志柿町はどうした、旧本渡市はどうした、という声を無視して、車は河浦町に入る。
これらの町は北街道として紹介することにし、今回の天草の旅は終点の崎津天主堂へとたどり着いた。
天主堂はすっかり整備されて走りやすくなった国道にあるこれまた立派な崎津トンネルを抜けると、羊角湾に突如現れる。
漁船の停泊する漁師町に聳え立つ尖塔はいつ見ても不思議な光景である。
たまたま街中の駐車場が空いていたので、そちらに停めて街中を歩く。
熊本弁でいうところの「せどや(路地)」に立つゴシック様式の教会は、昭和9年に建てられたものだから、意外に新しい。
ゴシック様式は私の大好きな建築様式である。
ルネサンス以降の、たとえばロココ様式と比較するならば、良くいえば重厚で長大な、悪くいえばどこか泥臭く、融通の利かない、人でいえば「石部金吉金兜」を思わせる建築物は、突如聳え立ったとしても、何ともこの漁村に似つかわしい。この教会を建てた人々は、よくぞこの様式を選んでくれたものだ。
きちんと写真を撮ろうとすると電線が横切ってしまうのも、街の人々の日々の生活と共にある教会に似つかわしい。
これほど漁村に相応しい教会はないのではないだろうか。
駐車場から教会への道を逆に辿ると、崎津諏訪神社が、教会を見下ろすように建っている。
これまたいかにも天草らしい光景である。
天草・島原の乱の際、天草の吉利志丹たちは天草四郎の下に馳せ参じ、湯島などは無人の島になってしまったといわれるが、崎津の信徒たちはこの乱に加わらず、鎮圧後は「隠れ吉利志丹」として250年の長きにわたって信仰を守り続ける。
1805年、彼らは「天草崩れ」として5000人余りが摘発される。キリシタンが「切支丹」と書かれ、要は「切り捨て御免」だった時代である。無学な私は有明町の四郎が浜にある「セントメリー館(仮名)」の展示で初めてこのことを知り、そのとき以来「吉利志丹」と書くことにしている。
私は神も仏も信じない男だが、信念や信仰を守り続ける一本筋の通った人々に対する尊敬の念を持っている。まあ単に自分にないものを人に求めているだけだが。
私はこだわりが強いわりに考えていることがある日コロッと変わる。
世の中の流行り廃りに合わせて変われば時流に合わせて利益を得ることが出来るのに。
今の流行りは排外主義だ。他民族をケナす雑誌や本がゴマンと売れている。
何せ世界の自由主義の総本山を辞任、じゃなかった、自任する国ですらあのありさまである。
ところが、私の場合は考えの変化が世間様よりちょっとだけ前にズレたり後にズレたりする。そのために、アナクロ扱いされたり誇大妄想扱いされたりする。
「ズレ」の話はさようなら健さん7-ああ、ズレてゆく、「単騎、千里を走る」-(毒にも薬にもならない話70)でしたことがある。
ズレていると世間の共感を得られない。つくづく生きるのがヘタである。
同じ生きるのがヘタでもまだ一貫していれば尊敬もされように。
そう考えると江戸時代の吉利志丹たちが羨ましい。
閑話休題(こうしてはなしがずれるようにしこうもずれているのだろう)。
「天草崩れ」の話だった。
私はこの事件の解決法がとても興味深い。
禁教の時代の摘発である。「切支丹」である。江戸時代初期ならば全員に処刑などの厳しい刑罰が下されたに違いない。そして信者たちは「殉教者」になっただろう。
ところが、彼らは「心得違い」として処理される。また、信徒たちも「自分たちは信者である」と強く主張しなかったらしい。
しかも、幕府もまたこの事件について深く追及せず、信徒たちは事実上信仰を許容されるのである。
この事件が一神教の厳しい教えの下に生きる人々にはどう映るか、興味があるが、世界遺産登録にはどう働くのだろう。基本的にはキリスト教中心の価値観で動いている国連とその傘下であるユネスコがどう考えるか、少々心配である。
ただ、日本人である私はこの事件を処理した人たちの知恵に強く心惹かれるものがある。
「心得違い」とはよく思いついたものだ。
この言葉には「人としてしてはいけないことをすること」という意味もあるが、この事件の帰結はどちらかというと「勘違い」とか「誤解」といった、現代的な意味でこの言葉が使われていることを示唆している。
あるいは単なる責任逃れのつもりだったのかもしれない。なにせ自分たちのお膝元から禁教徒を大量に出してしまったのだから。
しかし、犠牲者を出さなかったという点を考えると、私はもしそうだったとしても「よくぞ責任逃れをしてくれた」と思う。
私の僅か55年の半生の経験を振り返っても、思想や宗教はどこかにファナティックな部分を秘めている。それが暴走を始めるのは「殉教者」が出たときである。逆にいえば、そうした危険性を秘めた考えが人々にとって有益で穏健なものであり続けるためにはそうした悲劇を防ぐことが必要になる。
世界の多くの国で「失われた4年間(最短4年間で済むところが民主主義国家のいいところだが)」が始まろうとしている今、「崎津の知恵」は私にとって希望の光である。
そんな誇大妄想を抱きながらトイレに行こうとすると、中から助けを求める大声が聞こえてきた。
女性がトイレに入って出ようとしたのだが、ドアが開かないらしい。
慌てて地元の人を呼びに行くが、そのときには自力で出てきていた。
人騒がせな話である。おかげで妄想から逃れることができたが。自分の頭の上の蠅を追おう。
崎津には「杉羊羹」という独特のお菓子がある。
何でも、琉球王朝の使者が漂着して伝えたのだとか。
残念ながら売り切れだった。結構楽しみにしていたのだが。
かわりに妻へのお土産に刺身用の水烏賊(標準和名アオリイカ)を買って、崎津から1時間も走ると、もう大矢野である。
物産館の前の公園からは美しい夕焼けが眺められた。
こうして僅か半日の天草南街道の旅は終わった。
改めて美しい土地である。そして、思索(妄想?)を誘う歴史を持った土地である。次はもっと気楽に釣りに行こう。そんな楽しみ方もできる土地だ。
みんな、熊本へ行こう。