池田信夫blogより転載
2010年02月28日 11:22 経済
老人支配の構造
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51384093.html
拙著の「希望を捨てる勇気」というタイトルが、このごろ「日本経済をダメにする悲観論」の代名詞として使われるので、ひとこと弁明しておこう。
最後まで読んでいただけばわかるが、これは「古い経済システムを延命すれば何とかなるという希望」を捨てないかぎり、長期停滞を抜け出すことはできないという意味である。
経済システムという言葉が抽象的なら、労働市場といってもよい。
中高年の「終身雇用」や年金の負担を若年層に押しつけ、おまけに所得再分配の原資まで国債で調達して将来世代から1人7000万円も収奪する老人支配が問題の本質なのである。
若者は老人から財産を相続しており、これまでの世代の築いた豊かな社会の恩恵を受けているので世代間格差はそれほど大きくないという批判もあるが、深刻なのは所得よりも雇用である。
先日、人事コンサルタントに「雇用規制を緩和しろという池田さんの意見には賛成だが、もうそういう局面ではない」といわれた。
企業は雇用規制を回避して賃金を実質的に切り下げるテクニックを熟知しており、団塊世代の社員が大量に定年退職する欠員を契約社員で埋める労働人口全体の非正規化が進んでいるという。
この背景には、賃金コストを下げたい経営者と正社員の既得権を守りたい労働組合の結託があるので、前者を代弁する自民党も後者を代弁する民主党も、この不公平を隠して「構造改革が格差を拡大した」などと宣伝する。
「コンクリートから人へ」というのは目くらましで、公共事業もバラマキ福祉も、現在世代の消費のコストを将来世代に転嫁する点では変わりない。それは国債が課税の延期であるということがわかりにくい財政錯覚を利用して、老人の既得権を丸ごと守る戦術である。
だから財政の問題は、老人支配の縮図である。
現在の増税の対義語は「無駄の削減」ではなく、将来の増税なのだ。
国債によって増税を延期することは、老人に収奪される若者からさらに多く収奪し、不公平を拡大することに他ならない。デフレの原因は、このような将来への不安が大きくなって消費が沈滞し、企業が投資しないで貯蓄する(自然利子率が負になる)ためであり、その不安は正しい。
かつて銀行が不良債権の処理を先送りした結果、日本の金融システムが壊滅したように、政府債務の処理をこれ以上先送りすると、財政が壊滅して日本経済は回復不可能な打撃を受けるだろう。経済を建て直すには、この大きなゆがみを是正して人々の不安を払拭することが最優先の課題である。
もちろんそれは巨大な所得移転をともなうので、政治的にはきわめて困難だが、それを放置したまま、バラマキ福祉やリフレで「日本経済の問題がかんたんに解決する」などというのは幻想である。
そういう偽の希望を捨て、老人支配の構造を是正しなければ日本経済に希望がないという事実を直視することが、そこから脱却する第一歩である。
引用ここまで
当ブログの見ている日本の現状は、この池田信夫氏の見解に極めて近い。
既に現状の日本は、熾烈な「世代間闘争」の様相を呈しているのだ。
「闘争」というのには、語弊がある。
「老人達(先行世代)」による「若者(将来世代)」からの一方的な強制収奪が行われている、というのが正確な表現だろう。
「老人による将来・未来の駆逐」である。
高度経済成長の頃ならば、「老人に高福祉・高保障」を担保しても、「若者」や「未来」に対するしわ寄せは目立たなかった。
しかしながら、「成長し切った」日本において、これまでのように所得・成長が右肩上がりになることは、残念ながら想像し得ない。
これを無視して、老人達が将来世代から「収奪」してきた積み重ねこそが、莫大に膨れ上がった「国債(増税の先送り)」である。
しかしながら老人達が鼻息荒く、権力や立場・支配力を駆使して自らの世代の既得権を死守し、散々未来から収奪したところで、彼等は早晩「死に行く者」であって、「未来の日本を創るのは将来世代でしかない」。
日本の未来が暗澹たるものとなり、出口の見えない閉塞状況にあるのは、要するにこのことである。
況や、目下の若年世代に襲い掛かっているのは、「戦後を濃縮した悪しき世代:団塊」である。
こういった、見え見えの「出来レース」の如き「暗澹たる」先行きに、若者が不安や絶望を感じることを、池田氏は「正しい」と論じている。
賃金コストを下げたい経営者と正社員の既得権を守りたい労働組合の結託があるので、前者を代弁する自民党も後者を代弁する民主党も、この不公平を隠して「構造改革が格差を拡大した」などと宣伝する。
これが現在の若者世代の「受け皿となる政党」が不在であることの決定的な理由である。
若者世代は、経営からも正社員からも「弾き出されつつある」。
経営者側に立つ「自民党」も、正社員側に立つ「民主党」も、何れにせよ要するに「老人の見方」なのであって、決して自分達の側に立っていない事を、彼等は承知しているのだ。
自民党的ばら撒きも、民主党的ばら撒きも、若年世代や将来世代からの「収奪」に過ぎぬ事を、「当事者」であり「犠牲者」である彼等は、先刻承知している。
「コンクリートから人へ」というのは目くらましで、公共事業もバラマキ福祉も、現在世代の消費のコストを将来世代に転嫁する点では変わりない。それは国債が課税の延期であるということがわかりにくい財政錯覚を利用して、老人の既得権を丸ごと守る戦術である。
「子供手当て」などという、将来世代から強制的に収奪(ピンハネ)する制度を、子供や将来世代が喜ぶはずが無いではないか。
これは「子供手当て」という名の、正真正銘の「親世代による子供世代からの強制収奪」である。
要するにこれも歴とした「老人(先行世代)による若者(将来世代)からの収奪」に他ならないのだ。
「社会福祉」だのという美辞麗句の衣を着せれば、或いは「不特定多数の将来世代からの収奪」であれば、これに何の痛痒も感じない「老人」らの、不道徳と不見識、そしてその視野狭窄と利己主義、刹那主義と現世主義には辟易とする。
老人が若者から「職」や「金」を収奪して、希望溢れる「未来」など描けるはすが無かろう。
老人らは、若者の軟弱や刹那を叱責するが、彼らにしてみれば冗談ではないと感じて当然である。
これまで順送りに担ってきた「未来への責任」「未来への投資」を放棄し、将来世代から収奪した金で、享楽の限りを尽くしているのは誰なのか。
目下の恵まれた年金支給額に、不平不満を連ねる不届き者は誰か。
目下の極端に優遇された医療費自己負担分に、文句を言う不埒者は誰か。
若者からすれば、益々負担は増大しているにも関わらず、「自分の世代には、支給額どころか、そもそも年金が支給されるかどうかさえ解らない状況」なのだ。
医療皆保険でさえ、風前の灯火といわれる惨状である。
このような状況で、増してやこのような醜悪なる「先行世代」に、「我々の老後と生活保障の為に働け」と尻を叩かれて、誰がそれに「奴隷的」に従うというのだろうか。
老人らが、「自分の生きている間のことだけ」を考え、未来に思いを馳せることなく、また未来に責任を持ってその義務を果たすことなく、むしろその逆に、未来から散々に収奪の限りを尽くしていれば、その内に「未来」や「希望」が暗黒に沈むのは、余りも当然の顛末ではないか。
2010年02月28日 11:22 経済
老人支配の構造
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51384093.html
拙著の「希望を捨てる勇気」というタイトルが、このごろ「日本経済をダメにする悲観論」の代名詞として使われるので、ひとこと弁明しておこう。
最後まで読んでいただけばわかるが、これは「古い経済システムを延命すれば何とかなるという希望」を捨てないかぎり、長期停滞を抜け出すことはできないという意味である。
経済システムという言葉が抽象的なら、労働市場といってもよい。
中高年の「終身雇用」や年金の負担を若年層に押しつけ、おまけに所得再分配の原資まで国債で調達して将来世代から1人7000万円も収奪する老人支配が問題の本質なのである。
若者は老人から財産を相続しており、これまでの世代の築いた豊かな社会の恩恵を受けているので世代間格差はそれほど大きくないという批判もあるが、深刻なのは所得よりも雇用である。
先日、人事コンサルタントに「雇用規制を緩和しろという池田さんの意見には賛成だが、もうそういう局面ではない」といわれた。
企業は雇用規制を回避して賃金を実質的に切り下げるテクニックを熟知しており、団塊世代の社員が大量に定年退職する欠員を契約社員で埋める労働人口全体の非正規化が進んでいるという。
この背景には、賃金コストを下げたい経営者と正社員の既得権を守りたい労働組合の結託があるので、前者を代弁する自民党も後者を代弁する民主党も、この不公平を隠して「構造改革が格差を拡大した」などと宣伝する。
「コンクリートから人へ」というのは目くらましで、公共事業もバラマキ福祉も、現在世代の消費のコストを将来世代に転嫁する点では変わりない。それは国債が課税の延期であるということがわかりにくい財政錯覚を利用して、老人の既得権を丸ごと守る戦術である。
だから財政の問題は、老人支配の縮図である。
現在の増税の対義語は「無駄の削減」ではなく、将来の増税なのだ。
国債によって増税を延期することは、老人に収奪される若者からさらに多く収奪し、不公平を拡大することに他ならない。デフレの原因は、このような将来への不安が大きくなって消費が沈滞し、企業が投資しないで貯蓄する(自然利子率が負になる)ためであり、その不安は正しい。
かつて銀行が不良債権の処理を先送りした結果、日本の金融システムが壊滅したように、政府債務の処理をこれ以上先送りすると、財政が壊滅して日本経済は回復不可能な打撃を受けるだろう。経済を建て直すには、この大きなゆがみを是正して人々の不安を払拭することが最優先の課題である。
もちろんそれは巨大な所得移転をともなうので、政治的にはきわめて困難だが、それを放置したまま、バラマキ福祉やリフレで「日本経済の問題がかんたんに解決する」などというのは幻想である。
そういう偽の希望を捨て、老人支配の構造を是正しなければ日本経済に希望がないという事実を直視することが、そこから脱却する第一歩である。
引用ここまで
当ブログの見ている日本の現状は、この池田信夫氏の見解に極めて近い。
既に現状の日本は、熾烈な「世代間闘争」の様相を呈しているのだ。
「闘争」というのには、語弊がある。
「老人達(先行世代)」による「若者(将来世代)」からの一方的な強制収奪が行われている、というのが正確な表現だろう。
「老人による将来・未来の駆逐」である。
高度経済成長の頃ならば、「老人に高福祉・高保障」を担保しても、「若者」や「未来」に対するしわ寄せは目立たなかった。
しかしながら、「成長し切った」日本において、これまでのように所得・成長が右肩上がりになることは、残念ながら想像し得ない。
これを無視して、老人達が将来世代から「収奪」してきた積み重ねこそが、莫大に膨れ上がった「国債(増税の先送り)」である。
しかしながら老人達が鼻息荒く、権力や立場・支配力を駆使して自らの世代の既得権を死守し、散々未来から収奪したところで、彼等は早晩「死に行く者」であって、「未来の日本を創るのは将来世代でしかない」。
日本の未来が暗澹たるものとなり、出口の見えない閉塞状況にあるのは、要するにこのことである。
況や、目下の若年世代に襲い掛かっているのは、「戦後を濃縮した悪しき世代:団塊」である。
こういった、見え見えの「出来レース」の如き「暗澹たる」先行きに、若者が不安や絶望を感じることを、池田氏は「正しい」と論じている。
賃金コストを下げたい経営者と正社員の既得権を守りたい労働組合の結託があるので、前者を代弁する自民党も後者を代弁する民主党も、この不公平を隠して「構造改革が格差を拡大した」などと宣伝する。
これが現在の若者世代の「受け皿となる政党」が不在であることの決定的な理由である。
若者世代は、経営からも正社員からも「弾き出されつつある」。
経営者側に立つ「自民党」も、正社員側に立つ「民主党」も、何れにせよ要するに「老人の見方」なのであって、決して自分達の側に立っていない事を、彼等は承知しているのだ。
自民党的ばら撒きも、民主党的ばら撒きも、若年世代や将来世代からの「収奪」に過ぎぬ事を、「当事者」であり「犠牲者」である彼等は、先刻承知している。
「コンクリートから人へ」というのは目くらましで、公共事業もバラマキ福祉も、現在世代の消費のコストを将来世代に転嫁する点では変わりない。それは国債が課税の延期であるということがわかりにくい財政錯覚を利用して、老人の既得権を丸ごと守る戦術である。
「子供手当て」などという、将来世代から強制的に収奪(ピンハネ)する制度を、子供や将来世代が喜ぶはずが無いではないか。
これは「子供手当て」という名の、正真正銘の「親世代による子供世代からの強制収奪」である。
要するにこれも歴とした「老人(先行世代)による若者(将来世代)からの収奪」に他ならないのだ。
「社会福祉」だのという美辞麗句の衣を着せれば、或いは「不特定多数の将来世代からの収奪」であれば、これに何の痛痒も感じない「老人」らの、不道徳と不見識、そしてその視野狭窄と利己主義、刹那主義と現世主義には辟易とする。
老人が若者から「職」や「金」を収奪して、希望溢れる「未来」など描けるはすが無かろう。
老人らは、若者の軟弱や刹那を叱責するが、彼らにしてみれば冗談ではないと感じて当然である。
これまで順送りに担ってきた「未来への責任」「未来への投資」を放棄し、将来世代から収奪した金で、享楽の限りを尽くしているのは誰なのか。
目下の恵まれた年金支給額に、不平不満を連ねる不届き者は誰か。
目下の極端に優遇された医療費自己負担分に、文句を言う不埒者は誰か。
若者からすれば、益々負担は増大しているにも関わらず、「自分の世代には、支給額どころか、そもそも年金が支給されるかどうかさえ解らない状況」なのだ。
医療皆保険でさえ、風前の灯火といわれる惨状である。
このような状況で、増してやこのような醜悪なる「先行世代」に、「我々の老後と生活保障の為に働け」と尻を叩かれて、誰がそれに「奴隷的」に従うというのだろうか。
老人らが、「自分の生きている間のことだけ」を考え、未来に思いを馳せることなく、また未来に責任を持ってその義務を果たすことなく、むしろその逆に、未来から散々に収奪の限りを尽くしていれば、その内に「未来」や「希望」が暗黒に沈むのは、余りも当然の顛末ではないか。
