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学童疎開の概要
(2) 集団疎開児童の引き揚げ
 敗戦後すぐに、集団疎開児童の引き揚げが行われたわけではない。広島市では、8月30日、広島県は9月1日に、集団疎開児童の引き揚げについて通牒を発している。広島県の通牒では、保護者より引き取りの申し出があって、学校長が認めた学童は、原則として9月20日までに引き揚げを認め、残留を要する学童の措置を改めて指示している。しかし、広島市の各小学校では、学校の授業再開の目途や、学区内の保護者の被災状況を勘案して、引き揚げ計画をたてざるをえず、一律な措置はとりえなかった。
 もっとも早く引き揚げたのが広島師範附属校で、9月4日と5日であった。ついで矢賀校が9月10日、江波・牛田・宇品校が9月12日など、9月中旬までに引き揚げることができたのは、市の周辺部に位置した諸学校であった。青崎校では、8月31日に帰校命令を出しているが、比婆郡庄原町の疎開先では配車ができず、9月14日にやっと帰校している。
 学区内の家族や学校が、壊滅的な被害を受けた中心部の各学校では、9月末から10月にかけて引き上げが行われた。保護者が、直接疎開先に出かけて引き取ることもあったが、それができない場合は、教職員が縁故者を探して、引き取ってもらった。竹屋校では、引き渡しを完了したのは11月15日であった。
 もっとも悲惨な境遇におかれたのは、孤児となった児童である。天満校では、11月が最後の引き揚げであったが、孤児11人は比治山校に設けられた迷子収容所へ入れられた。大手町校でも、孤児と引き取り困難な家庭の児童12〜13人が、12月が19日にやっと帰校した。やがて、五日市町に開設された、広島戦災孤児育成所へ入所した。 (広島新史)

(3) 仁保国民学校の集団疎開
 昭和19年、B29爆撃機の本土空襲が激しくなるにつれ、広島市は「学童疎開実施要項」を発表し、国民学校初等科3年以上の児童を対象に、学童疎開を実施した。
 大町・地方の児童(120名・付添教員3名)
   佐伯郡玖島村(妙覚寺・広源寺・正善寺)
 本浦・柞木の児童(220名・付添教員5名)
   佐伯郡上水内村(善福寺・万正寺・西法寺・大福寺・正円寺)