2007年08月25日

祖先のことを知りたい(系譜調査)その4

 前回、江戸幕府末期のロシアとの関係について簡単に書き、そのときに『ゴローニン少佐』について触れました。彼の書いた『日本幽囚記』は、随分前になりますがとても興味深く読んだ記憶があります。

 つい先日、『宣教師ニコライの全日記』(教文館)が、元北大救助の中村健之介さんより刊行された、と新聞報道されました。
 私も是非読んでみたいと思います。

 さてここで、司馬遼太郎さんのニコライを書いたくだりを紹介します。

司馬遼太郎著 「街道を行く15 北海道の諸道」朝日文芸文庫 より引用 

 『ここで、東京駿河台のニコライ堂を建てた(明治二十四年竣工)ギリシャ(ロシア)正教の天主教イオアン・ディミトロヴィチ・カサーツキン(1836〜1912)についてふれたい。
 写真でみると、深い眼窩の奥でやや悲しみを帯びた薄い色の瞳、白いひげにおおわれながら甘さを感じさせるロもと、視線はやや上方の虚空を見て茫々とした表情だが、笑顔になったときの顔を十分想像することができる。この人は、
 「ニコライさん」
 と、まわりの日本人によばれ、かれがたてた聖堂もニコライ堂とよばれたが、本名ではなく修道名らしい。
 「私はスモレンスクの寒村にうまれました」
 とよく人にも語っていたという。スモレンスク州の田舎ということらしい。同じ名称であるその州の主都は、ロシアでも最古の都市で、古い寺院が多かった。かれは主都のほうのスモレンスクの神学校の生徒だったとき、ゴローニンの『日本幽囚記』を読み、生涯、日本に骨をうずめようと思ったという。
 一人の青年をそのように思い立たせたゴローニンの本もすばらしいが、一冊の本で生涯を決めた青年のほうも、十九世紀のロマンティシズムを感じさせておもしろい。軒なみに国家が重くなってしまった十九世紀に、かえって国境を出て、異質な社会の中で生涯を送ろうとする知識青年が多くなっていたが、スモレンスクの神学校の図書室の片隅で本を読んでいた青年の心にも、そういう時代の因子が宿っていたことを思うと、次の世紀の終りのほうにいるわれわれに透明なかなしみに似たものを感じさせる。
 日露戦争がはじまったとき、かれは迫害をうけた,かれをいじめる日本人が多かったというが、しかし帰国せず、踏みとどまって教会をまもった。かれの信仰も、ゴローニンに触発された異国愛も、本物だったのである。
 ニコライが日本にきたのは、明治以前である。
 幕府が各国との通商条約をむすぶのは、高田屋嘉兵衛がカムチャツカヘ連れ去られた文化元年(1812年)から46年ののちで、それによってロシアは安政五年、箱館に領事館を置いた。当時、ロシアの場合、領事館付きの司祭というのがいたが、初代の司祭が本国に帰ったあと、公募があったらしい。それに応じてニコライがやってきたのは、文久元年(1861年)である。
 かれは赴任にあたって高田屋嘉兵衛の写真をもってきた。なまの写真ではなく、カムチャッカ幽囚当時、ロシア人が嘉兵衛を油絵で描いたものがゴローニンの「日本幽囚記」の口絵につかわれていた。ニコライはそれを写真にして持ってきたらしい。それほどにこの若い神父は嘉兵衛というすでに歴史上の存在になった人物が好きてあった。
 かれは箱館につくと1番に、嘉兵衛の遺族をたずねた。ついでながら嘉兵衛の死後、その遺族は松前藩から「密輸をした」というあらぬ疑いをかけられ、家屋、財産ともに没収されてしまい、微禄していた。
 「私は、ニコライといいます」
 といって、嘉兵衛の写真をみせた。
 遺族たちがおどろき、やがて嘉兵衛の話になった。ニコライは嘉兵衛の人柄のりっぱさについて口をきわめてたたえた。
 ついてながら嘉兵衛の人間についての描写と説明は、かれにもっとも濃密に接触した ---つまり嘉兵衛にとって加害者の--- リコールドによってえがかれている。リコールドの『手記』も『日本幽囚記』のなかに収められていたから、ニコライはそれによって嘉兵衛の多くを知っていたのである。』

 『宣教師ニコライの全日記』が出版されたと聞いて、話しが脱線しました。
 
                      さらに次回に続きます。
 

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