「首相公選へ改憲を。国民は権限取り戻せ」 憲法施行記念式典で橋下知事
2011.5.9 14:21 産経ニュース
大阪府の橋下徹知事は9日、憲法施行を記念した式典で「日本国民が自分たちのリーダーは自分たちで選ぶという権限を、国会議員から奪っていかなければならない」と発言、国民が直接首相を選挙で選ぶ首相公選制に向け、憲法改正が必要との認識を示した。
この日、大阪市内で開催された式典で橋下知事は、「わが日本国では、ひとたび国会議員を国民が選べば、一国のリーダーは国会議員がフリーハンドで選ぶ」と指摘。「だからこそ、国民の意識と一国のリーダーの意識、有権者と永田町の意識が乖離(かいり)するのではないか。ここにこそ、日本の政治の最大の欠陥がある」と批判した。
さらに「憲法記念日を機として、しっかりと議論した上で国会議員から内閣総理大臣を選ぶ権限を国民のもとに取り戻す運動が、今のわが国に最も必要な政治運動だ」と述べた。
引用ここまで
「日本の総理大臣は、直接選挙で選ばれていないから駄目だ」
「日本の総理大臣は、民意で選ばれていない」
政治が停滞し、お粗末を露呈すると必ずこのような声が上がり始める。
何も橋下に限った提言ではない。
これはどこまでも「反省」を知らぬ、底無しの破廉恥な意見である。
例えば、先の史上嘗てない愚昧で白痴的で小児病的な「鳩山由紀夫」の場合はどうだっただろうか。
先の総選挙における「民主党代表」は、この「鳩山由紀夫」であって、「政権交代」が成されれば、自ずとこの「鳩山由紀夫」が「総理大臣」となることは周知であった。
そして「政権交代」は成された。
何と言おうと「民意」は、「鳩山由紀夫内閣総理大臣」を「選択」したのである。
この壮絶で取り返しの付かぬ「失敗」を糊塗せんと、またぞろ上記のような「首相公選」の絶叫が始まっている。
では現在の「菅直人」はどうであろうか。
このブログに出入りしている方ならばお分かりの通り、当ブログでは鳩山内閣の折から、「次は菅直人である」と再三に渡って指摘してきた。
それ故に、「打倒・民主党政権」ではなく、「打倒・鳩山内閣」を叫ぶ勢力に対して、「打倒・鳩山政権」は良いが、その後に「菅内閣が誕生したのでは不毛である」と注意喚起してきたのだ。
現在でもそうである。
「打倒・菅政権」など何の意味もない。
そして実際「打倒・鳩山政権」を達成した後に、「菅政権」を生み出した結果はどうであったろうか?
閑話休題
つまり、「民主党」に政権交代した時点で、「鳩山内閣」は誕生しており、その次に「菅内閣」が待機していたことは既定であったのだ。
これを「知らなかった」とは言わせない。
世論調査においても、「それを国民の多数が望んでいた」ことは裏付けられている。
「衆愚政治(オクロクラシー)」に対して、しばしばこう論じられる。
利益誘導型政治、乞食政治が行われ、それが推進されれば、政治家は、それら特定集団の「代理人」に堕し、政治から「正統性」「客観性」「大局」が喪失する。
これは政治は「利益」を分捕りあう場に転落させ、行く行く「全国民」の不利益へと繋がる。
然しながら、どうも「衆愚政治」の本質はそこにはない。
大衆が集団化して「群衆」を形成した折、その「群衆」を形成する各個人から、「内省」「反省」「責任」「当事者意識」がことごとく喪失するところに問題の本質はある。
「税金の使い道」や「国家財政危機」の問題についても同様の現象が見られる。
「群衆」の中にある大衆は、現下の政権や総理を、或いはこれまでの政権や総理を、自らが「選択」してきたのだという動かし難い事実さえ、そうと認識することが出来ない。
そして、「日本の総理大臣は、直接選挙で選ばれていないから駄目だ」「日本の総理大臣は、民意で選ばれていない」などという事実に反する馬鹿話に与太を打ち、「内省」「反省」「責任」「当事者意識」を完全に放棄している間に、「衆愚政治(オクロクラシー)」は、ものの見事に「最劣等者支配・壊人政府・悪人政治」たる「カキストクラシー」にまで転落した。
ことここまで至れば、逆に「総理公選が成されたとて、そう変化のない水準まで来ている」と皮肉の一つも言いたくなる惨状である。
追記:
「首相」という言葉を好んで使うのは、「極左」である。
「総理」つまり「内閣総理大臣」という言葉では、「大臣=天皇陛下の臣下筆頭」という意味が含有されてしまう為、これを極左が嫌う為である。
橋下徹は、「言語」に対する繊細が完全に欠落しており、これ一つを以って、とても大事を任せられる人材ではないと断言出来る。
2011.5.9 14:21 産経ニュース
大阪府の橋下徹知事は9日、憲法施行を記念した式典で「日本国民が自分たちのリーダーは自分たちで選ぶという権限を、国会議員から奪っていかなければならない」と発言、国民が直接首相を選挙で選ぶ首相公選制に向け、憲法改正が必要との認識を示した。
この日、大阪市内で開催された式典で橋下知事は、「わが日本国では、ひとたび国会議員を国民が選べば、一国のリーダーは国会議員がフリーハンドで選ぶ」と指摘。「だからこそ、国民の意識と一国のリーダーの意識、有権者と永田町の意識が乖離(かいり)するのではないか。ここにこそ、日本の政治の最大の欠陥がある」と批判した。
さらに「憲法記念日を機として、しっかりと議論した上で国会議員から内閣総理大臣を選ぶ権限を国民のもとに取り戻す運動が、今のわが国に最も必要な政治運動だ」と述べた。
引用ここまで
「日本の総理大臣は、直接選挙で選ばれていないから駄目だ」
「日本の総理大臣は、民意で選ばれていない」
政治が停滞し、お粗末を露呈すると必ずこのような声が上がり始める。
何も橋下に限った提言ではない。
これはどこまでも「反省」を知らぬ、底無しの破廉恥な意見である。
例えば、先の史上嘗てない愚昧で白痴的で小児病的な「鳩山由紀夫」の場合はどうだっただろうか。
先の総選挙における「民主党代表」は、この「鳩山由紀夫」であって、「政権交代」が成されれば、自ずとこの「鳩山由紀夫」が「総理大臣」となることは周知であった。
そして「政権交代」は成された。
何と言おうと「民意」は、「鳩山由紀夫内閣総理大臣」を「選択」したのである。
この壮絶で取り返しの付かぬ「失敗」を糊塗せんと、またぞろ上記のような「首相公選」の絶叫が始まっている。
では現在の「菅直人」はどうであろうか。
このブログに出入りしている方ならばお分かりの通り、当ブログでは鳩山内閣の折から、「次は菅直人である」と再三に渡って指摘してきた。
それ故に、「打倒・民主党政権」ではなく、「打倒・鳩山内閣」を叫ぶ勢力に対して、「打倒・鳩山政権」は良いが、その後に「菅内閣が誕生したのでは不毛である」と注意喚起してきたのだ。
現在でもそうである。
「打倒・菅政権」など何の意味もない。
そして実際「打倒・鳩山政権」を達成した後に、「菅政権」を生み出した結果はどうであったろうか?
閑話休題
つまり、「民主党」に政権交代した時点で、「鳩山内閣」は誕生しており、その次に「菅内閣」が待機していたことは既定であったのだ。
これを「知らなかった」とは言わせない。
世論調査においても、「それを国民の多数が望んでいた」ことは裏付けられている。
「衆愚政治(オクロクラシー)」に対して、しばしばこう論じられる。
利益誘導型政治、乞食政治が行われ、それが推進されれば、政治家は、それら特定集団の「代理人」に堕し、政治から「正統性」「客観性」「大局」が喪失する。
これは政治は「利益」を分捕りあう場に転落させ、行く行く「全国民」の不利益へと繋がる。
然しながら、どうも「衆愚政治」の本質はそこにはない。
大衆が集団化して「群衆」を形成した折、その「群衆」を形成する各個人から、「内省」「反省」「責任」「当事者意識」がことごとく喪失するところに問題の本質はある。
「税金の使い道」や「国家財政危機」の問題についても同様の現象が見られる。
「群衆」の中にある大衆は、現下の政権や総理を、或いはこれまでの政権や総理を、自らが「選択」してきたのだという動かし難い事実さえ、そうと認識することが出来ない。
そして、「日本の総理大臣は、直接選挙で選ばれていないから駄目だ」「日本の総理大臣は、民意で選ばれていない」などという事実に反する馬鹿話に与太を打ち、「内省」「反省」「責任」「当事者意識」を完全に放棄している間に、「衆愚政治(オクロクラシー)」は、ものの見事に「最劣等者支配・壊人政府・悪人政治」たる「カキストクラシー」にまで転落した。
ことここまで至れば、逆に「総理公選が成されたとて、そう変化のない水準まで来ている」と皮肉の一つも言いたくなる惨状である。
追記:
「首相」という言葉を好んで使うのは、「極左」である。
「総理」つまり「内閣総理大臣」という言葉では、「大臣=天皇陛下の臣下筆頭」という意味が含有されてしまう為、これを極左が嫌う為である。
橋下徹は、「言語」に対する繊細が完全に欠落しており、これ一つを以って、とても大事を任せられる人材ではないと断言出来る。
