我々の住む社会では1万円札と千円札の価値は10倍の開きがある。
キャンプをしながらユーコンを旅してた時、極北の自然の中では100ドル札と10ドル札は、全く同じ価値しかない。どちらも、ただの紙切れにすぎず、火を起こす時に使える着火材にしかならなかった。
こんな紙切れに、付加価値をつけて、生活の基盤が構築されている社会構造の不自然さを感じつつ、自然の中での生活が人間のあるべき基本形なんだと気づかされた。
肩書きや社会的地位は、個人のアイデンティティーに果たしてなりえるのだろうか?
少なくとも、極北の地に居た数日間、それはどうでも良いことのようだった気もする。
そこでは、理学療法士であることすらが、なんの意味も持たず、教員であることも、また同様であった。
自分が何者かという問いかけは、まるで愚問であり、自分は何者でもなく、自然の中にあって、ただの一人の人間でしかない。そんな気になってくる。
自分探しの旅とか良く言うけど、そんなものは探さなくても、そこに存在していて、もともと、それほど大した意味は持ち合わせていないのかもしれない。
極北の自然に身を置いた、わずかな時間で、そう悟ったのか分からないが、最近、色々な事に悩まされなくなった。
ま〜どっちでも大差ないなって考えられるようになったと言うか…。
それまで、あれこれ悩んでいた事は、その大半が、どうやらどうでも良いことだったりするようだ。
なんだか頭がスッキリしてる。
キャンプをしながらユーコンを旅してた時、極北の自然の中では100ドル札と10ドル札は、全く同じ価値しかない。どちらも、ただの紙切れにすぎず、火を起こす時に使える着火材にしかならなかった。
こんな紙切れに、付加価値をつけて、生活の基盤が構築されている社会構造の不自然さを感じつつ、自然の中での生活が人間のあるべき基本形なんだと気づかされた。
肩書きや社会的地位は、個人のアイデンティティーに果たしてなりえるのだろうか?
少なくとも、極北の地に居た数日間、それはどうでも良いことのようだった気もする。
そこでは、理学療法士であることすらが、なんの意味も持たず、教員であることも、また同様であった。
自分が何者かという問いかけは、まるで愚問であり、自分は何者でもなく、自然の中にあって、ただの一人の人間でしかない。そんな気になってくる。
自分探しの旅とか良く言うけど、そんなものは探さなくても、そこに存在していて、もともと、それほど大した意味は持ち合わせていないのかもしれない。
極北の自然に身を置いた、わずかな時間で、そう悟ったのか分からないが、最近、色々な事に悩まされなくなった。
ま〜どっちでも大差ないなって考えられるようになったと言うか…。
それまで、あれこれ悩んでいた事は、その大半が、どうやらどうでも良いことだったりするようだ。
なんだか頭がスッキリしてる。