「社会福祉の充実」も、現在では異論を挟む事が出来ないほところにまで聖域化されているお題目である。
以前にも指摘したが、「弱者救済」といってもいくつも問題を抱えている。
1、弱者とは誰か?何を持って弱者というのか?
2、その弱者を救済することは、如何なる「根拠(考え方)」に准じているのか?
3、弱者は「救済される事」を、どう捉えているのか?
4、救済する側は「救済する事」を、どう捉えているのか?
特に1、弱者の定義を放置していたのでは、話は始まらないのである。
現在では、誰かが「可哀想な人」と感じれば、根こそぎ「弱者」となされるようだが、これを他人に明確に説明できる者がいるのであろうか。
経済的なものか?社会的地位か?生まれか?育ちか?能力か?現在の満足度か?幸福度か?
結局こうして眺めてみると、全てのカテゴリーの「弱者」から外れる人間など、一人として存在しないのだ。
それもその筈であろう。人間は須らく「弱者」であるからこそ「信仰」が生まれるのだ。
そして「万人が弱者」であり、かつ「万人がそれを認知している」からこそ、社会福祉は「絶対であり、無謬である」と鎮座しているのだ。
「社会福祉」を無謬として祭り上げる前に、是非上記の1〜4の項目について熟考されたい。
以前にも指摘したが、「弱者救済」といってもいくつも問題を抱えている。
1、弱者とは誰か?何を持って弱者というのか?
2、その弱者を救済することは、如何なる「根拠(考え方)」に准じているのか?
3、弱者は「救済される事」を、どう捉えているのか?
4、救済する側は「救済する事」を、どう捉えているのか?
特に1、弱者の定義を放置していたのでは、話は始まらないのである。
現在では、誰かが「可哀想な人」と感じれば、根こそぎ「弱者」となされるようだが、これを他人に明確に説明できる者がいるのであろうか。
経済的なものか?社会的地位か?生まれか?育ちか?能力か?現在の満足度か?幸福度か?
結局こうして眺めてみると、全てのカテゴリーの「弱者」から外れる人間など、一人として存在しないのだ。
それもその筈であろう。人間は須らく「弱者」であるからこそ「信仰」が生まれるのだ。
そして「万人が弱者」であり、かつ「万人がそれを認知している」からこそ、社会福祉は「絶対であり、無謬である」と鎮座しているのだ。
「社会福祉」を無謬として祭り上げる前に、是非上記の1〜4の項目について熟考されたい。
