私たちは何のためにスポーツをするのか。スポーツに何を求めているのか。そういうことが長い間、気になっている。生涯スポーツとして政府が国民にスポーツを奨励しているが、それは健康維持と文化的な生活を期待してのことだと思う。それはそれで大賛成なのだが、もう少し具体的に考えると、問題が起こってくる。成人を対象にした卓球クラブや卓球教室においてのことである。

たとえば、競技性と娯楽性のどちらを優先すべきかという問題である。ある程度までは両者は共存できるが、つきつめていくと、両者は矛盾する。公共の体育館や公民館を利用したクラブのようなところでは、こういう問題で常に摩擦が起こる。「クラブ」というのは「倶に楽しむ」という語に由来するので、勝利を目的とした「チーム」ではなく、楽しむことが原点だと思う。しかし、もし競技性を度外視するとしたら―言い換えれば上達という要素がなければ、楽しむという目的もおぼつかなくなる。

「勝つためには毎回練習に参加し、決められたメニューをこなすべきだ」
「卓球は『遊び』なんだから、気の向いた時だけ練習に参加したい」

この両者の対立はスポーツに何を求めるかという価値観の決定的な違いによって起こる。競技性を優先する人は、指導的立場の人の指示に従って、効率よく上達することを望むが、娯楽性を優先する人は人に指図されたがらず、自由に好きなように打ちたがるだろう。そういう価値観の異なる二人が打つことになった場合、どうなるのだろうか。

さらに深刻なのは交流という目的のために卓球をしている人と競技性を優先している人の対立である。前者は、いろいろな相手と打って、交流を深めたいと思うかもしれない。一方、競技性を目的にしている人は、下手な人と打っても練習にならないと相手を限定したがるだろう。いろいろな相手と打つというのは、一見オープンで理想的に見える。しかし性格やマナーの悪い人がメンバーにいて(たいていのクラブにはいる)、強制的に誰とでも打たなければならないということになると、交流を深めるどころか確執を深めることになってしまう。その「イヤな人」と打ちたくないばかりに、雰囲気がすごくなってしまったり、みんなが練習に参加しなくなったりしてクラブが崩壊してしまう。

こう考えると、スポーツの意義には競技性が深く関わっていると考えられる。競技性とどう折り合いを付けるかでより多くの人がスポーツを楽しめるかどうかが決まってくるのではないか。

スポーツは突き詰めると、「ルールの範囲内でどんな手段を使っても勝てばいい」というところまで行ってしまうらしい。
川谷茂樹氏の『スポーツ倫理学講義』(ナカニシヤ出版)という本を読んだのだが、そこには世間的な道徳―負傷している相手には、その負傷している部分を攻めないであげる、野球の強打者には敬遠などせず、真正面から勝負するといった道徳をスポーツに持ち込むべきではないという主張がある(このブログに概要が述べられている)。相手の弱点は徹底的に攻め、相手のアドバンテージは徹底的に封じるのが真のスポーツマンシップであり、最低限のスポーツマンシップというのは勝とうとする意志なのだという。

川谷氏の本はスポーツが成立するための最低限の条件をめぐる論考だが、私が知りたいのはそのような哲学的なスポーツの定義ではない。川谷氏はスポーツを通じて人間性を陶冶するというキレイゴトはスポーツの本義とは相容れないとするが、私は素朴にスポーツを通じて多くの人と知り合い、上達を通じて人生を豊かにしたいと思っている。この哲学的な結論と、私たちのような一般人のスポーツ観とをどのように結びつければいいのか。

増島みどり氏のブログに松下浩二氏とのインタビューが掲載されていた(「「卓球全日本 41歳の松下17歳上田に敗れて引退」ー特別インタビュー掲載」)。そこで松下氏は競技性を追求したプロの厳しさを述懐している。

自分がやろうとする卓球、得たいと思う技術、これらを身につけるために、相手との差を1ミリ単位で16年かけて埋めてきたプロ生活でした。酒もタバコも夜更かしもしない。全ての時間、行動をストイックに卓球に注ぎ込む。それが僕にとってのプロフェッショナルの定義でした。 

プロというのは好きなスポーツをやってお金がもらえる恵まれた職業だと思っていたが、そんなうまい話があるはずがない。自分の可能性、才能を100%発揮するために生活の隅々にまで気を遣い、その障害となるものはためらわず切り捨てていく。困難な相手に勝つために、八方塞がりの状況の中で、なんとか活路を見出そうと必死にあがく毎日。どうやっても勝てない、しかし勝たなければならない。これがどれほどのストレスか凡人の私には想像がつかない。競技性というものは、このように野放しにしてしまうと、常人にはついていけないところまで行ってしまう。どこかで制限をかけなければならない。

まとめ
考えがまとまらず、あまり「まとめ」にはなっていないのだが、スポーツにおける競技性の追求というのは限られたプロにだけ要求されるものであり、常人はどこかで競技性と折り合いを付けなければならない。しかしその折り合いの付け方をどうすればいいのか。競技性を組み入れつつも、礼儀や社会道徳を身につけ、困難を乗り越えることを通じて自らを高める生き方を学び、多くの人と交流し見識を広め、楽しく健康的に卓球をする。これを成人のクラブでどうやって実現すればいいのか、私には腹案がない。これから長い時間をかけて考えていきたいと思う。