弱くなった人間

  このやり取り。一番最初に観た時はそれほど、感想もなかった。ふうん、と思っただけ。しかし、時間が経って見返すといろいろ考えてしまった。
宮崎駿が素晴らしい、ドワンゴ社長がダメ、またはその逆、という、評価も様々だが、自分として、気になったのは、鈴木プロデューサーの質問へのドワンゴスタッフの答え。
「人間のように、自分で絵を描く機械」
それは技術的にはすでにきっと可能だろう。しかし、それは目的になりうるのだろうか?何のためにと考える必要はないことが増えてる。人間の想像力を超える技術はたくさん生まれているからね。AIが勝手に作った人体の動き。気持ちが悪いから、ゾンビの動きにというドワンゴ社長とその動きが肢体不自由者の動きに似ているという宮崎駿。双方に差別性を指摘することも可能だが、それ以上に、その差別性に人間性を感じるほどの、人間不在がある。
教育現場へのタブレット端末の導入は、どこかで、「人間のように、自分で教える機械」を目指しているし、society5.0が描く未来の教育は、そういった世界を予想している。
「人間が弱くなった」と宮崎駿は言うが、それは
「教育が弱くなった」
「教師が弱くなった」ということだろう。



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信州カンファ2018☆⑬(完)

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あっという間のクロージング。楽しい時間は本当に早く過ぎる。このまま終わらなければいいのに。高校時代に観た映画「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」を思い出した。高校の文化祭前日。その一日が永遠に繰り返されるというもの。すごく好きな映画だった。文化祭前日のあの雰囲気、確かにそれが永遠に続けばなと思っていた。そんなことは高校時代のことだけかと思えば、大人になってもあるんだなと。実行委員が全員「信州カンファっていい会」と言うのもとてもおかしかった。特別支援教育ってタームがほとんど聞かれない研修会。実はそれが世界の真実なのではないか。ボーダレスに真面目さとおもしろさの境界で学び、感じ、考え、誰かと話すことで、この世界を我々は生きることができる。終わってしまって残念だけれど、今回ほど、元気をもらった回もなかった。また来年。ラストの1回はどんな展開になるのか。楽しみで仕方がない。


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信州カンファ2018☆⑫

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今回のカンファが始まってからというもの、谷先生と顔を合わせるたびに何故か二人してしんみりしてしまう。開始前は準備が大変だったカンファも始まってしまうと後は終わるだけ。二人顔を合わせれば、「ああ、もうあと1日で終わりますね」と半泣きに。
 ものづくりに関する講座を2人してやることになった今回、メールのやりとりをやる中で、ものづくり、学校、教育等々についてのあれこれについて話すことがたくさんあった。結論としては、残念ながらでてくる話題はあまり明るいものではなかった。ひょっとすると、面白いことをやれることはないのかもなと。考えてみると谷先生とも長いおつきあい。おもちゃ、服飾ともともと出発点の違う二人だが、特別支援というタームでくくると方向性がシンクロ。ものづくり、教材というものを通じて、学校が楽しい場所にという気持ちがお互い強くなる一方、現実は逆方向。そんな展開に徐々に怒りを発散させてきた二人はカンファメンバーの中でも過激派グループに。今回満を持してのタッグ発表。打ち合わせはしたものの、ほとんど内容については決まらず、スライドも前日、お互いのものを互い違いにドッキング。しかし、それがまた藤子不二雄かと思うほどぴたりとあった。経済的、物理的な観点で言えば、作るより市販品という流れは必然。しかし、谷先生のスライドにもあった言葉「世界に操られるのか、操るのか」。自らの意思が反映されない市販品だけだと確実に世界は狭くなる。そしてこの傾向は教材となればなおさらではないか。教育は教える側の意思の表明であり、教わる側はその意思を望んだ時に受け入れるという作業なのだ。とすれば、そこに意思が入っていない教材を用いることはナンセンスというしかない。杉浦はヘボコンでの体験もお話。無目的にものを作ること、デイリーポータルZの石川さんの「できなきゃいけない呪縛からの解放」という言葉を紹介。そう、やはり作ることは自由であり、自由を生むのではないかと。あっといまの1時間。会場の皆さんはどう思われたかは分からないがものづくりを愛する2人の思いは受け止めていただけたか。そして谷先生とため息。「楽しい時間が終わりましたね」と。

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信州カンファ2018☆⑪

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 2日目は食堂が会場。
 ところが、会場に行くための階段のシャッターが閉じられたまま。やばい、このままでは食堂が使えなくなると一瞬青くなる。
 しかし、奇跡は起こる。あまりくわしくは言えないのだが。奇跡が起こったのだ。いや、奇跡というか、自ら奇跡を起こしたというか。完全な超日常的行為。しかし、いや-身体中のアドレナリンが沸騰した。癖になりそうで怖い。
 考えてみると、日常を生きているとそれを如何に維持し、変化が起こらないようにすることに力を注いでいることが多いし、それが少しでも乱されると不安や不調になるってことはないだろうか。究極の「○○すれば□□になる」を自ら構築して、それが崩れることを恐れるというか。だから基本何もしない方が褒められる。しかし、そもそも「○○すれば□□になる」なんてことは仮定に過ぎない。
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曰く「生活指導すれば、子どもは道を踏み外さない」
曰く「ICTを使えば学習障害はクリアできる」
曰く「生活単元学習では教科学習はしなくても自然に身につく」
曰く「性教育は危険なので、支援学校では実施しない方がいい」
これらの意見は、きっとその結論を導くだけの個人的な経験があったのだろうから、事実であるに違いない。しかし、当たり前のことながら、これがすべてに当てはまるわけではない。新しい技術や知識が生まれて、流れ込んできている。かつての事実は今の誤りであることもあるはずだ。エビデンスによって保障されている、なんてこともよくいうが、エビデンスで保障できるだけの条件が整った上でのことで、そんな条件が存在するかというと全くなかったり。
 今回のカンファはこれまでのカンファから鑑みても神回だったのは、すべての時間、特に歩調を合わせたわけでもないのに、学校や特別支援に関わる「○○は□□である」からの解放だったからなのかなと思う。
 そんなことを感じつつ、教材クラフトワークの始まり。今年は「宇宙人」。少し誤解があるようだ。これは杉浦オリジナルではない。「たのしい授業」(仮説社2018年3月号)に記載されたもの。
あくまでも簡単工作として紹介されていた。製作の過程で紹介した対障害のある子供達向けの活用方法のアイデアは杉浦が考えたものだけれど。予想以上に、不思議感のある動きがウケて

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た。合わせて去年今ひとつの売れ行きだったびっくりケチャップも流れで、結構捌けた。それにしても楽しい時間はすぐに過ぎてゆく。


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信州カンファ2018☆⑩

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朝からすべてのセッションに出演して、ヘロヘロになった上での教材の鉄人。うーん、どういうキャラになるのが、一番喜ばれるのか。独りでリハーサルに余念のない矢島先生を朝見てからずっと考えているがはっきり決まらない。対戦相手はボカ王子で、お題は未来のVOCA。すべてがよくわからない。同様の気持ちは一ヶ月前に出たヘボコンに近い。未来のVOCAって点で言えば、どう考えてもボカ王子がそれっぽかったようにも思うが。思い返せば、二十数年前に受検した京都府教員採用試験の図工がほぼ同じスタイルで作る「未来の乗り物」。あなた、楽しそうに作るねと試験官に感心されたのを覚えている(呆れられたのかもしれぬが)。本田先生と画伯のシンボル対決はやはり見物だった。確か第二回カンファでも、公開シンボル作成対決がイエロー学校サブアリーナであったようにも覚えているが。今回もお二人の技術にうなってしまった。

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信州カンファ2018☆⑨

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この企画の話を代表からお聞きした時、ああ、そう、それいいです、とただただ賛同。畠山先生のお話を関係するメンバでするってとてもやりたいと即賛成。今更、畠山先生、いや違った、畠山さんの素晴らしさについてここでいうこともないだろう。このブログでもこれまでに何回も触れてきた。
 支援技術すなわちATの世界は、当たり前のことながら、その基盤となる技術がどんどん新しくなる。新しく生まれた技術、他の領域で効力のあった技術が教育の領域に適用されることで新しい支援技術となるわけだ。しかし、最近気になるのは、技術の革新とその基本的な理念の部分との乖離。できることが多くなるにつれて、本来の支援技術の基本を外している実践も多くなってきたように思う。タブレット端末や視線入力、これらの価値は素晴らしいが、これらがすべての支援をカバーできるわけでもなく、技術の未既、高低は支援という視点からはそれらはすべてがフラットである。ところが、時代のせいだろうか(時代のせいにしてはいけないが)、思考停止の最新技術礼賛の傾向が強い。これらの傾向を示す支援者はまたシンクロするように知らないことを開き直る。知らないから、考えない。訳の分からない、犯罪的で無意味な潔さが思考の浅さを生み出していることに気づかない。なぜなら、思考が浅いから。このマイナスの浅さのループへと落ちた人は、数分話をするとすぐわかる。いかにも機器には詳しいが、技術の背景に対する洞察や多面的な視点での考察がない。また最も大事なそれを不必要、または唾棄すべきと考えているからである。そういう傾向がはびこる中だからこそ、畠山さんの支援技術の考え方に触れるべきだと思う。近すぎず、遠くない利用者とのコミュニケーション。それ自体畠山さんの思考や積み重ねられた経験から醸し出されたものだ。だから、これまで接してきたすべての支援者、研究者の中でも、接した時のあの雰囲気、本当に忘れがたい安らぎ。畠山さんの記憶のほとんどはそれらに埋め尽くされている。
 時を偶然にも、このセッションの前日に、畠山さんについて極めてネガティブな評価が代表のFBに書き込まれた。意見というものは如何様なものであっても、否定されるべきではないから、別段どうということはない(個人的な遺恨について、他人のFBに書き荒らす、提示された意見に対して、感情的な反論をしつつ、それまで書いていた内容に修正を加える等は大人として恥ずべき行為だと個人的にはあきれてものが言えないが)。他領域の専門的な視点で見れば、畠山さん個人の発言に何かしらの誤りがあるのかもしれない。ただ、ここで話題にしているのは、たとえるならば、漢字のとめはねの正誤のような些末なことではなく、その字が意味するもの、世界なのだと思う。伊藤先生が提供してくださった某局の映像。轟さんの食事に使うミラー。きっとプロからすればきっと技術的にはそう難しいものではないのだろう。しかし、食べるものが見えることが如何に生活の質を上げるか。たかがそれだけのことで、如何にそれが生きる楽しさにつながるか。そう、やはり畠山さんは、障害ではなく、その人を見ていたんだなと。その大事さを軽視する人が増えることは、耐えがたく悲しい。

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信州カンファ2018☆⑧

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このテーマで話をするなんて半年前には考えられなかった。そもそも3Dプリンタで作らなくても、半田ごてと材料があればもっと楽に作れるんじゃないかと思っていた。新しい方法や技術に興味がないわけではないし、むしろどちらかと言えば、節操なく飛びつくタイプではあるのだが、昨今、それに躊躇することが多い。というか、新しいそれが自分にとって難しすぎるのだ。それは年齢のせいではない。どうも、新しいものに向かう力がここしばらく落ちている。そういうこともあって、3Dプリンタにもどちらかというとネガティブなイメージを持ってしまった。しかし、である。そういった意思の弱体化は時として、後先考えない、突発的行動を生み出す。そう、後先考えず買っちまったのだ。買った以上は動かさないと、という貧乏性。思いつくまま、マニュアルの確認もそこそこに電源を入れて、動かし始めた。ところがである。このとりあえず動かしてみて考えるという、小学生的なコンセプトがまさにぴったりのアイテムであることが使うことでわかるのだ。鼎談の中でも触れられたが、他の製作手法に比べても3Dプリンタは失敗が多い。ミスの連発と修正の連続である。ある意味ではとても面倒くさい。しかし、翻って考えてみれば、思考とはそういうものであり、その思考の上に成り立つ製作とはそういうものだ。また製作の過程はデジタルをベースにしたものとは思えないほどの生物感。簡単に言うと電気仕掛けの蚕。繰り返し、糸を紡ぎ、立体を形作る動作は見ていて飽きることがない。こんなマシンが教室にあって、自由に使える時代が来れば(きっとすぐなのかもだが)、ものづくりのかたちも変わるかもしれない。そんな少し未来の可能性に触れつつ時間はあっという間に終わり。終了後、興味のある方はと代表の声がけに、たくさんの方が壇上に。興味津々でのたくさんのご質問。ひょっとしたら、すでにアマゾン経由で参加者の皆さんの机上に3Dプリンタがあるのかもしれない。


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信州カンファ2018☆⑦

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下の娘の高校入学を機に受付業務から杉浦家が撤退。同時に大学生の助っ人を募ったところ、N大学旧杉浦クラスの有志がここ二年手を挙げてくれている。旧杉浦クラスというのもややこしくて、1年生ゼミの杉浦クラスと「現代社会の私たち」という初年時講義の受講生という2つ枠がある。1年生ゼミ、初年時講義、いずれもが作文技能補償、大学での学び方的な既定路線を走るものだが、例によって、ほとんどそのレールを無視して走った授業を展開した。ある意味で今回集まってくれた学生は杉浦によって初年時からレールを外された被害者同盟と言ってもいい。つかの間でも師であるならば、若者に道を指し示すべきだろうが、様々な相談を持ちかけてもかえって混乱をきたすようなことばかり。学習指導要領に言われるまでもなく、ここからの日本がどうなるか。正直これまでの価値観が全く通じない可能性が高い。とすれば、訳知り顔で、これまでの飛ばしいけ意見をもとに「こっちが正しい」なんて言えるわけがない。とすれば、教えられるのは、状況状況で手を打ち、変化することを楽しみながら前に進めということだけだろう。わずか1年から2年、接した時間は少なかったが、そのことだけは丁寧に伝えてきたつもり。徐々にではあるが、その精神は伝わっているようだ。受付業務の有り様はカンファ関係の先生方の評価も高かった。うれしいことだ。もちろん、そこには杉浦の力は何も影響していない。彼ら、彼女たちが素晴らしいのだ。最近の若者は、とついつい口にすることが多いが、個々に見れば我々よりも遙かに優れた人が多い。後生畏るべし。

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信州カンファ2018☆⑥

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2枠目は「小中学校の荒波の中で2」。前回からの継続ネタ。うらさん、ボカ王子、オオクボさんの発表にチャチャを入れる感じで進行。いやぁ、荒波感はやはり強くなっているのか通常の学校、という感じ。特に今回のお土産とも絡む、無言清掃と無言給食は知らないうちに、時間泥棒のように身近に近づいてきているってことを感じた。特にうらさんの報告にあったように、打ち合わせのメールのやりとりでは「そんなんあるんですね」といっていたのに、ある日突然教室でそれが姿を現したという話には驚かされた。しかし、それにしても、お三人はそれぞれにその荒波をうまく乗りこなしているようにも感じた。そう、そうでなければやっていられない。ただ、オオクボさんはそのことに納得できていない様子だった。
 支援の必要な状況をわれわれは何とかしようと思う。学校、教室で求められる行動や常識の基準に何とか子どもを乗せようとする。そう、場合によっては機器を使って。ICFでいうところの参加の度合いで障がいが決まるわけだから。しかし、しばらくこの業界に身を沈めるとふと思う。そもそもそんな基準自体に意味があるんだろうか。例えば、漢字の筆順、とめはね。 最初は失敗続きの子が支援の効果があって、徐々にそれを体得する姿は嬉しい反面、学校の意味のない常識へのはまり方を教えてしまったのではないかという罪悪感である。掃除、運動会に徐々に子ども達が参加が出来るようになったことを報告しているオオクボさんのスライドとトークが今ひとつ弾まないのは、そのせいだったのかもしれない。そもそも教育の成果とは何か。かつては、教育によって、学校、社会、常識、その枠自体を疑う力の育成だったと思う。これまた「実行委員長に聞く」で紹介したN大学のN元学長の言葉「学問とは社会という怪物に刺さる不愉快な棘である」に重なる。しかし、現行の教育の成果とは、指導要領前文によれば、社会の要請に応じた人材育成だという。それは本当に教育なのか。単なる洗脳なのではないか。そんな問いかけ自体が社会から消滅しようとしている。そして、そういった非効率的な議論と問いかけを生み出す文系学部を絶滅させようとしてる。時代が単純さを求める時は最も危険な時だ。その意味で、荒波をどう捉えるか。いかにうまく越えたかでよいのか。あえてその中でおぼれるべきなのか。結構難しいと思うのだが。それにしても、ボカ王子が懇親会のためにわざわざ2つ作った荒波マグカップが誰にも選ばれず杉浦の手元にあることはあまりにも悲しい事実なので誰にも言わずそっと胸にしまっておこう。
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信州カンファ2018☆⑤

さて、そんなこんなでお話の時間に。1枠目は「たのしい授業の思想」を授業プラン「見えども、見えず」を通じて考える。今年2月に逝去された板倉聖宣先生へのオマージュ。新しい学習指導要領のせいにするのは安易すぎるだろうが、昨今の教育シーンはとても機械的。ああすればこうなるみたいな単純な枠組みで語られることが多い。出来ない部分を機器で埋めたら合理的配慮、というようなことを話すことが多い自分も責任の一端を感じている。障害や困難の枠組みをシンプルに考えることは大事だが、実際の指導や導入を巡っては、子供達の気持ちや活動の中身によって、自在に変わるべきだがここにもこの単純さが腐海の菌のように忍び込んでいる。このあたりの変化は、以前、「実行委員長に聞く」でも触れたが、経産省のテイストを感じる。欧米諸国の中には、教育担当省を廃止し、教育行政は州毎の自治になんて流れ。日本で文科省関係の不祥事がニュースにされるたびに、文科省廃止に向けた巧みな情報、人心操作の1つなのではという思いが湧き出てくる。実際に経産省のアイデアを見れば、義務教育段階での基礎的な読み書きはタブレットで対応し、個々の躓きはデータ管理、対応、なんてサラリと書いてある。初期教育はタブレットで、高等教育はネットを通じてなんてICT関係者が涎を流して喜びそうな展開ではないか。そう、これがEdTechというわけだ。しかし、そんなんで本当に大丈夫かね。そもそも昨今のICTや特別支援教育の若い研究者や実践者と話していても、それぞれの得意な方法論については詳しくても学校や教育に関する知見の薄さに驚くことが多い。そう極めて単純な技術功利信者がほとんど。その技術の効果については詳しくても、教育全般の中で技術が果たす役割や歴史的、政治的な見方からの議論は明らかに暗い。しかも、これまた共通していることは「知らないことは知らない」と他との関係性については自ら目をふさいでいることが多い。それがある意味科学的という立場だからだ。実際の学校や教師、子どもを知っている人なら、そんな簡単なものじゃないことは分かるはずだが。教育という営みも科学性を持つことで学問としての位置を確保するために、意味の薄いデータ主義に陥って、本来の教育の射程を見失っているのではないか。そう、思うのだ。その思いを強くしたのが、板倉聖宣提唱の仮説実験授業の世界。科学的認識論の確立を身の回りにある極めて生活感のある事象に目を向けることで達成しようとする。方法としては、選択肢を選ぶことで自らの考えをクリアにし、討論と実験によって真実を明らかにする。今回の授業プランは大学の初年時教育でも用いた。自分の頭で考えること、仮説を立てることの大事さ。しかし、自分の頭で考えると確実に間違えることを体感できる。そう、間違えることが思考、試行することの第一歩であるのだ。
 そもそも、われわれ大人の、教師の周囲に、自分の頭で考えることがどれぐらい残されているだろうか。間違いと失敗を恐れるあまり、自分での判断ではなく、その場の雰囲気で勝ちに乗ろうとしてはいないだろうか。そういうことが教師や学校に許されない雰囲気が生まれている現状。もっと力を抜いて、もっと楽な場所になることで学校が「考える場所」に戻ることができるのでは。単にそれは理想かもしれない。事態はかなり厳しい。しかし、個々の教師がそうどこかで思っていること、そうしたいと考えて授業を作ることはまだ可能なのではないか。そんな思いもある。どれくらい伝わったかどうか。今年も出店していただいた海猫屋さんで販売していた板倉さんの本がソールドアウト。手にとってくれた先生方に何かが起こりますように。


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