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天翔台にて帰り道を思う

 通常30分くらいで登れる宇城市三角町の天翔台に1時間以上かけて登った私である。

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 発見したのは巨大な石碑だった。
 こんな大きなものを1960年代初頭に山の上まで運び上げた先人に敬意を表しつつ、解読にかかる。
 前回も書いたが、私はこの石碑を作った池田清蔵という人をこの碑に刻まれている俳句の作者と勘違いしたために、ずいぶん解読に時間がかかってしまった。
 私は国文科を出ておきながら不勉強で変体仮名が読めないため、何かの手助けがないと古い仮名交じり文は解読できないのだ。

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[碑文]
 見はるかす 島山青し 冬麗(うらら)
[現代誤訳]
 遠くまで見渡すと、天草の山がちの島が美しい小春日和の冬の一日である。

 「冬うらら」とは珍しい表現である。「春うらら」はよく聞く言葉だが。
 きっと是山が天翔台を訪れた日は私が登った日と違い、暖かな冬の日だったのだろう。
 後藤是山は九州日日新聞(現隈本日日新聞:仮名)で明治・大正・昭和と3つの時代に活躍したジャーナリストである。
 今でこそ新聞に文化面はつきものだが、是山が仕事を始めた明治時代には政治面・経済面・社会面が新聞紙面のほとんどを占有していた。
 是山は「九日」の文化面に高浜虚子、与謝野鉄幹・晶子、堅山南風、鈴木三重吉、北原白秋など現在からみれば「片田舎には勿体ない」といっていいくらい錚々たるメンバーを揃え、紙面を刷新した。
 しかし、当時の熊本は武張った土地柄で、当時はこの試みは世人の非難を浴びて是山は九日を解雇されてしまうのである。現代の私がPCに「ぶばった」と入力して変換しても変換候補に「武張った」がないし、おそらく若い人には意味もわからないくらいに時代が変わってしまったのだが、 当時の熊本というのはそういう土地だったらしい。
 新聞記者でなくなってからも是山は郷土史家・歌人・俳人としてさまざまな活動をし、その師徳富蘇峰とともに熊本の文化の歴史に大きな足跡を残したらしい。「らしい」と書いたのは私が是山の著作を一つも読んだことがないからである。
 夏目漱石の「草枕」に出てくる「峠の茶屋」がどこにあったのか同定したのも是山らしい。
 綿密な分析による「実事求是」がこの人の真骨頂だったようだ。 この山頂の句がいつ詠まれたか知らないが、私より足が丈夫な人だったことだけは確かである。さすがに100歳寸前まで生きただけある。この人は1886年6月8日に生まれて1986年6月4日に亡くなっているから、後4日生きていれば100歳だったわけだ。「惜しい。」
 それにしても、私の大学6回生までは在世だったのである。一度話を聞きたかった。
 「後藤是山記念館」は私の実家の近所で、記念館になる前から「住居跡」として公開されていたと思うのだが、ずいぶん以前からその存在を知りながらいまだに入ったことがない。そのうちに行かねば。
 さあ、疲れた足もずいぶん回復しつつある。
 天翔台からの下りのルートに向かおう。