2019年09月15日

天皇制批判=篠田博之『皇室タブー』

「戦後最大のタブー」といわれる皇室タブー。
主に1980年代以降の皇室タブー問題を網羅した本である。
/実七郎「風流務譚」事件。
1960年12月号『中央公論』に発表された。
1961年、中央公論社長宅に右翼少年が乱入し、社長夫人が重傷、家政婦が刺殺された。
このテロ事件は言論・出版界に大きな衝撃を与えた。
大江健三郎「政治少年死す」。
1961年2月号『文学界』に発表された作品。
1960年の浅沼稲次郎暗殺をモデルにした小説だが、右翼団体の激しい抗議で長い間書籍化が封印されてきた。
『噂の真相』「皇室ポルノ事件」。
1980年、同誌がエロ写真に天皇の顔をすげ替えた写真を掲載。
右翼が印刷所に押しかけて印刷を断念させた。
編集長の岡留安則が右翼と話をつけ、同誌に「臣・岡留安則」の署名で皇室にお詫びを掲載した。
ざ融浬院屮僖襯船競鹽狙癲廖
1983年に『文藝』に掲載された東アジア反日武装戦線の「天皇暗殺計画」をモチーフにした小説。
河出書房新社より出版予定だったが、右翼団体の攻撃で出版中止に追い込まれた。
ァ惱鬼新潮』「天皇写真事件」。
1985年11月28日号表紙の昭和天皇の写真に、隣の見出し文字がわずかにかぶさり、右翼が「陛下の尊厳を損なう」と抗議。
Α愎兄┿錚悄拿鰻盪件。
1984年8月号に東郷健の「天皇がマッカーサーにカマを掘られる」イラストが掲載。
右翼が事務所を襲撃し室内を破壊するなど連日抗議行動を行う。東郷健も暴行され、骨折等の重傷負う。
А悒撻鵐肇魯Ε后找鷦事件。
1985年10月号に皇太子と噂の女性の写真が掲載された。
右翼が「エロ・グロ雑誌に皇室を扱うとは何事か」と抗議。
雑誌が回収。
天皇コラージュ事件。
1986年富山県で開催された美術展に、大浦信行の版画作品「遠近を抱えて」の天皇コラージュ作品が展示された。
右翼団体が全国から52台の街宣車で結集し、作品の焼却・館長処分等を猛攻撃。
その後美術館側は大浦作品を売却し、図録を焼却処分。
それに対し大浦さん側が損害賠償を求める訴訟をおこした。
2000年12月の最高裁判決で原告敗訴。
『創』Xデー記事事件。
『創』1988年2月号がメディアの「Xデー対策マニュアル」を掲載。
右翼が「陛下が病気と闘っている時に不敬だ」と8台の街宣車で抗議行動。
広告スポンサーへも圧力。
翌月号に謝罪文掲載。
『女性自身』回収事件。
1988年10月11日号に昭和天皇の写真が裏焼きで掲載され、発売中止となり全面回収された。
昭和天皇はその年の9月に闘病生活に入っていた。
子写真の裏焼きで着物の前あわせが左前になることは、死に装束といわれて不吉だとされた。
『SPA』発売中止事件。
1989年1月7日号猪瀬直樹のコラム「ニューズの冒険」にトンデモナイ誤植があった。
大正天皇が大正洗脳になっていて、発売中止。
『女性セブン』刷り直し事件。
2004年12月9日号に、「皇太子」が「皇大子」と誤植されていた。
そのため55万部刷り直しをした。
『週刊実話』回収事件。
1993年6月24日号に掲載された皇太子御成婚パレードの記事中、人目をはばかる「皇室イラスト」が掲載され、40万部回収された。
『SPA』「ゴーマニズム宣言」差替え事件」。
1993年6月30日号の小林よしのり「ゴーマニズム宣言」で、雅子妃が「天皇制反対」を叫んで爆弾を投げたギャグが掲載され、「ゴーマニズム宣言」8Pが差し替えられた。 
篠田はタブーと言われる事件の大半が、メデイァの自己規制によるものだったとしている。
通常なら単純ミスとして翌号の訂正ですまされることが、皇室関連となるとこ絶版回収という大事に至った。
そして問題なのは自己規制が行き過ぎて、過剰反応と言える事例も多かったとしている。(続く)
  
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2019年09月14日

天皇制批判◆疆鎮耆幸「明仁天皇への公開書簡」

「週刊金曜日」8月9・16日号に、田中利幸の明仁天皇への公開書簡が掲載されたので紹介しておく。
憲法14条は「法の下の平等」を規定している。
ところが皇統典範1条は、皇位は男系の男子が継承すると、女性を差別している。
さらに憲法2条で天皇の地位は「世襲」とされ、憲法14条のいう「門地=家柄」による差別となっている。
また、「日本国民統合の象徴」とは、日本人以外の外国人を差別するイデオロギーとなる。
現在問題となっているヘイト・スピーチは、天皇の存在が国民の無意識の感情レベルまで広く深く影響していることと密接に関連している。
天皇が象徴としての役割をいかに真摯に努めても、
天皇の存在が差別と違憲行為の元凶である。
天皇は差別の元凶であると同時に、天皇自身が差別の被害者でもる。
天皇としての存在は、基本的人権を完全に否定された奴隷と同じなのだ。
そして、「奴隷である」という点こそ、天皇が政治的に利用される危険性の重大な要因がある。
平成天皇の慰霊の旅には深刻な問題がある。
2015年のパラオ島とペリリュー島への出発の前、餓死・病死した無数の兵士たちを「祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった」という美辞麗句で表現した。
しかし、あの戦争は本当に「祖国を守る」戦争だったのか。
とりわけその責任はだれにあったのか。
一切が不問にされている。
「帰らぬ身となった」ものたちは「犬死」したのだ。
彼らの死は「悲惨、無意味」な「難死」(小田実)以外のなにものでもなかった。
「戦争犠牲者のうえに戦後の日本の繁栄がある」という天皇や政治家の言葉は詭弁にすぎない。
彼らの「難死」は戦後の「繁栄」とはなんら関係のない、悔しい「犬死」以外のなにものでもなかった。
昭和天皇の命令で310万人の日本人と数千万人のアジア太平洋の人たちが命をなくした。
その責任をうやむやにしたままの「慰霊の旅」は、天皇の責任を曖昧にすることで国家の責任をも曖昧にしている。
つまり「慰霊の旅」は、天皇と日本政府の「無責任」を隠蔽するパフォーマンスに終わっている。
さらに「慰霊の旅」は日本人の「戦争被害者意識」を常に強化する働きをしている。
日本人の「加害者意識の欠落」を正し、戦争被害を加害と被害の複合的観点から見ることによって、戦争の実相と国家責任の重大さを認識できるような方向へとつながっていない。
その結果、「日本人は戦争被害者でこそあれ加害者ではない」という国家価値観がつくりあげられて、それが国民の間に広く強固に共有されている。
それだけでなく、「徴用工」や「軍性奴隷」のような戦争被害者に目を向けないという排他性が、日本人の他民族差別と狭隘な愛国心という価値観を生みだし続けている。
そのため戦後73年たついまも、海外諸国と真に平和的国際関係を築けないという根本的原因となっている。そのような価値観を共有することが国民の知らないうちに強制されていくという、「国家価値規範強制機能」を天皇の「象徴権威」はもっているのだ。
「天皇の象徴活動」には、このように実際には「国家正当化」というきわめて政治的な意味が強くかつ深く内在している。
それは、天皇の象徴権威を巧みに利用したい権力者にとっては、きわめて都合のよい政治機能である。
民主主義とは根本的に矛盾する天皇制という制度、侵略戦争を推進した制度、そうした反民主主義的な制度を、日本国憲法は「脱政治化」「民主化」して憲法1条に規定した、というのが一般的に認識である。
しかし、数千万人という人命を奪った責任を天皇家のだれもとらず、天皇の存在そのものが憲法で保障された国民の基本的人権や平等に抵触し、天皇が国事行為の憲法規定を堂々と破ることを国民が正当化してしまうだけでなく、国民に広く受け入れさせてしまうような「天皇イデオロギー」が、強く、深く、広く日本社会に浸透している。
天皇制が存続するかぎり日本に「民主主義」は根づかない、と田中利幸は論じている。
最近出版された彼の『検証・戦後民主主義』は、すばらしい本でおすすめである。
  
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2019年09月08日

第7回近現代史研究会=豊下楢彦『安保条約の成立』

以下は、2019年9月5日に実施した第7回近現代史研究会、豊下楢彦『安保条約の成立』のレポートです。

■マッカーサー
〜甦講和論(1947.3)=米軍の撤退、日本の安全は国連管理下におく
→1948年の米大統領選出馬のため
第4回天皇・マッカーサー会談(1947.5)
・天皇=日本の安全は国連に頼れないと、米軍による日本の安全保障要求
・マッカーサー=9条による安全保障主張 
※共産主義の脅威を前に日本の安全保障をどうするか根本的見解の相違
B10回天皇・マッカーサー会談(1950.4)=講和後の米軍駐留ですれ違い。
1950.5「日本は極東のスイスたれ」と日本の非武装中立論
=9条は最も気高い道徳的理想に基づく条項
げ縄に米軍基地をおけば、本土に米軍駐留する必要はない
→のちに日本本土基地化容認に方針転換

■昭和天皇 ・第1の危機=天皇制廃止と戦犯訴追(1945〜1947) 
・第2の危機=共産主義の脅威(1947〜1951)
‥傾弔梁2の危機=共産主義の脅威
⇒共産党の天皇制打倒、占領軍が引きあげるとソ連が侵略と危惧
天皇の沖縄メッセージ(1947.9)
=日本に主権残し米国に沖縄の長期占領(25年ないし50年、それ以上)希望
米軍の沖縄占領で、ソ連による直接・関節の侵略を防げる〈沖縄メッセージは沖縄を捨て石にする戦略〉
E傾張瓮奪察璽検瓮瀬譽垢悄峺頭メッセージ」(50.6)と「「文書メッセージ」(50.8)
マッカーサーをパスして米国
・講和問題に介入し、日米の新たなチャンネルの設置を提案
・吉田首相には講和条約をまかせられないとの立場を鮮明にする
→国会・内閣無視の2重外交・秘密外交

■吉田首相
々餡馘弁(1950.7)で、米軍に基地は提供しない。→米政府にショック
外国軍隊の駐留には反対→朝鮮戦争での国連軍方式で、日本の安全保障確保できる
5氾勅鸛蠅離瀬屮襦Ε轡哀淵襤裕氾弔魯瀬屮襦Ε轡哀淵襪粘霖魯ード使う意図
・池田蔵相を米国派遣(1950.4)→講和条約後に米軍駐留を日本から要望する
=池田ミッションは天皇メッセージ
・白洲次郎を米国に派遣→米軍基地に対し否定的見解伝える。

■日米外交交渉の外務省案〈A・B・C・D案〉
。塑邏函畊駭△砲茲詁本の安全保障確保。国連決議に基づき米軍が日本防衛。
・駐留の期間・地点・経費・特権等、合理的かつ明確に規定。
期間=短い期間で更新、地点=中心部から遠くに、経費
=原則米側負担、特権=国際法の範囲、沖縄返還要求
・再軍備の否定⇒米国の全土基地化・基地自由使用への「アンチ・テーゼ」
・客観情勢が日本有利、米国不利
=国内の反米運動、朝鮮戦争で日本の戦略的地位向上、冷戦で日本を西側陣営
■炭邏函疊麌霑中立案「北太平洋6か国条約案」
・日・韓・中・米・英・ソを締約国とし、日本と韓国を非武装化
・南北は台湾・フィリピン境界の北緯20度から北極まで、
東西は海南島の東経110度からベーリング海峡まで、
「軍備制限地帯」とし、陸海軍の現状維持と、「一切の爆撃機を常駐させない」
・憲法9条により非武装地帯を日本の隣国に拡大し、
その周辺に軍備制限地帯を設置する構想で論理的有効
C作業を交渉のカードとして提案予定
=日本の「中立主義」のカードとして重大な政治的意味もつ
な涜Δ箸慮鮠陳樵阿烹炭邏畔棄
→交渉前に「米軍の駐留を希望する」と基地提供のカードを放棄

■日米交渉に向けてのダレスと米側
‘本に望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を獲得
=全土基地化と基地自由使用
提案を受け入れさせるのは困難=占領継続であり植民地化。日本の主権侵害
D鮮戦争で米側は日本側に代価を払い譲歩を余儀なくさせられる弱い立場と認識
→日本側もその点を認識

■天皇外交と吉田外交
ゝ氾弔錬炭邏箸離ードや、基地提供のカードなど、交渉のカードに使おうとした
天皇は吉田に、交渉で基地カードを使用しないこと、
日本側から基地を希望することを命令したのではないか
E傾弔砲箸辰洞産主義から天皇制を守るためには、米軍駐留が絶対条件。
づ傾帖Ε瀬譽慌饕(1951.2)
・ダレスの米軍駐留は日本が再軍備果たすまで、日本の要請に応えて米軍が施す恩恵と説明
・天皇は「全面的な同意」を表明→国会・内閣でも議論されず、国民はその存在さえ知らないのに天皇同意
ヅ傾帖⊂鯡鹹完後、安保条約の成立を絶賛。安保条約は天皇の圧力とダレスにより締結された
ε傾弔砲箸辰董天皇制を防衛する安保こそが戦後の新たな「国体」=「安保国体の成立」

■昭和天皇の戦後責任=戦後日本をダメにした極悪人
_縄の問題
天皇制守るために「安保国体」を死守
戦後の一貫した〔対米従属=属国〕路線をしく
し法破壊=象徴天皇を逸脱した天皇外交・密室政治展開
ヌ祇嫻す餡函疇本の「象徴」

‐赦妥傾弔旅堝宛桐
・「伊勢と熱田の神器は自分の身近に移して守り…万一の場合運命を共にする外ない」
(1945.7.31木戸幸一に)
・「三種の神器」=皇統を守ることが最大の使命。戦後は米軍によって天皇制を防衛する「安保国体」に邁進
共産主義への怯え
・1945年8月8日のソ連対日参戦で「終戦」を決意
・朝鮮戦争でアメリカが負ければ、天皇以下側近は首切りにあうとおびえていた
・1952年リッジウェイとの対話で、朝鮮半島で米軍は原爆を使用する考えはあるかと質問
・昭和天皇は死を覚悟するほど「第3次世界大戦の可能性」に恐怖していた
・明仁皇太子、友人からアフガニスタンでン革命が起き王様が処刑されたときき怯えた
・1971年革新知事が誕生すると(東京・大阪・横浜)、「政変はあるのか」と卜部侍従にきく
F米安保死守
・1953年朝鮮戦争休戦を前に=日本から米軍撤退の声が高まるだろうが、
日本の安全に米軍駐留は絶対必要
・1955年重光外相が安保改定で訪米前に米軍撤退案を内奏すると「米軍撤退はまかりならん」と叱責
・1973年増原防衛庁長官に、自衛隊はそんな大きいとは思えない。なぜ国会で問題になっているのか
 

  
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2019年09月07日

世界は多様でオモシロい

団地で行っている「談笑カフェ 風(るん)」の会報第34号です。
       
西江雅之。
言語の研究で世界各地を探訪してきた文化人類学者。
2012年『新潮45』11月号でたけしと対談している。
これがめっぽう面白い。以下は対談で西江が話した内容である。
〇動物好きの人間には三種類ある。
ペットを飼う人。
動物を観察・研究する人。
そして動物になろうとする人。
少年時代から動物になって彼らが生きている世界を知りたかった。
〇テレビ局から「世界中で指の動作にはいろんな意味があるだろうから、それをテレビで紹介してくれ」と頼まれたが断った。
なぜなら、指でどんな形を示しても、どこかの国に行けばとても放映できない卑猥な意味を必ず持つから。
〇第2次世界大戦中、イタリア軍の将校が連合軍に捕まった。
3日後に解放されたが、味方にあれだけ拷問を受けたのに何も言わなかったと称賛された。
しかし彼いわく。
「何か言おうと思ったのだが、椅子にしばられているんで、両腕が自由に使えず、何も言えなかった」
〇陸軍中野学校でスパイの訓練を受けた軍人が中国の田舎で捕まった。
中国軍がいろいろ尋問しても動作から何からすべて田舎の人のままで、やはりこの人は日本人ではなく中国人だと思った。
そこで尋問をあきらめておしぼりをだしたら、途端に日本人だとばれてしまった。
なぜならその地域では、おしぼりで顔を拭くときは、手を動かさず、顔を動かすというのだ。
そこまでスパイ学校では習っていなかった。
〇タイやアフリカの広い地域では、子どもの頭をなでてはいけない。
頭をなでるのは自分の奴隷にしたというか、支配下に置いたという意味になってしまう。
〇ある地域ではお互いにチンポコを握ってあいさつする。
男同士が握るのならまだわかるが、お母さんが息子と出会ったときも握る。  
自分の息子の息子を握るわけだから、「孫」を握っていることになる。
〇何が恥ずかしいかは文化によって異なる。
日本の女性は性器を隠すが、欧米人の女性なら胸を隠す。
カラハリ砂漠の一部の女たちは、男をからかう時、後ろ向きになって腰をかがめて、あそこを開いて見せる。
何が恥ずかしいか、体のどこが恥ずかしいかは文化によって違うから、ある地域の下ネタが別の地域では下ネタにならない。
〇ウガンダのある部族は全裸なので、政府がパンツぐらい穿けと指導するがだれも恥ずかしくてできなかった。
ある時期から衣服を着るようになるが、それでも下だけは恥ずかしくて穿けないので、上半身だけ着て下半身は丸出し。
〇ニューギニアの一部の地域では、人間にとって一番大切なのは体液。
つまり血液と精液。 
そうした地域では売春は成り立たない。
精液をあげてお金を出すなんて馬鹿なことはありえない。
〇同じくニューギニアのある地域では、子育ては母乳だが、男の子はそれだけでは男にならない。
そのためには母乳だけではダメで、生後しばらくしてからペニスから精液を吸う。
男性の体液をもらわない子は男になれない。
さて、こうした地域が今でもどれだけのこっているかは疑問だが、西江は文化とは不条理なものだという。
そして、人類の生活は多様なバリエーションがある。
そのバリエーションが文化だとしたら、人類が一つの生き方になるということは、人類から文化が消えるということになる。
同じ価値観にとらわれ、同じような生涯を送る。
人間は数百万年かけて多様な文化を作り上げたあげく、急速に全員同じというワンパターン動物になろうとしているのではないかと危惧する。
異能の文化人類学者・西江雅之は2015年、77歳で亡くなった。
(西江の本は何冊か読んできたが、こんなオモシロい話はなかったと思う。
かつて書いた文書だが、追悼文の意味もこめて再掲載した。)

  
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2019年08月30日

天皇制批判 甞田哲哉「革命運動の精神2」より

福沢諭吉は『帝室論』で、天皇をバカな国民をたぶらかすダマシの政治的装置と表現した。
8月30日付「週刊読書人」掲載の鎌田哲哉「革命運動の精神2」は、近年の天皇制論を痛打する論文である。以下の内容だ。
「平成」から「令和」への改元で、「元号中心のものの見方」「天皇中心のものの見方」が、われわれの日常生活に浸透している。
前天皇=現上皇は近代日本において最も愛される天皇、親しみやすい天皇であり、かつリベラルな存在にも見えた。
それゆえ護憲派の人々の間で、彼の言動を根拠に政権批判を試みる人がふえた。
山本太郎の「直訴」もそのひとつの現象であった。
安保関連法案反対時の「国民なめんな」運動は、「憲法を守れ」という時に、「国民」の外部で「非国民」とされる民衆の人権侵害への懐疑がなかった。
憲法の第1章天皇条項と人権規定の矛盾や、憲法草案成立過程で「人民」が「国民」に歪曲された事実への理論的・歴史的批判が皆無だった。
天皇が「国民統合の象徴」だということは、国民ではない人々=非国民を排除する政治的装置として機能する。
「国民なめんな」運動は、前天皇の「国民に寄り添う」と共鳴した「象徴天皇制ナショナリズム」の完成と呼ぶべき性質のものだった。
この時最終的にマヒしたのは、普遍的人権の感覚であり、リベラル派の多くは「法の下の平等」を放棄した。
前天皇の慰霊の旅をことさら評価するリベラルな人々がいる。
しかし、天皇は糸満で献花はできても辺野古はいけない。
サイパンで祈りをささげても朝鮮半島では頭を下げられない。
さらに、花岡鉱山や六ヶ所などには行けない。
仮にこれらの行けない場所に行こうとすれば、天皇をやめるほかなくなる。
天皇がいくら「国民に寄り添う」といっても、天皇であるかぎり真の民衆との連帯はない。
それゆえ天皇制を廃止し、天皇を人間的に解放することが必要なのだ。
それでは天皇制廃止する運動の根本原則とは何か。
改憲勢力の標的は、憲法の特定条項だけにあるのではない。
真の問題は、手持ちの憲法に自己満足し、その文言の現状にしがみつく、われわれの柔弱さにつけこんでいる事実にある。
右からの改憲勢力とは、「憲法守れ」と現状維持しかいわない相手の頼りなさにつけこんで繁茂するヘドロであり、ゾンビの群れである。
この反動的情況を真に突破し克服するにば、われわれ自身がこれまで逃げてきたラディカルな創造を始めるしかない。
運動の革命的側面を自覚的に推進していく以外ない。
憲法問題についていえば、その基本的精神の徹底である。
第1章の天皇条項の削除と、さらに「国民」ではなく「人民」のための普遍性ある憲法草案を新たに作りだすこと、それを通じて左からの憲法改正運動を多様に強力に展開することが当面の課題になるはずだ。
対立の機軸を「改正」対「現状維持」でなく、「反動的改正」対「憲法精神に基づく革命的な改正」に改変することがわれわれの運動に不可欠である。
あらゆる人間を身分や家柄、貧富の差から解放し、法の下での平等な存在に変えていくこと。
だれも不当に差別されることのない、平等で対等な水平的で横断的に民衆のインターナショナルな連帯を創造していくことだ。 
天皇制を廃止し、共和制を創設する左からの改憲運動を通じて、日本人が真に「法の下の平等」を実現できるか否か。
その運動をどれだけ大衆的に展開できるか否かにかかっていると鎌田は論じている。
天皇制廃止と共和政実現、そのための改憲運動が日本の左翼を甦生させる起爆剤となるだろう。
  
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池田浩士『ボランティアとファシズム』を読む

日本が学んだナチスの労働奉仕についてみていこう。
ドイツの労働奉仕の特色はつぎの4つである。
第1にそれが失業救済事業であったこと。
第2にその失業救済事業は失業者に仕事を与えるだけでなく、勤労を通じての精神訓練でもあったこと。
第3にこの事業は社会教育や青年運動の観点からも大きな意義があること。
第4に自発性と主体性を組織して任意制度から義務制度へと進展し、産業にも重大な意義をもったことである。
なぜヒトラーが選挙で勝利し政権を握ったのか。
失業をゼロにしたからだ。
世界恐慌後の1932年、ドイツの失業率は44%を超えていた。
ほぼ2人に1人が仕事がなかった。
経済の悪化と失業増大にヴァイマル共和国はなすすべがなかった。
ヒトラーは大失業を解決して国難を救うのはナチ党だけだとアピールし、1932年の選挙で勝利し、1933年に政権を握った。
ナチ党はドイツ国民が失業で苦しんでいるのは、ユダヤ人が不当に仕事を奪っているからだとした。
それゆえユダヤ人から仕事を奪いかえすと攻撃した。
さらに第1次世界大戦で負けのはユダヤ人が裏切ったからだとした。
つまり、裏切者であるアカの共産党や社会民主党の指導者はユダヤ人であった。
さて失業率だが、1932年44・4%あったのが、1939年の第2次大戦開戦直前には2・9%と世界最低水準まで下降した。
それでは何が失業を減らしたのか。
「自発的労働奉仕制度」とよばれるボランティアである。
ナチスはこの労働奉仕による労働力を投入して、アウトバーン建設、大規模土木工事、干拓、河川改修、荒地の開拓、宅地造成、地域の開発など行った。
労働奉仕制度による安価な労働力は国家の財政負担を軽減させ、大企業に莫大な利潤をもたらした。
その結果、企業は正規の労働者を雇用できるようになり、失業は減少の道を辿ることになった。
ヒトラーが失業をなくすことができたのは労働奉仕制度の活用による。
ヒトラーの労働奉仕にはもう一つの別の意図があった。
欧米の肉体労働への差別観は根強い。ヒトラーはブルーカラーを「拳の労働者」、ホワイトカラーを「額の労働者」とよび、どちらも労働者として誇りをもってドイツ建国に立ち上がれと訴えた。
ナチスの労働奉仕は肉体労働を体験させることで肉体労働への差別を解消し、同時に自発的に奉仕するボランティア精神を育成しようとした。
ナチスはメーデーの名称を廃止し、「国民的労働の日」と改称してすべての国民に労働奉仕の体験をさせる計画し、労働者を投入して失業を減らすことを約束した。
ナチスのボランティア活動としては「冬季救援事業」がある。
青少年が募金活動を行い、困窮者に生活支援金が配分された。
さらに「農村学年法」では、義務教育を終えた14〜5歳の少年少女が、1年間農村で無報酬で農作業に従事させられた。
また高等中学校の修了生は大学に入学する前、20週間の労働奉仕が義務づけられた。
この義務を果たさないと大学に入学できなかった。
1935年には「帝国労働奉仕法」が公布された。
18歳から25歳まで労働奉仕を義務づける法律で、発足と同時に世界各国の大きな関心をよんだ。
ナチスはこの帝国労働奉仕制度により、前述した大規模プロジェクトを実施した。
労働組合も解散されて労使が加盟するドイツ労働戦線が組織された。
労働戦線の下部組織である「歓喜力行団」により、各種スポーツ同好会、野外リクリェ―ション、文化活動が全国的に組織され、演劇・音楽会・美術展・映画会などが主催された。
歓喜力行団のイベントで最も人気を集めたのは旅行やハイキングの企画だった。
とりわけ大型船の海洋旅行は憧れの的であった。
労働者に対する差別を糾弾し、青少年に労働奉仕により労働の高貴さを体得させようとしたナチスは、強制収容所でユダヤ人に強制労働をさせた。
強制収容所では働ける限り労働させ、働けなくなった者は絶滅収容所で殺された。
ヒトラーの労働賛美は労働者に対する敬意からではなく、労働力を確保したいためであった。
強制収容所はドイツ国民にとって周知の事実であったが、彼らは強制収容所の実態を見ようとしなかった。
なぜならユダヤ人は「有害物」として差別されていたからだ。
ユダヤ人は帝国労働奉仕の法律で「名誉ある労働奉仕」からも排除されていた。
さらに、ボランティア活動の日常を生きていた青少年は、自分たちの行動が正しいと確信し誇りをもっていた。正しさを自分のためではなく他者のためにするという奉仕活動は、人間に自分も周囲も見えなくさせ、その奉仕活動が、現実の中でどのような意味をもつかを問わなくさせるのだ。
さて、日本の話である。
2016年度のボランティア活動の活動時間は、総務省の調査によれば約20億時間である。
これを最低賃金の時給900円程度で計算すると約20兆円になる。
年間500万円の給料を払うと31万人以上に支給できる。
4人家族にすると約合計125万人、日本の人口100人に1人に相当する。
これは果たして正当なことか。
支払われない2兆円はどこへいったのか。
いったいボランティアとは何か。
人間は自分が正しいことをしていると確信しているとき、現実がみえなくなる。
正しいことをしているという感動が現実を見えなくさせる。
そのためにこそ、ボランティアの歴史を見直す必要があると、著者は最後に書いている。


  
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2019年08月27日

池田浩士『ボランティアとファシズム』を読む

ボランティアの本来の意味は「義勇兵」だ。
第1次世界大戦以降、ファシズムとボランティアは切っても切れない関係性を作ってきた。
本書はドイツと日本のファシズムとボランティアの関係性の史実を解明した本である。
1923年の関東大震災のとき、学生たちが「学生救護団」を組織して震災救援活動を行った。
この活動こそ日本の近現代史の「ボランティア元年」を告げるものだった。
学生救護団のボランティア活動はその後、「東大セツルメント」にひきつがれ、託児所・労働学校・消費組合運動など、「底辺から社会を変える、地域から社会を変える運動」へと発展していった。
だが、1920年代後半からの社会的弾圧の嵐でセツルメント活動も終焉する。
そして、1930年代の国家の海外侵略と共鳴・共振したのがボランティア活動であった。
1929年の世界恐慌で日本経済も大きな打撃をうけた。1931年の満州事変、翌年の「満州国建国」から満州移民政策が国策として推進された。
1932年から1944年まで、合計32万人が農業移民のボランティアとして参加した。
満蒙開拓団の農業移民たちは、日本の農山村の危機を救い、日本の食糧増産を実現し、日本の発展を支えるため、自発的に満州移民に応募した。
しかし、移民団は実質的には満州防衛の「武装移民」であった。
「僕も行くから君も行こう。狭い日本にゃ住み飽いた。
海の彼方にゃ支那がある。四億の民が待つ」
さらに、1938年から16〜19歳の青少年を満州に送出する「満州開拓義勇隊」が開始され、10万人以上が満州に移民した。
戦時中のボランティアは、国家が設定する舞台で、国家が重要とする任務を果たすものとなった。
1938年、近衛内閣は学生の勤労奉仕活動を制度化した。
夏休み中「5日間程度」の勤労奉仕で、「支那事変下の労力不足と、学生に勤労奉仕の観念を植えつけるため」とされた。
1941年「国民勤労報告協力令」=1年30以内の勤労奉仕が制度化された。
自然災害時のボランティア精神と、戦争中のボランティア精神とに、はたしてどんな違いがあるのか。
国家はその精神を讃え、美化しながら、国民の自発性を戦争のために総動員したのだった。
「勤労奉仕」と呼ばれたボランティア活動は、1937年以降、少年団・青年団、婦人団体などにより、銃後を支える活動として全国各地で行われるようになる。
日本全国が大きなボランティア活動のうねりで覆われたのが1930年代後半であった。
まさに1億総活躍社会と呼ぶにふさわしく、ボランティアは自発性から制度化への道をたどることになる。
ところでなぜ「労働奉仕」ではなく「勤労奉仕」なのか。
「勤労」とは「皇民」の天皇に対する「勤め」である。
つまり勤労とは労働による勤めで、天皇へ仕え奉ることである。
「奉仕」とは天皇に「仕え奉る」意味である。
そのため「労働」といわず天皇に仕え奉る「勤労」とよばれた。
戦時下の労働は青少年に貴重な多くのものをもたらした。
勤労奉仕が義務化されたということは、自発性や意欲的な総意工夫が無意味になったということではない。
制度化されてだれもが参加するからこそ、そのなかでの自発性と積極性と総意は、共同体にとって大きな力を発揮する。
勤労奉仕の企画者たちはそれを知っていたのだ。 
特に市川房江らの女性たちは、勤労奉仕を女性の社会参加と社会的自立のきっかけとして生かそうした。
現実に立ち向かい、主体性と自発性を発揮する道を求めた。
戦時の総動員社会そのものが、そうした自発性を女性たちに求めていたのだ。(続く)
  
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2019年08月26日

安川寿之輔『日本人はなぜ「お上」に弱いか』を読む

副題に「福沢諭吉と丸山真男が紡いだ近代日本」とあるように、真男と丸山が賛美した福沢批判の書である。
安川は丸山真男こそが
「日本の戦後民主主義を虚妄化する学問的営為を担った問題の研究者であり、戦後民主主義のマイナスを象徴する典型的に日本の知識人」
だと批判する。
福沢諭吉は天皇をバカな国民をたぶらかすダマシの政治的装置として積極的に利用しようとした。
また、ヘイト・スピーチの元祖と評価され、アジア諸国民への蔑視・偏見をたれ流した確信犯的差別主義者であった。
さらに帝国憲法を「完全無欠」と賛美し、教育勅語に「感泣」して「歓迎」し、軍人勅諭に同調し、日清戦争に熱狂し、韓国併合を主張し、日本をアジの「盟主」と位置づけ、軍事大国路線を提唱し、アジア侵略・植民地獲得の帝国主義路線の先導的役割を果たした。
丸山は福沢の「天は人の…」「「一身独立して一国独立する」「独立自尊」といったフレーズを誤読し、福沢の著作を「典型的な市民自由主義の政治観」と理解した。
こうした「丸山諭吉神話」は、戦後の福沢研究に悪影響をおよぼしただけでなく、戦後日本の民主主義理解にも悪影響をあたえた。
戦争責任のポイントは、侵略戦争と植民地支配の過去への誠実な謝罪と反省にたって、日本が2度と戦争への道を歩むことを許さないという未来責任にある。憲法前文は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意」することを要求している。 
日本の戦後民主主義は、国民主権と平和的生存権を不可分のものと規定した憲法前文にもかかわらず、侵略戦争と植民地支配の責任を放置してきた。
戦争責任を問うことは過去を告発・糾弾することではない。
過去を探索することは、私たち自身が現在と未来をどう生きるかを探索するためである。
第2次世界大戦の良心的兵役拒否者は、英国6万人、米国1・6万人、カナダ1万人、ドイツ2万人。日本は数人とされる。
日本の思想に最も欠けていたのは「抵抗の精神」「良心的不服従」である。
日本軍兵士は「上官の命令は天皇の命令」とされて絶対的服従を強いられた。
そして「聖戦」「神州不滅」「大東亜共栄圏」「八紘一宇」などと洗脳されて、祖国に命を捧げることを疑問に思わなかった。
「死は鴻毛より軽し」(軍人勅諭)「死して虜囚の辱めを受けず」(戦陣訓)とする「死の哲学」への批判も、天皇や国家への疑問ももたなかった。
第1次世界大戦、第2次世界大戦をふくむ20世紀の歴史で、君主のもとで戦争を始めて敗れた国は、日本以外すべて君主制は廃止された。
それゆえ、天皇ヒロヒトの戦争責任免責は、世界史的にも唯一の異例の出来事である。
天皇の戦争責任免責は、戦後の国民の政治意識の成長に致命的な影響をおよぼした。
天皇に戦争責任がないなら、戦争指導者はもちろん、国民を侵略戦争に動員したマスコミ・教育・司法・警察・宗教…、そして国民と、すべての戦争責任が免責されることになる。
その結果、戦後の日本社会の戦争責任・戦後責任は不問にされた。
日本の戦後民主主義は戦争責任を放置した民主化の歩みであった。
1999年の「日の丸・君が代」法制化は、戦後日本社会が侵略戦争・植民地支配の戦争責任に真剣に取り組んで来なかった事実と、身分差別・性差別・障害者差別という差別の総元締の象徴天皇制を許容してきた事実の帰結である。
現在の日本が「戦争のできる国家」に帰着したのも、アジア諸国へのヘイトも同様である。
明治以降の日本人は、臣民教育や「教育勅語」「軍人勅諭」で、「お上」への絶対服従を強制され、滅私奉公・尽忠報国が至上命題とされた。
その結果多くの国民は、「お上」意識で、「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれろ」と、大勢順応・面従腹背・建前と本音・付和雷同・忖度で無難に生きる道を選んだ。
その反面、日常的な上からの圧迫を、下への「抑圧の移譲」(丸山真男)により差別的・暴力的に解放してきた。
わたしたちが戦争責任を担い、9条改憲を阻止し、1回限りの人生を主体的に生きるためには、「抵抗の精神」をもち、「良心的不服従」の主体になれるよう、自己を鍛え上げていく以外に、民主主義再生の道は開けないと安川は論じている。
  
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2019年08月21日

NHKスペシャル=昭和天皇秘録・初公開「拝謁記」

8月17日放映のNHKスペシャル「初公開 秘録拝謁記」をみた。
戦後の宮内府長官だった田島道治の天皇会見録である。
田島は1949年から1953年まで宮内府長官をつとめ、昭和天皇との会見を詳細に記録していた。
『拝謁記』である。
『拝謁記』の記録から次の3点が浮き彫りにされている。
第1に「戦争責任論」。
昭和天皇はアジア・太平洋戦争に対する反省はまったくなかったようだ。
なぜ戦争を始めたのか。
つぎのように話している。
「太平洋戦争は近衛が始めた」
「戦争にならぬようにすれば(軍部は)内乱を起こしたかもしれず…殺されたかもしれない」
「東條が唯一陸軍を抑える人間と思って内閣を作らせたが、見込み違いをした」
戦争を止められなかったことについても、さかんにいいわけをしている。
「軍部のやることは無茶でだれも止められなかった」
「下剋上でどうすることもできなかった」
などと、自分は戦争に反対だったと何度も弁解している。
さらに
「無条件降伏はやはりいやで、どこかいい機会を見て早く平和に持っていきたいと念願し、それにはちょっとこちらが勝ったような時を見つけたいという念もあった」
と「一撃講和論」を支持し、
「(終戦の詔勅は)私の道徳上の責任をいったつもりだ。法律上は全然責任はない」
と居直っている。
第2に「退位論」。
従来は1948年11月、天皇からマッカーサー宛の文書で退位しないと意思表示し、天皇退位論に決着がついたとされてきた。
しかし、昭和天皇は1949年の段階で、情勢が許せば退位したいと考えていた。
そのために皇太子を早く訪欧させたいと語っている。
帝王の位は不自由だとし、その位を去るのは個人としてはありがたいと話している。
やめた方が気が楽になると考えていたようだ。
天皇退位論は、東京裁判の判決時(11948年11月)と、サンフランシスコ講和条約締結時(1951年9月)に強まっている。
中曽根康弘代議士は国会で、
「昭和天皇の退位は講和条約締結の日が最善ではないか」と質問。
それに対し吉田茂首相は、
「天皇の退位を希望するのは非国民だ」と反論している。
1951年の講和条約締結の前に、天皇と田島は退位論について話合っている。
田島は2つの道があるという。
退位の道を選ぶのか、それとも退位せずに新日本建設の困難な道を選ぶのか。
第2の道を選ぶことこそ日本の国のためになると天皇を説得。
結局、昭和天皇も第2の道を選択することを決心した。
歴史学者の吉田裕は、天皇の退位論には2つの責任があったとする。
一つ目は皇祖皇宗への責任。敗戦により国体護持ができなかったことに対する先祖への責任である。
二つ目は国民への責任。
戦争での国民の犠牲と困苦に対する最高責任者としての責任である。
第3に「憲法改正」と「再軍備」。
昭和天皇は朝鮮戦争の勃発により、共産主義勢力が国内に進出することを恐れた。
そこで、憲法9条を改正して再軍備をすべきだと、何度か田島に話している。
ところが、吉田首相は国会で「再軍備はしません」と公言していた。
天皇は吉田首相に「再軍備すべきだ」と繰り返し伝えようとした。
「軍備の点だけは堂々と憲法を改正したほうがよい」と、再軍備とそれにともなう憲法改正についてのべていた。
それに対して田島は、憲法は「天皇は国政に関する権能を有しない」と規定しているので、政治に口をはさむべきではないと繰り返し戒めている。
田島は新憲法の規定する象徴天皇の枠内に天皇の役割をおさめようとしていた。
1947年の天皇メッセージは有名だ。
「アメリカが25年ないし50年、あるいはそれ以上、沖縄を軍事支配すること」
を希望したメッセージだ。
昭和天皇が憲法9条を改正して「再軍備」をすべきだとし、そのことを何度も首相に伝えようとしていた事実が明らかにされたのは、おそらく初めてではないのか。
第4に講和条約発効時の「おことば」。
1952年4月28日に講和条約が発効し日本は独立した。
そして5月3日に皇居前広場で式典が行われ、天皇が「おとこば」をのべた。
その「おことば」をめぐる政府と皇室のやりとりである。
天皇は「おことば」に「戦争」のことと「反省」という言葉をいれたかった。
ところが吉田首相はこの言葉の削除を要求した。
吉田はその言葉によって天皇の戦争責任問題に発展し、天皇退位論が再燃するとして反対した。
それに対して天皇は、「戦争のことをいわず、どうして反省と言えるのか」と抵抗したが、政府側に押し切られた。
もっとも天皇は「反省はみんながしなければならない」としていたから、敗戦直後の「1億総懺悔論」と変わらないものだったが。
歴史学者の吉田裕は、天皇が「戦争と反省」を言わなかったため、天皇の戦争責任だけでなく、政治家・国民の戦争責任もあいまいにされてしまったという。
仮に天皇の「おことば」にその言葉があれば、戦争責任論を問い直すきっかけになったのではないかとしている。
NHKスペシャル『拝謁記』をみて、昭和天皇が退位しなかったことと、戦争責任を不問にしたことが、戦後日本社会のあらゆる分野の「責任論」をぐずぐずにしたのだと改めておもった。
  
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2019年08月11日

NHKスペシャル=ガダルカナル島の激闘

8月10日放映のNHKスペシャル「ガダルカナル島の激闘=悲劇の指揮官」をみた。
ガダルカナル島ではいまでもジャングルのいたるところに兵士の骨が散在し、戦争の傷跡がのこされている。死者は2万をこえて「地獄の戦場」といわれた。
大本営は1942年6月のミッドウェー海戦の敗北後、ハワイ=オーストラリアを結ぶ米軍の制海権・制空権をうばうために、同年7月からガダルカナル島の飛行場建設にとりかかった。
そして8月には滑走路ができあがり、戦闘機の進出が可能になった。
それに対して、米軍は1万人の海兵隊をガダルカナル島に上陸させて、飛行場を占領することに成功した。
米軍上陸をうけて大本営では緊急会議が開かれた。
大本営は飛行場奪還のため、陸軍最強部隊といわれる一木支隊を派遣することを決定した。
一方、連合艦隊は8月の第1次ソロモン海海戦で勝利をおさめたが、米軍輸送船団を攻撃しないまま戦場をはなれ、決定的なミスを犯していた。
米軍のガダルカナル島上陸を境に、開戦以来つづいた日本軍の戦略的攻勢と連合国軍の戦略的守勢の第1段階は終わりをつげ、連合国軍の反撃開始と日本軍の戦略的持久の第2段階へと突入した。
8月下旬、一木清直大佐の指揮する一木支隊900人が、飛行場から35キロ東方のタイボ岬付近に上陸した。
参謀本部は米軍は撤退しており、現地軍は2000人程度と予測し、速やかに飛行場を奪還するように命令した。
しかし、海軍は米軍は1・5万人程度と予測していた。
海軍は陸軍一木支隊をおとりとし、米空母を殲滅させる計画を立てていた。
ミッドウェー開戦の報復である。
一木支隊は命令通り飛行場奪還の攻撃を行ったが、米軍の圧倒的戦力のまえに戦死者約800名をだして壊滅した。
一方、海軍はガダルカナル島の戦いを支援することなく、第2次ソロモン海海戦で米軍と戦闘を交え、空母・航空機を失う損害を受けた。
ガダルカナル島の悲劇は、陸軍が敵の戦力を軽視したことが原因だった。
だがその後、陸海軍とも部隊全滅の原因を究明しなかった。
ガダルカナル島の戦闘を重視した米軍は、3・4万人と兵力を増員した。
一方、日本軍は3万人であったが、補給路を断たれて極度の食糧不足となり、「ガ島は餓島だ」といわれた。
日本兵たちは飢えと病気で絶望的な闘いを強いられた。
大本営がガダルカナル島からの撤退を決めたのは、1942年12月31日である。
撤退か見殺しかで小田原評定をしていたのだ。
そして、実際の撤退は翌1943年2月であった。
日本兵3万人のうち死者2万人。
陸海軍の作戦の不一致、補給を無視した無理な作戦計画、兵力逐次投入などが、「地獄の戦場」といわれる悲劇的な結果を招いた。 
ガダルカナル島の敗北以来、撤退は「転進」と呼ばれて真相かくしが行われた。
ガ島敗北から戦局は連合国軍の戦略的攻勢と日本軍の戦略的守勢の第3段階へと入る。
番組に一木大佐の娘さんが出ていた。いままで自分が一木大佐の娘であると公言できなかったと話していた。ガダルカナル島から奇跡的に帰還した元兵士は、戦争のことを聞かれて涙を流すだけで何も話せないままだった。 
戦時中のドキュメンタリーをみるたびに、戦争指導者の無責任にハラがたってしようがない。
  
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