静岡県磐田市中泉(なかいずみ)の御殿遺跡公園(ごてんいせきこうえん)周辺は、安土桃山時代の天正18年(1590年)に遠江国(とおとうみのくに、静岡県西部)の徳川家康(とくがわ いえやす)の領地を支配する中泉代官(なかいずみだいかん)の代官所として建設された中泉陣屋跡(なかいずみじんやあと)です。

江戸時代には、中泉代官が遠江・三河(みかわ、愛知県)の天領(てんりょう、幕府の直轄領(ちょっかつりょう))を支配。

最後(49代)の中泉代官 大竹庫三郎(おおたけ くらさぶろう、名は宗孝、通称は庫三郎)の時には、遠江・三河・信濃(しなの、長野県)の天領7万6千石余が支配地でした。

中泉陣屋跡(御殿遺跡公園)
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中泉陣屋跡(御殿遺跡公園)の地図
静岡県磐田市中泉

アクセス
・東名高速道路 磐田ICの南
・JR東海道本線 磐田駅の南
・「ファミリーマート磐田駅南口店」の南

中泉御殿(なかいずみごてん)・中泉陣屋(なかいずみじんや)の範囲
 絵図(えず)や明治時代の地籍図(ちせきず)から想像したもので、地図の上が北。
磐田駅南口から御殿遺跡公園(ごてんいせきこうえん)周辺までの紫色の範囲が、安土桃山時代の天正18年(1590年)に建設された遠江国(とおとうみのくに、静岡県西部)の徳川家康の領地を支配する中泉代官の代官所の中泉陣屋跡です。
その下側(南側)の堀で隔てられた黄緑色の範囲が、安土桃山時代の天正14年(1586年)に造営を開始・翌年完成した徳川家康の宿泊休憩(きゅうけい)施設・別荘である中泉御殿(なかいずみごてん)の二の丸(出丸)?
左側(西側)の緑色の範囲が、中泉御殿の本丸(本城)と考えられています。
さらに下側(南側)の薄黄緑色は中泉御殿の三の丸?
中泉御殿の北側に堀と土塁(どるい)が築かれ、北側以外は大池と湿地帯で囲まれていました。
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<中泉陣屋(なかいずみじんや)>
 安土桃山時代の天正18年(1590年)、中泉御殿の北東部の隣接地に、遠江国(とおとうみのくに、静岡県西部)の徳川家康(とくがわ いえやす)の領地を支配する中泉代官(なかいずみだいかん)の代官所として中泉陣屋を建設。
 江戸時代には、中泉代官が遠江・三河(みかわ、愛知県)の天領(てんりょう、幕府の直轄領(ちょっかつりょう))を支配。
最後(49代)の中泉代官 大竹庫三郎(おおたけ くらさぶろう、名は宗孝、通称は庫三郎)の時には、遠江・三河・信濃(しなの、長野県)の天領7万6千石余が支配地でした。


 安土桃山時代の慶長6年(1601年)、岡田郷右衛門(おかだ ごうえもん)が中泉代官に就任。
江戸時代初期の慶長10年(1605年)まで、中泉代官を務めました。

 江戸時代後期の文化12年3月29日(1815年)、伊奈玄蕃(いな げんば、名は忠富(ただとみ)、通称は玄蕃)が中泉代官に就任。
文化14年(1817年)9月、中泉御殿跡の御殿山(本丸跡?)に鎮座(ちんざ)していた、徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を祀(まつ)る東照宮(とうしょうぐう)が老朽化していたため改築。
文政3年、通称を玄蕃から友之助へ改めました。
文政4年(1821年)、駿府代官(すんぷだいかん)に転任。

 文政4年正月(1月)28日(1821年3月2日)、「幕府代官の三学」の一人(あとの二人は岡本花亭(おかもと かてい)、林鶴梁(はやし かくりょう))と称される儒学者(じゅがくしゃ)の羽倉簡堂(はぐら かんどう、名は秘道(やすみち)、通称は外記(げき)あるいは用九(ようく)、号は簡堂)が中泉代官に就任。
代官としては、羽倉外記(はぐら げき)という名前が用いられました。
中泉陣屋南側にかつて存在していた中泉御殿(なかいずみごてん)について漢文で刻んだ、「遠州中泉古城記」石碑の建立を計画。
文政6年(1823年)6月、「寛政の三博士(かんせいのさんはかせ)」の一人に数えられる朱子学者(しゅしがくしゃ) 古賀精里(こが せいり、名は弥助、号は精里)の第三子で朱子学者の古賀侗庵(こが どうあん/とうあん、名は煜(あきら/いく)、通称は小太郎、号は侗庵)に依頼していた碑文の撰文(せんぶん、石碑に刻む文章などを作ること)が完成。
しかし、石碑建立が実現しないまま、文政6年9月7日(1823年10月10日)に羽倉簡堂が駿府代官(すんぷだいかん)へ転任。
文政13年(1830年)には、羽倉簡堂が碑文を撰文(せんぶん)した蔦の細道(つたのほそみち)顕彰碑(けんしょうひ)「羅径記碑(らけいきひ)」が、東海道の難所 宇津ノ谷峠(うつのやとうげ)西口付近へ建立されました。
現在、「羅径記碑」は静岡県藤枝市岡部町(旧志太郡岡部町)岡部・坂下地蔵堂(さかしたじぞうどう)の裏に移設されています。

 文政11年8月3日(1828年9月11日)、4代目 平岡彦兵衛(名は良郷(よしさと)、通称は代々 彦兵衛を襲名)が中泉代官に就任。
文政13年4月22日(1830年6月12日)、4代目 平岡彦兵衛が死去。
父の遺跡を継いだ平岡清三郎(名は良政(よしまさ)、通称は清三郎のち彦兵衛)が、5代目 平岡彦兵衛を襲名。

 文政13年(1830年)6月、5代目 平岡彦兵衛が中泉代官に就任。
天保2年(1831年)、中泉陣屋が火災で焼失。
その後、規模を縮小して再建されました。
天保5年4月22日(1834年5月30日)、5代目 平岡彦兵衛が中泉において死去、臨済宗妙心寺派 大池山 中泉寺に埋葬。

 幕末の嘉永6年9月23日(1853年10月25日)、「幕府代官の三学」の一人である儒学者の林鶴梁(はやし かくりょう、名は長孺(ちょうじゅ)、通称は伊太郎(いたろう)、号は鶴梁)が中泉代官に着任。
安政5年5月30日(1858年7月10日)までの5年間在任して、支配地の人々は「福星を得たり」と善政を喜びました。
嘉永7年・安政元年正月10日(1854年2月7日)、ペリー提督のアメリカ東インド艦隊の黒船が御前崎沖を東へ進む急報を受けて、江戸へ通報、浜松・掛川・横須賀藩に沿岸警備のための出兵を要請。
林鶴梁は、12日の夜明けに中泉陣屋を出発し、御前崎で指揮をとり14日に帰陣。
翌朝、吐血(とけつ)して一週間ほど休養。
 嘉永7年・安政元年11月4日(1854年12月23日)9時30分頃に発生した、マグニチュード8.4(最大震度7、磐田市では震度6)の安政東海地震(あんせいとうかいじしん)では、町や村の多くの建物が倒壊。
中泉陣屋も全壊し、規模を縮小して2度目の再建。
林鶴梁は配下の役人と手分けして、被害状況を調査し江戸へ報告。
困窮(こんきゅう)する被災者を救済するため、備蓄米(びちくまい)やお金を支給。
永続して救済するため、恵済倉(けいさいぐら)と名付けた方法を考案。
私財130両(金1両=約30万円換算で約3,900万円)で麦・稗(ひえ)を購入、不足分は有力者達に出してもらいました。
集まった米約830石分の元手(もとで)を貸し出し、利息(りそく)で殖(ふ)やすことで貸した米の返済分と合わせて、計算上15年後には780日間の飢(う)えから救える事業です。
後任の代官にも引き継がれて、明治時代には資産金貸付所(しさんきんかしつけじょ)の創設資金となりました。

 慶応4年・明治元年2月13日(1868年3月6日)、新政府が中泉陣屋を接収。
最後(49代)の中泉代官 大竹庫三郎(おおたけ くらさぶろう、名は宗孝、通称は庫三郎)は朝臣(ちょうしん、朝廷の臣下)となり、天朝御料(てんちょうごりょう、皇室の直轄領(ちょっかつりょう))になった支配地を一時支配。

 明治2年正月13日(1869年2月23日)、徳川家達(とくがわ いえさと)の駿河府中藩70万石が領内11ヵ所に奉行(ぶぎょう)・添奉行(そえぶぎょう)とその属僚(ぞくりょう)を任命。
中泉奉行(なかいずみぶぎょう)となった当時35歳の前嶋来助(まえじま らいすけ、後に我が国の郵便制度の創設者となる前嶋密(まえじま ひそか))は、一般民政や東京から管内に無禄移住(むろくいじゅう)した徳川藩士族(しぞく)700余名の世話など、中泉奉行所(旧中泉陣屋)で執務に従事。
明治2年8月7日(1869年9月12日)、府藩県三治制(ふはんけんさんちせい)により静岡藩へ改名。
明治2年9月、静岡藩の人事異動により前嶋来助は中泉を離れました。

 明治6年(1873年)5月17日、中部小学校の前身である中泉学校の男子が旧中泉陣屋に移転、続いて女子も移転。
修理した米蔵が男子の教室、役所が女子の教室として一時使用されました。

 表門は、磐田市新島(あらしま)の個人宅へ移築され現存しています。

中泉陣屋(なかいずみじんや)の範囲
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御殿遺跡公園(ごてんいせきこうえん)
 御殿・二之宮遺跡(ごてん・にのみやいせき)の一部で、中泉陣屋(なかいずみじんや)の敷地だった場所です。
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御殿・二之宮遺跡の地震跡(じしんあと) 標本
 平成5年(1993年)8月、中泉陣屋跡の隣接地で発掘調査を実施。
中泉御殿の堀(ほり)跡から、円筒状砂脈(えんとうじょうさみゃく)と呼ばれる噴砂(ふんさ)の跡が10数箇所発見されました。
大規模な地震で液状化現象が起き、上に堆積(たいせき)した粘土層(ねんどそう)を突き破って、地中から泥(どろ)が噴出(ふきだ)した様子が分かります。
切り取った地震跡の標本は、磐田市埋蔵文化財センターで展示(展示が変更になる場合あり)。
 文献資料によると、江戸時代後期の天保2年(1831年)に中泉陣屋が火災で焼失。
中泉御殿の濠の中には焼土を埋めた層があり、この層を突き破った噴砂がすぐ上を覆(おお)っています。
この地震跡は、幕末の嘉永7年11月4日(1854年12月23日)9時30分頃に発生した、マグニチュード8.4(最大震度7、磐田市では震度6)の安政東海地震(あんせいとうかいじしん)によるものと考えられます。
火災後に再建された中泉陣屋は、安政東海地震で倒壊しました。
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地震跡(発掘調査時)
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噴砂(ふんさ)の跡
 砂礫層(されきそう)の礫(最大径16㎝)が、噴砂により上層の粘土層(ねんどそう)へ噴出(ふきだ)しています。
発掘調査で確認された円筒状砂脈(えんとうじょうさみょく)は、全国で3例目です。
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御殿遺跡公園(ごてんいせきこうえん)の徳川家康像
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徳川家康公お手植えの蜜柑(みかん)

 静岡県静岡市葵区(あおいく)の駿府城公園(すんぷじょうこうえん)は、徳川家康が築いた駿府城跡です。

安土桃山時代(戦国時代)の天正13年(1585年)に築城を開始し、天正17年(1589年)に二ノ丸、江戸時代の慶長12年(1607年)に本丸、慶長15年(1610年)に天守閣が完成。
 慶長8年(1603年)に征夷大将軍となった徳川家康は、慶長10年(1605年)に息子 徳川秀忠(とくがわ ひでただ)に将軍職をゆずり、翌年駿府(静岡市)に戻りました。
居城として、駿府城の拡張を行い三ノ丸を修築。
 本丸にある県指定天然記念物「家康手植の蜜柑(いえやすてうえのみかん)」(根廻2.6m、樹高5.2m)は、紀州より献上された鉢植えの蜜柑を、徳川家康が植えたものと伝えられています。
 平成14年(2002年)3月14日、御殿自治会・御殿老人会が「あおい会館完成記念」で御殿遺跡公園に蜜柑の分身樹(子孫?)を植樹。

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案内板
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発掘調査
 右が北です。
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 黄色の線で囲まれた御殿遺跡公園は、御殿・二之宮遺跡(ごてん・にのみやいせき)の一部で、中泉陣屋(なかいずみじんや)の敷地だった場所です。
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「御陣屋跡 軍兵稲荷道」道標(どうひょう、みちしるべ)
 中泉陣屋の敷地南側には、お稲荷さんを祀(まつ)る稲荷宮(いなりみや)がありました。
その参道は、軍兵稲荷道(ぐんぺいいなりみち)と呼ばれていたようです。
「軍兵」と名付けられた理由は謎。
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案内板、道標(どうひょう、みちしるべ)
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案内板
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中泉陣屋(なかいずみじんや) 「五分壱間絵図面(ごぶんのいっけんえずめん)」
 幕末の文久2年(1862年)10月、江戸幕府第14代将軍 徳川家茂(とくがわ いえもち)の上洛(じょうらく、京都に入ること)の際に道中(どうちゅう)の宿所調べで作成された絵図です。
西側には、中泉御殿跡(なかいずみごてんあと)へ通じる東城道(ひがししろみち)があります。
東城道に面して建てられていた中泉陣屋の表門は、磐田市新島(あらしま)の個人宅へ移築されて現存。
 中泉陣屋の敷地は、外回りの総延長が約571m。
書院(しょいん)や代官に仕えた手代(てだい)衆の官舎である長屋(ながや)3棟などの建物、畑、池(泉水(せんすい))、稲荷宮(いなりみや)、稲荷門(いなりもん)がありました。
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移築された中泉陣屋(なかいずみじんや) 表門
 磐田市新島(あらしま)の個人宅へ移築され現存しています。
間口5.44m、奥行3.74m
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<中泉陣屋跡(御殿・二之宮遺跡)の出土品>
江戸時代 軒丸瓦(のきまるがわら)

 中泉陣屋の建物の軒先(のきさき)に使われた瓦。
平成4・5年度の御殿・二之宮遺跡(ごてん・にのみやいせき) 第8次調査で、中泉御殿(なかいずみごてん)の堀跡から出土。
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参考文献
・『静岡県史 資料編1 考古一』静岡県 1990年3月20日
・『静岡県史 資料編2 考古二』静岡県 1990年3月20日
・『図説 磐田市史』磐田市史編さん委員会 1995年11月1日
・『大井川町史 中巻』大井川町史編纂委員会 1991年3月31日
・『静岡県文化財地図Ⅱ ―焼津市以西―』静岡県教育委員会 1989年3月1日
・『静岡県文化財地名表Ⅱ ―焼津市以西―』静岡県教育委員会 1989年3月1日
・『磐田市誌シリーズ 第六冊 中泉代官』磐田市誌編纂委員会 1981年3月31日
・『磐田市史 資料編1 考古・古代・中世』磐田市史編さん委員会 1992年3月31日
・『御殿・二之宮遺跡 発掘調査報告Ⅰ』静岡県磐田市教育委員会 1981年3月31日
・『いわた ふるさと散歩 南部編 磐田文化財マップ』磐田市教育委員会文化財課 2003年11月25日
・文化財課企画展『磐田の城と戦国大名 ―今川から徳川へ― 』展示 磐田市教育委員会文化財課 2024年7月27日~8月25日
・磐田市埋蔵文化財センター 常設展示
・御殿遺跡公園 案内板 磐田市教育委員会文化財課 2016年8月