2017年09月22日

良識から福音へ〜「受忍限度」と神の憐れみ

〔説教要旨〕 9月17日(A降後15特19)

マタ18:21-35

 近年、保育園の子どもたちの声が騒音だとして近隣住民が訴訟を起こすというニュースを目にします。こうしたケースで争点となるのが「受忍限度」を超えるかどうかです。ところで、ペトロが冒頭でイエスさまに問うているのは、今風に言えば、まさに受忍限度という次元です。それに対してイエスさまは「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」と言っています。これはペトロの7回に比べれば破格の寛大さですが、それでも受忍限度の延長線上にあるかにみえます。

 しかし、すぐ後に続く譬え話しで受忍限度を遥かに超える次元が露わとなります。それは、神さまの憐れみ、です。また、受忍限度の次元が人間的な良識であるのに対して、イエスさまが伝えたのは福音でした。つまりここで明らかとなるのは、神さまはわたしたちを受忍限度という次元(嫌なままだけど我慢してやろう)においてではなく、憐れみによって受け容れてくださるということです。神さまご自身がはらわたを痛め、遂にはその独り子を賜るほどに愛すことによって、わたしたちを受け容れてくださるのでした。

 また、受忍限度の次元と神さまの憐れみとが、いかに異なる次元であるかをあらわす表現があります。それは家来が仲間に貸していた100デナリオンと、君主が帳消しにした1万タラントンという額です。当時のお金の価値を単純にいまの日本円に置き換えることはできません。が、仮に一日の日雇い賃金を1万円とすると、それぞれ次のような額になります。家来が仲間に貸していた100デナリオンが100万円、そして、君主が帳消しにした1万タラントンは、6000億円ということになります。聖書に特徴的なのですが、量的に大幅に異なるときには“月とスッポン”、つまり、もはや質や次元が全く異なることを表わしているのです。

 こうして、福音は良識を遥かに超えているのです。それが感謝と賛美につながらないはずがありません。そしてまた、わたしたちが伝えるべきは、良識ではなく、福音です。良識に基づいた倫理や道徳ではなく、わたしも、あなたも、神さまがはらわたを痛め、神さまご自身が十字架上でからだを痛めて、命まで捨てて、愛し、わたしたちを受容してくださった、その喜びではないでしょうか。


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9/10の説教要旨はありません。

この日は創立記念礼拝のため教区主教による説教でした。

説教要旨はお休みさせていただきます。

shiribori at 16:23|Permalink

2017年09月05日

だから、からだ

〔説教要旨〕 9月3日(A降後13特17 / 於:ヨハネ)

マタ16:21-27、ロマ12:1‐8

―こういうわけで…自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です―。ある注解者は「こういうわけで」に注目し、ここには「“だから”の倫理」があると言います。キリストにおける神さまの救いの業がなされた、「だから」、「…献げなさい」という倫理が生まれるからです。パウロはいけにえの祭儀が身近な時代、人間のためにイエスさまがその“からだ”を献げてくださった。だから、わたしたちの“からだ”を献げようと勧めています。もちろんここに言う「いけにえ」は従来の「いけにえ」とは異なります。この語の前には「生ける」がついています。命を絶つことによってではなく、わたしの“からだ”(肉体とその生き方)、もっと言えば人生まるごとを献げよう、という意味あいがあります。だから、からだ、なのです。

 では、わたしたちのからだを献げるにはどうすればよいのでしょうか。そこに行く前に、福音書に目を向けてみたいと思います。ここに見るペトロとパウロの違いは何でしょうか。ペトロはこの時点では十字架を経験しておらず、まだ「だから」がありません。それでペトロは的外れなことを言ってしまうのです。しかしこれをきっかけにイエスさまは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われます。「自分を捨て」は人間的な思いを神さまの思いよりも下に置くこと。「自分の十字架を背負って…」は、ちょうどパウロの「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」とつながります。

 こうして、キリストにおいて神さまがしてくださったことは、十字架と復活であり、それによってわたしたちは新たな命と人生とを与えられています。そこから神さまへの感謝と賛美がひき起こされるのです。それは同時にわたしたちが自分の人生に感謝できることであって、むしろ倫理はそこから必然的に生じます。その感謝と賛美の方法が聖餐式なのです。キリストはそのからだをわたしたちのために献げてくださいました。だから、わたしたちも、からだを献げます。聖餐式においてわたしたちがからだを献げるとき、そこから必然的にわたしたちの生き方が見えてくるのではないでしょうか。


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2017年09月01日

天の国の鍵

〔説教要旨〕 8月27日(A降後12特16)

マタ16:13-20、ロマ11:33-36、イザ51:1-6

 福音書で人びとが、イエスさまを何者かと問うているのは、苦難の連続のなかから主の救いを尋ね求める旧約日課の民の姿と同一線上にあります。民はイエスさまに何かただならぬもの―長年求めてきた救い―があると感じている。しかしまだ確信は持てない。洗礼者ヨハネか、エリヤかエレミヤ?…。そしてイエスさまは、では「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問います。それに対してペトロは、正しくも「メシア、生ける神の子」と答えます。と同時にイエスさまは後で(20節)口止めもされます。このことが完全に露わになるには十字架の時を待たなければならないからです。

 このペトロの告白を受けてイエスさまは彼に天の国の鍵を授ける、と言っています。注目したいのは、「鍵」と密接に関連した「つなぐ、解く」が、ユダヤ教のラビ(教師)が用いた専門用語で、律法を解釈して人々の実生活に許可や禁止を決定することを意味したことです。しかし、ラビたちは律法を掟として押し付け、いわば天の国に鍵をかけて閉ざしてしまいました。このイメージと反対のものが、ペトロに授けられた鍵だったのです。では、その鍵で開かれる天の国とはどのような世界なのでしょうか。それは、本日の旧約にあるような、苦しむ民への慰めがあり、荒野を緑豊かな大地とする業が行われ、喜びと楽しみ、感謝の歌声が響き、正義が行われる世界です。しかし、その約束を反故にしたのはわたしたち人間でした。ところが、そんな人間の背きさえ利用されるのが神さまであることを“発見”したパウロは感嘆します(使徒書)。パウロの胸の高鳴りはこの鍵によって天の国が開かれたことへの感嘆(33節)なのです。

 キリストの十字架と復活を通した神さまの業はこの鍵となって天の国を開きました。それは、わたしたちの背きさえ利用される神さまの救いへの「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか…」(パウロ)という驚きと喜びと感謝を、わたしたちのうちに惹き起こします。この鍵で解くことはまた、いまを生きるわたしたちにも託されています。どんな小さなことを通してでも、キリストを通して開かれた天の国をこの地上で開くようわたしたちは招かれているのではないでしょうか。


shiribori at 09:58|Permalink

2017年08月26日

もれた者をも神は

〔説教要旨〕 8月20日(A降後11特15)

マタ15:21‐28、ロマ11:13‐15、29‐32

 3年前の豪雨で水浸しになった教区センターの復旧作業に行った時のことです。ある小部屋では1m四方ほどの入口マットが水を一身に受け止めたため、床面の大部分が殆ど濡れずに済みました。それに驚いて、イエスさまの十字架の業を連想してしまいました。そして、そこからさらに山田洋次監督の話を思い出しました。満州から境港に引き揚げてきた山田少年は家計を助けるためちくわの行商に出ます。ところが売れ残ってしまう。そうなるといつもあるスナックのママが売れ残りを全て買い取ってくれる。この話しを紹介しながら恩師は、このママはイエスのようだ、わたしたちの説教は、売れ残りのちくわのような拙い作文に過ぎないかもしれないが、それもすべてイエスさまは受け止めて下さる、とその話を結びました。

 ところで、本日の日課はどれもユダヤ人だけでなく異邦人にも救いが及ぶことをあらわす箇所です。福音書では、はじめイエスさまは従来のユダヤ教の救済観を踏襲して「カナンの女」を相手にしませんが、彼女が食い下がったため、その願いを聞き入れます。ここで「立派」とされている信仰とは、彼女がひたすらに主の憐れみを求めたことでした。それは本日のパウロが語っている神の救いの計画―すべての人を憐れむため、という証しにも裏書きされています。

 とすれば、「異邦人」とは、自分が救いからもれているのではないかと思う人間すべて、といえるのではないでしょうか。そんな人間、そんなわたしたちに求められている信仰、それは根本的には、決まり事をきちんと守るとかそういうことではなくて、ただ主の憐れみに頼ることなのではないでしょうか。それでも宗教組織に属する一員として、なんらかの決まりを守るとすれば、それは、ただ主の憐れみに頼り、そこから生じる感謝から生まれてくるものなのではないかと思うのです。

あの、側溝や排水口に回収しきれず漏れた水を、あるいはまた、日がな一日売り歩いても売れ残るちくわを、受け止めてくれる方があります。わたしは神さまの救いからもれているのではないかと思うこのわたしを、受け容れてくださる方がある。もれたかに思えるこのわたしたちを、神さまは、イエス・キリストの十字架と復活を通して、受け容れてくださったのでした。


shiribori at 11:20|Permalink
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