静岡県静岡市清水区(旧清水市)高橋(たかはし)の臨済宗妙心寺派 廣徳山 高源寺(こうげんじ)には、市指定文化財 梶原景時(かじわら かげとき)一族の供養碑と旧久能寺(鉄舟寺の前身)建物があります。

高源寺は、鎌倉時代(13世紀)に創建。

開基(かいき)は高橋孫太郎維之(たかはし まごたろう これゆき)で、承久3年(1221年)に「承久の乱」の京都攻めで軍功を立てて、鎌倉幕府よりこの地に所領を賜ったと伝えられています。

臨済宗妙心寺派 廣徳山 高源寺
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 開山(かいさん)は、鎌倉時代の武将 今川基氏(いまがわ もとうじ)の四男で、禅僧になった大喜法忻(だいき ほうきん)です。

基氏の五男 今川範国(いまがわ のりくに)は、合戦で手柄をたてた後に戦死した長男〜三男のかわりに恩賞を受けて、駿河・遠江両国の守護職になりました。

法忻の諡号(しごう)は、仏満禅師(ぶつまんぜんじ)です。

南北朝時代の正平23年9月24日(1368年11月5日)に法忻が死去しており、高源寺の開山ではなく再建した中興開山(ちゅうこうかいさん)だったのかもしれません。

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臨済宗妙心寺派 廣徳山 高源寺の地図
静岡県静岡市清水区(旧清水市)高橋2-7-4
無料駐車場あり

アクセス
・東名高速道路 清水ICより車で約5分
・国道1号線 静岡清水バイパス 清水IC西交差点より車で約5分

山門
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市指定文化財 高源寺本堂
 明治5年(1872年)、廃寺になった旧久能寺(現在の鉄舟寺)の院主坊(いんしゅぼう)の建物を移築したもので、江戸時代後期に建てられました。
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<梶原景時一族33人の死>
 平安時代末期の治承4年(1180年)におきた「石橋山の戦い」で、平氏方の大庭景親(おおば かげちか)軍に加わっていた梶原景時(かじわら かげとき)は、平氏との戦いに敗走して隠れていた源頼朝(みなもと の よりとも)を発見。
しかし景時は、「ここには誰もいない、向こうの山が怪しいぞ」と叫んで助けてやりました。

 後に源氏の武将となった景時は、頼朝に重用されました。
頼朝の異母弟である源義経(みなもと の よしつね)、源範頼(みなもと の のりより)に謀反の疑いがあると頼朝に讒言(ざんげん)して、死に追いやったといわれています。

頼朝の死後、周囲に敵の多かった景時は鎌倉幕府から追放。

 鎌倉時代前期の正治2年1月19日(1200年2月5日)、幕府を追放された武将 梶原景時(かじわら かげとき)親子が、朝廷に仕えるために(諸説あり)一族郎党で都を目指しました。

20日(1200年2月6日)の夜に富士川の急流を渡り清見ヶ関付近に来たところで、幕府より知らせを受けていた(諸説あり)当地の国侍 入江(いりえ)一族や吉川(吉香)小次郎友兼(きっかわ こじろう ともかね)、船越三郎(ふなこし さぶろう)、渋川(渋河)次郎(しぶかわ じろう)らによって次々に討ち取られました。

 景時の三男 梶原景茂(かじわら かげもち)は、友兼との激しい一騎打ちに敗れ落命。

吉川友兼も負傷して、帰宅途中に死亡。

梶原景時は、負傷した長男 梶原景季(かじわら かげすえ)、次男 梶原景高(かじわら かげたか)とともに、牛谷山(現在の梶原山)で自害しました。

これを、「梶原景時の変」(かじわらかげときのへん)と呼びます。

レリーフ、供養碑、ウナリ地蔵
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レリーフ
 彫刻家 下山昇氏による、梶原一族のレリーフ。
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市指定文化財 梶原景時一族の供養碑
 梶原一族の首がさらされた場所に建立された供養碑が、後に高源寺境内へ移されました。
中国 晩唐の詩人 杜牧(とぼく)の不盡乾坤燈外龍没(ふじんけんこんとうがいのりゅうぼっす)の一句が、石碑の正面に刻まれています。
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 左側面には、「三拾三人是也」としるされています。
中国 晩唐の詩人 杜牧(とぼく)の句を引用して、梶原一族郎党33人が龍の様だったと追悼しているそうです。
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ウナリ地蔵の伝説
 この地を訪ねた梶原景時の家臣が、主人たちの死を知って悲しみのあまり病死。
里人は塚を築いて埋葬しましたがうなり声が聞こえるので、地蔵を建てて弔ったと伝えられています。
現在の地蔵は、再建されたものです。
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参考文献
・『珠流河 第15号』静岡工業高校郷土研究部 1988年11月

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