女性史

2018年09月30日

血の色の貞節 ―夏侯令女―

 三国志の魏に、曹文叔という人がいた。彼は魏の権臣曹爽の従弟であり、夏侯文寧の娘令女を娶っていた。この「夏侯令女」というフルネームは、『三国志演義』では「夏侯令の むすめ 」と誤読されている。
 令女の夫文叔は若くして亡くなった。彼女は「絶対に再婚しない」という思いを示すために、髪をバッサリと切った。現代の日本人男性は自らの髪に対する執着心のある人が少なくないが、日本には「髪は女の命」という言葉がある。しかし、実際には長髪が似合わない女性は男性と同様にいるのだ。それはさておき、令女は喪が明けてから「女の命」を自ら断ち切ったのだが、実家の者たちは「あの娘はまだ若いし、子供がいないから」と再婚先を見つけようとした。しかし、令女自身は「絶対に再婚しません」と言い、何と、即座に刀で自らの両耳を切り落としてしまった。
 この時点で、現代人の私は理解不能である。令女は、夫の従兄である曹爽のもとに身を寄せたが、曹爽自身は多分、この猛烈な義理の従妹を持て余していたのだろう。多分、令女の実家のみならず、嫁ぎ先である曹家もまた、やたらと強情な嫁を内心「お荷物」だと思っていただろう。

 さて、司馬懿の政敵だった曹爽が粛清されてから、令女の叔父は朝廷に訴え、令女と曹氏一族との婚姻関係を断ち切り、無理やり姪を家に引き取った。
「しょせん、私は『ただの女』。だけど、私は男たちを渡り歩くあばずれ女どもとは人種が違う」
 しかし、親の心子知らず。彼女の父文寧は、娘が女盛りを過ぎて「枯れていく」のを惜しんだ。
「お前はまだ若い。このまま枯れていくのは惜しいではないか?」
 家の者たちは再び令女に再婚を勧めた。彼女は涙を流しつつ、答えた。
「分かりました」
 家の者たちは安心して、油断したが、これから行われるのは彼女の「復讐」だった。彼女は自分の寝室に戻り、刀で自分の鼻を削ぎ落とし、布団をかぶって横になる。令女の母親は娘を呼ぶが、返事がない。まるで「ただの屍のようだ」。そう、夏侯令女は象徴的に自らを葬り去った。すなわち「外見的な自殺」である。
「私は最後まで節操を貫きたい」
 曹氏一族の敵である司馬懿は、この「美談」に感動し、彼女が曹氏一族の跡取りとしての養子を迎えるのを許した。令女の「名声」は天下に鳴り響いた…と、正史『三国志』にはある。

 さて、この過激な「貞女」に対しては色々とツッコミどころはある。要するに、前夫よりもレベルやランクが劣る男を再婚相手として押し付けられるのがプライドが許さないというのもあったのではないのか? それに、自分の肉体を損ねてまで再婚を拒むなんて、自分で去勢して斉の桓公の寵臣になったクソ野郎とどう違うのか?
 しかし、令女はおそらくは自分を「お荷物」扱いする実家と婚家双方に対する激しい怒りがあったのではなかろうか? よほどの激情がない限りは、このような「外見的な自己去勢」はあり得ない。
 私は「ブス」の男性版は実質的に「ブ男」ではなく「無能な男」だと思うが、それと似たような見方として、女性にとっての「去勢」は「生殖能力をなくす事」ではなく「容姿を損ねる事」である。昔のロシアのキリスト教の異端派「スコプツィ」なんて、男性が文字通り去勢するのに対して、女性は乳房や陰核、小陰唇などを切除したというのだ。そう、明確に子宮や卵巣を摘出したというのではない。つまりは、本当に生殖能力を奪ったのではない。

 多分、令女は女を単なる「嫁」並びにその卵としか見なさない世間に対する激しい怒りがあっただろう。しかし、再婚を拒む口実としての出家は仏教が普及する以前の時代ではあり得なかったし、ましてやフェミニズムなど微塵もない時代である。

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2018年06月25日

エロいオバちゃんの伝説

 私は中学時代、近所の公民館の図書室の本を読んで衝撃を受けた。
 始皇帝の母親って、エロいオバちゃんだったのね!?
 確か、永井路子氏の本だったような記憶があるが、始皇帝の母親が「ご立派な」愛人とのドスケベライフを送っていたという記述に、私は度肝を抜かれたのだ。このオバちゃんと愛人のインパクトが強過ぎて、発端になった呂不韋の事など記憶に残らなかったのだが、当時のウブな中学生には刺激が強過ぎた。
 しかし、20世紀の私は彼女の本名など知らなかった。成人してから『史記』を読んでも、本名など載っていない。そして、私は21世紀を迎えた。

「趙姫」「趙太后」って…誰? いつの間にか、そんな名前があったとは? 『史記』には始皇帝の母親の本名なんて書いていないのに、いつの間にかそんな名前が一般的に使われるようになっているのに、私は困惑した。

 現在、始皇帝の母親は「趙姫」「趙太后」と呼ばれているが、『史記』にはこの呼び名はない。「趙国出身だから」とか「趙王室と同じ趙氏である秦王室に嫁いだから」とかの理由で便宜上これら呼び名が使われているようだが、もう一つ小説などで使われる「朱姫」「朱太后」という呼び名の由来はどこにあるのだろうか?
 日本では安西篤子氏や塚本靑史氏の小説、王欣太氏の漫画『達人伝』などで「朱姫」が使われているが、元ネタになった記述は中国の史書か何かにあるのだろうか?
 そんな疑問のある私は、ヤフー知恵袋でこのような質問をして回答があった。
 すると、文学・古典カテゴリーの大物回答者様からリンク先にある回答をいただいた。

《明代の余邵魚《周朝秘史》に朱氏、朱姫の名が使われていました。

第106回「不韋計取朱姬女、朱氏生政於邯鄲」
朱家有一女名姬,生得絕美,不如即來與兒為妾,待其有娠,獻與異人。
→朱家に姫という名の娘がいて、絶世の美人だった。呂不韋は、自分の妾にするよりも、妊娠を待って異人(始皇帝の父、子楚)に献上した。朱氏は政を邯鄲で生んだ。(政は、始皇帝嬴政)
https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=411659&searchu=%E6%9C%B1

 とりあえず、安西篤子氏の創作ではない名前である。では、ご回答にある余邵魚の創作か? まあ、これ以上追求するのもしょうがないか。
 それはさておき、始皇帝の母親である太后の性的スキャンダルが事実かどうかは眉唾ものだと見なした方が良いかもしれない。「悪女には性的スキャンダルが付きもの」という偏見に基づくでっち上げの可能性も考えられるのだ。同様の事は称徳(孝謙)天皇と道鏡の伝説にも言える。

《追記》
 ウィキペディアを見ると、孝謙天皇は女性の地位向上に尽力し、多くの実績のある有力な女性に位階勲などを与えたそうだ。ひょっとして、「フェミニストだから悪女のレッテルを貼られた」のか? ヒドいね。

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2018年04月19日

夏姫と西施

 私が昔、ヤフー知恵袋に投稿した質問を元に、今回の記事を書く。中国・春秋時代の美女の代表格として、夏姫と西施がいるが、果たして、どちらが春秋No.1の美女にふさわしいだろうか?
 私は知恵袋に二人を比較する質問を投稿した時にはこう思った。個人的には、素朴で可憐なイメージのある西施の方を選びたい。どうせ夏姫は上流階級出身で、美容にお金と手間暇をかけられた上に、豊富な男性関係もあったから、その「美女」評判はある程度「水増し」されている可能性があるのではないのか? 庶民の娘である私はそう邪推した。
 それに対して、西施は野良仕事をする庶民階級出身で、セレブ美女の夏姫のように高度な美容技術に頼るだけの経済的・時間的余裕はおそらくなかっただろう。それにも関わらず絶世の美女とされるのだから、すごいのではないだろうか? 何しろ、上流階級の男性は地位と財力にものを言わせて、美女を手に入れ、子どもを産ませられる。それが何代も続いた結果、美男美女が産まれやすくなる。高貴な出自の夏姫が「美女」であるのは「お約束」であって、庶民出身の西施ほどの意外性はない。

 まあ、そもそも「勝ち組」に多い容姿が美男美女扱いされやすいというのがあるか。昔の日本でも、上流階級に多い弥生系の顔が美男美女だとされ、庶民に多い縄文系の顔がその逆だとされたのだ。現在だと、白人の容姿が「美男美女」の基準とされている。人間の容姿について語るのに欠かせないのがヒエラルキーの問題だ。

 話は夏姫と西施に戻すが、どちらが春秋時代を代表する美女か? 仮に当時写真技術があってそれが現存していたとしても(あるいは西洋美術のような写実的な肖像画があったとしても)、共に現代人の美意識に合う美貌だったとは限らない。何しろ、昭和の時代の「正統派美人」でさえも平成の時代にはウケないのだ。こんなんじゃ、外見的問題だけではない。その「歴史上の人物」としての立場が問題だ。そう、美女を「伝説」たらしめるのは本人の容姿ではなく「立場」なのだ。
 西施には架空人物疑惑がある。しかし、夏姫は『春秋左氏伝』などに記録されている。そんな夏姫は「モノ」のように男性たちにたらい回しにされる事によって、意図せずに当時の中国の国際情勢に影響を与えた。それに対して、西施は、越王勾践が宿敵呉王夫差に献上した無名の美女たちを元に創造された人物に過ぎなかっただろう。

 よくよく考えてみると、歴史上の美女たちは純粋に「美女である」というだけでは記録に残らない。まずは、本人の社会的地位がある。その地位に基づき、いかに社会に(世界に)影響を与えたかが問題だ。その点からして、西施よりも夏姫の方が春秋時代を象徴する美女だったのかもしれない。

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2017年12月12日

恐るべき「姥皮女」薄姫

 私が昔働いていた工場で同僚だった女性がいた。その人は旦那さんとの離婚訴訟があったのだが、担当弁護士さんから「下手に毅然とした姿勢を取るとかえって不利になりますよ」と忠告されたそうだ。そして、問題の元旦那さんはうまい具合に(?)弱々しい姿勢を取っていたらしい。

 んで、私は思った。

 長宗我部元親が大河ドラマの主役になれないのは、ズバリ、あの前漢の呂后と同じ事をやらかしたからではないのか? いや、「人豚」ではない。自分の息子と孫娘(実の叔父と姪の関係)を結婚させたのがマズいからでないかい? 何しろ、テレビで古代エジプト特番を放送しても、当時の王族の近親結婚についてほとんど触れないからねぇ…? クリスチャン・ジャック氏の古代エジプト小説でも、うまい具合にその辺を避けているし。
 いや、元親は関係ない。古代エジプトネタも関係ない。問題は呂后だ。呂后は夫劉邦の愛妾だった戚夫人を虐殺したし、他の側室たちをも粛清したが、なぜか薄姫とその息子(後の文帝)を殺さなかった。なぜ? ただ単に、薄姫が高祖劉邦に愛されなかったから、呂后は彼女を敵視しなかったのだろうが、果たして、それだけか?
 劉邦の庶長子劉肥は、呂后に毒殺されそうだったが、異母弟(呂后の息子)恵帝にかばわれて陰謀を知り、酔ったフリをして退席し、後に呂后の娘(恵帝の姉で、恵帝の皇后になった女性の母親)に自分の領地の一部を献上し、粛清をまぬがれた。まるで、鴻門の会の再現ではないのか?

 多分、薄姫も劉肥と同じく、鴻門の会もどきの状況で弱気なキャラクターを演じて呂后を安心/油断させたのだろう。おそらく、「残虐な悪女」になる前の呂后は元々サバサバした姉御肌タイプの女性だったのだろう。戦国七雄の魏王室の血を引く薄姫は、女社会における「政治力」を磨いてきたのだろうが(余談だが、男性である韓非子が下手な現代人女性フェミニストよりもはるかに「女社会」の厳しさを知っていたのは、王家の一員として後宮で育ったからである)、戚夫人はただ劉邦に依存するしかなかった。
 作家の中村うさぎ氏は、女性の女社会における保身術を日本の昔話になぞらえて「姥皮」と表現した。他の女性たちの嫉妬心やその他諸々の悪感情を煽らないために、わざと自らの女性としての魅力の「ドレスダウン」をする姿勢を取るものだ。例えば、他の女性から「あなた、胸大きいね?」と言われると、すかさず己の腹の皮をつかんで「お腹の方が立派だよ〜!」と言って自らを笑い者に仕立て上げるような演技である。
 うさぎさんはこの「姥皮」を日本人女性特有の保身術ではないかと仮定したが、私は薄姫は(意外と単純な)呂后を欺くために「姥皮」をかぶっていたのではないかと思う。呂后は、自分の夫のライバルだった項羽と同じく、自分より「弱い」人間に対して寛容だったのかもしれない。そんな彼女にとっては、戚夫人は同性としてかなりの「強敵」だったのだろう。

 多分、薄姫は女社会での保身術を持たない戚夫人(やその他同性たち)を反面教師にして生き延びたのだろう。そして、その賢明さが名君文帝を育てたのだろう。もしかすると、彼女は呂后以上に恐ろしい女性だったのかもしれない。

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