2017年02月22日

悪人にも善人にも神は

〔説教要旨〕 2月19日(A顕現7)

マタ5:38-48

「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」をはじめ、これらの戒律を一体誰が守れるのでしょうか。これをすれば悪がはびこりそうですし、泣き寝入りを勧めることにもなりかねません。そう思ったところでわたしの思考は停止してしまいました。

 しかし、ふと「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(45節)に目が留まりました。きっとわたしなら、自分を正しいと思い、悪い相手には太陽が昇らないように、恵みの雨など降らないよう願うのだろうなと思います。自分の正しさを疑わないヨナに、わたしは自分自身を見る気がします(ヨナ4:10-11)。ここ20年位でしょうか。教会では、神は弱くされた者の側に立つという福音理解が語られ、わたし自身も時折そう表現してきました。しかし問題は、誰が弱くされているのかを判断することは、それほど容易ではないということです。

 今日の福音書も、大抵わたしたちは自分を正しい側に置いて読んでいるのではないでしょうか。しかし、まず自分を正しい側に置く人間の問題が、ここでイエスさまによって浮彫りにされています。そして、最後の「完全な者となりなさい」からは、却ってわたしたちの不完全さを思い知ります。それは、わたしたちが、どちらが正義か悪かを正確に判断しえないということができるかもしれません。こうしてわたしたちが不完全であるがゆえにイエスさまは十字架に架けられなければなりませんでした。そして、イエスさまの死と復活によって、わたしたちは神さまから愛されていることを知ります。

 その愛がわたしたちに絶えず注がれることを求めて最後にもう一度特祷を祈りたいと思います。主よ、あなたは、愛がなければ何をなそうとも価値がないと教えて下さいました。どうぞあなたの聖霊を送り、あなたの最も大いなる賜物をわたしたちの心に注いでください。その賜物は、愛であり、あらゆる徳と平和との絆であり、それなしに生きる者は神の前では死んでいるも同然です。唯独りのみ子、あなたと聖霊と共に、いま生きて世を治めておられるイエス・キリスト、唯一の神によって、どうかこの賜物を、いまもこれからも与えてくださいますように     アーメン


shiribori at 09:20|Permalink

2017年02月17日

イエスの反対命題

〔ヒューム.W.ユーワン神学生・奨励要旨〕
2月12日(A顕現6)

 マタ5:21-24, 27-30, 33-37

今日の福音書の朗読は、「山上の説教」の第2部の前半です。この箇所では、イエスが「天の国」に入るための道徳的条件を公表します。つまり、天の国に入るために「腹を立ててはならない」と「姦淫してはならない」と「誓ってはならない」ということです。一見して、この三つの項目、即ち反対命題の間には共通点がないように見えますが、実際は共通点があります。この共通点は「愛」です。反対命題の第1項には、この愛は兄弟への愛です。反対命題の第2項には、この愛は妻への愛です。反対命題の第3項には、直接的ではないですが、神への愛です。従って、この愛は「天の国」に入る絶対条件です。

しかし、どうして「天の国」に入るために愛が必要なのでしょうか。今日の福音書の朗読では、イエスが「天の国」に入るための生き方を強調しました。特に、イエスが期待されるのは、律法に定められたこと以上のものですが、イエスの焦点は律法の精神です。けれども、なぜこのことは重要なのでしょうか?実際に、信仰が多過ぎて細かく守らなければならない規定に基づいているなら、信仰が規定を満たすことになっています。そのような信仰には、神を見なくなります。イエスは当時のユダヤ教の状況について非難しているが、現代のキリスト教徒の私たちにとっても関係があると思います。つまり、私たちの信仰がそのようなことになったら、私たちの信仰は終わりがないかのような四角にレ印を付けることとなってしまいます。このようなことを信仰と呼べるのでしょうか?信仰は規則を文字通りに実行するならば、一体神はどこにいるでしょうか?このような信仰には神がいないのではないでしょうか?

そのために愛は重要なものです。神は私たちを造られた。神は私たちに命を与えられた。神は私たちの中におり、私たちも神の中におります。従って、私たちは私たちの兄弟姉妹を愛さなければ、私たちは神を愛することが出来ません。そして、私たちが私たちの兄弟姉妹を捨てるならば、私たちは神を捨てるということです。神を捨てるならば、「天の国」に入ることができるでしょうか?もちろん、入ることはできません。今日の福音書の朗読には、イエスは神を愛と同一視します。或いは、愛を神と同一視しています。


shiribori at 22:10|Permalink

2017年02月03日

「状態」ではなく「価値」として

〔説教要旨〕 1月29日(A顕現4)

マタ5・1-12

 何年か前の新聞で、ある中学の先生が、点数の悪かった生徒の答案用紙に「バカ」と書いたことで懲戒を受けたという記事を見ました。ふと自分の学校時代にも同じようなことがあったのを思い出しました。こうした扱いで怖ろしいのは、人間としての価値が貶められ続けると、最初は外側から貼られていたに過ぎないものが次第に自分の中に内面化されてしまうことです。

 さて、今日の福音書の「山上の説教」に集まる群集たちは「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」(9:36)人々でした。これらの人々もまた、貼られていたレッテルが内面化してしまい、自分たちが価値の低い人間だと思い込んでしまっている状態でした。実際、当時の指導的な人々は、こうした群集たちを律法を守ることのできないダメな者たち、神の救いの外にある者たちとみなしていたに違いありません。

 だとすれば、イエスさまのこれら一つ一つの言葉は、そのような、自分たちに貼り付けられ、染み付いてしまったイメージを打ち破る鮮烈な響きをもっていたに違いありません。つまり、「幸いである」とは、幸いな「状態」や「状況」についてというよりも、一人ひとりの人間の存在の「価値」について言っているのではないか、ということなのです。これらの言葉は、状況や状態として読み取ろうとすると、明らかに成立しない言葉が沢山あります。しかし、そのひとの価値、と考えたらどうでしょうか。

 群集自身が忘れかけていた、自分たち自身の価値を、彼らは、イエスさまを通して発見あるいは再発見した、そんな出来事だったのではないでしょうか。「心の貧しいあなたがたは、幸いな存在なのだ。悲しむあなたがたは、幸いな存在なのだ」―。わたしたちもまた、それとは気づかないで、自分たちの価値を実際より低く見積もってしまいがちではないでしょうか。この世の支配的な価値観、周囲の世界からの評価が、自己イメージになってしまっていたりします。しかし、と、イエスさまは言われます。神さまとの関係において、あなたたちの人間としての価値はどうか。あなたがたは幸いな存在なのだ―。その鮮烈な響きをわたしたちも感じ取りたいと思います。


shiribori at 15:41|Permalink

2017年01月27日

洗礼を授けるためではなく

〔説教要旨〕 1月22日(A顕現3)
汽灰蝪院В隠-17

 使徒書の背後には、当時パウロが直面したコリント教会の分派争いがあります。そこでパウロは、本来一致と和解の基であるはずのキリストが、いくつもの部分に分割されたのか、自分たちが救われたのは十字架によってである。あなたがたは、あくまでもキリストの名によって洗礼を受けたのであって、パウロましてやアポロやケファの名によって洗礼を受けたわけではない―。

 驚かされるのは、こうした主張が、わたしたちの想定を越えるところにまで行き着くことです。それが「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を知らせるため」です。通常教会の教えでは宣教の第一として洗礼が挙げられます。しかしあのパウロ自身がある意味で洗礼は二の次だというのです。しかし、思えば別のところで「信仰、希望、愛、この中で最も大いなるものは愛である」と語ったパウロらしい主張とも言えます。わたしたちはクリスチャンにとって信仰が最も大切だと考えています。しかし、その信仰以上に愛が大切なのだというのです。そこにある「大発見」にわたしたちは心を寄せたいのです。

 今日わたしたちは「洗礼を授けるためではなく、福音を知らせるため」に集められ、生かされ、派遣されていることを心に深く受け止めたいと思うのです。つまり、わたしたちは、洗礼を授けるとか信徒を増やすということ以上に、福音をこの世に知らせることができているだろうかと共に問いたいのです。

 しかし、その問いは、そうできていない自分に落ち込むところに留まるものではありません。なぜなら、わたしたちは、これらのみ言葉を聖餐式のなかで聞いているからです。というのも、聖餐式の構造からいえば、み言葉の部分でわたしたちが問われるとしても、聖餐の部で、イエスさまの受難と復活そして主の食卓によって、わたしたちの生が感謝と賛美に変えられ最後に、この世に派遣されていることを知るからです。洗礼を受けたから福音を知らせなくてはならないのではありません。わたしたちに、福音・良き知らせが届いたから洗礼を受けたのでした。それはただ一回きりの、キリストの十字架と復活によって、わたしたちに新しい命が与えられたという神さまの救いの業でした。


shiribori at 14:54|Permalink

2017年01月19日

どこに泊まっておられるかを見た

〔説教要旨〕 1月15日(A顕現2)

ヨハ1・29-41

 本日は(二人の弟子は)「どこにイエスが泊まっておられるかを見た」(39節)に注目したいと思います。というのも、この部分を39節から削除してもむしろ文章としてはすっきりするからです。にもかかわらず、わざわざどこに泊まっているかを「見た」とあるのです。また前後の箇所には、やたらと「見る」が出てきます。そして26節や31節の洗礼者ヨハネの言葉からすると「見る」とは、「悟る」「理解する」という意味であることが分かります。面白いのは、二人の問いに答えるイエスさまの「来なさい。そうすれば分かる」(39節)です。直訳では「あなたがたは見るだろう」。そして、これに応じて二人は「どこにイエスが泊まっておられるかを見た」のです。

 すると、イエスさまがどこに泊まっておられるかを二人が「見た」こと自体に意味があることが分かります。ところで、そのひとが、どんな所におられるかを見ることが、どんな方であるかを見ることであるとするならば、どんな所にイエスさまが滞在していたかを「見る」ことは、イエスさまがどんな方であるかを「見る」ことだったといえるのではないでしょうか。残念ながらその滞在場所がどんな部屋であったかは書かれていません。しかし、詳しく書かれていないことで却ってイエスさまのイメージが固定化することが避けられています。そうとはいえ全く見当もつかないわけでもありません。というのも、わたしたちには、他の福音書からイエスさまがご降誕の際、家畜小屋におられたことを知っているからです。ヨハネ福音書には降誕物語がないぶん、ここに、主が「馬小屋」でお生まれになったという記事と同様の役割が担わされているのかもしれません。

 二人が「見た」イエスさまのおられるところは、少なくとも世俗の王様がいるような立派な意匠や装飾に囲まれたところではありませんでした。そこはきっと質素でありながら、あの小屋のように温かさと真理に満ち、愛に満ち溢れたところだったに違いありません。それを見たアンデレは、メシア―救い主に出会った、と兄弟アンデレに言いました。教会という場もまた、イエスさまがお泊りになられた場所と同様の、温かさと真理に満ち、愛に満ち溢れたところとなりますようにお祈りしたいと思います。


shiribori at 23:41|Permalink
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