April 22, 2006

38歳記念(笑)ひさしぶりの更新(^^)V

皆さんお久しぶりです。

おかげさまで38歳になりました。
いよいよダンディに向けて準備でございましゅ、うふ。

今日、38歳になってはじめて喋った人・・・。


郵便屋さんのおじさん。


・・・・・・・・・・おじさん、おめでとう。

そしてさっき、すてきなプレゼントも郵便でもらっちゃたよ。
ありがとう。

本当に幸せ者です。





・・・・・・さて、しばらく忙しくてなかなか更新できませんでしたが、
先日、めでたく38歳のバースデイを迎え、

「誕生日」は母親への感謝・・・という言葉をもらって
ふと、「母」への手紙を書こうと思い、某MIXIにて日記に手紙を載せました。

俺をいつも応援してくれていた、今は亡き母へ綴りたいと思います。

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誕生日とは自分の母親へ感謝の気持ちを伝える日、
と最近よく聞きます。

親父にも感謝なんだけどね(笑)
いろんな意味で。

だから、今日はかーちゃんの事を書きます。
少し長いかもしれませんがごめんね〜。


俺の母。

名を「中嶋美代」という。

13年前の夏、ちょうどお盆の頃
天国へ逝った。

母は、とても明るく、優しく、
次男であり末っ子の俺は、愛情たっぷりに育てられた。

物心ついた頃から、母はいつも唄っていた記憶ばかり。
母は、声楽家でありピアニストだった。

今も遺品の中に数々の写真があるけど、
音楽会やリサイタルの写真がほとんど。

小さな頃俺はいつも、ステージ裏でスタンバっていた。

・・・・・・・・・花束贈呈係として(笑)

俺の幼い頃にある母の記憶は、
いつもステージであり、スポットライトだった。

だだっ広いステージの真ん中に、いつものかーちゃんが
よそ行きの顔と化粧と声で光っている。

幼いながらに、なんとなく寂しくもあった。
遠い存在に見えてしょうがなかった。

そんなかーちゃんのアンコールステージの後、
決まって俺は、かーちゃんに花束を渡す大役を演じていた。

まさに「ショー」である。
半ズボンに、散切りカット(いわゆるまことちゃんヘア)、
さらに吊りバンド・・・T_T)

とどめで、

「白タイツ」で彩られた「ちんたんぽん。」

※「ちんたんぽん。」とは、お袋が俺に付けていた愛称である。
  決してカタカナで呼ばないでください(笑)

きつい化粧の匂い。
ベルベットなドレス。
抱き上げられる「ちんたんぽん。」

いつもの「ショー」。

俺も、作り笑顔で観衆に答えていた。
歯抜けなのに・・・・・。
でも、そんな何百人の前でもちゃんと、
マイクではなく、しゃがんでくれて、
「ちんたんぽん、ありがとね。」言ってくれた。

その時が一番嬉しかったのを覚えている。
その声はよそ行きではなく、いつもの母だった。


高校に入り、見事に思春期に入り、
あっぱれな程グレ始めた。
今、思うとどれだけ母は悲しかったのだろう。

俺は「ちんたんぽん。」から脱皮していた(当然である。)

高校時代、男子校。
特殊な世界である。
(決して変なことはなかったが。)

小牧という田舎から、
名古屋の私立高校へ通う。

とうぜん「なめられちゃ終わり。」

ビーバップハイスクールで育った俺は、気合いを入れていた。

とにかく男社会。
強くなければ生きていけない。
そんな校風だった。

入学式。
鼈甲柄のサングラス。
に中途半端なリーゼント。

世の中ボンタンの最盛期だったが、俺はバギータイプ。
(知らん人は知らんでよろしい。)

ちょっと上品なちょい悪が理想だった。

そんな変わっていく俺を母はきっと嘆き悲しんだ事だろう。

「あの、ちんたんぽん。が・・・・。」


俺は勝負をかけていた。
一体何になりたかったのか分からないが、
とにかく人生を賭けたのである。

結果、見事に的中。
入学式の前、まず校舎に入り、始めてクラスメートと
顔を合わせる・・・・。

俺は結構遅く登校したため、教室は8割埋まっていた。

いる。

あそこにも、ここにも。

すげーのが居る。

高校生に見えないのが少なくとも3人。
今にも暴れ出しそうなデリンジャーな奴が1名。
挙動不審な奴がひとり。

俺は、黙って出席番号の席に座る。
「中嶋」の「中」は出席番号だと丁度真ん中になる。

席も、ど真ん中の一番後ろ。

これポイントなんです。

完璧なシナリオだった。

サングラスで登校した俺に、
クラスの殆どが見事に騙されていた。

「威嚇成功・・・・也。」

そして、入学の式が始まる・・・・・。


・・・・・この続きを聞きたい方はリクエストしてくらさい(笑)

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と、まぁこんな俺はご想像通り、かーちゃんに多大な苦労を
かけたのは言うまでもない。

今、38歳となり、母が生きていればいろんな意味で人生も
変わっていたかもしれない。

いろんな場面で母を愛おしく思うときがある。

でも、心の中のお袋はいつも笑っていてくれる。

お袋が俺を産んでくれたおかげで、俺は存在し、
お袋が与えてくれた愛情は俺の自我のフィルターを通し、
今の自分の柱になる。

親は、ほとんどの場合先に逝ってしまうモノ。
それが摂理であり、運命。

俺たちもいつか自分の子供を置いて逝くことになる。
俺は、まだ子供はいないが、
もし授かったのなら、精一杯の愛情を持って接しようと思う。

そして、自分の人生をしっかり子供に見て貰えるような人間で
いようと思う。

立派な人間になるのではなく、生き物としての心。
人としての優しさと、人間ならではの曖昧さ。
全て正直に見せていきたい。

母が残してくれた「唄う事」
父がくれた「描く事」
自分で手に入れた「喋る力」

俺はこの3つで生きていくことしかできない。

わがままな人生になるかもしれないが、
それが俺であり、まさしくDNAだと思う。
それ以上でもそれ以下でもない性分なのだ。



母が、息を引き取るその瞬間を今でも忘れない。

あの日、俺は名大病院の個室で母の病室で泊まっていた。
真夜中、俺はログハウスの設計図を隣の小さな机で書いていた。

その時、母が、なかなか寝付けないと訴えた。

母は、全身にガンが転移した末期だった。
横になると寝られなかった。
だからいつもベッドをあげ、座るようにして寝ていた。

そうしないと寝られなかった。
それを俺は叱咤してしまったんだ。

    「そんなん寝ようと思わんと寝れんぞ」。

母が寝ないと俺も寝られなかった。
看病とはとても大変である。
でも、その一言が今でも俺の心に「後悔」として残っている。
どうしても消えないのだ。

「しんじ、本当に寝れんのよ・・・。」

婦長を呼び、もう一度睡眠薬をもらい投与してもらった。

数分後、やっと眠りについた母。

睡眠薬のせいだと分かってても母の寝息が聞こえ始めて
やっと俺も眠る事ができた。

それが、かーちゃんとの最後の会話になることを知らず・・・・。



・・・翌朝、目が覚める。

母は、いびきをかいていた。

最初は安心したが、すぐにいつものいびきではない事に気づく。

腰掛け状態で寝ていた母は、
普通の呼吸が出来ていなかった。

俺は、すぐ先生を呼んだ。

それまで静かだった病室は、一転して慌ただしくなり、
担当医だけでなく、院長もやってきた。

心電図が母の身体に繋がれたとき、

「・・・・え?」と思った。

もしかしたら・・・・


怖かった。
テレビのドラマでよく見るシーン・・・・。

「中嶋さん!?

 中嶋美代さん!?

 聞こえますか!?」

看護婦が呼びかけるが母は反応しなかった。

俺はただひとり呆然と立ち尽くす。

その後を覚えてないんだ。

親父が来た。
兄が来た。
当時の恋人も来てくれた。
そしてお袋の妹も着いた。

誰が連絡したのだろう、兄貴がしてくれたのだろうか。
本当に思い出せないんだ。

覚えているのは、心電図のリズムが変わり、
母の呼吸のリズムが変わったとき。

俺は母の顔を抱きしめ、一生懸命呼びかけた。

「おふくろ!かーさん!おかーさん!」

頭に浮かぶ母の呼び名を全部言った気がする。

親父は、母の両足を一生懸命さすりながら、
「美代!がんばれ!死ぬな!」って言っていた。

兄貴もきっとお袋の顔を抱きしめたかっただろうな、
でも、ずっと俺の横で母に叫んでいた事を覚えている。

母の耳元で俺は叫んでいた。

「戻ってこい!」




・・・・・・・・・・

         「ピー・・・・・」

心電図が直線となり
まっすぐな音となる・・・・。


その時、

母の右の目から「涙」が溢れてきたんだ。


   お袋が泣いてる。


         きっと、何か伝えようとしてる。



言葉は聞こえないが分かった。
心配しているんだ。俺たちのことを・・・。

いつも、俺たち家族を心配していた母。
離婚をしても最後に俺たちの元に戻ってきた母。
いつも旨い料理で友人をもてなしてくれたかーちゃん。
機嫌がいいといつも勝手に変な唄を創って駆けてきたかーさん。

そして、家族の危機に身体を張って助けてくれたお母さん。


俺たちは、今生きています。

かーちゃんが逝ってから、
俺はとんでもない失敗をした。

そして、いくつもの大切なモノを失いました。

ゼロからのスタートを切った。

苦しかったし、
全てを投げ出したくもなったけど、

なんとか生きてきました。

ここ数年でやっと、
自分を取り戻せた気がします。


兄は相変わらずパワー全開です。
お袋があれだけ心配していたサーフィンも決してやめずに、
今では、知る人ぞ知るサーファーになってしまいました(笑)
そして、最近になってやっと二人でひとつの仕事が出来るように
なったよ。喧嘩はまだしますが。

親父も元気です。
かーちゃんが逝ってからも一人を貫いて、
生涯の妻はあなただけだそうです。

いつもお袋の話になると、いろいろ聞かされます。
このまえは、親父とお袋の結婚に至るまでのストーリーを
聞きました。遠い目をしながら話す親父は幸せそうだった。

そんな親父は俺がいままで13年間ずっと一緒に暮らしてきました。
最近は事務所を立ち上げたので、近いけどお互い一人暮らしです。
俺もそろそろ第二の幸せを掴まないといかんもんでね(^^)


そして、今素晴らしい仲間がたくさん出来ました。
お袋の周りにはいつも、たくさんの仲間がいたよね。

今の俺の紛れもない財産であり、支えになっています。
もしかしたらかーちゃんが導いてくれたのかも?


葬儀の時に、金が無くて
立派な祭壇は用意できなかったね。

はやく落ち着いてゆっくりできる場所を用意します。
もう少し待っててください。


棺の中に入れた手紙は読んでくれましたか?

「心配せずゆっくり眠ってください・・・」

それ以外は覚えてないけど、
葬儀の時に見たお袋の幻?は、
とても穏やかな顔でお経を聞いてたよね。

みんな来てくれたね。
コーラスやピアノの人達も。

俺の友達も駆けつけてくれたね・・・。



・・・今、これを書込ながら泣いています。


寂しさではなく、懐かしさで涙が溢れます。


人は、やはり母を思い出すのだろうね。


世の中には母を知らない人達もきっといる。
その人達はその分きっと強く生きて居るんだろうな。

俺なんかよりも
もっと大きな苦労を乗り越えた人達がたくさんいる。

今できること、
人の繋がりを大切に生きてゆこうって思っています。


大きな愛情をありがとう。

大きな勇気をありがとう。

そして、産んでくれてありがとう。





2006.4.21

天国のかーさんへ。

38歳になった息子より。


  

Posted by shins_cafe at 17:39Comments(1)TrackBack(0) 空気。