皆が「当たり前」と考えている事柄について考察してみる。
例えば「女を殴るような男は最低だ」と言う。
これは間違いのない「日本の当たり前である」。
では、「なぜ男が女を殴ってはいけないのか?」と尋ねれば、「弱いものいじめは駄目だからだ」となる。
では、「弱いものいじめがなぜ駄目なのか?」と尋ねれば・・・。
問い詰めて行けば、全ての「当たり前」に対する説明が着きあたりを迎え、「当たり前」の根源的な説明は不可能となる。
従って須らく「当たり前」に対して「合理的な説明は適わない」。
これは、思想、行動、規範に限った話ではなく、現代において万能とされる「科学」とて、最終的には「形而上的な解釈」の中に呑み込まれざるを得ない。
では「当たり前」を形成してきたものが「理屈」でないのなら、それは一体何か?
それこそが時間的、空間的な「経験」からもたらされる「叡智」である。
何が「真」で、何が「善」か、そして何が「美」であるのか。
「男が女を殴ってはならない」のが「真善美」であり、「弱いものをいじめない」のが「真善美」なのである。
これに「合理的説明はない」し、また「必要でもない」。
こういった話に「独善的だ」という頓珍漢な批判が起るが、馬鹿な話である。
「独善的」であるのは「合理側」である。
いかに優れた人物が「合理」を組み立てようと、それがこれまでの果てしない先人らの「叡智」に勝るなどということは「ない」。
積み上げられた先人らの数、そして経験という「客観」よりも、「合理側」の客観が勝るなどということがあり得ようか。それこそ正に「不合理」である。
現代人は「主知主義」と「合理主義」に万能を感じ、全てに「説明」を求める。
しかしながら、そんな自分という主観的な存在自体が、そもそも「不合理」の極みであることには気付かない。
そして現在の如く一旦「当たり前」が氷解し、変容してしまえば、合理で定義されえない「当たり前」の復活は、「当たり前」であったが故に不可能となる。
それを「蛮行」であると指摘し、「当たり前」が「当たり前」であるように「保守」すること、変容が必要である場合であっても、それを成るべく僅かに留め、漸進主義を崩さない、それが「保守思想」の核である。
例えば「女を殴るような男は最低だ」と言う。
これは間違いのない「日本の当たり前である」。
では、「なぜ男が女を殴ってはいけないのか?」と尋ねれば、「弱いものいじめは駄目だからだ」となる。
では、「弱いものいじめがなぜ駄目なのか?」と尋ねれば・・・。
問い詰めて行けば、全ての「当たり前」に対する説明が着きあたりを迎え、「当たり前」の根源的な説明は不可能となる。
従って須らく「当たり前」に対して「合理的な説明は適わない」。
これは、思想、行動、規範に限った話ではなく、現代において万能とされる「科学」とて、最終的には「形而上的な解釈」の中に呑み込まれざるを得ない。
では「当たり前」を形成してきたものが「理屈」でないのなら、それは一体何か?
それこそが時間的、空間的な「経験」からもたらされる「叡智」である。
何が「真」で、何が「善」か、そして何が「美」であるのか。
「男が女を殴ってはならない」のが「真善美」であり、「弱いものをいじめない」のが「真善美」なのである。
これに「合理的説明はない」し、また「必要でもない」。
こういった話に「独善的だ」という頓珍漢な批判が起るが、馬鹿な話である。
「独善的」であるのは「合理側」である。
いかに優れた人物が「合理」を組み立てようと、それがこれまでの果てしない先人らの「叡智」に勝るなどということは「ない」。
積み上げられた先人らの数、そして経験という「客観」よりも、「合理側」の客観が勝るなどということがあり得ようか。それこそ正に「不合理」である。
現代人は「主知主義」と「合理主義」に万能を感じ、全てに「説明」を求める。
しかしながら、そんな自分という主観的な存在自体が、そもそも「不合理」の極みであることには気付かない。
そして現在の如く一旦「当たり前」が氷解し、変容してしまえば、合理で定義されえない「当たり前」の復活は、「当たり前」であったが故に不可能となる。
それを「蛮行」であると指摘し、「当たり前」が「当たり前」であるように「保守」すること、変容が必要である場合であっても、それを成るべく僅かに留め、漸進主義を崩さない、それが「保守思想」の核である。
