2017年03月25日

渇くイエスの霊と真理

〔説教要旨〕 3月19日(A大斎3)

ヨハ4:5-26、39-42、出エ17:1-7、ロマ5:1-11

 旧約も福音書も一見すると喉の渇きの問題に見えますが、それを通して人間の魂の渇きを扱っています。魂の渇きとは神や人との関係の破れではないでしょうか。そして両者が物語として語っていることを使徒書は論理的な言葉で語ります。ここにある「罪人」(8節)とはまさに「渇き」を指しています。なぜなら罪もまた、神や人から隔たることだからです。そんな罪人である人間のためにキリストが死なれたこと、そして、これがわたしたちに対する愛であったことが語られます(8節)。また5節には「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」とあります。さらに、この愛によってわたしたちは義とされ神さまと和解させていただいた(10節)とも。和解とはまさに関係の問題です。

 わたしは使徒書に出てくる「罪人」「神の愛」「キリストの血」「義」「和解」を旧約や福音書で語られていることとむしろ同一のこととして受け止めていく必要を感じます。つまりそれらはいずれも、あのホレブの山で噴き出した水であり、イエスさまが言うところの「わたしが与える水」ではないか。またイエスさまは「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(14節)とも仰います。

 「永遠の命」とは常に成就する神さまの愛。その愛は十字架上で示されました。その場面でヨハネ福音書はイエスさまご自身が「渇く」(19:28)と言われたと報じています。こうしてイエスさまご自身が、わたしたちに先立って神と人との断絶のただ中に身を置かれました。だからこそ、そこに希望があるのです。そのイエスさまはさらに「神は霊である」とも語られます。霊であるがゆえにその働きは時空の隔たりや制限を越えています。そこで人間が霊と真理をもって父を礼拝する必要があるのです。それはまた十字架上で「渇く」イエスさまの霊と真理です。そして、その礼拝をするのは「今がその時」(23節)なのです。わたしたちの礼拝は、神さまがキリストを通して愛という水でわたしたちの魂の渇きを癒して下さったことへの応答としてあります。それを共に想起しながらわたしたち自身をこの礼拝で献げたいと思います。


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2017年03月16日

神の自由と人の自由

〔説教要旨〕 3月12日(A大斎2)
ヨハ3:1-17、創12:1-8、ロマ4:1-17

 思い悩むとき、超越的な絶対者によってそのように運命づけられているように考えることがあります。しかし、わたしたちが悩み苦しむのは、そう運命づけられているからではなく、むしろ自由だからです。つまり神に従うことも背くこともできる。だから迷い、悩み、苦しむのです。しかし、聖書の神は、自由という場で人間と出会うことを欲する(勝村弘也著『旧約聖書に学ぶ』より)のです。

 それはニコデモに関わるイエスさまの姿からも分かります。ファリサイ派の議員であるニコデモは、とても真面目で規範意識の強い男でした。反面、自分が奉ずるものに完全に満たされてはいなかったのでしょう。彼はイエスさまから新たないのちについて教えられます。しかし彼は、それを多分に物理的な問題として取り違えています。それに対するイエスさまの言葉が「風は思いのままに吹く…」(ヨハ3:8)でした。「あなたは…知らない」には一見優越意識がみえるかもしれません。しかし、その「音」は聞く。それは神さまの自由を宣べたものであり、その自由を私たち人間は音信として聞くのです。さらには、その自由が、わたしたちの自由の根拠であり、そこに人間の尊厳性があるのではないでしょうか。そして、その自由な風はまた人間に永遠の命をもたらす(15、16節)のです。この永遠とは不変というよりも、常に新しく成就するいのちです。

 その良き知らせは、ニコデモを予め束縛するような場でもたらされたのではありませんでした。その証拠かのように、結局彼がユダヤ教から改宗したかどうかは聖書に書かれていません。後に、ユダヤ人指導者たちの中でイエスさま逮捕に慎重な意見を述べ、イエスさまの十字架刑の後その遺体の引き取りに参加したことだけが記されています。イエスさまもやはり、ニコデモの自由な魂―その人の自由な内面全体―に語りかけ関わることを望まれたのではないでしょうか。わたしたちも、教会に行く自由も、行かない自由も持っています。しかし、人間の魂の最も深いところへ、風のように自由な神さまは、イエス・キリストを通して、自由な場で出会おうと欲しておられる−−。そのことを教会はその時代ごとに人びとに語りかけるよう招かれているのではないでしょうか。


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2017年03月07日

三寒四温と大斎節〜「寒い」わたしたちと神の言葉の「温かさ」

〔説教要旨〕 3月5日(A大斎1)
マタ4:1-11、創2:4b-9、15-17、25-3:7、ロマ5:12-19

 先週の説教からの残響ですが、神の義は勿論のこと、その言葉も愛も恵みも天から放出される恵みの温かい力として受け止めたいと思います。なぜなら楽園を追放されたアダムとイヴには神自ら手作りした皮の衣が着せられているからです。つまり神さまから離れるのはとても寒い。しかし神さまは人が寒さのうちに死に絶えることを望まず温かい衣を着せたのです。そしてこれが憐れみや恵みの原イメージなのです。状況的には「お寒い」。だから二人は葉を腰に巻いたのです。

 そして使徒書です。一人のひとアダムによってお寒い人間状況がもたらされたように、ひとりのキリストによって温かな人間状況がもたらされました。それは17節から言えば、神から離れて自己が自分の主人になろうとするとお寒い状況つまり自分の人生を生きられず、かえってイエス・キリストの温かさに支配されるとき自分の人生を生きられると言えます。そして、それをわたしたちに先立ってその身で証しされたイエスさまの姿が本日の福音書に出てきます。

 ここで受け取りたいのは、神の口から出る一つ一つの言葉は、義と同じく天から放出され、わたしたちを包む温かい陽光だということです。ここで、つくづく思うのです。わたしたちが三寒四温の季節から春にかけて大斎節を過ごすことができるのは本当に有難いことだ、と。わたしたちはいくらなんでも寒さばかり続くことには耐えられない。三寒四温の季節にも似て、一週間おきに主日を迎えひとときの復活の温かさを楽しむのです。ちなみに全くのこじつけですが、「四温」は都エルサレムが建つ丘シオンと音が同じですね。

 大斎節第一主日です。いわば四温の「温」の一つ目がやってきました。この時に初めの人が置かれたお寒い状況との対比でイエス・キリストの真理が明らかとなりました。そして、荒野でのお寒い状況をもたらす悪魔の誘惑に抗して、イエスさまは神の言葉を中心にして悪魔を退けました。これは、神さまが主権を持たれることによって、むしろ、わたしたちが自分の人生の主人公となることを意味しました。それは他でもない、この寒い時代のなかで、神さまの言葉の温かさに包まれて生きること、といえるのではないでしょうか。


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2017年02月28日

イエスの顔と「義の太陽」

〔説教要旨〕 2月26日(A大斎前)

マタ17:1-9、出エ24:12、15-18、フィリ3:7-14

 以前、神学館の旧約学の先生からこんな話しを伺いました。聖書の「義」はこれまで律法との関連でばかり解釈されてきたが、もっとコスモロジカル(宇宙論的)なものだ。それは天からファーッと放出される恵みの力のようなもの。「義の太陽」(マラ3:20)という時の「太陽」も、実は比喩ではない。もっと実際的に温かい陽光が照らすことを指しているというのです。

 これにわたしは大変興味を惹かれました。というのもパウロの信仰義認をこの時代にどう受け止めたらよいのかずっと気になっていたからです。ここ数年わたしは、誰にもある根源的かつ時に厄介な「承認願望」(みとめられたい)に関わる問題として信仰義認を受け止めたものの、やはり信仰か行為(律法)かという枠を出ませんでした。それから、今日の使徒書にも信仰義認が出てきます(フィリ3:9)。また旧約日課には律法授与の場面(出エ24:12)が出てきますが、本来律法というものも、先述したように天から与えられる温かい恵みなのでした。

 そして本日の福音書です。イエスさまの姿はここで「太陽のように輝」きました(マタ17:2)。この背景には「義の太陽」があるのではないでしょうか。わたしはこれまで、ここにある「恐れ」や「輝き」ばかりに目が行っていました。しかし、ここには義の太陽のように大変恵みに満ちた温かさがあったのです。換言すれば、イエスさまの変容貌にある、神さまからの、メシアとしての承認や肯定、受容(マタ17:5)を見逃していたことになります。さらにこの事態は、イエスさまによってわたしたち人間存在が神さまから承認され、肯定され、受容されるということを予告していることになります。

 それはまた、大斎節を迎えようとしているわたしたちに、光(イースター)を待つ喜びがより深く与えられることでもあります。その光は、単に明るさや輝きをもつにとどまりません。なぜなら、イエスさまの顔は他ならぬ太陽のように輝いたからです。イエスさまの顔は太陽のように、そこから温かな光が放出され、わたしたちに降り注いでいます。それは、わたしたち一人ひとりの奥深いところにある、自身の存在の不確かさや不安を優しく包み込む光ではないでしょうか。


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2017年02月22日

悪人にも善人にも神は

〔説教要旨〕 2月19日(A顕現7)

マタ5:38-48

「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」をはじめ、これらの戒律を一体誰が守れるのでしょうか。これをすれば悪がはびこりそうですし、泣き寝入りを勧めることにもなりかねません。そう思ったところでわたしの思考は停止してしまいました。

 しかし、ふと「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(45節)に目が留まりました。きっとわたしなら、自分を正しいと思い、悪い相手には太陽が昇らないように、恵みの雨など降らないよう願うのだろうなと思います。自分の正しさを疑わないヨナに、わたしは自分自身を見る気がします(ヨナ4:10-11)。ここ20年位でしょうか。教会では、神は弱くされた者の側に立つという福音理解が語られ、わたし自身も時折そう表現してきました。しかし問題は、誰が弱くされているのかを判断することは、それほど容易ではないということです。

 今日の福音書も、大抵わたしたちは自分を正しい側に置いて読んでいるのではないでしょうか。しかし、まず自分を正しい側に置く人間の問題が、ここでイエスさまによって浮彫りにされています。そして、最後の「完全な者となりなさい」からは、却ってわたしたちの不完全さを思い知ります。それは、わたしたちが、どちらが正義か悪かを正確に判断しえないということができるかもしれません。こうしてわたしたちが不完全であるがゆえにイエスさまは十字架に架けられなければなりませんでした。そして、イエスさまの死と復活によって、わたしたちは神さまから愛されていることを知ります。

 その愛がわたしたちに絶えず注がれることを求めて最後にもう一度特祷を祈りたいと思います。主よ、あなたは、愛がなければ何をなそうとも価値がないと教えて下さいました。どうぞあなたの聖霊を送り、あなたの最も大いなる賜物をわたしたちの心に注いでください。その賜物は、愛であり、あらゆる徳と平和との絆であり、それなしに生きる者は神の前では死んでいるも同然です。唯独りのみ子、あなたと聖霊と共に、いま生きて世を治めておられるイエス・キリスト、唯一の神によって、どうかこの賜物を、いまもこれからも与えてくださいますように     アーメン


shiribori at 09:20|Permalink
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