真正保守政党を設立する

「真正の保守主義」とは、「真正の自由主義」である。 「真正の自由」とは、「道徳・倫理」に適った「美徳ある自由」である。

2009年05月

社会福祉について

「社会福祉の充実」も、現在では異論を挟む事が出来ないほところにまで聖域化されているお題目である。

以前にも指摘したが、「弱者救済」といってもいくつも問題を抱えている。

1、弱者とは誰か?何を持って弱者というのか?
2、その弱者を救済することは、如何なる「根拠(考え方)」に准じているのか?
3、弱者は「救済される事」を、どう捉えているのか?
4、救済する側は「救済する事」を、どう捉えているのか?

特に1、弱者の定義を放置していたのでは、話は始まらないのである。
現在では、誰かが「可哀想な人」と感じれば、根こそぎ「弱者」となされるようだが、これを他人に明確に説明できる者がいるのであろうか。

経済的なものか?社会的地位か?生まれか?育ちか?能力か?現在の満足度か?幸福度か?

結局こうして眺めてみると、全てのカテゴリーの「弱者」から外れる人間など、一人として存在しないのだ。
それもその筈であろう。人間は須らく「弱者」であるからこそ「信仰」が生まれるのだ。
そして「万人が弱者」であり、かつ「万人がそれを認知している」からこそ、社会福祉は「絶対であり、無謬である」と鎮座しているのだ。

「社会福祉」を無謬として祭り上げる前に、是非上記の1〜4の項目について熟考されたい。

「ポスト冷戦」の欺瞞

ソビエト連邦が崩壊し、それを以て「冷戦」の終結などと言われているが、これは真実であろうか?

国連における「露西亜」「中華人民共和国」の態度は、ソ連の終焉以降も全く色彩を変えてはいない。

経済体制は「共産主義」から「資本主義」に転換したとて、これが何故に「西側諸国」との和解にまで拡大解釈されているのか。

露西亜や中共は経済体制の他には、何ら変化した部分はなく、寧ろ経済体制の変更により、より一層国力を増加させ、それに伴い途方もない軍拡に邁進しているのが真実である。

日本は地政学上、「露西亜」「支那」に対して慎重すぎるということはない。いつの時代にあっても、露西亜は北から、支那は南から日本への膨張を伺っている。
朝鮮半島の問題は、この二国に対する戦略上で浮上してくるものに過ぎない。
単純な「反露」「反中」という態度以上に、明晰な態度が必要とされる。
勿論、「親露」「親中」などは、日本にとって「恒久に」取りえない態度である。
今や、中共は破竹の勢いで軍備を含めた国力を増強させ、以前のような東亜細亜情勢ではない。これまでの如く「戦争に弱い支那」であればまだしも、今や米国と戦争したとしても勝利するほどである。
地政学的にも政治的にも民族的にも「露西亜」「支那」は日本の「永遠なる仮想敵国」であり、日清、日露戦争より、わずかにも変化していない。軍事力において目も眩むほどの「差」がついている分、現在の状況の方が選択肢は激減している。

日本単独で「露西亜」「支那」を押し返すには既に時期は遅い。
来る世界規模の衝突の折には、「共産思想」「社会主義思想」「敗戦革命思想」「民族共存思想」に取りつかれ、亡国に至った先の大戦の轍を踏まないよう、国民が健全たる思想を堅持せねばならない。

美徳について

「現代において、悪徳が蔓延っている」という点については、様々なところで指摘されている。
しかしながら、この側面のみでは説明不足である。

G.Kチェスタトンは「正統とは何か」の中で、こう表現している。

「一つの宗教的秩序が破壊されると、単に悪徳が野放しになるだけではない。たしかに悪徳は野放しになり、到るところに彷徨って害悪をもたらすけれども、そればかりではなく、実は美徳も野放しになる。そして野放しになった美徳は常軌を逸して到るところを彷徨い歩き、悪徳にも勝るほどの恐るべき害悪をもたらすのだ。現代の世界は、古来のキリスト教的美徳が発狂して到るところに満ち溢れている。」

現代には「美徳は満ち溢れている」。しかしながら「発狂した」形で。
現代では、そのような「発狂した美徳」が蔓延り、今や「ファシズム」の領域にまで進行している。

違法滞在外国人や、在日朝鮮人に対して少しでも追及すれば「国粋主義」「排他主義」「差別主義」と非難され、フリーターや派遣労働者に対して少しでも「自己責任」や「本人の改善すべき点」について言及すれば、「優しさがない」「階級思想だ」と非難される。

正に、野放しになった美徳が常軌を逸して到るところを彷徨い歩き、悪徳にも勝るほどの恐るべき害悪をもたらしている。

そろそろ「徳の正常化」に目覚めねばならない。

恥じの文化の退廃

我々は誰しも「正義」を抱いている。それは勿論、「法律云々による判定」というような矮小な範囲のみを意味しない。現に我々は、法律に規定されていないようなことであっても「正しい事」と「邪な事」を判断する。いわんや法律で規定されているもの、司法で認定されたものに対して「疑義」を抱く場合すらある。

これら「正邪」を判定する「感覚」とは一体何であろうか。

これを我々は「常識」と呼んでいる。ここで誤ってはならないのが、この「常識」という感覚が生まれ持っている先天的なものではなく、生活を通じて後天的に、社会的に獲得される感覚、尺度であるという点である。これは決して「理性」などではない。この感覚は、生育する過程で、環境からもたらされた情報によって構築され、取得されていくものなのである。従って個別の差異は当然の如く生じる。それは、受ける情報の質や量の違い、そしてその情報を処理する個別の能力や特徴によって生まれる差異である。これらの因子はある時点まで、加齢につれて開いていく傾向があるため、年を経るごとに差異は拡大し、自ずとそれらがもたらす感覚にも違いが生じてくる。
この「常識」を育む「情報」こそが、ここでのキーワードとなる。
「情報」に変化が生じれば、直接的に「常識」にも変化が生じる。それに対して「現実」というものは、全く別の次元で、淡々と現実として歴史に通じ紡がれていく。
ここで、「情報」に対して人為的、恣意的操作が加わり、これが現実から解離してしまうようなことがあれば、結果として、「常識」も現実から解離してしまうこととなる。つまり、「現実離れした常識」―それは最早常識足り得ない別の何かであるが―に変異することとなるのだ。そしてこの変異した「元常識」というものは、当然のことながら、現実的な諸問題の解決や、それらの評価といった「常識」が担う役割を全く果たさない。種を明かせば、この「元常識」というものは、要するに「非常識」なるものである。しかし、それを用いる者が、その事に気付くことなく、「非常識」を「常識」が如くに使用しているとしたらどうだろうか。「非常識」をもって、問題解決や評価に当たったとしたら、解決や評価は、到底正当なものには成り得ないだろう。

そして現実にこれは起こっている。そして、ここに今日の「極めて歪な事態」が生じる構造の一つが在る。

「常識」が「正当な常識」であるためには、「情報」が現実に即していることが条件である。そして「常識」という感覚は、一朝一夕に理論的に構築されるものではなく、脈々と続く現実の繋がり、即ち「歴史の経験則」から自然に培われてきたものである。これらの結論として、「常識」が現実と対峙する上で「正当な常識」であるためには、「歴史」が現実に即したものでなくてはならないという条件が浮かび上がってくる。
歴史が事実に一致しなくてはならない、などと極々当たり前の話に聞こえるかもしれないが、現実的にはそうではない。前述したように、「常識」を育む情報には、様々な思惑から、様々な操作が加わるのが実際である。「歴史」ですら様々な思惑によって操作される。歴史に対する「認識」は勿論のこと、場合によっては「歴史的事実」ですら、ある思惑によって操作される。その思惑が、こういった操作によって達成されるか否かは別として、そういった操作による「歴史」(それに対する認識も事実も含め)の歪みは、直接に「常識」の歪みをもたらし、引いては正邪の判定を歪める結果に至る。しかしながら、現実は現実として人々は「経験」し「感じる」のであるから、「正当な常識」という感覚はいくらか残存することになり、「非常識」の下す非常識な正邪の判定に対して、「理論としては正しいが、何となく変」と感じる結果を産むのである。

与えられる「情報」が現実と異なっていたり、正統でなかったりしたならば、そこから育まれる「常識」には当然歪みがもたらされる。その結果「正当な常識」を堅持している者には「変である」と察知される場合であっても、その歪んだ情報によって育まれた「偽常識」を持つ者たちには、変であるとは認識出来ない事態を呈することになる。「正当な常識」を抱く者たちの「正義」と、「偽常識」を抱く者たちの「正義」とは異なったものであるからだ。
例えば、「公共の場で携帯電話を用いて大声で話してはならない」という常識を抱えていない者にとっては、公共の場で携帯電話を用いて大声で話すことは「邪なことではなく」、彼らの良心に響く行為でもないのだ。邪なことでもなく、良心に呵責されるものでもない、つまりその行為を「恥ずかしい行いである」と考えないのであれば、その行為に抑制が掛かるはずはない。
「恥じの文化」の退廃とはつまり、「正当な常識」の退廃なのである。そして「恥じの文化」が廃れ、現在進行形で「品の無い社会」が構築されるに至っている。そして救い難いことに「品の無い人」は、自分が品の無い行いをしているのだという自覚すらない。前述したように、そもそもその行為を「品が無いと思わない」からこそ、行っているのである。また、「品のない人々」が増加すれば、況やこれらが「多数派」に転じるならば、「伝統的な恥じ」は雲散霧消して、消滅する顛末となる。何故と言って、良くも悪くも「恥じ」は対外的価値観であり、「破廉恥な連中」に対しては「恥じる」ことなどないのだから、「伝統的な恥じ」は生じないことになる。こうして「恥じ」を下支えする「正当な常識」と、「恥じを自覚する正当な環境」は消え去り、「恥じの文化」は遺物となる。
では「正当な常識」とは、如何なるものか。それは「正統な常識」を意味すると考える。つまり、「常識」が、連綿と連なる歴史によって形作られ、吟味されて来た「偉大な経験則」に依拠することによって、「正統な常識」として形成されれば、それは自ずと「正当な常識」足りえるのである。極自然に、歴史に準じた形で社会は形成されるのであるから、「常識」も歴史に準じた形で形成されなくては、正常に機能することも、それが「正当」であることも叶わないのである。

また、ここで繰り返して「法律さえ遵守していれば良い」といった態度や、「人に迷惑を掛けなければ良い」といった態度を肯定する向きの問題を指摘しておく。
「恥ずかしい行い」は必ずしも法規違反ではないし、寧ろ風紀の範疇において、それらは法の規定する類ですらない。つまり、「法律」の問題では「恥じ」の復権は成されないであろうし、寧ろ「法律」の範疇で議論することは、「恥じの退廃」を促すことに貢献すると考えられるからである。
「法律さえ遵守していれば良い」とすればここには当然のこと、「法律を犯さなければ何をやっても良い」という解釈が成立する。では「法律」は万能か、あるいは万能にすべきか、と言えばこれにも問題があるだろう。少なくとも現在の「法律」は「例外的事例」に対してのみ制定しているものであり、恒常的な事柄、とりわけ日常的事柄については全く規定されていない。
日常的事項の正邪を規定しているものは、他ならぬ「倫理」「道徳」という「常識」の感覚である。従って、「法律」を遵守していたとしても、それだけでは高い次元での社会秩序などは到底望むべくも無く、日常生活レベルでは全く規範に欠けた、品の無い社会に至ることは容易に想像される。ましてや、「法律を犯さなければ何をやっても良い」という思想は、極めて危険であり、これをまた「自由」と履き違える者までが存在するがために、「例外的事項」の外では、決定的な無秩序が訪れる。事実を事実として見れば、実際にそれが現実のものになっていることが理解されることだと思う。
また、興味深いことに、日常生活規範のレベルに欠けた社会においては、「法律すら遵守されない」傾向が生まれるのである。感覚的にはこれもまた頷ける話であるが、「自由」や「法律」といった宙に浮いたような概念ばかりを追いかけていては、こういった付加事実は見過ごされる傾向にある。
はっきりと「法律」などは「人が守るべき最低限のもの」であり、「法定化」されていない「人が守るべき道」など幾らでも存在することを肝に銘じなければならない。
そしてこういった傾向を生まないためには、やはり「常識」という感覚が肝心となるのだ。


「国旗国歌法」に反対した 真正反日議員
赤松 広隆君    
伊藤 忠治君  
家西 悟君     
池田 元久君
池端 清一君    
石毛えい子君
石橋 大吉君    
岩國 哲人君
岩田 順介君    
上原 康助君
生方 幸夫君    
枝野 幸男君
小沢 鋭仁君    
大畠 章宏君
海江田万里君   
金田 誠一君
河村たかし君    
菅 直人君
北橋 健治君    
桑原  豊君
小平 忠正君    
小林  守君
五島 正規君    
近藤 昭一君
佐々木秀典君
佐藤謙一郎君
坂上 富男君    
末松 義規君
辻  一彦君    
土肥 隆一君
中桐 伸五君    
中沢 健次君
葉山  峻君    
鉢呂 吉雄君
原口 一博君    
日野 市朗君
肥田美代子君    
福岡 宗也君
細川 律夫君    
前原 誠司君
松本 惟子君    
松本  龍君
山元  勉君    
山本 譲司君
山本 孝史君    
横路 孝弘君
石井 郁子君    
大森  猛君
金子 満広君    
木島日出夫君
児玉 健次君    
穀田 恵二君
佐々木憲昭君    
佐々木陸海君
志位 和夫君    
瀬古由起子君
辻  第一君    
寺前  巖君
中路 雅弘君    
中島 武敏君
中林よし子君    
春名 直章君
東中 光雄君    
平賀 高成君
不破 哲三君    
藤木 洋子君
藤田 スミ君    
古堅 実吉君
松本 善明君    
矢島 恒夫君
山原健二郎君    
吉井 英勝君
伊藤  茂君    
北沢 清功君
知久馬二三子君   
辻元 清美君
土井たか子君    
中川 智子君
中西 績介君    
畠山健治郎君
濱田 健一君    
深田  肇君
保坂 展人君    
前島 秀行君
村山 富市君    
横光 克彦君
拉致実行犯シンガンスの釈放要望書に署名した真正 鬼畜・売国・反日議員
日本社会党
衆議院
阿部未喜男、五十嵐広三、池端清一、石橋大吉、石橋政嗣、伊藤茂、伊藤忠治、稲葉誠一、井上泉、井上一成、井上普方、岩垂寿喜男、上田哲、上田利正、上原康助、大原亨、大出俊、緒方克陽、岡田利春、小川国彦、奥野一雄、小澤克介、加藤万吉、角田堅次郎、河上民雄、河野正、川崎寛治、川俣健二郎、木間章、上坂昇、小林恒人、左近正男、佐藤観樹、佐藤敬治、佐藤徳雄、沢田広、沢藤礼次郎、渋沢利久、嶋崎譲、清水勇、城地豊司、新村勝雄、新盛辰雄、関山信之、高沢寅男、田口健二、竹内猛、田中恒利、田邊誠、田並胤明、辻一彦、土井たか子、戸田菊雄、永井孝信、中沢健次、中西績介、中村茂、中村正男、野口幸一、野坂浩賢、馬場昇、早川勝、広瀬秀吉、細谷治通、堀昌雄、前島秀行、松前仰、水田稔、三野優美、武藤山治、村山喜一、村山富市、安田雄三、山口鶴男、山下八洲夫、山花貞夫、吉原栄治、渡部行雄

参議院
青木薪次、赤桐操、穐山篤、秋山長造、一井淳治、糸久八重子、稲村稔夫、及川一夫、大木正吾、大森昭、小川仁一、小野明、梶原敬義、粕谷照美、久保亘、久保田早苗、小山一平、佐藤三吾、志苫裕、菅野久光、鈴木和美、高杉延恵、千葉景子、対馬孝且、中村哲、野田哲、浜本万三、福間知之、渕上貞雄、松前達郎、松本英一、丸谷金保、村沢牧、本岡昭次、八百板正、安恒良一、安永英雄、矢田部理、山口哲夫、山本正和、渡辺四郎

公明党

衆議院
小川新一郎、鳥居一雄、西中清
参議院
猪熊重二、塩出啓典、和田教美

社会民主連合

衆議院
江田五月、菅直人
参議院
田英夫

無所属

衆議院
安井吉典(社会党系)
参議院
青島幸男、宇都宮徳馬、
喜屋武真栄、山田耕三郎
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