商鞅

2017年11月29日

気まずいご対面

 1824年10月、若き詩人ハイネは大詩人ゲーテと会見した。大詩人は後輩に「あなたは今、何を手がけているのですか?」と質問したが、ハイネはハッキリキッパリと「ファウストです」と答えた。
 そう、ファウストといえばゲーテのライフワーク『ファウスト』だ。途端に気まずい空気になり、ハイネはサッサと退散した。ハイネは悪魔メフィストフェレスを女悪魔に変えた詩を作ったが、私はそちらは読んでいないので、感想を書きようがない。

 ゲーテの『ファウスト』の第一部は恋愛がメインテーマなので比較的とっつきやすいが、第二部は政治や経済などのテーマが色々とある上に、あっちゃこっちゃに時空を超えて物語が展開するので難しい。第一部が「箱庭」なら、第二部は青天井の大草原か、大海原か? いや、ああ果てしない大都会か?

 個人的には『史記』の呉起列伝はゲーテの『ファウスト』の雛形のように思える。己の立身出世のために愛する妻を犠牲にし、嵐を呼ぶ男。そんな彼の同類として秦の 商鞅 しょう おう がいるが、彼らはいわゆる「法家」である(呉起は兵家でもあるが、ある人曰く「兵家は法家の究極の形」なので、別に違和感はないだろう)。諸子百家の法家の元祖が誰かは意見は様々だが、春秋時代の斉の管仲や子産辺りが元祖であろう。
 春秋時代には鄭という国があった。この国は由緒あるが小国だった。そして、子産こと 公孫僑 こうそん きょう がこの鄭の宰相だった。
 法家思想は儒教のアンチテーゼとされる事が多いが、孔子は法家の元祖とされる子産を尊敬していた。前述のハイネもゲーテを尊敬していたのだが、もし仮に若き孔子と老宰相子産との会見が実現していたら、ハイネがゲーテに会ったのと似たような気まずい雰囲気になっていた可能性はある。
 現に、孔子は子産と並ぶ名宰相である斉の 晏嬰 あん えい と意見対立しているのだ。晏嬰は本によっては管仲や子産と同じく法家に分類されている(微妙に違和感があるが)。そんな晏嬰との関係からして、子産と孔子との相性も良くなかったかもしれない。

 司馬遷が『史記』での子産の列伝を「循吏列伝」という「僻地」に置いたのは子産に対する過小評価だと見なす人たちはいるが、もう一つ、使えた国が小国過ぎたというのもあるだろう。いや、楚の 孫叔敖 そん しゅくごう もいるか…。ただ、孫叔敖は主君荘王(春秋五覇の一人に数えられる事が多い名君)の個性が強過ぎるというのもあるか…よく分からん!

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2017年11月08日

「麗しの君子」楽毅

なつむらさき
 クレマチスの花言葉は「高潔」と「企み」だという。この相反するかのような二つの花言葉は、ある人物を連想させる。
 三国志の諸葛亮が尊敬していた人物の一人である燕の将軍、楽毅である。

 中国の戦国時代で「戦国七雄」に数えられる国の一つに燕があるが、この国はお家騒動に隣国・斉の侵略がかぶさり、メチャクチャにされた。そのメチャクチャの後に即位した昭王の臣下に、「まず隗より始めよ」の 郭隗 かく かい がいた。この郭隗の「私程度の人材を優遇すれば、もっと優秀な人材が仕官してきますよ」という進言の最大の成果が、我らがヒーロー楽毅の仕官だった。というか、楽毅以外の人材がほとんど目立たないので、秦の孝公が 商鞅 しょう おう を「一本釣り」したのとあまり大差ない気がする。
 楽毅は小国 中山 ちゅうざん の出身だったが、先祖は魏の将軍楽羊だった。楽羊は「あの」呉起と同じく文侯に仕えていたが、中山国攻略の際に敵に自分の息子を殺されてスープにされてしまった。楽羊は魏国への忠誠を示すために、あえてそのスープを飲んで中山軍を破ったが、他の重臣に「我が子を殺されて食うような奴などろくなもんじゃないですよ」と讒言され、敬遠されるようになった。そんな楽羊の子孫が中山国に居着き、楽毅が生まれた。
 楽毅は中山滅亡後、一旦趙に仕え、さらに魏に行ったが、燕の人材募集を知り、仕官しに行った(『戦国策』には趙の武霊王に仕えて何やら進言していた話があるが、よく分からん)。燕の昭王は、この知勇兼備で志操堅固で焼肉定食な人材(「焼肉定食」は余計だ)がやって来たのを喜び、高位に就けた。

「楽君、我が国の敵である斉を討ちたいのだが、どうすれば良いのかな?」
「まずは、他国との同盟です。多国籍軍であの国をシバきましょう」

 昭王は楽毅を大将軍に任命し、趙の恵文王は楽毅に宰相の印綬を授けたのだが、なして趙王が外国人の楽毅に宰相の印綬を? まあ、斉の孟嘗君が秦の宰相になった先例があるが、その孟嘗君は一応主君である斉の 湣王 びんおう を内心見捨てていたようだ。
 楽毅は燕・趙・韓・魏・楚の連合軍を率いて斉に攻め込んだ。首都の 臨淄 りんし を占領し、後は二つの城を平らげるだけだったが、主君の昭王が亡くなり、それに乗じた斉の将軍田単の策略により、楽毅は失脚して趙に亡命した。

 昭王の跡を継いだ恵王は、使者を通じて楽毅を責めたり弁解したりなどしたが、それに対する楽毅の返事の手紙が後世の彼の評価を高めた。曹操や諸葛亮が楽毅ファンになったのは、彼の「真心」に感動したからである。
 しかし、ひねくれ者の私は思う。この人、後世の評価を意識して問題の手紙を書いたのではなかろうか? 自らの賢明さと恵王の暗愚さをアピールするためにこそ、あの手紙を書いたのではなかろうか?

 そんな「計算高い君子」楽毅の手紙と比べると、マロリー『アーサー王の死』でのガーウェインのランスロット宛の手紙は素直に感動出来る。というか、ランスロットみたいな野郎がアーサー王相手に楽毅気取りの手紙なんぞ書いて送ったら、それこそ「盗っ人猛々しい」事態である。

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2017年01月06日

「極悪パーシヴァル」呉起

緋奈の美脚

 私はマロリー『アーサー王の死』のパーシヴァルの話を読んで、色々な女性キャラクターたちがパーシヴァルに絡みつく様子から、ある人物を連想する。当記事はその人物について説明する。

 中国史関係の言葉に「孫呉の兵法」というのがあるが、これは三国志の呉ではない。「孫」は「孫子」こと孫武もしくは孫臏だが、「呉」は戦国七雄の魏に仕えた兵法家「呉子」こと呉起を意味する。この呉起が当記事の主人公だ。
 呉起は小国・衛の出身だった。彼は孔子の弟子・曾子こと曾参に弟子入りしたとされるが、時代的に曾参本人ではなくその息子に師事したらしい。呉起は小国・魯(衛と同じく由緒ある国)に仕えたが、その魯が大国・斉と戦争する事になったので、魯の君主は呉起を将軍に任命しようとした。しかし、呉起は斉出身の女性を妻にしていたので、色々と疑われる。それで思い切って妻を殺し、将軍に任命されて斉軍を破った(ただし、単に離婚しただけという説もある)。
 そんな彼を非難する者たちがいる。ここで「女」がターニングポイントとなる。
「あれは昔、仕官に失敗して破産した。それで、自分を馬鹿にした連中を30人もぶっ殺した。あいつは母親と別れて『宰相になるまでは国に帰らない』と誓って出奔した。曾子に師事してから母親が死んだが、それでも国に帰らないので破門された。あんなろくでなしを重用するのは衛国に対して申し訳が立たない」
 要するに、「あんな親不孝者の『極悪パーシヴァル』には聖杯の騎士になる資格がありません!」というのだ。またしても「女」がターニングポイントだ。

 呉起は魯を去り、魏の文侯に仕えたが、宰相の李克は彼をこう評した。
「あれは貪欲で好色ですが、兵法は春秋時代の斉の司馬穰苴以上ですよ」
 呉起は秦を攻めて城を五つ落とした。彼は最下級の士卒と衣食を共にし、自らの兵糧を担い、士卒たちと労苦を共にするという清廉な姿勢で人望を得た。ある兵士が腫れ物に苦しんでいると、呉起はその兵士の腫れ物から膿を吸い取った。これでますます彼の人気が高まったが、ここでまた「女」が出てくる。

「あんたのせがれは一介の兵士だろう。それを将軍自ら腫れ物の膿を吸い取ってくれたのに、なぜ悲しむ?」
「あの子の父親も呉将軍に膿を吸い取ってもらいましたが、それに感激して敵に後ろを見せずに戦死しました。私はあの子も父親と同じように戦死しそうなのが悲しいのです」

 文侯が死に、息子の武侯があとを継いだが、呉起に嫉妬する重臣の一人が彼を陥れようとした。その重臣・公叔は主君に提案する。またしても「女」だ。
「呉起に公主(王女)様を降嫁させてはいかがですか?」
 公叔は呉起を家に招待するが、実は公叔はこの国の公主(縁談の公主の姉か叔母か?)を妻にしていた。呉起はこの夫婦の恐妻家ぶり(実は演技)に辟易して、後に公主との縁談を断り、さらに楚に亡命した。そして、楚王から宰相に任命されて政治手腕を発揮したが、ここでも嫉妬深い凡人たちを敵に回した。彼は楚王の死後、敵どもに殺されたが、彼は楚王の遺体にしがみついたまま矢でハリネズミ状態になっていた。
 新しい楚王は呉起ごと前楚王の遺体を傷つけた者たちを粛清したが、それに連座して滅ぼされた一族は70家以上いたという。

 うーん、こりゃパーシヴァルというよりもむしろファウスト的ヒーロー(もしくはアンチヒーロー)だよね。そんな呉起の後輩として「暴風宰相」商鞅がいたのだが、いずれは彼についての記事も書くつもりだ。
 私が思うに、『史記』の呉起列伝は「女」が主人公に対して重要な役割を持つ辺りがゲーテの『ファウスト』の雛形のようなものだ。さらに、呉起と女性たちとの関係は日本の戦国大名・宇喜多直家をも連想させる。

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