ff4c3d62.jpg この雪ですよ!しばれてるから屋根雪も落ちないし・・・。

どうなってるの?南空知?

説教部屋いきます。

◇十一月のカレンダー法語◇(2010年11月寺報より)
 “お念仏 いつでもどこにいても
   はなれ給わぬ阿弥陀さま ”
 最近何気にチョット気になること。「仏事ではお焼香をしますが、その意味(意義)を問わずして、ただ簡単に流れの中で終わらせていませんか?」と言うこと・・・。お焼香は、香火に刻み香をくべて燃香し、その薫りを仏様にお供えするんです。それを略する形で作られているのがお線香。ですから、煙が出るとか出ないとかは問題ではなく、よりよい薫りのするお香を使うことが大切です。それでは、その薫りの意味は? お香の薫りは、お香を焚いた空間の隅々にまで分け隔てなく到り届きます。それは阿弥陀様のお慈悲は、なににも妨げられることなく平等に到り届くはたらきと同じであります故、お焼香を通して阿弥陀様のお慈悲を頂戴するという大切な意味があるんですね。
 阿弥陀様の分け隔てないお慈悲とは、「人を選ばず」という事だけではないはずです。時間的にも空間的にもということです。御法話では「誰でも・いつでも・どこでも、称えられるように仕上げられているのがお念仏であります」とお聞かせいただきますよね。ここをもう少し主体的にお聞かせいただくならば、「誰でも=私、いつでも=今、どこでも=ここ」のお救いであります。
 子供が生まれて半年が過ぎるくらいまでは、とにかく親は大変でした。(といっても母親だけかな?)親の五感は常に小さないのちに向けられています。常に視界の中におき、耳で子供の変化も聞き分け、鼻でおしめの替え時を知り、味覚は味の濃淡を子供仕様に確認し、肌を触っただけで熱の変化や皮膚の状況を知り尽くすのですから。「ついてはなれず」とはまさに親の所作そのものでありました。なるほど、阿弥陀様を昔から「親様(おやさま)」と呼ぶのも納得できますね。
 浄土真の開祖親鸞聖人は、主著である『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)の総序(そうじょ)』に『ああ、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)、多生にも値ひがたく(たしょうにももうあいがたく)、真実の浄信(じょうしん)、億劫(おくこう:無限に永い時間)にも獲がたし(えがたし)。たまたま行信(ぎょうしん:救いの名号と信心)を獲ば、遠く宿縁(しゅくえん)を慶べ。』と仰せになられました。私の願いやはからいをこえた深い深い縁によって出遇えたお念仏であることを慶ばれています。その慶びの中には、条件が一切提示されることのないお慈悲の大きさが含まれます。「あの時に・あの場所で・あの人だけが」という条件付きのお救いであるのなら、それはすでに取引ですよね。乳飲み子と母親の関係に条件や取り引きが存在するでしょうか?しませんよね!
 寝付けないお布団の中で、イライラする渋滞の中で、忙しいお仕事の最中でも、お念仏ってあるんです。