静岡県焼津市北浜通(きたはまどおり)の浄土宗 海光山 護信寺(かいこうざん ごしんじ)・弁天宮は、昭和10年(1935年)に移転した浄土宗 常照山 光心寺(じょうしょうざん こうしんじ)の跡地に開創。
本尊は、浄土宗寺院で一般的な阿弥陀如来(あみだにょらい)ではなく、光心寺境内の弁天堂で祀られていた弁財天坐像(べんざいてんざぞう)です。
江戸時代より、漁師が豊漁満足・海難消除の「海の守り神」として信仰してきた弁財天を、この地に残すため護信寺が開かれました。
明治時代の小説家・随筆家 小泉八雲(こいずみ やくも)は、明治30年代の夏休みを焼津に滞在。
移転前の光心寺境内に植えられていたメキシコ原産の竜舌蘭(リュウゼツラン)を1株譲り受け、東京西大久保の自宅に移植しました。
浄土宗 海光山 護信寺
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浄土宗 海光山 護信寺の地図
静岡県焼津市北浜通95-2
アクセス
・東名高速道路 焼津ICの南東
・浜通り(八雲通り)の北
参考画像
小泉八雲の肖像(焼津小泉八雲記念館)
ギリシャ出身の小説家・随筆家の小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)は、「耳なし芳一のはなし」「むじな(のっぺら坊の話)」「ろくろ首」「雪女」などの怪談話が収録されている『怪談』で有名。
明治23年(1890年)、アメリカの出版社ハーバー・マガジンの通信員として来日。
明治24年(1891年)1月に松江の士族 小泉湊の娘 小泉セツと結婚、明治29年(1896年)に日本へ帰化して小泉八雲(こいずみ やくも)を名乗りました。
明治30年(1897年)夏、水泳が得意だった八雲は列車から海が見えたので焼津駅で下車。
明治30年(1897年)・明治32〜35年(1899〜1902年)・明治37年(1904年)の夏休みを、焼津で過ごしました。
焼津を訪れた八雲は、海の近くの浜通り(八雲通り)にあった魚商人 山口乙吉(やまぐち おときち)の家の2階に滞在。
参考画像
小泉八雲が滞在した頃の浜通り界隈 ジオラマ(焼津小泉八雲記念館)
参考画像
移転した光心寺の竜舌蘭(リュウゼツラン)
山口乙吉の家の約300m北側にあった移転前の浄土宗 常照山 光心寺には、漁師がマニラから持ち帰って寄進したといわれる数十株のメキシコ原産の竜舌蘭(リュウゼツラン)がありました。
周囲に棘(とげ)のある大きな葉が、その名前の由来となっています。
八雲は光心寺から1株譲り受けて、東京西大久保の自宅に移植。
昭和10年(1935年)、荒波による浜の浸食が進んだため、光心寺は現在地(静岡県焼津市東小川)に移転。
数株の竜舌蘭が、新しい光心寺へ移植されました。
案内板
浄土宗 海光山 護信寺 本堂
昭和10年(1935年)、光心寺22世 薫誉上人(くんよしょうにん)が開創。
昭和8年(1933年)に再建された弁天堂が護信堂と名付けられていたため、護信寺となりました。
例祭日は10月3日(変更・中止の場合あり)。
鰐口(わにぐち)
本堂内陣
庚申塔(こうしんとう)
中国から伝来した道教(どうきょう)の庚申信仰(こうしんしんこう)では、人間の体内にいる三尸虫(さんしちゅう)が、60日ごとの庚申(かのえさる)の日の夜に寝ていると抜け出して、天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされています。
そのため、夜通し本尊を祀ったり宴会をしたりする風習があります。
室町時代(15世紀頃)に仏教と結びつき、仏教では庚申の本尊が青面金剛(しょうめんこんごう)です。
江戸時代中期(18世紀頃)より、神道(しんとう)では猿田彦(さるたひこ)が庚申の本尊として信仰されました。
水盤(すいばん)
狛狐(こまぎつね)?
境内社 稲荷社
参考文献
・焼津小泉八雲記念館 展示
・『焼津市の寺院』柴田芳憲 2014年2月15日
・『小泉八雲と焼津』改訂増補再販 北山宏明 1988年9月26日
・『探しにいこう!浜通り』焼津市歴史民俗資料館 2021年3月
・『まちの駅ネットワーク10周年記念 偉人を偲んでまちめぐり』 まちの駅ネットワーク 2017年6月30日
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