バーチャル博物館「沢村栄治記念館」http://sawamuraeiji.yomibitoshirazu.com/で再開しています。

「〇〇さんはなんで言語聴覚士になったんですか?」と、本当に不思議そうに聞いてくる人がいるので、しばらく不定期にその話をします。
今日はその序です。
私の父は生涯を難聴とともに過ごした人だった。
小学生のころから滲出性中耳炎に悩まされ(本人は絶対病名などは口にする人ではなかったから、本人発の少ない情報に私の乏しい知識から推測した病名である)、日ソ戦の戦場で音響外傷によりさらに難聴がひどくなったようだ。
実際に私が言語聴覚士の養成校時代に耳鼻科に連れて行って聴力を測定してもらったところ、両耳とも最も聴力が残存している周波数でも70dBの損失だった。2000Hzより高い周波数はスケールアウトしていた。
障害者手帳が交付される聴力である。
それでも本人は決して自分の難聴を認めることはなかった。
「自分はそげなとじゃなか(熊本弁で「そんなのじゃない」)!」と、聴覚障碍者を貶めるような言葉を一番口にするのは当の父だった。
私が言語聴覚士という仕事に就くために学校に行っていることを知りながら、決して補聴器をはめようとしなかった。
だが、どういうものか、父は相手が何を言っているか、なぜか分かっていた。
稀に的外れなことを言うことがあったが、ほとんどの場合、相手の言った言葉に的確な返事ができた。
相当賢かったのだと思う。
人間のしゃべる言葉には文脈があって、ある言葉が聞き取れれば、次の言葉はだいたい予測がつく。
たとえば、「今日は雨がふっているから、傘を差して行かなければいけないね。晴れたときは忘れないようにしなければ。」
という文は、「雨」「傘」「忘れないように」という部分が聞き取れれば、
「そうそう、傘を忘れないようにね。」と応答することができる。
今思えば、父が自分の障碍を認めなかったのは、「この人は〇〇だから、これこれができて、これこれができない人」というふうに周囲からレッテル張りされるのが嫌だったからかもしれない。
父は定年より2年早く小学校の教員を辞めたが、それがコミュニケーションが何よりも必要な仕事としては限界だったのだろう。
私は父の本当の聴力を知った時、「この人はこの聴力で必死に働いて私たちを育ててくれたのだな」と涙が止まらなかった。
父のことを思い出すと、コミュニケーションというのは本当に大事な部分は上っ面の音声言語に頼っているのではないのだということも思う。
父は私たちきょうだいが盆や正月などのたまの短時間にしか逢わないのに睦み逢うことをせず、些細な意見の違いを論っては論争することを、いつも嘆いていた。
人並みに相手の音声言語が聴けて、ときには完全に相手をやり込めてしまえるほどしゃべれても、それが子供たちの幸せにはつながらないことを知っていたのだろう。
私は言語聴覚士という仕事をしているにもかかわらず、父に補聴器を付けさせることもできなかったし、認知症状に対して何かしてあげられたわけでもないし、口腔もカンジダが棲み着いたままだった。
父は「もう本当に危ない」という時に初めて入院に同意し、わずか5日で旅立っていった。
「人間の価値は棺を覆って決まる」という。
仕事を辞めてから4半世紀が過ぎ、なんの社会的地位もない父の通夜と葬儀に、300人を超える友人、知人、元同僚、教え子の方々が次々と訪れた。
父は人に得をさせる人間ではなかったから利に敏い人は父に近づいてくることはなかったし、どちらかといえば孤独を愛する人だったが、それでも終生父の周囲には誰かがいて父を励まし、寄り添い続けた。
今、父は私の北極星である。
気が小さくて卑怯で欲の深い私は、すぐ道に迷ってしまう。ときには人の道に外れようとしてしまうこともある。
そんなとき、父の「馬鹿もん! 大馬鹿もん!!」という怒鳴り声が甦ってくる。生きている間は何回怒鳴られたかわからない。
そうだった。父のように生きればいいのだ。そのたびにそう思い直す。そして父という北極星に向かって、また歩いていく。
父は最後の瞬間まで意志薄弱な私の行く末を心配していた。もしあの世というものがあるならば、今でもそこで私のことをハラハラしながら見守っているに違いない。
言語聴覚士になって10年以上が過ぎたが、まだ父に「大丈夫!心配しなさんな!」と言えない自分が情けない。
それでも、父の葬儀の10分の1くらいは自分の葬儀にも参列者があるように、これから頑張っていきたいとおもっている。
さて、次回はいつになるかわかりませんが、私が言語聴覚士になるまでの経緯を少しずつお話したいと思います。

「〇〇さんはなんで言語聴覚士になったんですか?」と、本当に不思議そうに聞いてくる人がいるので、しばらく不定期にその話をします。
今日はその序です。
私の父は生涯を難聴とともに過ごした人だった。
小学生のころから滲出性中耳炎に悩まされ(本人は絶対病名などは口にする人ではなかったから、本人発の少ない情報に私の乏しい知識から推測した病名である)、日ソ戦の戦場で音響外傷によりさらに難聴がひどくなったようだ。
実際に私が言語聴覚士の養成校時代に耳鼻科に連れて行って聴力を測定してもらったところ、両耳とも最も聴力が残存している周波数でも70dBの損失だった。2000Hzより高い周波数はスケールアウトしていた。
障害者手帳が交付される聴力である。
それでも本人は決して自分の難聴を認めることはなかった。
「自分はそげなとじゃなか(熊本弁で「そんなのじゃない」)!」と、聴覚障碍者を貶めるような言葉を一番口にするのは当の父だった。
私が言語聴覚士という仕事に就くために学校に行っていることを知りながら、決して補聴器をはめようとしなかった。
だが、どういうものか、父は相手が何を言っているか、なぜか分かっていた。
稀に的外れなことを言うことがあったが、ほとんどの場合、相手の言った言葉に的確な返事ができた。
相当賢かったのだと思う。
人間のしゃべる言葉には文脈があって、ある言葉が聞き取れれば、次の言葉はだいたい予測がつく。
たとえば、「今日は雨がふっているから、傘を差して行かなければいけないね。晴れたときは忘れないようにしなければ。」
という文は、「雨」「傘」「忘れないように」という部分が聞き取れれば、
「そうそう、傘を忘れないようにね。」と応答することができる。
今思えば、父が自分の障碍を認めなかったのは、「この人は〇〇だから、これこれができて、これこれができない人」というふうに周囲からレッテル張りされるのが嫌だったからかもしれない。
父は定年より2年早く小学校の教員を辞めたが、それがコミュニケーションが何よりも必要な仕事としては限界だったのだろう。
私は父の本当の聴力を知った時、「この人はこの聴力で必死に働いて私たちを育ててくれたのだな」と涙が止まらなかった。
父のことを思い出すと、コミュニケーションというのは本当に大事な部分は上っ面の音声言語に頼っているのではないのだということも思う。
父は私たちきょうだいが盆や正月などのたまの短時間にしか逢わないのに睦み逢うことをせず、些細な意見の違いを論っては論争することを、いつも嘆いていた。
人並みに相手の音声言語が聴けて、ときには完全に相手をやり込めてしまえるほどしゃべれても、それが子供たちの幸せにはつながらないことを知っていたのだろう。
私は言語聴覚士という仕事をしているにもかかわらず、父に補聴器を付けさせることもできなかったし、認知症状に対して何かしてあげられたわけでもないし、口腔もカンジダが棲み着いたままだった。
父は「もう本当に危ない」という時に初めて入院に同意し、わずか5日で旅立っていった。
「人間の価値は棺を覆って決まる」という。
仕事を辞めてから4半世紀が過ぎ、なんの社会的地位もない父の通夜と葬儀に、300人を超える友人、知人、元同僚、教え子の方々が次々と訪れた。
父は人に得をさせる人間ではなかったから利に敏い人は父に近づいてくることはなかったし、どちらかといえば孤独を愛する人だったが、それでも終生父の周囲には誰かがいて父を励まし、寄り添い続けた。
今、父は私の北極星である。
気が小さくて卑怯で欲の深い私は、すぐ道に迷ってしまう。ときには人の道に外れようとしてしまうこともある。
そんなとき、父の「馬鹿もん! 大馬鹿もん!!」という怒鳴り声が甦ってくる。生きている間は何回怒鳴られたかわからない。
そうだった。父のように生きればいいのだ。そのたびにそう思い直す。そして父という北極星に向かって、また歩いていく。
父は最後の瞬間まで意志薄弱な私の行く末を心配していた。もしあの世というものがあるならば、今でもそこで私のことをハラハラしながら見守っているに違いない。
言語聴覚士になって10年以上が過ぎたが、まだ父に「大丈夫!心配しなさんな!」と言えない自分が情けない。
それでも、父の葬儀の10分の1くらいは自分の葬儀にも参列者があるように、これから頑張っていきたいとおもっている。
さて、次回はいつになるかわかりませんが、私が言語聴覚士になるまでの経緯を少しずつお話したいと思います。