極めて基本的な問いかけをしたい。
何をもって「日本」というのか?
例えば、「日本」という国土に「日本国籍」をもった人々が、「独立」して社会を形成していれば、それは「日本」であるのか?
例えば、「大和民族」が社会を形成していれば、それは「日本」であるのか?
例えば、上記の項目全てが該当すれば、それが「日本」であるのか?
例えば、「日本人的徳性」を中心とした社会が形成されているだけでは、それを「日本」とは呼べないのか?
「日本」なるものを考察して、概念化する作業なしには、日本の未来など描くことも、守ることもできよう筈がない。
これまで叙述してきたように、「日本」を象徴していた「日本人的徳性」は、現在においては見る影もなく、抽象的な「日本」は滅亡しているといって過言ではない。
現在では、物質的「日本的なるもの」さえ、消滅の一途にあり、形骸としての「日本」さえも消え去ろうとしている。
勿論、民族としての「日本民族」、国土としての「日本国」、独立国としての「日本国」、これらの堅持は重要である。
しかし、観念的日本が滅んでいるのならば、これらを保守したとてこれを「日本」と呼べるのかは大いに疑問である。
現在の「自称保守」も、「民族主義」も、これらの観点からすれば、「日本」を保持する方向の運動とはなっていない。
何をもって「日本」というのか?
例えば、「日本」という国土に「日本国籍」をもった人々が、「独立」して社会を形成していれば、それは「日本」であるのか?
例えば、「大和民族」が社会を形成していれば、それは「日本」であるのか?
例えば、上記の項目全てが該当すれば、それが「日本」であるのか?
例えば、「日本人的徳性」を中心とした社会が形成されているだけでは、それを「日本」とは呼べないのか?
「日本」なるものを考察して、概念化する作業なしには、日本の未来など描くことも、守ることもできよう筈がない。
これまで叙述してきたように、「日本」を象徴していた「日本人的徳性」は、現在においては見る影もなく、抽象的な「日本」は滅亡しているといって過言ではない。
現在では、物質的「日本的なるもの」さえ、消滅の一途にあり、形骸としての「日本」さえも消え去ろうとしている。
勿論、民族としての「日本民族」、国土としての「日本国」、独立国としての「日本国」、これらの堅持は重要である。
しかし、観念的日本が滅んでいるのならば、これらを保守したとてこれを「日本」と呼べるのかは大いに疑問である。
現在の「自称保守」も、「民族主義」も、これらの観点からすれば、「日本」を保持する方向の運動とはなっていない。
