超特大ジョッキ

  とある居酒屋チェーン店で宴会をしたときのこと。
 2時間食べ放題飲み放題が頼んであった。
 最初に生ビールがピッチャーで出てきた。
 私はどうもピッチャーの生ビールが苦手である。
 本当に大人数で、ピッチャーの中身があっという間になくなる場合はよい。冷たくて炭酸に富んだ美味しいビールを飲むことができる。
 だが、たいていの場合、ピッチャーの中身が残る。ピッチャーについだビールの残りは、急速に劣化する。あっという間にぬるくなり、炭酸が抜けてしまう。
 私はいやしいので、たいていの場合最初の1杯を一番に飲み干してしまう。そうすると、次の1杯はピッチャーの底に残った不味いビールである。
 私がそれをジョッキについだのを見計らったかのように次のピッチャーが頼まれる。私は自分のジョッキのビールを急いで飲み干そうとするが、そうなると意外に早く飲めない。もともと私は炭酸に弱いのだ。
 結局、私が2杯目(ぬるくて気の抜けた奴)を飲み終えて3杯目を飲もうとすると、またピッチャーの底に以下同文のビールが残っている。
 宴会の間中これが繰り返され、私はぬるくて気の抜けたビールを飲み続ける。
 そのうちにほかの人は焼酎や日本酒やワインやカクテルなどのほかの酒に切り替え、私の前には、ピッチャーに入った、ジョッキにつぐたびに劣化するビールが残され、「勝手にやってください」という感じになる。
 「ぬるいっ!」「不味いっ!」と思いながら、ただ酔っぱらいの惰性で飲み続けるのは健康にも良くない。 
 だから私は、「アルコールでさえあればなんでもいい」という年齢を脱してからは、生ビールをピッチャーで頼むことはない。 
 私はその店でピッチャーが出てきた瞬間、ほかの参加者にも同意を得て、ベルで呼んで来てもらった店員さんに、次から出て来る生ビールは各自のジョッキに注いでもらうように頼んだ。 
 すると店員は不服そうに、
「生ビールはジョッキだと時間がかかりますけど…」と言った。
 私は彼の言葉の意味がわからなかったが、生ビールのサーバーのタンクがたまたま空になって、交換の手間が必要なのだろうと思った。私も飲食店で長くバイトしていた男である。まあ時間がかかるといってもせいぜい5~10分のことだろう。そう思って、
「ああ、かまわないよ…」と答えた。
 私以外にも何人かがジョッキの生ビールを頼んだ。
 ところが、これが待てど暮らせど来ないのである。
 最初は「生ビールのタンクがなくて隣の店に借りに行ってるんだろう…」などと冗談を言っていたのだが、来ない。
 「今、発酵が最終段階で、これからビールを絞るんだよ…」などとちゃかしたのだが、来ない。
 そのうちに、生ビールを頼んだ人々は不機嫌に黙り込み始めた。いくらなんでも遅すぎる。
 「今ホップを入れているのではないか…」
 「今麦芽を入れたのではないか…」
 しまいには「今麦を刈り取っているのではないか…」という疑いが沸いてくるほど長い時間の後(心理的ではなく物理的に20分が経過していた)、やっと生ビールが登場した。
 もう少し遅れたら、「今麦踏みをしているのではないか…」から、「今麦を播いているのではないか…」 まで行くところだった。
 はらわたが煮えくり返っていて、ビール程度では冷却できなかった。
 Aさんが言った。
 「これ、もしかして、ジョッキを冷やしてたんじゃないですかね?」
 ああ、そうだ。
 たぶん、このチェーン店には、「客の生ビールはジョッキが凍るまで冷やしてから出すこと 」というマニュアルがあるのだ。
 私は次の1杯を頼むとき、店員さんに、
「次のやつはジョッキを冷やさなくてもいいから…」と言ったのだが、
店員さんは、「えーっ…!」という顔をして、
「ジョッキのビールは時間がかかります。」と機械的に繰り返すばかりだった。
 食べ放題飲み放題だから時間は決まっている。注文の品が少なければ、それだけ飲み食いできるものが減ることになる。
 今は飲み食いへの執着が減ってきたから黙っていたが、若いころの私ならば、間違いなくテーブルをひっくり返して暴れていただろう(というのは冗談で、私は飲み屋から追い出されたことは。 1回しかない。この時は友達と殴り合いを始めてしまって物品が多少壊れたから、仕方がない)。
 仕方なく私はピッチャーの不味いビールを飲む羽目になった。 
 いったいこのマニュアル(勝手にあることを前提に話をしているが)は何のために定められたのか。
 「お客さんに美味しいビールを飲んでもらいたい」という気持ちから、「ジョッキが冷えていた方が美味しいだろう」と考えて決まったはずである。
 そもそも私のように腸の弱い男は冷えすぎたビールを飲むとすぐ便意を催すから、その時点でこのマニュアルは勝手な思い込みに基づいているのだが、それはまあいい。
 何より「ジョッキを冷やすこと」というマニュアルのために客が20分も飲むものがなくて(居酒屋なのに…) 不快な思いをしているのである。しかも、「待つのは嫌だからジョッキは冷やさなくていい」と客が訴えているのに、である。
 いったい何のためのマニュアルなのか。 
 店員さんとて本当はジョッキを冷やさずにできるだけ早く私に生ビールを出したかったに違いない。
 それをあれだけ頑なに拒否したのは(何か共感性に問題があるのでないかぎり)、マニュアルが『戦陣訓』なみの強制力を持っているからだろう。
 それほど無理やりにマニュアルに縛られていたら、店員さんも仕事をしていても楽しくないだろう。おそらく末端の方からマニュアルを決める人たちにフィードバックが上がることもないのだろう。
 「お客さんを喜ばせるために」という気持ちから決められたマニュアルが、客に不快な思いをさせる。そして、客が不快な思いをしていることに気付かないような特性を持った人物の方が本部からは高評価を受ける可能性があることは、「早老症の男」でも書いた。
 自分の中の「普通」「当たり前」に自信がないから上から下までマニュアルに頼る。そしてがんじがらめになっていく。
 嫌な世の中である。