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戦争は皆の心しだい

 取り敢えずリアル花札の杜若札に使える写真を確保した私は、急に田原坂に行きたくなり、まず政府軍墓地に向かったのだった。

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 政府軍墓地の入口にはまずこの松と説明の看板があるのだが、注意に問題のある私は早速これを素通りしてまず墓碑の方に向かったのだった。

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 そこで目にしたのはずらりと並んだ墓碑であり、

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 しかも軍夫の墓が「軍人」と比べて余りにも小さいために憤慨してしまって、危うく松の木のことは全く気付かぬままに通り過ぎるところだった。

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 改めて気付くと説明の看板まである。

  背負いの松

 明治27年2月郷里より背負い来りてこれを植ゆ。大正15年4月再展墓の曰此碑を建つ。
故 陸軍少尉 鱸 成信 長男
山形県鶴岡旧荘内藩士 鱸 孫太郎
再展同行 妻 同 世以

 何と、亡き父の供養のために、遠く山形から熊本まで松の木の苗木を背負って来て植えた息子がいるのだ。

   まだ近代的な意味での日本が立ち上がったばかりの、というよりそれが形成される過程での犠牲者となった鱸家の人々にとって、故郷山形から見た熊本は異国そのものであり、そこに葬られた成信は異郷の土になったという感覚だったに違いない。せめて故国の木なりと近くにいさせてあげたいという気持ちからの植樹だったのだろう。

   日本の近代は成信のような故郷の墓に骨が入っていない人々を大量に作り出した。彼らはもっと時代が下ると世界中で野晒しとなり、あるいは海の底に沈むようになった。彼等の所在地には簡単な墓標すらない。
   平時であれば遺族の執念によって遺物が探し出されるということもあろうが、個人の力では到底移動できないような遠方の予想外の場所に国家意思によって運ばれた彼等を遺族が自力で見つけ出すことなど到底できないだろう。
 せいぜい彼等の骨の代りの石ころや名前を書いた木札が国家の恩情によって木箱に入れられて遺族の元に届くだけだ。

   もはや彼等を知る者もまた時間の経過によって死者となり、名前も含めた一人一人の属性が風化していき消滅していく過程で、彼等には彼等を知らない者たちが作成したストーリーが与えられた。或る者は彼等を「英霊」と呼んで人々の手本にしようとし、或る者は「気の毒な犠牲者」と呼んでひたすら同情される対象にしようとした。

   私は、といえばただただ彼等の享年が若いことに驚くばかりである。まさか死ぬとは思っていなかった、訳ではあるまい。

 私が自分の命の尊さに曲りなりにも気づいたのは40を過ぎてからだろうか。
 おそらくは自分のZunowや肉体が衰えてきたことに気付いて初めて、愚かにも自分には自分のことを心配してくれる人や、自分が死んだら心に傷を受ける人や、その後の人生が変わってしまう人や、実際に困ってしまう人がいることに気付いたのだ。

 昔の人は私より遥かに精神年齢が高いから、こうしたことに気付いていなかった訳ではあるまい。

 そんな彼等が一身よりも大切にしようとしたものは何だったのだろうか。

 それが現在の私達が当たり前のように享受している自由や平等ではなかったことは、官軍墓地の軍夫の墓を見ればわかる。

 当時既に老境に入って戦禍からの逃げ切りを図っていた人たちは「国を思う心」などと彼らの行動を説明づけていたのかも知れないが。

 神風連に斬殺された熊本鎮台の指令長官種田正明の愛妾の勝子が事件を知らせた電報

  ダンナハイケナイワタシハテキズ

 に「代わりたいぞえ国の為」などという下の句を付けた人たちには呆れ果てるしかない。

 この電報については一度書いた。
 迷作リメイクシリーズ99-無粋な人々の完成交響曲-(どうしても言いたかったこと)

 閑話休題(みゃんまーがろひんぎゃをふくめてよあけをむかえますように)。

 そんなことを考えながら私は田原坂の資料館に向かった。ここがリニューアルしてから入るのは2度目である。

 そして私は「背負いの松」で心に刻まれた名前にもう一度触れることになる。

 そこには鱸成信のコーナーが設けられていた。

 成信の弟である伴兼之もまた西南戦争で戦死しているのだ。しかも西郷軍の兵士として。

 展示によれば兼之は遠く山形は庄内藩から鹿児島私学校に参加して篠原国幹(私学校監督)の家に寄宿していたときに西南戦争が勃発し、帰郷を促されたが請うて参戦したのだという。

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 いずれも遠く山形から参戦して敵味方に分かれて戦い、政府軍の墓地と反乱軍の墓地に葬られている兄弟2人。

 写真は反乱軍の墓地である。
 
 この墓地は政府軍の墓地からほんの数百メートルの場所にある。それでもこの兄弟が家族として合祀されることは永遠にないのだろうか。
 「官軍」と「賊軍」の人々の考えていたことは、100年以上の時を経ても同じ場所に葬られることを許されないほどにお互いに隔たっていたのだろうか。

 彼等が兄弟でありながら同じ墓に入れないのは、彼らの時間が止まっているからだ。死者は自らの言動を修正できない。彼等は敵味方に分かれたまま死んでしまったから、彼等の意志を尊重しようとすれば、当時の彼らの考えていたことに従わざるを得ない。彼等が生き延びていたら酒を酌み交わして笑い合えたかもしれないような考え方の違いが彼らを永久に隔ててしまう。

 西南戦争が「最後の内戦」と呼ばれるのは同族同士の永久に続く分断をもう二度と生んではならないという日本人の決意の表れだろう。事実、この戦争を最後に同族相食む内戦は起こっていない。

 本当に総意として決意すれば戦争は起こらないのだ。

 日本でも1970年代に内戦を起こそうとした勢力があったが、統計学的例外程度の勢力のままで自滅した。

 これは日本人に「絶対に内戦を起こさない」という総意があるからだと思う。

 東亜に何千万の犠牲者を生み、自らも300万余の犠牲者を生んだ日本人が「もう対外戦争を起こさない」と決意してから77年。我が大和民族が主体となって起こった戦争はこの間一度たりとない。

 明治の指導者たちが日露戦争を開戦しようとしていた御前会議での明治天皇の歌である。

 よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ

[現代誤訳]
 世界中の人々が皆きょうだいだと思っている私の治世になぜ戦争など起こるのだろうか

 この短歌は今お互いに「きょうだい」と呼びながら殺し合っている人々に知らせたいので翻訳する。

 Почему в мое царствование идет война, которую люди во всем мире считают благом?

 Чому в моєму правлінні йде війна, яку люди в усьому світі вважають доброю?

 人々の命が無為に奪われる映像が氾濫する日々、いろいろと考えさせられる田原坂行であった。

追記
   私はロシア語もウクライナ語も堪能ではないので明治天皇の歌を自動翻訳に掛けたのだが、確かめると意味不明の文になっていた。どなたか両国の言語に詳しい方が翻訳して両国の人々に伝えてもらえないだろうか。