ云ってよいような華やかな雰囲気を湛えているのだ。

 だが三句から場面は暗転する。

 沙場に倒れている男は酔狂でそうしているのではない。
 この場合「沙場」は砂上というよりも華北の西の涯や北の涯に広がるステップである。

 明日自分は涼州よりももっと西の戦場に行き、そこで今のように倒れているかも知れないのだ。
 倒れているのは酔っぱらった身体ではなく、既に魂のなくなってしまった骸である。

 「君笑うこと莫れ」
 だから笑って欲しくない。

 「古来征戦幾人か回える」
 明日をも知れぬ身の何ともやるせない、どこにぶつけようもない虚しさや怒りは、おそらく現実には発せられなかった叫びである。

 現在私達が触れることのできる王翰の情報からはその原因までは計り知れないが、素行による3度の左遷という経歴から考えるに、彼自身がまた西域に送られた兵士たちに類似した虚無感や絶望感を抱えていたのかもしれない。
 そうでなければこんな悲痛な内心の叫びを詩として表現できるはずがない。

 改めて、この詩に対する明代の詩人譚元春(たんげんしゅん)の「また壮にしてまた悲し」という評は正鵠を射たものであると感じ入った。


漢詩を読む3-李白「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」-(新米国語教師の昔取った杵柄80)

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さすがは李白

 李白は中国では李杜と云われ杜甫と並び称される詩人である。
 また杜甫が詩聖(詩の聖人)と云われるのに対して詩仙(詩の仙人)と呼ばれる。

 私が李白の詩に最初に触れたのはおそらく高校で習った「子夜呉歌」である。

[書き下し文]
 長安一片の月 万戸(ばんこ)衣(きぬ)を擣(う)つ声
 秋風(しゅうふう)吹きて尽きず 総(すべ)て是(こ)れ玉関(ぎょくかん)の情
 何(いず)れの日にか 胡虜(こりょ)を平らげて
 良人(りょうじん) 遠征を罷(や)めん
[現代誤訳]
 都の夜空に三日月が浮かび あちらこちらから眠れない妻が砧(きぬた)を打つ音
 冷たい秋風は吹きやまず 全てが玉門関を護る兵士を思い出させる
 いつになったら西戎を平定して あの人は遠征から還って来るのか

 今見ると夫を兵隊に取られた妻の悲嘆が伝わってくる詩なのだが、何せ人生で最も自己中心的な年代であるから、云わんとすることは何も分からず、正直退屈であった。
 当時の私には人心の機微を読み取る力などなかったのだ。

 むしろ純粋に風景を詠んだ次の詩の方が光景が想像できてよく分かった。

  黄鶴楼(こうかくろう)にて孟浩然(もうこうねん)の広陵(こうりょう)に之(ゆ)くを送る

[書き下し文]
 故人西のかた黄鶴楼を辞し 煙花(えんか)三月揚州(ようしゅう)に下る
 孤帆(こはん)の遠影(えんえい)碧空(へきくう)に尽き 唯(た)だ見る長江の天才際(てんさい)に流るるを
[現代誤訳]
 旧友の孟浩然が西にある武漢の黄鶴楼に別れを告げ 花霞の三月に揚州へと長江を下って行った
 友の乗った一艘の船の白い帆は遠く青空の彼方に消えていき その後には長江が天の果てまで流れるのが見えるばかりである

 詩が分かるためにはある程度の人生経験が必要であるから、高校生に「子夜呉歌」のような夫婦の情愛を分かれと云ってもなかなか難しいだろう。

 しかし、友人との別れは高校生くらいになると多くの人が経験している。
 親友が親の仕事の関係で転校していった、という経験を持つ人は多いだろう。
 「手紙書くから」という約束、次第に遠ざかる文通、いつしか追憶になっていく、あるいは殆ど思い出さなくなるエピソード。「去る者は日日に疎し」という故事が頭をよぎる。

 後は海に沈む夕日や大河から昇って来る初日の出などの視覚的経験があれば、この詩は十分鑑賞できる。

 小さな白い影になって真っ青な空と河の境目に消えてゆく友人。
 そして遠ざかっていくものをいつか忘れていく人間の本性を既に知っている自分。

 偉そうに「さすが李白」と思ってしまう。
 ただ、よく考えてみると、青と白に対比させられるほど長江と云うのは綺麗な河だったろうか、という疑問が湧いてくる。黄河(黄色い河)ほどではないにせよ、大河の下流は流域のさまざまな有機物を溶かして黄濁しているのが普通である。

 決してケチを付けたい訳ではないのだが(十分ケチをつけているが)、どうもこの詩は見たものをそのまま映したものとは思えないのだ。

 まあ文学なんてフィクションの一種なんだからそんなもんだ、と云えばそれまでなのだが。

 などと散々難癖をつけた後なのだが、よく見てみると李白は河が青いなどと一言も云っていないのだ。空に関しては「蒼い」と云っているのだが。
 だが、この詩を読んだ人は余程の捻くれ者でない限り、「船の帆は白く、空と河は青いのだ」と思い込んでしまう。

 これは人間の認知機能に「無いもの」(「無」は使わないとつい数日前に宣言したがこの場合はどう考えても「無」を使った方が分かりやすいのでそうする。私はそういう人間なのだ。)よりも「有るもの」を好む傾向があるからだ。
「無い」を使わず「云う」を使う理由(それでも生きてゆく私329)

 代表的なのは主観的輪郭線である。


カニッツァの三角形

 カニッツァの三角形というこの有名な画像を見ると、人間はありもしない輪郭線を勝手に作って認知してしまう。
 このように、人間の脳は欠損部分を補完する働きがある。これを「モダール補完」と云う。

 李白が使った手口は「アモダール補完」と呼ばれるものだ。「手口」とか云っているが李白の場合は読者を騙そうとしている訳でなく想像力を膨らませているのだから技巧というべきか。


アモダール補完

 アモダール補完はAI君によれば「対象物の一部が隠れて見えないとき、脳内で欠けた部分を補完して全体像を認識する視覚機能」である。

 モダール補完はないものを作ってしまうのではっきりした視覚体験がある。カニッツァの三角形では実際に輪郭線を知覚しているはずである。
 一方アモダール補完は隠されたものを推測して認知してしまうもので、「モダリティがない=ア・モダール」補完という意味だ。この場合例えば緑色の視覚が隠している(ように感じる)次の四角形には見えている部分以外には黄色の視覚体験はない。単に「黄色じゃないか」と推測しているだけである。

 李白が風景の中で色を表現しているのは「空」だけであって、「帆」も「長江」も実際の色は表現していない。読者の想像に任せているのだ。どころか流域には草原などがあるはずだが、それについては存在自体を表現していない。

 だが、人間の脳は存在しないものを補うようにできている。モダール補完である。

長江補完前01

 こんな感じの風景が脳内で出来上がる。
 更にアモダール補完によって色が想像される。

長江補完前02

 私のような捻くれ者は長江の色を最後に残すだろう。

長江補完失敗

 しかし、李白の詩を読みながらリアル長江の色を補完してしてしまう人は100万人に一人もいないのではないか。この詩からこの風景は出てこないと思うのだ。

長江補完後

 やはり通常の感覚をしていたらこれに近い色を補完するはずである。

 李白、恐るべし。
 さすがは私がライバルと認める詩人である。(って、一片の詩だって詠んだことないくせに。)


 「片」は「編」の誤字だと思った人。
 教科書や指導者ばかり読んでちゃ駄目だよ。

漢詩を読む2-王維「元二の安西に使いするを送る」-(新米国語教師の昔取った杵柄79)

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安西と奈良の距離

 高校の教科書で古文の短歌に酒が登場しないのは既に述べたとおりである。
 『万葉集』を読む10-妻と酒をこよなく愛した歌人大友旅人-(新米国語教師の昔取った杵柄62)

 ところが、漢文には普通に酒が登場する。

 今回取り上げる「元二の安西に使いするを送る」もその一つである。

[書き下し文]
 渭城(いじょう)の朝雨(ちょうう)軽塵(けいじん)を浥(うるお)し
 客舎(かくしゃ)青青(せいせい)柳色(りゅうしょく)新たなり
 君に勧む更に尽くせ一杯の酒
 西のかた陽関(ようかん)を出(い)づれば故人無からん 
[現代誤訳]
 渭城に降る朝の雨は、積もった砂埃を洗い落とし、
 旅館の柳が青々として眼に映る姿は鮮やかである。
 さあ、もう一杯飲んでくれ。
 君が陽関より西に出てしまったら酒を酌み交わす知己友人もいないだろうから。

 渭城はかつて秦の都があった咸陽の別名である。
 地図で確認するとこの詩の詠まれた唐代には首都長安の北方に位置する衛星都市である。
 熊本市に対する合志市のようなものか(喩えがローカルすぎるだろ)。

 唐代には西域に旅立つ人がいると、都長安からここまで一緒に来て、宴を開いてから見送る習慣があった。

 長安や咸陽は黄土高原に近く、ゴビ砂漠とも近い。またタクラマカン砂漠は北西からの風上にあたる。これらの高原や砂漠は現在でも東亜の私達を悩ませている黄砂の発生源である。
 砂漠化の進んだ現在程ではないにせよ、唐代にも相当埃っぽいところだったことは間違いない。

 ところが旅立ちの朝、雨が降って黄砂を洗い流してくれたのだ。悪くすると10m先すら見えないことがあるのに、柳の色は青々として、実に爽やかな眺望である。

 おそらく王維は旅館の二階から柳を眺めながら送別の宴を開いているのだろう。

 王維は唐代の詩人である。
 李白が詩仙、杜甫が詩聖と呼ばれたのに対して詩仏と呼ばれた詩の名手である。また、中国画の一派である南画の始祖としても知られている。

 唐代の役人の試験である科挙に合格し、その俊秀を以て知られ、高位高官に昇って様々な官職を歴任する。

 遣唐使として唐に来ていた阿倍仲麻呂とも交流があり、彼が日本に帰国する際には(実際には遭難して帰国できなかったのだが)送別の詩を詠んでいる。

  秘書晁監(ひしょちょうかん)の日本国に還るを送る 王維

[書き下し文]
 積水(せきすい)極むべからず 安(いずく)んぞ 滄海(そうかい)の東を知らんや
 九州何(いず)れの処(ところ)か遠き
(中略)
 郷樹(きょうじゅ)は扶桑(ふそう)の外 主人(しゅじん)は孤島(ことう)の中(うち)
 別離方(まさ)に域(いき)を異(こと)にす 音信(おんしん)若為(いかん)ぞ通ぜんや
[現代誤訳]
 日本海は遥か彼方まで続き、どうやってその東の果てを知ることができようか。
 我が国の外の九つの地域の中で最も遠いのが日本だ。
(中略)
 君の故郷の木は太陽の昇る元に生えるという神木扶桑より更に遠くにあり、君はその木の生える孤島にいるのだ。
 今別れてしまえばもう異世界に隔たれてしまう。どうやって音信が取れるだろうか、いや、取れないだろう。永遠のお別れだ。

 「安西に使いするを送る」に比べて深刻すぎないだろうか。
 「あっち行ったら友達いないぞ。」というレベルではない。「二度と会えない、連絡もできない。」と云っているのだ。
 殆ど「星から来たあなた」(韓国ドラマ)である。

 シルクロードだって砂や風や砂漠と云う自然条件や盗賊や異民族と云った治安条件を考えたら十分危ないと思うのだが。
 少なくともこの送別詩よりは「安西に使いするを送る」の方がずっとお気楽である。

 当時の中国人が日本のことをどう思っていたかがよく分かる詩だ。

 阿倍仲麻呂がその場で詠んだ歌。

[和歌]
 天の原ふりさけみれば 春日なる三笠の山にいでし月かも
[現代誤訳]
 この地の大空を遥かに振り仰いで見ると、奈良の都の三笠の山の上にあったのと同じ月が出ているなあ。

 なんだか中国の友人の心配と絶望をよそに、「帰心矢の如し」だったようだ。

 ところでこの送別の宴にいた李白は仲麻呂遭難の報を受けてご丁寧に追悼詩まで作っている。

  晁卿衡(ちょうけいこう)を哭(こく)す   李白
[書き下し文]
 日本の晁卿(ちょうけい)帝都を辞す 征帆(せいはん)一片(いっぺん)蓬壷(ほうこ)を繞(めぐ)る
 明月(めいげつ)帰らず碧海(へきかい)に沈む 白雲(はくうん)愁色(しゅうしょく)蒼梧(そうご)に満つ
[現代誤訳]
 日本の阿倍仲麻呂が帝都を辞した。小さな船が蓬莱山に向けて出発したのだ。
 あの聡明な男は大海原に沈んで帰らない。憂いを帯びた白雲が舜帝墓のある蒼梧山に立ち込めている。

 あんな地の果てに向かって行って遭難したんだから絶対助からないよな、という気持ちからの慟哭である。
 仲麻呂がどうにか生き延びて帰ってきたときにはお互いに気まずかっただろう。

  閑話休題(あべからげんじにはなしをもどして)。

 最初の詩に書かれた「元二」という人が誰なのか未だによく分からないらしいが、咸陽から涼州を経て陽関を通って最終的にはタクラマカン砂漠の北にある安西都護府に向かおうとしていたことは確からしい。
 涼州は今の甘粛省、陽関はやはり甘粛省敦煌の近くの関所である。
 安西都護府は唐代に西州(現在の新疆ウイグル自治区トルファン市)と亀茲(現在の新疆ウイグル自治区クチャ市)に置かれた行政区分らしい(Wikipediaによる)。

 現在は西安(かつての長安)からトルファンまでは鉄道が通っていて両市間の距離は約2000km、西安-クチャは同じく鉄道で約2400kmであるから、日本列島を北から南まで縦断するくらいの距離である。
 
 やはり遠い。

 ちなみに西安から奈良までの直線距離は2400kmだから西安-クチャくらいの距離なのだ。
 しかも当時はシルクロードは徒歩・馬・駱駝などでの陸路、日本までは海岸に出てしまえば航路だから、時間にすれば日本の方が近かったのではないだろうか。

 つまり「西の方陽関を出づれば故人無からん」と「別離方に域を異にす」の深刻度の差は心理的距離の差だったといえよう。

 中国の塞外民族を「東夷西戎南蛮北狄(とういせいじゅうなんばんほくてき)」というが、「東夷」より「西戎」に対する心理的距離の方が近いところが、唐という帝国の性質を表していて面白い。

「無い」を使わず「云う」を使う理由(それでも生きてゆく私329)


謄写版

 明けましておめでとうございます。

 本年も馬鹿馬鹿しいお話にお付き合いください。

 私の文章を幾つかでも読んだことのある人は、「漢字の多い文章だな」と云う印象を受けると思うのだが、一字一句に敏感な人はこれだけ漢字を多用した文章に、ある漢字だけが殆ど登場しないことに気付くかもしれない。

 そう。それは「無」という漢字である。

 私の文章には「無」は「無理」「無限」などの熟語としては登場しても、「無い」という訓読みの形容詞としては基本的に登場しない。
 これは私が「無」という概念を嫌ったり恐れたりしているのが理由ではない。もっとしょーもない理由である。


 これは私が容認できない政治的信条や歴史観を持っている人々、たとえば「日本は韓国を植民地にしたことが無い」とか、「大陸での日本軍の残虐行為は無かった」などと主張する人々がこの「無い」という漢字を多用しているような気がするからだ。実際にAI君に数を数えさせてみたら全くの気のせいかもしれないが。

 通常「ない」は「存在しない」という意味の本動詞の場合にしか「無い」とは表記しない。たとえば「金が無い」などだ。ところがこの人々は「私は学生ではない」などの本来は補助動詞として用いられて仮名で表記されるのが慣例の「ない」まで「私は学生では無い」などと漢字で表記する。

 誰がそう云っているという訳でもないのだが、私にはこれが目に付く。目障りである。

 どうも自分たち同士で似たような考え方をする人を見分けるために用いられている符牒のように思えてならない。
 あるいは単に彼らの親玉に当たる人が「無」のそういう使い方をしていてそのエピゴーネンたちがその人の文章を参考にするうちに漢字の使用法まで学んでしまったのかもしれないが。

 一方で、私は世間一般ではあまり使われない表記を多用している。

 それは「云う」である。

 通常「いう」が本動詞として使われる時には「言う」と表記されるし、補助動詞として使用される場合、例えば「桃太郎という少年がいました」などという場合には漢字を用いずに「いう」と仮名で表記するのが普通である。
 しかし私は本動詞のみならず補助動詞の場合にも意識して「云う」と表記している。

 私がこの漢字を最初に見たのは小学生くらいの頃、父親が連れて行ってくれたソ連(ロシア)映画の「大祖国戦争シリーズ」の字幕の中だったと思う。

 一瞬戸惑ったものの、文脈から「云う」は「いう」と読むのだとすぐに悟った。

 そしてその字幕の手書きっぽい字体と共に「カッコいいもの」として脳裏に刻まれたのだ。

 実際「大祖国戦争」の登場人物たちはカッコよかった。
 
 これは日本の戦争を負け戦として教わったことが関係していたに違いない。

 ソ連の対独戦は最終的には勝ち戦なのだが、全4年の期間のうちの大半は負け戦だし、勝ちに転じてからも度々手痛い敗北を喫している。

 そしてこれは兵士を消耗品と見做すロシア軍(に限らず戦争の本質がそうとも云えるが)の伝統的な戦略戦術も関係しているのかもしれないが、主人公格の登場人物は勝利を眼にすることなく死んでしまう。

 これは映画に登場する日本兵と同じ運命である。

 何度薄氷を踏んでも「ありえんやろー」というような神業と幸運で必ず生き残る米国の戦争映画の主人公に酷い嘘臭さを感じていた私には、必ず死んでしまうソ連兵はとても親近感があった。

 「戦争とはいえ他人様の息子を殺めてしまうのだから自分も死ななきゃ。」という感覚である。

 おそらく私より以前の日本人は間違いなくこうした感覚を持っていた。私が最後の世代かも知れない。

 それについては私は20年ほど前に小論を書いている。
 「日本軍歌史考」
 
 占領から80年経ってすっかりアメリカナイズされた現在の日本の若者にはこんな感覚はないかも知れない。

 実際私より年上の作家などでもこういう感覚を持たずに戦争を描写している人も増えてきたから、そういう感覚は滅びつつあるのかもしれない。まさに「昭和は遠くなりにけり」である。

 もっとも、アングロサクソンにも謙譲な人はたくさんいるし、むしろ彼らの伝統的な考え方はかつての日本人に似ているという説もある。日本文化に惹かれる人が多いのは基本的な精神に通底するものがあるからかも知れない。

 閑話休題(ないというのはなしだった)。

 ここでふと疑問に思ってAI君に聞いてみたのだが、「言う」は自分の意見や気持ちを直接表明するときに使用し、「云う」は他人の言ったことの引用に使用するそうだ。

 ただ、映画の字幕の中でそんな使い分けがされていた記憶はないから、「言う」が「云う」に代わっていたのは別の理由があるに違いない。

 通常の環境下では「云」という漢字は「云々」という熟語以外ではまず使うことがない。これは映画字幕と云う特殊環境下で行われた代用に違いない。

 そこで思い当たったのは、昔は映画の字幕はフィルムに刻み込まれて作成される、ということだ。

 これはガリ版の作り方と同じである。
 ガリ版と云っても私と同年配より上の人しか分からないだろうが、ワープロが普及する前の印刷物はガリ版によって作成されていた。

 昔は例えば教師が「学級通信」などを作ろうと思えば蝋が塗られた原紙に鉄筆(鉄でできたペン)で一画一画刻み込んで行き、それを重ねて完成したガリ版(正式には謄写版という)を謄写器に掛けてローラーで一枚一枚インクを塗りながら刷る必要があった。

 この作業を今でも見ることができる現代の作業に喩えると、板海苔の製作や和紙を漉く作業が一番近いか。いや、違うな。既に失われた文化である。他に喩えようがない。あ、浮世絵を刷る作業に似ている、って、江戸時代の技術じゃないか。ガリ版よりずっと古い。

 もう少し金のあるところだと輪転謄写機というのがあって、これは今の輪転機と原理的には同じでそれほどではないにせよかなり速いスピードで連続的に印刷することができたが、私の父がいたような田舎の小学校だと相当後の時代にならないと使用することは期待できなかった。

 ガリ版を作るにはコツがあって、できるだけ画数を少なく、直線を多用して切るようにして刻んでいく必要がある。だからガリ版は「作る」ものではなく、「ガリ版を切る」と云っていた。「ガリ版」という俗称はこの作業の際に「ガリガリ」「カリカリ」と音がするところから来ているらしい。
 このやり方では、あまり画数を多くしたり曲線を多用すると原紙がボロボロになって、印刷した時にその部分はインクがべっとりと印刷紙に付いて真っ黒になってしまうのだ。

 今から考えれば「言う」はガリを切ったときにそういう危険性の高い字である。狭いスペースの中に横線を6本刻んだらまず間違いなく原紙がズダボロになってしまう。
 だから画数が少なくて原紙を傷つける危険性の少ない「云う」が使われたのだ。

 映画字幕で「云う」が多用されたのも同じ事情に基づくに違いない。知らんけど。

 ちなみに、平型の筆にペンキを付けて看板を書いたり、マーカーの角型の筆先で大きめの字を書くときにも「ガリ切り」と同じようなテクニックが使用される。

結婚式の案内看板

 私が旧友のA君の結婚式の看板をそうしたテクニックで書いて顰蹙を買った話は既にした。
 結婚式のとんでもない看板(京都安下宿生活58) 

 ただし、私はガリを切ったことはない。

 私が大学生の頃には既に「ガリ切り」は伝統芸能の世界になっていて、政治や思想なども含めた色々な意味での懐古趣味(アナクロともいう)を持った人々に僅かに伝わっている技能だったからだ。

 ということで(何が「ということ」なのかわからないが)、私はこれからも「云う」という漢字を使い続けていく。今までの私の拘りの例に漏れず突然飽きて止めてしまうかもしれないが。

 そして、「無い」という漢字は出来るだけ使わないようにしよう。って、少し姿勢が後退している。何だかムキになっているのがちょっとアホらしくなってきたのだ。

 歳を取ったら頑固になるというのは嘘だな。

伊藤敏博「サヨナラ模様」の寝技(本当は怖い昭和歌謡)

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寝技

 これまで歌詞の意味が解ると怖くなる昭和歌謡を紹介してきたが、今回はチャンクの暴走によって「怖い歌」に変化してしまった歌である。
 したがってこれは全く聴いている私の側の認知の問題であり、作詞者や歌っている人の問題ではないことを断っておく。

 私が大学2回生のとき、伊藤敏博「サヨナラ模様」という歌が流行った。 

 今AI君に尋ねてみるとこの伊藤と云う人は国鉄マンで、歌のヒット後も車掌として勤務し続け、「車掌さん歌手」と呼ばれたそうである。
 この人の「次は~〇〇、〇〇」というアナウンスを聞いてみたかったものだ。

 「サヨナラ模様」は確か一時は歌謡曲のランキング番組「座・ベスト貂(仮名)」の常連になっていた筈である。

 しかし私は、この歌を聴いて、特に感動した、という覚えはない。
 また、今を去ること43年前の話であるから、私はこの歌の詳細な部分を覚えていない。


 だが、サビの部分だけは強烈な印象と共に覚えている。
 殆ど円広志の「飛んで飛んで」じゃなかった、「夢想花」のサビの部分位にそのメロディーと歌詞が脳裏に刻まれている。

 だから♪ ねェ♪ ねェ♪ ねェ♪ ねェ♪ 抱いてよ♪

 このフレーズが一曲の中で6回繰り返される。

 そしてこのフレーズの後には

 いつものグッバイ言うときみたいに♪ 抱きよせて♪

と続くのだから作詞者(シンガーソングライターであるから歌い手でもある)としては何も問題のない歌詞である。

 ところが、コミュニケーションには発信者と受信者がある。
 発信者に問題がなくても受信者に問題があるとコミュニケーションに齟齬をきたす。

 このフレーズが歌われるときに「ねェ」の「ェ」を強調した歌い方をされるものだから、実際には「ねェ」ではなく「ねエ」と歌っていたと思う。

 しかも「エ」のところで喉から息を強く吐くために何か別の子音が付け加わっているかのように聞こえた(おまえだけじゃ)。
 ここで付け加わっていた子音は「〇(自粛)」である。

 つまり私の脳内ではこの部分は

  寝〇♪寝〇♪寝〇♪寝〇♪ 〇〇てよ♪
に変化していたのだ。

 柔道の試合で形勢不利な選手が寝技に引きずり込もうとしているようである(公序良俗のため比喩が分かりにくくなっております)。

 友達連中とこの歌の話題になったとき、私は、「えらい卑猥な歌詞だよな。「寝〇♪〇〇てよ♪」なんて」と云った。
 私が大爆笑と「卑猥なんはお前じゃ!」という罵倒に包まれたのは云うまでもない。

 大学生の間で話題になるくらいだからきっととてもいい歌だったに違いない。

 豚に真珠とはこのことだ。

 本当は怖い昭和歌謡である。

漢詩を読む1-杜甫「春望」-(新米国語教師の昔取った杵柄78)

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国破れて山河あり

 杜甫の春望は私の最も好きな詩の1つである。
 これはまた父の愛誦歌でもあった。

[書き下し文]
 国破れて山河在り  城春にして草木(そうもく)深し
 時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ 別れを恨みては鳥にも心を驚かす
 烽火(ほうか)三月に連なり 家書(かしょ)万金(ばんきん)に抵(あた)る
 白頭(はくとう)掻(か)けば更に短く
 渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)えざらんと欲(ほっ)す
[現代誤訳]
 安禄山の反乱のおかげで国は荒れ果てたが、山や川は昔のままだ。
 今長安城には春が来て草木の萌え盛る季節である。
 この酷い時勢を思うと本来ならば心を慰めるはずの美しい花を見ても涙が滂沱と流れ、
 家族との辛い別れを思い出すので本来心を浮き立たせるはずの鳥の声もはっとさせて心痛むものでしかない。
 戦火はもう何か月も絶えることなく、
 家族からの便りだけが万金にも値する気持ちの支えである。
 懊悩のためにただでさえ薄い自分の白髪頭を掻きむしればもっと薄くなり、
 もはや冠を留める簪さえ挿せないほどだ。

 いつもは前半部分を読むだけで強く共感してそこで鑑賞を止めてしまうのだが、こうして全文を振り返ると後半部分も前半に優るとも劣らず共感できる。

 御同輩、髪の悩みは辛いものでござるなあ(冗談)。
 
 この詩は杜甫が安禄山の反乱軍によって都長安に軟禁されていたときに作った詩らしい。

 755年、唐玄宗皇帝の時代、現在の北京付近の節度使をしていた安禄山が反乱を起こし、瞬く間に華北を席捲する。同年西都洛陽を陥落させた安禄山は翌756年1月に燕国皇帝を名乗り、さらに西へと進軍する。6月には遂に首都長安(現在の西安)も陥落。玄宗たち朝廷は更に南西の成都(かつての蜀の都)に逃れる。
 その途中、馬嵬(ばかい)という所で玄宗の妃で世界三大美女に数えられる楊貴妃が殺害されるという所謂「馬嵬の悲劇」が起こるのだが、その話はまた今度。

 杜甫は家族を現在の延安付近に避難させ、自分は退位した玄宗に代わって即位した新帝粛宗の下に駆けつけようとしたが、反乱軍に捕まってしまい、長安で禁足を喰らってしまったのだ。

 前皇帝の朝廷は遥か南西に逃亡、北西にできた新皇帝の朝廷は未だ現在の寧夏ウイグル自治区付近の狭い地域を掌握しているにすぎず、いわば亡国の囚われ人と化した杜甫が作ったのがこの歌なのである。

 唐と同じく亡国の秋(とき)、戦地やあるいは旧領土から帰還してきた多くの日本人たちが自分たちの境遇をこの時の杜甫と重ねたらしい。
 1年余りの俘虜生活を経て大陸から復員した父もまたその一人である。

 それから数十年が経ち、すっかり生意気になって聞き齧ったいっぱしの反戦論で自分に反論するようになった私に、父は、よく言った。
「お前は亡国の民というものがどれほど悲惨なものか知らないからそう云うのだ。」と。

 大阪にあるとある飲料水の会社がこの詩から社名を取ったという話は既にした。

国破れてサンガリア

迷作リメイクシリーズ105-国破れて山河リア-(毒にも薬にもならない話4)

 戦争は非常に多くの人の心を傷つけたが、それでも多くの日本人が前を向いて再び歩き出すことができたのは、一つにはこの国の美しい山河によって癒やされ励まされたからだろう。
 その美しい山河は決して手つかずの自然ではない。
 実はその風景はそこを営々と耕し手入れしてきた人々の労力の結晶なのである。
 その話も既にしたことがある。

熊本へ行こう32-熊本石橋紀行リメイク8貫原橋-(河童日本紀行504)

 心傷ついて、また、無一文となって、帰ってきた日本人たちを癒し励ました、風景よりも大切なもう一つのものは、やはり家族や友人たちであったろう。

 春望は前半で自然の風景を歌った後、家族の話になる。
 何時来るともしれない家書(家族からの手紙)は万金に値するのだ。

 空襲の噂は外地にいる人々にも当然伝わっていただろう。それすら得られない悲惨な境遇の人もいただろうが。ジャングルの中を飢えて彷徨っているとか。

 還ってきた多くの人がまず家族の住む家に帰ろうとしたのは云うまでもない。

 そこが焼け野原になって誰もいなくなってしまっていたときの絶望を私は想像することが出来ない。

 しかし、家族が無事で再会できた時の喜びは想像することが出来る。どれほど嬉しかっただろうか。

 詩中の杜甫はまだそうした喜びの中には居ない。
 彼はまだ家族の安否を気遣って頭を掻きむしる不安の中に居る。

 杜甫はこの時の心境を詠んだ「月夜」という五言律詩を作っている。

[書き下し文]
 今夜 鄜州(ふしゅう)の月  閨中(けいちゅう)只(た)だ独(ひと)り看(み)るらん
 遙かに憐れむ小児女(しょうじじょ)の 未だ長安を憶(おも)うを解せざるを
 香霧(こうむ)雲髪(うんかん)湿(うるお)い 清輝(せいき)玉臂(ぎょくひ)寒からん
 何(いず)れの時か虚幌(きょこう)に倚(よ)りて 双(なら)び照らされて涙痕(るいこん)乾かん
[現代誤訳]
 今夜私が長安の月を見ているように、妻は寝室から鄜州の月を見ていることだろう。
 子どもたちは幼いのでまだ無理だなあ。長安に軟禁されている父の身の上を案じるのは。
 香しい夜霧に妻の豊かな髪がしっとりと濡れ、清らかな月の光は妻の白い腕を冷たく照らしているだろう。
 いつの日か二人きりの寝室で寄り添って、月の光に照らされながら涙の乾く日が来るのだろうか。


 こんな「奥さん大好き」な人がよくもまあ単身で危険な場所に行ったものである。
 ほかに子供のことを詠んだ「遣興」という詩も残している。子煩悩でもあったようだ。

 ところが、少なくとも私の知る限り、この後の顛末を描いた詩はない。

 杜甫は翌757年、長安を脱出して粛宗の下に馳せ参じ、高官に任命される。
 おそらくこの時に家族との感動の再会を果たしている筈であるのだが。

 感動が大きすぎて言葉にできなかったのか。
 「亭主元気で留守がいい」というような関係の家族だったのか。

 そういえば杜甫の詩って「春望」に限らず最後は自分の境遇を嘆いて終わるものが多いよな。
 そのへんか。

欧陽菲菲-「ラヴ・イズ・オーヴァー」の暖かさ-(本当は怖い昭和歌謡)

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ラヴ・イズ・オーヴァー

 私が欧陽菲菲の「ラヴ・イズ・オーヴァー」を最初に聞いたのは大学に入ったばかりの時だったと思う。かれこれ45年くらい前である。

 この歌手は私が小学生くらいに「雨の御堂筋」という歌でレコード大将(仮名)を獲得し、既に歌手としての名声を確立していた。
 しかし、私としては「水商売のオネーサンたちが好きな歌手」くらいの認識しかなかった。

 したがってこのラブ・イズ・オーヴァーがヒットして街角で流れているときも、「ああ、飲み屋街ではこんな歌が流行っているんだな」という感興しか湧いてこなかったし、歌詞に注意を集中するということもなかった。所謂聞き流し状態である。

 漠然と、「女性が働かない男性を部屋から追い出す歌」だと思っていた。

 ところが40歳を超えたある日、たまたま流れていたこの歌の歌詞が急に胸の中に入ってきた。

 ラヴ・イズ・オーヴァー♪ ワケなどないよ♪ ただひとつだけ♪ あなたのため♪

 あっ、この女性は相手の男性のことを本気で愛しているのだ。だから別れようとしているのだ。初めて気づいた。(だからそういう歌だと普通の人は聞いた瞬間に気付くぞ)。

 そして彼女は男性よりかなり年上である。(だからみんな知っているって)。

 きっと♪ 最後の恋だと♪ 思うから♪

という歌詞で分かる。

 ほんとの自分を♪ じっと見つめて♪ きっと♪ あんたにお似合いの♪ 人がいる♪

 なるほど。自分は男性と不釣り合いだと思っているのだ。
 不釣り合いなのは社会的地位か、あるいは年齢か。はたまた性格か。

 私はこの「分相応」という考え方が大嫌いで、この歌詞のこの部分も嫌いである。
 いいじゃんか。
 人間は平等、職業に貴賎なし。姉さん女房もまた好し。喧嘩するほど仲がいい。

 だが、次の歌詞がズシンと胸に響く。

 最後に一つ♪ 自分をだましちゃいけないよ♪

 「俺たちに明日はあるか。」
 これは、周囲に祝福されるとは限らないカップルの双方がふと考えることである。
 この場合の周囲とは日常親しく付き合っている人だけではなく、関係が上手くいかなくて遠ざかっている親族や、これから生活していく際にどうしても付き合っていかざるを得ない人々を含む。

 相手を本気で愛すれば愛するほど、この問いは頭の中で大きくなっていくだろう。
 要は自分たちの関係はサステナブルなのか。

 相手を限りなく愛おしく思い、命さえも惜しくないと思われる時期、人はその答えを脳裏から無理矢理追い出してしまう。自分を騙すのだ。

[和歌]
 君がため  惜しからざりし 命さえ 長くもがなと 思いけるかな
[現代誤訳]
 君の為ならば惜しくはないと思っていた命までも、君と結ばれた今では君のために永らえていたいと思ったのだよ。

 『百人一首』に収録されている藤原義孝のこの歌は、男女が結ばれる際に相互が抱く激情をよく表しているだろう。

 医学と呪術が同義だった平安時代の義孝は、この歌で自分の人生を見事に総括してしまっている。彼は僅か21歳で天然痘によりこの世を去ったからだ。
 しかし、昭和のカップルであるラヴ・イズ・オーヴァーの二人はこれからまだまだ長い人生をお互いに生きていかなければならないのだ。

 結婚は御伽話ではない。現実である。そして現実とは生活なのだ。

 そしてこの女性はそれを過去の経験から身に染みて知っているのだ。

 「俺たちに明日はない。」

 ラヴ・イズ・オーヴァー♪ 泣くな男だろ♪ 私のことは早く忘れて♪

 別れを決意した女性が男性を諭す言葉は突き放したようでどこか暖かい。子供を叱る母親のようである。

 それが今迄に紹介してきた言葉である。
 おそらくそれは現実の関係の中でも音声言語として表出される言葉だろう。

 しかし、歌の中では語られても、現実にはおそらく語られなかっただろう言葉もある。それはこの女性の内心での叫びである。

 私はあんたを忘れはしない♪ 誰に抱かれても忘れはしない♪

 ここで女性は男性を最初はそう呼んでいた「あなた」ではなく「あんた」と呼んでいる。

 相手を「あんた」と呼びながら内心で叫ばれる言葉は、「あなた」と語り掛けられるような相手を思い遣って出てくる言葉ではない。心の奥底から出てくる本音である。

 これは前回紹介した西城秀樹『ブルースカイブルー』では語られなかった女性の側からの叫びなのだ。

 本当は怖い昭和歌謡である。

 

西城秀樹-哀愁の「ブルースカイブルー」-(本当は怖い昭和歌謡)

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ブルースカイブルー

  たまたまテレビを見ていたら、昭和歌謡で今年一番人気があった曲はどれか、という趣旨の番組をやっていた。視聴者の投票でこれを決めようというのである。
 結果は予想通りで、美空ひばりの「川の流れのように」だった。私もこの歌に投票したので「してやったり」だった。

 だが、私が眼を惹きつけられたのは、この「昭和の歌姫」ではなかった。

 それは昭和の歌手にはありえないような、頭が小さくて手足の長い男性歌手だった。

 そう。西城秀樹である。

 最近、医学の発達した現代にしては夭逝と云えるこの歌手を追慕するファンが増えているらしい。

 そうした当時のファンだけでなく、この50年以上前にデビューした歌手に若い新たなファンが生まれているらしいのだ。

 「熱しやすく冷めやすい」という国民性や、「去る者は日日に疎し」という人間本来の特性からすると不思議な現象である。

 私自身は小学校の頃に初めて聞いたこの人の歌に対して何か特別な感情が生まれたことはなかった。

 これは主に母親の影響だったのだろうが、私にとっては吉田拓郎や南こうせつなどのフォークソングが日常聞いて口ずさむ歌だった。
 今は亡き「場内プール」からの帰り路、「第二環状線」のバスに乗った途端に「貴方は♪ もう♪ 忘れたかしら♪」という「神田川」のメロディーが聞こえてきた日のことを今でも覚えている。

 小学校や中学校の時、熱心に水泳をしているときには気付かなかった、この運動をした後の突然襲ってくる気怠い疲労感を、中高年になった今でも思い出す人は多いだろう。

 水泳の時間の後に座学に戻って先生の授業を集中して聞くことが如何に辛かったか。

 特に現在60過ぎの私の小学生時代には「真面目にやらない」=「先生にひっぱたかれる、悪くすればその後長々と説教される、最悪の場合親を呼ばれてさらに怒られる」だったから、それはスポーツのハードトレーニングをした後に護身術の訓練をするに等しかった。
 身の安全の心配をすることなく寝落ちできる現代の学生が羨ましい。

 閑話休題(いっかいくらいはだっせんせずにはなしができないのか)。

 「新御三家」という、当時の小学生にしたら既に時代錯誤とも云えるキャッチコピーと共に登場したこの人は、私にとっては「御三家」と呼ばれた人々の時代に属する旧世代の人として認識されていたのだ。

 ところが、最近よく聞くようになった西城秀樹の代表作「傷だらけのローラ」や「YMCA」といった歌と共に聞いた歌の歌詞に私は強く引き付けられた。

 それは「ブルースカイブルー」という歌である。

 この歌を最初に聞いたとき私は既に高校生だったが、何せ晩稲だったので歌詞の意味がさっぱり分からなかった。というより、関心がないのでWernicke野が認知するレベルまで語音が入ってこなかったのだろう。

 あの人の指にからんでいた♪ ゴールドの指輪を引き抜き♪  
 このぼくとともに歩んでと♪ 無茶をいったあの日♪

 この歌は何と私が(というより母が)熱心に視聴していたTV番組「座・ベスト貂(仮名)」という番組で14週連続の1位に輝き、その年の「レコード大将(仮名)」を受賞しているのだ。

 にも関わらず、当時の私にはこの歌が何を意味しているのかが、誇張ではなく全く分かっていなかった。

 私は当時通っていた「超男子校(仮名)」で強制的に受けさせられる模擬試験の国語の成績はまず間違いなく全国で20位以内に入っていたのだから、今から思えばこれらの試験と云うのは何だったのだろうと思う。
 全国で20位以内と云うことは、県レベルではおそらく1位だろう。日本には47都道府県しかないのだから。

 こんな分かりやすい歌詞の意味を(冗談や誇張ではなく)分からない生徒がこんな成績を取ってしまうのだ。

 これは私が昔の栄光の自慢をしているのではない(全くそうではないとは言えないが)。

 当時の国語の評価は被検者の総合的な認知能力を十分反映するものではなかったということだ。

 閑話休題(けっきょくじまんにしかなっていないからさいじょうひできにもどれよ)。

 その後それなりの経験をした私にはこの短いフレーズを見ただけでこれが自分より年上の人妻に懸想した若者の歌だと分かる。
 それなりの経験をしなくても大多数の人は分かるに違いないが。

 閑話休題(こんなだからかねがなくていつまでもはたらかなきゃならないんだよな)。

 当時の社会的常識に沿った処理、つまり若者が人妻の配偶者だか自分の父親だかに頬を叩かれ、若者の恋は終わる。

 振り向けば♪ あのときの♪ 眩しすぎた空♪ 思い出した♪

 これは若者の回想である。
 この歌の中で、若者の想い人はもはや空の彼方に消えてしまっている。この若者もまた昭和の若者なのだ。

 もう二度と逢えぬ♪ あのひとだろう♪

 なるほど、こうやって若者は経験を消化し、大人になっていくのか。

 この歌の歌詞には相手の言葉は勿論、相手の仕草や表情も一切現れない。

 それによって相手の反応を想像させようという仕掛けだったに違いなく、この歌を聴いた日本人はおそらく同じような反応を想像したのだろう。そして共感した。だからこそ14週連続トップという結果になったのに違いない。当時の日本人が如何に均質な精神構造だったかが分かる。

 そしてこの歌を支持したのは、おそらくこの歌では一切意思表示をしていない相手の属する女性の視聴者なのだ。

 では、この女性はどんな反応をしたのだろうか。

 それについては、欧陽菲菲「ラヴ・イズ・オーヴァー」に続く。

 本当は怖い昭和歌謡である。

「奥の細道」を読む3-平泉-(新米国語教師の昔取った杵柄77)

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判官贔屓

 さて、帰路の市振から唐突に始まったこの「『奥の細道』を読む」シリーズである。

 これは「面白かった順に取り上げる」という自分ルールを突然決めた私((こういう人が上司だと部下は大変なんだよな。幸いにして万年ヒラだが)が、『奥の細道』を読んでこの項に最も心惹かれたからである。 

 では、二番目に取り上げるのは、といえば、定番中の定番、「平泉」である。

 「それだったら最初に平泉を取り上げてそれから帰路ということで市振にすればよかったじゃないか」と思う人がいるかも知れないが、その通りである。

 だが、私はその性格特性上、「これをしたい」と思ったらなかなか我慢が利かない。
 今回も市振が面白い、となったらそれについて書かなければ気が済まなくなったのだ(こういう人が上司だったら以下同文)。

 まあ「こぎゃんありますもんなー(熊本方言で「この人はこういうだからねー」という皮肉)」、と思ってお付き合いしていただきたい。

 ということで、平泉である。

[原文]
 三代の栄耀(えいよう)一睡(いっすい)の中にして、大門の跡は一里こなたに有り。秀衡(ひでひら)が跡は田野(でんや)に成りて、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。

[現代誤訳]
 奥州藤原氏三代の栄耀栄華も一炊の夢のように消え、大門の跡は1里ほど離れたところにある。藤原秀衡の屋敷の後は田野と化し、人工的に作られて頂上に金の鶏が埋められたという金鶏山だけがその形を残している。

 最初の2文を読んで感じたことで、さらに読み進むと痛感出来ることなのだが、こういうのを漢詩調というのだろう。まるで一旦漢詩を作ってからそれを書き下したような文章である。
 驚くほどの格調の高さとリズムの良さである。
 こんな素晴らしい文章の項ばかりだったら『奥の細道』を読んでいて眠くなるなどと云うことはないに違いない。

 「三代」は奥州藤原氏の清衡(きよひら)・基衡(もとひら)・秀衡(ひでひら)を指すと思われる。というのは、藤原氏は四代泰衡(やすひら)の時に滅亡するからだ。
 奥州藤原氏は平安時代末期から鎌倉時代初期の約100年間、現在の岩手県にある平泉を中心に活動した一族である。

[原文] 
 まず高館(たかだて)にのぼれば、北上川(きたかみがわ)南部(なんぶ)より流るる大河なり。衣川(ころもがわ)は和泉(いずみ)が城(じょう)をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。
[現代誤訳]
 まず源義経の屋敷があった高館に登って俯瞰すると、北上川は南部地方から流れる大河である。衣川は泰衡の三男和泉三郎忠衡(いずみのさぶろうただひら)の居城であった和泉が城を巡って、高館の下から北上川に合流する。

 京の都にも比されるほどに繁栄した平泉が廃墟となったのは、鎌倉に開幕した源頼朝の弟である源義経が兄と仲違いをして東北に逃れたとき、藤原泰衡がこれを匿ったからであった。
 泰衡は鎌倉の圧迫に耐えかねて義経を襲って殺し、赦しを乞うたのだが、結局攻め滅ぼされてしまった。
 この時最後まで義経を護ろうとしたのが和泉三郎こと藤原忠衡だったのである。忠衡はそのために僅か23歳で泰衡に誅殺されてしまう。

[原文] 
 泰衡(やすひら)等(ら)が旧跡は、衣が関(せき)を隔て、南部口(なんぶぐち)をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。
[現代誤訳]
 さらに高館から俯瞰できる泰衡らの居城の旧跡は、衣が関を間に置いて、南部地方からの道を守り固め、蝦夷の侵攻を防ぐ位置に設置されていると思われた。

 同じ攻め滅ぼされるにしても、森鴎外の『阿部一族』のように一致団結して決起するのならまだしも、肉親の血で血を洗う骨肉の争いの果てに滅亡したのだからどうにも後味が悪い。

[原文]
 さても義臣すぐってこの城にこもり、功名(こうみょう)一時の叢(くさむら)となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠(かさ)打ち敷いて、時のうつるまで泪(なみだ)を落し侍りぬ。
[現代誤訳]
 さて、源義経は忠義の家臣を選りすぐってこの高館の城に籠り、奮戦したものの、それまでの功名も一時のこととして虚しく討ち死にし、高館城は一面の草むらとなっている。
 「国破れて山河在り 城春にして草青みたり」という杜甫の詩を思い出しつつ、旅笠を座布団替わりに敷いて、長い時間涙を流しながら感慨に耽ったことであった。

 この部分に引用されている杜甫の「春望」という詩は書き下し文は普通は

国破れて 山河在(あ)り
城春にして 草木(そうもく)深し

と書かれるが、

[原文]
 城春草木深
の部分を芭蕉が
 城春ニシテ草木(くさ)深(あお)ミタリ
と読んだところで大陸的な私は一向に気にしない(と云っている割にはわざわざ取り立てているが)。

 平安時代末期は元は貴族の警護によって台頭した武士集団が権力闘争を繰り返したが、それはやがて源氏と平氏の争闘に収斂されていった。
 源氏が平氏に打ち勝っていく中で活躍した源氏側の武士が、木曽こと源義仲と、牛若丸の幼名で有名な源義経である。
 そして日本の歴史ではよくあることだが、「出る杭は打たれる」の喩え通り、2人とも源氏の棟梁である源頼朝によって攻め滅ぼされてしまう。
 というか、これは結果論による歴史の総括であって、実際には有力な源氏の武士集団は平氏と戦うとともに身内とも所謂「内ゲバ」を繰り返し、その中で最終的に勝ち残ったのが源頼朝であった、という見方の方が実情に近いかも知れない。

 正義が勝つのではなく、勝った方が正義なのだ。

 日本人は昔からそれを歴史の中から読み取っているからこそ「判官贔屓」という心情を長く持ち続けてきたのだろう。「判官」は「ほうがん」と読み、源義経のことである。

 これは負けた方に同情する心情だ。

 「〇〇はそこで殺されたと云われているが、実は落ち延びてあそこで生きている。」などという伝説はその典型である。

 源平合戦でいえば壇ノ浦に沈んだ幼い安徳天皇は「実は落ち延びてここで生きていた」という墓が各地にある。

 高館で討ち死にしたと云われる義経についてはもっと荒唐無稽な伝説がある。それは落ち延びた義経が大陸に渡ってチンギス・ハーンになった、というものだ。伝説が出来たときにはチンギス・ハーンは日本では「ジンギスカン」と呼ばれていた。

 私が若い頃にはこんな小咄があった。

 大陸に落ち延びた義経のところに日本から国定忠治が訪ねて行って挨拶をした。
「お初にお目にかかります。手前、生国と発しまするは、関東です。関東と云っても広うござんす。手前、生まれも育ちも上州は国定村…」
と忠治が仁義を切っているのを義経が途中で遮って云った。
「わしゃ、ジンギスカン!(仁義好かん)」

 もはやジンギスカンはチンギス・ハーンだし、ヤ〇ザの挨拶を「仁義を切る」というのだということを知っている人ももはや統計学的例外程度の数だろうし、そもそもZ世代は国定忠治を誰も知らないだろうし、全くのところ「昭和は遠くなりにけり」である。

閑話休題(たぶんだれもにやっとすらしないぞ)。

[俳句] 
  夏草(なつくさ)や兵(つわもの)どもが夢の跡
[現代誤訳]
  高館に生い茂る夏草を見ているとこれが儚く消えた勇者たちの夢の跡なのだということが分かる。 

[俳句]
  卯(う)の花に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)かな   曾良
[現代誤訳]
  卯の花を見ていると老齢の身で主君の義経を護るために白髪を振り乱して戦って討ち死にした増尾兼房の雄姿が目に浮かぶなあ

[原文]
 かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂(きょうどう)は三将の像をのこし、光堂(ひかりどう)は三代の棺(ひつぎ)を納め、三尊の仏を安置(あんぢ)す。七宝(しっぽう)散りうせて、珠(たま)の扉風にやぶれ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽(く)ちて、既に頽廃(たいはい)空虚の叢(くさむら)と成るべきを、四面新たに囲いて、甍(いらか)を覆いて風雨を凌ぐ。暫時(しばらく)千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり。
[現代誤訳]
 かねてからうわさに聞いていた二堂を開けてもらって見る。経堂には藤原清衡・基衡・秀衡の三人の像が残されていて、光堂には三人のお棺を納め、中央の阿弥陀如来(あみだにょらい)、左の観音菩薩(かんのんぼさつ)、右の勢至菩薩(せいしぼさつ)の三尊の仏像を安置している。しかし、堂を飾っていた金・銀・瑪瑙(めのう)・珊瑚(さんご)などの七宝は散り失せて、真珠や宝石で飾られた扉は風に吹き破られ、金箔で飾られていた柱は霜や雪で朽ち果てて、既に崩れはてて何もない草むらとなるはずだったところを、正応元年に光堂を蓋う鞘堂が作られ、さらに寛永年間にも修復されて、これらが再び朽ちるまでもう暫くの間は千年の昔を思い出す記念となっているのである。

 東北地方では玉山(たまやま)・鹿折(ししおり)・五枚平(ごまいひら)などの金山から豊富な金を産出し、奥州藤原氏の本拠地である平泉はまさに「黄金の都(ジパング)」であった。
 これらの金を豊富に使って作られたのが藤原清衡創建の中尊寺であり、文中の「光堂」は一般には金色堂と呼ばれている。
 奥州藤原氏の滅亡によって荒れ果てていた平泉も、中尊寺金色堂だけは補修を繰り返されて創建当時の姿を現在に伝えている。

[俳句] 
  五月雨(さみだれ)の降りのこしてや光堂(ひかりどう)
[現代誤訳]
  全てのものを朽ち果てさせてしまう梅雨もこの中尊寺の金色堂だけは降り遺したのだろうか。燦然と光り輝くまさに光堂であるよ。

「奥の細道」を読む2-人間だもの ばせを-(新米国語教師の昔取った杵柄76)

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市振

 さて、ばせを師匠と一緒に日本一周旅行に出てはみたものの(大嘘)、どうも旅程通りに道筋を辿ってしまうと面白くないことに気付いた。
 読んでいるうちに上の瞼と下の瞼がチューしてしまいそうである。

 そこでここは紀行文の読み方としては非常識だが、「面白かった順」に紹介していきたい。

 全編読んだ中で私が一番面白かったのは市振についての話である。

 市振(いちぶり)は現在新潟県糸魚川市だが、芭蕉が訪問した当時は越後国と越中国の国境の関所をなす土地であった。

 では、ばせを師匠の文章をお読みください。

[原文]
 今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなどいう北国一の難所を越えて、つかれ侍れば、枕引よせて寝たるに、一間隔てて面の方に、若き女の声二人ばかりときこゆ。年老たるおのこの声も交じりて物語するをきけば、越後の国新潟という所の遊女なるべし。伊勢参宮するとて、この関までおのこの送りて、あすは古郷(ふるさと)にかえす文したためて、はかなき言い伝えなどしやるなり。
[現代誤訳]
 今日は親知らず、子知らず、犬戻り、駒返しなどと云う北国一の難所を越えて、疲れたので、枕を引き寄せて横たわっていると、一間隔てた道に面した部屋に、若い女二人の声が聞こえる。年老いた男の声も混じって話をするのを聞いてみると、越後の国の新潟と云うところの遊女のようである。伊勢神宮を参拝するということで、この一振の関所までは男が二人を送って、明日は新潟に帰るので手紙をしたためて、ちょっとした伝言などもしているのである。

 世界的な名作『奥の細道』で一番面白かったのが遊女の話かい、と思う人もいるかもしれないが、事実だから仕方がない。
 この項がなかったら読了することなく意識を失ったかもしれないのだ。

 私はこの「遊女」という人が正確にどんな人か知らなかったのでAI君に聞いてみた。
 AI君曰く。「遊女:ある報酬のもとに,歌舞音曲を供し,また不特定の男の枕席にはべり,しかもその行為を営利的に継続的に行う女」。

 遊女は遊郭と云う所にいるらしい。
 遊郭としては江戸の吉原遊郭が有名で、来年のDHK(仮名:大本営放送協会)の大河ドラマはここが舞台だそうである。
 当時は新潟にも遊郭があったのだろう。

 江戸後期には「お伊勢参り」と云って三重県の伊勢神宮に参拝するのが流行で、日本人ならば一生に一度は行くべき旅行であると認識されていた。
 老若男女身分を問わず日本国中から伊勢を目指したらしい。

 二人の遊女も奉公先の許しを得て参拝の旅の途中だったのだろう。

 人はどうやって遊女になるかと云えば、この時代には99%が「親に売られて」というものだから、自ら選んだわけでもない職業を「年期が明ける」(要は親に渡った分の金を奉公先に払い終わる)まで続けなければならない。

 逃げて捕まりでもしたら比喩でなく死ぬかもしれないほどの折檻が待っている。

 彼女たちの「自由になりたい」という願望を万が一にでも叶えてくれるものは偶々それを見初めた金持ちくらいである。彼らが借金を肩代わりしてくれると(「身請け」と呼ばれる)遊郭から出ることが出来る。

 或いは遊女たちはそうした人に巡り合うための願掛けのために参拝に向かっていたのかもしれない。

 しかし、この時代にはそうした幸運に恵まれても妾の座を確保するのが精一杯で正妻になることはできない。

 また、そうして遊郭から脱出する前に多くの遊女が性感染症に罹患して悲惨な末路を辿った。

 代表的な性感染症が梅毒である。
 梅毒は梅毒トレポネーマ(スピロヘータ)という微生物によって引き起こされる。

 江戸時代後期にまとめられた浅井南皐(あざいなんこう)『黴瘡約言(ばいそうやくげん)』には遊廓の娼妓(遊女)の3割が梅毒との記載がある。

 この、最初は大きめの赤疹(初期硬結)や小さな潰瘍(硬性下疳)程度の皮膚症状しか呈さない感染症は、一旦治癒したように見えるが、緩徐にしかし確実に進行し、花のかんばせを無残に変えてしまうゴム腫により周囲にも明確に罹患していることが知られるようになる。それまでは彼女の美貌に引き寄せられていた男性たちは彼女を忌避するようになる。さらに進むと用を足すのにも泣き叫ぶほどの苦痛を伴うようになる。そして心血管系や神経系に菌が進展すると脳血管障害、虚血性心疾患、進行麻痺(神経梅毒)などによって死を迎える。

 ちなみに私の生業である言語聴覚士国家試験には神経梅毒の言語症状である言語蹉跌(げんごさてつ)や語間代(ごかんだい)が何度か出題されているので言語聴覚士の学生でこの項を読んでいる学生がいたら(いないか)過去問を参照されたい。

 この2人の遊女はまだうら若かったようだが、彼女らの周囲にはこうした悲惨な境遇の女性が居たに相違ない。

 梅毒がやっと治療可能になったのは日本人である秦佐八郎が世界初の抗生物質(抗菌剤)であるサルバルサンを発見してからである。
 ただこの薬は砒素を基にしていたから副作用が強く、やがて梅毒の治療はペニシリン系の抗菌剤で行われるようになった。
 つまり梅毒が命に関わる疾患でなくなったのは日本においては戦後の話なのである。

 芭蕉の時代にはまだこれまた神仏にでも祈る以外に手立てはなかったから、遊女たちの旅はあるいは自らが病を逃れるため、あるいは不運な同僚や先輩達の平癒祈願のためのものだったのかもしれない。

[原文]
 白浪のよする汀に身をはうらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契り、日々の業因、いかにつたなしと、物いうをきくきく寝入りて、あした旅立ちに、我々にむかいて、「行方しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたい侍らん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給え」と、泪を落す。
[現代誤訳]
 白波の寄せる水際で波に翻弄され、この憂世を遊女として成り下がり、日々換わる男たちと定めのない契りを結び、日々の因業、いかに不運なことかと、物語るのを聴きながら寝入ると、翌朝の旅立ちの時に、遊女たちが我々に向かって、「行方も知らぬ旅路の憂さ、あまりに心細く悲しくおもわれますので、同行などと図々しいことは云いませんが、見え隠れするところで後を付いていきたいと思います。僧衣の方々ですので仏のお情けで慈悲の恵みを垂れて縁を結ばせてください。」と、涙を落して頼む。

 なお、遊女たちの言葉の「白浪~つたなし」の部分は『新古今和歌集』の

[和歌]
 白波のよする渚に世をすぐすあまの子なれば宿も定めず
[現代誤訳]
 白波の打ち寄せる渚に生涯を夜の仕事で過ごす遊女なので宿なしなのです。

という詠み人知らずの歌が基と思われるから或いは彼女たちのとりとめもない話を芭蕉が簡潔に纏めたものかもしれない。

 「遊女の涙は嘘の花(テレビドラマ『仁』)」とは云うものの、僧形の芭蕉一行に同行させてほしいという遊女たちの言葉には何か切実なものがある。
 仏に縋り、神に祈らざるを得ない悲しい事情を抱えていたように思われる。

 それはこの2人の遊女が年期中にも関わらず遊郭から出て伊勢まで行くことを許されているのがどこか不自然だからだ。
 これについては「抜け参り(親や主人の許しを得ずに伊勢参りに行くこと)」ではないかという説が有力だが、遊女の場合は無断で抜け出せば前述のような酷い折檻を被るのである。同行の年配の男の存在と云い、決して明るくはない何らかの事情があったのではないだろうか。

[原文]
 不便の事には侍れども、「我々は所々にてとどまる方多し。ただ人の行くにまかせて行くべし。神明の加護、かならず恙(つつが)なかるべし」と、云い捨て出つつ、哀しさしばらくやまざりけらし 。
[現代誤訳]
 不憫なことだとは思うのだが、「我々は所々で知人の所に泊まって旅が滞ることが多い。普通の人の行くのに附いて行った方がよい。天地神明の御加護により、旅は必ず恙(つつが)なく行くだろう。」と云い捨てて出てみたものの、悲しい気持ちは暫くは胸から去らないだろう。

 これには芭蕉も困ったようだ。「君子危うきに近寄らず」とは云うものの、「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」と云うではないか。

 心を鬼にして同行を断ったものの、惻隠の情捨てがたいものがあったのだろう。

 芭蕉はこのとき45歳。生涯独身だったために弟子たちとの濃密な交流も相俟って性的志向が同性だったのではないかという説もあるが、もし結婚して娘がいたらちょうど遊女たちくらいの年恰好だったろう。あるいは結婚の早い当時ではもう孫娘の歳か。

 ちなみにまた疾患の話で恐縮だが、この部分に出てきている「恙なく」という言葉は「無事に」という意味なのだが、なぜ「恙」がないと無事かと云えば、「恙」があったら大変なのである。

 「恙」は日本列島に生息する小型のダニ「ツツガムシ」のことで、これに刺されるとリケッチアという微生物に感染し、ツツガムシ病に罹患することになる。

 ツツガムシ病は現在でも抗菌剤による治療が遅れると播種性血管内凝固(DIC)を引き起こして死に至る恐ろしい疾患だが、当時は病原体が分からないのでこの疾患の特長である持続する高熱が出た時点でもう死を覚悟しなければならない疾患だった。ただ、「恙ない」という言葉があったということは、昔から「ツツガムシに刺されたらヤバい」ということだけは分かっていたわけだ。
※播種性血管内凝固(DIC):本来出血場所で起こるはずの血液凝固が小血管内で汎発的に起こるために全身の血液凝固因子が枯渇し、大出血によって死に至る症状。さまざまな疾患の末期に起こりやすい。

閑話休題(いったいぶんけいのはなしなのかりけいのはなしなのか)。

 ここで一句。
[俳句]
  一家(ひとつや)に遊女もねたり萩(はぎ)と月
[現代誤訳]
  一つ屋根の下に遊女も寝ていたよ。秋の月が萩の花を照らす市振の宿は。

[原文]
 曾良(そら)にかたれば、書きとどめ侍る。
[現代誤訳]
 同行する弟子の曾良(そら)に語ると、書きとどめていた。

 ところが、曾良の日記には芭蕉と遊女のやり取りは記されていない。

 したがってこの話そのものが芭蕉の創作であるという説を唱える人もいる。

 しかし私はこの項は事実に基づいたものであり、曾良が敢えて事実を記述しなかった、と見る。

 芭蕉の俳句には確かに少々誇張されたユーモアが感じられる。実際には同じ宿に偶々遊女たちが泊まっていただけでも、助平な読者ならば曲解できるように作られている。前もって事情が書いていなければ私も芭蕉は遊女と一緒に寝たのだ、と思ってしまったかもしれない。

 だが、芭蕉を「俳聖」と仰ぐ曾良にしてみれば、遊女たちに声を掛けられて心揺らぐ師匠の姿を筆に起こすのが忍びなかったのではないだろうか。

 何せ芭蕉が同情心からグラッと来て同行が実現していたら、

  出家二人遊女二人の伊勢参り かぱを
 
なのである。

 土佐の高知のはりまや橋で♪ 坊さんかんざし買うを見た♪

より生臭い。

 ちなみに冒頭の絵はこの『奥の細道』を読んだ与謝蕪村がそれを絵に描いた『奥の細道図鑑』の市振の項である。

 もしこの部分が芭蕉のフィクションだとすると、この絵はさらにそのフィクションから想像してまことしやかに描かれたものだということになる。素晴らしい想像力というか創造力である。

 案外米国のジョーカー(仮名)陣営にもこういう才能を持った人たちがいて、Alternetive Factsはそういう人たちから生み出されているのかもしれない。

「市内」に行く私(九州ケンミンショー32)

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市内ってどこ

 これは熊本県に限っての話なのか、それともどこの都道府県でもそうなのか、子供の頃から不思議に思っている言葉がある。

 それは「市内」という言葉だ。

 私は熊本県阿蘇市(当時阿蘇郡)の内牧と云う温泉街で生まれ、幼少期を阿蘇で過ごした。
 これは父が阿蘇の小学校の教師だったからである。母は当時専業主婦だった。

 祖父母は熊本市の水前寺と云う所に住んでいた。 
 二人とも元々は阿蘇の生まれなのだが、青年期に熊本の新屋敷というところに移り住み、米軍の空襲で家が焼けてからは戦災住宅に入って、自宅に建て替え、そこがそのまま終の住処となった。

 それでも祖父の意識の中では「仮の住まい」という意識があったらしく、表札には「S寓」(Sの寓居という意味)と掲げられていた。
 配達員などの中にはたまに「寓」という言葉の意味を知らない人がいて、「お宅、S寓さんですか、宛名には『S白陽』って書いてあるんですが?」と首を傾げていたそうだ。

 父母は時々私達きょうだいを連れて祖父母の所に行ったが、そういうとき、「今から『市内』に行くけん。」と私達に言い聞かせていたような気がする。

  「え? 「シナイ」ってどこ? おじいちゃんおばあちゃんの家は熊本にあるんじゃないの?」と子供心に不思議だった。

 今AI君に聞いてみると、「市内」とは「地方自治法で規定されている行政単位としての市の中、またはまちの中」との答えを得た。

 まあ当時は「市」そのものが熊本県には熊本市と八代市くらいしかなかったから、「市内」といえば「熊本市内」「八代市内」のどちらかを指すことになるからそこまで不自然ではなかったかもしれない。

 ところが、祖母が亡くなって祖父を一人にはできないというので私達一家が水前寺の家に引っ越してからも、この「市内」という言葉は祖父や父や母(もしかすると母は違ったかもしれない)の口から出る言葉だった。

 祖父や父は熊本城の近辺に行くとき、「『市内』に行ってくる」と云っていた。

 今再び「水前寺」について今度はWiki君に聞いてみると、「熊本県庁が置かれ、熊本県の行政上の中心となっている」とある。
 AI君の定義に則れば私達は「市内」に住んでいる訳である。そこから「市内」に行くとはどういうことなのか。

 これには祖父と父の来し方が関係していたかもしれない。
 戦前のS家は上述の通り新屋敷にあった。
 新屋敷と云う町は所謂城下町である。

 其処の家が焼けて、水前寺の戦災住宅に来たとき、S家の人々の胸に「殿様のお膝元から離れてこんなド田舎に都落ちしてしまった」という感慨が去来したことは想像に難くない。
 江津湖の周辺には今でも大きな邸宅が多いが、これは上級県民が住んでいることを意味すると同時に、昔からの住宅地ではないことも示している。
 もっとも、古町と呼ばれる「古屋敷」の人たちから見れば「新屋敷」もまたそういう存在なのかもしれないが。

 祖父も父も世間の人たちからはブッ飛んだくらいに新しい考えをする人と思われていたが、家族から見ると固陋というに相応しい中身だったからだ。

 江戸時代ならぬ昭和の人物が「『御城下』に行ってくる」とはさすがに云えないから、「市内」と云っていたのではないかと想像する。

 ところが、この「『市内』問題」はS家に留まらない。

 熊本市の周辺には玉名市、合志市、宇土市、宇城市などの市があるのだが、これらの市民たちにとっても「『市内』に行く」というのは「熊本市の市街地に行く」という意味らしいのだ。
 既に「市」に住んでいるのだから、「『市内』に行く」はそれぞれの市の市街に行くという意味の筈である。だから熊本市に行くときには「熊本に行く」と云わなければならないのではないか。

 しかし、まあこれも分からないではない。

 これらの市は以前はそれぞれ玉名郡、菊池郡、宇土郡、下益城郡などだったからだ。
 これらの住民にとっては最も近場の市は熊本市だったから、「市内」が「熊本市内」を指してもそれほど不自然ではない。

 それでは、これらの市よりもっと熊本市から遠い市、例えば荒尾市、山鹿市、天草市などではどうなのだろうか。
 これらの市で「市内」と云った場合、果たしてそれぞれの市の市街地を指すのか、あるいは熊本市のことを指すのか。

 更に、かつて「市」といえば熊本市より八代市の方が近かった市、例えば人吉市や水俣市では事情はどうなのか。
 これらの市で「市内」と云った場合、それぞれの市街地を指すのか、それとも八代市を指すのか、はたまたやはり熊本市を指すのか。

 今、私は熊本市近郊の菊池郡菊陽町というところに住んでいるから、気持ちよく「『市内」に行く」と云える。私の言葉を聞いた人が「え? どこに行くの?」と思う惧れはない。当然熊本市内に行くのである。
 しかし、これから菊陽町が市に昇格して「津久礼市」にでもなったら私はこの行為を何と呼んだらいいのか。
 ちなみになぜ「菊陽市」や「東熊本市」ではなく「津久礼市」なのかについては、
 Zunow三兄弟と行く豊肥線の旅10-光の森駅にて津久礼帝国の光芒を想う-(河童日本紀行626)
を参照してほしい。

 これはどうやらフィールドワークが必要なようだ。

 遂に河童国内閣調査室(総員1名)に女王陛下からの勅命が下った。

 ということで、熊本県在住の貴方の住むところでは「市内」と云えばどこを指すか、証言をお待ちしております。(と云ってもコメントが来た例がないんだよな。)



『奥の細道』を読む1-漂泊の思い1-日本一周への夢-(新米国語教師の昔取った杵柄75)

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奥の細道

 「芭蕉句碑」というものがある。
 字面だけ見れば、「ああ、松尾芭蕉が訪れて作句した場所に建てられた碑なんだな」と思ってしまいそうだが、ことはそれほど単純ではない。

 たとえば、私はかつて2回この碑について取り上げたことがある。

 一つは福岡県は久留米市にある芭蕉句碑。
 久留米城のモニュメントを掘り起こす3-芭蕉句碑-(河童日本紀行129)

河童の抗議

 もう一つは岡山県は倉敷市にあるそれである。
 倉敷早朝散歩4-芭蕉句碑-(河童日本紀行325)


 周知のとおり芭蕉は江戸の人であり、『奥の細道』は東北の紀行文であるから日本列島の江戸より東には広い範囲まで足を延ばしているが、岡山や、ましてや福岡までは来たことがないはずである。
 ということは、少なくともこの2つの句に関しては、「松尾芭蕉が訪れて作句した場所に建てられた碑」ではない訳だ。

 すると、久留米のほうの記述にこんなのを見つけた。
 もう10年以上前に書いた文章である。

 芭蕉は、『奥の細道』の旅の後、今度は九州へ下る途中で、大阪で客死した。師の遺志を継ぐために、芭蕉の高弟たちが次々に九州を訪れたということだ。芭蕉を尊敬する俳人たちは、彼を弔うため、各地に塚を建立し供養したらしい。だから、芭蕉の句碑は「塚」と呼ばれるのだ。福岡県下には何と68基もあるらしい。
 なるほど。
 ネットも役に立つことがあるものだ。

 なるほど。
 最近はこんな風に現在の自分が当てにならず過去の自分に助けられることが多い。
 「ネットも役に立つことがあるものだ。」などと失礼ないらんことを云っているところなどは現在の自分と同じ性質を持っているようだが。
 まあ現在の仕事にしてからがそうだが。
 未来の自分が怖い。

 閑話休題(じぶんのにんちやびょうきにはなしがしゅうれんしていくところがまさにろうじんである)。

 芭蕉の移動経緯を見ていくとどうやら東北行の後は九州行を企図していたようである。つまり、日本一周の野望を抱いていたようだ。

   最近の若者のことは知らないが私達の青年時代までは日本一周旅行は多くの若者の夢であった。
  荘司としお「サイクル疲労(仮名)」などのように自転車や原付のような原始的な移動手段で日本一周をするのだ。
  もちろんこれには金と暇が両立しないと行けないから、殆どの若者にとってはそれは単なる夢想に過ぎなかったが。

  私のリハビリの師匠であるA先生のように、もはや原付にまたがってから、その荷物のあまりの重さに気づいて断念した若者もいたらしい。

  芭蕉の場合はこれを徒歩で行おうとしたのだから気宇壮大である。東北行を開始したのが45歳のときであり、九州行の途中大阪で病死したのが50歳のとき。芭蕉が最初の旅を後10年早く思い付いていたら、彼の素望は見事に実現していたに違いない。西城秀樹の「ワイ笑むし~えーっ?(仮名)」の歌詞の通り、やりたいことは若いうちにやった方がいい。若者よ、書を捨てよ。街へ出よ(やめとけよ)。

 私の場合は人物と同じく旅もスケールが小さく、原チャリで関西一周が精一杯であった。
 関西四都原チャリ旅行1-日本一周への夢-(京都安下宿事情60)

原付で日本一周

 閑話休題(なにはともあれ)。

 芭蕉は自身の旅への想いを『奥の細道』の冒頭で次のように述べている。

[原文]
 月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いを迎うる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそわれて、漂泊の思いやまず、海浜にさすらえ、去年(こぞ)の秋江上の破屋(はおく)に蜘蛛(くも)の古巣をはらいて、やや年も暮れ、春立てる霞(かすみ)の空に白河(しらかわ)の関(せき)越えんと、そぞろ神のものにつきて心をくるわせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあいて、取るもの手につかず。股引(ももひき)の破れをつづり、笠(かさ)の緒(お)つけかえて、三里に灸(きゅう)すうるより、松島(まつしま)の月まづ心にかかりて、住める方(かた)は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移るに、
  草の戸も住み替わる代ぞ雛(ひな)の家
 表(おもて)八句を庵(あん)の柱に掛け置く。
[現代誤訳]
 月日は百代にわたる旅人であって、行きかう年もまた旅人である。船頭のように船の上で生涯を過ごし、馬子のように手綱を握って老いを迎えるような人々は、日々が旅であって旅そのものが生活の場である。昔の人でも旅の途中で死んだ人は多い。私もいつの年からか、片雲を吹き寄せていく風に誘われてさすらいへの憧れが止まず、最近は海辺をさすらい、去年の秋には川のほとりのボロ屋に戻ってほったらかされていた蜘蛛の古巣を払ってやっと年も暮れたのだった。しかし正月になるとまた旅に出たくなり、立春の霞がかかった空を見上げて白河の関を越えて東北に旅をしたくなり、そぞろ神に取りつかれて心を狂わせ、旅の神様の招きを受けて取る物も手につかない。モモヒキの破れを繕い、菅笠の緒を付け替えて、三里のツボに灸を据えるともう松島の上にかかる月はどんなだろうかとそればかり気にかかって、住んでいた家は人に譲り、弟子でもパトロンでもある杉山杉風の別荘に移った時に作った俳句。

  この茅葺のボロ屋もちゃんと買い手が現れて住人が代わる時期になったよ。私のような詫び住まいから三月になったらひな人形が飾られるような賑やかな家になるだろう。

 引っ越しの記念に表八句を庵の柱に掛けて置いた。

 さあ、いよいよ日本一周旅行の始まりである。 
 

『論語』を読む5-「史記」の孔子-(新米国語教師の昔取った杵柄74)

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  この項を書くに当たって、「論語」と「史記孔子世家」を改めて読んでみた。
 すると、「論語」はもちろんなのだが、「史記」の面白さに感じ入った。

 「論語」や、孔子自身が思想を纏めたと自負している「春秋」を読んでさえ、注釈を読まなければなかなかその思想や人物像や全体像が分からない。 しかし、「史記孔子世家」を読むと、孔子の人生の全体像が浮かび上がってくる。

 子路(しろ)愠(うら)み見(まみ)えて曰く、「君子も窮(きゅう)することあるか。」
 孔子曰(いわ)く、「君子固(もと)より窮す。小人(しょうじん)は窮(きゅう)すればここに濫(みだ)る。」

[現代誤訳]
 弟子の子路が恨みがましく言った。「立派な人間でも困窮することがあるのですか。」
 孔子が言われた。「君子も困窮することがあるのだ。小人が君子と違うのは、困窮したときに狼狽えて見苦しいことをする点だ。」

 という、有名な問答も、「論語」では前後の記述が淡々としすぎていて、今一つ面白さが伝わってこない。

 ところが「史記」を読むと、これは前に書いた「兕(じ)にあらず虎(こ)にあらずこの曠野(こうや)に率(さまよ)う(現代誤訳:サイでも虎でもないのになぜこの荒野を彷徨わなければならないのか)」という言葉と同じ時に発せられた言葉であることが分かる。

 つまり、陳と蔡(さい)の大臣たちが自分たちの粗相がバレないように孔子一行を殺そうとした事件である。孔子たちは7日間食うや食わずで、立ち上がる気力もなくなってしまった。

 「君子固より窮す」という有名な言葉のもとになった一節も、こうなるとまた訳を変えなければなるまい。

[現代誤訳]
 子路が空腹を抱えながら言った。「先生が立派な人だと思ったからついてきたのに、飯も食えなくなるなんて。」
 孔子が言われた。「私の人生、こんなことには慣れっこだ。腹が減ったからってみっともなく喚くんじゃない!」

 これには子路だけでなく子貢もムッとしたらしく、顔色を変えて立ち上がった(原文は「子貢色作」以下、適当な参考書が手元になく書き下し文が出鱈目なので引用すると恥をかきます)。

 孔子曰わく、「賜(し)よ、なんじは予(よ)をもって多学にしてこれを識(し)る者となすか。」
 曰わく、「然(しか)り。非(ひ)か。」
 孔子曰わく「非なり。予は一もってこれを貫く。」
[現代語訳]
 孔子が言われた。「子貢よ。お前は私のことをたくさん勉強して知識が豊富な人間だと思っていないか。」
 子貢が言った。「そうですよ。そうじゃないんですか。(言外に「それしか取り柄ないだろ」という気持ちを感じる言葉)。」
 孔子が言われた。「違う。私は生まれてこの方一つの信念を貫いてきただけだ。」

 「史記」にはその「一」が何であるか書かれていないが、こちらは「論語」にある。

 夫子の道は、忠恕(ちゅうじょ)のみ。
[現代語訳]
 先生の道は誠実と思いやりだけだ。

 ただし、これは孔子自身の言葉ではない。弟子の曽子が孔子の「一以貫之」を解釈して言った言葉である。あるいは司馬遷はこの曽子の解釈に納得していなかったのかもしれない。

 いずれにせよ、2000年以上いろいろな人に使われ過ぎていささか陳腐になってしまったこの「一以貫之」という言葉が、実は餓死が目前に迫っている窮迫した状況下で発せられた言葉であることに改めて気付き、驚嘆した。
 「史記」は20歳の時に読んで「風蕭蕭として易水寒し(荊軻)」など、「列伝」の面白さに眼を惹きつけられたのだが、この「孔子世家」もちゃんと読んでみると新たな発見があるものである。

 もう一つ、やはり「史記孔子世家」で、これも若い頃には読み飛ばしてしまったのかちっとも印象に残っていなかった一節に改めて目が留まり、一人で笑ってしまった。
 
 孔子の状(かお)は陽虎(ようこ)に類(るい)す。

 孔子が陳の国に行こうとして匡(きょう)という街を通り過ぎようとしたとき、地元の人が孔子一行を拘束してしまい、それは5日に及んだ。このときまで孔子と匡人は縁も所縁もなかったのだが、なぜそんなことになったのか。それは孔子の顔が陽虎に似ていたかららしい。匡人は以前陽虎に酷い目に遭わされたことがあったのだ。

 陽虎は孔子の故郷魯のほか大国である晋などにも仕えた政治家である。
 孔子がまだ17歳のとき、陽虎の仕えていた季氏(きし)に招かれて宴会に行くと、「季氏は士(し)を饗(もてな)すなり。あえて子(し)を饗(もてなす)にあらざるなり。(現代誤訳:殿様は立派な大夫を招待したのだ。なんでお前のような青二才を招待することがあろうか。)」と叩き出されたこともあり、孔子は陽虎を「小人」として嫌っていたようだ。後に陽虎から仕官するよう誘われた時も、なんだかんだと理由をつけて逃げ回っていた様子が「論語」に出てくる。孔子に関する大抵の創作でも敵役として登場するのが常である。

 ところが、実は孔子は陽虎に外貌がそっくりだったのだ。それも、複数の人が確認して「同一人物で間違いない」と思い込むほどに。
 これは孔子としては実に不本意だったのではないだろうか。何せ自分が一番嫌っている人物と間違えられて迫害されるのである。でも、なぜか笑ってしまう。「君子と小人、外観は同じ。」なんだか皮肉である。

 このあたりは儒家の書である「論語」にはなかなか載せられない部分だから、司馬遷がいなかったら2000年以上の時を隔てた私たちにはなかなか「人間孔子」を感じられなかっただろう。

 よくぞ困難にめげず「史記」を完成させてくれたものだ。

 これから『論語』を読む人は、まず『史記』を読んでからそれに望んで欲しい。現代語訳でいい。

 「つまらない話だった」と思って欲しくないからだ。

  孔子と、その弟子と、どんな人たちだったかを知ってから読むと、建前だけに過ぎないと感じた彼らの言葉が生き生きと立ち上がって来るに違いない。

『論語を読む』4-小人たち-(新米国語教師の昔取った杵柄73)

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小人たちのブルース

  「論語」には「君子」という言葉と対で「小人」という言葉が登場することが多い。「小人」は「しょうじん」と読み、「つまらない人間」という意味である。
 よく考えてみれば「小人」が単独で登場することはないから、いわば「君子」の引き立て役である。

 前に紹介した「小人の過つや、必ず文(かざ)る。(現代誤訳:つまらない人間は失敗すると必ず言い訳をする」という文も、実は「君子句(今作った新造語です)」と対句になっている。ただし、この句だけ君子句がちょっと離れたところにある。

 君子句はこうである。

 君子の過ちや、日月の蝕(しょく)のごとし。過つや人皆これを見る。更(あらた)むるや人皆之を仰ぐ。
[現代誤訳]
 君子の失敗は日蝕や月蝕のようなものだ。影響が大きいのでどうなることかと皆がこれを注視する。過ちを正すと「ああ、さすが〇〇さんだ」と人は皆君子を仰ぎ見る。

 「悪いのは私たちですからっ!社員は悪くありませんからっ!」

 この人がどんな人か知らないが、謝罪っぷりは間違いなく君子であった。

 また「小人句(これも今作りました)」。

 小人は同じて和せず。
[現代誤訳]
 小人はそのときの大勢の意見に「そうだそうだ!」と付和雷同するが、内心はその意見が分かっていないか、ちっとも納得していない。

 だから情勢が変わるとコロリと意見を変える。「一億玉砕だ」と生徒を煽っていた同じ人物が「今日から日本は民主主義の新生日本ですから」と今までの教科書に墨を塗り、スターリンを「親父」と呼んでいた同じ人物がみんな君が代を歌っているか人の口元を覗き込む。

 君子句である。

 君子は和して同ぜず。
[現代誤訳]
 君子はできるだけ多くの人に共感しようとするが、出鱈目な意見にはどれだけ賛同者が多くても絶対に付和雷同しない。

 私は今は故人となったガラパゴス大(仮名)学長A先生の大衆団交での姿を生きている限り忘れないだろう。あれぞまさしく君子の姿であった(先生はクリスチャンだが)。私の生涯の師である。当時の私はといえば、まさに群衆となった小人であった。
関西三都追憶旅行8-M前にて恩師を想う-(河童日本紀行265)
 
  再び小人句。

 小人は比(ひ)して周(しゅう)せず。
[現代誤訳]
 小人は仲間内で集団を作り、広く仲間を得ようとしない。

 分かる分かる。自分に気持ちのいい意見しか聞かなくてすむから、精神衛生上はいいに違いない。だが、責任のある立場の人物がこれだったらその集団の構成員は哀れなものだ。一時何に対しても「私企業だから」という言い訳がまかり通ったことがあるが、株式会社でこれをやったら実際には多くが違法行為である。ましてこれが国政だったら「国を私する」というレベルだ。

 君子句。

 君子は周(しゅう)して比(ひ)せず。
[現代誤訳]
 君子は広く仲間を募り、親しい人に依怙贔屓をしない。

 親しい人にはどうしても便宜を図りたいもの。そういう意味ではこれは人情には反した行為かもしれない。そうなると、これを守れるかどうかはその人の「器」である。幸い法律やルールというものがあり、客観的な基準がある。責任ある立場に就くということは、「友達甲斐のない奴だ」とか「不人情だ」といわれる覚悟が必要だということを意味している。

 またまた小人句。

 小人は利に喩(さと)る。
[現代誤訳]
 小人は私利私欲に眼がなく、その物事の正邪は後回しである。

 この場合の「利」は公共の利益ではない。私利私欲である。
 悪いと判っていても私利私欲を満たせれば始める。バレなければずっと続ける。バレても告発した方より力が強ければ告発した方のせいにする。潰す。しつこく不利益を被らせる。取り巻きが弁護する。数や暴力で反対者を黙らせる。世の中全体からモラルが失われれていく。

 君子句。

 君子は義に喩(さと)る。
[現代誤訳]
 君子はまずそのことが仁義に叶うものかを考える。不道徳なことならば採用しない。

 この一文を現在の日本で堂々と掲げるのは何だか負け犬の遠吠えのように感じてしまう。それくらい「利」には人と社会を狂わせるものがある。どうしても「細々と」などという副詞が相応しくなってしまう。もっとも、2000年以上も人々の心からこの「論語」の一文が消えなかったわけだから、そこに希望の光があるのかもしれない。

 さらなる小人句。

 小人は諸(これ)を人に求む。
[現代語訳]
 小人はうまくいかないことを人のせいにする。

 「〇〇さんが私の邪魔をしたからうまく行かなかった。」ならまだいい。
 ひどいのなると「〇〇さんの言うとおりにしたのに酷い目にあった。」と人のせいにする。自分で考えなかった自分は完全に棚に上げている。運命を他人に委ねた人間に人のせいにする資格はない。

 君子句。

 君子は諸(これ)を己に求む。
[現代誤訳]
 君子はうまくいかないときは自分のどこがいけなかったのか省みる。

 この考えが「吾日に三省す」という態度につながるのだろう。
 孔子の人生はその理想からすれば挫折の連続だったから、これには随分強い精神力が必要だっただろうが。
 この勁い人のおかげで2000年以上を隔てた人々が心の慰めを得ているのだが。

 実は後一つ「小人句」がある。
 しかし、この句は天の半分を支える人々に孔子への不人気を根付かせてしまっている句である。

 「君子は危うきに近寄らず。」

 いつかまたの機会に。
 

『論語』を読む3-人間孔子-(新米国語教師の昔取った杵柄72)

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父の墓を知らぬ子ども

  多久聖廟の敷地には孔子世系譜がある。

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 これには孔子から後の子孫の名前が記してある。何でも孔子の子孫は2000,000人もいるのだそうだ。世界一長い系図としてギネスブックに乗ったこともあるという。

 ただ、この石碑には孔子以前については何も刻まれていない。

 仕方がないので前回同様司馬遷に孔子以前のことについて語らせよう。

 「史記」にいうには、孔子の曽祖父は宋の人で孔防叔、祖父は孔伯夏、父は孔叔梁、字を紇といった。孔叔梁は勇猛な軍人だったらしい。
 司馬遷は魯の大夫孟釐(もうきし)をして「孔子は聖人の末裔である」と言わしめているが、この部分の記述は孔子の年齢が矛盾したりしていて、どうも怪しい。
 紇は顔氏の娘と野合して孔子が生まれた。「野合」とは正式な結婚でない関係である。
 つまり、孔子は庶子であったわけだ。

 孔叔梁は孔子が3歳のときに亡くなったが、母の顔氏は父の墓所を孔子に教えなかった。つまり父親の出自を子供に知らせなかったのである。
 これは孔子が父親と暮らしたことがない、ということも示唆している。
 孔子は幼いころ、父親の祭祀(日本にあてはめれば法事)のままごとを繰り返していたという。

 東亜では偉い人物が出るともっともらしい出自が後付けされることが多いが、この点司馬遷の記述は赤裸々である。

 17歳のときには母も喪う。孔子は「論語」で「吾十有五にして学に志す(現代誤訳:私は15歳で学問で身を立てようと思った)。」また、「三十にして立つ(現代誤訳:30歳で経済的に自立した)。」と言っているから、このときはまだ学生(おそらくは働きながらの苦学生)であったことが推測される。
 にも関わらず、19歳のときには幵官氏(けんかんし)という女性と結婚し、20歳で長男の鯉(り)が生まれているから、生活は困窮を極めたに違いない。口に糊するために様々な仕事をしていたことが考えられる。孔子は身長が220cmあったというから、力仕事の類も厭わずにやったのかもしれない。

 事実孔子は後に「吾少(わか)くして賎(いや)しかりき。故に鄙事(ひじ)に多能なり。(現代誤訳:私は若いころ身分が低くて貧乏だった。だから食べていくための仕事のやりかたなら何でも知っている。」と言っている。

 ちなみに孔子は当時としては長寿の74歳まで生き、かつ肖像には末端肥大の形跡はないので、この高身長は病的なものとは考えにくい。

 孔子が公の職業に就いて歴史に登場するのは本人も認めている通り30歳(一説には28歳)であるから、それ以前のことや、孔子以前のことについてはほとんど分からないといってよい。

 つまり、孔子の後には膨大なもの、子孫や弟子や文献や制度があるのに、孔子の前にはほとんど何もないのだ。

 ここまで極端に「後があって前がない」人は珍しい。豊臣秀吉だってもう少し「前」があるだろう。

 一つだけ言えることは、こういう人は絶対に堅苦しい人ではない、ということだ。孔子は堅苦しい人たちの崇拝する「聖人」に祭り上げられてしまったので本人にまで堅苦しいというイメージを持つ人がいるかもしれないが、「論語」の端々にも孔子の「人間臭さ」が垣間見える。

 私の大好きな一節である。

 厩(うまや)焚(や)けたり。子(し)、朝(ちょう)より退(しりぞ)きて曰(いわ)く、「人を傷(そこ)なえりや」と。馬を問わず。
[現代誤訳]
 孔子邸の馬小屋が焼けた。孔子が朝廷を退勤してそれを知っておっしゃった。「怪我人はなかったかい。」皆が無事であると知ると、「なら、いいんだ」。馬のことは聞かれなかった。

 少し時代が下るが、「史記」によると司馬遷の生きた前漢時代の馬1頭の値段は5000銭(三銖銭または五銖銭5000枚)である。孔子の生きた春秋時代はまだ西域からの馬の供給がわずかだから、もっと高価なものだったに違いない。下級官吏の給料を「やっと食える収入」と考えて換算すると、現代日本人の価格実感としては400万円くらいか。

 なんでも孔子邸では名馬の誉れ高い白馬が飼われていたのだとか。「ベンチ(仮名)」か「レクソス(仮名)」かという高級乗り物が焼肉になってしまったのだから、なかなか俗物に言える台詞ではない。さすがは孔子さんである。

 かれこれ30年くらい前、第一の学生時代にたまたま歴史の本で東京大空襲の際の大本営発表を読んだとき、私はこの「論語」の一節を思い出した。

[大本営発表]
 本三月十日零時過ぎより二時四十分の間、B-29 約百三十機主力を以て帝都に来襲、市街地を盲爆せり。右盲爆により都内各所に火災を生じたるも、宮内省主馬寮は二時三十五分、その他は八時頃までに鎮火せり(下線は河童)。

 大火災で国民10万人が死んだ日の発表でメインになっているのは「馬小屋が無事だった」という情報。
 まさに「馬を傷ねたるや。人を問わず。」である。


IMGP8047

 孔子の自己評。これまた人間臭い一節である。

[書き下し文]
 憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘る。老いのまさに至らんとするを知らず。
[現代誤訳]
 弟子と問答しているうちに勉強が足りないことに気付いてカッとなって食事も忘れて勉強し、そのうちに楽しくなって何にカッとなったのか忘れてしまう。我ながら年甲斐もない。

 この一節は「聖人らしくない」と感じたのか、後世の学者たちが「憤」の字に込められた怒りの感情を消して解釈していることが多いので、私なりに「人間孔子」らしく訳してみた。

 孔子と弟子たちの間にはもちろん礼儀が存在するのだが、それ以上に苦楽を共にした同志的な結びつきと、学問に関しては上下関係を越える真理追求への平等性がある。
 私は浅学の徒だから後輩たちにリハの知識や手技を教えていて途中で自分の誤謬に気付いたり、質問に答えられずに窮したりすることがあるが、そうしたときには羞恥と自らへの憤りの感情が湧いてくる。まさに「憤りを発する」状態である。そういうときは他のこともそっちのけで調べ物をしたりするそのうちに「そうだったのか」と膝を打ち、そうなると最初の怒りはどこへやら、調べ物に夢中になってしまう。
 孔子にもそうしたことは多々あったと思うのである。

 孔子のそうした人間性は、多難な幼少期と青少年時代に培われたものなのだろう。
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