2017年11月22日

主人と一緒に喜んでくれ

〔説教要旨〕 11月19日(A降後24特28)

マタ25・14-15、19-29

 今日の譬えは、「タラントン」が「タレント」の語源ということで「才能」と理解されることが多いのではないでしょうか。しかし、そう捉えると、どうしても目にみえる「能力」に偏ってしまって、結局この世的な価値観―能力主義のなかに解消してしまうことになります。タラントンは、「才能」を含みつつそれよりもっと広い意味で神さまから与えられている「賜物」を指しています。それは、目に見えるものばかりではなく、ともすると見落としてしまいそうなその人の価値を含むものなのです。考えてみると、イエスさまが十字架につけられたのも大多数の人々が見逃している人間の価値を見出し公けに言い表したからではなかったでしょうか。そのようにタラントンは大きな広がりを持っています。

そして、「主人」が怒るのは、そのタラントンを使わず土に埋めてしまった行為に対してでした。そのことは「主人」が財産を「預けた」というところにも関係しています。「預けた」とは、つまり、自分のものだけにしないで用いる、という含みがあるのです。神さまは私たちに賜物を「預けて」おられるのです。しかし、それにしても自分が預かっている賜物のなんと貧弱なことか、と嘆きたくなるときもなくはありません。もっと頭が良ければ…、能力があれば…。

しかし、そんな時には、いちばん低い額でも1タラントンであったことをもう一度思い出したいのです。1タラントン、それは現在の貨幣価値に換算すると大体6,000万円ほどになるようです。近年の報道では億単位のニュースがざらにありますからそれほど大きくは見えないかもしれませんが、一庶民からすれば莫大な額に違いありません。最も低くても1タラントン。ならば十分ではないでしょうか。十分な恵みを使うことに心を向けたいと思います。しかも、そうして使う時、神さまは一緒になって喜んで下さいます(「主人と一緒に喜んでくれ」)。降臨節(主がこの世に来られるのを待つ期節)が近づき、日課は先週にひきつづき神の国のたとえが選ばれています。神の国が到来しつつあるこの現在において、私たちは預けられたタラントンを自分だけのものにせず、用いるように招かれています。それは、また、神さまが共に喜んでくださるという希望への招きでもあります。


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2017年11月11日

死と、「呪縛」からの解放

〔説教要旨〕 11月5日(A諸聖徒日) 

 魔法で醜い蛙にさせられた王子がお姫さまによって解かれ二人は王子の国に旅立つというグリム童話をひいて、セラピスト・鈴木秀子さんはある女性のエピソードをその著作に綴っておられます。女性は二人のお子さんを持つ30代半ばの方で手遅れの食道がんでした。彼女の産みの親はお産の時に亡くなっています。彼女は子どもの頃から「この子の実の母親は、ちょうどこの子のお産のときに亡くなりましてね」といった言葉を聞かされるうちいつしか母親の死は自分のせいで、いつか自分に罰が下るはずと思い続けてきました。その罰が今下っているのでホッとしている、とまで言うのでした。

そこで、この呪縛を解くべく鈴木さんは、子供たちによって自分がどんな幸せを得たか思い出すよう彼女を促します。それにより彼女はいかに子供たちによって母親としての喜びを存分に味わうことができたかに思い至ります。そして子供たちに「お母さんがもし死んでもそれはあなたたちのせいではないのよ」と言い聞かせます。すると、自分のその言葉が亡き母親の言葉となって自分の心に響いてきたのでした。それはまた、母はむしろ自分をこの世に送り届けたという大きな喜びに包まれ天国に旅立ったのだと気づかされることでもありました。長年の呪いから解放され彼女に明るい顔が戻ってきました。そして明け方彼女は、会ったことのないお母さんがマリアさまの姿で両手を広げて自分を迎えに来てくれるという夢を見ます。そして、その日の夕方、家族と親戚の見守るなか、彼女はマリアという教名で洗礼を受け、翌朝日の出とともに、「うれしい…」という一言を残して主のみもとへと旅立っていかれたということです。

 「魔法」にかかって彼女は「罰せられる存在」という「蛙」になっていた、その彼女が本物の自分である「王子さま」に甦った、と鈴木さんはその文章を結んでいます。死は一見すると滅びにしか見えません。しかし、それに打ち克った方がおられます。それは、言うまでもなくイエスさまです。イエスさまの十字架上の死と復活の出来事は、死が、ただの終わりや絶望でもないことをこの世に示したのです。イエスさまの十字架は、私たちが、滅ぶべき存在から新しい命へと突入する存在へと変えられたことをあらわしています。


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2017年10月30日

根と実

〔説教要旨〕 10月29日(A降後21特25)

マタ22・34-46、出エ22:20-26

 先週来の問答から福音書のはじめに出てくる洗礼者ヨハネの悔い改めの呼びかけを思い出しました。彼はファリサイ派やサドカイ派の人々に「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな」「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている」(3:7-10)と言っています。ここで特徴的なのは根と実というシンボルです。「根」は出自、「実」はある業をなした結果です。

 ところで、「根」を根拠とする人々から出てきたのは偏狭な民族主義でした。この問題は最近の日本社会でも急激に現実味を帯びています。そして、そこにキヨメとケガレの観念が結びつき、その結果、他民族と接触のある人はケガレており、神の救いの外にあるとされていました。そうした「根」ではなく「実」というモチーフが今回の「ダビデの子についての問答」の背景にあるのです。救い主=ダビデの子を金科玉条とする人々は人間的なものを根拠とする人々でした。そこでイエスさまはダビデがメシアを主と呼んでいる例を挙げて彼らの論拠を覆します。では、イエスさまの主張の根拠は何でしょうか。もちろん神さまです。その神は「(わたしは)憐れみ深い」(出エ22:26)方です。神さまは憐れみ深いがゆえに当時世界で最弱最小の民イスラエルをエジプトの奴隷状態から救ったのです。その選びの理由は決して民族性そのものではありません。「根」をもたない寄留者だったがゆえに憐れんで(はらわたを痛めて)救いのみ手を伸ばされたのです。そして、その憐れみがあるがゆえに「心を尽くし…あなたの神である主を愛」する、が成り立つのです。そしてこの命令への応答が、隣人を自分のように愛する、なのでした。

 イエスさまは「根」=人間的な出自がわたしたちを決定づけるのではなく、神さまの憐れみと愛に応答するという「実」が決定的であることを明らかにされました。そして、その憐れみと愛とは、イエスさまの十字架と復活によって現実のものとされました。そうして、この地上に実現された神さまの愛と憐れみへの応答の柱として、わたしたちは、キリストの肉であるパンとキリストの血であるぶどう酒をいただき、主の食卓を囲むのです。


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2017年10月26日

神のものは神に

〔説教要旨〕 10月22日(A降後20特24)

マタ22:15-22

 イエスさまを敵視する2つのグループがイエスさまを「言葉の罠」に陥れようとしています。しかしそれを見抜いたイエスさまは逆に尋ねます。「銀貨を持ってきてみなさい」「そこについているのは誰の肖像か」。彼らは答えます。「皇帝のものです」。そこですかさずイエスさまは答えられます。「ならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と。彼らはそもそもイエスさまに「律法に適っているかどうか」と問いました。律法とは元来神さまの憐れみと愛とが形になったものです。しかし彼らの言う律法は、憐れみや愛とは正反対の、弱者を抑圧する形だけの律法だったのです。だからこそイエスさまは「皇帝のものは皇帝に―」と先述のように答えたのです。それは罠を切り抜ける方便であっただけでなく彼らが根拠を置いているものに根本から問い直しを迫る言葉でもありました。

 その問いはまた今のわたしたちにも及びます。ここで思い出すのは聖餐式の奉献の応唱「すべてのものは主の賜物。わたしたちは主から受けて主に献げたのです」です。これは歴上29:14のダビデの祈りに基づきます。彼はイスラエルの昔の王であり、救い主・メシアの原像です。その子ソロモンが王位につくときのこと。神殿の設計図をダビデは後継者・ソロモンに渡します。そのとき新築される神殿をおぼえてダビデは祈ります。その中に、「すべてはあなた(=神)からいただいたもの、わたしたちは御手から受けとって、差し出したにすぎません」があるのです。あの大いに栄えたダビデ王でさえ、みずからの繁栄を自らのものとはしなかったのです。

 わたしたちは、わたしたちの存在の確かさや正しさを、人間の側に置いていないでしょうか。あるいは、神さまから与えられたものにも関わらず、それを自分たちのものとして独占していないでしょうか。そんなわたしたちに、わたしたちが神さまからのものであることが、イエスさまの十字架と復活の出来事によって、新たに示されたのでした。「神のものは神に返しなさい」「すべてのものは主から来た、主の賜物。わたしたちは主から受けたので主に献げたにすぎない」という信仰にあらためて立ち返って主の食卓を共に囲みたいと思います。


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2017年10月21日

神の怒りの向こうには

〔説教要旨〕 10月15日(A降後19特23)

マタ22:1-14、イザ25:1-9、フィリ4:4-13

 旧約聖書をみると苦難の原因を自分たちの罪にあると短絡的に結びつけているような箇所があります。しかし雨宮慧神父は「その背後には神の完全さへの強い信頼がある」といいます。また神の怒りについて同師は「私たち人間の怒りは、幾分かは気まぐれが混じってい」るが「純粋な怒りであれば、良さを欠いている相手を心配する心からの怒りであり、純粋な愛の現れとも言え」るとも言います。ここから見れば今日の福音書の譬え話にある「王」の怒り(7節)の理不尽さもいくらか冷静に受け止められるかもしれません。なぜなら「王」は神を指しており、その怒りは純粋な怒り=純粋な愛の現れと考えられるからです。

 ところで、この譬え話は当時のイスラエルの民へのイエスさまからの警告でした。全イスラエルが神の完全さを信頼するよう求められたと言えます。その意味では指導層ほどこの「王」の激烈さが胸に鋭く突き刺さったに違いありません。だからこそ彼らはイエスさまに対して激しい憎悪をもったのでしょう。では、その憎悪に対してイエスさまは、実際はどうされたでしょうか。譬え話の「王」のように軍隊を送って彼らを滅ぼし、その町を焼き払ったでしょうか。あるいはまた礼服を着てこなかった男をそうしたように、彼らの手足を縛って、外の暗闇に放り出したでしょうか。

 もちろんイエスさまはそのようにはされませんでした。武力によって滅ぼされ、手足を縛られ外の暗闇に放り出されたとすれば、むしろそれはイエスさまの方ではなかったでしょうか。つまりイエスさまは、最終的には人間の不純きわまりない怒りにその身を任せられました。神さまの怒りの向こうには十字架があったのです。それは、神の純粋な怒りに頭を垂れる信仰を理解する、ということを遥かに越える理解の不能さでわたしたちを圧倒します。そこにある神さまの秘められた思いは、わたしたちの小さな頭では到底とらえきれません。しかし、その神さまの思いが実現し行きわたっているのが「婚宴」つまり天の国なのでした。それ故、その業へのわたしたちの応答が、他ならぬ感謝と賛美というかたちをとるほかない、ということをご一緒に今日分かち合いたいと思います。


shiribori at 15:03|Permalink
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