2012年02月23日

伊丹十三のこと

伊丹十三死後15年。彼の半生を描いたドラマがテレビで放映される。実は5年前に、ある雑誌に、彼の半生を追った記事を書いたことがあります。以下はその元となった原稿ですが、ラストが掲載した記事とは大きく違うのです。いい機会なので掲載します。
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写真上/松山にある伊丹十三記念館の中庭。ガラス窓にはタンポポが

伊丹十三が自殺したのは1997年12月20日。最後の作品となった『マルタイの女』が封切され、わずか3カ月足らずのことだった。
あれから早10年が過ぎたが、昨年、74回目の誕生日5月15日に、父、伊丹万作の生まれ故郷である愛媛県松山市に伊丹十三記念館がオープンした。
さらに昨年から今年にかけて、NHK−BSで一連の伊丹十三監督作品が放映された。久しぶりに見た人も初めての人も、あらためてその面白さに引き付けられたことと思う。
お葬式、ラーメン、税金、やくざ、新興宗教など、作品の題材は誰もが知っているつもりながら実はよくわかっていないものばかり。その実態や、裏話がテンポよく描かれ、いつのまにか画面の中に引き込まれてしまった。
1982年。当時どん底にあった日本映画界に映画『お葬式』で彗星のごとく登場し、各映画賞も総なめにした映画監督伊丹十三の誕生は衝撃的だった。その後も妻であり、ふたりの息子の母でもある女優、宮本信子と二人三脚。映画史に残る傑作『たんぽぽ』(85年)『マルサの女』(87年)『ミンボーの女』(92年)から『マルタイの女』(97年)まで10作品を、すべて脚本監督を手がけ送り出した。
昨年来、日本中で行われたお詫び会見が話題性に拍車をかけた食品偽装問題。『スーパーの女』(96年)では、日付ラベルの貼り替えや違う肉を交ぜるテクニックまで暴いていた。食品業界のまやかしに、監督はとっくに警鐘を鳴らしていた。あらためて伊丹十三の着眼点に驚かされた。

世代間で異なる伊丹十三のイメージ、果たしてその実体は
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写真上/伊丹十三記念館にて

伊丹十三のイメージは世代によって異なる。20代、30代にとっては非業の映画監督。40代から50代前半までにとっては、テレビドラマやコマーシャル、映画に出演していた個性的な俳優でもあった。NHKの大河ドラマ『峠の群像』(82年)で憎たらしい吉良上野之介を演じて従来の爺臭い人物像を払拭した姿や、『家族ゲーム』(83年)の目玉焼きの黄身をすする父親役などが思い出される。
また団塊の世代は、伊丹十三といえば若いころは外国映画に出演する国際派俳優であり、さらに海外体験を語るエッセイストとして華々しく活躍したことを覚えているだろう。
1961年『北京の55日』の撮影のためにイギリスやスペインに長期間滞在した経験が、数年後『ヨーロッパ退屈日記』という本を生んだ。また1963年イギリス映画『ロード・ジム』のオーディションのため、伊丹十三はロンドンにいた。本読みからカメラリハーサルまで2か月すごしたが、その様子は2冊目のエッセイ集『女たちよ!』に描かれている。
当時は一三(いちぞう)という芸名で活動していた。後年『マイナスをプラスに変える』ために十三に改名したと冗談まじりに語っている。1960年に大映から映画俳優としてデビューした伊丹だが、その前身はグラフィックデザイナーであったことを知る人は少ないだろう。
エッセイを書くきっかけを作った作家山口瞳は、河出書房の雑誌『知性』の編集者時代に若き日のデザイナーの伊丹と知り合った。のちに漫画読本のイラストやブックデザインなどで活躍し、伊丹が作る明朝体は日本一との評判もとっていた。美しいレタリングで装丁された父万作の全集や山口瞳の小説のタイトルデザインが残っている。

スタンダードなお洒落とは、服装だけでない生きる姿勢だった
エッセイを通じ60年代の若者に影響を与えた伊丹だが、そのひとつがファッションだった。
高校の記念写真にひとり私服姿で写るのは個性あふれる十三の姿だ。お洒落な彼は米軍放出のカーキのズボンを黒く染めてはいていた。
その彼が『ヨーロッパ退屈日記』ではファッションについてこう語る。
「個性的なお洒落、という言葉があります。これは、わたくしは間違ってると思うのです。少なくとも、男に関する限り絶対に間違っている。(中略)つまり、男のお洒落というのは、本筋、でなくてはならぬ。スタンダードでなくてはならぬ。場違いであってはならぬ、のです」
マオカラーの中国服に刺し子の羽織を愛用していた監督時代と違い、俳優時代は長身に映える洋装が多い。60年代はスーツ姿、70年代はアーミースタイルが似合った。移り変わる時代のなかで、自分のこだわりを大切にする十三がそこにいる。
いまではTPOという言葉すら死語となってしまったが、ナマの西洋文化に出会った十三は男のおしゃれは正調であるべきと説いたのだ。
ファッションだけではない。スパゲティの作り方から食べ方、酒場での作法など、男は定見を持つ、筋を通すべきと語った。
「ネクタイとスーツに身を固める以上、人前でズボンをたくし上げたり、ワイシャツをズボンに押し込んだり、チャックを直したり、そういう真似はよしてもらいたいのである。(中略) 見知らぬ人が同席したら必ず紹介しようではないか。食卓で楊枝を使うのはよそうではないか。人の私物に軽々しく手を触れるのはよそうではないか。(中略)これは、外国人にとっては許しがたい行為であることは記憶しておいていいと思う。(中略) 服装だけは先様と同じでいながら、この信頼を裏切るというのは筋が通らないのである」
アル・デンテという言葉を初めて紹介した伊丹だが、初期のエッセイにはシャネル、エルメス、ルイ・ヴィトン、シャルル・ジョールダンなどファションブランドに関する言及も多い。まだ現物すらみたことのある人もほとんどなかったこの時代に、伊丹はヴィトンのモノグラムのバッグ地を切って、草履のつま先にしてしまった。そのイラストがいまも残っている。
カッラポだからこそ発見し感動し、人に伝える喜びを知った
当時007シリーズの翻訳にミケリンと記されていたミシュランガイドブックや三ツ星レストランの話題など、今読み返してもその先進性にはいちいち驚かされる。
北京の55日の撮影でヨーロッパにいたときはジャガーを買い、スペインではバーバラという女性とドライブ。さらにアラビアのロレンスに主演したばかりのピーター・オトゥールと共演するだけでなく、香港ヤロンドンの酒場で共に酒を飲み、しかもその出演料でロータス・エランを買ってベネティアまでドライブするといった具合。
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写真上/記念館の別棟に展示された伊丹の最後の愛車ベントレー

こうしたエピソードの数々はハワイ旅行が夢だった60年代の日本人からすれば、想像を超えた域で、体験をもとに語られる言説には納得せざるを得なかったろう。
外国のテレビドラマを通して知った新大陸の西洋文化ではなく、本家ヨーロッパの事情はあくまでも輝きまばゆいものだった。伊丹のエッセイを読んで、多くの若者がまだ見ぬヨーロッパに憧れた。
イラストも文章もこなす、当時は稀有なイラストライターとしての活躍は、エッセイ『女たちよ!』『続女たちよ!』、前出の『問い詰められたパパとママの本』と話題作を生んだ。 
ファッションから外国文化、料理、クルマとさまざまなジャンルの蘊蓄を語る伊丹だが、『女たちよ!』の前書きの結びの言葉には驚かされる。
「と、いうわけで、私は役に立つことをいろいろと知っている。そうしてその役に立つことを普及もしている。がしかし、これらはすべて人から教わったことばかりだ。私自身は――ほとんどまったく無内容な、空っぽの容れ物にすぎない」
 寿司屋での勘定の仕方は山口瞳に、包丁の握り方は辻留にならった。そのほかパイプ煙草の火のつけ方、箸の使い方、レモンの割り方などなど、すべて人に教わったこととする伊丹十三。好奇心と探求心の塊だったからこそ、本格とは何か、本当のやり方、本物を極めていった。
 エッセイだけでなく、その後のテレビドキュメンタリーや、コマーシャルづくり、雑誌編集、そして映画づくりへとつながった、原動力がここにある。

13歳で、映画監督である父,伊丹万作を失う
十三は1933(昭和8)年、映画監督伊丹万作(本名・池内義豊)の長男として京都に生まれる。本名は義弘だが、万作は岳彦という通称をつけ、「タケチャン」と皆から呼ばれていた。万作は片岡千恵蔵の千恵プロで活躍し、『赤西蠣太』を初め幾多の名作を生んだ。また映画論や随筆も執筆する才人だった。
38年に万作は東宝東京撮影所に移籍し、一家は世田谷区に転居。しかし万作は結核のため病床に伏してしまう。
40年岳彦は小学校に入学。このころ描いた1枚の絵が記念館に残っている。正確な観察力でナスやキュウリが描かれた絵だ。世田谷の池内家を訪れた俳人の中村草田男が訪れた際に、気に入って持ち帰ったという。そして十三の死後、草田男の遺族が信子夫人に返されたものだそうだ。存在感のある絵は後年の才能をうかがわせる。
翌年十三は京都師範学校付属国民学校に転校。万作が東宝を退職し、療養のために京都に戻ったからだ。
11歳で特別科学教育学級に編入された十三はなぜか英語を学んでいる。この学級は当時、日本の軍部が、将来の科学者を育成するためのエリート教育を施す場としてつくられ、湯川秀樹博士の子弟らが学んでいたという。野球の「ストライク」のコールが「よし」に変えられた時代にあって、驚いたことに英語教育が続いていたのだ。十三は英語が得意で、後年国際派俳優として活躍する素地はここで作られた。
10年以上にわたって病床にあった万作は、終戦後、十三が中学1年生のときに亡くなった。その後は万作の生まれ故郷の四国松山に帰った母とは離れて京都に暮らし、中学高校といくつか転校を重ねる。
 松山東高校に転入した十三は、翌年転入してきた作家大江健三郎と友人になる。のちに十三の実妹と結婚することになる大江健三郎との出会いについて述べた文がある。
「私が中学の頃、映画監督であった父が亡くなって、一家は食い詰めたあげく、それまで住んでいた都会からいわば都落ちして故郷であった松山へ移り済んだのです。少年だった私は恋人とも引き裂かれて大いに鬱屈しておった。大江君が逆に松山の更に奥の森の中の村から、その村にあった本をすべて読み尽くしたため、更なる読書を求めて松山へでてきたので希望に燃えていたのです。因みに、私が最初に彼に会った時に彼が携えていた書物は、花田清輝の『復興期の精神』でした。」(大江健三郎著『静かな生活』解説・講談社文芸文庫)
共に文学を語り音楽を論じていた日々から半世紀が経ち、大江文学『静かな生活』は唯一の伊丹映画の原作となった。ふたりは同じクラスではなかったが、選択科目で一緒になることがあり、時には机を並べて連歌を作ったり、四行詩を二行ずつ合作したという。
高校時代は文芸部や演劇部で活動するが、欠席が多く結局休学となり、留年もあって、松山南高校に転入し、卒業できたのは21歳のときだった。大阪大学理工学部を受験するが失敗して上京。新東宝編集部に入り商業デザイナーとなるわけだが、元々は理科系志向であったことは興味深い。
 記念館の学芸員浅利氏は指摘する。
「『問い詰められたパパとママの本』はどうして夕焼けは赤いかという子供の疑問に答える基礎的な科学本です。映画監督になる前の八〇年代に精神分析に夢中になった伊丹さんですが、科学への志向は彼の大きな特質といえます」
 確かに、その他のエッセイにも彼にはものに対する分析的な興味をうかがうことができる。オムレツの作り方、包丁の持ち方など料理に関することや、LとRの発音法など数多い。
またヴァイオリンを弾き、英国車を愛した多趣味な伊丹だが、音楽と車について、このように語っている。
オーディオマニアの友人に怒り「勿論、音はいいに越したことはない。淫することが不幸だといっているのです。(中略)何サイクル以上の音が聞こえたとか聞こえなかったとか、そんなことどうでもいいことじゃないか。中略どこまでいったって原音通りの再生なんていうのはありっこないんだから。そんなことより、どうして心を空しくして楽器を習い始めないのか。」この一文は次の言葉で締めくくられる。「音楽というのは耳や鼓膜のために書かれたのではない。心に向かって書かれたのだということを今一度思い出していただきたいと思うのです」
クルマについてはこうだ。「いまさら申し上げることもあるまいが、自動車というものは危険物であります。これを扱うに当たって、男たるもの、どんなに自分自身に厳しくあろうとも、厳し過ぎるということはない。(中略」われわれは巧みに運転する前に、品格と節度ある運転を志そうではないか」
またこうも言う。「自動車なんていうものは、単なる運搬の具じゃないの。実用品であります。便利だから乗るのであって、とてもこんなに血道をあげる暇はありません。」
 (以上すべて「女たちよ!」より)
 切れ味のよい語り口に、常に物事の本質をとらえる視線が随所にうかがえ、思わずニヤリとさせられる。

映画俳優からテレビマン、雑誌編集長と十三の旅は続く
1960年に大映東京にニューフェイスとして入社した際、永田雅一社長が命名したといわれる。デビュー作にして初主演となったのは『嫌い嫌い嫌い』。5月には万作との縁で家族ぐるみの付き合いがあった黒沢組のスクリプター野上照代に紹介されて、川喜多長政かしこ夫妻の娘和子と知り合い、7月に結婚する。この結婚が伊丹の国際的俳優への道を開くきっかけとなったことは言うまでもない。『北京の55日』では和子は、伊丹の妻役として出演をしているが、その出演のため翌年大映を退社するまで、6本の映画に出演した。
 62年には妻・和子と自主短編作品『ゴムデッポウ』を制作する。伊丹一三名義だが、これが彼の初めての監督作品となった。二本の海外映画に出演した伊丹は64年、日活映画『執炎』で日本映画に復帰する。しかしこの年開催された東京オリンピックは、テレビの普及率を急速に高める。
結果的にテレビの発展に押された日本の映画界は、テレビ人気とは裏腹に次第に娯楽の主役の座を奪われていった。伊丹の俳優としての活動の場もテレビへとシフトする。ドラマのほか、ドキュメンタリー番組への進出はこのころに始まる。
一つの転機はテレビマンユニオンが制作する「遠くに行きたい」の出演だった。レポーターとしての経験は、テレビのドキュメンタリー制作への興味をかきたてた。ちょうど、テレビの技術革新が進み、同時に新しい表現方法が発達していった。「天皇の世紀」、日本古代史、アートを素材にかつてない番組を、演出と出演をこなして作り上げていった。この経験がのちの映画づくりへの下地となったことは言うまでもない。
またこの時期には私生活でも大きな変化があった。川喜多和子との離婚、そして再婚、さらにふたりの息子の父親となった。自然のなかで子育てをと考えて湯河原に移住した。湯河原の山荘は、後年『お葬式』のロケ地となった場所だ。
夫として父として家事や育児も、仕事と同様に興味を持ってあくまでも本格的に取り組んだ。そして家族をもち42歳になった十三は大きな影響を与えたあるものと出会う。偶然本屋の書棚で手にとったのは岸田秀の著書『ものぐさ精神分析』だった。その中公文庫版の解説にその感動を語っている。
「(筆者が)母親を語った個所に行き当たった時、私は自分の目の前の不透明な膜が弾けとんで、目の眩むような強い光が射しこむのを感じ始めたのである。世界が俄かにくっきりと見えるのを私は感じた。(中略)私の場合、催眠術と現実の祖語に長い間苦しみ、その息苦しさゆえに、掛けられた催眠術と自分の分離がある程度自分の中に進行していたのであろう。そこに『ものぐさ精神分析』が最後の衝撃を与えてくれ、私は一気に催眠術をかけられたものとしての自分を外側から見る視点を得ることができた」 
万作の死後、母親と別れて京都に暮らした事情について語った伊丹の言葉がある。
「僕の場合、大変支配的な、過保護、過干渉の母親に育てられまして、思春期の頃にはもう、泥沼のような状態になっちゃいまして、毎日が息苦しくてたまらない。(父の死後)すると重しがなくなって僕はコントロールを失って非行に走る。母親は不安と恐怖にかられてなんとか僕をしめつけようとする。もう毎日が地獄ですよ。感情の泥沼。この泥沼がとことんまで行った時、ある時僕は突然、母親と精神的にきれちゃったんですね。フイと家出して、家に寄りつかなくなって、そのまま今日に至っているわけです。」(『フランス料理を私と』(文藝春秋刊・絶版)
十三は岸田の著作と出会い、自分をようやく解放できた。「物事には善悪がある」「男は男らしくあらねばならぬ」「失敗したら取り返しがつかない」「自分はよき親でなければならない」などなど、親から子へ無意識にかけられてきた催眠術から覚めたというわけだ。その後、岸田との対談集『哺育器の中の大人』(朝日出版社・絶版)など精神分析に関する本を出版する。そして1981年には、フランス語でぼくのおじさんという意味の『モノンクル』という雑誌を創刊し編集長になる。親が押し付けてくる価値観に風穴を開けてくれる存在であるおじさんとはまさに伊丹十三本人だった。

人生の最後に父万作と同じ映画監督の道を歩む
 同時期、自らが登場するテレビコマーシャルを制作している。津村順天堂、味の素など商品の名を連呼するのではなく、その商品で得られる生活イメージを、ときには得意なエッセイのように語ったり、映像の面白さを追求したりと、今見ても新しく楽しい作品ばかり。
コマーシャル作りはまさにその後の映画製作へのジャンピングボードとなる。きっかけは妻宮本信子の父の葬式だった。
現実に起きた事件を現実の場所で現実の妻を主役に、スクリーンのなかの事件として描くことを思いつく。「葬式という形で、映画が丸ごと天から降ってきた、という気がしました」
記念館には400字詰めの原稿用紙の裏半分を使ってぎっしりと書かれた手書きの脚本と絵コンテが残っている。第一稿は正月休みの一週間で書き上げたそうだが、最終稿までは何度も書き直されている。
「自分丸ごとの表現形式として、僕としてはこれしかない(中略)日頃抑圧しているところの、子供っぽさ、幼稚さ、愚かしさ、あるいは隠された攻撃性や性的な願望というものを、全部表現として作品の中にぶちこめる」(お葬式日記)
 それまでの人生のすべてが、この映画に流れ込んだ。映画は僕の人生の煮こごりのようなものとも話している。
84年6月にクランクインした「お葬式」はその年の11月に封切された。当初、東京では5館、大阪で2館、全国で14館という小規模な公開だった。ところが正月映画に失敗した東宝は「お葬式」の評判を聞いていたために、急きょ全国配給にのり、大ヒットとなった。
実はこの制作費を出したのが、松山の地元企業一六本舗社長の玉置泰。玉置はその後伊丹プロダクションの社長となる。続く2作目の「タンポポ」は、初期エッセイの世界を映像化したような内容で、海外でも評判となる。以降次々ヒット作を生み、伊丹は13年間に10作品を、すべて自己資金で制作できた。
「われわれは映画を半分しか作れない。そして、残りの半分の完成を観客の配慮にゆだねるため、観客の自由に対して映画を作る、ということです。われわれの映画は、これからもさまざまな観客に出会い各人の中でさまざまな形で完成されていくでしょう。私としては、それぞれの出会いが幸せなものであることを祈るのみです」(『お葬式日記』)
伊丹。妻信子が言うようにまさに「この人は監督になるために生まれてきた人」とだった。
 時間をさいて、お金を払って劇場にきてくれる沢山の観客こそ伊丹監督の勲章だったのだ。伊丹映画の魅力はこれからもテレビやDVDを通じ、新しい観客が獲得していくことだろう。

 という内容で、雑誌の記事は終わっていますが、話はもう少し続きます。

1997年12月20日。伊丹プロダクションのある麻布のマンション下で遺体が発見される。ワープロ書きの遺書があり、死因は自殺と警察に断定された。当時写真週刊誌で取り上げられた不倫報道のため、身の潔白を示すために自殺したとされたが、『ミンボーの女』公開後,暴力団員による襲撃事件もあり、その死は暴力団や宗教団体が絡んだ謀略殺の噂まで流れ、いまも謎のままである。
実は伊丹の死後、大江健三郎は,『チェンジリング 取り替えっ子』で伊丹十三をモデルにして、その死後の騒動までも書いている。実は初期の小説に、若き日の伊丹をモデルにした『日常生活の冒険』という作品がある。主人公である斎木犀吉はジャガーEタイプ を乗り回す外国帰りの俳優であり、スノッブな若者の暮らしを描いているが、なんとラストではアフリカで謎の自殺を遂げてしまうのだ。
 もちろん映画界に残した功績は大きなものだったが、その評価はさまざまだ。監督としての再評価や謎の死の解明など、死後10年を経てなお、真実の伊丹十三への興味はつきることないがないだろう。







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