島爺と仲間たち

定職を離れ,JA広島市農業塾に学び,OB会・白木農園で仲間と繋がる。 広島市内に住むが,時に倉橋島に帰り,草取りなど農作業のまねごと。 連れ合いと子ども3人(県内2人,神奈川県に1人),孫5人は男ばかり。 巳年生まれ,徒然なるままに日常生活で思いつくまま,気楽に書きます。

 義勇隊員の大半即死

 北山更路記者が、母親の二葉さんから聞いた、中国新聞社国民義勇隊員の八月六日の行動は、以下のようであった。
 天神町の作業現場で、集合を終え、仕事に取りかかろうとした時、頭上で原爆が炸裂した。疎開作業は前から行われていたから、現場には倒れやすくなっている家屋や倒したままの古材、かわらなどが山のように積んであった。
 あの瞬間、隊員はほとんど「即死」した。熱線、爆圧、放射能による物理的な“圧殺”である。北山業務局次長が意識を取り戻した時、自分が倒れた建物の下敷きになっているのを知った。左右には、既に死んでいる同僚の姿が何人も見えた。抜け出そうとしたが体が動かない。そうしているうちに、体を押しつけている材木に火がついた。
 「もうだめだーーー」観念したところへ、かっての教え子が通りかかった。北山局次長は新聞社に入る前に、呉市で小学校の教師をしていた。教え子の名はわからない。どうして通りかかったのかもわからない。原爆下の広島では、この種の“偶然”が無数にある。教え子の懸命な努力で北山局次長は、やっと脱出できた。いや、“偶然”では説明のつかない業火の中野出会いというべきか。
27 もうひとつのヒロシマ-7 火の手はみる間に大きくなり、前へも後へも行けない。二人は元安川に飛び込んだ。炎はますます募る。風を呼び、竜巻となってやっと生き延びた人々を川の中へ投げ込んだり、炎の中へ落とした。炎も竜巻となって川面をなめた。考えられない現象が次々と人間を襲った。
 この時点で、五人か六人の義勇隊員の生存が確認できた。が、声をかけ、集合して団体行動を求められるような状況ではない。チラッと「ああ、あれは助かっているな」と思うしかない。
 火の手が収まる夕方近くまで川の中にいた。夕方近くまでーーーというのはあくまでも感じである。時間的経過などわかるはずはない。
 やっと元安川からはい上がり、余じんくすぶる中を、電車通り沿いに中国新聞社にに向かった。市内の姿のあまりな変化に驚いただろう。中国新聞社のノッポビルが目の前に見えた。周辺は全部焼けていたのだった。
 北山局次長が、まず本社を目指したのは、隊長として、この日の出来事を報告するためである。この時代の男性が一様に持っていた責任感が、私事よりも公事を優先させたのだ。だが、本社も焼け落ちコンクリートの廃虚にすぎなかった
 社の前で、増田学而販売部員に会ったというが、このあたりさだかでない。何人もの社員が社を尋ね、社の焼失を見ては引き返している。混乱の極にあったのだ。増田部員も、昭和53年に病死している。もはや確かめようもない。が、北山局次長は郊外からかけつけた卜部記者とここで出会い、矢賀町の救護所まで行っている。「ほとんどの隊員が生きながら水葬や火葬になった。申しわけない」と隊長としての責任を感じてわびている。

22 料理-8湯に浸かる、洗い物をする、
手はひりひりと痛む。
見ると、小さな傷がいっぱいある。
あらためて“老人の手”を実感する。

 はたらけど
 はたらけど猶わが生活楽にならざり
 ぢっと手を見る  ≪啄木『一握の砂』≫

「大島まで出稼ぎと違うん?」
「いやあれは、“出稼ぎ”ではのうて
 気の良い人と会える“人稼ぎ”じゃ~」

22 料理-6 22日(水)は料理教室
続いて大島でと覚悟したが生憎の雨。
A;新生姜ご飯
 新生姜を混ぜ込んだ炊き込みご飯
B;カボチャの冷製ポタージュ
 バターで炒めた釜葱と牛乳を使って
C;豚肉の生姜焼き

 漬けダレにおろし生姜を
牛乳は子どもの頃、小学校で
進駐軍の脱脂粉乳以来口に入らない。
カボチャはあまったるくてどうも・・。
隣の姉御が、
「子どもの頃に何でも食べさせんと、
大人になっても好き嫌いが直らんよね。
22 料理-5牛乳を飲まんと大きゅうならんよ」
横に大きゅうなった姉御、余計なお世話だ。

今回のお世話班の笑顔が良い。

隣の班の炊き込みご飯は良い色のお焦げが。
これが一番美味しかった。

デザートにMさん提供の(富有)柿が。
私は大島で貰ったミカン“(未熟)せとか”
“マーマレードに”といったのだが、
賤しい輩は早速口にして、
22 料理-1「美味しいわよね!」
箱と披露袋で30Kg はあったろうが、
20人の参加者、喜んでくれ、完配。


 かみさんは朝から友人とリンゴ狩りに、
夕食も別の友人と居酒屋とか。
 昼前、娘家族が寄ってくれて、
 「温泉にでも誘おうかと思って」
 私は明日夕方の仕事を今日に変えたばかり。
明日は大島に行く予定だ、残念。
 無理をするなと言ったのだが、週末は忙しく、
今日の間に墓参を、と帰ってくれた。感謝。


[追記]帰宅すると玄関先に頼んだ島の物が届いていた。 
     程なく婿殿が「安かったから」と刺身を届けてくれた。
     間もなく10時、遊び人の帰って来る気配はない。

20 大島-1 ミカンサポート

 20、21日と、周防大島に。
1年ぶりのミカンサポート。
昨年に続いてNさんの畑に。
花枝は私と同い年。
サラリーマンを退職して、
島に帰り植樹。
ミカンを育て、出荷している。

 彼との出会いは全く偶然で、
支援センターの紹介による。
気持ちのよい夫婦で、
出掛けて働くのは苦にならない。

人との出会いは金線ではない。
20 大島-2
 岩国ICで降りて丁度2時間、
8時10分には現場に到着。
程なく相方のHさんが見えた。
彼とは初顔合わせ。
広島市東区矢野町から参加だ。
47歳、定植を離れ、
資格取得の研修中という。
ドイツ車で現れたから、魚釣り?
予想を裏切った優雅な人だ。






20 大島-3 作業は「収穫」と早合点していたが、
ミカンの袋掛けだという。
“ミカンに袋をかける?”
これも予想外。
品種は“せとか”
なるほど夏みかん大の大柄。
それでいて肌は艶々。
ただし、バラと同じく棘がある。
タカをくくっていたのだが、
私のモミジのような華奢な手は、
傷だらけだ。

20 大島-4 昨年は12月にも作業したが、
20日は経験したことも無い寒さ。
震えながら、余計に傷が痛む。

 場合によっては車中泊も、と、
シュラフも2個用意したのだが、
用意した資料で問い合わせ、
安い順に
・A 素泊まり ;3,900円
・B 朝食付き;5,000円
・C 2食付き  ;8,000円
移動距離も勘案し、B?
20 大島-5かみさんに報告すると、
「折角だから夕食もお願いしたら?」

 節約のため、
缶ビール(500ml)、カップ酒と魚を持参、
宿は、宿泊定員15人の“千鳥”
聞くと、宿泊客は私一人!
部屋は暖房が効いている。
御影石で造られた風呂で暖まり、
ビールを空けて、食事場所に。

・先付け、・鍋、・鯨のベーコン、
・カサゴのあんかけ
「ご飯は少しでいいよ」
・穴子の押し寿司にフグの味噌汁
20 大島-6
 酒は2合ですませる予定だったが  我慢して1合だけ追加。

 寝酒にカップ酒を啜り、
ぐっすり睡眠できた。
朝食は生まれて初めて納豆を口に。

 一館貸し切りで、
料理長と奥女中を従えた殿様!
場合によっては連泊も、と聞いたが、
21日から週末は満員とのこと。
貧乏なお大尽は農作業に向かった。

21  清酒 場合によっては料理教室を休む、
その積もりだったが22日は雨の予報
仕方なく帰宅。

 ビールを1缶空けたが・・・
そうだ、あれがあった!
つくばの次男が佐渡出張の土産に、
おけさ柿と清酒を送ってくれていた。
逸見酒造 真稜(しんりょう)
うまい!
家内、早く帰らないと空になる。

 郊外へ続く半裸の列

  ようやく避難する人々で路上がごった返しはじめたのは、爆発五10分以上も
たったころからであったらしい。被爆者は校外へ、校外へと続いた。路上で被爆
した人は言うまでもなく、木造家屋の中にいた人でも、戸障子を開けていたため、
熱線をもろに受けた部分はひどい火傷であった。爆風と炎に衣服をはぎ取られ、
半裸かそれに近い姿でとぼとぼと歩いた。
  集団で、しかも何の遮へい物もな頭上から直撃されたのは、この朝、強制建物
疎開作業に出ていた国民義勇隊員であった。中国新聞社国民義勇隊員で、即死
をまぬがれ、どうにか自宅に、あるいは知人宅にたどり着いた人は4人しかわかっ
ていない。作業現場が、爆心から500m地点の天神町であったから、ひとたまりも
なかった。
 四人は、この日隊長だった北山一男業務局次長、社会部の水原智識記者、販
売部の三田久二部員、同盟通信の小林徳宝支社長である。小林支社長は三篠
町(西区)の自宅にたどり着き、腹に巻きつけていた支社経費を夫人に手渡し、
その日に絶命。水原記者は五日市町(佐伯区)の知人宅で 8月16日に、北山局
次長は三次市の親類宅で同13日に、三田部員も同じ三次市自宅で同17日に死
んだ。 義勇隊員のこの朝の詳細な行動はつかみにくい。 ただ死ぬ前に、知人や
肉親に語った断片をつなぎ合わせて、全体を推測するしかない。しかも伝聞であ
る。北山局次長は被爆後、実情報告のため、いったん中国新聞社に姿を見せ、
整理部の卜部清隆記者(当時32歳)に伴われて、矢賀町の仮救護で簡単な治療
を受けたあと、三次市にたどり着き、そこで夫人の二葉さんに実情を話した。三次
市は北山家の避難先として決めていたところである。二葉さんも鶴見橋の建物疎
開作業に出て被爆し、かなりの火傷を受けていた。二葉さんは戦後、中国新聞社
に入社したが、昭和55年、68歳で病没した。北山局次長の二男も入社した。北山
更路記者(48歳。編集局第二整理部次長)である。北山記者は学童疎開をしてい
ていて被爆をまぬがれたが母親からの伝聞しか知らない。 水原記者の子息も中
国新聞社にいる。水原史雄記者(42歳。益田支局長)だ。史雄記者もまた父親か
ら直接聞いてはいない。あまりにも幼な過ぎて、聞いても理解できない年代だった。
余談になるが父親の後を継いで中国新聞社に入社した“二世社員”はかなりいる。
山本朗社長以下、被爆体験のある者、被爆者を肉親に持っている者を数えると相
当数になる。中国新聞社が原爆報道に執拗にくい下がる一つの理由として、この
ような咸鏡を無視できるものではない。

 少し饒舌に過ぎた感がある、と言ったら言い過ぎだろうか。
 この日、中国新聞社国民義勇隊員は何人出動していたのか、
 伝聞であれ、家族などが聞き得た当日の様子、
 三次市は広島市から約80Km、歩いては帰れない。
 果たして国鉄・芸備線は動いていたのか・・・

 これらは次回以降か?

19 倉橋-4 早い冬の到来

 久し振りに島に帰られた。
チャンスを逃しては夏のようになる。
菜園に下りると水仙が数本。
18、19日と風が強く冷たい。
瀬戸内の島でもストーブは必需。
灯油を買わなくては、と我慢して
電気ストーブで凌ぐ。

庭では皇帝(木立)ダリアが、
山茶花が咲き始めている










19 倉橋-219 倉橋-1 19 倉橋-3






















 空豆、心配したように、
根回りしている。
ともかく畑に埋め込んだ。

 大根。
教科書通り4粒撒いたが、
どれも発芽。
一ヶ所に2粒であったか、
と、ケチ親父は反省。
 
 明日に備えて早口宅。

 惨状にわが目を疑う
 
 中国新聞社ビルが火を出した正確な時間はわからない。森永資材部員の
生前の証言によると「私は三階にいましたが、しばらくたたずんだ後、頭をあ
げてみたら窓が明るいので、堆積した落下物を分けて階下に降りたが、上を
見るともう 三階の窓から火を吹いていました。 出火場所は四階の製版部の
倉庫でした」と言う。製版用倉庫にはアルコールなどの可燃性薬品が置いて
あった。原爆の高熱で発火したものである。薬品は燃えながら容器から噴き
、小さな塊となって壁を伝わってポロポロと床や地面に落ちた。そのためビル
の中や周辺が明るくなった。原爆で塵あいが空高く舞い上がり、廣島市中心
部を夜のようにしたのである。
 この明かりを頼りに、岩本鋳造部長と石川印刷部次長は社外に出たという。
 岩本部長、石川次長が同一行動をとったのは、たまたま同じ部屋にいたか
らで、ビルの中で被爆した人達の行動はバラバラになる。同和火災、加入課
分室の人達の行動もまったく似ている。広島原爆の特色の一つで、夫婦、親
子でもめいめい勝手な行動をとった例が多い。想像を絶する衝撃が瞬間的
に人間の連帯思考を停止させたのかもしれない。
27 もうひとつのヒロシマ-4 一歩社外に出た岩本部長は、
“風景の変化”にわが目を疑った。
ついさっきまで整然と並んでいた
家屋はすべて倒壊し、電柱だけ
が街路の両側につっ立っている
だけであった。電線はくねくねと
垂れ曲がって路上をふさいでい
る。別世界を見る思いであった。
 勧業銀行の外壁に若い女性が
立ったまま、“吸い込まれ”てい
た。爆風でたたきつけられ即死し
たらしい。
 「西練兵場(現在の広島県庁付
近)まで逃げれば助かる。大きな
直撃弾をくらったらしい」二人は
電車通りを逝きかけたが、とても
通れる状況ではないとわかった。
多分、この時点では、誰もが、自
分の近くを直撃されたものと思っ
ていただろう。
 この時、まだ火災は全市を襲っ
ていない。広島管区気象台の宇
田技師が、この日江波山から観
察した記録によると、「爆発 5 分
後から市中に点々と煙が立ち初
め、30分後には、下なり大きな火
災群が舟入、天満、国泰寺町方
面に見られはじめた。それが全
市に波及し、午前10時~午後2
時ごろが最盛。夕方になってや
や衰えたが、業火は夜空を焦が
し、市内一円火の海で、翌 7 日
午前10時ごろから部分的となっ
たが、局部的には3日間、余じん
は一週間に及んだ」という。
 宇品、大河、江波などの周辺区域を除いて、爆心から2Km以内は
円を描いたように焼けたのである。
 二人は練兵場行きをやめ、上流川通りに沿って広島中央放送局
(現中区幟町)あたりまで行ったが、この道も通れない。岩本部長は、
体中ガラスが刺さって相当に重傷の石川部長を支え、引き返して、
やっと京橋川を渡った。道路にはみ出した倒壊家屋の上を踏んで通
った。家の下から「助けてください。家の下敷きになっている!」と声
がする。が、助けようがない。

 火球、中国新聞社を襲う

 一つのサンプルとして中国新聞社員の目を通して“原爆”を見ることにしょう。

小迫周蔵工務局長(57歳。被爆死)は宝町(中区)の自宅をふだん通りに出て
流川町の本社に出勤中であった。いつもなら総務局庶務部に勤めている娘の
美津枝さん(24歳。被爆死)と一緒だが、彼女は中国新聞社国民義勇隊員とし
て、天神町の建物疎開現場へ直接出動していた。
 小迫工務局長は勧業銀行のそばを歩いていた。角を曲がると社の玄関であ
る。
 喜田印刷部長は既に中国配電で打ち合わせを終えて出社し、玄関を入って、
2階の編集局へ行こうと、階段に一歩足をかけた。
 その瞬間、閃光が走った。
 小迫局長は「光った!」と感じたと同時に路面にたたきつけられ、意識を失っ
た。
 喜田印刷部長は、階段の途中で、体を鈍器のようなもので殴られた衝撃を感
じ、床の上にはいつくばっていた。しばらくして「暗い」と思った。本能的に両手を
頭にやった。血のりでベトベトした。「直撃弾でやられた」と暗い玄関に倒れたま
まそう思った。
 石川印刷部次長は一階の部屋で、岩本鋳造部長と二人で書類に目を通して
いて、いきなり部屋の隅に吹き飛ばされ、新聞印刷用インキのついたガラスの
破片で体中ハリネズミのようになっていた。
 岩本部長も倚子ごと、えたいの知れない力ではね飛ばされた。隣の輪転機室
インキが吹きだし、それが直撃して体中まっ黒になっていた。
 森永資材部員は、 三階の一室で、天井から落下してきた堆積物の下で気を
失った。
 中国新聞社ビル七階の同和火災には、四人の社員が出勤していたが、女子
社員二人は洗面所にいたため、床の上に倒れたものの、死角にあったためか
無傷だった、河面氏といま一人の男子社員は鉄骨の下敷きになった。
 五,六階の広島中央放送局加入課分室では山崎ミトコ、望月智恵子、山田
澄江、川本清、若林寿子、高橋日出雄氏ら六人が仕事に取りかかろうとして
いた。光と同時にビルが揺らぎ、ものすごい爆風が通り抜けて片方に吹っ飛
ばされた。山崎さんが気付いた時には、六階の南側窓辺に、体が乗り出して
いた。
 中国新聞社は爆心から直線距離で900mもない地点にある。原爆の火球は
直径が約 500mもあり、およそ 600m上空で炸裂したから、原爆の直撃を受け
たといってもよい位置だった。 だが戦前の鉄筋コンクリートビルは堅固に造ら
れていたためか、それとも、ほとんど真上から風圧を受けたためか、倒壊は
免れた。
 ビルが倒壊しなかったので、ビルの中にいた人の生命を、全部が全部、奪い
取ることを防いだのは不幸中の幸運であった。新聞社に限って言えば、戦争に
よる用紙不足で、夕刊の発行を停止していたから、午前八時という時刻は、
一般社員のいない時間帯であったことも被爆死傷者を最小限にした理由とな
った。社内で死亡したのは総務部の立石佐一郎管理部長(61)と多村マサヨ
部員(31)のほか一人である。テナントの同和火災、広島中央放送局加入課
分室の人たちも、ビルの中では一人も死亡していない。いったん逃げ出した
あと、死亡している。重傷を負って力尽きたのと,放射能症のためだ。

 “貧乏暇なし”とはよく言ったもので、何かと雑用が生まれる。
 明日は白木圃場で大豆の刈り取り、脱粒、ハデ干しの予定。
 ところが、天候が不順のようだ。
 思案しているとメールが入った。
 「雨天の場合は火曜日に作業をします」

 ところが、20日(月)から別な作業が入っている。
 とすると、荷台のモノを運んでおかなければなるまい。
 前会長のHさんから預かった、ハデ干しの道具を積んで走っていた。
 そこで朝の間に白木圃場に往復。
 夕刻から西風新都で雑用を済ませ・・、あれっ、ガソリンが無い。
 400Km走行で25㍑、3400円。

 20日からの作業とは、大島の “みかんサポーター” だ。
 往復約200Kmで、ガソリン代は1700円か。
 私の高級車はETCの支払いで気付かなかったが、
 有料道路を片道だけ使うとして、・・・、軽トラは1070円。
 弁当持参で6時間の手当が2000円、または相応のミカン。

 かみさんは“疲れるから泊まったら”と言うのだが・・・
 夜・朝食に弁当代を含め1300えんで済ませればトントン!
 そのかわり、寝室は高級車・軽トラの運転席だね。

 白木農園は良いか?
 年会費を払って、大豆、小麦粉、里芋、ソバ粉の現物支給。
 みかんサポーターも、人の良いご夫婦に掬われている。

 算数の計算をしていたら、夜長も眠れなくなるが、
 私の人生、こんなもんだろうと思うことにしている。

 明日雨だったら・・
 あっ、ポットの空豆が芽を出していたんだった

 素材の良さで・・・

   パソコン同好会から帰宅すると食卓の上は大根尽くし。
 昨日、配りものをした出先の知人宅で立派な白菜と大根
 を頂戴した。こっちは義務としての作業で、申し訳ない。

  今日はパートが臨時休業とあって、かみさん調べながら、
 調理の算段をしている。その間に私の姉に一部を届けた。
 「さすが、Hさんの大根は美味しいわね」
 おろした大根を口にしながら満足している。
 
 煮物、マヨネーズ和え、酢の物、・・、大根葉も細かく刻んで
 しらす干しとを炒め、黒ゴマをまぶしている。帰宅した妻に
 「どれも美味しいね」
 「素材が良いからよ、それに私の腕も、ね」
 
 島にも遅まきながら大根を撒いた。
 だが時期遅れで、地上部は10cmにも満たないだろう。
 誰かにもらった白菜5,6本、優雅に広げた葉は穴だらけだ。
 葉には虫を避けるかのように毛が生えているが、島の虫は
 そのようなものは意に介さない。
 嫌われるに決まっているから、こっそり私が食べている。

 “氏より育ち”とはよく言ったものだ

 飛散物を伴い、“黒い雨”

 軍部がいかに原爆であることを否定しようと、あまりにも異常現象
が多過ぎた。広島管区気象台が調査したデータは、その“すごさ”を
証明する。
 [爆風圧]   爆心から2~4Kmの所でも体重50~60Kgの成人が
数mも吹き飛ばされるほど強い。
 2~6Km地点では、天井、床、畳の吹き上げられたような状況は、
単一爆風の進入によってのみ発生したのではなく、爆発の負圧(マ
イナス圧力)による吸引力、あるいは直撃爆風波と地表に沿う爆風
波の時間的位相差による吸い上げの力が加わっているのではある
まいか。
 [爆風伝達速度] 江波山(爆心から3.6Km南)経過時間5秒。秒速
  700m。
  草津町(同5.2Km西)8~9秒。同600m。  
  五日市町(同6Km 西)15秒。同600~800m。
  爆心より3~10Km の間は、音速の2倍の風が吹き抜けている。
 [原子爆弾による飛散降下物] 戸山村(同13Km 西北)十円札、
  百円札。
  伴村大塚(同7Km西北)紙、トタン板、そぎ板。
  水内村久日市(同16Km西北)住友銀行伝票。芸備銀行用紙、
  五十銭の札束。
 その他21地点で各種の飛散降下物を記録しているが、いずれも炸裂
の1時間後に、雨と一緒に降下している。爆心から5.5Km西にある鬼城
山頂では、県庁の用紙、富国徴兵保険用紙、中国配電や芸備銀行(広
島銀行)の領収書などが発見されている。爆発直後の吸引力と、火災発
生に伴う上昇気流で、空高く舞い上がった後、降下したものだ。とすると
爆心から1.5Km地点の鶴見橋西岸で作業中の人が、50mもある川を飛
び越えて、対岸に軟着陸していた、との証言も、あながち否定できないか
もしれない。トタン板のように、空気よりも重いものが、4Km以上もある地
点に降下した事実は、やはり原爆の威力を物語る物的証拠といえよう。
 [降雨現象] 閃光の後、15分から4時間たって降雨がみられた。爆心
附近に始まり、広島市北西方面の山地に延び、遠くは山県郡内に終わる
長卵形をなしている。雨の継続時間はパラパラとすぐにやまったものから、
2時間も続く大雨まで、いろいろある。
 大雨区域は白島から三篠、横川、山手、広瀬、福島町を経て己斐、高須、
石内村(佐伯区五日市町)、伴村(安佐南区沼田町)を越え、戸山、久地村
(安佐北区安佐町)に終わるだ円形の地域である。
 始雨時の小雨の雨粒には、黒い泥分が多いため、ねばりけがあり、当時
「油が落下した」と騒がれたが、においはなく、油とは異なっていた。これが
黒い雨である。
 この調査は、広島管区気象台の宇田道隆技師が、昭和22年11月に発表
したものだが、調査は投下直後から開始している。宇田技師もまた被爆者
である。

15 蕎麦-2 ようやく蕎麦の選粒を終えた。
 10.1Kg持ち帰ったはずだが、
 今計量すると9.1Kgしかない。

 島から持ち帰った蕎麦の、
 最後の選粒にかかる。
 大きい塵芥は取り除いたが、
 まだ細かいゴミが見える。
 
 台の上にカレンダーを広げ、
 余計なものは左右に取り、
 蕎麦は手前に落とす。




15 蕎麦-1 除去したはずだが、
 白い紙の上ではゴミが目立つ。
 気付かなかったが、泥(耕土)の塊、
 蕎麦と同じ位の大きさで、
 色もよく似ている。
 今ひとつはヒシの実?(共に右下)
 これは水田の名残だろうか。

 
 ていねいに取り除いたつもりでも、
 篩にかけると浮かび出るし、
 その後も手で掬うと土塊が見えたり。

 口にするものだからと作業したが、
 今のところ蕎麦を見るのは遠慮する。

 昨日は所用があって周防大島へ出掛けた。
 出先が星野哲郎記念館の近くだったので、
 一寸だけ覗いたが、素敵な笑顔が迎えてくれた。
 時間が取れず、玄関先で失礼したが、
 次回はゆっくり楽しみたいと思っている。
15 星野哲郎-115 星野哲郎-2










 11月12日、大島へ。父の祥月命日だが帰れず。
  姉が代わりに島で墓参をしてくれた。
 11月13日、“わかい会”
  昔の職場の仲間の集い。
  もう24年目だとか、楽しい仲間と一杯。
 11月14日、大島へ
 11月15日、蕎麦の選粒収束
  “まつり”の決算報告、配分金を配達。 
 

 信じられぬ現象続々

 被爆者は即死をまぬがれても、放射能、熱線で重度の火傷を負った。
火傷をしなくても、例外なく強烈な放射能に全身を打たれた。血小板、
白血球の激減、内臓出血は初期の顕著な放射能による上場だ。1週間
から十日後に頭髪が抜け落ちたのも放射能の影響である。出血を伴っ
た下痢患者が続発したため、医学研究者の中には「伝染病が発生した
のではないか」と疑った人もいたほどだ。病理学的には未知の、既存の
医学知識では処理しようもない世界が、突如として出現したのであった。
 六日午後になって、次々と入ってくる広島空襲の異常なことに驚いた
大本営は、有末精三中将を団長とする調査団を広島市に派遣した。
 調査団は飛行機の都合で遅れ、八日午後六時、米子回りでやっと広島
に到着した。一行の中には、日本の原爆製造計画(二号計画)の責任者、
理化学研究所の仁科芳雄博士も加わっていた。東京発が一日遅れたた
め、七日早朝、ホワイトハウスが世界に向けて発表したトルーマン大統領
の「原子爆弾投下声明」を聴取していた。仁科博士にとっては“寝耳に水”
のトルーマン声明だったのだ。
 同じ八日午前中に広島入りした呉鎮守府の海軍調査団(三井再男大佐)
も調査を開始した。
 有末調査団は到着と同時に報告を大本営に送り続けたが、大本営は広
島の報告があまりにも大きいのに肝をつぶした有末調査団は十日になっ
て、「本爆弾の主体は普通爆弾または焼夷剤を使用せるものにあらず、原
子爆弾なりと認む」と判決し、報告せざるを得なかった。 ともかく調査団は
被害の程度から逆算し、爆心は広島護国神社(現在の広島市民球場の位
=当時のことで、原爆ドームと広島県庁の中間)南方300m附近高度550mで
爆発、との結論を出した。海軍調査団も似たような結果を出した。
 市民も、途方もない物理現象にわれを疑った。鶴見橋の西岸(中区、爆心
から1.5Km)の強制疎開現場にいた義勇隊員は、気がついたら川幅50m以
上もある京橋川を飛び越えて対岸の比治山地区にいた、と証言して面食ら
わせた。地上にいたはずなのに、4階建てのビルの屋上に立っていた、とい
う人もいた。原爆炸裂のさい、気圧変化で真空状態を生じ、バキュームポン
プのように人体を吸い上げ、50m先の地上にソフトランディングーーー軟着陸
させたのだろうか。被爆時の混乱から一時的な記憶喪失を起こし、対岸に
避難する過程の記憶がなかったまで、と説明するのは簡単だが、一つの集
団をそっくり記憶喪失させたという原子爆弾の“魔力”はやはり想像を超えて
いる。
  海軍調査団員だった、高津幸直少佐(当時34歳、現中国火薬社長)の回
想によれば、広島入りした直後、第二総軍の兵器部長から、 「硫酸爆弾に
間違いない」と聞かされ、反論するのに時間がかかったという。
 原爆を米国が保有しているという事実は、確実に日本の敗北を意味する
以上、軍部は、動かぬ証拠をつきつけられるまで、認めたがらなかったので
ある。本土決戦を主張してやまない軍部にとっては、原爆の出現はこれまで
の作戦計画をすべて変更せざるをえなくなるからだ。

11 公民館まつり-2 11日(土)、公民館まつり。
パソコン同好会で利用している
倉掛公民館・秋恒例の行事だ。
以前はパソコンで書いた絵などを
展示したこともあったが、ここ数年
仲間の作った農産物を販売する。
この時期、各所でまつりや農業祭
出店が危ぶまれたが、皆さんの
気持ちよい応接で出店できた。 
36品目、371点の商品が集まった。
 新鮮で安く、美味しく食べられる、
との評価が定着し、販売前から
品定めの列ができる。
 “あとで、と思って中で鑑賞中に
11 公民館まつり 希望の品がなくなっている”

 3時半に終演、4時駐車場閉鎖、
ということであったが我がブースは
13時半には完売してしまった。
こうした状況を公民館は知っていて
公民館に入ってすぐ右側の場所を
あてがってくれている。

 Ku女史の事前準備、Seさんは
JAと交渉して幟旗、ジャンパーの準備Kuさんは食の知識の豊富さと販売術など感謝、学ぶことが多かった。
 帰宅後空腹でふり返ると、昼食は
うどん1杯だけであった。
戦闘員8名、お疲れ様でした。
   

09 チップソー 電動刈り払い機は順調に働く。
高速フル回転で80分程動き、充電
が必要(所要時間60分)となるが、
休憩時間だと受け取ることとした。
音が静かなのが何より良い。
 島は段々畑で、長年放置していた
報いで、石垣を築いてない部分は
斜面が変形し、脚に負担が大きい。
 モーターは刃の工藤部分にある
から、背負い式の草刈り機を作って
くれればと願うのだがどうだろう。

 9日朝、振動を感じて調べると刃の
一部が欠けている。静かなだけに
影響が大きい。“ままよ”とそのまま
09 蕎麦の乾燥使って昼休憩にはこの有様。
予定の1/3にも届かないが、草木の
繁殖期に手を入れられなかったから
機械への負担を大きくした。

 島で別の作業は蕎麦の乾燥
6日に脱粒した蕎麦は24.1Kg。
マンション住まいのリーダーNさんに
乾燥を任せるわけにはいかない。
一部を持ち帰り庭の茣蓙広げたが
意外に塵芥が多い。篩にかけると
蕎麦と一緒に落ちてしまう。厄介だ。
夜露にかけてはと収容をはかると、
小砂が目に入った。翌日は雨模様、
草刈りに専念、蕎麦と砂を分ける篩
を求め、砂だけは取り除いたが、
厄介者は扇風機より強いのだ。

 厄介者がもう一つ居座っていた。
50年も前の畳だからとタカをくくって
いたが、“腐ってもテグス!”だ。
縦横にしっかり残っていた。堆肥と
して利用するつもりであったが、なか
なかどうして・・。

 9日、帰広するつもりであったので、
朝は僅かに残しておいた飯と味噌汁
昼は素麺を啜ったが、落ち葉などの
焼却に手間取り、夕食も素麺。
10日朝、9時を十分過ぎて携帯の音
で目覚めらた。
「鯖を2尾買ったので、声を掛けたが
 起きる気配がないので」
とはR子さんの呼び出しであった。
まだまだ、とタカをくくったのが間違い
饂飩の様な体が素麺を啜って農作業
疲れるのもまあ、当然といえば当然。
 性懲りもなくインスタントラーメンを啜って
帰広、その脚で白木町のSさんより、
近所のUさんから“まつり”の農産物
を受け取り帰宅。

 どうせ長くはないのだから、と、〆に
近くの居酒屋で夫婦で一杯。

27 もうひとつのヒロシマ-5 瞬間、1万度の高熱が
 計算高度565mで爆発した原爆は、瞬間、直径500mの範囲を1万度の高熱で包んだ。太陽の中心温度(6千度)の約2倍。発生した圧力は数千億気圧といわれる。これが時速800kmの爆風を生じさせた。詳細な米側の資料によると、爆発瞬間は100万分の1秒。火の玉の直径は90mだが、1秒後に150mに成長する。火の玉の表面温度は9千~1万1千度で持続時間は0.5~1秒。爆圧は平方メートル当たり4.5~6.7とんという。
 想像を絶する世界が広島市民の頭上に、文字通り降りかかったのだ。爆心地は、最初原爆ドームと見られていたが、日本側の精密な調査で、中区大手町一丁目(旧細工町)の島病院上空と訂正された。
 この瞬間の現象を今知ることは不可能だ。高熱と高圧と高放射能下の状況を証言できる人は、この世に実在しないからだ。住友銀行広島支店(中区袋町)玄関前の石段に残った「死の影」(現在、原爆資料館に保存)の主人公と同じように消えて了っている。影さえも残さないで、無数の市民が死んだ。
 原爆の火球に見舞われた人々は、おそらく瞬間の「空」だけを知覚
したのではないか。それですべてが終わったに違いない。
 直撃をまぬがれたとはいえ、火傷、放射能症で、その日のうちに、
あるいは数日の後に多くの人々が死んでいった。
 アメリカは原爆投下にさいして最も効果をあげるために地上爆発
よりも空中爆発を選んだのだ。何もかも計算ずくめの行動である。
 被災者の正確な数字はもちろんわからない。最も初期のものとして
は昭和21年11月末、広島県警察本部が作成した数字がある。
 死者      78,150人( 60.3%)
 重傷者      9,428人(   7.3%)
 軽傷者    27,997人( 21.6%)
 行方不明   13,983人( 10.8%)
 合計     129,558人(100%)
 罹災者    176,987人
 昭和19年2月22日現在、広島市の米穀通帳登録者、つまり総
人口は 336,483人であった。昭和20年に入って大疎開が行わ
れ、学童疎開もあって市内人口は激減した。20年6月30日現在
の登録者は 245,423人である。が、6日当日、近隣市町村から
国民義勇退院として広島市内に入ってきた人も相当数いた。
県警察本部の調査の中には、国民義勇隊は加えられておらず、
軍関係者の数字は除外してある。「広島原爆戦災史」によれば、
軍関係者は推定4万人とあるが、戦後、米軍の調査資料「第二
次世界大戦に於ける米国陸軍航空部隊」によると、軍人は
24,150人としている。数字は調査によってバラバラで、今とな
ってはつかみようがない。
 が、なによりも調査時点で、あるいは調査後に原因不明の病気
で死んでいった人の数は計上されていない。いまでこそ「放射能症」
の病理的な解明は進んでいるが、調査時点では「ブラブラ病」など
と呼ばれるだけで、原爆との関係がはっきりしなかった。放射能を
あびた人は、髪が抜け、歯ぐきから出血し、ポックリ病のようにあっ
けなく死んでいった。外傷もないのに「体がだるい」と訴え、翌日死
んだといったケースはザラだ。しかも現在も続いていることを思えば、
原爆の被害は計算し切れるものではない。昭和39年、被害の実態
のつかめないことから、中国新聞社の金井利博論説委員(のち取締
役、論説主幹、49年没、60歳)が「原爆被災についての総合調査」を
提案、「談話会」の結成となって「原爆被災地図復元運動」へと発展し、
広島大学原爆放射能医学研究所が中心となって行われたが、完全
な復元ができるよしもなかった。原爆は何もかも根底から破壊したの
である。ただ一つの正確な数字ーーーそれは91.9%の建物被害である。

 ニジとともに原子雲
 猛烈な閃光が水分峡に届き、何秒かたってすごい音がした。山田生年は
夢中でカメラを取り出してシャッターを押した。40年前の回想を聞こう。
  「水分峡から広島まで15、6Kmぐらい離れていると思うが、近くでマグネシ
ウムをたいたように、朝の空が更に明るくなって、暖かい空気が私のほおを
突き抜いた。何が起きたのかサッパリわからなかった。しかしB29の異様な
行動と投下したパラシュートからみて、 重大なことが発生したことは間違い
ない、と思った。
 私のいた場所は松林だったので、広島市を眼下に一望できる位置ではな
かった。が、松林の向こうにある広島市で、とんでもない事態が確実に発生
している証拠にピカッと閃光が走った後、大きな音がして、しかも爆発音だし、
松林の向こうから7色のニジがパッと現れ、それが振動しながら消え、また
下からニジが上昇して行くという異常な現象を見たのです。爆発音とニジが
現れるのと、どっちが先だったか、今考えてもはっきりしないが、原子雲がむ
くむくと盛り上がってきたのは、ニジの後だったことは間違いないように思う。
もっとも原子雲とわかったのは後からのことで、当時それが原子爆弾だなど、
知っているはずがない。とにかく夢中でシャッターを押した」
 この段階で、アメリカが原子爆弾の製造に成功していると信じる日本人は
一人もいなかった。日本も原子爆弾の開発に関心を持ち、昭和15年4月、
陸軍航空技術研究所が研究に着手。理化学研究所で具体的な作業に入っ
たが、何らの成果も得られなかった。正式な陸軍の研究課題で「ニ号研究」
と称した。が、研究はすぐに行き詰まり、加えて空襲による機材、研究室の
焼失で、昭和20年春、整式に研究を放棄している。結論は「アメリカが開発
しているとしても、今次大戦には間に合わないであろう」であった。
 日本が研究を放棄した昭和20年4月、逆にアメリカは7月中に完成するこ
とに確信を持っている。戦後、数多く出版されている米側資料を読めばよく
わかる。国費20億ドルを投じての、極秘の原爆製造は着実に進んでいたの
だ。日本の原爆研究予算は二万円であった。意気込みも予算も雲泥の差
だったのである。
 アメリカの極秘作業は徹底していて、日本に原爆を運んだ「エノラ・ゲイ」
のチームだって、テニアン基地を飛び立つ前に、初めて「アトム」(原子)と
いう名を知らされたに過ぎない。厳重な管理の中に原爆製造、マンハッタン
計画は進められたのだ。
 広島型原爆はTNT(高性能火薬)二万トンの爆発力を持つように設計され、
ほぼ計画通りの威力を発揮した。B29千機分の、通常爆弾による破壊力を
一発の原爆が持っていた。 

 落下傘目撃後に閃光
 山田精三編集委員(55)は昭和20年当時、中国新聞編集局でアルバイト
しながら夜間中学(旧制)に通っていた。6日は久し振りに休暇をとり、小学
校の同級生と自宅(安芸郡府中町)近くの名勝地、水分峡(みくまりきょう)に登
って飯盒炊さんをやる計画で、自宅を午前7時過ぎに出発した。途中、精養
院があり300mばかり山に入った場所で一息入れた。ふと広島市の上空に
目をやった時、空中で落下傘が2個、3個と開くのが見えた。空は澄んでい
て、手を伸ばせばつかめそうなくらい近い距離であった。
「ありゃあ、何かの?」
山田生年は友人の肩をつついて言った。
「落下傘じゃないか!」
友人が言い終わった途端、空気を引き裂くような爆音(エンジンの音)ととも
に、B29二機が、ほとんど真横になって急旋回しながら南北に分かれて行
くのを見た。
「B29じゃ!」二人の少年は銀色に鈍く光る大きなB29の胴体を眼の前にし
て、思わず首を引っ込めた。山田少年の目撃したB29の姿は正確に原爆
投下の瞬間であった。
「中野探照灯台の報告書は、以下のように書いている。
「戦闘の一機右ニ旋回、ツイデ一、二秒後ノ一機左二ホトンド垂直旋回ト
思ワル程ニ大角度(大傾斜ヲ伴ウ)旋回ヲナシ、機首ヲ下ゲツツ南下、
二百六十八度ニオイテ障害高度七度、計算高度千八00メートルトナリ
タルタメ眼鏡を外シ、右旋回ノモノヲ捕捉ス。先頭機右旋回中、落下傘
三個開クモ、最初ノ一個開カズ。後続機旋回始メントスル瞬間、閃光ヲ
認メタリ」
 この観測報告は極めて正確、冷静である。ただしこの報告書では原爆
をいつ投下したのかが不明である。というよりも、落下傘につけて原爆を
投下したとも読み取れるが、前述したように原爆は自然落下であり、落
下傘には観測器がつけられていた。後で観測器具は、呉海軍工廠調査
団の手で回収されている。正確な観測報告というのは、B29の動きを実
によく見ている、という意味である。
 報告書の中に「二百六十八度ニオイテ障害」とあるのは海軍式の方向
表示で、ほとんど真西の位置にB29が来た時、松の木か何かが障害と
なって見えなくなった、という意味である。大旋回したB29の行動が実に
生々しい。
 米軍側の記録によると、まず「エノラ・ゲイ」が原爆を投下し、同時に
「グレート・アーチスト」が三個のパラシュートを投下。二機は訓練通りの
退避行動で現場離脱している。中野探照灯台の見張り院は「エノラ・ゲイ」
が一万メートルの高空で原爆を投下しているので、直接目視できなかった
のであろう。B29が1800mぐらいまで垂直旋回しながら急降下していった
ことは、中野探照灯台め新張員の報告でもはっきりとわかる。
 さらに米側の記録によると、原爆投下時刻は8月6日午前8時15分17秒
である。爆発までに43秒かかっているから、16分ちょうどである。

警報発令に参謀迷う
 福山市松永町(広島市の東方80Km地点)の監視哨が大型機(B29)2機が
西進しているのを目視して中国軍管区司令部に通報したのが6日午前8時6分
であった。2分後「さらに1機が西進」と追加報告した。最初の2機は福山湾の
内陸部に入ってコースを広島市にとった「エノラ・ゲイ」と観測器具を積んでいる
「グレート・アーチスト」、後の1機は、この日の“戦果を撮影する任務を負った
「91号」である。
 午前8時の広島上空の気温は26.7度、雲は相変わらずなく、風速は1.2m、
内海特有の“真夏日”が始まろうとしていた。アメリカの刊行誌物よく見られる
「この日広島市上空にぽっかり20Km四方にわたって雲が切れた」との記述は、
広島管区気象台に残るデータで見る限り作り事だ。広島市はこの日、天候ま
でも「あけっぴろげ」であったのだ。この種の戦記ものは、えてして話をおもし
ろくする。その証拠に、1万メートル高空から撮影した「爆発前」の広島上空に
は雲一つない。原爆投下4時間後に撮影した写真を見ても、焼け広がる広島
市内の煙は見えるが雲はない。今、広島市の原爆資料館に展示してある「投
下度後」の広島市の空中写真は翌7日の撮影である。が、両写真を見ると「使
用前」「使用後」のコマーシャル写真を見ているようで抵抗なしにはおれない。

 松永監視哨の報告は中国軍管区司令部の通信部(広島城内に半地下式で
作られていた)に5分後の8時11分に届いた。通信部には比治山高女(旧制)
の3年生90人が三交代で勤務していた。参謀の指示に従って、電話で管内に
警報を出す任務を与えられていた。前夜から宿直していた荒木克子(旧姓板村)、
岡ヨシエ(同大倉)さんらは、松永監視哨からの報告を「アオキ参謀」に知らせた。
ちょうど8時過ぎて、朝の軍隊の行事があり、通信部には「アオキ参謀」しか
いなかった。「アオキ参謀」は瞬間、警報を出したものかどうか迷った。いつもの
ように、“空振り警報”になるかもしれないからである。広島市民に警戒警報が発
せらレなかったのは、若い参謀の瞬間のためらいが原因であると考えられ、
戦後も非常に気にしていたという。が、後述するように、広島中央放送局では、
いつものように情報を受け取り、吉田正信アナウンサーが第二スタジオで
「中国軍管区情報!敵大型機3機、西条上空を・・・」と読みあげたところで
激烈な衝撃を受けている。少なくとも、広島中央放送局まで、警報の原稿は
届いている。原爆投下までの4分間に、たとえ警報が出されていたとしても、
市民はどうすることもできなかったであろう。すでにこの時、B29の搭乗員たちは、
広島市内を目でとらえ、遮光メガネをかけて、爆発の瞬間を待っていたのだ。

 中国新聞の喜田印刷部長は、中国配電との仕事の交渉を終えて本社に到着し
、階段を上がろうとしていた。社員寮では、三日間の勤務を終えた矢田防府
支局長が、防府の自宅(支局)に帰ろうと、土間にしゃがんで、靴ヒモを結ぼうと
していた。天神町の強制建物疎開現場では46人の中国新聞義勇隊員が、
係員から作業手順の説明を聞き終わって、仕事に着手しようとしていた。
 中野探照灯台(安芸郡瀬野川町・海軍)はこの時、頭上ですさまじいB29の
エンジン音を聞いた。

07 ソバ-5 6日(月)、八千代圃場で蕎麦の脱穀

作業に加わったのは男性13、女性2名
震えるような寒さの中で作業開始。

まずは二昔前の足踏み式脱穀機で脱粒。
これが、以外と草臥れる作業で、
次々と選手交代。








06 ソバ-5束に残った実を手でしごいて落とす。
「白木は、原始的な作業ばっかりじゃ」
誰かが呟いている。










06 ソバ-4篩で大きな大きなゴミを取り除き、















06 ソバ-3唐箕にかけて小さなゴミを吹き飛ばし、














06 ソバ-2更に篩にかけてソバを選り分ける
















06 ソバ-1一仕事済ませて、さあ、休憩
様々な話題に花が咲く。
これがあるから、長続きする。

今年の収穫量は現時点で25Kg?
私の預かった10.1Kgは島に帰り、
座敷で乾燥させる。
来週初めには製粉に出す予定だ。

作業終了後は白木圃場に立ち寄り、
畦畔の除草と里芋を一部収穫。
今日のご褒美としてお土産に。

2週間後には大豆の収穫の予定。
15名の闘士、お疲れ様でした。

06 アナグマ クマ太「爺さん、広島へ定住するんかのう?」
 猪ノ助「なんでや?」
 クマ太「柿も終わったし、姿を見せん」
 猪ノ助「こないだは草を刈りよったがのう・・」
 クマ太「ブログは広島で書くんじゃろう?
      このところ、毎日書いちょるが」
 猪ノ助「ほんまか?。よう見てみい」
 クマ太「そう言われりゃ、投稿時間が同じ!」
06 イノシシ 猪ノ助「そうじゃろう。
      暇な時に書いて“予約投稿”じゃ」
 クマ太「そういう手があったか!」
 猪ノ助「カン太、お前、何か聞いてないか?」
 カン太「聞くところによると、
      爺さんあっちこっち出掛けていたそうじゃ。
      4日なんぞは、西風新都とか言うところで、
      昼までに済む予定の仕事が昼飯抜きで
      夕方までかかったちゅうて、はぶてたとか」
 クマ太「飯抜きは、島でもよくあることじゃが」
06 カラス カン太「じゃが、帰りに白木支店まで行って、
      蕎麦用にバケツを積み込んだ、とか」
 猪ノ助「まあ、ようチョロチョロする年寄りじゃ」
 クマ太「とすると、5日は暇じゃったんじゃろう?」
 カン太「何や、面白ないことがあったらしくてなぁ、
      一日中、ぐうたらぐうたら・・」
 猪ノ助「ほんで、今日は?」
 カン太「仲間と畑仕事をして元気になったらしい」
 クマ太「ニンゲンちゅう生き物は、難儀じゃのう」
 カン太「難儀どころか、得体の知れん殺人があったり」
 クマ太「アナ、クマッたもんだに」
 猪ノ助「まあ、儂らの方が紳士じゃのう
      同類で殺しあいはせんからのう」

 久し振りの三悪トリオの会談。
 秋の夜長を楽しい出入るようです。

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