雑記

2018年08月15日

サークルクラッシャーはあちこちにいる

キャンベルさん 同性愛公表、自民議員の発言を批判…「スッキリ」出演

 日本文学研究者のロバート・キャンベル東大名誉教授がブログで自身が同性愛者であることを公表し、自民党の衆院議員が「同性愛は趣味みたいなもの」と発言したのに対して批判をしたという。私はキャンベル氏のカミングアウトに対しては「ふーん、そうなの」としか思わず、特に驚きはなかった。しかし、仮にキャンベル氏と同姓の他の有名人、すなわちスーパーモデルのナオミ・キャンベルがそのようなカミングアウトをしたならば、私はものすごーく驚いてしまっただろう。
 なぜなら、スーパーモデルなどの「女たちの仁義なき戦い」の世界で修羅場をくぐり抜けている人ならば、大なり小なり「女の敵は女」という感覚があるだろうからだ。
 私が勝間和代氏に同性パートナーがいるというニュースを知って大いに驚いたのは、要するに「そういう事」である。とはいえ、前漢の武帝という「男の権力者」の嫌なエキスを煮詰めて作り上げられたような人物にだって同性の愛人はいたのだし、性的指向と人間性は別問題だ。そもそも、武帝の祖父であり、名君として名高い文帝にだって同性の愛人はいたのだ。しかし、この文帝には実に苦々しい「ダブルスタンダード」があった。

 倹約家の文帝は、女性の側室たちの服装の制限をした。裾を引きずる贅沢な着物を着るのを禁じたのだが、男性の愛人に対しては、経済的事情も含めて色々と甘やかした。そして、ある占い師の「このお方は困窮して餓死します」という予言を聞き、その愛人 鄧通 とう とう に銅山(!)を贈り、自由に銭を鋳造する権利(‼)を認めた。
 しかし、予言を避けても裏目に出る話は色々とあるんだなぁ。例えば、ギリシャ神話のオイディプス王の話が典型例だが、鄧通の場合もこのパターンだ。文帝の息子景帝などの恨みを買っていた彼は、文帝の死後、本来ならば違法である銭の自家鋳造などの罪により失脚し、全財産を没収されて、占い師の予言とほぼ同様に死んでしまった。

 とりあえず、まあ。文帝の過ちとは別に「同性の愛人だからダメ」というのではない。異性愛だって、こんな不正の要因になるのは珍しくない。というか、異性愛が原因のトラブルの方がはるかに多い。
 それはさておき、なぜ女性やゲイ男性は異性愛男性社会で差別されるのか? それはおそらく「サークルクラッシャー」という概念のせいだろう。サークルクラッシャーとは主に、男性ホモソーシャルにおける「女性」のあり方の一つだが、古代ギリシャの政治家アルキビアデスは「男性版サークルクラッシャー」だったようだ。
『史記』の佞幸列伝には前漢歴代皇帝たちの同性の愛人たちが取り上げられているが、私が思うに、前漢皇帝たちは呂后などの猛女たちに辟易して、同性愛を「癒やし」にしたのだろう。深澤真紀氏が『日本の女は100年たっても面白い』(KKベストセラーズ)で指摘しているように、男性同性愛の文化は女性蔑視と表裏一体にある。その典型例が古代ギリシャの男性同性愛文化だった。

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2018年07月21日

なして、この読み方なの?

『ファイブスター物語』のエルディアイ・ツバンツヒは、主君アマテラスのミカドの食事係である。ひょっとしてこの設定、天照大神の食事係とされる豊受大神がモデルなのか?
 豊受大神のモデルは、邪馬台国の卑弥呼の後継者 壱与 いよ もしくは 台与 とよ だとされるようだが、この女王の名前は「イヨ」「トヨ」のどちらが正しかったのか? 豊受大神のモデルならば「トヨ」の方が多分正解だろう。そもそも、本当に「イヨ」が正しければ、三国志の杜預の名前をわざわざ「 ヨ」などと濁らせて読む必要はないだろうし。
 他に三国志関係者で名前の読み方が特殊な人として、儒学者の鄭玄がいる。この人の名前は普通の日本語読みだと「テイゲン」だが、一般的にはなぜか「ジョウゲン」である。なして?

 ヤフー知恵袋にフランス王妃イザボー・ド・バヴィエールの名前についての質問があった。イザボーの本名は「エリザベート」だが、そのスペイン系やポルトガル系の形である「イザベル」ではなく「イザボー」という男性形の語尾(ボー(beau)はベル(belle)の男性形)の呼び名になったのはなぜかというのだが、どうやら「女の風上にも置けない性悪名誉男性」という意味の蔑称として「イザボー」と呼ばれたようだ。しかし、現在のインターネット界でフェミニストの女性たちから「名誉男性」呼ばわりされるような女性はむしろ「女らしい女」そのもののタイプが多いような気がするなぁ…。

 中国史の花形が「名宰相」ならば、西洋史の花形は「女王」や「王妃」だろう。
 前漢の武帝は宰相たちを次々と粛清した。それゆえにか、後に「巫蠱の乱」で皇后衛子夫を無実の罪で自殺させたのが目立たない(息子である皇太子と佞臣江充の方がずっと目立っている)。当時の中国の王侯貴族は一夫多妻制(厳密に言えば「一夫一妻多妾制」)だったので、武帝が無実の罪で皇后衛子夫を処刑したのは「他に代わりなどいくらでもいるから」という事だったのだろう(ひどい)。
 武帝劉徹の英国版はヘンリー8世とエリザベス1世親子だが、ヘンリーは王妃をとっかえひっかえして粛清したのが一番の特徴だ。おかげで(?)宰相のトマス・クロムウェル(あのオリバー・クロムウェルの大伯父)を処刑したのが目立たない。うーん、やはり西洋史の花形は宰相ではなく王妃なんだろうな。

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2018年04月11日

天道に是も非もない

 近藤勇が自分のゲンコツを口に入れる宴会芸を身につけたのは加藤清正の真似らしいが、ならば、清正はなぜゲンコツ宴会芸を身につけたのか? ひょっとして、さらに昔の人の真似をしたのか?

 なるほど、歴史は繰り返す。

 中国の正史トップスリー、『史記』『漢書』『後漢書』の編著者たちにも似たような(?)因縁がある。宮刑に処された司馬遷を批判した班固は獄死したが、その班固をさらに批判した范曄は刑死した。ん? ひょっとして、そんな范曄をさらに批判した後世の歴史家が、さらにそんな先輩たち同様に不運な目に遭い、そんな歴史家がさらに別の歴史家に批判され、その批判した歴史家がさらに同様の目に遭う…という「不幸ループ」なんて事態があったのではないのか? だとすれば、それは運命の女神の残酷な気まぐれだろう。
 人間が歴史を学ぶ必要があるのは、過去の過ちを繰り返さないためである。しかし、神々にとってはそれは「不遜」であろう。世界各地の神話には、神々が人間の「不遜」を罰する話が色々とある。その多くは理不尽極まりない。私は「神」とは「公正な政治家」ではなく「気まぐれな芸術家」だと思っている。そもそもいわゆる「無神論者」とは、「神=絶対善」を前提にしているからこそ「善とはほど遠い世界に神なんているものか!」と思った上で無神論者を自認・自称するようになったのだろう。
 ただ、この「神=絶対善」というのは、あまりにも安直な決めつけだ。ある人にとっての「善」は、その人の敵にとっては「悪」である。万人共通の「善」などない。いや、そもそも「善悪」というもの自体がご都合主義次第で前後左右に揺さぶられる。要するに、「天道是か非か?」に対する回答は「天道に是も非もない」のだ。善悪など、しょせんは人間の都合次第だ。

 小説や漫画を読もう。映画やドラマを観よう。そこには様々な「問題」がある。何の問題もなく「ドラマ」など成り立つか? 世界は劇場、我々は役者、そして神々は脚本家や演出家だ。

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2018年03月28日

魔女の祟り

 加藤恭子氏の『アーサー王伝説紀行』(中公新書)に、興味深い怪談エピソードがある。ただし、この話はアーサー王伝説とは無関係だ。
 18世紀の英国に、鉱山で財を成した一族がいた。このミシェル家の何代目かの当主に一人の息子がいたが、彼は家のメイドだった少女を妊娠させ、産褥死させてしまった。
 これに怒ったのが、少女の母親であるセリーナという女性だったのだが、何と彼女は魔女だった。セリーナは娘の仇であるミシェル家の者たちに呪いをかけ、不幸続きのミシェル家は屋敷を手放して南アフリカに移住した。しかし、魔女の呪いは遠い異国にまで及んだ。

 時は現代。ミシェル家の当主は魔女の呪いを解くために、魔女セリーナの墓を探し出し、鉄の杭を打ち込んだ。

 その後、魔女の呪いがどうなったかは分からないが、私はこれを読んで「ああ、やっぱり御霊信仰って『異教的』なんだな」と思った。だって、恨みを飲んで死んだ人間を丁重に弔わずに、「悪魔」扱いして強引に祟りを鎮圧しようとするんだよ? これじゃあ、あまりにもセリーナさん母娘が気の毒過ぎる。
 少なくとも、日本で同様の事態があれば、仏教なり神道なりのやり方で死者の無念を慰めて供養するんじゃないかな。せめて、キリスト教的な慈悲でセリーナさん親子を供養した方が良かったんじゃないのか、と思うが、もしかするとセリーナさんは 新異教主義 ネオペイガニズム に基づく魔女だったから、キリスト教式の供養は通用しないのかもしれない。

 とは言え、果たして我が国における御霊信仰とは本当に判官びいきなどの慈悲に基づくものなのか、結構怪しい。韓非子チックな意地悪目線で見るなら、人間とは恨みを抱いて死んだ人間の霊魂からも無理やりご利益を引きずり出したがる強欲な生き物という事になるだろう。まあ、そもそも「宗教」並びに「有神論」自体がそうかもしれないが、だからと言って無神論者が無欲だとは限らない。
 無神論者や唯物論者には有神論者に対してマウンティングしたい欲求があるからこそ「無神論者」や「唯物論者」でいるのだろうから、結局はたいていの人間は欲張りという事になるだろう。「全ての道はローマに通ず」ならぬ、全てのイデオロギーやその他価値観は欲望に通じるのだ。

《余談》
 私が昔読んだ雑誌にこういう話があった。日露戦争から戻ってきた人が、自分が戦争で殺したロシア軍将校に祟られた。しかし、その人はキリスト教ではなく日本式のやり方でそのロシア人将校を供養したら祟りが収まったという。要するに、やり方を超えて真心が伝わったのだろう。
 ちなみに西洋の吸血鬼に対して十字架が効力を発揮するのは、あくまでも十字架を用いる人間の「信仰心」に基づくものらしい。つまりは、キリスト教徒ではない無宗教者や無神論者が十字架を吸血鬼に突きつけても効果はないという事だ。

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2017年11月25日

世紀の対決、韓信VSハンニバル

「歴史にifはない」。建前上はそうだ。しかし、「if」すなわち「仮想歴史」を想像(妄想)するのは、歴史ファンが「歴史ファン」である醍醐味である。
 例えば、歴史上の名将たちが古今東西の枠組みを超えて対決するシチュエーションを考えるのは、歴史ファンにはありがちな想像力プレイ(と言うのかな…?)である。ただ、この手の想像を楽しむのは男性の歴史ファンが多い。女性の歴史ファンはもっぱら人物の「関係性」を想像して萌える傾向が強い人が多いだろう。
 とりあえず、まあ。ヤフー知恵袋などで「三国志の武将で誰が最強か?」なんて質問を見るのはゲップが出る食傷気味のネタだ。何だか、今はなきファンロード誌における『北斗の拳』のアミバのネタみたいだ。そんなにいいか、アミバ? ついでに、昔のコーエーの歴史投稿雑誌シリーズにあった「曹豹血盟軍」は明らかにアミバネタを意識して作られたコーナーだった。そりゃあ、「歴史ファンロード」などと揶揄されるのは当然だべさ。

 さて、本題。楚漢戦争の韓信と、カルタゴのハンニバルは、だいたい同時代の人たちであり、稀代の名将たちである。仮にこの二人が戦争をしたら、どちらが勝つかという「歴史if」妄想プレイである(「妄想プレイ」って、いかがわしい表現だな)。地理や軍備などの違いがあるなら、互角の戦力を持てる仮想の戦場に二人を置こう。
 ズバリ、関ヶ原の戦いの東軍の総大将が韓信で、西軍の総大将がハンニバルだったら、どちらが勝つか?

 …あ、どちらがどちらの総大将でも、西軍に小早川秀秋がいる時点で、史実通り西軍の負けかな? しかし、仮に韓信率いる東軍が勝っても、家康は何だかんだ言って韓信を粛清してしまうかもしれない。ハンニバルが東軍総大将だとしても同様だろう。うーん、参った。

《追記・2018/05/31》
 ヤフーブログでの某ブロ友さん曰く、「関ヶ原の戦いは戦場での戦術ではなく人間関係によって勝敗を決してしまった戦であり、仮にそれ抜きで陣形戦術を問題にするならば、西軍の将ハンニバルの方が有利だろう」。なるほど、そうなのか。そうすると、韓信よりもハンニバルの方が名将という事になるだろう。
 東軍と西軍の陣形は、ハンニバルが西軍の総大将だった場合は西軍に(ハンニバルの戦術に)有利なものだったらしい。

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