真正保守政党を設立する

「真正の保守主義」とは、「真正の自由主義」である。 「真正の自由」とは、「道徳・倫理」に適った「美徳ある自由」である。

2007年11月

理想と現実

前項にて、現実への対処には、思索及びその土台に当たる理想が不可欠であることを述べたが、ここでは、「思索は現実に対処するために存在している」ということを明示しておきたい。つまり、「考えるために考える」のではなく、「行動のために考える」のだということを忘れてはならないのだ。

現実的対処を損なった理想は、もはや「妄念」「妄想」に変化している。

そして、ここが左派的な態度の幼児性、いかがわしさ、覚悟のなさの一因であろう。

現実を見極め、それに応対する形での理念を掲げ、そこから行動を導きだす、書いてしまえば「当たり前」のようであるが、これの実践が容易でないことは、経験的に明らかなことでもある。

理想と現実

理想と現実を同次元として扱う論調を見かけるが、これは如何であろうか。

「理想」-当ブログではより積極的保持の意味合いを持たせるため、信念を含めた形で「理念」と呼んでいるが-は、思索の土台であり、人間たる由縁である内界(オルテガの言うところの自己沈潜)に位置する。そして現実というものは、自己とは離れた場所で存在している外界に位置する(オルテガの言うところの自己疎外)。

そもそも「人間の」生というものは、外界に対峙するための内界そのものであるから、「人として」集団を構築する、つまり「社会」を構築するならば、内界である「理想」ありきの話であり、そこから思索を経て外界に対する「行動」を決定するという過程を踏まねばならない。
「現実主義」といえば何やら合理的(近代の最も病んだ思想の一つであるが)に思え、スマートだと錯覚するようであるが、内界なくして外界に対処するのであれば、これは即ち「動物」に過ぎないのである。

つまりは、「内界不在の行動」、俗的に言えば「考えのない行動」の蔓延、主意主義の広がりが、現在の「人類の動物化、野生(野蛮)化」をもたらしているとさえ言える。

決して理想なき現実主義に堕してはならない。

現在の保守を考える

現在、保守を名乗る団体や個人は乱立している状況にある。
しかしながら、これまで述べてきたような理念として明確に確立した「保守」はどれほど在るだろうか。
それぞれ「保守」を形づくる理念そのものに違いがあることは、健全な事であり、またその違いについて論じる余地や価値も有るだろうが、始末におけないのが、「理念なき保守」の存在である。
何を「保守」するのかも定義せず、厚顔無恥なことに「革新的」な言動に終始する者までが、保守を掲げている。

非常に憂慮するところではあるが、現状で「保守」を名乗る者の概ねが、「単なる反左翼」に過ぎない。もう少し明言するならば、それは「反共産主義」という意味合いでしかない。
社会主義に反しているわけでも、進歩主義に反しているわけでもなく、ただただ「体制としての共産主義」に反抗しているに過ぎない。
しかも困ったことに、彼らは、「共産主義の旗頭」として掲げられた「自由、平等、博愛」に対して、何の議論も疑念も持たず、無条件に頭を垂れ、教義として崇敬している。

繰り返すが、「保守」は何らかの「体制」を支持するものでも、排斥するものでもない。
たかだか数百年の机上の観念的な浅知恵より、何千年の実際的な経験則というものの方が「信頼に足る」と考え、その叡智に習い言動することであるのだ。

そのスタート地点に立った後に初めて、「日本の保守」とは如何なるものかを論議することになるのだが、現状を見渡せば、これが実現する可能性は極めて低いと考えざるを得ない。

日本の進むべき外交とは

我が国は世界の中で、如何なる位置で居るのか。

戦後60年を超え、米国を親分として崇め、その後を懸命に付いて行く事も、中国や韓国に難癖を付けられて、その度に金をせびり取られる事も、止めにせねばなるまい。

日本は、世界に対して、責任と義務を有する国であると肝に命じる必要がある。
それを期待する国は多く存在しており、また、他の国がその責任を負わない現状、日本がその責務を果たす必要がある。

世界には、未だに他国による侵略や、搾取を受けている国々が在る。
米国の如く、自国の理念や文化を押し付け、自国の正義を振りかざしながら、武力による属国化を目論むのではなく、また、中国や露西亜のようなあからさまな侵略は勿論のこと、中国や露西亜、米国の如く兵器とエネルギーのやり取りを通じて、内戦、紛争を巻き起こし、その国の国民の犠牲の上に、その国を絡め取るのでもなく、我が国にしか成しえない「本当の協調」は在ると確信する。

国内では、日本は米国に従うか、中国に従うかの論争しか存在していない。
このような低いレベルの話では、上記したような責任ある国など、夢のまた夢であろう。
日本は日本の道義で行動しなくてはならない。
時にはその道義によって国益を損なうことがあっても、断固として道義を取るような国柄を復古させなくてはならないのだ。

外交には、まず自国がしっかりと成立していなくてはならないが、しかし肝心の国民の未熟な有様を観察すると、外交を語る地点には、甚だ遠いと断じざる得ない。

ナショナリズム批判への反駁

近年のナショナリズム復興に対して、プチナショナリズムであるとか、ネット右翼であるとかと評して、「自己の葛藤や鬱憤を、排外的言動をもって解消している」という文脈で批判しているものを見かける。
これは、全く転倒した説明である。

先の大戦後、我が国は、内外で徹底した「国柄」の廃棄を行った。
そして、自由主義なる個人主義と、社会主義なる全体主義の入り混じった、国柄の廃棄に止まらない異様な社会を人工的に形成するに至った。
元来、適応型民族である我々は、この概念をその都度その都度、都合のいいように使い分け、理念ありきではなく、理由付けのためにこれらの概念を利用してきた。

ところが、こういった「机上の論理」では、対応できない問題がおのずと噴出してくることになる。
「奇麗事では済まない話」というものの存在に突き当たるのだ。
そこで、個人主義と全体主義という「背反する二つの美しき正論」を前に右往左往し、出口のない状況に閉塞してしまう。
竹を割ったように解釈出来ないのが現実というものであり、その出口を明らかにするものは、「常識」という「感覚」でしかない。
常識というものは、前述した通り、「歴史からの叡智」という折り合いを付けるための「経験則」に他ならない。
そして、これらは共同体によって内包するものは異なる。

出口のない閉塞空間に身を置いたものは、そこからの脱出を思案する。
さすれば、自然と脱出の鍵たる「常識」という尺度を求め、それが依拠する共同体を熱望するのは尤もであろう。

そして、相互理解には、相手を知る前に己を徹底的に知らねばならないのは当然のことである。
己を知った後に、提示される排外的言動であれば、それは「常識」に照らした正当性を保持しているといえるが、己を知らず(知らされず)に提示される「美しき正論」であるならば、その正当性には疑問を抱かずには居られない。

伝統主義と近代的国家の差異

ここではっきり名言しておく。
伝統主義ー保守主義と、米国追随は相容れない。
前述した如く、歴史的背景のない米国に保守主義という概念は成立しないし、英国の歴史背景を拝借するのならば、それは英国の伝統に則った模造国家に過ぎない。
まして、米国の国家像をようやくすれば、「産業革命後の近代的価値観を基盤とした、移民らによる新たな人工国家創造の試み」である。
採用された「体制」の違いを除けば、その発端や過程は、もう一方の「人工国家」である「共産主義」陣営と同様である。
米国の模倣を行うならば、それは断じて保守主義足りえないのだ。
繰り返すが、「民主主義」「自由主義」「資本主義」を採用することが「保守主義」なのではない。価値観の次元が、これらと保守主義とは全く異なる。
数多の真正保守知識人が指摘するように、米国追随も概念からして全くの「左翼」思想なのである。
また、戦後に「保守主義」の概念における誤解を生んだ大きな原因は、戦後に跋扈した保守を名乗る「左翼」活動家の跋扈した事にあろう。
「保守主義」とは曖昧で、穏やかで妥当な思想などではない。
保持すべき対象が確固として明確化され、それを堅持する為には生命をも厭わない、列記とした「思想」なのである。

国益

保守主義から語られる行動原理の一つに「国益」が在る。
「国益」とは如何なるものか。
例えれば、大東亜戦争の開戦の是非について様々な意見が在る。
あの戦争に勝機が有ったか否かについては置いておくとして、仮に「勝ち目のなかった戦争」であったならば、宣戦布告し、予測される敗戦を招いた事は「国益に反した」のかという疑問である。
近代的合理主義という名の「自己愛を絶対価値に置く利己主義」に照らせば、「国益に反する」という詭弁を用いた「利己の堅持」という結論の誘導に至るのであろうが、はてさて、そのような不毛の言葉遊びに堕することなく、検討すれば、如何なる結論が提示されるだろうか。

国柄−日本人の特性

日本人の特性とは如何なるものか。
前述したものの他に、独特の文化、芸術を育んで来た情緒、感受性を挙げる。
我が国は、古来より、諸外国と比しても早熟で、かつ独自性に秀でた文化と芸術を生んできた。
その特色とは、柔和でありながら力感を内包する、繊細で角のない様に在ろう。
これは、日本人自身の特色にも直接に重なり、また我が国の大いなる財産として歴史を紡ぐ事によって、国家の一部分を形成してきた。
然しながら近代となり、大量消費文化が蔓延した結果、文化や芸術も消費物に転落し、もはや使い捨てとなった感がある。
本来、芸術や文化は、国民の足跡であり、国家の一部を形成すべきものであるが、足跡が度々刷新されている現状は、もはや芸術や文化が、その体を成していない証であろう。
国民の足跡、すなわち国家の歴史として、時代に耐えうる芸術や文化を育む土壌を再生、保持することもまた、保守主義には必須であると考える。

国柄−評価されるべき国民性

社会は個人の集合体であり、個人が社会を形成するが、それに留まらず、その社会から個人は影響を受け、個人は変化し、更にその集合体である社会が変化する、といった複雑で有機的な関係と存在を示す。
個人主義か全体主義かという議論は、全くもって不毛である。
個人あっての社会、社会あっての個人であり、何れかに重きを置けば、共倒れとなる。
社会なき個性や個人は定義されず、個人なき社会は存在しえない。
国内における最大の社会が国家であり、国家とてこの括りから免ることはない。
つまり、希求する国家像を提言すると共に、評価されるべき個人(国民性)を提言せねばならない。
無論、これは強制されるものではなく、こういった態度が「評価されるべき」という意味である事を強調する。
ここでも「平等」というドグマは排斥されるべきであるし、「公平」という立場に依拠しなくてはならない。

評価されるべき国民とは「勤倹で清廉なる生活と、勉励や挺身の態度を是として、これを実践する国民」である。
これは他者から評価される場合も、他者を評価する場合においても同様である。
現在、跋扈する「拝金主義」「効率主義」は、この点から評価を受ける事はない。
結果の比較ではなく、各個人の身の丈に合った評価基準の提言が必要であり、ここでも最終的に齎される結果において、「評価の平等」などという画一主義、個性の否定〜社会否定は絶対的に排斥する必要がある。
「国旗国歌法」に反対した 真正反日議員
赤松 広隆君    
伊藤 忠治君  
家西 悟君     
池田 元久君
池端 清一君    
石毛えい子君
石橋 大吉君    
岩國 哲人君
岩田 順介君    
上原 康助君
生方 幸夫君    
枝野 幸男君
小沢 鋭仁君    
大畠 章宏君
海江田万里君   
金田 誠一君
河村たかし君    
菅 直人君
北橋 健治君    
桑原  豊君
小平 忠正君    
小林  守君
五島 正規君    
近藤 昭一君
佐々木秀典君
佐藤謙一郎君
坂上 富男君    
末松 義規君
辻  一彦君    
土肥 隆一君
中桐 伸五君    
中沢 健次君
葉山  峻君    
鉢呂 吉雄君
原口 一博君    
日野 市朗君
肥田美代子君    
福岡 宗也君
細川 律夫君    
前原 誠司君
松本 惟子君    
松本  龍君
山元  勉君    
山本 譲司君
山本 孝史君    
横路 孝弘君
石井 郁子君    
大森  猛君
金子 満広君    
木島日出夫君
児玉 健次君    
穀田 恵二君
佐々木憲昭君    
佐々木陸海君
志位 和夫君    
瀬古由起子君
辻  第一君    
寺前  巖君
中路 雅弘君    
中島 武敏君
中林よし子君    
春名 直章君
東中 光雄君    
平賀 高成君
不破 哲三君    
藤木 洋子君
藤田 スミ君    
古堅 実吉君
松本 善明君    
矢島 恒夫君
山原健二郎君    
吉井 英勝君
伊藤  茂君    
北沢 清功君
知久馬二三子君   
辻元 清美君
土井たか子君    
中川 智子君
中西 績介君    
畠山健治郎君
濱田 健一君    
深田  肇君
保坂 展人君    
前島 秀行君
村山 富市君    
横光 克彦君
拉致実行犯シンガンスの釈放要望書に署名した真正 鬼畜・売国・反日議員
日本社会党
衆議院
阿部未喜男、五十嵐広三、池端清一、石橋大吉、石橋政嗣、伊藤茂、伊藤忠治、稲葉誠一、井上泉、井上一成、井上普方、岩垂寿喜男、上田哲、上田利正、上原康助、大原亨、大出俊、緒方克陽、岡田利春、小川国彦、奥野一雄、小澤克介、加藤万吉、角田堅次郎、河上民雄、河野正、川崎寛治、川俣健二郎、木間章、上坂昇、小林恒人、左近正男、佐藤観樹、佐藤敬治、佐藤徳雄、沢田広、沢藤礼次郎、渋沢利久、嶋崎譲、清水勇、城地豊司、新村勝雄、新盛辰雄、関山信之、高沢寅男、田口健二、竹内猛、田中恒利、田邊誠、田並胤明、辻一彦、土井たか子、戸田菊雄、永井孝信、中沢健次、中西績介、中村茂、中村正男、野口幸一、野坂浩賢、馬場昇、早川勝、広瀬秀吉、細谷治通、堀昌雄、前島秀行、松前仰、水田稔、三野優美、武藤山治、村山喜一、村山富市、安田雄三、山口鶴男、山下八洲夫、山花貞夫、吉原栄治、渡部行雄

参議院
青木薪次、赤桐操、穐山篤、秋山長造、一井淳治、糸久八重子、稲村稔夫、及川一夫、大木正吾、大森昭、小川仁一、小野明、梶原敬義、粕谷照美、久保亘、久保田早苗、小山一平、佐藤三吾、志苫裕、菅野久光、鈴木和美、高杉延恵、千葉景子、対馬孝且、中村哲、野田哲、浜本万三、福間知之、渕上貞雄、松前達郎、松本英一、丸谷金保、村沢牧、本岡昭次、八百板正、安恒良一、安永英雄、矢田部理、山口哲夫、山本正和、渡辺四郎

公明党

衆議院
小川新一郎、鳥居一雄、西中清
参議院
猪熊重二、塩出啓典、和田教美

社会民主連合

衆議院
江田五月、菅直人
参議院
田英夫

無所属

衆議院
安井吉典(社会党系)
参議院
青島幸男、宇都宮徳馬、
喜屋武真栄、山田耕三郎
最新コメント
真正保守の真髄〜blog「保守主義の父」 エドマンド・バーク 保守主義より引用 burk
  • ライブドアブログ