ニヤッとする話

ニヤッ、とする程度の笑いネタを思い出しながら書きます。

言語聴覚士(ST)としての私(昔話)(余は如何にして言語聴覚士となりしか外伝28)

河童口腔器官

 以下の文章は過去にある学会誌に掲載されたものです。
 一旦医学の世界から離れ教育職として働いている私の原点になる部分だと思うのでブログとして再掲載します。
 ここに書かれている情報は5年以上前のものであることをお断りしておきます。


言語聴覚士(ST)としての私~ディサースリア(運動障害性構音障害)の臨床から見えたもの~

 十数年前、養成校を卒業して臨床に出たとき、私はディサースリアについてある発見をした。
 それは、多くの患者さんが自分でそれを治している、ということだった。
 彼らは麻痺などで動きにくくなった構音器官をゆっくり大きく動かし、自分の言葉が相手に通じるように発話スタイルを変化させていたのだった。
 これは誰から教わったわけでもないのに老人が普通にしていることである。
 逆に言えば、STの前に「ディサースリアの患者」として現れる人は、こうした自己治療がうまくいかない人、つまり、工夫してもカバーしきれないほど障害が重い人、もしくは本人の工夫の方に問題がある人だった。

 ヒトはふだんあまり意識せずに漠然としたイメージに基づいて行為を行っている。
 疾患によってその無意識的な行為が破綻する。
 そうした人に対して、STはその行為を各段階に分解し、意識させる。
 ここには認知が大きく関わってくる。分解された行為を認知し、修正しながら反復する。
 そして無意識的になされる行為を再建する。
 たとえばリー・シルバーマン法(LSVT)は単なる声量増大訓練だと思い込んでいる学生にたまに会うが、私はこのセラピーの肝はパーキンソン病(PD)患者の自分の声量に対する認知だと考えている。
 PD患者の多くは自分の声が小さすぎると認知していない。
 これを認知させ、コントロールする術を会得することを通じて発話の他の要素に関する認知と統制を回復するのだ。

 発話明瞭度が低い人は、多くはこの認知に問題がある。
 私が症例検討の授業の際に最初に選ぶのはいつも「機能障害が軽いのに明瞭度の低いUUMNの患者」である。麻痺を起こした構音器官を用いて、病前の人より早口の速度でそのまま話そうとしている、つまり自分の発話に対する認知ができていない、という設定だ。

 ディサースリアの訓練で現在の私が最も重視しているのは、認知をどんな方法で修正していくか、ということである。
 病前の話し方では通じなくなっていることを認知させ、構音器官の機能を向上させる必要、同時に速度などの発話方法そのものを変える必要を認知させ、伝達がうまく行った場合・行かなかった場合についてフィードバックして修正させ、反復していく。
 その過程で次第に意識しないでも新しい話し方ができるようにする。

 これはまさに「言うは易く」であって、私が病院勤務のときにできていたかと言われれば、私のディサースリア臨床は単なる「お口の体操」になっていたのではないかという気がする。
 特に私のいた維持期の病院では、もう一つの「認知」、つまり認知症の壁が立ちはだかっていたというのもある。

 私は現在週1回主に嚥下の臨床をしているが、やはり意識しているのは認知である。
 これはディサースリアの臨床がきっかけで学んだ大切な視点だと思っている。

 ちなみに画は私が考えた河童の構音器官である。コミュニケーション専用の器官を持っている河童の方が人間より文化的だ、というカリカチュアなのだが、分かってもらえるだろうか。Well肉桂というペンネームで「ニヤッとする話」というブログをやっていますので笑い話や冗談の好きな方はそちらをご覧になってみてください。

臭かった話再び、1989→2024(それでも生きてゆく私325)

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変わらないもの

 私がこのブログを始めてからもう14年になる。

 そしてこのブログは「臭かった話」という一連のシリーズで始まっている。

 ブログのタイトルは「ニヤッとする話」であるから、私にとって一番笑える話と云うのは「臭かった話」なのだろう。

 一番最初の話は友達2人と乗り合わせたタクシーの中でプチ〇をこいた話で、これは今でも思い出すと笑いがこみあげてきてどうしようもなくなる。
タクシーの中でプチ屁をこいたら…(臭かった話1)

 そして第二話は学校のトイレで大用を済ませているときにその学校の生徒が入ってきて、あまりの臭さに逃げ去った話であった。

 当時の文章である。


 20年ほど前、学校で勤めていたときの話。遺伝だろうか、急に便意を催すタチで、一旦便意が来ると勝負が早い。
 その日もどうにも我慢ができなくなり、生徒用の便所にしゃがんだ(当時だからもちろん和式)。
 ところが、前の日に焼肉を食ったせいか、これが自分でもわかるほどやたら臭い。
 「わー、こら臭かなー」と思いながら立ち上がろうとすると、生徒ががやがや話しながら入ってきた。
 とたん、「うっ」という息を止める音とともに会話がやんだ。
 直後、「うわーっ!」という叫び声。
 「臭(く)しゃーっ!かんなし くしゃーっ!」。
 生徒たちは小用を足しにきたのだろうが、それもせずにみんな逃げて行ってしまった。
 熊本方言で力加減のわからない人のことを「勘無し(かんなし)」というが、「とても」という意味では使わない。 
 力加減がわからないほど臭いウ〇コ(自粛)をする人という意味だったのだろうか。今でも印象に残っていることばである。(一部改変。引用終わり)


 14年前に「20年ほど前」と書いているから、もう35年くらい前の話になる。

 ところが、その35年後の私の身辺はこの春から当時の私と極めて似通ったものになった。

 というのは、私はまたしても学校で国語を教えているのだ。

 これは「ひょんなことから」というか、「出来心」、というか、「たまたま」国語の講師に登録をしたところ、あろうことか採用されてしまったのである。

 自分でもまったく予想していなかったから、あれよあれよという間に、28年間過ごした医学の世界を離れ、国語教育の世界に舞い戻ってしまったのだ。

 私は言語聴覚士と云う仕事に誇りを持っているし、医学の世界に愛着も持っているから、お断りする、という選択肢もあったのだが、あまりの展開の速さに十分考える暇もなく、気付いたら生徒相手に国語を教えている。

 まあこの年になって新しい挑戦をさせてもらえるのだから幸せともいえる。

 また、教えてみて自分でも意外だったのだが、私は以前国語を教えていたときよりずっとそれに楽しさと遣り甲斐を感じている。これは言語学や言語聴覚障害学などの医学的な知識や医療でのさまざまな経験を得た故のことに違いない。

 今は環境に適応しようと奮闘している日々である。

 それにしても高校の環境もずいぶん変わった。

 あまり具体的に述べると学校を特定されてしまいそうなので、それはしないが。

 また、私は基本的にブログで職場の話はしないことにしているので、それを話題にするのはおそらく今回が最後である。

 ただ、トイレが良くなっているのには驚いた。

 私が以前勤めていたときには学校のトイレは全て和式だった。
 それどころか、私が生徒の時代にはそれは汲み取り式だった。

 それが基本的に洋式に変わっている。
 しかも、「ウォッス!Let's(仮名)」さえ付いている。

 私はいつの間にか過敏性腸症候群になって久しいから、どこかに行くときも「トイレがどうなっているか」というのは最大の関心事である。
ブルートレインたらぎに泊まる旅3−最大の懸念が解消−(河童日本紀行399)

 したがって職場のトイレについては大変懸念していたのだが、一安心だった。

 それがいけなかった。

 ある日、私は「まだ大丈夫なんだけどな」という程度の〇意(自粛)を催した。
 「まあまだ大丈夫だけど、急に切迫してきたらいけないから行っとくか。」と思ったのが過ちの始まりである。

 今は保温機能さえついている快適な便座に座ったのだが、やはり「春の訪れ」が遅い。
 数分座っているうちにやっと春が訪れた、その時。

 男の生徒たちがどやどやと入ってきた。私はまだ学校の時間に十分適応していないから失念していたのだが、時は掃除の時間に入っていたのだ。

 35年前と同じである。しまった。

 だが、今日のは臭くない。大丈夫だ、と自分に言い聞かせようとした瞬間。

 生徒たちが、うっ、と息を詰める気配がした。

 「おい、なんか今日、くさくね? くさいよな!」
 「うん、くせえ! くせえよ!」
 「わーっ、くせえっ! くせえよ! 今日、くせえ!」

 私が35年前と同じように息を潜めているうちに生徒たちは出て行ってしまった。
 見ていないが、「逃げるように」という感じだったに違いない。

 私はこの10年ほどアルツハイマーだか鼻茸だかで自分の出物腫物の臭いが分からなくなっているが、若くて鋭敏な嗅覚には耐えられない臭気だったのだろう。

 しかし、時は流れた。

 かつて生徒たちは「かんなしくしゃーっ!」と熊本方言丸出しだったのだが、今の生徒たちは「くさくね?」「くせえ!」と東京方言である。

 リーゼントにできないほど髪の毛が多かった私は今や河童である。

 変わらないのは私の〇(自粛)の中の硫化物の多さだけか。

 何だか変な感慨に襲われながらごふぢゃうを後にする私であった。
 

藤野先生のこと(どうしても言いたかったこと63)

藤野先生

 1894年、大日本帝国と大清帝国が韓国における支配権をめぐって激突したのが日清戦争である。

 小国だと侮っていた日本との戦いで一敗地に塗れた清国では、太平の眠りを貪り押し寄せる近代に眼を背けていた自国への反省が沸き起こった。

 反省は自分たちを打ち破った日本に倣って近代化せねばならないという結論に至り、多くの若者が留学生となって日本に渡り、近代的な知識と技術を学ぼうとした。 

 その中の一人にルーシュンという若者がいた。

 ルーシュンは医学によって中国人の身体を頑健にし、そのことによって祖国を復興させようと考え、仙台医学専門学校に入学した。
 英国の持ち込んだ阿片(オピオイド)が中国人の健康を深く蝕んでいた時代である。
 当時ルーシュンと同じように考え、医専で学ぶ中国人留学生は30人に及んだという。

 今も昔も医学を学ぶものにとって最初にして最大の難関は解剖学である。

 医療を志す前の生活では全く触れたことのない専門用語の洪水が押し寄せる。中にはその濁流に呑み込まれてしまう(要は落第する)学生も少なからず存在する。

 ましてやルーシュンは外国人であり、外国語である日本語によってこの難解な学問を学ばなければならない。その困難は想像に難くないだろう。

 東北医専の解剖学の教師に藤野厳九郎という人がいた。

 この人の人となりをルーシュンは後にこう語っている。

 「あるときなど汽車に乗ると、車掌がスリではないかと怪しみ、乗客に『スリがいるから用心してください』と注意喚起したそうである。(「藤野先生」Well肉桂日本誤訳)」

 余程身なりに無頓着な人であったのだろう。
 そして現代でも解剖学の多くの先生がそうであるように、学問には極めて厳格な人であったらしい。

 彼はルーシュンの解剖学の勉強が語学と云う障壁によって滞っていることに気付き、ルーシュンにノートを提出させて添削するとともに、彼が正確に受け取れていない部分について指導した。

 その指導の様子をルーシュンはこのように描写している。

 「見なさい。君はここの血管の位置を勝手に移動させてしまっている。確かにこのようにして移動してやると、見た目はよくなる。だが、これは解剖図であって絵画ではない。実物の通りに描かねばならず、我々が勝手に変えていいものではないのだ。ほら、これは直しておいた。これからは黒板に描いてある通りに描きなさい。(「藤野先生」Well肉桂日本誤訳)」

 私はこのくだりを読んで自分が解剖学を教わったA先生を思い出した。

余は如何にして言語聴覚士となりし乎61(講義する骨格標本)

三代講義の図

 その先生もまた黒板にフリーハンドで人体の器官をすらすらと描いていたのだ。その図は私が今でも保管している当時のノートにまた忠実に模写されている。(もう亡くなったので実名を明かすが、この先生は当時の佐賀医科大学教授 金関毅先生である。)

解剖学ノート

 藤野先生の添削と指導は解剖学の開講中ずっと継続されたという。
 その甲斐あってか、ルーシュンは解剖学を無事に及第することができた。

 ところがこれに医専の一部の学生が反発する。

 当時日本は日清・日露の両戦役に勝利した余波で自国を他国に優越するものとして誇る風潮が強かった。今の世にもその姿を見ることが出来る自称「愛国者」たちである。
 特に日清戦争で日本が勝利した中国に対しては、「支那」と云う蔑称で呼んで見下す人々が多かった。

 彼らは藤野先生の指導はルーシュンに試験の出題を漏洩する行為であると騒ぎ出す。彼らには劣等民族と見做すルーシュンが自分たちですら四苦八苦の解剖学を自力で及第したということを認めたくなかったのだろう。

 この騒動はルーシュンを擁護する同級生たちによって収まるが、ルーシュンは結果的に仙台医専を中退してしまう。

 これには彼が在学中に見たスライド(一説には記録映画)が大きく影響している。

 そのスライドは日露戦争中に中国人が「露探(露西亜のスパイ)」として処刑される場面を写したものだった。
 ルーシュンが衝撃を受けたのは、処刑される中国人を同じ中国人が物見遊山で見物しに来て拍手喝采を送っていることだったらしい。

  ルーシュンは後にこう言っている。

 「およそ愚劣な国民は、たとえその身体を頑健たらしめたとしても、如何ともし難いのだ。せいぜい下らない見世物の材料となるか、あるいはその観客となるしかない。(「吶喊」Well肉桂日本誤訳)」

 奴隷根性の宿った健康な人間を作るのではなく、健全な精神の宿った人間を作らなければならない。
 ルーシュンは医学ではなく文学で中国を立て直そうと決意する。

 ルーシュンの転身を知った藤野先生はそれについては何も言わず、「惜別」と裏に書いた写真を一葉彼に手渡す。その写真は終生ルーシュンの書斎に掲げられていたという。

 その後、藤野先生は仙台医専が東北帝大になる際に学校を去り、一介の町医者に戻る。
 当時帝国大学の教授になるには帝国大学を卒業していることというルールがあり、藤野先生にはその資格がなかったのだ。

 ルーシュンは数々の名作によって世界で最も有名な中国の文学者になる。
 彼の名を「魯迅」と漢字で記せば大多数の日本人がその名を思い出すだろう。

 魯迅の「故郷」は2024年現在も中学校の国語の教材として使われている。

 その後、魯迅は来日のたびに藤野先生とコンタクトを取ろうとするが、彼は居場所を親族にも固く口止めして魯迅に逢おうとしなかったらしい。魯迅が有名な文学者になったことを喜んでいたらしいのだが。

 1945年8月11日、藤野先生は往診の中途で倒れ、亡くなる。

 彼が「中国は日本に文化を教えてくれた先生だ。こんな戦争は早くやめなければならない」と云った15年戦争の終戦直前のことであった。

 戦時中は薬品が不足していたから藤野先生にも薬品を高値で売ってもらうようにオファーがあったらしいが「薬は患者のものだ」と決して応じようとしなかったという。

 「先生の腕は、骨と皮ばかりに痩せていた」という証言があるから、あるいはその死には清貧ゆえの栄養状態が深く関わっているのかもしれない。

 多くの医療人と同様、彼もまた無名のままに生き、無名のままに逝った人の一人である。

 しかし、魯迅は「藤野先生」の中で「彼の名は多くの人の知るところではない」と断ったうえでこう言っている。

 「どういう訳か、私は折に触れて先生を思い出す。私が師と思う人の中で、私を最も感激させ、激励してくれた一人である。その偉大な人柄は、私の眼の底、心の底に残っている。」

齢62にして解けたサスペンダーの謎(それでも生きてゆく私324)

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サスペンダー装着法

 この世には「サスペンダー」というものが存在する。

 この道具の用途をよく表しているのは「ズボン吊り」という昔風の別称である。 

 私は今より30kg以上痩せていた10代の頃から、どういう訳かズボンの「うっさがり」に悩まされてきた。

 「うっさがり」というのは熊本方言で「ズボンが下がってしまって見苦しい」という意味である。

 私のズボンがどううっさがって来たかは過去の記事に詳しい。

うっさがり(それでも生きてゆく私64)
集団訓練

うっさがり2(それでも生きてゆく私98)
学会発表

うっさがり3-(それでも生きてゆく私129)
またも「うっさがり」

 この「うっさがり」の対策として、私はサスペンダーを使っていた時期がある。

 もう30年以上前、まだ「天琴工業(仮名)」という高校に勤めていたときのことである。

IMG_0007

 まだ誰が見ても痩せていた頃なのだが、やはり「うっさがり」に悩まされていたため、苦肉の策としてサスペンダーをはめていたのだ。

 だが、このサスペンダー、何時の間にか使用しなくなった。

 過去の写真を見てみると学校から学習塾に移ってからはもうしていないから、使用期間は長くても3年ほどである。

 なぜか。

 一つには腹が出てきたからである。
 
 人間の身体と云うものはどういうものか楽をさせるものがあると怠けてしまう。

 たとえば貴方が椅子に座る時に背凭れに凭れる癖があるとする。そうすると脊柱を真っすぐに保つ筋群は忽ち怠け始め、ひと月もすると貴方は背凭れなしに座ることにしんどさを感じ始めるに違いない。これは私の長年所属してきたリハビリテーション医学で証明されてきたことであり、疑う人は関連の論文を読んで欲しい(本当)。

 それと同じ原理で、ベルトで締め付けるのを止めると腹はみるみる出てくる。要は筋緊張を保つ必要がなくなるのだ。

 ただ、これは私がサスペンダーを使わなくなった主要な理由ではない。
 私は腹が出ているくらいのことを気にする人間ではない。
 別に腹が出ている人が腹筋が割れている人間より人格が劣っている訳ではないというのが私の価値観なのだ。

 私がサスペンダーを使わなくなった主要な理由は「面倒くさい」ということに尽きる。

 私のサスペンダー使用法。

 ズボンを履くとき。
1.まずズボンを履く前に背側のベルト通しの両側にサスペンダーの短い方の金具を2ヶ所嵌める。
2.ズボンを履いてから腹側のベルト通しの両側にサスペンダーの長い方の金具を2ヶ所嵌める。

 ズボンを脱ぐとき。
1.ズボンの腹側のサスペンダーの金具を2ヶ所外す。
2.サスペンダーが下に付かないように気を付けながら手で持ってズボンを外す。

 再度履くとき。
烏賊、じゃなかった、以下同文。

 私は過敏性腸症候群のケがあって一日の「大用(新造語)」が1回で済むことはまず無いから、これを一日に複数回繰り返すことになる。お腹の調子が悪い時などは悲惨である。

 しかもズボンに裾を入れたインナーやワイシャツ以外にジャンパーやスーツを着ている時にはこれらの脱着の手間も加わる。

 私が3年くらいでサスペンダー生活から離脱したのもむべなるかなであるである。

 ところがごく最近になって、私はまたサスペンダーを使い始めた。

 単なる気紛れ、といえばそれまでなのだが、やはりそれなりの理由はある。

 それは長年の生活に変化が訪れそうだからである。

 生計の手段を含めて、普段考えていること、関心のあることから全てが変化しそうなのだ。

 アクティブな、アグレッシブな、そんな生活が訪れる予感がする。

 体力も今迄以上に使いそうだ。

 そうなったとき、まず気になったのが、自分でも意外だったのだが、ズボンの「うっさがり」」だったのである。

 このうっさがったズボンでのろのろ動いていてこのとんでもない環境の変化に対応できるのか。

 やはりキリッと吊り上がったズボンでキビキビ動く練習を始めるべきだろう。

 ということで齢62にしてサスペンダー生活が再開されたのである。

 しかし、やはり面倒くさい。

 辛い物を食べすぎて「大用」が1日に4回あったときには「もう止めようかな」とも思った。

 そんなある日、私が夜、仕事から帰ってきてサスペンダーを外しているのを見た妻が云った。

 妻は私が新しいことを始めたときに何時も見せる冷ややかな視線で私の悪戦苦闘を見ていたのだ。

 「ねえ、ズボンを脱ぐときに、わざわざ前の金具を外さんでも、肩からサスペンダーを外すだけでいいんじゃないと?」

 「えっ、ああ、ホントだ!」
 サスペンダーの紐を肩から外すとズボンはすぐ脱げた。

 「あーっ! 気付かんかった! こうすればいいのか! ありがとう!」
と云って満面の笑顔で見たときの妻の眼差しを私は生涯忘れないだろう(大袈裟)。
  それは、「私はこんな阿呆と結婚してしまったのよね」という軽蔑の眼差しだった。

 何はともあれ、私は妻のお陰で「大用」の際のサスペンダーの着脱の面倒から解放されたのである。

 だが、着用の面倒さは残っている。

 後ろの金具を嵌めて、前の金具を嵌める。
 何か背中に違和感がある。

 妻に尋ねる。
 「ねえ、紐が捩れてない?」

 その問いが3日ほど続いたとき、妻が云った。
 「あのね。ズボンを履く前に後ろの金具も前の金具も嵌めたら? そうしたら紐が捩れてるかどうかも確認できるじゃない。」

 妻の眼はアンデルセン童話のカイ少年の眼のようであった。
 そして類似の問題が起こった時にいつも妻の口から発せられる言葉が今回も漏れた。
 「可哀想な人ねえ…」

 だが、私はほとんど40年近く私を悩ませ続けた「サスペンダー問題」から解放されたのである。

 今まで誰も私がサスペンダーを着脱しているところをまじまじと見た女性がいなかったのだ。

 やはり結婚はしてみるものだ。

河童言語聴覚士国試指南 索引

河童国試指南お知らせ

第1HP「天草の海風」を全面リニューアルしました。

[索引]
あ行 あ アンチフォルマント どうしても判別出来ない2人4(それでも生きてゆく私160)
   あ アルゴリズム 飛んで飛んで飛んで回って回って回って忘れる(チャンクの暴走45)
   い 遺伝形式 武家の娘の商法(それでも生きてゆく私198)
   い インプリンティング どうしても判別出来ない2人3(それでも生きてゆく私159)
   え ADHD さようなら健さん3-言語聴覚士の見た「幸福の黄色いハンカチ」-(どうしても言いたかったこと44)
か行 か   回転性眩暈(めまい) ジェットコースターより怖い乗り物(Good Old Days 31) 
   か カプグラ症候群 どうしても判別出来ない2人2(それでも生きてゆく私158)
   か 換喩(かんゆ) やはり「巨人の星」は避けて通れない2リメイク-堀内投手の謎の台詞-(男どアホウ藤崎台18)
   が 眼振 ジェットコースターより怖い乗り物(Good Old Days 31)
   
   き 記憶の変容 迷作リメイクシリーズ68-悪的大熊猫-(Sea豚動物記22)
   き 共通運命の要因 年遺相 金産続 (チャンクの暴走33)
   き 近接の要因 年遺相 金産続 (チャンクの暴走33)
   げ ゲシュタルト心理学 年遺相 金産続 (チャンクの暴走33)
   こ 恒常性(こうじょうせい) リアル写真で花札を作る31-これは有り、ですか? 薄に月2-(それでも生きてゆく私305)
さ行 し 試験の受け方 余は如何にして言語聴覚士となりし乎94(出藍を信じて)
   し シネクドキー やはり「巨人の星」は避けて通れない2リメイク-堀内投手の謎の台詞-(男どアホウ藤崎台18) 
   し 尺度水準 和也と達也と文也3(チャンクの暴走24)
   し 新造語 新造語の楽しみ(余は如何にして言語聴覚士となりしか外伝17)
   じ 事物全体制約 孫が教えてくれた事物全体制約 (毒にも薬にもならない話92)
   じ 事物分類制約 孫が教えてくれた事物全体制約
   じ 馴化(じゅんか) どうしても判別出来ない2人3(それでも生きてゆく私159)
   じ 順序尺度 和也と達也と文也3(チャンクの暴走24)
   す 垂直眼振 ジェットコースターより怖い乗り物(Good Old Days 31)
   す 水平眼振 ジェットコースターより怖い乗り物(Good Old Days 31)
   す スキーマ理論 迷作リメイクシリーズ68-悪的大熊猫-(Sea豚動物記22)
   す 刷り込み どうしても判別出来ない2人3(それでも生きてゆく私159)
   せ 制約論 孫が教えてくれた事物全体制約
   ぜ 前日の過ごし方 余は如何にして言語聴覚士となりし乎94(出藍を信じて)
   そ 相互変身症候群 どうしても判別出来ない2人2(それでも生きてゆく私158)
   そ 相互排他性 孫が教えてくれた事物全体制約(毒にも薬にもならない話92)
た行 だ 脱馴化(だつじゅんか) どうしても判別出来ない2人3(それでも生きてゆく私159)
   ち チャンク 近づいてきたらヤバい上司(チャンクの暴走41)
   ち 注意欠如多動症(注意欠如多動性障害) さようなら健さん3-言語聴覚士の見た「幸福の黄色いハンカチ」-(どうしても言いたかったこと44)
   つ ツァイガルニク効果 ツァイガルニクな二人乗り(毒にも薬にもならない話58)
   つ 月の錯視 リアル写真で花札を作る31-これは有り、ですか? 薄に月2-(それでも生きてゆく私305)
   て 提喩(ていゆ) やはり「巨人の星」は避けて通れない2リメイク-堀内投手の謎の台詞-(男どアホウ藤崎台18)
   て 典型性効果 メダカ共和国の繁栄5-がんばれタッチー-(Sea豚動物記64)
   て 転置 高いところに弱い鳥がかかる病気(チャンクの暴走40)
   で DBDマーチ さようなら健さん3-言語聴覚士の見た「幸福の黄色いハンカチ」-(どうしても言いたかったこと44)
   で 電文体発話 ディスカバー柳川4-北原白秋記念館-(河童日本紀行43)
   ど ドッペルゲンガー症候群 どうしても判別出来ない2人2(それでも生きてゆく私158)
な行
           な 内言と外言 再びなぜ尹東柱なのか(どうしても言いたかったこと61)
   に 認知的不協和 再びなぜ尹東柱なのか(どうしても言いたかったこと61) 
は行 ひ ヒューリスティックス 飛んで飛んで飛んで回って回って回って忘れる(チャンクの暴走45)
   ぴ ピークエンド効果 飛んで飛んで飛んで回って回って回って忘れる(チャンクの暴走45)
   ふ フォルマント どうしても判別出来ない2人4(それでも生きてゆく私160)
   ふ 浮動性眩暈(めまい) ジェットコースターより怖い乗り物(Good Old Days 31)
   ふ フレゴリの錯覚 どうしても判別出来ない2人2(それでも生きてゆく私158)
   ぷ プロトタイプ理論 メダカ共和国の繁栄5-がんばれタッチー-(Sea豚動物記64)
   ぷ プレグナンツの法則 年遺相 金産続 (チャンクの暴走33)
   べ 勉強法 余は如何にして言語聴覚士となりし乎95(ぼろぼろなてきすと)
ま行 み ミトコンドリア 迷作リメイクシリーズ55-アダムの肋骨の末-(毒にも薬にもならない話1)
   め メトニミー やはり「巨人の星」は避けて通れない2リメイク-堀内投手の謎の台詞-(男どアホウ藤崎台18)
   め 眩暈(めまい) ジェットコースターより怖い乗り物(Good Old Days 31)
   も 妄想性人物誤認症候群 どうしても判別出来ない2人2(それでも生きてゆく私158)
や行
ら行 り 臨界期 私の農業入門記12-あるヘチマの一生-(それでも生きてゆく私142)
   れ レビー小体型認知症(レビー小体症) どうしても判別出来ない2人2(それでも生きてゆく私158)
   れ レム睡眠 布団に襲われる男(旅の夜風4)
わ行


[ごあいさつ] 
 私は言語聴覚士という、コミュニケーションや食事に問題のある患者さんのサポートをする仕事をしている。
 私はこの仕事を有意義な仕事だと思っているので、この仕事を志す人が1人でも増えてほしいし、志すからにはこの職業に就いてほしい。
 しかし、「他人のためには指一本動かしたくない」「世界中の人間の中で自分だけが大好き」というような、どう考えても人格的に向いていない人は別にして、「こういう人になってほしいよね」と言われ続けながら、学力的な部分で言語聴覚士になれない人がいるのは実に残念である。
 私が言語聴覚士の養成にかかわるようになったのは、こうした人を一人でも減らすため、という動機も大きい。
 だが、特に現役で合格できなかった人の中には、常時対策授業やアドバイスを受けながら勉強するという環境にない人も多い。そんな人たちに何かできないかといろいろ考えてきた。
 今回、そうした活動の一環として、過去のブログのうち、国家試験の勉強に役立ちそうなものをまとめ、「河童国試指南」として提供することにした。
 何せ元が私の「与太ブログ」だから、効率的に丸暗記したい人には向かない。
 真面目に勉強したい人はちゃんとしたアプリが既にリハビリテーション養成校の協会などから提供されているので、そちらを使用してほしい。養成校でまとめて加入すると費用も安い。
 これはそうしたアプリで勉強して疲れた頭を馬鹿話で休めつつ、かつ多少なりとも役に立つ知識を得たいという人のためのものである。
 単にブログのカテゴリ機能を使用してまとめるだけだから、来週中には公開可能の筈である。
 勉強には役に立たなくても、文章を読むのが好きな人には絶好の暇つぶしになる(かもしれない。ならないかもしれない)。
  

やはり「巨人の星」は避けて通れない2リメイク-堀内投手の謎の台詞-(男どアホウ藤崎台18)

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ある疑惑

第1HP「天草の海風」を全面リニューアルしました。

 「誰も書いたことのない『巨人の星』ネタを」と思っていろいろと調べてみるのだが、「これは?!」というようなネタはほとんどが既に誰かに取り上げられている。なかなか困難な作業である。

 「花形満は中学生なのになぜジャガーに乗っているのか」とか、「実は姉の秋子はタカビー」とか、「星一徹がひっくり返したのはちゃぶ台ではない」とか、笑えるようなネタは「もう飽きた」というくらいに分析され尽くしているようだ。

 だから、これは大して面白い話ではないのだが、私が小学校のころ秘かに疑問に思っていたエピソードを語る。

 この漫画にはよく実在のジャイアンツの選手が登場していた。これは肖像権にまつわるロイアリティなどまったく考えられていなかった当時の漫画としては普通のことで、実在の人物とはおそらく違うであろう漫画家によって理想化された人格の選手たちが独自の世界で活躍していた。 
 ちゃんとした文法で喋る長嶋さん(これは彼の脳卒中発作以来冗談の類に属さなくなってしまったが)や、熊本訛りのまったくないアナウンサーのような言葉の川上監督など、これはこれで十分ネタになることなのだが、それについてももう言い尽くされている気がする。

 主人公の星飛雄馬はジャイアンツの投手、という設定なので、ジャイアンツの投手陣もよく登場した。

 堀内恒夫氏(知らない人のためにいえば、200勝以上を上げた大投手で、のちに監督も務めた。現在は参議院議員である。以下敬称略)が登場したのは飛雄馬の入団テストの際である。

 飛雄馬は甲子園の準優勝投手であり、各球団からスカウトが札束を持って家に殺到したにも関わらず、唯一誘われなかったジャイアンツの入団テストを受ける。テストは50m走や遠投に始まって次はシートバッティングなのだが、この時に飛雄馬の相手を務めたのが入団したての堀内党首、じゃなかった、投手だったのだ。

 堀内はドラフト1期生だから、なぜそれより後輩の花形や左門や星はドラフトにかからずに自由競争なのか謎だったが、これについても既にネットでツッコミを発見したので詳しくは書かない。まったくやりにくい話だ。さすがに「巨人に入りたいからドラフト破り」を無垢な少年のヒーローにさせるわけにはいかなかったのだろう。のちに本当にそれをやってしまった現野球評論家がいたが。

 堀内はライバルの陸上選手に対しては「憎めないやつ」などと呟いて好意を見せるが、飛雄馬に対しては敵愾心を抱く。その理由が確か原作にもアニメにも独白という形で詳しく記述してあったと思う。なにせ昔のことだから細部までは覚えていないが、大体こんな内容だった。

 「自分は甲子園に行っていないから星のような甲子園で活躍した選手には敵対意識が湧いてくるんです。」

 私は原作でリアルタイムでこれを読んだとき、「あ、ヤバい…」と思った。
  堀内は高校1年のときに甲子園に出場しているはずである。野球マニアの小学生だった私はそれを知っていたのだ。本人が読んだら怒るだろう。
 だが、それについて何か堀内やジャイアンツから抗議があったというような話も一切聞かなかったから、「あーあ、堀内さん、漫画読んでないんだ。嘘書かれているのに…」と思っていた。

 ところが、大人になって改めて調べてみると、堀内はたしかに「甲子園に行っていない」のである。

 ただし、これは私たちが通常「甲子園に行っていない」というときの「予選で敗れて全国高等学校野球選手権大会に出場できなかった」という意味ではない。堀内が高校1年の時に彼の母校甲府商高は全国高等学校野球選手権大会に出場している。

 「ああなるほど、高校は出場したけど本人は1年生だから試合に出られなかったんだな」と多くの人が思ったと思う。違う。
 「やんちゃだったらしいから、高校が出場した時はちょうど謹慎中か何かで出られなかったんじゃ?」と思った人。考えすぎである。
 「投手として出てないんだろう。代打や代走で出ても『甲子園に行った』とは言いたくないのかもな」と思った人。人間洞察が浅い。普通の人は代打代走でも「行った」というものだ。
 甲府商高は3回戦まで進み、その過程で堀内は2試合リリーフで登板している。 
 堀内はまぎれもなく全国高等学校野球選手権大会に投手として出場しているのである。しかし、彼は「甲子園に行っていない」。

 ほとんど禅問答である。

 答えは単純だが、今からすれば嘘みたいな話である。
 甲府商高が全国高等学校野球選手権大会に出場したのは第45回記念大会で、1県1校が出場したため、「球場が足りない」ということで、準々決勝までの約半数の試合が西宮球場(現在消滅)で行われたのだ。
 組み合わせの関係だろうか、気の毒なことに甲府商高の試合はすべて西宮球場で、あと一つ勝てば甲子園、というところで敗れてしまったのである。

 おそらくこの文章を読んで『「全国高等学校野球選手権大会」「全国高等学校野球選手権大会」ってうるせーな』、と思った人がいたと思うのだが、しかもこの単語のすべてを「全国高等学校選手権大会」と「野球」を抜かしていたためにすべて後から入れ込まなければならず、私も大変だったのだが、全国高等学校野球選手権大会を簡単に言おうと思ったら「甲子園」という言葉しかないので、この言葉を使わなければほかに言いようがなかったのだ。
 ごく初期や終戦直後を除けば、「高校野球の全国大会」といえば甲子園で行われるのが当たり前だから私たちは「甲子園に行った」と「全国高等学校野球選手権大会に出場した」を同義として表現し受容するのである。

 このような言葉の使い方を「換喩(かんゆ)」という。英語では「メトニミー」である。
 換喩とは、比喩(たとえ)の一種で、ある事物を表すのにそれと深い関係のある事物で置き換える表現法である。概念の隣接性や近接性に基づいて語句の意味を拡張して用いるわけだ。
 この場合は「甲子園」という兵庫県にある特定の球場名の意味を拡張して「全国高等学校野球選手権大会」と「選抜高等学校野球大会」という2つの大会に代表される「高校生の全国的な野球大会」という意味で用いているのである。

 換喩と似ているものに「提喩(ていゆ)」がある。英語では「シネクドキー」という。
 提喩は下位概念を以て上位概念を、あるいは上位概念を以て下位概念を表現するものでやはり比喩の一種である。
 なんだ、だったら「甲子園」は提喩じゃないのか、と思った人のためにAI君が教えてくれた両者の判別法を又聞きで教えよう。

 AI君曰く。

 字義どおりに解釈したら嘘になるものが換喩。
 例)全国高等学校野球選手権大会第45回記念大会に出場したが西宮球場の試合で敗れた人が「甲子園に行った」と言う。比喩としてはOKだが字義どおりに解釈したら嘘である。(例は河童)

 字義どおりに解釈したら真実であるものが提喩。
 例)桜の花を見物しに行った人が「花見に行った」と言う。比喩としては勿論OKだが、字義どおりに解釈しても花を見に行ったのだから真実である。

 閑話休題(ちしきをひけらかしていないでさきにすすめよ)。

 ご存知のとおり現在の全国高等学校野球選手権大会は1県1校を基本として行われているが、誰も「出場校が多いから半分は大阪ドームで」などとは言わないだろう。そんな話になったら選手も保護者も関係者も黙っていないと思う。 
 堀内は次の年もその次の年も「あと一歩」というところで「甲子園に行けなかった」。この場合は「予選で敗れて全国高等学校野球選手権大会に出場していない」という意味である。
 これでは名実ともに「甲子園に行った」飛雄馬に対して彼が敵愾心を燃やすのも無理はない。アニメの堀内がやたらと意地悪そうな表情であるのもこうした事情があるからだろう。
 「単なる取材不足、間違い」だと思われた台詞にこんな深い意味が含まれていたとは。やはり「巨人の星」は凄い。そして、ほとんど一休問答のような台詞を吐いている堀内は、後年の政治家としての片鱗を若くして見せているといえよう。

 と思ったのだが、よく考えてみてほしい。
 「全国高等学校野球選手権大会に出場したが甲子園では試合していないから『甲子園に行っていない』」という理屈が通るのなら、逆に言えば試合以外の何かコンサートなどで甲子園を訪れても「甲子園に行った」と言うことが可能になりはしないか。 
 ここは「全国高等学校野球選手権大会に出場した」場合は「甲子園に行った」と表現する(つまり換喩を使用する)のが普通だし、「甲子園に行けなかった」と言えば「予選で敗れて全国高等学校野球選手権大会に出場できなかった」と受け取るのが常識というものではないだろうか。

 やはりこれは「取材不足、ミス」に属する台詞と解釈したい。
 私には「漫画の中の俺、あんなこと言っちゃってますよ。俺、甲子園出たことあるのに。」と口を尖らせている堀内の「小天狗」と呼ばれた若き姿と、「出てしまったものは仕方がない。今後マスコミに聞かれたらこういうふうに答えなさい。」と強い熊本訛りで知恵を授けている今は亡き策士川上監督の姿が目に浮かぶようである。 
 やはり「巨人の星」は奥が深い。 
(2014.12.10初出)

河童簡単韓国料理26-韓国焼酎の梨サイダー割り-(いやしんぼ116)

梨チューハイは君だけのものではない

  私は韓国料理が好きである。

  チゲやクッ(いずれも汁物)などの基本的な料理ならばレトルトの調味料など無くてもチョイチョイと作ってしまえるほどだ。

  ただ、韓国の酒となるとどうも頂けない。

  勿論マッコリは大好きだし、ビールも値段次第では(日本で売っている韓国ビールは何故か法外に高いことが多い)普通に買って楽しんでいる。

  だが、韓国人が最も好む焼酎に関しては、美味いと思ったことがない。

  日本で一番出回っている「チャーミング(仮名)をはじめ、「ヘウンデー(仮名)」や「チョムチョム(仮名)」(どうもこの言葉の後には「開始~っ!」と叫びたくなる。私は「明日のジョー」世代なのだ)にも手を出してみたが、やはり好きになれない。どうも日本のもので云うと廃蜜を原料とした甲類焼酎を連想してしまう。

  妻は「イプサム(仮名)」という銘柄の焼酎が気に入っていて晩酌に生でお猪口2杯ぐらい飲むのを常としているので、我が家には韓国焼酎を常備してある。

  そこで私も何とかこれを美味しく飲む方法はないかと色々模索してみた。

 日本の甲類はチューハイのように甘い炭酸飲料と混ぜて飲まれることが多いが、韓国焼酎も果実の風味を付けたり、サイダーで割ったりして甘味を加えて飲まれることが多いようである。

  韓国でもこの類の酒を生で飲むのを潔しとしない人達は少なからずいるらしく、「これで割ると美味い」「あれと混ぜると美味しい」といった情報がネットなどで飛び交っている。

  これらも一つ一つ試してみたが、どうもしっくり来ない。私の舌からすると何か「いやらしい感じ」が抜けない。

  元々私は韓国の甘味飲料水を好きではない。少し甘過ぎる気がする。

  あまり好きではない飲料同士を混ぜるのだから口に合う筈がないと、云えばそれまでだが。

  ところが努力はしてみるもので、私は遂に韓国焼酎とぴったり相性の合う飲料水を見つけた。
 
それは梨のジュースである。
 
 これは普通の日本のスーパーなどには並んでいないから、韓国ものを試していなかったら見つけられなかったに違いない。
 
 これと混ぜると私が韓国焼酎に感じている「いやらしさ」が完全に消える。

  大体甘味飲料水とアルコールを混ぜると口当たり良くなるがどこか「いやらしさ」を残しているものだが、これはそうした変な風味が全くない。

  逆に「本当にアルコールが入っているのか」と、やや物足りなさを感じるくらいである。後少しだけパンチが欲しい。
  そのとき思い付いたのが、「梨のサイダーはないのかな」ということである。

  私は元々日本の乙類(米焼酎)に柑橘の絞り汁と自家製の炭酸水を混ぜて飲んでいる。梨の上品な甘味に炭酸のパンチが加われば完璧である。

  などと思っていたら、熊本にある「イエズスマート(仮名)」に「新製品」と称して梨のサイダーが並んでいるではないか。

  早速買って試してみると、思った通りの味である。やっと私の中の「韓国焼酎問題」が解決した。

[材料]
1.韓国焼酎を盃1杯ぐらい
2.梨サイダー125ml
3.氷適量
4.グラス

[作り方]
グラスに氷を入れ、梨サイダー、韓国焼酎の順に注ぎ、軽く混ぜる。

   この「韓国風梨チューハイ(今命名)」、単独で飲むのもいいが、辛いものと抜群に相性が良い。
  現地の人にも自信をもってお勧めできる逸品である。

 是非一度お試しあれ。

河童君、君こそスターだ!(毒にも薬にもならない話93)

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本当のスター

 年末年始は歌番組が多い。

 かつ、高齢化を反映してか、「昭和の歌謡〇〇」といった類の番組が多い。

 その日、私達夫婦はそうした番組の1つをソファーに寝っ転がって酒を飲みつまみを啄みながら観ていた。

 この番組は特に私達60代をターゲットにしたものらしく、一人一人の出演者がとても懐かしく、青春時代のことが彷彿とされる内容だった。
 私達夫婦は「懐かしー!」とか、「わー、この人若いねー」とか、時には「…こんなになっちゃったんだね…」「まだ生きてたんだ…」などと失礼なことも言いながら番組に見入っていた。

 2時間くらいの長い番組だったが、飽きる暇もなく見続けて、そろそろ終わりに近づいてきた頃、夫婦ともお気に入りの(だった?)女性の歌手の番になった。

 番組の趣向で歌手を紹介するコントが演じられた後、いよいよ女性歌手が登場した。

 映像はライブステージのものだった。

 私達は飲み食いを忘れて画面に惹きつけられた。

 歌手がスポットライトを浴びて光り輝きながら歌い、…いや、光り輝いているのは歌手ではなかった。
 その眩い光は観客席から発せられていた。

 何せベテランの歌手だから観客も殆ど中高年だった。

 そして、ステージの中央で歌っている歌手のちょうど正面に河童が、じゃなかった、中高年らしい男性が座っていた。

 会場中を照らす燦燦たる光はその人の頭から発せられていたのだ。

 私達夫婦の寝っ転がっているリビングに大爆笑が沸き起こった。私は危うく腹筋が攣るところだった。

 目尻の涙を拭いながら私は妻に尋ねた。
 薄毛の人を見かけたときに私が妻にする定番の質問である。

 「この人と俺とどっちがハゲてる?」

 大抵の場合妻は無言で私の方を指さすのだが、このときはさすがにTVの画面の方を指さした。
 そして言った。
 「見事だねえ! 光り輝いてるよ!」

 大御所の歌手より光り輝く真のスターを見つけた夜であった。

夫婦は一蓮托生?(それでも生きてゆく私323)

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夫婦は一心同体

 Happy New Year 2024!

 さて、正月と云えば初詣である。

 私達夫婦も我が大和民族の慣習にしたがって初詣に行ってきた。

 本当は再建したばかりの我が氏神「あっそう神社(仮名)」に行きたいのだが、どう考えても難民船のような密密状態で数時間を過ごさなければならないのは眼に見えている。
 その兄弟社である「金次郎神社(仮名)」に行ってきた。

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 思った通り空いている。
 ここはちょっと分かりにくいところにあるために正月でもあまり人がいないのだ。

 初詣と云えば御神籤である。

 教えている後輩たちの国家試験全員合格を祈願した後、御神籤を引いた。

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 うーん、末吉か。まあ、これから良くなるってことだからな。「生のどん底」なんて書かれているが。御神籤に付き物の短歌もほとんど慰めレベルである。

 冬ながら 空より花の ちりくるは 雲のあなたは 春にやあるらん

[現代誤訳] 
 寒く厳しい冬だが、暗い空から花のような雪が降ってくるのはきっと雲の向こうの彼方はきっと春なんだろう。そのうちいいことあるさ。

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 妻の御神籤はどうだったのだろう。

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 あれ? デジャブ?

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 短歌はどうみても同じ。まあ、御神籤に使えそうな短歌は数に限りがありそうだし。

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 本文は…「どん底」っていう言葉があるな。

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 何のこたあない。
 全く同じ札である。

 私達夫婦は「お前たちは今年全く同じ運命である。」というご宣託を下されてしまったのだ。

 まさに夫婦は一蓮托生である。

 思わず二人で顔を見合わせて大笑いしてしまった。

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 大きな御神木が風に吹かれてざわざわ音を立てた。
 まるで私達につられて笑っているようだった。

 2024年、初笑いである。

孫が教えてくれた事物全体制約(毒にも薬にもならない話92)

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事物全体制約

 私には孫がウニャウニャ人いる。具体的な数字はプライバシーだから教えられない。

 先日その中の4人と玩具屋に行った。

 祖父母が孫と玩具屋に行く目的は唯一つ、玩具を買ってやることである。

 一番上の孫や二番目の孫は小学校の高学年だから欲しがるものといえば現代の子供らしくPCゲームで、 これはなかなか懐に応える。

 四番目はまだ玩具を欲しがる年ではない。

 三番目はちょうど可愛い盛りでしかも女の子だから、如何にも子供らしいものを欲しがって微笑ましい。懐も大して痛まない。

 お目当てのものを買って帰ろうとしたとき、この三番目が追加のものを欲しがった。
 買ってやったものの値段は上の二人とは桁違い(比喩です)だからその程度のものは全然ケンチャナヨである。

 孫が欲しがった物は何かと云えば、ガチャガチャの中のものである。

 具体的には毛糸の帽子である。最近のガチャガチャはそんなものまで売っているのだ。

 ガチャガチャの看板(というのかな、掲げられているサンプル写真である)では「すみっこライフ(仮名)」という漫画のキャラクターがその帽子を被っており、とても可愛らしい。子供の心をすぐに捉えてしまいそうな写真である。

 孫は娘から小銭を貰い、大喜びでガチャガチャのハンドルを回した。

 カラン、と音がしてカプセルが出てきた。

 すると、大喜びするはずの孫の表情が凍り付き、直後にガクーッという感じの落胆の表情になった。
 まるでこの世の終わりである。

 孫の口から絶望の言葉が迸った。

 「え、帽子だけ?」

 なるほど、孫はすみっこライフのキャラクターが帽子を被って現れると思っていたのだ。

 私は他の大人から慰められる孫を見ながら、ある学術用語を思い出していた。

 これは事物全体制約という。

 事物全体制約は子供が言葉を覚えていく過程で重要な働きを演じる認知的な枠組みである。
 マークマンという米国の心理学者が提唱した。

 今AI君に聞いてみたところ、事物全体制約は「幼児が言葉を物の部分ではなく全体に対して当てはめる傾向を指します。」ということだ。
 例えば母親が自動車のタイヤを指さして「タイヤだね」と云ったとすると、子供はこの言葉を自動車全体に当てはめて「この乗り物はタイヤというんだな」と思う訳である。

事物全体制約とは


 孫の場合は「このガチャガチャは帽子を売っています」というメッセージを「このガチャガチャは帽子を被ったキャラクターを売っています」と受け取った訳で、まさに事物全体制約に基づいた認知を行った訳だ。

 皆と一緒に笑いながら、「子供って面白いなあ」と改めて興味を惹かれた私であった。

 マークマンの学説では、事物全体制約の他に後2つの制約があるという。

 一つは事物分類制約である。
 これもAI君に聞いてみたところ、「幼児は、言葉を特定事物に対してではなく、それと形の似たもの全般(カテゴリー)に適用する傾向がある。」ということだ。
 例えば、母親が自動車を指して「レクソス(仮名。自動車のブランド名)だね」と云ったとすると、子供は「この類の乗り物は全てレクソスというんだな」と思う訳である。

事物分類制約とは

 もう一つは相互排他性である。
 これまたAI君に聞いてみると、「一つの物体に対して、一つの語しか付与されないという暗黙的知識のこと」と教えてくれた。
 例えば、幼児が既に「車」という言葉を覚えていたとすると、その物には「車」という名称しかないということが分かっているので、母親がミラーを指して「ミラーだね」と云ったとしても「この乗り物はミラーというんだな」とは思わず、「この『車』についている出っ張りは『ミラー』というんだな」と思う訳である。

相互排他性


 事物全体制約・事物分類制約・相互排他性の3つを柱としたマークマンの学説を制約説という。

 子供はこの3つの制約を思考の枠組みとしながら膨大な数の語彙を効率よく獲得していくのである(らしい。)

 括弧書きで「らしい」と書いたのは私は成人を対象としている言語聴覚士で子供のことは専門外だからだが、自分の身内を見ていると発達の学説というのもなかなか興味深い。

 制約論は言語聴覚士国家試験にも過去何度か出題されている。

 国家試験まであと1月あまり、頑張れ、受験生。

パチンコを巡る危機一髪('80京都安下宿生活89)

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パチンコ大当たり


 最近パチンコをしなくなった。

 最後にしたのは最初の孫が生まれた時である。
 孫はもう来年は中学生だから、もう11年も前である。

 待っているのがあまりに暇なので行った。2万円分の景品と交換した(本当は2万円分勝った、と云いたいところだが、当局の眼があるからのう)。

 こう書くと、
「娘が出産で苦しんでいるのにパチンコに行くなんてとんでもないバカ親だな!」と思われるかもしれないが、そうではない。

 もちろん生まれるまでは私は無事生まれるように念じながらおとなしく待っていた。 

 そして孫が生まれて顔を見た後、孫は核黄疸を防ぐために光線療法の箱に入れられ(最近は血清ビリルビンの値に関わらずルーチンに行われる処置らしい)、娘は眠ってしまった。 

 家に帰っても良かったのだが、婿殿のご両親が来られるということなので、折角だからご挨拶をしてから帰ろうと思ったのだ。
 だが、2人とも仕事をしておられるからまだ随分かかるらしい(私たち夫婦はその日たまたま休みだった)。 
 2時間後くらい、という話だったのと、産婦人科の前がパチンコ屋だったのとで、久しぶりにしてみようと思ったのだ。 

 たしか5年ぶりくらいだった。

 機種も随分変わったな、と思いながら「めぞん一時(仮名)」という、昔熱中して読んだ漫画の題名の機種をやってみたら、よく訳が分からないうちに玉がジャンジャン出だしたのである。

 今までだったらたまに勝つとその後はしばらく行きたくなるのだが、今回はさっぱりそんな気にならない。

 それ以来行っていない。

 これはまだ天草にいた時に「ウルトラエイト(仮名)」という機種でたまたま勝ち(このときもたしか5年ぶりくらいにしたのだった)、調子に乗って次に行ったらスッテンテンに負け(確か5万円くらい)たことがあったからかもしれない。
 逆上して帰ろうと車を発進させたら駐車場のコンクリートの柱でドアを思いっきり擦ってドアごと替えなければならなくなってさらに5万円上乗せで出費してしまったのがトラウマになっているのだ。

 それと、「最近の機種は複雑すぎて訳が分からない」というのもあるかもしれない。何やらストーリーがあるようなのだが、事情に疎いのでさっぱり理解できない。よく分からないままに勝ったり負けたりするのも、納得がいかない。

 だが、最大の理由は、「もう一生分してしまった」ということだろう。
 端的に言えば「飽きた」。

 私がパチンコを始めたのは「超男子校(仮名)」の1年生のときだからもう40年以上前である。
 中学からの友人で別の高校に行った男から「パチンコ面白れぇぞー」と云われて行ってたまたま大勝したのが病みつきになった。
 一時期は毎日家の近所のパチンコ屋に行っていた。

 私が第4志望の大学にしか受からなかったのはこれも関係しているかも知れない(もなにも最大の要因だろ)。

 私は「昔のワル自慢」が嫌いなのでこの話は10年前くらいに書こうとして止めていたのだが、定年が過ぎてもう私の人生全てが「昔」になりつつあるので、これくらいは解禁していいだろうと思って書く。

 そのころはまだ手打ちだった。 

 手打ちは勝つときも大したことがない代わりに、負ける時もまあ高校生の小遣い程度だったから良かった。

 しかし、その後、パチンコの機械は「自動打ち」「羽根付き」「スロット付き」とどんどん進化していき、ギャンブル性がどんどん強くなっていった。

 その進化がちょうど大学への進学と重なっていたから幸いだった。
 当時の私立文系の大学は「レジャーランド」と同義であり、そこに所属する学生と云うのは「遊び人」と同義であるくらいに暇だったので、多くの学生がどちらが本業か分からないくらいにバイトに熱中していた。
 その結果として、それなりの金が自由にできたのだ。
 それは授業の単位と引き換えのものでもあったのだが。

 結果はまあ勝ったり負けたり、負けたときは「もう止めよう」と思うのだが、敵もさるもの、次々に魅力的な新台が登場するので、ついその噂に惹かれてまた行ってしまうのだ。

 合計7年に及んだ私の大学時代のうち最初の3年くらいが常に貧乏だった大きな要因の一つにパチンコがあるだろう。

 ある日私は大阪の釜ヶ崎というところに日雇い仕事に行った。



 まだ友人に学習塾や中華料理屋に売られる前である。
 売られた話については既に書いた。

 当時私は親の脛齧りで仕送りを貰っていたが、私が1月分の仕送りを最初の1週で使い果たしてしまうので、母親は1月分を4回に分け、毎週月曜日に銀行に振り込んでいた。(そのことを思い出すと今でも涙が出る。)
 その金が次の仕送りが来るよりずっと前に乏しくなってしまった。
 理由は覚えていない。
 もしかすると天の半分を支えている人たちに一方的に入れあげた結果だったかもしれない。

 いずれにせよ、もう銀行の残高は預金に付いた利子の数円である。

 私は手持ちの1000円くらいを持って「釜」(当時の関西人はあいりん地区のことをこう呼んだ)に行き、当時泊り賃が500円くらいだった「ドヤ」(「宿」のジャーゴン)に泊まり、早朝から「立ちんぼ」をして仕事に行った。
 立ちんぼ、というのは、「人夫出し」と呼ばれた募集業者を待って路上で立っていることである。

 当時の釜ヶ崎の雰囲気については既に書いた。
 大阪ドヤ街事情('80京都安下宿生活43)
 釜ヶ崎で聞く船底の歌('80京都安下宿生活44)

 日雇い仕事の多くは工事の手伝いである。
1984年

 これは今から思えば結構ハードだし危険も伴う。今の私ならその日に命が終わるかもしれない。
 だが当時は若い。体重も今より30kg少ない。元気である。

 この仕事は、1日に8000円くらい貰える。
 当時は最低賃金が1時間600円くらいだから、食堂などで1日働いても4000円くらいしかもらえない時代である。
 したがって、特に何の特技も資格もないバイト学生としては破格の収入である。

 もっとも、本当は日雇いの仕事には親会社からは20000円位の報酬が支払われていたらしい。
 これが下請け、孫請け、人員募集、と、だんだん下に行くにつれて(だんだんやっている人も怪しくなっていく)中間で吸い取られて行き、末端の労働者の手に渡る時には8000円くらいになっているのだからなかなかエグい話ではある。

 しんどい肉体労働が終わって、夕食に串カツを食べて麦酒を飲み、さて、京都の安下宿に帰るにはどうも物足りない。大阪は都会であるから終電が遅いのだ。

 私はパチンコに行くことにした。

 飲み屋の近所のパチンコ屋に入って台を物色する。

 私は「セブン」と呼ばれている、スロットが回って数字が揃うと入口がぱっくり開いて玉が大量に入り始める機種が嫌いである。
 というのは「セブン」が出端でまだ出玉の制限がなかった頃、見事に数字を揃えた(今でも鮮明に覚えているがそれは333だった)にも関わらず、打ち方がよく分からずに小箱1箱も出ないうちに大当たりが終わってしまったことがあったからだ。

 私の眼がある機種が並んでいる列に惹きつけられた。
 そこは20台くらいに2.3人しか座っていなかったが、座っている人は3箱くらい出していた。当時で云うと1万円くらいの景品に替えられたのではないか(この辺りお決まりの表現)。

 見たことのない台だった。

 よく見ると、垂直に並んだ釘と釘に玉1個分入るか入らないかくらいの隙間があり、偶々横から跳ねてきた玉が中央に入るようになっていた。ここに玉が入ると大当たりになるらしい。
 「一か八か」という感じの台である。

 やってみよう。京都から持ってきた金も併せればまだ金は8000円くらい持っている。

 私は最初は300円分玉を買い、打った。一瞬で終わった。また玉を買う。また一発も入らない。
 最初の1000円分は10分くらいで無くなっただろうか。
 ときどきどうでもいい穴に玉が入り、チャラララン、と10個玉が出てくる。

 2000円くらい使ったとき、突然玉が「ピョン!」と横から跳ねて、狭い隙間から真ん中に入っていった。

 「やった!」

 ところが、玉は真ん中から前の方に行くと、チャラララン、と玉が10個だけ出てきた。
 どうやら、真ん中に玉が入っただけでは駄目で、更にそれが後ろの方に開いている穴に入らないと駄目らしい。

 現在この機種の写真がどこを探してもないので具体的な玉の動きをお見せできないのが残念だが、要するに、「裏で磁石を使って玉を操らない限り絶対に無理」というような動きなのである。

 「なんじゃこりゃー!」と心の中で松田優作のように叫ぶ。
 
 麦酒で酔っぱらっているせいか、どんどんヒートアップしていくのが分かる。当時私は麦酒一本程度で充分酔えたのだ。
 まだアルコール依存症でなかった、もしくはごく軽症だったのだろう。

 遂に私が玉を買う単位は1000円札になった。

 その間、3回くらい真ん中に入ったが、駄目だ、前にしか行かない。チャララランと玉が10個出てくるだけで、上の受け皿一杯あった玉はあっという間に無くなってしまう。

 気づいたら財布の中には1000円札が1枚しか残っていない。これを使ってしまうと京都までの電車賃がない。

 当時の私が如何に衝動的で無軌道だったかを示すほとんど「症状」である。

 私はその1000円札を玉貸し機に入れてしまったのだ。
 もはや私の買える最後の玉を、祈りながら打つ。

 ほとんど残りの5発くらいの1個が、真ん中に入った!

 駄目だ! 前に行っちまった。
 チャラララン、と10個玉が出て、それは20秒もかからないうちに吸い込まれて行った。

 嗚呼、やっちまった。もう京都に帰れない。

 仕方がない。今日はどこかの駅か、商店街の路上で寝て、明日の早朝からもう一度「立ちんぼ」をしよう。
 私は寝る場所を探すべく、立ち上がった。

 その時、私のGパンのポケットがチャラッと鳴った。

 あ、400円だけある。
 確か300円のドヤがあったよな。部屋の大きさが一畳もなくて、斜めにならないと寝られない宿だが。
 とりあえず宿代はあった。
 よし、宿に泊まって、明日はまた日雇い仕事だ。

 そう思ったとき、急にまた魔が差してしまった。
 今日は晴れ、季節は夏。宿に泊まるも路上に寝るも一緒や。

 私は400円を玉貸し機に入れた。
 さっきまでは1000円買いをしていたから、それに比べれば随分頼りない量の玉が出てきた。それを私は直接手で受けた。その程度の量だったのだ。

 もう祈りもしない。
 神は居ない。

 起死回生のためではなく、きれいさっぱり文無しになるために、私はハンドルを回した。

 また、掠りもせずに玉が吸い込まれて行く。

 何もかも無くなっちまえ!

 最期の、じゃなかった、最後の1発、といえば大袈裟だろう。

 確か残り3発くらいの玉が真ん中に入ったが、私はそれを眼で追いもしなかった。
 それくらい疲弊していたのだ。

 チャラララン!と音がして10個玉が出た後、

 パンパカパーン!

 ファンファーレが鳴り響いた。

 下の入口が開いている。

 あっ、あっ、入れなきゃ。
 また「セブン」のときのように失敗してしまう。もう玉を買う金はないのだ。

 これまた最後の1発といえば嘘になる。残り5発ぐらいが続けざまに入口に吸い込まれて行った。

 チャラララン、チャラララン、チャラララン、チャラララン、と音が鳴り響き、上の受け皿がみるみる満杯になる。下の受け皿にジャララン、ジャララン、ジャラランと玉が出始め、これまたみるみる満杯になる。店員が慌ただしく大箱を持ってくる。

 ジーザス!
 神は居た!

 結局、大箱3箱位出て、9000円分くらいの景品と交換できた(この辺りの描写が感動を削ぐなあ)。

 大当たり。大勝。

 だが、よく考えてみれば8千数百円使っている訳だから、負けを取り戻してほんのちょっと勝っただけだ。

 電車に揺られて京都の安下宿に帰りながら思った。
 思ったというより、どこからか声が聞こえてくるような感覚だった。(幻聴の症状は当時も今もありませんが。)

 「こんなことは一生に一度しかない。それを忘れるな。」

 それから社会人になるまで、私はパチンコをしなかった。
 自分にもう少し分別がつくまではお休みと思ったのだ。

 自分は怖い性格をしている。
 気を付けないと破滅する。

 その後、社会人になってたまにパチンコをすることがあったが、尊敬する孔子の言葉で表現すれば、「心の欲(ほっ)するところに従えども矩(のり)を踰(こ)えず(現代誤訳:好きにしても限度を越えない)」という程度である。(「ウルトラエイト」で5万円も負けるのは十分矩を踰えている気もするが。)

 今こうやってパチンコの話を書いていてもちっとも行きたいという気にならないのに自分でも驚いている。

 やはり私は一生分のパチンコをしてしまったらしい。
 

患者さんに教わる日々(余は如何にして言語聴覚士となりし乎 外伝27)

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脳はブラックボックス


 以下の文章はA県言語聴覚士会の会報にコラムとして掲載されたものです。
 この度県士会役員を引退したのでブログに掲載します。
 書かれてある情報は掲載時のものであり、現在では変化している可能性があることをお断りしておきます。
 また、登場する方に関しては掲載の許諾を得、個人情報の保護に最大限配慮しています。

 臨床家はよく「患者さんから教わった」というフレーズを使う。

 ただ、これはものの喩えであって、患者さんの生きる姿勢やときには亡くなっていく過程から臨床家が自分にとって有用な知識や考え方を悟る、という意味であることが多い。

 ところが私は今、文字通り「患者さんから教わっている」。

 私が今教わっている患者さんはあるタイプの失語症である。音韻の処理に問題があって音韻性錯語が頻発する。

 この患者さんに私はDellの相互拡散活性化モデルを理論的背景にした音韻システム活性化訓練(偉そうだが要は音韻セラピー)を行っている。

 このセラピーで患者さんが答えを考えるとき、よく平仮名を空書していることに気づき、解答をどうやって考えているのか聞いてみた。すると、「頭の中に五十音表を思い浮かべてそれをなぞって考えている」という答えが返ってきたのである。

 また、買い物が苦手だというので買い物のロールプレイングをしているのだが、計算・硬貨の選択・支払いについては1つ1つは完璧なのに一連の動作になると誤謬が現れる。
 これについてもなぜ間違えたのかを聞いてみると、同時並行で何かを行うのが苦手なこと、それは行為の最初に考えたことを行為が終わるころには忘れているためであるという答えが返ってきた。
 この、最初の方を忘れてしまう、という発言は長文を表出するのが苦手であることについての説明でもその中核部分として患者さん自身の口から出た。

 おそらく前者は正常な処理過程ではなく代償的なステラテジーではないかと推察されるし、後者はワーキングメモリーの狭小化を示唆していると思われる。
 いずれも正常なメカニズムおよび症状の発現のメカニズムを考える際に極めて有用な情報である。
 通常こうしたメカニズムの説明を失語症の患者さんができる、ということは考え難いことなので、私はSTとして極めて幸福な邂逅を果たしたといえるだろう。

 これからも色々なことを教えて貰えそうだ。

 正直学校で教えながら臨床も行うというのは怠惰な私にはかなりしんどい作業なのだが、続けてきてよかったと心から思える今日この頃である。

 Osler,W.曰く。
 本を読まずして医学を学ぶことは海図を持たずして航海に出るに等しく、患者を診ずして医学を学ぼうとするは全く航海に出ないに等しい。

最近始めたこと(余は如何にして言語聴覚士になりし乎外伝26)

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 河童の河童

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 私は養成校の教師である。


 したがって最も重要になるのは学生に教える能力である。
 しかし、私が教えるのはリハビリテーションの実践であるから、私自身にリハの実践力が身についている必要がある。
 そのため、病院から養成校に転じて16年目になるが、臨床に関わっていないのは管理職をしていてどうしても多忙で不可能だった2年間くらいである。

 STの臨床もずいぶん変わってきた。以前に比べると身体に関するアプローチがぐっと増え、全身についての知識が必要となってきた。
 また、チームアプローチの発展に伴い、今まで以上にPT、OTとの共通言語を増やす必要が出てきた。
 したがって、変化したリハを学生に教えなければならない私もまた変化してきた。

 今年から新しく始めたことが2つある。

 一つは同僚が開始した身体各部の骨・筋の視診・触診を中心とした授業に参加し、共同で講義をすることだ。
 これは「発声発語器官の構造・機能・病態」という科目である。
 今までは胸部聴診などでも「このへん」と身体を使って教えていたものを、「肩甲下角の脊柱側の肺野」などと名称も含めてできるだけ厳密に教えるようにしている。

 もう一つは作業療法士(OT)の同僚の授業で「身体障害評価学演習」という授業を毎回生徒として受講していることだ。
 このことで学生も含めた彼らとの共通言語を増やすだけでなく、身体障害の専門家からの視点で言語聴覚療法・摂食嚥下療法を見直すことができるようになった。
 来年はPTの同僚の授業に入らせてもらおうと思っている。

 これに併せて、1年前からグループ内の臨床施設で週1回半日研修をさせてもらい生の患者さんと接している。

 医学は日進月歩である。

 こうして新しい視点で自分の授業を見直してみると、去年までの授業でも教えるべきことを教えていなかったり、逆に治験の結果もう必要のないことを教えていたりしていたことに気づく。

 ましてや旧い教え子のことを思うと、気の毒になる。
 あのころは今よりもずっと自信満々な教師だったが、中身はお粗末そのものだった気がする。
 それでもなぜか私が教えたことに感謝してくれているのはどちらかといえば旧い教え子なのだが。

 これには「情熱」というものが関わっているのかもしれない。

 今でも教え子に伝わった知識や技術によって病める人々の助けとなりたいという気持ちにはいささかの変化もないつもりだが。

 熊本地震から1年が過ぎ、県外に避難していた母もやっと戻ってきた。

 しかし、まだ仮設住宅で暮らしている方が何万人もいる。そうした方々のことをいつも心に留めつつ、教育と臨床の技術を学び磨くことで日々を過ごしたい。

 ちなみに上の図は河童の上肢帯である。鯛に「鯛の鯛」があるように、河童にも「河童の河童」があるのである。

 もちろん冗談である。

(2017年5月初出)

リズミックワールドへようこそ(余は如何にして言語聴覚士となりし乎外伝25)

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デコピン

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 小学生の頃はよく言葉遊びをした。

 たとえばしりとり。「ん」で終わったり答えられなかったりすると「デコピン」を喰らう。
 ちょうど年頃のギャングどもはみんな相手の額をペシンと弾いて「あ痛―っ!」と言わせるために自分の持っている限りの語彙を駆使して闘った。

 そんな言葉遊びの中に「ばびぶべ王国」があった。
 これはその日一日しゃべる言葉のすべての音節に同じ段のバ行の音を付随させる遊びである。
 たとえば、「昨日何たべた?」と話すべきときに「きびのぼうぶなばにびたばべべたば?」と話すのである。
 可塑性のある脳であるから、子供たちはすぐに要領を覚え、「ばびぶべ王国」は繁栄を極めるのであった。
 先生に当てられて普通にしゃべると(当然そうするほかないのだが)、「後でデコピンだからな」という仲間たちの目配せが飛んでくる。

 ところで、臨床にいるときの私の悩みの種の一つに「般化」の問題がある。

 言語室では上手くいったことが、病棟や家庭ではうまくいかない。どうかすると効果が一日も持たない。
 私は6年くらいDysarthriaの講義をしていたが、効果を般化させるための具体的な方策については後輩たちにあまり(ほとんど?)教えられていなかったと思う。

 先日臨床で訓練をしていた。

 脊髄小脳変性症による失調性dysarthriaの患者さんである。
 かなり症状が進んでいて、会話明瞭度は2.5といったところか。
 私は最近高音域の聴力低下があり、注意の問題も出てきたから、この患者さんとの会話はかなりのストレスである。

 そして例によってなかなか般化しない。
 リズミック・キューイング(以下R.C.)によって発話速度を低下させ、「新しい話し方」を獲得しても、自由会話になると5分もすると元の失調性発話に戻ってしまう。
 教科書的には再度短文の音読に戻さなければならない。
 言語室から病棟へ、どころか、言語室内での般化すら上手くいかないと、情けない気分になる。

 我ながら腕が悪い。

 そのとき、急に「ばびぶべ王国」のことが蘇った。あのとき子供たちは一日中「新しい話し方」をし、何の支障もなく生活していた。
 言語室を「リズミック王国」にしてみたらどうだろうか。

 この患者さんの訓練は週1回だから、私は翌週これを試してみた。

 まず2文節文で原法のR.C.を施行した後、私は文章を見ずに患者さんに「新しい話し方」で4文節文を音読してもらい、私の理解度を患者さんにフィードバックする。
 ここまでは上手くいった。

 さあ、つぎは「リズミック王国」である。

 私の話す内容ではなく「話し方」を真似するように指示し、「お年はぁー、いくつですかぁー?」とリズミックに質問をし、答えてもらう。
 成功。
 前回まで患者さんとの自由会話は時間が経つにつれて破綻していったのだが、10分間くらいの会話の最後まで話が通じた。
 患者さんの話し方はほんの少しだけ語尾が伸びて速度が低下し、正常なプロソディが回復した「新しい話し方」のままである。

 これがR.C.の真骨頂だ。

 これにはおそらく複数の要因が絡んでいる。

 一つは私自身が「新しい話し方」をすることで発話速度が落ち、患者さんに与える情報が減ったこと。
 会話がクローズされ、オープンなものより患者さんの答える必要のある情報も減った結果、患者さんの発話する文も短いもので済み、文生成の難易度が低くなったこと。
 そして私の「新しい話し方」に対する患者さんの関心が高まってモデリングが会話の最中にも起こるようになったことである。

 「新しい話し方」と日常会話の間にはBruner,J.がいうところの「橋渡し」が必要なのだが、それを行うのはほかならぬSTである。

 考えてみれば訓練の間私が「新しい話し方」で話すのは音読で見本を示すとき以外になく、それが終わると全てを通常の発話に戻していた。
 人間には共感性というものがあるから、私が「元の話し方」で話していれば患者さんも「元の話し方」でしゃべろうとするはずである。
 そして失調の患者さんは「元の話し方」でしゃべると失調性発話に戻ってしまう。

 患者さんの訓練効果を消去していたのは他ならぬ私だったのかもしれない。
 私にとっては般化に関する重要な所感(所見でないのが申し訳ないが)を得た瞬間だった。

 Osler,W.曰く。3時間机で勉強するよりも ベッドサイドの15分が勝る。

君はあの日の私('80京都安下宿生活89)

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怒鳴られる

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 子どものころなりたかった職業は医師だった。

 だが、中学高校と級が上がるうちに自分が医学部受験に必要な数学が苦手であることをいやというほど思い知らされた。

 というより、単純な算数の計算を30回も続けると必ず間違えてしまうのだから、これは教科の得手不得手の問題ではなかったのかもしれない。

 私はランドセルやカバンを持つのを忘れて学校に行くような生徒だったのだ。

 とにかく、数学の成績が伸び悩んだ時、私はそれに正面から取り組むのではなく、さっさと文系コースに鞍替えしてしまった。

 そして単に国語の点数が取れる、という理由だけで大学の国文科に進学した。

 安易な進路選択のツケは早速やってきた。とにかく授業が面白くないのである。

 それと、私の出た「超男子校(仮名)」は朝課外や休暇中の課外などで生徒に強制的に勉強させる学校で、勉強しすぎて燃え尽きていたというのもあるのかもしれない。

 興味の持てない授業をじっと座って聞いているのは苦痛である。
 というより、私の当時の特性としてそれは無理だった。

 まず、出席を取らない授業には一切出ない。

 出席を取る授業でも返事をしたら教授のスキを見て教室の後ろのドアから抜け出す。
 ところがこれは教授がちゃんと見ていて、「今出て行ったのは誰かね」とクラスメートに聞いて私の名前を出席簿から消してしまったそうだ。
 強制除籍である。
 これで私は古代文学(「万葉集」)の単位を早くも落としてしまった。

 これに懲りた私は、教室の一番後ろに座り、内職をすることにした。

 一番多かったのは教科書を開いた上から小説の文庫本を開いて載せて読むことだが、教師の声というものはそれを全く無視して他のことに意識を集中できるほどには小さくない。
 集中できないから小説がちっとも面白くない。私はもう少し単純な内職をすることにした。

 私は当時煙草を吸った。
 巻煙草はフィルターの方を机などで叩いて目を詰めると美味くなる(気がした)。

 私は国文学科の科目の中でも最も退屈な授業である言語学概論の授業のときにこれをやった。
 最初は1本だけのつもりだったが、やっているうちに面白くなって1箱全部やる気になった。

 「トントン」「トントン」。

 クラスメートによればそれは相当五月蠅い音だったらしいが、夢中になっている私は気づかなかった。

 「うるさい!!!」

 教授の怒鳴り声が教室に響き渡った。
 温厚なA教授が怒鳴った学生は私が最初で最後らしい。

 あれから42年。
 私はなぜか人に物を教える仕事を還暦まで続けている。

 30半ばを超えてから医学という学問の道を遅まきながら歩み始めなかったら、私は今も何にも本気になれずに「俺はやるぜ。何を?って? 何かだよ。」と言い続ける怠け者の不平屋だったかもしれない。

 そしてこれは天罰としか思えないのだが、私は今新入生に言語学を教えている。

 今の学生は私たちのころより何倍も真面目だから下手な授業もちゃんと聞いてくれる学生が多いが、正直面白くないだろうな、と思う。

 ああ、あそこにあの日の私がいる。

 頑張っていつか自分の道を見つけるんだぞ。

過去の自分がくれた釜山旅行28-韓国雑感2023釜山編-(河童亜細亜紀行668)

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もう辛い物を思う存分食べられる

 4年振りの韓国雑感釜山編である。

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  肉類の日本への持ち込みを禁止するポスター。


不潔な工場

 これについてはレトルト食品も何故駄目なのかという問題提起をしたことがあるが、
韓国ソウル再会旅行34-韓国雑感まとめ、というよりその他-(河童亜細亜紀行)

 今回はそれについてではない。

 この2つのポスターをよく見比べて欲しい。

 「言語が違うだけじゃないか」と思う人が殆どだと思うので、警官の格好をした犬に注目。

 日本犬と韓国犬の目つきが違う。

 日本犬はつぶらな瞳なのに、韓国犬はこちらを睨みつけている。
 日本人に対しては「間違いや勘違いでもエラいことになるから気を付けてね」という感じで優しく注意喚起しているのに、
 韓国人に対しては「こっそり持ち込もうとしてもこっちはお見通しなんだからな」と凄みを利かせているように見える。

 日本版と韓国版それぞれに担当がいて別々に作ったのならば文化の違いということになろうが、同一の製作者だったらちょっと嫌な感じである。

 私の僻目なのかも知れないが、比べてみると気になる日韓ポスターである。

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 行きの船で窓際にあったオブジェ。

 何で蝋燭が必要なのか、停電することでもあるのか、と思っていたら、帰りの船で真相が判明した。
 これは備え付けのボールペンだったのだ。

 不心得者が紐を引きちぎってペンを持って行ってしまった残骸である。

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 釜山港は工業地帯マニアには堪らないところではないだろうか。

 これぞ工業地帯、という感じの夜景に迫力がある。

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 Biff市場の屋台。

 この日は生憎の大雨で殆どの屋台が早めに店仕舞いしていたが、残った屋台には若者が集まって実に楽しそうだった。

 日本では若者が集まる空間はすぐ「マーケットだ!」と金儲けしたい人に眼を付けられるか、「危険な空間だから管理しなければ」と支配したい人に眼を付けられるか。

 そしてその空間からは若者がサーッと引いていく。

 今や公式の連絡場所としてしか若者から認識されなくなった「ドナウ(仮名)」などその代表例である。
 かつては若者の居場所になっていて、怪しい空間として排外的な人たちからは随分貶されていたSNSだが。
 大人が一生懸命ここで若者とコミュニケーションを取ろうとしても、若者は今やこの空間と真剣に向き合っていない。
 「既読」→「無視」は後で怒られるので、ポップアップだけ見てアプリすら開けず、「済みません、気付きませんでした。」と言い訳をする。

 表に出てくる不都合な現象を、他人の内心を裁くことで予防しようとする集団に残るのは、覗かれてもいい程度の内心しか持っていない人だけだ。

 どんどん窮屈になるこの国のこれからの頭脳流出は凄いだろうなと思う。

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 バス専用の信号。
 韓国旅行の楽しみの一つはこういう似ているけれどちょっと違う物を探すことだ。
 こういう信号を作る人が私達と全く違うことを考えるとは考えにくいし、全く同じ考えを持っていることも考えにくい。

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 今回の旅の「ベスト オブ 看板」である。
 鮟鱇料理の店らしい。
 日本人のアーチストで鮟鱇をこういう風にデフォルメする人はなかなかいないのではないだろうか。
 もしかすると鮟鱇を見たことがない人が描いたのではないかと疑いたくなるが、本物の鮟鱇より鮟鱇らしさが出ているともいえる。

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 街角の屋台で買ったたこ焼き。
 「何味のソースにする?」といわれて、「辛くないのを」と答えたら、何とハニーマスタード味だった。「今までに経験したことのない味だった」とだけ言っておこう。

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 釜山の「愛の夜景」である。
 何のこっちゃ、という人は光源をよく見て欲しい。

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 久し振りだったのでシャッタースピードをうまく把握できず、うまくいったのはこの1枚だけであった。次回は三脚を持って行って試してみるつもりである。

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 私達は何故上の写真のような街並みや店構えを「韓国っぽい」「韓国らしい」と感じるのだろうか。
 渡韓歴30数年めの今回、初めて謎が解けたような気がする。
 黄ーワード、じゃなかった、キーワードは「黄色い看板」である。

 日本で黄色い看板と云えば、中華料理屋か道路標識、あとは某有名駐車場くらいのもので、街角に黄色が極端に少ない。

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 勿論韓国でもラーメン屋は黄色の看板が多い。中華料理屋もそうである。
 ただ、それだけではなく、魚屋や不動産屋など、日本ではまず黄色の看板を使用しない店も普通に黄色い看板を掲げている。
 理の当然として街中に黄色の看板が多くなり、町全体が黄色みが勝った光景となる。

 黄色は現在でも韓国人の心に根強く残る五行思想では東西南北の中心に位置する縁起のいい色である。五行思想の元祖である中国では黄色は皇帝の使う色として庶民には使用が禁止されていたこともあるらしい。

 まあそんなややこしい話を持ち出さなくても、単に韓国人は黄色が好きだから多用されるのだろう。

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 地下街にあった撮影スポット。

 とてもよく出来ているが、もし鮫の絵が反対を向いていたらトラウマ(心的外傷)を受ける被写体続出かも知れない。

 怖っ!!

 と、いうことで、実質たった2日行った釜山旅行を自然薯のトロロのように引き延ばして引き延ばした旅行記にお付き合いいただき有難うございました。

(このシリーズ了)

過去の自分がくれた釜山旅行27-最後のグルメは大失敗?-(河童亜細亜紀行667)

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寝台が逆

 暴徒と化した群衆(大嘘)に踏みつぶされることもなく、無事に乗船した私達夫婦である。

 時刻はもう20:30過ぎ。

 昼飯を食べたのは12:30位だから、いい加減腹が空ききっている状態である。

IMGP4504

  早速「S食堂」開店である。
 我が家での宴は妻の頭文字を取ってS食堂と呼ばれているのだ。

 本日のメニューはまずキンパ2本、オムク(魚の練り物)5種類、初めて見る蝦のお菓子、そしてマッコリである。

 キンパは2本だが種類は4種類ある。

遂に見つけた

 このキンパはマスコミが「最悪の日韓関係」と報道していた時分に行ったソウル旅行で見つけたもので、2種類のキンパをつなぎ合わせて1本で2倍楽しいという優れものなのだ。
「最悪の日韓関係」の中、韓国の中枢に行く、ただし買い物旅行12-コンビニキンパに日韓難題解決のカギを見つける-(河童亜細亜紀行189)

 マスコミが「良好だ」という現在の日韓関係は私の天啓が両首脳の眼に止まったからだと思われる(このテの冗談からしまいに犯罪になるような妄想が生まれるんだろうな)。

 私への天啓とはこうである。


 私は以前からキンパ1本は2人前にしても多い、と思っていたのだが、同じように考える韓国人が多くいるということだ。
 日韓間の懸案も、意外に直接話してみたら「あんたも同じように考えてたのか!」というようなことが多いのかもしれない(海苔巻き一つで大袈裟な)。
 同じもので1本揃えたら多すぎる、というものは、2つのものをまとめて1本、としてしまえばみんなが納得するものができるのかもしれない。
 世の中同じもので1本揃えたがる人が多い。そうすると自分のアイディアを排除された人が怒る。しかも同じものが多すぎて余って無駄になる。情況の変化に弱い。
 日韓は異民族なのに顔が同じのうえに考え方も極似しているから、「俺んところの考え方で揃えれば合理的なのに」とつい思ってしまう。自分の考え方に揃えない相手が馬鹿に見える。
 「揃えずに合わせる」、異民族同士のお付き合いはこれが大事ではなかろうか。
 なんか今すごくいいことを言っているような気もするが、単なる詭弁という気もする。


 今見てもすごく良いことを云っているような気もするが、単なる詭弁と云う気もする。

 オムク(魚の練り物)は釜山駅にあるビュッフェ形式のオムク屋で30数種類の中から厳選した5種類である。
 これについてもしつこい程書いた。

 次にマッコリ。
 1本1200円の高級マッコリである。

 そして釜山港のコンビニで眼に付いて買った蝦のお菓子。

 これらの食品で宴の開始である。

 早速キンパにかぶりつく。

 「なっ、なんじゃこりゃー(ジーパン刑事調で)!!」

 ボロボロボソボソの激マズキンパである。

 こんなはずはない。以前食べたときは抜群に美味しかったのに。このキンパの身の上に何があったのだろうか。

 このときなぜこのキンパが40%オフになっていたのか気付いた。私はそれを「ああ、このキンパは今キャンペーン中なんだな。」と自分に都合の良いように解釈して買ったのだ。

 キャンペーンでも何でもない。
 古くなった見切り品だったのだ。

 私は見切り品が好きでよく買って帰っては妻に怒られる。
 妻が一緒のときは妻が眼を光らせていて「どうせ食べんでしょ!」と怒声を浴びせてくるのでそれに伸びていた手が「ビクーッ」と引っ込んで買わないのだが。

 見切り品の質は店によって大きく違う。

 「これのどこが見切り品?」というくらいに、ほとんど正規の品と変わりない場合もあるし、「さすが見切り品」というくらいにヤバイ奴の一歩手前という場合もある。(私は1軒だけ「これもうヤバイよ」という品物に「見切り品」と名付けて売っている店を知っているが、命が危うくなるのでそれについてはこれ以上語らない。)

 「どこが品(新造語)」は大手のスーパーに多く、「さすが品(これまた新造語)」は地場のスーパーに多いような気がする。
 前者を手にする人は「ウニクロ(仮名)」辺りで買った小洒落た服を着ている人が多く、後者を手にする人は「寝巻?」と見紛うようなスタイルのジャージを着ている人が多いような気がする。

 私が手にするのは「さすが品」が多く、私の普段のスタイルは「寝巻?」であるのは云うまでもない。

 したがって私の買う「さすが品」はたとえばトマトであれば軽く持っただけで指の跡がブニョンと付いて元に戻らないような代物だし、レタスであれば芯の部分はもう茶色くなって土に帰ろうとしているような代物なのだ。

 事程左様に「さすが品」の品質を知っている筈の私が何故こんなミスを犯したかと云えば、これは日韓のコンビニの陳列の仕方の違いによる。
 日本のコンビニ(スーパーも)では見切り品は一所に集められて売られており、そうでない商品と並べて売られていることはない。
 ところが、韓国のコンビニでは見切り品とそうでない商品が並べて売られているためにそれと分かりにくいのだ。そのせいで私はこれをキャンペーン商品と間違えたのだ。(子曰く、小人の過つや、必ず文る。)
 
 妻はこのキンパを一個食べて、「ねえ、これヤバくない? 捨てようよ!」と云った。
 妻も以前このキンパを食べたことがあり、その美味しさを知っているからこその発言だと思われた。

 妻は博多港で買ったビビンバが「ヤバい奴」で、釜山港に着く頃には半死半生になっていた経験がある。

 私はアルツハイマーだかアレルギー性鼻炎だか副鼻腔炎だかで鼻が馬鹿になっているからそれ程の危険は感じなかったが、これは食べると不愉快な気分になるレベルの味である。

 捨てることにした。

 次にオムクに手を付ける。
 これが、キンパとの対比効果なのか、夢のように美味い。

 お互いに食べている手元と口元をチラチラ見る。
 2人で1個しか買っていないから、半分以上食べないかどうか相互監視が始まったのだ。

 これはしかし美味かった。あっという間に胃袋の中に消えてしまった。少々値が張ってももう少し沢山買ってくればよかった、と思っても後の祭り。

 マッコリは勿論美味い。
 「天にも昇る」ほどではないが、出したお金に損を感じない程度には美味い。これは当たりである。今度から釜山から帰る時の楽しみが一つ増えた。

 蝦のお菓子は最初食べてもどんな味なのかよく把握できないような不思議な味だったが、暫く食べた夫婦共通の意見は「不味い」というものだった。

 結局美味いのはオムクだけで、キンパは2本とも捨ててしまったので、マッコリが胃の中で発酵して膨張することを差し引いても全然嵩が足りない。

 仕方ないので売店の自販機につまみを買いに行く。

IMGP4044

 そうそう、これこれ。

 ヤンニョムチキンを買って帰り、残りの麦酒のつまみにする。

IMGP4019

 対面の固定座席がしんどくなってきたので一時ベッドに座ることにする。(写真は往路のもの)
 椅子を動かせない、というのは、体験してみれば分かるが意外にしんどいことなのだ。

 この窓無し部屋も二段ベッドだが、妻が下、私が上という暗黙の了解がある。

 妻は普段の家での睡眠と環境が違えば違うほど睡眠時間が短く、睡眠の質は悪くなる。したがって二段ベッドの上寝台、などということになれば悪くすれば一睡もできないのだ。

 ところが、ふと気づいたとき、私は下のベッドでスヤスヤ寝ていた。
 「しまった!」と思って飛び起きると、妻は上のベッドで寝息を立てている。

 朝になってから確かめてみると、なんと私は、下のベッドに座ってから1分もたたないうちに、倒れ込むようにして寝てしまったそうだ。まるで意識を喪失するような感じだったので脳卒中でも起こしたのではないかと心配したそうだ。妻が(少なくとも表面上は)怒っていなかったのが救いだった。優しい女性である。

 それにしても、よほど疲れていたのだろう。

 私は普段「よし、寝るぞ。」と決意しなければ寝られない男なのである。
 学生時代もどんなに退屈な授業でも寝たことがないのは、別に真面目だからではなく、「寝よう」と思わないと寝られないからなのだ。

 寝ようと思わずに寝てしまったのは61年の人生で初だった。

 よほど疲れていたのだろう(しつこい)。

 「美味しい物を食べながら来し方行く末を夫婦で語り合う」という貴重な時間は、残念ながらこの旅行の二夜めには実現しなかったのである。

過去の自分がくれた釜山旅行26-行列を守れない韓国人と日本人-(河童亜細亜紀行666)

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梨泰院の悲劇はこうして起こった

 釜山港で出国手続きを終えて「笑ってトンヘ号(仮名)」 への乗船を待っている私達夫婦である。

IMGP4492

 ゲートの前には乗船客の荷物がずらりと並んでいる。

 私達は2時間も前に出国手続きをしたので、相当前の方である。

 この船には荷物を並べた順に乗船するという不文律があるのだ。

 この荷物を並べる時、私が荷物を置こうとした瞬間に、私の前に無理やり入ってきて荷物を置いた二人連れがいた。

 「え!?」
と思って顔を見ると、「何だよ、オッサン、何か文句あるのかよ。」という感じでこちらを睨んだ後、どこかに行ってしまった。でっぷり太った女性二人である。国籍は分からない。日本人のようでもあるし韓国人のようでもあるし中国人のようでもある。

 私の荷物の前に並べられた二人の荷物を「けたくって(「蹴り飛ばして」の熊本方言)」列の外に出してやろうかと思ったが、乗船が一人二人遅くなってもこちらは予約された個室だから痛くも痒くもない。そのままにしておいた。

IMGP4493

 乗船が近くなると物凄い行列になってきた。
 笑ってトンヘ号には何回も乗ったが、こんなに乗客が多いのは初めてだ。

 喋っている言葉からすると日本人:韓国人=1:5くらいの感じである。

 遂に乗船開始。

 船までは最低でも500mはあるのだ(推定)。

 皆足早に船に向かう。

 いや、これは足早というレベルではない。

 競歩である。

 件の二人連れはあっという間に後方に消えていった。
 折角の横入りも虚しかった訳だ。

 乗客たちの歩くスピードは船が近づくにつれてどんどん早くなる。


IMGP4499

 とうとう子供たちを中心に1/3くらいの乗客は走り出した。

 私は心房細動の持病があるし、妻は連日の徒歩で股関節が痛いしで、到底走れない。
 折角早く並んだのだが、荷物も多いし、これだと乗船は最後に近いだろう。

 まあ一等船室の個室だから何の支障もないが。

次は高速船か
 私はかつてこう書いた。
 「最悪の日韓関係」の中「反日感情の強い」釜山で年末年始を過ごしてみた22-韓国雑感釜山年末年始編-(河童亜細亜紀行222)


  私達が乗船手続きを終えて船まで歩いていたとき、凄い勢いで追い抜いて行った二人組の若者がいた。「まあ元気のいいこと」と思っていたら、行列の先頭にサッと並んでしまった。
 大声で日本語を喋っている。
 何のことはない。
 私は嫌韓メディアのいうような「行列を守れない韓国人」を現地で一度も見たことがなかったが、「行列を守れない日本人」を目撃しようとは。
 隣国の悪口を言っている間に自国のモラルが少しずつだが確実に崩壊しつつある。


 私は今回初めて「行列を守れない韓国人」を目撃したことになる。

 もっとも、行列を守れない人々の中には日本人も混じっていたようだが。
 これは少数ながら群衆の中から日本語が聞こえてきたことから分かる。

 それにしても乗船ゲートを越えたら自由競争なのであれば、わざわざ行列を作ってゲートの前に並ぶ必要はない。
 4年前には確実にあった、「乗船する順番はゲート前に荷物を置いた順番」という不文律は完全に崩壊していた。

 不文律も何も、それ以前にこれは危険である。

 この文章を書いているのはちょうど梨泰院で群衆雪崩が起こって159人の犠牲者を出した日から1周年なのだが、なるほど、私の見た光景がもっと大規模になるとそういう危険が出てくる訳だ。

 日韓航路の乗客の皆さん。

 通路を走るのは止めましょう。
 忘るまじ、梨泰院の悲劇。

過去の自分がくれた釜山旅行25-無事釜山港へ辿り着き、再び釜山駅へ-(河童亜細亜紀行665)

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パン屋のような練り物屋

 「足が棒」というところまではいかなくても、「足が芋茎木刀(いもがらぼくとう)」くらいまでにはなって釜山港に辿り着いた私達夫婦である。

 まず移動の足枷になっている大きな荷物を港の預かり所に預ける。
 これは案内所に「クロークは何処?」と云って通じず、「荷物を預けるところはどこ?」と初歩の韓国語で尋ねて場所が分かった。

 ここのヒョン(お兄ちゃん)も英語オンリーだったのでまた韓国語である。
 私は韓国では意地でも英語を喋らず韓国語を喋ることにしている。
 どうしても韓国語では通じない時には実質語の英語と機能語の韓国語のチャンポンで喋る。いわゆるブロークンである。

 何だか韓国では私が初渡韓した1987年以来、日本語を話せる人がどんどん減っているような気がする。
 その代わり英語が通じる人は増えた。かつては英語が通じるのは大学生だけだった気がする。

 ただし韓国は1980年代から日本より高い大学進学率(30%台)だったから、学生街や学生が多く訪れる街に行けば会話にはほぼ困らなかった。
 現在は80%を超えている。「石を投げれば大卒に当たる」という状態である。
 だからブロークンを含めて英語が通じる人はいくらでもいると思う。

 一方日本語は日本人御用達「弁韓観光ホテル(仮名)」周辺を離れると通じる確率が急激に低くなるようだ。
 たとえば若者が集う西面や沙上では日本語で会話できる人を見たことがない。
 日本人と韓国人が会話していると思しき人々でも、会話は英語である。

 昔から日本人が住んでいて交流も深い釜山でさえそうだから、これから韓国に行く人は英語または韓国語を少しでも喋れるようになっている方が良いと思う。 

 荷物を預けて身軽になって、再度釜山駅に向かう。

 買い損ねたお土産と、船の中で食べるものを購入するためである。

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 再び釜山駅の雑踏に戻る。

 ここで買おうと思っているのは、まず船の中で食べるオデンと練り物である。
 韓国ではこの両者はどちらも「オムク(直訳すると「魚の練り物」)」といい、大変紛らわしいが、なぜそんなことになったのかと云えば、「オデン」が日本由来の言葉であるということで忌避する人がいて、ということらしい。
 ソウルでは「オデン」という言葉を聴くことはまずない。
 しかし釜山ではこの中国由来の言葉はまだ残っていて、「オデン」という名で売られているオデンも多い。
夫婦それぞれの述懐

 「おでん」が韓国人にとって忌避すべき言葉でないことは既に書いた。
 「最悪の日韓関係」の中「反日感情の強い」釜山で年末年始を過ごしてみた18-釜山オデンの味わい-(河童亜細亜紀行218)

 私はその中でこう書いた。

 「オデン」というのは日本の宮中の言葉で、「田楽」に丁寧語を付けて略したものである。
 「お粥」や「おなら」などと同じく優雅で由緒正しい言葉なのだ。
 元々は大衆芸能から料理名に転化した「田楽」は明らかに大陸由来の言葉であるから、これに「御」が付いたからとて突然日本語に化けるものでもない。
 何故そういえるかというと、「デン」は「た」という固有語に当てた漢字を音読みしたものであり、「ガク」もまた「たのしい」という固有語に当てた漢字を音読みしたものであり、音読みするというのはこの語の成立した時分に日本人が「これは外来語(大陸から来た言葉)でっせ」と、その由来を文字として刻み込んだ証拠(有契性という)なのである。
 つまり「オデン」は日本の固有語ではなく、「御田楽」という立派な漢語なのである。
 そしてご承知の通り、「中国は怪しからんから我が国の言葉から漢語を追放する」などといえば日本語も韓国語も崩壊してしまうことは火を見るよりも明らかなのだ。
 もっとも、日本語のネットに見られる田楽の説明はこれがあたかも平安時代に突然日本で成立したように書かれているものも多いが、勿論芸能というものは古代から脈々と続いて発展してきたものであり、こんなことはあり得ない。
 これは田楽と、猿楽のような大陸由来の芸能を、意識的に切り離しているからで、日本文化に中国や韓国の影響がなかったことにしたがる最近の日本の風潮のひとつであろう。
 この辺り、日韓両国の自称研究者の世に阿る様や、素人の偽科学に感激して思考停止する様は、何だか瓜二つになってきた。
 流石日韓はまさに互いの鏡である。
 そうしてオデンはどう考えても侵略とも植民地支配とも関係ない。
 魚の練り物は明らかに大陸から日本に伝わったものだし、オデン業界の大立者が総督府と通じていたというような歴史的逸話も聞いたことがない。
 この辺り、最近の韓国で日本製ビールがなぜか目の敵にされているのとも似ている。
 オデンは差別語でも誰かを攻撃したり傷付けたりする言葉でもない。だからこそ100年以上言い継がれてきた言葉なのだろうに。(2020.1.20初出)


 韓国の方々にはこれからも安心して「オデン」という言葉を使っていただきたい。
 勿論オムクを串に刺して出汁で煮た料理の名称として。

 それで思い出したがこれから先「ウドン」という言葉も同種の言葉として攻撃を受ける可能性が考えられるから書き残しておくが、ウドンは元々中国から来た餛飩(コントン)が転じて饂飩(ウントン)になった、というのが起源から最も近い時代(明治時代)に唱えられた説である。
 餛飩(コントン)は雲吞(ワンタン)と饂飩(ウントン)の共通の祖先である。
 饂飩の起源には諸説あるが、共通しているのはこれが大陸から伝わったもので、元は漢語であるという認識である。

 つまり、「ウドン」は「オデン」と同じく、日本由来の言葉(和語)ではないのである。

 だから韓国の心ある方々はくれぐれも「ウドンは日本語由来だから怪しからん」などという偽科学の珍説に騙されないようにされたし。

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 オムク(魚の練り物。九州方言で云うと天麩羅)の店である。
 以前も一度買ったことがあるのだが抜群に美味かった。
 ここで船内用のつまみのつもりでオムクを購入。

 ここはパン屋さんのようなシステムで、並んでいるオムクをトングでトレーに並べていき、最後に精算する。楽しすぎて買いすぎるのを狙っているとしか思えない。つい沢山買ってしまう。

 7年前に日本大使館の近所の植え込みに座って食べたオムクはここで買ったものである。

 更にオデンも買おうとしたのだが、テイクアウトがなくて断念。だいいちテイクアウトできても食べるのは乗船する20:00以降である。船内に電子レンジがあるか確認していなかった。なければ冷え冷えのオデンを食べることになる。

 お、マッコリの店である。
 「お年寄りの飲む安酒」として日本の三増酒のように打ち捨てられていたマッコリは2000年代前半の「マッコリルネッサンス」を経て高級酒として生まれ変わった。

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 写真は船内で撮ったものだが、これは美味かった。
 ただし、値段は通常コンビニなどで売られているものの5倍くらいする。

 通常のマッコリがどの程度飲まれているかと云えば、ある調査によれば、酒を飲む人の半分近くが焼酎と麦酒を飲んでいるのに対して、10%にも満たない。

 実際飲み屋などでマッコリを飲んでいるのは大抵日本からの観光客である。
 そして釜山ではマッコリを置いていない店が多い。

 マッコリは出来立てと日を置いたものでは全く味が違う。

 この味の違いは刺身の味を連想してもらうとよいかもしれない。古くなったマッコリは10日置いた刺身である。勿論ホンオフェ(ガンギエイの刺身)は別であるが。

 飲む人が少なくなれば店頭には古いものが並ぶことになるし、そうなれば美味くないということになってますます飲む人が少なくなるだろう。
 もしかすると釜山では既にそんな悪循環が始まっているのかもしれない。

 今のところ初日の夜にコンビニで買ったマッコリはやはり日本では飲めないくらいに美味しかったが。

 キンパのテイクアウトの店もあったので入ろうとしたが、時間が早いせいでまだ開いていなかった。これが後に悲劇(大袈裟)を生むことになる。

 ほかにも色々な飲食店があったのだが、テイクアウトありと明示してあるところが少なく、結局買ったのはオムクとマッコリだけであった。

 韓国ではテイクアウトが当たり前すぎてわざわざ「テイクアウトします」と看板に書いていないのかもしれない。あるいはエキナカとという特殊性ゆえか。

 以前は日本でいうキヨスクっぽい売店で色々な軽食を売っていた記憶があるのだが。

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 何はともあれオムクとマッコリだけでも十分楽しみである。これらをリュックに入れて釜山港に引き返した私達であった。

 港に引き返しても随分時間があるから今度は港の売店で食糧の調達である。

 ここには日本でもお馴染みのコンビニチェーンの店があるから、ここで麦酒とキンパを買う。キンパはラッキーなことに40%オフである(これが後に悲劇を生む)。

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 16:30に出国手続き開始。

 この時、帰りの窓無し部屋を窓有りに替えようと交渉したが、博多港の時と同様、「満室でできません。」と瞬殺されてしまった。
 この交渉のために早く帰ってきたのに。

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 乗船は18:30。
 
 ここからが長い長い。

 退屈である。
 仕方がないので「デオ林檎(仮名)」で韓国語の勉強をする。
 この2日は生きた韓国語で勉強したのだが、ここでのランキングは大幅に下がり、1クラス下に転落しそうになっている。
 
 何だか問題を解くのが早くなっている気がして、どんどん進む。ランキング回復。

 釜山港は夜の帳に包まれそうになっていた。


過去の自分がくれた釜山旅行24-釜山港へ向かって陸橋を歩く-(河童亜細亜紀行664)

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釜山港は大きい

 ホテルに行って荷物を受け取った私達は地下鉄の駅に向かう。

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 このホテルは立地抜群であるから、駅はすぐ近くである。

 本当に、もし「鍵」がちゃんとしていたら、蛾がいなければ、布団がちゃんとあったら、お湯がちゃんと出たら、スタッフが深夜もいたら、どんなに素晴らしいホテルだろう。
 実に残念である。

 地下鉄で釜山駅に向かう。

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 南浦駅から地下鉄釜山駅までは中央駅を挟んで2駅である。

 昨日教え貰った通りに7番出口(この場合は入口か)から国鉄の釜山駅に入る。

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 ゲートの番号は忘れたが、釜山港への通路は分かりやすい。

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 陸橋の上から見ると、あちこちで工事をしている。

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 建設中の高層ビル。

 釜山ではいわゆる建設ラッシュが起こっているらしい。

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 私達が歩いているこの大規模な陸橋も今年の春に出来たという。

 一体釜山で何が起こっているのか。

 街に掲げられているスローガンをよく見てみると、どうやら2030年に釜山に万国博覧会を誘致しようという運動があるようだ。

 なるほど。

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 でもまだ決定ではないのに、開発はジャンジャン進んでいる。

 こういうのを「パリパリ(急げ急げ)精神」というのだろうか。
 取り敢えずまるっきりの無駄にはならないだろうという発想なのか。

 再来年には大阪で万博が行われるということで、こちらは既に決定しているのだが、どうも会場の建設がうまくいっていなくて「本当にできるのか」などという報道を小耳に挟む。

 オリンピックなり万博なり大きなイベントに対して「どうせ一部の誰かが儲けるためにやってるんだろ」という冷ややかな見方が国民の間に広がってしまうと経済効果もへったくれもなくなってしまう。

 釜山港-釜山駅の陸橋建設にもし万博誘致が影響しているのならば、少なくともここを訪れる観光客にとっては大きな利益を齎したと云えるだろう。
 私達夫婦はこれが出来てどこの観光地からでも釜山港に向かう自信が出来た。
 釜山市民の意見も聞きたいところだが。

 東京オリンピックや大阪万博は都民や府民にその後も役に立つインフラを残せるのだろうか。
 この辺りも東京都民や大阪府民に聞いてみたいところだが。

 そういう意味で云うと、韓国人は「祭りの後」を活用するのが上手いという印象がある。

 たとえば韓国ドラマの撮影地を「聖地」にしたりテーマパークにしたり。
 いずれ飽きられて廃れるにしても。

 大阪万博に行くことを楽しみにしている日本人としては複雑な心境であった。 

 そしてこうして俯瞰してみると分かることなのだが、やはり釜山港は規模が大きい。
 
 最近「私たちの郷土」菊陽町では世界一のIT企業TSMCが進出してくることになり、近辺の開発が急速に進んでいてその規模と影響の大きさに驚いていたところだったのだが、ここはまたスケールが違う。

 さすがコンテナ取扱量世界第5位の港である(世界一はシンガポール港らしい)。
 東京は25位、横浜は31位なのだから、その規模の大きさが分かろうと云うものだ。

 私達は韓国に旅行するとき殆どの場合ソウルか釜山にしか行かないので、後者を前者と比べてしまって「何となく規模が小さい」と感じてしまう。

 しかしこれは観光客ならではの感じ方であって、特に私達のような中高年旅行者は日本人御用達の「弁韓観光ホテル(仮名)」を中心に南浦洞やチャガルチ市場周辺でことを済ませてしまうから、「こじんまり」(韓国語では「嘘」という意味なのが面白い)した印象を受けてしまうのだが、とんでもない。

 釜山は大阪より大きな大都会なのである。

 それにしては流れる空気の何となくゆっくりした雰囲気や人々の親切さと人情は小さな港町のようである。

 不思議な魅力のある街だ。

 まだ旅が終わっていないのに「来年また来よう」などと鬼が笑うようなことを考えている私であった。

過去の自分がくれた釜山旅行23-ロッテマートで暇潰し-(河童亜細亜紀行663)

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奪われた席を勧められる

 美味しいテジクッパに舌鼓を打った私達であった。

 さて、時間は12時半を一寸過ぎたところである。

 これから何処で何をしようか。
 帰りの船への乗り込みは20:30。手続きは18:30開始である。 

 今から海雲台なり西面なりに行っても十分帰って来られる時間なのだが、問題は体力である。

 今までの旅行では広範囲の探索を可能にしたのはホテルでの惰眠タイムであった。
 ところが今回は10:30の時点でチェックアウトをしてしまっているから、ホテルのベッドで眠ることが出来ない。

 これから遠距離に出かけて南浦洞まで戻ってきて更に釜山駅に行って釜山港まで歩く、というのは一寸厳しい。
 日頃の運動不足がこんなときに堪えてくる。

 兎に角どこかで座りたい。

 なるほど、日本人観光客の間でカフェに行くのが流行っているのはこういう事情もあるのかもしれない。

 日本でも韓国でも都会の人は足が丈夫である。駅の中の移動だけでも相当な距離だし、1駅くらいは地下街をすぐ歩いてしまう。
 私達田舎者は車でのドアtoドアに慣れているから運転できない外国の都会では半日くらいでもうクタクタになってしまうのだ。

 確か釜山の「寄ってマート(仮名)」の地下には大きな食品街があって、そこには店内飲食用の椅子が沢山あったような気がする。

 ということで、寄ってマートに向かう。

買物マシーン

 まず食品売り場でお土産の品として海苔などを買う。ここは他と比べてやや値段が高いので、私の中の買い物マシーンは始動しない。
 このマシーンは一度始動すると妻の怒声がない限り動き続ける恐ろしい機械なのだ。

 買ったものをリュックに入れたら、食品街で休憩タイムである。

 ところが、韓国人の中にも私達のように考える人が沢山いるらしく、食品街の椅子は休憩する人たちでほぼ満杯である。
 勿論何か軽食の類を頼めばその店の椅子に座れるのだが、さっきのテジクッパで胃に空席がない。それにあまり長く座れるものでもないだろう。

 暫く歩き回ってやっと2人分の空席を見つけて座る。
 ほっと一息ついたのだが、足の疲れが癒されると、今度は退屈である。まだ釜山港に向かうのはいくら何でも早すぎるだろう。

 ちょっと立って背筋を伸ばしていると、私が座っていた席に子供連れの若い女性がさっと座ってしまった。

 少しムッとした。

 仕方がないので立ったまま妻と喋っていると、女性はその時初めて私に気付いたらしく、というより私が何処かに行くために立ち上がったのではないということに気付いたらしい。

 「オルシン、ここ空いてますよ。」
 と云って、女性と妻の間に僅かに残った空間を勧めるではないか。

 嗚呼、この人に悪気は全く無かったのだ。

 日本人ならば立っている私と椅子の距離から云ってまだ私が所有権(大袈裟)を放棄したわけではないことは分かって貰えただろう。

 しかし、ここは韓国。しかもソウルより人と人の距離が近い釜山である。
 その女性は私がもう立ち上がってどこかに行くと思ったのだろう。

 だから何の躊躇いもなく「私の席(嫌な奴だなあ)」に座ったのだ。

 勧めに応じて座ると、確かに日本人同士の感覚からすると隣が近いという感じなのだが、別に身体同士が触れるわけでもない。

 だいいち、私の占有していたスペースは親子3人プラス大柄な大人がもう1人座れる広さがあったわけだ。私以外の人から見ればこれは電車で股を広げて両側の席に人が座れないようにするのと同じくらいの迷惑行為だった訳だ。

 吾ながら大人げのない話である。

 女性はしばらく休憩すると、子供を連れて行ってしまった。

 さて、それにしてもあまり何時までもここに座っている訳にもいかない。

 そう考えていると、掃除のアジュンマ(おばちゃん)がやってきて、ベンチの足元を掃除し始めた。
 「アイゴ、誰だろうね、ここをビチャビチャにしたのは!?」と云いながら私達の方をチラチラ見る。

 「知らねーよ。前からそうだったんだろ?」と思いながら座っていたが、私達の足元も拭き始めた。
 まるで昔の漫画で立ち読みの客を店員がはたきでパタパタやっているようだ。

 ちょっと早いがそろそろ釜山港に行くか。

 私達は重い腰を上げたのだった。

過去の自分がくれた釜山旅行22-釜山名物のテジクッパを堪能す-(河童亜細亜紀行662)

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また豚を食べた

 私達の乗ったタクシーは大通りから一歩外れると、裏道らしいところを走り始めた。

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 少しだけ心配になったが、制限速度を大幅に超えることもなく、私の体内地図が「こちらが南浦洞でっせ(なぜか大阪弁)」と指している方向に一直線に向かう。


 車は15分ほどで南浦洞の駅に到着。「歌う運転技師」のタクシー代より100ウォンほど安い。

 ホテルには寄らずすぐにテジクッパ屋を探す。

 発見。

 老夫婦でやっている狭い店だが、良い匂いが店の外まで流れてきている。

 残念ながら店の外観は撮影し損ねた。
 よほど腹が減っていたのだろう(こんな狭い店が口コミで有名になったら私達の座る場所がなくなるからのう…フフフフフ)。

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 メニューはテジクッパ(豚のおじや)とスユクペッパン(茹で豚定食)の2種類。
 スユクは他の人が食べているのを見た限りではソウル辺りで云うところのポッサム(茹で豚)ではないかと思った。どう見ても同じものである。
 また、「スユクペッパン」ではなく「スユクジョンシク」だったかもしれない。「ペッパン」は「白飯」、「ジョンシク」は「定食」でどちらも定食のことである。
 さすがにメニューを丸ごと撮影するのは他の店の間諜と間違えられそうで、それはしなかったので、詳細は覚えていない。

 1つずつ頼もうかと思ったのだが、スユクは結構量が多かったので計123歳夫婦では食べる自信がなく、2人ともテジクッパを頼む。

IMGP4420

 トゥッペギに入れられたクッパはグツグツ煮えたぎっていて、まだ外気が大して冷たくもないのにもうもうと湯気を立てている。

決死の運搬

 トゥッペギが何かについては一度書いた。
 河童簡単(ではない)韓国料理25-恐怖のトゥッペギ-(いやしんぼ114)

 これはそう簡単に取り扱える品物ではない。

 ところが、この店の夫婦は調理担当が奥さん、ホール担当が旦那さんのようで、旦那さんはどう考えても70歳を超えているのだが、この「恐怖のトゥッペギ」をテーブルの間を縫いながら軽々と客の元に届けているのである。

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 前回のソウル旅行では電動車椅子の暴走老人を見たが、韓国の老人は元気である。

 グツグツもうもうと音と湯気を立てているテジクッパは実に美味そうだ、というより、このまま食べたら口腔内の粘膜がベロンチョ剥離である。

 私達はグツグツともうもうが収まるまで辛抱強く待ち、まずクッパの汁を一啜りする。

 「おっ、こいつは美味い。」

 これは妻の持論なのだが、人は本当に美味しいと思ったときは「あっ、美味ーい!」と叫んだりはしない。言葉を失ってにっこりと笑うのだ。

 私達夫婦はお互いの素晴らしい笑顔を見ながらクッパを食べ続ける。

 しかも私にとって嬉しいことに、この店は汁と御飯を別々に出してくれる店だったのだ。

 「クッパ屋」という看板を出している店は、客に供する時点で汁の中にご飯を放り込んでいる店が多い。

 ところがこの店は「タロクッパ」形式である。「タロ」とは韓国語で「別々」という意味である。つまり、汁と御飯が別々ということだ。

 日本で牛丼の「牛野屋(仮名)」に入っても牛皿と御飯を別々に注文し、炊き立ての白御飯の味を何よりも大切にする私にとってはこの上ないサービスである。

   食べ進むと沢山の豚肉が入っているのが分かる。
  適度に脂肪が抜けてやわやわホロホロになった実に美味い肉である。

   こんなに沢山入れて元が取れるのかと他人事ながら心配になる。
   尤も「国産である」という宣伝はしていないからヨーロッパ辺りから輸入した肉かも知れない。
  ただ、私達は日本人であるから韓国の「国産」肉は私達にとっては外国産なのである。
    そう考えれば別にデンマーク豚でもスペイン豚でも韓国豚でも、日本豚以外は外国産なので気にすることはないのかもしれない。美味ければいいのだ。

   時々入れるパンチャン(おかず)がまた良い味変になって美味し。

   夫婦とも完食である。

  ただし、例によって青唐辛子に、は手を付けない。

  折角の楽しい散策をトイレを探してさ迷う道程にしたくないからだ。

 よく考えてみると昨夜も豚を食べている。昨日は1人400g。このテジクッパにも最低100g、もしかすると200gくらい入っているかも知れない。
 「テジ(豚)」二連発か。
 やっぱり中華にしておいた方が良かったか。
 って、タンスユクは酢豚だし、チャジャンミョンにも角切りの豚が入っているのだった。どっちみち豚ではないか。
 まあ、ペロッと入って、体調も問題ないから良しとする。
 帰国したらしばらく「緑の草原」が広がる食卓だ。

   満腹になって、さあ、次は何処に行こうかな。

過去の自分がくれた釜山旅行21-妻の機転で南浦洞に無事帰還-(河童亜細亜紀行661)

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タクシーはすぐ来た

 「白い海岸の文化村」は、なかなか楽しかった。
 韓国と云う、日本人にとっては異国で、更に地中海という「異国情緒」を味わおうとは。

 ただ、ここからどうやって南浦洞に帰ればいいのだろうか。

 ここに沿っている道は結構狭く、タクシーの溜まり場になるような場所はさっき「歌う技師さん」に降ろしてもらったところくらいではないか。

 まさか坂道を逆登りしてあそこまで歩くのか。ブルブル! とんでもない。

 私達夫婦の旧陸軍二式単戦並に短い脚はもうガソリン切れ寸前である。
 ここからあそこまでこの急な坂道を歩いたら焼き付いてしまう。

 比喩ではない直截的な表現をしたら、「半月板損傷」とか「靱帯損傷」などというおどろおどろしい医学用語が他人ならぬ自分に襲い掛かってくるということだ。

 街はずれまで来た時、バス停があるのに気付いた。
 今まで釜山ではバスに乗ったことがないので不安だが、仕方がない。バスで行くことにしよう。

 と思ったとき、ふと、そのバス停のすぐそばに中華料理屋があるのに気付いた。
 時間はもう昼ちょっと前。昼食にしてもいい時間である。

 「タンスユク(韓国風酢豚)1人前とチャジャンミョン(韓国風ジャージャー麺)2人前ください!」という注文の台詞が頭の中に韓国語で浮かぶ。

 え? 韓国で中華? と思う人もいるかもしれないが、実は韓国の中華料理は独自の発展を遂げていて、私達日本人からすれば立派な韓国料理の一ジャンルなのだ。

ラーメン博物館での歴史教育

 私は仁川の中華街に行ったとき韓国人がこの自国風の中華料理に如何に愛着を持っているかを知った。
 韓国仁川ミステリー?ツアー6-ジャージャー麺の神髄を知る-(河童亜細亜紀行65)

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 さらに前回の旅行でもそれを痛感した。
 韓国ソウル再会旅行34-韓国雑感まとめ、というよりその他-(河童亜細亜紀行)

 これは釜山で韓国中華を満喫する絶好の機会ではないのか。

 「入ろうか? 入ろうよ!」

という「焚火(漢字にするとどぎついなあ)」の歌詞が仲良し夫婦の脳裏に同時に流れ始め、私達はこの店の扉に向かって歩みを進め始める、寸前だった。

 ところが、この店は大きな窓があって、そこから店内に掲げられているメニューが見えるのである。

 よく見ると、チャジャンミョンは確かにメニューにあるのだが、タンスユクがどうしてもそのメニューの中に見つけられないのだ。

 チャジャンミョンがメニューにあってタンスユクが無い店など韓国の中華料理屋にあるのかどうか、私は現在関係者に聞いて回っているのだが、誰もそんな店は知らないという。

 このへんの事情について知っている人は是非教えていただきたい(このテの依頼にただ一度たりとも反応があったことはないが)。

 何にせよ、私達はその店に入るのを断念したのであった。

 そういえば2日目の昼飯はテジクッパを食べる予定だった。
 韓国中華の強烈に惹きつける魅力の前に一時的に記憶を失っていたのだった

 もはや計123歳の私達夫婦にどちらも楽しむ胃袋の容量はないのだ。

 さあ、南浦洞に帰ってテジクッパの店を探さねば。

 だが、さっきからバスもタクシーも来ない。
 おそらく店に入るかどうか20分くらいは迷っていたはずなのだが。

 その時、妻が小さいがドスの利いた声で言った。

 「ねえ! さっきからタクシーはあすこから曲がって左の方に下ってるよ!」

 「あすこ(「あそこ」の熊本方言)」と云うのは、私達が立っているバス停よりちょっとだけヒンヨウル文化村寄りの、Y字路のことである。私達はそのY字路の右岐路の下流に立っているのだ。

 妻は私の昼食に関する相談について意見を交換しつつ、実はそれに割く以上の高次脳機能を消費して周囲の状況について伺っていたのだ。

 「あすこだったらタクシー拾えるんじゃない?」

 いやいや。

 あれはもっと上流の方でアプリか何かで客とマッチングしたタクシーが客を乗せ、バス停のある大通りから外れて最短距離で南浦洞に向かっているのだ。

 人間は切羽詰まると自分に都合の良いように物事を解釈し始める。
 遂に我が家の聡明なパートナーをしてその悪弊に憑りつかれてしまったのか。

 やむを得ない。
 所詮仮初の人生だ。

 こうなれば一蓮托生である。
 たとえ破滅することになろうとも(大袈裟)、長年連れ添った我が人生の伴侶の言葉に従おうではないか。

 私たちはそろそろ限界を迎えつつある足を引き摺って、ほんの10mほど「上流」に遡り、下ってくるタクシーを待った。

 来た!

 だが、これは、客を乗せた日本で云うところの「賃走」もしくは「実車」であ……らないな。

 「ピンチャ(空車)」である。

 妻の云うとおりにタクシーを待った瞬間に拾えたのだ。

 しかも、この技師さんは私の拙い韓国語も辛抱強く聞いて分かってくれて、運転も丁寧(60km以上出さない)で、しかも「歌う技師さん」より料金も同距離でありながらワンメーター安かったのである。

 全くのところ。

 異性のパートナーがいる(とは限らないかもしれないが私にはそれ以外の経験がない)人は、今までの彼らとの付き合いの中で一度は、

「今はそれについて考えてるんじゃないよね?!」
と、イラッとしたことがあると思う。

 だが、これは2人が2人とも生き延びるための大事な擦れ違いではないかと思うことがある。

 あのとき、私の最重要の関心である「昼食にこの中華屋に入るのか否か」という命題に、私のパートナーもまた全面的に没入していなかったからこそ、2人は南浦洞に生還(大袈裟)出来たのだ。

 生還というような話ではないとしても、楽しかるべき旅行が、痛む足を引き摺りながらお互いに不機嫌な感情をぶつけ合う場にならなかったのである。

 これは親密なパートナーでもモノによっては感じ方や考え方が違うからこそ起こったことである。
 
 旧い考え方の人は夫婦に関して「夫唱婦随」だとか、こんな上下関係を連想させる言葉でなくても「一心同体」などといった言葉をよく口にする。

 日本に55年体制が存続していた私の子供の頃には「うちの妻は社会党だから」というような冗談を云う人がいた。
 社会党は当時の最大野党である。「何でも反対党」と揶揄されていた。
 つまり、「うちの妻は社会党」というのは「うちの妻は私の言うことには何でも反対する」という換喩なのだ。

 これらの言葉は「妻は夫の考えに従うのが当然だ」「夫婦は同じ考えをしているのが当然だ」という考えが根底にあって出てくる言葉であるような気がする。

 だが、私はン10年の夫婦生活の中で、重大な局面のあの時、妻が私と全く同じ考えをしていたらヤバかったな、という経験を少なくとも3回以上はしている。
 あの時妻が「イケイケどんどん」で私に賛成していたら、と思うと、ゾッとする。

 勿論その逆もあるのだが。

 お互い違う人間なのだから当然だ。

 不協和音に聞こえた音が後から考えれば素晴らしいハーモニーを奏でていた、ということはこのン十年の私達夫婦には結構ある。
 そのハーモニーは妻の口癖で締めくくられるのが常であるが。

 「だけん私が言うたでしょーが!!」

 私はそれ以外の組合せを知らないから云うのだが、「夫婦」というのは本当によく出来たパートナーシップである。

 さあ、南浦洞に帰ったテジクッパ屋の探索である。

過去の自分がくれた釜山旅行20-ヒンヨウル文化村を歩く-(河童亜細亜紀行)

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ヒンヨウル文化村

 さあ、ヒンヨウル文化村の散策開始である。

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 この看板には「今、ここ、私達は、ヒンヨウル(に来ている。)(日本誤訳)」と書いてある。

 ちなみに「ヒンヨウル」とは直訳すれば「白い瀬」という意味で、もう少し意訳すれば、「ヒンヨウル文化村」は「白い海岸の文化村」ということになろうか。



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 規模は甘川文化村よりかなり小さいが、村から見える景色は影島に続いていて素晴らしい。
 晴れていたらスカッとするような眺望だったろう。


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 海岸沿いに作られた道は観光客目当てに作られたものと云うよりは、元々ここに住んでいる人たちの通路として作られたものを拡張したのだろう。

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 カフェがあったり、

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 カルメギ(鷗)のオブジェがあったりと楽しい。

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 何だか地中海沿いの港町を歩いているような錯覚に襲われる(行ったことない癖に)。
 この文化村の売り文句は「韓国のサントリーニ」だそうだ。サントリーニというのはエーゲ海に浮かぶギリシャの観光地である。

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 私はかなり亜細亜が入っていてオリエンタルな感じを受けたからこの文化村を「韓国のイスタンブール」と呼びたい。
 ボスポラス海峡を望む港町、という雰囲気である(行ったことはないけどね)。

 本当にイスタンブールの路地を歩いているような写真も撮れるから、そういう設定で予算の少ないドラマや映画を撮りたい人にはぴったりの場所ではないだろうか(行ったことないだろ)。

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 実際にドラマが撮られたこともあるらしく、そこは人だかりがしていた。

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 私の創作意欲を掻き立てたのはこの家と、

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 この通りである。

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 脚が丈夫な人には海岸まで降りるための通路が用意してあるが、

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 私達のように航続距離の短い脚の持ち主はこの辺りで写真を撮るにとどめる。

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 30分ほどで街はずれ(村はずれ)へ。
 私達には丁度良い散策路である。

 釜山には3つの文化村がある。

 一つは今回散策したヒンヨウル文化村。

人類は皆兄弟
 一つは4年前に行った甘川文化村。
 「最悪の日韓関係」の中「反日感情の強い」釜山で年末年始を過ごしてみた8-甘川文化村に感動す-(河童亜細亜紀行208)

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 ここはヒンヨウル文化村よりずっと大規模なので、私達夫婦の足ではとてもではないが全部回れない。
 「こことここは回ろう」という事前の計画がないと大事なところを見逃してしまう恐れがある。
 前回は本当にメインの部分だけを回ったので、やや物足りなさが残った。
 もう一度行ってみたい文化村である。

 実はこの文化村の近所にもう一つ文化村がある。
 日本人向けの韓国案内などにはまず載っていない文化村である。

 ヒンヨウル文化村を「韓国のサントリーニ」、甘川文化村を「韓国のマチュピチュ」だとすると、この碑石文化村は「韓国のカタコンベ」だろうか。

 「碑石」は墓石の事である。
 誰の墓石かというと、日本人の墓である。

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 甘川文化村がかつて6.25戦争の避難民の街だったように、碑石文化村もまたそうした由来の街なのだ。

 避難民は北から逃げてきた人たちである。その数約100万人。
 彼らは南には家がないから、何処かに家を作らなければならない。

 その「何処か」は元から住んでいた人たちが住まないような場所である。
 それは道や家を作るのが困難な急坂や、日本人が引き揚げた後に放置されていた土地であった。

 要は日本人墓地の上に避難民の集落が出来たのである。

 私は神も仏も信じないから死んで葬られた人はそこにいないと思っている。

 そういえば「千の風になって」という歌が流行ったことがあった。

  私のお墓の前で♪ 泣かないでください♪ そこに私はいません♪ 眠ってなんかいません♪

 父を亡くした直後だった私にはこの歌がどれほど慰めになったか知れない。

  ただ、歌が二番になって、

  私のお墓の前で♪ 泣かないでください♪ そこに私はいません♪ 死んでなんかいません♪

 というフレーズを聴いたときは思わず「いや、死んどるやろ! そら、言いすぎやで!(なぜか大阪弁)」と一人で突っ込んでしまった。

 閑話休題(まじめなはなしができないやつなのだ)。

 という訳で、何か宗教を持っている人に比べると「人の墓の上に家を作る」という行為に対する感情も少し違うと思うのだが、死者の遺族の感情を考えるとこれはやはりやってはいけない行為という気がする。

 植民地支配に対する復讐感情だとするともっと他のことでそれは晴らされるべきだし、そんな感情がなかったとしても、日本人にしては大陸的な私でも違和感は否めない。

 一つだけ擁護できるとすると、お互いに大国を後ろ盾にした同族同士で血で血を洗うジェノサイドを経験してしまった人たちの心が壊れてしまっていた、という想像だろう。

 戦争はそれを経験していない人々の想像以上にそれを経験した人の心を壊してしまう。

 幽霊や亡霊や鬼神は「人が人に対してあまりにも残酷なことをしていけない」という人間らしい感情から創り出された戒めのような存在だと私は思っている。
 「相手の霊魂が自分に復讐する」という想像すらできなくなった人は心が壊れた人だ。

 かつて大陸に兵隊として送り込まれた多くの日本人の心はそうなっていた。

 子供の頃、通学路に大陸での残虐行為を自慢げに私達に話す大人がいた話は既にした。
 過去の自分がくれた釜山旅行7-日韓航路乗客様変わり-(河童亜細亜紀行648)

 戦後生まれでそんな状況を想像するだけの知識のない日本人、あるいは自分の身過ぎ世過ぎのために「なかった」ことにしたい日本人は「そんなはずはない」と否定したいだろうが。

 戦場を経験した日本人たちと同じことが、ここに街を作った韓国人たちに起こっていたことは、容易に想像できる。
 「自分が経験した地獄に比べれば墓の上に家を作るくらい何だ!」という心境である。

 そしてその墓が韓国人のものであれば、その一族がその近郊にいるわけだから、余所者である避難民がその上に家を作ることなどできなかっただろう。

 そうなれば墓は引き揚げて誰もいなくなった日本人のものでなければならなくなる。

 寒話休題(いすらえるがぱれすちなでかくをつかいませんように)。

 何にせよ既に生活が出来てしまっているところをどうにかしてほしいと云っても無理だろうが、せめて供養くらいはしてほしいものだ。

 ということで、私は釜山に3つある文化村のうち2つには行ったわけで、こだわりの強い私の性格からするともう1つにも行きたいところなのだが、実際に現地に行ったときの自分や妻の心の動きが正直予測できない。

 わざわざ強烈に不快な体験をする、というのはわざわざ金と暇を使って行く旅行の目的にはそぐわない。

 私は近いうちにまた釜山に行くだろうが、碑石文化村に行くかどうかはまだ迷っている。

 「韓国人ってホント発想が自由だよね!」というのが妻のヒンヨウル文化村に行っての感想だが、他人の墓の上に文化村を作ってしまうなんて、

「自由すぎるだろ! 発想が。」

過去の自分がくれた釜山旅行19-歌う運転技師-(河童亜細亜紀行659)

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歌う運転技師

 チャガルチ市場を一通り回った私たちは、一旦ホテルに戻る。

 シャワーを浴びたかったからだ。

 昨夜の中途半端な気候による寝汗と、朝から動き回ったためにかいた汗でなーんとなく「ベタベタ」だったからだ。
 交渉の結果別の部屋のシャワーを使わせてもらえるようになったことは既に書いた。

 身ザッパリ(私の新造語)した後は荷物を纏めてチェックアウトである。

 と、いっても、この荷物を持ったままで観光をする訳には行かないので、釜山港に移動するまで荷物を預かってもらうように交渉をする。

 ここが「マンション旅館」であることが分かったので、期待はできない。もしかすると今から釜山駅か釜山港に移動してそこの荷物預かり所で預かって貰わなければいけないかも知れないのだ。

 私の中では「荷物を4時まで預かってもらっていいですか」という韓国語が出来上がっていたのだが、 「荷物を…」と云った瞬間にフロントのヒョン(お兄ちゃん)が「あっちを見て」という感じで私の後ろを指さした。
 最後まで喋らせてほしいものだ。せっかく勉強したのだから。

 見ると、私達以前にチェックアウトした客の荷物が一ヶ所に纏めてある。

 結構心配していただけに、ホッとした。

 では、予定通り釜山市内に3つある文化村のうちの1つ、ヒンヨウル文化村に出発である。

人類は皆兄弟

 私たちは既に一番有名な甘川文化村には4年前の旅行で行っている。
 「最悪の日韓関係」の中「反日感情の強い」釜山で年末年始を過ごしてみた8-甘川文化村に感動す-(河童亜細亜紀行208)

 もう一回甘川文化村に行ってもよかったのだが、地図で調べてみるとヒンヨウル文化村も甘川と同じくらいの距離だったので、どうせなら行ったことのないところに行ってみようということになったのだ。

 ただし、甘川の方が地下鉄で距離を稼ぐことが出来たのに対して、こちらは地下鉄が通っていない方向である。
 事前に調べたところではバスで行けるということだったのだが、私はどうも韓国のバスについては今までの経験からあまり良い印象がない。

神風バスで老婆転がる

 ハルモニが転がった、というA君の証言は強烈だったし、
 88以前の韓国旅行記を記憶遺産に7-バスは出ていくお客は残る-(河童亜細亜紀行7)

椅子に座るオルシン
 
 既に2010年代に入っても自分自身の身体で荒い運転を身を以て経験している。
 しばし別れの韓国旅行9-オルシンは辛いよ2-(河童亜細亜紀行95)

 これはどちらもソウルの場合であるが、釜山では今までバスに乗ったことがないから一層不安である。
 それに地下鉄と違ってバスは路線が外国人には複雑すぎてとても全体像が把握できない。
 
 ここはやはりタクシーの運転技師さん達に任せよう。
 私は今まで釜山では運転の荒い技師さんに当たったことがないのだ。(もしかするとバスの運転も荒くないのかもしれないが。) 
 距離からするとおそらく6000W(600円)くらいのはずである。 

 ということで、タクシーを拾うことにする

 ソウルでなかなか拾えなかったのと、釜山港で小型タクシーがいなかったことで、大丈夫かな、と思いつつ、タクシーを探すと、乾物市場の近所にタクシー乗り場があり、タクシーが待機している。これなら大丈夫だ。

 一番先頭のタクシーの技師さんに「ヒンヨウル文化村って分かりますか?」と尋ねる。

 ソウルでタクシーを拾うと技師さんが目的地を分からず、こちらで説明して地図アプリに入れてもらわなければならないことがあるのだ。

 だが、流石は我が釜山。
 「乗りなさい。」という落ち着いた答え。安心して乗り込む。動き出した車のスピードは60kmを越えることはない。安全運転の技師さんのようでこれまた安心する。

 技師さんはしばらく車を走らせてから、「文化村の××××かい、〇〇〇〇かい?」と尋ねてきた。

 正直、「文化村」と、釜山訛の疑問の終助詞以外に聞き取れない。

 これが方言の問題なのか技師さんが早口だったからか私の韓国語力の問題なのか、韓国在住歴のある私の娘や韓国・朝鮮関係のジャーナリストの旧友A君がいないので分からない。

 多分、「入口か出口か」と聞いているのではないかと思ったので、「入口」と答える。

 一瞬、沈黙が支配したが、技師さんは「分かった」と云うと車を走らせることに専念する。

 いや。専念していない。
 私に話しかけたのを最後に、ずっと歌っている。

 私が知らないトロット(演歌)である。

 しかも、カーオーディオから聞こえてくる音楽に合わせて口遊んだり鼻歌を歌っている訳ではない。
 私達の耳には技師さんの歌声しか聞こえてこない。
 何もソースの音源なく、アカペラで歌っているのだ。

 私は急に不安になってきた。

 そもそも、運転手さんに目的地はちゃんと伝わったのか。釜山に文化村は3つあるのだ。
 本当は「ヒンヨウル」という語句が私の発音の拙さで伝わらず、技師さんが「甘川の文化村の方かな」と心配になって尋ねたかもしれないのだ。

 そういえばさっき急に方向転換した気がする。
 目的地が実は甘川文化村ではないかと思って方向転換したのではないか。

 そんな私の心配(妄想)をよそに、技師さんは歌い続けている。
 私の知らない歌ばかりだが、もう4曲目である。

この世の不幸

神風タクシーin韓国

実はもっと深刻

取り越し苦労

 私達夫婦はこれまで韓国で色々なタクシーの運転技師に逢ってきた。
 韓国貨幣に会いにいく旅14-タクシーの運転技師たち-(河童亜細亜紀行158)

 彼らの共通点はK-POPや韓国ブーム程度ではビクともしない「生アジョシ」であるという点である。

 「生アジョシ」って何だ、と思う人はかつての私の定義を読んで欲しい。


 ただ、タクシーでの旅行はネタにはしやすい。
 それは運転技師さんたちが「生アジョシ」だからである。
 「生アジョシ」は「生ビール」の「生」と韓国語で「おじさん」を意味する「アジョシ」を合成した私の造語であるから、どんな辞書にも載っていない。
  生アジョシが一番沢山いるのは飲み屋だが、酒のないところにもいる。したがってタクシーも運転しているのだ。
  この言葉は日本語にはなりにくいが、強いて言えば「大阪のオッチャン」だろうか。
  「お.も.て.な.し」の仮面を被っていない、生の人間力がこちらに迫ってくるというか。親切な人はより親切に、そうでない人はまあ、それなりに、マイペースを崩さないが、でも基本は親切なのである。
  私も年齢からいえば韓国ではアジョシと呼ばれる年齢だが、なかなか「生」で勝負できる人間性を持っていないから、ついつい愛想笑いの仮面を被って人に接してしまう。
  だから彼らの飾らなさがちょっと羨ましい。全面的に、ではないが。

 今回出逢ったこの技師さんもやはり釜山の「生アジョシ」であった。私はこの人のことを生涯忘れないであろう。

 車は急な坂道を登り始めたが、どうみても記憶の中にある甘川文化村に向かう坂道ではない。大丈夫だ、少なくともヒンヨウル文化村の近所には連れて行ってもらえそうだ。

 「出口」らしきところに来た時、技師さんが何か尋ねた。
 「ここ」という単語だけ分かったので「違います」と答える。

 またしばらく走って「入口」らしきところに来た時、技師さんが再び「ここ」という単語だけ分かる言葉で尋ねた。
 よほど狼狽えていたのだろう。「はい」という韓国語も、「ここです」という韓国語も頭に浮かばない。咄嗟に"Yes!"と答えていた。

 タクシーがシュルルルル、と狭い駐車場に止まり、私達は無事にヒンヨウル文化村に到着したのだった。

 技師さん、감사합니다(ありがとう)。안녕히 가세요(気を付けて)。

過去の自分がくれた釜山旅行18-やっぱりチャガルチ市場は面白い-(河童亜細亜紀行658)

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チャガルチ市場は楽しい

 最大の懸案(何時そうなったのか知らないが)である海苔問題があっけなく解決してホッとした私たちは乾物市場に隣接するチャガルチ市場の散策に出かける。

 何者なんだこの二人

 前回はちょっと奇抜な格好をしていたために誰からも声を掛けられなかった。

完全装備だとこうなる

 何せこれである。
 熊本の新市街当たりだったら通報されるかもしれない。

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 昨日が雨で今日もやや天気が悪いせいか、はたまた時間の所為なのか、あるいは景気の所為なのか、今一つ活気がないような気がするが、この辺りは以前からそれほど人通りがなかったような気もする。

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 どうも日本の魚市場とは違って、賑わいを見せるのがもっと昼近くのような気がする。
 まだ準備中という感じである。

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 大量のホンハ(ムール貝)を捌いている人がいる。
 
 この貝くらい日韓で食べられる量が違う貝もないだろう。

 日本では西洋料理でたまに出てくるくらいで、日本料理にして好んで食べる人は殆どいない。実は港や磯に大量にいるのだが、まず採取しようとする人もおらず、放置されている。

 しかし、韓国では古来から干物にされて高級食材として取り扱われてきた。宮廷料理にも多く登場する。庶民の口に入る場合にはスープに入れられることが多いようだ。

 そして例によって、二日酔いに効くらしい。
 韓国である食材が珍重されるかどうかには、この「二日酔いに効く」かどうか、という要素が相当な比重を占めているような気がするのだ。

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 おそらく同じ基準で韓国人の好む食材の中に入れられているものたち。
 コマッ(ハイガイ)やホンハッ(赤貝)、モンゲ(海鞘)、パジラッ(浅蜊)、ケブル(ユムシ)などなど。

 中には日本人の苦手なものも混じっているが、これらは「酔い覚まし軍団」として昔から韓国人の食卓に上がってきたものに違いない。


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 焼いた魚を食べさせる店。
 もし釜山に何日か泊ることがあったら、朝食は定番の「済州屋(仮名)」のほかに、こういう店でもいいかな、と思う。
 朝から干物の朝食と云うのもなかなか乙なものである。

 20年くらい前までは朝食には必ず干物を食べていたのだが、残念ながら血中尿酸値の上昇によってこの習慣は終了してしまった。
 毎朝ヨーグルトを食べるようになってからは尿酸値も落ち着いているから、たまには干物の朝ごはんも良いかも知れない。

 随分呼び止められたが、残念ながら「済州屋」の食い物で腹が一杯である。

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 日本では魚市場などであまり見られないものの一つにキダリゲ(高足蟹)がある。
 世界最大の蟹ということで名前は知られているが、専門で漁獲されているのは静岡県だけらしく、たまたま網に入ってくるマンボウのような「珍品」的存在である。

 しかし他の店でも結構まとまった数売られているのを見たから、慶尚道(少なくとも釜山)では日常的に食べられている食材らしい。

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 日本と同じくチョノ(鮗)はこれからが旬のようだ。
 これくらいの大きさだとまだ小肌レベルか。

 一時馴染みだった寿司屋でコハダのことをコノシロと云って注文して怒られたのを思い出した。
 私は正直酢が沁みすぎたコハダより大きめのコノシロのちゃんと骨切りをした奴の方が脂が乗っていて好きなのでつい言ってしまったのであって、コハダという呼び方を知らなかった訳ではない。
 単に「へい、コハダね」と言い直せばいいだけではないか。
 だいいち食材の名前を知らなかったからと云って怒られたり説教されたりしなければならない筋合いはないような気がする。

 日本で客を叱る店の人といえば寿司屋の職人くらいだろうが、韓国では今までに結構叱られた気がする。大抵アジュンマ(おばちゃん)である。
 まあマッコリとビールを混ぜたりするからなのだが。韓国人だってビールと焼酎を混ぜたりするけどなあ。

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 お祭りらしく飾り付けがしてある。
 渡韓するまで全く知らなかったのだが、昨日・今日は「チャガルチ祭り」なのだそうだ。
 外国人からすると何時もお祭りのような雰囲気の街なのであまり新鮮な感じはないが。

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 ここからは道が狭くなり、両側に個人でやっている露店の魚屋が立ち並ぶ。
 本当はここからが面白いのだが、残念ながらマナーとして商品を近くからアップで撮影するというのは少々(かなり)憚られるので写真はない。
 「本当に面白いものは書けない、写せない」という奴だ。

 刺身にしたら凄い肉厚で堪らなく美味いだろう大きなカルチ(太刀魚)や、艶々して実に美味そうなクルビ(グチの干物)、これまた巨大としか云いようのないサムチ(鰆)など、魚好きだったら何時間でも見ていられるような光景が続く。

 韓国の魚市場と云えば昔は保存状態が悪くてデロンデロン感が強かったが、少なくともチャガルチ市場についてはピカピカになってきた。
 ただし、天草の魚のキラキラ感にはまだ及ばない。是非一度天草の丁寧に扱った魚の素晴らしさを韓国の漁業関係者にも知って欲しいものだ。

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 そろそろ相棒の股関節が心配になってきた。かなり歩いているからそろそろ痛みが出てくる頃である。

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 まだとんと端っこではないが、魚屋街から逸れてチャガルチ駅の方に戻り始める。
 実に面白い情景であった。

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 チャガルチ市場で一番ユニークな店はこれかも知れない。

 カチコプチャン(鵲のホルモン焼き)である。

 鵲って韓国の国鳥じゃなかったっけ?
 「国鳥を喰らう」か。

 でも考えてみたら日本人も国鳥の雉を食べるから別に不思議なことではないのかもしれない。

 それと日本で鵲の別名を「カチガラス」という訳がこの看板を見て氷解した。てっきり「勝ちガラス」だと思っていたのだが、「韓国でカチという烏」だったのだ。これは諸説ありそうかもしれない。

 ということで、やっぱり面白いチャガルチ市場なのだった。

過去の自分がくれた釜山旅行17-キンパ用の海苔は瞬時に調達-(河童亜細亜紀行657)

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最後まで喋らせて

 私はかつて自分の海苔愛について告白したことがある。

海苔は髪には効きません

 海苔愛について告白させてほしい 

 その中で私はこう述べている。

 「海苔を食ったら死刑」という法律ができたとしたら、地下に潜って命を懸けて抵抗運動を続けるに違いない。捕えられて処刑されるときには「海苔万歳!」と叫ぼう。

 私の海苔好きはこの一文に集約されていると言っていいだろう。

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 この文章はかれこれ10年近く前に久し振りに韓国に行って大量に海苔を買って帰った後に綴られているから、半分は韓国海苔賛歌になっている。

麻薬犬登場

 このときは大量に買いすぎて空港の税関で麻薬犬(麻薬捜査犬)に眼を付けられるほどであった。
 河童からくに紀行13-放り投げられた荷物とともに麻薬犬に迎えられる-(河童亜細亜紀行34)

磯の風景が浮かぶ味

 その後、宇土半島で作られた青混海苔の味に魅せられて暫くはおにぎりの海苔といえばこれ、という時期が長く続いた。
 青混海苔の鮮烈(いやしんぼ64)

 ところがある年、それは有明海の海苔の不漁が新聞記事などでも取り沙汰されていた年だったが、私は酷く期待外れの商品に当たってしまった。
 それは到底その値段で買うに値しないと思われる代物の海苔だった。

 それ以来、私はこの海苔に対して距離を置くようになった。
 といっても私は海苔好きだから、「熱愛」が「愛好」になったくらいだろうか。

 そんなときに出逢ったのが南大門のA社長の店の海苔である。

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 この海苔は「随分高いな」と思いながら半信半疑で購入した海苔だったが、今までに食べた、韓国海苔だけでなく、日本のどの味付け海苔よりも私の舌に合った。
 ただし、A社長の商品は味付け海苔だけだったから、おにぎりを巻く焼き海苔に関しては日本の海苔が一番、という私の考えが揺らぐことはなかった。

 ところがその暫く後、私は釜山の一角に乾物の市場(正式には南浦乾物卸売市場と云うらしい)を見つけ、そこで気まぐれで買った海苔が偉く美味いことに気付いた。しかも、激安である。記憶が定かではないが、確か100枚500円だった。

 こんな海苔に出くわすのは天祐であってもう無いだろう、と思っていたら、その後またこの一角の別の店でまた絶妙の焼き海苔を買うことが出来た。今度は100枚1000円だったと思う。

 それからCOVID-19の感染拡大を挟み、釜山の商店街の苦境の噂を聞き、世界的な物価高のニュースに触れるうち、私は最早この焼き海苔と再び出会うことを殆ど諦めかけていた。

 まず私は再びこの乾物市場に行けるのか。
 この海苔を作っている海苔屋は仕事を継続しているのか。
 乾物屋でこの海苔を扱っている店は今でもあるのか。
 最も現実的な心配は、この海苔はここで買えるものの、とんでもなく値上がりしているのではないかということだった。

 高くて美味しい海苔は日本にも幾らでもある。
 この安くて美味しい韓国海苔に再び逢うことが出来たらどんなに嬉しいだろう(大袈裟)。

 朝御飯を食べた「済州屋(仮名)」からチャガルチ市場に向かって歩きながら、そんなことを考えていた。

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 嗚呼、あの懐かしい乾物市場である。

 私が最初に海苔を買った店は閉まっている(確か4年前も閉まっていたような気がする)。

 だが、確かこの角を曲がったら、4年前に海苔を買った、若いヒョン(お兄ちゃん)が店番をやっていた乾物屋である。
 (写真はない。興奮していたので撮りそこなったのだ。)

 あれ、今日はアジョシ(おじちゃん)だ。もしかすると社長かも知れない。
 アジョシに話しかける。
 「キンパ用の海苔はありますか。」

 「キンパ…」まで言いかけたとき、アジョシが「はい、これ!」と私に手渡した海苔こそ、あの海苔ではないか。
 相変わらず韓国人は私の非流暢な韓国語を最後まで喋らせてくれない。

 値段を聞くと、4年前と同じ100枚1000円である。


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 4年振りの御対面である。(写真は帰国してから撮ったもの)

 改めて見ると「贈答用」と書いてあるから、「日本人が来たらこれを売れ」というもので、もしかすると現地の人たち用の物の相場はもっと安いのかもしれない。

 それでも、帰国してから軽く炙っておにぎりを巻くと、「ああ、これこれ!」という味である。

 大満足の海苔買い紀行(総旅程10m,時間5分)であった。

過去の自分がくれた釜山旅行16-朝食はウニスープとアワビがゆ-(河童亜細亜紀行656)

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もう食べられないかと思っていた

 時刻は2日目の7時まで遡る。

 私達は2日目の朝は何処で何を食べるとはっきり決めていた。

 これは日本人御用達「弁韓観光ホテル(仮名)」に泊っていた時からの習慣と云っていい朝食である。
 と云っても今回が4回目に過ぎないが。

 それは「済州屋(仮名)」という店で、私はソンゲミヨックッ(海胆と若布のスープ)、妻はチョンボッチュッ(鮑粥)を食べることである。

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 方向を確認するために、地下鉄南浦駅に一旦降りて7番出口から出る。
 これが私達が釜山に来たとき弁韓観光ホテルまで行く定番のルートなのである。
 そして済州屋はその途中にあるのだ。

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 ホテルから10分くらい歩いて到着。

 最近は行列ができていることが多いのらしいのだが、幸い開いている最後の座席に座れた。
 私達夫婦より後から来た人たちは行列である。
 ネットなどでは8:00開店となっていたが、少し早めの7:30に来てみて良かった。

 それにしてもホテルと云い粥屋といい、10年くらい前までは知る人ぞ知るという隠れ家的存在だったと思うのだが、最近はすっかり有名である。
 これにはSNSの普及が関係しているに違いない。昔からの馴染みにとっては迷惑な話である(お前の今書いてるブログもSNSだぞ)。

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 店の壁を見るとセンソンゲビビンバ(生海胆のビビンバ)を始めたらしい。
 これにしようかだいぶ迷ったが、結局「何時もの奴(というほど来てないだろ)」を注文。

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 パンチャン(おかず)が登場。
 トルギム(味付け海苔)、オジンオチョッカル(烏賊の塩辛)、ミョルチポックム(縮緬じゃこの佃煮)、カクトゥギ(大根のキムチ)、ペチュキムチ(白菜のキムチ)である。

 ここはパンチャンから美味しくて、まさに御飯のお供にぴったりなのだ。
 口の中が涎で一杯になって一寸口を開けたら溢れてしまいそうである。

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 まず鮑粥登場。

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 次に海胆スープ登場である。
 待ってました!

 ああ、やっぱり美味い。
 そして、私達は韓国で御飯を頼んで一度も外したことがないが、ここの御飯もまた我が郷土の誇る「森のくまモン(仮名)」と勝るとも劣らないくらいに美味い。
 スープと、おかずと、御飯と、三点喰いで食べ進めていく。

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 妻が鮑の肝をくれる。

 妻は本当は貝類が大嫌いなのだが、何故かここの鮑粥だけは好きなのだ。
 妻が蛤以外の貝類を食べるのは今のところ地球上でこの店だけなのである。
 ただし、流石に肝は私にやっても惜しくないらしい。

 韓国には鮑の肝が好きな人が多いらしく、昔読んだ漫画に「親孝行な韓国人も鮑の肝だけは親と奪い合う」という台詞が出てきたのを覚えているが、妻がアワビの肝をくれたのは別に夫を尊重してという訳ではない。単に嫌いなのである。

 その証拠に身はくれなかった。プリプリの大きな身が沢山入っていたのだが。

 そしてこれは「海胆をよこせ」というサインでもある。

 妻は私の器にスプーンを突っ込んで海胆を匙一杯かっさらい、口に運んで、「あ、やっぱり美味いね。」と云った。

 妻は海胆も大嫌いで絶対食べなかったのだが、私と結婚して私があまりにも美味しそうに天草の生海胆を食べるものだから一度試しに口に入れて虜になってしまった。
 それでも元は嫌いなものだから海胆の味にもとても厳しく、明礬の臭いが一寸でも残っていたりすると「不味ーい!」と云ってその後は食べない。

 私は根っからの海胆好きであるからアルコール漬けだろうが明礬の臭いがする輸入ものだろうが喜んで頂くが。

 美味かった。韓食、じゃなかった、完食。

 正直生きている間に妻とこの店に来て鮑粥と海胆スープを食べられるとは思っていなかった。
 感無量である。

 これは大袈裟でも何でもない、COVID-19ウイルスと共に排外主義が猖獗を極めていた「あの時の日本」を生きた者の正直な感想である。

 これから乾物市場でキンパ用(おにぎり用に流用)の海苔を買ったあと、腹ごなしにチャガルチ市場を散策である。
  

過去の自分がくれた釜山旅行15-シャワーのお湯がでないっ!-(河童亜細亜紀行655)

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今は旅行中

 1つしかなかった掛布団を危うく確保し、旅行初日を終えようとしている私達夫婦である。

 浴室にシャワーを浴びに行っていた妻が憮然とした顔で戻ってきた。憮然とした顔つきは、何があったかを私に話そうとした瞬間に憤然たるものに変化した。

 「シャワーのお湯が出ないよ。洗面台のお湯も。シャワー浴びれない!」

 時は10月半ば、熊本で云えば「随兵寒合(ずいびょうがんや)」を過ぎて朝晩は冷え込みがきつくなってくる季節なのである。

 もう水浴びをして気持ちの良い季節ではない。

 冷えた身体を温めなければならないほど寒くはない。
 しかし、今日は2人とも傘を差していたとはいえ多少は雨に濡れているのだ。
 暖かいお湯で黄砂やミセモンジ(PM2.5の韓国語)を洗い流したいところである。

 その願望が脆くも崩れたのである。

 私は再度フロントに行ってみたが、おそらくただ一人のフロアスタッフであるヒョンはもう帰った後だった。

 フロントは無人である。

 「フロントにスタッフがいるのは10:00~24:00」と張り紙がしてある。
 次にフロント係が登場するのは明日の10:00ということだ。

 仕方がない。

 部屋に帰って妻を宥め、タオルで身体を拭いて寝ることにする。

 エアコンが効きすぎて寒くなってきたので、消して寝る。
 エアコンはリモコンが見当たらないのでオンオフしか出来ないのだ。

 しばらく寝ていると、暑い。
 本当に中途半端な季節なのだ。

 仕方がないのでエアコンを入れる。
 すると暫くすると寒くなる。

 結局掛布団を引っぺがして何も無しで寝たら丁度良かった。
 先ほどの苦労が水の泡である。
 何のためにわざわざ掛布団を確保したのか分かったものではない。

 長旅で疲れていなかったら悶々として絶対に寝られなかっただろう。

 しかし、しつこいようだが私は大陸的な男なのである。
 「寝るだけ」の環境さえ確保できれば寝てしまうのだ。

 他の事に気が紛れて仕事のことを忘れてしまっていたからかも知れないが、その夜の寝覚めは何時もの夜よりよほど良いのであった。

 シャワーの件は翌日10:00にフロントに来た別のヒョンに「浴室が冷水しか出ないんだけど」と例によって3回同じことを云って訴えた。
 すると、「ああ、それは大変でしたね」と言って、別の部屋の鍵(これは本物の鍵)を貸してくれたので、妻と二人でその部屋に行ってシャワーを浴びた。
 
 僻目で見るからか、その空き部屋は私達の部屋よりずっと整備されているような気がした。
 蛾もいなければ、前の人の着古しのトレーナーもないし、お湯も出るし(当たり前か)。

 エアコンのリモコンに関しても聞いてみたが、TVのリモコンと一体だという。

 部屋に戻って、なーんだ、案内か何かに書いといてくれよ、と思いながら操作しようとしたが、やはり動かなかった。
 このリモコンはシャワーを借りた部屋では動いたから、やはり私達の部屋のものは故障していたのだ。

 私はこのとき思った。
 「これはホテルではない。マンション(韓国語ではアパート)なのだ!」

 今を去ること12年前、私は日本の某市でこれより凄いマンションに泊ったことがある。

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マンション旅館(河童日本紀行2)

 私はその中でこのホテル(マンション)についてこう書いている。

 遊び疲れてA市に戻ってきてチェックインしようとしてホテルを探すのだが、これが見つからない。何回も住所を確かめるのだが、それらしき建物がなく、ぐるぐるそこらへんを車で何回廻っただろう。
 「もしかするとここ?」と確かめると、目立たない看板で「〇〇ホテル」と掲げてある。多分何回も目に入っているのだが、あまりにもホテルらしからぬ建物なので、どうしてもホテルとして認識できなかったのだ。
 それは「ホテル」でも、「マンション(アパート)を改造したホテル」でもなく、「マンションそのもの」だった。それも、築30年くらいの古いマンションである。ただのマンションにホテルの看板がかかっていると考えてもらえばいい。
 内部もホテルではなかった。マンションそのままである。受け付けは管理人室そのもの。部屋は1部屋が3間あって、1間の宿泊費が4500円だったのだ。しかも畳の部屋に布団が2組用意してあって、これが「ツイン」なのである。幸い客は私たちしかいなかったが、もしほかに宿泊客(ツインの部屋だから親密なカップルのはずである)がいたら、トイレや風呂の時は顔を合わせなければならない。
 「ホテルで見知らぬ他人(夫婦ないしは恋人同士)とルームシェア」するという、生まれて初めての体験は幸いしなくて済んだが、もし相客がいたら、大陸的な私は別にして、純粋な大和撫子の妻は激怒していたに違いない。
 私は初めて泊まったホテルをチェックアウトするときに、ほとんどの場合「またここに泊まろう」と思うのだが、「ここには二度と泊まるまい」と思った稀有なケースだった。(引用終わり)


 そう、今回私達が泊まったホテルも、マンション(アパート)だったのだ。

 考えてみれば私はそこに部屋を取ってからも街に出て戻ろうとする度に通り過ぎようとして妻から注意された。私の中でそこはホテルではなかったのである。

 古いマンションだったので入居初日に色々なトラブルがあった。
 でも、管理人さん達が親切だったので、布団にも不自由しなかったし、シャワーも浴びることができた。

 そう思おう(あまりに大陸的)。

過去の自分がくれた釜山旅行14-布団がないっ!-(河童亜細亜紀行654)

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掛布団確保

 美味い豚肉と牛肉を鱈腹喰った私達夫婦は「美味しかった」という台詞を残して店を出た。

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 夕方から降っていた雨はもう止んでいるが、降っている間に屋台は殆どが店仕舞いしてしまったらしく、極僅かな店に客が座っているだけだ。

 いつもはこのBIFF通りには様々な屋台が軒を並べているし、今日は「チャガルチ祭り」というイベントも開催されているはずだったのだが、生憎の雨のお陰で寂しい限りである。

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 私達の韓国旅行の重要な目的地の一つである「代走(仮名)」に入る。

 前回明洞の巨大代走に入る時間がなかったので、私の定番の日用品を買うことができなかった。

 特に筒塩で作った歯磨き粉は寝る前に磨いておけば翌日の朝もツルツルの歯で爽やかに起きられる優れものである。
 わざわざ南大門のA社長に送って貰ったりもしたこの歯磨き粉が切れてから歯間の隙間が気になるようになった。歯周病が進んでいるに違いない。

 ここの代走に入ったら見つけたので「あるしこ(熊本方言で「ありったけ」)」買った。

 それと、これも久し振りに見かけたのだが、王冠印(仮名)のクラッカー「チョムチョム(仮名)」。
 これは塩気が少なくてチーズを挟んで食べると実に美味い。何故か日本の韓国食品には売っていないので探し求めていたのだ。しかも、なにせ代走だから安い。これも4箱買う。

 セルフレジが開いていたのでこちらで挑戦することにする。

 ところが、清算しようとすると買った品物の数と機械が認識した品物の数が違う。
 このままでは万引きになってしまう。
 しかし、私の韓国語力では何が問題なのか分からない。
 有人レジの方を伺うと、店員さんは天手古舞状態でとてもこちらに注意を向ける余裕はなさそうである。

 突然、日本語で話しかけられた。
 「どうしました?」「何かお困りですか?」
 流暢な日本語である。
 というか、日本人だ。
 中年男性だが、ファッションが韓国人とは違う。髭を生やして長髪を後ろで縊っている。
 
 釜山で日本人に話しかけられるのは2回目である。
 
 彼がレジ係と交渉してくれたので、問題は解決。私達は万引き犯にならずに済んだ。

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 親切な日本人のお陰で代走で買えた山のような品物を入れてパンパンのリュックを背負い、ホテルに置いて、2回目の出撃である。

 今度は二次会のためにコンビニに買い出しである。

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 これは翌朝の、その残骸である。

 さて、積もる話もそろそろ尽きて、さあ、寝ようか、となったとき、とんでもない事態が発覚した。

 掛布団が1人分しかないのである。

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 最初この部屋に入ってきた私たちは、掛布団が奥のベッドにしか置いていないのにすぐ気付いた。
 しかしこれは奥のベッドに2つ纏めて置いてあるのであって、まさか掛布団が1人分しか用意していないとは思わなかったのだ。

 このままでは2人で1つの掛布団を使わなければならなくなる。
 これではツインの部屋を取った意味がなくなってしまう。
 だいいち私の巨体で誰かと布団を共有する、ということは、寝ているうちに相手から布団を奪取してしまう、というのと同義である。

 私はすぐにフロントに走った。
 もう日付が変わろうとしている時間である。

 ロビーに入ると、ちょうどフロントのヒョン(お兄ちゃん)が身支度をして帰ろうとしているところに出くわした。

 慌てて行く手を遮って、「掛布団が1つしかないんだけど!」と云うと、ヒョンは怪訝な顔をしている。通じなかったのかと思い、もう一度「掛布団が1つしかないんだけど!」と云うと、まさか、という顔になり、「掛布団がないんですか?」と聞くので、更にもう一度、「1つしかないんだよ、掛布団が!」と云うと、「そんなはずないけど…」とブツブツ言いながらも部屋まで付いて来てくれた。

 例の「鍵」で部屋を開けて見せると、ヒョンは「ああ、ないですね。ちょっと待ってください。」というと、下に降りて行った。

 無限とも感じるくらいの長い時間が経って(本当は5分くらい)、ヒョンが掛布団を抱えて上がって来た。
 
 「はい、掛布団。」
というと、私に布団を手渡し、ヒョンは今度こそ安心した顔で帰って行った。

 親切な若者である。

 って、今まで何処のホテルに泊まってもこんなことで心配したことは一度もなかったので、親切、とかそういうこと以前の問題であろう。

 またこのホテルを予約した時に口コミで見た「寝るだけ」という言葉を思い出した。
 危ない危ない。 
 「寝るだけ」すらままならないではないか。

 「それにしても俺の韓国語も咄嗟の時に使えるほど上達したなあ…」などとベッドに横になって悦に入っていると、シャワーを浴びると云って浴室に入っていった妻が憮然とした表情で出てきた。

 今度は何があったのか。以下、次号。


 

過去の自分がくれた釜山旅行13-計123歳の夫婦が豚と牛を計600g平らげる-(河童亜細亜紀行653)

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喰えるかなこの量

 さて、1日目の夕食はテジカルビ(豚カルビのタレ漬け焼き)と決めていたので、ホテルの外に出た私達はそれを喰わせる店を探す。 

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 店はすぐ見つかった。ホテルを出てから100mも行かない場所である。

 「豚」の一文字が目立つ。
 私は韓国の看板のこの直截さが好きだ。

 「2人いいですか?」というと、にこやかな笑顔で2階に通された。

 どうもこの旅行からよく使い始めた表現なのだが、文末に「デヨ?(いいですか?)」と付けると、ただ「2人。」と云うよりも通りが良いような気がする。

 とりあえずビールを頼むと、「『キャス(仮名)』ですか?『地球(仮名)』ですか?」と聞かれる。どちらも今や日本でも普通に手に入るようになったビールだから、どっちでもいいのだが、どうも最近は「地球」の方が流行っているような気がするのでそちらを頼む。我ながらミーハーになったものだ。昔だったら意地でも旗色が悪い方を選んでいたのだが。

 ビールが来て、肉の注文である。

 「1人前からいいですか?」と、また「デヨ?」を使って聞いてみる。
 「いいですよ。ただし、ゴニョゴニョ…」と最後まで聞き取れない。
 まず、絶対食べたいのはテジカルビだが、これが何種類かある。
 テジカルビを2種類1人前ずつ頼もうとすると、「アンデヨ(駄目です)」と返ってきた。
 「2人前ゴニョゴニョミョン(…ならば)1人前デヨ。」
 なるほど。どれか特定のメニューを2人前頼むと後は1人前注文OKというシステムらしい。

 テジカルビの2000ウォン位高い奴を2人前と、ソカルビ(牛カルビのタレ漬け焼き)が思いの外安かったので1人前頼む。

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 すぐにパンチャンが届く。
 チョレギ(焼肉レタスのサラダ)とサンチュ(焼肉レタス)とプルンゴチュ(青唐辛子)、ヤンベチュ(キャベツ)のサラダ、ヤンパジャンアチ(玉葱の酢漬け)、ムルギムチ(水キムチ)である。

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 更にミョンイナムル(行者大蒜の醤油漬け)とサムチョジョリン(蕪の酢漬け)。

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 本命登場である。
 テジカルビ(豚のカルビ)とソカルビ(牛のカルビ)。
 ただし、いやしい私は第一弾を食べてしまってから写真を撮るのに気付いたので、勿論来たのはこの量ではない。これは食べ残しレベルである。
 メニューに肉の量が書いてあったのだが、テジカルビが1人前200g、ソカルビが1人前200gであった。
 したがって肉類の合計は600gである。
 
 何せ私たちは合計123歳である。
 普段食べている食事量からして、こんな大量の肉を食べてしまえるのだろうか。

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 と考えているうちに、肉はジュウジュウ焼けていく。(写真は妻が撮ったもの)

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 馬鹿になった私の嗅球にも届くくらいの香ばしい匂いである。店の人が肉を切り分けて「かぶりつきOK」を出してくれるのが待ち遠しい。

 遂に解禁。
 2人の箸が一斉に肉に延び、左手(私は左利きだから右手)にはチマサンチュ(焼肉レタス)を握る。
 まずサンチュに肉を乗せ、その上からパンチャンを乗せ、サンチュで巻き、口に頬張る。
 この時、サンチュの葉の表側ではなく、裏側に乗せるのがコツである。そうすると表側が表になり(何のこっちゃ)、口にツルンと入っていくのである。

 鉄板の上にあれほどあった肉が、次々と無くなっていく。

 店員さんがまた皿から壺漬けされた肉の塊を鉄板に乗せ、折って畳んで裏返し、鋏で切り、OKのサインを出す。

 また肉がなくなる。

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 1時間もかからないうちに計600gの牛肉と豚肉は計123歳の夫婦の腹の中に消えてしまったのである。

 正直、牛は一寸量が足りない感じがした。

 妻も同じ感想で、「あーたが牛ばっかり喰うからちっとも喰えんかった」などと失礼なことを云う。

 勿論言いがかりである。
 私は牛に関しては切られた肉の個数を数えていて、平等に同じ数食べたのだ(嗚呼、いじましいなあ。貧乏って嫌だ。)

 それにしても韓国で食べる焼肉はなんであんなに美味しいのだろう。
 「あれ、不味かったよな」という記憶は全くない。
 決して日本の焼肉屋に比べて割高な訳でない。むしろトータルの勘定を見たら安いくらいである。

 日本の焼肉屋はたまに「何やこれ?!」というのがある。固かったり臭かったりする。
 ちょっと安めに設定されている店に多い。

 しかしそれよりも一番腹立たしいのは、サンチュが法外に高いことだ。どうかするとたった10枚くらいで500円などというのはザラである。

 韓国でサンチュが有料、などという店があったら、1週間で潰れるだろう。
 サンチュが食べ放題、というのは焼肉店の外してはならない基本になっているようだ。

 ただし、最近はサニーレタスを出す店が増えた(などと云えるほど沢山の店に行っている訳ではないが)。だから私達が「チマサンチュ」と聞いたときに思い浮かべる「あの」虫(バッタ以外)も喰わない一寸癖のあるサンチュではない場合が多い。
 これは原価の問題かもしれない。スーパーに売っている物を見てもチマサンチュの方が高い。

 専門家に言わせるとサニーレタスは葉チシャ、チマサンチュは茎チシャで別品種らしいし、できれば折角韓国で焼肉を食べるのだから後者が望ましいところだが、まあタダだからそこまで求めるのは望蜀と云うものかも知れない。

 ちなみにチマサンチュは韓国原産の野菜ではない。日本にも掻き萵苣(カキチシャ)と云う名前で古来からある野菜である。
 原産地については諸説あるが、古代エジプト人も食べていたグローバルな野菜であるから、嫌韓の人も安心して食べて欲しい。

 閑話休題(かぎりなくはなしがそれていくな)。

 これだけ肉を食べたら後で胃凭れしそうだな、と危惧していたのだが、その晩から翌日にかけて全くスッキリした胃腸の調子であった。妻もご同様だったらしい。
 肉にどんなマジックスパイスが掛けられていたのか知らないが、不思議である。

 もしかするとこのスパイスは釜山港から釜山駅まで歩いた運動だったのかも知れない。

過去の自分がくれた釜山旅行12-蛾を10匹叩き潰してから夜の街へ-(河童亜細亜紀行652)

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蛾を退治する

 地下街の店のアジュンマ(おばちゃん)のくれた傘のお陰で濡れることもなくホテルに着いた私たち夫婦である。

 さっそくフロントに向かう。

5年も経つとこんなに変わる

 前回の旅行では絵のような光景が繰り広げられたので、宿賃が安いこともあり私はまた似たようなことになるのではないかと覚悟していた。

 しかし、職員が極端に少ないことは前回と同様だったが、フロントのヒョン(兄ちゃん)はとても愛想がよく親切そうな人物だった。実際にそうだったことはその後に私達を襲った苦難で明らかになるだろう。
 ただし、この項を書くときになって随分危ない橋を渡っていたことにも気づいたが、これはこのヒョンの責任ではないような気がする。 

 フロントのヒョンはロビーに入ってきた私達にすぐ気づき、にっこりと笑った。
 「予約していたSですが…」と韓国語で言うと、すぐに分かってくれて、「S.S」と私のフルネームを口ずさみながら30秒ほどで手続きをしてくれた。

 その後、ある「鍵」をもらったのだが、これが今考えてみれば、前にこの「鍵」でこのホテルに泊まった人が不埒な考えを持ったら何時でも私達の部屋に侵入して来られる「鍵」だったのだ。

 この文章は多くても日に200人くらいしか読まないし、それも殆どが日本で暮らしている人たちだから、実際にそんなことを考える人間がいるとは思えないのだが、万が一ロクデナシがこの文章を読んでそんな不埒な考えを持ってはエラいことなので、具体的な話は差し控えさせてもらう。

 兎に角そのことの意味に気付いた私の脇の下をツーッと脂っこい汗が流れ落ちるような「鍵」であった。

 勿論その時は私は宿に辿り着いた嬉しさでそんなことは欠片も思わず、「鍵」を貰って自分たちの泊る部屋へと急いだ。

  どうもこのホテルは構造上、ただのマンションの1フロアをフロントにしただけらしい。

 部屋を開けるや、妻が「何これ! 臭ーい!」と言ったが、私のアルツハイマーだかアレルギー性鼻炎だか上顎洞炎だかによって馬鹿になった鼻はなんともないのだった。

 さっそくスーツケースを置き、2つ並んだベッドに近づく。
 ダブルベッドだと私が妻の領域をどんどん侵略して下に追い落としそうになるので、妻の希望で私達の宿舎はどうしてもそれが無い時以外はツインが基本なのだ。

 その時、プーンと飛び立った小さな影があった。
 「蚊だ!」
 とっさに両手で「パーン!」と叩き潰す。
 だが、両の掌を広げて見ると、昔の漫画で車に轢かれた主人公のように平らになって潰れているのは、蚊ではなく蛾だった。

3分間待つのだぞ

 それは私が40数年前に暮らしていた京都の安下宿で、幼虫の間は私の貴重なカップラーメンを貪り、


 成虫になってカップの外に出たはいいもののプラスチックフィルムとの間に挟まれて死んでいたあの蛾であった。
 迷作リメイクシリーズ16-蛾の館-(京都安下宿事情2)

 まさかあの蛾にこんなところで再会しようとは。

 パチン、パチン、と10匹叩き潰すと、蛾はいなくなった。
 手が鱗粉だらけになったのでは、と思う人もいるかも知れないが、この蛾はごく小さいので鱗粉も10匹分といってもごく少ないのである。手は洗えばすぐキレイになった。

 こいつらは拉麺が大好きだから、どこかに放置された拉麺か何かがあるに違いない。
 部屋の中をあちこち探したが、拉麺は勿論、小麦製品は、というか、食物は何処にもない(当たり前だ)。
 その代り、と云っては何だが、クローゼットの引き出しの中に誰かが放置したトレーナーを発見。着たきりで洗濯していないとおぼしき代物である。

   前に泊まった人の遺物が見つかったのは10年くらい前にやはり釜山の格安ツアーで場末のホテルに泊まって以来である。
 このホテルは冷蔵庫に前の人が使ったタオルが入っていた。

一夜にして廃墟

   あの時は向かいのレストランが一夜にして廃墟になるという、なかなかしようと思ってもできない経験をしたが。
船で行くプサン長閑旅2-絶対作ってるだろと思われる話-(河童亜細亜紀行47)

   テレビのリモコンはあるが、エアコンのリモコンが見つからない。
   幸い本体を手動で操作できた。といってもオンオフだけだが。取り敢えずエアコン無しで暑くてたまらないということは避けられた訳だ。効きすぎて寒いということはありうるが、そのときは消せばよい。

  後は壁に謎の温度調節機がある。エアコンのものかと思ったが違う。
   結局これについてはとうとう謎のままだったが、どうもオンドルのものだったようだ。
   というのは、エアコンを消すと床からモワーッと熱気が上がってくる気がしたからだ。

   口コミの「寝るだけ」という言葉の意味がジワジワと実感されてくる。

  何はともあれ、もう夜の8時過ぎである。貴重な夜の時間をこれ以上無駄にできない。

   私たちは部屋に「鍵」を掛けると夜の町へと出かけていったのである。

過去の自分がくれた釜山旅行11-道を尋ねて傘をもらう-(河童亜細亜紀行651)

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傘を貰った

 釜山港から釜山駅までの関門を無事クリアして南浦駅に向かう地下鉄に乗った私たち夫婦である。

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 この列車は車両の内側にもラッピングがしてあったのでカメラを取り出して写真を撮ろうとすると、妻から腕を「グイッ!」と引っ張って阻止された。

 見ると私のカメラを向けた方は、確かに可愛いラッピングが施された壁があったのだが、そこには沢山の乗客が座っていたのだ。

 危ない危ない。今までの人生で通りすがりの人と何回こうやってトラブルになったかしれない。

 私は自分の関心のあることに夢中になると周囲が見えなくなるのだ。

 妻との結婚は私の人生で最大の成功の一つだろう。

 仕方がないので人のいないドアのラッピングを撮影。
 甘川文化村にある撮影スポットの光景を写したものなのだろう。

 10分もすると南浦駅に到着。
 ホテルのある〇番出口から出ようと階段を上りかけたとき、ザーザー音がしていることに気付いた。

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 出口から覗くとエライ雨である。
 日本で見た天気予報では晴れではないものの曇りだったのだが。

 傘は、というと、私のスーツケースの中に常時入っている小さな折り畳み傘しかない。
 妻は予報を見て傘は必要ないと思ったのか持ってきていない。
 割り箸の必要性は予見できてもこんな大事な予知はできないのだから、やはり私と合わせて半人前である(「人生最大の成功」などと云いながら何てことを。口利いて貰えなくなるぞ)。

 仕方がないので地下の商店街に戻って、最初の店で「傘はどこかで売っていませんか」と尋ねる。
 日本だったら雨が降り始めたらコンビニなどですかさず安価なビニール傘を売り始めるのだが。

 店のアジュンマ(おばちゃん)は、「うーん、傘ねえ…」と首を捻り、「売ってるとこはここから相当遠いし…」と独り言を言っていたが、「あっ!」と叫ぶと店の奥に引っ込んだ。

 商店街の地図でも持ってくるのかと思ったたら、その手には傘が握られている。

 「これを持って行きなさい!」
 「えっ、いいんですか?」
 「いいよ。どうせ忘れものだから。」

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 ちょっと古いが結構上等そうな傘である。(写真は翌日に別の場所で撮ったもの)

 「でも…」と躊躇していると、
 韓国で最も頻繁に人々の口から出ているだろう「ケンチャナヨ(大丈夫)!」という言葉と共に傘を握らされた。

 私としては「借りたんだよな、これ…」という認識だったが、翌日これを返しに行ったら結構迷惑そうに「いいからいいから」と言って突き返されたから、本当にくれたのだ。

 道を訊いて傘をもらったのは人生で初めてだったから吃驚した体験だった。

 やはり釜山っ子は親切である。

 それにしても、この傘は、韓国独特の、折り畳みだがあまり小さくならない、折り畳む必要があるのか、という不思議な傘である。かつ、この傘は翌日には壊れて開かなくなったから、本当に捨てるつもりでくれたのかも知れない。(傘をもらっておきながら何てことを…!)

 いずれにしても日本国内の旅行では経験できない親切に違いない。

 私は自分の傘を、妻はアジュンマのくれた傘をさして、ホテルに急ぐ私たちである。

 あった!

 地下鉄の出口から200mも行かないうちに私達の泊るホテルが見つかった。

 傘が役に立ったのはそのほんのわずかな距離であったが、私の小さな折り畳み傘で相合傘をしていたら2人ともびしょ濡れになっていたに違いない。

 雨空にも関わらず何だかホンワカした気分に包まれた私達夫婦であった。

 私達は今から泊るホテルでもこんな気持ちのいい体験ができるといいな、と思いながらカウンターへのエレベーターのボタンを押した。


 何も知らずに。

過去の自分がくれた釜山旅行10-タクシーがいないっ!-(河童亜細亜紀行651)

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タクシーがいない

 昼飯を食べ、あれこれ船内を探索し、デッキに出て大海原を眺め、眠くなって惰眠を貪っているうちに、船は次第に釜山に近づいてきた。

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 生憎の曇り空で霞んでいるが、海雲台の超高層ビルが見えてきた。

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 もう暫くするとはっきり見えてくる。
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 釜山は超高層ビルの立ち並ぶ大都会なのだ。

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 そして港湾都市でもある。
 何となく北九州の夜景を思い出す。

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 廣安大橋の下を潜って、

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 釜山港に到着である。

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 長い長い通路を通って、入国手続きと税関を通り抜けたらもう釜山の街中である。

 私はここからタクシーに乗るつもりだった。

 私達の泊るホテルには地下鉄でも行けるが、韓国はタクシー料金が日本に比べると格段に安いのである。ホテルまではおそらく6000ウォン(600円)くらいか。
 ただし、この安い運賃は、運転技師たちの過酷な労働条件に支えられたものなので、たまに荒い運転をする技師さんがいるのと表裏一体を為すものなのだ。

 前回のソウル旅行でなかなかタクシーを捕まえられなかった私は、釜山でも同様のことが起こったときに備えて地下鉄でのルートも調べていたのだが。

 前回タクシーを拾った場所に通じるゲートを抜けるとタクシーが待って、って、待っていない。待っていないこともないが、ジャンボタクシーしかいない。

 私達が並んだ入国審査のゲートはどういうものか係官が異常に熱心で、特に私の前で手続きをした欧米人の旅行者はえらく長い時間押し問答をした挙句別の係官に連れられて行ってしまい、私達は下船した乗客の中ではほとんど最後尾で手続きを終えたのである。

 その場に屯していた運転技師たちと交渉してみたのだが、南浦洞の駅まで2000円だという。これはジャンボタクシーの値段としては妥当だし、日本で同じ距離でタクシーに乗ったらおそらくそれくらいの料金だろう。
 よほど「乗ろうかな」と思った。

 しかし、私はさっきから引っかかるものがあった。
 というのは、私が最初に交渉した技師さんが、後ろの同僚を振り向いて、「イルボン…ゴニョゴニョ…」とひそひそ話をしたのである。勿論韓国語はその音韻論的特性によりこうした類の話に向いていないから、私にはその内容が聞こえてしまったのだが。
 要は彼らは「日本人だったらこれくらいでも乗るだろう」という相場について話をしていたのだ。
 確かに韓国語を聞き取れない日本人は「まあそれくらいだろうな」と思って乗ってしまうだろう。

 だが、これで乗ってしまうと悪い前例を作ってしまうような気がした。(もうできてしまっているのかもしれないが。)
 「日本人は2000円ならばジャンボタクシーに2人で乗る」という前例である。

 誤解を避けるためにもう一度云うが、これはジャンボタクシーの値段としては妥当である。したがってタクシー技師たちがボッタクリをしようとしている訳ではない。
 だが、むしろ乗客としては非常識ではないだろうか。

 私は「やめときます」というと、一旦ターミナルの中に入った。

 仕方がない。地下鉄で行こう。
 
 私は旅行前に調べてスマホにコピーした経路を改めて見てみた。
 それは、釜山港から地下鉄草梁駅まで北に直線で真っすぐ行くルートだった。
 しかし、釜山港のゲートから出たところには、どう考えてもそんな真っすぐ北に向かう道は存在しなかった。

 仕方がないので釜山港の職員らしき人を捕まえて「地下鉄の駅にはどうやって行くのですか?」と聞くと、「4番ゲートから出て橋を渡って下さい」と言う。
 「だからさっき4番ゲートから出たんだって」と思いながら半信半疑で周りを伺う。さっきの運転技師たちが私達を見ている。
 よく見ると、さっきは気付かなかったのだが、とても大きな陸橋が一旦西に向かった後北に向かって建設されている。

 陸橋を歩き始める。
 妻は何も言わないが、不安であることはヒシヒシと伝わってくる。

視線が痛い

 前回のソウル旅行ではストッ、ストッと背中に刺さってきた不信の矢が、ときどきドスッ、ドスッ、と延髄に突き刺さってくるのが分かる。

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 殆ど無限に感じる時間の後、前方の視界に「釜山駅」と書いたネオンが現れた。
 「この道しかない。」

 つい先ほど「さっきは気付かなかった」と書いたが、過去の釜山旅行でも私はこの陸橋に気付かなかった。
 必要がないものには注意が向かないからそこにあっても気付かないのだという話だと思ったら、帰国後に調べてみたらこの陸橋は2023年の3月にできたのだそうだ。
 「気づかない」はずである。存在していなかったのだから。

 それにしても、この駅は韓国の国鉄の駅である。

 確か地下鉄の釜山駅はこの駅の反対側にあったような。まだ安心はできない。

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 以前釜山に来た時、この駅から南浦洞に行くつもりが地下街から出たときに間違えて草梁駅方向に行ってしまったのだ。
 草梁には日本大使館がある。

 私達夫婦は徴用工問題のデモに出くわしてしまったのだった。
 その時のことについては既に書いた。
 「最悪の日韓関係」の中「反日感情の強い」釜山で年末年始を過ごしてみた13-釜山人の反日について-(河童亜細亜紀行213)

 私は釜山駅に着くとすぐに案内係の女性に「地下鉄の駅はどこですか」と尋ねた。
 すると何時ものように「地下鉄」まで行ったところで女性がすぐに「7番出口」と答えた。
 私のように非流暢な韓国語を話す男はなかなか韓国人に最後まで喋らせて貰えないのだ。

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 7番出口を出るとかつてオムク(練り物)を買ったオムク屋やらオデン屋やら、見慣れた風景が現れ、私達は無事に地下鉄釜山駅に辿り着いたのだった。

 それでもなお妻は不安だったらしく、「本当にここ?」と尋ねてくる。
 私自身も不安になったので、地下鉄の行先を示す電光掲示板の前に行き、それを見る。

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 間違いない。
 釜山駅→中央駅。次が南浦駅である。南浦駅の〇番出口を出たらホテルはすぐ近くである。

 ほっと一息の私たち夫婦であった。

 釜山港から釜山駅までは約10分、地下鉄の駅までもせいぜい5分くらいだろう。
 無限に感じる15分であった。

過去の自分がくれた釜山旅行9-カメリア船内の様子-(河童亜細亜紀行650)

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船の旅は楽し

 さて、「私も船に乗って韓国に行ってみようかな」という人のために「笑ってトンヘ号(仮名)」の船内の様子である。

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 まず船室である。
 私達が予約したのは過去の自分のお陰で1等船室(洋室)である。 
 丸テーブルを挟んで椅子が2つ。ただしこの椅子は固定されていて動かせない。安全面の配慮だろうが、動かせない椅子と云うのは長時間座っていると酷く疲れるということを今回の旅行で改めて知った。

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 ベッドは2段ベッドで、一人分のスペースは十分にある。
 ただし、上のベッドへの昇降は私達60歳超の人間にはかなりキツかった。身体の柔軟性に自信がなくなってきている人は同じ1等でも和室の方を薦める。

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 室内には更に洗面台がある。
 この水道は飲用できないから、身支度を人に見られるのが嫌だという人のためのものだろう。つまり大和撫子である妻のためのものであって、大陸的な私には不要なものである。

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 二等船室の方はこんな感じである。(写真は2015年のもの)
 隣との仕切りは一応あり、雑魚寝ではないが、両側に人がいるというのは結構圧迫感がある。
 笑ってトンヘ号の往路は博多12:00釜山18:00だからこちらはこれでもいいと思うが、神経質な人は復路の釜山18:30博多7:30の方は眠れないかも知れない。

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 相部屋にはできるだけ居たくないという人は殆どの時間をロビーで過ごすようだ。ロビーは結構席数があるが、帰りの船ではここで宴会をする人々で満杯であった。まあ私たちは一等船室だから(しつこい)自分の部屋に籠っている方が落ち着くのだが。

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 各部屋を結ぶ廊下はこんな感じ。広くはないが人が離合する(「互いに通り過ぎる」の熊本方言)には十分である。

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 貴重品を入れるロッカーも存在するが、あまり使われている気配はない。

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 如何にも船らしく、「〇階」ではなく「〇甲板」と呼ばれている。2階に当たるのが中甲板であり、ここに食堂や自動販売機、売店などが集中している。

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 自動販売機は特に充実していて、酒類や食事類が売られている。
 食事はキンパ、チキン、トッポッキなどである。

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 反対側にはカップ麺、アイスクリーム類、ジュースなど。
 ただし、軽食を除けばほとんどのものは日本のもので、どちらかといえば韓国人が日本情緒を楽しむためのもののようだ。

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 以前は食堂でバイキング(韓国式ではビュッフェ)形式の料理が朝・昼・晩提供されていたが、最近は韓国料理の朝食と昼食のみになっているようだ。(写真は2015年のもの)

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 中甲板にはいつも季節に合わせた飾り付けがしてあって楽しい。

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 年末年始の便ではこんな感じの飾り付けがしてあって正月気分を盛り上げてくれた。返す返すも今年の年末年始の運休が残念である(これまたしつこい)。

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 受付スタッフは殆どが韓国人のようで、とても親切で日本語にも堪能であるのは「弁韓観光ホテル(仮名)と同様である。したがって韓国語力に自信のない日本人にはこの交通手段と宿泊施設の組合せをお勧めする。

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 デッキに出ると海が見えるが、出航のときの1時間と到着の時の1時間以外は島も何も見えないので、よほど貨物船や鷗類が好きな人でない限り退屈してしまうだろう。

 船の旅をするときは何時も「対馬を見てやろう」と思ってしばらくは海を眺めているのだが、飽きて船内に入っているうちに通り過ぎてしまう。今回もご同様だった。

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 退屈な人はブログの更新をするとよいかもしれない。
 「MyPad(仮名)」などのタブレットや「エイリアンZ(仮名)」などにWi-Fiの小型キーボードを組み合わせれば船室やロビーがたちまちオフィスに早変わりである。ただし、本当に陸が遠い場所ではオフライン作業しかできないが。

 一つだけ気を付けてほしいこと。

 私は腸が弱いので突然風雲急を告げることがある。
 今回船のトイレに入ろうとしてドアを開けようとしたのだが、どこも開かない。全室満員である。これは焦った。ノックしても返事もない。

 何のことはない。この船のトイレの扉は日本の通常の洋式便所の扉と違い、押すのである。
 危なく粗相をするところだった。
 私は東亜に向けて高らかに宣言する。
 「笑ってトンヘ号のトイレのドアは押すべし!」と。(アホか)

 「船の旅は楽し」である。

過去の自分がくれた釜山旅行8-韓服の老人に出逢う-(河童亜細亜紀行649)

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これぞ両班

 日本人が何かあったら和服を着るように、韓国人も何かあったら韓服を着る。

 その何かとは何かといえば、例えば結婚式、例えば成人式、例えば観光地での記念写真。

 日本ではまず間違いなく和服(この場合は振袖に袴という戦前の学生の風俗)を着るだろう上級学校の卒業式では韓服を着ている学生はまずいない。これは米国のように学士の資格を示す角帽を被る習慣があるからのようだ。この場合は日本では裁判官以外に着る者のいない西洋風のガウンを着ている。

 日本人も韓国人もかつては何かなくても民族衣装を着ていた。

 日本の場合は男性の和装が比較的早く儀式的な場以外では着られなくなったのに対し、女性は現在61歳の私の子供の頃くらいまでは日常的に和服を着ていたような気がする。

割烹着の母と
 こんな感じである。

 韓国では、といえば、私が初めて渡韓した1980年代にはまだ男性も女性も中高年では韓服を着ている人が結構いたような記憶がある。

 特に家庭内では男性も普通に韓服を着ていた。むしろ女性は洋風のワンピースを着て、男性が韓服、という組み合わせの方が多かったような気がする。

親切にもほどがある

 上の絵は、初渡韓した私が友人のA君の知人の家で食事を御馳走になったのだが、渋り腹になってしまい、トイレに籠っているのを心配したB氏が、トイレを覗きに来た場面であるが、私の記憶の中に残っているB氏の服装は韓服である。

 しかし、時代が90年代、00年代、2010年代、2020年代と下るにつれて、韓服を着る韓国人、特に男性はどんどん減少していった。

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 今年の6月に行ったソウルへの旅行で久し振りに韓服を着ている人を見て吃驚したくらいである。

 2000年代くらいまでは、韓服は着ていなくても、韓服を思わせる麻の背広にカッ(馬の毛で編んだ鍔付きの帽子)の代りの鍔広の帽子を被った男性が沢山いた。

両班みたいな老人

 こんな感じである。

 しかし、英語で云うとhatである帽子を被る韓国人男性はどんどん減っていき、英語で云うとcapを被る人が増えた。特に多いのは「ニューヨークニーチャンズ(仮名)」の球団名のロゴの入ったものである。

 正直これでは「大阪のおっちゃん」とファッション的には見分けがつかない。
 大阪の中高年男性もまたcapを被っている人が多いのだ。

 ところが今回、「笑ってトンヘ号」の船上で、韓服姿をした男性を目撃した。

 それも、韓国ドラマの時代劇でしか見たことのないタイプの韓服である。

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 観光地では写真中央の男性のような韓装はよく目撃する。
 要は両班の外出着である。
 これは地位に相応しい色で染められた韓服とカッの組合せなのだ。

 ところが、私が目撃した男性の格好は、自宅でくつろいでいるときの両班の格好なのである。

 つまり、かつて柳宗悦が「白衣民族」と呼んだような白い韓服に、剣先烏賊の胴体のような形の、やはり馬の毛で編んだ帽子なのだ。

 私はこの帽子が何という名前なのかを知らない。

 ただ、確実に云えるのは、このような格好をしている韓国人は伝統と格式を重んじる人なのだろうということだ。

 私はこの人に逢った瞬間に強い好奇心に襲われたので、何の面識もないにも関わらず話しかけたくて仕方がなかった。

 その服装はどういうときのものなのか。
 あなたは何故その服装をして海峡を越えたのか。
 あなたは韓国のどんな地方のどんな地位の人なのか。
 そして、あなたは日本についてどう思っているのか。

 私の推測では、この方には海峡の両側に一族がいて、今回は何か重要な集まりがあり、海を渡って一族の長老のような役割を果たす必要があったのではないか。

 この方とちゃんと話ができたら凄く壮大な、あるいは興味深い話なのかもしれない。

 私はこの人が私たち夫婦の近くにいる間ずっと話しかけようかどうしようか迷っていたが、遂に話しかける勇気がなかった。

 これは別に両国間に横たわる歴史的な問題の故ではない。

 この人が少なくとも私より10以上年上だったからだ。

 私は目上の人に対して私の知りたいことを完全に引き出せるほど韓国語が上手ではない。特に敬語に関して失礼をしてしまいそうである。

 「単なる扮装ではない」ということが分かるだけに尚更だった。

 私は日本語を喋るときでさえ、「あー、敬語ってかったりー!」と内心思っている男だが、この時は自分の知りたいことの鍵をこの高齢者が握っているだけに自分が韓国語の敬語をちゃんと勉強して来なかったことを強く後悔した。

 皆の衆(村の長老風で)。
 その時は自分に役に立たないと思えることでも、役に立つ日が必ずやってくるものじゃ。好きなこと、嫌いなこと、分け隔てなく勉強するのだぞ。

過去の自分がくれた釜山旅行7-日韓航路乗客様変わり-(河童亜細亜紀行648)

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年末年始は運休


 私は日本-釜山間の航路をもうかれこれ35年くらい使用している。
 現在よく利用する「笑ってトンヘ号(仮名)」の就航は2004年だが、それ以前から、下関-釜山航路は何と1905年から続いている。

 私が初めて渡韓したのは1987年、往路は飛行機だったから、復路に関釜フェリーを利用して以来ということになる。

 この時は船に備え付けの風呂のお湯が踊っているのに驚いた。若かったから少しも応えなかったが、相当波が荒かったのだろう。

関釜フェリーの踊る銭湯
 船の旅は空路に比べて相対的に運賃が安い。
 COVID-19感染拡大のために運休を余儀なくされてからはその影響で随分運賃が高くなったが、長らく庶民の足として日韓間を往復してきた。

 1980年代には行商の人たちの商品と本人を運搬する手段になっていた。

バナナは貴重品

 当時韓国にバナナを持って行くと1房3000円で売れるという噂があったことは既に書いた。

 まだ民主化前の軍人政権だったこともあって、韓国に対する日本人の眼におかしな色の強いフィルターがかかっていた時代でもある。

 私は友人のA君と共に彼の地に留学する志を持っていたが、それを父に明らかにしたときには吃驚するほど怒られた。
 軍人政権から北のスパイにでっち上げられて捕まる、というのがその言い分であった。
 実際に在日韓国人でそんな事件に巻き込まれて酷い目に会った人がリアルでいたから、父の言い分も全く荒唐無稽な話ではなかったのだが。

 東亜の人々に対する見方が周囲の人々から見れば随分肯定的だった父にしてこれだから、世間一般の認識は推して知るべしである。

 小学校の頃通学路に昼間から酒を飲んで座っていたおっちゃんは、子供たちを呼び止めては自分が大陸でやった残虐行為を自慢気に吹聴していた。まだそうした行為が「なかったこと」にすべきことだとすら認識されていなかったのだろう。
 尤も今から思えばこれは心的外傷後ストレス障害(PTSD)で現れる「フラッシュバック」という症状だったのかも知れないが。

 熊本が帝国日本の大陸経営の拠点たる軍都であったという偶然が、平和に畑を耕し、旋盤を回していた人々を鬼に変えてしまった。
 そしてそこで生まれた憎悪や偏見は、公に出来なくなってからも、父から子、子から孫へと地下の水脈のように流れてゆき、ネットという空間に場所を得て噴き出し、今やリアルを脅かしている。

 閑話休題(はなしがばななからそれすぎだろ)。

 当時の船客は、といえば、私のような物好きの少数の日本人と、大多数の韓国人で占められていた。それ以外の国籍の人もいたかも知れないが、外観からは東亜以外の地域の人であるとは分からなかった。

 日韓航路の乗客は永らくそんな感じの人々であって、サッカーのワールドカップが日韓共催で行われて「関係が良い」とマスコミが云っていた頃も、「戦後最悪の日韓関係」とマスコミが云っていた頃も、旅客は大体日本人か韓国人で、その時の世情や季節などによってその割合が変わるだけだった。

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 ところが、今回船に乗ってみて驚いたのは、東亜以外から来たであろう人々の多さである。
 喋っている言語で確認できたのは英語、独語、タガログ語だが、おそらくもっとあちこちから乗客が来ていたに違いない。特に欧米人らしき外観をしている人の多さが目立った。

 しかも彼らの相当数が自転車を持ち込んでいた。

 これは彼らが自転車で日本各地を旅し、韓国に行ってからもまた自転車で韓国各地を旅するだろうということだ。

 自転車持参で日本にどうやって来たのかはよく分からない。おそらくバラして梱包して預け入れの荷物にして航空機で来たか、もしくは日本までも船で来たかであろう。

 こんなことは1日2日の旅行ではできない。
 おそらくかなり長い(最低1週間の)休暇を取って、日本と韓国を股にかけて旅する途中なのに違いない。

 羨ましい限りである。
 こちとら60歳を過ぎても齷齪働かなければ生活ができず、タダ券があるからやっと実質1泊2日の隣国への旅行ができるのである。

 九州人以外で「外国に旅行できるんだからお前も十分贅沢者だろ」という人は亜細亜の地図を見てみてほしい。福岡と釜山の距離は約200km。これは福岡から東京(約1200km)は勿論、大阪まで(約600km)よりずっと近いのだ。(福岡-釜山間は高速船ビートルの港間航行距離、福岡-東京、大阪間は新幹線の駅間距離。)

 それを考えれば最近の日韓間の運賃は異常である。
 熊本-鹿児島間くらいの距離の運賃が片道20000円を超える航空便も普通なのだから。
 尤も陸路がないから仕方ないとも云えるが。

 閑話休題(ふねのじょうきゃくのはなしだろ)。

 COVID-19によって休航するまでは日本人と韓国人が殆ど全ての乗客だったから、西洋人の富裕層が増えてきたというのは大きな変化である。

 その変化の影響なのかどうか、この航路の永年のファンからするとショッキングな情報が飛び込んできた。
 年末年始が運休だというのである。

 私はLINEでこの通知が来た時、あまりのショックにしばらく仕事が手に付かなかった(嘘)。

 感染拡大以前にはこの時期は特別便が出、年末年始ツアーが行われていて、なかなか連休が取りにくい私達はこの時期の船の旅を楽しみにしていたのだ。

 確かに今まで五月の連休が運休と云うのは私達船旅ファンにとっての常識であった。従って、五月の連休に韓国に行きたい人は笑ってトンヘ号以外の手段を使うべし、というのが共通認識であった。

 私はこれにも納得していたわけではなかったが。船中泊を考えると4連休が取れる時でなければ笑ってトンヘ号での旅は「あっ!」という間に終わってしまう欲求不満旅なのだ。

 ところが、これに加えて年末年始が運休となれば、私達のような普通の勤め人がまとまった休みを採れる期間は笑ってトンヘ号は常に運休ということになる。

 どうも笑ってトンヘ号は庶民層から富裕層向けに舵を切りつつあるような気がする。

 その証拠はもう一つあって、私はカスタマー会員だから「ドナウ(仮名)」に同社からのツアーの提案が入ってくるのだが、最近提案の2つのツアーはペット同伴可のツアーと自転車の旅のそれであった。
 この2つはどちらもとても楽しそうなのだが、ツアーの料金が、私達が過去に行った年末年始ツアーの5倍くらいの値段なのである。

 こうなると庶民の足は関釜フェリーということになるが、こちらは熊本からだと博多港よりさらに遠い下関港まで行かなければならない。これでは高速料金・ガソリン代とも3000円ほどアップである。しかも長距離の運転になるから時間と疲労も半端ではない。

 博多港からは高速船「ビートルズ(仮名)」も出航しているが、こちらは往復26000円だから笑ってトンヘ号の雑魚寝部屋の運賃より10000円近く高い。これは定年再雇用で給料激減の私にとってはあまりに痛い金である。この間教え子と話していたらビートルズの運賃を知って、「わー! 安ーい!」と云っていた。良いなあ、現役は。

 航路再開も乗客増加も心から祝福したいが、個人的にはなかなか複雑な思いなのであった。
   

過去の自分がくれた釜山旅行6-妻の予知能力により弁当を美味しくいただく-(河童亜細亜紀行647)

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妻は超能力者

 無事船上の客となった私たち夫婦である。

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 時刻は12:30。
 昼食を摂るに相応しい時刻である。

 ただ、この文章の時刻はここから14時間ほど過去に遡る。

 私たち夫婦は妻の実家の寄生先の2階の狭いスペースに二人のスーツケースを広げて、あれやこれや云いながら荷造りをしていた。

 その時、何の偶然からか、私達がちょっとした飲み食いをするための丸テーブルの上にプラスチックの袋に入った割り箸があった。

 私達夫婦はちゃんとした飲み食いをする際には1階のダイニングキッチンを使用するから、このテーブルは本当に仮初の食卓である。
 したがって、何故そんなところに割り箸があったのか、夫婦とも覚えてはいなかった。
 そんなものが必要な飲食物はこの1週間くらい2階に昇ってきたことはなかったのだ。

 ところが、妻が急に、「それ、スーツケースに入れときなっせよ。」と命令した。
 「は? こいつは、じゃなかった、この方は、何を云っているのだろう、どう考えてもそんなものが必要になるとは思えないが。」
 と私は思った。

 私達が旅行に行くところは世界の地の果てではない。世界で一番日本に似ていて日本と同じように発展している隣国である。
 スーパーで買い物をしようが、コンビニで買い物をしようが、小さな個人商店で買い物をしようが、弁当の類のものを買えば、例の袋に入った割り箸は(要りませんと拒否しない限り)必ず付いてくる。当たり前のように同封されていた爪楊枝はSDZs(あっ、違った、SDGsだった)とやらの影響でないものも増えてきたとはいえ。

 だが、何せ我が家のクイーンビートルのおっしゃることであるから、私は、「ちっ、面倒くせーな!」などと不敬なことを思いつくことなどは微塵もなく、わざわざ小物入れのジッパーを開けて旅の御一行にこの素性の知れない割り箸を付け加えたのだ。

 ここから時間は一気に14時間駆け下る。

 私たち夫婦は「笑ってトンヘ号」の個室のドアを開け、部屋の中にある丸テーブル(これがご丁寧にも私達の寄宿部屋にあるものと何処か似ているのだ)で買ってきた弁当を買い物袋から出して広げた。

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 妻の分の弁当には例の袋入りの割りばしがテープで貼りつけてある。

 ところが、私の分の弁当にはそれがないのである。

 「ああ、割り箸は弁当に張り付けるのではなく、別にくれたんだな。弁当の横っちょに貼ってあるのを取るの面倒だから丁度いいや。」
と思いつつ、袋の中を覗くのだが、これが、どう探しても無いのである。

 「あっ!、あのおばは、じゃなかった、あのお姉さん、箸を入れるのを忘れたな!」
と思ったのも後の祭り。あの時は駐車場を確保した安堵感で自分の買った弁当が適切に扱われているか(大袈裟)まで気が回らなかったのだ。

 「俺の弁当、箸が入ってないよ。どうしよう。」と妻に云うと、
 「仕方ないたい、五本箸で食べなっせ…」と云いかけた妻が、「私、あの割り箸を入れろって云ったよね。入れた?」と云う。

 「ああ、確か…」と云ってスーツケースを開けると、小物入れに割り箸が荷造りされているではないか。

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 それにしても歯ブラシやら目薬やらの中にポツンと1膳だけ袋入りの割り箸が鎮座しているのは何だか異様な光景であった。

 私がその箸を利用して弁当を食べ、加えて袋に同封してあった爪楊枝で食後の歯間のケアをしたのは云うまでもない。

 恐るべきは女性の勘、というよりここまで来ると予知能力であろう。

 もっと大切なところでこれを使ってもらっていたら現在の為体はなかったのに、と少し恨みがましい気持ちになる私であった。

過去の自分がくれた釜山旅行5-父の導きにより無事に乗船-(河童亜細亜紀行646)

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引揚碑を発見

 思った通りだった。

 私がかつて船内昼食用の寿司を買ったショッピングモールの向かい側には大きな立体駐車場があり楽々駐車できるスペースがあったのだ。といっても結構満杯に近かったが。

 しかし、寿司やらなにやら美味しそうなものが沢山売られていたスペースは空き店舗になっていた。
 日韓政府の私から見れば本当に馬鹿馬鹿しいとしかいいようのない対立とCOVID-19パンデミックに耐えられなかったのだろう。
 美味しくて安いものが沢山あってワクワクする空間だっただけに実に残念である。

 とも言っていられない。

 急いで昼食を買ってターミナルに帰らなければ。

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 じっくり選ぶ間もなく適当にアジフライだか何だかの弁当を買って、さあ、あっちだ。(写真は船内で撮ったもの)

 妻は私が建物の正面玄関でなく裏側の扉から出ようとしたので、「えっ、本当にこっち?」と云ったが、過去の私はこちらの方角を強く勧めているのだ。

 そう、間違いなくこっちだ。多分こっちだと思う。こっちなんじゃないかな。うん、違ったらゴメンね。

 もし付いていく立場の人間だったら違っていたら激怒する距離を、重いスーツケースを転がしながら歩く。

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 この道は石畳になっていてこうした歩き方をするのには不利な条件である。できるだけ平坦なタイル敷になっている部分を歩く。それにしても結構な距離である。(写真は2019年のもの)

 妻は定期的に「ねえ、本当にこっち?」「ねえ、こっち、通れるの?」と不信の声を発する。

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 いい加減自信がなくなってきた頃、以前見たことのある石碑に行き当たった。(写真は2019年のもの)

 終戦直後に大陸からこの博多港に引き揚げてきた人たちの記念碑である。

父も歩いた道

 私はかつてこの石碑についてこう書いた。
 「最悪の日韓関係」の中、「反日感情の強い」釜山で年末年始を過ごしてみた4-父も歩いた道-(河童亜細亜紀行204)


 70数年前、大陸から引き揚げてきた日本人が最初に上陸したのがこの博多港だったのだ。

 亡き父もまたその1人だった。

 父は満州に侵攻してきたソ連軍(ロシア軍)と戦って捕虜となり、シベリアに連行される途中でアメーバ赤痢(大陸で猖獗を極めていた感染症)に罹患して八路軍(現在の人民解放軍)に治療のため引き渡され、満ソ国境付近の牡丹江病院に入院、その後日本人の収容所で過ごした後、この博多港に引き揚げてきたのである。

 アメーバ赤痢はひどい下痢が症状だ。
 父は何度も何度も道端にしゃがみ込んではソ連兵からときに尻を蹴られて急かされつつ歩かされたという。父が病魔によって斃されていたら私がこうしてこの世に存在することもなかったのだ。

 栄養失調によって青黒く膨れた顔(亡き叔母の証言)の父が博多港に帰ってきたのは1年後のことだった。

 父も、当時の父のことを知る人も、もう誰もこの世にいない。

 が、私が海外で生ものを食べないのは、あるいはこの父の体験を幼いころから聞かされて育ったからかもしれない。

 戦争俘虜という最も弱い立場で東亜の人々と接し、彼らの援けで日本に帰ってこられた父は、彼らへの感謝と親愛の気持ちを生涯忘れなかった。


 この石碑が現れたのは私の選んだルートが間違えていないことと、ターミナルが近いことの証拠である。

 案の定、5分もしないうちにターミナルに到着。

 乗船手続きは実にスムーズだったが、窓無し部屋を窓有りに変えようという企図は、「満室で無理です」という寸鉄で阻止されてしまった。帰りは眠れるかな。
 諦めきれない妻は「今度は釜山で帰る時に交渉してみようよ」と言う。果たして私の韓国語でそれが出来るだろうか。
 今からもう「部屋を窓有りに変えられますか」と、頭の中で韓国語に翻訳してみる。どうにかなりそうである。
 これは1日後に。

 後は船に乗り込むだけだ。

 駐車場がないというハプニングを無事に切り抜けられたのは過去の自分のお陰なのだが、何だか父の導きのような気もした。

 さあ、いよいよ15回目の韓国旅行開始である。

過去の自分がくれた釜山旅行4-駐車場がないっ!-(河童亜細亜紀行645)

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もう満車

 さて、いよいよ過去の自分がくれた釜山旅を開始した私たち夫婦である。

 私たちが寄生している妻の実家の2階から重いスーツケースをえっちらおっちら降ろし、気のせいかも知れないのだが何となく冷たく感じる岳父たちの視線を浴びながら出発である。

 目指すは博多港。
 博多-釜山間の客船「笑ってトンヘ号(仮名)」が私達を待っている。

 福岡に住んでいれば要らない費用なのだが、熊本-博多港の移動には高速料金とガソリン代が必要である。これが往復1万円ほどかかる。
 さらに、博多港の駐車料金が1日1000円かかるから、例えば今回の私達のように2泊3日の旅行であれば、3000円かかる訳である。

 それどころか、前回の旅行で知ったことだが、福岡空港の国際線の駐車場の料金は何と1日3500円だから、2泊3日の旅行であれば駐車場料金だけで10500円かかる訳である。ということは福岡-ソウルの旅を車を使わないでする福岡県民は、福岡-ソウルの旅をする熊本県民より20000円近く安く行ける訳である。
 だから熊本-ソウルの旅の費用と福岡-ソウルの旅を比較するときには熊本県民はそのことを頭に入れなければならない。

 ただし、熊本-ソウル便は帰りの飛行機が午前中の早い便しかない。これは実際に旅を経験した人にとってはかなり憂鬱な想像を伴う条件である。要は最終日は無いに等しく、 まだ暗く人々が寝静まった時間にホテルを出発という想像である。

 閑話休題(ふねのたびだろうが)。

 私達の乗る「笑ってトンヘ号」は博多港12;30出発である。

 私たちは前日までに乗船までのプランを練った。
 昼飯は乗船前か後か。
 以前乗船前に港の近くの食堂で食べた食事に当たってエラいメに遭ったことがあるので、乗船前にしっかり吟味して買ったテイクアウトを船内で食べることにする。

 何せ過去の自分はよほどしっかりしていたらしく、一等船室を取ってくれていたのだ。
 ただし、帰りは現在の自分の為体の所為で「窓無し」の部屋である。

 最近過去の自分に助けられることが増えた。
 「あ、あれするの忘れてた!」と青くなってPCを開くと、ちゃんと仕事が終わっている。既に準備が済んでいるのを忘れているのだ。これが逆の場合はドツボであるが。

 閑話休題(またはなしがそれてるぞ)。

 昼飯は港からちょっと離れたショッピングモールで買おう。
 以前の釜山旅行では私が買いだし役になってここまで行ったが、行き帰りが徒歩だったのでえらくしんどかった。確かターミナルのすぐ近くにレンタサイクルがあったのでそれを借りて往復すれば楽である。

 乗船手続きをして、港から店まで行って、食事をゆっくり選んで、帰ってくる時間を考える。
 さらに、窓無し部屋はかなりの圧迫感が予想されるから、できれば窓有りの部屋に替えてほしい。その交渉の時間も必要である。

 とすると、2時間前には港に着いていたい。
 よし、10:30到着だ。
 ということは我が家発は9:00だな。

 ということで、私達は予定通り9:00に家を出て、博多港に10:30に到着した。

 次は駐車場に車を止めて、乗船手続きである。

 駐車場が近づく。

 ん、えらく車が多いな。まだ10:30なのに。

 嘘だろ? 「満車」の電光掲示板である。

 まあ、じきに空くだろ、と思いながら駐車場の入口で待つのだが、1台たりと車が出る気配はない。

 そうか、「ビートルズ(仮名)」が韓国から帰って来たら、それで帰国する人の車が空くに違いない、と思って、ビートルズの時刻表を検索すると、博多着は12:40である。もう私達の乗る笑ってトンヘは出航した後だ。

 私は初めて事態の深刻さを悟った。
 「駐車場がないっ!」
 
 考えてみたら博多港は笑ってトンヘ号だけでなくビートルズ、さらにその豪華版である「クイーンビートルズ(仮名)」まで停泊するのだ。
 折からの韓国旅行ブームでこれまでの旅客数を想定した駐車場がパンクしているらしい。

 乗船手続き以前に駐車場を探す必要が出てきたのだ。

 私は咄嗟に「グルグル地図」に「駐車場」と入れて検索した。すると近隣の駐車場がいくつか掲示されたが、それらの駐車場がターミナルのどこに位置するのか、ピンと来なかった。だいいち、せっかく行ってみても空車があるという保証はないのだ。

 その時、過去の自分が私に叫んだ。
 「ほれ、そのAっていう駐車場、こないだお前が釜山に行ったときターミナルまで延々と歩いた店の向かい側にあったやんか(なぜか関西弁)!」

 そうだった。

 あそこは大きな立体駐車場だった。
 行ってみて満車ということはないだろう。
 距離的にはあの時にも相当しんどく感じたが、背に腹は代えられない。タクシーがあったら乗ればいい。

 私は妻に「港の向かい側の駐車場に行くけん」と告げると、車を出発させた。

過去の自分がくれた釜山旅行3-旅のお供はDマウントレンズ-(河童亜細亜紀行644)

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Dマウントレンズは重い

 さて、交通手段と宿が決まって、次は何時ものように旅のお供のレンズ選定である。 

 持って行くのは何時ものようにDマウントレンズである。

 これも何時ものように説明するが、Dマウントレンズとはかつてシネレンズと呼ばれた動画撮影レンズである。

 これも何時ものように説明していることだが、シネレンズそのものには色々なマウントのレンズがあるのだが、1950年代から60年代に活躍したのはCマウントレンズとDマウントレンズである。

 そして何時ものように、は、しつこいので「何時ものように」は止めて、
 当時の動画撮影カメラは16mmカメラと8mmカメラがあって、Dマウントレンズは後者のカメラに嵌って主に個人用の映画を撮影したレンズである。

 そしてこのレンズはいろいろなマウントのレンズの中でも最も小さなレンズである。

 全金属製のものが多いので小さくても意外とずっしりと重いが、それでもスペースを取らないし、他のマウントのものに比べれば軽いので、旅のお供にはぴったりなのだ。

好きこそものの成就なれ

 そして私はDマウントレンズの蒐集家としては日本全国でトップ100人に入るだろう。Dマウントレンズの蒐集人口はおそらく日本全国で100人くらいだが。

 閑話休題(はやくたびのはなしをしろよ)。

 まず広角レンズ。

 私はDマウントレンズの蒐集を続ける中で、「スーパーレンズ」と云ってよいレンズを発見してしまった。
 それはマイベストDマウントレンズにも選んでいる「贅だ呑みなー7.5mmF1.4(仮名)」である。

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  このレンズは他の半インチレンズと同じく私の愛機ペンテコステオバQ10(仮名)と広角レンズになるのだが、ほんの一寸だけ焦点距離が長いためにこのタイプのレンズをデジカメに嵌めたときに特有の周辺減光(所謂ケラレ)が全くないので後でいちいちトリミングなどの加工をしなくていいのだ。

   ところが、このレンズがあまりに優れものなので最近は本来標準として使っていた1インチレンズの影がすっかり薄くなってしまった。
   これはこのタイプのレンズがやや望遠ぎみでフルサイズの標準に比べて画角が狭いことも影響している。
   「なんか画面が足りないよな」と云うことが、特に旅先の風景を撮る時によくあるのだ。

  ただ、同じレンズでばかり撮っていると同じような写真ばかりになってしまうので、今回の旅行では一寸した工夫で1インチレンズを活用しようと考えた。それは、なんちゃってライカ=ペンテコステオバQS-1にこれを嵌めてダブルカメラシステムを運用するというものだ。
   オバQ10もオバQS-1も、超小型軽量カメラだから2つ持ち歩くくらいなら全く苦にならない。
   そして、オバQS-1はフランジバックの関係で同じ1インチレンズでも焦点距離がやや広角よりになるのである。

  ではこのクラスのレンズは何にするか。ここはやはりマイベストDマウントから「頭脳得るものあり13mmF1.1」であろう。この暴れ馬は韓国でも存分に暴れてくれるにちがいない。

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  望遠は軽いのを、と思ったが、折角「日光る38mmF1.9」という銘玉を手に入れながら殆ど使っていなかったことを思い出し、これに決定。

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   「鳥撮り」用の超望遠は何時ものように小型軽量優先でロシアレンズの「木星11号」。

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   そして不意に思い出したのだが今回の撮影地は夜景の綺麗な釜山である。
   私はかつてこの地で2回「愛の夜景」撮影に成功している。今回も「三匹目のどぜう」を狙って「スーパーぐるぐる君ⅢF改」を持っていくことにした。

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  以上の布陣が私たち夫婦と共に船に乗り込むことになった。

過去の自分がくれた釜山旅行2-目当てのホテルはもう満室-(河童亜細亜紀行643)

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寝るだけの宿

 交通手段は確保できたから次は宿である。

 釜山旅行と云えば最近ここばかり泊っているのは「弁韓観光ホテル(仮名)」である。

 ここはやや設備は古いが、 観光地から近くて便利で、何よりスタッフが親切である。かつ、日本語が喋れる。一部では「日本人御用達」という声のあるくらいだ。

 COVID-19感染拡大以前はソウルにもこんなホテルが2つあった。
 ただ、前回のソウル旅行で私はこのどちらかを予約しようとしたのだが、1つは廃業してしまったらしく検索できず、もう1つに予約したのだが、以前の雰囲気とはすっかり違ったホテルになってしまったいた。


5年も経つとこんなに変わる

 こんな感じである。

 まさかあの弁韓観光ホテルがこんなことにはなっていないだろう。

 私はこのホテルのHPを検索してみた。
 これは大丈夫だろう。以前と変わらぬ雰囲気である。
 ホテルの予約サイトで検索してみても、相変わらず高評価の口コミである。

 ただ、一つだけ以前と違ったところがあった。
 それは料金である。
 4年前に私が韓国で泊ったホテルはここだったのだが、その時は年末年始だったにも関わらず1人1泊7000円位だった。
 ところが、いかな秋の連休とはいえ、これが1人1泊20000円を超えているのだ。

 私は性急な自分の特性を精一杯抑えつつ、料金が低下するのを待った。
 ホテルの料金と云うものは遠い未来のものと直近のものは意外に安いのである。これは宿泊客の確保とキャンセルが関係しているのだろう。

 ところが、料金は一向に安くならない。だいいちあまり直近まで待ってどこの宿も満室などということになると、現地で宿を探さなければならなくなる。
 私1人の旅ならば一向に気にしないのだが、何せ我が家のファーストレディーをお連れする旅である。妻はおそらく宿の決まっていない旅への同行を断固拒否するだろう。

 2週間前になっても宿代は安くならない。どころか、弁韓観光ホテルは遂に高止まりしたまま満室になってしまった。

 「どこかに安い宿はないか(茨木のり子調で)」。

 私は必死で宿を探した。

 だが、世界的な物価高のせいなのか、あるいは、最近のほとんど箍が外れたような韓国旅行ブームのせいなのか、必死で働きながら年金の支給を待っている60歳超カップルが泊まれるような値段の宿はなかなか無いのであった。

 検索サイトを「安い順」で検索すると、上位に来るのはほとんどがゲストハウスなのだ。日本でこういう検索の仕方をしたときに現れるカプセルホテルは皆目と云っていいくらいに出てこない。この辺り、お国柄なのか。

 スペースを共有することで安く済ませようとする韓国人と、どんなに狭くてもパーソナルスペースを確保しようとする日本人と、こんなところに他人との距離の違いが現れていて面白い。

 面白がってばかりもいられないのである範囲で宿を選定することにする。

 よく見ると期日が近づいてきたからか4割引きで1泊7000円くらいになっているホテルがある。
 個室でバス・トイレ付のホテルである。
 しかも立地は地下鉄の駅の近所である。
 口コミは「泊るだけ」というものが多いが、よく意味が分からない。「泊るだけ」とは何だろう。

 まあこんなに観光地に近くて安い宿はほかにない。だいいちホテルってもともと「泊るだけ」だろう。

ドヤ

 私は若い頃大阪の釜ヶ崎で本当に「寝るだけ」の宿に泊ったことがある。
 大阪ドヤ街事情(京都安下宿事情43)

 尤も、この宿はそれより20年くらい前にこの界隈にあった「木賃宿」「蚕棚」といわれた相部屋からは既に日本的進化を遂げつつあったように思う。
 この狭い場合には一畳にも満たない部屋の進化系が現在のカプセルホテルに違いない。

 そして蚕棚が相部屋のままで洗練されて行ったのがゲストハウスなのではないか。
 こちらはそこまで自信がないが。

 何はともあれ、宿はここに決定。

 予約する。

 料金は2人で15000円くらい。船代はタダ(本当は3年前に払い済)だから、ウルトラ格安旅行である。

 さあ、後は旅支度だ。

過去の自分がくれた釜山旅行1-タダ券のことを思い出す-(河童亜細亜紀行642)

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自分がくれたチケット

 事の発端は2年前、2021年に遡る。

 まだCOVID-19パンデミックは続いていたが、そろそろのこの感染症の性質が明らかにされ、有効なワクチンも開発されて接種が進みつつあった。

 しかし、我が日の本ではまだ世界に名を馳せたマスク警察が全国民に睨みを利かせていた。

   私は特定の人を想起しているわけではないから被害的な人は勘違いしないで欲しいが、「マスク警察」を一般化するとこういう人たちだろう。

 彼らは元々医療は素人だから、感染拡大当初は事態がよく把握できず、とにかく憎っくき中国や韓国から人を入れるな、と叫びつつ、自分たちは手もろくすっぽ洗わず、隠れて宴会をし、ノーマスクで咳をゲホゲホ出しながら闊歩していたが、付け焼刃の感染症の知識をやっと理論武装の鎧として自家薬籠中の物とし、自分だけで用心しておけばいいものを、もともと上から御宣託を垂れるのが大好きだから、赤の他人の防疫にまで口を出し始めた。

 特に目の敵にされたのが飲食店と観光業界で、「ノミ喰い(仮名)をしろ!」「藩の境を越えるな!(隠喩)」などという理不尽な命令が「自粛」と称してまかり通っていた。

 当然この二つの業界は苦境に陥っていた。

 私が韓国旅行に行くときに利用して楽しい時間を過ごしていた「笑ってトンヘ旅客船(仮名)」もそうだったらしい。
 なにせ日韓両国政府の命令(自粛)により客がいないのだから船が出せないのである。

 私はこの航路を最初に渡韓したかれこれ35年以上前から利用しているから(その時はまだ関釜フェリーしかなかったが)、そのことについて胸を痛めていた。今から思えばもうすぐ定年を迎える自分の身の上について憂慮した方がよかったのだろうが。

 私はこの会社のカスタマー会員だから、ときどき旅行の企画が「ドナウ(仮名)」に入ってきていた。

 ある日、一風変わった旅行企画が舞い込んできた。

 それは、この日韓航路が何時の日か再開する日より一定期間の間、有効になるチケットの販売だった。一等船室にとても割安で乗れるのである。

 しかし、再開の日はいつになるか分からない。
 少なくとも当時の日韓両政府の方針から考えれば、その日はまだまだ先、もしかすると私の人生の間ではないかも知れないと思われた。

 だが、私はこのチケットを妻の分と2枚買った。

 安いと云っても私の安月給からすれば決して安い金額ではない。
 それでも、何よりも、私はこの航路に無くなってほしくなかった。日本も韓国も資本主義国であるから、利益の得られない会社は存続できない。

 「貧者の一灯」である。
 寄付のつもりだった。

 それが、結果的に未来への投資になった。

 2022年、やっと航路が再開したが、まだまだ自粛警察は跋扈しており、よほど度胸のある人以外は船に乗れる雰囲気ではなかった。
 私は場の雰囲気が読めない男として関係者には有名だが、身の安全に関する嗅覚は他人より鋭いのである。

 だが、感染症法上5類移行はさすがに効果覿面だった。彼らは「警察」だからお上の方針には弱いのである。

  私が渡韓再開の第一歩として選んだのはソウル旅行だったが、これは人から誘われたからであって、本当は忙しないソウルより釜山の方が好きなのである。

   ところが、釜山行きを具体化しようとしても、3年前に買ったチケットはどうなったのか、会社からは何の音沙汰もないのである。そもそもまだ有効なのか。確か有効期限は運航再開から半年だったような。

  私は運行会社にメールで問い合わせをした。

   すると、私のチケットは有効で、電話で申し込みをすればいいということだった。

   どのみち前回のソウルに続いて釜山には行くつもりだったが、とにかく旅費が高騰している。3年前のチケットが有効というのは私のような貧乏人には「.安心して行きなさい」というお告げのように思われた。

   休日の関係で日程は2泊3日である。
   行きの船が昼出港、帰りが夜出港で船中泊だから実質は1泊2日だ。やはり船の場合船中泊を含むと理想は3泊だが、妻が仕事の関係でどうしても3連休以上取れないという。

  何で2人とも60歳を過ぎているのにこうも齷齪働かなければ飯が喰えないのか。本当は船会社に同情している場合ではないのだ。
   年金を65歳給付開始にした責任者出てこーい!(とかいって本当に出てきたらペコペコして愛想笑いするんだろうな。)

  何はともあれ過去の自分が贈ってくれた釜山旅行が始まったのである。

元禄・嘉永井手に驚嘆す4-国有地ということの意味-(河童日本紀行641)

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誤解は解けた

 かつて、「国鉄スワローズ」というプロ野球球団があった。実名である。現在は「ヤクルトスワローズ」と名乗っている。
 1987年(昭和53年)に物心付いていた人は少なくとも「国鉄」がどういう意味の言葉かは知っているだろう。
 「日本国有鉄道」である。それ以後の読者にはそんな鉄道会社があったことを知って欲しい。

 つまり、国鉄スワローズは、日本国有鉄道が親会社であるプロ野球球団だったわけだ。

 日本国有鉄道は日本全国の津々浦々まで路線を広げた鉄路だった。

 ということは、若い人の中には、日本全国津々浦々にファンがいた球団だったに違いない、という印象を抱く人もいるかもしれない。

 ところが、国鉄スワローズが存在していた当時、日本全国津々浦々まで老若男女人気のあったプロ野球球団は私企業である読売ジャイアンツであって、スワローズのファンはその本拠地である神宮球場のある東京、および、親会社である日本国有鉄道の職員に偏在していた。

 この今は亡き、というか、今でもチーム名は存続しているスワローズというプロ野球球団がかつて標榜していた「国有鉄道」という単語に「国有」という言葉の意味が象徴されているだろう。

 つまり「国有」という言葉は、決して「日本国民みんなが所有している」という意味ではないのだ。

 「国有」は「国による私有」である。

 閑話休題(このこうをかきはじめてからきづいたのだがこくゆうやかんゆうやはんゆうということばをていぎをふくめてはなしはじめたらいつまでもかえいいでのはなしにいきつかないことにきづいたのでいっきにはしょらせてもらう)。

蓮生溜池畔にて詠める歌

 かつて私は、それを地域住民が苦労して開削したのに官有地(明治時代は国有地をこう呼んだ)になってしまった溜池を、訴訟によって平和的に取り戻した話を書いた。
石碑はこうじゃなきゃあ5-無名の偉人たち-(河童日本紀行259)

 私は、江戸時代の農民たちが本当に血の滲むような艱難辛苦の末に手に入れた成果が、明治維新後の地租改正に伴う政策によって彼らの手を離れてしまった例をたくさん知っている。

 それは簡単にいえば国民の血と汗の結晶が「お上のもの」となり、更にそれが「払い下げ」によって特定の個人の物になるというものだ。
 
 尤も、私がそれを知っているからといって、過去も、現在も、未来も、私の棲んでいる町や、私の属している職場や、ましてや私の祖国の方針が1mmたりと変わることはないのだが。
 少なくとも明治維新以来、大日本帝国も、それが滅びた後に成立した日本国も、この方針を一度たりと変えたことはない。

 帝国日本は韓国を植民地支配したときも「土地調査事業」という名目でこれをやったから、隣国では高校の教科書にこれを載せて「絶対忘れないぞ」という構えを見せている。この場合には民族間で富の移動があったから恨みも一入である。

 だから私は、江戸時代末期の熊本県御船町の農民たちの稀有壮大な努力の成果である嘉永井手の物語の根本を為すと云ってよいだろう吉無田水源が「国有」の林によって存立を保証されているという話に思わず反応してしまったのだ。

IMGP3956

 ところがこれについても実は水源の説明文にちゃんと書いてあった。しかも、冒頭に。
 私のような穿った見方をするひねくれ者に先制するためだろうか(穿ち過ぎ)。

[碑文]
 吉無田の森林は、江戸時代は肥後細川藩の藩有林、現在の国有林である。

 つまり戦国時代以前はいざ知らず、少なくとも嘉永井手の出来た江戸時代には吉無田水源(以前は高原)は細川家の私有地であったわけで、農民共有の入会地などだった訳ではない。

 藩有地といえば許可なく立ち入っただけでも打ち首になってしまうような禁区である。

 何故このような私有地に植林ができたのだろうか。

 それは藩が奨励していたからである。

 熊本藩では貞享元年(1984年)には御山支配役という山林管理を統括する役職が設置され、この役を中心に、特に宝暦改革以降、積極的に植林・育林が行われていたのだそうだ。しかも、乱伐を防止するために他藩への竹木材の移出は禁止されていたのだとか。(徳川林政史研究所HPによる)

 水源の説明文にはちゃんとこうも書いてある。
[碑文]
 当時の山支配役が郡奉行と相談して一大植林の事業をおこし

 つまり吉無田水源の整備は熊本藩の事業として始められ、明治維新によって日本国の事業に移管され、今日まで継続されているという話だったのだ。これは説明文を最初から最後までちゃんと読んだら普通の国語力があれば理解できるはずである。

 国有林云々という私のいちゃもん付けは、「人の話をちゃんと聞けよ」という話であった。

 大矢野原の植林と元禄嘉永井手の建設はまさに「江戸時代のSDGs」だったのだ。

 説明文には最後にこう書いてある。

[碑文]
 皆で森林や水を大切にしていきましょう。

 私も同感である。
 嘉永井手について調べてみてつくづくそう思った。

元禄・嘉永井手に驚嘆す3-水争いは何故起こらなかったのか-(河童日本紀行640)

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植林があったればこそ

 九十九トンネルに始まり、元禄嘉永井手を調べ始めた私の感動の涙が急に引っ込んでしまった訳。
 それはこの井手が収まっている地図にあった。 

 前回書いたようにこの嘉永井手は元禄井手、尾多良川、亀谷川という3つの川を合流させ、それを九十九トンネルを通して更に矢形川に合流させるという水路である。
 地図をつらつらと眺めるに、この水路はもし九十九トンネルがなかったとしたら八勢川に流れ込むはずのものである。
 つまり、本来は八勢川に流れ込んで八勢地区をはじめその下流域を潤すはずだった水が、方向を変えて田代・木倉地区をはじめとした矢形川流域に流れ込むことになる訳だ。
 当然八勢川の水量はその分減じることとなる。

 福岡県は柳川と云えば市内に張り巡らされた掘割が有名だが、矢部川中流からこの掘割まで取水するための疏水を造営した時、大規模な「水争い」が起こっている。
 これは本来矢部川の恩恵を受けるはずの流域の水量が低下したからである。

 元来水争いと云うものは川の中流域で起こるものだ。上流には大規模な耕作地がないし、下流域は全ての支流からの水が合算されて流量が豊富だからである。中流域は元々水量が少なく水不足感がある上に水路の変化が流域の水量に大きな影響を与える。水路の変化によって「損をした」と感じた方は敏感に反応するわけだ。

   私は嘉永井手に関する「水争い」の痕跡を当時の資料などに探そうとしたが少なくとも私の乏しい情報量の中には見つけることができなかった。

   それどころか、どうやら嘉永井手は元禄井手を巡っての「水争い」の解決策として企画されたという説すらあるようだ。

   では、何故嘉永井手建設後に八勢・矢形両流域に水量の不足が起きなかったのか。

   それには井手の掘削と同時に行われた事業が関わっている。
   それが前述の九州植林局の説明書きに誇らしげに書かれている、上流地域での植林である。

IMGP3956

  この植林は文化12年(1815年)から明治維新直前の慶応3年(1867年)の実に52年に亘って続き、植えられた木は判明している最初の35年間だけで240万本。

   これらの木が草原だった水源を森林に変え、膨大な水量を貯蔵して、八勢川の下流に滔々と流れ下るようになったのである。この生まれ変わった八勢川の豊富な水量こそが矢形川に水を分ける嘉永井手の建設を可能としたのだ。

 全くのところ、こうした事情は九十九トンネルの石碑と吉牟田水源の説明文を読めば、そのまま分かることだ。

 しかし、鈍い私は地図と照らし合わせて初めてこの二つの文章の関連性と、この片田舎の山の中(地元の方々スミマセン)で成し遂げられた偉業に気付いたのである。

 そして何よりも驚き感動したのは、近代以前の熊本の片田舎(地元の方々度々スミマセン)に、こうした偉業を構想し、具体的に立案し、実行し、最後まで遂行した人々が存在したことなのだ。

 一旦枯れていた私の涙腺の水源は再び甦り、私は危うく嗚咽を漏らしそうになったほどだった。

 ただ、あと一つだけ私の感動をピークまで持って行くことができないキーワードが残っている。
 それは吉牟田水源の説明文にある「国有林」という単語である。

 次回はそれについて、過去に調査した石碑と絡めて語ってみたい。

元禄・嘉永井手に驚嘆す2-嘘だろうと言いたくなる偉業-(河童日本紀行639)

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元禄嘉永井手に感動

   さて、家に帰った私は、九十九トンネルの石碑の写真から碑文を書き起こし、吉無田水源の説明書きも参考にしながら地図と照合する作業を開始した。
    ところが、碑文にある地名や川の名前をゴーグル先生(仮名)の地図に入れても表示されないものが多々ある。
   また、縮尺の大きな地図で表示され、縮尺を小さくすると地名同士の位置関係が分からなくなる。

   作業は晩酌で酔っていたこともあり(実はこちらが主要な原因かも知れないが)困難を極めた。

  取り敢えずこうではないかという推測も交えて作成したのが冒頭の図である。

   大まかにいうと、元禄井手、尾多良川、亀谷川という3つの川を合流させ、それを九十九トンネルを通して更に矢形川に合流させるのである。

   これを地図上で作画をするのは容易い。

   しかし、これを現実にするのは生半可なことではなかっただろう。

   というのは、「水は低きに流れる」からである。つまり、標高の高いところから低いところに溝を掘らなけれは水は流れないのだ。どころか、逆流してしまう。
   そして、ある水源地点からある目標地点までは、そう上手いこと傾斜がついてはいないのだ。水は丘や山を登れない。

 まずはその土地の俯瞰図をその頭脳の中に設定できる人が、水路の設計図を作らなければならないのだ。 
 これが出来る人がいなければ、どれだけ住民たちのやる気があったとしても、これだけの広範囲を潤す水路など作れはしない。

 そして、彼らの分析の結果、用水がスムーズに流れるだけの傾斜がついていない部分はどうするか。現代と違ってポンプなど使う訳にはいかないのだ。

 その場合は、水が流れるように傾斜を付けてトンネルを掘るのである。

  つまるところ、九十九トンネルは3つの川の合流点と矢形川を隔てている山を1km近く掘って反対側に水を流したのである。

   時は嘉永年間。

嘉永一朱銀

   まだ日本人がこんな貨幣で物を買っていた。江戸時代である。(写真は私のコレクションで当時の嘉永一朱銀)

 トンネルの掘削手段は。勿論、人の手である。

 落盤や出水によって山の中であっという間に圧死したり溺死したりする危険を冒しながら、7年の長きに渡って掘られたのが九十九トンネルであり、その結果完成したのが嘉永井手なのだ。

 これは本当に「偉業」というに相応しい行為である。そのことに思い当たった瞬間、私の視界は急に滲み始めた。

 私がそれに気づいたのは八勢川と矢形川という2つの川を収めた地図を改めてしみじみと見ていたときだった。

 ところが、感動の涙は急に枯れ始めた。

 私の頭脳の中に2つの疑念が同時に生まれたからである。
 それは一体何だったのだろうか。


 以下、次号。

元禄・嘉永井手に驚嘆す1-九十九トンネル-(河童日本紀行638)

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九十九トンネル発見

   とある日曜日。
   私たち夫婦は「まみこうロード」から吉無田高原に抜ける山道で車を走らせていた。
   「まみこう」は益城町、御船町、甲佐町という熊本県の3つの町を通る広域農道の語頭音を取ったものであり、実名であって私の造語ではない。
   大型車だったらやっと一台が通れるくらいの道幅から一寸だけ広くなった所に石碑があるのに気づいた。
   「九十九(つづら)トンネル」とある。
   トンネルなどどこにあるのか、と不審に思って辺りを見渡すのだがあるのは道の山側に掘られた用水路だけであり、それらしきものはどこにも見当たらない。
   仕方ないのでトンネルの捜索は断念して碑文を読む。

[碑文]
 この用水路は元禄井手の水不足を補強するため開削された嘉永井手という。水源は吉無田水源より取水した清水井手(改修して元禄井手という)の下流と、矢都町境を流れる尾多良川、さらに大矢野原より流れる亀谷川の三渓流を合わせて875メートルのこのトンネルを貫流して矢形川の源流と合流させ、上田代の杉園堰より取水して、南田代の屋敷部落で元禄井手と合流させて豊かな水勢となし、南田代から西上野を経て滝尾・木倉の一部に至る。総延長28km受益面積は300haに及んだ。この難工事を直接担当した当時の上益城郡代上妻半衛門、木倉郡総庄屋光永平蔵、測量設計と工事管理者楠田順吾、以下の役職者と難工事を完遂した石工久五郎をはじめ労役に苦しんだ村人たちの功績が痛切にしのばれる。

   どうも現地の雰囲気とは違って随分壮大な話のようである。
   ただ、私は空間認知に問題のある所謂「地図の読めない男」であるから、どうもこれがどんな話なのか全体像が掴めない。不審に思いつつも長居することなく通りすぎた。

   道を抜けてしばらく行くと吉無田水源である。
   あれ?  この水源、さっきの碑文に出てこなかったか。
   水源に説明が掲げられている。素人にも分かるようにさっきの碑文より分かりやすく書いてあるようだ。

[説明文]
 吉無田の森林は、江戸時代は肥後細川藩の藩有林、現在の国有林である。
 その昔から、この地の下方は丘陵地帯であり、飲用水や農耕用水の不足に苦労した土地柄であります。その為400年近い昔の寛永から天保年間にかけて20kmにわたり元禄井手が作られました。しかし、もともとが乏しい渓流をかき集めた用水であり、上流の山々が草原である為、水源の八勢川そのものに水がなく水需要の増えつつある中で人々は水不足に苦しんでいました。
 そこで、文化12年(1815年)に当時の山支配役が郡奉行と相談して一大植林の事業をおこし、弘化4年(1847年)にかけて240万本の木が植えられ、ついで慶応3年(1867年)までに植林がつづけられました。
 こうして半世紀のちに、植え付けられた杉や檜がうっそうと林立し、水をたくわえ、それが八勢川にあふれ出し、元禄用水をうるおしたばかりでなく、更に新しい用水を作らせるようになった。それが嘉永6年(1853年)から安政5年(1858年)にかけて作られた長さ28kmにわたる嘉永井手である。
 こうした壮大な事業により現在の国有林が作りあげられ、今も国有林内や下流域の数か所に記念碑等によりたたえられています。私たちも、こうした歴史の中に抱かれて生活しています。
 皆で森林や水を大切にしていきましょう。
九州森林局

  ここからさっきの石碑までは自動車で「しばらく」だから相当の距離がある。走ってきた距離を改めて振り返って、初めて実感が湧いてきた。
 これは説明文のとおり「壮大な事業」である。信じられないほどの。今回国宝になった通潤橋をはじめとした通潤用水に匹敵するかもしれない。

 これは碑文にしたがって地図と照合してみると分かる。

 以下、次号。

祝! 国宝指定 ! 熊本人の宝 通潤橋2-(河童日本紀行498)

※私たち熊本人の誇り、通潤橋の国宝指定を祝い、通潤橋の記事を再録します。

通潤橋の謎

 通潤橋にはストーリーがあり、美しいだけではない。

 何よりも当時のハイテク技術が満載なのである。 

 通潤橋は熊本以外でも有名だから(そう思ってるのは熊本人だけ?)他県の人からこの橋について質問を受けたりする。

Q「何で石橋の中を水が通るんですか?」
A「特殊な漆喰で防水するんです。」

Q「何で高いところに水が登るんですか」
A「サイフォンの原理でそうなるんです。」

 「わたくしたちの郷土」で教育された私たちの世代なら、スラッとそう答えられるだろう。

 だが、わたくしは昔から謎だった。

 「サイフォンの原理って何だ?」

 担任の先生が厳かに「水が高いところに登るのはサイフォンの原理によるのである!」
と御宣託を下した後であるから、もう聞けない。

 私はそういう時に「いらんこと」を言っては先生からビンタを叩かれる「空気の読めない」子供だったが、「わたくしたちの郷土」で教わる頃には流石に「みんなの目新しい用語を先生が解説しないときにはそれをほじくってはいけない」くらいのことは分り始めていたのだ。

 だが、私はこう見えても学問を愛する男である。

 この項を書くに当たって、かつてバイオレンスによって抑圧されたこの疑問を解きたくなった。

 通潤橋の素晴らしい先端技術については「熊本国分寺高校(仮名)」の生徒諸君が見事な調査を行っている。
 これはネットにアップされているから、是非見てほしい。
 
 これによれば通潤橋の水が高いところに登るのはサイ、ん?、サイフォンじゃないな。

 「わたくしたちの郷土」では間違いなくそう習ったんだがな。違うのかな。

 「逆サイフォン」?なんだか「違う」という説もあるようであるのである(大隈重信調で)。

 「連通管」というような耳慣れない用語も登場している。

 どうも建造から100年以上経った今でもこの橋の技術についてはよくわからないようだった。

 やはり世界遺産にふさわしい橋である。

※2023年現在、やはり通潤橋の原理について私は理解していない。はっきりしているのはこの橋によって低いところの水が高いところに上がり、矢部の大地が緑為す田畑になっているということだけだ。

2016.8.4初出

祝! 国宝指定! 熊本人の宝 通潤橋1-(河童日本紀行497)

※私たち熊本人の誇り、通潤橋の国宝指定を祝い、通潤橋の記事を再録します。

通潤橋に改めて感動

  ある土曜日、私は阿蘇にあるご先祖の墓にお参りをした後、去年の言語聴覚士国家試験のお礼参りと新しいお札をもらうためとで高千穂に行ったのだ。
 
その帰り、私は自分が現在日本一美味しいと思っている日本酒のことを思い出した。

  その名は「豊潤(仮名)」。

 私はもともと熊本県の鹿北地方で造られる「神祖(実名)」という酒が日本一だと思っていたのだが、信じられないことにこの酒蔵は無くなってしまったので、日本第二位のこの酒が繰り上げ当選で第一位になったのだ。(あくまで個人の感想です。)

 ちなみにこの「墓参り&御礼参り」では波野村の道の駅によって「ヤマモモソフト」を食べた。

 この「ヤマモモソフト」こそ私が日本一美味いソフトクリームだと思っているソフトである。

※このヤマモモソフトが地震の影響なのか2016.8現在販売終了になってしまったことは既にお知らせした。どうも私の好きなものはどんどんなくなっているような気がする。

 閑話休題(さて)、

  「豊潤」のことを思い出した私は涎が止まらなくなった。
  私は節酒中だからよほど久しぶりに旧友が訪ねて来たりしない限り飲まないのだが、いつか飲むために買っておいてもいいだろう。

  「豊潤」は熊本人には有名な通潤橋のある矢部町で造られている酒である。

  私は渋る妻を説得して寄り道をした。
 
「豊潤」の売っている道の駅は通潤橋のすぐ隣にある。
  ただ酒を買うために訪れた通潤橋だが、やはり素晴らしい。

IMGP2586

  この橋は田や畑に灌漑するために造られた実用的な橋なのだが、素晴らしい造形美がある。
  私は思わず見惚れてしまった。

  この橋の由来など何も知らないはずの小学生が、「おお、かっちょえー!」と叫んだ。
  私もこの餓、じゃなかった、お子さんに賛成である。

  私や妻は小学生の頃「わたくしたちの郷土」という副読本でこの橋について習った世代である。

  たしかこの橋の建造を企画、指導したのは布田保之助、実際の架橋は種山石工集団が担った。いわゆる「肥後の石工」である。

 「肥後の石工」は全国に石橋を建造している。有名なところでは皇居の二重橋がある。

 私は布田保之助について「偉い人だ」ということは知っていたものの、「どこが偉いのか」ということは知らなかった。

IMG_3817
[碑文]
 布田保之助、享和元年11月26日役宅にて出生、文化13年元服惟暉と名乗り、叔父太郎右衛門と郡代役所に挨拶、帰路万坂峠にて父市平次自害の真相を聞き矢部開発を決意す。
 文政6年惣庄屋代役、天保4年惣庄屋、文久元年隠居までの38年間、道路220粁、目鑑橋14、溜池堤7、石堰35、水路30粁矢部76か村翁の恩恵を蒙らざる村なし。
 安政元年通潤橋完成、明治6年この功績天聴に達し、銀盃一組、絹一匹賜る。
 同年4月3日73歳で死去。熊本万日山に葬らる。
[現代誤訳]
 布田保之助は享和元年(1801)11月26日官舎で生まれた。文化13年(1816)成人して惟暉と名乗った。
 叔父の太郎右衛門と郡代役所に挨拶をした帰り道、万坂峠で叔父から父市平次の自害の真相を聞いて矢部の農業開発を決意した。
 文政6年(1323)惣庄屋代理、天保4年(1833)惣庄屋となり、文久元年(1861)隠居までの38年間に、道路220km、眼鏡橋14、溜池7、石堰35、水路30kmを作った。矢部地方の76か村で布田さんの恩恵を受けなかった村はない。
 安政元年(1854)に通潤橋を完成、明治6年にこの功績が天皇の耳に達し、銀杯一組、絹一匹をいただいた。
 同年4月3日73歳で死去、熊本万日山に葬られた。

 まず企画・指導したのが通潤橋だけではなかったことに驚いた。
 改めてすごい人である。

 ところで、「父の死の真相」とは何だったのか。

通潤橋を世界遺産に

 そもそも水利悪く不毛の土地だった白糸台地に灌漑して農地に変えようという構想は保之助の父市平次が思いついたものだったらしい。

 ところが、保之助がまだ幼少のころ、父は惣庄屋を務める村の負役(強制的な勤労奉仕)の減免を申し出たことで他の庄屋たちの反感を買い、減免と引き替えに自殺に追い込まれる。
 父が弟に託したのは矢部一帯の地図であった。

 保之助は叔父から父の死の真相を知り、遺志を継いで矢部の開発を決意する。
 保之助が行った様々な水路、農道、溜池、架橋の建設の一つが通潤橋だったのである。

 この間の事情については小説などもネットに上がっているから是非読んでほしい。

 矢部開発の中で最も難関だったのが、白糸台地をどうやって灌漑するかだった。白糸台地には水の豊富な土地が隣接しているのだが、その間には深い谷があり、通常の水路ではその水を持って来られなかったからである。

 谷があれば橋をかければいい、というのは誰でも思いつくところかもしれない。水を運ぶ橋はローマ帝国時代からあったことはイタリアの遺跡が示す通りである。

 ところが、白糸台地は対岸よりも高い場所にあるのだ。「水は低きに流れる」。さあ、どうするか。

 この問題を解決するために考えられたのが、「逆サイフォン」という原理なのだが、それについては次回に譲る。
 ともあれ、当時の最先端技術と関係者の高い志により、通潤橋は完成する。 江戸時代に建造されたアーチ式の石橋としては最大級のものである。

 私が通潤橋を見て何よりも感動するのは、この橋が住民の切実な願いに応えるものとして親子二代の頭脳の中で構想され、関係者の努力で実現し、本当に永く住民の利益となって存在し続けていることなのである。
 純粋に農業用の橋で、「偉いさん」が渡ったりしないから欄干もない。
 城の橋のように権威を示す用途もないからど田舎にある(矢部の方ごめんなさい)。

 この橋の有名な放水は現在では観光用の意味合いが強いが、橋の水管に溜まった砂を清掃するという極めて実用的な意味のものなのである。

 布田保之助が戦前の「修身(道徳)」の教科書に載っていたからか、どうも彼の業績に関して現代では評価が低いようだ。
 「上役に恵まれた」とか、「住民みんなの努力の結果であって布田1人の手柄ではない」といった意見も目にする。

 しかし、私はこう思う。
 私は社会に出てそろそろ30年になるが、漠然と「みんな」に任された仕事が成就したのを見たことがない。それがどんなに有益なことであっても。
 必ず言い出しっぺがいて、それを熱烈に、あるいは粘り強く続ける人がいて、そうなってはじめて「みんな」が動き出して事が成るのだ。

 なぜなら、私も含めた「みんな」は凡人で先が見えないから、新しいことが嫌いなのだ。

 「⚪︎⚪︎は多大な利益をもたらした」「××は災厄をもたらした」と後から言うのは凡人にもできる。
 たぶん利益があるだろうこともなんとなくはわかる。しかし、物事には必ずリスクや不利益もある。

 ちょっと目新しい食物屋に入ってみる、新しい服に着替えてみる、その程度の新しいことは私たち凡人も好きである。
 だが、少なくとも今後数年間自分の生活を変化させるような新しいことは嫌いなのだ。第一面倒臭い。
それでも「みんな」が新しいことに協力するのは(権力によって嫌々やらされるのでなければ)、

 「あいつがあれだけ言うのだから」「あいつがあれだけ頑張っているのだから」という気持ちからである。
 私は布田保之助は上からも下からもそう思われるものを持っていたのだと思う。

 「みんな」が動いてくれない時、それは「みんな」のせいに見える。
 「上司は自分の能力を認めてくれない」「部下は馬鹿ばっかりの口ばっかり」と思えた時、通潤橋を見に行ってほしい。
 ど田舎(矢部の方重ね重ねすみません)の田んぼの中に忽然と現れるこの威容は、人は志によって何が出来るかということを教えてくれるはずだ。

 上の絵は「世界遺産の話は欠片もない」というようなニュアンスになっているが、もちろん熊本ではそういう運動はある。
 まさかとは思うがそれが全国的な話にならない理由がこの橋のストーリーが「修身」に載っていたから、などということなら実に残念な話である。

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2016.8.3初出

これ、絶対ヤバい奴だ!(それでも生きてゆく私322)

ワクチンの副反応

 以下の文章はA県言語聴覚士会の会報にコラムとして掲載されたものです。
 この度県士会役員を引退したのでブログに掲載します。
 書かれてある情報は掲載時のものであり、現在では変化している可能性があることをお断りしておきます。

  砂漠を彷徨っている夢で目覚めた休日の朝、「遂に来たか!」と思った。体温計を脇に挟むまでもなく、異常に体温が高いのが分る。何より「ダルい」。

 全身性エリテマトーデスで亡くなった第1の学生時代(私には学生時代が2回ある)の友人が「ダルい」「ダルい」と言っていてとうとう起き上がれなくなったのを思い出した。これは免疫が自分を攻撃しているときの症状ではないのか。

 私は今までに色々な疾患に罹患しているが、あまり「ダルい」という感覚に襲われたことはない。

 体温を測ってみると38.6℃。明らかに発熱している。昨日寝る前に測った体温は36.0だったから急激な体温上昇である。

 起き上がろうとしたら「ズキーン!」と右の二の腕が痛んだ。そういえば昨日COVIDワクチンの3回目、いわゆるブースター接種を受けたのだった。3回とも同じ会社のワクチンだったし、今まで2回の接種が腕が痛いという他は全くの無症状だったため、今回も何もないと勝手に思い込んでいたのである。

 急いで消炎鎮痛剤を飲む。30分もするとダーッと汗が出てきた。熱が下がる予兆である。案の定1時間もすると37℃台前半の体温になった。胸を撫で下ろす。この程度の副反応で済んでよかった。

 ところが、昼飯を食べてゆっくりするつもりが、また例の「ダルさ」である。測定するとまた38℃台に上がっている。再び消炎鎮痛剤を飲む。また汗が出たが、今度はなかなか体温が下がらない。翌日が休日勤務だったので、職場に連絡して勤務を調整してもらう。

「ダルさ」に耐えてひたすらじっとしていると、夜の10時頃には平熱に戻った。ああ、これで原状復帰だな。と安堵した。今、後輩たちは国家試験を目前にして勉学に励んでいる。少しでも助けになりたくてLINEを利用して質問に答えているのだ。明日はまたたくさんの質問に答えなければ。

 ところが、その日の午前2時頃、もう耐え難いといっていい寒さで目覚めた。気が付くとガタガタ震えている。これはきっと妻がエアコンを入れ忘れたに違いない。だが、見るとエアコンの電源ランプはちゃんと点灯している。これは「寒さ」ではなく「寒け」なのだ。
 しばらくすると、「カーッ!」と上半身の温度が上昇していくのが分かった。測ると39.6℃。これほどの体温上昇に見舞われたのは、出張で鹿児島に行って「大ハマグリ」を食べてアタって1日入院して以来である。
 あのとき襲われた「腎臓大丈夫かな?」という恐怖が甦る。昔漫画で読んだ「透析が始まったら余命は7年」などという一説が頭をよぎる。また消炎鎮痛剤を飲むのだが、効いているという実感がない。

 眠る、というより、意識を失うという感覚の中で眼が覚めると、前日のあの「ダルい」という感覚だった。体温はどうにか38℃台に戻っていた。

 また消炎鎮痛剤を飲んでやっと37℃台前半から36台後半に復帰してこの原稿を書いている。

 まだどうなるか分からないが、今回の体験で私が思ったことを二つ。

 一つはこの副反応の原因は巷間いわれているmRNAワクチンという新機軸によるものであるという可能性のほかに、SARS-Cov-2というウイルスの性質の悪さによるものであるという可能性があるということだ。
 SARS-Cov-2はヒトの免疫を狂わせやすいウイルスなのかもしれない。
 スパイク蛋白が体内に入っただけでこれだけの悪さをするのだから。この免疫系の暴走こそが世界で数百万の人の命を奪ったCOVIDの重症化の機序なのだ。

 もう一つは、ワクチンでこれなのだからやはり自然感染に対しては十分警戒する必要があるということだ。
 私の体験した免疫症状は間違いなく「軽症」なのだが、それでも正直インフルエンザの罹患より間違いなくしんどかった。
 今流行中のオミクロン株が巷で「軽症」といわれていても、このウイルスに対する警戒を解いてはいけない。やはり手洗い・うがい・病院や高齢者施設でのマスクといった基本的な防疫は続けるべきだろう。

 この際限なく続くと思われるウイルス禍もいつかは必ず終わる。かつて猛威を振るったウイルスたちがそうだったように、COVID-19はCOVID-2〇となって「子どもとお年寄りは注意」というウイルスになっていくだろう。
 この〇の中の数字が2なのか、5なのか、9なのか、それは神ならぬ身には分からないことだが。

 自分と大切な人たちを守りながらその日を待とう。

2022.5初出2023.9.23一部改訂

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