2017年11月21日

元号を考える◆柴盪垣瓩痢崗赦造亮叉咫廚砲弔い


11月19日付中日新聞に哲学者の内山節が「革命的にすたれる昭和」という文章を書いている。
次のような内容だ。
昭和的な雰囲気をもっているものが、これから次々に「失脚」していく時代が始まっている。
ここでいう昭和的とは、戦後の昭和といってもよいし、高度成長期とともに形成された昭和的雰囲気でもよい。
居酒屋で若い社員に企業人の心得を説教する管理職。
オレにまかせろタイプの寝技政治家。
昭和的革新勢力。昭和的雰囲気を醸し出すものへの嫌悪が広がっている。
社会はすでに昭和ではなくなっている。
終身雇用も年功型賃金も消費的豊かさも昭和的物語は過去のものである。
わたしたちの生きる世界のなかで、昭和に構築したものが生命力を失いつつある。
そういう変化とともに、昭和的な価値観や雰囲気を感じさせるものに嫌悪感を抱く人たちがふえてきた。
今日の社会では昭和的な雰囲気・価値観をもっているものが「失脚」していくとう、静かな「下からの革命」が広がっている。
以上が内山の文章の論旨である。
内山のいう「昭和の失脚」とは「元号の失脚」である。
第1に、学者・研究者が元号により社会を分析・研究していたのは昭和とともにおわり、平成以降は西暦の10年代区切りで社会を分析する視点が一般化しているのだ。
第2に、平成は1990年から2020年の30年である。
だが、「平成10年」「平成20年」とはだれも言わない。
90年代、ゼロ年代の西暦区切りが一般的だ。
第3に、庶民は慣習と惰性で「平成」を使用しているが、平成の30年を平成的な時代的感覚・雰囲気として受け止めている人はほとんどいないだろう。
もう、学者・研究者も「元号的思考」は止めたほうがよい。
「元号」はすでに「失脚」しつつあるという「下からの革命」がしずかに進行しているのだ。

  
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2017年11月20日

元号を考える 縞礎行人の元号論への批判

柄谷行人は元号について次のように書いている(『定本柄谷行人集5歴史と反復』)。
〔声・大正・昭和といった元号による区分は、ひとつの自立的な言説空間を組織し、外部との関係を忘却させてしまう。
であれば、こうした元号による区分を一切すてて西暦で考えればよいかというと、そういうわけにはいかない。
◆嵬声の文学」というものを、たんに19世紀や20世紀といった概念で語ってしまうことはできないのだ。
そこには、明治という固有名詞をとると消え失せてしまう何かがある。…
われわれが「明治的」とか「大正的」と呼ぶものは、ある歴史的な構造を象徴するかぎりでたしかに存在する。…
どの地域にもそれぞれ固有の言説空間があり、また時代区分があることはまちがいないのだ。
それは西暦で考えると失われてしまう。…
むろん西暦は不可欠である。
ただし、それはいわばメートル法のようなものであり、キリスト教的な意味を捨象したものでなければならない。それは、各地の時代区分がそれぞれの「世界」の言説空間にもとづくにすぎないことを示すかぎりにおいて不可欠である。
一方、普遍的な世界は、こうした多数の「世界」が相互に関係しあう、その諸関係の総体としてしてかありえない。
の鮖乏悗呂曚箸鵑俵萓擇蠅鬚瓩阿辰徳茲辰討い襦
区切りが事柄の意味を変えるからだ。
だが私の関心は西暦で考えられることと日本の元号で考えられることとの「視差」から、歴史の反復的な構造を見出すことである。
ァ崗赦臓伺代」という言い方が可能なのは「昭和30年代」までである。
それ以後は70年代、80年代という言い方が普通だ。
それでは柄谷の右の論を踏まえて元号について論じてみよう。
,燭靴に「明治の文学」とか「昭和の文学」、あるいは「明治的」とか「昭和的」といった時代区分で語るべき言説はあるだろう。
しかし、同じように「平成の文学」とか「平成的」という時代区分で語るべき言説があるのか。
それは明治や昭和にくらべ平成が30年しかないといった時間の問題ではない。
△弔泙蝓元号が「自立的言説空間を組織」しえたのは昭和の時代、それも昭和30年代までではないのか。「平成」以降はそのような元号による言説空間は存在しえないのではないか。
だから、「平成の文学」も「平成的」という言葉も存在しないのではないか。
昭和30年代以降は、60年代、70年代、80年代、といった西暦の時代区分が一般的である。
これは21世紀になってからも継続されている。
1970年代以降、元号による時代区分から西暦による時代区分へとシフトしてきている。
いわば西暦はメートル法同様世界標準化しつつある。
な礎がいう「多数の世界が相互に関係しあう、その諸関係の総体」をあらわすのは、元号ではなく西暦こそがふさわしい。
なるほど世界的に見ればいまでも西暦と紀年号を併用している地域・国はある。
世界で使用されている紀年号は建国・独立記念や宗教的な通年制のもで、日本の元号とは根本的に違う。
ナ礎の関心である西暦と元号の「視差」による歴史の反復構造の解明は学問的には有効なのかもしれない。
しかしそれは学問研究の領域の話であり、一般庶民には無関係だ。
柄谷自身も本書で元号支持を明確に表明しているわけではない。
あくまでも研究対象として元号に言及していると推察する。
庶民は元号を慣習と惰性で使用しているだけだ。
明日から元号がなくなっても何も困ることはない。
西暦で時代を区分していくだけである。
 
  
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2017年11月19日

北朝鮮の外貨稼ぎ=北朝鮮は国際的に孤立していない

核実験や弾道ミサイルで世界の脅威となっている北朝鮮だが、サイバー攻撃の能力は世界屈指だということを本ブログで書いた(「北朝鮮のもうひとつの脅威=サイバー攻撃」9月6日)。
北朝鮮はサイバー攻撃で世界の金融機関から多額の資金を奪い、その資金が核兵器やミサイルの開発にあてられている。
だが、北朝鮮の外貨稼ぎはサイバー攻撃だけではない。
9月19日付毎日新聞は北朝鮮のアフリカでの外貨稼ぎを特集している。
以下、同新聞より。
北朝鮮は欧州からの植民地解放闘争への支援などを通じて、アフリカ諸国との間に友好関係を確立してきた。
.淵潺咼◆畭臈領官邸、独立記念博物館、武器工場、国防省新本部などを建設。
ナミビアの独立運動に対して、北朝鮮は1960年代以降軍事訓練を実施してきた。
ナミビアは北朝鮮が独立(1990年)前からの「盟友」であることを強調。
国際的批判にさらされても「長年の友好関係はこんごも維持する」と表明している。
▲Εンダ=空軍パイロットや警察官に訓練を実施。
拳銃など小火器を輸出。ウガンダのムセベニ大統領は国連総会で、「過去に戦車部隊の設立を支援してくれた」と北朝鮮への感謝を表明する演説を行った。
アンゴラ=記念塔や平和公園などを建設。
大統領警護隊に訓練実施。
ぅ織鵐競縫◆畸和亢ミサイルや防空システムの修理や整備。
ゥ皀競鵐咫璽=携帯型防空システムや地対空ミサイルなどを輸出。
Ε灰鵐粥畭臈領廟や首相像建設、拳銃輸出、軍事訓練。
北朝鮮はその他、エチオピア・ジンバブエ・セネガルなどアフリカの15の国と貿易関係を維持している。
銅像ビジネスだけで年間数千万ドルの外貨を獲得しているとされる。
シンクタンク「安全保障研究会」(南アフリカ)が昨年発表した報告によれば、北朝鮮とアフリカ諸国の貿易額は1998〜2006年は年平均約100億円だった。
それが2007〜2015年は年平均約250億円にふくれあがった。
北朝鮮は国連が制裁にのりだす中で国際的孤立を回避し、対中国依存を減らすためアフリカとの経済協力を強化してきたとみられている。
多くのアフリカ諸国は
「すべての核保有国が核兵器を廃棄すべきであり、北朝鮮だけを責めるのは不公平だ」
という見方が一般的だという。
こうした調査や報告書から浮かび上がってくるのは、「北朝鮮が国際的に孤立している」とのイメージが現実と乖離していると毎日の記事は記している。
  
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2017年11月18日

国会の質問時間=浜教授「卑怯者の追及逃れ」と与党を指弾

国会での質問時間を「与党5野党5」にしたいと自民党が提案した。
結果的には「与党1野党2」で決着したが、これを先例にするわけではないと与野党で合意した。
与党2野党8は民主党政権時代、野党である自民党の要求で配分された。
議会は議員が政府に質問して行政監視をするところだ。
野党の質問時間が多いのは当然であり、自民党の要求は言語道断であり天に唾するものだ。
立憲の辻本議員は質問時間について「本当に嘆かわしい」と語る。
与党の要求自体、「議院内閣制における立法府の役割を理解していない」と話す。
「立法府は野党がチェックする場で、与党議員の意見を聞く場にしたら、戦前の大政翼賛会になってしまう」(11月14日付朝日新聞)。
辻本議員のいうとおりである。
この問題を舌鋒スルドク批判しているのが同志社大・浜矩子教授である。
11月18日付毎日新聞「危機の真相」は「質問時間めぐる与党画策に絶句」である。
以下、要旨を引用する。
国会での質問時間を「与党5野党5」にしたいと自民党が提案した。
菅官房長官は議席数に時間配分も応じるのは国民からすればもっともだとのべた。
国会とは何をするところだと心得ているのか。
議院内閣制の下では政府と与党は限りなく一体だ。
与党議員が政府に向かって質問するのは、形式主義的自問自答にすぎない。
しかも自民党には「事前審査」の慣習がある。
与党の議員はあらかじめ政府から政策や法案について説明を受ける機会がある。
国会の場で何をどうやり取りするのか。
そこから何が得られるのか。
「議席数に応じて」という考え方は実に不心得だ。
数の力を絶対視している。
勘違いもはなはだしい。
作為的なら極めて悪質だ。
多数を占める者たちは何をしてもいい。
どんな大きな顔をしていていい。
こんな子どもじみた論理で議会制民主主義を運営できると思っているのか。
絶句も極まる。
議院内閣制における政府・与党というものは、人間の知性に従ってより多くの質問時間を野党に使ってもらおうとするはずだ。
そのような知恵と見識が働かない者たちに、議員となる資格はない。
たとえ、野党議員がたったひとりしかいなくても、その人に10のうち8の質問時間を付与する。
それくらいの構えがなければ、議会はその機能を真っ当にはたしているとはいえない。
内輪で質疑のまねごとをして何が生まれてくるというのか。
国会の場において政府は審査対象者だ。
与党はその身内である。
審査委員を務めるのが野党の役割だ。
質問をするのは基本的に野党の任務だ。
これは国会論議の基本認識である。
「議席数に応じて」は一強のおごりにほかならない。
それでは政府・与党はなぜ野党の質問を削減したいのか。
ここまでして質問から逃げようとするのはおごりからなのか。
どんなことをきかれてもいくらでもお答えします。
そのように受けて立てないのはなぜか。
じつはそこに怯み(ひるみ)と怯え(おびえ)があるからではないのか。
これは「一強のおごり」ではない。
卑怯者がおじ気づいて、追及から逃げようとしている。
それが「議席数に応じて」の不都合な真実ではないのか。
以上か浜教授の「機器の真相」の要旨である。
浜教授は沈滞するメディア界でひとり気を吐いている。
毎日・中日新聞等の教授のアベ政権批判の快刀乱麻の記事にはいつも胸のすく思いだ。
浜教授があと5人いたら、日本も少しはかわるだろう。
ところで浜教授は来年2月、春日井市で講演する予定だ。
わたしは楽しみにしている。
  
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2017年11月13日

森本あんり『宗教国家アメリカのふしぎな論理』を読む

「富と成功」の福音と「反知性主義」がトランプ現象の背景にある。
大統領選挙ではキリスト教徒の大多数がトランプを指示した。
「富と成功」の福音の論理から、トランプは成功しているからきっと神が祝福しているに違いないという理屈になる。
トランプは反ワシントン・反ウォールストリートによるエスタブリッシュメントへの攻撃、知性と権力の結びつきに反発する反知性主義で民衆の支持を集めた。
アメリカ大統領にはしばしば「愚か者」が選ばれる。
2000年の大統領選挙ではゴアとブッシュが争った。
ゴアはハーバード大卒の秀才だが、国民が選んだのはブッシュだった。
その前は2流の俳優で政治家としては無能だと思われていたレーガンが大統領に選出された。
1952年の大統領選挙では、スティーブンソンとアイゼンハワーが争った。
スティーブンソンは祖父が副大統領を務めた名門出身で、プリンストン大卒業。
対するアイゼンハワーは名将だが、知的に凡庸で、演説も下手、政治経験ゼロ。
選挙で投票したこともない。
だが大衆は「アイ・ライク・アイク」と連呼し、彼の圧勝となった。
反知性主義はこの時の大統領選挙を背景に生まれた。
19世紀前半のジャクソン第7代大統領。
無学で地元の人々は「あの悪党が大統領になれるならだれでもなれる」といわれた。
対立候補からは「ロバ」といわれた。
ロバは「まぬけ」「とんま」の意味だ。
そのロバが今や民主党のキャラクターとなっている。
対立候補のアダムズは再選を狙う現職の大統領。
父は第2大大統領ジョン・アダムズ。
彼はハーバードの教授も務めたインテリである。
この時の大統領選挙から一般人が投票に参加出来るようになり、リバイバル集会並みの大衆動員の大掛かりな大統領選挙が行われた。
結果はジャクソンの大勝利であった。
その後ジャクソンは八面六臂の活躍で、彼の時代はのちに「ジャクソニアン・デモクラシー」と呼ばれた。
アメリカを偉大にしてきたのは人権や民主主義を普及するといった大義名分があったからだ。
大義名分があったからこそアメリカのパワーとヘゲモニーは国際的に認証されてきた。
アメリカを偉大にしてきたのは経済力や軍事力だけではない。
目的の正統性である。
ところが、トランプ大統領は正義や人権・平等といった理念を棚上げして、国内経済さえ潤えばいいという「アメリカ・ファースト」である。
そもそもなぜ彼は大統領を目ざしたのか。
大統領として何かすることよりも、選挙に勝ち自分が世界に認められることだったのではないか。
アメリカを特徴づけるのは「自由意思崇拝」すなわち「なんでもできる精神」である。
自由意思崇拝は自己責任論と直結している。
「やろうと思えば何でもできる」の裏返しは、「できないのはやる気がないからだ」となる。 
なぜアメリカはそこまで意志力を崇拝するのか。
それはアメリカが意志の発動で作られた国だからだ。
つまり国家そのものが意志の産物なのだ。
どこの国でも長い歴史を背負って国家を形成する。
だが、アメリカは歴史に足を取られることなく国家形成することができた。
アメリカでは「神の前の平等」という宗教的信念により平等主義の倫理が確立した。
その平等主義がエンジンとなって、反エリート・反権威の精神が形成されてきた。
ポピュリズムとは代議制民主主義の「影」であり、ある種の宗教である。
ポピュリズムは特定の問題について賛否を問う。
二者択一は「悪に対する善の闘争」という宗教的二元論に陥りやすい。
市政の人々もこれを歓迎する。
日常の不満をそこにぶつけることができるからだ。
かくして人々は主体的政治参加を実感することができる。
だが政治は単一主義ではなく多元主義である。
だが、部分が全体を僭称するとき、暴走して全体主義へと一歩を進める。
今日、正統性の浸食が世界的に拡散している。
人々はインターネットでいつでも政治にアクセスできる。
人々は正統である必要を感じず、「みんな違ってみんないい」のだ。
だから現代はあらゆる局面で「権威」の失墜「正統」の弱体化を招いている。
進歩・自由・人権はそれぞれ民主主義の大事な構成要素だ。
それらが単独で暴走した結果、新自由主義・ポピュリズムに変質して民主主義を蝕んでいる。
その先にあるのは理念や目的を欠いた場当たり的ポピュリズムの支配である。
会社でいえば利益だけ追求する経営である。
正統とは社会全体を支える基礎的信頼関係のことである。
人は金儲けだけで生きているのではない。
自分が社会の役に立っている意識を持つことが大事だ。
そこに「正統」の根拠がある。
正統を担う人たちが社会を変えると著者は結論している(完)。
  
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2017年11月12日

森本あんり『宗教国家アメリカのふしぎな論理』を読む

アメリカはふしぎな国だ。
国民の半分が進化論を否定している。
4割が2050年までにハルマゲドン(最終戦争)が起きて地球はなくなると思っている。
健康保険制度や銃規制にも反対だ。
デモでは「ビッグ・ガバメント ビッグ・ミステイク」のプラカードが林立する。
キリスト教がいまでもさかんだ。
トランプ大統領もキリスト教徒だ。
酒を飲まない、タバコも吸わない。
刺激物はコーヒーすら飲まない。ギャンブルもやらない。
きわめて禁欲的である(もっともヒトラーもムッソリーニも酒・煙草とは無縁だった)。
彼は敬虔なキリスト教徒で、福音の伝道者である。
福音とは「富と成功」である。
福音とは「富と成功」である。つぎの3段論法だ。
/世論気靴ぜ圓暴吠,鰺燭─悪い者には罰を与える。
∪気靴ぜ圓覆蘓世僚吠,鮗ける(成功し大金持ちになる)。
神の祝福を受けているならば正しい者だ(神は自分を認めてくれているから、自分は正しい)。
つまり、「この世の成功」と「神の祝福」はイコールで結ばれる。
成功に必要なのは機会の平等だけである。
機会の平等さえ保障されていればあとは自分の努力次第。
これが「アメリカン・ドリーム」である。
「富と成功」は「勝ち組」の論理である。
自分の「勝ち」は説明できても、「負け」を説明することはむずかしい。
若い国家アメリカには、不条理を説明する「苦難の神義論」が欠如していて、原理主義的な「幸福の神義論」しかない。
だから「勝ち組」の論理で無限に勝ち続けるしかない。
「富と成功」の福音にも落とし穴がある。
富を手に入れて、それを何のために使うのか。
経済行為は手段である。
だが、成功することが目的化したら、その次は何をするのか。
目的が見失われてしまう。
トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』で、アメリカ的宗教の特色として「宗教と現生的利益の結びつき」を指摘していた。
これはキリスト教がアメリカに土着した結果、「亜種」として生み出された教義である。
アメリカでは宗教的平等意識と富の福音は奇妙な形で結びついている。
両者を結びつけているのが「反知性主義」とい伝統である。
反知性主義とは知性を蔑視することではない。
知性と権力が結びつくことへの反発である。
アメリカの宗教的伝統としてリバイバル=信仰復興がある。
奴隷制廃止や女性の権利拡張運動、公民権運動や消費者運動に大きな影響を与えてきた。
なぜリバイバルがこうした運動の原動力となるのか。
それはリバイバルが「平等」というアメリカ的理念と結びついているからだ。
このラディカルな平等主義こそ「反知性主義」の主成分なのだ。
信仰復興とはある時期・ある地域に起こる宗教的な「集団ヒステリー」である。
信仰復興運動の担い手は各地を回って伝道する「巡回説教師」たちだ。
学歴も資格ももたず、ある日どこからか街にやってきて怪しげな説教をして、人々を興奮と熱狂に包んで街を大混乱に陥らせる。 
この信仰復興運動こそアメリカ反知性主義の原点である。
「神の前では万人は平等だ」。地上の学問や制度の権威は、神の前では平等によって吹き飛ばされる。
1776年、アメリカは史上初の世俗国家として独立した。
世俗国家とは政教分離が定められているということだ。
政教分離を定めたアメリカの目的は、宗教が宗教として栄えることだった。
つまり、各人が自由に自分の信ずる宗教を実践するための制度が政教分離である。
アメリカの政教分離は思わぬ副産物をもたらした。
お金の問題だ。
教会は自分の集めた献金で運営しなければならない。
そのため大衆迎合路線を取らざるを得なくなる。
過去の新興復興運動は大衆動員の方法やビジネス化を洗練させてきた。
集会のショービジネス化である。
アメリカは旧世界を批判して新しい国家を創立した。
「反逆者の国」「謀反の歴史」「祖国への不服従」だ。
だから、政府や権力への根深い不信「反知性主義」がある。
大方のアメリカ人は政府の必要性はしぶしぶ認めるが、最小限でなければならないと考える。
反進化論も宗教と科学の問題ではない。
反発は進化論にではなく、そのような科学を政府が家庭に押し付けてくることにある。
家庭の教育に政府が土足で踏み込んでくることへの異議の表明なのだ。
科学への反発ではなく、反知性主義による科学と権力の結びつきへの批判である。
なぜ反知性主義がアメリカで生まれたのか。
それはアメリカが民主的で平等な社会を求めたからである。
知性は一部の専門家だけのものではなく、社会全体で共有されるべきものだ。
ここに民主主義社会における反知性主義の正当な存在意義がある。(続く)

  
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2017年11月09日

憲法9条3項自衛隊明記は日本会議の発案

日本会議といえば憲法改悪を悲願として活動してきた極右グループだ。
ところがアベの9条3項自衛隊明記提案のウラには日本会議が蠢動していたという。
二階堂友紀・朝日新聞記者「日本会議、その飽くなき現実主義」(『世界』12月号)がその舞台裏を報告している。
以下参照。
衆院選から3日後の10月25日、東京海運クラブで日本会議主催の憲法集会が開催された。
衛藤首相補佐官はあいさつで、
「われわれは本当についている。
天の時を与えられた」
と訴えると、700人が参集した会場は大きな拍手にわいた。
日本会議の椛島事務総長や衛藤補佐官らは、1960年代「生長の家」で全共闘に対抗する学生運動をしていた。
それ以降彼らは一貫して憲法改正・新憲法制定を目標としてきた。
彼らにとってアベの衆院解散は悪夢以外の何ものでもなかった。
衆参で改憲勢力は3分の2。
これほどの「天の時」はこの後訪れないだろう。
いま解散すれば必ず3分の2を失う。
それがわかっていながら首相は解散するはずがない。
彼らの改憲構想では、あとは国会発議をのこすのみであった。
そして、きたるべき国民投票に向けてアクセルを踏み込む。
2018年には衆院選と国民投票のダブルで改憲を実現すると。
戦後70年間、改憲できずにきた彼らには根強い悲観主義がある。
だからこそ改憲のためにはあらゆる譲歩を厭わない。
その飽くなき現実主義がアベの現実主義と重なる。
それが9条に自衛隊を明記する案に表れている。
今年5月1日、アベは
「新憲法制定議員同盟」の大会あいさつで「政治は結果だ」といい、
「憲法改正は柔軟性をもって現実的な議論を行う必要がある」と言った。
2日後、日本会議の改憲集会でアベはビデオメッセージをよせ、9条に自衛隊を明記する案を提案した。
予兆は昨年夏の参院選後からあった。
作年7月末、アベのブレーンと言われる伊藤哲夫・日本政策センター代表が、9条に自衛隊の存在を書き込む提案をした。
また、西岡力・麗沢大学客員教授も8月16日付産経新聞に9条3項に自衛隊明記すべきだと書いている。
このころから1部改憲派には9条自衛隊明記案が広がっていく。
さらに昨年9月伊藤は、日本政策センター機関紙「明日への選択」に「3分の2獲得後の改憲戦略」を発表。
そこで「改憲派まず加憲から」と次のように書いている。
「現行の憲法を否定せず、それを補う、という形をとることで、憲法の平和、人権、民主主義の基礎を一層確かなものにする」。
「こうすれば反対派の大義名分は失われるし、その説得力も目に見えて落ちる…
それだけではない。公明党との協議も進みやすくなるし、場合によっては護憲派から現実派を誘いだせる」。
衛藤や伊東は昨夏の参院選中から改憲戦略を練っていたとされる。
そこで浮上してきたのが西岡の9条3項に自衛隊明記の案である。
この提案はアベにも届けられた。
今年2月に開催された神道政治連盟の会議で伊藤が講演した。
改憲運動の担い手となる神職らを相手に、9条への自衛隊明記案が語られたという。
そうした根回しの上で今年5月のアベのビデオメッセージとなった。
「100点満点の憲法改正は不可能だ。70点でいい。
ここというところ以外はゆずらないと、改憲は実現できない」
と日本会議のメンバーは語る。
9条への自衛隊明記が現実論として浮上したのは、昨年12月の毎日新聞の調査も影響している。
調査では9条1項を改正すべきでないは52%だった。
ところが2項への自衛隊明記賛成が36%、国防軍の明記賛成が17%で、計53%が改正に賛成したのだ。この調査結果で彼らに9条改定は不可能だとの固定観念を払拭した。
今回の衆院選を日本会議では「天啓」だとし、「これで改正できなければ、もう2度とできないだろう」という。
彼らが望んでいた衆院選と国民投票のダブルの可能性はなくなった。
参院選とのダブルでは国民投票後押しのエンジンとしては弱い。
単独の国民投票となればきびしい結果が予想される。
それでも彼らは「国民投票を命がけで闘う」と決意している。
以上が二階堂記者の報告であるが、なぜ自民党が従来の改憲案を捨てて、9条3項自衛隊明記案をだしてきたかがよくわかる。
改憲は彼らにとって「命がけ」なのだ。
  
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2017年11月08日

「明治150年記念」で暗い歴史の抹殺を企む安倍政権

アベ政権は2018年、「明治150年」を記念する各種行事の開催を目論んでいる。
その一環として来年秋の福井国体を「明治150年記念」大会とすることを決定した。
以下、11月8日付朝日新聞より。
昨年10月、菅官房長官は記者会見で次のように発言した。
「明治150年はわが国にとって一つの大きな節目。
明治の精神に学び、日本の強みを再認識することはきわめて重要だ」
こうして国が行う行事に「明治150年記念」の冠をつける方針が打ち出された。
これを受けて今年7月、スポーツ庁が福井県に国体を「明治150年記念」とするよう依頼した。
福井県では1968年にも国体が開かれ、「明治百年記念」とした実績があったからだ。
しかし、市民からは疑問の声があがった。
県高教組など7団体は、
「明治は当初から対外膨張的な志向を強く持った時代であり、それがアジア太平洋戦争の惨禍に結びついた」と反対を申し入れた。
県の実行委員会でも
「明治は戦争を思い起こさせる」
「スポーツと明治は関係ない」
などの反対意見が出たが、賛成多数で承認された。
国体に冠称のついた事例は1973年沖縄国体の「(本土)復帰記念」、2009年新潟国体の「天皇陛下御在位20年記念」、2011年〜15年「東日本大震災復興支援」、2016年岩手国体「東日本大震災復興の架け橋」などがある。
国体は戦後日本社会のスポーツの祭典として創設された。
明治を冠すると戦後のシンボルとしての国体の意味が吹き飛ぶ。
「戦後〇〇周年」として戦後のシンボルとしての歴史を示すべきだと坂上康博・一橋大教授はコメントしている。
1968年、当時の佐藤自民党政権は「明治百年記念行事」を大々的に挙行した。
記念行事は国体だけでなく、農工商から芸術・芸能などあらゆる分野におよんだ。
さらに、青年の船で2回東南アジアを歴訪、明治百年記念切手、記念葉書、記念たばこ、百歳以上の高齢者に銀杯が配られたりした。
日本武道館で行われた「明治百年記念式典」には、内外から1万人以上の参列者が参加して盛大に実施された。
公募で「明治百年頌歌」が作られた。
頌歌「のぞみあらたに」は次のような歌詞である。
1 光あり 誇りあり ここに百年/ふりかえる 明治のあゆみ/この国の いやます栄え/うけつぎて さらに進まん/われらわれら のぞみあらたに
2 響きあり 応えあり ここに百年/たくましき 明治の力/たたえつつ 試練をかさね/大いなる 道を拓かん/われらわれら つねに励みて
3 稔りあり 泉あり ここに百年/豊かなる 明治の心/ことほぎて 香りをうつし/よろこびを ともにうたわん/われらわれら 空を仰ぎて
「明治のあゆみ」「明治の力」「明治の心」と、すべて明治が歌われて、大正・昭和は完全にネグレクトされている。
これは「明治の歌」であっても「明治百年の歌」などではない。
明治になってから1945年までの87年間は戦争につぐ戦争の時代であった。
台湾出兵・江華島事件・日清戦争・日露戦争・義和団事件・第1次世界大戦・シベリア出兵・山東出兵・満州事変・日中全面戦争・第2次世界大戦…
そして国土を焼土戸化して敗戦。
梅田正巳は「明治百年祭」について、
「明治をたたえる一方で、暗い歴史を忘れてしまいたい、忘れてしまおう、いや無かったことにしよう、というのがこの国家的イベントをつらぬく思想的基調だった」
と書いている(『日本ナショナリズムの歴史検戞法
これはアベ政権が実施しようとしている「明治150年記念」行事にもいえるだろう。
明治150年の歴史の光と影、その影の歴史を抹殺して、光のところだけをつまみ食いし、政権の威信を高めようという目論みなのだ。

  
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2017年10月30日

佐藤優『民族問題』を読む

なぜ民族問題か。
理由は2つあると著者はいう。
第1にグローバル化。
グローバル化の進展で、移民や難民、テロの拡散、労働者間の国際競争などが、いままでよりケタ違いの規模で生じている。
それは様々な形で民族意識をはげしく刺激している。
第2に日本人にとって民族とは何か、非常に分かりにくい問題だからだ。
それは数において日本人が大民族だからである。
そのため民族問題が「見えない問題」となる。
日本人の大多数は民族問題への感度が低いため、国際問題を理解する際、ピントが甘くなってしまう。
歴史的には民族という概念は250年ぐらい前に出現している。
そして、民族は現代でも新しく生まれたり解体したりしている。
そこに民族問題の難しさがある。
たとえば、沖縄で起きているのは単に米軍基地をめぐる問題ではない。
民族意識をめぐる亀裂の深まりである。
今の状態が放置されれば、沖縄人は自分たちは独自の民族だという意識を持つ可能性がある。
そうなると、日本は深刻な国家統治の危機に見舞われる。
それでは何が民族意識の根拠となるのか。
2つの考え方がある。
第1に「原初主義」。
言語・人種・地域・宗教・文化…。
そういったものを共有するのが民族だという考え方だ。
第2に「道具主義」。
民族というのは作られたものだという考え方だ。
ベネディクト・アンダーソンは国民や民族は「想像の共同体」=フィクションだと定義した。
原初主義の民族理論で最も大きな影響を与えたのがスターリン民族理論である。
スターリンは民族運動のエネルギーを革命に利用しようとした。
スターリン民族理論では民族とは、「言語、地域、経済生活、および文化の共通性」を基礎として「歴史的に構成された人々の堅固な共同体」と定義される。
スターリンは民族的共同体を「民族」「亜民族」「種族」に分類した。
民族は共和国として国家を持つことができ、ソ連邦離脱も許される。
亜民族は自治共和国を持つことができ、独自の憲法を持つがソ連離脱はできない。
種族は自治州で自分たちの言語を使用できるが、憲法を持つことはできないとされた。
スターリンは民族を3段階にヒエラルキー化し、固定化させようとした。
しかし、民族はきわめて流動的である。
そのダイナミズムをスターリンは理解しようとしなかった。
アンダーソンは『想像の共同体』で、「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治的共同体である」と定義している。
そして「想像の共同体」とは「文化的人造物」=フィクションだとのべる。
それでは民族を形成するカギは何か。
アンダーソンはナショナリズムを形成するのは出版資本主義─新聞・小説─だとする。
新聞がどんな言語で書かれているか、何をニュースとしているか、それが人々に共有されていることが重要なのだ。
19世紀以降、支配層が統治目的のために支配の道具として民族意識・ナショナリズムを利用した。
だからアンダーソンの理論は、「支配者の都合で政治的に民族は作られる」と理解されやすい。
だが、いくら政治的・人工的に民族を作ろうとしても民族は生まれない。
余談だが、ナポレオンはヨーロッパの大学を全部変えようとした。
大学から文化系教育をなくし、実用的に理科系教育だけを中心にしようとして、フランスでは大学を総合技術専門学校化する文教令をだした。
役に立たない文学・哲学・神学はやめて、実学で経済・軍事に強い国家にする。
これが大学の仕事だというのだ。
当時のドイツでも、ナポレオンのやり方を真似すれば、自分たちも強くなるはずだというので、人文系の学問はやらないで、理科系教育に特化する動きがでた。
これはまさにいまの日本政府の大学改革論と同じ論理である。
  
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2017年10月29日

大竹文雄『競争社会の歩き方』を読む

日本ではトップ1%の所得占有率は、第2次世界大戦前20%弱の水準であった。
それが大戦で急減し、戦後は7〜8%で推移してきた。
2000年代になって上昇し9%程度になっている。トップ10%でみると、戦後30%だったものが40%まで上昇している。
トップ0・1%の所得占有率はどうか。
戦前の日本は8%前後であったが、大戦中に下落し、戦後は2%程度で推移してきた。
2000年代なって上昇しているがまだ3%を超えていない。
アメリカはトップ01の%所得占有率は9%、1%は20%、10%は48%を占めている。
ではトップ1%とか10%とは、どの程度の年収を指すのか。
日本だと2012年で上位10%は年収580万円以上、上位5%が年収750万円以上、上位1%が年収1270万円以上である。
アメリカではトップ10%は年収1200万円以上、1%は年収4000万円以上、0・1%は年収3・8億円程度である。
日本のジニ係数(不平等度指標)は戦後低下を続け、1970年ごろ底を打った後、上昇に転じた。
その後、2000年代になってその上昇スピードが低下してきている。
1970年代以降のジニ係数の上昇の多くは高齢化で説明できる。
日本では年齢階層の所得格差が若年層では小さく、高齢層で大きいため、高齢化の進行とともに所得格差も高まる。
2000年代に入って所得格差上昇のペースが弱まったのは、高齢者の所得格差が縮小したのに対し、若年層の所得格差が拡大しているのが原因だ。
若年層で非正規労働者が増えたことが大きい。
アメリカでは格差問題はトップ1%所得層問題であるが、日本では580万円以上の人たちとそれ以下の人たちの所得格差の拡大である。
したがって日本の貧困率の拡大を止めるには、少数の金持ちへの課税を高めるだけでは十分ではない。
トップ10%の正社員の税負担を増やすことが不可欠である。
格差の世代間相関を見てみよう。
現在のエリート層に旧士族・旧華族の珍しい苗字が、普通の苗字の出現率より高いか否かの調査がある。
一般家庭だと親子の所得の相関係数は0・3〜0・4であり、親孫の相関係数は0・09と1割以下となる。
曾孫・玄孫だとほとんど関係なくなる。
つまり明治から現代までの間に旧士族・旧華族のエリート層の出現率は一般の名前の出現率に近づいていくはずだ。
しかし、医師では旧士族は一般の名前の5倍、旧華族は3倍である。
この数値から親子の相関関係を計算すると、旧士族で0・8、旧華族で0・6と高い相関がのこっている。
流動性が高く、平等社会であると思われていた日本は、以外にも明治時代の格差をいまだに残している。
われわれは再分配政策の重要性を再認識しなければならない。
人口が減れば1人1人が豊かになるというのは経済学の基本的命題だ。
今後イノベーションが生じれは十分豊かになれる。そのためには教育に投資してイノベーションが生じやすい社会にする必要がある。
教育投資で将来豊かになれるということが共通認識になれば、そのための税負担への抵抗もなくなるだろう。
若者への投資だけではなく、高齢者が活躍できる仕組み作りも必要だ。
そのひとつが定年制の見直しだ。
アメリカでは1967年に年齢差別禁止法が成立した。
定年制廃止で高齢者の雇用が確保され、社会の生産性が高まり、医療も社会保障も改善されるだろう。
人口知能の発達で人の仕事が奪われるのではないかと危惧されている。
人工知能の発達で人の仕事はなくなるのか。
多くの経済学者はこれについては楽観的だ。
「人間は馬ではない」という。
馬はトラクターの導入によって仕事を奪われたが、人間は人工知能の発達で今の仕事を奪われても、自ら仕事を創りだすことができる。
どんな仕事がより価値が高いかは、人間自身が決めることである。
その時代の高い価値を見出す仕事は私たちに移っていくはずだ。
もし、どんな仕事でも人工知能の方が優れているなら、人工知能に仕事をまかせて余暇を楽しむ側になればいい。
問題はどうやって所得を分配するかだけである。
また生産性が高まれば、人口減少の続く日本社会では人手不足解消となる。
必要なのはイノベーションを促進するための環境作りである。
イノベーションを起こせるように、高齢者でも教育訓練をする。
女性や外国人の職場参加を促進する。
著者は本書で日本社会のバラ色の未来を描いているが、はなはだ疑問点も多い。
だが、これが現在の良心的経済学者の集約的見解であろう。(完)

  
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