夏の勉強②

行動の生起基準。数値化するということは簡単に言うと、カウントできるか、カウントできないか、標的とする行動か否かの判断基準を明確にする必要がある。
 告白しておかねばならない。実は自分は自閉症の児童にこの手法を使った言語訓練、概念形成訓練を行い、その経過を卒論としてまとめたわけだから、まんざら知らない世界ではないのだ。
 例えば、赤い紙と青い紙を子どもの前に提示して、「赤いのちょうだい」と教示するセッションがあったとする。この場合、理解弁別訓練なので、「あか」と発声(自発)するのではなく、被訓練者である児童は赤い紙を手で取って、訓練者に手渡せば正しい反応とカウントする。これでOK、さあ、訓練開始、というわけにはいかない。とても簡単な行動に一見見えるが実際に子どもから生じるパフォーマンスは多様なものになる。例えば、教示しても、即子どもが動くかどうかはわからない。この際に、訓練者が「赤いのちょうだい」と教示してから5秒以内に動作しないと無反応、なんて風に決める必要がある。
 また、赤い紙を手渡すという正しい反応が出たとしても、青の紙に3回以上触れた後に、赤い紙を渡しても誤った反応と考えることもできるし、正反応と判断する、と決めることもできる。
 繰り返しになるが、数値化するためにはカウントするか否かの基準が必要なのだ。基準以外の行動はカウントしない。カウントしない行動は「ないもの」と判断することになる。例えば、さんざん迷って青をとろうとしていたのをやめて赤を取り直しても、それが5秒以上かかってしまえば、その反応は正しい反応とはカウントされない、と決められていたら、そうなのだ(違う基準ならOKになることもある)。
 ここまで読んでくるとおおよそご想像はついたかと思うが、行動主義心理学は、その黎明期においては、対象をより限定的にし、繰り返し行う実験がその発展に帰依する。そう、そんなこと人間でできるわけがない。実験のベースは動物なのだ。パブロフはイヌ、ソーンダイクはネコ、スキナーはハト、ラット。そこで得られた知見は、たとえ万物の霊長であろうとも動物であるヒトにおいても適用可である、そうなのだーと言い切っている。
 この当たり前。このあたりの定義が、個人的にはとても面白いと思った。というか、そうすることで科学になろうとしている所が、その考え方を知った当時なんともいじらしいと感じた。自分が所属した研究室では、障害のある子ども達と関わることがベースの活動だったが、となりの「障害児病理学研究室」では、ドアを開けるとたくさんのラットがゲージの中で「学習」を繰り返していた。バー押しをするとエサがもらえる的な学習なら見ていても楽しいかもしれないが、その研究室で行われていたのは情動系の実験。とかいうとそう感じないが、もっと具体的に言うと、ブザーや光が提示された後に、ゲージの真ん中にある低い敷居を飛び越えて隣の部屋にいかないとラット君に電撃が与えられるという実験。条件によっては、刺激が提示されるとラット君は隣へと移動してことなきを得るが、
そうでない条件や疾患モデルのラット君は学習できずに電撃を食らう。うーむ。
 また話が長くなったので、つづくー

shinshu_switch_labshinshu_switch_lab  at 17:30  | コメント(0)  |  この記事をクリップ! 

夏の勉強①

今年の夏は暑かった。何もする気にならなかった。まあ、毎年そうなのだが。
 去年はひたすら病気とつきあう夏だったし、それまでの数年間は長野県内を実習引率で旅して過ごしていた。今年もN大社福の2年生は山奥まで行っておるのだろう。
 夏の休暇は充電の時期。ただでさえアウトプットは少ないが、もともと暑さには弱いから、夏はさらにじっと静かに。4月からスタートダッシュの疲れを癒やす「何か」を身体に入れたくなる。その年々にトレンドがある。今年は仮説実験授業。
 ICTについて語ることを、今まで以上に求められることが多いが、同時に、機器はさらに発達し、時代の変化は早く、実際に自分が教室で使ったことのない機器について語るなんてことが起きる。ツーシームを打ったことがない往年のバッターが打撃解説するようなもの。機器の性能だけを語るなら業者さんに任せた方がいい。あくまでも教室でこどもたちにとってどうなのかという視点が大事なわけで、なのでお話ができる。単に機器の話ではすまないのだ。
 支援機器の導入がすすめばすすむほど、というか特別支援教育がすすめばすすむほど、そもそも授業とは、教室とは、という話を聞かなくなったように思うようになったのは気のせいだろうか。あるものとしての教室や授業でいかに合わしていくか、いわばHOWに知らず知らずのうちに力点が置かれるようになってるといったら言い過ぎか。
 授業の有り様を語ること、それはかつてそれに関わる教師の信条というものと大きく関係していた。そう。もっというと政治、思想の臭いというか。それはきつすぎるとなんとも始末に負えないが、そういういかがわしさがなくなったクリンでフラットな授業はそれはそれで無菌室にいるようでどうにもつまらない。そこにICTが乗っかるわけだが、さらにその無機物感に拍車をかけとるような印象がなくはない。
 仮説実験授業については、その授業自身を自分が現役時代に活用したというわけではない。いや、むしろやろうとしたがいろんなことがあってやめたというのが事実。何せ、小さな単級の小学校。教科書を使わないということへの周囲から抵抗は強かった。算数でプリントを主に使ってやるだけで、「紙を無駄にする」という。子どもに書かせればいい、と。そうはいうけれど、やはり「基本」と巷で言われとるようなことができるなら、やっとるわい。それでははまらんからとあれこれ策を講じてしかるべきだが、それがアウト。ここは学校なのかとよく思った。今も昔も、あまりアウェイでやれるだけの根性はない。なのでこっそりと。そんなわけで直には使えんが、ものづくりや時に怖い監視の目をかいくぐって単発ものの授業をやったこともあった。そのあたりはSlideに書いたこともあったか。
 その一方で、提唱者である板倉聖宣の本は手に取り続けた。なんというか。内容、着眼点が他の科学者とはまるで違う。
 一般に科学的というと、現象を数値化し、独立変数と従属変数の二極でものごとを整理することが多い。例えば、種を土に植え、水をまく。やがて芽が出て茎が伸びるだろう。ここでならば、1日に与える水の量、時間変化、それにともなう植物の茎の長さが数値として記録され、サンプル数を多くし、その茎の長さの平均値が規則正しく増加しているならば、水の量、時間変化、茎の成長には何かしらの因果関係があることが類推される(他条件を制限すれば、より、そうだと言えるが)。科学や物理の実験はおそらくこのルーティンが基礎であろう。この原則を元に先に挙げた基礎科学を発展させた応用科学であるところの医学、経済学等様々な学問領域がが徐々に発展していったといえるだろう。
 一方で、別の言い方をすると、こうも言えるかもしれない。数値化のルーティンが入ってさえいれば、基礎科学から続く合理性の山並みに連なることができるとも言える。すると、本来は数値化にそもそもそぐわない領域までが、その枠組みを取り入れようとする。言ったら即激怒されそうだが、心理学や教育学がそうなのでは、と思うわけだ。
 一般に心理学というと、こういう夢を見たら、実は精神状態が○○とか、緑色のものを選ぶことが多いと、その人は欲求不満である、なんてことを扱う学問かと思われている場合が今でも多い。大学のオープンキャンパスで、心理学を学びたいという高校生に聞くと、だいたい占星術を学びたいと同義の答えが返ってくる。それは心理学ではないことをオープンキャンパスで知り、将来の夢を打ち砕かれてしょんぼり帰る、なんてこともよくあった。そこで気づけばいい方で、知らずに入学して、統計処理に明け暮れる心理学専攻を「こんなことを勉強するつもりではなかった」と途中でリタイアすることもしばしば。
 フロイト、ユングに代表されるような精神分析が主であった心理学が、「曖昧な現象整理」(それが悪いわけではないが)から離脱し、きらめく「科学の枠組み」に憧れるのは無理はない。
 そういった意味で行動主義心理学は科学になれる最右翼として、形成されてきたといえるだろう。観察可能な行動にのみをターゲットにするという、何という潔さ。心理という言葉とは印象だけなら真逆と感じるのは自分だけだろうか(この段階で、もう心理学と称さないほうがいいのではないかとも思うが)。意外に長くなったので、次回に続くー

shinshu_switch_labshinshu_switch_lab  at 10:40  | コメント(0)  |  この記事をクリップ! 

京文化とICT

ふと思いつく。これだけ書くと、とてもいい加減なもののように感じられる。
 しかし、そうでもないようにも思う。
 考えてみると、「ふと、思いつく」というと突発的な思いつきのようだが、そうでもないことがわかる。それまでにいろいろな考えが巡り、消えたり、何か他のものと変わったり、その上で、ふと漏れこぼれたもの、しずくのようなものと言えるかもしれない。
 そういう体験って時々しかない。アイデア、たとえばスイッチや教材に関するもののこともあるし、こういったつながりというか、関連づけというか。
 あれこれやってて、今年もう一つ思いついたことがある。
 それはICTを使った教育と京都文化って似ているってこと。
 時代の最先端=ICTという衣装をまとわされることが多いが、ひねくれ者の当方としては、そうかなって常に突っ込みを入れたくなる。そんなことを考えていたら、そうか、新しいものであるけれど、昔からの基本を外すと、他のどんなアイテムよりアウト感の強いものがICTなのではと。
 子どもの実態ではなく、機器ありきではないか、なんても最もよく聞くベタな批判はさておくとしても、方法や機器を活用すると、そういったことはことさら大事なのかもしれない。ミイラ取りだからこそ、ミイラになったら洒落にならんというか。
 その点からして、京都文化って絶妙の合わせ技っぽい。1000年前のお寺の前に、明治の近代建築の煉瓦製の疎水で琵琶湖から水を引き、水力発電。そこからも100年経つと古いもの同士でマリアージュが生まれる。大名行列の通った四条大橋のたもとに安藤忠雄の建築ー古と新、どちらも新しさと古さを借景にその価値を高めあっとる。なかなかうまい。
 古いものを一掃して新しいものを建てても、東京には勝てないに違いない。かといって古いものを守るために新しいものをすべて拒否すれば、誰も住めない町になる。どちらにしても、きっとだれも来ーしまへん。どちらもあるから、ここまで観光都市、学園都市なんどす。そう、古いもんと新しいもんが、けんかセンと、いやいやしたかてかましません。
 裏ではいがみおうとっても、表は仲のエエふりしときやす、という京都の二面性がここでも効果大。あわへんもん同士を和(あ)えてこその京料理。  
 どんなに理屈をこねても、教育とICTって実は水と油なのかもしれない。一緒にしない方が楽。でも、それだと何も変化しない、面白くない。違和感があるならその違和感を楽しめばいい。茶室にジーンズもいつしか風景になる、といったのは森毅だったか。そう、風景になればそれはいつか文化になるにちがいない。

shinshu_switch_labshinshu_switch_lab  at 06:59  | コメント(0)  |  この記事をクリップ! 

思いつき

夏の仕事として、今年から加わったものが、肢体不自由教育関係の協議会。地域ブロック別の研究会とPTA関係。特に後者の全国版は大きい会。
イエロー学校にも在籍していたことがあったのに、このような会を全く今年まで知らないとは不勉強の極み。各障害種別で毎年大きなホテルを借り切って行われている。
 一方前者の地区別研究会は、もう少しこぢんまりしているものの、自分が参加させてもらった関東甲越地区のものはたくさんの参加者。ここでは分科会の助言者を仰せつかったが、担当分科会は「キャリア教育・進路指導」。
 研究所職員に割り当てられた配置で、特に個々の得意分野は関係ないとことだが、いやはや困った。高等部の担当になったことがないし、正直不得意分野だ。
文科省の統計によれば、特別支援学校高等部卒業生の進路先で、福祉施設への入所等が80%を遙かに超えるのが肢体不自由のある生徒。重度重複化が進む中である意味では当然の展開だとは思うが、関係者とすれば、一般就労、進学者数を増、ということになる。したがって関心も高い。いわゆる準ずる課程の生徒から、重度重複障害のある生徒までを、進路の多様さという点からも見ても肢体不自由教育とキャリア教育は切れないものなのだ。
 そこへ来て今般改訂された学習指導要領。キャリア教育についても力点が言うまでもなく置かれている。解説(説明会資料)を読んでみると割と厳しいことが書いてある。曰く、これまでのものは形だけ、曰く、夢だけではなく現実をもっと見ろ的な。うーん、これはどう解釈していいものやら、かつ助言者として何を話せばいいのか。
 いろんなところで聞いていると、キャリア教育とその次に書かれている生涯学習とを関連づけるというのが一つのポイントらしい。
 ある意味では、キャリア=職業ではない、とこれまでも言われてきたが、キャリアにしても、生涯学習にしても、視点の先は学校卒業後の生活なんですよね。やっぱり。
 こんなおおよそのまとめをして、分科会に臨んでいたらふと頭をよぎる言葉が。
 そう、ICTもキャリア教育も同じ、ではということ。
 単にそれは特定の教育内容を指すわけではなく、学習活動全般に広くその視点が必要であること、そして、特定の得意な教員がやればいいわけではなく、誰もが関わることで効果が高まるし、そして何より大事なのは卒業後の生活が豊かであることにつながらないと意味がないーあらら、これは思わぬところで共通項の嵐ではないか。
 その場での思いつきなれど、そのあたりの話しをさせていただいたら、思いの外、好感触。そう、難しく考えるよりも、日々の授業の中でそれらを意識することから始まるし、始めるのだ。

shinshu_switch_labshinshu_switch_lab  at 06:57  | コメント(0)  |  この記事をクリップ! 

夏のお仕事3

もう一つは埼玉県熊谷特別支援学校。
 こちらは毎年夏にICT関係の研修会を開催。ちょっと調べてみたら代表や中邑賢龍先生も登壇されていることがわかりビビる。
 しかも、先生方の中にはICTでめざましい実践をされている方も多く・・・ここでも今更何をお話しするか迷う。できたらiPadを使った実践をというようなニュアンスのご依頼をいただき、結構悩んだ。昨年度末に代表が主催された会で、ある保護者の方がお子さんと情報携帯端末とのおつきあいの歴史をお話しされていた。その時に、iPadが登場したのが2011年と報告され、あらためて驚いたことを覚えている。支援機器界の筆頭家老みたいな顔をしているiPadだがどんでもなく新参者。そりゃ、まだまだうまくいかんことが多くて当たり前じゃ。
 iPadがもたらすものを単なる教材・教具の新しさ、効果と捉えてしまったら効果はあまりないだろうがいろんな立場からすれば、そのあたりで止めておいてほしいという思惑が見え隠れする。実はこれまでの学校のすべてにアンチなものとして捉えるとおっかないが面白い。わざわざ学校に来なくても、優れたアプリがあれば、またはネット上でのコミュニケーションがあれば、ほとんどのことが学べてしまう。ある意味では学校という箱も先生も必要ない、なんて暴論がでてきそうだ。それにしても、iPadで学べば家にいてもOKになれば、不登校がいなくなるって考えることもできる。
 そんなことにはならない、と思っていることが、当たり前になるまでに時間がかからないのが今の世。とすれば、今の形のあれこれを永続的なものと考えず、水のように動くもの、変わるものとしてあまり信用しないというのがこれからの教師の基本姿勢になるのでは。ああなるかもしれない、こうなるかもしれない、未来に生きるみんなは大変やなあと子どもたちに教えることが先生たちの仕事になるのではー
 妄想は止まらないが、そんなことを話すわけにはいかない。せめて、着眼点を変えてもらいたいという願いから、代表考案のVOCAワークショップを使わせてもらう。このワークショップは本当によく考えられていて、ほれぼれする。ライセンス料をお支払いした方がいいくらい、よく使わせてもらっている。
 簡単に言えば、その子が何も発信することなくても、コンビニで買い物はできる、ということを体感できるのだ。買い物というとお金の計算、店員とのやりとりが想定され、実際に学校では練習したりする。もちろん練習した方がうまくいくことは言うまでもないが、実際にはなくてもいい。そもそもコンビニで買い物をする時に、一言も口をきかなくても買い物は成立しているのは日常的に経験しとるでしょ。
 そう考えれば最強なのが紙の力。たとえば、介助者が車いすを押していったとしても、後はカットテーブルの上の紙を見てください、とだけ言えば、そこにやってほしいことをすべて書いておけばいい。コーラがほしいと書いておけば、日本なら取りに行ってくれるように思う。また、そうでなければ、今後高齢化するユーザーへの対応ができないコンビニとしてSNS上で葬り去られる可能性がある。どんな状況だって人は生きている。生活している。そう、そのままで。それが当たり前になれば、人の能力如何で「価値」に上下が生じることがなくなる。そうなのだ、そういう形で買い物を促進することは社会を変える一歩になる。それができるのは先生。先生しかいない。何の専門家かと聞かれた時に「そう。社会を変える専門家です」と答えられることを目指せばいい。そうすれば、きっと100年後も教師の仕事はiPadに取られることはない。そうでしょ。

shinshu_switch_labshinshu_switch_lab  at 17:30  | コメント(0)  |  この記事をクリップ! 

夏のお仕事2

夏期休業も、先生方は休み取り放題じゃなくて、結構仕事してるんですよ的な雰囲気を漂わせなくてはならなくなったのは自分が教員だった最後の頃からか。普段の勤務時間の長さからすれば、夏期休業ぐらいゆっくりしてもいいだろうし、且つ、子どもや学校から離れることで、子どもや学校と秋からしっかり関わる力を充塡してほしいと思うのだが、世の流れはそれを許さない。日常は日常で忙しく、夏期休業は夏期休業で研修責めにされた先生方が、果たしていい授業を二学期からできるのかなとも思う。そうは言いつつ、今年は2つほど公開講座にお呼ばれ。1つは京都市立総合支援学校の研究会から。障害種別を超えた総合支援学校として展開している京都市立の学校が7つの分科会に分かれた終日の研修会。そのICTの分科会にお招きいただいた。
 考えてみると、ATACで話したことはあったけれど、京都の学校でお話しすることは初めて。生まれ故郷で話すって結構緊張。
 地下鉄で鞍馬口まで。北総合支援学校を目指した。
 まずはICT分科会の実行委員の先生方の事例発表。ATACや信州カンファでおなじみのお顔もあり、安定の実践ばかり。スイッチ、視線入力、iPad・・・文句の付け所もない。
 それにしても視線入力の導入のハードルが技術的にも価格的にも下がっている。初めてお借りした時は400万円と言われたことを覚えているが。数万円でトライできるとはすばらしい。
 事例発表が終わると出番。機器そのものの話は実践している人以上には話せない。すでに時代の流れからすればロートルとしてのお話を。ICT研究会なれど、ICT苦手な人と挙手を求めたら、結構な手が上がる。まあ、そうなのかもしれない。ICTという名前でくくられるものは年々増えていくし、新しくもなる。それはとらえどころもなく、且つよくわからないというのが正直なところだろう。
 最新の機器を使えば、すばらしい未来が待っている、なんて某北朝鮮の国営放送のような勇ましい話はできない。
 どんなに機器が入ろうが、それを使うのは子どもたちとアシストする先生。場所は多くは学校。その中で、教育的な効果をあげることを求められるが、何よりもまずは面白く楽しいコミュニケーションが基本になることは言うまでもない。それを大事にしつつ、できたら、そのやりとりを外へ、社会へと発展させていくことが共生社会のイメージになる。障害の重い子どもたちが買い物場面にいて当たり前にICTを使うことでそれは徐々に広がるかも。時代の雰囲気的に、遊びと無駄が教育現場や社会から除去されていくような気がするから、そこを踏みとどまってほしいなあという願いを。スライドを用意しつつも、どんどんそれからずれていく最近のスタイル。果たしていかがだったか。
 午後は機器作成のお手伝いをしながら参加されている先生方と雑談三昧。
 思いがけない出会いは同じ幼稚園を卒業した管理職の先生がいたこと。自己紹介でそれに触れたら、声をかけていただいた。なんとお互い数十年前に卒園した幼稚園の校歌を歌えるではないか。
 宴席を設けていただいたが、わずかな時間で新幹線に。日の変わる前に久里浜に帰り着いた。 

shinshu_switch_labshinshu_switch_lab  at 17:30  | コメント(2)  |  この記事をクリップ! 

夏のお仕事1

信州カンファの翌日は免許認定講習。ここ数年のパタン。今年からは県外に出てしまったし、大学の教師でもなくなってしまったので、長野県教委の方に自分でいいのかと確認。しかし、是非にとのこと。なので引き受けさせてもらうことに。これまた毎年書いていることだけれど、担当する肢体不自由教育の領域における身体に関する部分は全くの素人。それでいいのかどうかはわからないけれど、最近の流れを見ていると、身体に関する部分は良くも悪くもどんどん外部専門家に委譲されておるような。肢体不自由教育の専門家も、身体以外の領域が、ICTも含めて拡大している。
 免許をこれから取得して、今後子どもたちに接するとするとその傾向が進むし、生半可に身体のことをかじるより、ICTや教科指導について学んでおいた方がいいのでは的な老婆心。
 手を挙げてもらうと、肢体不自由の勉強をしには来ているけれど、今肢体不自由の子どもたちを担当している人はイエロー学校やフラワー学校(?)に在籍しとる人以外はほとんどいない。とすれば、話す内容は肢体不自由のことを学びつつも、目の前にいる子どもを見る視点を少し再考できるようなものをと考えることになる。
 これまた繰り返しになるけれど、障害種別という切り方がすでに時代には遅れている。またICFの観点からすれば、たとえば歩けない、話せないという特性という捉えではなく、そういう困難さをまだ支援されていない、というものとして考える視点が必要なのだろう。
 結果として、肢体不自由を切り口に、結構な周回の楕円軌道みたいな話になった。どのあたりまでついてきていただいたかはわからない。しかし、特に文房具にはとても皆さん興味がある。当たり前か。先生だもの。



shinshu_switch_labshinshu_switch_lab  at 17:30  | コメント(0)  |  この記事をクリップ! 

信州カンファ2017☆⑫

あっという間の二日間。
毎年始める前には、今年もやるべきなのか、
果たして人は来るのかな、なんてことも考えるし、
やらなければという不思議な義務感もある。
年々、業務的にはbo-ya先生に集中していて、自分なんかは
溥儀以上に、名前だけ委員長で本当に申し訳ない限り。

それにしても、誰にも確認したことがないのだけれど、実行委員の
皆さんはどうして、この会を運営しているだろう。そして、参加される方、
特に遠方から来られる方は何を求めているのだろうか。

大義としては、情報収集、技術の習得、大きく言えば特別支援教育のため、
子どもたちのため、ということになるのかもしれない。
確かにそうなのかなと思う部分も多い。

しかし、講師の話に笑ったり、大きく頷いたり、セミナー以外の場面で
もたくさん話し込んだり、ものを作ったりーそんな姿を拝見していると、
そういうこと以上に、参加者それぞれ自身が学ぶことや人と関わることを
楽しみ、そこからプラスの何かを得たいと願っている、そう、楽しく。

昨年、ある人から、その人の日々生きるモットーを聞いたことがある。
「自分は常に不機嫌でいたい」
結構驚いた。

仕事もできる方で、指導的立場にもあるその人。
そのモットーが上記のもの。
他人がどんな思いで生きようが勝手だ。
しかし、なあと思う。

それでいいのか。
確かにその人は常に不機嫌そう。それは勝手だが、
同時に、関わったこちらの気分もよくなることはまずない。
自分が不機嫌に生きるのは結構だが、他人がそれで
不機嫌になることに何とも思わないのは、なんとも。

自分はそんな風には生きたくないなと思う。
できれば楽しいものを見つけ、誰かにそれを
伝えて、その人も楽しいと思えたらうれしい。

そしてそうすることは、やはり自分というものを
見つめ直し、自分の有り様を自覚することなのかとも思う。

かっこよく言えば、
「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。
そうしたことをするのは世界を変えるためではなく、
世界によって自分が変えられないようにするためである」(マハトマ・ガンジー)

簡単に言えば、こう

第9回カンファでお会いできることを楽しみにしています。
できたら、友達を1人連れてきてください。

【カンファレポ完】




shinshu_switch_labshinshu_switch_lab  at 14:35  | コメント(0)  |  この記事をクリップ! 

信州カンファ2017☆⑪

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 乙女手芸部谷部長の参加から、カンファのテイストは大きく変わったと言えるかもしれない。
作るということが学校からも、教師の手からも消えようとしているのはリアルな実感としても皆さんにあるのではないだろうか。
 最近いただく研修会講師依頼の中で、ちょくちょく出てきたのが、自作教材の紹介は避けてほしい、というもの。ある意味では、魚に遊泳禁止というようなものだし、大型滑り台の作り方をレクチャーしてくださいという以上に難しい。
しかし、そう簡単な話ではないらしい。
働き方改革が進んでいない教育業界。自作教材を紹介しても、それを作るには放課後長時間を要し、退勤時間を遅らせる可能性があるということ。代わりにタブレットを活用した教材をという。でも、それが自分の場合は簡単ではないし、却って時間をとることもある。そうすると既成のアプリを、ということになるかもしれないが、それが実践に即投入できるかは極めて怪しい。
教材を作る時間もなく、退勤時間を守るとなると、せめて学習指導要領は細かく、それを見ただけで指導ができるように、という流れなのだろうか。時代は変わろうとしている。大きく。
それはそうではあるけれど、夏の休暇、せめて一瞬でも作ることに時間を使ってみる。手を動かし、話しをしながら、何かを自分の手から生み出してゆく体験。作るというか、こしらえるということ。そのおもしろさ、また自分にある何かを生み出す力。それに気づき直すことは大事なのではないだろうか。
昨年からの教材くらふとワークは、終始賑やかで、まさに市のよう。
どうにも楽しい雰囲気。
やはり、こういう時間、空気が必要。
凝ったものを作る元気はないので、今年はびっくりケチャップ。
上田に帰ってくるたびに、材料を調達。一応紐を購入したが、念のためと買っておいた毛糸を使った方が高パフォーマンス。何せケチャップボトルの口を切るだけで作業の90%が完成。これなら超過勤務にもならんだろうね。



shinshu_switch_labshinshu_switch_lab  at 10:34  | コメント(0)  |  この記事をクリップ! 

信州カンファ2017☆⑩

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一応講座も2つ持たせていただいた。
内容については、自分でも「?」というものを。
立場的に、なんていうと、自意識過剰なのは百も承知。それでも、一応、あれこれ言う人もいる。
あれこれというは、上席者、というより、むしろ逆な方から。
管理というと上から下へのベクトル、と想像しがち。しかし実際は、まずはうちから、自己抑制という形で生じることが多いのではないか。いつの時代もそうなのかもしれない。

こういうことをいうとまずのではないかー
こういうことをいうと怒られるのではないかー
こういうことをすると非難されるのではないかー

そんなことはない、ということはない。確かにそうなることも多い。
これまでもそうなったこともあるし、割と怒られたこともある。
そういうことが平気、というほど心臓も強くない。
怒られると凹むし、気分も悪い。

なら、やめるか、そう、そうした方が確かに楽。
真っ向から戦うか、それはそれで潔い。

でも、よくよく考えるも、どちらもあまり面白くないなとも思う。
やめても、ずっと引きずるだろうし。
潔さ、ってどうも自分に酔っている気がする。特攻精神とも重なる。

どうにか、こうにか、うまく生き残ることって、格好悪い。
でも、格好悪くて、悪いかという気もする。

真面目に考えることは大事だが、その真面目さに足をすくわれる。
どこまでいっても遊び半分で考えるってやり方も、結構大真面目。

わかったような、わからないような、ぼんやりとした位置って、それはそれで価値があるのでは。
今回の2つの発表はそんなテイスト。

特に荘子のお話は、自分でも感慨深い。
全く意味のない漢文。高校時代、大学時代、確かに
自分の中の大きな彩りだった。それが何かの役に立ったかというと
ほとんど0でしかない。

でも、やはりそうのか。言い古されたことだけれど、やはり、最も無関係なもの思えるものに
つながりが見つかる。それが大きなヒントになる。

そんな自分の発見を少しはお伝えできたか。











shinshu_switch_labshinshu_switch_lab  at 10:18  | コメント(0)  |  この記事をクリップ!