2012年02月23日

伊丹十三のこと

伊丹十三死後15年。彼の半生を描いたドラマがテレビで放映される。実は5年前に、ある雑誌に、彼の半生を追った記事を書いたことがあります。以下はその元となった原稿ですが、ラストが掲載した記事とは大きく違うのです。いい機会なので掲載します。
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写真上/松山にある伊丹十三記念館の中庭。ガラス窓にはタンポポが

伊丹十三が自殺したのは1997年12月20日。最後の作品となった『マルタイの女』が封切され、わずか3カ月足らずのことだった。
あれから早10年が過ぎたが、昨年、74回目の誕生日5月15日に、父、伊丹万作の生まれ故郷である愛媛県松山市に伊丹十三記念館がオープンした。
さらに昨年から今年にかけて、NHK−BSで一連の伊丹十三監督作品が放映された。久しぶりに見た人も初めての人も、あらためてその面白さに引き付けられたことと思う。
お葬式、ラーメン、税金、やくざ、新興宗教など、作品の題材は誰もが知っているつもりながら実はよくわかっていないものばかり。その実態や、裏話がテンポよく描かれ、いつのまにか画面の中に引き込まれてしまった。
1982年。当時どん底にあった日本映画界に映画『お葬式』で彗星のごとく登場し、各映画賞も総なめにした映画監督伊丹十三の誕生は衝撃的だった。その後も妻であり、ふたりの息子の母でもある女優、宮本信子と二人三脚。映画史に残る傑作『たんぽぽ』(85年)『マルサの女』(87年)『ミンボーの女』(92年)から『マルタイの女』(97年)まで10作品を、すべて脚本監督を手がけ送り出した。
昨年来、日本中で行われたお詫び会見が話題性に拍車をかけた食品偽装問題。『スーパーの女』(96年)では、日付ラベルの貼り替えや違う肉を交ぜるテクニックまで暴いていた。食品業界のまやかしに、監督はとっくに警鐘を鳴らしていた。あらためて伊丹十三の着眼点に驚かされた。

世代間で異なる伊丹十三のイメージ、果たしてその実体は
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写真上/伊丹十三記念館にて

伊丹十三のイメージは世代によって異なる。20代、30代にとっては非業の映画監督。40代から50代前半までにとっては、テレビドラマやコマーシャル、映画に出演していた個性的な俳優でもあった。NHKの大河ドラマ『峠の群像』(82年)で憎たらしい吉良上野之介を演じて従来の爺臭い人物像を払拭した姿や、『家族ゲーム』(83年)の目玉焼きの黄身をすする父親役などが思い出される。
また団塊の世代は、伊丹十三といえば若いころは外国映画に出演する国際派俳優であり、さらに海外体験を語るエッセイストとして華々しく活躍したことを覚えているだろう。
1961年『北京の55日』の撮影のためにイギリスやスペインに長期間滞在した経験が、数年後『ヨーロッパ退屈日記』という本を生んだ。また1963年イギリス映画『ロード・ジム』のオーディションのため、伊丹十三はロンドンにいた。本読みからカメラリハーサルまで2か月すごしたが、その様子は2冊目のエッセイ集『女たちよ!』に描かれている。
当時は一三(いちぞう)という芸名で活動していた。後年『マイナスをプラスに変える』ために十三に改名したと冗談まじりに語っている。1960年に大映から映画俳優としてデビューした伊丹だが、その前身はグラフィックデザイナーであったことを知る人は少ないだろう。
エッセイを書くきっかけを作った作家山口瞳は、河出書房の雑誌『知性』の編集者時代に若き日のデザイナーの伊丹と知り合った。のちに漫画読本のイラストやブックデザインなどで活躍し、伊丹が作る明朝体は日本一との評判もとっていた。美しいレタリングで装丁された父万作の全集や山口瞳の小説のタイトルデザインが残っている。

スタンダードなお洒落とは、服装だけでない生きる姿勢だった
エッセイを通じ60年代の若者に影響を与えた伊丹だが、そのひとつがファッションだった。
高校の記念写真にひとり私服姿で写るのは個性あふれる十三の姿だ。お洒落な彼は米軍放出のカーキのズボンを黒く染めてはいていた。
その彼が『ヨーロッパ退屈日記』ではファッションについてこう語る。
「個性的なお洒落、という言葉があります。これは、わたくしは間違ってると思うのです。少なくとも、男に関する限り絶対に間違っている。(中略)つまり、男のお洒落というのは、本筋、でなくてはならぬ。スタンダードでなくてはならぬ。場違いであってはならぬ、のです」
マオカラーの中国服に刺し子の羽織を愛用していた監督時代と違い、俳優時代は長身に映える洋装が多い。60年代はスーツ姿、70年代はアーミースタイルが似合った。移り変わる時代のなかで、自分のこだわりを大切にする十三がそこにいる。
いまではTPOという言葉すら死語となってしまったが、ナマの西洋文化に出会った十三は男のおしゃれは正調であるべきと説いたのだ。
ファッションだけではない。スパゲティの作り方から食べ方、酒場での作法など、男は定見を持つ、筋を通すべきと語った。
「ネクタイとスーツに身を固める以上、人前でズボンをたくし上げたり、ワイシャツをズボンに押し込んだり、チャックを直したり、そういう真似はよしてもらいたいのである。(中略) 見知らぬ人が同席したら必ず紹介しようではないか。食卓で楊枝を使うのはよそうではないか。人の私物に軽々しく手を触れるのはよそうではないか。(中略)これは、外国人にとっては許しがたい行為であることは記憶しておいていいと思う。(中略) 服装だけは先様と同じでいながら、この信頼を裏切るというのは筋が通らないのである」
アル・デンテという言葉を初めて紹介した伊丹だが、初期のエッセイにはシャネル、エルメス、ルイ・ヴィトン、シャルル・ジョールダンなどファションブランドに関する言及も多い。まだ現物すらみたことのある人もほとんどなかったこの時代に、伊丹はヴィトンのモノグラムのバッグ地を切って、草履のつま先にしてしまった。そのイラストがいまも残っている。
カッラポだからこそ発見し感動し、人に伝える喜びを知った
当時007シリーズの翻訳にミケリンと記されていたミシュランガイドブックや三ツ星レストランの話題など、今読み返してもその先進性にはいちいち驚かされる。
北京の55日の撮影でヨーロッパにいたときはジャガーを買い、スペインではバーバラという女性とドライブ。さらにアラビアのロレンスに主演したばかりのピーター・オトゥールと共演するだけでなく、香港ヤロンドンの酒場で共に酒を飲み、しかもその出演料でロータス・エランを買ってベネティアまでドライブするといった具合。
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写真上/記念館の別棟に展示された伊丹の最後の愛車ベントレー

こうしたエピソードの数々はハワイ旅行が夢だった60年代の日本人からすれば、想像を超えた域で、体験をもとに語られる言説には納得せざるを得なかったろう。
外国のテレビドラマを通して知った新大陸の西洋文化ではなく、本家ヨーロッパの事情はあくまでも輝きまばゆいものだった。伊丹のエッセイを読んで、多くの若者がまだ見ぬヨーロッパに憧れた。
イラストも文章もこなす、当時は稀有なイラストライターとしての活躍は、エッセイ『女たちよ!』『続女たちよ!』、前出の『問い詰められたパパとママの本』と話題作を生んだ。 
ファッションから外国文化、料理、クルマとさまざまなジャンルの蘊蓄を語る伊丹だが、『女たちよ!』の前書きの結びの言葉には驚かされる。
「と、いうわけで、私は役に立つことをいろいろと知っている。そうしてその役に立つことを普及もしている。がしかし、これらはすべて人から教わったことばかりだ。私自身は――ほとんどまったく無内容な、空っぽの容れ物にすぎない」
 寿司屋での勘定の仕方は山口瞳に、包丁の握り方は辻留にならった。そのほかパイプ煙草の火のつけ方、箸の使い方、レモンの割り方などなど、すべて人に教わったこととする伊丹十三。好奇心と探求心の塊だったからこそ、本格とは何か、本当のやり方、本物を極めていった。
 エッセイだけでなく、その後のテレビドキュメンタリーや、コマーシャルづくり、雑誌編集、そして映画づくりへとつながった、原動力がここにある。

13歳で、映画監督である父,伊丹万作を失う
十三は1933(昭和8)年、映画監督伊丹万作(本名・池内義豊)の長男として京都に生まれる。本名は義弘だが、万作は岳彦という通称をつけ、「タケチャン」と皆から呼ばれていた。万作は片岡千恵蔵の千恵プロで活躍し、『赤西蠣太』を初め幾多の名作を生んだ。また映画論や随筆も執筆する才人だった。
38年に万作は東宝東京撮影所に移籍し、一家は世田谷区に転居。しかし万作は結核のため病床に伏してしまう。
40年岳彦は小学校に入学。このころ描いた1枚の絵が記念館に残っている。正確な観察力でナスやキュウリが描かれた絵だ。世田谷の池内家を訪れた俳人の中村草田男が訪れた際に、気に入って持ち帰ったという。そして十三の死後、草田男の遺族が信子夫人に返されたものだそうだ。存在感のある絵は後年の才能をうかがわせる。
翌年十三は京都師範学校付属国民学校に転校。万作が東宝を退職し、療養のために京都に戻ったからだ。
11歳で特別科学教育学級に編入された十三はなぜか英語を学んでいる。この学級は当時、日本の軍部が、将来の科学者を育成するためのエリート教育を施す場としてつくられ、湯川秀樹博士の子弟らが学んでいたという。野球の「ストライク」のコールが「よし」に変えられた時代にあって、驚いたことに英語教育が続いていたのだ。十三は英語が得意で、後年国際派俳優として活躍する素地はここで作られた。
10年以上にわたって病床にあった万作は、終戦後、十三が中学1年生のときに亡くなった。その後は万作の生まれ故郷の四国松山に帰った母とは離れて京都に暮らし、中学高校といくつか転校を重ねる。
 松山東高校に転入した十三は、翌年転入してきた作家大江健三郎と友人になる。のちに十三の実妹と結婚することになる大江健三郎との出会いについて述べた文がある。
「私が中学の頃、映画監督であった父が亡くなって、一家は食い詰めたあげく、それまで住んでいた都会からいわば都落ちして故郷であった松山へ移り済んだのです。少年だった私は恋人とも引き裂かれて大いに鬱屈しておった。大江君が逆に松山の更に奥の森の中の村から、その村にあった本をすべて読み尽くしたため、更なる読書を求めて松山へでてきたので希望に燃えていたのです。因みに、私が最初に彼に会った時に彼が携えていた書物は、花田清輝の『復興期の精神』でした。」(大江健三郎著『静かな生活』解説・講談社文芸文庫)
共に文学を語り音楽を論じていた日々から半世紀が経ち、大江文学『静かな生活』は唯一の伊丹映画の原作となった。ふたりは同じクラスではなかったが、選択科目で一緒になることがあり、時には机を並べて連歌を作ったり、四行詩を二行ずつ合作したという。
高校時代は文芸部や演劇部で活動するが、欠席が多く結局休学となり、留年もあって、松山南高校に転入し、卒業できたのは21歳のときだった。大阪大学理工学部を受験するが失敗して上京。新東宝編集部に入り商業デザイナーとなるわけだが、元々は理科系志向であったことは興味深い。
 記念館の学芸員浅利氏は指摘する。
「『問い詰められたパパとママの本』はどうして夕焼けは赤いかという子供の疑問に答える基礎的な科学本です。映画監督になる前の八〇年代に精神分析に夢中になった伊丹さんですが、科学への志向は彼の大きな特質といえます」
 確かに、その他のエッセイにも彼にはものに対する分析的な興味をうかがうことができる。オムレツの作り方、包丁の持ち方など料理に関することや、LとRの発音法など数多い。
またヴァイオリンを弾き、英国車を愛した多趣味な伊丹だが、音楽と車について、このように語っている。
オーディオマニアの友人に怒り「勿論、音はいいに越したことはない。淫することが不幸だといっているのです。(中略)何サイクル以上の音が聞こえたとか聞こえなかったとか、そんなことどうでもいいことじゃないか。中略どこまでいったって原音通りの再生なんていうのはありっこないんだから。そんなことより、どうして心を空しくして楽器を習い始めないのか。」この一文は次の言葉で締めくくられる。「音楽というのは耳や鼓膜のために書かれたのではない。心に向かって書かれたのだということを今一度思い出していただきたいと思うのです」
クルマについてはこうだ。「いまさら申し上げることもあるまいが、自動車というものは危険物であります。これを扱うに当たって、男たるもの、どんなに自分自身に厳しくあろうとも、厳し過ぎるということはない。(中略」われわれは巧みに運転する前に、品格と節度ある運転を志そうではないか」
またこうも言う。「自動車なんていうものは、単なる運搬の具じゃないの。実用品であります。便利だから乗るのであって、とてもこんなに血道をあげる暇はありません。」
 (以上すべて「女たちよ!」より)
 切れ味のよい語り口に、常に物事の本質をとらえる視線が随所にうかがえ、思わずニヤリとさせられる。

映画俳優からテレビマン、雑誌編集長と十三の旅は続く
1960年に大映東京にニューフェイスとして入社した際、永田雅一社長が命名したといわれる。デビュー作にして初主演となったのは『嫌い嫌い嫌い』。5月には万作との縁で家族ぐるみの付き合いがあった黒沢組のスクリプター野上照代に紹介されて、川喜多長政かしこ夫妻の娘和子と知り合い、7月に結婚する。この結婚が伊丹の国際的俳優への道を開くきっかけとなったことは言うまでもない。『北京の55日』では和子は、伊丹の妻役として出演をしているが、その出演のため翌年大映を退社するまで、6本の映画に出演した。
 62年には妻・和子と自主短編作品『ゴムデッポウ』を制作する。伊丹一三名義だが、これが彼の初めての監督作品となった。二本の海外映画に出演した伊丹は64年、日活映画『執炎』で日本映画に復帰する。しかしこの年開催された東京オリンピックは、テレビの普及率を急速に高める。
結果的にテレビの発展に押された日本の映画界は、テレビ人気とは裏腹に次第に娯楽の主役の座を奪われていった。伊丹の俳優としての活動の場もテレビへとシフトする。ドラマのほか、ドキュメンタリー番組への進出はこのころに始まる。
一つの転機はテレビマンユニオンが制作する「遠くに行きたい」の出演だった。レポーターとしての経験は、テレビのドキュメンタリー制作への興味をかきたてた。ちょうど、テレビの技術革新が進み、同時に新しい表現方法が発達していった。「天皇の世紀」、日本古代史、アートを素材にかつてない番組を、演出と出演をこなして作り上げていった。この経験がのちの映画づくりへの下地となったことは言うまでもない。
またこの時期には私生活でも大きな変化があった。川喜多和子との離婚、そして再婚、さらにふたりの息子の父親となった。自然のなかで子育てをと考えて湯河原に移住した。湯河原の山荘は、後年『お葬式』のロケ地となった場所だ。
夫として父として家事や育児も、仕事と同様に興味を持ってあくまでも本格的に取り組んだ。そして家族をもち42歳になった十三は大きな影響を与えたあるものと出会う。偶然本屋の書棚で手にとったのは岸田秀の著書『ものぐさ精神分析』だった。その中公文庫版の解説にその感動を語っている。
「(筆者が)母親を語った個所に行き当たった時、私は自分の目の前の不透明な膜が弾けとんで、目の眩むような強い光が射しこむのを感じ始めたのである。世界が俄かにくっきりと見えるのを私は感じた。(中略)私の場合、催眠術と現実の祖語に長い間苦しみ、その息苦しさゆえに、掛けられた催眠術と自分の分離がある程度自分の中に進行していたのであろう。そこに『ものぐさ精神分析』が最後の衝撃を与えてくれ、私は一気に催眠術をかけられたものとしての自分を外側から見る視点を得ることができた」 
万作の死後、母親と別れて京都に暮らした事情について語った伊丹の言葉がある。
「僕の場合、大変支配的な、過保護、過干渉の母親に育てられまして、思春期の頃にはもう、泥沼のような状態になっちゃいまして、毎日が息苦しくてたまらない。(父の死後)すると重しがなくなって僕はコントロールを失って非行に走る。母親は不安と恐怖にかられてなんとか僕をしめつけようとする。もう毎日が地獄ですよ。感情の泥沼。この泥沼がとことんまで行った時、ある時僕は突然、母親と精神的にきれちゃったんですね。フイと家出して、家に寄りつかなくなって、そのまま今日に至っているわけです。」(『フランス料理を私と』(文藝春秋刊・絶版)
十三は岸田の著作と出会い、自分をようやく解放できた。「物事には善悪がある」「男は男らしくあらねばならぬ」「失敗したら取り返しがつかない」「自分はよき親でなければならない」などなど、親から子へ無意識にかけられてきた催眠術から覚めたというわけだ。その後、岸田との対談集『哺育器の中の大人』(朝日出版社・絶版)など精神分析に関する本を出版する。そして1981年には、フランス語でぼくのおじさんという意味の『モノンクル』という雑誌を創刊し編集長になる。親が押し付けてくる価値観に風穴を開けてくれる存在であるおじさんとはまさに伊丹十三本人だった。

人生の最後に父万作と同じ映画監督の道を歩む
 同時期、自らが登場するテレビコマーシャルを制作している。津村順天堂、味の素など商品の名を連呼するのではなく、その商品で得られる生活イメージを、ときには得意なエッセイのように語ったり、映像の面白さを追求したりと、今見ても新しく楽しい作品ばかり。
コマーシャル作りはまさにその後の映画製作へのジャンピングボードとなる。きっかけは妻宮本信子の父の葬式だった。
現実に起きた事件を現実の場所で現実の妻を主役に、スクリーンのなかの事件として描くことを思いつく。「葬式という形で、映画が丸ごと天から降ってきた、という気がしました」
記念館には400字詰めの原稿用紙の裏半分を使ってぎっしりと書かれた手書きの脚本と絵コンテが残っている。第一稿は正月休みの一週間で書き上げたそうだが、最終稿までは何度も書き直されている。
「自分丸ごとの表現形式として、僕としてはこれしかない(中略)日頃抑圧しているところの、子供っぽさ、幼稚さ、愚かしさ、あるいは隠された攻撃性や性的な願望というものを、全部表現として作品の中にぶちこめる」(お葬式日記)
 それまでの人生のすべてが、この映画に流れ込んだ。映画は僕の人生の煮こごりのようなものとも話している。
84年6月にクランクインした「お葬式」はその年の11月に封切された。当初、東京では5館、大阪で2館、全国で14館という小規模な公開だった。ところが正月映画に失敗した東宝は「お葬式」の評判を聞いていたために、急きょ全国配給にのり、大ヒットとなった。
実はこの制作費を出したのが、松山の地元企業一六本舗社長の玉置泰。玉置はその後伊丹プロダクションの社長となる。続く2作目の「タンポポ」は、初期エッセイの世界を映像化したような内容で、海外でも評判となる。以降次々ヒット作を生み、伊丹は13年間に10作品を、すべて自己資金で制作できた。
「われわれは映画を半分しか作れない。そして、残りの半分の完成を観客の配慮にゆだねるため、観客の自由に対して映画を作る、ということです。われわれの映画は、これからもさまざまな観客に出会い各人の中でさまざまな形で完成されていくでしょう。私としては、それぞれの出会いが幸せなものであることを祈るのみです」(『お葬式日記』)
伊丹。妻信子が言うようにまさに「この人は監督になるために生まれてきた人」とだった。
 時間をさいて、お金を払って劇場にきてくれる沢山の観客こそ伊丹監督の勲章だったのだ。伊丹映画の魅力はこれからもテレビやDVDを通じ、新しい観客が獲得していくことだろう。

 という内容で、雑誌の記事は終わっていますが、話はもう少し続きます。

1997年12月20日。伊丹プロダクションのある麻布のマンション下で遺体が発見される。ワープロ書きの遺書があり、死因は自殺と警察に断定された。当時写真週刊誌で取り上げられた不倫報道のため、身の潔白を示すために自殺したとされたが、『ミンボーの女』公開後,暴力団員による襲撃事件もあり、その死は暴力団や宗教団体が絡んだ謀略殺の噂まで流れ、いまも謎のままである。
実は伊丹の死後、大江健三郎は,『チェンジリング 取り替えっ子』で伊丹十三をモデルにして、その死後の騒動までも書いている。実は初期の小説に、若き日の伊丹をモデルにした『日常生活の冒険』という作品がある。主人公である斎木犀吉はジャガーEタイプ を乗り回す外国帰りの俳優であり、スノッブな若者の暮らしを描いているが、なんとラストではアフリカで謎の自殺を遂げてしまうのだ。
 もちろん映画界に残した功績は大きなものだったが、その評価はさまざまだ。監督としての再評価や謎の死の解明など、死後10年を経てなお、真実の伊丹十三への興味はつきることないがないだろう。





  
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2012年01月06日

ハースト婦人画報社から「染付」が出版されました

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取材撮影に1年半かけた骨董の染付の器の本がようやく完成しました。
染付の美とその物語を、豆皿から大皿まで全500点余の染付の器とともに紹介しています。

著者の貴道 裕子さんは、京都の美術商の家に生まれ、幼い頃から書画や骨董の器などの美術品に親しんで来られました。ご主人の貴道昂(あきら)さんと、てっさい堂という骨董店を京都の骨董街、古門前通りに開かれて30余年。書画を扱うご主人を手伝いながら、裕子さんは長年にわたって、豆皿や帯留、かんざしなど女性にも親しみやすい骨董を扱ってきました。この本では彼女の染付のコレクションとその楽しみ方を、京都の四季折々の暮らしとあわせてご覧いただけます。

手の上に有る古伊万里。永い時間を経た物語りに、思いを馳せる幸せ。
と坂東玉三郎さんが推薦の文を帯に寄せてくれました。

題字は細川護熙さんの書です。

ご希望の方はこちらをクリックしてください  
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2011年02月08日

染付の本制作中

昨秋から、京都の骨董店の染付コレクションの本をつくるために、取材撮影を行っています。京都の四季の季節感を一年かけておいかけながら、さまざまな染付暮らしや食卓に生かされたさまざまな染付を紹介していきます。刊行は今年の秋の予定です。

先日は染付の撮影の翌日には京都市美術館に卒展を見た後、一乗寺の有名な本やさん恵文社に行きました。ユニークなアート本をつくるアトリエ空中線の本もたくさんならんでました。実は昼にネットで見つけた京都一美味しいというラーメン店高安が目的でしたが、こちらは少々期待はずれ。とんこつよりも煮干しラーメンがやはり好きだとわかりました。

4月にGALLERY CNで個展を開催するアーティスト岡本光博さんの工房に行ってきました。虎縄文やブランドタグでつくったTシャツ、駅前商店街のほとんどすべてをローン会社のネオンが埋め尽くした「闇夜」など興味深い作品をみせてもらいました。

  
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2010年09月23日

GALLERY CNでは石神則子展開催中

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キャンバスからあふれでそうな大きな花や、風や水の流れにゆれる小さな花々など、鮮やかな花の絵が魅力の石神則子さん。大胆な筆致といきいきした色遣いで描かれた花々は、まるで大きな花束に顔をうずめたかのような、花の存在感や甘い香りを感じさせてくれます。

石神則子展
日時 9月18日(土)から9月26日(日)まで 無休 11時から18時
場所 GALLERY CN GALLERY CN 
 神奈川県藤沢市南藤沢7-6 クレスト藤沢206 (藤沢駅南口から徒歩5分)
tel & fax 0466-27-1199 
http://gallery-cn.sakura.ne.jp/


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「食後のデザートのように最後にだけ味わえる気持ちの良さ、そんな幸福感を味わえる作品を作っていきたい。」と話す石神は、これまで名古屋を中心に活躍してきました。今回湘南藤沢では初めての個展となります。

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「眠りの森」  
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2010年08月14日

パリのアート情報

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久しぶり
ギャラリーの仕事が多くなってごぶさたしてしまいました
8月ひとつき妻と娘はフランスに行ってます。
妻はアート巡り、娘はフランス語の勉強です。
妻のパリのアートリポートはこちらです。 http://www.art-it.asia/u/206cn/

娘の写真はここです。http://moe-journal.blogspot.com/

GALLERY CNでは9月に都築まゆ美展と石神則子展のふたつがあります。
詳しくはこちらで。http://gallery-cn.sakura.ne.jp/

先日恵比寿にあるLibrairie6というギャラリーで野中ユリ展を見てきました。
こじんまりとした素敵なギャラリーです。
その隣はI FIND EVERYTHINGというアンティークアクセサリーと創作帽子の店があり、
そのオーナーの真夏さんはARTAMというWEBギャラリーを開いています。これも必見ですよ。



  
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2008年09月29日

自然派ワイン

65fc53b2.jpg10月20日発売のNIKKEI STYLE REAL秋号(日本経済新聞出版社刊)で
自然派ワインの特集を企画編集しました。
藤沢のワインショップ、ROCKS OFFの協力で
フランス・イタリアのおすすめ自然派ワインと
その魅力、楽しみ方を紹介します。

自然派ワインとは、本来のワイン造りを今に実践し、造られたワインです。
1960年代以降、旧大陸のワインは、消費量のアップに伴い、
ぶどう栽培からワイン醸造の過程で、近代化、工業化が進みました。
たとえば、従来ならひと月かかった雑草取りを、
除草剤をまくだけで3日ですんでしまうようになりました。
また収量アップのために化学肥料に頼ったぶどうからは、
もともとその土地ならではの風味を失いました。

また天候に恵まれなかった年は糖分を加え、
しかも人工酵母により醸造され、
酸化防止効果とコクのあるワインができる亜硫酸を添加され、
消費者の好みに合わせて造られたワインは、
本来のワインとはかけ離れたものになったのです。

こうした流れに逆らって、90年代から盛んになってきたのが
自然派ワインです。無農薬、無化学肥料、無添加でつくる
ワイン造りにこだわった醸造家たち。
この特集ではぜひ名前を覚えたい生産者と、自然派ワインが買える店、
ネットショップを紹介します。ぜひご一読ください。

写真は自然派ワインを造る醸造家、鬼才ティエリ・ピュズラ(右)です。
  
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2008年08月05日

次回企画展 ジム・ハサウェイ水墨画展

c73a47bb.jpg8月いっぱいギャラリーCNはお休みですが、
9月からの企画展の準備を進めています。

1年がかりの企画で、アメリカ人の水墨画家ジム・ハサウェイさんの
新作展を行います。9月5日(金)から9月23日(火)<水曜休み>
まで藤沢市南藤沢7−6−206 ギャラリーCNで開催します。
鎌倉と藤沢を結ぶ江ノ電が走る湘南をテーマに描いた作品展です。

この時期に江ノ電が主催するエノデンエンセンテンという
沿線の10のアーティスト&ギャラリーが参加するアートフェアがあり、
この企画展に参加する形で行います。
まもなく江ノ電の車内などでジムさんの作品ポスターも掲示されますが
一足早くここに掲載いたします。
  
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2008年08月04日

緩和ケア病棟

日曜日に義父の病院に行って来ました。
一昨年秋に下咽頭がんのステージ4と診断され、
放射線治療、抗がん剤治療を受けました。
その後リンパ腺や肺などへの転移もあり、
サイバーナイフも試しました。
しかしながら頚部のがんをおさえこむにはいたらず、
飲みこみ不自由となったため、現在は胃ろうを設置し、
緩和ケア病棟に入院しています。
古いアルバムなどを一緒に見てひとときを過ごしました。
天国に行ったら逢いたい人を50人リストアップ中で、質問事項も練っていました。

病院の治療方針に、患者と家族のQOLを大事にするという項目がありましたが、
がん患者だけでなく、これからの高齢者医療にとって
ほんとうに大切な点と感じた次第です。

  
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2006年10月21日

「朝鮮骨董のしつらえ」展 新羅高麗の土器を花生けに

4f0b4d47.JPG今回、初めて企画展をプロデュースしました。
朝鮮のやきものと家具の骨董店として定評のある京都、
川口美術に、湘南・藤沢の地で初めて、
新羅や高麗の土器を紹介してもらいます。
モダン空間のなかで、
いにしえの土器と秋の野花が織りなす、
清澄なひと時をお楽しみいただけます。
あわせて李朝時代のパンダジや
ハギレを生かしたチョガッポなど
朝鮮骨董の名品にも出会えます。
花は鎌倉在住の花人、福田たかゆきさんが
生けてくれます。

  
日時:2006年10月14日(土)から11月12日(日)
    11時から18時 (月曜休み)
場所:GALLERY CN 
    神奈川県藤沢市南藤沢7-6 クレスト藤沢206(藤沢駅南口から徒歩3分)
    TEL&FAX 0466-27-1199
mail:gallery-cn@citrus.ocn.ne.jp


  
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2006年06月16日

乳がんがみつかった 4

 次の日曜日。大学時代からの友人達と久しぶりに会いました。女5人。「病気を話題にするのはいやだな」と思っていたのに、この年になるといろいろなところに支障が出てきているようです。
 ひとりはC型肝炎にかかっていることがわかり、インターフェロンの治療中。学生時代からあまり感情を表にださず、弱音や愚痴などめったに口にださないクールな彼女なのですが、さすがに治療はつらいらしい。好きなお酒もストップ。その日のおいしい鶏料理もなかなか箸が進みません。
「もしかしたら、私もそんな闘病生活になるかも」と、他人事とは思えなくなってしまい、「実は私もね」と、この1週間の話を始めてしまいました。

 自分では、これからがんの治療をしなくてはならないということを、かなり冷静に受け止め、「あなたたちも気をつけてね」というつもりで話したのですが、初めて聞く友人たちは、かなりショックだったようです。あとで「ひとりでお茶を飲んでいるときに、ふいにあなたのことを思い出して、涙が出てしまった」というメールをもらい、辛い気持ちを伝染させてしまったんだなあ、と反省。自分は話すことで次第に気持ちを整理しているのに、その分、受け止める相手はずっしりきていたんだ、ということに気が付きました。申し訳ない。
 しかしながら、そのときの仲間のひとりで、医療関係の出版社に勤めている友人からは、さっそく私が診察をうけている病院の評判や、がん関係の情報サイトの案内などがメールで届いたり、インターフェロン治療中の彼女からは、自分の病院通いの道すがらに見つけた、気になる病院の外来案内を送られたり、なにかにつけて力になってもらうことができました。
 私もそれ以来、自分の病院通いの状況など、心配してくれる仲間にメールで報告することになりました。
 
 さて、週が明けて、改めて主治医となる外科のドクターとの面接日。30代後半から40代始めくらいの柔和な感じのドクターから言われたのは「あなたのがんはまだ小さいけれど、乳首のほとんど真下の位置にあるので温存するのは難しいです。全部切って、そのあと必要なら再建手術をする方法があります」
「この病院では形成外科もあるので、シリコンバッグを入れる手術をすることができます。ただシリコンバッグも、20人に1人は、中でシリコンがもれたりすることもあるんです」

 生半可な知識で、てっきり温存手術をするものだと思い込んでいた私。全部取るって、どういうこと?
 がんだと診断されたときよりも、このときのほうがはるかにショックでした。
シリコンが中でもれたら、どうするんだろう。
 ふいに、赤ちゃんだった息子が寝入りばな、いつもいつもまさぐっていた私のおっぱいがなくなっちゃうんだ、と思ったら、初めてぐっと込み上げてきて、言葉がでなくなってしまいました。
「大丈夫ですか?」と聞くドクターに「大丈夫です」と答えたものの、なにを質問したらいいかもわからないまま、1週間後に精密な超音波検査、11月の半ばにセンチネルリンパ節生検、11月末にMRI検査、手術は12月16日に予約。検査・手術も大変に込んでいるので、今から予約だけでも入れておきましょう、ということでした。
 ようやく大変な現実を実感しました。


  
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2006年03月01日

乳がんが見つかった 3

「がんかもしれない」といわれたその夜、夫はなにやらインターネットで調べています。さっそく乳がんに関する情報をあれこれ集めているよう。
「ねえねえ見て。乳がんって、こんなしくみになってるんだ」。
ことさらいつもと同じような表情で、患者さんのマンモグラフィ画像を私に見せてくれるので すが、私はなんとなく機嫌が悪い。
「私のがんなんだから、私がいちばん知っていたい。主導権を握るのは私なんだからね!」
 心の中はこんな感じ。いきなり、なんでもわがままのいえる特権階級になってしまったみたい。この日はもう何も考える気がしなくて、さっさと寝てしまいました。
 2日後。医師に指定された時間に病院に電話をかけました。出先だったので、落ち着いて話せるベンチを探し、心の準備をしてから思いきって携帯電話を耳にあてました。
「細胞診の結果なんですけれど、針生検ではなくて、もう少し別の検査が必要になってきました」
「この間の検査では良性であるといえる材料が見当たらない、ということですか?」
「いや、むしろ悪性の可能性が高いです」
 翌日の病院の予約をとって電話を切ってから、すぐに夫に電話。
  不思議なことに「がんではないか」と心配していたときよりも、今度はずっと冷静でいられました。いっそ目標がはっきりした。そんな気持ちです。
 弱気になったら切りがない。立ち向かおう。
 帰りに本屋に寄って、まずは参考書。初心者なので、読んでいてめげないように、明るい装丁のムックで、乳がん治療に関する全般的なことが書いてありも
のを選びました。ぱらっとめくってみるけれど、あまり頭に入りません。
 次の日。訪ねるようにと医師が指定したのは点滴センター。丸いテーブルを中心に、3〜4人の女性たちが点滴をしています。すぐに、抗がん剤での治療を
しているのだと気がつきました。
 診察室で改めて説明を受けました。
 先日取ったしこりの細胞の病理結果報告書を見ながら、「やはり硬がんでした」。そしてまた、ポイントになる言葉を書き付けながら「太めの針を使った針
生検で、ホルモン治療が有効かどうかや、細胞の悪性度などがわかります。が、今後の治療方針を決定するうえでいちばん重い因子となるのが、腋の下のリン
パ節に転移しているかどうかです。それを確認するために、センチネルリンパ節生検という検査をやっていただきます」
「今のところ、がんの大きさは2センチ以下で、リンパ節に転移はしていない可能性です」
「がんの治療には、手術、抗がん剤やホルモン剤、分子標的薬剤などの薬を使うもの、放射線による治療が行われますが、あなたの場合はまず手術をすることになるでしょう。ただ、私は血液治療の担当なので、この次からは外科の先生に引き継ぎます」。
 いきなりこの点滴センターで、抗がん剤治療をするのではなかったのね。
外科の医師との面接を次の週に予約して、精密エコー検査、MRI検査の予約をしてこの日は終わり。
 この病院のホームページで、改めて診察を受ける外科医のプロフィールをみてみたけれど、大学を卒業した年度がわかるくらいで、あまりたいした情報はあ
りません。私を見てくれるのがどんな先生なのかは、よくわからないのです。

  
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2006年01月23日

乳がんが見つかった 2

10月18日、雨もよいの天気のなか、東京・築地にあるS病院に行きました。人間ドックを受けたIクリニックで紹介状を書いてもらってからとも思ったの
ですが、紹介状があるからといって、早く診療してもらえるというわけでもなさそう。とにかく時間が惜しく、ブレストセンターの初診日も週に3日と限られ
ているので、いちばん早く行けるこの日に、紹介状を持たないまま行きました。
S病院は建て替えられて間もないのか、病院というよりはまるでホテルのよう。機能一点ばりではなく、居心地のよさに重点を置いているらしく、照明も内装
も温かい雰囲気で、そこかしこの壁に複製でない絵が掛けられています。初診の受付を済ませて、2階のブレストセンターへ。
まず、現在の症状などを書き込むアンケート。右の乳房に、精密検査をしてほしいしこりがあることを伝えると、医師の面接を受ける前に、エコーとマンモグ
ラフィの検査を受けるようにいわれました。マンモグラフィは両方の乳房を。すぐに画像をチェックできるのか、検査室を出る前に、女性技師に「しこりを感
じますか?」と聞かれ、「いえ、自分ではわからないのですが」と答えながら、「やっぱり画像にはなにかあるのね」と、じわじわ追いつめられていくような
嫌な予感。
 ようやく診察室に呼ばれると、まだ若い医師がマンモグラフィの画像を私に見せながら「右と左(の乳房)を比べると、明らかに、右のほうに何かが起きて
いますね。ちょうど右の乳首の真下あたりです。良性かもしれないし、悪性かもしれない。針を刺してその部分の細胞を取って検査しないといかんのです」。
おっぱいに針を刺すなんて、まったく心の準備ができていなかったので、一瞬、逃げ出したい衝動。でも観念して固いベッドに横になりました。「乳首の下は
乳腺が集まっているので、いちばん痛いところなんですけれど」といいながら、エコーでしこりの場所を確認しながら針を刺をぶすり。しこりの部分にうまく
到達するように、注意深く針で場所を探している感じ。やがて、針につながったチューブの先のポンプをしゅこしゅこ押して、細胞を吸い取っている様子。
 痛い処置が終わると、その若い医師は、口に出すひとことひとことを紙に書き付けていきます。「右乳頭直下に、考慮しないといけない1センチ程度の所見
があります。悪性の可能性もあります。細胞診の結果を待ちますが、もし、がんだった場合は、乳がんの中の硬がんという種類でしょう。細胞がとれてきづら
いものです。今日の検査で最終判断がつかない場合は、もう少し太い針を使う針生検が必要になります。さらに検査が必要になるかどうかは2日後にわかりま
すから、電話をしてください」
 診察室では冷静に切り抜けたのに、会計を終わって、まず夫に電話をしなきゃ、と思っても、なんだか全身の力が抜けてしまったようで、しばらくホールの
ベンチに座ったまま動けない。ちょうどお昼どき。白衣を着た医師たちが病院内のレストランに向かって歩いていくのを眺めながら「病院にはベンチがたくさ
ん必要だなあ」などとぼんやり考えていました。
「がんかもしれない」といわれても「自分は長くは生きられない」、という考えとは直結しませんでした。がんは老化の一種だから、いつかはがんになっても
不思議はない、とある程度覚悟もしていたし、私の父もS字結腸がんの手術をしています。もう20年以上も前の出来事です。今、だれよりも元気にしていま
す。そういえば、もとの会社の先輩も乳がんの手術をしたんだっけ。鳥越俊太郎は直腸がん? がんを患い、そして今でも元気に仕事をしている人たちの顔を
思い浮かべる。よその人ががんと聞いたときは、気の毒に、と思っていたけれど、いざ、自分の身に降り掛かってみると、まわりまわって、そういう人たちの
存在にとても勇気付けられている自分がいます。私も彼らの仲間になれるだろうか? 
 夫に電話をする声が震えてしまう。「きょうはもう、家に帰ったら?」といってくれましたが、こんな状態で家に帰って、子どもの顔を見るのはとても嫌だ
と思いました。3時に仕事の打ち合わせ。それまで、そうだ、なにかおいしいものでも食べよう。ようやくお腹がぺこぺこだったことを思い出して、銀座に出
ることにしました。たくさんは食べたくないけれど、なにかおいしくてちゃんとしたもの。わさわさしたところには入りたくない。で、資生堂パーラーに。ジ
ーンズにレインコートという私のカジュアルな服装はちょっと場違いな感じだったけれど、レストランに足を踏み入れると、にこやかに席に案内されました。
名物のクロケットを注文。記念日のランチを囲む家族連れや、会社を抜け出して、大切な時間を過ごしているらしい熟年カップルを眺めながらデザートまで食
べたら、ようやく普通の人間に戻ったような気分になれました。
 元気になるのって、案外簡単だなあ。
  
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2006年01月04日

乳がんが見つかった

2005年10月に乳がんが見つかり、12月に乳房温存手術、現在放射線治療中です。
乳がんは、マンモグラフィーによる検診が一般化したこともあり、今日本で急増しているようです。毎年、3万5千人もの人が新たにがんが見つかっている
(『別冊NHKきょうの健康 乳がん』より)とか。私のがんが見つかったのも、乳がん検診をすすめるリボンキャンペーンの最中のこと。きっと私と同じよ
うに「なんで私が……」という思いのなかで、がんと向き合っている女性たちが大勢いるのだと思います。
がんに関する情報は、書店にも、インターネットにも、あふれています。私はずいぶんそれらの情報に助けられました。ただ、次々と発信される情報に、疲れ
てしまったことも何度もありました。
「この医師に手術をしてもらおう」。そう決めたのは、がんと診断されてからほぼ一か月がたっていました。そこにたどり着くまでに回った病院は4か所。私
をこのような行動に駆り立てたのは「手術してしまってから後悔したくない」という一心でした。初期の胃がんの手術をしたばっかりに、手術中に脳こうそく
を起こし、亡くなるまでの3年間、不自由な生活を強いられ、唯一の楽しみともいえる食べることを奪われた義父の無念を繰り返したくない。
乳房温存治療の第二段階ともいえる放射線治療は、手術をお願いした医師とは別の病院の医師のところで行っています。放射線医師の初診のときに、私の病院
遍歴をざっと見た彼は「ベストチョイスだったね」といいました。その言葉を聞いて、初めてほっとしています。
私のがんとの付き合いは、始まったばかりです。今では書店の医療関係の書棚は素通りできなくなりました。ただ、たくさんの情報を、私自身とても消化しき
れるものではありません。私のわずかな経験を通してしか、お伝えすることはできませんが、多くのがん体験のひとつとして、読んでいただければ幸いです。





2005年10月、内幸町にあるIクリニックより封書で「人間ドック後のおたずね」が届きました。5月に受けた人間ドックのエコーで乳腺腫瘤の疑いがあ
り、再検査を受けたかどうかの確認の手紙でした。6月にはその年のお正月から入院していた義父が亡くなり、同じ月、25年勤めた出版社をやめたばかりの
私は、頭の中は退社後の仕事のことでいっぱい。再検査のことなどすっかり忘れていたのです。改めて人間ドックの結果を見てみると、「右乳頭付近に小腫瘤
あり。乳腺外科を受診してください。膿胞は良性で問題ありません」。触診の際にも「異常はありません」といわれていたので、人間ドックの結果が届いたと
きは「良性」という言葉に安心しようと思っていました。「エコーで良性か悪性かわかるのかなあ」と、突然不安が頭をもたげ、急いで病院をさがし始めまし
た。とはいえ、乳腺外科のある病院に心あたりはなく、書店で宝島社の『全国病院実力度ランキング』を買ってみました。もしも手術となったときに、大きい
病院に最初から行ったほうがその後の対応が早いかも、と思ったからでした。今読むと、ランキング10位までの病院は診療やケアの特色などが書かれ、50
位までは乳がん手術に対する検査や体制に関する評点が書かれているのですが、そのときはさっぱりわからず、ただそのリストに掲載されている病院のなか
で、以前に聞いたことのある名前、通える場所にあるかどうか、というところだけ、見ていました。
 ランキング13位のS病院は、元の職場の同僚たちが行きつけにしており、ブレストセンターがあって乳がんの症例、乳房温存手術の実績数も多いので、こ
こで再検査を受けることにしました。
  
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2005年12月23日

がん、情報戦争

妻の乳がんが見つかってからふた月。怒涛のような月日が過ぎました。
細胞診の三日後、乳頭直下の浸潤性の硬がんと告げられた妻からの電話。
そのときからふたりの闘いは始まりました。
それは本とインターネットと病院が戦場となった情報戦争といえるものでした。
絶え間ない情報戦は、もちろん、不安や恐怖と戦う神経戦も引き起こしました。

書店にはがん関係のコーナーがあり、患者向けの医学書から闘病記、病院の選び方や名医ガイドがこれでもかとばかり並んでいます。ちょうど大橋巨泉氏の闘病記も出たばかりでした。インターネットで乳がんを検索すると、これも書籍同様に、各ジャンルにわたって数え切れないサイトがあります。

14年前の下咽頭がんに始まり、胃がんと、再度の下咽頭がんと、がんと闘い続けた父のおかげで、がんの本はかなり読んできたつもりでした。でも、あらためていろいろ読みましたが、本もインターネットも手がかりとはなりますが、そこには解決編はありませんでした。

主戦場は妻がひとりで巡った病院でした。妻の望んだ乳房温存手術にたどり着くまで、闘いは続きました。そしてようやく、闘いの一幕を終え、休む間もなく第二幕が始まりました。

次回以降、時にふれ、妻自身がその顛末を綴ります。  
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2005年10月15日

書のアートブック「キャレモジ」

「キャレモジ」というアートブックの
編集を進めています。
12月5日アシェット婦人画報社から出版されます。
キャレモジ」とは伝統的な日本の書を
現代感覚で表現したアートで、
テレビや新聞雑誌でもしばしば紹介され、
密かなブームを起こしています。
背景には、ライフスタイルの欧米化が進み、
床の間に掛け軸という古くからの書の伝統が、
失われつつあるという事情がありました。
これまで書といえば習字や書道と、
お稽古事のイメージが優先していましたが、
「書」本来のファインアートとしての価値を再発見し、
新たなムーブメントを作りつつあるのです。
「キャレモジ」は現代空間にも飾ることができるよう、
新しい装いで書を見せる新感覚のアートです。



  
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2005年07月11日

タイムマシンにのって

「自分時間」NO.5が発売されました。
大特集のテーマは「行きつけの店」。
その中で「文士に学ぶ行きつけの奥義」を編集しました。
ノンフィクションライターの矢島裕紀彦さんが取り上げたのは
山口瞳、開高健、立原正秋、吉田健一、川端康成。
五人の作家たちの「行きつけ論」を紹介しています。

今回顔写真を新潮社から借りましたが、
写真選びで若い頃から晩年にいたるまでの姿を
集中して繰り返し見るうちに、
それぞれの人生が走馬灯のように脳裏に焼きつく
不思議な感覚を覚えました。

数日後、長く患っていた父が亡くなりました。
家に残る写真を片端から見て遺影を選び、
父の人生を振り返るうちに、やはり同じように
まるでタイムマシンでその一生を追いかけるているような
錯覚にとらわれました。

いま、去年の暮れに病床の父に聞いた昔話をまとめながら、
過ぎ去った時の流れに逆らい、記憶のノートに刻み込んでいると、
生きていた父に対してよりも
はるかに饒舌に語りかけていることに気づきます。
父と過ごした不器用な時間が悔やまれてなりません。







  
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2005年05月06日

5年生存率

新聞に未来予測の記事が出ていました。
20年後の社会や技術の発展を予測したのもので、
がんについては特効薬はできないが、
5年生存率が20%上がるとありました。

父親が下咽頭がんに罹ったのは14年前。
放射線と抗がん剤の治療により完治できました。
しかし4年前に胃がんになり、今度は手術を受けました。
実は事前の検査で、かつての放射線治療の影響か、
頚動脈が一部細くなっていて、
手術の影響で脳梗塞を起こす可能性が指摘されました。
血管内を広げる手術を先にすることも検討されましたが、
再検査の結果問題なしとされ、胃の3分の2を摘出する手術を受けました。
しかし手術中かその後に脳梗塞を起こしたのです。
脳梗塞は比較的は軽度なものでしたが、左半身に麻痺が残りました。

父は4年経った今も入院しています。
その後、腸閉塞や、放射線治療が原因の下咽頭がんの再発などで、
手術と入院を繰り返しました。
結果、嚥下障害(飲み込みができない)によって、
1年前からは食事ができなくなり、
腸管から直接栄養を入れる腸ろうに頼っています。
今年の正月明けに40度の熱を出して入院し、
4ヶ月後の今は歩行もできないほどに、体力が落ちました。

ドミノ倒しのように次々と病状が悪化する様は
「治療」の意味を改めて考えさせられます。
もぐらたたきのように、次から次へと襲ってくる病は
父の体力はもちろん気力も奪っていくのです。
好物を味わいたくて、嚥下障害者の食品をなめただけでも、
誤飲を招き肺炎となるのです。

ベッドの上で手足を少しでも動かして、
リハビリをするように勧めていますが、
ようやく歩行器で歩いたと思うと、
熱を出して点滴と車椅子に逆戻りという一進一退の毎日です。
5年生存まであと半年。
でもそうした統計的な数字ではない、
患者ひとりひとりの「生存」の質の向上を望むばかりです。  
Posted by shingo67 at 08:37Comments(0)TrackBack(0)がん

2005年04月03日

京都の骨董屋さん

182657e1.jpg京都下鴨神社のそばの静かな住宅地に骨董屋さんがあります。
ご主人の川口さんは30年間ホテルマンとして過ごしたのち、
韓国骨董と出合い、骨董店を開きました。
先日、三年ぶりに京都を訪れ、
半日、店を開くまでのお話をうかがいました。

糺の森に近い、二階建ての店には、
川口さんが韓国などで、買い付けた骨董が並びます。
朝鮮家具のバンダジ、古裂を縫い合わせたチョガッポ、
新羅の土器や李朝の磁器などがひっそりと時を刻みます。

ものと巡り合い、その対話のなかから、
自身の感性と響き合ったものを紹介したいと話す川口さん。
生涯をかけた生業に励むゆったりとした時間は
うらやましい限りです。
その姿は「自分時間」という雑誌で紹介します。

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Posted by shingo67 at 22:42Comments(0)TrackBack(0)韓国骨董

2005年03月16日

雑誌編集は3年半ぶり

雑誌の仕事を始めました。
中年の男性誌です。
暮らしに関する連載コラムのほか、特集企画にも関わります。
3年半ぶりの雑誌の仕事です。
内容については、雑誌が出たあとで、あらためてご紹介します。
書籍と違って、あわただしい進行です。
果たしてついていけるのか。アポはうまくとれるのか。
期待と不安が半々の今日この頃です。

「シラス物語」の売れ行きは果たしてどうでしょうか。
ネットで調べると、各地の公共図書館や
大学図書館などには収められています。
貸出し中となっていたりするとほっとします。
住宅の参考書としてはもちろんですが、
火山生まれのシラスを知ると、
地球の構造のこと、環境のこと、
歴史との関わり、持続可能な発展のこと、
九州の経済事情などなど、
その興味はつきることがありません。
オススメの1冊です。







  
Posted by shingo67 at 17:27Comments(0)TrackBack(0)男性誌

2005年03月13日

シラス物語

266cebc2.jpg 農文協から先日出版された書籍「シラス物語」を編集しました。昨年一年かけて企画から取材、撮影、執筆、校正を行い先日出版したものです。
 この本ではシラスと呼ばれる南九州の火山灰を使った壁材を中心に紹介しています。アレルギーやぜんそくによく、しかもタバコなどのいやな臭いをとりのぞく土壁として、シラスの壁が注目されているのです。
 珪藻土を超える環境と人にやさしいシラスは、2万5千年前に誕生した地球からの贈り物です。地元ではやせた土地や土砂災害の原因として永らく負の存在でしたが、いま住まいを快適にする建材として、また無尽蔵の資源として見直されています。
 本書は第一部では住まいを変えたシラスの魅力を、第二部ではシラスの歴史と資源化への取り組みを紹介しています。負の遺産を宝物に変えた知恵と工夫のこの物語は、これからの住まい作りにはもちろん、地球環境を考えるうえで参考になります。
 また火山国日本に対する認識が変わります。石黒耀氏の「死都日本」で脚光を浴びた巨大噴火の遺産を知ることができます。さらにシラスが明治維新を担った薩摩藩と深い関わりがあったこと、現在の焼酎ブームがシラス抜きで語ることはできないことなど、新しい発見も本書の魅力です。ぜひご一読ください。
  
Posted by shingo67 at 23:20Comments(0)TrackBack(0)エコ住宅