静岡県榛原郡川根本町(旧本川根町)奥泉(おくいずみ)にある大井川鉄道 井川線 奥泉駅の駅前広場周辺は、縄文時代を中心とする下開戸遺跡(したのかいといせき、しもかいといせき)です。
縄文時代前期〜晩期(約6,000〜2,300年前)と、平安時代〜江戸時代(約800〜300年前)の遺物が見つかりました。
駅前ロータリーには縄文人の家族の像があり、竪穴式住居型の公衆トイレ・遺跡の案内板・出土品展示コーナーなどが設置されています。
下開戸遺跡(したのかいといせき)

下開戸遺跡は、昭和26年(1951年)に藤枝高校(現在の藤枝東高校)郷土研究部が発見し、奥泉遺跡として紹介。
その後、小字名から下開戸遺跡(しもかいといせき)と呼ばれ、第4次調査以降は下開戸遺跡(したのかいといせき)と改められました。
<第1次調査>
大井川流域の遺跡を調査していた、藤枝東高校郷土研究部が実施。
昭和27年(1952年)7月17〜19日に試掘。
昭和28年(1953年)7月30日〜8月3日に調査。
<第2次調査>
昭和32年(1957年)3月27日〜4月2日に、藤枝東高校郷土研究部が調査。
縄文時代後期の土器について、蜆塚遺跡(浜松市)との関連を調べるために実施。
<第3次調査>
平成5年(1993年)7月6日〜9月17日、町道奥泉中央線の工事に伴う調査を本川根町教育委員会が実施。
<第4次調査>
平成6年(1994年)6月24日〜12月29日、町道奥泉中央線開発に伴い本川根町教育委員会が全域を調査。
縄文時代前期の遺構
竪穴式住居跡(一辺約4mの方形)10軒、焼石炉(しょうせきろ)6基
縄文時代中期の遺構
竪穴式住居跡(直径約7mの円形)3軒、配石遺構2基
縄文時代後期〜晩期の遺構
竪穴式住居跡7軒、多数の墓跡、多数の配石遺構
江戸時代の遺構
多数の墓跡、建物の柱跡
寺や小鍛冶があったと考えられています。
下開戸遺跡の発掘調査の出土品・表採された遺物は、縄文土器、土製耳飾(どせいみみかざり)、土偶(どぐう)、石器(石鏃(せきぞく)、石錐(いしきり、せきすい)、石錘(せきすい)、打製石斧(だせいせきふ)、磨製石斧(ませいせきふ)、石匙(いしさじ、せきひ)、叩石(たたきいし)、磨石(すりいし)、石皿(いしざら)、スクレイパー、凹石(くぼみいし)、砥石(といし)、石棒(せきぼう)、石剣(せっけん)、石冠(せっかん)、独鈷石(どっこいし)、玉類(たまるい))、軽石(かるいし)、黒曜石(こくようせき)、骨器(骨製ヘアピン、石鏃を挟む根挟み(ねばさみ))、骨(イノシシ、シカ、カエル、トリなど)、火葬された縄文時代の人骨、陶磁器(常滑甕(とこなめがめ)、灯明皿(とうみょうざら)、擂り鉢(すりばち)など)、銭貨(せんか)、煙管(キセル)、江戸時代のふいごの羽口(はぐち)などです。
探訪は自己責任で!!
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下開戸遺跡(奥泉駅前広場)の地図
静岡県榛原郡川根本町(旧本川根町)奥泉468‐3 大井川鉄道 井川線 奥泉駅前広場
無料駐車場(9台)あり
大井川鉄道 井川線 奥泉駅
大井川右岸の一番低い河岸段丘にある駅。

駅から駅前広場(下開戸遺跡)に上る階段
駅の7m上の河岸段丘上(標高約380m)に、縄文時代の集落が営まれました。

駅前広場ロータリー(下開戸遺跡)

縄文人一家の像

弓矢と獲物のウサギを手にした父親

ウサギ

縄文犬

魚を捕まえた子供

土器と木の実を持つ母親

トイレ

案内板

発掘調査前の様子
中央の茶園が、現在の駅前ロータリーです。

発掘調査中の様子

<出土遺物>
縄文時代前期〜後期 縄文土器(深鉢形土器ほか)

縄文時代晩期 石冠(せっかん)

縄文時代晩期 石剣(せっけん)

石剣の柄(せっけんのえ)

石剣の柄に残った朱(ベンガラ)

<出土品展示コーナー>

石棒(せきぼう)

石冠(せっかん)

磨製石斧(ませいせきふ)
木を伐採(ばっさい)する斧(おの)として使用された石器です。

磨製石斧(ませいせきふ)

石匙(いしさじ、せきひ)
匙(さじ、スプーン)ではなく、携帯用の万能ナイフとして使用された石器です。

奥泉大井神社 遠景 地図
静岡県榛原郡川根本町(旧本川根町)奥泉261
奥泉駅から徒歩約5分の場所に鎮座。
赤矢印の所に、下開戸遺跡出土の石棒が庚申塔(こうしんとう)として祀られています。

庚申塔(こうしんとう)
中国から伝来した道教(どうきょう)の庚申信仰(こうしんしんこう)では、人間の体内にいる三尸虫(さんしちゅう)が、60日ごとの庚申の日の夜に寝ていると抜け出して、天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされています。
そのため、夜通し本尊を祀ったり宴会をしたりする風習があります。
室町時代(15世紀頃)に仏教と結びつき、仏教では庚申の本尊が青面金剛(しょうめんこんごう)です。
江戸時代中期(18世紀頃)より、神道(しんとう)では猿田彦(さるたひこ)が庚申の本尊として信仰されました。
中央の石仏が青面金剛で、その左側に庚申塔として祀られた石棒(せきぼう)があります。

下開戸遺跡出土の石棒(せきぼう)

奥泉大井神社 鳥居

拝殿
標高約410m
奥泉大井神社の境内周辺は、縄文時代中期(約5,500年〜4,500年前)の森ノ段遺跡(もりのだんいせき)です。
縄文土器、石鏃(せきぞく)、打製石斧(だせいせきふ)、石錘(せきすい)、頁岩(けつがん)、黒曜石(こくようせき)の剥片(はくへん)などが見つかっています。

参考文献
・『図録 第40回企画展 大井川流域の文化』島田市博物館 2006年8月
・『本川根町史 通史編1 原始・古代・中世』本川根町史編さん委員会 2003年3月
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