ハンバーグのお話

月曜朝9時の父親の携帯電話からの着信は、考えうる最悪の結果を予想するのに十分なほど、めったにないことだった。


「今朝お母さんがなくなりました。急な話なのでなんとも言えないけど、何かあったらまた連絡します。以上です。」


弟からのメールを見てすぐに、上司に状況と、明日納品するものは戻り次第用意することを伝えて、会社を後にした。仕事の不具合の対応をする時よりもはるかに冷静に。


母は数年前からオリーブ橋小脳萎縮症という、全身の筋肉が弱っていく難病を患っていた。
実家を出て生活をし始めて8年。電車で一時間半という、近すぎも、遠すぎもしない距離は、案外と里帰りをおっくうにさせるものだ。
年に2、3度・・・4度帰れば多い方だろうか。会う度に目に見えて痩せ衰えていくのがわかる中でも、母はやはり自分のことより子供達のからだの心配をする。


「ケンは季節の変わり目はいつでも喘息になるんだから、寝る時も暖かくして。お餅は食べすぎたらまた小さい頃見たく夜中にげーげー吐くんだから。気をつけて。」
会う度に野球少年団の新年会でお餅を食べすぎて吐いた話をされる。もう25年も前の話だ。


うちは子供5人しかも全部男というある意味特異な兄弟構成なのだが(私は4番目 )、それを人に話す度に
「お母さん、女の子が欲しかったんだろうねぇ・・・」と言われる、が、それは誤解だ。
5人目の子供が生まれた後に、父方のおばあちゃんからこんな手紙が届いたらしい。

「女の子は諦めてください」

手紙を見た母は怒り狂い、こう思ったそうだ

「私は女の子なんていじいじしてめんどくさいから好きじゃないし欲しくない!子供が5人なのは・・・・あんたの息子(父)の下半身の不始末だろが〜!!!!!」


・・・閑話休題


実家に向かう電車の中で、いろんなことをぼーっと考えて、母のことを思い出してみた。
でも、いったいこういうときにどういう気持ちになったらいいのかわからない。
病気になったときから、いつかはこうなることを予想していたし、果たして悲しいのか、辛いのか。
親不幸にも年に2、3度しか会わなくなっていた親が亡くなったことで
これからの自分の、大きく言うと人生や、小さく言うと生活に、どんな変化があるのか、想像できなかった。


実家に着いて一番初めに挨拶したのは、兄だと思ったら葬儀屋の人だった。
弟に、こっちだよ、と通された冷蔵庫みたいな室温の畳の部屋に、母は寝ていた。


「急なことでねぇ。朝薬をあげたばっかりだったんだけど、そこから急に具合が悪くなって。」


父は私が家に着いた頃には動揺する様子もなく、手際よく式場の手配と連絡事項について葬儀屋の人と打合せをしていた。
葬儀屋の人は、感傷に浸る間もなく私にこう伝えた。


「ご親族やご近所の方がいらっしゃってもいいように、枕団子と枕飯を作ってあげてください。
枕団子は、上新粉を袋半分をボールに取り出して、少しずつ水をたしながらこねていったら、長く伸ばして
六等分にしてください。茹で上がったら、五つ輪っかに並べた上に一つ乗っけるようにおさらにそなえます。
で枕飯は・・・・・・ 」


「はい。はい。なるほど。はい。わかりました。上新粉半分、長く伸ばして六等分ですね。」


葬儀屋の人の必要以上に事務的で手際のよい説明には、むしろ助けられた気がした。


ご近所づきあいなどほぼ皆無なわが家にとって、特に何か忙しくやるようなこともない。
遠くの親戚が来るのは明日以降だろう。
兄弟達もいつのまにか二階の部屋に戻ってる。父は病院に出かけていた。


母と二人になって、そっと顔の白い布をとってみた。
頬とおでこに触れてみた。まだあたたかかった。
母は寝つきが浅かったから、近くに人がいるとすぐに起きていたので
こんなにぐっすりと眠っている母の寝顔を見るのは初めてのように思えた。


朝から何も食べていなかったのでお腹が空いた。
冷凍庫を開けてみるとレトルトのハンバーグや、中華丼、ビーフシチューらしきものが入っていた。


枕飯を作るのに炊いたご飯のあまりを丼に入れて、電子レンジであたためたハンバーグをパックを空けてみたら。
あれ、ハンバーグなんて入ってない。茶色と緑の液体?これソースなのかな。
冷凍庫でハンバーグの”中身”を探してみたのだけど見つからない。誰か中身だけ食べたんだろうか。
不思議に思って、あたためたパックに入った液体のラベルを見てみた。


ハンバーグ 原材料名 豚肉、たまねぎ、小麦粉、食塩


それは、身体が弱って固形物を食べられなくなった母の流動食だった。


箸でつまめどつまめどハンバーグなんて出てこない。
たどった箸を一口なめてみた。とろみの中に薄い薄い塩味と、ハンバーグの味がした。


頭ではわかっていた晩年の母の身体のことが、ようやくわかった。
いや、わかっているつもりで、わかっていなかったことをわかった。
涙が止まらなかった。


思えば本当に子供のために子供のために生きていたような人だったな。
男五人を育てたなんてすごいことだよ。一人だって大変だろうに。
子供達が大きくなったこれからは、ずっと子供のためにと我慢してきたことを。
好きなところに旅行をして、好きなものを食べて、少しは贅沢できるわ、って言っていたのが少し寂しそうだったのを思い出した。


自分は他人の世話を焼いても、他人に気を遣われたり、世話をやかれたるするのを嫌がる人だった。
晩年は動かない身体に、お母さんは壊れちゃったから、いないことにしておいて、って何度も言っていた。
遠くの子供達が最後を看取る間も無く、もがくこともなく亡くなってしまうなんて、なんだか母らしいと思った。



誰にとっても自分の母の死は特別でないけれど、それを誰かに伝えたくて日記を書いてみました。
伝えたかったのはここまで読んでくれたあなたです。ありがとう。


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