2017年02月03日

「状態」ではなく「価値」として

〔説教要旨〕 1月29日(A顕現4)

マタ5・1-12

 何年か前の新聞で、ある中学の先生が、点数の悪かった生徒の答案用紙に「バカ」と書いたことで懲戒を受けたという記事を見ました。ふと自分の学校時代にも同じようなことがあったのを思い出しました。こうした扱いで怖ろしいのは、人間としての価値が貶められ続けると、最初は外側から貼られていたに過ぎないものが次第に自分の中に内面化されてしまうことです。

 さて、今日の福音書の「山上の説教」に集まる群集たちは「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」(9:36)人々でした。これらの人々もまた、貼られていたレッテルが内面化してしまい、自分たちが価値の低い人間だと思い込んでしまっている状態でした。実際、当時の指導的な人々は、こうした群集たちを律法を守ることのできないダメな者たち、神の救いの外にある者たちとみなしていたに違いありません。

 だとすれば、イエスさまのこれら一つ一つの言葉は、そのような、自分たちに貼り付けられ、染み付いてしまったイメージを打ち破る鮮烈な響きをもっていたに違いありません。つまり、「幸いである」とは、幸いな「状態」や「状況」についてというよりも、一人ひとりの人間の存在の「価値」について言っているのではないか、ということなのです。これらの言葉は、状況や状態として読み取ろうとすると、明らかに成立しない言葉が沢山あります。しかし、そのひとの価値、と考えたらどうでしょうか。

 群集自身が忘れかけていた、自分たち自身の価値を、彼らは、イエスさまを通して発見あるいは再発見した、そんな出来事だったのではないでしょうか。「心の貧しいあなたがたは、幸いな存在なのだ。悲しむあなたがたは、幸いな存在なのだ」―。わたしたちもまた、それとは気づかないで、自分たちの価値を実際より低く見積もってしまいがちではないでしょうか。この世の支配的な価値観、周囲の世界からの評価が、自己イメージになってしまっていたりします。しかし、と、イエスさまは言われます。神さまとの関係において、あなたたちの人間としての価値はどうか。あなたがたは幸いな存在なのだ―。その鮮烈な響きをわたしたちも感じ取りたいと思います。


shiribori at 15:41│
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