2017年11月17日

毛が生えている話

 前漢の宣帝は武帝の曾孫であり、前漢王朝の中興の祖とされている。この「宣」という諡について、あるブロガーさんは「中興の祖に贈られるものだ」と書いていた。
 待てよ? 前漢の宣帝は確かに中興の祖だが、西晋の「宣帝」司馬懿は違うんじゃないの? 魏の立場からすりゃ逆賊同然だし、西晋からすりゃ王朝の「プレ創業者」だから、どちらにせよ「中興の祖」ではない。
 私はヤフー知恵袋の中国史カテゴリーで「こりゃどういう事ですかい?」と質問したが、あるお方が「『宣』という諡号は『聖善周聞(優れた善行が広く伝わった)』という意味で、中興を意味する諡号ではない」という回答をくださった。前漢の宣帝が「中興の祖」と認識されたのは後漢以降なのだというのだ。なるほど。

 その宣帝には色々と逸話がある。
 宣帝こと 劉病已 りゅう へいい または 劉詢 りゅう じゅん は、祖父である皇太子が無実の罪で殺されたため、獄中で育てられた。そんな赤ん坊の宣帝自身も殺されそうだったが、かろうじて救われ、一応は皇族としての戸籍を認められた。
 とは言え、彼はぬくぬくと温室育ちで生きてきたのではない。彼は勉強家だったが、同時に民間のヤンキー兄ちゃんたちとの交流があり、高祖劉邦のように世間を知っていた。半分皇族、半分民間人のような微妙な立場の彼には、変な身体的特徴があった。

 彼の足の裏には毛が生えており、ピカピカ光っていたというのだ。

 普通、人間の手のひらや足の裏には毛が生えない。人工植毛でもしない限りはあり得ない。多分、宣帝の足の裏の毛の話は、当人が毛深かったのを強調するために作られたのだろうが、そもそも、なしてわざわざ皇帝の体の毛深さをアピールするのか、よく分からん。
 そういえば私は、何かの本で変な話を読んだ覚えがある。

 ある人が毛生え薬を手に入れた。その粉末を指先につけると、その指は歯ブラシとして使えるようになった。このハイパーな毛生え薬を巡って、何人もの人たちがつかみ合いの大喧嘩をした。
 そして、地面に問題のブツがぶちまけられたところに、一人の男性が尻餅をついてしまった。
「ギャー!!」
 その男性のお尻は見事に毛がボーボーに生えてしまった。

 まさか、ヤンキー民間人時代の宣帝もそれで…!? まさかね。

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2017年11月08日

「麗しの君子」楽毅

なつむらさき
 クレマチスの花言葉は「高潔」と「企み」だという。この相反するかのような二つの花言葉は、ある人物を連想させる。
 三国志の諸葛亮が尊敬していた人物の一人である燕の将軍、楽毅である。

 中国の戦国時代で「戦国七雄」に数えられる国の一つに燕があるが、この国はお家騒動に隣国・斉の侵略がかぶさり、メチャクチャにされた。そのメチャクチャの後に即位した昭王の臣下に、「まず隗より始めよ」の 郭隗 かく かい がいた。この郭隗の「私程度の人材を優遇すれば、もっと優秀な人材が仕官してきますよ」という進言の最大の成果が、我らがヒーロー楽毅の仕官だった。というか、楽毅以外の人材がほとんど目立たないので、秦の孝公が 商鞅 しょう おう を「一本釣り」したのとあまり大差ない気がする。
 楽毅は小国 中山 ちゅうざん の出身だったが、先祖は魏の将軍楽羊だった。楽羊は「あの」呉起と同じく文侯に仕えていたが、中山国攻略の際に敵に自分の息子を殺されてスープにされてしまった。楽羊は魏国への忠誠を示すために、あえてそのスープを飲んで中山軍を破ったが、他の重臣に「我が子を殺されて食うような奴などろくなもんじゃないですよ」と讒言され、敬遠されるようになった。そんな楽羊の子孫が中山国に居着き、楽毅が生まれた。
 楽毅は中山滅亡後、一旦趙に仕え、さらに魏に行ったが、燕の人材募集を知り、仕官しに行った(『戦国策』には趙の武霊王に仕えて何やら進言していた話があるが、よく分からん)。燕の昭王は、この知勇兼備で志操堅固で焼肉定食な人材(「焼肉定食」は余計だ)がやって来たのを喜び、高位に就けた。

「楽君、我が国の敵である斉を討ちたいのだが、どうすれば良いのかな?」
「まずは、他国との同盟です。多国籍軍であの国をシバきましょう」

 昭王は楽毅を大将軍に任命し、趙の恵文王は楽毅に宰相の印綬を授けたのだが、なして趙王が外国人の楽毅に宰相の印綬を? まあ、斉の孟嘗君が秦の宰相になった先例があるが、その孟嘗君は一応主君である斉の 湣王 びんおう を内心見捨てていたようだ。
 楽毅は燕・趙・韓・魏・楚の連合軍を率いて斉に攻め込んだ。首都の 臨淄 りんし を占領し、後は二つの城を平らげるだけだったが、主君の昭王が亡くなり、それに乗じた斉の将軍田単の策略により、楽毅は失脚して趙に亡命した。

 昭王の跡を継いだ恵王は、使者を通じて楽毅を責めたり弁解したりなどしたが、それに対する楽毅の返事の手紙が後世の彼の評価を高めた。曹操や諸葛亮が楽毅ファンになったのは、彼の「真心」に感動したからである。
 しかし、ひねくれ者の私は思う。この人、後世の評価を意識して問題の手紙を書いたのではなかろうか? 自らの賢明さと恵王の暗愚さをアピールするためにこそ、あの手紙を書いたのではなかろうか?

 そんな「計算高い君子」楽毅の手紙と比べると、マロリー『アーサー王の死』でのガーウェインのランスロット宛の手紙は素直に感動出来る。というか、ランスロットみたいな野郎がアーサー王相手に楽毅気取りの手紙なんぞ書いて送ったら、それこそ「盗っ人猛々しい」事態である。

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2017年10月29日

君子のお人形

 三国志の群雄の一人に劉虞という人がいた。この人は後漢王室の遠い親戚のセレブだったのだが、質素倹約で自分が身に着けるもの(冠など)が破れても穴を繕って使い続けたので、世間での評判が良かったらしい。
 しかし、劉虞は劉備の先輩公孫瓚(正史『三国志』の普及によってすっかり評判がズタボロになっちゃったお方)と争い、殺された。そして、劉虞の屋敷に公孫瓚軍のガサ入れがあったのだが、劉虞の妻妾たちは高級ブランド品に身を包んでオシャレしていた。それで、世間の人々は生前の劉虞の倹約ぶりを「偽善だったんじゃないの?」と疑ったそうな。

 しかし、人形オタクの私は思う。劉虞自身の身なりと彼が愛でていた女性たちの身なりのギャップとは、単なる「偽善」だったとは限らないのではないのか? ズバリ、人形オタクが自らの身なりにはさほど金をかけなくても、自分が愛でるお人形には精一杯オシャレをさせたいと思う親心のような愛着だった可能性があるのではないだろうかと、私は思うのだ。

 まあ、私自身、自分には諸般の事情により着られないアイテムを代わりにお人形に着てもらうというのがある。そもそも人形オタクにとって人形とは理想主義の象徴だ。自らが果たせない「憧れ」を託すためにこそ、人形は存在する。
 話は前述の劉虞に戻すが、少なからぬ人形オタクは大なり小なり「ミニ劉虞」ではないかと思う。自分自身のオシャレよりも愛するお人形のオシャレの方が大事。劉虞の「倹約」の裏にはそんな事情があったのかもしれないのだ。

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