晏嬰

2018年04月17日

「斉人」太史慈

 正史『三国志』の太史慈伝には、何だかスゴい話がある。
 後漢の青州 東萊 とうらい 郡は現在の山東省、すなわち春秋戦国時代の斉国にあった。若き太史慈はこの東萊郡の役人だった。その郡と州との間にトラブルがあり、朝廷に訴える事になった。
「先に洛陽に着かなきゃならんぞ」
 そこで洛陽への使者に選ばれたのがまだ21歳の太史慈、字は子義だった。彼は昼夜兼行の弾丸ツアーで洛陽にたどり着いたが、ちょうど州の役人が役所の門で取り次ぎを願い出ていた。

「あのう、もしもし?」
「何でしょうか?」
「あなた、役所に文書を提出するんですね?」
「そうですが」
「文書は今、どこにあります?」
「車に置いてあります」
「色々と間違いがないか、確認しませんか?」

 州の役人は太史慈に言われた通り、車から文書を持ち出し、太史慈はあらかじめ用意していた小刀でそれを切り裂いてしまった。

「あんた、なんて事しやがるんだ⁉」
「お互いに過失だねぇ…。一緒に逃げちゃお」

 太史慈は相手と一緒に一旦は城門を出たが、すぐに姿をくらまして引き返し、役所に文書を提出した。これで州と郡の揉め事は郡に有利になったのだが、太史慈は青州の役所関係者たちを敵に回してしまったため、報復を恐れて遼東地方にまで逃げてしまった。
 北海国の相(皇族の領地に就いている「宰相」だが、実質的には太守とほぼ同じだろう)だった「ああ言えば」孔融は、そんな無茶な息子のために肩身が狭かった太史慈の母親の生活の援助をしていた。母親は戻ってきた息子に「黄巾軍に包囲されている孔融様を助けろ」と命じた。太史慈は賊のスキをついて孔融の陣営に入り、目通りした。

「うーん、平原国の劉備殿に援軍を頼みたいのだけどね」
「私が参ります!」
「賊の包囲は堅い。いくら何でも、突破は難しいぞ」

 太史慈は恩義に報いるために志願した。しかし、任務のために工夫がいる。
 彼は二人の騎兵たちを連れて門を出た。そして、騎兵が掲げる的を射る。

「何じゃ、あいつら?」

 太史慈らはパフォーマンスを終えて城内に戻る。そして、次の日も次の日も同じ事をした。

「何だい、意味不明だな」

 太史慈は包囲軍が油断した隙に馬に鞭を振るい、包囲を突破した。そして、劉備が相になっている北海国にたどり着き、劉備に援軍を依頼した。劉備は三千人の兵士たちを貸し出し、孔融包囲網は逃げ去った。

 司馬遷は『史記』斉太公世家でこう書いている。「その民は闊達で、知恵を隠している者が多かった」。斉の国は太公望呂尚以来、知的水準が高い国だったのだ。だからこそ、管仲や晏嬰のような名政治家たちが生まれたし、優秀な知識人たちを生み出した。太史慈の知恵者ぶりはまさしく「斉人」である。

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2017年11月29日

気まずいご対面

 1824年10月、若き詩人ハイネは大詩人ゲーテと会見した。大詩人は後輩に「あなたは今、何を手がけているのですか?」と質問したが、ハイネはハッキリキッパリと「ファウストです」と答えた。
 そう、ファウストといえばゲーテのライフワーク『ファウスト』だ。途端に気まずい空気になり、ハイネはサッサと退散した。ハイネは悪魔メフィストフェレスを女悪魔に変えた詩を作ったが、私はそちらは読んでいないので、感想を書きようがない。

 ゲーテの『ファウスト』の第一部は恋愛がメインテーマなので比較的とっつきやすいが、第二部は政治や経済などのテーマが色々とある上に、あっちゃこっちゃに時空を超えて物語が展開するので難しい。第一部が「箱庭」なら、第二部は青天井の大草原か、大海原か? いや、ああ果てしない大都会か?

 個人的には『史記』の呉起列伝はゲーテの『ファウスト』の雛形のように思える。己の立身出世のために愛する妻を犠牲にし、嵐を呼ぶ男。そんな彼の同類として秦の 商鞅 しょう おう がいるが、彼らはいわゆる「法家」である(呉起は兵家でもあるが、ある人曰く「兵家は法家の究極の形」なので、別に違和感はないだろう)。諸子百家の法家の元祖が誰かは意見は様々だが、春秋時代の斉の管仲や鄭の子産辺りが元祖であろう。
 春秋時代には鄭という国があった。この国は由緒あるが小国だった。そして、子産こと 公孫僑 こうそん きょう がこの鄭の宰相だった。
 法家思想は儒教のアンチテーゼとされる事が多いが、孔子は法家の元祖とされる子産を尊敬していた。前述のハイネもゲーテを尊敬していたのだが、もし仮に若き孔子と老宰相子産との会見が実現していたら、ハイネがゲーテに会ったのと似たような気まずい雰囲気になっていた可能性はある。
 現に、孔子は子産と並ぶ名宰相である斉の 晏嬰 あん えい と意見対立しているのだ。晏嬰は本によっては管仲や子産と同じく法家に分類されている(微妙に違和感があるが)。そんな晏嬰との関係からして、子産と孔子との相性も良くなかったかもしれない。

 …と思っていたが、訂正。『史記』鄭世家を読んだら、何と、孔子は実際に子産と会見して、しかも意気投合したのですね!? 失礼しました!

 司馬遷が『史記』での子産の列伝を「循吏列伝」という「僻地」に置いたのは子産に対する過小評価だと見なす人たちはいるが、もう一つ、仕えた国が小国過ぎたというのもあるだろう。いや、楚の 孫叔敖 そん しゅくごう もいるか…。ただ、孫叔敖は主君荘王(春秋五覇の一人に数えられる事が多い名君)の個性が強過ぎるというのもあるか…よく分からん!

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