2016年07月27日

インドでベーシックインカムの実験

7月11日本ブログに「働かなくてもカネがもらえるベーシックインカム導入に期待」を掲載した。
7月27日付毎日新聞「水説」で中村秀明論説委員が、「インドからの問い」と題してインドでのベーシックインカム(最低限所得保障)の実験について書いている。  
以下紹介しておこう。
インドで2011年から翌年の18か月、20の村で数千人を対象にベーシックインカムの実験が行われた。
女性の自立を目指す団体が「ありきたりの貧困対策ではなく、ベーシックインカムの形でお金を渡し、女性の考えや行動の変化を知りたい」とユニセフの資金援助も受けて実施した。
大人は月200ルピー(約300円)、18歳未満の子どもは100ルピーを銀行口座を通じて渡した。
子どものお金は女性の口座に入れ、女性に管理させた。使い途は自由である。
何が起きたか。
借金の重荷が減った。
これまでは農産物を作る前に高い金利で金を借りて種を買い、収穫後に借金して返していた。
その苦労が軽くなった。
新たなビジネスが登場した。
仲間で金を出し合って稚魚を買い、魚を育てる事業を始めた例があった。
教育への消費が増えた。
子どもが学校に通うようになり、児童労働も減った。
最大の変化は、女性に発言権が生まれ、地位が向上したことだという。
現金を手にして銀行に口座を保有したことで、お金の使い道を家族で話し会うようになった。
1年半だけの限られた地域での実験だが「確かな変化」といえる。
先進国の本格的な実験としてはフィンランドの計画がある。
現政権は導入を公約に掲げ、その意向を受けた報告書が秋にまとまる。
山森亮・同志社大教授によると、給付実験をする規模、支給額、期間といった具体的手法を盛り込み、2018年中にも実施するのではないかという。
欧州各国も動向に関心を寄せている。
ベーシックインカムに関心が集まるのは、世界的に貧困と格差が深刻になってきているからだと山森教授はのべている。
  
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2016年07月23日

コミュニケーションとしての暴力

なぜ非行がヤンキーへと変質したのか。
(以下拙論「コミュニケーションとしての暴力の不在」月刊誌『むすぶ』2001年1月号参照)。
フロイトは少年期のはげしい「悪」の諸活動の存在こそが、成年期の「善」を生みだす条件になるとのべた。
「ひとがまったく善であったり、あるいは「悪」であったりすることはほとんどない。
多くは、ある点では「善く」、他の点では「悪」であったり、または、ある外的条件のもとでは「善く」、他の条件のもとでは決定的に「悪い」のである。
面白いことに、少年期に激しい悪の諸活動が存在することが、後の成年期に「善」への転換が生ずるための明白な条件になることが多いことを、われわれは経験している」
(「戦争と死に関する自評」『フロイト著作集第五巻』人文書院)。
少年は根源的に「悪」を内在しているが、それは生命の源である「性」に由来している。
かつて少年たちの「悪の諸活動」は、子どもたちの自由空間とおとなの無関心によって多くは放任されてきた。なによりも「悪」の発露に地域社会は比較的寛容であった。
現在の少年たちの「危機」は、ひょっとすると「悪」に対する社会の寛容さが失われたことによるのではないか。
村上龍は少年たちが「なぜ暴力を振るうのかではなく、なぜ振るわないのかだと、問題を逆転させるべきなのだ」と発言していた。
現代の少年たちがなぜ暴力化したかではなく、なぜ非暴力化(=ヤンキー化)したのか。
なぜ攻撃的になったかではなく、なぜ攻撃性を欠如させたのか、その点こそが問われなければならない。
酒井隆史の「トーキョー内戦」(『現代思想』2000年10月号)はきわめて興味ぶかい論文である。
酒井はつぎのようにのべる。
暴力は単に他者を抹殺するものではなくコミュニケーションそのものである。
むしろ暴力を否定的なものとみなし否認するところには最悪の暴力しかあらわれない。
暴力を根絶するとして自らを正当化する暴力がそれである。
だから暴力を汚れたものとして退けることでも、あるいは暴力を革命とか国家の目的に奉仕するものとして位置づけるのでもなく、人と人、あるいは動物、モノとを結びつける構成的力として呼び戻すことが問題なのだ。
公共の場から暴力が抹殺されつつあるのが現代の特徴である。
そしてあらゆる暴力の行使が国家によって吸い上げられたとき公共性は消滅する。
かつては市民社会の制度総体が異議甲し立てを水路づけ、そしてそれらは暴力の正当化の次元を内包していた。
だが、ストライキにしろデモにしろ、それらを「公共の福祉」に反する犯罪行為とみなして取り締りの対象としてきたのか国家権力ではなかったか。
以上が酒井の論旨である。
ストライキやデモ、ロックアウトや座りこみなどの民衆の直接行勤を「公共的暴力」と呼んでみよう。
「公共的暴力」は酒井がいうように、市民社会が本来的に所有していた異議甲し立ての手段であった。
かつて政府や自治体・企業とわたりあってきた「公共の暴力」は、民衆のコミュニケーションとしても公共性を創出する上でも重要な役割を果たしてきた。
いまはどうだろうか。
ストライキもデモも座りこみや抗議行動さえもすっかり影をひそめてしまった。
1960年代末の全共闘時代を想起するまでもない。
あのころ街はいたる所にストライキやデモなどの民衆の直接行動があふれていた。
街頭も駅前も学園も工場や裁判所さえも「公共の場」として「公共的暴力」によって民衆に解放されていたのではなかったか。
そうした民衆の合法的直接行動を、犯罪行為として抹殺してきたのがこの国の権力ではなかったのか。
そして「公共の暴力」が社会から消滅していくのと並行して、公共牲も民衆のコミュニケーションも共にこの社会から消滅していったのではなかったか。
このようにみてくると、日本の社会が世界的にもとびぬけて安全で非暴力な社会であることを単純によろこべるだろうか。
非暴力な社会とは反面公共性が著しく欠如した社会だといえないだろうか。
民衆が異議申し立ての直接行動の手段さえうばわれてしまった不活性な社会だといえないだろうか。
犯罪の極端な減少は警察ファシズム国家の到来を予告していないだろうか。
少年たちの非暴力化や攻撃性の欠如は、日本社会の「公共的暴力」の消滅や公共性の衰弱とまちがいなく関連しているだろう。
とすれば問題は「子どもたち」にあるのでない。
わたしたち「おとな」の間題なのだ。
「公共の暴力」が根源的に所有しているコミュニケーションの力を取り戻すこと。
その力で政府・自治体・企業・学校といった諸組織とわたり合うこと。
それによって再び公共性と民衆のネットワークを創出することが求められている。
そうした社会の流動化と活性化は、自閉した青少年をも公共の場へと誘引する力となるだろう。
そして公共の場における少年たちの「悪」の発動は、「公共的暴力」として解放されて公共性へと誘導されるだろう。
そのときこそ少年たちの「悪の諸活動」は、根源的コミュニケーションとしての本来の力をとりもどすだろう。
  
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2016年07月22日

斎藤環『人間にとって健康とは何か』ーヤンキー文化が犯罪抑止システムとして機能ー

斎藤環『人間にとって健康とは何か』をじつに興味深く読んだ。
斎藤は「レジリエンス」という言葉をキーワードとして健康について論じている。
「レジリエンス」とは逆境を乗り越えて適応する力のことである。
たとえば悪人の多くは健康だ。
しかも彼らは少々の挫折や批判には屈しないタフネスさをもっている。
その意味で悪人の「レジリエンス」は高いといえる。
少し前の橋下徹の人気は彼の攻撃性、もっといえば悪の要素によって支えられていた。
彼の最大の魅力はその反道徳性であった。
橋下人気を見てつくづく思うのは、日本において大衆的人気を博するキャラは、多少なりとも「悪」の成分をはらんでいる必要がある。
「昔悪かった」「やんちゃだった」「元ヤンキー」「元ヤクザ」などの経歴は、まったくマイナスにならない。
むしろそうした経歴を持っているほうが、経歴に傷がない人よりも信用されたりする。
ヤクザ上がりの牧師、不良上がりの警察官、元ヤンの弁護士といった経歴のほうが人々を惹きつける。
多くの人々が「元ヤン」の経歴に惹かれるのは、彼らをある種の「エリート」と考えているからではないか。
彼らはかつて「悪」だった。
悪であるがゆえに高い淘汰圧を受け続けてきた。
しかし、彼らは生きのびた。
しかも成長し変化し、平均よりもはるかに高いレベルで社会に適応している。
この人生の振幅そのものが彼らの高いレジリエンスの証である。
ヤンキーは強い。
同時に彼らにとって「やんちゃ」だった過去はすでに勲章である。
そして、日本の社会は「ヤンキー的成熟」にやさしい社会だ。
それは彼らの「若気の至り」に寛容であるばかりではない。
むしろ、この国の地域コミュニティそのものが、ヤンキー文化を育むための土壌を提供している。
わが国においては思春期に芽生えた反社会性のほとんどは、ヤンキー文化に吸収される。
反社会的な若者は必然的に徒党を組む。
そして徒党を組めばそこに発生するのは同調圧力だ。
リーゼント、そりこみ、金髪、パンチパーマ…
要するにそこには「様式」がある。
様式はきわめて重要である。
それは仲間や集団に所属するというアイデンティテイの象徴であり、気合を入れたり気分をアゲたりするための刺激であり、さらには学校や世間の価値観への挑発という意味もある。
ヤンキー文化で求心力をもつのは「ガチで気合の入った」「ハンパなく筋を通す」「ケンカ上等」といった姿勢である。
ほかにもタテ社会的な上下関係、パートナーなーに一途であることや、仲間や家族を大切にするといった規範もある。
こうしたヤンキーの集団独自の倫理や規範は、通常の社会規範とおどろくほどよく似ている。
その意味からも中学生に「よさこいソーラン」を踊らせようというアイデアはじつに慧眼だった。
この行事は1990年に非行対策として普及したとされるが、今やそうした意味合いぬきで人気を集めている。
衣装や踊りの「様式性」や「伝統」は、ヤンキー文化ときわめて近い。
しかし、やっていることは勇壮な群舞にすぎないので教育現場でも実践できる。
これで非行が抑止できるなら安いものだ。
日本の青少年の反社会性は、芽生えるや否やヤンキー文化に回収され、一定のもとで共有される。
彼は学校卒業後も、「きずな」と「仲間」と「伝統」を大切にする保守の一員として成熟していくのだろう。
成人すれば日本青年会議所などに所属し、祭りなどにも積極的に参加し、やがて力のあるものは地方議員になるなどして地元でのし上がっていく。
おどろくべきは、このタイプの成熟にあっては、立場や所属は変わっても、ヤンキー的価値観は無傷で温存される。
われわれはまったく無自覚なうちに、かくも巧妙で精緻な治安・犯罪抑止システムを手にいれたのである。
以上が斎藤のヤンキー文化=犯罪抑止論である。
わたしは斎藤とは少し違った視点から少年犯罪について論じたことがある。
(「コミュニケーションとしての暴力の不在」月刊誌『むすぶ』2001年1月号)。
わたしが興味があるのはなぜ非行がヤンキーへと変質したのかということだ。
その点について斎藤は論じていないが、それについて論じた前掲論文を次回掲載したい。
  
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2016年07月17日

天皇の生前退位─欧州並みに簡単にできないか

昭和天皇は敗戦時、自身の生存と皇室の存続のために権謀術数のかぎりをつくした。
大変頭が良い人だったといわれる。
皇室と自分の生き残りのために、あらんかぎりの知恵をしぼっただろうことは推測できる。
一方敗戦直後、明仁天皇は皇室が存続できるかどうか未曾有の危機を体験した。
戦後の混乱の経験から現天皇は、皇室が末永く続くには憲法を遵守していくしかないことを胸に刻まれたのだと思う。
ところで、天皇が生前退位の考えを述べたとマスコミでは騒いでいる(以下、7月15日付朝日新聞参照)。
旧皇室典範は大日本帝国憲法(1889年)と同時に制定された。
伊藤博文は「天皇が終身大位にあるのはもちろんであり、随意にその位をのがれるということはもってのほかである」として天皇を終身在位とした。
戦後、法学者や官僚が日本国憲法制定にともない現行の皇室典範を議論した際は、
「天皇が自ら欲した場合は、事情よって退位を認めることが必要ではないか」との意見も出た。
だが「天皇の責任を果たすため、終身その位にとどまることが必要」「退位を認めると上皇による弊害などの混乱の恐れがある」などの反対意見がでて盛り込まれなかった。
1984年、80歳を超えた天皇の生前退位について国会で質問があり、宮内庁は皇室典範に生前退位の規定がない理由として、
‖牋未鯒Г瓩襪半綛弔篷々弔覆匹梁減澆弊害を生ずる恐れがある、
天皇の自由意思に基づかない退位の強制があり得る、
E傾弔恣意的に退位できるようになる、などと答弁している。
小泉内閣時代の2005年、「皇室典範に関する有識者会議」が、女性天皇とその子である女系天皇を容認する報告書をまとめた。
だが2006年に秋篠宮の長男悠仁が誕生して皇室典範改正案の国会提出は見送られた。
2012年にも民主党政権が有識者からのヒヤリングをふまえ、女性皇族が一般男性と結婚した後も皇室に残ることを可能とする「女性宮家」創設について「検討すべきである」と明記したが、政権交代などでその後の議論は行われていない。
欧州諸国では生前に退位する「譲与」という制度がある。
高齢や体力的な問題を理由に欧州で譲位が行われるようになったのは20世紀半ばからである。
欧州諸国では時代や国民の声にそう形で王位継承を柔軟に行っている。
王室と国民との心理的な距離が近く、国民からの信頼が重視されることや、多党制国家の長である国王が、政治の調整役としての役割を担わなくてはならないことなどが背景にあるとみられる。
また、歴史的に王族が外交で重要な役割をはたしてきたことも、若い世代に王位をゆずる理由のひとつになっていると考えられる(君塚直隆・関東学院大教授)。
オランダでは譲位の手続きも明快だ。
テレビに出演するなどして自ら退位を宣言した後、上下両院の議会承認を得て宣言書に署名すれば、1─3か月で完了する。
横田耕一・九大名誉教授は7月15日付毎日新聞で次のように述べている。
皇室典範には天皇の人権を制限する多くの規定がある。
自らの意思で結婚できない。
望まなくても天皇の座につかなければいけないし、辞めることもできない。
女性は天皇になれない。
これらは憲法の原則と矛盾しているが当然視されてきた。
日本国憲法の天皇は「主権の存する日本国民の総意に基づく」(1条)存在であり、天皇もひとりの人間としてその人権は尊重されなければならない。
そのためには「公的天皇」と「私的天皇」を区別し、公的部分では憲法に定める権限しか認めない一方、私的な部分での自由は大幅に認めるべきであろう。
その意味で天皇の生前退位は認められてよい。
だが、いま皇室典範の改正をあえてする必要があるとは思えない。
どういう場合に生前退位を認めるか、膨大な論点が発生して大変な議論になるからだ。
今回の生前退位の意向の背景にあるのは、天皇の「公務の多さ」だ。
だが、本来天皇が行うべき公務は憲法に定められた国事行為のみであり、その他のいわゆる「公的行為」は憲法の認める公務ではない。
外国訪問や国体の開会式への出席、災害被災者の見舞いなどは、国事行為ではない。
天皇の人権を考えるなら、憲法や皇室典範に定められた摂政をおくなり、皇太子が国事行為を代行したりすることで公務の負担を軽減する方が問題解決は早いはずだ。
今回の問題で特に懸念していることは「生前退位の意向」が天皇の意向として出てきたことだ。
皇位継承の問題が政治的権能をまったくもたない天皇がイニシアチィブを取る形で動きだすのは憲法上のぞましくない。
あくまで政治主導で進めるのが正しい。
何事であれ天皇の意向が権威をもち、政治が主導されるのは現憲法に反する。
横田名誉教授のいうように、天皇の仕事を憲法の規定する国事行為のみに絞ることができれば、摂政を置くだけで解決できるだろう。
だが、政府も国民もそして天皇自身が公務の軽減はのぞまないだろう。
生前退位が欧州のように簡単にできるようになるといい。
同時に天皇・皇族の人権が尊重されるように改正がされるならもっとよい。
  
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2016年07月16日

敗戦直後の天皇退位論

敗戦直後、天皇退位をめぐり3つのグループが対立抗争していた。
(以下、拙論「天皇戦犯論と退位論」月刊誌『むすぶ』2015年3・4月号より)。
ひとつ目は幣原喜重郎・吉田茂らの主流グループである。
主流グループは米ソ対立の激化という見通しのもとに、米政府・GHQは共産主義勢力への対抗のため日本に宥和的政策になると予想していた。
それゆえ天皇制を存置するだろうという楽観的展望から、天皇の居座りと明治憲法維持で事態をのりきれると判断していた。
同時に天皇の退位が天皇制廃止論の呼び水になることを恐れて退位には慎重な姿勢をとった。
ふたつ目は近衛文麿らを中心とする改革派グループである。
改革派グループは敗戦により「国体」は危機に瀕しており、この危機をのりきるために天皇制自体の改革が必要であると判断していた。
そして天皇制を守るため憲法改正と天皇退位が必要だと主張した。
近衛は敗戦をむかえると、国体については国民投票をやって天皇制を確立し、天皇は退位して高松宮が摂政になるとよいとしていた。
また、10月のマッカーサー会談では戦争責任は軍部にあるとし、日本の赤化防止と民主主義国家建設のために皇室と財閥の必要性を強調した。
3つ目は天皇自身である。
天皇制を守るために権謀術数のかぎりをつくして奮戦したのが昭和天皇自身である。 
敗戦直後の天皇制は、この3つのグループが三つ巴になって、GHQと民衆に立ち向かう中で再編されていった。
敗戦直後は天皇にも戦争責任を明確にしたいという気持ちがあった。内大臣・木戸幸一の日記によると、1945年8月29日、天皇は戦争責任者を連合国に引き渡すのは苦痛だから、自分1人で責任を引き受けて退位して納めるわけにはいかないかと話した。
それに対して木戸は、退位ぐらいでは連合国の追及は免れず、かえって天皇制批判や共和政論を誘発する恐れがあるから、相手の出方も見て慎重に考えなくてはならないと話している。
天皇は退位による天皇制保守を考えながら、一方で戦争責任から逃れようと画策していた。
その天皇の「捨身の戦法」(江口圭一)がマッカーサーとの会談である。
天皇=マッカーサー会談は全部で11回行われている。
第1回会談以降天皇はマッカーサーという守護者のもとで天皇制を保守すべく占領政策に積極的に協力していく。
いわば両者の「政治的共生」が確立していくことになる。
戦犯容疑者の逮捕が続くなか、1945年12月10日には木戸にも逮捕命令が出された。
その時木戸は天皇と会い、長期的にみた場合に天皇の退位は絶対必要だとして、講和条約締結時に天皇が国民に謝罪して退位することで了解を得ていたという。
天皇の退位問題は戦後4回あった。
1回目は敗戦時。
2回目は1946年5月3日、東京裁判が開始された時である。
3回目は同年11月3日、憲法が公布された時で天皇退位問題について様々な意見が出た。
そして4回目は1951年9月8日の講和条約調印のときである。
天皇退位による責任の取り方は、4回のうち前3回はかなり具体的に考えられていた。
それを阻止したのは米政府とGHQである。
天皇自身に退位の意思があったにもかかわらず、米国によって阻止されて戦争責任の問題は有耶無耶にされた。
この間、GHQは戦争責任問題で天皇を訴追せず、その権威を利用しながら占領政策を行うのが得策であるとの判断を最終的に固めていた。
しかしながら、こうしたGHQの政策は皇族の天皇退位論で大きな打撃を受けることになる。
1946年2月に東久邇宮稔彦のインタビューが新聞報道された。
東久邇宮は「(天皇の)退位に賛成するのは、天皇は戦争に対し道徳的・精神的責任がある」とのべた。
天皇退位論は三笠宮崇仁など他の皇族も支持していた。
天皇退位は戦犯訴追へと連動する可能性が大きい。
3月から東京裁判の被告選定作業に入ろうとしていた矢先の東久邇宮発言は、天皇免責と不起訴で動くGHQには大きな衝撃であった。
東久邇宮発言が天皇の戦争責任問題を再燃させることをおそれたGHQは、天皇制が民主化され非軍事化されたことの証として日本国憲法の制定を急ぎ、天皇を戦犯として告訴しないことを決定する。
かくして天皇制は最大の危機を乗り切ることになる。
以上みてきたよう、戦後の天皇制は国際的要因と国内的要因から象徴天皇制として残った。
その意味で象徴天皇制は「日米合作」の所産であった。
敗戦後の日本には天皇制保持か廃止かの二者択一しかないかのように考えられてきた。
それに対して中村正則は第三の道がありえたことを指摘している(『戦後史と象徴天皇制』)。
それは天皇と天皇制を区別して、裕仁に退位してもらうが天皇制はのこすという選択である。
こうした構想は米国政府内にもあったし、宮中グループも考えていた。
さらに民間でも南原繁や安倍能成・松本重治らも似たような考えをもっていた。
また、詩人の三好達治が「陛下は速やかに御退位なさるがよろしい」と書いたように、裕仁が戦争責任をとって退位することが、日本民族の道義を救うと考えていた人々が結構い。
戦後の左翼政党が天皇制は残すが裕仁には退位してもらうという第3の道を提起していたら、戦後の日本の歴史のずいぶん違ったものになったのではないか。
敗戦直後、共産党は天皇制打倒のスローガンを掲げていた。
社会党は綱領で「天皇制を存置す」としていた。
仮に左翼政党が裕仁の戦争責任・退位のスローガンをかかげながらも、天皇制の存否については国民の判断に委ねるという柔軟な提起をしていれば事態は大きく変わったはずだと中村は書いている。
敗戦直後の天皇制に対する国民感情や国際情勢等を考慮すれば、中村のいう「第三の道」が最も妥当で可能性のある道だったのではないだろうか。
  
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2016年07月14日

老朽原発の運転を停止せよ! 

7月13日付毎日新聞、「記者の目」で中西拓司記者が「老朽原発の淘汰進めよ」を書いているので紹介しておく。
世界には営業中の原発が446基ある。
「平均年齢」は25年。
50年以上運電している原発はない。
最高齢は47年で6基ある。
このうちスイスのベツナウ原発1号機は原子炉にひび割れが見つかり停止中。
米国のオイスタークリーク原発も2019年の廃炉が決まった。
さて日本だが、運転開始から40年経過した関西電力高浜原発1・2号機について原子力規制委員会が20年の運転延長を認めた。
1号機は2034年、2号機は2035年まで発電が可能になった。
世界で50年以上運転している原発はなく、「未知の領域」に踏み込む。
原発の老朽化が事故にどう結びつくかというメカニズムは解明されていない。
福島第1原発事故を経験した日本は、老朽原発の延命ではなく淘汰を進めて原発依存度を減らし、世界の「モデル」になるべきだ。
運転期間を40年にする「40年ルール」は2012年の民主党政権当時、自民党もふくめた議員立法で法律化された。
期限までに規制委が認可すれば、1回に限り20年延長ができる。
高浜原発2基の認可期限は今月7日で、遅れれば廃炉になったが、規制委は関電の防災対策や耐震作業などを先送りや手助けをして認可した。
関電が2基に投入する安全対策費は2000億円。
「40年ルール」導入時は20年延長について「限りなくゼロ」との方針だった。
わずか3年で「財布次第で延長できる制度」(電力幹部)へ骨抜きされた。
原発の規制基準作成に関わった勝田忠広・明治大教授は、
「老朽化特有の問題について厳密に議論・分析されていない。
あいまいで不透明なまま延長が認可された」
と指摘する。
安倍政権にとっても40年ルールはじゃまだった。
2030年度の電源構成について原発比率を20─22%としたが、「40年ルール」を守れば15%程度にとどまるからだ。
「40年ルール」のきっかけとなった福島事故と老朽化の因果関係は不明のままだ。
福島原発第1号機は東電としては最古で、40年になる15日前に「3・11」をむかえた。
国会の事故調査委員会は報告書で、老朽が事故に影響したかについて
「配管などを詳細に検査しなければ本当のところはわからない」とした。
老朽化とは別に設計の古さが引き金となった可能性も残る。
1号機の冷却装置は古い原発特有の旧式だった。
事故は運転員が1号機の冷却作業に手間取っている間に炉心溶融し、やがて2・3号機へ波及した。
政府の事故調査委員会は「運転員は冷却装置の作動経験がなく、わずかに動かした経験が口伝えされるだけだった」と指摘する。
古い原発はハードの劣化だけでなく、技術者の世代交代で技術継承が困難になるというソフト面の課題もある。
事故から5年以上経過し、経済性が優先される一方、事故への恐れが薄らいでいる。
参院選でも原発についてはほとんど争点にならなかった。
目先の損得ではなく、福島事故の教訓や反省は何だったかを、もう一度振り返るべきだと中西記者は論じている。
わたしはすべての原発を即停止すべきだという立場だ。
地震大国日本に50基以上もの原発を造ったことが、そもそものまちがいだったのだ。
東南海地震がきたら原発事故で日本が住めなくなるは火を見るより明らかだ。
自らが決めた「40年ルール」さえも無視して、老朽原発の運転延長を認めた安倍政権に怒りをおぼえる。
あなた方は「いまだけ、カネだけ、自分だけ」しか考えていないのか!
  
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2016年07月11日

働かなくてもカネがもらえるベーシックインカムの導入に期待

7月8日付日経新聞の山森亮・同社代教授がベーシックインカム(BI)について書いているので紹介しておこう。
BIとは,垢戮討慮朕諭弊ぢ喙腓任呂覆)、
¬犠魴錣如米かなくても)、
I疂彭に(所得・資産にかかわらず)
─生活に必要な所得を権利として給付しようというものだ。働かなくても国がお金を支給する制度だ。
最近の欧州のBIをめぐる動きを紹介しよう。
.侫ンランド。
シラビ政権が公約に掲げていたBIの給付実験を実施するための委員会を設置した。
委員会は今秋にも答申を出す見込みで、2018年ごろに給付実験が実施される可能性がある。
▲ランダ。
ユレヒトなど4都市が福祉制度の受給者を対象にBI的制度の給付実験を実施する意向を表明し、財務省と協議を進めている。
スイス。
今年6月にBI導入に関する国民投票が実施され、反対多数で否決された。
ぅぅリス。
緑の党がBI支持。最大野党・労働党の影の財務省がBIについて党の経済政策の選択肢と表明。
ゥ▲ぅ襯薀鵐鼻
最大野党・共和党が2016年2月の総選挙でBIをマニュフェストに掲げ議席を倍槽。
Ε侫薀鵐后
2016年1月にマクロン経財相がBIに好意的と表明。 
Д疋ぅ帖
21014年に一般市民がクラウド・ファンディングでBIを給付するための資金を募る。
┘離襯ΕА次
緑の党がBI支持。
これらの背景には何があるのだろうか。
進歩と危機の両面がある。
一方では技術革新による労働からの相対的解放、もう一方に進歩が引き起こす雇用の危機がある。  
特に最近では人工知能(AI)などの技術革新の結果、雇用の数が減少して再分配政策としてのBIが必要になると論じる識者もいる。
(※これは山森論文と関係ない余談だが、すでにセックスロボットが開発されている。
人間と同様の関節や骨格をもち、人工心臓で液体を循環させている。
ロボットには異なる性格を持つ5種類のタイプがある。
熟女タイプ、SMセ専用タイプ…。
性能抜群でテクニックも万能だとか。
これでは将来性産業労働者も失職するかもしれない。)
では、BI導入は財政的にはどうか。
財政によるBI導入案としては、所得税の累進度強化、40─50%の定率所得税の導入、消費税への税の一本化、環境税や金融取引税の導入など多様な提案がある。
したがって、BIの導入は理論的には解決可能である。
ではBI導入をした場合、どのような問題が想定されるのか。
まず、人々の労働意欲の問題がある。
労働についての理論的研究によれば、BIは現行の福祉制度より労働意欲を低下させないとされる。
だが理論的にはそうでも、実際に導入した場合どうなのか。
給付実験がこれらの点を明らかにすることが期待される。
最後に残される課題は心理的問題だろう。
私たちは「働かざる者食うべからず」と教えられ、働くことを市場で報酬を得ることと同一視してきた。
ケインズが夢想したように、私たちは「労せず紡がざる野の百合を尊敬するようになる」のだろうか。
短期的な政策論議としては、BI制度の部分的・漸進的導入がある。
これは可能であるし現に進行しつつあるともいえる。
英国や米国で導入されている給付付き税額控除、欧州のいくつかの国で導入されている普遍的児童給付は部分的BI制度と考えられる。
日本で2012年から2年だけ給付された子ども手当もこれに当てはまる。
また、日本でもよく議論の対象となる税財源による基礎年金も同様である。
児童手当や給付付き税額控除などBI制度の漸進的導入や、性別役割分業の解体や働くことの意味を問うBI制度の長期的展望は、日本の社会を考える上で大きな示唆を与えるだろう。
以上が山森教授の論旨である。
人類の歴史上、労働時間は1日3時間程度であったとされる。
もともと人間は1日を歌ったり、踊ったり、しゃべくったり、セックスしたり、好きなことをしてナマケモノ的に生きてきた動物である。
働くものがエライというのは、人類史上では最近生まれた思想なのだ。
働かなくても国からお金が支給されて生活できたら、こんないいことはない。
もっとも、現在の日本の老人が国から年金をもらって、毎日好きなようにくらしているのも、ベーシックインカムの一種ともいえるのだが。
  
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2016年07月10日

日本降伏の真実─ソ連参戦か原爆投下か

木村朗+高橋博子著『核の戦後史』より、日本の降伏はソ連の参戦か原爆投下かみていこう。
アメリカは原爆実験をポツダム会談に間に合わせるよう急ピッチで準備した。
それと同時に、本来ならドイツ降伏後に開催する予定だったポツダム会談を、原爆開発のスケジュールに合わせて何度も遅らせている。
トルーマン大統領はチャーチル首相やスターリン書記長からの早期開催要請を無視し続けた。
「原爆外交」といわれるように、アメリカにとって原爆は外交の切り札であり、この切り札を手に会談に参加したかったからだ。
アメリカ陸軍は原爆だけで日本は降伏することはなく、ソ連参戦が日本の降伏には欠かせないと考えていた。しかし、ソ連がアジアに勢力を広げる事態は避けたかった。
一方、トルーマンはソ連参戦前に日本降伏させたかった。
トルーマンにとって避けたいのは、原爆を使う前に日本が降伏することだった。
それゆえ、陸軍省作成のポツダム宣言草案にあった天皇制容認条項をあえて削除した。
ポツダム会談中、トルーマンはスターリンに原爆を持っていることを伝えた。
スターリンはただちに本国に電話をかけて、原爆開発のスピードアップを命じるとともに、対日戦へ向けて戦争準備のスピードアップも命じた。
スターリンはこの時、8月中旬には対日参戦することをとトルーマンに話している。
そもそもアメリカの軍事指導者の多くは、戦後、日本の降伏に原爆は必要なかったと表明している。
マッカーサー・アイゼンハワー・ニミッツらは、作戦上も原爆は必要なく、降伏寸前に追い込まれた日本に2発もの原爆を投下して多数の一般市民を犠牲にしたことは倫理的にも正当化できないと考えていた。
日本政府は8月6日の広島への原爆投下について、被害の実態もわからずその意味がよく分からなかった。それに対して8月8日のソ連参戦の意味は、日本の指導者たちはすぐ理解できた。
満州の関東軍から報告が届くやいなや、最高戦争指導会議・閣議・御前会議と、9日から10日深夜にかけて連続して開催されている。
いかに日本の指導者たちがソ連参戦を非常事態と受け止めとめたかわかる。このような対応は広島への原爆投下の後には取られていない。
最高戦争指導会議や閣議ではポツダム宣言受諾をめぐって、「国体護持」1条件派と「4条件(国体護持・戦争犯罪人の自主的処罰・自主的武装解除・占領軍の限定的進駐)」派で激論が交わされた。
閣議中、2発目の原爆が長崎に投下されたという報告がもたらされるが、そのことが会議の進行に大きな影響をあたえた様子はない。
結局、結論がでず天皇の「聖断」を仰ぐことになる。
昭和天皇は1条件でポツダム宣言受諾に同意するとした。
戦争継続をできない理由として天皇があげたのは、原爆投下でもソ連参戦でもなかった。
こんな状況では本土決戦は無理なこと、三種の神器も守れないことが天皇の降伏決断の最大の理由だった。
8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、15日、玉音放送で国民に降伏が伝えられた。
玉音放送ではソ連参戦にはふれず、「敵は新たに残虐なる爆弾を使用」と原爆にふれ、戦争継続が不可能である背景を説明している。
ソ連参戦にふれていないのは、ソ連ではなくアメリカに降伏するという意図を示すためである。
しかし、17日に発表された軍人に対する勅語(終戦に対し陸海軍に賜りたる勅語)では、原爆にはふれず、ソ連の参戦を降伏の理由としている。
つまり、日本の戦争指導者たちが降伏の不可避を痛感したのはソ連参戦であり、降伏の決断に1番大きな影響をあたえたのは12日の連合国の「バーンズ回答」(天皇制容認)であった。
米内光政海相はソ連参戦と原爆投下を「天佑」だとのべている。
ソ連参戦と原爆投下が日本に降伏の口実を与えてくれたというのだ。
しかし、「天佑」という言葉ほど日本の戦争指導者の無責任さを表しているものはない。
降伏のチャンスはそれまでに何度もあった。もっと早く戦争を終わらせていたら、終戦交渉の主導権を日本が握ることもできたし、広島・長崎の原爆投下もなかった。
日本は「国体護持」にこだわり原爆投下を招いた。
一方、米国は戦後の覇権確立と人体実験から原爆を投下した。
木村は「原爆投下は日米合作であった」としている。
  
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2016年07月09日

広島・長崎への原爆投下の真実

木村朗+高橋博子著『核の戦後史』より、広島・長崎への原爆投下の真実を書いてみよう。
アメリカが日本を原爆投下の目標にしたのは1943年5月である。
ではなぜ原爆投下の目標はドイツではなく日本だったのか。
ドイツの報復を恐れたからだとされたている。
ドイツが世界に先駆けて原爆の開発に乗り出したのは1939年。
だが、アメリカは1944年末にはドイツが原爆開発を断念したという情報をつかんでいた。
ドイツが原爆を作ることは無理だとしても、放射能兵器を作りそれを使う可能性はあると見ていた。
ドイツはウランを持っているし、優れた科学者たちがいた。
アメリカがドイツに原爆を投下したら、ドイツはその報復としてイギリスに放射性物質を散布する恐れがある。そのためドイツではなく日本を選んだとされる。
日本ならウランを持っていないので、核報復恐れる必要がなかったからだ。
マンハッタン計画は1941年にスタートした。
1943年5月に、原爆投下の対象として検討されたのはカロリン諸島のトラック島である。
ここに集結している日本艦隊が投下先の候補とされた。
当時は原爆不発のリスクも考えて、海への投下が適当だとされた。
もし不発なら日本軍に原爆を発見されないようにするためである。
1945年4月の第1回目標選定委員会では、17都市が候補としてあげられた。
東京湾・広島・長崎・川崎・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸・呉・下関・山口・八幡・小倉・熊本・福岡・佐世保である。
第2回目標選定委員会で京都・広島・横浜・小倉・新潟の5都市にしぼられた。
優先順位は京都・広島が「AA」で最も高く、ついで横浜・小倉が「A」、その下が新潟「B」である。
この5都市はその後、通常爆撃から外される。
通常爆撃で被害を受けた後の原爆投下では、原爆の効果が評価しにくいとの理由からだ。
その後、横浜は占領政策に利用する可能性があるため候補から外された。
また、日本文化の中心である京都へ投下すれば、日本人の怨みを買って占領政策に支障が出るとして外された。
京都が外された代わりに候補とされたのが長崎である。
こうして7月25日までに広島・小倉・新潟・長崎が候補に決定した。
広島は第1候補であったため8月6日に投下された。
2発目の目標は小倉だったが、8月9日、小倉の空が視界不良のため急きょ長崎へと変更された。
小倉が視界不良だったのは、広島が攻撃された情報から次は小倉だと予想した八幡製鉄所の従業員が、コールタールを燃やして煙幕を張ったからだといわれている。
それでは、広島についでなぜ2発目を長崎に投下したのか。
広島の是非はともかく、長崎への投下は不必要だとする歴史家は多い。
長崎への投下はアメリカが原爆をたくさん持っていることを示すためであった。
広島に使われたウラン型原爆は、濃縮ウランの製造が困難なために量産が難しい。
長崎に使われたプルトニウム型原爆は、原子炉を運転すればプルトニウムができるので量産しやすい。
ただし、ウラン型原爆は構造が簡単なので実験をせずに広島に実戦使用された。
それに対してプルトニウム型原爆は構造が複雑で実験が必要なため、ニューメキシコ州アラモゴードで実験をしている。
7月25日の原爆投下命令書では、準備が整い次第次々に投下せよと書かれている。
つまり原爆は2発どころか、3発4発5発と投下する予定だった。
実際、3発目の原爆は8月19日までに東京に投下される予定であった。
それではなぜ広島・長崎に原爆が投下されたのか。
そしてなぜ3発目以降の原爆投下が予定されていたか。
第1に戦後世界での米国の覇権確立である。
特にソ連への威嚇が目標とされた。
そのため何発も原爆を持っていることを世界に誇示しようとした。
第2に新型兵器の人体実験のためである。
新しい大量破壊兵器としての都市にあたえる破壊力や、人体への放射能の影響などの殺傷能力の効果を知るためだった。
第3に真珠湾攻撃に対する報復や、人種差別的要因もあったといわれている。
戦後、アメリカは原爆の報道を禁止し、人体実験についての情報を独占した。
被爆者を治療せず実験動物のように「観察」した。
さらに、被爆者を治療する日本人医師の活動を妨害した。
また、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援の申し出を拒否させた。
マンハッタン計画は原爆作るだけの計画ではなく、放射能の人体への影響を打ち消すという研究もふくまれていた。
被爆者は広島・長崎だけでなく世界中にいる。
核実験場付近の住民、ウラン鉱山労働者、核実験にたずさわった作業員・兵士、原発作業員、原発事故による被曝者…。
こうした人々を「グローバルヒバクシャ」とよぶ。
放射能の被害が明らかになれば、グローバルヒバクシャの補償訴訟は大規模なものになる。
同時に放射能による障害が明らかになれば、原爆(核兵器)を保有することはできなくなる。
毒ガスと同じく原爆も非人道的兵器として使用禁止となる。
しかし、アメリカは戦後も原爆を保有したかった。
だから、マンハッタン計画ではその保険部門・医学部門で被爆者の放射能被害の過小評価をし、「原爆が汚い兵器である」という批判をかわした。
マンハッタン計画にはそうした側面もあったのだ。
  
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2016年07月08日

原爆神話=早期降伏説と人命救済説のウソ

木村朗+高橋博子著『核の戦後史』より、アメリカが戦後流布した「原爆神話」につい書いてみよう。
原爆神話とは原爆の使用が戦争を終わらせ、日本人をふくめた多くの人の命を救ったというものだ。
原爆神話はアメリカが原爆投下を正当化するために戦後に作った虚構である原爆投下で終戦が早まったのではなく、原爆の開発と投下のために戦争は意図的に引き延ばされ、その結果、犠牲者の数も増えたというのが真実である。
「原爆神話」2つの説で成り立っている。
「早期降伏説」と「人命救済説」である。
「早期降伏説」=原爆を投下したのは日本を早く降伏させるためだった。
原爆投下がなければ日本は降伏しなかった。
「人命救済説」=原爆を投下しなければ本土決戦でアメリカ兵に100万人以上の死傷者がでた。
原爆投下で多くのアメリカ兵、日本人の命が救われた。
原爆は多くの人の命を救った人道的兵器だから、原爆投下は正当化できるというのが原爆神話のポイントである。
これはアメリカ政府の公式見解で、多くのアメリカ国民もこれを真実として受け入れている。
しかし、戦後史の研究者でこの見解を信じる人はほとんどいない。
早期降伏説の真偽について考察してみる。
アメリカは原爆投下のずっと前から、日本が降伏したがっていることを知っていた。
1945年になると、日本は天皇制さえ存続できれば降伏するというシグナルをアメリカに送っていた。
しかし、アメリカは「天皇制容認」についてポツダム宣言草案から削除し、結局、原爆投下後に認めた。
つまり、日本の降伏を原爆投下まで引き延ばした。
これが早期降伏説のまちがいの根拠のひとつである。
アメリカは天皇制容認の他に、もう1つ日本を早期に降伏させる確実な手段をつかんでいた。
ソ連の対日参戦である。
1945年2月のヤルタ会談で、ドイツ降伏から3か月以内にソ連が対日参戦する密約が結ばれていた。
またヤルタ密約では外モンゴルや満州の鉄道・港湾の権益で事前に中ソで交渉することになっていた。
ところが、アメリカは中国にソ連に譲歩しないよう要請し、中ソの合意が遅れるように暗躍している。
中ソの合意が遅れればソ連の対日参戦も遅れる。
ソ連参戦で日本が降伏する可能性が高いことを知っていたアメリカは、ソ連参戦をできるだけ遅らせようと画策していた。
戦争を終わらせるアメリカの軍事的手段の選択肢は、
ヽぞ緝鎖と本土爆撃の継続、
▲熟∋伽錙
F本本土上陸作戦、
じ暁投下の4つがあった。
アメリカは日本を早期に降伏させる平和的手段=天皇制容認を退けるだけでなく、軍事的手段´↓を準備しながら、結局、中国とソ連の交渉を長引かせることまでしてい鰺ダ茲靴拭 
原爆投下の前に取れる手段がありながら取らなかったのに、「原爆を投下したのは、日本を早く降伏させるためだった」とはいえない。
それゆえ早期降伏説は成り立たない。
アメリカは軍事的理由からではなく政治的理由から「原爆投下による日本の降伏」を選択したのだ。
それではもう一つの原爆神話「人命救済説」についてはどう考えればよいか。
この説が正しいかどうかは、日本本土上陸作戦が実行された場合、どれくらいの死傷者をアメリカ政府が予想していたかが分かれば簡単に確かめられる。
1945年6月、マーシャル陸軍参謀総長はホワイトハウスで次のように発言している。
「九州上陸作戦の最初の30日間の損害は、ルソン島攻略作戦を超えることはないだろう」
ルソン島攻略作戦によるアメリカ兵の死傷者は3万1千人だから、本土上陸作戦で見込まれた死傷者は3万1千人以下であり、「百万のアメリカ兵の死傷者」は明らかに過大である。
原爆投下で広島・長崎の死傷者20数万人がでているから、人命救済説も成り立たない。
  
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