連休中に少し変わった出来事があったので書き残しておく。
夫がとある団体の催しの挨拶を依頼されたが、休みの日にそんなことをしたくないので「その日は無理です。泊まりで会議があります」と嘘をついて断ったらしい。なので家にいてはならず遠くの温泉に泊まりに行った。田舎だから家を特定されている。車あるじゃん、家にいるじゃん、と言われるくらいの小さな町である。逃亡を兼ねた旅行だった。
ちょうど紅葉が見頃だった。帰りに立ち寄った喫茶店の庭が立派で、私はしばらく散歩しながら写真を撮った。そういうものに興味がない夫はひとり先に車に戻った。あとは家に帰るだけ。のどかな田畑を眺めながら車を走らせた。
「なんかくさいな」
夫がしきりに車の窓を開けたり閉めたりする。
「畑の臭いじゃないの?」
「いや外じゃない。車の中がくさい」
若干つんと酸っぱい臭いが漂うが私はそれほど気にならなかった。
「何系?うんこ系?」
「わかんないけど俺には嫌な臭いだ」
原因不明のまま一時間ほど走り、その間も夫は窓を開閉した。気温10度。身体が冷える。
そのとき何気なく、本当に何気なく、自分の足元に目をやるとスニーカーの側面に握りこぶし大の黒い塊が付いていた。
足を動かしたくらいでは落ちない。しかも両足の側面に黒握りこぶし。しがみつくようにべったりと付いている。間違いなく異臭の源である。
なぜ気付かなかったのだろう。運転中の夫に言ったらパニックを起こすかもしれない。
「ちょっと車とめてもらえる?どこでもいい。とめやすいところでいい。ちょっと思い当たることがある」
遠回しに言った。他人事みたいに言った。
町はずれ。自衛隊の駐屯地の塀が続く。車通りもない。ちょうどいい。
車が停止するやいなや私は外に飛び出し、夫の視界に入らないところまで歩き、アスファルトに黒い塊を擦り付けた。土のように見えるが粘っこい。うんこではないと思う。私は犬のうんこを二回踏んだことがあるのでわかるのだが、ちょっと付着した程度でも猛烈な臭いを放った。とても車内で耐えられる臭いではない。だから、これはうんこではないと思う。臭いの質が違う。そう信じたい。しかし土にしては粘性があり、木の棒で剥がそうにもうまくいかない。塊はなんとか落とせたが側面は黒いままだ。しばらく物体と格闘し、幾分ましになったので車に戻った。
「今なにしてた?」当然夫は聞く。
「別に」
「なんか踏んでたんだろ、白状しろ」
「もう落とした」
「落ちてねえよ。靴真っ黒だろ。あんたが木の棒でほじってる一部始終を見てたぞ」
「ここから見えたんだ」
「愚かな姿が丸見えなんだよ」
「そうでしたか」
「やっぱりな。絶対車の中から臭ってたんだよ」
「でもうんこじゃないと思う」
「今うんこかどうかは問題じゃねえんだよ、くさいって言ってんだ」
しばらく取り調べみたいなやりとりが続いた。夫の言うことはいちいち尤もであった。
「靴の底にも付いてると思う。どっかで洗いたい。川か海か洗車場に寄ってもらえる?」
川も海も近くにあったが夫は素通りし、ホースで洗うタイプの昔ながらの洗車場を見つけた。私は洗面道具を入れたポーチから歯ブラシを取り出した。まさかこんなことに使うとは思ってもみなかった。水の勢いが強いのでスニーカーに直接水を掛けることはできない。替えの靴などない。慎重にやらねばいけない。得体の知れない黒い汁が靴下に沁みるのも避けたい。
私はアスファルトの窪みを探し「ここに水を溜めて」と頼み、歯ブラシで靴底をガシャガシャと洗った。「水おかわり」「あいよ」夫が濁った水を弾き飛ばし、窪みを新たに満たす。先ほどまでの取り調べが嘘のように、よい協力体制だった。スニーカーから臭いの元を取り除きたい私と、車内から異臭を締め出したい夫の利害が一致したのだ。靴底も側面も汚れが綺麗に落ち、余った時間で車とアスファルトに散水した。
「気持ちいいね。臭わない靴っていいもんだね」と愚行を忘れて喜んでいたら、夫が再び取り調べ室の形相で「ここから歩いて帰れ」と言った。罪は素直に認めたほうがいい。
夫がとある団体の催しの挨拶を依頼されたが、休みの日にそんなことをしたくないので「その日は無理です。泊まりで会議があります」と嘘をついて断ったらしい。なので家にいてはならず遠くの温泉に泊まりに行った。田舎だから家を特定されている。車あるじゃん、家にいるじゃん、と言われるくらいの小さな町である。逃亡を兼ねた旅行だった。
ちょうど紅葉が見頃だった。帰りに立ち寄った喫茶店の庭が立派で、私はしばらく散歩しながら写真を撮った。そういうものに興味がない夫はひとり先に車に戻った。あとは家に帰るだけ。のどかな田畑を眺めながら車を走らせた。
「なんかくさいな」
夫がしきりに車の窓を開けたり閉めたりする。
「畑の臭いじゃないの?」
「いや外じゃない。車の中がくさい」
若干つんと酸っぱい臭いが漂うが私はそれほど気にならなかった。
「何系?うんこ系?」
「わかんないけど俺には嫌な臭いだ」
原因不明のまま一時間ほど走り、その間も夫は窓を開閉した。気温10度。身体が冷える。
そのとき何気なく、本当に何気なく、自分の足元に目をやるとスニーカーの側面に握りこぶし大の黒い塊が付いていた。
足を動かしたくらいでは落ちない。しかも両足の側面に黒握りこぶし。しがみつくようにべったりと付いている。間違いなく異臭の源である。
なぜ気付かなかったのだろう。運転中の夫に言ったらパニックを起こすかもしれない。
「ちょっと車とめてもらえる?どこでもいい。とめやすいところでいい。ちょっと思い当たることがある」
遠回しに言った。他人事みたいに言った。
町はずれ。自衛隊の駐屯地の塀が続く。車通りもない。ちょうどいい。
車が停止するやいなや私は外に飛び出し、夫の視界に入らないところまで歩き、アスファルトに黒い塊を擦り付けた。土のように見えるが粘っこい。うんこではないと思う。私は犬のうんこを二回踏んだことがあるのでわかるのだが、ちょっと付着した程度でも猛烈な臭いを放った。とても車内で耐えられる臭いではない。だから、これはうんこではないと思う。臭いの質が違う。そう信じたい。しかし土にしては粘性があり、木の棒で剥がそうにもうまくいかない。塊はなんとか落とせたが側面は黒いままだ。しばらく物体と格闘し、幾分ましになったので車に戻った。
「今なにしてた?」当然夫は聞く。
「別に」
「なんか踏んでたんだろ、白状しろ」
「もう落とした」
「落ちてねえよ。靴真っ黒だろ。あんたが木の棒でほじってる一部始終を見てたぞ」
「ここから見えたんだ」
「愚かな姿が丸見えなんだよ」
「そうでしたか」
「やっぱりな。絶対車の中から臭ってたんだよ」
「でもうんこじゃないと思う」
「今うんこかどうかは問題じゃねえんだよ、くさいって言ってんだ」
しばらく取り調べみたいなやりとりが続いた。夫の言うことはいちいち尤もであった。
「靴の底にも付いてると思う。どっかで洗いたい。川か海か洗車場に寄ってもらえる?」
川も海も近くにあったが夫は素通りし、ホースで洗うタイプの昔ながらの洗車場を見つけた。私は洗面道具を入れたポーチから歯ブラシを取り出した。まさかこんなことに使うとは思ってもみなかった。水の勢いが強いのでスニーカーに直接水を掛けることはできない。替えの靴などない。慎重にやらねばいけない。得体の知れない黒い汁が靴下に沁みるのも避けたい。
私はアスファルトの窪みを探し「ここに水を溜めて」と頼み、歯ブラシで靴底をガシャガシャと洗った。「水おかわり」「あいよ」夫が濁った水を弾き飛ばし、窪みを新たに満たす。先ほどまでの取り調べが嘘のように、よい協力体制だった。スニーカーから臭いの元を取り除きたい私と、車内から異臭を締め出したい夫の利害が一致したのだ。靴底も側面も汚れが綺麗に落ち、余った時間で車とアスファルトに散水した。
「気持ちいいね。臭わない靴っていいもんだね」と愚行を忘れて喜んでいたら、夫が再び取り調べ室の形相で「ここから歩いて帰れ」と言った。罪は素直に認めたほうがいい。