2017年06月14日

6/11の説教要旨はお休みです。

毎月第2日曜は「子どもとささげる聖餐式」で、説教原稿を作りません。

説教要旨はお休みさせていただきます。


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2017年06月10日

わたしたちの言葉で聞こうとは

〔説教要旨〕 6月4日(A聖降日)

使2:1-11

 聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事はよくバベルの塔の物語の回復と言われます。両者を比較するとき、いくつかのメッセージを聴きとれます。まず、バベルでは同一の言語であることが呪われましたが、ペンテコステでは、多様な言語(11節)であることが祝福されました。そして、そうであることによって同じ一つの神の救いの業を聴くことができました。そこで、多様であると同時に一致していることが祝福されているのではないでしょうか。ところでこの箇所は教会の世界宣教への根拠になっています。が、注目したいのは、それぞれの土地の言葉で救いが語られていることです。つまり宣教とは、ある同一の言語や思考の枠組みで語られていくものではなく、その土地その土地の言語でなされるものなのです。

 いま世界はグローバル化の時代を迎えたと言われています。しかしグローバル化が、単一で均質化した思考の枠組みが全世界に浸透することを意味するのであれば、わたしには好ましく感じられません。そうした世界では、結局のところ、強大な国が主導権を握り、その他の国は弱まるばかりです。そればかりか弱まる側の国の内部でも、貧富の差はどんどん大きくなっていきます。すでに日本でも中間層は崩壊し、貧困層が拡大しています。

 そして、それを預言するかのように戦後25年の段階で、ある作家は次のように書いています。「…このまま行ったら(略)日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」。これを残したのは三島由紀夫で、その評価には色々あるかと思いますが、1970年の時点でこのような明察に至っていたことには驚かされます。無機的で、からっぽで、ニュートラルで、中間色で、抜け目なく、飽くなき富の追求が良しとされる方向に向かう日本社会のなかで、わたしたちは、その土地その土地の言葉で福音を語るように招かれているのではないでしょうか。その福音は、「無機的で、からっぽで」とは正反対の、キリストの肉と血による、熱というか温もりを帯びた、そしてバラバラとなった人びとをつなぎ合わせていくような、良き知らせであるはずです。


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2017年05月30日

青天の霹靂〜天と地がつながれた

〔説教要旨〕 5月28日(A復活7)

ヨハ17:1-11

 本日の福音書の天と地との対比から、劇団ひとり脚本・出演・監督の映画「青天の霹靂」を思い出しました。映画のラストでは目頭を押さえずにはいられませんでした。この映画には宗教的なモチーフは表面上ありません。しかし唯一、宗教的なモチーフに近付くのは「天」です。天から降る雷が生者と死者とをつなげているのです。

 今日の福音書は昇天を念頭に置いたイエスさまの祈りです。イエスさまは、まさに「天を仰いで」祈ります。ところで、せっかく甦られたイエスさまはなぜ天に昇らなければならなかったのでしょうか。それは、インマヌエル=主が共におられる、という旧約以来の神と人との約束は、天に昇ることで却って、その後の聖霊の降臨と併せて成就したのです。換言すれば、天と地と、死者と生者と、絶望を希望へと、虚無を神の愛へと繋げるために天に昇られたのです。

 注目したいのは「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」(3節)です。「イエス・キリストを知る」つまり十字架と復活の出来事を通して、神さまのわたしたちへの愛を知ること。それが天と地とをつなぎ、死者と生者を結びつけるのです。先ほどの映画でも、主人公が愛を知ることが重要な転機となっています。また、それが天から雷を受けて倒れることによって起きていることも示唆的です。パウロも「天からの光」に撃たれて倒れたことが大きな転換点となりました。彼の受けた光もまた神さまからの愛であり恵みであったということができます。

 イエスさまは、その祈りを通して、また昇天を通して、時に死者と生者とを分かつ断絶に打ちのめされ、たじろぎ、絶望に陥り、天と地との断絶を前にうろたえるしかないわたしたちと神さま、つまり、命であり愛であり恵みである天との間を、つなげて一つとしてくださいます。最後にイエスさまのお祈りの一部をもう一度味わいたいと思います。「わたしはもはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださったみ名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(11節)  主に感謝。


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2017年05月25日

わたしもあなたに留まり続ける

〔説教要旨〕 5月21日(A復活6)

ヨハ15:1-8

 ある解説によればB.C.8Cの北イスラエル滅亡が「罪」概念の成立に決定的だったそうです。神が助けてくれなかったという自己の存立基盤の喪失体験から、人間の側に問題があるのではないかという深い問いが「罪」の“発見”につながった。だとすれば「わたしは罪人です」とは、喪失体験をもとに、わたしは神さまの他に頼るものがないことをみとめることといえないでしょうか。喪失といえば、教会暦は復活顕現で出会えた地上のイエスさまを「喪失」する時機に来ており、そのため神とわたしたちとのつながりを示すぶどうの木の譬えが福音書で読まれます。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫」、「あなたがたはその枝」。ここにいくつかの含みがあります。まず枝には、根ではない、ということ。つまりルーツ=出自は問題ではない(マタ3:9-10)。そして実は、他ならぬ枝につくのです。またぶどうはとても手のかかる作物で、神さまが手をかけてわたしたちを養育してくださるという含みです。さらに、ぶどう園は神の国のイメージです。

 そのような関係でわたしたちと神さまとはつながっている。ところで、ここで「つながる」は、原語では「とどまる」です。注目したいのは、イエスさまがわたしたちに「わたしのうちにとどまりなさい」と言われただけでなく「わたしもあなたがたにつながっている」(4節)と言われていることです。直訳は「わたし自身もまた、あなたがたのなかに留まりつづけている」です。そして、そのことが十字架と復活によって確かなものとされたのでした。この関係を、わたしたちは毎週の礼拝を通しておぼえ、感謝と賛美をささげます。そのつながりはまた、いま地上にある者同士の関係に留まりません。

 感謝聖別〔機佑如△錣燭靴燭舛蓮屐津靴料寛饅阿箸箸發法廖崋腓鬚燭燭┐堂痢廚Δらです。もう一度み言を想い起こしたいと思います。―わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。/わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。/わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ―。主に感謝。


shiribori at 08:58|Permalink

2017年05月16日

5/14の説教要旨はお休みです。

毎月第2日曜は「子どもとささげる聖餐式」で、説教原稿を作りません。

説教要旨はお休みさせていただきます。


shiribori at 09:44|Permalink
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